Coolier - 新生・東方創想話

銀色の舟

2007/03/24 04:12:38
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思い返すだけで頬が熱くなる。
出会いは第三会議室、通称「薬道涅槃」にて。

あの御方は怪我を負ったわたしの足に包帯を巻きながら、小さな小さな溜め息をついていた。
部屋に備えられた音生機から、初めて耳にする優しい音楽が僅かな音量で流れている。
思えばこのとき既に、わたしの心はあの御方の虜となっていたのだろう。

 りぃん りん らぁん らん
 りん りぃん らん らぁん

 りぃん りぃん らん らん
 りん りん らぁん らぁん


訓練中に怪我をしたわたしは、近くにある適当な空き部屋で身体を休めることを選択した。
医務室はあるが、あそこは基本的に重傷者を扱う場所であり、こんな足の小さな怪我で訪れることは気が退ける。
この第三会議室が普段は使われていない部屋だということは知っていた為、なんの躊躇も無くその部屋に足を踏み入れた。
人の気配。
振り向く人。
一瞬で真っ白になったわたしの頭では、その人があの御方であるということに気付くのに数秒の時間を必要とした。
月世界の中でも指折りの要人であるあの御方と、ただの兎に過ぎないわたし。
状況を理解するにつれ、この部屋に居てはいけないという衝動に突き動かされ、慌てて身を翻す。
気が動転していたこともあり、不運にも部屋から飛び出ようと踏み出した足は、入り口の扉に激しく激突した。

打ち付けたところは、丁度怪我をしていた部位。

あの御方は、そんなわたしの一部始終を見ていて、小さな溜め息をつきながらもわたしの足を治療してくださった。
そのときの自分の表情など考えたくも無い。

 りぃん りん らぁん らん
 りん りぃん らん らぁん

顔を上げることすら出来ぬわたしの様子が可笑しかったのか、あの御方はわたしの顔を覗き込むと小さく微笑まれた。
ちらりと見た、その微笑みがあまりに美しくて。
わたしは再び真っ白になって全く働かぬ頭を必死に動かし、この優しい音楽について尋ねようと思いついた。
正直に申し上げれば、ただ単に、なんでも良いからあの御方と少しでも言葉を交わしたかっただけだ。

わたしは何度か口を開け閉めした後、少ない言葉を必死にかき集め、なんとか問いを口にした。
言葉を口にするのが不得手なわたしだが、このときばかりは何がなんでも喋りたいと思ったのだ。

 りぃん りぃん らん らん
 りん りん らぁん らぁん


 この おんがくは なんという なまえ ですか?










  銀色の舟










八意永琳。
その名を知らぬ者など、この月には存在しないだろう。
薬学の権威とされる天才家系八意の末女であり、その頂点に位置する月の至宝。
彼女の存在が無ければ月の民は滅んでいたという説まである。
御本人はそんな説を一笑の元に受け流すが、わたしもそんな説を信じる者の一人だ。

他の月の民、特に年頃の娘にとって、彼女は憧れの対象である。
まるで全知の能力を秘めているのではないかと思わせるような膨大な知識の量。
その知識に振り回されること無く、まるで手足を動かすかのように操る至高の知能。
学問、それも薬学の道を志す月の民にとって、彼女の存在はそれこそ神と等しい位置に存在する。

下世話な話になるが、八意博士に憧れる者達は何も彼女の叡智のみに惹かれるわけではない。
彼女の美貌、身に纏う雰囲気、気品溢れる仕草、非の打ち所の無いように思えるそれら全てにただただ憧れる。
八意博士が助手を探しているという噂話が流れたとき、それは大変なことになったものだ。
学問にその身を置かぬ者すら勢い余って挙手をしたというのだから、当時の八意博士の胸中は如何なものであったのだろうか。
結局、事態を重く見た月の長老達が直接八意博士に掛け合い、その話は事実では無いと御本人が直接説明するまでに至った。
あの時初めて見せた八意博士の苦笑の表情が、更に彼女に憧れる者を増やす結果となったのだから始末に負えない。

八意博士は月の長老、つまりは月の政の頂点に位置する者達からも信頼されている。
実績を顧みれば当然のこととも言えるが、彼女の独特な性格も長老達にとって都合が良いのだろうと思う。
報酬、対価を筆頭として、栄誉、賞賛の言葉に至るまで、彼女はそれらを一切欲しない。

この世界、恐らく彼女が是と言うのならば、それまで否が常識であろうとも瞬く間に是に切り替わる。
もし八意博士に出世欲などが存在したのなら、既にこの月は彼女のものになっていてもおかしくないのだ。


あのカグヤ姫と仲が良いということは、月の民にとっては常識ともいえる知識である。
それが賞賛の意をもって知られているというところに、何ともいえない可笑しさを感じてしまう。
カグヤ姫は自他共に認める我侭娘であり、しかし姫という身分を驕ることの無い不思議な御方だった。
月の子供達と一緒に泥遊びをしていて、それが長老に見つかり説教されている光景をわたしも見たことがある。
人の上に立つ者として、権威や威厳といったものが最重要であることは当然のこと。
だが、姫を我侭し放題に育てたのは長老達であり、責任は彼らにもあるのではないかと思わないでもない。

姫は我侭で身分を弁えぬ庶民派な御方であるが、その身に秘めた各々の資質は間違いなく本物である。
異才、と評するのが最も相応しいと、わたしはそんなことを思う。
専門というわけでも無いのに、八意博士と同列で学問について語り合うこともできるようだ。
彼女達の語らいを耳にした者は皆、言っていることの大半について理解が出来なかったと声にする。
わたし達には想像できぬ高等な教育があるのかもしれないが、それでもあの御二方は遥かに違う領域に居られると思う。

一度、月の政に関する公開討論会の場で、八意博士がカグヤ姫に論破されるという出来事があった。
カグヤ姫の主張は、発言と発言の間に整合性が無かったり、力押し、ごり押しな部分ばかりが目立っていたようだ。
だが、まるで屁理屈とも言える姫の主張で、実際に八意博士は一切の反論を封じられ、論破されてしまったのである。
あのときの八意博士の目を丸くして幾度も繰り返し瞬きをしていた様子が忘れられない。
直後、ふふんと誇らしげに鼻を鳴らしたカグヤ姫の姿を見て、八意博士は吹き出すようにして笑い始めた。
微笑みなどを浮かべる様子は見たことがあるが、あんなに屈託無く笑う八意博士を見たのは初めてだった。
そのときその場を目的した全ての者が、姫と八意博士の間に確かに存在する絆のようなものを実感したことだろう。

八意博士にとってもカグヤ姫の存在は、唯一とも言える心の拠り所であったのかもしれない。
それが、後に起こることになる大事件に繋がる一本の線であったということは、なんという皮肉なのだろうか。


八意博士は数日に一度、第三会議室を使って薬学講義のような会を実施する。
経緯に関しては諸々の噂話があるが、暇潰しの為というものが一番現実的らしい。
月の至宝とまで呼ばれる博士から、直々にものを教わることができるのである。
薬学に携わる者は当然として、その他の分野に組する者達まで出席希望者は後を絶たない。

突然だが、わたしは月の兎だ。
月の兎は一部の知能特化型を除き、大半の者が戦闘を主とした役割を与えられている。
人間より運動能力が高く、逆に知能の方は低いのだから適材適所といえる。
別にこのことに異論を唱える兎はいなかったし、わたしとしても当然のことだと思っている。

だが、八意博士が講義を行っているという話を聞いたとき、わたしは初めて自分の知能の低さを呪った。
別に物事の判らぬ阿呆というわけでは無いが、圧倒的に自分の持つ言葉の数が少なかった。
頭ではわかるのに、何故か口にすることの叶わぬ言葉の数々。
兎の特性というわけではないのは確か。
何故ならわたしの仲間達は、皆、流暢に想いを口に出して語り合っているのだから。
わたしは自分の持つ言葉の少なさは、自分の知能が低いせいだと考えている。

戦闘は嫌いじゃなかった。
それには多くの言葉を必要としないから。
一面に得意の弾幕を張り巡らせ、敵方の弾道を目視することなく感覚で避け、宙を駆け巡る。
頭で考えなくても身体が勝手に動く。
躍るように。
踊るように。
そう、机の上で筆を走らすことのできぬ代わりに、わたしは宙空で身を躍らせる。
相手の言葉に対して、何と言葉を返せば良いのかと、そのようなことを思い悩む必要が無い。
敵方の攻撃に、わたしは身体が動くままに攻撃を返す。
わたしの攻撃に、敵方も一欠けらの躊躇も無く攻撃を返す。
気付いたときには、月に敵無しと言われる程の実績を残していた。
戦闘狂いの兎、と揶揄されることも少なくない。

そんなわたしが、八意博士の薬学講義を受けたいなどと、そんな妄想を抱いているのだ。
わたしなど薬学どころか、学問ですらない別の界隈の存在なのである。
真剣にその道を究めんとする者達に、戯け者と失笑されても言い返せることなど何一つ無い。
もし、この講義を受ける意義を問われた場合、そのときもまた同じく。

わたしが第三会議室に足を踏み入れたとき、部屋の中には既に多くの人間がいた。
室内をぐるりと見渡してみるが、やはり兎の姿はわたし以外には見当たらない。
突然やってきた兎に対する皆の反応はまちまちだった。
予想通りの失笑を浮かべる者、冷たい一瞥のみで存在を無視しようとする者。
そして何処か恐れを抱いているような表情でわたしを凝視している者。
もしかしたら何か悪さをしたことがあり、わたしがそれを断罪しに来たとでも考えているのかもしれない。
わたしのような兎は戦闘の片手間にそのような役割をこなすこともある。
わたしは比較的そちらの方面では顔を知られてしまっていることもあり、勘違いしてしまうのも仕方が無い。

まさか、戦闘狂いとまで言われる教養も無い兎が、薬学講義を受けにきたなどと、一体誰が信じるというのだろう。
そんなことを考えているうちに、わたしは自分自身が救いようの無い大間抜けにしか思えなくなってきた。
ただただ、八意博士の口から発せられる言葉を耳にしたかった。
講義の内容を理解できようができまいが、そんなことは関係ない。
薬学であろうがなかろうが、わたしにとってはどうでもいいことだった。
八意博士の一挙一動、開閉する瞼、静かに紡がれる吐息、詠うように語られる言葉の数々。
わたしは、ただそれらを少しでも長く感じていたかっただけ。
例えようも無いほどの大間抜けである。
真剣に講義を行う八意博士を、真剣に講義を受ける者達を、わたしは馬鹿にしているとしか思えない。

月の薬学の最高峰、薬道涅槃の空気を汚し、わたしはいったい何をしているというのだろうか。

皆の視線に耐えられなくなり、ずっと俯いていた為、八意博士が目の前までやってきたことに気がつかなかった。
聞いていくのかという突然の問いに対し、気付いたときには首を左右に振ってしまっていた。
博士は僅かに一言、そう、とだけ口にされると、そのまま部屋の奥へと足を運ばれた。
皆が視線を八意博士に集中させ、わたしから興味を逸らしたことを期に、わたしは一気に部屋の外へと逃げ出した。

笑ってもらって構わない。
なんとわたしは、逃げ帰るように自室へ駆け込むと、膝を抱えて一晩中べそをかいていたのである。
まるで初恋が実らなかった小娘のようだ。
笑ってしまいたいのか泣いていたいのかさえ、今ひとつよくわからない。
仲間の兎の誰にもとても見せることの出来ない、それは心底情けない姿だった。


文武両道を極める。
言葉にするのは簡単だが、事実はそう巧くいくものではない。
一つを突き進むだけでも細く長い果てしない道程。
両道両立は可能だと思うが、双方を極めるとなるとその道はどれほどのものなのだろうか。

たった一度だけ、月の要人達の前で模擬戦闘を行うという、所謂御前試合が催されたことがあった。
当然のようにわたしも参加することが確定しており、そこには反論の余地など残されてはいなかった。
御前試合ともなると、自分のことだけではなく相手のことを気遣いながら戦わねばならない。
戦いを美しく魅せ、汚れた傷などは決して負わず、しかし彼らが興奮するようなやり取りを要求される。
わたしは、そういった試合形式の戦いはあまり好きではなかった。

対戦者、八意永琳。

戦闘狂いとも言われるわたしを参加させ、どのような相手をぶつけてくるつもりなのだろう。
そんな僅かに抱いていた興味も、突然眼前に現れた八意博士の姿を見た瞬間に吹き飛んでしまった。
まさか月の至宝とまで言われる八意博士に刃を向けろというのだろうか。
八意博士は困ったような微笑みを浮かべながら、ごめんなさいねと小さく頭を下げられた。
いきなり博士に頭を下げられたわたしなどは、もう何がなんだかというやつで大慌てである。
相変わらず頭の中は真っ白で、必死に何かを喋っていたのは確かなのだが、内容を覚えていない。
八意博士と向き合ったときのわたしはいつもこんな感じで、心底情けなくて仕方が無い。

結果から報告させてもらうと、わたしの惨敗だった。
確かにあれだけ混乱している状態で戦いも何もあったものではないのだが、それでも信じられないものがあった。
戦闘を役割とし、月に敵無しとまで言われるようになったわたしと、八意博士である。
一度手合わせしてみたかった、とは試合直前の八意博士の言葉だったと思う。
そのときの博士の表情には、普段いつも見る、知を結集させたようなそれが無かった。

文武両道、ここに極まる。

試合終了の合図がかかる寸前、わたしの頭に浮かんできた言葉。
もしわたしが冷静に、そして全力で試合に望んでいても、よくて対等に戦えるかどうかといったところだと思う。
それに、恐れ多くて尋ねることなど出来ないが、更に実力を隠しているようにも感じられた。
憶測にしか過ぎないことではあるが、わたしの勘は間違いないと訴える。
八意博士がこれほどまでに強いというだけで驚きだというのに、それではもうお手上げとしか言い様が無い。

一対一の逃げ場の無い戦いの中であるというのに、八意博士の智略に満ち溢れた戦い方は圧倒的であった。
あまりに計算し尽された攻撃、回避、防御。
こんな戦い方があるのかと、圧倒的に押されているわたしですら魅了されてしまうのだ。
文の道が、武の道を支えている。
何も努力せず、はじめから自分には相応しくないと文の道を切り捨てていた自分が恥ずかしくて仕方が無かった。


あの事件の一部始終が明らかにされたとき、それは月に生きる全ての者を驚愕させた。
絶対に踏み込んではならぬ領域、永遠の生命の探求。
禁断の秘薬、蓬莱の薬。
どう足掻こうがその高みに辿り着ける者など存在するはずがない。
絶対の禁忌としながらも、月の長老達はそう高をくくっていたのかもしれない。
だが月には存在したのだ。
至高の異才と、最高の天才の両名が。

あの御前試合のあと、わたしは博士から頻繁に声をかけていただけるようになり、毎日が至福の日々であった。
何度か簡単な薬学の知識に関して教えていただいたこともある。
学の無いわたしにも理解できるように、優しく要点をわかりやすく教えてくださった。
おそらく、いつぞやの薬学講義のとき、わたしが逃げ出したことを覚えておられたのだと思う。

八意博士の私室に居ると、自然とカグヤ姫と顔を合わせる機会も増える。
きっとそうだろうとは思っていたが、姫はわたしにも気さくに接してくださった。
八意博士とカグヤ姫と席を共にする。
最初はあまりの身の置き場の無さに愕然としたものだ。
しかし、まるで昔からの友に接するかのような姫の態度に、わたしも徐々に緊張を解きほぐされていった。

八意博士と、カグヤ姫と、わたし。
まるで夢の中の、こうであったら最高だという妄想のような、わたしには分不相応な幸せな日々。

きっかけはカグヤ姫の、至高の薬作りに挑戦してみないかという提案だった。
禁忌であるということはその場に居る者は皆理解していたが、八意博士もその薬には大きな興味を抱いていたらしい。
情けないことに、わたしは禁忌であるということは知っていたものの、その罪深さについては何も知らなかった。
御二方がやると仰るのであれば、わたしに是非など考える権利はない。
いや、それすらも、今となっては自分を慰めるための言い訳であったと、そう思う。

禁断の秘薬、蓬莱の薬の完成にそれほど時間はかからなかった。
カグヤ姫は冗談半分で薬に手を出されて、そしてそのことは長老達の知ることとなってしまった。
極秘で事を進め、わたし達三名は決してこのことを口外してはいない。
だが、考えてみれば八意博士が発注した、普段使われることの無い薬剤の数々から、容易に想像できるものだったのだろう。

御二方は、一貫してわたしの存在を庇い続けた。
わたしは精製の様子を眺めていただけだった為、一方的に巻き込んでしまったと思われたのかもしれない。
慌ててわたしが何か言おうとするのを、八意博士は横目でそれを強く静止された。
カグヤ姫は全責任は博士を唆した自分にあると、凛とした表情で訴えられた。
八意博士は全責任は直接実行した自分にあると、爛とした表情で訴えられた。

わたしは何も言わなかった。
八意博士に静止されたからと、そんな言い訳の元、ただ全てから逃げるように俯くだけ。
何も出来ることはないと、何度も何度も自分に言い聞かせながら。

今更強調する必要も無いが、結果はカグヤ姫に全責任があるという形で事件の幕は下りた。
わたしは八意博士のお零れを預かるような形で、一切の処罰を科せられなかった。
本来であれば、わたしを含め全員が処刑されて当然の罪である。
しかし長老達は恐らく姫と博士を天秤にかけたのだろう。
少なくとも双方を一挙に失うことだけは避けたかったに違いない。
八意博士を無罪放免にするのに説得力を持たす為、カグヤ姫に全責任を科すという形に収まったのだ。

紆余曲折は経たが、最終的にカグヤ姫の刑は、処刑後地上に落とすというものに確定した。
蓬莱の薬の力によって永遠の存在となっていた姫は、事実上処刑することはかなわないのである。


カグヤ姫が地上に落とされた日、八意博士が泣いているところを始めて目にした。
わたしも博士のそんな様子を見て我慢できなくて、声を押し殺しながら静かに泣いた。
博士は、きっと自分が罰せられたかったに違いない。
確かに提案したのはカグヤ姫であれど、興味を捨てられずに実行に移したのは自分なのだ、と。
自分が頑として否と答え続けていれば、姫も恐らくは素直に諦めてくれたに違いない、と。

八意博士を慰める資格など、わたしには身分以上の問題で存在しない。
わたしはあの時、自分も同罪であると声に出すことすらできなかった。
姫や博士の言葉を言い訳にして、俯き震えることしかできなかった。
八意博士が自らを許せぬというのならば、その刃はわたしに向けられるべきものなのだ。

わたしは自分の真横に、あのとき第三会議室で見た音生機と同じものがあることに気がついた。
八意博士はわたしに顔を見せないが、恐らくまだ静かに涙を流されているのだろう。
せめて互いの泣き声が聞こえぬようにと、わたしは音生機に手を添えて、ゆっくり、ゆっくりと起動させた。

 りぃん りん らぁん らん
 りん りぃん らん らぁん

不意をつかれるとは、こういうことを言うのだろうと思う。
まさか、こんなところで、あの日の、あの優しい音楽を再び耳にすることになろうとは。

 りぃん りぃん らん らん
 りん りん らぁん らぁん



それから暫くの時が過ぎ、八意博士とわたしは大役を命じられた。
曰く、カグヤ姫の罪が晴れた為、地上へ彼女を迎えに行って欲しい、というもの。
わたしは喜び勇み、久方お会いしていなかった博士の私室へと足を運んだ。
博士も嬉しかったのだろう、無礼にも突然私室までやってきたわたしを、優しい笑顔で迎えてくださった。
だが、いの一番にその口から発せられた言葉は、わたしが期待したものではなく。
博士はただ一言、あなたはついてこないで、と。
頭の中が真っ白になったような、真っ赤になったような、そのときの感情はあまりに激しすぎてよく覚えていない。
ただ、自分の身分を顧みず、絶対ついていくと、そう声を大にして叫んだような気がする。

博士はわたしがどんな阿呆なことを言おうとも、決して怒ることはしない御方だった。
いや、それは少し違うかもしれない。
博士が怒っているところなど、わたしは最後まで見ることが無かったのだ。
わたしの無礼極まりないそのときの叫びに対しても、僅かに寂しそうに俯き、そう、と呟かれただけだった。

今思えば、博士は事の結末が予想できていたのかもしれない。
自惚れているだけかもしれないが、わたしを巻き込まないようにと、まるであの日のように、そうされたのかもしれない。

八意博士とわたしを中心として、姫の御迎えには十数名の精鋭が選ばれた。
真偽の程は不明だが、地上は危険なところを教わっているのだから、それくらいの警戒は必要だと思う。
月の御車に乗り、わたし達は始めて地上へと向かった。
このとき初めて知ったのだが、月の御車は通称、銀色の舟と言うらしい。
まさかこんなところで、その名前を耳にするとは思っていなかった為、なんだかわたしは可笑しくて吹き出してしまった。
他の使者達はわたしを不思議そうに眺めていたが、八意博士は特に何も反応されなかった。

カグヤ姫はすぐに見つかり、わたし達は全員ほっと一安心したのだが、事件はその後に起こった。

話があると仰られ、カグヤ姫は八意博士のみを部屋の中へと招きいれた。
身分的にも、我々使者一同に、その二人の会話を聞く権利など一切無い。

わたしはずっと嫌な予感が胸の中に疼いていることに気がついていた。
八意博士がわたしについてきて欲しくないと仰ったことの真意。
博士のみを部屋に迎え入れたとき、僅かにわたしを見たときの、姫の表情。
漠然とした、しかし心の奥底から湧き上がってくる、絶望的と言っても過言ではない感覚。
他の使者の皆は、御迎えの大役を半ば果たしたような感覚で居るらしく、安穏とした表情で身体を休めている。

それは完全な不意打ちだった。
話は終わったので集まって欲しいと、使者全員が一室に集められた直後、惨劇は起こった。

あなた達には全員ここで消えてもらう、と八意博士は呟くように仰られた。

突如甲高い、空間が縮まるような不思議な音が鳴り響き、わたしは瞬時にそれが封印系の能力による音だと気がついた。
急いで部屋に入った襖に視線をやると、そこには特殊な見たことの無い印が煌々と光を放っている。
密室、という単語が頭を過ぎた。
本来であれば速攻で全火力を用いて封印を破るなり、術者を打ち倒す必要がある。
だが、その術者は、実行者は、判断したのは。

八意永琳。
カグヤ姫、蓬莱山輝夜。

わたしは全身に力を張り巡らせ、いつでも迎撃可能な体勢を作り上げる。
周りの使者達から驚愕の声が上がる。
わたしが八意博士に心酔していたことは、ある程度月の事情を知っている者には周知の事実。
まさかわたしが八意博士とカグヤ姫に牙を剥くとは思わなかったのだろう。

わたしは月の戦闘兎。
わたしにできるのは、全力を賭して彼女達を撃退し、月に連れ帰ること。
そう、それでいい。
それでいい。
それでいい。
それでいい。

カグヤ姫は、あの月の世界に帰るつもりは無いのだろう。
そして、八意博士は姫の傍で、彼女を守りきることに決めたのだろう。
あの、姫が地上に落とされた日、泣いていた博士の姿を思い出す。

御二方の姿を眼に焼き付ける。
カグヤ姫が、悲しそうに目を伏せていると思うのはわたしの妄想に過ぎないのだろうか。
八意博士が、泣きそうな目でわたしを見ているように思うのは、ただの自惚れに過ぎないのだろうか。

小さく、小さく、彼女達が何かを呟いたような気がした。
わたしは両手に全身全霊の力を込め、二人に向かって一気に飛び掛った。
それが、最後。



カグヤ姫の御迎えにあがった使者達からの連絡途絶。
追った第二班、第一班の全滅を確認。
唯一、重傷ではあるものの生存が確認された戦闘兎を発見。
状況確認の為、そして事情聴取を行う為、兎の意識の回復を待つ。



わたしが目覚めたのは、見慣れた医務室の一角だった。
意識が明瞭になってくるにつれ、腹の奥底から湧き上がってくる笑いの衝動に耐えられなくなってきた。
なんという残酷なことをするのだろうか、あの御二方は。
あの幸福の日々をわたしに与えておきながら、こうして御二方の居ない月の世界で生きよと、そういうことなのだろうか。
ならば。
それならば。
わたしにも、考えがある。

わたしは、意識の回復を確認しに来た医務員を気絶させると走り出した。
重傷の身ではあるが、今から成そうとしていることさえ果たせば、その後はどうでもいい。

走って、走って、走って。
撃って、撃って、撃って。
壊す。
壊す。
壊す。
存在する全ての銀色の舟を、破壊し尽くす。

たった数分間で、緊急指令が飛び交い、わたしに幾度となく戦闘兎達が襲い掛かってくる。
さすが、月の兎達の戦闘能力は優秀だ。
確かにわたしは少しばかり周りから抜けた力を持ってはいたが、それは所詮心身共に正常なときの話でしかない。
こんな重傷の身体を引き摺るようにしながら、何とかできるわけが無いのだ。

何かが爆ぜるような音がして、わたしは自分の左腕が吹き飛んだことに気がついた。
振り返ると、そこには見知った元部下の顔があった。
大して時間も経っていないというのに何故か懐かしく感じる。
威力こそあれ、射撃の正確性が無ければ使い物にならぬと、よく叱ったものである。
彼女はわたしの顔を見て泣きそうな顔をしたが、わたしは何も言わず首を左右に振ってみせる。

そのまま、一瞬の隙をついて、その場にあった最後の銀色の舟を破壊してみせた。


八意博士の私室。
わたしはその部屋を最期の場所に選んだ。
勝手に入室してすみませんと、この状況でそんなことを考えてしまう自分に失笑する。

施錠した扉を激しく叩きつけている音が部屋の中に響く。
わたしはふと、あの優しい音楽が聞きたくなって、音生機を胸に抱いて部屋の片隅に蹲った。
徐々に力が入らなくなってきた右手を必死に動かし、音生機をなんとか起動させる。

 りぃん りん らぁん らん

嗚呼、この音だ。

 りん りぃん らん らぁん

扉から聞こえてくるけたたましい打撃音が不快ではあったが、やはりこの音楽はわたしの心を優しく満たしてくれる。
恐らくあの扉はそう長く持たないだろうから、こうしていられる時間もあと僅かだろう。
二度と戻ってこない、あの幸福な日々のことを振り返りながら、少しでも、少しでも長くと音生機を強く抱き締める。
けど。
だけれど。

 りぃん りぃん らん らん
 りん りん らぁん らぁん


「この、おんがくは、なんという、なまえ、ですか」


あの時、はじめて八意博士にお会いした時。
何でも良いから、とにかく何かをお話したいと思って聞いてみた、その言葉。
ちいさく、ちいさく、もう一度呟いてみる。
あの時と違って、僅かな苦笑を伴った、でもとても優しい声の答えは返ってこない。
それがなんだか無性に悲しくて、ずっと我慢していた涙が一気に溢れ出てきた。

八意博士。
カグヤ姫。

どうか、どうか、ずっとおしあわせに。

わたしは、最期の力を振り絞って音生機を壁に叩きつけて破壊した。
一緒に壊れれば、もしかしたら一緒にあの世にいけるかもしれないと、そんなことを思ったからだ。


「やごころ、はかせ」

 りぃん

「ぎんいろの、ふね、は、ぜんぶ、こわしました」

 りん

「どうか」

 らぁん

「おしあわせに」

 らん


 りん りぃん らん らぁん


 りぃん りぃん らん らん


 りん りん らぁん らぁん


「りぃん、りん、らぁん、らん」
「素敵な歌ですね」
「あら、居たの」
「先程からずっと控えてましたよう」
「ふふ、ごめんなさい。ずっと気付かなかったわ」
「珍しいですね、師匠がわたしの気配に気付かないなんて」
「満月がとても綺麗な日だったから、つい見惚れちゃって」
「さっき口ずさんでいた曲は、なんという名前の曲なんですか」
「え」
「ど、どうかしましたか」
「何でも無いわ、ごめんなさい……この曲の、名前は、ね」
「師匠……泣いてるんですか……?」
キリギリス
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コメント



0.1950簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
なんだろう。
俺だけかもしれないけれど。
こういうの、好きだ。
11.100名前が無い程度の能力削除
救いがないけれど、優しいよい物語でした
12.無評価名前が無い程度の能力削除
地上は危険なところを教わっているのだから
⇒危険なところと教わって、の誤字ですかね
14.80翔菜削除
うむぅ、何だかやたらにツボった。
20.80名前が無い程度の能力削除
泣けた
21.100名前が無い程度の能力削除
これは…いいなぁ
残酷で優しい話でした
27.90名前が無い程度の能力削除
知人から紹介されて読んでみました
あっさりと一人称で書き続けられた物語が
オリキャラ嫌いな自分でもとても楽しむことができました

あとがきのやりとりで少しぐっときました
32.100クスノキ削除
久しぶりに泣けた、ありがとう。
34.100名前が無い程度の能力削除
うさぎの最後の言葉とあとがきで全身に鳥肌が立った。
哀しくて、優しくて、いいお話でした。
35.80名前が無い程度の能力削除
ちょっと読みにくいかと思いましたが、後書きでもらいました。
涙もろくなっていけねえや。
49.100名前が無い程度の能力削除
後書きまでが作品ですね、わかります