Coolier - 新生・東方創想話

幻想遠野郷

2006/10/05 11:11:13
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 ぶんと音を立てて鉈を振り下ろすと、獣道を塞いでいた枝が叩き折られる。
「ふぅ――ふぅ――、この齢で鉈を振り回すのはきついな」
 足元においていた鞄を持ち上げて先に進む。まだ日は落ちていないが、鬱蒼と茂った森の木々が日光を遮り、辺りは薄暗かった。
 袴の裾は細かい枝や雑草のせいでぼろぼろになっていたし、昼過ぎから歩き続けのせいで脚はすでに棒のようだ。吉里吉里を出てからすでに数時間が過ぎていた。
「やれやれ――欲を出さずに街道から帰っていれば良かったなぁ」
 遠野郷の風景を楽しみたかったので、吉里吉里の村人に裏道を教えてもらったのだが、それが裏目に出てしまった。佐々木君が居てくれればこんな事にはならなかったのだが。
「この地図によれば、もう少しいった先に村があるはずなんだがのぅ」
 吉里吉里の老婆からもらった古い地図を見る。地図自体は江戸の頃に書かれたもののようだった。明治の世になって整備されたとはいえ、街道の位置は変わっておらんだろうと気にせずに貰ってきたのだが、いかんせん古いので非常に読み難い。おかげで道に迷ってしまった。
 それでも、今歩いている獣道にも等しい道は地図にはしっかり描かれていた。そしてその先には名前の表記はないが村の印。
「まだまだ若いつもりだったがさすがに山道は堪えるな」
 そろそろ日も暮れる頃合のはずだ。野犬の餌になっては堪らないので気力を振り絞って先へ進む。
 茂みを掻き分け、枝を鉈で折り、野犬の遠吠えを気にしながら更に進む事一時間。夕日が山に沈む直前に、森が途切れ視界が開けた。
 目の前には黄色い穂をつけた田んぼ。その先に人家の灯がちらほらと見える。地図にあった村に違いない。
「なんとか日が暮れる前に辿りつけたか――」
 身体とは現金なもので、先ほどまでは疲労の極地にあったのが、村が見えると途端に動くようになる。だが、走れるほどではないので田んぼのあぜ道をゆっくりと歩く。日は暮れてしまったが目的地は見えているのだからあせる必要はない。
 村まであと少しというところで日が落ちた。だが、月は煌々と輝いており明かりには事欠かかないはずだった。だが、何故だろう。一歩進む毎に視界が暗くなってゆく。夜空を見上げれば、月は光輝いているというのに。
 足元がおぼつかず地面に膝をつく。目をこすってもこすっても視界は一向によくならない。そこで気づいた。いつの間にか虫の鳴き声が途絶え、辺りに不可解な鳴き声が充満している。
 いや、聞いた事のない音を鳴き声と断じるのも変だが、その音には何か生物的な感じがしたのだ。どう表現すべきか分らないが、あえて文字にするなら「ちんちんちん」だろうか。
 その鳴き声が大きくなるにつれ、視界の闇もどんどん濃くなっていく。次第に頭にまで響いてくるような感じがするので、両耳を押さえてたが鳴き声が聞こえなくなることはない。
「うぐ、ぐぐぐ……」
 背筋を走る嫌な感覚。この感覚は以前どこかで感じたような気がするが思い出せない。だが、それが危険なものであると本能が告げている。
 何とかしてこの鳴き声から逃げようと立ち上がり、足を踏み出したが目が見えないので転げてしまった。
 地面に倒れたまま、逃げようと手を伸ばした瞬間、鳴き声がピタリと止み、視界を覆っていた闇も消え、背筋を走る怖気も無くなった。
「む? お怪我はありませんか、そこの方」
 明るくなった目に淡く光る提灯の灯が差し込んだ。月夜とはいえ頼りない光だが、今の私には太陽のように明るく映った。
 顔をあげるとそこには美しい女性が居た。腰まで流れる銀色の髪と藍色の裾の広がった服。月明かりに照らされたその姿は幻想的と言ってよかった。
「ああ、少し転んだだけだ。ありがとう娘さん」
 差し出された手を掴んで立ち上がる。女性特有の柔らかい手。
「見たところ旅人のようだが道にでも迷われたのかな? それに服装からして地元の者でもないようだが……」
 値踏みするような視線。だが決して不快ではない。
「いや、ご明察どおりで。吉里吉里の方から来たのですが裏道を通ったせいで迷ってしまいましてな」
 妖しげな鳴き声については私自身が不可解に思っているため黙っておいた。確かに私は風習逸話怪談について研究しているが、怪力乱神の類はまったく信じていなかったのだ。
「ふむ、それは大変だったでしょう。夜の山は何かと危険です。よければ我が家に一晩明かしてはどうですか?」
 ありがたい提案ではあったが、幾ら私がもう四十路近いとはいえ、うら若い娘の家にお邪魔するのはいささか躊躇われた。
「いえ、うちには佐助――ああ、世話役の老人ですが。もおりますので、どうぞ遠慮なさらず」
 考えてる事が顔に出たのだろうか、少女が助け舟を出してくれる。
 少し考える。こんな山奥の村だ。いまだ知らぬ逸話や伝説の類もあるかもしれない。それに先ほどの会話の端々からこの娘の知性の高さが伺える。おそらく村の代表者の家の娘なのかもしれない。そう考えると俄然興味が湧いてきた。
「そうですな。――そこまで言うなら一晩お邪魔することに致しましょう」





 思ったとおりというべきだろうか。その娘の家は大きく、庭には鶏小屋まであった。
 玄関に入ると小柄な老人が出迎えてくれた。
「慧音さま、お帰りなさいませ。――おや、そちらの方は?」
「ああ、道に迷っていた旅人だ。――佐助、すまないが部屋を用意してくれ」
「はぁはぁなるほど。それは災難でしたな。ではお客人、お荷物を……」
 佐助と呼ばれた老人に鞄を渡すと、私は彼女にしたがって居間へ移動した。
 主人が帰ってくるのを見越していたのだろう、炉にはすでに火が入っており、部屋は充分暖められていた。
「自己紹介が遅れて申し訳ない。私は上白沢慧音。この村の……代表のようなのようなものかな。まぁそんな事をやらせてもらっている」
 女性が村の代表をしているというのに私は驚いた。こういう閉鎖的な田舎の村では力の強い男が長になるのが当たり前。そもそも都会でも女性がそういった立場になるということはまずない。
 ということはこの慧音という女性は、他の男を納得させられるほどの力を持っているということなのだろうか。
「――どうかなされましたか?」
「ああ、いえ。女性がそういう代表としての立場にいるという話はまず聞いたことがありませんので少し驚いたのですよ」
 差し出された茶を受け取り啜る。疲れた体に暖かい茶が染みる。
「そうでしょうね。文明開化といっても女性が表舞台にでることはありませんから。まぁこの村は少々特殊なのです」
「ふうむ。こういう山奥の村でこういった事象が起こるのは大変珍しい――ああ、失礼。あまり外部の者が口出しするものでもございませんね」
 妙なはぐらかされ方に私の学者としての好奇心が鎌首をもたげるが、経験上、こういう村の風習にあまり強引に立ち入ると排斥される恐れがあると知っていたので、ぐっと我慢する。
「いえ、こちらこそ申し訳ない。――それにしても随分と風習などにお詳しいようですが、何かやっていらっしゃるのですか?」
「いやいや、浅学をひけらかすようでお恥ずかしい。農政学を学ぶ傍ら各地のこういった逸話風習などを集めておりましてな」
「ほほう。ではこの辺り……遠野はそういった話をよく聞かれるでしょう」
「ええ。どれもこれも興味深いものばかり。知っておりますかな? 遠野に佐々木喜善というものがおりましてな――」
このような田舎であるはず無かろうと思っていた知識人との邂逅に、ついつい饒舌になってしまった。それについてこれる慧音殿もさすがだが、いささか喋りすぎたようだ。佐助殿が風呂の用意ができたと呼びに来るまでの一時間、延々と喋り続けていたのだから。





「ふー、いい湯だ」
 佐助殿が用意してくれたのは五右衛門風呂だった。田舎では珍しくもないので、底板を踏んで湯に浸かる。疲れた体に熱めの湯が心地よい。
 熱された風呂釜に触れないように注意して肩まで浸かる。そう簡単に触れて火傷しないよう広く作られている釜ではあるが、それでも気をつけるに越した事は無い。
 空を見上げると満天の星空。昔は江戸、いや東京でも見れたものだが、今では見える星もめっきり減ってしまった。
 茂みから聞こえる虫の音が実に風情があってよい。外で風呂にはいるのもなかなかオツなものだ。
 予想外の事で行き着いたところだが実によい村だ。できればもう少しここに逗留したい。
 汽車の時間と妻に告げた帰る予定の日付を計算するとあと一日くらいは居れそうだが――。
 風呂に浸かりながらそういった事を取りとめも無く考えていると、側の林から奇妙な泣き声が聞こえてきた。
 それはこの村に立ち入った際に聞こえてきた鳴き声であり、二度と聞きたくない鳴き声であった。
 視界が煙がかかったかのように黒くなっていく。慌てて湯で洗い流すも一向に視界は良くならない。ここで慌てて風呂釜に触れてしまっては大怪我をしてしまう。私は怖気で高鳴る胸を押さえながらその場にしゃがみこんだ。
 すると、裏口の戸が開かれる音がして、
「こんのぉ夜雀め! 性懲りもなく来おってからに!」
 佐助殿の怒声が聞こえたかとおもうと、辺りの空気を震わせて爆発音が鳴り響く。
「うひゃあああ~~~」
 森の方で人の悲鳴が聞こえたような気がし、奇妙な鳴き声も止んだ。すると前回と同じように視界が良くなったではないか。
「お客人、大丈夫でしたか?」
 そこには鉄砲を担いだ佐助がいた。先ほどの爆音は鉄砲を撃った音だったのだろう。
「あ、ああ。大丈夫だ。それにしてもさっきのは一体? 何か人間のような声も聞こえましたが……」
「ああいえ、大丈夫ならよござんす。ちょっと夜雀が里に下りてきただけっちゅうにな。お客人はこのままゆっくり風呂にはいりなすっててくだせぇ」
 そういって頭を下げると佐助は家の中へ戻っていった。夜雀とは一体なんなのだろう。何かの隠語なのだろうか。
 なんにせよ、私自身が佐々木君の話の如き不思議な体験をするとは思わず、しばし風呂釜の中で呆然としていた。
 割り当てられた部屋の天井を見ながら私はこの村の事を考えていた。
 村の長をしているという慧音という女性。さきほど風呂でも聞こえたあやしげな鳴き声。
 考えれば考えるほど不思議な村だった。そう、こんな感覚は少年時代以来だろうか。
 隣の家の畑で出会った狐に睨まれ金縛りに遭った時の記憶が蘇る。今思えば、あの時背筋を走った怖気はその時に体験したものとまったく同じであった。あの時は運良く何も起こらなかった。今回も慧音殿や佐助が来てくれなければどうにかなっていたかもしれない。
 そう考えると尚更好奇心が恐怖に先立ち、この村に滞在したくなってくるのだった。
 とにかく今は寝て疲れを癒そう。滞在を認めてくれる可能性は低いが、聞いてみる価値はありそうだ。
 それにしても私の目はどうしたというのだろう。急に視力がなくなるとは相当酷いのかもしれない。帰ったら医者にかからねばならないな。
 数々の思考が頭をよぎるうち、いつのまにか眠りに落ちていた。





 翌朝、朝食の席で慧音殿にあと一日滞在できるかどうか話してみた。
「ふむ。しかし、そちらにも予定があるのではないですか? 細君も帰りを待ちわびているでしょう」
「いやなに、帰る期日にはちょうど一日ほど余裕があるのでな。妻の方は心配無用。とはいえ私は部外者。無理にとは申しません」
 頭を下げる。この年齢になって妻以外に頭を下げることになるとは思いもしなかったが、とくに不快ではなかった。
 慧音殿はしばらく考えた後、
「そこまで言われるのなら構わないです。ただし一つ約束してください」
「というと?」
「村の外には決して出ない事。昼間とはいえ森は迷いやすいので」
 その程度なら、と快く了承する。
 朝食が終わり、慧音殿が書斎へ引き篭もると、私は早速村へ出かけた。
 村は二十軒たらずの家で成り立っていた。私が歩いていると、挨拶はしてくれるものの、やはりその視線には少なからず棘がある。とはいうものの、この程度の事は地方の村々を回っていれば日常茶飯事のようなものでいい加減慣れてしまった。
 だが村の人間と会話できないというのは少々残念だった。この老人連中と会話すればおもしろい物語が聞けると思ったのだが。
 仕方ないので軒先や村人の行動を観察することにした。
 私の期待を裏切って、村人の行動はいたって普通であり、なんら目新しいものを見つけることはできなかった。村の周辺への警備がやけに厳重なのが気になった。聞いてみれば野犬が昼でも出るから見回りをしているという。確かにこんな山奥では野犬くらい出ても不思議ではない。私が昨日野犬に出会わなかったのは幸運というべきだった。
 村を一回りして不思議な事に気づく。どの家も軒先に魔除けの札が貼ってあるのだ。だがこの村には宗教施設がない。魔除けの札がある以上、神社もしくは仏閣や道術などの施設があるはずなのだが。
 村人に聞いても要領を得ないので慧音殿に聞いてみることにした。折りしもちょうど昼時だったのもある。


 慧音殿の家に戻ると、佐助が昼食を出してくれた。慧音殿が同席していないので、どうしたのかと聞いてみると、
「へぇ慧音様は一度書斎に篭られると中々出ていらっしゃらないのですよ。それに慧音様からも昼はいらないと言われておりますので、へぇ」
 この家に書斎があるとは知らなかった。村は狭く午前中でほとんど周りきってしまっていた。邪魔をするのも悪いと思ったが、どうしても札の事が気にかかり書斎へお邪魔することにした。何か収穫を持って帰らねば迷って辿りついた意味がない。そんなことを考えていた。
「慧音殿、すこしお邪魔してもよろしいかな」
「ああ、お客人か。どうぞ」
 襖を開けて私は驚いた。およそ八畳ほどある部屋の四方を囲む本棚。そこにはぎっしりと本が詰まれていたからだ。
 これがただの本ならば大して驚きはしない。幼少時代を暮らした辻川の三木家には四万冊ほどの蔵書があったからだ。私が驚いたのはそこに並んでいたのが稀覯本や遺失したはずの本ばかりだったからだ。 そしてそれに混じって明治以降の本も並んでおり、その中に『抒情詩』までがあるのを見つけ、私は驚きを禁じえなかった。
「いやはや、これはすごい蔵書ですな……。数はともかく並んでいる本がすごい」
「ははは、いやなに昔から読書家でして。街に出ては古書店を巡って買い集めたものばかりです。実はこっそりと東京まで出張って手に入れたものもあるのです」
 そう言っていたずらっこのように微笑む慧音殿。思ったよりも行動的なようだ。
「それに、此処の本は家の蔵に眠っていたのも少なからずありますので、おそらく先祖も読書家だったのではないでしょうか」
 作業の手を止めて、苦笑いする慧音殿。慧音殿の高い知性はこうやって培われたものなのだろう。
「いやいや、作業の邪魔をして申し訳ない。慧音殿も文学をかじっておられるので?」
「私のは文学というのはおこがましいですよ。日々の記録を淡々とつけているだけです」
 慧音殿は謙遜するが、私はそうは思わなかった。あれほど知性のある慧音殿がそうそうヘタな文章などを書くはずもない。そう私は信じていた。
「いや、世の中には樋口一葉のような女流作家もおるのです。今からでも遅くはありませ――あいややすいませぬ。つい興奮してしまった」
 ついつい興奮して我を忘れてしまった。私が幾ら薦めたところで本人にその気がなければ、どうしようもないではないか。
「あまりおきになさらずに。私としてもそう悪い気分ではありません。それよりも何か聞きたい事があったのでは?」
 指摘されて本来の用を思い出す。まったく私としたことが恥ずかしい。
「おお、そうでした。実は村の家の軒先に魔除けの札が貼ってあったのですが、その割にはこの村に神社仏閣の類がないので不思議に思いましてな」
「ああ、それですか。神社なら山一つ越えたところに一つあるのですよ。魔除けはまぁ田舎ゆえに信心深いのだと思ってください」
 そんなところに神社があるとはついぞ思いもしなかった。しかし、大抵村の中心となるはずの神社が何故そのような辺鄙なところにあるのか。その理由は幾ら聞いてもはぐらかされるばかりだった。


 あの後、日が暮れるまで慧音殿と文学について語り合った。あのような充実した時間は久しぶりだった。そして今、再び五右衛門風呂に浸かっている。
 またあの怪しい鳴き声が聞こえてこないか、不安と同時にすこし期待していた。
 私の予想では夜雀という言葉はおそらく山人の隠語であると推測する。山人とは人里にすら下りずに山の中で生活している野人に近い人たちのことだ。タダでさえ山の中にあるこの村とはナワバリか何かで争っているのだろう。
 そしてそういうのは得てして私のような都会人には理解されない事が多いので、わざと隠したのだろう。
 だが、私の期待も空しく何事もなかった。風呂上りに佐助に聞いてみると、前もって鉄砲を撃って脅かしておいたそうだ。残念でならない。
 その日の夕食は佐助も同席し、にぎやかな夕食となった。慧音殿にも山人の事を話すと、
「まぁそのようなものと考えて下さって結構です」
 とはぐらかされた。
 ああ、やはりこの村にもっと滞在したいものだ。だが内閣書記官としての仕事もあるし、慧音殿もこれ以上は了承すまい。再訪を心に誓い、旅支度を整え眠りにつくのだった。





 あくる朝、佐助と慧音殿の見送られて、私は村を出た。
「この道をまっすぐ行けば別れ道があります。右へ行けば遠野、左へいけば吉里吉里です」
「この二日間、何から何までお世話になりました。何のお礼もできずに申し訳ない」
 後ろ髪をひかれる思いで、帽子を取って深く礼をする。
「いえ、私達は何もしておりません。柳田殿も東京へ帰っても壮健でいてください」
「慧音殿もお元気で。もし東京へ来るような事があれば牛込加賀町にある我が家にぜひ訪ねてきてください。妻と一緒に歓迎させてもらいます」
「ええ、その時はぜひ立ち寄らせてもらいます。ああそれとこれを――」
 手渡されたのは小さな鈴だった。鳴らすと澄んだ音が響く。
「魔除け――いや熊除けの鈴です。そうそう出会うことなど無いと思いますがお持ちください」
 渡されたのは握り拳よりやや小さいくらいの鈴。振ってみるとちりんとよい音がした。
「ほう――いやありがとうございます。機会があればまた訪ねくるとします」
「ええ、その日を楽しみにしています」
 笑みを浮かべてそう言ってくれる。その笑みは何故か寂しげだった。
 こうして私は村を後にした。この時私は必ずこの村を再度訪れることを決心していた。いつか万難を排して訪れると。この村には私の学ぶべきものがあるような、そんな気がしていたからだ。


 言われた通りに森の中を歩き、別れ道を遠野の方へ曲がる。
 村での体験のおかげで頭の中は本の構想でいっぱいだった。自然と足取りも軽くなる。時折聞こえる鳥の声が爽やかだ。
「そうだな。題にはやはり遠野を使いたい。ほとんどが遠野の話でもあるしな。あとは佐々木君にも言及しておかねば――」
 本をいうものは考えている時が一番楽しい。頭の中で、書くという作業無しに色々とこねくり回すのは本当に楽しいものだ。
 山道を登りきった頂上は、遠野が一望できるよい場所だった。高みから見る遠野郷は実に幻想的だ。雲にけぶるその風景は今にも消えそうだった。
 そして視界が闇に染まった。
 だが、さすがに三度目ともなると慣れてくるものだ。その場に膝を付き、目頭を押さえ揉む。それで直るという確証はなかったが何もしないよりはマシだった。
 そしていずこからかあの鳴き声が聞こえてきた。
 てっきり村との確執だと思っていたのだがどうやら私を狙っているらしい。一昨日迷ったときに彼らのナワバリでも荒らしていたのだろうか。
 いや、今は理由などどうでもいい。なんとかして逃げなければ。
 杖をついて立ち上がろうとして、前へつんのめる。同時に頭の上を何かが空気を裂いて通り過ぎる音。
「あ、あわわわわ」
 やたらめったらに杖を振り回す。こんな杖くらいでは慰めにもならない。
 突き飛ばされて木にぶつかる。土を踏んで近づいてくる音が聞こえる。
 もうだめか。
 観念したその瞬間、懐から零れ落ちる何か。清らかな金属音を響かせて転がり落ちたのは慧音殿からもらった鈴だった。
 すると何故か目の前の気配が驚いたような気がした。じゃりじゃりと辺りを歩き回る山人いや夜雀と呼んだほうがいいのか。どうにも何か躊躇っている気配がする。
 しばらくして舌打ちの音が聞こえたかと思うと、目の前の気配は消えていた。
 すると、突然明るくなる視界。やれやれ私の目玉は現金なことこの上ないな。だが、姿を見ることがなかったのは幸運だったかもしれない。姿を見れば恐怖が倍増していたはずだから。
 それにしても何故私を襲わなかったのだろうか。そばに落ちている鈴をまじまじと見つめる。まさかこの鈴で逃げたとでも? まさか、な。
 立ち上がって裾の土を払う。いつまでもここにいるとまた襲い掛かってくるかもしれない。早く立ち去ったほうが無難だろう。
 杖を持つと私は再び遠野へ向けて歩き出した。

 それからはどう歩いたかはわからない。
 気が付けば遠野への街道を歩いていた。そのまま遠野で一泊し、翌日東京へ帰った。
 東京に帰るとすぐに執筆に取り掛かった。例の村の事を書くべきか迷ったが、まだ表面的な事しかわかっていないし、もう一度訪ねるつもりでもあったから書くのはやめておいた。
 完成した本は慧音殿にも差し上げるべきかと思い、吉里吉里で例の地図をもらった老婆へ送っておいた。住所不定で戻ってこなかったので届いているものを信じている。


 結局のところ、その村を二度と訪れることはできなかった。
 何度か遠野へも足を運んだのだが、誰もその村の事を知らず、吉里吉里の老婆もどこへ消えたのは二度と会えなかった。老婆からもらった地図はいつのまにか紛失しており、山に一人で入るのは無謀すぎた。
 佐々木君にも聞いてみたが、
「きっと柳田さんはヤヨイガへ行かれたのですよ。いや羨ましいなぁ」
 と、一笑に付されてしまった。
 八十を過ぎた今では佐々木君の言う事も信じてもいいと思い始めている。
 そう、あの村は私にとって幻想の郷だったのだ。











「慧音様、吉里吉里の寒戸婆から小包が届いておりますぞ」
「寒戸婆から? 珍しいこともあるものだな」
 寒戸婆というのは、この村と吉里吉里とを繋いでいる貴重な人間だった。私がこっそり出かける時などによく世話になっている。
「東京の……ああ、柳田殿からか」
 包みを開けてみると本が一冊入っていた。本の名は『遠野物語』。執筆者の名前は柳田國男。
「そうか。ようやく完成されたのだな。――さすが柳田殿。見事な文章だ」
 その本は数十年を経た今でも、私の書架に丁寧に置かれている。












博麗大結界で隔離されたのは明治頃。
明治といっても明治時代は50年以上あったんだから、明治中期に結界が無くてもいいよね!

というわけでやってしまいました。明治幻想郷。
主役は幻想郷とも縁の深いあの人です。
実在の人物とはいえ、描写するのはなかなか至難でした。

コンペが終わり次第、異法帖にとりかかりますので待ってた人は見逃して!
新角
[email protected]
http://d.hatena.ne.jp/newhorn/
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コメント



0.1480簡易評価
7.70名前が無い程度の能力削除
サムトの婆様に初版、おおーという感じですね。婆様が意外、姿を消してからそんな仕事をしていたとは。

新版も幻想郷入りしているといいなあ、と思います。
12.80ルドルフとトラ猫削除
ああ、これはいい
実在の人物が実際に行ったと成れば、身近さがまたいっそう強くなると言うものです
21.100Tnk.Ds削除
民俗学者・柳田國男氏が「遠野物語」を発表したのは明治45年の事・・・そんな秘話があったとしたら素敵ですよね。
フィクションでありますが、所々のリアルな時代背景と描写が物凄くて面白かったです。
27.90名前が無い程度の能力削除
文章の表現が上手く、文学作品のような趣がありました。
偶にはこんな幻想郷も乙ですな。
34.100nanasiro削除
素晴らしい! こんな実在の人物が切り離される前の幻想郷に…

こんなIfを思い浮かべると楽しくて仕方がありません。
この時代のお話ってとても幻想的な物が多いのはそのせいだったり?
35.80名前が無い程度の能力削除
や、これは良い物を読ませて頂きました。
柳田がもっと長く滞在していたら、幻想の郷の話も遠野物語に載ったのかもしれないなあ…
39.90名前が無い程度の能力削除
いい雰囲気だ
てか吉里吉里って地名ホントにあったのね
40.90名前が無い程度の能力削除
ある初老の男性と、1日限りの幻想郷旅行。
堪能させてもらいました。

わがままを言えば、この人の視点でもっといろいろな場所を描写してほしかったな、とも思います。
42.100名前が無い程度の能力削除
博麗大結界起動による幻想隔離は明治17年のこと。しかし、それを追求するのは野暮でしかありますまい。
幻の郷に立ちよった、民俗学の権威の一日ばかりの物語り。当代の日本を想いながら読ませていただきました。