Coolier - 新生・東方創想話

虫のようなもの

2007/06/16 20:30:02
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※グロテスクな表現が使われています※




 疲れた。


 屋敷にたどり着いた鈴仙の最初の思考は、その一言に尽きた。朝靄にけぶる永遠亭を早朝に出発し、それから昼を過ぎて夕方を通り越し、用事を全て終えて帰り着いたのがこの時間だった。用事と言っても師匠から頼まれた品物を購入したり採ってくるだけのものだったのだが、如何せんその範囲が幻想郷全体まで広がっていたのだ。おまけに各地で巫女や魔法使いたちとなぜか弾幕ごっこを繰り広げる羽目になったので、肉体的にも精神的にも疲弊する一日となった。


 月から放たれる艶めいた光に包まれた屋敷に帰ってから、一番に師匠の部屋まで担いだ荷物を届けに行った。本人は実験中なので手が離せなかったけれども、「お疲れ様」という労いの言葉と目的の物品を見た時の嬉しそうな顔を見ると、音も無く身体の疲れが蕩かされるような気がしたものだった。


 夕食の時間はとっくに過ぎているのだが、片付けに何匹か残っているだろうから、頼めば軽く夜食ぐらいは作ってくれるかもしれない、そう思って鈴仙は壁に掛けられた蝋燭が仄かに照らす廊下を歩いていった。足を踏み出す度に廊下がぎしぎしと音を立てるが、疲れと身体の痛みが全身を支配しているためにあまり気にならない。


 やけに奥まった場所にある台所へとぶらぶら歩いていた鈴仙は、ふと通りがかった部屋に姫―――蓬莱山輝夜の姿を見た。失礼とは思いつつも障子の隙間から覗いてみると、姫は縁側に腰掛け、何をするわけでもなく外を眺めていた。ああそうか、と鈴仙は思った。


 今日、満月だっけ、と。いつも姫はこの日になると夜はずっと月を眺めたまま過ごすのだ。


 そう考えると、胸をちくりと刺し、錘のように重くのしかかる嫌な物が鈴仙の中で発生した。懐かしい故郷の事を考える度に胸は疼き、頭は痺れるような感覚を味わう。これが具体的にはどんな感覚なのか、鈴仙はあまり知りたいと思わなかった。疎外感、無力感、恥辱感、罪悪感―――いずれにせよ、歓迎したいものじゃない。


 そうして入り口に座っていると、唐突に輝夜が鈴仙のいる方を振り返った。しまった見つかった、と思ったのだが、咄嗟のことで頭が回らず、鈴仙に出来るのは障子から距離を取ることだけだった。当然のように、それだけで姫の目を逃れられるわけがない。


「こっちに来なさい、イナバ」と、よく透き通るような声で姫は言った。命令されてしまっては従わないわけにはいかなく(てゐなら聞かなかったフリをして逃げ出しそうだが)、鈴仙は「失礼します」と言っておそるおそる障子戸を開けた。


 そこはどこか、別世界のように感じられるような部屋だった。障子戸の向こうもこちらも永遠亭であるはずなのに、襖一枚越えただけで自分自身が別次元に飛ばされたように思えた。輝夜は月から降り注ぐ朧な光に照らされ、その姿を夜気に晒していた。彼女は世界の果てで一本だけ孤独に咲く花のように、なにやら非現実めいた美しさを持っているように鈴仙は感じた。それどころか、その存在すらありえないと思えるような危うさすら感じられた。この人は姫の形をした幻なのだ、生きてさえ死んでさえいないのだ、だからこれほどまでに美しいのだ、と。


 輝夜はゆっくりと鈴仙を手招きし、彼女はそれに応じた。


 縁側の、輝夜が腰を下ろしている隣に正座する。この場所では空の中にある白い物、姫にとてもよく似た美しさを持つ満月がよく見える。妖怪にとってのより所となる代物、姫や師匠が生まれ育ち、そして自分の故郷でもある場所。


 そして自分が仲間を見捨てて逃げ出してきた所。


 胸がちくりと痛んだ。さっきよりも痛みは大きく感じられた。


「月を、見ていたのよ」


 ぽつりと姫がもらした。どこか寂しげなようで、今にも枯れそうな花を思わせる口調だった。鈴仙は黙って姫の話に耳を傾けた。


「ここからだと月がよく見えるの。あんなにちっぽけで、あんなに遠くて、あんなに高い所にあるのにね」


 そう言って姫は、遠い過去に思いを馳せるような虚ろな目をした。身じろぎ一つせず、ただ月を、憑かれたように眺め続けた。鈴仙は無言だった。月の美しさと輝夜の美しさ、両方に魅せられていたからだ。いつもは不健康そうに見える青白い顔も、今に限ってはその美しさを際立たせる要素にしかならない。


 ふと輝夜は鈴仙の方を向いた。その時、鈴仙は姫の瞳の中にあるものをここではないどこかで見た事に気付いた。


 自分が月から逃げてきたことを話した時、姫と師匠はちょうど今のような目をしていた。哀れみと悲しみが入り混じったような瞳。全てをすっぽりと飲み込み、そのまま暗黒の淵へと押し流してしまいそうな瞳。四つの奈落のような目は、けれども前足が千切れた子犬を見るような目つきで鈴仙のことを見ていた。


 今も、目の前の姫はそうした悲しそうな目で鈴仙を見据えている。


 まるで内臓がはみ出て死に掛けた烏を見るかのように。


 まるで檻の意味も分からず中をうろうろと這い回る哀れな生き物を見るように。


 まるでこれからの幸せな未来が本人の知らないうちに閉ざされていた者を見るように。


「………姫?」


 その時間があまりに長いので怪訝に思った鈴仙が声をかけると、姫は鈴仙から目を逸らし、もう一度月にそれを向けた。そのまま長く、細いため息をついた。輝夜は目を閉じ、長い時間をそのままの体勢でいた。五分にも十分にも感じられるような時間だった。まるきりほったらかしにされていた鈴仙はその間、竹林から聞こえる虫の鳴き声や葉っぱがざわめく音、そして妖怪があげるだろう鳴き声を聞いていた。近くにいるのか、フクロウの声も一緒に聞こえてきた。


「私の過去については、確か話したことがあると思うけど」
 何気ない口調で姫は口を開いた。
「あなたには、どこまで話したかしら?」


「え、と………」


 首をかしげて考え込む。


 永遠亭の主人、永遠のお姫様、蓬莱山輝夜、月で師匠と一緒に蓬莱の薬を飲んだ罪人。その後蓬莱の薬を飲んだ罪で処刑され(そこまでして薬を禁忌にする必要があるのか、鈴仙には理解できなかった)、それでも死なないために地上へ放逐された。やがて罪は償われたこととなり、月からやってきた使者と一緒に月へ帰ることとなったのだが、その人間たちを全員殺害して師匠と姫は逃亡。やがて永遠亭にたどり着き、今の生活へ。


 ざっと思い返してみたが、一通り聞いているとは思っていたから、そう返事をした。輝夜はどこか見透かすような目をして鈴仙を見た。その様子を見てなぜか、鈴仙は背筋を這い登る冷たいものを感じた。


「私が蓬莱の薬を飲んだのは、何億年前かしらね」


 そう切り出して、姫は話し始めた。


「永琳と私、どっちが先に蓬莱の薬を飲んだのかしら。果たして私だった気がするし、永琳だった気もする。もしかしたら両方同時だったかもしれないけど、まあそんなのはどうでもいいわね。私は永琳に処方箋を渡した。永琳はそれを読んで薬を作った。私と永琳がそれを飲んだ。それで十分だもの。


 私が薬を飲んだことはすぐにバレたわ、何が原因で暴かれたのかは未だに分からないんだけどね。王族警護の人間が物々しい数でもっていきなり私を捕まえようとしたから、もう驚いたわ。私はその時御付の人間と永琳を交えて一緒にお茶を飲んでいたの。御付の人間は半狂乱になって止めようとしていたわ。彼女は機密保持のために埋められたと思うけど。


 私は彼らによって処刑された………少なくとも、彼らはしようとした。処刑隊の人たちは何発矢を放ったかしらねえ。だって私はいくら射られても死なないんだもの。頭、目、鼻、心臓、色々なところに刺さったわ。鏃がなかなか抜けなくて、たくさんの棒が体から生えたようだったわ。傍から見たら笑えたかもしれないけれど、私としては痛みと痺れで心臓が止まると思ったわ。傷が治っても痛みだけはじくじくと、腐乱するように長く続いたの、うふふふふ。三十分も続けた所で、処刑隊の隊長が中止したわ。彼の声はまるで子猫みたいだった。矢の隙間から見えた彼の顔は青ざめて、まるで化物を見るように私を凝視していたわ。


 そのまま私は幽閉された。どれだけ手を尽くしても死ぬことが無い私をどうするか、最終的な処分の間の仮住まい、というところね。私が住んでいた宮殿の離れには大きな塔があるの、そこに入るまでは大きな見張り台ぐらいにしか思っていなかったんだけど、どうやら牢獄も兼ねていたみたいでね。そこの地下に連れて行かれたわ。地下百階ぐらいかしらね。とにかく暗かったわ。明かりは豆電球のようなものが一つっきり、食べ物や便所のことよりも、私は暗いということを心配していたし、何より怖かったわ。


 最初のうちは父がやってきて、何回も私を殴ったわ。泣き出しながら、馬鹿な娘だ、お前は本当に馬鹿な子だ、ってね。うんざりするぐらい馬鹿馬鹿って繰り返すのよ? そのうち次に何を言うか予測できるようになっちゃったわ。一度、杖で目を突かれたことがあったんだけど、すぐに再生するのを見て彼は失神したわ。失神したいのは私も同じだったんだけど、あはは。そうして二度と来なくなった。あの顔ときたら傑作だったわ。臆病と愚鈍を足して2で割ったみたい。地獄を這い回る亡者みたいだったわ。


 そのうち私は幻覚を見始めた。最初に永琳、次に父、それと月の全住民。現れた面々は口々に私を責め立てるのよ、お前は王族最大の恥だ、おぞましい化物だ、禁忌に手を出した人非人、犬畜生にも劣る最低最悪の罪びとだ………ふふふ、私から見たら彼らの方がよっぽど人非人だったわ。たかが不死身程度でこの仕打ちだもの、ままならないものね。


 私は発狂した。というより、発狂したと自分じゃ思ったわ。気がつくと叫んでいる時が何回かあったわ。手や足につながれた鎖をじゃらじゃら鳴らして、助けて下さい助けて下さいって夜中の間ずっと泣いていることもあったわね。漏らした小便を必死に舐めようとしていることもあった。私が騒いでいる時、いつも衛兵は部屋に入ってきて私を笑ったわ。どういうわけか月にはあまり娯楽がないの、ちょうど私は腕が四本ある男と同じような見世物だったのね。それから蝋燭の炎だけが照らす中、代わる代わる私を殴りつけたわ。ごつんごつん、手にした棒切れで何発も。もっと酷いことをされたこともあるわ。あなたが聞いた途端に気絶してしまいそうなことも。まるで拷問だったわね。


 まあ、それまでは仮にも王族だったけど、二度と日の目を浴びないんだから衛兵どもにとっては関係ないと思ったんでしょうね。事実、彼らがそこにいる間には咎めらしきものは一切無かったわ」


 淡々と、鈴仙と一切目を合わさずに、何も感情らしきもの―――例えば怨讐とか―――をまるで持たずに輝夜は言った。鈴仙は自分の聞いている事柄が、姫の話した事実がまるで信じられなかった。輝夜様が蓬莱の薬を飲んだことは知っている。後に地球に送られたことも知っている。しかし、その間に………そんなことが、まさか………


「信じられないんでしょうね」と輝夜が鈴仙をもう一度見た。疲れたような、それでいて何もかもを諦めたような顔だった。鈴仙が向ける不信を全て飲み込み、その顔はこう告げるかのようだった―――ここまで逃げてきても、何ら希望らしき希望は見つけられなかった。何もかもが錆付いてしまって、生きている人間はみんな暗黒のゆりかごの中で髑髏の死神が手に持つ鎌で首を切り落とすのを待っているのだ、と。


「永琳にもこの事は大雑把にしか話していないもの。それに私にも信じられないわ、そう思える時がたまにあるの。私が体験したことは全て悪い夢で、実は私は月の宮殿の大きくてふかふかの布団の中に入っていて、御付の人間が鈴を鳴らして揺り起こしてくれるのを、それとも午後の日差しを浴びる中でうたたねをしてしまった私を見かねた永琳が起こしてくれるのを待っているんだって。でもこれは現実、私が処刑されたことも、拷問されたことも、幽閉されて発狂したのも現実。腐った死体は酷い臭いを放つけど、これより酷くはないわね。あはは。まあ、もう少し先を聞いて頂戴、これからがミソなんだから」


 姫は手元にあった茶碗を取ると、いつも以上に話したせいで喉が渇いたのか、中身を一気に飲み干した。人心地ついたように息をつくその顔に、さっきのような諦念や悲哀は見られなかった。


 ただ、絶望のようなものがその顔には色濃くにじみ出ていた。





 それから、私は彼らを目撃するようになった。正確な名前は私には分からないし、きっとこれからも分かることは無いと思うわ。だから彼らという呼び方。彼らは虫のように見えたの。でも本当は虫よりもずっと………遠い生き物なんでしょうね。


 彼らは最初、糸にぶら下がるように天井から私の前に降りてきた。どこから入ってきたのか分からないけど、彼らはどうにかして入ってきたらしいの。もしくは、大昔から打ち捨てられていたような塔の中にひっそりと住み着いていたのかしら。音も無しに、たった一つの豆電球に照らされた姿はまるでおぞましい毛虫みたいに見えたわ。最初私は、あの衛兵どもが嫌がらせをしているんだと思って、じっと目を閉じて声を上げないようにしていた。だけどあいつら、指先を切り落としたり腸を抉り出すぐらいのことを平気でやっていたというのにね。今更そんなものを使うなんておかしいことだったんだけど、当時の私には気がつかなかったわ。


 でもそれがボトッとおぞましい音を立てて眼前に落ちた時、思わず叫び声を上げたわ。正直言うと私、虫が苦手だったの、あのうねうねした所とかがもう駄目で、たまに見た時は御付の人間に殺してもらってた。それで助けてって、もう何でもしますから、って叫んだの。また酷いことをされても構わないとすら思っていたわ。でも、誰も様子を見に来なかったわ。そこで私は、衛兵たちが職場を放棄して外に出ているんだ、って思ったのよ。今ここで王室関係者が来れば、あいつらは全員怠慢の罪で処刑されるのにって歯軋りしたものよ。まったく、あいつらをバラバラにしてやれなかったのが心残りだわ。


 それはともかく、彼らは汚れた石畳の上を真っ直ぐ私に向かって這い進んできたわ。覚えている限り、彼らはオレンジ色の糸のように見えたわ。毛糸みたいに太い生き物が、私目掛けて這い進んでくるの。とにかく怖かった。声を限りに私は叫んだ、舌を噛もうかとも思ったわ。


 そして、とうとう彼らは私の皮膚に触れた、それも愛しい人の手に触れるように、恭しく触れた………そうね、擦り寄るって言い方がいいかしら。けれど、感触はまるでしないの。私が虫を嫌いだったのは、一度触ったあれがぶにりとした気持ちの悪い感覚で、それがまるで死体を思わせたからよ。変でしょ、死体を見たことも無いのに死体みたいって。けど彼らからは、まるでその嫌な感覚がしなかったの。


 私がぽかんとしている間に、彼らはするすると皮膚の中に入り込んできた。皮膚を食い破ったのかは知らないけど、足から、腕から、尻から、あらゆる場所から体の中に入り込んだのよ。それはとても驚くべきことだったんだけど、一番驚かなければいけないのは、私の内側に入り込むことに対しての嫌悪感が微塵も無かったことなのよ。


 水の中に潜り込むように、彼らはいとも容易く侵入を果たしたわ。私は完全に頭がおかしくなって、幻覚を見たんだとその時は思ったわ。それはそうよね、触れたのに感触が無いなんて、妄想か空想の産物でしかあり得ないもの。それに私には、そんなものを見るに十分な理由があったから。いっそあそこで完全に発狂していた方が楽だったかしらね?


 その場では何も起きなかった。彼らは沈黙を守り、私もまた口を開かなかった。暫くして、衛兵どもが帰ってくる足音が聞こえたけど、私は目を閉じていた。様子見のための小さな窓がちらと開けられて、すぐに閉じられた。衛兵の関心なんてそんなものね。


 二日か三日、それとも一週間ぐらい経過したころかしら、彼らは私の中で蠢き始めたわ。腕や足がだんだんと熱を帯びてきたの。三箇所か四箇所か、とても熱かったわ。体中が冷え切っていたのに、その部分だけが溶けだしてしまいそうなぐらい熱いんだもの。


 最初のうちはこんな環境に置かれて体が参ってしまったんだわ、って思っていたけれど、だんだん違うことがわかってきた。彼らが動き出したのよ。そもそも蓬莱の薬を飲んだなら、そんなものありえるわけがないのにね。病気とも老化とも無縁だもの、精々筋肉痛が関の山だわ。


 彼らは血管や内臓、脊髄、脳の中をじっくりと這い進んでいたわ。目を閉じると、彼らが意思を持って動いていることが分かるの。絶対に達成しなければいけない………確固たる決意を………胸に抱えて。人間じゃないのに人間のように考えてしまうなんて、おかしいわよね? それに彼らは、私に気を使っているように感じられたの。どこか優しいという感じもしたわ。


 彼らはゆっくりと根を張っていって、私の中に住み始めた。とは言っても寄生すると言った物騒なことじゃなくて、家の一室を借りてそこに住み込むようなものよ。決して頭痛や痛みと言った、体調不良らしきものは起こらなかった。むしろ地下にあったあの塔はとても寒かったから、彼らが発する熱が心地よかったわ。閉じ込められてはじめて、私は心を落ち着けることができた。これから起こるだろう不幸や虐待を思っても、少しも心が揺らがなかったわ。狂気は取り外されて、その代わりに勇気とか忍耐と言った感情が丁寧にはめ込まれたみたいだった。


 ある時彼らは、私に向かって微弱なサインを送ってきた。言葉じゃなくて、何か………図形のようなものね。口で言うと難しいんだけど、電気信号がそのまま伝わってくるようなものだった。それによると、彼らは私に了解を求めていたわ。一体それが何の了解なのかは不明だったけれど、彼らがそれを求めているんだと思った時、つい了承してしまったわ。私が彼らに好意を持っていたこともあるし、今にも崩れ落ちそうな恐ろしい塔に閉じ込められて、この状況を変えるためなら何でもしたかったんでしょうね。


 そうすると、彼らはこれまでなかったほどの密度を持って全身に広がっていった。それこそ細胞の一つ一つと自身を入れ替えるぐらいにね。肉眼で、指の先が徐々にオレンジ色に見えてきた、熱がゆっくりと体中に浸透していって、まるで新しい命が私の中で育まれているようだったわ。………ふふふふふふ、赤ちゃんを産んだことはないけれど、きっとあんな感覚なのね。


 そう、私はまるで自分の赤ちゃんのように彼らを思うようになったわ。


 実を言うと、今でもそう思っているの。


 彼らは体の内側で充満していって、やがて溢れ出た分は私の体から離れ去っていったわ。粉みたいな形をして、換気用に設けられた遥か上方にある窓から、ほんの少し流れ出ていったわ。きっとあの子たちは外に出て、私と同じように誰かに取り付き………ここから先は考えなくてもいいわね。別の誰かの問題だもの。


 それから何年経ったかしらね? たった数週間だけだった気がするし、数ヶ月だった気もするし、やっぱり数年だったかもしれない。塔の中で私は、これまで培ってきた時間の感覚を完全に叩き壊されたわ。起きて、トイレをして、朝ごはんを食べて、横になって、地上では永琳がどうしているのか考えて、時々殴られて。ふふふふ、私の能力に気付いたのは地上に落とされた後なんだから、本当に馬鹿げてるわよね。


 最終的な処分が下されたのは唐突だったわ。私を処刑した面子がぞろぞろと地下に降りてきて、無造作に私を地上へと引っ張り出したの。そうして私は地球に落とされた。その時の監視には、あの時の処刑隊の隊長が加わっていたわ。げっそりとやつれた面持ちで、心を病んでいるみたいだったわ。落とされる間際に笑いかけてやったから、あの後で気が狂ったと思うけど。


 追放された時、私は体を徹底的に弄られて、最終的には赤ん坊と同じような姿かたちになったんだけど、それでも彼らは私の中で生きていた。何故かしらねえ。きっと私の核となるべく部分に―――所謂魂とでも言うべき場所かしら―――取り付いていたんだと思うわ。


 そうして彼らは私の中で生き残り、地上までやってきた。
 
 



 春にしては涼しい夜だった。竹林から穏やかな風が吹き付けてきたが、不快感を伴わない程度の暖かさだった。だが鈴仙は汗を掻いていた。実の所、全身が汗で濡れていた。空気が粘っこく呼吸がしにくかった。風はむせかえるような暖かさで鈴仙を包み込んでいた。襟元を調整して、なんとか息がしやすいようにする。首筋に玉の汗がぽつぽつと浮かんでいる。


 鈴仙は姫の話を怖がり始めている自分に気がついた。


 『彼ら』という概念が出てきた時、姫はちょっとした冗談を言ってやろうと思ったに違いない、と鈴仙は考えた。それまでの、あまりに心臓に負担を掛けるような、そんな重い空気を濁すために、ちょっぴり不穏で、気がまぎれるようなジョークを言おうとしたのだと、鈴仙は心の中で必死にそう考えていた。しかし話が佳境に入るにつれて、鈴仙は本当にそうなのか分からなくなり始めた。姫はそれを本当のことだと思い込んで喋っているのか、鈴仙の緊張をほぐすためのジョークだとして喋っているのか、はたまた単にもっと不安を煽るためにそう言っているのか、鈴仙の中でそれらはごちゃごちゃになり、次第に混沌の様子を帯びてくるかのようだった。


 鈴仙は当惑し、この場所で自分の他に誰もいないことを恨めしく思った。こんなに離れた場所で姫と二人きりというのが何より気味が悪かった。このままここに留まっていたら姫に自分の心を吸い取られるんじゃないか、鈴仙の中で蠢く不安は大きくなり始めていた。


 いずれにせよ早めに師匠を呼んでこなければならないのは確かだ。師匠に薬を処方してもらうか、それともカウンセリングよろしく存分に話を聞いてもらえば、姫の中の………とにかく、それはすっきりするだろう。自分には荷が勝ちすぎる役目だということだけが明らかだった。それによってここから離れられるなら万々歳だ。


 鈴仙が「あの―――」と切り出した途端、輝夜は鈴仙の思考を読んだかのように先を制して言った。そこには嗤笑が少なからず込められていた。


「永琳はもう私達の仲間よ」


 数秒間、鈴仙はその意味を量りかねた。仲間、なかま、ナカマ。そう、言われるまでもなく師匠は私達の仲間だ。永遠亭の一員だ。兎たちを統率するてゐと私の上司だ。


 だけど、まさか、姫がそれとは違う意味で言ったのだとしたら。


 鈴仙が姫の目を見ると、輝夜は再び幻想的な美しさを持つ笑みを浮かべた。何者をも魅了するだろうそれも、鈴仙には最早捕食植物の仕掛ける罠にしか思えなかった。


「永琳が地上にやってきた時、彼女の中に仕込んだの」
 紙のように白い唇から、呪詛のように静かに、言葉が漏れ出てくる。その言葉が姫をとりまく全てを腐らせるのではないかと、鈴仙は一瞬本気で心配した。
「永琳が彼らにとって一番の大敵だったから。だって彼女なら、私の症状を見ればたちどころに彼らを撲滅する薬を作り出してしまうに違いないもの。だから私は、彼女と行動を共にするようになったはじめての夜に、彼らを侵入させたのよ」


 くすくすくす、と笑った。姫が、骨のように白い月の光に照らされて。


「本当を言うと、彼らが入り込めるかどうか心配だったのよ。だって永琳って、蓬莱の薬以外のどんな毒も効かないじゃない。だからもしかして、彼らも身体を支配できないんじゃないかって、随分びくびくしたものよ。でも大丈夫だった。成功だった。明るい月の晩だったわね。私は寝具の中で横たわる永琳に近づいて、彼らを永琳の口の中に垂らし込んだ。


 最初は酷く苦しんでいたわ。どうやら彼らは透過する際には非常な苦痛をもたらすらしいの。何時間も永琳は熱が出て、呻いて、譫妄状態に陥った。このまま死ぬんじゃないか、それとも脳に障害が残るんじゃないかってすごく心配したから、朝まで私は付き添った。彼女が起き上がった時、ちょうど日の光が差してきたの。もう永琳は私たちの仲間になっていたわ。


 永遠亭にたどり着いてからはもう楽だったわ。イナバたちには食事の中に彼らを混ぜ込んだの。


 だからね、イナバたちもみんな私たちの仲間なのよ。中には拒否反応が出て死んだイナバもいるんだけど、しょうがないからそういうのは埋めちゃったわ。全身が腐ってゼリーみたいにぶよぶよしちゃって、ふふふ、兎の一羽なんかあれを見て涎を垂らしてたわね。きっと後で掘り出したんじゃないかしら。


 後は………藤原だったわ。最初に殴りこんできた際、まだ弾幕ごっこには慣れてないようだったから、光線で千切りにして、そのパーツの一つ一つに彼らを染みこませたの。再生しはじめたから余興と思って縛り付けておいたんだけど、それがもう凄い勢いで苦しみだすのよね。思わず笑っちゃったわ。永琳も私の手前、噴き出すわけにはいかなかったんだけど、あの顔はもう破顔寸前だったわ。ふふ………今でも涙が出ちゃいそう。


 目玉が飛び出すぐらいに目を見開いて―――あら、実際に飛び出させていたかしら?―――縛られた手足を関節が動くいっぱいまで動かして。まるで発狂したみたいだったわ。殺してくれ、殺してくれ、って何度も叫ぶ様が楽しくて、私は彼らの量を倍にしてあげたわ。そのうち彼女は動かなくなった。ひょっとして死んだのかしらって思ったけど、失神してるだけだったわ。失禁してたし。脱糞もしてたかしら。


 つまらないから竹林に捨てたんだけど、三日ぐらいしてぴんぴんに生き返って殴りこんできたから、ああ彼女も仲間になったんだな、って思ったわ。嬉しくて嬉しくて、今度は彼女をミンチにしちゃった。


 でも連結はそこで途切れた。永遠亭を掌握して、藤原を引き込んでからはすることが無くなったのよ。だって私も永琳も外に出ないし、食べ物は裏の畑で間に合ったんだもの。藤原の方は一人で生活してるらしくて、誰とも関わらないし。この子たちが疼くのは残念なんだけど、もう諦めるしかなかった。そのうちどうでも良くなって、普通に生活するようになったわ。


 そこでね、耳が長いイナバ………ええと、テイセンだったかしら? それともレイセン? まあいいわ、イナバ。あなたが来たのよ。


 月から逃げ出したあなたが、私たちの屋敷に飛び込んできた」


 鈴仙には、淡々と話を続ける姫という存在が分からなくなりはじめていた。これはやはり本気で言っているのか? それとも冗談なのか? どうしてこんなことを言うのか? 私を怖がらせたいから? 鈴仙の中で姫に対する、畏怖とはまた違った恐怖はどんどん大きくなっていった。不意に出口までの距離と、大声で叫びながら師匠の下まで到達できる時間を考え込んでいる自分の存在に気がつく。


 いつのまにか、姫は鈴仙に向かって近づいてきているようだった。服の裾が手に触れそうになり、鈴仙はさっと手を退ける。今この時、姫に―――たとえ身にまとっている物でも―――触れることは、とても危ないことだと確信していたからだ。この不安の前では礼儀も何もない、鈴仙は、いざとなったらいつでも弾幕を展開できるような体勢を取っていた。


 けれども、そのいざというのは、なんだろうか? 


 姫はそんな鈴仙の様子にも動じずに話を続けた。


「他のイナバと同じように、私たちはあなたの食事に彼らを盛った。ご飯の中、味噌汁の中、とても肉眼では見えないほどに細かく分割された彼らをね。けれども駄目だったわ。彼らはあなたの内側に入り込めなかった。いや、入りはしたんだけど、どうしても弾き出されてしまうのね。こんなことははじめてだった、どうしてなのか私は考えたわ。永琳も一緒になって考えた。そのうち兎たちもやってきて、私たちと一緒に考え出した。


 そこでピンと来たのよ。彼らを盛ってからイナバたちの間に完全に染み渡るまではかなり個人差があったの。一日で完了するものもいれば、十日近くに渡って苦しんだイナバもいる。あの黒髪の………えーっと、あのイナバなんて、かなり抵抗したのよ。実の所、まだ完全に身体を明け渡していないのはあのイナバとあなただけなの。それは置いておいて、そういう個人差があなたの場合は非常に顕著なのかもしれなかったし、ましてあなたは月の兎だもの。もともとそういうものを受け入れない性質だったのかもしれない。永琳にこっそり調べさせたら案の定だったわ。それにあなたは、………ええと、狂気を操る程度の能力だったかしらね。厳密に言えば波長だか波動だかを操ることである程度の狂気を制御できるのだったかしら。


 つまるところ彼らは心、何かを感じたり、考えたり、怒ったり悲しんだり、喜んだり驚いたりする所に住み着くの。特に彼らの場合は矛盾や狂気と言った、悩んだり、苦しんだり、憎んだりするような、そんな負の部分が大好きなの。人の苦しみを糧にして自分たちの数を増やす。人が痛がれば喜ぶし、涙を流して悲しめば活発的に活動するようになる。発狂したら丸ごと乗っ取ってしまう。とは言っても生き物に感染する生き物だから、宿主が死ねば離れざるを得ないんだけどね。言い方は悪いんだけど、ダニみたいなものかしら。


 まあ、だからこそあなたは彼らを遠ざけたのかもしれない。狂気を操る生き物だから、狂気の星の下で蠢く虫に対する抗体を持っている、ということかしら。解剖して調べたわけじゃないから断言できないんだけどね。ふふふ、何なら、今ここで実演してみる?」


 含みを持った笑みを浮かべた姫が板の上を滑るように近づいてきたので、鈴仙はもっと下がらなければならなかった。ぐっと喉が詰まり、全身の毛穴の奥、それこそ負の部分から、何か恐ろしさを喚起するものが流れ出てくる。つんとしたレモンのにおい。


 姫は本気で自分を解剖しようとするんじゃないか、そう鈴仙は怯えた。


 しかし輝夜は鈴仙が尋常じゃないほど怖がっているのを見ると、元の位置に戻った。


「それから色々とあったわねえ。私たちが月を隠したり、幻想郷の人間がやってきたり、それからちょくちょくと訪れるようになったり。とても嬉しいことよ、だって今までまるで興味がなかった外の事柄にも関心が出てきたんだもの。あの魔法使いや巫女、メイドや吸血鬼の話を聞いているうちに好奇心が大きく膨らんでいったわ。それまではあまりに単調すぎて古臭いとしか思えなかった屋敷も、急に古式めいた、とても価値がある家屋のように思えたぐらいだもの。


 もちろん、彼らも活発に動きたくてたまらなかったみたいね。そうそう、たまにお腹のあたりでちょっとだけ動くことがあるのよ、彼らは。うふふ、もう私の赤ん坊のようなものね。決して産まれはしないけれど、そのかわりにつわりも夜泣きもしないとてもいい子。それでも外気に触れる度に、彼らが飛び出したい、外に出たいって騒ぐのよ。まったく、やんちゃすぎるのも考え物ね?


 それで私は一計を案じることにしたの。一人ずつ感染させても良かったんだけど、そうしたら不思議に思う妖怪か人間がいるかもしれないし、龍あたりが嗅ぎつけたら台無しになっちゃうもの。だから私は考えた。考えに考え、ある事を起こした。それが何だか分かる?」


 姫は頬が横に裂けそうなぐらい大きく笑みを浮かべた。何も知らない人が見れば、とてもにこやかで、素敵で、姫の持つ美しさに魅せられただろう。だが鈴仙はそうは思わなかった。どちらかというとグロテスクな作り笑いに見えた。姫の口の中から今しもどす黒い内臓が零れ落ちるのではないかと思ったぐらいだった。


「月都万象展」


 その瞬間、姫の腹が確かに蠢く様を鈴仙は見た。ぼこりと、一センチか二センチぐらいのものに過ぎないが、それでも鈴仙が持つ紅い瞳には見えた。輝夜の中にいるかもしれない生き物が彼女の声に反応して動く様が。


 まるで本当にそこにいるかのように。


「それこそあの半分の来訪者数でも十分だと思ったんだけど、予想以上に妖怪たちがたくさん来たわ。どこかの泥棒は盗みにやってくるし、新聞記者は取材にやってきた。そうそうイナバ、あなたはあの時餅つきを担当してたわねえ? 大きな臼をぺったんぺったん、見ていてとても面白かったわ。


 おかげで彼らもたくさん感染させられたわ。いつものように食べ物や飲み物に入れようかと思ったんだけど、それだと手をつけない人にはどうしようもないって永琳が提案したし、何より数が多すぎるもの。直接空気中に散布することにしたわ。上空には結界を張って、彼らが外へ漏れ出さないようにね。正直な話、彼らは弱すぎて寄生でしか生きられないのよ。ここの空気じゃすぐに淘汰されてしまう。まあどこぞの巫女は結界に気付いていたようだけど、泥棒防止にしか思わなかったみたいね。実際役に立ったし。


 彼らは、あれで幻想郷中に広がったようなものかしらねえ? とは言っても、あれ一回だけじゃ完全に広められないから、もう何回かは開催する予定だけど。それでも、濃度をぎりぎりまで薄くしなくちゃ誰かが気付くから困ったものだわ。あまり効率が良いとは言えないし。今度永琳に話して、空気感染が可能にしてもらえるよう頼んでみようかしら。そうなれば話は早いわ。


 あとねえ………感染したのは、人間の魔法使い、妖怪の魔法使い、吸血鬼、メイド、本を持った魔女、他にも色々と居たわ。個人差があるし一回だけじゃ完全に浸透しないかもしれないけれど、これはまあ努力次第ね。驚いたのは、剣を持った白髪の庭師ね。冥界出身にはひょっとして感染しないんじゃないかって思っていたんだけど、くすくすくす。あの子の中にもそういう部分があったみたい。偏見はよくないわ。きっとそのうち亡霊嬢にも感染するかもしれないわね。


 それと、巫女あたりが乗り出しているんじゃないかと予測しているなら、それは的外れと言わざるを得ないわ。ほら、満月を隠した時、巫女が私たちを止めに来たじゃない? あの時から彼女達は危険だって感じていたのよ。第六感って奴かしら? とにかくそういう感じがしたのよ。


 弾幕ごっこをしながら、ちょいちょい、って弾幕の中にあの子たちを混ぜたの。被弾はしなかったろうけど、結構掠っていたから、ふふふ、思った通り感染してくれたわ。でもあの巫女、予想していたより発病するのがずっと遅かったのね。まあ博麗の巫女だからでしょ。八雲の大妖怪も同じように感染しているようだから、直に彼らが顔を出すでしょうね。そうしたら私たちの勝ち。みんなが私たちの仲間になるわ。


 そうそう、彼らを識別する方法をまだ教えてなかったわね。私は無条件で分かるけれど、他には目で判断するの。一番最初に彼らは目に住み着くから、目の中を覗き込むとうろうろしているのが見えるし、瞳がオレンジ色に変わることもあるの。確か永琳が色彩感覚を食い荒らすとかどうのこうのって言ってたけど、それはどうでもいいわね。外部の人間でもそれは見えるらしいから、あなたでも判別できるかもしれなくてよ?」


 歌うように、詠むように、姫の口からそれらが漏れ出て行く。言葉は流水のように緩やかに滑らかに発せられ、それは詩を音読しているようにも聞こえた。鈴仙は自分の目の前で明かされていく壮大かつ狂った馬鹿騒ぎとしか思えない計画を聞きながら、姫だけでなく自分まで狂い始めているのではないかと思い始めていた。


 ここは本当に永遠亭なのか? 目の前にいるのは本当に輝夜なのか? 自分は月の兎、月から逃げてきた罪人、鈴仙・優曇華院・イナバなのか? 自分が体験しているこれらはひょっとしたら全てが盛大な嘘で、本当の自分は兎たちの喧騒の中で眠り込んでいるんじゃないか? そうだ、そうに違いない。これらは夢だ。私は普段から姫様をちょっぴり怖いと思っているから、だからこんな悪夢を見る。本当に狂っているんじゃないかって、誰にも考え付かないほどその思考は暗がりに通じているんじゃないかと思う時があるからこそなのだ。


 だが自分がここでこうしていることは夢にはとても思えなかった。鈴仙のすぐ近くでは輝夜が裾を口元に持っていき、蟲惑的な笑みを浮かべている。耳に聞こえる音も波長も、手のひらににじみ出る汗も、思い出したように吹き付ける風が鈴仙と輝夜の身体を撫でることも、全てが現実そのままだった。これほどの質感を感じられる夢があるとはとても思えない。


 自分の息遣いが遠くなりかける。目の中に赤黒い点がいくつもいくつも舞い踊る。景色が歪み始め、どこかの頭の狂った画家が描いたような風景を描き始める。鈴仙は自分が失神しかけていることを悟り、気絶してはならないと思って手の甲を噛む。がり、と音がして血が滲み出した。痛いことは痛かったが、この人の前で倒れたりすれば、何をされるか分からないという恐怖の方が遥かに勝った。


「なんで」
 口腔が乾いて唾を飲み込む。ずるずると蛙のように喉の中を滑り落ちていく感覚が気持ち悪い。ひゅうひゅうと喉元で奈落から吹き付ける風のような音がする。
「なんでそんなこと、わたしに話したんですか」


 輝夜は鈴仙から目を逸らし、今度は竹林にそれを向けた。闇のように深い瞳の中に、少しだけ不気味なオレンジ色がちらついた気がして、鈴仙はすぐに目を逸らした。目を逸らした先では烏のようなものとフクロウが争っていた。直に烏のようなものがフクロウの首を嘴で突き、戦果を収めた。


「なんででしょうね」と反駁するように輝夜は繰り返した。
「好きなのに嫌い、醜いのに美しい、死んでいるのに生きている、上なのに下、外なのに内、狂気っていうものはそういうものかしら。まあこういうのは矛盾と同義なのでしょうね。持論だけど、狂気のはじまりはある意味で自分だけの世界を構築しはじめることだと思うわ。それが良いものであれ悪いものであれ、矛盾は狂気となり、やがて世界に背を向けたくなるようにその人を変えてしまうものよ。


 私があなたに口を滑らせ、そして今も口を滑らせ続けている。あははは、教えてはいけないのに教えている。きっとそういうものなのでしょうね。それとも、ただ単に何もかもぶちまけたくなったのかしら? もっと別の理由があったのかもしれないけれど、どうやら私には分かりそうもないわ。


 そう、結局私には彼らのことは何にも分かっていないのよ。どこから来たのかも、どうして生まれたのかも、どうして心に取り憑くのかも、知っているのは上辺だけ、本当に理解して心を通じ合うことはまるでできていない。一生努力しても無理でしょうね、人が寄生虫の心情を完璧に理解することなんて無理だもの」


 ばたん、と空を向いて倒れる。その音に鈴仙は肩を震わせた。輝夜は海のような色をした星空を見つめていたが、やがて笑い出した。


 長い間輝夜は笑っていた。顔を歪めて、それほどまでに可笑しいのか涙を零して、咳き込みながらも笑い続けた。大きな大きな声で笑い続けた。


 鈴仙には、なぜだかそれが泣き声のように聞こえた。





 やがて輝夜はむっくりと起き上がった。目元を擦って欠伸をすると、いきなり立ち上がる。


「さて、もう寝るわ。夜も遅いし」
 言いながら輝夜は、鈴仙の方を振り仰いだ。その顔はさっきと同じように笑っていたものの、どこか人を怯えさせるものがあった。
「ところで、あなたは今の話を信じる? 信じない? 私の正気を疑う? というより、もう既に疑っている目ね、それは」


 姫は鈴仙の裡を何もかも見透かした寒々しい笑みから、まるで獰猛な肉食獣のような、頬まで口が裂けそうな大きな笑みを浮かべた。鈴仙は後ずさった。その様がおかしかったのか、輝夜はくすくすと笑いながら後ろを向いて戻りだした。


「おやすみなさい、良い夢を」


 輝夜は呆然としたままの鈴仙の視線を背に受けて、音も無く暗闇が支配する廊下へと消えた。


 鈴仙はそのままじっと、どこか無機質な月の光を浴びたまま座っていた。汗が一筋頬に垂れて、服に染みこむ。ようやく体が動くようになると、痺れたような感覚を体中にもたらす神経を無理に動かし、空き部屋から鈴仙の部屋への廊下を歩き出した。


 仄かな明かりが照らし出す屋敷の廊下には鈴仙の姿だけであって、その事実が神経を傷つける。どこかで誰かが自分を見張っているのかもしれないと思うと鳥肌が立ち、辺りを見回した。当然のように誰の姿もなかったのだが、その事実が一層神経を磨耗させるような気がした。


 頭の中で、さっきまでの時間に姫が話した言葉が延々と羅列されていく。蓬莱の薬、彼ら、月都万象展、巫女、魔法使い、狂気、矛盾。


 ありえない、という思いが鈴仙の正気とも言える部分を辛うじて繋ぎとめていた。オレンジ色の虫が幻想郷にばら撒かれるなんて異変もいいとこだ、巫女が動かない筈がない。それに魔法使いだって動く筈だ、幻想郷の異変は人間が解決するんだからあのメイドだって―――


(感染したのは人間の魔法使い妖怪の魔法使い吸血鬼メイド  あの巫女予想していたより発病するのがずっと遅かったのねまあそこらへんは博麗の巫女だから)


 嘔吐した。


 げえ、と屋敷の廊下に胃液を吐き出した。そうだ、まだ夜食を食べていない。ご飯、味噌汁、漬物、それにおかずの魚、ああもういいや今日は食欲が無い変な話を聞かされた後だから。そうだともあんな話は嘘っぱちだ。でたらめだ、意味の無いたわごとだ。忘れてしまえ。


 無理がある、と思う以前に、本能的な嫌悪感を、拒否感を感じさせるものが姫の話にはあった。それを信じることはこれまでの師匠を否定することだ、てゐを否定することだ、兎たちを、巫女を、魔法使いを、これまで自分がここで関わってきた全てを否定することだ。


 それはまさしく究極的な破滅以外の何物にも繋がらない。


 口元を拭って、廊下の隅の水溜りみたいなものを無視して歩き出す。明日になれば誰かが気付いて掃除してくれるだろう。もう寝ないと。明日も忙しい。明後日も忙しい。だから寝る、寝ないと。


 眠らないと気が狂う。


 そこから二、三歩も歩いた所で鈴仙は、ぎしりと遠くの方で床板が鳴る音を聞いた。その音は耳から入って脳に達し、盛大な感情爆発を引き起こしそうになった。思わず叫びかけて口を塞ぐ。きっと気のせいだろう、絶対にそうだ。空耳もいいところだ。


 だが鈴仙は、廊下の向こうからオレンジ色の虫たちが群れを成して津波のように押し寄せてくる幻覚を目にした。いや、幻覚ではなく実際に鈴仙の瞳には現実に見えるような気がしたのだ。床板の上をおぞましい勢いで突進してくるオレンジ色の寄生虫モドキども、身体からは甘ったるい腐臭を発し、人の心を食い荒らす化物。そして月兎に向かって突進し鈴仙の身体に取り付き体中を這い回り悲鳴を上げる彼女の中に潜り込み胃や腎臓や肝臓や膵臓を取り込み自分のものとし脳漿の一粒に至るまで何もかもを食らい尽くそうと


「鈴仙何やってんの?」


 その瞬間、鈴仙の心臓は一瞬だけ動きを止めた。


 恐慌状態に陥った鈴仙は、がむしゃらに拳を振り回して後ろにいるだろう敵を殴りつけようとした。しかしそれは驚いて離れようとしたので、鈴仙ははっと息を飲み、拳を下ろして自分が傷つけようとした相手に向かい合った。


「な、何すんのさ! いきなり拳振り回して、怪我させる気!?」


 憤慨したように、また怖がっているように顔を少しひきつらせながら、そう因幡てゐは言った。


「あ、ご、………ごめん。ごめんね。いきなり声をかけられて、びっくりして………」


「びっくり、………ねえ。………まあ、それはそれでいいけどさ、今までどこに行ってたの? こんな夜遅くに」


「うん。さっき姫の所で


(イナバたちはみんな私たちの仲間永琳も巫女も八雲の大妖怪も魔法使いもみんなみんな私たちの仲間もちろんてゐだって仲間あなただけが彼らが入り込めなかった)


 一緒にお八つを食べてきたんだ。外の世界から流れ着いたらしくて、師匠は忙しいから姫と二人で」


「ああそうなの、確かに鈴仙ペット扱いだからねえ」
 そこで鈴仙の後ろの物に気がついたのか、ひょいと覗き込んだてゐは、鈴仙が今しがた吐き出したばかりの胃の中身を見た。驚いたてゐは青ざめた顔をした鈴仙を見上げる。


「ちょっと、あんたこれ、どうしたの………!?」


 鈴仙は一瞬どう言い訳するか迷ったが、すぐに名案を思いついた。その際演技の積りで後ろを振り向いた時、鈴仙はあってはならないものを目にした。


 オレンジ色の毛糸みたいなものが、そこに含まれているように見えた。水溜りの中に一本か二本、黄色っぽい胃液の中でそれらは異常なまでに際立って見えた。


 すぐに目を逸らした。


「その、あんまり身体に合わなくって………姫はおいしいおいしいって言って食べてたから、残すのも何だと思ったの。それでちょっと早引けして厠に行こうと思ってたんだけど、ここで気持ち悪くなっちゃって………」


「ペットも大変ねえ」
 はあ、とてゐがため息をついた。ぽりぽりと兎耳を掻いてから、意を決したように鈴仙を見上げた。
「いいわ、ここはあたしがやっとくから、鈴仙は寝てなさい。まったく、これじゃ詐欺に遭ったようなもんだわ、普段はあたしが詐欺にかける方なのに」


「うん、ありがとう………」


 鈴仙はわき腹を押さえててゐの横を通り過ぎざま、一つ思いついたことがあった。水溜りの前でこれをどう処置したものか決めあぐねているらしいてゐの後姿に、鈴仙は声をかけた。


「そういえばてゐ、あなたはどこに行ってたの? 帰ってきた時にも見なかったし」


 途端、てゐの動きが止まった。


 その挙動は驚いたとか判断に困ったとかではなく、あたかも電源を切られた機械に見えた。オンからオフへ、ばちん、一瞬で動きが止まる。まさにてゐの動作はそれだった。中で操っているものがてゐの身体を操作したみたいだった。


 鈴仙は何やら名状しがたい不安が沸きあがりつつあることに気付き、もう一度声をかけた。できるだけさっきと同じ調子でてゐ、と声をかけたのだが、どうしても声が震えた。


「外にね、ニンジンを、取りに行っていたのよ」
 先程よりも遥かにぎこちない口調でてゐは答えた。鈴仙の心臓の鼓動が早くなり、毛が逆立つ思いだった。
「いつも夜食用に少しだけニンジンを貰っている場所があるんだけど、今日は収穫無しだったから諦めて帰ってきたの。それがどうしたの?」


 明らかにてゐの口調が普段のそれとは違っていたが、努めて鈴仙は気にしないことにした。きっと疲れているせいだ、てゐが不意を突かれて驚いているからだ。そういうものだ。やけにその口調が姫と似通っているのも考えすぎだろう。


 絶対にそうだ。


 鈴仙は自身の動揺を抑えようとして自分の身体を抱きしめた。できるかぎり平時の声を装って、そうだったの、と言う事ができた。そのまま身じろぎ一つしないてゐの身体から目を背け、個室に向かって歩き出した。


 自分の背後でてゐがどんな表情をしているのか、考えないようにしながら。
 
 



 足を踏み出すごとにぎしぎしと不気味な音を立てる廊下を通り抜け、なぜか寝言一つ聞こえてこない兎たちの寝室の脇を過ぎ、どうにか個室にたどり着いた鈴仙が最初にしたことは、部屋の点検であった。


 まず部屋の中を見回し、物の配置やそれ自体に違和感を感じることが無い事を確認。次に押入れや天井裏を開け、中に生き物一匹潜んでいないかどうかを見る。念のため部屋の外にある永遠亭の裏庭を探してみたが、糸の一本見当たらなかった。ほっと大きなため息をついて鈴仙は畳の上に横になる―――自分が何をこれほどまでに恐れているのか、自嘲気味に笑いながら。その前に部屋の鍵を閉めることだけは忘れなかったが。


 今日はもう寝てしまおう。鈴仙はそう思い、まさしくそれは名案のように思えた。もう夜も遅い、布団に入って眠り込んで、朝まで寝入ってしまえばいい。姫の話は恐ろしかったし、てゐの様子はあまりに不自然で不気味でしかなかった。しかし本当にそうなのだろうか? ちょっと自分は何かを勘違いしているんじゃないか? 彼女たちの行動は些かも不自然ではないのに自分の目がそう見させているだけなのでは?


 夜気に包まれた中ではおぞましく思える出来事も、太陽の光に晒してみると、意外となんでもないことのように感じられることはある。今回もきっとそういうものだろう。


 深呼吸を一度、二度、三度と繰り返す。そうすると早まっていた心臓の鼓動が落ち着き始め、がちがちにこわばっていた手足の筋肉がほぐれていく気がする。また自分の中に悪鬼めいた恐ろしい思考が舞い戻ってくる前に、さっさと布団を敷いてしまうことにした。


 作業の間、やはり押入れの奥の方が無性に気になったものの、部屋に入った時ほどの強さではなかった。とうとう一度も押入れの奥、最も暗闇で満たされた場所を覗き込まずに戸を閉じることができた時、鈴仙はほっと安堵の息をついたものだった。


 そうとも、今日起きたことは悪い夢だ。それも師匠の胡蝶夢丸ナイトメアタイプをまとめて五粒飲んだようなおぞましくて、尋常じゃない不安を呼び起こす狂った夢だ。眠ることだ、そうすれば嫌な全て忘れられる。それについて絶対的な確信をも鈴仙は持ちはじめていた。


 明日になって、竹林の向こうから差し込む太陽の微かな光を浴びながら今日のことについて思いを巡らせれば、どうして自分があんな変なことを考えていたのかと首を傾げるだろう。それで恐怖はおしまい、遅くまで実験していて寝不足だろう師匠の下に朝の挨拶をしにいって(今日は長丁場になるお使いをしてきたから、特製ニンジンの一本でも貰えるかもしれない)、まだ自分の部屋で寝ているだろうてゐを起こしてこよう。その時には彼女は鈴仙のように兎耳をふにゃふにゃさせながら、昨日の面影は微塵もない顔であと五分あと五分と寝言のように文句を垂れるだろう。でもまあ許してやろう、むしろ頭を撫でてやったり思いっきり抱きしめてやってもいいかもしれない。てゐが不思議に思っても知るもんか。次は兎たちとやかましいけれど楽しく騒ぐような朝食を過ごし、姫とも挨拶をする。もちろん彼女は今日起きたことなんか忘れている。だってどうでもいい話なんだから、姫は自分にとって価値が無いと思ったことはすぐに忘れてしまうのだ。そして二人は笑いあって、朝食に戻る。


 言い換えれば、いつも通りの生活が再びはじまるのだ。ちょっぴりの不安と悩みと、それを十分カバーしてくれるだろう楽しみと安らぎに満ちた。


 だがその前に、顔ぐらいは洗ってこよう。風呂にも入っていないのだから、これぐらいはしておかないと、顔がぺたぺたしてしまう。以前に野宿をしたことはあったから、あの感覚があまり好きではないことは分かっていた。


 慣れた手つきで着替えを終えた鈴仙は、つっかけを履いて外に出て、兎たちが共同で使っている井戸から月の光を浴びた水をくみ出す。桶に移し変えて満面の水を湛えたそれで鈴仙は顔を洗い始めた。もしかしたらとは思ったが、井戸の底にも桶の中にも虫の姿は無い。


 思った通り―――というより、それ以上だった。まるで清水で身体全体を洗っている気分。全ての禍々しい代物が身体の中から流れ出ていくような素晴らしい気分だった。ひやりとした冷水が顔中の汚れと汗を落としていく。たかが顔一つでこれだけなんだから、身体を洗ったらどうなるだろう、と思うと笑ってしまった。


 存分に洗顔した鈴仙は、部屋から持ってきた布でごしごしと顔を拭き、水を捨てる前に自分の顔がどんな風に写っているかどうか気になったので、水の上に顔を出してみた。


 最初水の上を覆っていたゆらぎは、次第に姿を消していき、鈴仙の顔が鮮明になる。そしてそれが見えた。その瞬間、何もかもが現実になり、鈴仙の上に降りかかった。


 そこにいたのは、オレンジ色の目をしたへにょりとした兎耳を生やした兎耳だった。


 当初、それの意味を鈴仙は量りかねた。ほんの一瞬だけ、はて、自分の目はオレンジ色だったろうかと考えた。確か真紅みたいな色じゃなかったっけ? それともこんな目だったろうか? いやいや、もしかしたら目の病気かもしれない。明日師匠に見てもらった方がいいのかもしれない。それに


(彼らは目の中に住み込んで外に出て行く体内へと出て行くそう姫が仰った毒に冒された姫がオレンジ色の毒虫に身体を乗っ取られた姫がそう瞳がオレンジ色に変わる猛毒に満ちたあの汚らしくおぞましく腐りきった柿を思わせるオレンジ色に)


 鈴仙は悲鳴を上げて、桶をひっくり返した。ばしゃん、と桶が土の上におびただしい量の水を吐き出す。鈴仙はその中にオレンジ色の奴らが蠢いているのを見た。溺死寸前の身体を痙攣させながらもがき苦しんでいた。恐慌状態に陥った月兎は、目に涙を溜めて顔を真っ赤にしながらそいつらを力いっぱい踏みつけた。踏みにじるごとに虫の中から体液と内臓が身体に不釣合いなほど大量に吐き出され、鈴仙のつっかけを汚す。その体液は紛れも無いオレンジ色だった。ぐちゃぐちゃと音を立てて鈴仙は一人、桶の中から沸いて出たそれらを踏みしだく。


 やがて桶から出てきた奴らを皆殺しにすると、鈴仙はおそるおそる井戸を覗き込み………絶望とともに息を飲んだ。遥か頭上からでも、山ほどの虫どもがその中でぴくぴく痙攣しながら動いているのが見えたのだ。あんなのがいる井戸で顔を洗ったのか―――鈴仙は吐き気を抑えるよう努力したが、無理だった。また吐いた。吐いたものの中身は絶対に見ないようにした。オレンジ色の生き物がその中にいるかもしれないからだと思ったからだ。


 もしかしたら何かの間違いかもしれないと思って、足を震えさせて心臓を極度に張り詰めさせながら、鈴仙は部屋へと戻った。


 部屋は地獄の蓋が開いたような状況だった。


 天井裏の隙間からまるでカビのように、虫どもが出てこようとしていた。一匹一匹が違う動きをしながら悶える様子はグロテスクでありながらも、前時代的なアートを思わせるものがあった。僅かに開け放してあった押入れの戸から、不快感しか覚えない虫どもがぞろぞろと出てくる。押入れの中にはどれだけの虫が詰まっているのだろうと考えると、眩暈を通り越して目が馬鹿になるような気さえした。タンスの中から、畳の下から、閉じたドアの隙間から、どこからでも奴らは入り込んでくる。


 いつからこうだったのだろう? どうして自分にはこいつらが見えなかったのだろう? どうしてこいつらは姿を現すようになったのだろう?


 いったいここで何が起きたのだろう?


 無数の疑問と疑問符が脳内を駆け巡り、解決することなく暗黒の彼方へと消えていった。鈴仙はふらつく足取りで部屋に上がり、虫どもが今こそ地上に顔を出そうと待ち構えているだろう畳の上を歩いていく。押入れの戸に手をかけたように、今から這い出ようとした虫が身体を上げて鈴仙を見た。まるで嘲るように鈴仙を見た。思いっきり力をこめて戸を閉めると、そいつはびしゃりと挟まれて原型も留めない屍になった。ぷんと臭う悪臭が漂いはじめ、鈴仙は顔を背ける。


 直接の面識が無いにも関わらず、鈴仙には奴らについて知識を持っていた。まるで姫が虫について知るみたいに鈴仙も知ることができた。そいつらには目がない、耳がない、鼻がない、普通の生き物を構成している器官が何一つない。彼らはそういう器官があっても意味の無い場所からやってきたのだ、月よりも木星よりも冥王星よりも遥か遠く遠く遠くの方から今ではもう滅んでいるだろう月を通して、この幻想郷までたどり着いたのだ。だが虫どもは、目玉ならぬ目玉を通して鈴仙を見ていた。部屋にいるものは勿論、まだ外界に出てきてさえいないものまでが鈴仙を見ているように思えた。


 だが今の鈴仙にとって、部屋中を我が物顔で動き回る虫どもはどうでも良かった。少なくとも今は。


 やらなければいけないことは、姿見で自分の姿をもう一度確認することだった。もしかしたら、という希望が彼女の中にあった。ひょっとして、これらはまだ悪い夢であってくれるかもしれない。消すことができる幻覚なのかもしれない。だからさっき見たオレンジ色の瞳も間違いで、綺麗な真紅の瞳をもう一度鏡の中で見られるかもしれない。それと同時に、この吐き気をもよおす数の虫どもも消えてくれるかもしれない。そうなればどんなに楽だろう? どれだけほっとするだろう? 


 鈴仙はありったけの期待と不安と恐れと焦燥を背負って、まだ虫が一匹も取り付いていない鏡を覗き込んだ。


 さっきと変わらないオレンジ色の瞳を持った兎が、そこにいた。


 今しも工場から出荷された鉱物のような、綺麗なオレンジ色の目だった。うっすらと艶を放ち、それを目にする者を魅了せずにはいられないような魔力が備わっているかのようだった。鏡に近づいて凝視する。オレンジ色が大きくなる。瞳孔が大きくなった気がして、綺麗な色の瞳がよく見える。


 瞳孔の内側で、オレンジ色の虫が蠢く様もよく見える。


 魅せられたように鈴仙はずっとそれを見つめていた。やがて目を逸らすと、部屋の中で今も変わらず動き回る虫を一匹一匹見回した………天井に、家具に、畳に、窓に、あらゆる所に。さっきと変わらなかった。むしろ数が増えた気がした。今では虫たちが笑っていた。姫のように密やかに、てゐのように賑やかに、師匠のように穏やかに。


 奴らはとうとう自分を捕まえたのだ。そう鈴仙は考えた。姫は個体差について色々と話し、一日で感染する兎もいれば十日かけて感染する兎もいることを話した。簡単なことだ、鈴仙の場合は大きく時間がかかっただけなのだ。機会はいくらでもあった、虫は鈴仙の中に入り込み、そして―――そして―――鈴仙が気付かないうちに定着させたのだ、自らを。自分の中にあった希望が崩壊する音が鈴仙には聞こえる気がした。それは遺跡が崩れ落ちるように盛大な轟音を響かせて、その身体を地面に横たえた。その代わりに大きく、黒々とした漆黒のような塔が立ち上がり、鈴仙を見下ろしていた。鈴仙はそれを見て頭痛と眩暈と吐き気を覚えた。その名前は知りたくも無かった。


 ふと自分の両手を見下ろすと、一匹の小さな虫が這い出てくる所だった。皮膚を食い破って出てくるというのに、まるで痛覚は無かった。きっと蚊と同じように麻痺させられているんだろう。虫は手のひらの上でひょこひょこと踊るように動き出し、鈴仙を見上げた。一切の感情を持たない蜘蛛のような目だった。鈴仙は叩き潰した。


 それから、拳を硬く握り締めて鏡を殴りつけた。一回でヒビが入り、二回目でガラスが何枚か落ちた。三回目で殆どの鋭いガラスが落ち、中の部分が見えた。


 ガラスの破片を拾い上げて、できるだけ大きく呼吸をしながらその先端を、吸い寄せられそうな魅力を持った尖ったそれを見た。手に触れた所がガラスで切れて血が出てくる。そこから未成熟な虫が出てきても鈴仙は驚かなかった。そう、まだ大丈夫なのは頭だけで、身体は全て乗っ取られているようなものなのだから。完全にコントロールを奪われていないだけマシだろう。


 瞳の中で虫が蠢き、逃げ出そうとしているのが分かった。いまや奴らは怖がっていた―――これまで征服してきたどの星でもこのような反撃を受けたことは無かったのだ。粛々とやるべき事を成し遂げ、奴らは乗っ取ってきたのだから。こんな尋常ではない手段に訴える輩などは存在しなかったのだ。奴らは困惑し、怯え、どうしていいか分からなくなっていた。


「私のなかから出て行け」


 鈴仙は暗く静かな声でそう言った。


 そうしてから、躊躇うことなくガラスの破片で自分の目を貫いた。





 朝になってから鈴仙は発見された。朝食の時間になっても出てこないので、それを不審に思ったてゐが様子を見に行ったのだ。鍵がかかっていたものの、幾ら時間が経っても出てこないので、痺れを切らしたてゐは戸を壊して中に入った。


 部屋の中は血まみれだった。畳から天井まで色んな所に血のりがへばりつき、それと同時に血でもなく水でもなく、体液としか表現しようが無い代物まで飛び散っていた。家具は倒れ、布団は乱れ、なにか言い知れぬ生き物を虐殺したように柔らかいものがあちこち飛び散っていた。凄惨の一言に尽きる光景だった。それを見たてゐは喉元まで出掛かっていた声を忘れて呆然としたが、部屋の中央に鈴仙の姿を見ると悲鳴を上げて逃げ出した。後に彼女は悪夢と妄想にうなされるようになり、半年後には自室で首を吊ることになる。


 鈴仙の遺体は酷く損傷していた。目が潰れていた。鼻が開かれていた。子供が手術をしようとしたようにずさんな手口で開腹されていた。部屋の隅には引きずり出された臓物が投げてあった。腹だけではなく、後に解剖した永琳が診た所、鈴仙は頭のてっぺんからつま先に至るまでをどうにかして自力で切り開こうとしていたようだった。その道具となったガラスの破片(血や体液に汚れきって、どんなに洗浄しても汚れは落ちなかった―――鈴仙の魂がそこに縋りついているように)を死ぬ瞬間まで握り締めていたのか、ガラスが手に食い込んで離れなかった。あらかた鈴仙の部屋を探してみたが、彼女の死体以外に目に付くものは見当たらなかった。


 半狂乱のてゐを永琳が薬を投与して眠らせた後、あたかも決まりきった手順を踏むかのように鈴仙の部屋は清掃され、彼女の遺体は埋葬された。その日の会議で鈴仙の死因は病気、ということが決定した。最早この幻想郷でそんなことが耳目を集めることも無いのだが、それでも身内の人間が発狂して死んだと発表するのは少々刺激が強すぎる。オレンジ色の瞳を時たま光らせながら、輝夜と永琳、そして兎たちは話し合った。輝夜は昨夜の鈴仙については触れもしなかった。輝夜は自分にとって価値が無いと思ったことはすぐに忘れてしまうのだ。


 鈴仙の部屋は空き部屋として使われるようになり、屋敷はいつもの生活に戻った。竹林に囲まれた空間の中で、魔法使いや巫女のような、そんな誰かの訪問を待ち受ける静かな日々に。そして概ね彼女たちはごく普通にやってきた。みんなは鈴仙がいたのは何十年も前のことのように振舞った。オレンジ色の生き物たちが生息範囲を徐々に押し広げていく中、幻想郷の住民たちはそれを当たり前のように受け入れ、共存することを選んだ。


 発狂した月兎の遺体は裏庭にある共同墓地に埋葬された。一日のうちに解剖から埋葬までを行ったために幾分簡単なものだったが、誰が気にするものでもなかった。暖かさの度合いを増してきた太陽が鈴仙の墓を優しく照らし、慈悲に満ちた光を投げかけた。


 そしてその光は、彼女だけでなく土の上で蠢くオレンジ色をした虫のようなものに対しても、同様に投げかけられたのだった。
 
お久しぶりです、作者の復路鵜です。
前作はシリアス物を書いたので、今回は飛びぬけて怖そうな作品を書いてみようと心がけてみました。
とはいえ、ホラー色よりもただ単にグロテスクな描写ばかりが目立ってしまい、気分が悪くなってしまった方にはごめんなさい。楽しんでもらえたならありがとうございます。いやまあ書いててかなり楽しかったんですけれど。
つかこれキャラ的に全然違うだろ! という突っ込みにはただもう、私の力量不足としか言い様がありません。ほんと精進します。
それでは、また次の作品にて。
復路鵜
http://clannadetc.s56.xrea.com/x/top.html
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コメント



0.670簡易評価
3.70名前が無い程度の能力削除
こえええええええええええええええ
6.80名前が無い程度の能力削除
怖い
7.90ルエ削除
すさまじい精神汚染
文章に狂気を感じる
9.90名前が無い程度の能力削除
怖いよ怖いよ怖いよ怖いよ
11.90名前が無い程度の能力削除
俺は何でこんな時間に読んじまったんだ・・・
13.80名前が無い程度の能力削除
こえーな、おい
しかし他のうさぎ達と違って
てゐも完全には汚染されてなかったということなのだろうか…?
14.70aki削除
ああ恐ろしい。
初めは輝夜の与太話だと思ってたんだけどなぁ…。
15.80名前が無い程度の能力削除
これは怖い。。。真夜中に読むもんじゃないね。。。

一つだけ、
>地上では太陽が出ているのかそれとも月が出ているのか考えて、
これ、月の牢獄の中だから、ちょっと表現がおかしいと思う
16.無評価復路鵜削除
さっくりとお返事をしたりしますよ! 思ったより好意的なメッセージが多くてびっくりです。
とりあえず上から順繰りに。

>名前が無い程度の能力さん
やべっ、素で間違えた!
さっくりと修正しました。ありがとうございます。

>akiさん
与太話かと思っていたらいきなり怪談みたいな話ですからね、そりゃ正気も無くすだろう。
個人的には輝夜の狂気はこれくらい突き抜けているんじゃないかと思います。性格が良い姫様も十分アリですが。

>名前が無い程度の能力さん×3
やったね! 存分に震え上がってもらって万々歳です。
とりあえずてゐの立ち位置については、多分感染途中だと思っています。一部分が感染し、一部分が未だフリー、そんな感じ。輝夜や永琳のレベルには達していないのでしょう。

>ルエさん
汚染してみました!
褒めてもらってこちらとしては嬉しい限りです。

>名前が無い程度の能力さん×2
ガッツポーズ!
18.90名前が無い程度の能力削除
うぉぅ、怖ぇ……
なんと言いますか、読んでる途中くらいから背筋がざわざわして色々とヤバイ感じでした。
でも読み応えばっちり、でもでも、今が夜でなくてよかった、ほんとに。

……あれ?
私の目ってこんな色だっ(ここから先は擦り切れていて読めない
19.無評価復路鵜削除
引き続きお返事ですよ! 予想以上にコメントが多いぜ!

>椒良徳さん
ちょwwwwwあんた何してんのwwwwww
とりあえずほめられてうれしいです。まる。

>名前が無い程度の能力さん
ふふふ、楽しんでもらえて幸せ。
まあ目が悪くなったら医者に行きましょう。オレンジ色だとおそらく手遅れですが。
20.70赤灯篭削除
アイディア自体はそれほど目新しいものではないですが、ひとつひとつの表現が凄まじく、なかなかに楽しめました。
しかし復路鵜さんご自身もあとがきで書かれていますが、一部キャラが元のイメージとかけ離れていて全体の雰囲気に違和感があったせいか、いまひとつ怖さを感じませんでした。もちろん私個人の感覚によるところでもあるのですが、少々残念です。
22.無評価復路鵜削除
これで三回目のレスです。ここまで息が長いとは!
>赤灯篭さん
『アイディア自体はそれほど目新しいものではないですが~』
↑ものすごい気になるのですが、できれば詳細を希望したいなあと思ったり。
というかこの方面はこの作品ぐらいだと思ってたよ!
一部キャラのイメージについては………書いてて自分でも首を捻るところはあったので、精進しますの一言につきます。ごめんなさい。次はがんばります。
23.90椒良徳削除
ちょww俺のコメントが消えてるww
まあいいや、消されたならばまた書けば良い。

非常に素晴らしい作品でした。
アイデア、構成、文章力、いずれもハイレベル。素晴らしいものでした。
次が何時になるかは分かりませぬが、あなたの新作に期待したいと思います。
26.無評価復路鵜削除
ここでレスを返す私はきっとマイノリティ。
>椒良徳さん
再びの感想をありがとうございます! というか、前のは勝手に消されていたのですね。
そしてここまで真っ向から褒められるとあわあわするほど照れが出ますよ。ツンデレというかデレデレですよ。
何はともかく、ありがとうございます。
27.80名前が無い程度の能力削除
これはいい宇宙的恐怖ですね。
ゾクゾクしました、いい読み物をありがとう。
28.50いらんこといい削除
夜に読んでしまった・・・夢に見そうです。
でも、一つ疑問点があります。
姫には許可をとってから体を乗っ取ったのに、
他の人(?)達は無理矢理乗っ取ってますよね?
姫様は特別なんでしょうか?
29.無評価復路鵜削除
 今更のようにお返事をしたりしますが、感想がある限りコメントするべきなのが作者であることのアイデンティティだろうと勝手に私が考えているためであったりします。

>いらんこといいさん
 そういや、作品中ではそれについて触れてありませんでしたね。
 一応設定としては、輝夜を宿主として虫たちが考えたために輝夜に対しては了解を取ったのであって、それ以降、他の生き物はただの寝床、もしくは獲物としてしか見ていない、ということになっております。輝夜を宿主にしたのは、最初に触れた相手が輝夜だからですね。
 ついでに輝夜は望んで虫たちに体を明け渡しているので、共同経営ということになります。虫たちもコントロールできるんですが、基本輝夜が好きに出来るんですね。
 分かりにくい設定だったようで、申し訳ない。

>名前が無い程度の能力さん
 ありがとうございます。書いてから気付いたんですが、これかなりラブクラフト混じってますよね。うーむ。
30.100れーね削除
とても上質なシリアスホラーをありがとうございました。

怖えぇー!蟲怖ぇーー!!
31.90名前が無い程度の能力削除
最後の一文があまりに秀逸。



>これかなりラヴクラフト混じってますよね

きっと「虫」たちは、ユゴスとかン・カイ辺りから涌いて出たに違いない(笑)
34.100名前が無い程度の能力削除
うわあ…こいつはキツイ……
これ読んでB.B.J○kerのアイツを思い出したのはここだけの話。