Coolier - 新生・東方創想話

『鈴蘭の海の中で 後編』

2006/05/23 20:13:40
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 人形は、なんだかとても懐かしい匂いがした。

 あの女の話を聞いた時と同じ気持ち。

 胸の奥で静かにロウソクの火が燃えているような、変な気持ち。

 私は人形を肌身離さず持ち歩いた。

 私の一部分のような気がしていたから。

 片足? 片腕? 心臓?

 とにかく離したくなかった。

 ぎゅっと胸に押し付けていたかった。

 夜眠る時も。

 空に踊る時も。

 月を眺める時も。

 風に乗る時も。



 ――探さないの?



 人形をぎゅっと抱きしめた時、時折そんな声が聞こえた。



 ――探さないの?



 何を探すのだろうか。

 私には全くわからない。



 ――探さないの?



 その言葉の意味は、そんなに時間が経たない内にわかった。

 その時私は珍しく太陽の下を歩いていた。

 太陽の光は嫌いだったはずだけれども、寝ぼけてでもいたのか歩いていたのだ。

 ぎらぎらと暑い日射しにはうんざりさせられた。

 もうろうとする意識の中で、あの女の話を思い出した。

 男の子は、こんな暑い太陽の下で走り回るのが好きなやんちゃな子供であるということを。

 私は、炎天下を走り回るなんて自虐行為そのものであると思った。

 体が熱くなって燃えて、頭が焦げて爆発するんじゃないだろうか。

 そんなことを楽しめるという男の子の気持ちなんて全くわからない。

 おかしな話だ。
 


 ――探さないの?



 その時、声が聞こえたのだ。

 私は思わず辺りを見回して、『探し物』を見つけてしまった。

 男の子が歩いていた。

 この前、夜、一人で、泣きながら、歩いて、た、あの、子、



 ――みーつけた。



 左手に持っていた人形が、がたがたと震えだした。

 がたがたがたがたがたがたと震えだした。



 ――殺さないの?



 次の問いはわかりやすかった。

 人形の黒いつぶらな瞳が私の目を見て、もう一度問いかける。

 殺さないの? と。

 男の子も私のことに気づいたのか、怪訝そうにこちらを見ていた。

 その黒いつぶらな瞳が、私の目を見つめていた。



 ――殺さないの?



 私は、ワタシは、立ち竦んで、

 私は、ワタシは、ワタシは、ワタシは、



 ――殺さないの?



 「逃げてぇ! 逃げて逃げて逃げてぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 私はあらん限りの声で叫んでいた。

 言葉になんてならなくてもいい。

 逃げて。

 ぎゅっと目を閉じる目を閉じる閉じる閉じる。

 男の子の姿を見ちゃいけないいけないいけない。

 見たら見たら見たら見てしまったら、



 ――殺さないの?



 殺したくなる殺してしまうワタシが殺してしまう。

 「逃げてぇぇぇぇぇ! 早く! 私から離れて!」

 私は叫んで叫んで叫んで。

 ……ワタシは、閉じていた目を開いた。

 足下、まっすぐに前へと伸びる道の先で、男の子が立ち竦んでいた。

 ワタシはなんだか嬉しかった。

 手に握りしめていた人形も、かたかたと嬉しそうに震えている。



 ――憎いもんね? しょうがないよね?



 人形の声は嬉しそうだった。

 ワタシも嬉しい。

 にんまりと笑った。

 ワタシは視線を前に戻す。

 あ、男の子が逃げてく。

 ワタシの笑顔、そんなに怖かったかしら。

 そしたら。

 ワタシも追いかけなきゃね。

 そういうのを人間は追いかけっこって言うんだっけ。

 ふふ。

 追いかけっこかあ。



 ――追いかけないの?



 ワタシは走り出した。

 男の子の小さな背中がぐんぐんと近づいて。

 距離は一瞬にして詰まった。

 ふふ。

 遅いなあ。

 ワタシもう追いついちゃったよ。



 ――追いかけっこっていうのはね、



 うん。

 その先あなたが言いたいことわかるよ。



 ――捕まえないとね?



 うん。

 「捕まえないとね?」

 呟き、手を伸ばす。

 男の子の背中に向けて。

 声に反応した彼が振り向いた。

 その頬は涙でぐじょぐじょに濡れていた。

 それを見たワタシは、なんだか気持ちがよかった。

 その涙が流れ出る瞳を見つめてみた。

 そこにも強い恐れの色が浮かび上がっている。

 ワタシはとても気持ちよかった。

 これからその顔をぐちゃぐちゃにしてやるんだと考えると、もっともっと気持ちよかった。

 けれど。

 気持ちいい他にも、何か、別の、変な、ぐさりと、胸に、刺さる、ような、変な、気持ち、

 「逃げてぇぇ!」



 ――あ。



 私は足をもつれさせて、転んだ。

 ごろごろと何回も地面を転がった。

 激しく打ち付けた体が痛い。 それよりも胸の奥が痛い。

 立ち上がるな立ち上がるな立ち上がるな。

 私は立ち上がっちゃいけない。

 立ち上がれば追いかけちゃう。

 追い掛けて殺しちゃう。

 ダメダメダメダメ

 逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて

 ……逃げて。

 「……ああ」

 男の子の姿が消える。

 男の子の背中は道の先にある丘を越えて、見えなくなった。

 私は、なんだか安心し

 なんで殺さなかったの?

 ワタシはがっかりだよ。

 ああ、誰でもいいから壁に押し付けてべっちゃり骨ごと潰したいな。

 今から村でも襲いにい

 やめてよ!

 やめて。

 ……もう。

 ……やめてよ。










 ――探さないの?



 私は人形を左手に握りしめたまま、ずっと座り込んでいた。

 ちらりと辺りを見回すと、西の山に夕陽が沈んでいくところだった。



 ――探さないの?



 太陽ってこんなにも綺麗だったのか。

 私は知らなかった。



 ――探さないの?



 太陽が時間を掛けてゆっくりと沈むと、夜になった。

 私の好きな、月が昇る時間。



 ――探さないの?



 私は人形の声を無視していた。

 無視していた。



 ――探さないの?



 人形の声は寂しそうだった。

 無視していた。



 ――探さないの?



 無視した。

 無視した。















 鈴蘭の海の中で。

 少女は涙を流していた。

 機械的に流れる涙。

 両手に人形を捧げ持ち、それを空に浮かぶ月の横に並べてみる。

 「私はだーれ?」

 少女は人形に問いかけた。

 人形は答えてなどくれない。

 そんな無愛想な人形の隣で、朧をまとった月が笑っていた。

 「邪魔するよ」

 どさり、と物が置かれる音。

 少女は後ろを振り返った。

 そこに居たのは絵描きの女だった。

 ぽんぽんと鞄から道具を放り出すと、それらを自分の周りに要塞でも作るように並べ始める。

 手際よく、見ていて心地いいリズム。

 「また泣いてんのねぇ」

 女がキャンバスの絵の具合を確かめながら呟いた。

 返事は無い。

 少女は体を起こすと、ちょこんと座り直した。

 膝を抱え、頭だけぐるりと回し、女の横顔を見る。

 「ねえ」

 「ん?」

 少女は尋ねた。

 「私はだーれ?」

 ぷっと、穴の空いたゴムホースから水が吹き出るような音がした。

 女が吹き出し、笑っていた。

 「私にゃわからないよ。 あなたはあなた」

 笑いながらそう言った。

 「そう」

 少女は黙り込んだ。

 顔を膝に埋めて塞ぎ込む。

 女はというと楽しそうに微笑みながら、パレットの絵の具を筆に付けていく。

 沈黙が辺りを包んだ。

 女はその後、激しく咳き込んだりしながら絵を描いていた。

 こんな夜に出てくるものだから、風邪でも引いたのだろうか。

 げほげほ言いながら、絵に唾がかからないように袖で受け止めていた。

 二人が最後に言葉を交わしてから、小半刻ばかし経った後。

 「あなた。 死にたくなったことなんてあるかしら?」

 女が尋ねた。

 少女が、膝に埋めていた顔を持ち上げた。

 不思議そうな顔。

 「わかんない」

 「そう」

 女は少女の返答に安心したような顔で、続ける。

 「私はあるわ」





 「絵を描いても描いても、私の絵は完成しないの。

  いいえ、完成はするの。 でもそれは完璧じゃない」

 「…………」

 「私の思ってた絵はこんなのじゃない。 こんな絵、描く意味なんて無い。 そう思ったことが何度もある」

 朧月夜の下。

 女は語り続ける。

 「そしたら、私は思う度燃え尽きたみたいに真っ白になっちゃうの。

  私の意味なんて、絵を描くこと以外何も無いから。 つまり、私の居る意味が無くなっちゃうから」

 「……そう、なの?」

 「そうなの。 だから私はがむしゃらに思いこむことにしたの。

  この絵にはちゃんと意味があるんだって。 完璧じゃなくても、思いは伝えられるんだって!

  いつか、この絵を見た誰かの想い出になるんだって! 血肉になるんだって!」

 そこで、女は一度区切った。

 そよ風が吹く。

 鈴蘭達がさらさらと揺れた。

 「……だから私は絵を描くの。 子供を産めなくなった私が、唯一遺せる子供を」

 「……ふうん」

 「聞いてくれてありがと。 ……こんなにぶちまけるように喋ったのは久しぶりね」

 「よくわからないけど、どういたしまして」

 くすくすと、女は笑った。

 その笑顔はとても綺麗だった。

 「さて、と」

 女はかたりと筆を置く。

 伸ばす両手が、キャンバスを掴んだ。

 「この子も完成したわ」

 女は月の隣に、キャンバスを並べた。

 少女はそれを覗き込む。

 とても。

 とても綺麗な絵だった。

 紫の海に、白い鈴蘭の船達が浮かぶ。

 藍色の夜空に、宝石のような星達が輝く。

 朧雲を羽衣のようにまとった月が、空に妖しく輝いている。

 藍色の空と紫の海。

 白い花と金色の月。

 「……綺麗」

 少女は思わず呟いていた。

 「この絵が、あなたの想い出になったなら嬉しい」

 そう言って、女は帰っていった。

 月と共に、少女と鈴蘭の海に別れを告げて。

 「さよなら。 ありがと」

 少女はその背中が地平線の向こうに消えるまで、見送った。






























 それから、あの女の人は来なくなった。

 私は何日も過ごした。

 何日も何日も過ごした。

 気の狂いそうな毎日を過ごした。

 夜も眠れず、昼も眠れず。

 何日も狂いそうに過ごした。



 ――探さないの?



 探すワケないじゃない!

 殺したくなんか、



 ――殺したくないの?



 無い無い無い無い無い無い。

 殺したくなんか無い。



 ――探さないの?



 やめて!

 もう喋らないで!



 ――殺さないの?



 やめてやめてやめて。

 狂ってしまいそう。



 ――あんなに楽しかったのに、やめちゃうの?



 私は楽しくなんか無かった。

 私は楽しんでなんかいなかった。



 ――本当に?



 ワタシは楽しんでた。

 ワタシは楽しんでたわよ。



 ――そうだよね?



 私は違う! 違うったら違う!

 私は楽しんでなんか、



 ――探さないの?



 …………。

 …………。



 ――探さないの?



 私は人里とは逆の方向へ飛んでいった。

 人形の声に釣られて、人を殺したく無かった。



 ――殺さないの?



 それでも何故か、人形を捨てることはできなかった。

 手放せば人形が勝手に動き出して、人を殺してしまいそうな気がしたから。



 ――探さないの?



 私は深い深い森の中に入った。

 こんな場所なら、人間に会うことも無いだろう。



 ――殺さないの?



 私は迷った。

 正しく言うと、迷いに行った。



 ――ねえ、出ようよ?



 お前と一緒に朽ち果てよう。

 人間をただ殺すだけの私に、意味なんてあるワケが無い。



 ――出ないの?



 ええ、出ないわ。

 私なんて死んでしまえばいい。



 ――死んじゃダメだよ。 遊べなくなるよ?



 遊びっていうのは命を弄ぶことかしら?

 随分な遊びね。



 ――ここは暑いよ? 暑いの嫌いでしょ?



 確かに昼間だからか、この森は暑いわね。

 蒸して蒸してしょうがない。



 ――ねえ、出ようよ?



 出ないわ。

 ……出ない。



 ――殺さないの?



 殺したくなんてないもの。

 ここで死のうよ。



 ――探さないの?

 探さない。

 もうこんなところに人はいないもの。

 人なんて、人なんて、

 ……ああ。

 …………なんで。

 ……なんで、なんでこんなところに、

 「あら、見ない顔ね」

 人がいるの?



 ――みーつけた。



 金色の髪。

 青と薄桃色の服。

 紅い目。

 そんな風貌の少女の周囲を、人形が飛び回っている。

 「こんな場所まで何の用かしら? 迷ったの?」

 気持ちいい音で哭いてくれそうな声。

 潰したくなるような華奢な体。



 ――殺さないの?



 「ええ、迷っちゃったみたいなの」

 ワタシは笑顔で答えた。

 「ふうん。 用は無いのね」

 目の前の女の子は退屈そうに言った。

 ふふ。

 ふふふふふ。

 楽しめそう。

 「ううん。 用事はあるの」

 ワタシはにっこりと笑って言った。

 女の子は怪訝そうな顔をする。

 「何?」

 引き裂こうかしら。

 潰そうかしら。

 どうしよう、悩んじゃう。

 まあどっちでもい

 「逃げてぇ!」

 私は殺したくなんか無い。

 ワタシの思い通りになんかさせるものか。

 「逃げて! ワタシがあなたを殺しちゃう! 逃げてぇぇ!」

 逃げてちょうだい。

 お願い。

 「はい? よくわからないお客さんね」

 バカ。

 逃げてったら。

 「逃げて! いいから逃げて! お願い!」

 逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと

 ……ワタシが殺しちゃうものね。

 ふふ。

 時間稼ぎ失敗ね。

 残念でした私。

 楽しませてもらうわ。

 「春だからかしらねえ。 頭が変になっちゃったとか……」

 そこで目の前の女の子は言葉を切った。

 ワタシはゆっくりと、笑顔のまま女の子に近づく。

 やっとワタシが人間じゃないって気がついたのかしら?

 「……あなた、もしかして」

 顔をしかめて、女の子はワタシを物でも見るような目で見ている。

 本当、鈍いのね。

 「用事っていうのは、あなたの悲鳴が聞きたいの」

 ワタシはとびきりの笑顔と共にそう言った。

 そして彼女は目を見開き、恐怖に悲鳴を上げて逃げ出す、はずだった。

 「ああなるほど」

 なんでそこで頷くの?

 ワタシは全身の力が抜けてしまった。

 「そういうことね。 色々とよくわかったわ」

 以前にも一度、こうやって力が抜けてしまって、殺せなくなったことがあったなあ。

 あの忌々しい絵描きの時ね。

 でも、あの時と今日は事情が違うわ。

 ワタシ、ここしばらく誰も殺してなくて飢えてるもの。

 「殺すわね」

 「殺せたらね」

 度胸よく微笑む女の子に、ワタシは飛びかかった。















 暑い森の中。

 太陽がワタシを焦がしていた。

 背中に当たる、熱い地面の感触。



 みーんみんみんみんみーん



 「ちょっと調べさせてもらうわね。 勝者権限」

 さっきの女の子がワタシの体に手を当てて、何だかごそごそとまさぐり始めた。

 魔法陣がワタシの体を通り抜けたり、細いレーザーを皮膚に向けて照射したり。

 体が動かないんだからどうしようもない。

 別に痛いようなことはされなかったけれど。



 みーんみんみんみんみーん



 風は無く、蒸し暑い森の中。

 蝉が気忙しく鳴いている。



 みーんみんみんみんみーん



 あの女の子はワタシにもわかるくらい、戦いの中でハッキリと手加減していた。



 みーんみんみんみんみーん



 バカにしてたのかしら。

 ま、それでも負けちゃったけど。



 みーんみんみんみんみーん



 「……ふう」

 さっきの子がワタシから手を離した。

 途端に蝉が鳴き止んだ。



 ――殺さないの?



 だってお人形さん、殺せなかったもの。

 ワタシあの子を殺せなかったもの。

 「あなた、なんて名前なの?」

 え?

 名前かあ。

 「名前なんて無いよ」

 そう言った瞬間、ワタシはもう喋るのも面倒になったので、私と交代した。

 突然眠りから覚まされたので、私は面食らってしまったようだった。

 「そう。 あなた面白いわよ」

 いきなり何?

 面白い?

 「何が面白いの?」

 私は立ち上がりながら聞き返した。

 「あれ? わかってないのかしら?」

 「何が?」

 「あなた、時々意識が飛ぶことなんて無いかしら?」

 「……あるわ」

 そんなことより、この子が生きていて本当に良かった。

 何故かわからないけれど、殺さなくて済んだみたいね。

 「そのワケについて教えてあげるわ」

 少女の声を聞いた時、左手に握っていた人形が震えた気がした。



 「この人形の声が聞こえたり、もう一人のワタシがいたりするワケ?」

 「そう。 そのワケを教えてあげる」

 「……それはつまり、どういうことなのかしら?」

 「あなたは生きている妖怪で、その人形はただの物。 生きてない抜け殻だと思っているでしょう?」

 「抜け殻? ……ええ、人形は生きてないものね」

 「生きてるの」

 「え?」

 「あなたはその人形と同じ命を共有しているの。 いいえ、人形から命を分け与えてもらっているの」

 「…………」

 「その人形には鈴蘭の毒と、たくさんの想い出が詰まっている。

  それらが混ぜ合わさって、強力な力を生み出し、貴方に影響を及ぼしている。

  あなたと人形はもう切っても切り離せない。 一つの形なの」

 「……それって、私が人形と同じってこと?」

 「いいえ。 もう人形ではないのかも知れないわよ。

  あなたは元々人間。 人間の体を持っていたはず」

 「?」

 「何か理由があって、人形と人の命が解け合ったのよ!

  そして自立起動し私と出会った! 素晴らしい!」

 「……はあ。 全くわからないわ。 何が素晴らしいのかしら?」

 「ああごめんなさい。 ちょっと、いやだいぶ熱が入ったわね」

 「よくわからないけれど、私がなんで二人いるの? もしかして、あなたならわかるかしら?」

 「それは私にもよくわからないわ。

  ベースである人間の体が元々多重人格だったとか、

  人形とあなたの思考のちょうど中間地点にもう一つ思念体がいるとか、

  可能性を考えようと思えば色々と考えられるけれど」

 「ふうん」

 「とにかく確かなのは、あなたの中には三つの意識が混在している。

  もしかしたらもっと多いかも知れないけれど、私の力で調べられたのはそれくらい」

 「そんなことが分かるなんて、凄いのね」

 「伊達に人形遣いやってないもの。 ……それとね」

 「?」



 女の子は私に言った。

 「あなた、実験してみない?」

 ……実験?

 「何を?」

 女の子はにへらー、と笑っている。

 「脳波を同調させる実験」

 …………。

 どういう意味かしら?

 「人形の声が聞こえたり、人格が入れ替わったり、あなた不便でしょう?

  自分で統制できてないみたいだし。 だからそれを一つにするの」

 いまいち意味を理解できない私に、彼女はそう付け足してくれた。

 ……つまり、

 「私の中のワタシや、人形を追い出すってこと?」

 「ううん、あなたともう一人のあなた。 それに人形の思念を一つに合わせるの」

 「……そうすると、どうなるの?」

 「あなたは本当に一つの存在になるの」

 自信ありげに女の子は言った。

 私は全く意味がわからない。

 ――わからないよ?

 ワタシもわからない。

 「まあやってみなさい。 勝者からの命令よ」

 わからないけれど、やってみたほうがいい気がした。










 私はその後、女の子から渡された小さなカプセルを言われるままに飲み込んでみた。

 すると頭がぼんやりとして、ぐらぐらと視界が歪み始めた。



 みーんみんみんみんみんんんんんんみんーーーーーん



 ――あなた、たまにここに遊びに来なさい。 いいわね? 絶対に。

 木が捻れては、空へと飛んでいく。

 地面が波のように揺れては、跳ねる。

 赤い光が揺れては砕ける。



 みーーーーーんみんんんみんみんんみんみんみんみんんみーん



 ――聞こえてるかしら? 実験結果もきちんと知りたいの。 もし来なかったら、幻想郷中探してやるわよ。

 蝉の鳴き声も歪んでいる。

 空は蒼く青く碧く大地へと墜ちてくる。

 耳鳴り。 耳鳴り。 耳鳴り。



 みーーんみんみんみーんみんみんみーんみんみんみーん



 ――あー、もしかして失敗なのかしら。 早まっちゃったかなあ。

 地鳴りのような、ごごごごごごごごご という凄まじい音が聞こえた。

 その後。

 歪んでいたはずの木はぴんと、まっすぐに立っていた。

 ぐにゃぐにゃだった地面は真っ平らに。

 土は太陽に焦がされて独特の匂いを放っている。

 蝉の鳴き声も元に戻っていた。



 みーんみんみんみんみーん



 「うーん、あなた大丈夫? まだ意識はあるかしらー? あーあ、失敗したなぁ」

 「あるわよ」

 「きゃあ!」

 目の前で女の子が大げさに驚いた。

 仕草がかわいいなと思った。

 「い、意識あるんじゃないの……。 ところで、どう? どう?」

 女の子が期待を込めた眼差しで私を見て、

 「何が?」

 そして肩透かしでも喰らったような顔をした。

 ところで。

 私はなんでこんな森にいるんだろう。

 空が赤いから、今は夕刻なのかしら。

 「私、帰らないと」

 女の子にそう告げて、私は空へと浮かび上がった。

 鈴蘭達が待ってるから帰らないと。

 風を切り、空を飛ぶ。

 待てー! だとか、必ず顔出しなさーい! だとか、後ろで女の子が言っていた気がした。

 まあいいや。

 帰ろう。 鈴蘭達のところへ。

 ……あの女の人、また来てくれてるかしら。






























 黒髪の女は椅子の上に座っていた。

 右手に持つカップに入れられたコーヒーは冷めている。

 目の前の机には、綺麗な鈴蘭畑の絵が飾られている。

 女は眼鏡を通し、その絵を眺めていた。

 真剣な眼差しで。



 こちり こちり こちり こちり こちり



 壁に掛けられた振り子時計が音を立てる。



 こちり こちり こちり こちり こちり



 女の眼差しが緩むことはない。

 椅子から立ち上がりながら、その絵を睨みながら、

 「……違う。 まだ完成してない」

 呟いた。

 途端に、彼女は激しく咳き込んだ。

 何度も何度も咳き込み、息が出来ない苦しさからか涙を流し、

 「かはっ!」

 口を塞いでいた袖に、血をぶちまけた。

 げほげほと、その後も小さく咳き込む。

 ようやく発作が収まった後。

 彼女は息を荒げ、ぺたりと床に座り込んでいた。

 よく見ると周辺の床には、たった今袖にできたシミと似たような色のシミがたくさんついていた。

 彼女は瞳孔を大きく開き、鈴蘭畑の絵を睨みつける。

 「……まだ、完成してない」















 綺麗な朧月夜。

 女は鈴蘭の海を掻き分けて進んでいた。

 そしていつもの場所に辿り着くと、力尽きたように仰向けに倒れ込む。

 動悸でもしているのか、その呼吸は荒い。

 しばらく経った後、呼吸はようやくおとなしいものになった。

 女はゆらりと体を起こし、鞄の中身を辺りにぶちまけた。

 イーゼル、キャンバス、ペインティングナイフ、画筆、溶き油……。

 様々な物が鈴蘭の海へと沈んでいく。

 彼女は準備していく。

 絵を描く為の。

 一度は完成したはずの絵をイーゼルに立てかけ、パレットに絵の具を盛っていく。

 そんな時、背後で声がした。

 「あなた、また来てくれたのね」

 女が振り向くと、そこにはいつもの少女がいた。

 金色の髪、赤と黒の服。

 「……ええ。 頼みがあるの」

 「何かしら?」

 女は今まで見せたことの無い真剣な眼差しで、少女に願う。

 「あなたに踊って欲しいの」

 少女は不思議そうな顔をした。

 「お願い。 鈴蘭達の中で踊って」

 「まあ、いいけど」

 少女は不思議そうな顔をしながら、くすくすと笑った。

 思えば、女が少女の笑う顔を見たのは初めてかもしれない。










 くるり くるりと少女は舞い踊る。

 鈴蘭の海の中で。

 儚げに揺れて、強くしなやかに舞う。

 とても綺麗な微笑。

 瞳を瞑り、微笑みかける。

 その笑顔は誰に捧げられたものなのか。

 それを知る術など無かった。

 朧をまとった月が微笑む。

 少女もそれに応えるように、微笑みながら舞い踊る。

 鈴蘭の海の中で。

 風は花を煙のようにくゆらせて、空へと昇っていく。

 金色の髪を揺らし、少女は舞い踊る。










 「…………」

 とても綺麗な絵だった。

 紫の海に、白い鈴蘭の船達が浮かぶ。

 藍色の夜空に、宝石のような星達が輝く。

 朧雲を羽衣のようにまとった月が、空に妖しく輝いている。

 そんな藍と紫の舞台の中央。

 金色の髪を揺らしながら舞う、少女の姿が描かれていた。

 宙に浮き、くるりくるりと。

 絵の中の少女は澄み切った、安堵しきった、母の夢を見ている子供のような微笑を浮かべていた。

 「……完成だ」

 女は呟いた。

 途端に激しく咳き込んで、その場に崩れ落ちた。

 苦しそうに涙を流しながら、口から大量の血を吐きながら。

 女の異変に気づき、少女は踊るのを止めて駆け寄った。

 「大丈夫!?」

 肩を抱き、女の顔を覗き込む。

 その顔は真っ青。

 口からは赤い血を流していた。

 そんな口を静かに動かし、女は言葉を紡ぐ。

 「……て」

 「え?」

 「……見て」

 女は一枚の絵を、震える手で指差した。

 「私の最後の絵。 あなたの絵よ」

 少女はしばらくの間、息をするのも忘れて絵を眺めていた。

 鈴蘭の海の中で舞い踊る少女の絵を。

 やがて、女へと振り向き、

 「……最後って。 あなたまさか――」

 「もう持たないの。 持たせる気もない」

 女は諦めたというより、傍観しきっているような口調で言った。

 少女は口をつぐむ。

 そして女はとても綺麗な顔に、とても綺麗な笑顔を浮かべた。

 「私は最後に素晴らしい子供を遺せた。 あなたの絵」

 「……私の?」

 抱き抱える少女と、抱えられる女。

 鈴蘭の海は静かに二人を見守っている。

 女が少女の目を見据えて、尋ねた。

 「……最後に教えて」

 「……何を?」

 「あなたの名前は、なんて言うの?」

 返事は無かった。

 少女は、ただ泣き出しそうな顔で女を見つめていた。

 「名前、無いの」

 ようやくそれだけ答えた。

 瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。

 その顔はとてもやるせなく、悔しそうだった。

 「メディスン・メランコリー」










 女の声が、静かな鈴蘭の海に染み渡る。

 「メディスン・メランコリー。 憂鬱の薬という意味よ」

 少女は涙を流したまま、不思議そうな顔をした。

 「あなたの名前よ。 思いつきだから、適当に意味を繋げただけだけれど」

 女はにっこりと、少女に微笑みかける。

 少女は驚き、目を見開いた。

 その名をゆっくりと呼んでみる。

 「メディスン、メランコリー」

 「そう。 悪くない名前でしょ?」

 「……ありがとう」

 少女は涙を流していた。

 機械的な涙では無い。

 暖かく、悲しい涙。

 「……むかーし昔、男と一緒にいられなくなってやけっぱちになった女がいました。

  女は愚痴々々ジメジメしながら、残りの余生なんて意味ないわーとばかりに、絵ばかり描いて過ごしていました。

  毎日が面白くありませんでした。 つまんなかったのでした。 憂鬱な日々を過ごしていたのでした。

  ……そんなある日、彼女は鈴蘭畑の中で小さな女の子と出会います」

 女も涙を流していた。

 しかし、その顔は悲しみに暮れてはいなかった。

 暖かい笑顔。

 「その女の子は大層天然で、女は会う度に新鮮な気持ちがして、絵を描くのが本当に楽しかったのでした。

  あんまり変なことを言うものだから、お腹が痛くなるほどに笑い転げた日もあります。

  女がそんなに笑ったのは、本当に久しぶりのことでした。

  一時は忘れていた、笑顔を思い出しました。 憂鬱を忘れました」

 そこで語るのを止めた。

 女は少女の顔を見つめて、その名を呼ぶ。

 「あなたはメディスン・メランコリー。 私の憂鬱という雲を晴らしてくれた、とびきりの薬」










 急に、女の体から力が抜けた。

 少女は慌てて彼女を揺する。

 「待って! 待ってよ!」

 「もう……そんなには待てない……わよ?」

 ほとんど力も入らないであろう中、彼女が楽しそうに笑った気がした。

 少女は問う。

 「私に教えて。 あなたの名前を!」

 「な、まえ?」

 「そう!」

 少女は頷く。

 「あなたの名前! 私はあなたのことを忘れない! 絶対に! 忘れたくない!」

 「…………」

 女は一度嬉しそうに微笑むと、静かに言う。

 「私の……名前は……ミューズ。 父が、私の為に……考えて、くれた名前」

 「ミュー、ズ?」

 「……そう」

 「ミューズ」

 「……うん?」

 少女は今にも泣き出しそうな、いや、楽しくて笑い出しそうな、そんな顔をしている。

 まるで駄々をこねて、母の名を呼ぶ子供のような顔。

 「ミューズ」

 「……うん」

 「ミューズ!」

 「……うん」

 少女は意味も無く名前を呼び、その度に女は楽しそうに答える。

 意味なんてものは言葉以外の場所にあったのかも知れない。

 何度も何度もその名を呼び、何度も何度も応えた。

 幸せそうに。

 やがて、二人の内の片方が黙り込んだ。

 綺麗な微笑のまま。

 もうその口を開くことも無かった。

 少女は泣いた。

 辺りを気にする事も無く声を上げて、哀しさに顔を歪めて、涙を鈴蘭の海へと落とした。

 少女は生まれて初めて、声を嗄らすほどに泣いた。

 生まれて初めて、自分ではない誰かの為に泣いた。

 鈴蘭の海は、そんな少女を優しく抱いていた。










 辺りは既に明るくなり、太陽がちょこんと顔を出している。

 月はさっさと山の裏へと隠れようとしていた。

 鈴蘭の海の中で。

 二人は安らかな、幸せそうな顔で眠っていた。




















 鈴蘭が群生している盆地。

 大地は暖かな陽射しを気持ちよさげに浴びている。

 風が吹く度に、まるで波のように揺れる鈴蘭達。

 ちりんちりんと、鈴の音が聞こえそうな錯覚に襲われた。

 そんな鈴蘭の海が見える小高い丘。

 そこに質素な墓が建っていた。

 墓石は古び、刻まれた文字はぼやけ、読めなくなっている。

 そんな墓石には、錆び付いてぼろぼろになった眼鏡が供えられていた。

 そして摘み取られたばかりの鈴蘭の花も。



 小高い丘の上。

 小さな墓はのんびりと陽を浴びている。
あおのそら
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コメント



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1.80名前が無い程度の能力削除
辛い
2.70名前が無い程度の能力削除
なかなかの物
4.70翔菜削除
あぁ、いい話。
13.90削除
こういうのも悪くないです。
22.80削除
絵筆をひと筆ひと筆、ゆっくりと運ぶようなお話。