Coolier - 新生・東方創想話

西行幽々夢 前の巻

2006/01/30 12:47:45
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 気づいた時に、我はそこに在った。
 ただ認識だけがそこにあった。我と我以外。世界はそれだけで構成されていた。
 我が我を自覚して以来、我はそこに在り続けた。
 ただ、在り続けた。
 幾多も風雨を浴びると、やがて我は我以外に疑問を持ち始めた。
 我以外のあれらは一体なんだ? 何故にそこに在る?
 動くもの、動かぬもの、息づくもの、物言わぬもの。
 我は我以外のものに、その理由を求めた。何故に、そなたらはそこに在る?
 だが、答えるものはない。そも、我の問いに答えるものとは一体、何であろうか?
 自問。明白である。我の問いに答えたる其は、我に最も近しきものである。
 では、我とは一体なんだ?
 我は我の理由を求め始めた。
 答えは出ない。
 我は自問し続けた。
 幾たびの日の出を眺めたか、ある日、我の元に我以外が在った。






壱.季春の桜 -西行寺幽々子-



 何処までも広いこの御庭に、私は立っている。
 ただ、立っているだけ。別に何をしようというわけでもない。だけど、私はこの御庭でこうしている時間が何より好きだった。
 勿論、縁側でお茶を嗜んでいてもいいのだけれど、お屋敷から人の気配が途切れると、決まって私はこうやって白粉のように白い砂利を踏みしめ、松やら楓やらが植わるこの御庭に立つ。
 まだ吹き下ろす風は冷たいけれど、少し我慢すればどうということはない。少しの我慢で、この御庭は私を世界の一要素として受け入れてくれる。
 遠くから鳴るししおどしの音。梢を揺らすそよ風の音。どこかで囀る鶯の声。微かに薫る梅の香り。
 ここには生が溢れている。
 芽吹く始まりの音。目覚める歓喜の声。ああ、こんなにも世界は命の胎動で満ちている。
 何と素晴らしいことだろう。何と喜ばしいことだろう。
 私は両手を広げ、胸一杯にこの空気を吸い込み、体全体に行き渡らせ――

「お嬢」

 ……もぅ。
 途端に私は頬を膨らませ、これ見よがしに不満げな顔を作ってから肩越しに振り返った。
 睨む先は庭を越えてお屋敷の方。
 予想通り、遠く離れた縁側にはいつの間にやら一人の若侍の姿が見える。

「お嬢、羽織もなしに、斯様な所で立っておられては風邪を召されますぞ」

 今一度呼ばれ、今度は体ごと振り返った。これだけ離れているにも関わらず、若侍の朗々とした低い声は良く通る。
 そのまま従うのも何となく悔しいので、私はふくれっ面のまま、その場で侍を睨んだ。すると、侍は苦笑しながら縁側から降りると草履を履いて、そのままこちらに向かって歩いてきた。
 髷を結わぬ、後ろに流した揺れる雪の如き白髪。湖水のように澄んだ切れのある瞳。長身にがっしりとした体躯は、いかにも侍といった感じだ。偉丈夫がそびえ立つ山のように、眼前に立つ。
 私の変わらぬ不満げな顔を見て再び苦笑すると、侍は片手に提げていた私の上着を広げてた。
 機先を制して、私は口を開く。

「妖忌は人が気持ちよく日光浴してるときに限って、いつも邪魔をするわ」

 だが、いつものように侍は動じない。ひょいと人を莫迦にしたように首を傾げるだけだ。

「お嬢の韜晦は放っておくと日が暮れるまで続きます故、どうかご容赦頂きたい」

 お嬢を思ってのことですよと、妖忌は言う。本当だろうか? 密かに私の邪魔をするのを楽しく思っているのでは無かろうか? それくらい、彼に水を差される回数は多い。そういう時は決まって、足音はおろか気配もなく近寄ってくるのだからまったく、始末が悪い。
 彼は姓を魂魄、名を妖忌という。
 初めてこの名を聞いた時、私は純粋に面白いと思った。
 こんぱくようき。こんぱくはよく分からなかったので、そのまま音で覚えていた。ようきは陽気のようきだとしばらく思いこんでいた。
 やがて漢字を習い始めると、すぐに妖忌の姓名を調べた。そして真っ先に聴いたのだ。どうして妖忌はそんな怖いお名前なの? と。
 当然、自分が付けたわけでもない名の由来を尋ねられた妖忌は慌てた。その返答についてはよく覚えていないが、この沈着冷静な男が柄にもなく慌てふためいた様子は今でもはっきりと覚えている。
 話が逸れてしまったが、何が言いたいのかというと、つまりそれくらい、彼とのつきあいは長いということだ。が、記憶の限りでは、幼少の頃より彼の容姿はまったく変わらない。
 童の頃から変わらぬ姿で、脇に控えてくれている侍。穏やかな春風のようにゆったりとした性格をしているが、腰に佩いたその太刀をひとたび振るえば、岩だろうが滝だろうが断てぬものはなし。実際、滝の流れを逆巻いて切り裂く剣というものを見せてもらったことがあるし。
 地を駆ければ疾風の如し。その脚は野に住む獣すら難なく追い越し、挙げ句の果てには人の噂より早く各所に至るのではないかとさえ思わせる。

 西行寺の傍らに常に侍る魂魄。

 常人を大きく上回る身体能力と、並はずれた長寿という特性を活かして、魂魄家の人間は長らく西行寺家に仕えてきた。西行寺家は人外といわざるを得ない超人的な特性を持つ魂魄家を守護し、社会的地位を与えてきた。両家はこうして、密月の関係を保ってきたのだ。
 退魔師たる西行寺の名は、この業界のみならず、方々で大変覚えがよい。それもそのはずで、退魔師という、ともすれば得体の知れない方士の身分でありながら広大な領地を管理する西行寺家は、与えられた権力も世の常識からすれば、相当に破格のものだった。
 魂魄は西行寺の矛であり盾である。
 これが、西行寺家と魂魄家の関係を一番、的確に表している言葉。
 けれど、育てられた乳母を早くに亡くし、忙しい両親や兄姉たちにもあまり構って貰えなかった私は、この妖忌を家族にも等しく思っている。
 そんな妖忌が広げてくれた上着に、私はそっと腕を通す。その頃には、もう私は普段の顔に戻っていた。
 妖忌は私の横に立つと、私と同じように空を見上げた。

「良い天気ですな」

 当家随一といわれるほど武芸達者な彼の口から出るには、いささか暢気な言葉だが、確かにその通りだった。ここ数日の寒気が嘘のようにひいて、まさに季春といった日柄だ。梅が咲き誇り、その枝に鶯がとまり、蛙も冬眠から醒めていることだろう。

「本当。良い天気」

 きっと、再来週あたりには家の庭の桜も綻び始めるだろう。楽しみ。
 そう、我が家の庭園は珍しく、梅や椿と同じくらいに桜の木がある。梅ほどには句にも詠まれず、初夏にはたくさんの虫が付く桜の木なのだが、我が西行寺はこの季節の生命を代弁するかのように、雄大に花開く桜というものを寵愛していた。麦秋を鮮やかに彩る桜色は、私も好きだった。毛虫はちょっと嫌いだけれど。
 そうだ、思い出したなら丁度良い。桜も見てこよう。私は早速、桜並木の方へ足を向ける。
 すると、妖忌も後をついてきた。あ、嫌な予感。

「お嬢、本日の手習いは済まされたのですか?」

 やっぱり。妖忌はいい従者だけど、いちいち杓子定規なのが宜しくない。勿論、その性格は私にとって良くないのであって、彼自身が武士の模範であるということは百も承知だ。だけど、事ある毎のお小言は勘弁して頂きたい。

「妖忌こそ、本日のお勤めはお終い?」
「お嬢、質問を質問で返すのは宜しくありませんぞ」
「ふふ、きちんと済ませましたー」

 これは本当。嘘で相手を悲しませるのは良くありません。西行寺家家訓、其の十六。
 でも、私の座右の銘其の十六は、嘘も方便。本音だけでも建て前だけでも生きていけない世の中だもの。少しくらいは閻魔様も大目に見てくださるわ。
 そうやってころころと笑いながら妖忌をからかっていたら、あっという間に桜並木に着いた。
 桜並木は今が盛りの梅並木と違って、少々閑散としていた。やっぱり、まだ一輪も開花していない。
 あ、でも蕾は膨らんできているかな。

「今年もまた、良い桜に恵まれそうですな」

 横に立つ妖忌も、ざっと桜並木を見渡して同じ感想を抱く。
 私は無性に嬉しくなって、小走りで桜並木に入った。春、春、息吹の春、目覚めの春。
 私の気配を感じて、慌てて枝を離れるひよどり。生憎と砂利が敷き詰めてあるこの御庭には下草の緑が乏しいけれど、野の菫も蓮華も蒲公英も、それは綺麗なことだろう。御庭にある椿も馬酔木も、こんなに綺麗なのだから。
 だから、桜にも早く咲いてもらいたい。早く咲いてもらいたいから、どの木にも祝福の言葉をかけて回る。どうかみんな健やかで在りますように。
 どれくらい走っただろうか。息が上がり始めたくらいに、夢中で走っていた私の頭上から、不意に桜の枝が途切れた。
 弾む息をなだめながら、立ち止まって正面を見やる。
 そこにあるのは、大人五人が手を繋いでも余るほどの幹を誇った、桜の巨木。だが、他の桜と違って蕾は一切無い。樹皮の艶も薄く、まるで死んでいるような、巨大な桜の木。
 桜の巨木はそこに誰も立ち入らないよう、垂がついた荒縄で周囲を囲ってある。だが、見るものが見れば、この木を囲うのが荒縄だけでないことに気づくだろう。
 この巨大な木を覆う、堅牢な結界。魔性の桜を封じる、透明の檻。

 西行妖。

 初代西行寺が命をなげうって封じたこの妖怪桜を、私たちはそう呼ぶ。
 西行寺の歴史は、この妖怪桜を封じた瞬間から始まった。爾来、西行寺家はこの地に根を下ろし、領土を賜って西行妖の監視を続けている。
 もともとが初代の人身御供によって始まった西行寺家には、初代の記録が余り無い。これは西行妖についても同様で、当時の二代目がまだ幼く、凄惨を極めたとされる西行妖との死闘に参戦していなかった事も、影響している。
 伝えによれば、本性を発揮した西行妖によって、二百由旬四方の知的生命体が全て死に絶えたといわれているが、真相は闇の中。その言葉に嘘偽りなし、かどうかは判らないのだけれど、実際に西行妖と戦って生き延びたという人が、一人もいなかったのだそうだ。
 だから西行妖がどのような妖怪で、どうやって襲いかかってくるかは判らない。封印を解けば判るのかもしれないけれど、代金が自分の命だけに止まらないというのはいただけないし、何より私は末席とはいえこれでも西行寺だ。お家に背くことは出来ない。
 かくして、この妖怪桜は私にとって、ただの枯れ木に過ぎないものとなっている。勿論、先程もいった通り私も西行寺の姓を持つものだから、この桜を監視し続ける義務を負っている。のだけれど、不思議とお父上は私をこの木に近づけたがらない。
 このとびきり壮大な大木に満開の桜が咲いたのならば、それは綺麗なものだと思うのだけれど……。不謹慎だがほんの少し残念だ。
 天を衝くようにそびえ立つこの大木に、覆うような一面の桜。私はその姿を黙想し――

「お嬢、陽も落ちて参りましたし、そろそろお屋敷に入りましょう」

 ……もぅ。
 私はまたこれ見よがしにがっくりと、肩を下ろす。
 お父上と同じく妖忌も余り、私をここに近づけたがらない。お父上から何かいわれているんだろうか?
 だが、妖忌を困らせるのも私の本意ではない。私は「良い子」だから。

「そうね」

 私は見入っていた桜から視線を引きはがすと、振り返ってそのまま来た道を戻りだした。妖忌もそれに続く。


――来よ――


 不意に、何か聞こえたような気がした。

「妖忌、今何か言った?」

 立ち止まり、後ろの妖忌に声をかける。

「はい? 何で御座いましょう?」

 だが、目を丸くした妖忌の答えはあっけらかんとしたものだった。
 そう、先程のものは妖忌の声ではない。いや、そもそもあれは声だったのだろうか? どこか深い洞の奥から響くような、そんな何か。
 そして、微かに懐いた本能的な恐怖と、相反するようなくすぐったい懐古。

「何でもないわ、気のせいだったみたい」

 私は頭を振ると、妖忌に微笑みかけた。きっと気のせいだ。私はこの妖怪桜の前に来るとどうしてか、気分がすぐれなくなる。

「それより、早く行きましょう。風が冷えてきたわ」

 両の腕をさすりながら、私は来た道を帰る。陽は陰り、世界が黄昏に包まれていた。
 桜並木の斜影を受け、寒風を背に、私は一度も振り返らず、そのまま屋敷へと向かった。








 我は其の我以外に問いかけた。我は何たるか?
 だが、その我以外は答えない。
 だが、その我以外は我をこういった。
 このような美しい桜の元で息を引き取ることが出来て、幸せだと。
 我はどうやら桜と謂うらしい。
 我に探究の念が芽生える。
 もっとこの我以外から、我のことを聴きたい。
 もっとこの我以外から、我以外のことを聴きたい。
 我は懸命に、我以外に語りかけた。だが、我以外は答えない。
 我以外は、答えない。






弐.月夜の舞踏会 -西行寺幽々子-



 雲一つ無い月夜の晩、その明るさに惹かれて私は庭に出た。
 庭の砂利は月の白光を反射し、まるで一つ一つが宝石のように輝いている。
 お屋敷の気配をじっくりと確認してから、私はそっと突っかけを足に引っかけて、銀白の御庭へと躍り出た。
 輝く砂利を踏みしめながら、夜の並木を縫うように歩く。
 しゃりしゃり。しゃりしゃり。
 長く伸びる木々の影を踏み、そこに自らの影を重ね、舞うように回るように、私は御庭を歩く。
 季節を謳歌する広い庭。普段は彩り豊で目に優しいが、今ばかりは乳白色の月光と、それに陰る漆黒の二色のみ。
 白と黒とで塗り分けられた月夜の舞踏会。演目は西行寺、早春の舞い。
 手を広げ、軽やかに地を踏み、袖を翻しながら私の身体は陰影の濃い白州の上に翻る。

 くるくる。くるくる。

 お客様は御庭の木々に春の虫。そして蒼天に輝くお月様。

 くるくる、とん。

 広い庭の真ん中でぴしっと残心し、私は一礼して舞台を終える。拍手喝采。お招きしたお客様も大満足。

 ぱちぱちぱちぱち。

「素敵な舞いね」

 拍手と声。
 ……拍手と、声。
 弾かれたように振り返りながら、反射的に私は袖と懐に手を入れ、回る勢いに合わせて引き抜いた。
 右手に鉄扇、左手に符を四枚、それぞれ構えながら睨むように周囲を見回し、いや、見回す必要はなかった。私に声をかけたであろう人物は月の光を背にして、一抱えある庭石の上に、優雅に座っていた。
 そして、私と目が合うと、にっこりと笑ってこういった。

「初めまして」

 縁にヒダが多く入った不思議な形の帽子に、少々特殊な、袖口が大きく開いた筒状の衣服。道服といったか。確か、道士が身につける衣装だ。私が見たことのある道服とは少々、形が異なり、前掛けのような布に描かれた陰陽の印が目を引く。
 だが、それ以上に彼女の容姿が私を釘付けにした。そう、庭石に座っていたのは女性だった。月光を余すことなく浴びて、燦然と輝く長い金色の髪。髪の色と同じ、吸い込まれるような琥珀色の瞳。清涼な笑みを浮かべたその顔は、何処までも美しかった。
 私は、月夜に照らされる彼女の姿に釘付けになった。
 そんな私の様子に、彼女は小首を傾げる。

「初めまして」

 どうやら、先程の言が聞こえなかったものと勘違いされたらしい。もう一度、彼女が先程と同じ言葉を口にする。
 それで、ようやく私は金縛りから解放される。
 誰だと喉まで出かかった誰何の言葉を、不意に襲った驚愕で飲み干した。私の視界がまるで上塗りされる絵画のように変わっていったのだ。
 声を発する間もなく、舞台は西行寺邸の御庭から突如として、見晴らしの良い、小高い丘の上へと移された。
 ここは、……町はずれの丘?
 何、彼女は一体何をしたというの!?
 狼狽を隠し切れず、私は眼前に変わらず佇む女性を睨め付けた。自然と心拍が早くなる。

「あまり怖い顔をしないで。しがない結界術師でしかない私が名だたる西行寺からそんな目で睨まれては、恐ろしくて肝を潰してしまうわ」

 そんな私の心を読んだのか、鈴の音のような声が春風のなびく丘に響く。
 随分と芝居がかった台詞だ。しかも、夜間、他家の庭にこっそりと忍び込んでおいて、怖い顔をするなも何も無いだろう。警戒されて然るべきだ。
 だが、私にそんな軽口を叩く余裕はなかった。
 彼女から妖気の類は一切、感じられない。しかし、

「面白いことを仰いますのね。その西行寺のお屋敷に誰にも気づかれることなく侵入し、瞬く間に庭から町はずれの丘まで移動できる程の人が、しがない?」

 西行寺は近隣で随一の退魔師一族だ。その名に恥じぬだけの実力を備えている。末席の私とて、市井の方術師よりは達者であるとの自信と自負がある。
 だが先程の移動にしても、術の様相はおろかその手段さえ見抜くことが出来ない。
 じわりと、背筋に冷たい汗が浮かぶ。

「ええ、そう。しがない一介の結界術師」

 彼女は一向に、警戒心を露わにした私を気にするような素振りは、まったく見せない。にこにこと、変わらぬ笑顔で私を見つめている。
 早まる鼓動を抑えられない私と、相変わらず涼しげな彼女。この差がそのまま実力の差を反映しているようで、押し寄せる畏怖の念に酷く喉が渇いた。
 何一つ、まともな抵抗をできないままに地の利をとられたのだ。仕掛けるのであれば、一合で決着を付けなければならない。
 意を決し、私は鉄扇を開くと同時に、符に霊力を込めて投擲。月夜を裂く四条の光となった符が吸い込まれるように、彼女の元に殺到する。
 地を蹴り、即座に立ち位置を変える。想定できる反撃に備え、防御用の符を懐から抜き出し、構えた。
 放った符は、のど笛をねらう猛禽のように、彼女の元に殺到する。
 符が彼女を喰らい尽くすまで、あと一間と迫ったその時、彼女の手前の空間が陽炎のように揺らいだ。
 直後、信じられないような出来事が起きた。私が霊力を込めて放った符が、突如としてその光を失い、まるで枝から離れた木の葉のように地面へと落ちたのだ。
 余りの出来事に、思わず足が止まりそうになる。だが、火蓋を切ってしまった今、動じることは許されない。間髪を入れず、右手の鉄扇を振り、風を起こす。強力の妖怪をも千々に散らす、かまいたちの如き風の刃。
 しかし、これも届かない。草を凪ぎ、彼女を喰らい尽くさんと猛進する烈風も、まるで彼女の膝元に傅くように、その猛威を直前で止める。
 動揺を噛み殺し、足を止めずに二閃、三閃と鉄扇を翻す。が、結果は変わらずまったく暖簾に腕押し糠に釘だ。符は彼女に届くことなく力を失い、風はまるで彼女に隷属したかのように、その刃を納める。
 どれくらいそうしていたか、遂に符が切れた。肩が激しく上下し、鉄扇を降り続けた右手が鉛のように重くなり、垂れ下がる。
 私はとうとう足を止めた。苦い感情が、胸の奥からじくじくと、滲む血のように広がり始める。
 対する彼女は、私の前に降り立った時からまったく変わらない表情で、相変わらずまったく同じ位置に立っている。
 彼女は私の攻撃に対して一切、対応する素振りを見せなかった。彼女は眉一つ動かさず、悠然と私の猛攻に晒されていた。だが、その屈服の意志が彼女に届くことは、遂に一度たりとも無かった。
 轟々と、まるで獣のような呼吸が私の口から繰り返される。鼻梁を伝う汗。震える膝と右腕。肌に張り付く着物が、とても不快だった。

「……まったくもって信じがたいですわね。これでもまだ、御自身が一介の結界師だとのたまうおつもり……?」

 胸中の感情に押し潰されないよう、私は努めて毅然として声をかける。

「ええ、きっと私とあなたは紙一重よ」

 どこが。叫びそうになって、辛うじて堪えた。今となってはその涼しげな笑顔も、人を食ったものにしか感じられない。
 敗北。それも圧倒的な惨敗。
 認めるしかない。認めた所でどうにかなるものでもないのだけれど。今や私の命は、彼女の胸積もり一つだ。
 それでも私は、肩で息をしながら彼女に皮肉を込めて語りかけた。完全に力を使い果たした私に残された武器は、もうこの下手な口しか残っていない。

「それで、その圧倒的な紙一重を私に見せつけて、一体どうしようというのかしら。しがない結界術師様は?」

 目一杯の怨嗟を込めた言葉に、ようやく彼女が表情を変えた。ぱっと花が咲いたように笑顔を浮かべ、よくぞ訊いてくれましたとばかりにぽんっと両の手を打つ。

「そう、私はあなたとお友達になりに来たの」








 やがてまた幾ばくかの時が過ぎた。
 我の下には、我以外が頻出するようになった。
 その我以外は一様に、我の下に腰を下ろし、眠るように目を閉じる。
 だが、我が声をかけると、どれ一つとして例外なく、動きを止めた。
 そのまま動かなくなった我以外を、訪れた我以外が声をかける。
 その我以外に我は声をかける。
 また、我以外は動かなくなる。
 何故だ? 何故、我が声をかける我以外は、皆、一様に動かなくなるのだ?
 疑問を持ち声をかけるも、また我以外は動かなくなる。






参.拍動の戦 -魂魄妖忌-



 我らが西行寺の領内、峠一つ越えた集落から、祓いの嘆願があった。
 内容はなかなかに血気盛んで、数日前より夜な夜な、大人二人分ほどもある身丈の人外が、里内を徘徊するのだという。
 今のところ被害は家畜のみに止まっているそうだが、これがまた目を覆いたくなる程のものだそうで、半ば嬲るように解体された牛や馬を見た村民が熱を出して倒れたとか。牛や馬を容易く屠るのであれば、人など赤子の手を捻るようなものだろう。
 間の悪いことに、屋敷には誰も手透きの人間がおらず、かといって誰かしかの閑を待つほど事態は穏やかではなく、結果として滅多に御用を言いつけられることのない俺とお嬢が出向くこととなった。
 無論、一戦交えるのは俺の仕事であって、お嬢はあくまで索敵や呪術関知といった補佐的な役割だ。お嬢は並の呪術者よりはよほど腕が立つが、それでも西行寺として見れば末席に当たる。その上に、何処かしら、心にお優しい所がある御方である。調伏に対して向き不向きを問うのであれば、俺は間違いなく否と答えるだろう。
 俺は後ろを走るお嬢の姿を、ちらりと横目で確認する。
 着慣れぬ旅装束に身を固めたお嬢。瞳と同じ鳶色の髪は、今は市女笠の下だ。
 屋敷を出立して一刻。目に見える疲労はないようだが、お嬢のことだ。足を挫こうが胸を患おうが、己の不調不満は全て胸の内に抱えてしまうに違いない。俺が仕えるこのお嬢様は、悲しいかな、幼少の頃から悔恨の飼い慣らしに慣れているのだ。
 今もこうして領民の身を案じ、峠越えを駆け足にて強行軍だ。気丈に顔を伏せ、軽く弾ませた息すら押し殺して足を進めている。

「お嬢、刻も九ツです。しばし休みましょう」

 陽が南に差し掛かった頃合いを見て、俺はお嬢に提言した。だが、顔を上げたお嬢の眼光は鋭い。

「駄目。何としても夜になる前に集落に入らないと」
「しかし、お嬢。これまで領民の被害はありませんし――」
「これまで無かったからといって、これからもないと誰が保証してくれるの?」

 ぴしゃりと、いつにもなく厳しい言葉が返ってくる。

「活動時間が夜間に限定されている点もそう。もし、その妖怪が実は夜行性ではなく、昼間に集落を襲ったらどうするの?」

 正鵠に次ぐ正鵠。容赦なく続けられる言葉。

「私たちは常に最悪を想定して行動するべき。そうでしょう?」

 それはその通りだ。
 だが、村落の領民にとって俺とお嬢が唯一の希望である以上、村落に入った我々が疲労困憊で返り討ちにあってしまっては、それこそ本末転倒だ。
 お嬢は気負いすぎている。やはり、ここは無理を言ってでも俺だけで来るべきだっただろうか。
 俺だけであれば、日暮れ前に峠を越えることなど造作もないのだが、だからこそ、この強行軍があるのだろう。お嬢は恐らく、その事を判っている。
 うまく口でお嬢の譲歩を引き出せればよいのだが、残念ながら俺はそれほど、口達者な方ではない。今もこの通りで、逆に怒らせてしまった。
 慣れないことはするものではないか。仕方なしに、俺は再び前を向き、嘆息混じりに足を進める。
 それにしても、先程のお嬢の口調。私たちは常に最悪を想定して行動するべき、か。
 お嬢の言う通りだ。しかし、何か胸の奥に、しこりのような違和感がとりついて離れない。
 これまでのお嬢であれば、ここまで強く当たることはない。軽くたしなめる程度で終わる。
 この心境の変化は一体なんだ? これはお嬢が西行寺らしくなったと、喜ぶべき所なのだろうか?
 射るような眼光、厳格な口調、そして的確な判断。西行寺らしいが、お嬢らしくない。
 だが、この雰囲気でそれを口にするのは、流石にはばかられた。仕方なしに余念を追い払い、歩行へと神経を集中させる。
 互いに無言で、ひたすら山道を進んだ甲斐あってか、俺たちは日暮れ前に村落へと入る事が出来た。
 寸暇も惜しんで、お嬢は村長に会っている。まったく、峠一つを走破して、息をつく暇すら擲つのだから、頭が下がる。
 その間、俺は村落を回って被害状況を確かめることになった。
 村民に案内されて、なるほど、今回はお嬢の言が全面的に正しかったことを知る。完膚無きまでに殴り倒された牛舎を見ても、囓りとられたと表現しても過言ではない程に抉られた木の幹を見ても、これは熊どころの騒ぎではない。板壁にぽっかりと穴が空いた納屋の中には、一面に飛び散った血痕が痛々しく残っていた。

 大捕物になるかもしれない。暮れる日に比例して、神経がとぎすまされていく。

 一通りの被害状況を確認した所で、俺は会議を終えたお嬢と合流した。
 日の入りまであと半刻。障壁や防護壁といった、確実な効果をもたらす類の結界を張る時間はない。
 見たところ、村を徘徊する人外は余り知性的ではないようだ。人家には一切踏み入らず、家畜の襲い方も無差別。そして、被害もその巨大な足跡も、村落の北東部に集中している。正攻法で行くのであれば、村落全体に薄い侵入感知用の結界を張り、俺が村落北東部に控えるといった所か。
 いずれにせよ、揃った材料から導き出される手段は極簡素なものだ。時間もなく、人員もお嬢と俺の二人。出来ることは限られている。
 だが一つ、気になる点がある。それは家畜の総数と死体の数が合わない事だ。
 単純に考えれば、人外がその場で丸ごと咀嚼したといった推測が妥当だろう。だが、果たして骨も残さずに全てを胃に収めることが出来るのだろうか。逆に、持ち帰ったと考えるのであれば、もしかすると他に仲間がいるとも考えられる。
 出来れば、今日中にある程度の進展を見たい所である。勿論、こればかりは相手があることなので、半ば運任せなのだが。
 かくして人の領域である陽は落ち、人外の領分である闇が辺りを支配し始めた。
 星が瞬く頃、村民は皆、家に籠もり、人が消えた村を篝火の炎がゆらゆらと照らし出した。
 お嬢は村の中心に簡素な式壇をしつらえ、侵入感知の結界を引いている。そして俺は、村の北東部で大小を抱えて待機。東北部の村民は既に待避を終えている。
 お嬢が祝詞をあげる声、遠くで薪のはぜる音、梟の鳴き声、虫の協奏。辺りを夜の静寂が支配する。
 村には夕餉の声もなく、あるのは重苦しい沈黙だけだ。やはり、此度の事件は村民に多大な心労を強いているのだろう。この点だけ見ても、この事件が早期に決着するよう祈りたくなる。
 俺ですらこう思うのだ。今のお嬢の心境は如何ばかりだろう。
 お嬢の為にも領民の為にも、必ず結果を出さなければならない。俺はそのために、剣を握るのだ。魂魄の誇りに掛けて、この怪奇を終わらせる。

 そうしてどれくらい待ったか。星が瞬きを恣にし、月が中天に差し掛かった頃。
 ぱたりと、虫の声が止んだ。同時に、静謐な夜には似つかわしくない騒音が遠くから微かに鼓膜を振るわせる。
 来た。何処をどうしても、聞き間違えようがない。
 それにしても、足音を殺しもしないとは、呆れるほどに肝の太いの人外だ。お嬢の結界の頼るまでもなく、これだけ離れていても判る。
 そう、これだけ離れていても判る、この地響きのような足音。これは……。
 ……同時に二体だと?
 村民の話では、夜な夜な徘徊する人外は確か一体のはずだが。
 多少、訝しがりながら愛用の大小を佩くと、直後、お嬢より念話が届いた。

『妖忌、丑寅から強い妖力を持った個体が二体入ったわ』

 やはり複数。さてさて、こちらとしてはいきなり予定にけちが付いた形か。
 だが、昼間、村落を見回った時点で、これは十分に想定内である。
 足音はまっすぐこちらに近づいてくる。重畳だ。出会い頭で終わらせる。
 目の前にある四つ辻の左方向から、ゆったりとした歩調で近づいてくる人外。俺は気配を殺しつつ、腰を落とし足幅を開くと居合いに構える。
 ずしん。
 ……後、三歩。
 ずしん。
 ……後、二歩。
 ずしん。
 ……後、一歩。
 ずしん。
 相手の巨大な半身が目に入った所で、一気に間合いを詰める。
 そして、裂帛の意志を込めて、薙いだ。確かな手応え。刀を振り抜くと同時に、咆哮のような苦悶の雄叫びが頭上から上がる。
 即座に体を入れ替え、相手の側面に立ち位置を移す。直後、俺が先程まで立っていた位置に巨大な拳が落ちた。が、残念。既に王手だ。
 踏み込む勢いを利用して、かがみ込む体勢になった相手の首に、上段から縦一文字に刀を振り落とす。
 木ほどの太さもある首が、泣き別れた。一拍おいて、湿った音と共に派手な血しぶき。
 動きを止めず、即座に次の標的に向かう。そこで、初めて俺は相手を観察した。
 粗末な毛皮で作られたボロの腰布。肌は褐色で隆々とした筋肉。人二人分の背丈というのも決して誇張ではない。体毛は濃いが、頭髪はない。そして、異様なのは目玉。ぎょろりとした巨大な目玉が、丸い顔の中心に一つだけ蠢いている。これに比べれば、口から覗く発達した牙も、猛虎の如き豪爪も可愛いものだ。
 しかし、それほど奇っ怪な人外でもないなというのが、正直な感想か。見ようによっては、もしかすると少しくらい愛嬌があるのかもしれない。
 先程斬り捨てた人外の胴が傾き始める。だが、相方の人外はぴくりとも動かない。突如として相棒の首が撥ねられたことに戸惑っているのか、不意をつかれて竦んでいるのか。
 だが生憎と、立ち直る隙を与えるつもりはない。倒れ込む人外の脇を抜け、健在であるもう一体の鼠蹊部を逆袈裟に斬り上げ、人外の右足、勢い余って左足も半ばまで切断する。
 今度は悲鳴一つ無い。足を切り離され、ぐらりと人外の体躯が前に傾く。これで先程と同じだ。大上段から一閃。
 今宵、二つ目の一つ目頭が飛んだ。
 何とも他愛ない結末だ。
 その図体とこの最期の差にあっけないものを感じながら、俺は一息つくと懐紙で長刀についた血を拭う。
 さて、ひとまずこの場は終了だ。一旦お嬢と合流して今後に備えよう。
 そう思って身を翻した矢先、

『妖忌! 酉から三体、強い妖力を持った個体がこっちに向かって入って……、速い!』

 突如として、悲鳴のようなお嬢の念話が頭に飛び込んできた。
 俺は弾かれたように、村の中央に設置された祭壇へと走る。残念ながら、念話は術師の領域だ。俺からお嬢に話しかけることは出来ない。
 不覚だった。敵が複数いた時点で、お嬢の方にも危険があると考えて然るべきだった。
 それに、お嬢は「速い個体が三体」と言った。ということは、まったく別の個体か?
 どういう事だ。敵が複数だったという点だけならまだしも、別の個体まで存在しているとは。
 更に気に掛かることが、後三点ある。
 一つ、それだけの機動力を持つ人外がいながら、俺の方ではでくの坊を二体斬ったのみ。
 一つ、俺が戦闘に入る瞬間を見計らったかのように、別の人外が予想される進入経路とはまったく別の方角から侵入してきた。
 一つ、別の三体は一直線に、お嬢に向かっている。
 ここから導き出される結論。
 陽動と足止めか!
 敵はこちらの動きを完全に把握している可能性がある。それも、きちんと切り札を最後まで取っておくほどに周到だ。
 まさか、この村落で起きた一連の家畜襲撃も、このための布石だとでもいうのか。
 焦燥に駆られ、俺は全力で走る。だが、どれだけ急いでも村の中央までは幾ばくかの時間が必要だ。お嬢に撤退という選択肢は、間違いなくない。
 何たる不覚だ。我々は常に最悪を想定して動くべきだと、お嬢に言われたばかりではないか。

「お嬢!」

 声の限り叫ぶ。
 祭壇の方角を見上げると、上空が瞬くように時折、光る。お嬢が戦っている証拠だ。
 だが、魂魄は西行寺の矛であり盾である。この言葉が示す通り、西行寺は距離を詰めての戦闘を得意としない。
 四つ辻を抜け、民家を飛び越え、俺はお嬢の元に急ぐ。
 村の中央まで後わずかとなったその刹那、周囲がひときわ強い光に晒された。余りの光量に、民家の上を走る俺も一瞬、怯む。
 目を細めながら光源を探ると、そこはお嬢の祭壇。程なくして響く、甲高い断末魔の声。
 光は消えない。天に向かって立ち上る光の幕が立方体を成して、そこに鎮座している。
 お嬢の結界術か? だが、俺が知る限り、結界術とは緻密な前準備を必要とする高等な術だ。村に着いてからの時間を全て、侵入感知の結界に当てている以上、これは何の前準備も無しに張られた結界とみて間違いない。にも関わらず、一瞬でこれほどまでに顕在化する結界など、見たことも聞いたこともない。まさか敵の結界術などということは無かろうが。
 しかし、考えている暇はない。俺は懐から小柄を抜き両手に構えると、光の壁に向かって最後の跳躍に入った。
 上空。祭壇の上に俺は身を躍らせる。
 結界が祭壇を中心として輝いている。その傍らに、原形を留めぬ二体の人外が煙を上げて横たわっていた。結界の中心に立つお嬢は、残りの人外と対峙している。
 無事だ。俺は胸をなで下ろした。
 お嬢の安否を確認すると、すぐさま俺は敵の位置を捕らえ、両手の小柄を放った。
 だが、敵も俺を既に認識していたらしい。事も無げに、計八本の小柄をさらりとかわす。
 こいつは俺が斬った連中より、いや、むしろ俺より一回り小柄だ。農夫のような服装をしているが、頭は鴉のそれ。体が小柄なだけに、両の手に備えたかぎ爪が嫌に大きく見える。腰を落として地面を駆ける様はかなり速い。
 加えて、これまでの戦闘が一連の作戦行動だとするのならば、知性もかなりのものだろう。
 俺はお嬢と敵の直線上、結界の際に着地する。構えは再び居合。
 気迫溢れる顔で背後に立つお嬢は、見たところかすり傷程度ですんでいるようだ。間違いなく、傍らに落ちる二体の人外を屠ったのはこの結界で、施術主はお嬢自身だろう。
 大した威力だ。この結界さえ持続しているのであれば、お嬢の身は何ら問題ない。
 そうと分かれば、俺が成すことは一つだけだ。結界に攻めあぐねている人外に、俺はじりじりと間合いを詰める。
 俺が一歩分間合いを詰めれば、敵が一歩分下がる。じわりじわりと、緊迫した空気に腹部が引きつる。しかし、ここで逃げられるわけにはいかない。俺は神経を針のように細く鋭く保ち、慎重に慎重を重ね、足を踏み出す。
 瀬戸際でのせめぎ合い。極度の緊張が俺と敵の間に張りつめる。
 一足で詰められる間合いとなるまであと数寸となったその時、突如として背後からの光が途絶えた。
 結界が消えたのか。仕掛ける寸前で、何という間の悪さだ。
 ここぞとばかりに、機会をうかがっていた鴉頭がお嬢に向けて突進する。
 させじと、俺は居合で抜く。

 交錯。

 だが、前傾姿勢をさらに低く、まるで地をはうような体勢に変えた鴉頭の上を、むなしく長刀が行き過ぎた。
 まずい。俺は慌てて振り返り、その後を追う。すれ違いざまの攻撃もないということは、やはり狙いはお嬢か。
 が、振り返ったそこには巨大な霊気弾が七つ、七色に輝きながら複雑な軌道を描いて、鴉頭に突進する所だった。
 狙いは正確で、一抱えもある霊気弾が代わる代わる鴉頭を打ち据える。
 霊気弾を余すことなく浴びた鴉頭は、白煙を上げながら俺の足下に転がり、軽く痙攣した後、二度と動かなくなった。
 俺は唖然としてお嬢を見た。先程の結界もさることながら、今度の呪術も初見だ。しかも、あの速い動きを正確無比に射抜くなど、性能が尋常ではない。
 お嬢は破壊された祭壇の前で、肩で息をしながら一枚の小さな金属板を掲げていた。
 あれは、符か? しかし、西行寺が用いる符は全て特殊な紙で出来ている。そもそも、西行寺に限らず、俺は金属という材質で作られた符を見たことがなかった。
 だが、疑問は後回しだ。まず第一に優先されるべきは、お嬢の安否。

「お嬢、ご無事で!」

 お嬢は符を構えた体勢のまま微動だにせず、立ちつくしている。今一度、声をかける。

「お嬢!」

 すると、緊張の糸が切れたのか、お嬢はへなへなとその場に尻餅をついた。
 慌てて駆け寄ると、お嬢は震えていた。
 無理もない。滅多に行わない祓いで、しかもこれほどまでに肉薄した接近戦を演じたのだ。本来であればそれは俺の役目だというのに。
 わき上がる悔恨の念。お嬢がいなければ、自分で自分を殴っている所だ。

「……びっくりしたわ」
 震えるお嬢の唇から、ぽつりと言葉が洩れる。

 出来ることなら、今すぐお嬢を屋敷に帰したい。だが、ここはまだ戦場だ。夜が明けるまでは一切油断が出来ない。
 俺はお嬢の戦意を今一度呼び覚まそうとして、妙な気配を感じ取って、そこで立ち止まった。
 ぱっと、淡い燈籠のような光で周囲が一瞬、照らし出される。
 敵かと身構え警戒して、目を疑った。
 辺り一帯が、天を目指す蝶で溢れていた。
 淡い淡い、光の蝶。赤、青、紫の、螢のように淡い光で出来た蝶が、ゆらゆらと宙を舞う。
 術の類かとお嬢の体を引き寄せるが、幾度か瞬くその間に、蝶は天へと登ることなく闇夜の露と消えた。

 一体、何だ?

 俺は遂に、次から次へと湧いて出る疑問を脳漿の隅へと押しやれなくなってしまった。
 蝶は、人外の遺骸から飛び立った。そして、蝶を放つ代償として、遺骸は綺麗さっぱり消え去った。
 そしてその蝶が消え去った今、俺やお嬢の戦った証は何一つとして残されていない。戦場と称すには余りにも閑散とした空間のみが残されたのみだ。
 つむじを巻く寒風。風の音が嫌に大きく、耳に届く。

 兵法を用いる人外。
 お嬢を狙う人外。
 俺たちの行動を逐一、把握している人外。
 そして、蛍火の蝶として消えた人外。

 判っている。疑問は戦の後にとっておくものだ。さもなくば、待ち受けるのは死のみ。疑問は剣を鈍らせる。

 しかし。しかしだ。

 これらを一線上に並べてしまっても良いのか悪いのか。
 何ともこの説明不足なこれらに、俺は思わず悪態をつきそうになる。勿論、満足な返答が得られないのは承知の上で、あまつさえ我が主君を不安にさせてしまうであろうこれら四文字熟語は、呑み込んで然るべきだ。
 俺の左腕に収まるお嬢は、ただぽかんとその情景に見入っていた。一見して事態が把握できていないことは明白だ。
 だが、重ねて言うが術はお嬢の担当なのだ。俺は書いて字の如く、門外漢だ。

「お嬢、これらがいったい何であるか、お解りになりますか?」

 自分でしておいて、何とも漠然とした質問だとは思ったが、こうとしか訊けないのだから仕方がない。
 やはりというか、はっと我に返ったお嬢は首をふるふると左右に振った。
 進展に次ぐ進展。急転に次ぐ急転。相まって奈落。さしづめ調理法の判らない材料だけが、軒並み並べられるようなものか。
 ともすれば狂乱に陥りそうになりそうな状況。恐らく、お嬢は恐慌寸前だろう。
 ならばどうするか。
 判っている範囲で物事を考え、出来ることから取りかかる。こういう場合には、これしかない。
 言い換えれば、自分が把握できる限りの現実にしがみつくのである。理解の範疇に収まらない事象は、覚えておくだけでよい。考えるのは後々。寄らば文殊の知恵とも言うように、人一人の知識など、たかがしれているのだから。
 お嬢に分からないものは俺にも分からない。そうである以上、俺たちが今すべき事は、目に見える人外の駆除。それだけだ。
 だから、俺はお嬢の意識が今一度、祓いに向かうよう仕向ける。
 俺はお嬢から手を離すと立ち上がり、長刀を右手に構え直し更に、脇差しを左手で抜く。そして、お嬢の視線を背に感じながら口を開く。

「お嬢、感知の結界は持続できていますか?」

 背後でお嬢の動く気配。今、お嬢がどのような表情をしているのか、手に取るように判る。何せ、俺はお嬢が初めて二の足で立った頃からお仕えしているのだから。
 そして、どうすれば立ち直るのかも。

「考えるのは後です。まずは、我々が為すべき事を優先しましょう」

 正直、お嬢の性格を考えれば、罪深いことをしていると思う。だが、手段を問うている場合ではない。

「我々は、領民を守らなければなりません」

 俺は愛刀を構え、努めて明るく振る舞う。まだ夜は長いのだから。
 初めまして。Myaと申します。
 まずは此処までの読了、感謝いたします。もし、わずかでも興味を抱いて頂けたなら、続く中の巻、後の巻もお目通しいただければ幸いです。
Mya
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