Coolier - 新生・東方創想話

誰がために星は周る

2023/05/03 11:27:32
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 龍は望遠鏡のレンズと手帳に交互に目を通していた。手帳に視線が向いている間はページに計算式を書き込んでいく。
 龍はとある彗星の観測をしていた。それの近日点と地球への最接近日を予測する。もっとも、例えばその星が占星術において特別に意味を持つとか、地球に衝突するおそれがあるとか、観測しなければならない事情があるわけではない。これは単なる趣味である。
 典は龍が一銭にもならぬことをしているのを見て珍しいこともあるものだと思ったが、いつも鈍器として使っている三脚が望遠鏡の台座になってるのを見て、今日は三脚で殴られることはないだろうと安堵した。
「飯綱丸様。良いニュースと悪いニュースがあります。どちらから聞きますか?」
「良いニュースからで」
「千亦殿との交渉は首尾よくゆきました。夏頃に機を見て市を開くと。細かい日取りはこちらに一任してくれるとのことでした」
「重畳重畳。あいつが力をつけて反抗してきたときはどうなるかと思ったが上手く手綱を握り直せたな。して、悪いニュースとは?」
「人里で妙な噂が流行っているそうなのです」


***


 発端は外の世界の新聞だった。
 その新聞は相当古かった。端に書かれた元号は幻想郷住民も知る「明治」だった。無縁塚に流れつく新聞を熱心に集めていた一部物好きは、明治以降少なくとも四回も元号が変わったことを知っている。元号を変えなければならないほどの不幸がそれだけあったということは痛ましいことではあるが、幻想郷が外の世界と別れてから相応の歴史を重ねてきたということも意味する。
 もっとも、情報の古さというのは幻想郷ではさほど問題にならない。結局のところ、外の世界からの情報が広まるかどうかというのはそれがウケるかどうかで決まる。外の世界で百年以上前に流行った終末論ですら広まったことがあるのだ。件の記事が広まるのは必然とすら言えた。なぜならそれも百年以上前に流行った終末論だったからだ。
 今回の終末論の主役は彗星だった。彗星が衝突して滅ぶ、彗星の尾には毒があって通過するときに地球の酸素が無くなる。外国の学者がそう言っていたなどと、もっともらしく権威付けすることも忘れない。
 とはいえ、外の世界で噂が流行したのは明治のことだ。外の世界の新聞を蒐集している物好きは、明治以降改元が複数回なされたという情報から外の世界の人類史は明治を越えてなお続いていることを知っている。新聞を蒐集していなくとも、山の神社の巫女は「平成」を知っていて、頻繁に幻想郷に来る種族女子高生の外来人は「令和」を見ているから、どちらかの知り合いならこのとき人類は滅亡しなかったと分かる。
 だが、それでも噂は幻想郷内で流行し、それなりに信じられた。
 噂を人里に広めたのは一人の天狗。彼の語り口が巧妙だった。百年以上前の話というところはぼかしてそれらしい要素だけ抽出した。更には記者の見解として、「この話通りに人類が滅ぶのかどうかは非常に怪しいものだが、古くより彗星の接近は凶兆とされる。それは単なる迷信などではなく、彗星が本質的に有する有害性にあるのではないか」という結論をつけた。新聞を集めていることまではしていても、彗星が近づくという現象が本当に凶事の前兆なのかどうかを統計的に調べようという物好きは皆無だったから、この記者の結論部分まで断言して否定しようという人は現れなかったのである。
 不安に駆られた人々は隙をみては空を見上げた。天が落ちてくることを憂いた杞の人はもはや嘲笑の対象ではなく、人として当然の反応を示したと新たに歴史解釈がなされた。
「あんなところに星なんてあったか?」
「ちょっと待て……。あの星、動いてないか?」
 注意深く空を観察していた幻想郷の村人は、龍が観測していた彗星を、それが六等星でしかないほどの遠距離から目ざとく発見したのだった。


***


「はー……」
 龍は珍しく、人目も憚らずに落胆のため息をついていた。報告のために龍の元を訪れた文はただただ困惑していた。
「あのお……」
「ああ、調査ご苦労だった。しかしこれはねえ……」
 龍は件の新聞を広げていた。全体的にしわが寄っていて、特に手で持つ隅のあたりは酷い有様だ。文が人里に落ちてたのを回収して龍に渡すまでは割に綺麗な状態だった。龍が怒りに任せて一度丸めたのだろう。今も気持ちを落ち着かせようとはしているようだがその手は震え、紙の状態を現在進行形で悪化させている。
「話題とりのためにいたずらに幻想郷を混乱に陥れる。しかも科学的根拠のないとんだペテンときた! 天狗の報道機関はここまで腐ったというのか!?」
「ペテンなのですか? 方向性はともかく、論調は割に啓蒙的に見えるのですが」
「こんなのは、どこの馬の骨とも知らぬ科学者の権威にすがってそれらしいことを並べ立てているだけだよ。確かに、スペクトル分析によってハレー彗星、これが記事に書かれている彗星の名前なのだが、それの尾には青酸塩(
シアン
)
が含まれているということは明らかになった。しかし、濃度は無視できるレベルでしかない。少しの毒も許されないというのなら全ての野菜は毒草だ」
 文は、野菜嫌いの人なら野菜が毒草という部分含めて信じると思いますよ、と茶化そうと一瞬思ったが、それが許される雰囲気ではなさそうだった。そもそも自分が出したわけでもない新聞の批判をどうして自分が受けなければいけないのか。露骨に不貞腐れた顔をした。
「すまん。お前に愚痴をこぼしてもどうにもならないことだな。対抗世論を作り出すための新聞の発行は任せたよ」
「御意」
 文は一礼して外に出た。早速情報収集に向かったらしい。翼が風を切る音が聞こえてきた。
「ただ、これだけでは足りないのだろうなあ」
 龍は文を帰らせたあと一人そうこぼした。安定した秩序を保つための情報の流し方とは、「正しく・堅実に」なのである。最近の『文々。新聞』も堅実路線に舵を切っていた。龍が直接指示したのではなく、恐らくは龍が別の人に刺した釘が巡り巡って文にも刺さったのだろう。だから龍は新聞発行を文に任せたのだが、これは典型的なウケない記事の書き方だ。『文々。新聞』も例外ではなく、ここしばらくは販売数が伸び悩んでほぼ横ばいらしい。下降に転じないところに文の手腕が現れていて、そこは龍も素直に尊敬するところなのだが、一発屋とはいえウケる記事を書いてしまったあの天狗に対抗しきるのは難しい。
 文の新聞だけでは不足な以上、もう一手必要なのだが、その手が思いつかない。
 龍は煙管に火を付けた。葉は賭場の山郎女からの貰い物だ。彼女曰く煙を吸うと気分が落ち着くとのことだったが、不味い煙(もっと上質な葉を買える身分にとって、これは神秘性を抜きにした質の面では安物としか言いようがない)を吸っても、くゆる煙を見ても龍の苛立ちは消えなかった。偶には葉を変えてみるかと、気になっていたのを貰ってみはしたものの、これはあの太夫の能力を使うか、あるいは彼女の特注の煙管を使うか、どちらかでないと効果を発揮しないらしい。
 龍は騙された気分になった。煙草の不味さによりネガティブになる。あの記事をばら撒いた天狗も、駒草太夫も、世界中の誰も彼もが自分を騙して嘲笑っているのではと疑いの芽が龍の胸中で首をもたげた。


***


 典が煙い部屋に入ってきた。
 典は扉を開けるなり露骨に嫌な顔をしていた。ヤニや煤が服に付きかねないからだろう。彼女は何よりも服が汚れることを嫌う。
 一方龍は典を見て顔が少しほころんだ。今の彼女にとって一番たちが悪い輩とは、その気がないのに自分を騙してくる存在だ。一方典と言えば、龍にしてみれば満点の悪意で使役者たる自分のことすら騙そうとしてきながらも、その実悪意が見え見えなせいで全然騙せない可愛い奴だ。
 典は黒いゴム製のチューブを持っている。騙しごとの種か。溝が彫り込まれていることとそれほどでもない太さから、龍はそれが自転車のタイヤ用のチューブだと予想した。此奴はそれでどうやって自分のことを騙そうとしてくるのだろうか。
「それは何だ?」
「自転車のチューブですが?」
「ああ。聞き方が悪かったな。それが自転車のチューブであるのは見れば分かるよ。なんでチューブを持っているんだ。新しい家にしたいのか?」
「そうですそうです。長らくガラス管に住んでいましたけど透明だとプライバシーもあったもんじゃないですし、やはり住処にはある程度の柔らかさをですね……。って、んな訳ないでしょう。商機ですよ商機」
「ほう」
「最近彗星の毒がどうとか話題になってるじゃないですか。みんな毒を吸わないで済む方法を血まなこになって探してます。そこでこれですよ。自転車のチューブに入った空気を吸えば五分くらいは持つ。この五分ってのがミソです。彗星が通り過ぎる時間に過不足ないので、ちゃんとコストカットしているように見えてお客さんからの心象が良い。流行りますよこれは」
 自分を騙そうと甘言を囁いてくることまでは予想していたが、予想以上の不快さだ。龍は般若の顔になったが、こいつはそういう奴という諦めが勝ったのでとりあえずは一発三脚で殴るに留めた。
「馬鹿たれ。こちとらその悪い噂を抑えるのに必死なんだ。なんで噂を広告するような真似をしなきゃいけないんだよ」
「飯綱丸様にしては察しが悪い。商機だって言ってるでしょ? お金ですよお金。噂がなんですか。名声はお金で買えるんですよ? 後で適当にばら撒いておけば無根拠な噂に乗っかった程度の汚名などたやすく消すことができます。稼いでおけるときに稼いでおかないと」
 飯綱丸はもう一度典を小突いた。
「だからお前は教育されるべき馬鹿たれなのだ。稼いだお金で稼ぐときに負った汚名を消して、それで何が残る? 僅かな差額だけだ。彗星騒ぎに乗じて自転車チューブを売りさばいた悪徳業者の名前なんて、百年先には誰も覚えちゃいない。ここは人間に恩を売って天狗の名を広めるべき局面だ。覚えておきな。世の中には金では買えない歴史と信仰というものがあるのだ」
「手立てはあるんですか?」
 典は騙しは三流だが、精神の弱みに付け込むことに関しては超一流だ。龍は痛いところを突くなあとため息をついた。
「あるとも言えるしないとも言える。お前ではなく、千亦との協力が必要だ。明日会いに行くと伝えてくれ」
「承知しました。ところでこれはどうすれば……」
 典は首にかけたチューブを持て余し気味に龍に見せた。
「お前の新しい家だ。プライバシーに配慮した柔らかみのある家が欲しかったんだろう?」
「なんでですか。こんな臭い筒、家にしたくはないですよ」
「じゃあ罰ということにしよう。そこに籠もって頭を冷やして反省しな。それと、そのチューブを買うのにいくら払ったのかは知らんが自腹だからな? 経費は降りんぞ」
 典は物悲しい顔で懇願するかのように龍を見つめ、願いが聞き入れられないことを悟ると主人に罵倒の言葉を吐いて去っていった。しかし、物憂げに宙を見つめ思案する龍に、典のそうした一挙一動は一切届いていなかった。


***


「珍しいわね。お前がそんな不景気な顔をしてるなんて」
「会って早々、あんまりな言い草じゃありませんか。しかしそうですね。状況は良くありません。神である貴方は誰よりもよく分かっていることでしょうが」
 龍は千亦に機嫌の悪さを指摘され、バツが悪そうに頭をかいた。
「私に会いに来たということは、市場の話?」
「ええ。文月の末のこの日と、一週間前に開きたい」
 龍は暦を千亦に見せて提案した。
「二回開くのね。そして、日取りは任せると確かに言ったけれど、このタイミングでここまで細かく指定してくるということは」
「恐らくはご想像の通り。二日目の方が、彗星が地球に最接近する日になるはずなのです」
「流石大天狗様はやることが違うわね。この事態にも予め備えていたとは」
「備えてなどいませんよ。趣味がたまたま役に立っただけで」
 龍は高笑いしたが、直ぐに真顔に戻った。
「それに、彗星に合わせて市を開いたところで、問題は半分しか解決しない。それもまた、神である貴方が一番ご存知のことかと思うが」
「確かにね。市場というのはケガレをハレに転換させる場でもあるから、市場が無事に開ければ問題は解決する。市を開くというお前の提案自体は凄くいい案よ。でもいくら幻想郷の人間が酔狂だからって、自分の命が危ないかもしれないのに市場に来るほどぶっ飛んではいないわよねえ。それはどうするつもりなの」
 千亦は「お前のことだからどうせ何か案があるんでしょ」と言いたげな目で龍を見ている。龍は自分のことを買いかぶりすぎだと当惑した。いい案が思い浮かばなかったから不景気な顔で相談しに来たのだ。あるいは、千亦が能天気すぎるのかもしれない。一度は消えかけた神だ。悪い意味で面構えが違う。
「解決方法が思い浮かばなかったので貴方に相談をしに来たのです」
「それは、私への当てつけかしら」
「?」
「無理やり市を開いてそこに人を集める能力があったら、私はここまで落ちぶれてはいなかったわよ! 災害、疫病、戦争。ありとあらゆる要因で『開かれなかった』市を私は見てきたわ」
 千亦が暗い過去を吐き出すかのようにまくしたてたのを見て、龍は地雷を踏んでしまったかと思ったが、千亦本人はひとしきり絶望して見せた後息を吸って、元の顔に、いや、元よりもだいぶ達観した顔になった。
「別に、一回市が中止になった程度で死にやしないのよ。人間も私も。私からできるアドバイスは時局を鑑みて待つことも時には必要ってことよ。つまり何もする必要はないんじゃなくて?」
「それでは困るのです」
「どうして?」
「理由は二点。一点目に、彗星のデマに悲観して自殺する人が人里に現れているようなのです。有象無象の一人が死ぬという状況ならともかく、幻想郷という狭い空間での人死には人妖のバランスに悪影響を与えます。二点目に、誠に遺憾ながらこのデマを直接的に流したのが天狗でして。確かに彗星の毒云々は全くの事実無根なので放置すれば勝手に事態は収束するのですが、全てが終わった後に『天狗の新聞はまるっきりのペテンじゃないか』という印象だけが残っては我々の一人負けに終わってしまう」
「つまり、自分の部下の失態の尻拭いをした上で、あわよくば人里への天狗の影響力を確保したいから市を開きたいって? 清々しいまでの天狗ファーストね」
「一つ訂正させてください! あんな阿呆、断じて私の部下などではない。どうせ程度の低い脳しかもっていない老害組の誰かが……。失礼、取り乱しました。私は天狗社会全体の利益を思って行動しているのですが、あらゆる存在による市場を統括する神様にとっては天狗社会でも狭すぎるように見えるのでしょうね。それでは駄目だと?」
「駄目とは言っていないわよ。目的はどうあれ結果は幻想郷全体の利益になりそうだし。ただ上に立つ立場には上層部なりの苦労があるんだなって」
「そりゃどうも」
 神にも出自や生まれた順番による上下関係はあるのではないかと龍は思ったが、千亦は天狗のような上下社会に対して随分と他人事だ。格を意識するような層ではないのか、あるいは格そのものから外れているのか。
「協力していただけるのはありがたいのですが……。やはり案は浮かばないと」
「アドバイスはしたでしょ。待つことも必要なのよ。まだ最初の市まで十日もある」
「十日しか、でしょうに。しかしまあ、一分以内に発案しないといけない、というほど切羽詰まっているわけでもないのはそうですな」
 龍は伸びをした。
「せっかく私のところまで来たのだし、今夜は晩酌しない?」
「それは構わんですが……。ここでですか?」
 千亦は神社を持たぬ神様だ。つまり家がないということであり、今二人がいるのは妖怪の山の頂上付近。当然屋外だ。
「外でお酒を飲んだからって凍死するような季節でも種族でもないでしょ。それに、前にもここで飲み交わしたじゃないの」
「そうでしたな」
 第一回月虹市場。アビリティカードの効果を確認するという大事な目的があって開いた市だったが本筋の交換は一瞬で終わり、後は飲み会になった。酒を持ち込んだのは自分だったか、それとも百々世だったか。二人ともだったのかもしれない。今となっては思い出せない。あの日から随分と経ってしまった。


***


 その夜は晴天だった。天気が良いので月に虹はかかっていない。千亦は「何もかも前と同じというわけにはいかないわね」と残念がっていたが、龍は月虹にならず良かったと思っている。月に虹がかかろうものならこのカラフルな神は市を開こうとはしゃぎ始め、静かに飲むどころではなくなっていただろう。
「つまらぬ噂の火消しなんぞに奔走していなければ、良い星見酒になったでしょうに」
「折角星が綺麗なんですから、数時間くらいはそんなことは忘れて飲み明かしましょうよ」
 恨み節を吐く龍を千亦は慰めた。
「それもそうだな」
 龍は千亦から酒を注いでもらう。
「お前はやっぱり星が好きなの?」
「まあ、好きといえば好きだな。星の観測ってのは何ヶ月も、何年も、星と向き合い続けるということだ。もし星が嫌いだったら耐えられないだろうね」
「嫌いだったら耐えられない、というよりもよほど好きじゃないとやらない、というように私には見えるわね。人間は、特に幻想郷の人達は酔狂な人は多いけど飽きもせずに星を見続ける物好きはほとんどいないように見える」
「私が物好きの変人だと言いたいのか」
 龍は手元の酒を一気に飲み干した。
「褒めてるのよ。物好きがいるから科学は発展するの」
「神様が科学を語るかね。まるで守矢のとこの祭神だ。しかし貴方の言う通りだ。人間は我々天狗と違って物好きに欠ける。だから進歩しないのだよ」
「『もっと啓蒙された時代に生きていれば……』なんて嘆いていたこともあったわね」
「ああ。あれは四、五百年くらい前に彗星が来たときだったか……。ちょっと待て。その時代だと貴方は力を失って消えていたときではないか? なぜ知っている」
「神様ってのは姿を消したからといっても即消滅というわけではないの。僅かながらの信仰でも残っていたら消えかけで残るし、そのときの記憶もちゃんとあるわ。お前は私といい八坂の神といい力を失った経験のある神との付き合いが多い癖に知らなかったのね」
「言われてみればそうだな。釈明すると姿が見えないからお前が近くにいたとは知らなかったのだよ」
「私はいつだって市を開くものの味方ですので」
 龍は祭り好きだから、祭りと、それに付随する市も頻繁に企画していた。かの啓蒙された時代云々の発言も、折角企画した祭りが彗星騒ぎで中止になったときの嘆きである。
「しかし、繰り返すようだが人間は進歩しないなあ」
「そうかしら? 貴方の専門だと、星の動きやら成り立ちやら、随分と正確に説明できるようになったらしいじゃないの」
「だが、五百年経っても彗星は凶兆のままだ」
「で、また啓蒙された時代に生きていればって嘆くの? そこがお前の人間に対する解像度の低いところよ。啓蒙されていないから凶兆だって言ってるんじゃなくて、啓蒙されたから根拠をもって凶兆だって言ってるの」
「啓蒙したのは天狗の……天狗の屑だがな」
 龍は吐き捨てるように言い直した。
「それを受け止め理解したのは人間よ。実は私、あの天狗の新聞の結論は一理あると思っているの。彗星は昔から『理由付きで』凶兆だと言われ続けてきた。今が青酸塩で、その前は衝突云々。星回りがどうのこうの言っていたときもあったし、ああそうだ、天狗の正体が彗星だなんて言ってた時代もあったわね」
 千亦は龍を見て笑った。その能天気な笑みが龍の逆鱗に触れた。
「何なんだ貴方はさっきから! 『噂のことなんて忘れて飲み明かしましょう』なんて言っておきながら混ぜっ返すようなことばっかり言って!」
「全ては感情の問題ってことよ。今、人間は星を見て恐れ、お前は怒っているけれど、星空に向く感情はそれだけじゃないでしょ」
 千亦は龍の眼前に一枚のカードを突きつけた。薄いオパール色に輝く加工以外は無地のカード。アビリティカードとしての性能があまりに低く闇市場が流行したときにはたらい回しにされた煤けた色のカードばかりが流通していたが、千亦の持つ空白のカードは新品同様だった。悪貨に駆逐されなかった良貨がそこにはあった。
「初めて月虹市場を開いたときのこと、覚えてる? お前はアビリティカードに込められた魔力が効果を発揮したのを見て、子供のようにはしゃいでいた」
「ふん」
 龍は赤面して鼻を鳴らした。
「私はその様子を見て、アビリティカードは成功すると確信したの。ワクワクというのは最上級のハレの感情よ。前向きだし非日常。誤算があるとしたならば、お前が子供でいた期間、いや、子供でいられた期間が存外に短かったことだが……。話を戻しましょうか。星の話に。今世の中では星はケガレの象徴だけど、市場を開いてハレの場にしたい。これは私とお前の総意だけれど、今のままの世論では困難を極める。だけど、お前なら、星と祭りを愛するお前なら、市場以外にも星の素晴らしさを啓蒙する方法はあるのではなくて?」
「回りくどい。答えがあるのなら、はっきりとおっしゃればよいではないですか」
「答え? 残念ながら私は市場を開くこと以外には能がなくてね。脳を働かせるのはお前の仕事だよ。ほら、会ももうそろそろお開き」
「まだ時間はそこまで……」
 龍は空にかかる星の位置を見て、存外に時間が経ってしまっていたことに気がついた。三時間飲んだ酔いではないが……。
 龍は酒瓶を手に取り、それが空になっているのに気がついた。何本か持ち込んだが、どれも同じだ。
「あの市場の神……」
 龍は第一回月虹市場の後の飲み会のことを思い出した。自分だったか百々世だったかが持ち込んだ酒で宴会を開いたはいいものの、二人に加えて千亦までもが大酒飲みだったせいで持ち込んだ酒が一瞬で空になり、結局龍の邸宅で二次会を開く羽目になったのだ。今日も酒を供物と受け取ったのか、ちゃっかりかなりの量の酒を飲んでいたらしい。
 龍は辺りを見渡したが、酒瓶を見ながら千亦の蟒蛇(
うわばみ
)
振りを思い出しているうちに、当の本人は立ち去っていた。


***


「おっ。霊夢じゃん。お前も来たのか」
「文からプラネタリウムやるって話を聞いたのよ。あいつも偶にはいい話もって来るわね」
 少女が二人、人里近くの丘にやって来た。
「にしても、折角のイベントなのにあんまり人来てないわねえ。これならうちでやった方が良かったんじゃない?」
「人里の近くだったからこの程度で済んだんだろ。神社で開催してたら閑古鳥が鳴いてたんじゃないか?」
「うっさい。まあ、ちょっとみんな噂に対して神経質になってるからね。明日死ぬかもしれないのに暢気に天体観測なんてわけにもいかないと思ってるのかな」
「そうですね。悲観的な心情を楽観的に向かせるのは中々難しいのですよ。貴方がたが暢気な性格で助かりました」
 龍が近づいてきた。向こうの人混みがまばらな上、長身を高下駄型のブーツで更に伸ばしているものだから遠くからでも目立つ。
「馬鹿にしてるのかしら」
「よくぞ来て下さいましたと賞賛しているのです。来て下さった方々が評判を広めてくれれば来週は大入り間違いなしですからね」
「随分な自信だな」
「私自らが腕によりをかけて提供しますので。絶対リピートしたくなる天体ショーをお届けしますよ」
 そう言って、龍は手を振って立ち去っていった。
「何だったんだあいつ」
「さあね。それより魔理沙……」
「なんだ、霊夢」
「おかしくない?」
 霊夢が丘の頂上辺りを指さして聞いた。
「何がだ? 特に何かあるわけでも無さそうだが」
「それがおかしいのよ。プラネタリウムってさ、ドームの中で機械で星を映すものじゃなかったっけ」
「言われてみればそうだな。おい、機械の運び入れが遅れてるんじゃないのか?」
 魔理沙はたまたま近くに出店を出していた河童のにとりを問い詰めた。
「何の事だい? 君から依頼を受けた覚えはないぞ?」
「私のことじゃなくてプラネタリウムの機械だよ。無いと上映できないじゃないか」
「はー。君達はそそっかしいなあ」
 にとりは呆れ顔で帽子のつばを抑えた。
「今回は私達は関わってないよ。プラネタリウムイベントは大天狗様達がやるんだって。私は場所代払って市場の屋台を出してるだけ。新聞にも『天狗のプラネタリウム』って書いてなかった?」
 書いていた気もするし、書かれていなかった気もする。二人にとってはプラネタリウムをやるという事実自体が重要で、誰が開催するかということには注意を払っていなかった。
「もうそろそろプラネタリウムの開演時間だね。いい席とる前に買い物するんだったら今のうちだよ」
 にとりは時計を見ながら、呆然とする二人に話しかけた。
「いんや。私はお前に依頼はしていないし、するつもりもないからな」
 魔理沙はにとりが商人モードになったのを見て、未だ思考を回復させていない霊夢の腕を引いて去っていった。


***


「皆様、本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」
 龍の声が会場に響く。プラネタリウムが始まったらしい。
「本日の天狗プラネタリウムは、河童の機械を用いたプラネタリウムとは少し趣向を変えまして、この夜空全体を星々を映す天球とするものです。雄大な大自然のショーをどうぞお楽しみください」
 なるほど、空の全てを使えば、ドームなど比較にもならないほどの大迫力でプラネタリウムができるだろう。しかし、いくら幻想郷の夜が暗かろうと、今日の天気が良かろうと、半月に照らされた夜空は星を映すのに最適とは程遠い。
 そう思っていた会場の人達が全員、次の瞬間にざわついた。丘は一層暗さを増し、その理由に気が付いた人達は空の一点を指さして叫んだ。
「月が!」
 月が姿を消し、しかし、天狗はそのことが予定調和であるかのように、淡々とした口調でナレーションをする。
「さて、今日は文月。文月と言えば、文月の七日の夜、七夕です」
 天の川が強く光り、その両岸の星が二つ、光る丸で囲まれた。
「天の川は鬼神の河であり、ここから鬼の酒が地上へと流れ込むのです……」
「なるほど、弾幕の光弾とレーザーを使って見せたいところだけを強調しているのか。考えたな」
 魔理沙が知ったような顔で呟く横で、霊夢は今一つ腑に落ちないと感じていた。弾幕を強調表現に使う。それは分かった。しかし、月が消えた問題は解決していない。観客は皆、星の綺麗さと龍の語り口の上手さに直ぐに忘れてしまったようだが。
 天の川の話から織姫・彦星の話に映り、夜空には夏の大三角形が大きく映し出されていた。龍の解説もひと段落付き、観客は喋りながら、あるいは出店で買った酒や食べ物を口に含みながら空を眺めている。
「さて、ここまでが夏の星空の話でした。プラネタリウムの後半では、妖怪の星座の話をしましょう。まずは伊吹童子座です」
 今度は霊夢が「ほーん」と暢気な反応を返す横で魔理沙が不思議がった。
「伊吹童子座? 伊吹童子(
オリオン
)
は冬の星座だろ? 夏でも見えないことはないが、まだ早いはずだが……」
 魔理沙は地平線の近くに目線を向けた。夏に伊吹童子座が見えるとしたら地平線ギリギリだ。しかし、夏の伊吹童子座は葉月になってから明け方近くに辛うじて見えるという星座だ。今は季節も時間帯も微妙に合わない。
 星が動いた気がした。地平線近くを見ていた魔理沙は気がした、程度の認識だった。だが、魔理沙以外の馬鹿正直に上を向いていた観客は明らかに天球中の星が動き回るのを見た。胆力が座ったものだけは「なんなんだこれは……」と絞り出すように呟くことができたが、他大勢はただただ沈黙するしかなかった。
「伊吹童子は長らく幻想郷からも姿を消していたと言われていた鬼の一角です。中央にひときわ明るく輝く三連星は伊吹童子の持つ三つの力を象徴していると言われています。この星座は、本来は冬を代表する星座です。伊吹童子も他の鬼と同じくたいそう酒好きなのですが、星座の伊吹童子は、天の川が一番濃くなる夏に、その酒を飲むことができないのです。なんとも皮肉ですね」
 龍の気の利いたジョークも、混乱した観客には拾うどころではない。星の神秘以上に大天狗の底知れぬ力に皆が畏怖する間に夜空はもう一度回る。
 今度は春の空。天頂付近に一際明るくセプテントリオンが輝いている。
「天龍座は特殊な星座です。これは天に登った生きた龍なのです。天龍は北極星を喰らわんとそれに近づいています。天はとてつもなく広いのでその速さは微々たるものですが、数千年後に天龍は北極星を喰い、そのとき世界に大きな変化が起こると予言されています」
 天龍が動いた。動き始めに霊夢と魔理沙は河童のプラネタリウムでも見た演出だなあという感想を抱いたが、角度にして十五度程動いた辺りで思い出した。これは本物の星空なのだ。
 (
りゅう
)
はいるが、(
めぐむ
)
の姿が見えない。(
めぐむ
)
を止めるのが一番手っ取り早いが、どこにいるのか分からなければ干渉のしようがない。(
りゅう
)
を止める? 残念ながら勝てる気がしない。
 二人は動けなかった。武器だけすぐに使えるようにして、天龍が北極星に近づく様をただ見つめる。龍が北極星に牙を突き立てるようなことがあれば、玉砕してでも止める構えだ。
 無慈悲に龍は北極星に近づき、……そして止まった。ざわつきの中で、天龍は墜ちて夏の星空に戻る。
「本当に天龍が北極星を食べたとき何が起こるのか。それは残念ながら我々天狗にすら今のところ分かりません。しかし、数千年後に世が大きく変わるという予言がなされていることこそ、数千年世界は続くということを保証する祝言なのだと私は思います」


***


 大天狗が主催したプラネタリウム。スリルのある天体ショーに観客は概ね満足していたが、ただ一人、博麗霊夢のみは異を唱えていた。市の翌日、彼女はプラネタリウムで行われた天体の移動を異変だと判断し、首謀者である龍を退治すべく妖怪の山を登っていた。
「やはり侵入者は貴方でしたか」
「予め知っていたかのような口ぶりね。あの大天狗とグルなんでしょ? 通るなと言われても通らさせてもらうわよ」
 霊夢は文に大幣を突きつける。
「通るなとは言うわ。この山は入山禁止。あとね、飯綱丸様からは特に何も聞いてないわよ。……まあ、『麓の辺りを張っていたら特ダネがあるぞ』くらいの匂わせはされたかな。でも基本は自分の足で得た情報よ」
 文は大団扇で大幣の端を叩いてそれを霊夢の手から弾いた。
「早とちりの巫女が飯綱丸様を退治に山に入るって」
「早とちり? 昨日あいつは星の並びを書き換え、天変寸前にまで進めた。私が早とちりなんじゃなくて、それほどの所業に何も思わないのが鈍感なのよ」
「星の並びを一瞬変えただけで何を大げさな。良いですか? 幻想郷には運命を操る吸血鬼も、定命の者を無差別に殺せる亡霊も、太陽の力を持つ妖鳥もいます。いずれも悪用すれば世界を破滅させかねないが、その可能性だけをもってして排除しようとはならないでしょ」
「そいつらは、少なくとも今は、何もしてないから良いのよ。でもあの大天狗は実際に星を動かした。この差は大きい」
「そうね。で、それで『何が起こった』のかしら?」
「ぐっ」
 霊夢は山中での格闘で行き止まりに追い詰められたことと、文の指摘に気の利いた反論を思いつかなかったことの二つからうめいた。
「飯綱丸様は、天龍が北極星を喰う寸前で止めた。そのことはむしろ、能力を使って何かをしようという意図はないという意思表示だと思わない? まさか、能力を使った段階で有罪なんて言わないでしょうね? 空を飛んでここまで来た巫女さん?」
「言わないわよ。興が醒めたし帰ろうかしら」
「それが良いですよ。待ち伏せした甲斐があったというものです。面白い新聞ネタが手に入りました」
「……新聞?」
「『プラネタリウムは盛況に終わった』。これだけでも記事にはなりますが、刺激が足りませんからね。やっぱり売れる記事にピエロ役は必要ですね」
「私が道化師だとでも?」
「自覚あるじゃないですか。お陰で記事の題名を『お間抜け巫女、プラネタリウムに怒る』にできます。馬鹿な巫女との対比で、我々天狗の株も上がるってものです」
「ギルティ」
「は?」
 油断しきった文に、夢想封印が襲いかかった。


***


 龍は望遠鏡のレンズと手帳に交互に目を通していた。手帳に視線が向いている間はページに計算式を書き込んでいく。
 彗星の動きは概ね計算の範囲だった。概ね、というのが曲者で、微妙な誤差は観測の問題なのか、あるいは未知の天体が彗星の軌道に影響を及ぼしているのか。研究は終わらない。
「射命丸文の怪我は全治一週間。ただ新聞は予定通り発行したそうです。流石ですね」
 典が報告をしに来たので龍は望遠鏡から目を離した。
「流石、とはどっちの意味だ? 博麗の巫女に要らぬ挑発をして怪我を負ったことに対してか、怪我をしているのに新聞を出したことに対してか」
「両方です。飯綱丸様もそうお思いでしょうに」
「違いないな」
「ところで、件の天狗ですが、また新聞を発行しようという動きが。処分しますか?」
「服を汚すことも手を汚すことを嫌うお前にそんなことを頼んでもどうせしてくれないということは分かり切っているよ。まあ処分、というかあと半年くらいは牢屋に籠って反省していて欲しいものだが」
「無理ですね。飯綱丸様でもご存じでしょう? 我々も決して一枚岩では……」
 言われなくとも分かる。そう言って龍は典を静止した。
「老害組ね老害組。知っていましたとも。あいつらが適当な天狗を焚きつかせて記事を書かせて、で、司法権も半分はあいつらが握っているからデマを広めたことについてもお咎めはなしと。どうせ私がやったプラネタリウムが危険すぎるとかギャーギャー騒ぐ気なんだろうな」
「分かっていたのに敢えて開催したのはあぶり出しが目的でしたか」
「あくまで主眼は人々を啓蒙して不安を和らげるためであぶり出しはその次。さらにいうなれば、この後その頑迷な輩の顔に泥を塗りたくるまでが計画だ」
「ふうむ。実のところ本物の星を動かすというプラネタリウムは飯綱丸様の言うところの老害組ではない天狗の中でも賛否両論のようですが。星回りを変えるのは占星術的に問題があると」
「天魔様は動いておられないだろ? それが答えだ」
「星を動かしていたのではなかったのですか? にわかには信じがたいのですが」
「手下であるお前には種明かしをしておいた方がいいな。ただどう説明したものか……。っと、ちょうどいいものがあった」
 龍は望遠鏡の三脚を少し回した。
「今は昼間だが月が出ている。さて質問だが、月は存在していると思うか?」
「見えているんだから存在しているに決まっていますよ。……と答えたいところですが飯綱丸様は意地悪ですからね。なんか屁理屈を使って実は存在しないんだとか言うんでしょ」
 典はレンズに目を当てながら答えた。
「そんなに私は意地悪かな」
 龍は苦笑した。
「まあ可能性としては、二時間前に本物の月は破壊されていて、賢者達が慌ててホログラム上映で月の姿を映しているってことも有り得る」
「それは陰謀論というものでしょう」
「お前が言うようにかなり極端な例だな。ただ重要なのは『月が見えるから存在する』というのと、『目の前にいるから飯綱丸龍という大天狗は存在する』のとでは存在の質が違うということだ。我々地上のものにとって、天体が存在するということはそれが見えるということとほぼイコールになってしまう」
「ああ。言わんとすることは分かりましたよ。昨日の伊吹童子座も見た目に見えていたから空に本当にあったと皆思ったけれど実際には存在はしていなかったと」
「光の直径や波長、位置はいかようにも操作できる。原理としては色眼鏡と同じだ。さらに言うとあれらの光の源は元々空にあった星でね。ベテルギウスじゃなくてデネブというだけで星の光は星の光なんだよ。星の光という情報は同じにしておかないと、『目のいい奴』にはバレるからね」
「何でまたそんな回りくどいことを。飯綱丸様程のお力があれば本物の伊吹童子座を出すこともできたでしょうに」
「今の季節、伊吹童子座は地平線の下だ。それを掘り出すのは不可能とは言わんがまあ結構な手間だな。それに、私は二方向にメッセージを送っているのだ」
「二方向に」
「私の術を本当に星を動かしたと思っている人間共に、力を見せつけて畏怖させる。術の種を見破れる妖怪、特に身内には『やろうと思えば本当に星を動かせる大天狗が敢えて星を動かさない方式を採用した』ことを気が付かせて社会秩序を守る側であることをアピールする。ただ天狗ですらこうも騙されるとなると、次回はもう少し雑な加工にした方が良いな」
「そこまで考えておられたとは、感服しました。しかし、無用な争いは嫌う飯綱丸様が、今回は騒ぎに乗じて敵対派閥を積極的に崩そうとしている。それが気になりますね」
「喜べ。お前が大好きな政争だ。どちらの結果に転ぼうとも、私か向こうか、どっちか一方は破滅する」
「喜ぶだなんてそんな」
 と、典は口では言いつつも顔全体に満面の笑みが溢れている。
「根本的には学説の対立だね。私は能力や趣味の関係で天狗天文学の王道と評されがちだが、実のところ相当な進歩派なのだ」
「でしょうね。今回の一件で改めて感じましたよ。従来の天文学では彗星は忌星というのが常識だった。それを否定することを行動の前提としている時点で、飯綱丸様は少なくとも保守派ではない」
「学説というのは『現時点で一番妥当な説』以上の権威性は持ち得ない。この世のほぼ全ての学問は将来的には否定される運命にある。そのことを忘れてしまうか、否定される無常から筆を投げるかすると学問は停滞してしまう。今天狗を蝕んでいる老害は前者の過ちを犯していて、打倒されなければならない」
 龍は周りを見渡した。天狗が数体。敵対派閥の間諜か。それとも中立か。警戒しつつも話を止めることはせず、むしろ気持ち声量を上げた。今更自分の立ち位置を隠す必要はないし、万一自分の演説で寝返ってくれたら儲けものだ。
「千亦殿と話していて気が付いたのだ。私は人間がいつまで経っても啓蒙されないと嘆いていたが、その実本当に啓蒙されていないのは我々天狗だったのだ。その罪は私にもある。進歩的な考えもそれを広める環境もあったのに、百年以上の単位で人妖に知を与えることを怠った」
 龍は典に目を向けた。
「今回の政争。まあお前は言わずとも私についてきてくれると確信しているが、私の味方になった方が得だと言っておく。そもそも今回負けるつもりは無い。だが、もう一度言うが、学問というものは流転するものだ。私の学説も数百年後には新たな説に駆逐されてしまうだろう。そうなったら倒されるのは私だ。つまり私の元についていれば破滅が二回見られる。お得だろ?」
 典は訝しんだ。ここまで隙のない人物が、数百年後本当に打倒されているのかは実に怪しいものだ。多分数百年後も変な学説で理論武装して、その時の老害を斬り伏せて周っているのだろう。とはいえ今回の政争において勝利するのは飯綱丸様の方であるというのには典も完全同意だし、ある意味自らの進歩で数百年前の自分自身を破滅させたともいえるのだ。典は二十一世紀の飯綱丸龍に破滅されられた過去の飯綱丸龍の顔と、今後飯綱丸様と自分が破滅させる数多もの老害天狗の顔を想像しながら黙って頷くのだった。
東方酔蝶華第37話と第38話を読もう! ……と書いた話ですが、実は人間の間に広まるデマに妖怪がどう対処するのか、という筋書きは東方の書籍だと何度も繰り返されている題材だったりします。茨歌仙や鈴奈庵にもあるのです。今回の話の元ネタがハレー彗星なので流れとしては酔蝶華より茨歌仙での話の方が近いという

公式書籍だと人間があたふたしているのを妖怪が啓蒙する、という流れが多いので、妖怪サイドもそんな一枚岩ではないんじゃないかという着眼点で書いています。が、筆者の脳内での飯綱丸龍が割と超人なので当初の意図よりもスマートに解決しちゃってる気がしないでもない
東ノ目
https://twitter.com/Shino_eyes
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コメント



0.190簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
4.100南条削除
とても面白かったです
不本意に巻き起こった事態の解決に龍が乗り出す姿がカッコよかったです
6.80きぬたあげまき削除
少し話が複雑で追いつかなかった部分があるのですが(これは読者側の問題ですね)
龍は純粋に星が好きなんだな、と思って読むと典との会話がニヤニヤしながら読めて楽しかったです。
7.90福哭傀のクロ削除
少々お話が複雑で、物語というよりも情報を読んでいるような感覚になってしまったことと、
いまいち盛り上がりどころに乗り切れなかったところがありました。
あと完全に個人的なあれになるのですが、政治として読むにはあまりそこに重きが置かれておらず、ロマンとして読むには少し理屈っぽ過ぎて、どう読むべきか迷たところがあります。
龍と各々のキャラの関係性は大人な雰囲気で好きでした。
8.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。ハレー彗星による滅亡説に対し、プラネタリウムという仮想を現実に置くことで、天狗の脅威を見せつけるけん制と噂の解消をやってのける飯綱丸がかっこよかったです。ハレー彗星当時に流行っていた自転車のチューブ持ってくる菅牧もらしいなと感じました。