Coolier - 新生・東方創想話

老人と孫(三)

2007/04/27 05:01:27
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 眠ってすぐに目が覚めた。寝ぼけ眼で時計を見ると、いつも起きる時間よりも早い。もう少し眠ろうかと思ったが、体の中にある神経が目覚めると同時に冴えてしまったようで、このまま布団に包まっているよりも起き上がったほうが良いと判断した。障子を開けると冷たい空気が部屋の中へと浸入してくるが、妖夢は身じろぎもしなかった。さっきまで自分が横になっていた布団を畳んで仕舞って、朝の支度をはじめる。半霊もその動きについて、寝起きのためにいつもより遅めに飛び回る。


 屋敷の裏手にある井戸で顔を洗うと、まだぼんやりしていた頭の隅に冷水による刺激が行き渡り、完全に目が覚めた。軽く伸びをしてから妖夢は、毎日そうしているように朝食の支度や屋敷の点検などをするために動き出した。


 いつもは寝起きが遅い幽々子様も、今日に限っては妖夢が声をかけると素直に起き出してきた。厨房専門の幽霊と一緒になって作った朝食を妖夢と一緒に平らげていく。目の前で鮭の皮をおいしそうに口の中に入れる幽々子様を見て、今は何を考えているだろう、そう思いつつも妖夢は味噌汁をすする。いつもは味噌汁を飲めば胃の中がじんわりと温かくなり気持ちがいいのだが、今日に限っては泥水を無理矢理飲み込んだような感覚でしかなかった。


 祖父が妖夢に来るよう言っていた時間にはまだまだ間があったため、午前中の間、常日頃そうしているように妖夢は庭の整備を行っていた。草木の剪定、昔は猛威を振るったらしいが、今ではただの老木にしか見えない西行妖の監視、不法侵入者がいないかどうかの見回り。何年も、何十年も繰り返し行ってきた作業のために、もう妖夢は作業をしながら考え事ができるぐらいまで手馴れていた―――もちろん、仕事中にそんなことをしてはいけないことは承知している。だが、幾ら意識していてもどこかから湧き出てくる埃のように、どこからともなくそれはやってくるのだ。


 幽々子様はあの洞窟へ行くと言っていたが、果たして実際に行ってから祖父に何をする積もりなのだろうと、そう言う疑念を抱いていた。昨日の時点で彼を助けることは難しいと言っていたし、だとすれば安楽死でもさせてくれるのだろうか? なにせ幽々子様は死を操る能力を持っているのだから。そうだ、そうすれば祖父は苦しむこともなく楽に逝けるし、例え助かったとしてもあんな状態では生き長らえることの方が気の毒なんじゃないか。


 ここまで考えてから、ああやっぱり、自分は祖父のことを他人にしか見ていないのだなあ、と何の感慨も持たずに妖夢はそう思った。自分の血が繋がっている人なのに、まるで今にも死にそうな老犬を眺めるぐらいの目でしか見ていない。止まりがちだった手をとうとう完全に止めて、妖夢は雲がかかり始めている空を見上げた。おどろおどろしく厚い雲が空を覆おうとしているから、もうじき雨が降るだろう。早めに帰った方がいいかもしれない。


 虚無感すら感じられる灰色と黒色が混じった思考の中で、妖夢は似たような灰色の空を見つめながら、庭をうろついている幽霊が疑問に思う中を、ただ木のように突っ立っていた。


 あまりにもそれが来るまで長く思えた昼がやってきて、おぼつかない手つきで昼食を食べ、そして過ぎていった。今日は幽々子様も昼寝をせず、外出の用意を整えると部屋で鏡をじっと見つめていた妖夢に声をかけた。いつもであれば支度を終えた妖夢がもたもたしている幽々子様を呼ぶのが普通だったから、これは不思議なことだった。二人は連れ添って家を出た。


 道中は、道を知っている妖夢が先導した。地べたの上を生い茂る草を踏みにじり、二人は無言のまま進んでいく。二人の後ろをそのへんでふわふわしている幽霊が何匹か面白半分でついていったが、その距離が長いので直に諦めて離れた。二十分か三十分ぐらい歩いた頃、昨日の洞窟を見つけた。確かに妖夢が言ったとおりねえ、とのんきな口調を崩さずに幽々子様は言った。まるでぽっかり空いた穴みたい。


 明かりを持った妖夢が入ろうとすると、幽々子様はそれを止めた。怪訝に思う従者の横で、幽々子様はどこから呼び出したのか人魂を出現させると、洞窟の中へと放った。意識を持たない人魂は闇の中を物怖じせず進んでいく。やがて暗闇の中で苔が放つ明かりよりも強く、人魂の青白い炎が一本道の監獄をごうごうと照らした。さ、入りましょ。幽々子様はそう言って先に入り、妖夢もそれに続いた。


 やはり明かりという存在があるからか、洞窟の中は天井や壁など、非常に見易くなっていた。人魂はどうやら奥の広場にまで同じように繋がっているらしく、昨日のようにおそるおそるではなく、ごく普通の速度で二人は歩くことができた。


 広間に入って最初に目に付いたのは、壁際に散らばる人骨だった。打ち捨てられたようなそれらは、放置されてから相当な年月が経ったせいかひび割れ乾燥しきっており、指一本でも触ればたちまち崩れ落ちそうに見えた。状況から見て、こんなことをできたのは彼しかいなかった。


 祖父は昨日とまったく同じ体勢でそこにいた。壁にもたれ、右手には長い剣を持っている。周りに人魂の残骸らしきものが落ちているのは、おそらく祖父の近くに行き過ぎて斬られたのだろう。暗闇ではよく見ることができなかったが、やはり彼が持ったそれは物干し竿に似た尺の長い剣で、不変の日々を動くことのない彼と一緒にいたにも関わらず、整備されていたように錆一つついていない。あれが昨日、自分の体を切り裂きかけたのだと思うと、並々ならぬ感情が込み上げてくるのが分かった。


 それから祖父の顔をまともに直視した途端、妖夢は悲鳴を上げそうになった。口を両手で押さえてそれを辛うじて押し留めるが、妖夢の様子を見て取ったらしい祖父は、自嘲混じりの笑い声を上げた。幽々子様は扇を口元に持ってきて、じろりと祖父の顔を見つめる。嫌悪感の域にまでは至っていないが、何らかの興味を呼び起こしたらしい。


 祖父の顔は―――祖父だった物の顔は、一言で言えばミイラだった。体中の血液を右手の物に吸い取られ、何十年何百年も誰も立ち入ることのない洞窟の中にいたせいか、彼は人間としての原型をぎりぎりで保っているに過ぎなかった。顔の筋肉が所々でねじれ、そのパーツはあちこちが不具合を起こしたようにひんまがっている。片方の目がなくなっており、元々それがあった所にはカスらしきものが見えた。昨日私はあれと話をしていたんだ、失神寸前の状態で妖夢はそう考え、ふっつりと消えていきそうな意識を動かない頭でどうにか繋ぎ止めようとする。


(そんなに酷いのか)
 どこか笑いを誘うような口調で祖父は言い、そのおかげで妖夢は消滅しそうな自意識をどうにか取り戻すことができた。僅かに吐き気を覚えていたが、我慢しようと努める。(やれやれ、ここには鏡なぞ無いから自分がどうなってるのか分からんわ。困った困った)


「あなたのそれ」と、幽々子様が口を開いた。顔の事に言及するのかと妖夢は思ったが、そうではなかった。
「手に持った剣がそうさせているのね? うちにいた時はそんなもの使えなかったし」


(如何にも、幽々子様。これが実際なんなのか、使っている私にも検討がつきませんが、いつ頃なのか使えるようになっておりました。念話、というべきでしょうかな?)


 幽々子様に語りかけたらしいが、それが自分の頭の中にも響いて、妖夢は反射的に耳を押さえた。今ではもう大きな波は去っていき、そういった些事にも気を回せた。


(ややこしい事態を作らないために、私の声が二人に届くように調整しました。ついでに、私に話しかければそれをもう一人が耳にすることも)


(それは良かったわ、めんどくさくならなくて済むもの)
 幽々子様は落ち着き払った様子で祖父に答えた。最初は妖夢も戸惑ったテレパシーについて、幽々子様は割とあっさり受け入れることができたようだった。


 少しの間、幽々子様は祖父を注意深い目付きで上から下まで眺めていた。なにか話しかけようとしたらしい祖父も、幽々子様のその振る舞いに気付いたのか、ぴたりと押し黙る。幽々子様は頭のてっぺんからゆっくりと視線を下げていき、つま先に向かうまで集中した様子だった。最も長い間視線を注いだのは、祖父が右手に持つ剣だった。ひょろりと細長いそれは、あまりに豪奢な光を放っているものだから、実際に人を斬るよりも骨董品として扱った方が良い様に見えた。


(ざっと見てみたけど)と幽々子様は切り出した。(やっぱり、その剣に操られているらしいわね、あなた。そんなのが欲しくなるなんて、あなたも堕ちたわねえ?)


 はは、と祖父が穏やかに笑った。それはこんな状況でよりも、親しい友人と茶を飲みながら立てる笑いに相応しいように思われた。


(細分は違いますが、おおまかには仰るとおり。これは欲を出した結果のようなものです。如何です? 私の体の具合は)


(悪いわね、肉体は完全に滅びたようなもので、どうにかこうにか剣が魂を繋いでいる状態。ずいぶん長い間そこにいたらしいから仕方ないと思うけどね。それと、今のあなたはもう幽霊みたいなもの、はっきり言えば肉体を持っていられることが奇跡に近いのよ。………正直、紫や八意―――これはつい最近知り合った薬屋のことね―――でも完全な治療は難しいでしょうね。それどころか、そこから動かすことも難しいと言わざるを得ないわ。下手したら一生そのままね)


 祖父が持っていただろう僅かな希望を粉みじんに打ち砕くような事を、何でも無い事のようにすらすらと幽々子様は述べ立てた。けれどもそこに感情らしきものは見当たらず、書類を読み上げるように淡々とした調子だったから、かえってそれが幽々子様の心情を表しているようだった。いやはや手厳しい、とさっきの調子を崩さずに祖父は答えたが、それがあまりにも楽観的な返答だったため、妖夢は本当に祖父がこの事態を憂慮しているのか一瞬分からなくなった。


 そうしてから祖父は、目だけを辛うじて動かして妖夢に視線を向けた。妖夢は何か話しかけられるのだろうかと思ったのだが、二人の視線がかちあったのもつかのま、祖父の視線はすぐに離されて、幽々子様の方へと向いた。


 気のせいか、さっき妖夢に向けた目付きにはどこか仄暗い物を感じ取ることができた。公けには決して言うことのできないもの、自分自身の中で留め置くことさえ罪に思えるようなことを。だが妖夢はそれを口に出すわけにも行かず、幽々子様が再び話し出す様を横目で見るだけだった。


(まあここで突っ立っていても仕方が無いし、とりあえず妖夢、座りなさい。それから妖忌、あなたが家を出て行ってからもう何十年? かしら。まあそれぐらい時間が経っているけど、その間に積もり積もった話したいことが山ほどあるから、ちょっと三人で話さない? ここで辛気臭い話ばっかりするのもアレでしょ。気分を切り替えないと)


 残念ながらお酒は持ってきていないんだけどね、と最後に幽々子様は冗談を飛ばし、しばし場が和やかな雰囲気になった。妖夢も口元を緩めて、もし二人だけなら凍りついているような場所を、ぎりぎりの所で居心地良くしてくれる幽々子様に感謝する。


 言われるがままに妖夢は石造りの床の上に正座した。足に苔の一部が張り付いたのか、濡れた土を触ったような感触がする。座り込んだ体勢から見ると、人魂が淡く照らす幽々子様は壁に寄りかかる祖父の姿が、よりいっそう妙な感じに見えた。


(そうですな。いやいや、あなたに言われるまで自分でもそう考えなかったとは、余程ここでの暮らしに慣れきっていた証拠でしょう。どうぞ存分にお話くだされ、ここにいる間に何が起きたのか、非常に興味があります) 


 こうした感じに、薄暗い洞窟の中で座談会のような物が始まった。主に話は幽々子様がリードし、専ら祖父は聞き役、妖夢は求められた時に頷いたり、幽々子様が喋り疲れた時に別の話をするぐらいのものだった。感情を形作る枠組みが一本外れてしまったように、話の間、妖夢は何も感じることがなかった。というよりは、何も感じないようにしようと無意識に努力しているようだった。それがどうしてなのかか、妖夢は努めて考えないようにしていた。


 話の内容は白玉楼に関してのものから、幻想郷全体についても広がっていき、最近友達のような間柄になった博麗神社の巫女や黒白魔法使い、その他死神や鬼に天狗、不死の人間などの知り合いについてまで、幽々子様はこれまで失ってきた時間を修復するかのように精力的に喋り続けた。そうした話題が完全に尽きてしまうと、幽々子様は冥界での最近の生活ぶりについて得々と語り始めた。とは言えその内容は、妖夢が何かミスした、妖夢が勘違いした、妖夢が寝過ごした、などと大半が妖夢に関するものばかりだった。これは祖父に何か小言を言われるだろう、ひょっとしたら久しぶりに雷でも落とされるかもしれない―――そう本能的に体を硬くした妖夢だったが、それに反して祖父は笑いながらそうした話を聞いているだけだった。ここにいる間に棘が取れたのかな、とさっきまで無感情のまま話に加わっていた妖夢も、そう思うと無邪気に頬が歪んだ。


 とうとう完全に話の種が無くなってしまった幽々子様は、強く疲弊した様子でどうにか何かをひねり出そうと苦心していたが、妖夢が外が暗くなっていることを指摘すると(大分前から日が暮れ始め、今ではとっぷりと闇に漬かっていたが、幽々子様の様子が必死にも見えたため、敢えて言おうと思わなかった)幽々子様はしぶしぶ今日は帰るわ、と妖忌に言った。妖忌はとても人間らしく温かい笑い声でそれに応じた。分かりました、ではまた明日、太陽が明けたらお待ちしております。


 人魂はこのままにしておこうかと幽々子様は尋ねたが、妖忌はそれをきっぱりと断った。いえ、明かりがあるのはいいのですが、慣れていないせいか目が痛くなり始めているのです。このまま太陽の光を目にすれば、もしかすれば目が潰れるやもしれません。ですので、今日はもう明かりは結構です。そのお気遣い、真にありがとうございました。


 幽々子様が人魂を消すと、瞬きするような間に新月よりも深い闇が洞窟を包み込んだ。手元に一匹だけ残した人魂で明かりを確保しながら、それじゃまた明日、と幽々子様は声をかけて先に出て行った。妖夢は別れの言葉を言わなければならない、と思いつつも何をどう口にすればいいのか分からなく、無言で頭を下げた。


(それではな、妖夢)
 祖父はさっきとは打って変わって、ごくごく静かな口調で呟いた。


 もう言いたいことは言い終えたのだろうと妖夢は推測して、彼に背を向けた途端に祖父がもう一度、さっきと同じような声で、それでいてどこか声を構成する一部分が変質したような、不思議な感じで口を開いた。


(楽しみにしているからな)


 妖夢は振り向いて、既に苔の作り出す明かりの中に没入してしまっている祖父の姿を見た。彼は妖夢を見ていたが、その視線は妖夢を見ていなく、妖夢の中にあるものか、もしくは妖夢のずっと先を見ているように見えた。薄ら寒い感覚を妖夢は覚えて、何も言わずに背を向けて、ずんずん先を歩いている幽々子様を追いかけて歩き出した。


 その背中に突き刺さる視線が、さっきの視線と同じように、何よりも不穏な物に思えて仕方が無かった。





 脱出するために岩を壊し始めてから五日が経過した。とは言え、これは五回眠ったという意味での五日であって、実際には何日経過しているのか彼にはてんで見当もつかなかった。暗闇のせいで体内時計が完璧に狂ってしまったからだ。


 手元に残る刀はあと半分というぐらいだったが、肝心の岩は崩れそうな気配をこれっぽっちも見せなかった。確かに振り下ろした箇所には少しずつ亀裂が入っているものの、完全に崩壊するまで刀の本数が保つとは思えないし、なにより自分の体がその前に壊れてしまうだろう。こんな事ならば、西行寺家にいた時に弾幕を覚えようと努力すれば良かっただろうか、と彼は痛む足を抱えて思った。幽々子様や妖夢は使えるらしいのだが、相性が合わないからか弾を出す訓練自体をしなかったからか、彼には使うことが出来なかった。最初から才能が無かったと言えば嘘になるかもしれないが、剣士という存在が飛び道具に頼ってどうする、という偏見を持っていたことも習得を邪魔する要因だったのかもしれない。


 足の血は既に止まっていたが、代わりに噴出した激痛が尋常ならざる速度で彼の体を駆け巡っていた。しかもその痛みは体の各所に分散し、腕や腹までもが傷を負ったように感じられた。脳が受容できないほどの痛みが時折足首から雷のように迸り、刀を持った状態で失神していることが多々あった。それでもだいたいの時間は正気を保っていられるのは、激痛に慣れ親しむ訓練を行っていたからだろうか。


 そのうち、妖夢の幻覚を見た。


 ある時眠りから醒めると、すぐ傍で妖夢がしゃがみこんで彼を見ていたのだ。その仕草や表情があまりにも自然なものに見えたため、彼は最初から自分の孫がそこにいたのではないか、という思いに囚われた。だが、妖夢がここにいるはずが無かった。これは幻だ、痛めつけられた脳が発する意味の無いイメージだ。彼はそう決め付けたが、幻である筈の妖夢は消え去らなかった。


 それどころか、「おじいちゃん」と笑いながら彼女は彼の顔を触った。唐突なそれに彼は驚いたし、何より触れられた箇所にその実感があったことに彼は驚愕した。それが頬に触れた途端、長いこと感じていない体温が彼女の指を通して彼の中に入り込むかのようだった。妖夢の目はじっと心配そうに彼の顔を見つめる。まるで傷口を目にし、彼の焦燥と不安を悲しんでいるように。実際にそこにいるかのように。


 彼は幻の手を取った。その手が握り返してきたことや、手のひらにじんわりと染みる温かさのせいで、思わず彼は泣きそうになった。だが孫の前で泣くわけにはいかないという奇妙なプライドがそれを抑え、結果的に彼は涙を流さなかった。


「妖夢」
 久方ぶりに喉から声を出したが、一切水分をとっていないためか、からからに乾いた声しか出なかった。それでも妖夢には届いたらしく、にっこりと、幼い子供のように笑った。その表情に彼は見覚えがあった。


 ああそうか、と気付く。この妖夢は、俺が稽古をつける前の妖夢だ。まだ剣の振り方や持ち方も知らない、俺の足元をちょろちょろ走り回っては見る物全部に目を輝かせていたかわいい孫だ。湖の底に堆積している砂が浮き上がるように、それはゆっくりと記憶の中から浮上してきた。


 お前は本当に幻覚なのか―――そう問いかけようとして、ふっと妖夢の姿が消えた。後で思い直してみると、もしその問いに妖夢が答えていたなら、自分は幻覚との戯れに夢中になり、結果として狂っていたのかもしれなかった。そう思うと僥倖と言える物だったかもしれない。


 妖夢の姿を探そうと首をめぐらした所で、嫌に響く少女の悲鳴が聞こえて、彼は咄嗟に耳を塞いだ。どうしてそうしたのかは分からないが、心の底にある本能的な感覚が、これを聞いてはいけないと叫んだのだ。これは数ある音のうちでも最も嫌なものだ、おぞましいものだ、だから聞くな、耳に入れるな、絶対にそれが何であるのか考えようとするな。


 だが彼は無視しようとせず、おそるおそる声のする方を伺った。そこには妖夢がいた。さっき彼に笑いかけた時よりは体が大きくなっており、竹刀を手にしている。彼女はわぁわぁ泣き叫びながら頭を抱え、地面に蹲るような格好になっている。よく見ると体のあちこちに傷ができており、手の甲や太股には幾つも青痣が浮き上がっている。


 それもそのはず、彼女の後ろではかつて稽古をつけた存在である自分が、頭の悪い犬を叱り付けるように竹刀で妖夢を殴りつけているのだから。


 幻覚である自分自身は妖夢にしか聞こえない声で怒鳴りながら、芋虫のような体勢を取った孫に鞭のようにしなった竹刀を打ち付けている。その竹刀を振る体の動きにはあまりに容赦がないので、声が聞こえない彼でさえも後ずらさせるものがあった。だが妖夢の方は彼にもしっかりと聞こえる泣き声をあげ、怒れる師の制裁から逃れようと身をくねらせている。やめろ!! と彼は叫んだが、殴る側にも、殴られる側にも声は届いていなかった。師匠は弟子を殴り続け、弟子は師匠に殴られ続けた。師を見上げると、それは鬼もかくやという形相で、まるでそうすることが定められたことであるかのように、力の限り竹刀を振っている。きっとあの頃の妖夢から見れば、俺は鬼だったんだろう。そこで彼は、妖夢の手の甲や太股についた痣の原因を思い出した―――彼女を何らかの原因で叱責する際、いつも彼はそこを狙って打っていたからである。理由は簡単、素肌がむき出しになった所ならば痕になるからだ。


 妖夢の姿を目にした時、聞こうと思わなかった泣き声が耳に入ってしまい、彼はその悲鳴から逃れようと手を耳に強く押し付けなければならなかった。かつて過去に自分がしたことから目を背け、耳を塞ぎ、彼は早くこれが終わりますように、といるかもどうか分からない神に向かって祈った。この時ばかりは足首から悪意を持って飛び出す痛みさえも忘れた。


 許してくれ妖夢、許してくれ妖夢、許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれお願いだから許してくれ………!!


 外界からの情報を出来うる限り遮断しながらも、彼は祈り続けた。ようやく声が消えたように感じられて、心底から安堵して彼は手を離した。


「お爺様」という声が背後から聞こえたのは丁度その時だったため、彼は飛び上がりそうになった。さっきから格段と早く脈打っている心臓の鼓動が一段と早まり、目の前に赤い点がちらつく。このまま失神できたなら良かったが、残念なことに意識は明瞭なままだった。


 声のする方を振り返ろうとして、さっき聞こえた声が妙に機械的だったことが心の中に浮かび上がる。それを理解した途端、背筋をこれまで感じたこともない悪寒が這い登ってきた。その悪寒は氷などの凍りつきそうな物ではなく、触れれば手が腐り目にすればそれが潰れるような、悪魔の世界に潜む爬虫類のように禍々しい代物だった。


 今まで見てきた幻覚は、かつて自分が見てきた妖夢だった。だからその法則らしいものに準じれば、これから見る妖夢も自分が見てきたものになる。だが自分はそれからの妖夢の姿は一瞬たりとも見ていない。すると―――


 ―――あの宿屋で思った、機械的な人形と言う言葉が、喉からせりあがる吐き気と共に蘇ってきた。自分が想像し得る限り一番恐ろしい彼女の未来、人間としての心を奪われた哀れな生き物。その未来を実際に辿った妖夢が、自分のすぐ後ろにいるとしたら? 


 彼が自分の行ったことによって作り出されたかもしれないおぞましい存在を知覚するよう、じっとその目を正面に据えて待っているとしたら?


 お爺様、と再び人形のような声が聞こえる。声帯が潰されているのか、まるで木の葉と木の葉が擦れるような音にしか聞こえない。どこか呂律が回らない口調のようにも聞こえたから、口が変形しているのかもしれない。


 ねじくれた指先、殴られ続けてとうとうへこんでしまった頭蓋骨、目が片方潰れ、鼻がひしゃげ、歯が一本残らず折れた口、長年竹刀で打たれ続けた内臓はおかしくなり、肌の色さえ変わってしまっている。彼は自分でも薄々感づいている、背後の存在の顔かたちについて部分部分を想像することはできたが、それら全てを合わせた所を考えるのはどうしても無理だった。彼は寒さに凍える赤ん坊のように震えながら、無意識に悲鳴を上げていることに気付いていなかった。


 恐怖とともに、嘆きとか、悲嘆とか、後悔とか、絶望など今までどこにあったのかも定かではない心情が頭の中から滑りだし、彼の中を満たそうとした。思い切って叫びだし、そうして振り返りたかった。いっそのこと、自分が作り上げたおぞましい生き物の姿をこの目で見ることで己が犯した行為の清算をしたかった。


 だがそれがもたらすのは、完全なる狂気でしかないのだ。それと対面することはもはや正気の沙汰ではない。己の中で極限まで増幅された恐怖が作り出したまがい物と対面することなど、まっとうな人間にできることではないのだ。振り返った後の事なんて想像することさえできないが、気を狂わせるほど恐ろしいことが起こるのだということは確実に理解できる。そして彼は、それがわかるだけで十分なのだ。


 彼はおもむろに、手に持った刀で足首の残った部分を貫き、刃先を回してぐりぐりと押し込んだ。止まりかけていた血と狂気と苦痛がこれまで以上の激しさで噴き出し、彼は苦悶の声を上げて目を閉じた。その途端、背後にいた筈の妖夢の姿が消えるのがはっきりと分かった。


 暫くの間、地面の上でのたうちまわっていた妖夢のように苦痛と悲哀にもがきながら、彼はあの幻覚が消えてくれたことにひたすらほっとすると同時に、外にいるはずの孫が最悪の未来に至っていないことを、ひたすらに祈るのだった。





 翌日、再び妖夢と幽々子様は洞窟を訪れた。今度は先日香霖堂で仕入れた日本酒を持っていって、祖父と一緒に酒を飲み交わした。とは言っても祖父の状態ではまともに酒を飲むことは不可能なため、お供え物でもするかのように刀が届かない位置へと酒が入ったお椀を置くだけだったが。先日に祖父がそれを提案した時、それでは祖父だけが飲めないだろうと幽々子様は渋ったのだが、是非とも久方ぶりに幽々子様が酒を飲む所が見たいという祖父の要望で、三人だけの宴が開かれることになったのだった。妖夢自身は飲む気は無かったのだが、孫が酒を飲む所を見たいと祖父にせっつかれては渋々お椀に口をつけるしかなかった。


 その翌日も、更にその翌日も、妖夢を含めた二人は祖父が閉じ込められていた洞窟に入っていった。そのせいで博麗神社などに出入りする割合は減ったが、それで誰が文句を言うわけでもなかったので、そのままにしておいた。初日や二日目にこそ祖父は正気と狂気の境目でふらついているような、危うげな様子を見せはしたものの、今では他人と言葉を交わすことによって完全に理性を取り戻しているように妖夢には思われた。これで祖父に憑依した刀と祖父の体が手の施しようもないほど滅びかかっている事実を抜かせば、きっと幽々子様は彼を迷うことなく家へと迎え入れるだろう。


 一方で、幽々子様と妖夢の間の気持ちには明らかに温度差があった。祖父に対する二人の反応を鑑みれば当たり前のことで、幽々子様はそれを看破しているようだったが言い出す気は無いようだった。妖夢も幽々子様と同じく、問題をややこしくする積りは無かった。


 妖夢の中では、最初の日の夜、寝る直前に抱いた恐れと不信感が未だに首をもたげたままだった。時間が経つにつれて、祖父が凶行を起こす心配も殆ど無くなったと言えるのに、その不安によって作り出された感情は根強く残っていた。幽々子様と笑顔で会話のキャッチボールをしている祖父の姿を見ていても尚、どこかでボールの投げあいを放棄して、刀を抜き放ち祖父が襲い掛かるのではないか、と思う自分がいることに気付くのである。


 果たしてそれはどうしてなのか、と突っ込んで考える気にはならなかった。考えたくも無い事ではあったし、その理由について薄々心当たりがあることが更に嫌悪感を煽った。


 まだ自分は、祖父から殴られることを恐れているのだ。祖父が突然自分に向かって歩き出し、手に持った刀の峰で顔を殴りつけることを怖がっているからだ。そんなことはまずあり得ないだろうと理性が承知していても、妖夢の奥底にじっと身を潜めている物はそうは思っていないのだ。言うなれば、トラウマという奴だろうか? 妖夢は心理学なんてものに詳しくは無かったし、知り合いにそういう関係に精通している人間がいるわけでもないが、その単語自体はどこかで聞いたことがあった。きっと外の知識が流れ着く香霖堂か、大規模な蔵書を持つ紅魔館の図書館あたりで得た知識だろう。


 だがそれを知ったからと言ってどうなるものでもなかった。そう、自分が仮にトラウマを抱えていたとしても、これから何をすればいいというのだ? 祖父にあくる日のことを問いただして、あの修行は間違いだったと謝罪させればいいのか? そんなことで解決できる代物なのか? そもそもこれ自体解決できる病気なのか?


 悶々とした思いが脳裏をちらつき、さながら無限ループのように思考が堂々巡りする。そんな心の霧を抱えたまま、祖父の元を尋ねるという妖夢にとっては機械的な作業は一週間目を迎えようとしていた。


 尋常ならざる変化が訪れたのは、その日のことだった。


 もう七回以上も同じ道を通るとならば慣れたもので、その日も山肌に沿った道を楽々と歩きながら、妖夢と幽々子は洞窟の中へと入り込んだ。薄暗い通路は、五日目になって祖父からの了解を貰って取り付けた人魂によって照らされ、足元がよく見える状態となっている。妖夢が先導して入ると、天井辺りにぶら下がっていた蝙蝠が二匹、悲鳴をあげて外へと飛び出していった。


 最奥部の壁に寄りかかっていた祖父は、果たして昨日と同じ姿のままだった。その様にどこかほっとした気持ちを覚えると同時に、いなくなってくれれば良かったのにという人らしからぬ考えが浮かんでくる。そんなろくでもないことを考えてしまっては二人に失礼だ、と心の中で自分を戒める。今日もお酒を持ってきたわよー、と日向ぼっこでもしているかのような調子で幽々子様が言い、手に持った一升瓶(ラベルには水道水と書いてある)を祖父にも見えるよう持ち上げた。


(ほう)と祖父が言って、幽々子と妖夢はその近くへと座り込んだ。刀の届く範囲まで近寄らないために、ぎりぎりの範囲を線で囲ってある。これも見世物にするみたいで幽々子様は反対したのだが、万が一のことが起きないように、と祖父が押し通したことなのだった。


 嬉しそうに酒の自慢を始める幽々子様と見つめながら、祖父が一瞬こちらの様子を伺ったことに妖夢は気付いた。これまでとはまるで別種の目付き―――よく尖らせた刃のように鋭利な、不穏なものを感じさせるものだった。妖夢はこれと同じものを以前に見たことがあった。二日目、妖夢が幽々子様と共に訪問した際、祖父から投げかけられた視線だ。


 だけど、どうして今になって?


 妖夢が疑問に思っていると、それを感じ取ったのか、祖父がやんわりと幽々子様の説明を遮った。その口調にもどこか鋭さを感じさせる物が加わっており、幽々子様はすぐに口を閉じた。両目を閉じた祖父は、何かに耐えるように眉をしかめたかと思うと、次の瞬間には目を開けており、妖夢にこう告げた。


(俺をな、斬ってくれんか?)


 その言葉の意味を一瞬量りかねた。言葉の意味は理解できるし、文法にも奇異な箇所はない。誰に向けて発言したかは含まれていないが、多分妖夢に向けて言ったのだろう。だがそれら全てを一緒くたにすると、途端に訳が分からなくなる。祖父は何と言った?


(妖夢、お前に俺を斬ってほしいのだ。ずばりと、胸を切り裂き、そして一思いに俺を殺して欲しい)


(どうして、ですか?)
 テレパシーだというのに、自分の声が驚きで掠れているように妖夢には思えた。


(そうだな。理由がいるだろうな。やっぱり)
 祖父はそう言ってから、黒く濁った瞳で幽々子様を見た。
(幽々子様、あなたにはこの一週間を良くしてもらいました。おそらくこの七日間は、私が過ごした中で最良の日々でしょう。本当にありがとうございます)


(お爺様、どうして―――)全く違う話題でお茶を濁そうとしているのかと思い、妖夢は尋ねなおした。


(俺はな、生き過ぎたんだ。妖夢。本当なら俺は、五十年前か四十年前にでも死んでいなければならない人間だ。それがこんな僻地に閉じ込められ、壁に繋がれて、無理矢理生き永らえさせられた。この剣に、忌々しい剣にな。蓬莱人は大抵ろくなのがいないというが、それがどうして分かった気がするよ。


 だからな、ここらでそろそろ俺の人生にも決着をつける必要がある。妖夢、お前の白楼剣ならそれが出来るだろう、その幽霊を成仏させられる剣を使えるのは、ここではお前一人だけだ。それに幽々子様のお手を煩わせるわけにはいかんからな)


(でも、でも妖忌)
 珍しく狼狽した声で幽々子様が割って入った。
(それならもっと後でもいいんじゃないの? 私達は毎日来られるし、他の人間を呼べば宴会だって出来るだろうし、そうすればあと何年も楽しい思いをできるじゃない?)


(そうでしょうね、幽々子様。ですが―――ですが私は、もう真っ当な生を過ごすことは出来ません。私は魂魄妖忌ではなく、最早死期を逃したミイラのようなものです。この剣の呪縛が解けたとしても、死ぬまで歩くことはできないでしょうな。


 それにもう一ヶ月もすれば、私はもっと楽しく生きたいと、長く生きたいと思うようになるでしょう。他の人と触れ合ったり、物を食べたり、酒を飲んだりしたくなるでしょう。もう二度とできないようなことをしたがるようになるでしょう。そうなれば楽しかった日々が反転して生き地獄になり、成就できるはずもない欲望は無限大に膨れ上がり、私は暗闇に閉じ込められた時のように気を病み始めるでしょう。そうなればあなた様のみならず、妖夢や西行寺家にすら迷惑をかけることになるでしょう。この一週間を限度と私は決めておりました。この日を最後として殺してもらおうと、心に決めていたのです。


 どうぞお許しください幽々子様、そしてありがとうございます。あなたは私にとって最高のご主人でした………あなたのお父上よりも)


 最後の言葉を言った束の間、祖父は笑顔だったように妖夢には見えた。幽々子様は反論しようとしたが、すぐには言うべきことを思いつかず、結果として黙っているようだった。


 祖父の並々ならぬ問いかけに対しての答えは、既に妖夢の中にあった。ただ一言、受けます、と、それだけを口にすればいいのだ。


 彼が口にした言葉を反芻していくと、どんどん自分の中に満ち満ちていた熱が冷めていき、残るのは氷のように冷え切った体と心だけだった。簡単なこと、酷く簡単なことだ。


 目の前にいる生き物は自分を殺すよう妖夢に懇願している。人ならば受けないわけにはいかない。それにこのミイラもどきと成り果てた人は、もう人間としての生を謳歌することもできないのだ。情けをかけるべきなら、いっそこの場で返答も無しに叩き切ってやった方がよっぽど良いだろう。


 全てがお膳立てされており、あとは妖夢の意思一つでしかない。


 だが、妖夢には答えられなかった。


 受けますという、ただ一言を言えなかった。


 自分自身でもそれに狼狽しながら、妖夢は言葉を口にしようとするが、舌がどうにも上手く回らない。今となってはまともに話すことさえ困難なように妖夢には感じられた。幽々子様が心配そうに視線を向け、祖父は問いの答えを待ち兼ねるようにどこか焦りのような物を感じさせる視線を向ける。二人の視線が容赦なしに体へと突き刺さり、妖夢はどう答えていいのか分からなくなった。


「………少し、時間をください」


 テレパシーで話すことさえ忘れて、妖夢は立ち上がると、早足で洞窟の入り口へと歩き出した。何か大切な問題から逃げ出すように思えて顔が赤くなるが、構わず足をどんどん進めた。


 入り口から太陽の下に出るまで、止めようとする声はかからなかった。





 十日を越えた時点で数えるのをやめたため、ここに閉じ込められてから何日が経過したのか彼には分からなくなっていた。いっそのこと分からない方がいいのかもしれないな、と自嘲気味に呟く。そうすれば、目の前の事に神経を集中できる。


 憎んでも憎んでも余りある巨大な岩は、今もまだ彼の行く手を阻んでいた。その巨体を繰り返し繰り返し斬り続け、腕の感覚が消えうせる程続けても、それは彼のことを嘲笑うかのようにそこにあり続けている。お前のやっていることは無駄なことだ、さっさと諦めてそこでくたばれ、と言い放つかのようだ。事実彼は、岩がそう喋るのを二度か三度聞いたことがある。暫く時間が経ってから、それが幻聴だったことにようやく気付くほど、それはさも当然という風に喋ったのだ。


 今ではもう、彼は休息のために座ることさえ出来なくなっていた―――座ってしまえば、激痛に苛まれるのを恐れて二度と立ち上がれなくなるのではないかと思ったためだ。そのため、岩を斬りつけては壁を伝いながら奥へと戻り、壁によりかかって休むようになっていた。とっくに腐っている山賊どもの死体が鼻をおかしくさせるほどの悪臭を放っても、今の彼はそんなことを気にもかけていない。より長く動き続けるために余計な機能を遮断するためだ。意識してやったわけではなく、無意識にいつのまにかそうなっていた。岩の前で休んだ方が足に負担がかからないのだが、どうしてか彼は焚火の前まで戻りたいという欲求に抗えなかった。これも無意識だろう。


 彼は未だに希望を捨ててはいなかった。血管が千切れる程刀を振り続け、山賊どもから奪った刀の最後の一本が折れても。


 そして血の涙を流す思いで長年愛用してきた自分の刀で斬りかかり、最後には根元からぽっきりと折れて岩に突き刺さったとしても、尚彼は自分が生き延びられる可能性があると思っていた。


 それは今、壁によりかかりながら手に持つ剣の存在があったからだ。これの柄を握ると不思議な安心感が沸いてくる。自分が直面している問題が取るに足らない物に思えて、馬鹿ばかしささえ覚えるのだ。全く理に適っていないようなことだが、彼にとってはそれで十分だった。この状況においては、少しでも前向きになることが重要だからだ。いつからそう感じ始めたのかは正確には思い出せないが、おそらく妖夢の幻覚を見た後だろう。


 苔が放つ柔らかな緑色の光の中で見ると、その剣はますます頼りがいがあるものに思え、彼は温い風を浴びながら木々の間を散歩しているような、のどかな気分を感じた。できることならずっとこうしていたいと思ったが、他に岩を崩すことができる道具は見当たらない。これを使うしかないのだ。


 そっと、壊れ物でも扱うように彼は鞘から剣を抜き放つと、薄い暗闇の中でじいっとそれに見入った。しっかりと手に馴染む感触、つやつやとした刃先の輝き、それには痛みさえ忘れさせるほどの魅力があった。


 次の瞬間、彼の中で何かが蠢いた。


 おおよそ発生した出来事の全てが一瞬のことのように彼には思われた。なにもかもが突然降りかかり、あらゆる衝撃が体に加わったせいか最初のうちは理解すらできなかった。それが終わってから理解し、ようやく感じることができた。まず最初に、頭の中を「噛まれた」という感覚が走り抜けた。比喩でもなんでもなく、たくさんの小さいものが噛み付いたという不快感を伴う苦痛が走ったのだ。次に、手や足から力が抜けていき、代わりに別の何かが入ってきた。体の中を駆け巡る血液を抜き取り、別の液体を注入したように。全身が見る間に干からびていき、手や足の皮膚が倒木のような色に変化していく。それは彼に成り代わって体を動かそうとして、足首の状態に気付いて一瞬だけ動きを止めた。最後に、自分の中に存在する全ての神経を吸い取られるような、口に出すことさえおぞましい感覚。視覚や聴覚などの五感だけにのみならず、第六感や感情さえも、何者かに横取りされるという常人ならば気が狂いそうなものだった。それと同時に顔の筋肉や体の各パーツが彼の意向とは関係無しに捻じ曲げられ、想像を絶する苦痛と恐怖に彼は悲鳴を上げた。かたっぽの目が衝撃に耐え切れず破裂し、眼窩から血と体液がどろどろと流れ出す。


 この剣か、と彼は辛うじて残された頭の部分で考えた。この剣を抜いた途端に、俺は取り付かれたのか、なんて、迂闊な―――


 更なる痛みが彼の中で爆発し、言葉にならない悲鳴が上がる。どうやら剣が本能の赴くままに半壊した足首を動かそうとしたらしい。数秒ほど剣が足を動かすと同時に、彼は苦痛が彩る赤と黒の色をごちゃまぜにしたパレードに放り込まれ、狂気の叫びをあげながらもがき苦しんでいた。とはいえ、完全に使い物にならないことに剣が気付くと、動かすことをやめた。かつて味わったことのないほどの安堵感を感じながら、彼はゴムのように切れそうな正気をどうにか保とうとしていた。


 今度もまた、妖夢の名前を繰り返し呟いていた。


 痛みが消えてしばらくして、自分がどんな状況に置かれているのか、この魔剣と呼ぶに相応しい代物が己に何をしたのか、じっくり考えることができた。体は壁によりかかったまま動かすことができない。死体から立ち上る腐臭は嗅ぎ取れる。とっくの昔に消えた焚き火はどことなく焦げ臭い。


 足に神経が通じるか試してみると、それはぴくりとも、一寸たりとも動かすことができなかった。痛みがぶり返すのを覚悟して力を入れてもそれは彼の言うとおりにならない。他の箇所をやってみたが、剣を持つ右手と顔を除いて全ての部分が駄目になっていた。体から血の気が引いていき、彼は恐慌を起こしかけた。


 その時、頭の中に写真のように明確な絵が写し出された。彼の視神経が一時的に操られたのか、目を開けたままでも鮮明に見えた。その中では今でも手に持っている魔剣が、絵の中では手と同化して完全に一体化していた。剣は右手となり、右手は剣となる。どこか古代の戦士を思わせる絵のようだった。


 彼は魔剣がその映像を見せているのだと理解した。すると心の中で、彼は自分の与り知らぬ部分から嬉しさが沸きあがってくるのを感じた。そうか、こいつは俺の感情をも乗っ取っているのか。


 またもや同じものが出てくる………彼はこれを肯定だと理解した。


 ついで、魔剣の中からとでも言うべきか、どこかから大量の文章が頭脳に流れ込んできた。それらの大部分は彼にも理解ができないほど古めかしいのだが、僅かに理解できることの一部分だけでも、彼を絶望させるには十分だった。


 それが言いたいことを彼なりに訳せばこういうことだった。魔剣は彼の体に寄生すること。空気と言った生存に必要な最低限の(ほんとうに最低限の)条件が揃えば、剣自体が持ち主を延命させるということ。そこに持ち主の意思は一切介在できないこと。そして剣は手にした人間の魂を少しずつ吸収し、持ち主の体が存在する限り半永久的に在り続けるということ。


 文字通り永遠に。


 足のみならず、自分の体全てが動かないという事実と照らし合わせて、彼は叫びだしたくなった―――言わば自分は、剣によってここに縫いとめられたも同然なのだ。もしどこか体の一部でも大丈夫だったなら、この洞窟内を剣が延命させる限り動き回り、いつかは脱出できたかもしれない。しかし己の体は、こうして 魔剣に取り付かれたショックなのか、駄目になりかけていた所を酷使したためにとうとう修復不可能なまでに壊れたのか、それともただ単に相性が悪かったのか、こうして動かないではないか。


 助けてくれ! 彼は叫んだ。狂気が蹂躙しようが、煙ほどの不確かさしか持たない正気が消え失せようが、どうでも良かった。お願いだ、ここから出してくれ!! もう嫌だ! おしまいだ! 誰か助けてくれ!! ちくしょう!


 返事は無かった。誰も答えなかった。魔剣は動けなくても一応栄養を摂取できる自分の境遇に満足しているのか、接着剤でも使ったようにべったりと手に張り付いたまま離れようとしない。この剣をへし折れたら、と彼は思った。そう考えた途端、物凄い激痛が頭を走り抜けて彼は目を閉じた。どうやら彼の思考まで、この魔剣は見張ろうとしているらしい。悠久の時を越えて彼の下へやってきた剣を今すぐ叩き折ってやりたかったが、この状態では無理としか言いようが無かった。


 もう一度声を出そうとした時、眼球の裏側というべきか、目の前の光景を見たまま、妖夢がすぐ前に姿を現したように見えた。その姿を目にした時、竜巻のように暴れ狂っていた恐慌が魔術のように姿を消した。残ったのは空っぽになった心と、妖夢とそれに付随する西行寺家に対しての痛切な懐かしさだけだった。


「妖夢」と呟いて、心が空のためか口調さえ空虚なものに変化させて、彼は言った。
「お前はそこにいるのか」


 黙して語ろうとしない銀髪の少女。


 すまなかった。もう二度と西行寺家には戻れそうにもない。お前には悪いことをした。幽々子様を生涯かけて守ってやってくれ。幸せに生き延びてくれ。様々な想いを言葉にしようと口を開きかけたが、魔剣がノイズをかけているのか、思考を言葉に切り替えることができない。できることなら千の言葉を投げかけたかったのに、実際には彼女の名前しか呼ぶことができない。悔恨が頂点に達し、彼はとうとう涙を流し始めた。


 ところが、妖夢は彼の名前を呼んだ。お爺様、とぽつりと、それでも他に音など無い洞窟の中では大きく聞こえる声で、彼女は言ったのだ。それまでの岩や、狂気の象徴としての妖夢とは違う口ぶりだった。涙で汚れ俯いた顔を上げて彼女を見る。


 しっかりとした足取りで、彼の前に少女が進み出る。それが意味するところを、魔剣と同一化した時に知りえた彼は、ぐっと息をつまらせて叫んだ。駄目だ、近寄ってはいけない―――


 業風のように恐ろしい勢いで魔剣が反応し、彼が知覚した存在を切り裂こうと動いた。実際の人間なら胴体から真っ二つになっているだろう一撃は、しかし妖夢の中を素通りした。魔剣は手ごたえが無いことに疑問を持ったのか、二度、三度と己自身を動かしたが、服の裾すら傷つけることができなかった。そのうち魔剣は動くのをやめたが、代わりに彼の中に押し入り、脳のまだ乗っ取られていない部分を支配しようと動き出した。今見ている物の原因が彼にあると気付いたのだろう。


 眼前で点滅する花火のような彩り、頭痛ともまた違う、頭の中に差し込んでくる痛み。彼はそうしたものに抗いながら、妖夢がとうとう目の前に立つ様を見た。


 よくよく見れば、その姿は稽古をつけられる前よりも成長し、尚且つ虐待によって体が傷ついてもいない―――彼がこうなってほしい、と願った姿そのものだった。腰には白楼剣と楼観剣をぶらさげ、細くしかし鍛えられた腕が、優しく彼の頬に触れる。この時から何十年後、実際に彼は同じ妖夢を目にすることになるが、今の彼にはそれを知る由も無かった。


「怖がらないでください」
 妖夢に対してどうしていいか分からないでいる彼の心境を読んだように、孫は言った。
「どうか、魂を捨てないでください。自分で自分を傷つけないでください。


 これから先、何度も気が狂うような事があると思います。どんなに舌を噛み千切りたくなるかと思う時があると思います。きっと幾つかの時では、その瀬戸際まで行くことがあるでしょう。


 だけどお爺様、あなたはいつか救われます。まだそれがどんな形でやってくるのか分かりません。ですがその時が来れば分かります。悩んで苦しんで、あなたが私を想い続けた報いは、必ず受けられます。だから諦めないでください。自分の魂の破滅を願わないでください。


 表面がどうであれ、心の底では私はあなたを憎んでなどおりませんから」


 妖夢にしてはあまりにも大人びた口調で喋ってから、彼女はすっと、蜃気楼だったように消えてしまった。いや、実際に蜃気楼だったんだろう、彼はそう思った。あいつは実際ここにいる筈が無い。きっと自分の心がはち切れそうだったから、そのために安全弁が作動したようなものなのだろう。あの狂気として出現した妖夢のようなものだ。


 それでも。


 それでも、幻に過ぎなくても、彼女の存在がどれほど俺に救いをもたらしてくれたか。


 幻聴でしかなくても、彼女の言葉の一つ一つが、どれほど心に染み渡ったか。


 今更ながら、彼はそれを思い知った。涙が零れたが、あまりそれを構わなくなっている自分に気がついた。


 頭蓋に響き渡るノイズは小さなものだったが、時間が経つにつれ彼の全体を覆いつくす規模のものとなっていった。次第に自分の意識が薄れつつあるのを自覚しながら、彼はさっきの妖夢の姿と、今の妖夢が同じであってくれればいいと思っていた。


 妖夢が西行寺家で精一杯自分のやるべきことに励み、幽々子様と談笑を交わし、ぐっすりと布団に包まれて眠っている様子を思い描きながら、彼女が幸せに暮らしている構図を描きながら、彼はゆっくりと意識を失っていった。
 微妙に長い作品でしたが、次が最後となりますので、それまでお付き合いください。
 それにしても、幽々子様のキャラをどう作ったものか、意外と難しいものだなあ、と思ったり。
復路鵜
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