Coolier - 新生・東方創想話

待たずの山彦

2023/08/21 16:43:08
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 ずっと腰を曲げていたせいで骨は軋みをあげ、身体を前に遣ると声が出るほどの痛みがはしる。箒を杖のように地面に押し付けながら、痛みのやわらぐまでじっとしていた。
「くそ、痛いな」
 箒を肩に担いで、境内の隅の用具入れまで歩く。まだ秋に入ったばかりだというのに、冷たい風が吹いて、かさかさになった頬に沁みた。箒を片付けて庭を眺めると、枯れ葉が掃いたばかりの境内にまた積もり始めていた。溜息をついた。
 冷えた手を揉み込みながら寺の中に入る。冷えた木の床の感触が素足に触れる。部屋のおくのほうで、火鉢に手をあてていたぬえさんが私をよんだ。
「寒かったろ。早くあたりなさい」
 そそくさと火鉢に近寄り、手をあてる。熱波がじわじわ伝わり、ぎこちなく動く手を解かしていく。ぬえさんは火箸で炭をつついて、私のほうに寄せた。私は意味もなく灰をならした。
 しばらくして皆が帰ってきた。最近は大工衆からの依頼が多く、みんなで揃う時間は少なくなっている。初めは私も手伝おうとしたのだが、まだこういった仕事は任せられないとはっきり言われてしまったので、おとなしく寺にいるようにしていた。星も私と同じで留守番係だったが、写経や座禅や夕餉の下拵えをしてばかりで話したりすることは少ない。ほとんど一人でいるのと変わらないようなもので、退屈していることが多かった。
 それからは、皆で木製の仏像を彫ることになった。掌に収まるくらいのサイズのものだ。これでも重要な収入源であるので、丁寧に掘ることになる。各々の前にお手本となる真鍮製の仏像が置かれ、それをくるくると回しながらじっくり見て、掘り進めていく。
 三つ目を作り終えたときに手に痛みを感じはじめた。休憩時だと思って、いったん木の屑を机から払って、後ろに寝転んだ。親指のつけ根のところがじんじんと痛むので、もう片方の掌で包むように握った。



 寝るときはいつも広間で皆で揃って寝た。私の布団は皆に囲まれる形で、両隣にはいつも聖と星がいた。
 ほっぽり出した腕を布団にのっけて、如何にも寝ているかのようにすぅすぅと息を立てていると、私に近づいてくる気配があるのがわかった。それがじわじわと迫り、その体温が感じられるところまで来ると、薄く目を開けた。ぬえさんがいた。私を外に誘った。
 そろそろと足音を立てずに部屋を抜け、靴の踵を潰しながら、外に出た。ぬえさんが半纏を寄越してくれたので、寒さで歯を鳴らしながらも明るい茶色のそれを羽織った。
 私はやさしく手を引かれながら、墓地を駆け抜け、明るさが漏れる木々の奥まで案内された。そこでは大きな火が焚かれており、周りには狸が座りこみ、足の生えた茶碗どもが蠢いていた。ぬえさんは敷かれていたむしろに座り、その隣に私を座らせた。それから二人で揺れる火を眺めた。
 ふと火の中からどろどろとした紫の煙があがった。それが瞬く間に火を覆い隠してしまうと、辺りはすっかり暗くなり、静まりかえった。煙は少しの間だけ漂い、散り々りになったあと、マミゾウさんが姿を現した。煙管の赤い火がゆらゆらと軌跡を残していた。
 辺りにいた茶碗どもは瞬く間に巻き物の中に吸い込まれていった。マミゾウさんは巻き物と入れ替わりに懐から手提げランタンを取り出し、火を灯した。前に、暗闇でも目が利く私たちにそんなものが必要なのかと訊ねたことがあるが、これがハイカラなのだと教えてくれた。
 その手提げランタンは、全体に濃い緑色が塗られ、植物をモチーフにした飾りが所々彫られている。二本の太い枠はがっしりとして、全体的に無骨な印象を受ける。その重厚な佇まいは私に機関車を連想させた。ずっと昔に、ちらと見た覚えがある程度の朧気な記憶だったが。
 不意にぬえさんが立ち上がって、マミゾウさんとなにやら話し始めた。そうして少し経ったころ、ぬえさんがふと姿を消した。そしてすぐまた何処かから現れたとき、その手には何かはためいている物があった。曰く、ダウンジャケットという、外の世界で使われている上着だということだ。
 これからいっそう寒くなるから着るようにしろ、とマミゾウさんが言った。私は何度も二人にお礼を言った。
 二人はまだ用事があるからと、夜の奥のほうに消えていった。本当は私もついて行きたかったのだが、言わなかった。おとなしく寺に戻った。
 自分の部屋に戻ってダウンジャケットを掛け、広間をのぞくと、誰も起きていないようだった。私はまたそろそろと自分の布団まで戻った──しかし、そこで気づいたのだが、私の右隣の布団で眠っていたはずの聖が、私の布団で眠っていた。
 私は布団をめくり、意を決して身体を捩じ込んだ。聖に背を向けるような形で寝転び、布団を被ると、すかさず後ろから抱きすくめられた。当然聖は起きているのだろうが、何も言わなかった。
 こういう叱られ方は苦手だった。何も言わず、勝手に罪悪感を感じさせ、勝手に反省させる手口というものは、非常に居心地の悪いものだった。
 小さく『ごめんなさい』と言うと、聖は私を解放し、ころころと転がり、自分の布団まで戻っていった。もはや起きていることを隠そうともしていない様子だった。私は仰向けになり、よく眠っている星をちらと見て、そのまま寝入った。



 聖が里に行くと言ったので、私もついて行くことにした。その日は大工の仕事はなかった。
 布教と檀家への挨拶回りが主な目的だった。菓子折りなどは持って歩くのも面倒だということで、行くときに買うようにしようと告げられた。そうして、ある程度人里を回ったところで、昼食をとることにした。
 どのようなものにしようか悩んだあと、近くの蕎麦屋に入った。おしながきを見て、温かいものにしようか冷たいものにしようか迷っていると、聖が『迷うようだったら私に言ってください』と言った。自分の食べたいものを頼んでほしい、と言っても聞いてくれないので、ざる蕎麦と木の子蕎麦を注文してもらった。両方とも少な目にしてもらった。
 まずざる蕎麦が運ばれてきた。私はつゆに葱をたくさん入れて食べるのが好きなのだが、聖が一緒なので控えることにした。外は寒かったけれど、寒風の吹くことのない蕎麦屋のなかはけっこう暖かかくて、冷たいざる蕎麦でも美味しくいただくことが出来た。
 ちょっとして木の子蕎麦も運ばれてきた。汁のいい匂いが向こう側から漂ってくる。聖は長く手を合わせたあと、ゆっくりとそれを啜り始めた。私はとっくにざる蕎麦を食べ終わり、手持ち無沙汰ぎみに店の中を見回していた。
 どうぞ、と木の子蕎麦が差し出された。焼かれた舞茸としめじ、それと幾つかの種類の山菜が入っていた。木の子は肉厚で食べ応えがあり、山菜のほの苦い味も良い。それらが汁によってまとまり、総じてとても美味しかった。
 それから蕎麦屋を出て、まだ残していたところを回った。途中で菓子屋に寄ったときに、自分たちの分も合わせてお菓子を買ったりもした。次第に空が赤ずんでいき、ようやく寺に戻った時には垂れてきたような濃い紫が空を呑み込もうとしていた。
 お土産を床に置くと、皆が──星と聖はあくまで見守っていたが──わっと群がった。私はそれがしずまったあと、自分で選んだ芋羊羹にむしゃぶりついた。
「檀家さん達に迷惑かけてないでしょうね」
 一輪が大福を飲み込んだあとでそう言った。子供でもあるまいし、何を心配しているのだと思った。



 その日の夜は妙に眠れなかった。風が大きな音を立てて寺を揺らしていた。
 布団のなかで伸びをし、脱力して大の字になった。他の誰もが眠っているようだった。静かな寝息だけ響いていた。私もそれに混ざろうとしたが、どうにも寝付けず、無意味に身体を動かした。素肌に当たる布団の感触をいやに心地良く感じるのが憎らしかった。
 眠ろうともがいているあいだにふと、外に出てみるのはどうかという考えが頭のうちに入り込んだ。それはわずかな時間のうちに頭のなかを何度もはね返り、そのたびにその姿を膨らませて、終いには大きくなったからだで思考の殆どを潰してしまった。私は否応なく夜に出ていく自分の姿を想像させられた。
 想像の夜のなかで、私は貰ったばかりのダウンジャケットを着て、急くでもなく歩いていた。そこには私以外に何の気配もなかった。寒さは全ての生命にとって共通の敵であり、誰も好んでそれに立ち向かおうなどとは考えていないようだった。ふと気がつくと私はかかっていた布団を半分ほどめくり上げていた。
 部屋を出るとき、聖が眠っているかどうか確認しようとして、やはり止めた。ゆっくりと、音の鳴らないように障子を開けると、冷たい風が部屋にふき込んだ。それはびゅうと一声唸って、かけ布団たちと、そこから突き出たみんなの手や足や顔を撫でていった。
「寒っ、何?」
 一番障子に近いところで──つまり私の目の前で寝ていた一輪が寒さで目を覚ました。私は乱暴に障子を閉め、自分の部屋まで駆けていった。そして勢いのまま、掛けていたダウンジャケットを手に取って、飛び出していった。



 外は思っていたより寒く、すぐにダウンジャケットを羽織った。
 今になってよく考えると、厠に行こうとしていたとか言って誤魔化せていたはずだった。パニックを起こして逃げてしまった自分が情けなかった。そのせいで、帰ったときに何と言えばいいのか、今のうちから考えておかなければならなかった。
 帰ったときのことを考えると憂鬱な気持ちになる。それは後から考えることにした。
 辺りには一切の光がなく、正に暗闇といえた。妖怪の性だろうか、このような暗い場所に居ると、徐々に心が落ち着いていく気がする。大きく息を吐くと、白いそれはちょっとだけとどまって、そのあとどこにも行きようがなくなったみたいにして散っていった。
 荒れていた息が静まっていく。鼻腔を通った冷たい空気が、脳みそまで冷やしてしまったみたいに落ち着いた。今になってのどが渇いていることに気づいて、飲み物が欲しいな、と思った。辺りを見渡して、遠くにぽつんと小さい光があるのが見えた。
 なんだろうと思った。こんな時間だから、妖怪かなにかだろうと思った。用心をしながら、光のある方向に近づいてみた。
「何だこれ」
 いきなり、眼前に妙なものが現れた。
 木々が切り拓かれたなかに、ぐにゃりと曲がった灰色の幅広な道が横たわっている。小さな光の正体は、カーブの際に立っていた電灯だった。道は長くどこまでも伸びていて、どれだけその先を目でおっても終わりが見えなかった。道と今いる森は白い柵で区切られ、向こう側は岩で造られた崖のようになっていた。
 私は奇妙な景色の前に茫然と立ち尽くした。いつの間にか何ものかに化かされていたのか、と思った。なんだか少し怖くなり、来た森を戻っていくことにした。
 帰り道の途中であれは何だったのかと考えてみたが、私の知っているようなものではなさそうだった。ああも固く、また平らな道は見たことがなかった。少なくともこの郷ではあのようなものはないはずだった。
 様々なことを考えながら道をさかのぼっていると、不意に私はおかしなことに気がついた。寺が見当たらなかった。すでに帰れていてもおかしくないはずであるのに、どこにも寺の姿が見えない。
 もしや本当に化かされているのかと疑いながらも、私はがむしゃらに辺りを駆けて探し回った。あれだけ見慣れた建物なのだ、探して見つからないはずがないだろうと思った。
 だけど、どれだけ目を凝らしても、走り回っても、寺は影も形も見当たらなかった。
 私はいったん足を止めた。頭のどこかで、ぼんやりと、何かがおかしいと思い始めていた。それでも、そんな浮かんできた不安を断ち切るようにしてまた駈けずり回った。



 そのうち、私はどこを進んでいるのかもわからなくなり、気がつけばあの灰色の道のところに戻ってきていた。電灯は相変わらず小さな明かりを放って、道を扇形に照らしている。私は往生際悪く、また森のなかに戻って探そうとしたが、その時に道の向こうから来るものがあるのに気づいた。
 それは目のような二つの明かりで道を照らして、形容しがたい音を立てながら、私の目の前を通り過ぎて行った。あとにはその残響と、それを包む静けさが残った。呆然としながら、ここは私のもといた場所ではないのだと思った。森の匂いや木の植生が変わっていることにも、本当はとっくに気がついていた。名残惜しく背後の森をちらと見てから、私は柵を乗り越えた。てのひらに白い粉がついて、ダウンジャケットで拭いた。
 電灯を見上げてしばらく眺めたあと、道に沿って歩き始めた。この道がどこに続いているのか全くわからなかったが、道さえ辿れば人のいる場所に着けるはずだった。



 いつからか道は緩やかな上り坂になり、のぼるにつれて電灯の数は少なくなっていった。右を見ると、広い平地にいくつもの光が散らばっていた。そこには街がひろがっていた。
 坂をのぼりきると、そこは多くの家がたち並んでいる場所だった。或る家からは光と音楽と声がこぼれていて、或る家からは盛んに犬の鳴き声がしていた。他の家は窓から闇を吐き出していた。
 私はそこに至って、そこにあるどれにも頼れないように思えた。目を閉じて開けば布団の中にいるような、現実感のない世界に身体だけが置いてある気持ちがした。しかしいくら瞬いても目の前の景色はあり続けたので、私はぼんやりした頭を抱えながら歩くしかなかった。
 身体の動きに頭が追い付かず、ただ並ぶ家たちを見ながら歩いていた。これからどうしようかと考える度に、頭の中はぐちゃぐちゃになって、すぐ何も考えられなくなった。
 しばらく歩いたあと、左手のほうに親しみのある建築物が見えた。すぐに寄ろうとしたけど、そこに行くにはいくつかの道に入ったり角を曲がったりしなければならず、そのたびに見え隠れするそれにやきもきした。
 門から続く石畳の道を走り抜ける。くぐった先には大きな寺がそびえていた。荒れた息を戻しながら、ざっと外観を見回す。寺は左のほうが大きくなっていて、別の建物に繋がっていた。どの柱にも染みや汚れが目立ち、古い寺であることが一目で知れた。
 もしかしたらここなら、私を助けてくれるのではないかと考えた。少なくとも寺であるからには、助けを求めてきた者を無下にはしないはずだった。しかし当たり前のことではあるが、明かりはどこにも灯っておらず、今すぐに頼み込むようなことは出来そうになかった。
 私ははだしになり、罪悪感を覚えながらも、そっと階段に足をかけた。板がみしみしと音を立てた。ひたひたと歩いて、せめてどこか休めそうなところがないか探した。少しの探検のあと、いやに古めかしい部屋があるを見つけた。真ん中に黒い座卓があり、隅には鏡台と階段箪笥が置かれている。壁にはところどころ黄色い汚れが浮いていた。
 そっと中に入り、積んであった座布団をいくらか敷いて寝床を作った。ダウンジャケットをかけ布団代わりにかぶって、目を閉じた。眠気は一向におとずれなかった。
 眠れずに悶々としているうちに、そういえば私の耳をどう誤魔化したものだろうと思い当たった。運のいいことに──というよりも、深夜だったし、そもそも多く人の通るようなところには行かなかったから、今まで誰とも逢わなかった。しかし、これからはそういうわけにもいかないだろう。手を頭に遣ると、確かにふわふわとした獣の耳があった。
 帽子でも買おうかな、どんな帽子が似合うかな、などと気楽なことを考えた。色んな帽子をかぶった自分を想像しているうちに、私は眠りについた。



 目を覚ましたのはまだ空が浅暗い時間だった。
 私はダウンジャケットを羽織りながらのそのそと起き上がって、鏡台を覗き込んだ。目やにを指で取りながら、寝ぐせがついていないか確認した。
 すると、猛烈な違和感が一気に体を突き抜けた。初めそれが何なのかわからなかったが、じわじわと恐ろしさが広がる感覚とともに気づいた。頭にあるはずの獣の耳がなくなっていた。
 髪の毛に紛れてしまったのではと、頭に手を遣ってめちゃくちゃにかき乱した。もちろんそんなはずはなかった。そんなものなどもとから無かったかのように、さっぱりと消えてしまっていた。人間の耳だけは残っていて、そのおかげで音を聴くのに不自由はなかった。
 しばらく鏡台の前で呆然としていた。鏡に映っているものが自分の姿だと思えなかった。私は無意味に手のひらを差し出して、鏡像の顔のところだけを覆い隠した。すると、もう私は自分がどんな表情を浮かべているのかさえわからなくなった。
 手のひらで隠したまま鏡台から目を背けた。そして部屋を出ようとしたときに、足音が聞こえてきた。きっと住民が目を覚ましたのだろう。
 どうしようかと一瞬考え、その足音のほうに向かうことにした。どうせ助けを求めるしかない状況なのだから、さっさと事情を話したほうがいい。勝手に寝床も借りてしまったわけだし。
 足音の方向に向かうと、細い首をした、鶏のような顔の住職がいた。いきなりあらわれた私に驚いているようだった。すぐに頭を下げた。
「いきなり押しかけてすみません。でも話を聞いてくれませんか。お願いします」
 早口で畳みかけるようにしてそう言った。住職はいったんは面食らったあと、緊急性を感じ取ってくれたのか、真剣な面持ちになって私を広い部屋に案内した。
 住職と向かい合うようにして大きなテーブルに座らされた。話し出そうとして、どこから話せばいいのかわからないことに私は気がついた。俯きながら考え込んでいる間、住職はじっと私を見ていた。視線は私を急かしているように感じられた。
 私はその視線を感じている間、聖のことを思わないわけにはいかなかった。きっと聖ならそんな視線は向けないはずだというようなことばかり考えてしまっていた。
 そのような状態であるから、どれだけ必死に頭を働かせても話など出来そうになかった。何か言わないとと思って声を出しても、あの、だとか、えっと、だとかいう意味のない言葉しか吐けなかった。住職はそれでも黙って私を見つめていた。
 私はまったく思い通りになってくれない自分の頭を呪った。聖のイメージをどれだけちぎって捨てても、またすぐに浮かんでくる。聖に会いたくてたまらなくなった。今すぐにでもここに駆け込んできて、大丈夫でしたかと寄り添ってくれる聖の姿を夢想した。
 そんな現実逃避などいらないのに、自分の意思でどうにもならない。そのような自分があまりにも情けなく思えて、涙が滲み始めた。乱暴に拭うたびにより多くの涙がこぼれた。そのうち、のどが勝手にしゃくりあげはじめて止まらなくなった。嫌だ、嫌だ、泣きたくないとどれだけ思っても、身体はもう泣いていた。声をあげてぼろぼろと涙を流していた。



 無理して話さなくてもいいと住職は言った。
 そのかわり、これからどうしたいのかと訊いてきた。私は涙のあとを掻きながら、出来るならここに住まわせてもらいたいと答えた。もと寺に居たから、大抵の仕事はこなせるはずだと言った。住職は禿頭に手をあてて考え始めた。
 しばらく経って、うちには備えがあるから住まわせることは出来ると言った。ただ、色々と話をつけなければならない、とりあえずは案内すると言って、私を誘って歩き始めた。その途中で、もともとこの寺は一種の養護施設として活動していたことがあって、此処とつながっている建物がそれなのだという話を聞いた。
「妻が亡くなってからはもうやっていない」
 その関係で私の受け入れ処理などはわりに容易く出来るようだった。
 あてられた部屋は壁も床も灰色をしていて、岩よりも硬い。窓は小さく、広くはないが決して不自由しないほどの空間が確保されていた。壁に付けられて置かれた透明の箪笥には女児服と下着が多く入れられていた。おそらく施設として活動していたときのものなのだろう。他にも多く部屋はあったが、今はどれも物置として使われているようだった。
 とりあえずは住める場所が見つかったということで、ある程度安心することができた。ダウンジャケットを椅子に掛けておいた。ただ、これからどうしようかというのは、依然不透明のままだった。
 いったい私は何をする必要があるのだろうか──それを考えようとした時、住職が話しかけた。
「私はふつう昼には出かけているから、お金を置いていくからそれでご飯を買うようにしなさい」
 そう言い残して部屋を出て行った。そう言われてもどこに何があるのかなんて知らないんだから無茶言うなよ、と思った。寺のほうに戻ると、住職が朝食をとっていた。テーブルには茶碗とお椀が逆さにして置かれていた。まだおなかは空いてないけど一応食べようと思って茶碗を手に取った。それからお櫃を探したけれど見当たらず、茶碗を手に持ってきょろきょろしている私を見て、すいはんきはそこにあると住職が言った。
 顎で示された方には棚があって、そのうえに白いものが置かれていた。しゃもじが横に刺されているからこれがお櫃の代わりなんだろうと思い、蓋を開けようとしたけど開かなかった。
「ボタンを押せ」
 言われた通りにするとぱかっとすいはんきが開いて、蒸気をたちのぼらせた。なるほどこうやって使うのだな、と思った。そういえばあまり意識してなかったけど、たぶんここは外の世界なんだろうなとご飯を盛りながら考えた。ほとんど覚えていないながらも、命蓮寺に住み着く前は外の世界にいた身であるので、一種の慣れのようなものはあった。
 鍋から味噌汁を注いでテーブルに戻る。いくつかの漬け物と煮物が並べられた、馴染みのある食卓だった。ただ、ご飯はいつも食べていたものよりもおいしく感じた。
 住職は朝食を食べ終えたあと、すぐに出かけてしまった。言っていた通りお札を二枚テーブルに置いていっていた。私はもすもすと食べ物を口に運ぶだけの食事を終えて、茶碗を水に浸けた。



 外から射す光が少しずつ明るさを持ち始めて、床の木板を薄黄に染めている。
 これから何をしようかなぁなどとぼんやり考えながら、寺のなかでくつろげる場所を探していた。いくらか見て回ったところで、最初に私の寝た場所を思い出した。あそこなら寝転んで時間をつぶすことが出来るな、と思ったので向かうことにした。
 途中で洗面台を見つけたので、顔を洗って掛けられていたタオルで拭った。少しさっぱりした気持ちになった。うがいもして口の中に巣食う不快なぬめりを吐き出した。清潔さを得た私はなんとなく此処にいるための権利を手にしたような気がした。
 部屋は私の記憶しているままの恰好だった。並べられた座布団はまだ列を組んでいた。与えられた部屋に戻ることも考えてみたが、あの閉じ込められているようなところよりはこちらの方がいくらか良さげだった。
 座布団の上に仰向けになり、意味もなく天井を眺めた。ふとした瞬間にこれからのことを考えそうになり、そのたびに酸っぱいものが身体の奥からせり上がってくるのを感じた。別のことを考えようにも、今はそんなことを考えてる場合じゃないだろと現実が問い詰めてくる感じがあった。何も考えたくなかった。
 くつろごうにもくつろげないので、私は起き上がって、自分の仕事をこなすことにした。住ませてもらうからには何か払わなければならない。とりあえず今考えるべきは今のことだった。さしあたって掃除でもしようと思い、台所に干してあったひどく汚れた雑巾を濡らした。
 意外にも──と言っていいのかわからないけど、どこもわりかしこまめに掃除されているようで、埃などはあまり落ちていなかった。それならと掃除を早めに切り上げて、食器を洗うことにした。流しには妙に柔らかいたわしが置いてあって、どうしてもその感触には慣れなかった。かごに食器を収め、流しを布巾で拭った。
 ある程度の仕事を終えたので一度休憩することにした。洗濯や食事などは、もう少しここに馴染んでからにしようと思った。居間──今朝、朝食をとったところ──の椅子に腰を下ろして一息つく。仕事もひと段落して、次は何をしようかなと思いながら、居間じゅうをぐるっと眺めた。
「ん?」
 ふと、棚の上に置かれていた小型の機械が目にとまった。
 それはラジオとかいう名前で呼ばれている機械だった。こっちの世界に居た時に何度か見た覚えがある。どういう仕組みかは知らないが、音を鳴らすことの出来る機械だったはずだ。最後にそれを見たときには、妙に抑揚のない、まくしたてるような男の声が流されていた。
 ふと、いつだかのラジオドラマや、古臭い歌謡曲が思い出される。とうに忘れたとばかり思っていたそれらは、記憶の底で身を縮こませていただけだった。昔のことがらというものは、案外そうやって生き永らえているのかもしれなかった。
 懐かしい気持ちと伴に久しぶりに聴きたいという気持ちが湧いてくる。電源ボタンを押すと、赤いランプが灯り、激しいノイズが流れ出した。飛び出ている金属の棒をあちらこちらへ動かしてどうにか静める。
 音声がクリアになり、ようやくしっかりと聞き取れるようになる。今流行っているらしい歌がいくつか流されたあとで、次第に向こう側にいる者たちがしゃべり始めた。
 いくつもの新鮮な音楽は私に否応もなくゲリラライブの空気を思い出させた。出来るならこれらの歌を覚えて、ミスティアと歌えたらいいなと思った。
「はぁ」
 ここにはミスティアがいないという事実をまざまざと実感し、深くため息をついた。私の憂いをよそに気ままにしゃべる奴らが癪に障ったので、ラジオは消しておいた。



 ようやく昼食の時間になっても、お腹の中にまだ朝食べたものが残っている感覚があり、何かを食べたいと思えなかった。そも今の私は昼食を食べるためにはどこかへ買いに行かなければならず、その面倒臭さがまたいっそう食欲を減退させた。私は実は自分がものぐさだということを悟った。
 しかしこれからのことを考えるとここら一帯について知っておいたほうがいいのは明らかであり、どうしようかなぁなどと悩んでいるくらいならとっと決めたほうがいいのもまた自明であった。私はひときわ大きくため息をついてぬうと椅子から立ち上がり、テーブルの上の二枚のお札を掴んだ。それから、ダウンジャケットを取りに自分の部屋に戻った。
 部屋の小さい窓から外を見ると、晴れ晴れとしたいい天気だった。雨だったら行かなくても許されたな、とか思ってしまうが、外に出るのならやはり晴れているほうがいい。
 さて出ようと思ったところで、そういえば靴は玄関に置いていないのだったと思い出す。棚にあった鍵を持ち、ここまで入ってきた階段まで向かう。脱いだまま置いてあった靴を履いて、玄関までまわり、鍵をかける。まだここが自分の住む場所だという感覚が薄いので、またここに帰ってきて鍵を開けることになるんだよな、などと妙な心地になった。こちらでもやはり風は乾燥しているなぁと思いながら、多く人のいそうな方に向けて進みだした。
 いくつかの坂をくだった先では、まるで壁を作るかのような多くの切り立った建物が並んで、街の様相を取っていた。そのどれもがどことなく寂びれた雰囲気をまとっていて、近寄りがたい空気を醸し出している。
 私は少しのあいだ反対側の通りにあるそれらを眺めて、その中にパン売り屋の看板があることに気づいた。あまり食べる機会には恵まれなかったけれども、パンのあのふやふやとした食感と小麦の味はよく覚えている。ここらでまた食べてみるのも悪くないかと思ったので、パン売り屋で昼食を買うことにした。動き出した人の群れに混ざって、広い道を渡った。
 木枠のガラス戸を開けると、からからと鈴が鳴って私を迎え入れた。いらっしゃいませ、と商品棚の後ろに立っていたおばさんが言った。そのあとおばさんは一瞬だけ妙な顔をして、すぐにそれを打ち消した。
 私はそれを変に思いながらも、並べられた商品を見て回った。てらてらと光るきつね色のものや薄いパンに具材を挟んだものなど、色々なものがあって面白い。悩んだ末に、ミートパイとあんパンを買った。飲み物は売っていないらしく、どこか別のところで買わないといけないなと思った。
 店を出たときに、あのいらっしゃいませと言ってくれたおばさんの声が聞こえた。とくだん聞き耳を立てていたというわけではないのだが、山彦の特性ゆえか、生来他人の声にはある程度敏感で、また能く聞き取れた。
「ええ、だってねぇ、学校にも行かせないで。最近は──」
 誰かと話しているといった調子でそんなことを言っていた。
 学校というものについての知識は最低限持ち合わせており、それが一般に人間の子どもが学びに行く場所であるということももちろん把握していた。それはまるで私とはねじれの位置にあるようなもので、今までそれに思考を向けたことすらなかった。ただ、それでどこにも子どもを見ない理由がわかった。
 パンは帰ってから食べようと思っていたが、袋からたちのぼる温かい空気が手にあたり、焼き上げられたばかりなのにこのまま冷ましてしまうのは勿体ないなと思って、どこかで食べてしまおうと思った。少し歩くと、路地の奥に公園があるのが見えたので、そこで食べることにした。
 隅のほうに設置された長椅子に座る。建物の陰になっていたからか、ひんやりとした空気をまとっていた。横に袋をおいてすぐにあんパンを取り出す。包み紙ごしにほんのりとしたあたたかみを感じる。
 ぱさぱさと包みを解いてかぶりつくと、柔らかい生地に歯が通り、香ばしい香りが鼻をさわる。舌で転がすように、口内に塗り広げるように、ほのあたたかい餡子を味わう。舌を覆うねっとりとした濃い甘みが、染み込むようにして伝わってくる。久しぶりにこれほど甘いものを食べた気がした。すぐに食べ終わってしまい、包み紙をくしゃくしゃにして袋のなかに入れた。
 唇に付いた餡子を舐めとりながら、ミートパイを手に取った。私にとってパイなんていうものは、館のパーティーにお呼ばれしたときやら、たまたま魔女にもらった時くらいにしか食べられないようなもので、店で多く並べられているのを見てびっくりした。
 ブローチのような形をしたそれに噛みつくと、さく、と音がして、濃く味付けされた肉がなだれ込む。形容しがたい甘じょっぱさが口いっぱいにひろがる。ぎゅむぎゅむと、肉の粒を噛み潰す食感もいい。
 それで、私は肉を食べるのが好きだったということを思い出す。肉を食べる機会は輪をかけて少なかったが、極稀にそういう巡り合わせがあり、その時には喜んで──いちおう聖には隠しながら──食べたものだった。あの時の脂の甘さを思い出す。指についたパイのかけらをちゅぷちゅぷと舐め取り、包み紙を袋に入れる。
 公園を見渡すと水飲み場が見つかったので、下のほうについた蛇口で手を洗った。そのあと水も飲んだ。じゃりじゃりとした味──何かが入っているのではなく、本当に味がじゃりじゃりしているとしか言いようがない感じがした。子どもたちはみんなこんな水を飲んでいるのだろうか、と思った。
 けっこうな満足感のある昼食を終えて、とりあえずは帰ろうとして入り口に目を遣った。ちょうどその時、スーツを着た男性──マミゾウさんが着ているときにも思ったが、あそこまで体にぴっちりと合わせる必要があるのか疑問である──が公園に入ってきた。
 休憩にでも来たのだろうかと思い、横目に眺めていたが、なにやら入り口近くに置いてあった機械をいじり始めた。機械に硬貨が入れられて、ボタンが押されると、がたがたと音が鳴った。そのあと、男性は機械の下の口から何かを取り出した。
 なんだろうと思ってまじまじ見ていると、おもむろに蓋を開けて口に含み始めた。どうやらあれは飲みものであるようだった。そのあと男性は去っていき、私は機械の前に立った。
 私の背丈では押せるボタンは最下層のものだけに限られていた。公園に置いてあるというのに不親切だ、子どもでも選んで買えるようにするべきだろうなどといったことを考えた。並べられているものを見てみたが、お茶と水とカルピスがあることがわかるのみで、他のものは知らないものばかりであった。
 とりあえずお茶を買おうかと思い、文字の表示されたボタンを見ると「売切」と浮かんでいた。一回手を頭に遣って、水を買おうと思いなおした。ただ、水を買って飲むくらいなら、そこにある水飲み場で──例えじゃりじゃりした水であっても──飲んだほうがいいなと思いあたった。
 となると知ったものはカルピスしかないのだが、私はカルピスの隣にゼリーがあることに気づいた。ゼリーについては、前にマミゾウさんが暑中見舞いとして持ってきた水ようかんとゼリーの詰め合わせで初めて知り、なんとも言えない食感のそれを私はひそかに気に入っていた。
 前例にならい、硬貨を入れてボタンを押すと、ひたと濡れたそれが音を立てて落ちてくる。入れ物は金属でできているが、指で押すと軽い感触がしてぺこぺことへこむ。結露したしずくが指をつたい落ちて、手首に冷たい感覚が走った。
 缶の横に書かれた説明に則り、手首を使ってシェイクする。三十秒ほど振ってから蓋を開けると、ぷしゅっと音が鳴り、不自然なほどに甘い匂いがあたりにただよう。この、人工的な匂いを私はよく好んでいた。
 唇に飲み口の冷たい感触が当たる。傾けると、おぼろ豆腐のようになったゼリーが口の中を満たしていく。ラムネなどよりも清涼で、ずっと毒々しい甘味。前に食べたものよりもずいぶん不健康に感じるこの味は、あたかも罪を犯すかのような、よろしくない悦びを私に与えた。したたるそれまで全て飲み乾してしまってから、隣のごみ箱に投げ捨てた。
 そこまで乗り気でなかっただけに、充足感のある食事を取れたことが普段以上に喜ばしかった。これから飯を買うときはこのようにしようかと思った──出来ればあのおばさんがいないときを見計らって。



 寺に戻り、余ったお金をテーブルに置く。それから、脱いだダウンジャケットを掛けに部屋に行った。次もすぐ着られるよう椅子の背もたれに羽織らせる。以前は上着をこうしていると、よく聖にだらしないと注意を受けていた。
 そのあと、歯を磨くために洗面台に行ったが、私用の歯ブラシはまだないことに気がついた。後から買ってもらわねばならない。とり急ぎ水で口をそそいで、食器棚にあった爪楊枝をすかした。
 リビングに戻り椅子に腰をおろすと、待ち構えていたかのような沈黙が訪れた。浸されるような、耳鳴りさえしないほどの重い沈黙だった。私はそれで、寺に星と二人で居た時のことを思い出した。
 互いにあまり干渉せず、たまに顔を合わせたときだけにこっと──ひと懐っこい笑みと言えばいいのだろうか──笑いかけてくれた。長躯だったから、わざわざ目線を私に合わせて話してくれた。一緒にいて気持ちのよくなる人だった。今にして思えば、彼女が寺にのこっていたのは私を一人にさせないためだったのかもしれなかった。
 しかしそう考えると、まるで私が子ども扱いをされていたように感じて、少しだけ嫌な気分になった。もちろん実際にはそんなことはなかったのだろうが──そのようなことを考えていると、玄関の扉の開く音が聴こえた。住職が帰って来たのだろう。
「家に居るときも鍵は閉めろ」
 リビングに入ってくるなり、紙袋を携えた住職はそう言った。取り出された紙がテーブルの上に重なり合って置かれる。
「幾つか書類を書いてもらわんといかん」
 そう言ってペンが渡された。一番上にあった紙を手に取り、黒線で縁取られたいくつもの枠組みに、私の情報を書き込んでいく。幾つかの箇所をでっちあげながら、長い時間をかけてなんとか一枚目を書き終える。住職はそれを手に取って神妙な顔で眺めた。そのあとポッケから掌サイズの小さな機械を取り出した。
 親指で器用にそれを操作した後で、住職は首を傾げる──その仕草はいっそう彼を鶏のように見せた。どうやら何かまずいところがあったようだった。写経などよりもずっと面倒くさいな、と思った。



 全てを書き終えたとき、すでに夕ご飯の支度は終わっていた。何度もやり直しを要求されて、思ったよりも時間がかかってしまったせいだ。紙を束ねて透明のカバーに入れる。隣には逆さに置かれた茶碗が鎮座していた。
 テーブルの中央にはちくわと根菜の煮物が置かれて、その側には海苔やおひたし、漬物などの小鉢がある。すこしも脂臭さのない、見慣れた食卓だ。すいはんきからご飯をよそって席につく。
「いただきます」
「いただきます」
 静かな食事が始まる。ままごとの食事のような、食べる以外のことが存在しない時間だ。私は惣菜を口に運びながら、できるだけ早く食べ終えてしまおうとだけ考えていた。
 そう思っていたのだが、不意にこの空間を占めていた沈黙が破られた。住職が私に話しかけてきた。
「学校はどうする」
 ぴた、と私の動きが止まった。
 それはまるで私の知らない言語であるかのようだった。住職は私に学校に行くか行かないかを問うているのだと、遅れて理解した。
 しかしそれがわかっても、どのように答えたらよいのかがわからなかった。そのことは今ここで決めなければならないことであるようには思えなかった。ただ何も言わずにテーブルの上を見ていた。
 住職は考えがまとまったら話しなさいとだけ言って食事を再開した。私はすっかり何を食べる気も失せて、茶碗だけ空にして部屋に戻った。



 お風呂に入り、歯を磨き──洗面台の下の棚に幾つもの未開封の歯ブラシがあった──ベッドに入って目を閉じた。高さがあるせいか、布団で寝ていたときよりも深く全身が沈み込んでいくような感覚があった。眠りに近づくにつれ皮膚が鋭敏になり、ちくちくとした、布団に生える柔らかい糸のとげを感じるようになっていく。
 そのうちに、脱力した四肢の先に軽い痺れが走りはじめた。瞼のうらにひろがる明暗の境目をぼんやりと眺めていると、微かにあった光は散って闇に溶け、後には瞼の重さを感じるのみとなった。
 そしてふと意識を失ったかと思うと、次に目を開いたときには、部屋の中は窓から射し込む陽光で照らされていた。その光の強さから、今がいつも起きていた時間ではないことが察せられた。それは明け方のほの暗さを知らないような明るさで、寝起きの目には少し眩しかった。
 起きたばかりであるにも関わらず頭はくっきりと冴えていて、眠りの長さと深さに応じた快活さが今の私にはあった。ベッドから起き上がり洗面所で洗顔を終えると、居間へと向かった。居間には誰の姿もなく、テーブルの上に昨日と同じ二枚のお札が置かれていた。
 朝ご飯はどうしようと少しだけ考えて、またあのパン屋に行けばいいかと思った。時間を確かめようと壁に掛けられた時計を見ると七時を指していた。この時間ではまだパン屋も開いていないだろう。なにか適当に食べれるものでもないか探そうと思ったが、そのようなことを出来るほど私はまだここに馴染んでいなかった。
 私がお腹を満たすには、パン屋が開くのを待たなければならない。しかしそもそも私はいつにパン屋が開くのか知らないのである。窓から外を見ると薄蒼の空に透かした雲がたなびいていた。



 鍵を閉めるとすぐにはだかの手をポケットに入れる。まだそこまで寒いというほどではないが、素肌をさらしているとすぐに冷えきってしまう。こわばった指をポケットの中で動かして解凍する。
 門をくぐってから左に少し進むと、石づくりの下り階段が見える。横幅は狭く、二人で並ぶことも難しいくらいである。鉄柵は長い歳月を感じさせる赤錆に覆われて、そこにいるうちに柵の本分を忘れてしまったかのように見えた。
 いちど下を覗き、誰も登ってきていないことを確認してから階段を下りる。なにげなく柵に手をあてると、ぼろぼろと錆がこぼれて、掌に赤い汚れが付いた。
 階段をくだり切ると壁面に沿って作られた細い道に出る。眼前には白い柵と、その向こう側にようやく目を覚まして活動し始めた街が望めた。
 街の様子をぼんやりと横目に眺めながら、緩やかな坂になっている道を下っていく。ちぎれたような雲が浮かぶのみの蒼穹とその下にひろがる街は、見ているとなんとも言えない気持ちを私の胸に到来させた。それはじわじわと膨らみ、私の胸中をいっぱいにしようとするので、思わず街のほうから目を逸らした。
 私はなぜここに自分が一人でいるのか考えようとしたが、頭の中は他のいくつもの考えるべき事柄によってすっかり覆われていて、結果として思考の場には街の風景のみが映し出されていた。その内のどれかを取り上げようとしても、それらはもつれた糸のように固く結びついてしまっており、すぐに混ざって私の思考をぐちゃぐちゃにしてしまうのだ。
 そのようなぼんやりとした頭でありながら、パン屋に向かうという目的だけは妙にはっきりとしていて、足はほとんど無意識のうちに動き続けていた。そのうちに坂道を下りきって、街につづく路地へと足を下ろした。
 少しだけ近づいた街の概景は、深い影をおろしていて、どことなく疲れているようにも見えた。それが朝という時間帯に因るものなのか、今の私の心情に因るものなのかはわからなかった。一度大きな息を吐いて、路地を進み始めた。
 ある程度進んだところで、同じような服を着ている何人かの子どもたちの姿を見た。おそらく学校に向かう子どもなのだろうと思った。子どもたちは一列に並んで道の端を歩いていたが、その中にはまだ幼い子もいて、少し歩くたびに列を外れてしまっていた。そしてそのたびに、先頭の子どもが注意していた。
 私は離れたところからそれを見ていたのだが、ふとした瞬間に、先頭の子がこちらに気づいた。すると、そのときの目──私に向けられた、じろりとした、何だこいつは、という目が──ひどく私を不快にさせた。
 なぜここまでの苛立ちを覚えたのか自分でもわからない。先ほど街を眺めたときの感傷が尾を引いていたのかもしれない。よほど特別にその目に感じるものがあったのかもしれない。なんにせよ、それは今までに覚えたことのないほどの腹立たしさを私に与えた。
 しばらくその場にとどまり、子どもたちが去るのを見つめていた。先ほど不躾な目を向けた子どもは、もう一度だけちらとこちらを見て、それからはもう振り返ることなく先導していった。
 子どもたちの姿がすっかり見えなくなってしまってから、また街に向かって歩き始めた。あのような目を向けられることは久しく無かった。ずっと昔、山に住んでいた頃にそのような目を向けられていたくらいだ──もっともその時はまだ獣のような姿であったので、それが当然だったのだが。とにかくその目は共同体の厭らしさとでもいうべきものを克明に纏っていて、それが今の私には強い拒絶を引き起こした。
 道中で他の子どもたちに会うこともなく、パン屋に到達することができた。しかし扉のガラスから覗いた向こう側は薄暗く、どんな灯かりもついていなかった。想定していた通りパン屋はまだ開いてはいないようだった。そのことは私に一種の納得と落ち着きを与えた。
 路地を通り近くの公園まで行って、長椅子に腰をおろした。とりあえず今の時間──といっても今が何時かなどわからない。出てから三十分は経っただろうか──ではパン屋は開いていないことがわかった。次は、何時にパン屋が開くのかを確かめておく必要があった。
 座っている間は何を考える気にもならなかった。ときどき周りを見て人がいないことを確認しては、足を無意味にばたつかせたり、鳥獣伎楽の歌を歌ったりした。今の私の姿を見た者がいるとしたら、きっと行き場のない子どもかなにかだと思うことだろう。
 そうしてしばらく座ったままでいたのだが、そのうちにどうにも尻が痛くなってきて、それがどのように動かしても痛みが取れないので、仕方なく立ち上がることにした。きっと座っていられる時間の限界が来たのに違いなかった。
 公園に来てからまだそこまでの時間は経っていないはずだった。またパン屋に向かってもおそらく開いていないだろうと思って周囲を見たところ、少し離れたところにある遊具たちを見つけた。どうせまだ時間はあるのだからと思って、それらで時間をつぶすことにした。
 まず金属の骨組みのようなものに登った。あてた掌からは金属の冷たい感触がしんと伝わってきた。次の足を出すたびにカンカンと小気味良い音が鳴るので、登っていくのは楽しかった。細い足場に土踏まずを置き、頂上から見渡すと、自分が思ったよりも高い場所にいることがわかった。この薄暗い公園のなかで、ここが一番高いところだった。滑り落ちてしまわないように、注意しながら足を地につけた。
 次に滑り台に向かった。尻をつけて滑る気にはならなかったので、足を揃えてしゃがむようにして滑り落ちた。そのせいであまりスピードは出なかったが、それでも確かな高揚感を覚えた。立ち上がったときに少し周りが広く見えた気がした。
 その後にブランコに乗った。鎖は一ヵ所だけ錆びを逃れている箇所があり、きっと誰かがここばかりを握っていたんだなと思った。それはちいさくて、子どもの手の跡であるように見えた──きっとそうに違いない。ブランコには子どもしか乗らないのだ。
 膝を曲げたり伸ばしたりしているうちに、振りはどんどんと大きくなってゆき、やがて自分の力だけでは止められないほどに勢いをつけた。しばらくはその勢いを味わっていたのだが、速度を緩めようと思ってもうまくいかないので、地面に足を擦らせながら速度を落とした。ブランコが止まったとき、足元には轍のような跡が残っていた。
 立ち上がったときに自分の身体がすこし火照っていることに気づいた。ダウンジャケットの中は私自身がはなった熱気でほこほことしていた。公園で気ままに遊ぶのは存外に楽しくて、いつの間にやら夢中になってしまっていた。
 しかし、それを素直に受け入れるのは照れ臭いことだった。私はもう一度公園じゅうを見回して、誰もいないことを認めた。きっと他の子どもは私と違って忙しいのだろうと思った。
 そろそろパン屋も開いたかと思い、向かってみることにした。路地を抜けると、先ほどまでよりも道を行く人の数が多くなっていた。おそらく仕事に向かう人たちなのだろう。その中に混じって歩いていると、まるで私にも何かやるべきことがあるかのように感じた。
 パン屋の近くまで来ると、濃いバターの匂いが外気に混ざって漂っていた。水滴で曇ったガラスの向こう側には、並んだ人の影がいくらか見えた。店の中に入って壁の時計を見ると、八時を指していた。きっとこのようにして朝ご飯を買いに来る人がいるから、早くから開いているんだなと思った。
 スーツを着たり学生服を着たりしている人たちは、一様に白いトレーを手に持ち、並べられたパンをせっせとトングで取っていた。そこに割って入るつもりにもならず、人が少なくなったところを見はからって買うことにした。慌ただしく出ていく人たちの背中を横目に見ながら、あらかた人がいなくなったところでトレーを手に取った。あんパンはなくなっていたが、幸いというべきかミートパイはいくつか残っていた。
 さっそく三つ──うち一つは朝ご飯、二つは昼ご飯のためだ──買って袋に包んでもらい、また公園まで戻った。そして機械から前と同じゼリーの飲み物を買った。こうして同じものを買い揃えると、決まっていることをやり遂げたような感覚があって気持ちが良かった。もうここにすっかり馴染んでしまったかのように感じた。
 そうして朝食を終えると、来た道をそっくり戻って寺に帰った。ポケットから鍵を取り出して玄関を開けた。



 それからはずっと寺のなかで過ごした。家じゅうを見て回りながら掃除する順番を考え、少し散らかっている場所があるととりあえずきれいに見えるよう整頓した。黒箪笥からは線香の香りがほのかに漏れ出ていた。
 昼になると買っておいたミートパイを食べた。流石に一日に三つも同じものを食べるのは味気ないので、今度からは別のものも買ってみようかなと食べ終えたあとで考えた。袋をゴミ箱に捨てたあとラジオをつけた。鳴り出したノイズをやっとこさおさめると、どこかで起こったという事件のことが淡々と報道されだした。それは報道とはこうあるべきとでも言うような冷静さと自信に満ちているように感じた。
 そうしてしばらく報道を聞いていると、十二時を告げる時報が鳴り、そのあとラジオドラマの十三回が始まりますというナレーションが入った。どうやら主人公であるらしい女性の声からそれは始まったが、どのようなものなのか何もわからないので、ただ耳から入ってくるセリフを頭の中で文章に変換した。
 興味もないままにセリフの羅列を続けていると、戸の開く音がした。住職が帰って来たようだった。ラジオをつけたまま出迎えるのも失礼かなと思って、電源を落として、リビングに来た住職にお帰りなさいと言った。
 住職は私が迎えの言葉を言ったことに少なからず驚いたようだったが、それでも彼はやはり鶏を思わせる細い首を動かして言葉を返した。右手には袋をさげていて、食料品を買って帰ってきたようだった。
 昼飯はどうしたと聞かれ、パンを買って食べたと返した。すると、住職はぴくりと片眉をあげて、私を流し台に立たせた。そして私にすいはんきの使い方を教えると言った。米の所在とカップの使い方を教わり、すいはんきの使い方を教わった。それで昼ご飯──私はもう食べるつもりはなかったので、その分は夜ご飯に回す──の米を炊いた。冷水にさらされた指は氷になってしまったかのように熱を欠き、痛みを覚えるほどだった。すぐに拭い取りたいのだが、雑に拭うと痛みに沁みるので、あくまでゆっくりと染みこませるようにして手を拭った。隣では住職が冷えた味噌汁を温めなおしていた。これからはお腹が空いたら自由に炊いてかまわないと言ったが、そのたびにこれほど手が痛むのだと考えると億劫だった。
 リビングで住職が昼ご飯を食べ始めると、なんとなく一緒にいるのが憚られたので、自分の部屋まで行った。何とも言えない気まずさだな、と思った。



 夜ご飯を食べているときにまた住職が話しかけてきた。学校についてだった。
「行きたいか行きたくないかだけでいい」
 学校について考えると、私は向けられたあの目を思い出さないわけにはいかなかった。時間が経ち、既にそこまでの拒絶を覚えるほどではなくなっていたものの、あの厭らしさのなかにいざ自分が行くのかとなると尻込みしないわけにはいかなかった。
「行きたくない」
 私ははっきりとそう言った。すると住職は小さく頷いたあと、棚のところからカードを取り出してきて私に差し出した。
「このカードを貸す」
 これがあると図書館から本が借りられるとのことだった。晩ご飯を食べ終わったあとで図書館までの大まかな道のりを書いてもらった──どうやら件のパン屋の近くにあるようだった。図書館と聞くと、以前に新聞の写真で見たことのある館のものが思い出された。ずいぶんと広そうだったので、目当ての本を探すのは苦労するだろうなと思った。
 その後、お風呂に入っているあいだ、ふやけたみたいな頭でとりとめもなしに色々なことを考えた。前に貸本屋で立ち読みした雑誌とか小説の内容を思い出して、これからあのようなものを沢山読むんだろうなとどこか他人事のように思った。それは自分の思考でありながら、奇妙なほど自分のものだと思えなかった。掌にすくったお湯すらも現実感を喪失しているようだった。



 それから寝る段になって、布団のなかで明日のことについて考えた。
 おそらく私は図書館に行くだろう。目を閉じると、瞼の裏に図書館に向かう自分の姿を思い描けた。私はその世界の中でパン屋から漂う濃いバターの匂いを嗅ぎ、斬りつけるような冷たい風を頬に感じることが出来た。私は既にこちらの住人になりつつあることを実感した。
 しかし、なまじこちら側へ馴染んでいくと同時に、半ば諦めかけていた幻想郷への帰還の願望が首をもたげるようになった。何時までここに居るつもりなのかという、ずっと目を背けていた疑問が、その存在感を強めて私を威嚇した。私はそれを無視して、いつか考えることだと自分を説得して、眠りにつくことに尽力した。幸いにも睡魔はすぐにおとずれ、重たい思考はいったんそこで停止された。
 そして、朝に目が覚めたとき、頭は昨夜より幾分かすっきりしていた。澱を取ったような澄んだ心地で朝を迎えられるのは喜ばしいことだった。居間に行くと、とっくに住職の姿はなく、二枚のお札と図書館のカードが置かれていた。朝ご飯はどうしようかと考えて、一瞬すいはんきを使おうか迷ったが、やはり道中のパン屋で買うことにした。その方がもう慣れていたし、朝から手を冷やして痛めるのはためらわれたからだった。
 カードには図書館の開館日と開閉時刻が書かれていた。いちいち自分で確かめる必要がないのは楽だった。開館時刻になったのを壁の時計で確認して、ダウンジャケットを着て靴を履いた。相変わらず外は寒風が吹きつけていて、ポケットのなかでしっかりと手を握りしめてから、図書館への道のりを進み始めた。
 予定通り、道中でパン屋に寄ってミートパイを──他のものを買おうか悩んだが、ここであまり時間を潰すのも気持ちが悪いと思った──買って、その袋を下げたまま歩き続けた。書かれた道案内によると、もう少しで着くはずだった。いくつか道を渡ったところで、灰色をした無骨な建物が見えてきた。どうもあれが図書館のようだった。
 近寄って見てみると、それは石を削りだして作られたかのような、極めて色気のない建物だった。辺りの静けさも相まって、さながら監禁所のような威圧感をまとっているように見えた。しかし、その凄まじいまでの外連味のなさに、私は却って好ましさを覚えた。いつだったか聖が教えてくれた、実用性と適度な装り付けという言葉を思い出したせいかもしれなかった。
 中に入ってみると、まず階段が正面にあった。一階は全体的に薄暗く、長椅子がまばらに置かれ、壁際の一室には公園にあった機械と同じものが多く並べられていた。本がずらっと並んでいる空間を想像していた私は、そこで一度面食らった。並んだ機械を確かめてみると、あのゼリーが売っていたので少し嬉しくなった。
 二階に上がると、そこにはもう多くの書架が立ち並ぶ空間が広がっていた。私は人里にあった貸本屋を思い出した。あそこにも多く本があったが、ここはまったく桁が違うことがわかった。なにしろどこを見ても書架があるので、少し心が高揚しているのがわかった。
 書架にはそれぞれどのような本を収めているのかが表記されていた。まずはそれらを確かめて回ることにした。歴史や哲学や宗教の本があり、数学や化学や生物の本があった。少し奥に入って並んだ背表紙を見ているだけでも、脳のなかの知識を求める部分が疼きだしている感じがした。過去に作詞するために様々な本を読んでいたことを思い出す。なにか新しいことを知るたびに、自分が世界一の知恵者になったような心持ちで歌の一節を考えたものだった。
 試しに歴史の本を手に取ってみると、それは清国とイギリスとの歴史を書いた本であるようだった。書いてあることには理解できない部分が多かったものの、そのうち文章を追うことに夢中になっていき、終いには棚の前に立ったまま読みふけってしまっていた。それから小便に行きたくなるまで、棚の前を離れることはなかった。
 そうして便所に向かったものの、それは掃除されているんだかされていないんだかわからないようなもので、薬の匂いが強く漂い、壁も床も長い年月で滲み出た黒ずみで汚く覆われていた。しかし、それは此処の便所であるならそうでなければならないものであり、小綺麗でないことにむしろ私は安心感すら覚えた。それで、私はこれから此処で時間を使うことにしたのであった。



 それからというもの、私は足繁く図書館に通った。決まったように道中のパン屋でミートパイを買い、機械からゼリーを買って腹を満たした。小汚い便所で用を足した。それらはいつしか私の生活の様式となり、それをなぞることは私に此処にいることに対する安心感を与えるようになった。
 パン屋はいつ行っても同じ歌だけを流し続けていて、そのうちに空で歌えるほどにすっかり覚えてしまった。どうも私はどこまでいっても山彦としての特性を備えているらしかった。ふと、もしかしたらこっちの世界でもこのようにして生き永らえている山彦がいるのかもしれないな、と思った。そうだったら少しいいなと思った。
 それから、私は世界でのいくつかの大きな戦争のことを知り、ライヤットワーリー制とザミンダーリー制の違いを知り、地域による仏教宗派の分布と伝播の流れについて知った。それらは新鮮な知識を得る喜びを与える半面、ひしひしと幻想郷から離れていっている自分の足音を認めさせた。そのたびに私は、これはいつか帰るときのために知識を蓄えているだけだと、此処の住人になったことを認めたわけではないと、自分自身に言い訳をした。
 そうしたある日、民俗学の本棚に幾つもの妖怪の本が収めてあることに気がついた。私はそれを手に取るかどうかで逡巡し、その背表紙を何度も確かめては撫で、最後には足ばやにその本棚から離れた。
 私は、本を手に取ろうか逡巡していた自分を恐ろしく思った──妖怪を外から眺めようとしていた自分が怖くなった。私はそのような立場にはいないはずで、そのようなものを笑うはずの者であった。それがいつかのうちに変わりかけていたことを気味悪く思った。
不意に、今の自分は妖怪なのか人間なのか、そのような疑問が頭に浮かんだ。私は、妖怪に決まっている、と答えた。それは確かなはずだった。



 本格的な冬が始まろうとしていた。
 私は相も変わらず図書館に通いっぱなしであった。しかし何時からか、そろそろこの寺──驚くべきことに、まだ名前を憶えていない──を出て行ったほうがよいのではないかという考えが、頭をよぎるようになっていた。
 さも寺の住人であるかのような顔をしていながら、何の仕事も果たしていないことがなんとも気持ち悪く、またそれに対する罪悪が日増しに私の心につもっていくのを、ふとした合間にも感じていた。疎まれはしていないか、迷惑はかけていないかと、気がつくとそのようなことを心配していることが多くなっていた。そうして勝手な居心地の悪さを感じるごとに、ますますここから飛び出そうとする気持ちは強くなっていった。
 それは図書館からの帰る道でふと、あっちの、帰り道とは別の方に歩いていったらどうなるだろう、といった思いつきの形で現れた。それが日の経つごとに次第に悪くない思いつきのように思えていくのが、堪らなく恐ろしかった。
 そのうち寝る段になると行くあてもなく街をぶらつく自分の姿を想像するようになり、どうにかそれを振り払っているうちに眠りに落ちていくといったことが多く起こるようになった。
 ある風が大きく唸る夜に、私はなかなか寝付けずにいた。その日は街を歩く私を久しく幻視しない、落ち着いて眠れるはずの日だった。しかし、風が窓を打ち付ける音や、屋根が揺れる音などを聞いていると、どうにも目が冴えてしまうのだった。
 そういえば寺を出た夜もこのような感じだったな、とふと考えた。あの日もこのように風が大きく唸って寺を揺らしていた。あの時に出なければ今頃はどうなっていたのだろう、と考えないわけにはいかなかった。しかし一度それを考えてしまうと、途端に今までの全ての選択が間違っていたように感じてしまって、深い後悔が心に押し寄せて私を苛むのだった。
 私はふさぎ込む思考を破るように、わざと乱暴にベッドを抜け出した。部屋の中央に立ってぐるりと辺りを見渡すと、壁にかけられたダウンジャケットが目についた。今となっては、マミゾウさんに貰ったそれが私に唯一残された幻想郷の残滓であった。
 いっそまたあの日みたいに飛び出したら帰れたりしないか──そのようなことをふと思った。
 半ば自動的に私の身体が動いて、ジャケットに袖を通し、押し入れから取り出した靴下を履いた。此処を出ても、どうせまたどこかで何とかなるだろう──そのような都合のいい思考がぼんやりとした頭のうちを巡っていた。色々なものを口実にして、私はとにかく此処を出ていくことにした。
 玄関から出るわけにもいかないので、最初に此処に入ったときと同じ場所から出て行こうとした──のだが、靴の所在を思い出してあっと声が出た。無論それは玄関に置いてあった。なにしろ突発的な家出であるので、わざわざ備えていたりはしないのだった。少しのあいだ考え、やはり無理にでも出ていくべきだと結論付けた。ここで引き延ばしてしまうと迷いが生じると思ったからだ。
 忍び足で玄関まで向かっていくと、リビングから漏れる灯りが目についた。住職はそこにいるようだった。住職のものではない話し声がしているので、おそらくラジオを聞いているのだろう。好都合だとばかりに、急ぎ足ながらも静かにリビングの隣の廊下を抜けた。それから急いで玄関まで移動して靴を履き、急かされる思いでそろそろと戸を開いた。戸を動かすとからからと小さく音が鳴るので、静かにしろ、と心のうちで呟いた。隙間から少しずつ夜がのぞけてくると同時に、入り込む風がびゅうと声をあげる。今だけは吹くなと風に言い聞かせながら、なんとか半身をねじ込めるほどの空間を確保した。
 ふとその時、ひときわ強い風が吹いてびゅうびゅうと大きな声をあげた。私は無我夢中で隙間に身体を押し込み、そのままの勢いで夜のなかに飛び込んでいった。



 途中で後ろを振り返ってみたが、そこには何の気配もなかった。どうやら家出は成功したらしかった。少し時間が経って気分が落ち着いてくると、あの寺から出て行ったのだという事実がじわじわと頭に浸透していった。冷たい風がはだかの私の顔を撫でていった。
 辺りを見渡してみると、やけにしんとしていることに気がついた。遠くの方からときどき車の音がしてくるだけだった。私はいちど大きく白い息をつくと、はじめに居た森へと向かって歩き始めた。
 道路をなぞっている途中、道の端に自動販売機があることに気がついた。夜のなかでそれが放つ光はよく目立っていた。寒いので何か買おうと思い、迷った末にココアを買うことにした。缶をダウンジャケットの内ポケットにしまうと、じわじわとその熱が伝わってきた。
 いくらか歩いたところで、目指していた場所に近いところまで来ることができた。一方にはコンクリートの壁があり、もう一方にはうっそうとした森がガードレールの後ろに広がっていた。そのまま道なりに進んでいくとカーブのところに古ぼけた電灯が見えた。それは間違いなく私がここに来てすぐに見たものだった。
 私はガードレールに手をかけて、ひといきにそれを乗り越えた。手がすこしだけ汚れたが気にならなかった。
 強い風が吹くたびに森じゅうがざわざわと音を立てて揺れる。初めのほうは後ろに見えていた電灯の光も、既に見えなくなっていた。私はここに来たときのことを出来るだけはっきりと思い出しながら、どこかに寺の影がないか長い時間をかけて探した。どこも暗くはあるものの、もとより夜目がきく性質であるので、探しものに滞りは生じなかった。
 こうして夜の森のなかを蠢いているとふとした合間に昔のことを思い出す。休憩がてらふところから取り出したココアを飲みながら、しばらくのあいだ懐かしい思い出に浸っていた。終いまでココアを飲み切ってしまうと、空になった缶は寒風にあたって急激に冷えていった。かろうじて残っていた熱まですべて掌から吸い上げてしまうと、こぼれたりしないよう気をつけながら胸のポケットに押し込んだ。そうして少しだけ回復すると、何か見つからないかとまた探し始めた。



 寒いとはいえずっと動き続けているので、ダウンジャケットの下はいくらか汗ばんでいた。いったん木に寄りかかって息を整えると、存外にはやく気持ちは落ち着いていった。あるいはそれは暗いところに居るせいなのかもしれなかった。
 膝を抱えて座り込むと、身体が冷えていく感覚が奇妙なほど気持ちよく感じた。そうしていると次第に瞼が重くなっていって、このまま眠りに落ちようかというほどの眠気が襲ってきた。
 意識をうしなう手前のところを彷徨っているあいだ、私はあの寺で過ごしたときのことや住職のことを思い出していた。あれだけ世話になったのだから、せめて住職にお礼を言ってから出るべきだったななどと今更ながらに考えた。まどろみながらこちらでのあれやこれやを思い返していると、眠気が増すにつれてそれらに夢の断片が混じるようになっていき、終いにはそれらは完全に夢に取って代わられた。
 気がつくと私は図書館にミスティアと一緒にいた。長椅子に隣り合って座り、それぞれ持った本に目を落としていた。ミスティアがどのような本を読んでいるかはわからなかったが、邪魔をするのも悪いと思って訊くことはしなかった。私はというと、書かれた文章の意味をうまく呑み込めず、なんども同じ箇所を繰り返しながらちみちみと読み進めていた。しばらくそのようにしていたのだが、次第に疲れてきたのもあり、今日は本を読めない日なのだと結論づけて本を閉じた。隣に目をやると、ミスティアは黙々と自分の本を読み進めていた。
「どんなの読んでるの」
 気まぐれにそう訊くと、ミスティアは読んでいる本を持ち上げてその背表紙を見せつけた。私はそれを見て驚いた。彼女はあの妖怪の研究本を読んでいたのである。
 もちろん、ミスティアがどのような本を読んでいてもおかしなことはない。しかし私が遠ざけた本を彼女が読んでいるというのは、奇妙な因縁を感じずにいられなかった。私は気を紛らわすように、閉じていた本を開いてまた読み始めた。相変わらず文章はうまく入ってこず、その代わりに頭のなかは考え事でいっぱいになった。不意に、なぜ私はミスティアとここに居るのだろうと思った。こちらに来てからミスティアと出会ったことはなかったはずなのに。そのことに気づいた瞬間に眠りから覚めた。
 私は暗い森のなかに木にもたれて座っていた。頭が徐々に覚醒していき、ようやく自分が夢を見ていたことに気がついた。すぐに立ち上がろうとしたが、足がかじかんでうまく動かなかった。変だなと思って足をさすっていると、強い風がふいて、冷えたシャツが身体にまとわりつく感触に思わず身震いした。眠っているうちにかなり体温が下がってしまったようで、気がつくと身体の震えが止まらなくなっていた。
 それほどの寒さに襲われながらも、不思議なことに痛みや苦しみといったものはほとんど感じなかった。ただじんわりとひろがる脱力感と、それにともなう心地よさだけを感じていた。頭がぼんやりとかすんでいく感覚に、私はリラックスすらしてその心地よさを受け入れた。
 まだやるべきことがあるのはぼんやりと覚えているのだが、それがはっきりと思い出せないために心地よさに抗えない。そのうちにまた逆らいがたい瞼の重さが生じてくるようになった。
 いっそこのまま眠ってしまおう、と思った。今までのこともこれからのことも頭のうちには無かった。今はただこの心地よさを感じていたかった。私は目を閉じて、一切の思考を放棄することにした。



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