Coolier - 新生・東方創想話

境界の夢は終わらない

2007/08/25 02:47:12
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 どれくらい謝り続けただろうか。
 幾許の夜を繰り返しただろうか。
 いくら頭を下げ続けても、悲痛な顔と怨嗟の視線は減るはずもなかった。それでも彼女は結論を求めて享受し続けた。
 無慈悲の月が幽冥の牢を照らしている。夜はまだ明けない。


   ***


「紫が目を覚まさない?」

 縁側で庭の秋を眺めていた西行寺幽々子は、お茶を飲む手を止め聞き返した。
 彼女の元に言づてを抱えて駆け込んできたのは、魂魄一族の現任の使用人、魂魄妖夢だ。敵と見なした者に対して片っ端から斬りにかかる、見境の無さと落ち着きの無さを併せ持つこの子だが、幽々子や妖夢以外の危機でこれほどまでにあわてふためく様子は珍しかった。よほどの急用なのだろうが、話を聞く限りでは緊急性も危機感も感じないというのが幽々子の正直な感想だった。

「妖夢」
「は、はい! 出発の準備ですか?」
「そろそろ三時のおやつの時間だわ」
「幽々子様、真面目に聞きましょう」

 幽々子のボケをある程度予測していたようで、妖夢の反応は薄かった。こういうところだけ垢抜けてもらっては、幽々子としては面白くない。

「紫が寝てるのはいつものことでしょ」
「それはそうですけど、今回は紫さんにしても異常らしいんです」
「と、言うと?」
「三ヶ月か半年……いや、もうすぐ一年経とうかと。それだけの間、全く目を覚まさないらしいんです」
「随分と乱数が大きいのね」
「藍さんが言ってたんです。『もうすぐ冬になろうというこの時期に気づいたのんだ。紫様が「今から冬眠するから、藍、家のことは宜しく頼むわねぇ」と言ったその日からずっと起きてないことに』、と」
「そ、それはひどい話ね……」

 脳天気な幽々子もさすがに頭を抱えた。式神にここまで存在を忘れ去られる主に、カリスマのかけらも感じられなかった。下手したら、布団の中で息絶えてたとしても半ミイラ化するまで気づいてもらえないのではないか。

「まあでも、紫ならその気になれば五十年でも百年でも寝続けそうな気もするわ」
「私もそう思うんですけど。あの人根っからのダメ妖か……すいません、幽々子様のご友人に対して失礼なことを。でも、藍さんの話によると、それでも様子がおかしいんです」
「気になるわね」
「何でも、死んだように眠り続けているようで。藍さんに言わせると、再び目覚める気配を感じさせない、完全で完結的な夢寐(むび)だそうです。人間、いや妖怪はここまで積極的に意識を放棄できるのかと……幽々子様?」

 妖夢が言葉を止めたのは、話半ばに幽々子が立ちあがり、席を外そうとしたからだった。

「妖夢、お出かけの準備よ」
「は、はい」

 幽々子の突然の変心に、妖夢は慌てて立ちあがり支度に向かった。

「紫が冬眠しているうちに八雲家のおやつを片っ端からたかりに行くわよ」
「わかりました。他人のふりの練習しておきます」

 幽々子が身支度を調えている側で、妖夢は半霊相手に一人漫才を敢行していた。痛々しくて面白いので放っておくことにした。



 神出鬼没で住所不定無職のスキマ妖怪の居所をどうやって探したものか、と亡霊と半身半霊は早くも途方に暮れそうになったが、冥界と顕界の境界あたりで八雲藍に見つけてもらい、事なきを得た。

「お待ちしてましたよ」

 わざわざ冥界にまで出迎えに来たようだ。それに加えて慇懃な挨拶。なるほど、さすがにダメ主を一人で養い、さらには式神を従え使役しているだけある。相当のしっかり者だ。今度紫に従者の教育法を伝授してもらおうかしら、と幽々子は一人思った。
 しかし彼女は妖夢に対して教育らしい教育をしたことがない。問題外である。


   ***


 藍の後に従って辿り着いたのは、彼女の式神、橙が居城としているマヨヒガだった。普段ここで暮らしているのは橙だけのはずである。一向に起きない紫と幽々子たちを会わせるためにわざわざ出向きやすい場所に移ったのだろうか。

「あー、藍さま~。おかえりなさーい」

 マヨヒガに着くとすぐに、屋根上でひなたぼっこ中だった橙がお出迎えをした。お出迎えと言っても、藍の姿が見えるやいなや、たんっ、とその脚力で大きな跳躍を見せ、

「うにゃーーー!!」

 と、そのまま藍のふさふさしっぽにもふもふダイブするだけだ。的確に落下地点を捉えた橙は、どすん、と、ぽふん、の中間ぐらいの音を立てて九尾の束の中に軟着陸した。気持ちよさそうだ。

「こら、橙。お客さんが来てるだろ。お茶の準備をしなさいな」
「はーい、藍さま」

 猫らしいフリーダムをやわらかく叱り、躾けているあたり、藍にも紫並の指導力が備わっているのだろう。……仮にも式神である藍に躾の極意を聞くのはさすがに癪だったのか、幽々子は何も言わずに目を逸らし、隣にいる妖夢と、正しい教育無き彼女の行く末を見ていた。

「麦茶しか用意できないですけど、いいですかね? 橙にはまだお茶の煎れ方教えてないんだ」
「粗茶でも何でも構いませんよ。お茶菓子さえつけてもらえれば」
「幽々子様は自重という言葉の意味を学ぶべきです」
「妖夢、私が大きなおいなりさんを目の前にして、全く我慢してないとでも?」
「?? 私のしっぽが何か?」

 長い道程をやってきて疲れただろうと、藍の計らいにより、ひとまず二人は居間に通された。亡霊の身だし特に疲れてはいなかったが、お茶菓子が出される機会をふいにするほど幽々子は急いでいなかったので(急用でも食べるものはしっかり食べそうだが)厚意に甘えることにした。

「体が十分に休まったら呼んでください。紫様の寝室に通すので」



 家の者がそれぞれどこかに散ったところで、妖夢が口を開いた。

「幽々子様、こんなにまったりしちゃっていいんですかね。藍さんの話だと、一刻を争う事態に思えたんですけど」
「緊急事態とでも言っておかないと連中は腰が重くて動かないだろうと思われたんでしょう。事実私も、紫たちを無視して冥界でのんびりお茶をするかおとなしく呼び出されて客人としてごちそうを振る舞ってもらうか、最後まで迷ったわ」
「私には”喰う”の一択で、全然迷っているようには見えないですけどね」
「あら。妖夢は今日の夕ご飯お魚にするかお肉にするか迷ったりはしないのかしら? 毎日の三食のメニューは永遠を以てしても一生悩み続けることになる、五つの難題のうちの一つよ」
「すいませんでした、私が悪かったです。もう、幽々子様は一生食夢にうなされててください。食に固執しすぎて走馬燈が回転寿司になっても知りませんからね」

 他愛ない主従漫才を続けていると、藍の使いの橙が二人分の麦茶とお茶菓子を運んできた。

「……それにしても」

 妖夢は幽々子が食事をあらかた終えた頃を見計らって(待つのは一瞬だ。幽々子の食事スピードは、音速を超える)口を開いた。いくら大事な用件でも食事中だと全く耳を通さないことは長い使用人生活の中でわかりきっていた。妖夢なりの知恵だった。

「あえて今更聞きますけど、どうして今回は紫さんのところへ自ら出向く気になったんですか?」
「旧知の友人が苦しんでるのを知って、いてもたってもいられなくなった。じゃ、納得いかないかしら」
「納得いかないです。そもそも初め、全く乗り気じゃなかったじゃないですか。その時は、幻想郷ではありふれた”大”が付かない異変だから、いつも通り巫女が出しゃばって解決するのを幽々子様は傍観するつもりなのかなー、と思ったんですが」
「異変解決と言っても、あの巫女ができるのは通り魔と無差別殺妖だけでしょ」
「というか、紫さんが”苦しんでる”と言いましたよね? どうして紫さんが苦しんでると言えるんですか? 実際に熟眠する姿を見た訳でもなしに。私は幽々子様に「紫さんが目覚めない」としか伝えてないですよね? なのにどうしてか幽々子様、何かもう全てをわかっていて知らないふりをしているような……」
「妖夢、質問が長いわ。お茶菓子が不味くなる」
「何で私の分まで食べちゃってるんですか!!」

 久々のよそでいただいたおやつを守ろうとしたのもつかの間、妖夢分のお菓子は幽々子の奈落へとすとんと落ちていった。

「……グレますよ」
「まぁまぁ、妖夢。別のお菓子用意してあげるから」

 誰もが容易に想像できたことだが、幽々子は立ちあがり居間を徘徊するやいなや、食物の匂いをかぎつけて戸棚を漁り始めた。妖夢はその傍若無人ぶりに思わず目を逸らし、練習していた他人のふりを実行してみたが、今ここに”ふり”を見せる相手もいないし、何だか悲しくなってきたのでやめた。
 幽々子が見つけてきたのは『博麗印・紅白おまんじゅう 三ヶ入』だった。あの巫女、神社の賽銭頼みの生活に限界でも感じたのか、こんな商売に手を出していたのか……と、妖夢。

「ここにおまんじゅうが三つあるわ」
「一つぐらいは私に下さいね」
「このおまんじゅうはね、見た目こそ同じ紅白まんじゅうだけれど、味がそれぞれあんこ味、抹茶味、マンゴープリン味とバリエーション豊富なのよ」
「……何だか行きすぎた遊び心が生んだ危険な味が混ざってる気がしますが」
「さて、妖夢。この三つのおまんじゅうをあなたは同時に美味しく味わうことができるかしら」
「……はぁ」

 突然の謎かけに、戸惑いながらも真面目な妖夢は真剣に頭を悩ませた。
 ――三つをそれぞれちぎって同時に口に含んだら、マンゴープリンの独壇場になるとしか思えない。てか、マンゴープリン味って何だ。マンゴー味じゃなくて、プリン。接尾語にプリン。プリンティン。マンゴーとマンゴープリンの味の差異がわからない。てか、まんじゅうにマンゴープリンって。和洋折衷始まった? あ、よく考えたら案外美味しいのかもしれない。今度買って食べてみようっと。とりあえず今回は毒味役を幽々子様に任せりゃいいや。
 などと妖夢が熟考しているうちに、

「いやぁ~、変な味ぃ~~」

 幽々子は自ら三種混合を実行していた。もはや妖夢は何も言えなかった。

「えとねぇ……自己主張の強いと思っていたマンゴープリンが、やや控えめにあんこのあっさりと抹茶の渋みと絡み合おうとしているんだけど、あと一歩で混ざり合わない。上手く言えないけど、的はずれな不味さでがっかりとかではなくて、もう少しで美味として成功しそうなグレイズ具合がもどかしくて……あ、でも意外と癖になるかも~」
「自分で出した謎かけを直球で解決しちゃってどうするんですか」
「そうね。どうしよう。後の話の都合上三つ混ぜたら不味くならなきゃいけなかったのに」
「いいですから、三つ混ぜちゃ不味かったって事で話を進めてくださいよ」

 幽々子のとんちんかんな味覚のせいで話がぐだぐだしたことに呆れたのか、妖夢の受け答えも投げやりになっていた。

「つまり、おまんじゅうを三つ同時に美味しく味わうことが困難なように、霊夢のホーミング性能を味わいながら魔理沙の反則強いボム性能を同時に得ることが不可能なように、」
「はい」

「全ての世界を全力の笑顔で過ごせる人はいないのよ」

 またもや妖夢の頭が横に四十五度近くまで傾いた。頭上には大きなクエスチョンマークが見える。

「あの……幽々子様。その話と紫さんを助けに行く決意をした理由との関連が見えてこないんですが」
「……」
「……あれ、私何かまずいこと言いました……?」
「……妖夢には失望したわ。この程度の答えもわからないなんて」
「あ、す、すいません! え、でも、全ての世界で、って、幻想郷と外の世界ってことですか? それとも、え、全世界? 全世界ナイトメア? れみりあうー?」

 幽々子が少し残念がってみせたら妖夢は予想以上の反応を見せてくれた。これぐらいのかわいさを見せてくれるのならば、下手に使用人としての教育をしない方がいいのかなと幽々子は思った。

「まぁ、わからないのもしょうがないわ。あなたは紫の歴史を知らないのだもの。私と紫は千年以上続く旧識の友。紫のことは、本人の次に知っている。だから私は呼ばれて来た」

 そこで、ちょうど廊下を通りかかった藍と目が合って、幽々子はこくりと頷く。紫の元へ行きましょうの合図と意味をとった藍は、「どうぞ」と一言言うと、マヨヒガに来たときと同じように後ろをついてこさせた。

「あ~、待ってくださいよぅ」

 結局妖夢の頭には上手くはぐらかされた印象しか残っていなかった。故意なのか天然なのか、幽々子は大切なことを伝えるのが壊滅的に下手だ。

 ――幽々子様のことだから、私には到底理解できない考えがあるのでしょうけど。

 そういえば、結局おまんじゅうも食べられなかったな、と妖夢はしょんぼりしつつも、遅れまいと慌てて二人の後についていった。


   ***


 絶対、が付くほどの強大な力をもって生を受けたとする。
 神にも匹敵するほどの力を私欲のためだけに行使することはそれ以上の力によって罰されるか、自らの器に余るほどの力に圧され自滅するか、どちらにしても破滅という結末しか用意されなくなる。その、愚かしい破滅の択一を避けるだけの智慧も備えていたとする。
 だけど、十全な能力を誰かのために使おうとするエゴは残されていたとする。
 彼女を絶対的存在として慕い、崇めようとする多くの存在があったとする。
 取り除くべき大きな障害がその世に存在していたとする。

 遠因は、いくらでもあったのだ。
 それでも、悲劇の結末は、彼女が持つ才気や、気質や、形勢によって引き起こされたのではなかったと、彼女は思う。

 超越した能力は、そこに在るだけで罪となる。
 その事を彼女は十分に承知していたはずだった。


   ***


「意外な来客がいるわね」

 紫の寝室には確かに意外な先客がいた。歴史を創る半獣、上白沢慧音だ。

「あんたは……そうか、冥界のお嬢さんか。成る程、これだけの人手を呼んでいたとなると、本当に困っていたのだな」
「あら。他にまだ先客がいるのかしら」
「ああ。もっとも、今残っているのは私だけだが」

 枕元についていた慧音の横に並ぶように幽々子は腰を下ろした。
 二人の前には眠り姫の姿があった。

 八雲紫。九尾の狐という、妖怪の中でも最強を誇る八雲藍を式神として従える、最強のさらに上を行く妖怪だ。とは言っても、普段その能力の片鱗を見せることは稀で、いつも家のことを藍に任せきりで、当の本人は半日あまり寝ていることがほとんどだ。さらに冬ともなると、冬眠まで始める始末。
 だから、紫が一年以上起きないという事実に関してだけ言えば、それは異常でも何でもなかった。藍が危惧し、幽々子が興味を持ったのは、その眠りの”異質さ”だった。

 幽々子は紫の顔を覗き込んだ。
 端正で艶やかな寝顔だ。この場にいる誰もがそう感じていたに違いない。
 きれいに閉じられた双眸、すっと通った鼻筋、緩く結ばれた唇。元々備わっていた容貌も相まって、同性でも見とれてしまうのではないかと思わせるほど容姿端麗だった。
 だが、その美しさは同時に、”普通の寝顔では有り得ない”ことを物語っていた。
 睡眠時は、人間妖怪関係なく最も無防備な状態に晒される。だからこそ寝顔には、生きる者のある種の生々しさや不安定さが反映されるものである。
 紫の寝姿には、それがなかった。彼女の睡臥は生を疑うほどに、完璧で、完結的だった。
 もちろん本当に死んでいる訳ではなく、深く注視すれば喉もとあたりで呼吸のリズムが僅かに見て取れる。だから、少なくとも生を放棄している訳ではないことがわかる。

 それならば、何を放棄しているというのだろうか。
 幽々子には、心当たりがあった。

「ところでどうしてあなたが紫の元に呼ばれたのかしら? 失礼な言い方になるけど、あなたがこの件の解決策を持っているとも思えないし、紫と深い接点があるとも思えないし」
「――慧音さんは幻想郷の歴史に造詣が深い方だと聞いた。彼女なら紫様が陥っているこの醒めない眠りについて、前例……同じような病気、状態に陥った者が過去にもいなかったかを知ってるかもしれないと思って、調べてもらおうとここに呼んだのです」

 慧音の代わりに答えたのは二人の後ろに立つ藍だった。表には出さないが、こうして体裁などかなぐり捨てて知り合いに頼っているあたり、相当主のことが心配なのだろう。

「確かに私は史学には精通しているが、幻想郷を襲った疫病やその歴史に関してまでは、史料不足もあって把握しきれていないんだ。頼まれたからには全知識を以て醒めない眠りの正体を突きとめようとしたんだが……案の定力不足だった。すまないな」
「ちなみに慧音さんの他にも、永遠亭の薬師に紅魔館の知識人も呼んだんですが……。彼女らの専門外だったというのもあったんだけど、期待はずれだったというか」
「何となく想像つくわね」
「何となく想像つきます」

 大方、薬屋さんの方は目覚まし用の新薬のプロトタイプを用意してきたものの、「安全が保証されていない薬物を紫様に飲ませる気か」と言われ、試し飲みを部下の月兎にさせたところ効果過剰や副作用で目の充血と涙が止まらなくなって、「あらあら、うどんげは泣き上戸なんだから。そんなに月においていった仲間たちのことが恋しいのかしら」とか言いつくろいながらそそくさと帰っていって。司書さんの方は呼ばれてここまでやってきたものの、その病弱な体質がたたって熱中症だかで倒れてしまって、寝室に並ぶ布団が二枚に増えただけで何の役にも立たなかったのだろう。
 馬鹿と鋏はなんたらとはよく言うが、知識人も使いようだなと、妖夢は密かに思った。

「てことは、何? 彼女らの後に呼ばれたって事は、私はマッドサイエンティストやもやしっ子よりも信頼度が低かったのかしら」
「申し訳ない。医学などの心得がありそうな方から頼っていったというだけで、悪気はなかったんですが」
「幽々子様が誰かから頼られただけで奇跡だと思うんですよ」
「あら? こんなところに特大のこんにゃくゼリーがあるわ」
「あ、ちょっと幽々子様! 何マジ顔で半霊に食いついちゃってるんですか!! 私半分死んじゃいますって、いやそっちは死んでる方ですけど!」
「妖夢、他人の寝室で暴れないの。紫が起きちゃったらどうするの」
「いや、起きてもらって結構なんだが」

 慧音の冷静な突っ込みが飛ぶ。彼女は幻想郷にとって貴重な常識人だ。
 冥界組が隣で暴れている間も、紫の睡眠が乱れることはなかった。外部からの干渉を全く受けつけない、まさに境界の向こう側にあるような……。

「さすがに起きないわね」
「まさか幽々子様、側でどたばた騒いでたら起きるとでも思ってたんですか」
「いやいや妖夢、そんなことを本気で考えるのはあなただけよ。少しばかり智慧のある人なら、紫の眠りが例を見ないほどに異質であることに気づいているはず。ねぇ?」

 幽々子の視線の先は慧音にあった。彼女も話を自分に振られるとは思っていなかったらしく、

「私……か?」

 と、幽々子に思わず聞き返した。

「藍に呼ばれてからずっと紫に付きっきりなんでしょう? あなたなら、もしかしたら紫が本当は何に陥っているのかわかったんじゃないかしら、と思って」
「残念だが、私には何も。先程も言ったが、前例も何も見つけられなかったんだ」
「幻想郷の歴史から紐解こうとしなくていいのよ。これは、紫の歴史に関わることなんだから」

 その台詞に、幽々子以外の全員が小首をかしげる。謎かけをするような幽々子の語り口に、妖夢や藍は煙に巻かれた印象ばかりが残った。

「……彼女の歴史を辿っていけと?」
「そこまでは言わないわ。紫の歴史は幻想郷と同じぐらいに長く、深い。歴史喰いのあなたでも辿り着けないかもしれない。今あなたに求めてるのは、長く紫の側に付いてた者としての、感想」

 幽々子に促されるがままに、慧音は自らの記憶と感覚を辿り始めた。

 妖夢は既視感を覚えていた。満月の昇らない夜が続いた永夜異変の解決に乗り出した時のことを思い出していた。
 珍しく幽々子が重い腰を上げたのだ。「そこらを飛んでいって、見かけた奴を片っ端から打ち落としていくわよ」とは言いながらも、結果的には出来過ぎるほどに真っ直ぐに元凶へと達したのだ。あらかじめ用意されたシナリオをなぞるがごとく。謎と異例と異質ばかりのあの事件を始点から終点まで脱線せずに導こうとする何者かの意志があったとするのならば、それは間違いなく幽々子のものだと妖夢は断言できる。
 あの日と今を重ねてみる。普段は悩みも嫌うこともなく、常に受け身を演じる幽々子に、それとは違う積極的な介入が見られるのだ。それが妖夢の思い違いでないとしたら、幽々子には今回の結末と解決もすでに見えているのだろうか。

「ちょっといいかい?」

 沈着した空気の中で幽々子に声をかけたのは、後ろで彼女らのやり取りをずっと見守っていた藍だった。

「あら、何かしら」
「いや、私も少し思うところがあって。聞いてくれますか?」

 全員が小さく頷く。

「と、その前に……あなたたちは紫様の能力についてどこまで知っているのでしょうか」
「……境界を創ったり無視したり。神出鬼没だったり。迷惑極まりない能力よね。」
「まぁ、最後の私感を除けば大体そんな感じです。文字通り幻想郷を囲む結界を張ることから、概念や存在の境界も簡単に扱えてしまう。禁忌にも近い、恐ろしく万能な能力です。紫様はその能力を使い、あらゆるところに現れては、幻想郷を見守ってきたんですよ」
「でも、境界越えて私のおやつの時間を邪魔しに来た記憶しかないわね」
「大目に見てやってくださいな、紫様は興味を持った者にちょっかいを出すのがお好きなんです。……話を元に戻します。先程お話ししたように、境界越えは空間的にだけでなく、概念的にも可能です。例えば、誰かの睡眠状態にある誰かの夢の中に潜ることも、紫様ならば容易に行えます」

 ……夢の中。
 それぞれ独立していた話に、脈が通り始めた。

「以前、今回とはまた違うケースなんですが、冬眠と称した長い睡眠から覚めたときの紫様の様子に疑問を感じたことがありまして。あれだけの眠りについていたのに疲れ切っていたように見えたのです」
「そりゃあ、あまり長いこと寝てると体も疲れるわよ」
「精神的な憔悴です。私は何かあったのか聞こうかとも思いましたが、やめました。何があったとしても紫様は私などに頼らずにお一人で解決してしまうでしょう……そう思ったからです。あの時のことを今思い返してみると、自分の夢の中からどこかへ結界を越えて侵入していたのでは、と思うんです」
「藍さん、それは一体何のためにですか?」
「それは私にもわからない。紫様の真意は私には到底計り知れないんですよ」
「あなたの話の落としどころは読めたわ。つまり、今の紫の状態も、単なる居眠りじゃなくて境界を越えどこかの夢へと潜っているところだと。それで説明をつける訳ね。……あとは、どうして境界の向こうから戻ってこないのか、或いは戻ってこられないのか、ね」
「戻ってくる事自体は容易なのに戻らない。戻ろうとしない。そんな可能性はあるんでしょうか」
「あなたにも見えるでしょう? 抜け殻のような紫の姿が。……おそらく紫は、自分の意志で、こちらに戻ることを拒んでいる」
「そ、そんな。紫様が、」

 今にも幽々子に詰め寄りそうな藍の動揺を遮るように、手が伸びた。慧音のものだった。

「……自発的な意識の放棄か」
「え?」

 思わず聞き返したのは、静かに耳を傾けていただけの妖夢だった。

「これは永琳から聞いた話なんだが。人間は――勿論妖怪もだ――睡眠時に見る夢に大きな影響を受ける生き物らしい。楽しい夢も悪夢も関係なく、だ。一時期彼女は胡蝶夢丸といって、見る夢全てを楽しい夢に変えてしまうという薬を開発、販売してたことがあった。で、その時の客の何人かにいたらしいんだ。夢に取り込まれ、現実に戻ってこられなくなった人が」
「つまり、その人たちは夢の世界が楽しすぎて自らの意志でこの世に意識をとどまらせることを放棄したと。……まさか、紫さんも同じように渡った先の夢の世界に取り込まれて……?」
「そうだと推測したが、厳密には彼らと彼女は同類ではないような気がするんだ」
「と言うと?」
「現実から目を背け、楽しい夢に浸るに必要なのは積極的な参与と介入だが、彼女が行ってるのは、察するに積極的な享受だ。もし、楽しい夢を望んで意識を放棄していたのなら、これほどまでに儚く、終末的な眠りをしていないと思う」
「つまり、満ち足りない夢……悪夢、か」

 なおも眠り続ける紫に、再び視線が集まった。
 慧音の仮説がどこまで正しいのかわからない。本当に悪夢を見ていて、それを享受しているのだとすれば、これほどに辛い眠りはないだろう。

「しかし慧音さん、私には紫様が簡単に悪夢に取り込まれる方とは思えない。紫様の境界を操る能力は、夢と現実の境界をも操るのだから。だから、夢を享受して意識を放棄しているのだとしたら、相当の動機があるはずなんだ……」

 長い眠りの正体が判明してきたとはいえ、未だ目を覚ます気配のない主が心配であることには変わりなかった。藍は、初めてわずかに悲痛な表情を見せた。

「……妖夢~」

 幽々子の声だ。他所へおじゃましていることを忘れさせる、気の抜けた声だった。

「幽々子様、どうしました?」
「私も何だか眠くなってきたわ」
「はい???」

 妖夢自身も驚くほどにすっとんきょうな声が上がった。

「紫の寝顔ばかり見てたら、私も眠たくなっちゃったの。ささ、早いとこ帰って寝ましょ」
「な……! 幽々子様、本気で言ってるんですか? 紫さんも目覚めてないし、まだ何も解決してないですよ? それなのに帰るなんて」
「妖夢」

 妖夢は、幽々子と目が合った。その真っ直ぐな目を見て、妖夢はそれ以上抵抗するのをやめた。
 蝶のようにひらりふわりと、行動原理なんて到底わからない好き勝手な行動をとる。それが普段の、妖夢のよく知る幽々子の姿だ。目を合わせて会話をするときも、妖夢の向こうを透けてみるような、明日か明後日の方向に視線を散らせるようなつかみ所のない目線が、妖夢のよく知るものだった。

 ――こんなに真剣な幽々子様の目は、見たことがない。

「わかった、妖夢? ”ここは”藍と慧音に任せて帰るのよ」
「は、はい。わかりました」

 言うと、本当に幽々子は立ちあがり、部屋から出て行こうとした。

「ま、待ってくれ」
「あら。何かしら」

 呼び止めた慧音が言葉につまっているのを感じたのか、幽々子はゆっくりと先を促すように振り返った。おそらく彼女は途中で気づいたのだろう。それを聞いたとしても無駄なことを。だから言わんとした一言を飲み込み、かき消して、咀嚼し直し、最後の言葉を吐いたのだろう。

「……あんたに任せていいんだな?」
「何の事かしら。私は用が済んだから帰って寝ようとしているだけよ」
「……そうか」

 慧音はそれ以上問い質そうとしなかった。藍も同様にだ。

「あ、最後に一つだけ注意しておくわ。あなた、紫の歴史を紐解くのはいいけれど、くれぐれも過去を喰わないようにね。今回ばかりはあなたの能力では根本的な解決には至らないの」
「ああ。わかった」

 返事を確認すると、幽々子は妖夢を引き連れて白玉楼へと帰って行った。


   ***


 妖夢~。妖夢はいる~?
 何ですか、幽々子さ……って、なんですかこれ!
 何って、見ての通り寝る準備よ。昔、紫からお裾分けしてもらった安眠グッズよ。
 グッズというより装置という方がしっくり来ますが。しかし、寝る気満々ですね。
 満々よ。長い眠りにつくのだからね。
 永眠ですか。
 冬眠よ。
 ……はぁ。
 妖夢。私はこれから長い眠りにつくから。
 はい、左様ですか。
 起きるまで間家のことは全てあなたに任せたからね。
 って、ホントに冬眠ですか? って、幽々子様ー!
 ……。
 ……幽々子様~。
 …………くー……。
 ……もう寝ちゃってるし。




   ***




 水の滴る音が耳に大きく響いて、紫は目を覚ました。

「ん……」

 目を開いても薄暗い世界だった。何度かまばたきを繰り返し、自分が正しく目覚めているかを確かめる。
 うつぶせの体をゆっくりと起こすと、髪の毛が、服が、半分ばかり濡れていることがわかった。足元を見る。周りを見渡す。紫を取り囲むのは、くるぶしにも満たない水面だけの湖だ。遙か遠くを見れば、山々の陰影が見えるが、とても届きそうにないところにあるように思えた。
 紫が歩みを始めようとすると、水面の丸い影がぐらりと揺れた。しばらく静思して、虚像が元の形を成すのを待った。
 虚像はすぐに、満月の姿を取り戻した。

「そうね……まだ続いていたのね」

 ここで意識を取り戻すたびに紫はその台詞を吐いてきた。何度目の独り言かわからない。この夢を何度繰り返してきたかがわからなかった。
 長い髪についた水滴を払う。ついでに、服の裾を絞り上げ、水分を落とした。湿った服をぱたぱたと叩き、空気を入れて乾かそうとする。
 確かに、びしょ濡れだと動きづらいし風邪をひくかもしれない。ただ、それは現実の世界での話だ。本来ならば精神だけで存在する虚の世界で、風邪という肉体の病気に陥る訳がないのだ。
 だけど彼女はその行為を続けた。
 もう既に紫は、境界を操り、虚を実として受け入れていたのだ。
 悪夢を見続ける覚悟ができていたからだ。

 水面の月が完全な満月となり、僅かに赤みを帯びた。狂気の瞳を思わせるその”過去の”満月は、その瞬間、虚から実となり、戦いを始める合図となった。

 遙か昔の月面戦争だ。

 これから月は目視ができないほどにゆっくりと欠けていくだろう。その度に、一つの妖怪の命が絶え、紫の罪は重なっていく。抵抗し、退けられ、また一つの命が散る。圧倒され、敗走し、紫と少しばかりの妖怪だけが無様に生き残った。
 千年以上も前の光景だ。それほど大昔の過ちを顕現され、繰り返される夢。終わりの見えない繰り返しだ。何度も責められる、同じ過ちを。たった一度の拭えぬ過ちを。
 それは、悪夢でしかないだろう。……紫も初めはそう思った。

 月が元の白色に戻る。戦いが完結したのだろう。妖怪たちの力は、月の軍事力を前に圧殺され、指揮官であった紫の退却により、月面戦争はあっけなく幕を閉じた。

「……愚かね」

 その時紫には、失意のまま逃げおおせる千年前の八雲紫が見えていたのかもしれない。彼女は、重ねた罪の傷跡がこんなにも永く残るだなんてこれっぽっちも思っていないのだろう。



 突然、世界が暗転する。目が開けているかも判知できない黒が視界を覆う。
 だが、紫は僅かにも動じなかった。
 月が白を取り戻し、戦が終結したと同時にその夢は終わり、次の悪夢へと世界は移る。……どこぞやの吸血鬼の台詞ではないが、それはすでに決められていたことだった。この夢の中で、幾重に繰り返されてきたことだ。
 紫はすっ、とまぶたを閉じた。
 次に視界が開かれた時が本当の悪夢だと彼女は知っている。

 夢は、幽冥の世に向かう。
 そこでは、月の戦で果てた数多の妖怪の霊が。
 責める言葉が。
 消えない怨念が。

 紫を永遠に責めることだろう。


   ***


 樹高の高い木々に囲まれた、裏山の広く開けた場所。そこには頼りなげな木材で組まれた古びた小屋がある他には、何もない。月の光も十分に届かなく、申し訳程度に小屋の玄関先を照らす淡い人工の明かりがあるだけで、あたりは冷たい闇に覆われていた。
 本来ならば、この場所から日の沈む方角へ幾ばくか進めば、先程の湖へと出るはずだ。だが、この夢の中でその位置関係には意味がなく、そもそもこの広場自体に意味などなかった。多くの妖怪を従え、月に攻め入ろうとする直前の決起集会を行ったのがこの場所というだけだ。それ以上の意味はこの場所にはない。
 それなのに、何度も夢に現れる。夢に現れて、紫を苛む最後の悪夢の場所となる。死んだ双眸が並び連なり、彼女を責める。

 勝てる戦じゃなかったのか?
 あんたを信じてついてきたのに。
 死んで償え。
 敗してなお生き延びる下根な奴。
 どうしておまえは死なずにいれる。
 謝れ。
 償え。
 死んで償え。

 過ちを責める声が、消えずに繰り返される。今回もまた、聞こえてくるのだろう。
 まぶたを開ければ、悪夢が始まる――。



 はずだった。

「これは……?」

 悪夢が正しく繰り返されていないことに紫はすぐに気がついた。
 そこに、死霊となった妖怪たちの姿はなかったのだ。

 代わりにそこにいた者。
 幽冥の亡霊少女、西行寺幽々子だった。

「あら、おはよう。紫」
「……他人の夢の中で何をやっているのかしら」

 諦念が十分に済んでいただけに、今更の友人の登場に全身の力が抜けて思わず座り込んでしまう。動揺を丸め込むのに必死で、諧謔(かいぎゃく)を込める余裕もなかった。

「紫があまりにもねぼすけだから、起こしにきたのよ」
「だからって、人様の夢の中にまで潜り込んでくるなんてねぇ。幽々子はそんなにおせっかいだったかしら」
「世話焼きでなくても、仮死状態に入ったような眠り方されたら誰だって心配するわよ」

 幽々子はくすりと優雅に微笑む。つられて紫も唇を綻ばす。
 笑顔だけで通じる会話もあるのだ。

「ところで、あえてもう一度聞くけど、あなたは何をしに来たのかしら。具体的に、ね」

 幽々子からは、質問の回答とは思えない満面の笑顔が戻ってきた。

 ぽかんとする紫をさらにおいていくかのように、唐突に、何の脈絡もなく、小さな舞台で幽々子はくるくると舞い出した。月明かりの届かない深い森、オブジェクトのない絶えた広場――死んだ世界で、亡霊の彼女だけが生きていた。
 ふと、黒い影のようなひらひらが紫の頬の近くを通った。それが薄暗い闇を増長するようにたくさん舞っていることに、それが幽々子の能力によって生み出された幻想の蝶であることに、紫は遅れて気づいた。
 ……黒死蝶。

「死に誘う程度の能力ねぇ……。私を実力行使で冥界にご招待するつもりかしら」
「誰が好きこのんで友人を死に至らせるのよ。実力行使はもう、別のところで終わってるの」
「……あぁ。”これ”はやっぱりあなたの仕業だったのねぇ」

 悪夢が繰り返されない時点で、薄々勘付いてはいた。正確には、月面戦争の死霊がいるはずの場所には何もいなく、代わりに幽々子を見た、そのときに幾つもの疑問に筋が通り、全てを悟った。
 つまり、彼女は、

「弔ったのね、彼らを」
「追い返しただけよ。彼岸に」

 幽々子の力の全てを死に誘う程度の能力と解説してしまうと語弊が生じる。彼女は、自身が望めば死をも操ることができるからだ。それはつまるところ、死に関連付いた存在――幽霊や死霊――を思うがままにできるということだ。顕界に居座る下っ端の妖怪の霊を成仏させたり彼岸へ送り返したりすることなど幽々子にとって造作もなかった。
 幽々子によって、悲痛と怨嗟は消えたのだ。

「本当あなたっておせっかいなのねぇ」
「こうとでもしないと紫、”目を覚まさない”でしょう?」

 毒が抜けるような満面の笑みを幽々子は作った。屈託のないその顔は、亡霊になりたての頃と何も変わってはいなかった。
 勝手なことをするなと、そんな幽々子に対して言えるはずもなく、意地の張り合いをいていたわけではないのに根負けしたように、紫は力なくその場にへたり込んで、言った。

「なんだか一気に冷めちゃったわ」
「そう。じゃあ私が紫に昔話をしてあげる」
「どうせ私にとってつまらない話でしょう?」
「私にとって”も”つまらない話よ」
「誰か得するのよ、その話をして」
「わからないわ。ただ、私は思い出して欲しいから」

 必要な情報を省き、それでも十分を残す幽々子の語り調は相も変わらずだった。陽気で適当で欲のなさそうな彼女だが、いつもこうやって密かに会話の主導権を握りたがることを紫はよく知っていた。
 だから紫は聞いてやった。どうせ明けない夢の中だ、時間は有り余っているのだから。



「昔々、あるところに強大な力を持って生まれた妖怪の子がおりました。
 その子の持つ能力は、世界の理を簡単に脅かす、それは恐ろしい力でした。
 しかし、その子は能力を濫用しようとはしませんでした。力を振り回すことが自己と世界の破滅しか招かないことを十分理解していたからです。だからその子は能力を誰かの救いになるときだけ使おうと決めました。やがてその力と想いはそこばくの時を経て、妖怪たちが在るべき場所を守るためのものへと変わりました。
 たくさんの名だたる妖怪たちがその子の元へ集まりました。純粋にその子の才力を敬い集まった者、絶対の力を畏れ大樹の陰に依るように集まった者、様々です。それだけ多くの妖怪に慕われてもなおその子は自惚れることはありませんでした。
 その子は完璧と呼ぶにふさわしい能力を遺憾なく発揮してきました。しかし、それでも過ちを起こさない者はいないのです。彼女のたった一つの失敗は、取り返しのつかない、重大なものでした。
 発端は彼女の耳へと届いた一つの物騒な噂でした。
 その話の主によると、どうやら月の民が幻想郷への侵略を画策しているらしいのです。
 無論、たかが一般市民の耳にも入る噂に信憑性など皆無です。しかし、その頃の幻想郷と月を取り巻く背景によって、他愛ないその噂は真実味を帯びたのです。
 その時代の幻想郷の技術は外の世界などと比べて絶望的に遅れていました。時折、外の世界から高い技術が集結された道具が持ち込まれてきますが、用途がわからず、技術の発展に役立つことはありません。それに対して、月の都は、高度な文明、特に軍事技術が外の世界と比べても大幅に進んでいると言われてました。放っておけば、幻想郷の驚異になるかもしれない――そんな危惧が、幻想郷の住民に根付いていたのです。
 一つの些細な噂によって、不安は加速しました。このまま月の民を放っておいていいのか。そして、ついに過激派として知られていた一人の妖怪が彼女にこう提言したのです。『叩くなら今しかありません』と。
 彼女は決断を下すのにそれほど時間は要しませんでした。幻想郷を守るためという目的が、彼女の行動原理と無理なく一致したからです。同時に、彼女には自分にしか月の民の軍力を破れないだろうという自負と、それに由来する責任感がありました。
 そして、かの月面戦争が勃発したのです。
 ……結果は、歴史に残るとおり、妖怪たちの惨敗でした。
 そしてこの戦争以来、妖怪たちが他の領域へ攻め入ることはなくなったといいます」



 二人のいる狭き広場に、僅かに月の光が差し込んでくるようになった。夢の中の世界といえど、あの日の夜と同じ時を刻んでいるのだろう。
 紫はまぶしそうな顔をして月を見上げる。思わず目を窄めたくなる、そんなつまらない話だった。

「本当につまらない話ねぇ」
「でも、くだらない話ではないわ」

 紫は無言を返した。幽々子がこの先に用意しているであろう話に対しての、せめてもの威圧だった。

「それ以降、彼女は強くあることをやめたの。幻想郷の表舞台から姿を消し、式神を従え、自らの能力を極力使わずに済む生き方を模索していった。それは、彼女なりの罪滅ぼしでもあったの。あの時の過ちが消えるようにと、彼女は……」
「罪は消えないのよ」

 幽々子の語らいを、紫の冷たい言葉が刺した。

「亡霊のあなたにはわからないかもしれないけどね、罪というのは、生きている間積み重なるだけのものなのよ。決して無くなったりはしない。善行を積むことによって軽くなったりもしない。割れたグラスが元通りにならないように、それは取り返しのつかないことなのよ」
「……紫、何だか閻魔様みたいなことを言うのね」
「あるいはそうかもしれないわね。妖怪も永く生きれば十王の境地まで達したりしてね」
「いいものではなさそうよ。幻想郷担当のあの子、過剰労働で今にも過労死しそうだもの」
「……次に生まれてくることがあるのなら、私はもう普通の人間でいい」

 そうね、と幽々子は呟く。彼女も、普通の人間で在れなかった一人だ。
 二人には共通が多すぎた。忌むべき能力を持つ者同士、必然のように引き合わせを図ったのは紫の方だった。彼女は、心の奥底で同類を求め続けていたのだ。
 二人の出会いが、幽々子の生前であったこと。
 それが二人を決定的に違わすことなど知らずに、紫は幽々子と出会ったのだった。



 夜はまだ長い。紫は時が刻まれぬあの夜を思い出していた。
 幽々子は次の”作戦”を練っているのだろう。……長い付き合いでなくともわかる。今、幽々子はシナリオを組んでいるのだ。遠回しに話を進めることを大前提に、結末には紫の説得成功、を置いて。
 聞き飽きた手口。

「じゃあ、昔話はこれで終わり。次は、うさぎとカメの末路を……」
「ねぇ幽々子」
「なぁに?」
「もう、やめにしましょうよ」

 黒く冷たい風が二人の間に吹いた気がした。

「回りくどいの、あなたのやることは」
「あぅ」
「本当に言いたいことを覆うように話を展開していって、ようやく結論を述べるかと思ったら核心に触れずに話を終わらせて。食傷気味なの、あなたのやり口は」
「ご、ごめん紫」
「……いいのよ、謝らないで。謝罪が欲しくて言った訳じゃないわ」
「……ええ、わかってる」

 幽々子の顔が陰る。遺恨と懺悔しか残らない死んだ場所に生気を与えていた幽々子の笑顔が、薄暗さの中で見て取れるほどにはっきりと消えて無くなった。
 幽々子に投げつけた言葉が間違いだったのは明白だった。
 一体、何度過つのだろうか。

 ――これだけ過誤を繰り返して、報われていいはずなどないでしょう。

 ともすれば、幽々子の登場は紫に最後の一押しを与えるための刺客だったのかもしれない。顕界に在ることを断つ決意が揺らがないように、普通に生きたいという欲が溢れ出ないように、楔を刺すために何かが与えた使者。
 幽々子に見捨ててもらえれば、最後だ。踏ん切りがつく。
 罪深きこの身を、幽冥の世界に沈めようか。



 ……。



 それは、消えない灯火だった。
 幽々子に笑顔が戻っていた。

「……ふふふ」
「……どうしたのよ」
「紫って、やっぱり優しいんだなって」

 紫はこの上なく完璧に固まった。突拍子もなければ脈絡もない、簡単な日本語のみで構成されたその言葉の意味をとるのに、無駄に長い時間を要した。

「あのねぇ幽々子、脈絡なくお世辞言わないでよ。頭が氷の妖精になるところだったわ」
「必要以上に世話を焼く私を煙たがりながらも側に置いてくれるのだもの。そんな優しい人、紫しかいないもの」
「……そんな見当違いなお世辞を言うの、幽々子ぐらいよ?」
「皆があなたを知らないだけよ。過ちを多く知る者は、他人にやさしくなれるのよ」

 痛みをよく知る者は、他人の痛みを自分へとフィードバックし、分かち合うことができるという。精神的に深い傷を負った者は、挫折をよく知る者にしか救えないという。
 だが、紫の場合は違った。失敗を繰り返さないようにと立ち回ることが結果的に周りに心配りを与えていたというだけだ。褒められるような振る舞いは何もしていない。なのに幽々子はそれを紫の優しさだと言う。

 ――この子はどれだけ私のことが好きなのかしら。

「あなたの式神が私の元に頼りに来たの。「どうか紫様を助けてください」って。あの子、紫への忠誠心に影を潜めてはいるけど、実力相応に自尊心が強いのよ。紫以外に頼る様子さえ見せない子が、態も振りも構わないで頭を下げてたわ」
「……あの藍がねぇ」
「相当に心配だったのよ。あなたのことが」

 そう言う幽々子は少し浮かない顔をしているように見えた。紫が質す前に、幽々子は言葉を続けて、

「正直、紫が羨ましいと思ったわ。私は、誰かの信望を自力で勝ち取ったことなんて無かったから。私の周りが敬うは、畏怖としきたりと流れる血による、私個人と関係のないところにある偶像なのよ。私自身には、何もなかった。……紫に説教するつもりでマヨヒガに来て、藍の様子を見たとき、紫を何としてでも連れ帰さなきゃと思った。あなたはこんなにも必要とされているのだから、過去に溺れている場合じゃないの……って言ってやろうと思った」

 ――別に溺れていた訳じゃないのよ。私はただ償い損ねた過去を……。

 その言葉は力なく、幽々子の想いに上塗りされていく。

「気の遠くなるような昔の話、私が亡霊になって間もない頃、前置きもなく突然に閻魔様が冥界までわざわざやってきたことがあったの。閻魔様は私に冥界の幽霊たちの管理と、それと引き替えの永住権を一方的に与えていったわ。私が首を振る間もなく、事務的に伝えて帰っていった。あまりに突然のことで、私はまごついたけど、すぐに気づいた。……頼られたのは、またしても私ではなく私の能力だった。でも、それでも私はうれしかったのよ? だって、死に誘うことしかできないと思っていた力のあり方を知れたのだから。

 飛び抜けた力が、何かを奪うだけだったら、悲しい事じゃない。

 その仕事は冥界と幽霊の管理だから、誰かに何かを与えることはできないけれど、それでもよかった。こんなにもはっきりと自分が何かの役に立っていると実感することができたから。
 ねぇ紫、あなたにだってあるでしょう? 結界によって幻想郷を守る、あなたにしかできない役割が。紫はいつだって何かの役に立つように、飛び抜けた能力がこの世にあることを許されるようにと努力してきたのを私は知ってるわ。大事なのは、自分が今どこを向いているか、どこに向かっているか、でしょう? あれだけ長い道のりを前だけ向いて歩いてきたのに、どうして今になって後ろに囚われるの?」

 ちょうどその時だった。
 二人を包み、夢の世界を支配し、狂いを与え続けていた月が、夜空の帳にとけ込んでいったのだ。
 何てことはない、月の消滅は夢終いの合図だと紫は知っていた。月の光が絶え、木々が溶け出していき、次の夢へと向かう準備が始まる。あの月が朔になる頃には次の夢が始まっているのだろう。
 死霊のいなくなった夢を?
 独りで、それとも二人で繰り返す?

「……夢が終わるわ。これ以上ここにいると、私の夢とあなたが切り離せなくなってしまうわよ」
「紫、お願い。いっしょに帰ろう?」

 ぐい、と引かれる腕に、紫は思わず驚きを零す。
 幽々子の手だ。亡霊の彼女の掌は、必要以上に冷たい。しかし、無論紫はその事に驚いたわけではない。
 いつだって恍けたように振る舞って、差し障りない生き方を望む幽々子の、直截的に差し出された手にだ。真意を隠して、視線の先をごまかして、”私を本当に心配しているかもわからせてくれない”幽々子の真っ直ぐが見られたのだ。

 あぁ。
 もしかして、そういうことだったのか。

「……そうだわ、幽々子」
「……何?」
「冥界と顕界の境界の修復が頼まれたままで終わってなかったわよねぇ。頼まれてあげるから、もう少し待ってね」
「……待ってるからね。あなたにしかできないんだからね」

 ゆっくりと、絡んだ指が離れる。
 光であり続けた幽々子の影が、ゆっくりと還っていく。
 幽々子は、迷わずに、惑わずに実の世界へと戻れるだろうか。おそらく心配はいらないだろう。何をどうやったのか知らないが、こうやって境界を越えて人の夢の中に潜り込んできたのだから。
 空になった右手を握る。幽々子の体温は消えていなかった。



 つまり、
 私は許してもらいたかったのだろう。
 最も近しい人間に。


   ***


 白玉楼では、主のいない日々が続いていた。
 妖夢は落ち葉真っ盛りの庭の掃除に追われていた。冥界の中でも絶対の圧倒的な広さを持つ屋敷の掃除は、一人で行うには相当の労力が必要だろう。それでも主がいないのをいいことにサボろうとしないあたり、妖夢の生真面目な性格が伺える。
 その妖夢の元に、一体の幽霊がやってくる。

「……幽々子様が?」



 幽々子の部屋はあの日の状態のまま保たれていた。
 紫から譲ってもらったという安眠装置、枕元には折りたたまれたままの着替え、その反対側には紅魔館の図書館から持ち出してきたと思われる、いかわがしい魔導書。中身は古い日本語で書かれていて、全てを読み解くことは困難で正確にはわからないが、夢を共有……呪い出る……などいう単語が出てくるあたり、良からぬ本であることは間違いない。

 妖夢がそこについたときにはもう、幽々子は長い眠りから完全に目を覚ましていた。

「あら、妖夢じゃない。おはよー」
「ゆ、幽々子様ぁ」

 妖夢は一瞬泣き出しそうな顔を作ったかと思うと、そのまま幽々子の懐へ抱きつくように飛び込んた。

「や、妖夢ったら。……甘えんぼさんなんだから、もう」
「……心配したんですよ」

 幽々子が聞くと、夢に潜っていた間の幽々子は、紫と同じ状態、意識放棄に近い異常な眠りに落ちていたらしい。妖夢が、このまま二度と目を開けないのではと心配してしまうのも無理はなかった。

「私が心配かけてしまうのは予定外だったわ。ごめんね、妖夢」
「……勘弁してください、もう」

 幽々子は温もりを感じていた。こんな自分にも帰りを待つ者がいたと知れた、心の震えだ。

「じゃあ妖夢、出かけるわよ。何人を心配かけたかもわかっていない人騒がせな妖怪に説教の一つでもしに」




   ***




 湖の水面は僅かな波紋も作らなかった。
 それが、この夢の世界にもう誰も残っていない何よりの証拠だった。
 白い満月が水面に映り、虚実の境界を越えて、月面戦争の火ぶたが切り落とされる。やがて、戦闘は終結に向かい、月が再び白を取り戻したと同時に、リセットされる世界。元凶を失った世界は、それだけを無為に、永遠に繰り返す。



 それだけのはずだった。



 紫だけは、まだそこに残っていた。
 罪を責める死霊などすでにそこにいないというのに。



 幽々子は知らなかったのだ。いや、生前の記憶が全く残されていない彼女に、その事実を彼女自身に伝えようとする輩がいない限り、知り得ないことだった。

「ねぇ、幽々子。教えてよ」

 近しい人がいなくなったその場所で、問いかけは空に消えるだけだった。



「自分の能力を疎い、自尽した者を近くに知っている私は、再び生きることを許されるの?」



 おせっかいの幽々子のことだから、紫が未だに目を覚まさないと知ったら、懲りなくこの月と夢の幽閉の場に介入してくるだろう。だが、幽々子の声は境界の向こうに留まり、彼女に届かないだろう。



 紫は知っていて、幽々子は知らないのだから。
 それだけの違いで、言葉は届かなかった。

 初めまして。最近になって湧いて出てきたかくしだまです。
 こちらでの初投稿、初東方二次SS、初二次SSと初物づくしの拙さぎこちなさの隠しきれない作品となりました。

 実際シリアスものは需要があるのか。ニーズも調べずに飛び込んできたわけですが、どちらにしてもシリアスとエセコメディしか書けないのでまぁいいか。いいのか。

 神視点三人称から一人称寄り三人称(紫寄り)への無理のない変移、幽々子様のほとばしるカリスマ、最後の最後にある転による余韻、そして何よりも読んでもらった方の東方の世界観を崩すことなく書ききれてたら、おおよそ成功です。

 神のアイデアが舞い降りてきたらまた何か書きたいと思います。
かくしだま
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コメント



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5.30名前が無い程度の能力削除
最後まで読んで、面白かったと思える作品でした。
中だるみしているわけじゃないのだけれど、もっとグイグイと読者を引き込んで欲しかった。せっかくのシリアスものでしたから。