Coolier - 新生・東方創想話

Requiem.

2006/07/08 20:58:44
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 これは、遠い日のお話だ。
 今はもう取り戻す事が出来ない、僕と彼女の記憶。
 終わってしまった、物語。


1


 人間が殆ど訪れる事が無い魔法の森と呼ばれる場所の近くに、古めかしい一軒の家があった。元々は倉庫だったのか、或いは物置だったのか、然程広くない家の中には所狭しと様々な物が積み上げられていた。
 そんなガラクタにしか見えない山の中で、分厚い本を読む一人の少年が居た。
 しかし、本に落ちた眼鏡越しの瞳は文字を読み進めている訳ではなく、何かを物思うように、ただ一点を見つめたまま動かない。まるで止まってしまったかような時間の中、ただ彼は本に視線を落とし続けていた。
 そんな時、家の外で微かな音が響いた。硬い靴底が、高い位置から地面に降り立ったかのような、そんな音。
 瞬間、少年は弾かれたように音へと向かって顔を上げた。その表情には少しの緊張と、期待の色。そしてそんな少年の想いに呼応するように、重く歪んだ音を上げて、玄関の扉が開かれた。
「や、遊びに来たよ」
 声と共にやって来たのは、肩に箒を担い、見る人を幸せにするような微笑みを浮かべた一人の少女。楽しげに嬉しげに、ガラクタ――少年にとってはコレクション――の合間を縫いながら少年の下へ。
 その姿を無意識に見つめながら、少年は目の前にやって来た少女に笑みを返し、
「いらっしゃい。魅沙(みさ)」
「ああ。一週間ぶりぐらいだけど、幸助(こうすけ)も元気にしてた?」
「この通りだよ。変わりない」
 本を畳んで近くの棚に仕舞うと、魅沙も箒をガラクタの壁に立てかけ、当たり前のように幸助の隣に納まった。その何気ない、そして何度も繰り返してきた動きに鼓動が高鳴るのを感じながら、幸助は棚の一つに手を伸ばした。そのまま、そこに仕舞われていた急須と湯呑みを取り出しながら、
「魅沙の方はどうなんだ? 言っていた魔法は完成したのかい?」
 幸助の問い掛けに、魅沙は待ってましたと言わんばかりに笑みを強めると、
「これ以上無いってくらい完璧に完成させたわ。ほら」
 言いながら立ち上がると、見せ付けるように魅沙がスカートをたくし上げた。深いサファイアブルーのスカートから覗く細い脚に幸助の目が奪われ――
「オーレリーズサン」
 魅沙が呟くと同時、明らかにスカートの中には収まり切る筈の無い大きさの宝玉が四つ現れた。紅、蒼、翠、紫の色を持つそれらは、少し恥ずかしげにスカートを下ろした魅沙の周りをゆっくりと回転しながら中に浮いていた。
「凄いな、これは」
 思わず感嘆の声を上げる幸助に、魅沙は嬉しそうに微笑んで、
「でしょう? 今はまだこうやって動かすだけで精一杯だけど、すぐにでも使いこなせるようになってみせるわ」
 まるでお手玉のように四つの宝玉を回転させながら、魅沙が言う。一つ一つの宝玉の大きさはかなりのものだが、積み上げてあるガラクタに当たる事が無いのは、彼女の操作術故の事なのだろう。
 その不可思議な光景に暫し見惚れながら……幸助は一つ気になった事を魅沙に問い掛けた。
「しかし、どうやってそれは仕舞ってあるんだ?」
 スカートの中から出したとはいえ、明らかに仕舞い切れる大きさではない。そんな、何気なく聞いた問いに、
「それはね……乙女の秘密」
 ハートマークを浮かべながら、魅沙は微笑んだ。
 
……

 展開していた魔法を解除すると、魅沙は再び幸助の隣に納まった。まるで自分の居場所がそこであるかのように、自然に。
 幸助はそんな彼女にお茶を淹れながら、
「そういえば、お姉さんとはもう仲直りしたのかい?」
 幸助の問い掛けに、魅沙は少しだけ苦い顔をしながら、
「……まだ。アイツもどうも頭が固くって」
 答える魅沙に少しだけ苦笑する。
 魅沙の姉というのは、この幻想郷を護る博麗神社の巫女に当たる。何代目の巫女なのかは解らないが、若い内から積極的に幻想郷を飛び回っている活動的な人だ。そして彼女――博麗・魅沙はその巫女の実妹であり、本来ならば姉と同じように巫女の道を生きる事を選ばねばならない立場にある者だった。
 だが、幼少の頃に魔法に触れ、その才能を開花させてしまった彼女は、巫女ではなく魔法使いという生き方を選んでしまった。その結果……今から約三年程前、魅沙は姉と盛大な大喧嘩を巻き起こし、その関係は絶縁状態にまで陥っていた。
 そしてそれから二年後、つまり今から一年程前。新しい住居を探していた幸助は、一人魔法の森で暮らしていた魅沙と出逢う事となった。
 人間のあまり立ち寄らない魔法の森に住む者と、これから住もうとする者。そんな共通点を持った二人は少しずつ仲を深め、気が付けば互いに心情を吐露する事が出来る仲にまでなっていた。そして巫女との喧嘩を知った幸助は、博麗姉妹の仲を仲介する事になったのだ。
 だが、姉妹の溝は思っていた以上に深く、修復には多くの時間を費やした。そうしてようやっと、後一歩という所にまで歩み寄らせる事は出来たのだが……その後一歩が、姉妹揃って踏み出せていないらしい。
 二人は似ているんだな、という思いを幸助は抱きつつ、
「でも、僕がこれ以上踏み込む事は出来ない。それは魅沙も解っているだろう?」
「解ってるわ。……解ってるからこそ、難しいの」
 上手く行かない、とう思いが、魅沙の顔に出る。自分が魔法使いを目指してしまった事が全ての発端になっているから、一歩を踏み出す勇気を出し難いのだろう。
 と、空気が少しだけ重くなりだしたところで、魅沙がそれを振り払うように幸助へと視線を向け、
「そういえば、幸助の方はどうなの? 創っていた新しいマジックアイテムは完成した?」
「忘れっぽい魅沙にしては、良く覚えてたね」
 む、と頬を膨らます魅沙に微笑みながら、幸助は一度家の奥へと引っ込むと、比較的片付けられたそこに置いてある物を手に取った。八角形の、少々大きめの香炉のようなそれを魅沙に手渡すと、
「これが、前に言っていた八卦炉だよ。まだ試作品だから、少々大きいけれどね」
「へぇ」
 関心したように頷きながら、魅沙が八卦炉に視線を落とした。
 元々は暖房器具を製作しようとして作り始めたものだったのだが、いつの間にか多大な火力を持つアイテムになっていた。今はまだその火力が強すぎて実用には耐えないが、近い将来実用化出来るサイズまで小型化する事が出来るだろう。
 そんな事を思う幸助に、魅沙は微笑んだ顔を向けながら言う。
「忘れるワケ無いわ。だって、これは私の為に作ってくれているんでしょ?」
「まぁ、ね」
 恥ずかしさを誤魔化すように、幸助はお茶を飲む。
 幻想郷は人間と妖怪が同居する場所だ。そして同時に、人間が妖怪を退治し、妖怪が人間を喰らう場所でもある。そんな場所では、身を護る為の力は多くあった方が良い。魅沙を護れるような攻撃的な力や能力がある訳ではない幸助にとって、彼女の為のマジックアイテムを作成する事が、彼女を護る手段になると考えていた。
 それを承知している筈なのに、魅沙は幸助に顔を近付けながら、
「これで、幸助に護ってもらえるね」
 心から嬉しそうに、彼女は微笑むのだ。
 その微笑みに妙に顔が熱くなって、幸助は視線を外す事すら出来なかった。


2


 そんな日常が、ずっと続いて行った。
 一年、二年、三年――ずっとずっと。
 続いていたんだ。
 だからこれからも続いて行くと思っていた。
 ずっとずっと、続いて行けると思っていた。
 お互いがお互いを想っている事は解っていたし、告白もした。時期が来れば結婚も考えていたし、出来れば子供は二人程欲しかった。
 そう、僕達は幸せに生きていく。
 そんな、誰もが手に入れる事が出来る、ごく有り触れた日常を手に入れられると思っていた。
 思っていたんだ。
 それなのに、僕達の世界は確実に終わりへと向かって動き続けていた。

 忘れもしないあの日。
 蝉も鳴かない、まだ夏には早い梅雨の最中。何もしなくても汗を掻くような、とてもとても暑い日に。
 僕達の日常が、壊れ始めた。


3


 その日も、幸助は本を読んでいた。
 変わる事の無い日常。それでも魅沙との仲は深まり、その距離はもう零以上に近い。その事を嬉しく思いながら、幸助は買出しに出掛けた魅沙の帰りを待っていた。
 魅沙の移動手段は一本の箒だ。魔法使いになると決めた時、『この方が魔法使いらしい』という理由から決めたのだという。幸助はそんな魅沙を可愛らしいと思っているのだが、元々彼女は神に仕える娘なのだ。日常的に巫女服を着ていた生活を考えれば、西洋風の魔法使いに憧れるのは仕方が無い事かもしれないと思えた。
 そんな事を考えながら、思考の大半が魅沙に埋め尽くされている事に気付く。彼女と出逢った頃からその傾向は強かったが、今では思考の殆どに『魅沙』という存在がくっ付いて来る。
 盲目だな、と幸助が一人苦笑を漏らすと同時、不意に家の外から微かな音が響いてきた。
 だが、その音は普段聞いている魅沙の足音とは違う、もっと重量がある者が降り立った音だった。いくら買い物をして来たとはいえど、そこまで足音が変化する筈が無い。
 一体何がやって来たのだろうかと、幸助は訝しみながら本を畳むと、ゆっくりと玄関へと向かい歩き出し――次の瞬間、玄関部分が轟音と共に吹き飛んだ。
「なッ?!」
 思わす声を上げ、幸助は数歩後退った。まるで木槌で壁を叩いたかのように、玄関周辺が横殴りに吹き飛んでいた。
 一体何事かと視線を外に向ければ、そこには巨大な猿のような姿をした妖怪が立っていた。全身を濃い焦げ茶の体毛に包んだその大猿は、大きく肩で息をしながら、顔に多くの汗を掻き、低く深い唸り声を上げた。
 知性が低いのか、はたまた暑さで頭が茹で上がったのか、大猿は真っ赤な顔に付いた二つの目を忙しなく動かす。そしてその黒い瞳が幸助の姿を捉えると、大猿は一際大きな声を上げた。
 そして、二メートル近い巨躯からは考えられない程に跳躍すると、立ち尽くす幸助へと向かい襲い掛かってきた。
 一瞬にして上空に消え去った大猿に思考が停止し掛けるも、幸助は恐怖で固まりそうになる体を無理矢理前に動かした。そのまま、見晴らしの良くなった家の中を突っ切る為に足に力を籠め――その刹那、
「――!!」
 爆音を上げ、家の屋根をまるで薄い氷のように叩き割りながら大猿が落下して来た。高く積み上げられてあったガラクタは見る影も無く打ち壊され、いざ走ろうとしていた幸助はその余波で前のめりに吹き飛ばされた。
 恐らく大猿は落下と同時に弾幕も放っていたのだろう。幸助は派手に家とガラクタだった物に体を打ちつけながら、まるで風に舞うボロ切れのように吹き飛び、数メートル先にあった木の根元でようやくその体を止めた。
 己の身を護る為、多少なりとも体を鍛えてはいたが……圧倒的な力を持つ妖怪に対しては、そんなものは無いに等しいものだという事を幸助は痛感した。肺を傷つけたか、息をしようにも上手く息が出来ない。全身が酷く痛み、最早五体が繋がっているのかどうかすら解らない。しかし、それでも幸助は何とか動かす事が出来る右腕を動かし、防護スペルを組み込んだマジックアイテムを懐から取り出そうとして――だが、妖怪は待ってはくれなかった。
 元から幸助を喰うつもりではなかったのか、訳の解らない呻き声を上げながら、大猿は大小大きさの揃わぬ弾幕を我武者羅に撃ち出した。それは高速の勢いを持って幸助へと撃ち当たり、体を預けていた木々諸共に幸助を吹き飛ばした。
 後方へと流れていく景色に激痛と紅の色を見ながら、幸助が思うのはやはり魅沙の事だった。暫くすれば彼女は帰ってくる。彼女が目の前の妖怪に襲われる事は、己が死ぬ事を差し置いても阻止しなければならない事だった。
 だが、無常にも幸助には魅沙を護る手段も、このままこの命を永らえさせる手段も無い。
 絶望と共に視界が闇に包まれ――閉じて行く意識の向こう。
 
 サファイアブルーの幻想を見た。


――――――――――――――――――――――――――――


 目の前に拡がる光景を見にした時、魅沙の心に浮かんだものはただ一つだけだった。
「幸助ッ!!」
 悲痛な叫び声を上げながら、緑髪の魔法使いはその箒を一気に加速させ、愛する人の下へと駆け寄った。だが、まるで二人の間を切り裂くように、大猿の放った弾幕に魅沙の箒が止められた。流れ弾に当たった買い物袋が地面に落ちるが、今はそれに気を向ける暇は無い。
 連続して放たれる弾幕を次々に回避しながら、魅沙は幸助を傷つけた犯人だろう大猿を睨みつける。
「よくも……!!」
 彼の元に駆け寄りたい気持ちを無理矢理押さえ込み、体内に溢れる魔力に意識を籠める。星を模った弾幕を放つと同時に、魅沙は叫んだ。
「オーレリーズサン!」
 瞬間、魔法で擬似的に創られた空間に意識がアクセス。まるで目に見えぬ隙間から転がり落ちてくるかのように、現実世界へと魔力で構成された四つの宝玉が呼び寄せられた。
 宝玉は魅沙を護るように回転すると、その動きを少しずつ早めていく。そしてそれを壁としながら、魅沙は大猿へと向けて突っ込んだ。そのまま、ありったけの弾幕を撃ち込んで行く。
 避ける事など考えない。ただただ目の前の敵を打ち倒す為だけに、魅沙の攻撃は止まらない。
 回転していた宝玉の一つが大猿の体を捕らえた。だが、その巨躯は一撃で止まる事は無く、二つ目の宝玉が一つ目の宝玉へと向けて派手な音を上げながらぶつかった。大猿は顔を苦痛に歪ませるも、しかし呻き声を上げながら腕を振り上げた。
 振り上げられた腕は膨大な破壊力を持ちながら宝玉を打ち付け、まるで硝子が割れるような音を上げて二つの宝玉が砕け散った。
 だが、魅沙は止まらない。
 眼前へと迫った大猿へと向けて箒の穂先を少しだけ上げると、声を上げ続けるその口へと向かい弾幕を撃ち込んだ。そのまま、少しだけ回転の軸が上がった宝玉が大猿の頭を直撃する。そしてもう一つの宝玉を逆回転させ、大猿の頭を反対方向から挟み込んだ。
 直後、箒の穂先が大猿の口へと突っ込んだ。
「砕けな」
 言葉と同時、魅沙はその顔面へと向けて容赦無く弾幕を撃ち込んだ。

 頭が吹き飛び、ゆっくりとその身を倒した大猿を一瞥する事も無く、魅沙は幸助の下へと駆け寄った。弾幕によって切り裂かれたのだろう衣服からは血が溢れ、喘ぐように漏らす息がどうしようもなく苦しそうで。
 魅沙は幸助を優しく抱き抱えると、声にならない嗚咽を上げた。
 暫くの間、ただ無為に泣き続け――不意に顔を上げた。服の袖で強く涙を拭うと、強い意志を持った瞳がそこにあった。
「絶対、絶対幸助を死なせはしないから」 
 そして考える。幸助の手当てをする上で、一番良い条件が揃っている場所を。
 そこは絶対に安全で、静かで、尚且つ道具が豊富に揃っている場所。
「……」
 魅沙の頭に浮かんだ場所は一ヶ所しか無かった。例えそこの主と喧嘩中だとしても、今は非常時だ。もし断られたとしても無理矢理にでも場所を確保するつもりで、魅沙は自分の実家である博麗神社へと向かう事にした。
 傍らに抛っておいた箒を手元に呼び寄せると、再び擬似的空間にアクセス。壊された宝玉を再構成した後、魅沙は幸助の体を己の体とオーレリーズサンで支えながら箒に跨った。
 慣れない二人乗りに箒が悲鳴を上げるも、それを無視。苦しそうに呻く幸助に負担を掛けないように森を抜け、懐かしい神社に辿り着いた時には、もう日が半ば暮れ始めていた。
 誰にでも参拝出来るようにと解放されているものの、どこか神妙な空気が漂う境内を突っ切り、住居になっている社へと箒に乗ったまま文字通り飛び込んだ。靴も脱がぬまま、畳の上にそっと幸助を横たわらせる。
 そして断腸の思いで幸助の側から離れると、魅沙はもう三年以上も入る事が無かった自室へと向かった。恐らくは埃が積もってしまっているだろう部屋の襖を開け放ち、
「――」
 三年前と変わらず、そして綺麗に掃除が行き届いた部屋の様子に息を飲んだ。同時に、姉に対する激しい後悔に襲われるも……魅沙は目的の物を探す為に部屋の中へと入っていった。

……

 死者を蘇らせる事は出来ない。だが、死に掛けている者を救う方法はある。
 幸助の命の灯火が消えてしまう前に、魅沙はありとあらゆる方法と知識を思い出しながら、片っ端から延命の魔法や呪術を組み上げ、それに関連するマジックアイテムを部屋から持参し、使用していった。
 出し惜しみなどするつもりが無い。
 出せるもの全てを出しながら、魅沙は幸助を救おうと足掻き続ける。
 例えその代償に、己の魔力を使い切ってしまったとしても。 

 そして――


――――――――――――――――――――――――――――


 遠く、声が聞こえる。
「絶対、絶対幸助を死なせはしないから」
 愛しい人の声が聞こえる。
 闇に落ちた意識の向こうで、しかし声が聞こえた。
 
 そして、幸助は目を覚ました。
 まず視界に入ってきたのは、普段見慣れているものとは違う天井。何故自分がこんな所に居るのだろうかと体を起き上がらせようとして、
「ッ!」
 全身に走る激痛に、幸助はその動きを止め――
「幸助……?」
 すぐ近くから聞こえて来た声になんとか視線を向けると、そこには真っ赤な目から大きな雫を幾つも零す愛しい人の姿があった。どうして彼女が泣いているのかが解らず、幸助は痛む腕を何とか魅沙の頬へと動かしながら、
「何を泣いているんだい、魅沙」
 何故か包帯だらけになっている右腕で、その涙を拭う。瞬間、大きな嗚咽を上げながら、魅沙が右腕に抱きついた。
 その衝撃で声を上げそうになるものの、なんとか我慢。同時に、痛みから逃げるように、どうしてこんな事になっているのかと考え……すぐに思い出せた。
 滅茶苦茶に壊された自宅と、自分自身。しかし彼女がこうやって生きていて、そして己の体に走る痛みから考えれば、幸助は助かったのだろう。だが、あの後あの大猿がどうなったのかが気になり……それを思うと同時に、幸助の左手から軽く襖を開ける音が聞こえ、
「目が覚めたみたいね」
 聞こえて来た声に視線を向けると、そこには安心したような笑みを持つ博麗の巫女の姿があった。
 どうして貴方が、とそう幸助は問い掛けようとして……自分の居る場所が神社だという事に、今更ながらに気が付いた。だが、どうして神社で寝かされているのかが解らず、幸助が頭に疑問符を幾つか浮かべたところで、嗚咽を上げ続ける魅沙の隣に座った巫女が口を開いた。
「起きたばかりだから混乱しているでしょうけど、今は休みなさい。それが貴方の為よ」
 色々と聞きたい事は沢山あったが、その言葉に幸助は頷き、しかし魅沙から右腕を引き離そうとは思わなかった。
 抱かれる右腕に痛みと、それに勝る安堵を感じながら、幸助は再び目を閉じた。
 

4


 一度壊れ始めた日常は、修復される事無く続いてしまう。
 例え表面上は全てが元通りになっている風に見えたとしても。
 そう、あの頃の僕達は、全てが元通りに戻っていっているように思っていたし、感じてもいた。
 ただ幸せな毎日を、また始める事が出来ていたから。
 けれど、崩壊し始めた僕達の日常は、最悪の形で壊れ続けていた。

 夏の暑さも過ぎ、僕の怪我も完治した冬の半ば。
 それは唐突に訪れた。


5


 その日、幸助は久々に外出の準備を整えていた。
 もう数ヶ月以上放置したままになっている自宅の様子を、ようやく自分の足で見に行く事が出来るようになったからだ。魅沙は一足先に彼女の家へと戻っており、この後幸助の家の前で合流する事になっていた。
 姉妹の仲もようやっと修復出来た為に、魅沙は魔法の森から神社へと戻って来る事に決めていた。そして幸助も、そんな魅沙と共に神社に厄介になる事が決まっていた。
 思えば、この数ヶ月の間に様々な事があったと幸助は思う。

 夏のあの日。
 何とか上半身を起き上がらせる事が出来るようになった頃、幸助は魅沙から今までの経緯を聞く事になった。
「あの大猿は私が倒して……その後、今にも死んでしまいそうだった幸助をここまで運んで、出来る限りの手を尽くして治療したの」
 だが、安心しきった顔で説明してくれる魅沙に水を差すように、盆に小さめの土鍋を持ってやって来た巫女が口を挟んだ。
「その結果、魔力を使い切ったのはどこの誰だっけ?」
「……魔力を使い切った?」
 聞き返した幸助に、ばつが悪そうに表情を曇らせながら魅沙が言う。
「厳密には殆ど、だけどね。幸助を助ける為に使える魔力の全てを注ぎ込んだら、思ってた以上に使い過ぎたみたいで。だから、幸助の体に私の魔力が多く残って、私の体には殆ど魔力が残らなかったのよ」
「それじゃ、今までの努力が……」
 魅沙の言葉に、幸助は思わず呟いていた。
 魔力というのはどんな生き物の中にも存在するが、それ故にその個体差が大きいものだ。つまりそれは、どんなに願っても魔法使いになれない者も居れば、願わずとも魔法使いの才能を持った者も居る、という事。
 魅沙は前者であり、元々少なかった魔力を彼女は努力を重ねる事で少しずつ増やしてきた。それなのに、その魔力を注ぎ込んでしまったなんて。
 どうして、と口を開こうとした幸助の言葉を止めるように魅沙は微笑むと、
「努力ならまた出来るけど……幸助を失ったら、もう取り戻す事は出来ないから」
「魅沙……」
「――はいはい、ラブコメ禁止」
 良い空気になり掛けた瞬間、それを割るように白く湯気を上げる土鍋が載った盆が差し出された。同時に、夏の空気を中和するように涼しい風の入ってきていた室内が、一気に温度を増したように感じられる。
 突然の乱入に頬を膨らませながらも、魅沙は巫女が持ってきた盆を受け取った。その様子を眺めながら、幸助は巫女へと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「良いわよ別に。お礼を言われるような事なんて、私は何にもしてないんだから」
 言って、巫女が笑った。
 だがその数日後……幸助は自分の治療の際、巫女も手伝ってくれていた事を知る。怪我の功名というところなのか、この治療が姉妹の仲を取り持つ最後の切っ掛けになったらしかった。

 秋のあの日。
 体の調子も大分良くなり、神社の境内を自由に歩きまわれるようになった頃。まるで喧嘩をしていた時間など無かったかのように仲の良さを取り戻した姉妹は――
「ほらほら、そんなんじゃいつまで経っても私には当たらないわよ?」
「く、ちょこまか動くな!」
 夕飯をどちらが作るか、という理由でここ毎日のように弾幕ごっこを繰り広げていた。
 単独飛行が可能であり、豊富な霊力を有する巫女と、箒に頼らねば空を飛ぶ事も出来ず、殆ど魔法が使えなくなっている魅沙との戦いは、まるで勝負になっていない事が多かった。
 それでも毎日のように二人が勝負を続けるのは、それが己の魔力を回復していく一番の方法だから、と魅沙は言っていた。決して死ぬ事の無い、しかしぎりぎりの勝負を続ける事によって、無理矢理魔力を復活させていこうという魂胆らしい。
 それに本当に効果があるのかは幸助には解らなかったが、繰り返される勝負の中で、魅沙がただ打ちのめされるだけ、という事が無くなってきているのは確かだった。
 だが、姉である巫女は楽しげに微笑みながら、しかしその攻撃の手を緩める事は決してない。
 彼女は不可思議な軌道を描く陰陽玉を魅沙へと向けて放ちながら、まるで世間話でもするかのように、
「ああ、そういえばね」
「何?」
「最近里で仲良くなった子がいるんだけどね。……今の魅沙、その子より弱いわよ?」
「――ッ!」
 比較された事が悔しかったのか、顔を真っ赤にしながら魅沙が加速する。
 だが、一気に直線化した魅沙の動きをまるで舞うようにして巫女は回避。すれ違いざま、巫女は魅沙の背後へと向け一斉に符を放っていた。魅沙はそれを急上昇して回避。大きく円を描くように、地に頭を向けながら進行方向を巫女へ切り替えると、
「オーレリーズサン!」
 魔力が足りないのか、空に向けられたスカートから二つの宝玉が飛び出し、魅沙を護るように回転し始める。
 だが、
「甘いわね」
 言葉と同時、巫女が再び符を放つ。それを魅沙は宝玉を前面に回す事で回避しようとし――死角から飛んできた陰陽玉に、魅沙は吹っ飛ばされた。
 しかし、その体が境内にある木々に衝突すると思われた直前、魅沙は空中で急ブレーキを掛けた。そのまま、惰性で木々の一本に横向きに足を付け、巫女へと顔を向けながら叫ぶ。
「今日こそは、負けない!!」
「そうこなくちゃね」
 巫女は微笑み、再び加速する魅沙を迎え撃つ――。
 ……そんな光景が、雪の降り始める冬の日まで毎日のように続いていた。
 同時に、魅沙と巫女の二人から博麗神社の由来について聞いたり、人語を解し、空を飛ぶ亀――玄爺と出逢って腰を抜かしたりと、それはそれは色々とあった。

 そして、今。
 冬用の支度に身を包みながら、幸助は自宅のあった場所へと向かい一人歩いていた。
 冬の妖怪に襲われる事も考えられたが、魔法の森周辺で目立った動きをしている妖怪は居ない、と巫女が言っていた事もあり、幸助と魅沙は別々に神社を出発したのだった。
 最初は幸助も魅沙と一緒に行くつもりではいたのだが、
『幸助が怪我をしてから一度も掃除をしてないから、流石に恥ずかしい』
 との魅沙の言葉により、別行動が決定していた。だが、最近は二人で居る事が当たり前になっていた為、久々に感じる『一人』の空気はどこか淋しいものがあった。
 そんな事を思いながら、降って来た霧雨に解けていく雪を踏みしめ歩いていくと……前方に見慣れた建物が見えてきた。
 怪我をしてから一度も戻る事が無く、壊されたままで放置されていた家はその殆どが雪に埋もれ、積み上げてあったコレクションの殆どが駄目になっているのが手に取らなくても解った。
 それを残念に思いながら、幸助は元は玄関だっただろう場所から家の中に入ると、雪の水分と瓦礫で汚く汚れたコレクションの山の中を土足で進んでいく。そして何とか汚れの少ない家の奥にまで入ると、そこでやっと靴を脱いだ。
 そして、ここにやって来た目的である『ある物』を探し出す。
 小型化する為に一度魅沙から預かっていたそれ……八卦炉は、以外にもすぐに見つかった。雪に埋もれた工具箱に護られるようにして、無傷で転がっていたのだ。
「良かった、壊れてはなさそうだ」
 思わず呟きながら、幸助は八卦炉に少しだけ魔力を籠めてみた。元々は魅沙のものだったその魔力は、今や幸助のものとして機能していた。
 魔力を籠められた八卦炉が、仄かに熱を持つ。このまま懐に収めれば、いい暖になってくれるだろう。
 そうして、他にも何か無事な物がないかと幸助が視線を巡らせ始めた時、
「――――!!」
 音の無い静かな魔法の森の中を切り裂くように、一つの異音が響いてきた。
 それは聞き間違える事など出来ない、若い女の叫び声。
「――」
 次の瞬間、靴を履く事も忘れて、幸助は声のした方角へと向けて走り出していた。


――――――――――――――――――――――――――――


 時は少しだけ遡る。
 久しく帰っていなかった自宅へと辿り着くと、魅沙は小さく息を吐いた。今まではここで暮らしていたというのに、今ではもうすっかり神社が『家』という認識になっている。独り立ちのつもりが、所詮はただの家出の延長だったような気がして、無意識に苦笑が漏れた。
 だが、その『家』という認識を持つ為のファクターには、幸助の存在が必要不可欠になっている。早く荷物を纏めて彼に逢いに行こう……そう決めると、魅沙は少々埃っぽくなっている部屋の中へと入っていく。
 着替えなどとは別の、魔法を使う際の媒体にするマジックアイテムや、大切にしていた魔道書の類の傷みをチェックしながら、必要な物だけを持参した鞄へと詰めて行く。
 そんな時、
「――」
 外の雪を深く踏みしめる音が耳に届いた。だが、それは一度響いただけで、再び音を奏でる事が無い。それはまるで、空を飛んでやって来たかのように。
 その事実を脳が理解すると同時に体に緊張が走り、魅沙は無意識に箒に手を伸ばした。もし戦闘になった場合、動きを制限するだろう重く膨れた鞄を床に置くと、ゆっくりと玄関へと向かい歩き出す。
 外の足音に変化は無い。まるで魅沙が外に出てくるのを待っているかのように、無音の違和感がそこにある。
 不意打ちを受けても防御出来るよう、オーレリーズサンを展開。未だに二つしか構成出来ないのが心もとないが、無いよりは確実にマシだ。
 そして魅沙は息を殺しながら玄関の扉に手を掛け――開いた。
「……」
 扉の向こうに居たのは、二メートル近い長身を持つ、筋肉質の男が三人。いつの間にか降りだした霧雨に濡れながら立つ男達の中心に立った男が、まるで魅沙に敬意を払うかのように頭を下げ、
「初めまして、緑髪の魔法使い。ようやく逢う事が出来ました」
「……誰だい」
 魅沙の問い掛けに、頭を上げた男の右隣に立つ男が口を開いた。
「夏の日に、貴様に殺された者の仲間だ、と言えば通じるか?」
「あの猿のお仲間か」
「ええ」
 ――その瞬間、男達の気配が変わった。
「今日は、その仇を取らせてもらいに来ました」
 その言葉が終わると同時、左右に立っていた男達が一斉に弾幕を放って来た。それを二つの宝玉で受け止めながら、魅沙は箒に飛び乗ると、一気に上空へと加速。追いかけるように飛んでくる中心の男へと目掛けて星の雨を落として行く。
 だが男は器用に星々の間を潜り抜けると、その体の前面に複数の魔方陣を展開。次の瞬間には波のような軌道を描く光が一斉に放たれた。魅沙は背後に迫るそれの軌道を読みながら回避しようとし、しかしこちらの方向へと向けて軌道を急変化させた光に目を見開いた。
「くッ!!」
 慌てて加速を上げ、光との距離を離して大きく回避。しかし、その瞬間を狙っていたかのように地上から弾幕の雨が降り注ぐ。高速を持って突っ込んでくるそれをぎりぎりのところで回避しながら、魅沙は地上へと目掛けて魔方陣を展開させ、
「吹き飛びな!」
 叫び、自分の体と同程度の太さのあるレーザーを放っていく。だが、直線に進む事しか出来ないレーザーはあえなく回避され、木々の間を抜けて積もっていた雪を一斉に吹き飛ばした。
 まるで目晦ましのように舞い上がった雪に魅沙が舌打ちをすると同時、左手から声が聞こえて来た。それがスペルカードの詠唱だと気付いた時にはもう時は遅く、空を飛んでいた男のスペルは発動していた。
「――!?」
 瞬間、魅沙の視界は闇に閉ざされていた。
 自分がどうしてこんな所にいるのか……そもそも自分が何者なのかも解らない程の深い闇。だが次の刹那、突然視界が開けたと思うと、目の前に緑の髪を持った少女が居た。
 彼女は怒気を孕んだ瞳を持ちながら、こちらへと一気に加速してくる。魅沙は訳も解らず、その少女の動きを止めようとして弾幕を放った。しかし少女は止まる事無く、更にこちらへと加速する。
 気付けば少女は四つの巨大な玉をこちらへと向けて放ってきた。腹部に当たったそれの衝撃に声を上げるも、魅沙はそれを叩き割ろうと腕を振るった。
 だが、それが命取り。
 玉を二つ砕く事が出来たものの、顔面へと向け弾幕が放たれ、次いで顔に激しい衝撃。それは反対側からも押し寄せ――そして、少女の乗った箒の穂先が口に突っ込まれた。
『砕けな』
 次の瞬間、頭を吹き飛ばされるという衝撃と苦痛に、魅沙は声にならない声を上げた。
  
 そして……自分が殺した大猿の最後の記憶を見せられ、ただ叫び声を上げる事しか出来なくなった魅沙は、回避する事も出来ずに弾幕の雨に撃ち落された。


――――――――――――――――――――――――――――


 魅沙の家へと幸助が駆けつけた時、そこには絶望が拡がっていた。
 玄関部分が破壊された家。その側で倒れている魅沙。彼女は血を吐き、動かない。恐らく魅沙を襲ったのだろう妖怪が三人こちらを見たが、それを無視して幸助は魅沙へと駆け寄った。
 赤く血に染まった雪から魅沙を抱き上げると、彼女の体には五体全てが揃ってはいなかった。弾幕で吹き飛ばされたのか、その傷口は目を覆いたくなるほど無残で、流れ出る血は止まる事無く溢れ出る。
「魅沙、魅沙……!!」
 助かる状態ではない。けれど幸助は一縷の望みを掛けて魅沙へと呼びかけた。せめて最後の一瞬でも、自分がここに居ると伝える為に。
 だが、
「ああ、その娘なら死んでいますよ」
 背後から掛かった声に、幸助の思考が完全に停止した。だが、男はそんな幸助に構う事無く言葉を続ける。
「ちゃんと心臓を潰しておきましたから。呼びかけた所で無駄ですよ」
 その言葉に従う訳では無かったが、見れば確かに魅沙の胸……心臓があったろう場所から溢れ出る血液は、吹き飛ばされた四肢のそれを越えていた。
「……」
 ただ無言で魅沙を雪へと横たわらせると、幸助は男達へと向かってゆっくりと視線を向けた。
 その動きに何を感じたのか、中央に立った男は微笑みながら、
「それでは、我々はこれで。その少女を殺すのが目的でしたので、貴方まで襲う事はありませんよ」
 言って、立ち去ろうとする男達へと向け、
「……待て」
 懐にあるソレに手を伸ばしながら、幸助は声を掛けた。
「はい?」
 街角で声を掛けられたかのようにこちらへと振り返った男達へと対し、幸助は懐から取り出したソレを構えた。
 ソレを創ったのは幸助自身であり、使い方は他の誰よりも心得ていた。
「……何ですか、それは?」
 男達の視線が、幸助の持つソレに集中した。構わない。
 体内に巡る魔力……かつては魅沙の物だった魔力。その全てを、手の中にある八卦炉へと向け注ぎ込む。
 そして――
「――――ッ!!」

 声にならない叫びと共に、一条の閃光が魔法の森を貫いた。


……

 
 閃光を見た巫女がその場所に掛け付けた時、そこはまるで巨大な爪で引っ掻かれたかのように大地が大きく抉れていた。
 そしてそんな大地の脇で、静かに振り続ける霧雨に濡れながら、幸助は死体となった魅沙を抱きしめ慟哭していた。


6

 
 こうして、僕達の日常は完全に崩壊した。

 その後……博麗の巫女の誘いを振り切り、僕は霧雨の家へと弟子入りする事になる。その切っ掛けが何だったのか、あの頃はかなり情緒不安定になっていたから、今では良く思い出せない。
 だがその際、僕は過去に使っていた名前を捨てていた。彼女から呼ばれる事の無くなった名前に、もう意味は無いと思ったからだ。
 だから――彼女と永遠に別れた時に降っていた雨、霧雨と、彼女と僕が住んでいた場所、魔法の森から文字を取り『霖』。そして元の名前から『助』の文字を残し、言葉の調子を整える言葉である『之』を付け――僕は『霖之助』を名乗る事にした。
 そして、僕は修行を始める事となる。
 丁度その頃だっただろうか。彼女から受けた延命魔術の影響か、僕は年齢を重ねる速度が極端に遅くなっている事に気が付いた。
 だが、その頃の僕にはそれは苦痛でしかなかった。
 いくら生き続けても、この体が死を迎えるまで何年掛かるのか解らない。しかし、彼女に救ってもらったこの命を捨てる事なんて絶対に出来ない。
 相反する想いに苛まれながら、僕はただひたすらに霧雨家での修行に時間を費やしていった。

 ……彼女の死から目を逸らすかのように。


7


 目を覚ました時、そこは暗闇だった。
 どうして自分がこんな所に居るのか解らず、彼女は思考した。だが、思考しようにも過去の記憶が無い事に気付いた。まるで生まれたばかりの赤ん坊のように、彼女には何も無かった。
 けれど……けれど、心の奥深くに何か忘れてはいけないものが残っているのは解った。
 それはとてもとても……良く解らないが、『忘れてはいけない大切なもの』
 彼女はその『忘れてはいけない大切なもの』の感覚を頼りに、その暗闇から外に出る事にした。

 だが、その暗闇の中からすぐに出る事は出来なかった。暗闇は深く長く、そして様々な妖怪や幽霊が現れたからだ。
 彼女は己へと向かってくる者達に対し、無意識に弾幕を放ちながら進んでいく。しかしそうして行く内に、心の中にある疑問が浮かんだ。
「『忘れてはいけない大切なもの』を頼りに進んでいるのに、どうして私は攻撃されなければならないのだろう」
 一度生まれた疑問はどんどんと膨らみ続け……幻夢界と呼ばれるその暗闇を完全に抜け切った時には、彼女の『忘れてはいけない大切なもの』に対する感情は恨みへと変化してしまっていた。
 自分がこんな暗闇に包まれた場所に居たのは、この恨みの主のせいに違い無い。そう強く思い込んだ彼女は、その感覚を頼りにある場所へと向けて移動した。
 思ったよりも近い場所にあったそこは、なにやら懐かしい雰囲気と息苦しい雰囲気が同居する場所だった。何故懐かしいと思うのか首を傾げながらも、彼女は長い石畳を進んでいった。
 暫く進んでいくと、視線の先にまだ少女に見える若い女が立っていた。その女を見た瞬間、心の奥にあるものが震えた気がして、彼女は目の前の女が恨みの原因なのだと知った。
 そして彼女は、竹箒を持ちながら石畳を掃除する女へと向かい、心の中にある単語を問い掛ける。
「ここは、博麗神社で合ってるかしら?」
 声に、女が彼女へと向かい視線を向けた。瞬間、女は酷く驚いたように見えたが……すぐに表情を改めると、女は彼女の言葉に頷いた。
「……ええ、そうよ」
「という事は、貴女が博麗の巫女ね」
「ええ」
 静かに頷いた女――巫女へと対し、彼女は鋭い視線を向け、
「……私をこんな目に合わせた恨み、晴らさせてもらうよ!」
 言葉と同時、彼女は間合いを取る為に数歩後退。まるで何かを呼び寄せるかのように右手に力を籠めると、そこには身の丈ほどある一本の杖が現れていた。
 その杖を握った瞬間、どうしてかその杖が箒に思え……小さく首を振ると、彼女は巫女へと向けて杖を構え、
「――」
 まるでそれが当たり前だったかのように、星を生み出す魔法を唱え上げ、
 まるでそれが当たり前だったかのように、四色の宝玉を魔力で構成し、
 まるでそれが当たり前だったかのように、巫女へと向けて加速する。
 そして、彼女は無意識に叫んでいた。

「今日こそは、負けない!!」

……

 こうして、博麗の巫女との戦いを始める事になった彼女は、一度も巫女に勝つ事が出来ないままに日々を過ごしていく事になった。
 毎日毎日、こちらを退治し切らない程度に痛めつけてくる巫女に怒りは募り、しかし彼女はそんな毎日を過ごす事が楽しみになっていた。
 芽生えていた恨みは少しずつ薄れ、ただ巫女と戦う事が日々の目的になっていった。

 ある日の事だ。
 巫女のスペルによって撃ち落された彼女は、苦悶の声を上げながら起き上がろうとしていた。だがそんな時、巫女が不意に聞いてきた。
「……今更だけど、貴女、名前は?」
「さぁね、何も解らない。でも、私の心の中には『博麗』という単語があった。だからここに来たんだ」
「そう……。でも、名前が無いのは不便よね」
「まぁ、確かにそうね。でも、貴女には関係ないわ」
 そう吐き捨てると、彼女は己が元居た暗闇――幻夢界へと向かい戻っていった。始めの内はこちらに攻撃してきた妖怪や幽霊も、彼女の力が強いと知った頃からは手出しをしなくなってきていたのだ。
 暗闇に包まれた寝床で、彼女は自分の名前について想いながら眠りに付いた。

 次の日。
「魅魔」
「は?」
 突然告げられた言葉に、彼女は素っ頓狂な声を上げた。しかし、そんな彼女に巫女は儚げに微笑むと、
「名前よ、名前。やっぱり名前が無いのは不便だと思ったから、昨日の晩に考えておいたわ」
「そ、そんなもの……」
「別に良いじゃない。私が呼びやすいから呼ぶだけだもの」
 そして、巫女はいつものようにお払い棒を構え、
「さ、魅魔。今日も戦うんでしょう?」

 ……そうして、彼女は巫女から魅魔という名前を貰い、その日からその名前を名乗る事となった。

……

 魅魔と巫女との関係は長い長い間続いた。それは巫女が子を成し、その子を育て、閻魔の元へ向かう事になったその日まで。
 年齢を重ねても尚その霊力を衰えさせる事が無い巫女に、結局魅魔は一度も勝つ事が出来なかった。
 だから……巫女との最後の勝負の日、魅沙は思わず問い掛けていた。
「……ねぇ、貴女の力はどうしてそんなに強いの? いくら巫女だとはいえ、強力過ぎる」
 魅魔の問い掛けに、巫女は柔らかく微笑んで、
「あら、言ってなかった? 私の使う陰陽玉にはね、博麗の血を持つ者の力を吸収する力があるの」
 そして、
「十分に吸収された力は、正負双方の力を放出する。小さな頃、私はその力をこの体に受け継いだのよ」
 巫女の言葉に、魅魔は目を見開いた。
「もう何十年も前に受けた力が、今も尚続いてるって?」
「そうよ。そりゃ努力もしたけど……その殆どはこの陰陽玉の力ね。博麗の巫女は、代々そうやって幻想郷を護る為の力を得ていくの」
 さらりと、とても重要な事を言われた気がして、魅魔は思わず声を上げていた。
「ちょ、ちょっと、一応敵対してる私に、そんな事を教えてしまって良いと思ってるの?」
「別に構わないわ。だってもう私は貴女と戦えないもの。だから……」
 優しい母親の顔で、巫女は言う。
「もしこの陰陽玉の力が欲しくなったのなら、私の娘が大きくなってから、ね。私に似て修行嫌いだから、少し懲らしめてあげて」
 まるで自分が巫女の娘を殺す事が無いと信じきっているかのようなその言葉に、魅魔は思わず言葉を返す事が出来なかった。

 数日後。
 博麗の巫女は死に、その後魅魔は幻夢界へと姿を消す事になる。戦うべき相手だった巫女が居なくなった事で、魅魔が現世に留まる理由が無くなってしまったからだ。
 だが、訪れた独りの生活も長くは続かなかった。
 何故なら――
 

8


 霧雨・魔理沙が家を出た。
 その事を僕が聞いたのは、香霖堂での生活をもう何年も続けていた頃の話だった。
 香霖堂というのは、僕が霧雨の家を出てから始めた商店の事だ。
 やはり彼女の事を忘れる事など出来なかった僕は、彼女と過ごした森の近く……元々自宅のあった場所に新たに住居を作り、『森近』という苗字を名乗る事にした。そして神(こう)、つまり彼女の実家でもある神社を意味する『香』という名を選び、店の名前を『香霖堂』とした。
 更にこの場所は人間と妖怪の双方に商売が出来る場所でもあった。過去に襲われた事を踏まえ、防護用のマジックアイテムは常に発動出来るようにしてある。
 そんな香霖堂での生活が続いたある日、霧雨の家の者がやって来たのだ。
「魔理沙が家を出た。見かけたら知らせてくれ」
 それはもう、身内を心配する者の対応ではなく、ただ事務的に伝えに来た、といった感じだった。
 その事に不快感を感じながら、僕は家の奥で隠れるように食事を取っていた魔理沙に問い掛けた。
「……今日は妙に荷物が多いと思ったら、そういう事だったのか」
「良いじゃない、別に。これを食べ終わったらすぐに出て行くわ」
 拗ねたように言う魔理沙に、僕は小さく息を吐きながら、
「まぁ、別に追い出すつもりも無いよ。でも、どうして家を出たんだ? そりゃあ、あの家の事を快く思っていない事ぐらいは知っているけど」
 僕の言葉に箸を止めると、魔理沙はこちらに視線を向け、
「……ある人に弟子入りしたの。その人のところで頑張っていく為に、家を出たのよ」
「弟子入り?」
 思わず問い返した僕に、魔理沙は微笑んで、
「そう。魅魔様っていう、博麗神社に恨みを持つお方にね」
 何気なく告げられたその言葉。だが、それは僕に強い衝撃を与えた。
 ただの偶然かもしれない。けれど、何か彼女との関係があるような気が、その時確かにしたのだった。

 そして数ヵ月後。
 博麗神社に現れたという大量の妖怪と幽霊を巫女が打ち倒し、ついでに魔理沙も倒された事を聞いた後、僕は数十年ぶりに博麗神社へと足を運んでいた。
 久しぶりに訪れた神社は何一つ変わりなく、ただ少しだけ色褪せたように見える。
 最近店に顔を見せるようになった巫女は出掛けているのか、境内に音は無い。だが、不意に懐かしい気配を伴った風が吹き――
「き、君は……」
 目の前に現れた相手に、僕は衝撃を受けた。
 妖怪に殺され、最後の言葉を交わす事すら出来なかった彼女が、あの頃と変わらない姿でそこに立っていたのだから。
 だが、印象的なサファイアブルーのスカートから覗くのは、足ではなく幽体。その事実に息を飲んだ僕に対し、
「ん? 見かけない顔だけど、貴方は誰だい?」
 まるで初対面の相手に対するかのように、彼女は本当に何気なくそう聞いてきた。
 その瞬間、『死んだ人間は過去の記憶を失う』という当たり前の事を思い出し、僕はどうしようもなく心が締め付けられるのを感じた。そして、そのまま壊れてしまいそうになる心を無理矢理押さえ込むと、僕は何とか笑みを作り、
「僕は……僕は、森近・霖之助。貴女の弟子である、魔理沙の知り合いです」
 言って、僕は咄嗟に眼鏡を外し、目元を強く押さえた。
『彼女はもう居ない』
 その事実がどうしようもなく辛過ぎて、僕は溢れ出して来る涙を止める事が出来なかった。

……

 その後、僕は魔理沙の為にあるマジックアイテムを作る事にした。
 それは、あの夏の日の使用で壊れてしまった八卦炉を元に、再び一から創り上げた小型の物。魅沙――魅魔の弟子となり、彼女の力を受け継いでいくだろう魔理沙へと贈る、今はもう居ない幸助からの贈り物だ。
 完成したミニ八卦炉は、その後の魔理沙に取って必要不可欠な道具になっていくのだが……それはまた別の話だ。

 そして、時は幻想郷が紅い霧に包まれる少し前まで進んでいく。


9


 その日、久々に神社にやって来た男に、魅魔は微笑みと共に声を掛けた。
「久々だね、霖之助」
「ええ」
 言葉を返してくれる男――森近・霖之助は悲しげに微笑んで、手に持った荷物を抱え直し社へと入っていった。恐らく、この前霊夢が破けたと騒いでいてた巫女服を新調してきてくれたのだろう。
 その予想は正しかったのか、霖之助はすぐに社から出てくると、魅沙の隣までやって来た。そして、何か言いたそうに口を開いた後、
「……魔理沙の様子はどうです?」
「あの子は、私の言う事を良く理解してくれる良い子だよ。元々努力家みたいだし、覚えも良い。もう私が教える事も無いでしょうね」
「そうですか。それなら良かった」
 そう言って霖之助は微笑み、そして会話が終わってしまう。
 そのまま、静かな風の音だけを聞きながら――しかし魅魔は霖之助にだけは告げなければいけない言葉を口にした。
「……実はね、もう私は長くないんだ。元々神社に悪霊が長く居られる訳が無くて……そのツケが今になってやってきたみたいなの」
「……そう、ですか」
「そのお陰なのかどうかは解らないけど、どうして私がこの博麗神社にやって来たのか、その理由をやっと思い出す事が出来た」
 その瞬間、何かに期待するかのように霖之助がその表情を変えた。
 そして魅魔は――かつて魅沙という名前だった幽霊は、目尻に涙を浮かべながら微笑んで、
「逢いたかったよ、幸助」
 そう、愛しい人の名を読んだ。



10


 それから、また少し時は流れる。

 その日僕は、香霖堂へティーカップを買いに来た十六夜・咲夜とレミリア・スカーレットの相手をしていた。
 その最中、
「あら、神様の居ない神社にご利益はあるのかしら?」
「神様不在っていうな!」
 からかう様な咲夜の声に、霊夢が力強く否定する。
 
 そう。今はもう、博麗神社に神は居ない。
 彼女はもう、居ないのだ。
 あの日――僕の事を思い出してくれた彼女と会話をしたあの日から数日後、最後に、またね、と一言告げて、彼女は三途の向こうへと向けて旅立った。
 自然消滅を待つ前に、自分から閻魔の元に向かったのだ。そうすれば裁きを受ける事が出来、転生の輪に加わる事が出来る。
 彼女の願いは一つ。
『他の人間より何倍も長く生きる幸助と、またどこかで縁が繋がるように』
 ただそれだけを願っていた。


11


 その日、霖之助が本を読んでいると、一週間ぶりに魔理沙がやって来た。見れば、今日の彼女はなにやら上機嫌そうである。
 霖之助は本を畳みながら、こちらへとやって来る魔理沙へと問い掛けた。
「どうしたんだ? 何か上機嫌そうに見えるが」 
「ああ。この一週間、ちょっとある魔法の研究をしていたんだ。それが上手く行ってな」
 言って、魔理沙はいつものように売り物の上に腰掛けた。その様子に溜め息を付きながら、霖之助は本を棚へと仕舞った。そのまま、自分の分と魔理沙の分のお茶を用意する為に椅子から立ち上がりながら、
「因みに、どんな魔法の研究をしていたんだい?」
「ちょっと普通じゃないぜ?」
 まるで霖之助の言葉を待っていたかのように立ち上がると、魔理沙はほんの少しスカートをたくし上げた。そして、
「オーレリーズサン」
 瞬間、まるで過去の焼き増しを見せられているかのように、魔理沙のスカートの中から四つの宝玉が現れた。それは過去に見た物とは色が少し違うものの、その大きさや形は全く同じもので……霖之助は動き出そうとした体を止めて息を飲んだ。
 それは、もう見る事が出来ないと思っていた魅沙の魔法。霖之助は声が震えるのを感じながら、 
「魔理沙、それは……」
「昔、魅魔様から教えてもらったんだ。一時期使ってなかったんだが、最近になってまた使い始めようと思ってさ。アクセスするにも、昔以上に集中しなくて大丈夫になってきたし」
「アクセス?」
 思わず問い返した霖之助に、魔理沙は少し考えてから、
「この宝玉達は、魔法で擬似的に創られた空間に保管されてて……その空間に呼びかける事を、『アクセス』って呼んでるんだ。で、もしこの宝玉が壊れたりしたら、またその空間で構成し直すっていう仕組みになってる」
 魔理沙の言葉に、霖之助は思わず椅子に座り直しながら、
「そう、だったのか」
 呟きと共に、思い出す。
 遠い昔。あの時ははぐらかされてしまったが、今やっとその展開方法を知る事が出来た。
 だが、魔理沙は突然『しまった』という顔をすると、少々慌てながら、
「って、そうだった、これは秘密なんだった」
「秘密?」
「そう」
 それはね――
「乙女の秘密」
 そう言って、魔理沙が微笑む。

 その微笑みは、どこか彼女のものと似ていた。








end

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コメント



0.5000簡易評価
30.100名前ガの兎削除
やられた、グッと来た。オリジナル設定ドンとこい。
33.100名前が無い程度の能力削除
久しぶりに感動させてもらいました…。素晴らしい!!
34.80変身D削除
こう言う裏設定がホントにあっても良いな、そう思った時点で私の負けですな。
何と言うか人間くささのある香霖に惚れますた。
45.80翔菜削除
ぶっちゃけると、名前の事もあって中盤あたりで何となく展開が読めてしまったのですけれど、それでもいいものはいい。
こういうのもアリでしょう。
作りこまれた感じのするオリジナル設定は大好き。
55.100名無し参拝客削除
魅沙さんという名前と幸助という名前で、魔理沙と幸助の遠い子孫かと
思っておりましたが、逆とは・・・
こういうオリジナル設定も大歓迎です
74.100煌庫削除
感動した!その一言だけ!
83.90削除
私が読んだ霖之助の話の中で一番グッときました。
95.80名前が無い程度の能力削除
言葉が出ない程の素晴しい作品でした。
97.100名前が無い程度の能力削除
コーリンで感動できるとは思わなかったです。
107.100名前が無い程度の能力削除
……オリジナル設定という地雷になりかねない作品でここまでとは……
脱帽です。
108.100名前が無い程度の能力削除
ただただ脱帽。
ラストシーンが素敵すぎます。
112.100名前が無い程度の能力削除
この設定で3次創作作りたいと、自然に思えてしまうくらい良かったです。
116.10名前が無い程度の能力削除
ギャグがとっても面白くて真夜中にバカ笑いしちゃいましたwwwww