Coolier - 新生・東方創想話

Anywhere but here【8】

2006/09/19 10:40:29
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Anywhere but here(魔法使いには魔術書を)





【BGN】


たゆたうアリスに闇が言った。


――――――――あなたは誰かと一緒にいるときの方が、さみしそうな顔をするんですね

そうかもしれないとアリスは思った。

――――――――あなたは愛される為だけの存在なのに、それで満足しないから傷つくのですよ

その通りだとアリスは認めた。




  Had I the heavens' embroidered cloths,
  Enwrought with golden and silver light,
  The blue and the dim and the dark cloths of night
  and light and the half light,
  I would spread the cloths under your feet:
  But I, being poor, have only my dreams;
  I have spread my dreams under your feet;
Tread softly because you tread on my dreams.









【彼女がハーブを持ってきたわけ】

[Side:Patchouli]

・秋の収穫は間に合わない。鬼灯を持って。

・名前を呼ぶとき気をつけて。

・WとHの仲を引き裂く。



それに気づいたのは全くの偶然だった。たまたま小悪魔がレシピを持って廊下を歩いたから露見したことだったのだ。ハーブを使った料理の内容が、やたら夕食向きだったのはその所為だったのか。

――――――――特殊のインクで落書きしたって

――――――――書いてから一週間後の晩に

――――――――月光を浴びたときだけ

「あれは、これのことだったのね」
「なにがですか?」
「なんでもないわ。ただ、どういうつもりなのかと思って」
嘘を吐いたり誤魔化したり隠したり、なのにこのメッセージはなんなのか。
「賭け、じゃないですか?」
私の言葉に、小悪魔は自信なさげに言った。
「賭け?」
「つまり、自分では止められないから、パチュリー様に止めてもらおうとしている、とか」
まさかと思った。彼女は私を頼るとは、あの部屋の時を別にすれば、あり得なさそうな話だった。
「ですから賭なんですよ。気づいて貰えたらラッキーかどうかはわかりませんが、まぁ運試しというか」

「運試し、ね」

それなら私が気づいたことは、彼女にとって良かったのだろうか、悪かったのだろうか。

その答えは、私にはわからなかった。










【小望月の夜にⅡ】


――――――――幸せになってください。どうか貴方、幸せになってください


レミリア・スカーレットが扉の向こうへと消え、その扉も閉まりきるのを確認したところが限界だった。力尽き、アリスはそこが洞窟にも関わらず、抵抗もなく倒れ込んだ。幸いにして膝から崩れたから、衝撃はそれほどでもなかったけれど。地面の冷たさを感じながら、暫くは指一本も動かせないとアリスは思った。身体を走っているはずの神経はどこかに消えてしまって、初めからそんな機能は備わってなんかいなかった、とでもいうように。
なんだかこのまま寝てしまいそうだった。これが普段なら、まだ秋の口だし、死にはしないだろうけれど、弱った今は少し不安だった。ただでさえ低くなっている体温が、接している地面に奪われていくのだ。
というか、たぶん、かなりやばい。
やばいのだけれど、動けない。さすがに死んでしまうのは困る。何とかして朝までには、図書館に行けるほど回復しなくてはならないのだ。そうしなければ、この二月ほどの努力は、全てではなくても、半分は無駄になってしまう。

ああでも、これで。

「最悪は、免れた…」
意識を保とうと、アリスは声に出してみた。たったそれだけが重労働だ。それでも、最悪を回避できたことを今は素直に喜ぼう。笑おうと頬に力を入れたのに、ぐっと反応したのは眼の方だった。鼻の奥がつんとする。だから、自分は笑いたいんじゃなくて、泣きたかったことをアリスは思い出した。でもあまりにも長い間泣くのを禁止していたから、そう簡単には出来ない気がした。いや、違うか。今も泣いていいとは思えないのだ。だって、ここは笑うところなのだから。『  』の望みの一つが、やっと叶った夜だから。
だけど。
喉の奥が震えそうで、眼はますます潤んでくる。耐えようと歯を食いしばってしまうほど、その衝動はすぐ後ろまで迫っていた。気を抜けば屈してしまいそうだから、アリスははぁっと熱が籠もりそうな息を、肺の奥から吐きすことでやり過ごす。
いつの間にか気力も多少は回復していて、可能ならば家に帰るべきだと頭ではわかっている。それでも安心してしまえばそこで心が折れてしまうかもしれないから、アリスはあえて辛いことを、膝を抱えてこのままここで耐えることを選択した。
朝まで。それまで耐えれば、あとはもう哀しむこともなくなるのだから。泣きたいと思うことも、なくなってしまうのだから。たとえ、そうしたいと思ったとしても。

「――――――――っ」

そのことを思いだし、その事実を思い出し、やっぱり泣いてしまいたくなる。けれど泣いたら負けてしまう。それは後悔していることになってしまう。どうしようもなくここが寒いところで、自分が一人だということを認めてしまうことになる。違う。一人なのは自分で選んだことだ。一人でいることが駄目なんじゃない。それに耐えられないことがいけないんだ。そんな弱い心で、どうして彼女を救えるというのか。

――――――――でもそれは、そもそも貴女の望みではないのです

「あ…」

同化しているはずの『  』が、急に凝縮し、『アリス・マーガトロイド』の中から浮上する。何か凄く大切なものが失ったことを、それによって思い出してしまう。【アリス・マーガトロイド】が揺れてしまう。

「どうして…」

――――――――今あなたがそれを言うのよ

――――――――私と同化することで、貴女は仮初めの安定を得る。だからわからなくなってしまう

『  』は言った。

――――――――取り違えないでください。あの子を救いたいのは私の心です。貴女ではない

――――――――そんなことはわかっているわ

――――――――今はです。さっきまでは混同していました

――――――――そんなこと…

――――――――【アリス・マーガトロイド】は泣きたいんです。泣けばいいではないですか

「……無理よ」

いいから黙って、と強く願う。優先位の低い『   』はそれだけで取り込まれてしまう。若干抵抗が有ったようだが、それは何の抑止力にもならなかった。そして『   』が取り込まれるということは、【アリス・マーガトロイド】も取り込まれるということだ。『アリス・マーガトロイド』に戻ると、ただ辺りは静かだった。揺らいだ感情も静まっていく。足下が崩れていくように、それはとても怖いことだとわかっている。けれどもう引き返すわけにはいいかないから、今はただ夜明けを待とうと思った。
うっかり眠ってしまっても、朝が来たらすぐにわかるように、アリスは洞窟の入り口にいることにした。本当なら妖精に出会わないように、奥にいた方がいいのだけれど。どうも危機意識も薄れてしまっているようだった。可能性の高さで言えば大したことがないから、アリスは目的遂行を最優先にする。

心が穴だらけ、か。

うまく感情をコントロールすることも適わないから、アリスは【アリス・マーガトロイド】でいることは危険だった。先ほどだって、【アリス・マーガトロイド】では耐えきれないから、『  』の方を前面に出して凌いだのだ。レミリアには気付かれなかったようだが、紫はわかっていたんだろう。彼女が出てきたとき、【アリス・マーガトロイド】は怖くてしかたなかった。でもその時の彼女は『アリス・マーガトロイド』だったから。もっとも相手があのスキマ妖怪では、『   』だけではかえって危ういのだが。どちらにせよ、今の自分は満足に怖がることも出来ない。
ふっと軽く自嘲して、アリスは星をみた。今夜は小望月だから、空は明るい。眩しくて目を閉じたら、なんだか闇が優しい気がした。懐かしい何かを思い出せそうな気がして、アリスはその中へと沈んでいく。

耳をふさぐように。
意識を逃すように。

どこかで遠く響く、ぴちゃん、という水滴のおちる音を数えながら。



そうするうちに、緩やかな眠りが訪れた。







【回顧録Ⅰ】


――――――――幻想郷?

――――――――そうだよ。幻想さ。失くなってしまったのなら、そっちにあるよ。随分と大きな落とし物だけど

――――――――実在しないってこと?素敵だね

――――――――どこがさ?

――――――――だって、ネーバーランドってことでしょう?


いったい、それは誰の記憶なのか。


――――――――ようやっと見つけた。約束を果たしに来たよ

――――――――誰に言っているのさ。こちらと一流魔術師で通っているんだよ?

――――――――やっぱり妖怪化してるね。この子を描いたとき、顔料に私の血を混ぜたから

――――――――馬鹿だなぁ、キミ。ずっとそうしていたの?


いつのもので、どうして私がそれを知っているのか。
あまりにも視点がばらばらだから、きっと一人のものではないんだろう。
あるいは、誰のものでもないのかもしれない。

ただ。


――――――――この館を、頼むね


――――――――いつか絶対に

――――――――…って…るから



一番最後のその記憶は、とてもあたたかで。
同じくらい、哀しさに濡れていたから。


アリスはその声に、応えないわけにはいかなかったのだ。










【さよならのうた】

さようならアリス・マーガトロイド。
私と貴女の時間はここで終わります。

続く果てにたどり着く場所が、貴女にとっての幸福でありますように。

[Side:?]

日が昇る。朝が来る。

お別れの始まりだと、アリスは思った。
眠っている間もずっと抱いていた空卵を、昇りたての太陽にかざす。ラブラドライトあるいはラブラドールを模したそれは、朝陽を受けて眼にいたいほど綺麗だった。

「さようなら…」

それは誰に当てた言葉なのか。
空卵を強く胸に抱き直す。慈しむように。縋るように。護るように。願うように。それから――――――――
唇から零れるのは祈りの歌。
いつかも透明な声が歌い上げた歌。
たった一人の為の歌。
彼女のあれには、きっと遠く及ばないだろうけれど。


――――――――さようなら

『   』の声も最後にそう響く。
それは誰に告げたものなのだろう。

わかっているのは。
確かなのは。

もう『彼女』は、此処にはいられないということで。


祈りは呪いのようで。
呪いは祝福のよう。
懺悔のように彼女は歌い上げる。
もはやそれ以外、許されないと知っているから。

さようなら

空卵は最後に一度震えて、やがてそれはゆっくりと。
アリスは朝陽を受けてゆっくりと。
ゆっくりとそれはアリスの中へと消えていった。









【Let us go then , you and I, 】

さぁ出かけよう、君と僕。

[Side:Patchouli]


本に埋もれて生きてきた魔女は、時が満ちてゆくのを肌で感じていた。
あんなに捕らえるのに苦労していた彼女の魔力が、風のようにこちらへと向かってくるのがわかる。

それは、青と金が絡み合う、まぶしい朝の空のようで。
それは、碧と金が絡み合う、きらめく昼の川のようで。
それは、蒼と金が絡み合う、かがやく宵の月のようで。

実に、彼女に相応しい。

空気にとける、光だった。

それは、けして太陽にはなれない。

そんなさみしい、さみしいひかり。


やがて始まるその瞬間に、魔女は一人覚悟を決める。
本が抜き取られていたのは三日前。
聡明な彼女なら、きっとそれぐらいで解き明かすだろうと予測していた。

「冒険の時間ね、アリス・マーガトロイド」



あなたはこれが、自分の意志だと信じているんでしょうけど。

私だって、これは自分の意志だと信じている。



机の上に置いてあった瓶をとった。中の液体が少女の心のように揺れている。何とも形容しがたい色に濁るそれを、パチュリーは不安と共に一息であおった。力を持ったそれが喉を流れ、食道を通り、胃におちた。かっと、瞬間に熱くなる感覚。そして、そこから波紋のように広がってゆく魔力。
全てが収まる頃には、彼女はすぐそこまで来ていた。
一時的に力を高めてくれる薬の効果はおよそ十五分。
それが『向こう』のどれくらいにあたるのかはわからないけれど。

「そうね、お互い頑張りましょう」

戦友というものがいるなら、それはこんな気分なのかもしれない。

まだ答えは見つけてないけど。

これが正しいなんてわかりはしないけど。

けれど人でも妖怪でも、自分のためだけに戦っては幸せを掴めない。

ねえ、そうでしょう? 紅、美鈴




[扉の向こう]

それでは、冒険へと洒落込もう。

  [Side:Patchouli]


Where now ?(ここからどこへ?)

Anywhere but here (ここでないどこかへ)



Where now ?(ここからどこへ?)

Nowhere (どこでもないとろへ)




[暗転]



――――――――秋の収穫は間に合わない。鬼灯を持って

――――――――名前を呼ぶとき気をつけて

――――――――WとHの仲を引き裂く



闇を照らす光。それを求めて彷徨っている。
私は鬼灯を手に、アリスを追っていた。否、追おうとした。
しかし『外れた』と思ったときにはすでに闇で、しかも彼女の気配は何処にもなかった。まさか彼女の足が図書館に入った途端、陣が発動するとは予想外だった。立ち位置によっては小悪魔を引きずり込んでいた可能性も否定できない。私の妨害がある可能性を考慮していたのだろう。陣中央から扉までの通路にも、仕掛けはされていたのだ。そうして陣から遠く離れていて、しかも油断していた私が入り込めたのは、ひとえにこの鬼灯のおかげだろう。ヒントに気づけて良かったと心から思う。
しかしそれよりも、問題は現在の状況だ。あまり考えたくないが、このまま迷い続ければ魔力も尽きて死んでしまう。ここは本当に何もない。無限の闇が続いている。闇を怖がるのは人だけだと思っていたが、どうもその認識を改める必要があるようだ。もっとも私のは不安と言い換えるべきだろうが。人が闇を怖がるのは、そこに得体の知れないものがいるかもしれないと思うからだ。わからないものがあると落ち着かないという点に関しては、私も全面的に賛同できる。しかし今の私はわからないから不安を感じているわけではない。本当にここには何もないことがわかっているから落ち着かないのだ。それはつまり、ここで私の存在を証明してくれるものは、私しかいないということだから。彼女がここには、いないということだから。

さっきまであんなに強力な波動を感じていたのに。

そう思うと、鬼灯を持つ手に力が入った。あの白い闇で、私たちは手を繋いだ。それはもうずっと昔のことのように思えた。あれからまだ十日ほどしか経っていないというのに。

「でも…」

ひょっとしたら、すでにそれぐらい時間が経っているのかもしれない。ここの時間が向こうと同じ流れで進むという保証はどこにもない。なにせここは、咲夜の能力ですら立ち入れない、【ここではないどこか】なのだから。あの、地下にある扉と同じ原理で。

「同じ、というのは、少々語弊があるかしら」

そもそもあそこは、地下にあるのではないのだ。繋ぎ合わせの二つの扉の、その間という、よくわからない空間。それこそがこの【ここでないどこか】なのだ。扉というのはどこかに繋がっているから存在できる。そしてその多くは、扉の片方が外であり、もう片方が中である。ところが地下と洞窟の扉はそうではない。あの二つが繋がっているのは、こちら側には観測できないところにある。つまりどちらも中であり、外である場所。それが【ここでないどこか】だ。二つの扉には、『外』でも『中』でもなく、『向こう』という概念しかない。そしてこの秘術の最大の特徴は、必ず扉は二つなければならないということ。出口と出口の間。入り口と入り口の狭間。【ここではないどこか】。扉は『ここでない』ところに繋がっている。それが二つで、【ここでないどこか】になる。

なのだけれど。

「私が今いるのは、つまり【何処】なのかしら?」

アリス・マーガトロイドが新たに編みあげたものは、それよりもさらに緻密なのだ。というのも、彼女のは扉が一つしかないからだ。しかしそれは、よくゆう【異世界への扉】なだというわかりやすいものではない。それに気づかないうちは、もう一つの扉を探しまわってしまった。一時は間に合わないかとも思った。

「でもこれは、解けるのが前提なのよね」

私の言葉に応えるように、そろそろ見つかるだろうと思ったその時、遠くでちらちらと揺れる灯りを見つけた。それは、私の解釈が間違っていなかったという証拠に他ならない。


ちらちらと揺れる灯り。そこには、私が持つものと、とてもよく似ている鬼灯があった。しかし二つには違いがある。私のは灯りが点っていないのだ。

「死者の道を照らす灯り、ね」

あの時思い出せなかった鬼灯の話。もっともここは死者の道と言うよりは「現世」ではないという意味で扱うようだが。そもそもこんなの言葉遊びで道を開けてしまうのは、ここが幻想郷だからだろう。
私は自分の鬼灯を、輝くそれに近づけた、その途端、ぼうっとした火が移る。代わりに元の火は消えてしまった。これでは帰り道が分からなくなってしまうのではないかと心配になる。が、そもそも道らしい道もないのだ。私は気にしないことにした。
そんな私の心を勇気づけるように、灯りはちらちらと揺れ、ゆらゆらと燃えた。


照らせば世界はそこにあり、歩けばそこが道になるというように。




[暗転]

Where now ?(ここからどこへ?)

Anywhere but here (ここでないどこかへ)



Where now ?(ここからどこへ?)

Nowhere (どこでもないとろへ)







【ジェニィー・ウィスプ】

嬉しいことが一つ増える度に、哀しい気持ちも一つ増えてゆくの

[Side:Patchouli]

まさかと思ったが人がいた。妖怪かもしれないけれど。というか、普通に考えれば人のはずがない。おまけにそれはどう控えめに見ても誤魔化しがきかないほど、怪しすぎる風体をしていた。背丈は私の胸くらいまでしかなく、それは灰緑色フード付きの法衣のような服を纏っていた。全身をすっぽりと覆えるほど大きなその服は、ドルイドような格好と言い換えてもいい。当然顔は見えない。足すら見えないから、実は足がないのかもしれないし、あるいは十本くらいあるのかもしれない。……あまり楽しくない想像だったので、即座に打ち消す。

「あなたは誰?」
「――――――――」
それは応えなかった。言葉が分からないのだろうか。
「こんなところで何をしているの?」
もう一度話しかけると、それはすっと右手を前に出した。どう見てもあまり過ぎの袖から、小さな手が出てくる。手はぎゅっと指が内に曲げられていて、平たく言えば拳の形をとっていた。何だろうと見ていると、その手の中から、蔓のようなものがするり這い出たかと思うと、あっという間に花が咲き、実が出来て、カボチャになった。しかもそのカボチャは、
「ジャック・オー・ランタン?」
しかしそこには火がなかった。
「ひょっとして、この火が要りよう?」
それは頷いた。(言葉はわかるのだ)そうしてじっと私の反応を伺うように、顔はフードの中だが、見上げてくる。ちょっと断れない雰囲気だった。私は与えられたヒントを思い出そうとする。これに関係してそうなものといったら、あの一文しかない。

『秋の収穫は間に合わない。鬼灯を持って』

つまり、わざわざ日本語で書いてあったのは、そういうことなのだろうか。『間に合わない』というのは時間が足らなかったという意味だけでなく、間(あいだ)に合わない。つまり、陣を潜るには向いていないということだ。陣はすでに通った。

「つまり?」

火を分ければいいのだろうか。目の前のそれは頷いた。仕方なく、私はカボチャに鬼灯を近づける。私の火が消えるかと思っていたのだが、予想に反して消えずに残った。
ぼうっと。灯りが二倍になる。心なしか、それは満足げに頷いたようだった。そうして、ついて来いというように、私の服を引っ張った。
「道案内してくれるのかしら?」
それは黙って頷く。聞けるし言葉も分かるのに。しゃべれないのか、しゃべらないのか。
「まぁいいわ。それじゃあとりあえず、ウィル・オ・ウィスプのウィリアムと呼ばせて貰おうかしら。それともジャックの方がお好み?あるいはジェニィーなのかもしれないけど」
ゆっくりと言ったのだが、どれも気に入らないらしく、反応は無かった。まぁどうだっていいか。悪魔でないなら、名前当てなどしなくていい。

手こそ繋がないものの、私はウィリアム(あるいはジャック、またの名をジェニィー、もしくはジル、そうでなければホブルディズ)の後を追って歩き出したのだった。








【Re少し前のこと】

  [Side:Alice]


小さい頃から、遠くへ行きたいなと、時々思うことがあった。
その願いは叶い、今アリスは幻想郷にいる。

広い世界を見に行きたいと初めて言ったとき、神であり母である彼女はあまりいい顔をしなかった。姉妹達も、それは同様だった。その為説得には時間を要したものだった。どちらかと言えば、強く反対したのは姉妹達の方だ。あらゆる言葉で言い表してはいたが、彼女達の言い分を一言でまとめれば、アリスの望みは過ぎたものということに集約されていたように思う。私たちは神であり母である彼女の傍にいるべきだと、そう何度も諭された。時には今の生活が不満なのかと問い糾されたこともある。勿論そんなことはないとアリスは答えた。でもそれは、今になってみれば嘘だとわかった。あの頃アリスは、確かに満たされてはいなかった。いつも何かに渇望していた。それが何なのかは今でもわからない。全て与えられていたはずなのに、それでもカラカラと渇いた音をだす心が苦しくて苦しくて、耐えられないような気すらし始めたその頃に、ようやっと沈黙を続けていた神綺がやって来て言った。


――――――――アリスちゃん、どうしても行くの?

――――――――勿論、命とあらば此処に居ります

――――――――そうして、許可するまで笑ってくれないのね。そのしゃべり方も、好きではないわ

――――――――『過ぎた願い』でしょうか

―――――――― 一つだけ約束して欲しいの。危ないことだけは、しないで

――――――――心がけます

――――――――それから、あなたに一つ贈り物があるの

――――――――受け取ります

――――――――アリス・マーガトロイド。今日からそう名乗りなさい。口ずさむ度に、帰るところがあることを思い出して


彼女は、アリス・マーガトロイドは、そこで初めて笑顔を浮かべた。


――――――――はい、おかあさん。それから、ありがとう




あんなふうに笑えることは、もう二度と無いのだろう。








【狐の嫁入り】


それは立ち止まると、フードを取った。中から素顔が現す。一瞬誰だかわからなかったが、その無機質な眼に、パチュリー・ノーレッジは大声をあげそうになった。実際、名前を呼ぼうと息を吸ったのだが、伸び上がった『彼女』の両手が、それを音にせずに済ませた。

――――――――名前を呼ぶとき気をつけて

唇が、そう動いたのを見た気がした。

彼女がそれを言い終わるかの内に、灯りが消える。
そしてその闇は、パチュリー・ノーレッジの意識にまで潜入してきたのだった。


[Side:Patchouli]

頬をたたくそれに意識が浮上する。あまりに懐かしい匂いに目を覚ました。
「……雨」
久しく感じていない、天の雫が降っていた。なのに青空が見えるとはどういうことなのか。
「そうか、お天気雨だわ」
実のところ、生きてきた時間はそれなりの私だが、天気雨を見るのは初めてだった。本が傷む為に、滅多に外に出ないからだ。これに当たると婚期を逃すという言い伝えを聞いたことがある。もちろん魔女の私には関係ない話なのだが。

見事に雲一つない空だった。この雨はどこから降っているのか。このまま上に行けば、空中から突然現れる雨にお目にかかるのかもしれない。私は手をついて身を起こし、辺りを見回した。そうして、自分が寝ころんでいたのが、クローバー畑――畑と表していいならだが――であることを知った。天気からしてそうなのだから、当然のようにそれはただのクローバーではなかった。辺り一面、見たところ数十メートル四方に広がるそのクローバの群れは、恐ろしいことに全て四つ葉のようだった。
と、ちりんと鈴の転がるような音がした。出所を探って首を動かすと、それはすぐ近くに生えていた草からだった。正確には、その花だ。ハクサンシャジンに似た、つまりツリガネニンジン属全般に似た花は、鈴のような形をしていた。そうして、それは本当に鈴の音がするのだ、風が吹く度に。
頭の隅を、先ほどのジャック・オー・ランタンが揺れる。これといい、あれといい。

「彼女の趣味なのかしら?」

そうだとしたらちょっと、いやかなり夢がちな趣味と言わざるをえない。この先に出てくるものみんなこの調子なのだろうか。例えばこの先の、遠く見えるあの森。お菓子の家か、そうでなければ妖精が(幻想郷の弾幕を張るようなのではなく、旅人を引きずり込んでは一晩中踊り明かすような)いるかもしれないし、どうみても妖怪でない動物が人間の言葉を話すかもしれない。ひょっとしたら今は雨だが、そのうちに飴が降ってくることもありえないとは言えない。なんと言っても彼女はお菓子を昼食代わり食べることもあると魔理沙も言っていたし。池は紅茶で湖はレモネードかもしれない。道に迷ったら、花に訊けば教えてくれたりするかもしれない。考えてみて、自分がそんな発想を持っていたことに驚いた。そうして、本当にあり得ないところが怖かった。なんと言っても、人形遣いだし。

「……ちょとどきどきしてきたかも」

偶然見つけた他人の日記を見るような気分とは、こういうものなのかもしれない。
ああそうかと、不意に思い至った。どうして今まで気づかなかったのだろう。ここがあの人形師の創った箱庭だとしたら、彼女好みのものに溢れていて当然ではないか。彼女の中に無いものなら、ここには一つだって有るわけ無いのだから。これは前言を撤回しなければならない。隠されて厳重に鍵のかかっていた日記を盗み見る並みに、すごくどきどきしてきた。どうしたらいいのだろう。というか、どうしてはいけないのだろう。いやでも、一応招かれたようなものだし、そう後ろめたい気分にならなくても……。

そんなことを悩んでいる場合でないことは、この後ちゃんと、すぐに思い出したけど。



  Had I the heavens' embroidered cloths,
  Enwrought with golden and silver light,
  The blue and the dim and the dark cloths of night
  and light and the half light,
  I would spread the cloths under your feet:
  But I, being poor, have only my dreams;
  I have spread my dreams under your feet;
Tread softly because you tread on my dreams.








【箱庭】


そうして、それは本当に偶然のきっかけだったのだ。

「そういえば、今日の明け方に夢をみたのよ」
扉をくぐろうとして、アリス・マーガトロイドはふと思い出したように私を振り返る。彼女にしては珍しい行動で、思わず私は本から顔を上げる。何故って、ここで彼女の言葉に返事を出来るのは、私しかいなかったから。
「夢?」
「ええ。とても美しい夢だったわ。空がどこまでも遠くて、私は長い畔道を歩いてゆくの」
よほど彼女はその夢が気に入ったらしく、目を閉じて感慨深そうに言った。
「暫く歩くとね、遠くに森が見えるの。私はそこを目指しているのよ。道の端には小さな花がずっと咲いていて、それがまた綺麗な色なの」
あれは夏の花ねと彼女は笑った。その両目の目蓋には、まだ夢の名残が鮮やかに焼き付いているのだろう。アリス・マーガトロイドは、本当に幸福そうに夢の話をもう二言三言続け、そうして最後に目を開けた。
私たちの視線はぴたりと合った。今日は見ることがないだろうと思っていた、透き通ったそれ。
おそらく、それがその夢を思い出した理由だったのだろう。何の前触れもなしに、彼女はそれまでの言葉と同様に、とくに気負いのない調子で言った。
だからそれは、どうしようもないほど不意打ちだった。



「夢(そこ)で、あなたに逢ったわ」



――――――――それが始まりだったのだ。私は、私たちは



[暗転]

それに気づいた瞬間に、心臓がうるさく叫きだした。私の前にはどこまでも長い、長い畔道が、彼女の言ったとおりに遠く遠く続いていたのだ。どこまでも、はるかに。
「………」
これなら踊る木を見つけた方がまだ良かった。誰も見ていないのはわかっているが、どうリアクションすればいいのかわからない。つまり、ここはあの時彼女が言っていた夢の中ということなのだろうか。足下を見る。花が揺れている。ミヤコワスレから始まって、ノアザミ、ホタルブクロ、ミゾカクシ、ヒゴタイ、ヒメジョオンと続く。他にもいろいろあるが、知らないものも多い。魔術に使えない花は、あまり明るくなかった。ここにあるということは彼女は知っているのだろうけれど。なるほど夏の花だった。とはいえ、夏と言っても初夏から秋の入り口までと、二月近くも時期に差があるのだが。おかしな点はそこだけで、他はいたって普通の花に見えた。歌い出しそうな様子はどこにもない。つくづくこの箱庭、もといこの世界はよくわからない。ちなみにここに来るまでに、勝手に動く巨大なチェスや、空に浮かぶ雲の船、十三時まである時計塔、ゼンマイ仕掛けのテディベアなどに出会った。ところが、今まわりにあるものは、どこからどう見ても何の変哲のないものばかりだ。気がつけば雨も止んでいる。そういえば、途中渡った橋からは変わったものに出会っていない気がする。場所によって分かれているのだろうか。

「ただ、植物を抜かせば、生き物らしい生き物がいないのが気になるわね」

もしかしてと思い当たり、私は花を摘んでみた。瑞々しい花だったが、茎から零れるはずの液汁はなかった。ぐしゃりと、手の中で潰してみる。花はくしゃくしゃになっただけで、しおれた様子はない。試しに出来るだけ元のように伸ばして見たら、縒れついてはいるものの、やはり瑞々しさは変わらなかった。

ああつまり…

「ここには、生き物がいないのね…」

声に出して、その言葉にぞくりときた。

自分が異邦者であることを見せつけられる。




「……さて、行きましょうか」


鬼灯を握り直す。強く強く。これだけはなくしていけないとわかっているから。




  Had I the heavens' embroidered cloths,
  Enwrought with golden and silver light,
  The blue and the dim and the dark cloths of night
  and light and the half light,
  I would spread the cloths under your feet:
  But I, being poor, have only my dreams;
  I have spread my dreams under your feet;
Tread softly because you tread on my dreams.







【夢の淵―狭間の季節Side:P】

実を言うなら、アリス・マーガトロイドが図書館で眠っていたのは、一度だけでなかった。ただ二度目の時、彼女はうなされていたのだった。
本を胸に抱き、膝を抱えるようにして、身体の横を棚に預けて。そんな手足を折りたたむように身を丸めた彼女は、いつもよりずっと小さく眼に映って。
眠りに堕ちた彼女に声はなかった。ただきつく眉を寄せて、目蓋が震えたと思ったら、一筋それが零れたから。私は彼女を起こすべきなのか、それとも見なかったふりをするべきなのか、そのどちらも選べなかった。
今に思えば、彼女がいたのはあの陣の織られた場所で、季節は秋の手前、夏の終わり。どちらでもあるような、どちらでもないような、そんな曖昧な季節だった。
私は結局起こすことが出来ずに、音を消してその場を離れた。じきに小悪魔が気づくだろうと、自分の読書に戻ることにした。ただそれでも、起きてるぶんには丁度良い温度でも、眠る彼女にはそこは寒い気がして。まして床から体温が奪われるじゃないと、私はもう一度彼女を振り返った。


「―――――――――――――――」

その時自分が何を考えていたのかなんて、もう詳しくは覚えてなんていないけど。

ただ唇から漏れたのは、+1℃の詠唱呪文。



心の端を掴まれる、十日ほど前のことだった。










【人形師さん、お手をどうぞ】


ずっと長い畔道を、私はただ歩いていく。生涯の中で一番、軽い調子で。
飛んで行く気は何故かしなかった。ここでは喘息も起きないようで、今なら走ることもできそうだった。その理由を、私はおぼろげながら気づいている。途中にあった『彼女たち』を見つけてから、この世界というものをわかってきたから。そうしてその推測が当たっていれば、この先に待つことも予想がつく。それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ判断がつかないけれど。
歩く度に、靴ごしに土の感触がした。草の感触もした。偽物だけれど本物の感触が。でも私の靴は、あまり歩くのに向いていない。今はいいけど、本来ならすぐ疲れてしまうだろう。風が吹く度に花の香りもした。足下で揺れるのとは違う、覚えがあるそれは、そう、確か茉莉花のものだ。
彼女の香りだと、私は思った。
この先に、彼女がいるのだ。

――――――――とても美しい夢だったわ。空がどこまでも遠くて、私は長い畔道を歩いてゆくの


きっと今、私はあの時彼女が見たものを見ている。
そう、思った。



  I have spread my dreams under your feet;
Tread softly because you tread on my dreams.



Where now ?(ここからどこへ?)

Anywhere but here (ここでないどこかへ)

Where now ?(ここからどこへ?)

Nowhere (どこでもないとろへ)



永遠に思われた畔道の途中に、森へ続く道がある。私は迷わずそこを右折する。あの日彼女は、そこを目指していたと言ったから。歩きながら、私はふと美鈴と咲夜のことを考えた。彼女たちは大丈夫だろうか。ここに来る前の晩に、小悪魔は青ざめた顔で戻ってきた。詳しいことは何故かレミィに口止めされていたらしいけれど、相当なことがあったに違いない。手伝えることはあるかと訊いた。無いと答えが返った。パチュリー様は自分のことだけを考えていてください。そうも言われた。それだけだった。
それでも私は、あの冬の美鈴の言葉を、柔らかく細められた眼を、笑った顔を覚えている。どこまで自覚しているのやらと不安に思わないこともないけれど。

あの冬。襲撃者達を壊滅させた美鈴は、館を振り返って、そうして自分の主の部屋がある階ではなく、自室の窓を見た。ほとんど無意識に零れただろう名前を、私は聞き取れる位置にいたから。

だから、私は私のことだけをやろう。



やがて私は森に入った。
そこは今まで以上に花が咲き乱れていた。今度のは季節もばらばらだ。色鮮やかにも可憐さや優雅さのある花たち。あまりの眩しさに、私は目を閉じた。残像が、目蓋の裏に白く残る。闇の中、ちりんと音がした。ここにもあの花があるのだろうか。

ふと、予感がした。
閉じていた目を開け、私はゆっくりと振り返った。視線をやったその方向から、緩やかな風が流れ込んでくる。花が咲き乱れる箱庭。目に眩しいほど色鮮やな世界の中、四季の花に埋もれるようにして見上げている瞳。そのどこか無機質に透き通った光に、ようやく私は、自分が何を求めていたのか分かった気がした。
ちりんと、またあの花の音がする。

「こんにちは」

私は彼女に声をかけた。不思議そうな瞳が、私を見上げる。予想通りだったが、落胆は抑えられなかった。彼女は私が誰だかわかっていないのだ。それはそうだろう。ここでは、私みたいな存在は許されないはずなのだから。しかも目の前の彼女は、私が知っている彼女よりずっと幼かった。立ち上がっても頭一つ分は小さそうだ。さすがに道案内をしてくれた、ジェニィー・ウィスプほどではないが、レミィやフランよりも幼いに違いない。見た目がそうだからといって、中身もそうとは限らないのが妖怪だが、彼女に限ってそれはないように思われた。
だから余計に困ってしまう。こんな時、どんなことを話せばいいのだろうか。

「こんにちは」

困っている私を見かねたのか、彼女はそう返してくれた。そうして不思議そうに言う。
「どうしてあなたは動けるの?ここではみんな眠っているのに」
そうなのだった。ここに来るまでも、何度も見た。良くできているけれど、動かない幻想郷の住人達。幻想郷の住人と言っても、彼女の知る範囲に限られているのだろうけれど。きちんとレミィやフランは木陰にいたところをみると、潜在的に覚えてはいるのだろう。
「あなた、見たことあるわ。クローバーの広場で寝てたの覚えてる。でもそれなら、どうしてかしら?この前までは動かなかったのに…」
「急に動いて、怖い?」
起きないはずのものが起きているのだ。警戒していてもおかしくないと思った。けれど彼女は首を傾けて、やはり不思議そうに言う。
「どうして?話し相手が来てくれて嬉しいわ」
そうして嬉しそうに笑った。記憶の限り、彼女にこんなにも好意的に微笑まれたことはない。
「私の名前はアリス。あなたは?」
彼女は、人形遣いだったはずの彼女は、ただ自分を『アリス』とだけ名乗った。それをなんと評すればいいのかわからずに、私は絞り出すように言葉を返す。
「……パチュリー・ノーレッジ」
「どっちが『あなたの名前』なの?」
「パチュリーのほうよ」
そう言えば、自己紹介なんて彼女にはしなかったことを思い出した。
「その名前は好き?」
妙なことを訊いてくる。
「嫌いじゃないわ」
なら、と彼女は微笑んだ。



「パチュリーって呼んでいい?」



無邪気に、私の知る彼女なら、決してこんな真っ直ぐには言えないだろう事を。

「…叶うなら」

「じゃあ、そう呼ぶわ」



叶うなら、もっと早くそう呼んで欲しかった。


そんな、今さらなことを思いながら。
私は微笑み返した。
うまく笑えてればいいと、願いにも似た切実さで。

「なら」

そうしてようやく、私は彼女のことをそう呼ぶことを許された。


「なら私も、あなたをアリスと呼ぶわ」


ちりんと、またあの花の音がする。
彼女は嬉しそうに、もちろんと笑った。幸せそうに楽しげに。



それが私とアリスとの、この世界での『邂逅』だった。










  I have spread my dreams under your feet;
Tread softly because you tread on my dreams.


「あ、それ」
「知っているの?」
「うん。なんだか懐かしい気がするわ。おかしいな。ここでは私以外はみんな話せないのに」

アリスは不思議そうに首を傾げた。さっきからもう何度も行われた動作だった。
『だからあなたの足下に』
確かめるように彼女はその詩を口にする。

「だからあなたの足下に、私の夢を広げました。そうっと歩いてくださいな。なにしろ夢の、上なのですから」

アリスが知らないはずがない。私にこの詩を教えたのは彼女なのだから。あるいは、『彼女のようなもの』が。アリスは何度も口にした。夢をみるしかない私の、その夢をあなたの足下に広げましょうと。だからそうっと歩いて欲しいと。
夢。彼女の願いに応えて、私はそうっと歩いてきたのだ。あの闇を。そうしてこの箱庭を。
もう一度あの道を、今度は彼女と戻らなければ、私がここまで来た意味はない。その為の時間は、もうあまり残されていなかった。身体的な辛さを感じることはないが、わかっている。さっきから魔力の消費が激しい。わかっている。私も本来は、動けないはずなのだということを。つまり眠っているはずだった『私』の中に、私は入り込んで存在しているのだ。いわば私はこの世界の歪である。歪みは修正される。

私はアリスを見た。ここは彼女の楽園だ。彼女のためだけの箱庭だ。ここには彼女を脅かすものはなに一つ無く、彼女を傷つけるものも何一つ無い。ここでは彼女が法であり、彼女が王であり、彼女が神だ。そうしてその意に従うのもまた彼女のみ。この世界は彼女の手の中にある。故に、彼女はここにいる限り、これ以上は何一つ手にすることはない。理屈は簡単だった。それはいわば万華鏡のようなもの。彼女といえど、次に現れる模様の予測は出来ないし、全く同じは二度は現れない。けれど例えば無い筈の色が現れたりはしないのだ。そう、ここは可能性が閉じこめられた世界。この世界には予定外はあっても、想定外というものはない。



たった一つ、私の言葉以外は。



ふっと、浮かんだのは何故かさみしい笑みだった。実際は笑ってはいない。多分、長く心と呼ばれているものがそんな笑い方をしたのだ。ここでの彼女は、私が思うよりも幸せなのかもしれなかった。私が放っておいても、彼女はいづれ帰ってくるだろう。それは百年は先だろうけれど、それでも彼女は帰ってくる。けれど、魔理沙にはそれでは遅いのだ。魔理沙は、人間なのだから。

向こうでは、もうどれくらいの時間が流れているのだろうか。もしもその差が大きいものなら、のんびりはしていられない。私は魔理沙と約束したのだから。ここにいるアリスではなく、『私たちの知る彼女』を連れて帰ると。その為にしなければいけないことは、もうそんなに多くなかった。


だって全ては最初から、約束されていたのだから。


しゃべり続ける彼女の左肩を掴む。驚いたように見開かれた眼を避けるようにして、私は彼女を引き寄せた。いつもよりずっと小さな彼女は、あっさりとバランスを崩す。きっと痛みを伴うことだから、せめてその行為をささやかなものにしたかった。少しでも彼女にとって優しいものになるようにと、私はアリスの頭を胸に抱いて、祈るように目を閉じた。あるいは彼女に、決して逃れられないとわからせる為にも。それは一瞬に済む行為だったから、彼女には抵抗の為の時間は無いはずだけれど。私はすぐ近くにある彼女の耳に口を近づけて、ずっと手にしていたそれを、あるべき処に返すことにした。この世界を、終わらせることにした。


「       」


それは短い言葉だから一瞬で良かった。
そんなものでこの夢が終わってしまうのかと、笑ってしまいそうなほどささやかな行為。
それでもこの世界は、内側からはこんなにも脆い。

ああ、茉莉の香が薫る。




それが夢の、終わりの記憶。





――――――――溺れるように眠りについて、夢から覚める夢をみる――――――――










【始まりは、いつも何かの終わりだけれど】

ずっと長い夢をみている。
私の夢ではなく、誰かの夢をひきついで。
たゆたう私に、彼女は言った。

「おきなさい」


――――――――アリス・マーガトロイド


私の名前だと、私は思った。



左の肩が痛んで、目が覚める。
夢の中で、目を覚ます。

知らない人だった。けれど知っている人だった。人でないことも知っていた。けれど誰だかわからない。誰だかわからないその少女は、なんだか怒っているようだった。

――――――――どうして怒っているの?

私は訊いた。でもその理由を、もう知っている気がする。
彼女は答えた。

――――――――あなたが私を怒らせるからよ

――――――――そんなことしてないわ。あなたなんて知らないもの

私のその言葉に、その人はますます腹をたてたようだった。不機嫌そうに眼を細める。

――――――――まだ寝ぼけているのね。これはここにまだあるし、どういうことなのかしら

これとは、鬼灯のことのようだった。あかくて大きい。なんだか怖い色だと思った。


――――――――『WとHの仲を引き裂く』

不意に彼女がそう言った。私はその言葉の意味を知っている気がする。

――――――――解いたんですね

気づけば唇が勝手に動いていた。手が勝手に動いていた。指が空をなぞる。見えない何かを辿るように。


Nowhere どこでもないところ


私には何のことだかわからない。けれど彼女はわかったようだった。
それで充分だった。

彼女は私のなぞった文字を打ち消す。


そうして似ているけど違うふうに。

now here  (いま ここ)

それが正解だと思った。声がしたから。


――――――――Where now ?(ここからどこへ?)

私は答えた。

――――――――Now here  (いま ここに)

 


そこでようやく、私はここが【ここ】じゃないことを思い出した。


ぱちんと、鬼灯がはじける。


鮮烈に、闇を飲み込んで。









【夢の淵―狭間の季節 Side:A】

音にならない叫びをあげて、目を覚ました。
けれどいまだ意識の半分は【夢の淵】にあり、身体は動かなかった。息苦しくてしかたない私は、このまま目覚める事が出来なくなるのではと恐怖した。こうなったのは何度目だろう。その度に私は私の思うとおりにいかなくなっていく。凄く怖いことのはずなのに、それすら感じなくなっていく。このままいけば、私は私として機能しなくなる。いや、そんな先まで待たなくても、すでに私はもう自らの意志で動くことが出来ないのかもしれない。だってほら、その証拠にこんなにも身体が重い。神経が溶けて無くなってしまったみたいに、私は動くことが出来なかった。心と躰がリンクしていないように。


そんなふうに焦る私の耳に、やわらかな足音が入ってきた。眼は閉じていたが、彼女だと直感した。だから私は安堵した。彼女ならきっと起こしてくれるに違いないから。この前のように、いつもの彼女とは似ても似つかない、ひどくやわらかな調子で。今日の方がこのまえよりずっと浅瀬にいるのだから、きっと起きることが出来るはずだ。きっと彼女が起こしてくれる。私をフルネームで、魔理沙のように「アリス」ではなく、「アリス・マーガトロイド」と呼ぶ彼女なら。いつもはなんて冷たい呼び方をするんだろうと思うそれが、今は涙が出るほど嬉しいことのように思えた。

なのに。

彼女からはとまどうような気配がしていて、この前のように手が届く位置まで来てくれない。待ってみても、立ち止まったそこから先へ進むことはなかった。

――――――――起こしてくれないんだ

せっかく収まった焦りがまた迫り上がってくる。今日のは浅いのだから、揺すってくれなくても大丈夫だろう。声だって聞こえればいいのだ。ただ私の名前を呼んでくれればいいことを、私はわかっている。何故だか確信している。なのに彼女は、いつだって私がいると声をかけて追い出す彼女は、今日に限って迷っている。別の日ならいくらでも困らない。けれど今日は駄目なのだ。

なのに彼女はそのまま踵を返した。見えなくてもわかる。私の焦りも強くなる。引き留めたいのにそれが出来ない。なにしろ声が出ないのだから。そうして声が出るなら、そもそも彼女を引き留める必要なんて無いのだ。どうしよう。どうしたらいいのだろう。待ってと叫びたかった。行かないで欲しい。このまま暗い中にいるのは嫌だ。このまま、こんな場所に、一人きりでいるのは嫌だ。


だから私は彼女の名を叫んだ。
それが喉で出したものなら、きっと声は嗄れていたというほど。
音にならなかったその声が、聞こえたわけでもないだろうに。
嘘みたいに彼女は立ち止まった。
立ち止まって、くれた。
けれどそれは、私を起こすためにというわけではないようで。


『               』


ただ唇から漏れたのは、+1℃の詠唱呪文。



感覚のないはずの身体に、温もりが戻ったのだと理解した途端に、あの声が聞こえた。




――――――――もしも    のようなことがあったなら



声は言った。



――――――――その時は彼女に賭けてみましょう




だから全ては、約束されたことなのだ。









次回は短く終わる?なんの冗談ですか?


こちら、歪な夜の星空観察倶楽部です。


この話は、前作『Childhood's end』
       九年目の魔法
       優しさと偏屈さ
       からくりからくさ
       数え切れないほどの何か
        
       忘れちゃいけない東方ワールドと皆さまの励ましで出来ています。

歪な夜の星空観察倶楽部
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コメント



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55.100名前が無い程度の能力削除
エピローグに行く前に点数をば