――人は何処で恨みを買うか解らない。それは過去でも現在でも未来でも同じで、何処かで買った恨みは、必ず因果
と云う理不尽な定義によって自己の前に現れる。それに直面した時、アナタはどうするかしら。例え身に覚えが無くと
も、恨みを持った者はいつまでも覚えている。その恨みが大きければ大きい程、覚えている時間は長くなり、恨みが濃
くなって行く。アナタの言動が、行動が、どこかで必ず恨みを作っている。それを未来永劫、忘れぬ事ね。
一、散らない桜
春も半ば、色鮮やかな花々が咲き誇り、人も妖怪も花見の季節だとして心躍らずにはいられなくなる頃。
こんな明るい季節だと云うのに、何も変わらない風景を見続ける事に飽きた稗田阿求は大きく溜息を吐き、僅かしか
動かぬ腕を広げて己の不自由さを世界(部屋)にアピールした。
今日も変わらない日々が訪れたと思うと、億劫でならない。枕元に積まれた書籍を掴み取り、もうページ丸々全て暗
記しているとして放り投げた――つもりが、力なく本は落下してふくよかな胸を強打する。これが、読む本が無くなっ
た結果戯れに手を出した格闘教本であったのは何かの因果か。
幾つになってこんな事しているのかと、己の阿呆さ加減に嫌気がさして自己嫌悪に陥る。
稗田阿求 本日二十七歳になる。
彼岸からの迎えが近くなるにつれて体の衰えを感じていた阿求は、今までの様に暇があれば読み書き、散策といった
生活も出来なくなり、布団で過ごす日々が続いていた。
それを勿論阿求は不満に思っていたが、いずれは若い身空で朽ち果てる事を約束された身だ。生まれたその日から弁
えている。先代の日記を見ても解る通り、長くても三十迄しか余命はない。淡々と日々衰える自分の様子を書き記す日
記は、その無機質さが逆に不気味であると、阿求本人も自覚している。
その不気味さを今現在実感してはいるが、納得など出来るものではない。食事から風呂から排泄まで全て自分の手で
は行なえない。頭はこれだけはっきりしているのに、体は全く言う事を聞かないのであるから性質が悪い。いっその事
意識も無くなってしまえば良いと何度思ったか知れなかった。
死ぬならば誰にも迷惑をかけず一発で逝けたら良かったのにと、誰の責任でもない問題に悩んでしまう。
頭がはっきりしているのなら何故体が動かないのかが不思議でならなかった。頭が働きいつも通り考えられるからこ
そ、その不自由さに悩む。本当は動かせるのじゃないかと思い立ち、一人で起き上がろうと意気込むが空振りで終った。
老人は余生を思い出に頼る事が多いと聞く。余生を楽しむ為に若い時代があるのだと極論を立てる人もいる。ではそ
れに則り、阿求も記憶を頼りにしてみようと考えたが、もうとっくに追憶し尽くした感があった。
何せもう一ヶ月以上寝たきりである。二十七年しか人生を歩んでこなかった人間の記憶は、例え一度見たら忘れない
程度の能力を保持していようとも、ネタ切れを起す。
手詰まった。
少なくとも会話が欲しいとは思うのだが、お見舞いの客はもう一ヶ月以内に殆ど来ている為、同じ人間が何度も訪れ
る事もない。幻想郷の者は皆自分勝手であるし、阿求自身そこまで親しくした人物もいない。総合的に人当たりがよか
ったので、見舞いの数はあったが、何度も甲斐甲斐しく現れてくれる人物などいなかった。
二度以上といえば、魔理沙や霊夢、そして八雲紫辺りが気まぐれで現れたぐらいだろう。
「ああ、あの人は……」
確かに見舞いで複数回来る者は少なかったが、見舞いと分類しない人物ならもう複数回訪れている。
「阿求様、永遠亭の永琳先生がいらっしゃいました」
「涙が出るほど嬉しいですね。いれてあげてください」
「永琳先生、お願いします」
「おはよう、阿求さん」
「おはよう御座います。診てもらっても仕様が無いのに、良く来て下さいますね」
「医者は最後まで諦めないわ。色々」
銀色の髪を一束ねにして、奇抜な衣装に身を包む淑女、天才八意永琳は軽く会釈してから入室する。他人で話し相手
といえば、自分を診てくれている永琳しかいなかった。元よりあまり親しい間柄ではなかったが、阿求が倒れた日に丁
度人里に降りていたのが切欠で担当医をお願いしている。
お願いしている、では語弊があった。むしろ永琳は進んで阿求の容態を診てくれている。
初診の診察結果はチンプンカンプンで阿求も理解不能であり、未だに何故自分が、御阿礼の子が身体だけ動かなくな
るのかは知らなかったが、倒れた後ではもうどうでも良かった。
稗田阿求が精神衛生を保っていられるのは、他ならぬ彼女のお陰である。文句などある筈も無い。
「昨日聞いたのだけれど、後で巫女達がお酒を持って押しかけると言っていたわ。まったく、物事を弁えていない人
達ね」
「幻想郷の者達は皆、自分勝手ですから。それでも一応、誕生日と言う事を解って宴会のネタにしているのですから、
悪い気はしないんですよ、私」
体を起すにも人の手を借りねばならず、常にもどかしさを感じている阿求だ。それを含めて考えれば、自分の誕生日
をネタにして暇を持て余した知り合いが遊びに来てくれるといったような事は、不愉快ではない。お酒は飲めないにし
ても、会話にならない会話を垂れ流す事が出来るなら寧ろ嬉しい。
若い頃……今も十分に若く、女性として脂の乗った頃合である阿求ではあるが、もう十代の頃のようには動けない。
鴉のような深い黒の長い髪も、艶めいた造形の顔も、均整の取れた身体付きも、今の稗田阿求にはまったくもって、意
味を成さないものだ。知識への深い関心も、好奇心も、全てが虚空へと消える。
「もう諦めているのかしら」
「はい。転生の術の準備も済ませてありますし。ただ、動けない事がもどかしくはあります。前の幻想郷と違って、
九代目の幻想郷はトテモ面白い所でしたから。死にたくは、ないんですが、仕方有りません。稗田とは転生を繰り返
し、客観を保ったまま、幻想郷の歴史を編纂する。これは、名誉な事ですし、義務でもあります」
上に一枚羽織って半身を起す阿求の隣に、一人の薬師。
その表情は、何を考えているかなど、まったく解らない。人とは如何に洗練されていようと、瀟洒であろうと、微量
の気配程度は漏らすものなのだが、この薬師からは一切そういったものを感じ取れない。人の形をした人ならざるもの
だからこそなのだろうか。少なくとも、稗田阿求はこの八意永琳が、どのような意図を持って稗田家に往診に来ている
かなど、一切感知不能だ。当然、初めて往診に来た日から。
「やはり、楽しかったわよね、ここでの生活は」
「――はい。今まで編纂して来た歴史にない程の平和があり、面白い人達が居た。霊夢さん、魔理沙さん、咲夜さん、
アリスさん、レミリアさん、パチュリーさん、紫様、幽々子様、妖夢さん、慧音先生、妹紅さん、鈴仙さん、輝夜さん、
そして貴女」
「私は何か、貴女の幸せに貢献出来ていたかしら」
「皆私には良くして下さいました。私の能力は、一度みたら忘れない事。記憶は完全に独立した写真の一枚一枚のよ
うに、アルバムに貼り付けてあります。楽しかったですね、永遠亭企画の竹林サバイバル」
「貴女は傍観していたじゃない」
「見ているだけで面白かったですよ。あの時の会話は忘れられません。『アンタの耳は絶対取り外し可能』って霊夢
さんが鈴仙さんに迫って『ならば盗ってみやがれってんだこの腋だけがアイデンティティの紅白がぁっ!!』って。鈴仙
さん、普段とても見れないような怒り方してましたもんね」
「そうそう。結局耳をひっぱられた挙句、霊夢が逆切れして讃岐うどんを作らせていたわ」
「美味しかったです」
「それが、楽しかった」
「……はい。ここで倒れるのは悔やまれますがね」
「そうね。楽しい記憶が沢山あって、まだまだ死にたくないものね、阿求さん」
「……え、永琳先生?」
楽しげに追憶を語っていた阿求の手を、永琳がとる。永琳はその絹のようなきめ細かい肌を撫で付け、くすりと笑う。
阿求はぞっとした。
何を考えているか解らない表情ばかりが目立つ八意永琳に、このような表情をされた事がなかったから。
形容し難い思いが押し寄せる。人外であると告白されたのは、何時であったか。疑いは持っていた。疑いが確信に変
わっただけ、それだけの出来事ではあったが、見る目は一変した。
永遠に生きて尚、同性すらかどわかすその魅力は、胸の詰まる息苦しさを阿求に与える。
男とて、強い男、凄い男を見た時、言い知れぬ敗北感と、尊敬の念を抱くであろう。女とて、自分など比ではない才
能を見せ付けられた時、美しい女を見た時、物言わぬ嫉妬心が湧くと同時に、畏怖や敬愛に転じる事もあるであろう。
八意永琳が持つ恐ろしさとは、それを数倍濃縮した、劇物の類だ。
人に有無を言わさぬ頭脳、天才故の理解不能な行動が謎を作り、その端麗な容姿が全てを包んでいる。
そして更に、彼女は永遠の民だと言うのだ。
自分は転生人であるが、蓬莱人などの寿命がなく衰えを知らぬヒトガタとは違う感覚であると自覚している。
転生に定義をつけて、ルールの上で繰り返す生と、生に縛られた不死は違う。
そして、この八意永琳は他の蓬莱人とは更に異なる性質を持っている。
そもそも、この八意永琳、月の民であるかすら怪しいのだ。
その何もかもを併せ持つような怪しさが、稗田阿求をヘビに睨まれた蛙の如く硬直させる。
「何、を――?」
「待ち望んでいたわ。貴女がそう言ってくれるの」
その言葉に、何かが脳髄を突き抜ける。
八意思兼。歴史の家に生まれたならば、八意と聞いて真っ先に浮かぶ知恵の神の名。
その名を冠し、自らを知恵であると言う、八意永琳。
虚空蔵求聞持法。かの空海も授かったと言われる、虚空蔵菩薩の恩恵。
その力を用いて転生を繰り返す、稗田阿求。
互いに異質であり、幻想の衝突とでも称するこの状態に、阿求は今始めて自覚を持った。いや、危機感を持った。
十年前なら、腕を振り払ってでも拒絶しただろう。
だが、身体の動かぬ阿求にとって八意永琳は、紛う事なく絶対者だ。
自分が倒れた日を回想する。
即座に駆けつけたのは、里の医者でも、上白沢慧音でもない。この八意永琳であった。
それを何故、疑問に思わなかったのか。仲良くしていたから、などと言う理由だけで、何故断言出来たのか。
「え、あ、ああっ」
動かぬ体に鞭打ち、布団を抜け出すように這いずる。腕を前に進める度に筋肉が悲鳴をあげ肉体を激痛が駆け巡るが、
それでも尚阿求は廊下へ出ようと永琳の手から逃げ出す。
「だ、だれかっ」
「貴女はまず、私が幻想郷にいると理解した時点で、護身の為の法術を学ぶべきだった。そして、己の頭脳をひけら
かす事なく、大人しく暮らしていれば良かった。私に目をつけられぬように」
永琳が、自らの懐に手を入れて何かしらを取り出す。
「な、何を!? え、永琳、先生……」
「何故こうなったのかしら。どうしてこんな事になったのかしら。頭脳明晰な貴女なら、覚えていると思ったのだけ
れど。答えはお預けのようね」
「そ、それは……」
襖にたどり着いた所で振り返り、立ちはだかる永琳を見上げる。その手に握られた物体は小瓶。
中には虹色に輝く水飴。
阿求に戦慄が走る。一度手をだしゃと云うフレーズが脳内でリフレインする。
「え、永琳先生、冗談は、冗談は止めて……」
「蓬莱仲間が馬鹿ばかりで、少し物足りないの。仲間になってくれるかしら」
全身を貫く、不死への畏怖。これは、人の身では理解するに難しい感覚ではあったが、幾度と無く不死に触れ、あま
つさえ幻想郷に居る存在である稗田阿求からすると、身の毛もよだつ怖れだ。
永琳は小瓶から一掬い取り出し、小動物のように震える阿求の身体を掴み抱き寄せる。
「い、いやです……まだ死にたくはないけれど……死ななくなるなんて……い、いや……」
「楽しいわよ。どれだけ無茶な事をしても死なない。身体が消滅しようと、意図的に肉体を生み出せる。人間として
の快楽そのままに、更に上へと昇れる。欲求という欲求、全てが限界を超えたものを味わえるの、阿求さん」
「いりません、そんな不道徳な力も欲望も、いりませんから、いりませんからっ」
「いらない、じゃないの」
「え、な、あっ」
『与えるの、無理やり』
無理矢理開かれた口に、指を捻じ込まれる。
その瞬間、全てが解けて、なくなった。
・
・
・
・
・
乱れていた波長が、正確無比の狂い無き躍動を始める。丹田に言い知れぬ温かさが溜まり、その違和感に耐え切れず、
衝動的に畳へ腕を突き立てた。肌と云う肌、肝と云う肝に蟲が走り回るような感覚を覚え、阿求は吐き気のあまり胸を
強く押さえつける。
心の臓腑をこのまま突き破ってやりたくなり『思ったとおりに』してみた。
「……い、つ……」
痛い、で済む筈はないが、今は済んでいる。そもそも、素手で人の胸など貫ける訳もなければ、素手で自分を貫くな
ど、理性も本能も危機を感じて絶対に制止する。
だらだらと零れ落ちる血液が、阿求を覚醒に導く。引きずり出した真っ赤な手はその生々しさが現実を物語っており、
あまりの事態に動揺して視線が定まらなくなる。
だが間違いなく、現実。
腕が引き抜かれた直後、超々極度の身体修復能力が働き、ものの五秒で全て塞ぎきった。
「ほ、ほうらい……びと……」
蓬莱人。蓬莱の薬を服用したもの、または死を知らぬものの総称。自分は転生人であって、蓬莱人ではない。何度も
過去の同一人物として生まれ変わる時点で人とは違う存在ではあったが、死を知らぬ不道徳の塊とは、訳が違うもので
あった。
これは古い契約に基づいた、正当な待遇の元で行われる転生と、輪廻転生を完全否定する違反者との違い。
驚きのあまり、涙も流れない。
「おーーーっす、阿求、飲むぞー……て、うわぁぁぁぁぁっ!!!」
「魔理沙……貴女歳とってもホントにテンション下がらないわよね、羨ましいわって、うわ」
「魔理沙さん、霊夢さん、こ、こんばんは」
「こんばんはも左様ならもあるか!! ち、血でてるぞ!?」
「二人とも何騒いでるのよ……病人のへやでぇぇぇぇぇぇッ!!!」
「アリスさん……こんばんは」
「魔理沙、お医者様!! お医者様ー!!」
「ちょ、ちょっと待ってろ、今呼んでくるからなっ!!!」
「さ、三人とも、落ち着いてください、ほら、見てください、傷なんてありませんから」
空気に温度差の有りすぎる三人が慌てふためく中、阿求も困り果てて仕方なく血の零れる胸元を三人へと見せつける。
「阿求、お前胸おっきくなったよな」
「円錐型ね……魔理沙の二倍」
「いえ、二・二倍よ」
「アリス、何故解る」
「い、幾つだと思ってるんですか……お、大きさは良いですよ。ほら、ね、傷はないでしょう」
「本当ね。稗田さん、これは一体?」
なんとか一応話を聞いてくれるまでに落ち着いた三人を座らせて、自分も布団へ戻る。
もうこの時点で、三人にとっては可笑しかった。
「阿求、寝たきりじゃなかったっけ」
「……歩ける、みたいですね」
「貴女の担当医って、里の医者じゃなく永琳よね。まさか変な薬でも盛られたの」
「永琳といえば蓬莱? あはは、まさか。霊夢、勘が良いからって流石にそれは」
「っぽいんですよ……私その……蓬莱人に、なってしまったらしく」
空間が硬直する。魔理沙は当時と変わらぬ姿のアリスに視線を向け、アリスは今では大分落ち着きの出た霊夢に視線
を向け、霊夢は少しばかり大人になってから時の止まった魔理沙に視線を向ける。
阿求はなんと言って良いか解らず、取り敢えず苦笑いした。
「あはは……」
「いや、笑い事じゃないような気もするのだけれど、稗田さん」
「むー? いや、意外と笑い事じゃないか? 死ななくなっただけだし」
「どうかしら。私達魔女だって、強力な力が加われば即死するわ。でも蓬莱人は死なないし」
「どうしましょう」
「どうって。永琳退治する?」
「あの薬師倒しても解決する問題じゃないだろう」
「ああ、これでまた永遠亭への復讐者が一人増えたのね。阿求さん、藤原妹紅とタッグを組んだら?」
「阿求の体面の問題は、正直詳しくは知らないけど、ここは幻想郷だしな」
「そうねぇ。稗田さん、この際だから蓬莱人やっほー、とでも思っておけば良いんじゃないかしら」
「弾幕の練習なら付き合うけれど」
「意見を統合するとつまり、解らないと」
「解らないわね」
「解らないぜ」
「解らないわ」
三人寄れば文殊の智慧、四人寄ったら虚空蔵とでも言うべきだったか。だがしかし、もうこれは人間と魔女が理解出
来る範疇を越える問題であった。
何がいけないのかも解らなければ、どこが問題なのかも知れない。人間の規範から外れている事は異常であるが、そ
んな人間がゴロゴロ居るのが幻想郷である。この幻想郷で生命の倫理を語る事ほど不毛なものはない。
「飲みましょうか。なんか、今日は考えたくないです」
「流石天才、空気読んでるな」
「まぁ、お誕生日おめでとう?」
「蓬莱人になったら誕生日も何もない気がするけれど、理由がないと皆でお酒飲めないし」
考えようとしても、どこから考えてよいか不明瞭で、無理をしようとすると八意永琳の顔がフラッシュバックする。
この際、一端酒でも入れて、後日に問題を後回しにしてしまおうと言う思いに至った。
短い寿命故、問題は一番最初に解決して後回しにしないのが稗田阿求であったのに、だ。
「魔理沙さん、蔵の方に宴会用のお酒が積んで有りますから、全部持ってこさせるよう女中に言っておいてください。
私は、着替えて来ますから」
「え、全部?」
「二、三十升ぐらいあったと思います。死なない記念に全部飲んでやろうと思いまして」
「チャレンジャーだな。おっけー解ったぜ。霊夢はこの部屋片付けて、アリスは誰か他に呼んできてくれ」
「なんで私が……」
「私とアリスの仲じゃないか」
「それってライバルって事?」
「一度でも勝ったことあったか、私に」
「ああ、なるほど。舎弟ね。ちくしょう……」
魔理沙の指示で各人が動き出す。阿求はそんな三人を理不尽な人々だと嘆き溜息を吐いて、風呂場に消える。
「阿求様、これからお風呂……って、血!! というか歩いてる!!」
「オサヨ、あまり大きな声を出さないで。調子が良いからですよ」
「けけけれど、お医者様はもう歩く事もないだろうって……」
「幻想郷ですから。不思議な事もあるでしょう」
「は……はぁ……」
「自分で入れますから。有難う、オサヨ」
目を丸くして驚く女中を適当に流す。自分がこれだけ冷静な方が逆に不思議だ。
血まみれの寝巻きを剥がして籠に投げ入れ、一糸纏わぬ姿で鏡台の前に立つ。
身奇麗なまま、穢れ無きまま転生を繰り返す筈であった身体。しかしそれは、先ほどまでの自分であって、今の自分
ではない。つまり今ここにいるのは稗田阿求では、ない。
「一体何を考えて……」
八意永琳の考えが、少しも理解出来ない。
自分の確かで完璧な記憶のページを捲り、思い出す。
『蓬莱仲間が馬鹿ばかりで、物足りない』
嘘をつけ、と阿求は吐き捨てる。
そんな簡単な理由で、咎などぽんぽん増やすものか。
もっと何か、深い部分に理由がある。
先ほどの、八意と云う知識の神を連想し、己の智慧の仏を連想した部分。この辺りに何かあるのではないかと考える
が……そこで、あの女の顔が映る。
「うっ」
気分が悪くなり、こみ上げるものを飲み込む。
何か、恨みでも買っただろうか。
『頭の良い貴女なら、覚えていると思ったのだけれど。答えはお預けのようね』
「記憶……辿ってみるしかないですかね」
蓬莱人になってしまったのなら、仕方がない。後戻りなど出来ないのだから。
しかし、少なくとも理由だけは知りたい。何故に稗田阿求を蓬莱人にしなければならなかったのか。八意永琳とて、
気まぐれであの最悪の咎物を使う訳がない。
阿求は……蓬莱によって得た凶悪な身体能力が己が体を駆け巡る事に嫌悪し、指が全て折れる程に手を握り締めた。
・
・
・
・
・
紅魔館小事件簿
八雲一家小事件簿
博麗霊夢周辺小事件簿
白玉楼小事件簿
永遠亭小事件簿
幻想郷総合小事件簿
etcetc...
阿求が関わった、見た、聞いた範囲を収めている資料を取り出し、次々捲って行く。
己の知る範疇での歴史は完全に把握しているが、いざ引き出そうとする場合は鍵がなければ開かない。思い出すに至
るプロセスを築く為に、紙に延々溜め込んで来た歴史を紐解いて行く。
永遠亭が人前に姿を表したのはつい最近だ。今となっては十数年前の話だったが、幻想郷縁起を発刊した当初である
から、記憶が最も濃い頃の話であるし、幻想郷の歴史に照らし合わせたのなら登場時期は遅い。
永遠亭を取り巻く環境で一番大きな出来事といえば、永遠亭が明るみに出る切欠となった永夜異変。
それに永遠亭の話は、密度が濃い。
異変は今まで最も危険なものであったし、幻想郷に新しい智慧を齎したのもこの永遠亭。同時期からは蓬莱人藤原妹
紅も姿を見せるようになり、その重要人物各人の能力たるやいなや、人の身でありながら妖怪を軽く凌駕する者が多い。
そのそうそうたる者達がいる中で幸いであったのが、皆大人しく暮らす事を望んでいる事、野心がない事があげられ
るだろう。幾ら幻想郷の守護者が強力であろうと、まとめて蜂起などされたら幻想郷は一溜まりもない。
それほどに、危険な人物が揃っている。
あまり重要には扱われない月の兎、鈴仙優曇華院イナバ。
しかしこの存在は、単独にして近代軍隊の一個小隊など軽く撃破出来るであろう能力を有している。
波長をずらせば姿は見えない、音は聞こえない。
遠距離へ指示を出せる上、その力で敵を動揺させる事も可能。
おまけに狂気の瞳は人間を錯乱させる。
どれだけ人間が特殊訓練を受けようとも、こんな非常識な能力の前では太刀打ちなど出来ない。
薬師……とは名ばかりの、異邦人八意永琳。
恐らく、殺しても死なないだろう。月の民であるかすら疑問がある。
人間が、果ては妖怪が理解しえない思考回路と理論を持ち合わせた頭脳は、恐怖以外の何物でもない。
永遠、蓬莱山輝夜。
この月人を蓬莱人と呼ぶには憚りがあるだろう。
永遠と須臾を操るなど、頭脳で把握するにはあまりある能力だ。
それはあるし、どこにでもいる。
十六夜咲夜が物理的な感性で能力を扱うならば、蓬莱山輝夜は観念で能力を扱っているのであろう。
可能性の世界の話だ。
『そこには蓬莱山輝夜がいるかもしれない、いないかもしれない』と云う、定め様のない曖昧な境界線に立っている。
総じてバケモノ。
しかし……そのバケモノ達が引き起こす事件など大体たかが知れていて、竹林でボヤを起す程度。
幻想郷に何かしら不満を持っている訳でもなく、まして、稗田阿求に恨みを持つなど考え難い。
「つまり結局……何をもってして私に薬を飲ませたのか。そもそもあのような薬を作るのであれば、複数の意思や意
図があったのではないか……か」
ここまで複数人の考察に至った理由として挙げられるのが、蓬莱の薬だ。
あれは永遠の力なくしては作れない類であるという推測がある。天才八意永琳が一人で製薬可能であるとは断定され
ない。藤原妹紅が蓬莱人に至った経緯を考えれば、常備していたとも考えられるが、八意永琳の一存で保存しておける
物とは思えず、姫たる蓬莱山輝夜の許可無しでは、存在し得ないのではないか。
では幻想郷に堕ちてから作成したのか。
「……むぅ」
作り置きだろうと、後から作ったものであろうと、使用して私怨を晴らすにしては……凶悪すぎる。何も理由無く人
間に薬を与えるなど、ありえない。
「ありえない、のかもしれない」
そもそも、八意永琳は蓬莱の薬を作成した事に対して罪悪感を抱いていなかったのだろうか。常識を粉砕機にかけた
ように粉々にして逸脱した狂気を与え、人間種を別種へと変貌させる薬を、何の躊躇いも無く作るのだろうか。
もし稗田阿求へ製薬した蓬莱の薬を与えるなれば、それ相応の理由が無くては誰も納得しない。当の本人たる、稗田
阿求が納得出来ない。いや、理由を知ろうとも、恐らく納得するのは難しいだろうが――
「蓬莱人に、なっちゃったし……理由が解っても……どうしようもないのだけれど……」
本棚へ赴き、永遠亭に関する記述のあるものを見繕っていると、ある一点で手が止まった。
「八意ねぇ……八意……」
カ行の段を前にして阿求は悩むような素振りを見せる。目に付いたのは阿礼が編纂に携わった古事記や、本居宣長著
の古事記伝等、日本神話に関わる書籍だった。その中から想像を巡らせて、永遠亭へと思考をプロセスさせる。
「兎……因幡……永遠亭だから……月……月かぁ」
八意と言えば八意思兼神。天照皇大御神が岩戸に篭った際智慧を絞り、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
が、建御雷之神によって大国主命が国譲りさせられた中津国へと降りる際助言を齎した、智慧の神。
つまり天津神々の参謀。位は高く、初めて高天原に降り立った造化三神、別天津神たる高御産巣日神の御子神だ。
月とこの天津神を結びつける古文書はないかと漁り、神々は地上に愛想を付かせて別世界たる月へと旅立ったといっ
たヨタ話が載るオカルト本を見つけて、投げた。
「ばからし……私、なんでこんなもの集めたのだろう……」
……そこで思考が止まる。古文書など漁って自分を蓬莱人にした理由が見つかる事があるならば、きっと稗田どころ
か外の世界にすら影響を与えかねない大事だ。必要なのは古文書の内容ではなく、自分が八意永琳他永遠亭の者達に恨
みを買うような事をしたかしていないか、と云う記憶を探り当てる事。思考と好奇心が飛躍すると痛い目にあう。
「……蓬莱人……永遠…………はぁ。なんなんでしょうかね……」
阿求は本棚を探る手を止め、そのまま後ろに倒れ込んで大の字になる。
遠くから見つめるばかりであった、非人間の世界。稗田阿求は現在紛う事無くその位置にいる。
「一度、死んでみようか」
昨日霊夢達が慌てふためいた時は、驚きのあまり把握しきれずにいた不死。
今一度確認してみなければと考え、阿求は立ち上がって表へと出る。何故こんな事になってしまったのかを探す事も
重要かもしれないが、今は目の前にある現実を受け止めなければならない。
外は今まさに春。稗田家の庭園には季節に応じた花が咲き誇り、その中でも一本だけ聳え立つ八重桜が見事な華をつ
けていた。本来ならば、あの桜が散る頃には、命潰えていたであろうに……。
「あ、あの……阿求様、どちらへ……」
「オタネ。少し外へ出ます。夕暮れまでには、生きていたならば帰るでしょう」
「生きていたのならばって……」
「難しい事です。私にも実感がありません。だから、オタネも気にせず。ご飯は多めに炊いてください。この身体に
なってから、妙にお腹が減るので」
「はぁ……い、いってらっしゃいまし」
「行ってきます」
縁側から草履を履いて、敷地の外へ出る。まだ昼頃であるから人里は活気が溢れていて賑やかだ。阿求はそのまま、
人里から少し外れた場所にある寺子屋へと向かう事とする。
かけられる挨拶を適当に返し、寝たきりだと知っている人は皆驚き、それもまた適当に流し、ただ目的地へと足を進
める。
たどり着いた頃には丁度昼の休みであったらしく、辺りに緑を生い茂らせる畑や草原の中を子供達が逞しく駆け回っ
ていた。阿求は目に止まった人物へと歩み寄り、声をかける。
「こんにちは、慧音先生」
「おお、こんにち……あ、きゅう?」
上白沢慧音が子供達に向けていた笑顔が、阿求に視線を移した瞬間に曇る。人里の守護者たる上白沢慧音が、阿求の
寝たきり状態の事を知らぬ訳がない。
「寝ていなくて大丈夫なのか……それにしても、やけに血色も良い……それに、微量ながら、魔性を感じる」
「元気になっただけです。妹紅さんが何処か、解りませんか」
「語らぬ気か。まぁ後で歴史を拾うから構わんが。妹紅はそうだな、昨日うちで飯を食って、また竹林に帰っていっ
て以来見ていない。竹林で焼き鳥でも焼いているのだろう」
「ご親切にありがとう御座います」
「ああ」
阿求が慧音に背を向ける。
「阿求」
「はい」
「私は人間の味方だ。お前がどこか可笑しくなっていようと、人間ならば必ず力になる」
「――はい。では」
ゆらりゆらりと覚束ない足取りで遠くなる阿求の姿が、慧音の目には今まで以上に儚く見えた。寝たきりの状態だっ
た頃より、益々。
人間には多すぎる生命力に、藤原妹紅にも似た気配。
不死にして永遠。人間にして最も生命倫理の薄い、蓬莱人の気配。
慧音はそこまで想像して、心の中で舌打ちした。
「竹林か……迷ったら出れるかな」
慧音の助言を受けてたどり着いた迷いの竹林。一度嵌れば抜けられず、下手をすれば妖怪の餌にもなりかねない妖の
領域。単身潜り込むなど、人の身であったのなら阿求とてしなかったであろう。
「人じゃなくなったみたいですしね……迷っても、死なないかな」
踏みしめる笹の葉音に耳を傾けながら奥へ奥へと進んで行く。百メートルも入ればそこは最早異界。四方八方三百六
十度全てが竹で覆われている為、方向感覚など亡きに等しい。
歩いている途中で骸を見つけ、それに手を合わせる
「死ねて良かったですね。名もわからぬ方」
「おや、珍しいお客さんだ」
「――探してました」
合掌を解いて、いざ立ち上がろうとした所に声をかけられた。阿求は、何食わぬ顔でその主を見つめる。
「……気配が可笑しい。お前、稗田阿求、だよな」
「妹紅さんの記憶にある稗田阿求は、もっと小さかったでしょうか。私も、あの頃の自分は好きですよ」
「蓬莱人になると、時間なんて適当になってしまってね。いやまぁ、今も可愛いとは違うけれど、良い女に見えるよ」
「私、女性から口説かれるの初めてで……お手柔らかにお願いします」
「ちょ、何言ってるんだかこの子は……」
「済みません。色々と、考えるところがありましてですね、意味不明な事を口走っているかもしれませんね」
「それで、竹林に迷い込んでどうした。永遠亭に行くのか?」
阿求はその問いを受けると……妹紅の正面に立ち、大きく腕を広げる。
「殺してください。遠慮は要りません」
「成る程」
願いは即座に齎された。
妹紅が言葉を発したが早いか、瞬時に周囲が燃え上がり、揺らめく炎から現れた紅弾が阿求の胸を貫く。
「――痛いですね」
「痛みには強い方みたいだな。宜しく、蓬莱人」
差し出される右手に、阿求が応える。常軌を逸脱したやり取りであったが、二人にはこれが同類を認める儀式に思え
てならなかった。
「永遠亭に乗り込むならタッグを組むか。不死の煙チーム。残機だけは何処にも負けないだろうさ」
「はぁ。でも私飛べませんし、弾撃てませんし」
「まだ成って間もないなら仕方ないだろうけれど、多分直ぐ出来る。何せここは幻想郷だから。意識してみなよ、た
ぶん浮くくらいは出来るから」
「む……」
巫女や魔女が空を飛ぶ光景を、一度見たら忘れない程度の能力から引き出す。鮮明に脳裏に焼き付いている光景を思
いながら、飛ぶイメージを構築し、肉体に通達する。
十センチ浮いた。
「本当ですね……」
「こればかりは才能だな。流石天才」
「今一解らないのですが……蓬莱の薬の効果とはつまり……何なんでしょうか」
「詳しく話すよ。仲間が出来て嬉しいし。憎たらしいし。私の家まで着いて来な」
「はい」
周辺を巻き上げて飛び上がる妹紅に手を引かれ、阿求は空へと舞い上がる。
上から見上げる竹林はなかなかに趣深く、阿求は溜息を漏らした。
「竹林の中は、空を飛んでも上に出れない無間結界みたいなもんだから、手放すと迷うよ」
「……」
竹林を無作為に飛ぶ事約五分。緑の格子の間に、茶色がかった一塊。木造の小屋が見えてくる。
二人はそこで降り立ち、妹紅に導かれるまま阿求は中へとお邪魔した。
簡素な作りの藁葺で、真中に囲炉裏がある以外は目に付く家具など箪笥と葛篭ぐらい。必要最低限以下しか物が無い。
「生活観のない家には憧れませんね」
「私も最初はそう思ったんだけれど、何せ移動が多いだろ。同じ場所に居続けると、歳を取らないから不思議がられ
る。転々と棲家を変えている内、こういうのが基本になっちゃったんだ」
「今は定住でしょうに。物が無いなら何か見繕ってきますけれど」
「そりゃ有り難い。慧音にばかり頼るのは、気が引けていたし」
「面倒見の良いあのヒトの事です。絶対苦には思っていないでしょうし、むしろ歓迎しているんじゃないでしょうか」
「それは嬉しい限りだね。ま、取り敢えずかけなよ。昼からお酒は飲むかい?」
「昨日二十升飲んで、多分一回死にました。酔って記憶がないだけかもしれませんけれど」
「それで?」
「飲みます」
寄越された座布団に乗り、笹のざわめきしかないこの家を見回す。
生命力溢れながらも、生命として足りないものが多すぎる蓬莱人を、形にしたような家だった。
「銘酒、死なせておくれよ。自作だけど」
「鬱々しい名前ですねぇ。自虐ですか?」
「笑ってくれよ。蓬莱人は自虐してグラム幾らなんだから」
苦笑いで隣にかけた妹紅がお猪口ではなく湯のみを差し出してダバダバと注ぎ始める。自作と言うだけあって濁り酒
で、アルコールの度数も強い。
阿求は自分より年下にしか見えない大先輩に勧められるまま、一気に飲み干す。
「喉が熱いです」
「良い呑みっぷりだ。強い方かい?」
「だったのですけれど、昨日から考えるに、弱くなった気がします」
「そう云う事だよ。それが答え」
「んぐ……んぐ……ぷはっ……。はぁ。答えですか」
「あれを服用すると、人間自体の機能が格段に高まる。新陳代謝は活発になって血流はめちゃめちゃ良くなるし、エ
ネルギー消費もハンパじゃあなくなるから、お腹もかなり減る」
「ふむ……へぇ……もう一杯」
「あいよ」
「……つまり、血流が良くなった分酔いも早いけれど、それを肝臓で還元するのも早くなると」
「蓬莱の薬ってたぶん、極端な肉体増強剤みたいな力もあるんだと思う。他に疑問に思った事はあるかい」
「力が妙に、というか自分で自分の胸に穴を空けれるほど、凶悪になりました。それと、浮けます」
「前者は今の説明と一緒。後者は、ここが幻想郷だからって事と、人間から離れたって事が理由だと思うな。人間で
も飛ぶ奴がいるだろう。博麗の巫女とか、黒白魔女とか、メイドとか。アイツ等は人間と言うにはちょっと違う感じが
するだろう。だから浮けるし、弾幕も張れる。それに準えば」
「妹紅さんの説明は、慧音先生より解りやすいですね」
「慧音はフランクには教えられないから。そこが良いのだけれど」
「同感です。フランクな慧音先生は、なんか色々とケバイ印象が」
「あるある」
「もう一杯」
「あいよ」
酒が体と湯のみに満たされて行く姿を客観視しながら、置かれた状況を見つめ直す。
死なない体に、理不尽な筋力と能力。人間のままの頃の能力も引き継いでいる。つまり現時点で稗田阿求とは、死な
なくて力が強くて浮ける程度の能力を有する知識人だ。
死ぬと諦めていた頃が、つい昨日までだと云うのに懐かしく感じた。
死なない、とは終らないを意味する。あまり苦労がある幻想郷ではないが、同じ風景を毎日毎日毎日眺め続けなけれ
ばいけない恐怖がある。生きる事に飽きが来るのだ。
故に長寿の妖怪は常に暇潰しを探しているし、一点を極めようと精進したり、本を読みふけって現実から逃避したり
する事が多くなる。
殊藤原妹紅はどうだろうかと考えると、すぐさま上白沢慧音と蓬莱山輝夜の顔が思い浮かんだ。
日常は慧音で暇を潰し、非日常は蓬莱山輝夜と暇を潰している。
「妹紅さんは、幸せですか」
「なんだ、マジの話かい?」
「蓬莱初心者に生き様くらい語ってくれても良いじゃないですか。聞かせてください」
「幸せだよ。幻想郷は長生きしても白い目では見られないし、ヒトも妖怪も半人も永遠も、暇人同士でくっだらない
思いつきに乗ってみたり、弾幕張り合ってみたり、本気で殺しあってみたり。暇だし、飽きも来るけれど、どうせ終ら
ない生なのだから、日々何か一つでも面白い事があれば幸せさ。何も無い日だって、諦めがあれば不幸じゃない」
ふと、阿求の記憶の一点が揺らぐ。
どこかで一度、こんな対話をしたような気がしてならない。
だが、完璧な記憶を保存できる能力を有する故に、思い違いなどありえない。複数の映像が重なって生み出したデジ
ャヴュだろうとし、自己完結する。
「諦観の境地ですか。いやはや、蓬莱人とは、奥が、深い……」
「本当は元から酒に弱いんじゃないのか、お前」
「……どうだったでしょう……こんな悲しいお酒飲んだの、初めてです……」
「そうかい。どうする、寝てくかい」
「家に帰って、ご飯、食べないと。沢山作ってくださいって、言ってあるんです……」
「……負ぶさりな。送るよ」
「………―――すぅ」
妹紅は、意識を無くして自分にもたれ掛る阿求の顔を撫でて、複雑な表情を作る。
何時の間にか、自分より十も年上の容姿となってしまった稗田阿求を憂いていた。終わりの無い生の始まりを迎えて
しまった女性。
数年は良いだろう。
しかし十数年経つと、周りが変化を起す。自分は変わらず、皆が老いて行く。
数十年経つと、自分は変わらず、過去に見知った人間がいなくなる。
この頃から、狂ったように自殺し始めるだろう。藤原妹紅は望まれぬ子であった為、知る人間も多くはなかったが、
稗田阿求の場合は違う。皆に手厚く支えられて来た人間だ。それはつまり、思い入れのある人間関係が多数ある事を意
味する。
思い入れのある人間、愛する人が老いて朽ち果てる様をもし目撃したのならば、真っ当な神経でなどいられない。自
分も後を追う為に、無駄と解っていて何度も死ぬ。甦る度に自己嫌悪して、それを繰り返す。
百年経った頃に漸く諦めがついて、新しい生活を歩もうとするだろう。
この過程からはまず、逃げられない。元より諦めのついている人間ならば良いが、ある日突然不死になったのならば
覚悟も何もない。
幸い、ここは幻想郷だ。人間は死せるとも、妖怪の類は、皆変わらず同じ容姿同じ調子。
妹紅は……そんな阿求を少しだけ羨ましく思い、新しい仲間を歓迎した。
二、飲んだくれ
稗田阿求が目を覚ました頃には、もう外の風景は闇に隠れ、まんまるの月が地上を見下ろしていた。
辺りを見回せば見覚えのある家具に装飾。自分の部屋である事を確認して、阿求は廊下へと出る。
「オキク、私はどうやって帰ってきましたか」
「阿求様。はい、銀の長い髪をした少女が阿求様を背負って」
「ありがとう」
女中に自分の経緯を確認し、居間の食卓へと向かう。
そこで出くわしたのは、隠居していた両親だった。
「阿求、座りなさい」
「そう睨まないでください。私はもう子供じゃあないんですから。三十路前ですよ」
「子は何時まで経っても親の子なの。屁理屈を捏ねないで座って頂戴」
「はい」
阿求が可笑しいと聞き及んで現れたのだろう。無骨な印象のある父は顎鬚を擦りながら阿求を睨み、母は静々とお茶
を飲んでいる。二人とも六十を前にしているが、大分若い印象がある。
「転生の術の準備はもう済んでいる筈だな」
「準備は子供の頃から進めていましたよ」
「寝たきりであった筈ね」
「それはもう瀕死でしたからね」
「では、何故今も元気で儂達の前にいるのか。死ぬ間際に、いや、別にな、元気で居るには構わないのだが」
「はぁ……まぁ、色々とありまして」
「元気になったのならそれで構わないし、子が元気で悲しい親は居ないわ。でも、驚くでしょう?」
「お母様の仰る通り、不自然ですね」
「では、何故そのように元気なのか……うあっちち……んぐ、阿求、隠さず話なさい」
父がお茶を啜り、熱さに驚いて慌てふためくのを繕いながら言う。
果して、どのように説明すべきなのかと考え、阿求はその熱いお茶で閃いた。
「お父様、お母様、見ていてください」
湯気立つお茶を、晒した腕に撒ける。煎れ立てのお茶など引被れば熱いどころでは済まない筈だ。案の定皮膚が真っ
赤になり、驚いた父がすかさず女中を呼ぶが、阿求はそれを制止する。
「ほら、この通り」
掌で一撫ですると、腕は元の白い柔肌へと戻る。両親は唖然として、阿求を見つめた。
「ご説明すると、長くなります。人は肌の三割を火傷すると大変な事になるそうですけれど、私には何の意味もなく
なってしまいました。今はお腹が空いているので新陳代謝が悪くて回復も遅いですが、栄養があるなら即座に痕もなく
なるでしょう。私の体は、死を否定しています。お父様、お母様」
ハトが機銃掃射されたような顔の父は……頭を振って立ち上がり、己の娘に歩み寄る。火傷した筈の阿求の腕を触り、
眺め、力なく尻餅をついた。
「な、何故そのような力を……阿求、お前は、何になった。妖怪にでもなったのか?」
「厳密には違うでしょうけれど、そう呼ばれても違和感はありませんね。心の臓を穿たれようと、私は死にません。
なんでしたら、お父様もお母様も、阿求を刺し殺してみてはいかがでしょうか」
酷く冷めた物言いだった。
蓬莱人になってしまったのなら、もう少しぐらい動揺しても良さそうなものであったが、阿求にはそれがない。不死
性を持つ人間や妖怪が近くにいた為鈍ってしまった訳でもない。諦観を持っている訳でもない。
何度死んでも、傷つけても、信じられないのだ。だから実験のように己を痛めつける。そこにある感情はかなり薄い。
そんなものを見せ付けられた母は立ち上がり、阿求の頬を引っ叩く。
「痛い……」
「痛いならそんな事をするものじゃないわ。アナタの身体が可笑しいのは解ったから、自分を傷つけるんじゃないの。
自傷癖がお友達になるような子、妖怪だろうが人間だろうがうちの子供じゃないわ」
「済みません……」
「まだまだおこさまね、アナタも」
「はぁ……」
「どうしてそうなったかの経緯は不問としても……アナタ、随分冷静ね」
「突然だったもので、自覚がありません。まだ、この状態からは抜けれそうになくて」
「……。死なない、と言った?」
「通例からすると、そうです。実験もしました。胸に穴を空けても死にはしません。恐らく、木端微塵にされても、
肉体を再構築出来ます」
「そう。阿求は死なない子になったのね。では、稗田はどうするべきだと思う、当主(阿求)様」
「む……」
蓬莱の事に気を取られていて、すっかり失念していた。
稗田家は、稗田阿礼の転生体の受け皿として存在する。常に二人の子を残し、転生が決まればどちらか一方の夫婦の
子に阿礼の魂が宿る。阿求の代は阿求一人であった為に兄弟は居らず、次の稗田をどうするべきかと決めかねていた。
しかし、そんな時に阿求本人が死なない人間となった場合、稗田家はどうするべきか考える必要があるだろう。
当然誰も予測していないし、考えもつかない事態であるから議論の点が零から始まるが。
「……四季映姫様がそのうちいらっしゃいますでしょう。その時にでも」
「賢明な判断ね。閻魔様も優秀な書記が降りてこなくなって寂しがるでしょうに」
「お、お前達そういう問題なのか……?」
「あなた。なってしまったものは仕様がありませんわ。読んで字の如く、仕様がないんですもの、この子」
「そ、そうだが……」
「娘は元気になって、私達より先に死なない。阿求はどうか知りませんけど、親としては嬉しいわ」
「む、むぅ……」
「帰りましょう。阿求、春といえど夜は冷えますから、ちゃんと毛布をお腹にかけて寝るようにしなさいね」
「はい、お母様。それではまた」
「ほら、あなた。さっさと立って頂戴な」
「こ、腰が抜けてだな……」
「頼りない……幻想郷の男はこれだから」
「ああ解った、解ったからその長い講釈は止めてくれ……」
母は父に肩を貸してから、一度会釈して居間を出て行く。
阿求はほっと胸を撫で降ろしてから、撒けたお茶を拭く。
この歳になっても、やはり母は怖い。一体どんな叱喝が待っているかと恐れていたが、思った以上に理解があった。
母とはやはり強いものなのか、と。この歳で子も居ない阿求は自分が母親になった姿を思い描く。
「オキク、オキク?」
「はいはい。いかがなさいました」
「冷えてて良いから、お夕飯を下さい。お腹が空いて倒れそうです」
「はい、ただいま」
蓬莱人としての悩みも、今後の稗田家の悩みもあるが、まずはご飯だ。藤原妹紅が説明した通りの法則で、栄養が体
に行き渡っていないと回復も遅くなるらしい。
今後幻想郷を歩き回る事を考えると、死なないにしても、やはり腹はふたいでおきたい。
阿求は出されたご飯を、中空を眺めながらもしゃもしゃとやり、今晩から一端家を出ようと画策していた。
・
・
・
・
・
本来、客観から見つめて歴史と照らし合わせる事で物事の整合性を図る稗田阿求の行動原理は、現在それに基づいて
はいない。
何もかもが主観で手探り。
曰く一つの事象が人間の性格に多大なる影響を与える可能性を秘めていると言うのならば、蓬莱の薬などと云う冗談
にもならない代物によって齎されたこの出来事は、稗田阿求に変革を齎してあまりあるものであろうし、仕方の無い事
だろうと、本人は考えをそこで落ち着かせる。
「私一人が変わろうとも、世の中、もとい、幻想郷は変わらない」
月明かり降る夜空の下で、当たり前の事をさも重要そうに呟いてみる。当然意味などなかったが、自覚しきれない力
とやり場の無い感情を発散するには、丁度良いセリフだった。
何故丁度良かったかといえば、それを使うに適当な場面へと出くわしたからだ。
「人里を離れた人間は、食べられても文句はいえないんだよ」
雀はそう鳴いた。
自分ひとりが変わろうと、死に絶えようと、世は廻り繰り返す。なんと感傷的で取り留めの無い言葉だろうか。この
世で最も無意味な問いで、必ず自覚しておかねばならない、庶民の心得。
危機に遭遇すると、人とはなかなかに観念的な価値観を持ちたがり、口にしたがるらしい。
まぁ、死なないのだけれど、と阿求は付け加える。しっかりと、己に自覚させるように。
「食べても構いませんが、復活時に腹の中を突き破って出てくる、という可能性だけ、示唆しておきます」
「はぁ?」
「やはり鳥は鳥か。ほら、もう少し臭いなりを嗅いで見ると良いでしょう。たぶん、美味しくない臭いですよ」
「む……」
雀は阿求の前に降り立ち、少女体には似つかわしくない、動物的な行動をもってそれを確認する。数秒の間をおいて
から、ミスティアローレライは良く解らない、といった顔をした。
「神仙を極めんとする修行者の肉ならば美味いでしょう。ただの女も肉は柔らかいから美味しいでしょう。けれど私
はどちらでもありません。貴女達の好物たる修行者の肉でも、ただの女の肉でもない。それでも試食しますか」
「不気味な人間」
「そうでしょうとも。お腹壊しますよ。ところで、今日はどういった御用時で」
「ん。ほら、鰻」
ミスティアは袋に詰まったうねうねを阿求に見せる。
「時期じゃないから、探すのも大変だったの。腹いせに人間でも襲おうと思ったのだけれど、あったのが貴女だった」
「鰻は、秋口が美味しいですもんね」
「取れないわけじゃないしねー、でも鰻屋だしねー」
「普段はどうなんですか」
「たまにヘビとか混ぜてる」
「乱獲には気をつけましょうね。次の年の漁獲量が減りますよ」
「ナニソレ。それより、なんか貴女食べる気も失せちゃったし、これからお店開くんだけど」
「なるほど、客引きに切り替えましたか。えぇ、なんだかお腹が直ぐ空くようになりましたし、寄って行きます」
「店で出してるお酒は人間の飲むお酒よりキツイのしかなかったりするけれど、大丈夫?」
「食べようとしていた人間の心配なんて無用ですよ」
「そいじゃ、一名様ごあんなぁい」
なかなかにしたたかな商売根性だと、客商売もした事のない阿求が感心する。
「蒲焼がいいかな」
若い頃から妖怪に接するようになり、幾分か食人衝動の強い妖怪とのコンタクトにも慣れていたが、今日ほどそれを
複雑に思った日はない。確かに恐怖ではあったが、それ以上に感情が混沌としている。
自覚出来ない自覚出来ないと口にしながら自覚する事を願い、自己暗示するよう心得たお陰かは知れないが、不本意
ながら丸一日にして大分不死が板について来たと、己にこじつける。
……母の言葉は重たいが、傷つけるな、と言われても難しい。
自覚したいが、自覚したくない。自棄にはなりたくないが、諦めているかもしれない。
今は考えても仕方ないとして、思考を放り投げる。阿求の人と蓬莱人の境界は、まだまだ曖昧だった。
「みすちー、きたよー」
「おはりぐる。ちょいと待ってて頂戴な」
「あ、おつまみは人間なの?」
「美味しくないらしいよ」
「そーなのかー……」
「そんなことよりツケ払ってよ」
「お、お給料までまってー……」
「るーみゃ……働いてたんだ……」
ミスティアに連れられてたどり着いたまだ明かりも灯らない屋台には、既に先客が居た。闇と蟲女王は稗田阿求を見
かけると不思議そうな顔をしたが、人間がこない事もない屋台なので直ぐ興味を失う。阿求もさして気に止めず、二人
の隣に腰掛ける。
「ルーミアどこで働いてたのさ……」
「人里の妖怪かふぇ」
「お客さんを(食欲的な意味で)食べたりしてないよね」
「齧ったら店長には怒られたけど、お客さんには何故か大ウケで、名物にー」
「へぇ。不思議な趣向のニンゲンもいるもんだ。ところで店長は誰なの」
「うさぎ」
「そのうち摘発されそうなお店だね」
「リグル、ルーミアよりアンタの心配しなよ」
「ぐっ……」
「虫の知らせサービス何回目よ。もっとお金になること考えないと」
「し、至上の目的は蟲の地位向上だから、お、おかねは二の次三の次だよ」
「結構な事でしょう。人に交わり活動する事は、理解を深める第一歩です。長い道のりでしょうが」
「ああ、貴女はニンゲンなのに良く理解してる……どうです、一緒に蟲革命を。あとこれ幻想郷に一石を投じる虫さ
ん主義読本です。一冊どうぞ」
「なんか嫌なかくめいなの……」
「はいはい、社会の縮図みたいな会話は言いから、何か頼んでよー」
「お二人とも、好きなものを頼んでください。おごりますから」
「おー」
「おーー!!」
普段そうそう会話など交える類の妖怪ではなかったが、いざ話を聞いてみればよくよく面白いと阿求は思う。幻想郷
が破綻しかけた百数十年前からは、考えられないものだ。
博麗大結界のお陰でもあるだろうし、八雲紫や上白沢慧音のようなバランサーが支えているからとも言える。人間を
離れてからこんな事を実感させられるとは思いも寄らなかったが、人間と妖怪の調和が取れているならば非常に喜ばし
い事だった。その中に、少しでも稗田の役割が携われていたのならもう言う事はないのだが。
稗田の役割。幻想郷の歴史を後世に伝えていく事が至上だが、それは同時に幻想郷の新しい平和を望んで積み重ねら
れて来たものだった。前の代の日記や手記を見ても、その辺りをかなり憂う文言が連なっていたと阿求は記憶している。
では現在どうなのかといえば、かなり安定している。上白沢慧音は人と妖怪を取り持ち、歴史を教えて子供達に勉学
を教えているし、その中から歴史に興味を持つ者が出てくるに違いない。実際、もう出ていたか。
そうなれば、今まで一人しかいなかった歴史の記録者が、多数に増える。増えたものはそうそう減らず、稗田の役割
は薄れる。
……九代目にして子供が自分しか生まれず、しかも永遠となってしまったのは、何かの因果だったのかもしれない。
「それではミスティアローレライ、一曲歌わせていただきます。デト○イトメ○ルシ○ィより、S×TSU×AI」
「私、テ○ラポット○ロンティがいいなぁ」
「いえー、ふぁっきんくれいじーもつなべー」
「あは、あははは……」
酒の席で不毛な思考だったか。阿求はお酒をチビチビやりながら、デス声に耳を傾ける。
意外と良いんじゃないかと思ったのは、蓬莱の薬の所為にしておけばいい。
・
・
・
・
・
「毎度ありー、またご贔屓にねー」
「ふぁい……ふふ、ふふふふふ、あははははは!!!」
「うわ、この人間酒癖悪いよ」
「食べてもいいかしら? いいかしら?」
「どうだろう。美味しくないって言ってたし。おごってもらったし。お腹一杯だし」
「そーかぁ。この人、おうちどこなのかなー」
「ぶぇーつに、どこでもいいですよ……おうちは幻想郷です……うふふふふ」
「だってさ。なんかさー、こんな人前にもいなかったっけ」
「いつー?」
「結構前だけど、皆で飲んだ時かなぁ。その時もルーミア、食べていいかって聞いたような」
「デジャビュなのかー」
「難しい言葉知ってるんだね……んー、博麗神社だっけ」
「お花見かなぁ」
阿求を肩にかかえたリグルは、酔いもある頭でよく考えるが、あまり記憶は明るい方ではない。ルーミアは何かしら
覚えていたらしく、阿求の顔を覗き込んではヨダレを垂らす。
「雰囲気は似てるんだよなー」
「人間は成長するよ。不思議ー」
「そうだった。じゃあ同一人物かな」
「臭いは同じだねぇ」
「ルーミアが言うならそうかな。はぁ、どうしよう、この人」
「ん……うう……ああ、気分が良いですねぇ……永琳の馬鹿野郎……」
「そうそう、薬屋もいたね、あの時」
「私が言うのもあれだけどー、会話が支離滅裂ー」
「難しい言葉を知ってるんだね……」
「ループしてるよー……」
困り果てたリグルにルーミアが声をかけて、自分の一・五倍はあるであろう阿求を背中に背負った。
「じゃあ博麗神社においてこようかぁ」
「ルーミア、そっちだものね。私は向こうだから」
「それじゃあねー、またねー」
「お仕事頑張ってね、それと食べちゃだめだよー、たぶんー」
「うんー」
妥当な選択だとして二人は別れる。所詮人間とはいえされど人間。こんな夜道に放りだしておく訳にもいかず、おご
ってもらったのだから多少の恩義はある。ルーミアが棲家にしている場所も度博麗神社の裏手である為に都合は良かった。
「そういえば、名前きいてないねー」
「阿求です……ふふ、稗田阿求。御歳二十七の、蓬莱人ですよーだ」
「あー、しってるー。人里の偉い人、だっけー。でもおうちは知らないや」
「偉いかどうかはしりませんけどねー、名前は有名ですねー……」
「神社においていくけど、いいー?」
「神社ですかぁ……お花見してませんかね……あははっ」
「今度するってきいたよー」
「そうですか、そうですか……」
会話にならない会話を交え、やがて博麗神社境内に辿り付く。満開の夜桜は見物であったが、現在見物人は居ない。
桜とてお酒のつまみ。お酒のない所で幾ら桜が咲こうとも、虚しいだけなのが幻想郷だ。
「それじゃあね、またおごってねー」
「はぁい。おつかれさまー」
一人取り残された阿求は境内をふらふらと歩きまわり、やがて一本の桜の根元へ赴くと、そこへペタリと腰を降ろす。
呆ける頭で自分が何をしているのか総括しようと、夜風に流されながら目を閉じる。
――。
昨日から、酒ばかりだった。
現実逃避も甚だしい。
自覚しろ自覚しろと言い聞かせる必要があったかも、正直な所意味があったのか解らない。そもそも肯定して良いも
のではないだろう。死なないなんて嫌だけれど、死ななくなってしまったのだから、自分の命を軽んじてみようと思っ
て行動しただけで、根本的な理解などしていない。
総合的に見れば、諦めている、振りをしているだけ。
お酒の力を借りて、それを無意識に考えないようにしていただけだ。逃げも極まっている。
現実はもっと非情で苦しい。何せ死なないのだ。終わりが見えないと想像するだけで気が狂いそうになり、頭をかか
える他ない。
「くっ……」
歯を食いしばり、もう一度思考する。
自分の本来の目的は。そう、何故八意永琳が自分へ蓬莱の薬を与えたのか、原因を究明する事。
何も酒ばかり飲んだくれて腐る事じゃあない。あっちこっちほっつき回ったって仕様が無い。妖怪と酒を酌み交わし
て得られるものだって、稗田の必要性を疑う心だけだった。
では誰に聞けばいいのか。誰が答えを持っているのか。あの八意永琳が直接話してくれる筈などない。
しかしヒントはあった。最初に永琳が口にした言葉がある。
『頭の良い貴女なら、覚えていると思ったのだけれど。答えはお預けのようね』
必ず、経験している。この言葉に嘘は感じられない。
必ず、どこかで恨みを買った。自分が記憶していない記憶なんてあるのかと、過去の文献を漁って、そこからまた現
実逃避をし始めて――
「……稗田さん。水」
「……霊夢さん」
思考が一端停止する。
柄杓を持って阿求を見下ろすのは、阿求よりも幾ばくか年上の巫女。
阿求の記憶がもっとも濃い時代の霊夢とは違い、その落ち着いた雰囲気には母性を感じる。未婚ではあるが、八雲紫
が選定した次期の巫女を育成しているからだろう。
「隣、いいかしら」
「貴女のおうちですから、幾らでも」
阿求は自分の自堕落な姿を少しばかり恥じて身を正す。寄越された水に口をつけて、溜まったものを吐き出すように
溜息を吐いた。
「稗田さんって、美人よね。その姿でもう、歳を取る事も無いんだ」
「博麗の巫女が何を。神人合一にも六道輪廻にも逆らったこの身、何も良い所などありませんよ」
「……あまり気にしなかったのだけれどね。回りの奴等、皆歳取らないもの。咲夜くらいかしら」
「ミニのメイド服は厳しい歳でしょうけれど、美しい方ですよ、あの人も。それに貴女も。人間は自然に逆らうもの
じゃありませんよ。まぁ転生人から蓬莱人になった咎人たる私が言うのもなんですが」
「若い頃の服、結構気に入ってたのに。きっと咲夜も嘆いているでしょうよ。ミニが履けないって」
「なんだか的を得ない会話になりましたね。それで、どうされたんですか」
「不謹慎な話よ。まだまだ若いって思ってても、魔理沙や他の連中にはついていけなくなって来たし。意識してこな
かった分、意外と直面すると酷なの」
「霊夢さんは、幸せではありませんか。少なくとも、貴女のご友人方、それに私なんかも、貴女がどのようになろう
と親しく思っています。後継ぎの養育とて、それは幸せの部類には入りませんか」
「こういう話は苦手だけれど。そうね、幸せよ。私は生涯楽園の巫女だもの。あの子達も、うちの子も、霊夢霊夢と
慕ってくれる。別に歳なんてどうでもいいけれどね、ただ、有限だと思うと怖いの。これも、昔は考えもしなかった事
だけれどね。私、怖いもの、なかったから」
「では霊夢さん。たとえ話をしましょう。貴女がもし、突如蓬莱の力を手に入れたのなら、どうしますか」
「永琳ぶっとばして、そんなもの全力拒否するわ」
「それじゃあ前提が破綻するじゃないですか」
「……むぅ。そうねぇ……。普段通りよ。普段通り、皆と適当にして、修行させて、境内でお茶を啜る」
「……普段通り、ですか」
「当人たる貴女はどうなの。蓬莱人になって、何か思い切ったことをしてみた?」
「たらふくお酒を飲んだ事くらいでしょうか。後は、試しに死んでみました」
「どうだった」
「果てしなく、虚しかったです。今も、その虚しさに打ち震えているところで霊夢さんが来ました」
なんだかあまりにも気恥ずかしい話に、年甲斐もなく顔を真っ赤にさせて伏せる。何か規範がある事象でもないので
あるから、どこからどこまでが常識かなどの判断基準はないが、日常を望む者と自分の命を実験に使う人間では、後者
の方が明らかに非倫理的で不道徳だ。
結局、意思力の強さも理想も現実も、この博麗霊夢には何一つ敵わない。母の言葉が身に染みる。
「そうですよね。自堕落、いけませんよね」
「飲んだくれるより生産的な事はあると思うけれど。それで、昨日話していた話はどうなったの?」
「はい?」
「だから、魔理沙とアリスと私と、大酒かっくらってべろんべろんになりながら、話していたじゃない。永琳が阿呆
で馬鹿でどうのって」
「そんな話しましたっけ。私が直接見聞きしたなら、全ての事象はありのまま私の記憶の中に――」
自分の言葉に、酷い違和感を覚えた。
「結構凄い事言っていたけれど」
――記憶に、ない。
阿求は何かしら気がついて、目を泳がせる。真に迫るものであると、解っているが続きを口に出来ない。
「稗田さん? ああ、覚えていないのね。たしかー、何で私の記憶は見た事全部覚えているはずなのに、欠落がある
んだとか、言ってたじゃない。で私が、それ酔っ払ってたから覚えてないんじゃないのって」
「そ、そうです。それ、それです。わ、私は……私は、あの、八意永琳と、お酒を飲んだ事、ありましたか? 重要
なんです、教えてくださいっ」
阿求に肩をつかまれ揺さぶられる霊夢は、何がなんだか解らない、といった様子だが、取り敢えず手を離して落ち着
けと諭す。
「どうかしら。何せ、貴女も永琳も花見に来ていた事は確かだったと思うけれど、その中で二人が話している姿なん
て、流石に記憶にないわ」
「お花見……お花見ですか。同席した可能性は、あるんですね?」
「詳しくは知らないわよ。そこまで完全に覚えている人間なんて……ああ、ほら、アイツなら」
「だ、誰ですか!?」
「自称幻想郷の歴史を全て把握している、ワーハクタク。アイツも妹紅と一緒に花見には来ていたし」
「け、慧音先生……ああああ、ありがとうございますっ」
阿求は即座に立ち上がり、霊夢に何度も何度も頭を下げる。
「そうか、そうか……そうかっ」
完璧な記憶の欠損。無いのも当然だ。寝ている間と、心神喪失状態の間は、記憶などある筈が無い。幻想郷歴史編纂
者稗田阿求の、最大の盲点。己が能力を過信するあまりに基本的な事を失念していた。
酔いなど一撃で吹っ飛ぶような脚で境内を駆け抜ける。人里まではかなりあるが、非人間となった凶悪な身体能力が
俊足の走りを可能にする。
そして、何時の間にか走る事も億劫となった時には、空を浮いていた。
着実に非人間への道が開かれて行く。阿求は自分の記憶で頭が一杯であり、体面など気にしてはいられない状態だが、
蓬莱によって得た力は、その無意識の中で覚醒して行く。
「今日は……満月っ」
ワーハクタクが全ての歴史を語れる日。
人としての身を失った理由を見つける為に、蓬莱人は幻想郷の夜空を飛ぶ。
つづく
なの脱字では?
>天邇峡志国邇峡志天津日高日子番能邇邇芸命
峡→岐の誤字では?
あと邇は迩の旧字なので、新字に直すか、または国・芸も國・藝に直して揃えた方が良いのでは?
私も後編で入れることにします。
少なくとも前半だけを今見て判断ができません。
しかし…なんというか発想が凄い。 では今から後編へ