Coolier - 新生・東方創想話

罪の花 [1]

2006/02/07 06:14:51
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 乾いた音が闇の中よりただ響く。
 それは審議の終わりを告げる音。裁きの決定を謳う歌。

「判決を言い渡す」

 闇。ただの闇。便宜的な闇。確信的な闇。悪夢的な闇。深い闇。届かない闇。終わらない闇。停滞した闇。流動的な闇。能動的な闇。仮説的な闇。確定的な闇。確率的な闇。境界的な闇。事実的な闇。予測的な闇。実質的な闇。感情的な闇――どれだけ言葉を並べたところで、この闇を形容することなど出来ないだろう。何も生み出さず、何も潰さず、何も返さぬ行き詰まりの空間。何も見えず、否、何もかもが見えているのかどうかすら分からぬ闇。
 仮に何かを求めても、心の奥底から渇望し腕を伸ばしても、何も返りはしないだろう。全てが無いようで、全てを含む闇。是と非の間。確率的。存在を求めれば全てが終わってしまう世界。何も無い。

 遠い。

 だから――彼女は疑問に思う。
 この音は、何処から響いているのだろう?
 かぁんかぁんと耳に届く槌打ちの音。耳に届く誰かの宣告。

「被告の罪状は――」

 淡々と、そして延々と告げられる罪の名称。行った罪科に暫定的に宛がわれた言葉の羅列。誰かが誰かを裁くために意義付けた、便宜的な名称の数々。口上に上るそれらは瞬く間に十を越え、百を越え、しかし、まるでそれらは一つの罪を延々と繰り返しているようにも聞こえた。
 そう、その言葉は、音は、間違いなくこの耳に届いている。
 空耳か? 彼女は闇の中でそう思う。見えるものは何も無く、存在しているかどうかすら分からない闇の世界。そも、自分の存在すらもあやふやな暗幕の世。まるで自分が煙のように薄まって、この世界全てに広がっているかのような錯覚。錯覚? そう、錯覚。彼女はそれを確信している。全てが胡乱なこの世界で、何よりも胡乱なこの感覚こそが錯覚だと理解している。
 なぜなら、これは、何度も見た光景だから。
 闇の中から届いた口上が止まる。はて、と彼女は疑問に思った。告げられた罪目は幾つだっただろうか。千を数えた辺りまでは意識を裂いていたのだが、千百五十七番目を最後に数えるのを止めていた。万を越えたか、それとも億まで届いたか。罪を飾る棚は足りただろうか。全ての位相からかき集めたかのような罪は、果たしてこの闇で覆いきれるのか?

 かぁん、かぁん、と音。

「――以上が被告の罪である。よって判決を言い渡す。死刑」

 かぁん、かぁん。
 本日は晴天である、と宣言するかのようにあっけなく下されたその罰に、しかし彼女は驚かない。ただ僅かに息をのみ、ああ、と安堵の息を吐いた。
 驚愕でも、嗚咽でも、否定でも、疑問でもない、安堵の吐息。
 当然だ――と思ったのである。
 この身は罪に塗れている。皮膚に、骨に、脳髄に脊髄に網膜に満遍なく罪と言う名の色が滲み込んでいて、身体を少し押さえたならば、まるで水に沈められていた真綿のように、それらはどぼどぼとこの身体から、紅い何かに混ざって溢れ出ることだろう。
 だから、これで心が休まるのだと彼女は知っている。罪は裁かれることで罰を経て償いへと消化する。償われぬ罪はいつまでもいつまでも心の棚に仕舞われ続け、やがて棚を埋め尽くすだろう。しかし罪は罪を呼び、次から次へと溜まり続ける。仕方なくそれまで使っていた棚を心の奥に放り投げ、真新しい棚に真新しい罪を並べていくのだ。それを何度繰り返しただろう。否、繰り返しているのだろう。罪は償われぬままに溜まり続け、蓋をして投げ捨てた棚はどれだけの山を築いたのだろう。繰り返した動作は平均化され普遍化される。心を痛ませていた行為もいつかは無感動な単純作業に成り下がる。それでも罪は溜まり続ける。償われること無く投げ捨てられた罪の山はいずれ狂気じみた蒐集品の如く並べられるだろう。整理を要するそれらに表札代わりに張られるのは、相応の罰を書き記した対価票に他ならない。
 つまり、

「死刑。死刑。死刑。死刑。死刑。死刑。死刑。死刑。死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑――」

 投げ捨てた罪が。
 封じた罪が。
 目を逸らした罪悪が。

 声を揃えて、

 死んでしまえ、と。

 呪っている。



 かぁん、かぁん、と誰かが木槌を叩いている。

「――死刑。以上が全審議官の判断である。よって此処に全審議官の連名をもって改めて被告に死を命ずる。執行人は前へ」

 そう声が届いた瞬間、不意に世界に感覚が生まれた。唐突な情報に、一瞬意識が全ての入力を閉ざし凍結する。神経再接続。緊急情報処理。まず感じたのは足の裏が何かを踏みしめている感触。そして闇の中に自分が浮かび上がる客観的な想像。光の欠片も差し込まず、よって何も見えるはずも無い深淵の中に、しかし彼女は自分の存在と自分が置かれた状況とを知覚する。
 闇は晴れない。だが不思議と目には自分の置かれた状況が見える。自分が立っているのは、円柱状の柱の断面。その面積は足を乗せるための最低限のものしか有しておらず、少しでも足をずらせばこの闇の中へと真っ直ぐに落ちていくだろう。連想したのは湖の只中にぽつんと飛び出た杭。それとこれとの違いは、多分、落ちた先に水が在るのか何も無いのかというただそれだけ。
 ぼう、と闇の中に何かの輪郭が浮かび上がる。相変わらず光は差し込まない。だがそれは、まるで闇自体が光を放っているかのようにはっきりと、その存在を視界の中へと躍らせる。
 執行人。
 彼女はその姿に覚えがあった。かつての同胞。否、同胞と呼ぶことすら躊躇われる気高き存在。遥か彼方の時空で起こった戦いにおいて、迫り来る敵の軍勢を相手に一人で立ち回り、幾千幾万の敵の首を切り落としたといわれる死の舞踏。敵からは恐怖と悪夢の、味方からは勝利と希望の代名詞として叫ばれたその名前。後世において、優秀な兵士たちの総称となったその存在。
 そして、彼女が遠い故郷に見捨てた者たち。

 その名を、首狩り兎(ヴォーパルヴァニー)という。

 ひょん、と刃が音を立てる。浮かび上がった執行人のその手には、いつの間にか身の丈ほどの刃が握られていた。
 ひょん、と刃が音を立てる。執行人が試しにとばかりに振るうそれは空気を割き、視認が不可能なほどの速度で振るわれる。触れれば命どころか、存在すらも残るまいと思わせる斬撃。ただ首を狩ることだけに特化した刃と、それを振るうことだけに特化させられた我が同胞。
 常夜の国に、果たして刃は持ち込めたのだろうか。
 ひょん、と刃が音を立てて振るわれ、そして、構えられた。執行人は視線を外さない。赦さぬと、償えと、死んで償えとその視線で叫び泣き慟哭を上げながら、刃が真っ直ぐ水平に構えられる。
 声が聞こえた。

「被告は何か言い残すことがあるかね?」

 目の前に立つ執行人が無感動に刃を振るう。目に留まらぬ斬撃。ならば答える時間など無い。声帯が振るえ音が言葉になる前に、執行人は万全の仕事で持ってその役割を果たすだろう。
 だが、それでも、言葉があるのかと問われたら、ある、と答えるほかに道は無い。
 ぞわり、と身の毛がよだつ。いままさに刃が動脈を切り開こうとしている。最早これで終わる。自分は殺される。罪の償いとして殺される。首を落とされて殺される。血を吹き上げて死ぬだろう。分断された頭と身体は運命の濁流に飲まれた恋人の如く闇に落ち、二度と相見えないに違いない。
 執行人の赤い瞳に、立ち尽くす自分の姿が映っている。狂気を湛える赤い瞳。血のように、月のように赤い世界に、ただ罪を裁かれるべき自分だけが映り、安らかな笑みを浮かべている。やっと終わる、と心からこの終末を望んでいる。
 ただ、彼女は小さく疑問に思うのだ。
 声は間に合うだろうか、という些細なそれと同じように純粋に、そして素朴に、救いを求めて。

「――私の罪は、償えるのでしょうか?」

 血が流れ出るより早く脊髄を切断され、彼女の意識はぷつりと途絶えた。








 ごす、と結構洒落にならない音がして、額が猛烈に痛んだ。

「――ッ!」

 まどろみを一足飛びに行き過ぎて、鈴仙・優曇華院・イナバの意識は覚醒した。寝床の中で頭を抱えてごろんごろんと左右に身をよじり、いたいいたいいたいと口走りながら涙に滲む視界で天井を見上げれば、そこには困ったような表情でこちらを見下ろす師匠、八意永琳の顔がある。
 永琳は小脇に何かを抱えたまま頬に手を当て、あらあら、と呟いた。

「困ったわね。まだ起きないの? ウドンゲ。もうとっくにお昼なのだけれど?」
「……起きてます。起きてますから師匠、その手に持った小壷を置いてください。落とさないで下さい。痛いんです重いんですそれ何入ってるんですかいったい」

 言っても聞いてくれないんだろうなぁと心の内で涙しながら、鈴仙は身体を起こした。枕元に転がる小壷――おそらく、いや確実に永琳が鈴仙を起こすために顔目掛けて落としたそれを何とはなしに拾い上げ胸に抱きながら、もう、と鈴仙は自分の額に手をあてがう。
 案の定、こぶが出来ていた。
 うう、と鈴仙は涙目でぷくりと膨らんだ額をさすりながら自らの師匠を見上げる。

「どうしたんですか、師匠。いつにも増して唐突ですけれど」
「あら、言ったじゃない、ウドンゲ。もうお昼よ?」
「え?」

 間の抜けた声を上げて、鈴仙は部屋の中を見回した。永遠亭の一角に位置する極々標準的な一室。畳張りの床と漆喰塗りの壁。あまり多くはない私物と、所々に乱雑に詰まれた何冊もの学術書。それらを照らし出す光は壁に設けられた明り取りの窓から差し込む陽光で、なるほど、確かに永琳の言うとおりその射角は随分と高い。昼前か、ひょっとしたら既に正午を待っているのかもしれない。
 はて、と鈴仙は首を傾げた。彼女は大抵、朝は日が昇るより早く目を覚ます。そして朝のうちからその日に必要な諸々の薬草や毒草を収集するのが彼女の日課だ。こんなに遅くまで寝続けてしまうことなど、滅多に無いのだけれど。
 ただ、まあ、なんにせよ寝坊をしてしまったのは事実のようだ。鈴仙は永琳を見上げ、ぺこり、と頭を下げる。

「すみません師匠。寝過ごしてしまったようです」
「見れば分かるわ。それよりもウドンゲ、何か気付かない?」
「何か、ですか?」
「ええ、そうよ。耳を澄ましてごらんなさい」

 困り顔の永琳の言葉に従い、鈴仙は周囲の音に注意を向けた。小鳥の鳴き声、竹の葉が風に揺れる静かな音の流れに混じり、なにやら騒々しい足音が聞こえていた。それも、かなりの数だ。
 鈴仙が驚き顔でこれは、と呟けば、そう、と永琳が頷いた。

「兎たちがはしゃいでしょうがないの。まあこんな状況だから無理も無いけれど、それでもちょっと耳障りだわ。兎たちの管理はウドンゲ、あなたの役目でしょう? 今日は私の手伝いはいいから、この状況を何とかして頂戴」
「はあ、分かりました。ならてゐは何処に居ます? 小兎たちはてゐの言うことしか聞きませんし、私に言うよりてゐに言いつけたほうが早いと思いますけど」

 永遠亭の小間使いとして多数仕えてる兎たちを統べるのは、長生きした末に妖怪となった白兎、因幡てゐだ。勿論鈴仙とて彼ら、彼女らと意思の疎通が出来ないわけではないが、どういうわけか兎たちはてゐの言うことはよく聞くので、鈴仙は兎たちの管理をてゐに任せっきりにしていた。
 そのことは師匠もご存知のはずですけど、と口にせず目で伺えば、永琳は頬に手を当てて呆れたように息を吐く。

「それが、てゐも一緒に何処かに遊びに出かけちゃったのよ。多分、兎たちが騒いでいるのはそのせいでもあるでしょうね。歯止めが利かなくなってるみたい。だからウドンゲ、あなたにはてゐを見つけて連れ戻しなさい。ついでにこの異変も解決してくれると嬉しいわね」
「異変、ですか?」

 鸚鵡返しに聞き返しながら、再び鈴仙は窓の外に目を向ける。鬱蒼と茂った竹林に変化はなく、昨日見た光景とどう違うのかと問われれば答えることも出来ないだろうと思う。しかし、それはつまり昨日の延長線上であるということで、異変と称されるべき非日常とは無関係のように思えた。
 しかし、師匠が言うのだからきっと何か変化があるのだろう。暇潰しに難題を押し付けたり、色々と苛められることは多々あるが、それでも鈴仙は基本的に永琳を信頼し、尊敬している。そうでなければ師匠などとは呼びはしない。その永琳が言うのだから、確実に何か異変が起こっているのだろう。
 ただ、自分にはそれを見出すことは出来ないといだけの話。
 それを察したか――永琳が、低い声で言う。

「ウドンゲ? あなた、気付かないの?」
「え――あ、はい。すみません」

 隠しても仕方が無いことなので、大人しく鈴仙は頭を垂れる。
 永琳は厳しい一瞥をこちらに向け、しかし、すぐにその視線を和らげた。

「そう。まあいいわ」

 珍しいことに、優しげな声でそう言う永琳。
 だから、鈴仙はその思考を打ち消した。
 永琳が視線を和らげるその直前。一瞬に満たぬ僅かな時間、彼女の瞳に浮かんだ色は、

 ――憐れみ?

 さて、と永琳は呟いてこちらに背中を向ける。そのまま、顔を見せぬままに言葉を続けた。

「じゃあ頼んだわよ、ウドンゲ」
「はい、分かりました」
「いい返事ね。ああ、それと、」

 そこまで言って、永琳はようやくこちらに顔を見せる。
 そこには、にこり、と、子供に向けるような満面の笑みが浮かんでいた。

「ウドンゲ。人の趣味に文句つけるつもりは無いけれど、少し無用心が過ぎるわよ?」
「え?」
「どうせ永遠亭は女所帯だけど、少しは恥じらいというものを持ちなさい」

 じゃあね、と言って部屋を出て行く永琳。
 その背中を見送り、今更、鈴仙は自分が一糸纏わぬ姿で居ることに気がついた。

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 恥ずかしさのあまり布団を掻き揚げ抱きしめる。頭に血が上り、ついでに顔が赤くなるのを知覚。
 ……気が抜けていたことは認めよう。眠るときに裸になるのは随分と昔、それこそこの屋敷に逃げ込む前からの習慣なのだが、だからこそその時の姿を誰かに見られたりしないようにと注意を払ってきたのだ。事実、彼女は寝ているときに誰かを部屋の中に忍び込ませた記憶など無いし、まだ月に居たころもそんな事態は一度も無かった。
 だから、気が抜けていたのだろう。そう思わなければいけない気がした。

 ――夢見は、悪かったというのに?

 何の夢を見ていたかは覚えていない。だが、きっと幸せな夢だったのだろう。そうでなければ、夢に堕ち気って居なければ、たとえ師匠といえどこうも簡単に寝ている間に部屋に忍び込むことなで出来ない筈だ。
 忘れよう、と鈴仙は思った。頭を振って、意識の熱を振り払う。顔の赤らみが抜けぬままに枕元の衣類に手を伸ばし、手早くそれに着替えた。いつもの服。白いシャツとスカートを身に纏い、布団を片付ける。ついでに押入れの中から愛用の品を取り出し、幾つか身につけた。どうせすぐに出発するのだ。準備は早いに越したことは無い。

「さて」

 呟いて、部屋を出る。このまま発ってもいいと思うが、先に少し腹ごしらえをしたほうがいいだろう。
 じゃらり、と鳴る腰のそれの重さに懐かしさと、何処か違和感を感じながら――彼女、鈴仙・優曇華院・イナバは永遠亭の自室を後にした。



 なるほど、と鈴仙は思う。これが、今回の異変なのか。
 幻想郷中に咲き沸く自然の花々。季節を無視し、或いは咲くべき季節よりよほど元気よく花をつけた野の色彩。あり得る道理の無い光景は、しかし同時に見る者の心を躍らせる。なるほど、と鈴仙はもう一度思う。これならば兎たちが騒ぎ出すのも無理は無いだろう。まあてゐに関しては別の話。てゐはもう少し落ち着くべきだと彼女は思う。
 幻想郷中を軽く見て回り、行き摺りに何人かに弾幕ごっこを仕掛けられたりそれを撃退したりしながら、鈴仙は一度永遠亭に戻ろうとしていた。心当たりのある場所はほとんど見て回ったがてゐの姿は見つからず、いっそ冥界にも足を踏み入れてみたがその姿は見えなかったので、ひょっとしたら、と思い永遠亭廻りの竹林を探すことにしたのだ。つい意識せずに出発してしまったが、考えてみればてゐが遠くに行ったなどいう論拠は一つもない。ならば思いのほか近くに居るのかもしれないし、そうでなくともそろそろ戻ってきているのかもしれない。
 師匠が急かすからいけないんだ、と胸の内で言い訳しながら、鈴仙は竹林の間をゆるゆると飛ぶ。時折ちょっかいを掛けてくる妖精や幽霊を片手間に相手しながらしばらく進むと、やはり、と言うべきか、残念ながら、と言うべきか、行く手に見覚えのある姿があった。
 鈴仙は速度を上げて呼びかける。

「てゐ! こんな所で何やってるの!」
「ひゃっ!? 鈴仙っ!?」

 竹林をのんびりと歩いていたてゐは、驚いたように肩をすくめる。こちらの姿を確認して一瞬眉を顰めたかと思うと、慌てて空に飛び上がった。
 そのまま一目散に逃げようとしたので、鈴仙は少し迷い、結局ため息一つついて追撃の弾幕を展開した。水平方向に対し扇状に広がる5-Way弾と垂直方向への3-Way弾、加えて弧を描く弓軌弾をあわせて七つ。時間差を付与しながら次々に叩き込む。
 青い光弾が耳を掠ったか、うわぁ、とてゐは情けない悲鳴を上げた。

「ちょ、鈴仙、本気なのっ!?」
「本気よ。私がどれだけ幻想郷を飛び回ったと思ってるの。出かけたなら大人しく遠くに行ってなさい!」
「お、横暴だよそれはっ!」

 鈴仙が次々に放つ弾幕に涙声の抗議を上げ、しかしひょいひょいとそれらの隙間を潜りながら、てゐも迎撃の弾幕を展開し始めた。
 左右から斜めの軌道を描いて複数迫る弓軌弾、計十三。それぞれの交差点は微妙にずらされており、小さな回避運動では全てを避けきることは難しいだろう。仕方なく鈴仙は速度を落とし、右の腕と足を大きく伸ばしてそこに空気の抵抗を受けた。身体の左右に掛る抵抗の均衡が崩れたことを利用し、鈴仙はそちら側へと身体を滑らせる。迫っていた弓軌弾がスカートの端を僅かに焦がし、追撃でばら撒かれた乱軌弾の一つが腕を掠めるが、注意を裂くようなものではない。
 視界に、不意に幾つかの陰が映った。弾幕ごっこの雰囲気を感じたか、それとも鈴仙たちの気配に反応したか、小さな妖精たちや幽霊たちが次から次へと姿を見せ始める。狙っているかどうかすら分からぬ弾を適当にばら撒く妖精たち。その標的には、鈴仙は勿論のことてゐにもしっかりと含まれている。彼らはただ騒ぎたいだけなのかもしれないが、容赦の必要はなさそうだ。
 鈴仙は反撃の弾幕を展開しながら手近な竹に足を突き、自分の進行方向に横向きのベクトルを追加する。直撃を狙って放たれた弾を髪の毛数本分の猶予で流し、近くに迫っていた妖精たちをしっかりと撃墜しながらてゐへの追撃として4-Way弾を放ちながら数発の水晶弾を追加する。
 だが、気付けば目の前にてゐが放った兎弾があった。一抱えほどはありそうな大きさの反射弾。前もって適当に置かれていたらしいそれはまともに喰らえば痛いどころの話ではないだろうが、しかし、気付くのが遅かった。今更回避運動に移っても遅い。それどころか、下手に回避すれば腕か足が兎弾に激突し、飛行のバランスを崩してあさっての方向へと飛ばされてしまうだろう。
 そうなれば、まず間違いないくてゐを見失ってしまう。残念なことに鈴仙にそんな気は無く、よって彼女が取る手段は一つしかなかった。
 鈴仙はぎゅ、と目をつぶる。歯を食いしばって痛みに備え――がつん、と景気のいい音がした。

「嘘!? 鈴仙、大丈夫なの!?」
「だ――大丈夫じゃないわよ! 痛い、物凄く痛いんだからっ!」

 赤くなった鼻の頭を擦り、ついでに目の端に涙を浮かべながら鈴仙は叫ぶ。頭の中でぐわんぐわんと音が鳴り響いていた。またたんこぶが出来てたらどうしよう、と思いながら近くに寄ってきていた幽霊を叩き落し、スカートのポケットに手を突っ込む。
 その動作が見えたのか、てゐは自分の廻りにじゃれ付いてくる妖精たちを撃ちながら慌てて声を上げた。

「お、落ち着いて鈴仙、スペルカードは洒落にならないから!」
「そう思うならいますぐ永遠亭に戻りなさい! いまなら許してあげるわ!」

 ポケットの中の符を握りながら鈴仙は叫ぶ。勿論、その間に牽制の弾幕を放つことも忘れない。
 軽やかに、と言うよりかはちょこまかと弾を避けていたてゐは、しかし悲鳴にも似た声を上げる。

「嘘、嘘だよ鈴仙だってそんなに怒ってるじゃない! 許してくれるなんて嘘でしょ!?」
「本当よ! 許すから止まりなさい!」
「と、止まったらどうせ怒るくせにぃっ!」

 ああ、もういいや、と鈴仙は思った。てゐの言うとおり、さすがにスペルカードはやりすぎかとも思ったが、どうにもてゐが止まる気配を見せないので仕方ない。
 言っても聞かないのなら、実力行使。そういう分かりやすい論理は、存外、彼女の趣味に適っている。
 鈴仙はポケットの中で握り締めていたスペルカードを取り出した。すれ違いざまに妖精に踵落しを叩き込み、頬を掠めた3-Way弾に冷や汗を流しながら、スペルの宣言を開始する。

「栄枯盛衰――」
「うわ鈴仙が本気だ! 酷い、鬼っ!」

 てゐがなにやらわめくが――もういい。
 容赦なんて、するものか。

「散符 栄華之――」
「や、やっぱり嘘吐きだよ鈴仙は! そんな風にして――」

 それは、きっと、気のせいだけど。
 肩越しにこちらを伺っていたてゐの顔が、にこり、と笑みを刻んだ気がした。
 その口が、言葉の続きを紡ぐ。

「――遠い仲間を裏切ったの?」
「――――ッ!?」

 突然の言葉に、鈴仙は思わず息を飲む。瞬間的に無意識下で思考が停止。しかし身体に下されていた動作は止まらない。
 力を込められ、後は展開されるのを待つだけだったスペルカードは、正規の使用者の呼応を受け強い光を放ち、そこで止まった。弾幕に指向性を与える最後の命令が下されず、カードに仕組まれたロジックはその存在意義を以って命令を不正と判断。掲げられたカードはその端から分解されるかのように宙に解ける。溜められていた力は確かに発動した。導火線に着いた火は止まらない。たとえその先に結ばれた爆弾が、使用者の手に握られたままだとしても。
 発動した力は、しかし弾幕という器を与えられる前に霧散した。霧散し、渦巻き、出口を求めて暴れまわる。それは豪雨の後の鉄砲水に似ていた。ただ違うのは、その向かう先。流れるべき方向、上流から下流へと向かうことしか出来ない鉄砲水と違い、出口を求める力の濁流はやがて唯一の出口を探り当てる。そしてすべての力は開かれた唯一の回路に――引き金となるべき力を注いだ、鈴仙へと流れ込む。
 手を放していたのは、たぶん身体に染み付いた危機回避本能。幻想郷に訪れて間もなかった頃に、自分のスペルカードを持とうとして何度となくしでかした失敗に本能が適応したが故の反応だ。
 爆発が起こった。炎は無く、熱もなく、音もない――ただ力だけが放射状に広がる。近くに居た妖精が、幽霊が、反応することも出来ずに巻き込まれ地面へと堕ち、或いは消滅する。
 鈴仙が意識を取り戻したのは、飛行の力を失い地面へと落下を始めた直後だった。身体に掛かる重力の力。全身が気だるい。指先という至近距離で破裂した力の影響か、意識も何処か曖昧だ。脳震盪の直後に似ている。いや、まさにそれだろう。

「ダメだよ、スペルカード展開中に気を取られちゃ!」

 してやったり、と言わんばかりの響きで声が聞こえた。声の聞こえた方向に顔を向ければ、そこにはこちらを振り返りながら遠ざかる白い兎の背姿がある。他にも二十を超えようかという数の小さな生き物、生き物ですらない何かたち。
 視界を埋め尽くすのは茂りに茂った竹と笹の葉の世界。否、翠の世界に白い幾つもの花が咲いている。竹の花。六十年に一度の花。

 あの時と、同じ花。

 何故だろう。頭が痛い。意識が曖昧だ。ぐわんぐわんと脳髄の中で何かが鳴り響く。
 ぐわんぐわん。ぐわんぐわん。ぐわんぐわん。

「私がスペルカードの手本を見せてあげるよ鈴仙!」

 声が聞こえた。兎の妖怪が放った声だ。兎はその手に一枚のカードを握り、それをこちらに向けて翳している。
 鈴仙? ああ、そうだレイセン。それが私の名前。レイセン。レイセン。誉れ高き月の戦士。
 ぐわんぐわん。ぐわんぐわん。ぐわんくわん。くわんくわぁん――

 ――かぁん、かぁん。

 これらは何だ? レイセンは疑問に思う。竹林の陰から次から次へと姿を現し、じゃれ付くように弾を放ってくる無数の妖精。まるで何かに誘われるかのように纏わり着いてくる思念の残滓。まあいい、と疑問を捨てる。どうせ事実は唯一つ。
 レイセンは体勢を立て直した。地面すれすれまで落ちて来ていた自分の身体を無理矢理上空へと打ち戻す。急速な加重に網膜が痛み鼓膜が悲鳴を上げるが、そんな事態は瑣末事。腕があり、足があり、耳があり、武器があり、敵が居る。ならば戦闘続行に障害など在る道理が無い。

「狡兎三窟――兎符! 因幡の素兎!!」

 得意げに叫ばれた言葉と共に、兎妖怪が手にしたカードが分解されるように宙へと解ける。その代わりに生み出されたのは幾つもの赤い鞠のような弾と、それを覆うかのように展開された扇状の弾幕だ。それらは、おそらくは兎の妖怪の意図通り、こちらの進行を妨げるように射出される。
 その流れに乗るようにして、気のせいか、妖精たちの数がまた増えたような気がした。思念の残滓もまた然り。引き合う性質でも在るのか、それらは互いが互いを求めるかのように群れとなり弾幕に混じりながらこちらへと向かってくる。

 かぁん、かぁん。

 ああ、とレイセンは息を吐く。これだ。この感覚だ。これぞ私の存在意義だ。理由は知らぬ、由縁も知らぬ。何故こんな所に居るのかも、何故あの兎の妖怪が私に牙を向くのかも知れぬ。だがそんなことに興味は無い。敵だ。敵だ。敵だ。敵が居る。こんなにも敵が居る。ならば他に何が要る。ならば他に何が在る! ああなんと甘美かこの気配。此処を除いて私の居場所が何処に在る!
 レイセンはその口端に小さな、しかし鋭い笑みを浮かべて腰に手を回した。そこに在るのは慣れた重み。自分自身の代理存在とでも言うべき得物。己の価値の代弁者。目前を、視界を迫る妖精たちで埋め尽くしながら、その口からは笑みが消えない。柄に掛けた手に僅か力を込めて流せば、紗乱、と音を立ててそれは引き抜かれた。

 ひょう、と大気が悲鳴を上げる。

「――え?」

 呆然とした呟きは、前を行く兎が発したもの。
 呑気な話だ、とレイセンは思う。
 ひょう、と空気が今一度震える。手には連続して小さな感触が伝わった。
 群がる妖精、それらのうちの四つの首を一息で切り落とし――先のと加え、これで中に舞った首の数は計七つ。

「――鈴仙。何、それ」

 レイセンは答えない。戦場で敵の問いかけに答えるほど、彼女は酔狂ではない。
 ひょん、ひょん、と空気が立て続けに波長の短い音を立てる。そのたびに小さな妖精の小さな首が空に舞う。その数は合わせて十一、十三、十七、二十三。レイセンがそれを振るうたび、妖精の頭が胴体と永久の別れを強要される。力を失った首無しの胴体はその切り口から紅い血を玩具のように吹き上げて、ぼとりぼとりと地面に堕つ。
 更に何度と無くそれが振るわれ、舞った首の数が九十七を数えたあと、ようやくレイセンは止めていた呼吸を再開した。

 ――何だ。弱いにも、程がある。

 くくく、と笑いが洩れるのをレイセンは抑えない。気付けば周囲に居た妖精も、思念の欠片も悉くがその姿を消していた。ようやく自らが襲おうとしている者の正体を知ったか、それとも――気付かぬうちに全てを切り捨てていたか。
 ああ、そちらかもしれないな、とレイセンは思う。ひょ、と手の内のそれを振るえば、久方ぶりに首を刈る感触無しにただ空気だけを切り裂く。刀身に付着していたあまたの血を慣性でふるい落とし、衰えぬ切れ味にまた僅か笑みが浮かんだ。
 顔に張り付く前髪を掻き揚げれば、べとり、と生暖かい何かが手の平一面にこびりつく。粘性を帯びた紅の体液。髪に、顔に、服に身体に余すと来なくこびりついた、妖精たちの返り血だ。懐かしい、とレイセンは心躍らせる。熱を帯び、しかし次第に冷え行くそれら。鼻腔を震わす鉄のにおい。これぞ我が報酬、これぞ我が誉れ。敵兵の怨嗟の証こそ、この身の存在証明に他ならない。

「鈴仙――」

 掠れた声で、白兎が彼女の名を呼んだ。
 レイセンはそちらに顔を向ける。

「何なの、それ」

 いま一度問い、兎が視線で示したものは、レイセンがその手に握った一振りの片手剣。
 レイセンは答えず、だが自らのそれに視線を落とし、僅か一瞬、感慨に耽った。回顧した。刀身の長さが三尺ばかりあるそれは、僅かに反りを帯びた片刃の剣。材質は金属ではなく、どちらかと言えば象牙のような質感を持っている。平たく、厚みがあり、その重さでもって敵の首を刈り落とすことに特化した殺戮剣。首狩り兎の部隊に配布されるそれは、敵兵にとって恐怖の象徴であり、また、自軍の同胞にとっても、首を刈ることで死を撒き散らすそれは嫌悪と妬みの象徴でしかなかった。戦士として行き着いたが故に配属され、よって妬まれた先鋭部隊、首狩り兎。その一員である証のそれは、その銘を、首狩り舞踏という。
 片手で扱うにはやや重く、しかし、だからこそその身にその名を体現する力を秘めた命を刈るための道具。

 ――あの者たちは、元気でやっているだろうか。

 ふと、そんないつかの光景が意識をよぎった。月の荒野での戦い。孤立した戦線。取り残された私たち。転がる同胞の身体。息の荒い同僚の背中。手に掛かる剣の重み。周辺一帯を多い尽くす敵の亡骸と、ごろごろと転がる頭部。足を踏み出せば何かを蹴飛ばしそうなほど乱雑に、隙間なく転がる熱を失った生き物たち。それをも埋め尽くさんと迫る敵、敵、敵。終わらない戦い。弾薬はとうに尽きた。守るべき部隊も失った。支援など端から無かった。残ったのは、最高の死の誘い手として直衛を任された自分たちと首を撥ねることしか能がない無骨な刃。敵は尽きない。奮戦した。尽力した。しかし元からの戦力比は覆らなかった。後方から補充されるはずだった工兵たちは何も出来ずに死んでいった。護るべき者たちだった。身体には多くの傷を負っていた。無事な個所など何処にも無かった。

 だが、それでもまだ、戦えた。

 身体は動く。目は見える。耳は聞こえる。ならば戦えぬ道理など無い。残った敵の数がどれほどかは知れぬ。知らぬ。興味など無い。敵は敵だ。その数が百であろうと二百であろうと千であろうと関係ない。敵を狩れ。首を刈れ。他にどんな道がある。この身は死を誘いし闇の舞踏。狂気と終焉の彼方からその足音を響かせる首駆り兎。首を刈れ。首を刈れ。首を刈れ。他にどんな価値がある。敵を殺せ。その首を刈れ。血の池を作り上げろ。身体中を赤に染め、湖に踊る水精の如く赤の池に舞い踊れ。
 懐かしい――と、レイセンは思う。胸の高鳴りを。意識に浮かび上がったその記憶を。鼻腔を擽る鉄のにおいを。身体を覆う赤の被膜を。これぞあの時の続き。あの戦場の延長だ。結局、刈り取った首は幾つだったのだろう。千か二千かそれとも万か。覚えているのは、最後まで立ち続け生き残ったが自分だけと言うその事実――

 ……まあ、どうでもいいことではある。所詮は過去の出来事だ。
 レイセンは自らの回想に見切りをつけて、改めて白兎の妖怪へと視線を向ける。紅さが拭えぬ視界の中、見つめられた――否、見られただけで、白兎は哀れなほどに身体を震わせた。情けない、とレイセンは思う。戦場に立つ戦士がそんなことでどうするのか。別に殺気を放ったわけでも威圧をした訳でもない。あの妖怪は、ただ見られただけで、ただ視界に入れられただけで、己の身の危険を感じ取ったのだ。尤も、そうであるならば、その点だけは認めるべきなのかもしれない。
 なぜなら、おそらく彼女が抱いたその予感は、その危機は、圧倒的に正しいのだから。

「れい、せん?」

 血の気が引いた顔を無理矢理に笑みに歪め、妖怪はレイセンの名を口にする。不思議だ。何故あの妖怪が私の名前を知っている? 疑問に思うが、しかしレイセンは己の動作を止めない。ゆったりとした動作で剣を構える。身体から無駄な力が抜け、表情が自然と微笑みを形取り、呼吸を止め、そして。

 レイセンは目前の敵に向かい、一直線に飛翔した。

「――ッ!?」

 びくり、と身体を震わせた妖怪は、しかし思いのほか速い動作で反撃に移る。我武者羅に振られた腕から放たれたのはそれぞれがばらばらの軌道を描いて飛ぶ乱軌弾。一発一発はたいしたことが無いだろうが、高速で迫るこちらには少々厄介な弾幕である。牽制にはもってこいだ。どうやらあの妖怪兎、それほど頭は悪くないらしい。
 レイセンは己の中で妖怪に対する評価を修正し、同時に、自分の身体の負傷に気付く。妖精たちの首を刈るのに夢中になって気付かなかったが、身体の節々に鈍い痛みがあった。思い返せば、妖精たちと共に迫っていた弾幕を少しも回避した覚えが無い。その事実にレイセンは自らを侮蔑。弾幕を回避しなかったことに、では無い。弾幕に気付かなかったことに対して、だ。戦闘行動中に負った傷に気付かないなど、呆けているにも程があろう。
 白兎との距離が一気に詰まる。それと並行し、目前には密の個所しかない弾幕が広がっていた。このまま進めば被弾は避けられない。故にレイセンは僅か思考する。自分の負傷度合い、弾幕の密度、予想される被害、回避運動の利点と欠点。一瞬にも満たぬ黙考のあと、レイセンが出した答えは、

 突撃、だった。

「――うそ」

 信じられぬ、と言外に孕む白兎の声を聞きながら、しかしレイセンは躊躇わずに弾幕の海へとその身を躍らせた。幾つもの弾が身体の至る所に命中する。右足、左腕、左こめかみ、額、右脇腹、右胸、左肩。七箇所の被弾を容認。鈍い衝撃と痛みが神経を伝わるが、レイセンは意識的にそれらの信号を遮断する。被弾個所は多いが致命傷には程遠い。ならば意識を裂く必要も、そも避ける必要とてありはしない。
 この身の存在理由はただ一つ。ただ敵の首を刈ることのみ。目的達成が叶うなら、生存すらも問題外。
 レイセンは更に距離を詰める。信じられぬ、と呆然としていた妖怪はその瞳に理性の色を再び灯し、すぐさま離脱に移る。その潔さに、再びレイセンは標的の評価を上方修正。勝てぬ相手に素直に背を向ける潔さは、戦士としてなんら間違いではない。
 ただ、苦言を呈するとするならば。
 その反応そのものが、あまりに遅すぎる。
 妖怪が離脱しきるより遥か早く、レイセンは妖怪の背後に辿り着いた。必死で逃げようとする背中を眺め、躊躇うことなく構えた舞踏を水平に振るう。望んだ軌跡はきっかりと妖怪の首を切り撥ねる筈。だがそれを予想していたか、妖怪はレイセンが舞踏を振るうのとほぼ同時にその軌道を変え、ほぼ水平に地面へと堕ちて行った。振るいきった刃が名残惜しげに後ろ髪のいくらかを切り飛ばし、切られた髪が僅か風に舞う。
 しかし、妖怪はそんなものに気を裂かない。おそらくは悟っているのだろう。余計なもの、逃げ切るために必要なもの以外に少しでも意識を向けたなら、その瞬間に自分の首が胴体と別れを告げているだろうその結末を。
 地面すれすれへと降下した妖怪は、地面に激突する寸前にその向きを変える。否、地面を蹴り飛ばして無理矢理にその方向を変えていた。竹林を奥へ奥へと逃げ込もうとするその背中を追い、すぐさま自らも落下を開始しながら、レイセンは素直にその妖怪のことを評価する。白い兎が化けたその姿。小柄であるが故かは知れぬがすばしっこく、逃げるための思考は一級品だ。こちらを迎え撃つ気配を見せぬが残念ではあるが、狩ることそのものにも多少は苦労しそうな相手である。
 だがそれも、あとどれだけもつものか――追撃に邪魔な竹を片端から切り捨て、それでいて速度を落とさぬままにレイセンは胸の内で小さく呟く。なるほど、確かに逃げる兎を仕留めるのは難しい。だがそれが兎であるのなら、逃亡者であるのなら、いつかは追いつくことが出来るだろう。それが違い。ただ逃げるものと、相手を殺す戦士の違い。牙を得た兎と、ただ逃げ足を求めただけの兎の違いだ。
 事実、レイセンは彼我の距離を少しずつ、しかし着実に縮めていた。それを気配で察しているのか、妖怪の背からは焦る気配が次第に色濃く感じられるようになっている。ざざざ、ざざざ、と次々に倒れる竹の音もその不安に拍車をかけているのだろう。鬱蒼と茂った葉を揺らし、ぽつりぽつりと咲いた白の花を撒き散らしながら次々に倒れ行く竹の数々。いったいどれだけの竹の木が地面に横たわったのだろうか。いちいち数えてなど居ないが、少なくとも二十は越えただろう。
 そうして、それだけの数を切り倒し――ようやく、レイセンは敵の背後に再び迫った。手を伸ばせばつかめそうなほどの近距離。相手の息遣いさえも聞こえてしまいそうな位置。レイセンは白兎の必死な、泣くような喘ぎを聞きながら剣を構えた。

「さようなら」

 柄にもなく弔いの言葉を口にして、しかし殊更何か気負うことも無く。
 レイセンは、いつもの通り剣を振るった。





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(罪の花[5/完結]で述べさせていただきます)
四条あや
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