Coolier - 新生・東方創想話

螺旋の花

2020/06/25 21:04:58
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風見幽香のことは知っていた。
有名人である。紅魔館といえばレミリアの名が浮かぶように、太陽の畑といえば彼女だった。
いい噂は聞かない。
好戦家のようである。幻想郷には力で縛れるものと、法でしか縛れないものがおり、幽香は明らかに後者だった。
遣いにやった小悪魔の痛々しい欠損、これが素手によるものだという本人の証言を信じるならば、その力量と倫理の破綻ぶりは並のものではない。どちらも稀有な強者に共通する特徴で、地下牢のフランドールが思い出された。
自ら彼女と接触することが億劫なのは確かだ。喧嘩をしたいわけではないし、怪我もしたくない。予め施した防御と迎撃の術式は十分な威力で幽香の敵意に反応するだろう。
貪欲に太陽へ伸びる無数のヒマワリに目を焦がされながら、優雅に佇む怪物に声をかける。
「あら、珍しいお客様ね」
「突然の訪問、失礼するわ」
幽香は日傘を上げて私を見た。
「あなたが風見ね」
一目見ただけで並の妖怪とは格が違うと分かる。なるほど、小悪魔が粗相をするわけだ。
首を少し傾げて柔和な笑顔で微笑んでみせる彼女は、次の瞬間にも初対面の相手を出会い頭に組み伏せて殴りつけることができるタイプだと直感する。
自分が今、栄養に富んだ黒い畑の土を食まずに済んでいるのは自衛の魔法による牽制に他ならない。そもそも迎撃型の魔法は容易に察知されないはずなのだが。
幽香が笑みに閉じた瞳を開くと巨大な蛇に締め上げられるような緊張感が奔る。血を煮詰めたような赤黒い瞳孔は常に私を丸呑みにするかを品定めしていた。
「突然……というわけでもないわよね。先日の使い魔ちゃん、あれは貴女のでしょう?」
「その件は失礼したわ。躾がなっていなかった」
小悪魔には悪いが、こういう手合いは仕方がない。下働きで培われた媚びの性質は、皮肉にもこのような輩の嗜虐性をこの上なく掻き立てるものだ。
幽香は再び目を細めて微笑む。
矛盾するようだが、私は彼女に好感を覚えていた。
上手く説明するのは難しいが、簡潔にいうならば相性のようなものらしい。小悪魔のように最初から怯え媚びるのは彼女の嗜虐性に障る。それを無理に抑えて気丈に振舞うのも最悪。私は根からどちらでもなく、そのせいか昔から高慢な狂犬とは馬が合うのだ。
「こちらこそごめんなさいね。ああいう子はいじめたくなっちゃうの」
「分からないでもないわ、私も扱き使っている」
「いらっしゃい、用件は家で聞きましょう。ハーブティーは好きかしら?」
幽香は変わらず危うい表面張力を漲らせている。だがどうやら私は親睦の対象として認められたようで、彼女の激情を溢れさせることなくその器の中に滑り込むことができた。
「ようこそ、狭いところだけれど」
彼女の部屋は素朴で、よく片付いていた。
頻繁に客人を迎え入れるようには見えないが、急な訪問にも淀みを見せない。
あちこちに活花やドライフラワーが飾られており、それらの放つ可憐な芳香が花畑から流れ込む澄んだ空気と融けあって、不思議な落ち着きを部屋いっぱいに満たしている。自然と心が和らぎ、幽香の示す柔らかな友誼も相まってここが大妖怪の懐であることを忘れさせた。
「それで」
幽香はティーカップを差し出して席に着く。
彼女がくれた琥珀色の水面から、鮮やかな香草の蒸気が漂った。
自分で加工したものだろうか。咲夜が淹れてくれるものとはまた違った、自然で力強い輪郭がある。
湯に抽出されてなお美しく咲いているような生き生きとした香りは図らずも幽香の植物に対する慈愛と敬意が伺えた。
「私にどんな御用かしら」
「教えてほしいことがあるの、花について」
「大図書館さんに尋ねられるなんて光栄ね。私に分かることならどうぞ、何なりと」
私は一冊の本を卓上に召喚した。原本はひどく古く、触れるたびに擦り切れた羊皮紙が指を汚すため魔法で複製した写本である。
ここ数日、私は大図書館に流れ着いたこの一冊に囚われていた。
私がひとつの本に拘ることは珍しい。図書館には無限の蔵書があり、私の一日はほとんどがそれらを読み崩すことに費やされる。どんなに難解な哲学書にも論理があり、どんなに長編の物語にも終わりがある。けれど、この本が持つ得意な性質に私は立ち往生を強いられていた。
「古い本ね」
「向こうの世界からの漂着物よ」
私は適当なページを開き――どのページでもよかった。この本に巣食う謎はこれを構成する一枚一枚の羊皮紙の両面に、文字の一字一句に、そして所狭しと詰め込まれたスケッチに、眩暈がするほどに圧縮されて存在している。
そう。私はこの本を、一ページたりとも読めていない。
「この植物に見覚えは?」
「…………」
一瞬、幽香の表情が不快に揺らいだ。もっともな反応だと思う。だがすぐにその不穏な気配は立ち消え、代わりに奇怪と謎が細胞分裂するように彼女の中を巡り満たすのを見た。
花弁の代わりの白い触手、細く縮れた先端が重力に引かれて外へ向けて大きく開いている。肥大化した花托、点々と帯びた斑点は花弁、あるいは触手の幼芽だろうか。根から分岐した無数の球根、本来それらは一つで事足りる。私――大図書館の名を冠する――が知る限り、このような植物は幻想郷にも外の世界にも存在しない。
「……一応訊くけれど」
「否」
私は紅茶に唇を当てて間を置き、幽香のおぞましい想像を宥めた。
「これは魔法的に生成したものでも、歪めたものでもない」
「……そう」
幽香の手が写本の花に触れる。溢れた愛しさを指先に乗せて、膝の上で甘える愛猫の頭でも撫でるかのように。
奇しくも私もそうしたことがある。千年に一度巡り合えるかという奇妙で底知れぬ謎。読んでも読んでも終わることのない物語。
彼女は花に、私は書に、対象は違えど私たちは確かに同じ未知に惹き込まれた。
「分からない」
「風見……貴女でも?」
「幽香でいいわよ」
白い歯を覗かせて幽香は気恥ずかしそうに笑った。これだけ切り取れば善人なのだが。
「私も別に世界全ての花を知っているわけじゃないけど、類似の特徴をもつ花も思い当たらない。この世のものじゃないわ、根本的にね」
「他のページも見てみてくれる?」
いよいよ幽香は目を丸くした。彼女は驚嘆の息を細長く吐きながらページを駆け足で捲っていく。
胞子のような球が纏わりついた花弁。螺旋状の葉脈。複数の、そして幾つかの途切れた茎管。鮮明なスケッチではないが特徴をよく捉えており無知な子供が書き殴ったようなものではない。何らかの専門性を持つものによる有意味な情報。
ページによっては、人体の解剖図(正確なものもあれば荒唐無稽なものもある)や何かの儀式の手順を示したもの、天体に関することと思われる図もある。それらを解説しているであろう文字は古今東西あらゆる言語や暗号を修得している私でも解読できない。
幽香は幾つかのページを往復した後、小さく口を開いた。
「……私が提案する仮説は二つ」
嘆息と共に本が閉じられる。長い旅を終えてきたような、そしてそれがまったくの徒労に終わったときのような、虚しい疲労がそこにあった。
「これはたちの悪い悪ふざけ。この無意味な暗号に真剣な顔を向けている私たちを笑うための、暇を持て余した狂人の戯れ」
「それは腹立たしいことね」
それはない。私は心の中で静かに彼女の説を否定する。
誰かを謀るためにしては労力がかかりすぎている。文章量から見ても一年や二年で執筆できるものではない。
文章。
一見乱雑に散っている未開の文字だが、私にはこれが無意味なものであるとは思えなかった。
多くの本と言語に触れてきた私の経験からいえば、有意味な文章とは文法と配慮を備えている。解読は叶わないまでも、この本を埋め尽くす文字の数々は明らかに"読まれるために"存在していた。
「もうひとつは?」
「もうひとつは、これらの植物が本当に実在する場合」
私は興味深いというように頷いた。
だが残念ながらこちらも私にとって目新しいものではない。真偽のの二者択一でいうなら、それらの推測に辿り着くのは難しくないのだ。
私はどちらかといえばこの説を支持している。それはそれとして、同意を得られるというのは嬉しいことだ。
幽香はここにいない誰かに憚るように声を抑えて囁いた。
「この子たちがこういう進化を遂げる必然性がある環境――幻想郷でも外でもない、未知の世界が存在する」





「風見幽香に会ってきたんだって?」
本とのわずかな隙間にある私の視線をレミリアが覗き込む。ぎらぎらと紅く派手に光る瞳はひどく集中を阻害する。
私は答えず、緑色の液体を複数の人体に浴びせている不可思議なページの意図を探ることに集中していた。人々は一様に無表情で、粘土のような丸い四肢をくねらせて毒かも薬かも分からぬ緑色に浴している。
本のあちこちに添えられたイラストたちは相変わらず不可解で、最も有力な仮説である現実でも幻想でもない第三宇宙の存在に関しても想像の域を出ない。あらゆる可能性に反証はなく、同時に確証もなかった。
頭を捻る私にレミリアはお構いなしに話しかける。
「小悪魔から聞いたわ。あなたが帰ってこなかったら一緒に殴りこむように頼まれたの。パチェ、意外に慕われているのね」
「せっかく休暇を出してあげたのに……」
幽香の手でひどい怪我を負った小悪魔には数日の休みをくれてやった。どのみち数日は本を整理する必要もない。この本の謎を解き明かすまで他の本を手に取る気はなかった。
そして何よりこの奇書と向き合う、誰もいない図書館での高度な静寂と集中を求めたのだ。それなのにこのお嬢様は。
「強そうだった?私よりも?」
「そうだ。って言ったらどうするの?寝首でも掻きにいく?」
「真正面から叩き潰すかしら。もちろんあの忌々しい一面の黄色が項垂れるような暗くて月の紅い夜にね」
「安心しなさい。彼女は誰かさんみたいに殺るか殺られるかの二択しか持たない脳筋じゃなかったわ」
「つまらない奴ね」
レミリアは蝙蝠の羽をばたつかせながら天を仰ぐ。
私たちの他に誰もいない大図書館に、その声はよく反響した。
「それで、私の読書の邪魔をして……血抜きでもしたいの?」
「やだよ、パチェ焼いてくるもん。私は仕事をしに来ただけ」
「仕事?」
「不本意ながらね」
顔を上げた私の手から、レミリアは本をひったくる。吸血鬼の瞬発力は私の知覚を容易に置き去りにし、気が付いた時には本はレミリアの手に移っていた。
彼女はどうせ読めやしないのに興味深そうなふりをして、ぱらぱらとページを捲っている。
「ほうほう、ほーう」
「絵本じゃないのよ、返しなさい」
「フランじゃないんだから絵本なんて読まないわ」
レミリアはそう言って私の手に本を戻した。やけに素直だ。
仕事とやらに関係しているのだろうか。どうも厄介な遊びに巻き込まれているような気がする。
「面白い本ね」
「読めないくせに」
「そのわけの分からない文字の方はね」
ワイングラスを掲げるような仕草をしてレミリアは嘯く。
なるほど、まるで本から魂を抜き取ったかのように、その掌には彼女しか見えないものが乗っているらしい。それがレミリアの固有の能力だった。
「随分と縺れているわ」
絡んだ糸を解くように、掌の上の存在を突いたり摘み上げたりして見せる。
出来の悪いパントマイムみたいだけれど、曰く金色の細い螺旋状のものが見えるのだそうだ。運命という名のそれらは過去と未来、それが辿り辿ってゆく可能性を投影している。
「この本は多くの人生を数奇なものに導き、時に狂わせる。これまでも、これからも。そしてパチェ、あなたもその一本の絡んだ糸」
「それは忠告?」
「どうでしょうね。知りたいのなら具体的に教えてあげるけど、そしたらきっと怒るでしょ?」
「ええ、結末だけ知るのはつまらないもの」
レミリアの能力は一種の未来予知の側面を持つ。
未来を知ることの対価、とまではいかないが、それを知ること自体がこれからの選択に不必要なバイアスをかけてしまう。それは無意味なことだと私は考えていた。
だがそれとは別に、向こうの世界にはない方法で本の謎にアクセスできることに今更ながら気付いた。
「もし、あなたの掌の上にこの本を読み解くヒントがあれば教えてほしいのだけれど」
「あいにくと分からないわ。私の能力はそういった性質ではないもの」
「残念」
脳筋に期待した私が愚かだった。彼女はいつだって、その糸を断ち切ることはしても細かく分析することはない。
「じゃあ仕事も終わったことだし焼かれる前に帰るとするわ。じゃあね」
「もう終わったの?今のが?」
「特に問題なさそうだし、あなたは何も気にしなくていいと思うわ」
含み在る言い方は気になるが、レミリアが自分でそう言うのなら追うだけ無駄だろう。
仕事だの何だのと言うのは、私がこの本に仕組まれた魔法的影響に取り憑かれていることを案じたのかもしれない。そうであるならば不器用な振る舞いも納得がいくし、急に可愛らしくも思えた。
「心配しなくてもこの本は魔力を帯びてはいないし、そもそも魔法のない世界で生まれたものよ」
「だったら尚更。知るに足らないことなんて幾らでもあるものよ。根詰めすぎないようにね」
そう言い捨ててレミリアは図書館を後にした。
あれで案外気配りができるのだ。扉はゆっくりと静かに閉められた。
ようやく訪れた静寂が図書館を満たすと、やがて私の中に澄んだ集中が芽吹き始める。
ページを捲ると緑色と共に排出された無数の白い顔が、起伏の無い表情で私を見ていた。





その日は夢を見た。
私は眠りが深いほうで、夢を見ることは珍しい。
とはいえ「全く」とは言い切れないあたりが微妙で、わざわざ数えてはいないが月に一度か二度は確かに夢を見たような気がする。内容は覚えていない。きわめて自然な肉体の作用であり、それ自体に特別な意味はないように思う。
今日のものも、例の本が魔術的な作用をもたらしたというよりは終日頭を悩ませていたことによる単なる思考の残留物であると考えたほうが妥当だろう。らしくないほどの執心を抱いている自覚はあり、考えても考えても報われないというストレスが脳裏に焦げつくのも無理はなかった。
夢。
夏の太陽が地上を燦然と照らしている。
そう、これは夏だ。
幸い実体を持たない私は暑さを感じなかったが、肌をじりじりと焼く感覚だけが鮮明にある。そして見渡す景色は間違いなく真夏のそれだった。青々とした芝が薄く日光を照り返し、苛烈な眩しさが強くその季節を主張している。
残念ながら芝は軟らかい葉の中に微かな線状脈が埋まっている普通の、ごくありふれた種だった。
どうやらこの夢はそこまで都合よくは出来ておらず、その中で神秘的な天啓が得られるわけでも、かの奇々怪々な植物に触れられるというわけでもなかった。ただ焼け残った日中の記憶が私の中の様々な意識とリンクして混ざり合い、妙なリアリティのある混沌を生み出しているに過ぎない。有益な手掛かりは期待しない方がよさそうだ。
「…………」
声が出ない。
足元の土を芝生越しに踏みしめてみるが、どうもそこまで感覚が行き渡らなかった。あまり肉体的な実感を求めようとすると、夢の薄皮を突き破って現実へ追放されるような気がする。
この場所に存在したいのならば、この世界を紡いでいる何者かに意識が覚醒していることを悟られてはいけない。そんな予感は私の好奇心に強い制約を課した。何も気付いていないふりをして、私はなんとかおぼろな覚醒を保つ。
周りを見渡すと、ここは森を刳り貫いた集落だと分かる。
周囲は森に囲まれており、その先は太陽に照らされた一帯とは対称的に暗く闇を湛えていた。おそらくそこは夢が設定した領域の外。立ち入ることは出来ないし、無理にそうする意志を見せればやはり夢からはじき出される。
遠くに、丸太を組み合わせた木造の小屋が点々と見て取れた。
住居と呼ぶには狭いが、大人一人が寝食のみに徹するのならば役には立つだろう。屋根が大きく天を衝く形をしていて、これに携わるものが強い勾配を必要としていたことが分かる。きっと冬には雪が積もるのだ。
幾つかの屋根は黄色に塗られており、幾つかは赤い。
家屋の形状はどれも同じだが橙色のそれは特別な意味を持つのだろうか。その色を持つ屋根は二軒しかなかった。
笛の音が聞こえる。最初から聞こえていたような気もするし、今しがた演奏が始まったような気もする。
それに意識を向けると、徐々にそれらは厚みを増し、複数の音色が重なり縺れ合う壮大なものに変わった。誰かが演奏している風ではない。強いて言うならば大地から滲み出すような、背景と一体化したバックグラウンド・ミュージック。
太くて低い、鳩尾を重く振動させるような音色。
のどかな曲調だが、妙に不安を掻き立てられる。時折和音が外れるのは意図的なものだろうか。音に加わる独特の歪みは夢の中にありながら覚醒している私を焙り出し、追い立てるためのもののようにも思えた。
脚は動かず移動は叶わない。けれども代わりに志向した先へとシーンを切り替えることができた。それはそう難しいものではなく、試行するまでもなく向こうの側から迫ってくるかのような曖昧な錯覚と共に私は飛躍し、ひとつの家屋の前に立っていた。
不思議な造りだ。出入り口はなく、小窓がひとつ付いている。人が出入りするにはあまりにも小さい。子犬や鶏でやっとといったところだろうか。低い笛の演奏と共鳴して、丸太作りの小屋は小刻みに震えているように見えた。
あるいは震えているのは私そのもの。性格柄、恐怖といったものを生む回路が他人よりも弱いように思う。しかし胃袋の底の方に直接恐怖なるものを流し込まれるような、そんな気持ちの悪さがその音色には詰まっていた。
ひやりとした感覚を覚える。太陽の熱線には眩しさしか感じなかったにもかかわらず。指先が結露したように濡れている。
小屋に触れると、私の指先に溜まった雫が太陽光を宿した木目に吸い込まれて小さく蒸発した。
小窓がかたかたと鳴る。それは私の好奇心の性質をよく知っていて、その先の暗闇が窓の隙間から微かに顔を覗かせている。
恐れに乏しい私は考えるまでもなく小窓を押し開き、鋭角の屋根と閉鎖的な壁に包まれた向こう側を覗き込んだ。
何か神秘的な体験が待っていると、根拠もなく期待して。
「わっ……!」
しまったと思うが早いか既に驚嘆の声はあがり、私の体は宙を舞って緩やかな回転と反比例する加速をまとって自室のベッドに着地していた。
頭がぐらぐらして、即座に夢からはじき出されたことを知る。
そこには太陽はなく芝生もなかった。それから、それから……?
薄い涙が這った目を擦る。時計を見るに朝の早くで、馴染みのない時間での覚醒に身体はまだ少し休息を求めていた。
夢での記憶は落下した皿のように放射状の亀裂を描いて砕け、飛散した破片のいくつかはどこか手の届かない場所に滑り込んでしまった。
私は取りこぼした何かを再び拾い上げるべく、毛布を抱き込み再び甘い眠りの中に身を溶かす。そのあとの眠りは深く、取るに足らない忘却は悪い寝覚めと共にすっかり消えてしまった。





魔界生まれのアリスならばこの植物について知っていることがあるのではないか。
そう踏んだ私は彼女の邸宅を訪れていた。見るものの生理を毒するような見た目の花々は「魔界」という名前によく合う。
本を手にすると、彼女は興味深そうに本のページを何度も往復した。
いくつかの可能性が浮かんでは否定されていく。そのたびに眉を顰めたり指で唇を撫でたりしながらページを移る姿は私にも覚えがあり、まるで鏡を見ているようにも思えた。
やがてアリスは本を閉じ、もう一度表紙から裏表紙までを一巡眺めてから溜息と共に本をテーブルに置く。
「……分からない」
「そう」
「私もあっちの植物について詳しいわけじゃないけど、少なくとも神綺様――魔界の創造主ね、彼女のデザインではないわ」
私は頷く。アリスがそう言うこと自体が強い説得力を帯びていた。彼女という精巧な美と、かの気味の悪い植物のデザイナーが同じだとは考えにくい。
再びの行き詰まり。落胆が心に暗い影を落とす。
あまりにも手掛かりがない。正直、私もさすがに疲れてきた。
幽香も言っていたように、やはりこれはこうして真剣に向き合うものを嘲笑うための狂人の娯楽なのだろうか。
『知るに足らないこと』――この本の運命を読み取ったレミリアはそう言った。それはつまり、私が雲を掴もうとしていることを指しているのではないか。
「ありがとう、アリス。写本を置いていくから、何か思い当たることが見つかったら教えて頂戴」
そう言って立ち去ろうとした時、進展は思わぬところから現れた。
「あーっ!ヴォイニッチ手稿!」
「あなたは?」
例の本に飛びつく少女の手首を掴んで静止した。
初めて見る。失礼な娘だ。
「は!かわいい!」
初対面の彼女は私の顔を見るなり眼鏡越しの目を見開いた。
流れるような無礼に躊躇はなく、むしろ私が何か過ちを犯しているかのような気さえしてくる。真っ直ぐに私の目を見て、二重がどうだの睫毛がどうだの捲し立ててくる彼女に思わず俯いてしまう。
「おーい、勝手に入ると怒られるぞ……って何やってんだお前」
「ちょっと魔理沙、この無礼者は何?」
魔理沙が伴ってきた少女は私の俯く両頬を持ち上げて、瞳を輝かせながら私の顔面を凝視する。強制的に面と向かわされた私も不可抗力で彼女を観察することになった。
彼女がかけている眼鏡は幻想郷ではさほど普及しているものではないし、フレームに色の入ったものは私も初めて見た。茶色の髪は人工的に染められており地毛ではない。衣服も見たことのない素材で、どことなく異邦の雰囲気をまとっている。
「ああ、そいつは菫子って言ってな。なんか外の世界から迷い込んでくるんだよ」
「……菫子?悪いことは言わないからこの手を離しなさい」
「やだ失礼!私ってば可愛い娘に目がなくて!……ってそれよりもヴォイニッチ手稿!ああ、こっちで見かけないと思ったら幻想郷に来ていたなんて!素晴らしいわ、十五世紀の羊皮紙の香りがぷんぷんするわね!」
「それは複製品よ……それよりあなた」
なんとも忙しないことだ。私の頬を離したと思えば、本を奪って掻き抱くようにして表紙のあらぬ匂いを嗅いだりしている。
暴走するマイペース。完全に苦手なタイプだが、外の世界からの来訪者とあれば本の謎を解くまたとない機会だ。根気強く接することにする。
「あなた、この本を知っているの?」
「こっちじゃ結構有名な奇書よ。まあ結局なに書いてるのか分からないままで、悪どい誰かがでっちあげた偽書ってことになってるけどね」
「そう……」
"分からない"――その言葉を何度聞いたことだろう。この本が生まれた世界ですら、その解法を持たないのか。
その事実は私にひどい落胆を与えた。行き止まりこそがこの迷路の終わり。期待していた膨大な神秘は無価値な土塊で、私の努力は無駄だったのだろうか。
「あなた、ええと……」
「パチュリー・ノーレッジ」
「パチュリーちゃん!可愛いねぇ!」
菫子は何が可笑しいのかきゃっきゃと跳ねて笑いながら、本を撫でている。
かと思えば髪を触っていいか、胸を揉んでいいかなどと聞いてくるので私はきっぱりと拒絶した。この娘は躁病の気があるのではないか。
「パチュリーちゃんはこの本について調べているの?」
「そうね。けれど、これは偽書なのでしょう?」
「どうだろね、結局こっちの世界のお馬鹿さんたちが千年かけても辿り着かなかったってだけだから」
董子は意地悪そうに犬歯を覗かせた。
「こっちの世界で検討されてる説と、私なりの説があるんだけど聞きたい?」
「面白そうな話してるな!」
私が頷く一瞬、菫子が抱きしめている本を不意に魔理沙が掠め取った。
両腕で抱えているものを一瞬で奪い去る技術はさすがという他ない。思わず溜息が漏れる。
「あーっ、マリサっち!返してよ、それは貴重なものなんだから!」
「だったら尚更だ!魔導書か?私だって魔法使いの端くれだからな、これくらい簡単に解読してやるぜ」
元々アリスに渡すために造ってきた写本であるから構わないのだが、うっかり原本を持ち込んでいたらと思うとぞっとする。本は菫子と魔理沙の間を行ったり来たりしながら、謎に満ちたページをはためかせていた。
「パチュリー、この本借りてくぜ!アリスと二人がかりでも解けなかったんだろ?胸が躍るな、どんな魔法が書かれてるんだろう!」
魔理沙は努力家で、時に私たちでも辿り着かないような驚くべき発見をしたりする。彼女ならあるいは謎の向こう側を見出すのだろうか。
「ずるい!私も読みたいのに!」
菫子は外の世界からの迷い児だという。仮説の通り第三の宇宙があるとするならば、彼女のように複数の世界を渡ることができるものもまた存在するのだろうか。
だとするならば、その漂流者たちはどうして何の痕跡も遺さないのだろう。あるいは彼らは私たちよりも高次の存在で、他の知覚を逃れる何かの法則に護られているのだろうか。
幾つも仮説は芽吹き、次々と枯れていく。それでもこの本という土壌に根差す限り、その萌芽は止まないだろう。無数の可能性が、いつか花を咲かせることもあるのだろうか。
「全員あとで写本複製してあげるから落ち着きなさい。まずは菫子、さっきの話の続きを聞かせてほしいのだけれど」
「ああ!そうだったそうだった!まずは私が考えるヴォイニッチ手稿の意図なんだけど……」
菫子が開いたページには大きく描かれた人体が例の文字列を切り裂いて横たわっていた。
その胸には単眼の短い蛇がとぐろを巻き、隣に弓を番えた狩人があらぬ方向を指している。彼は羊頭の魚に跨り、その魚の翡翠色の鱗を妊婦と思しき腹の膨れた女性が天秤の生えた両腕で支えていて……
悪酔いするような混沌が意味ありげにそこに渦巻いている。菫子は凍りついたように正面を見据える人体の頭部を指差しながら自説を語り始めた。





数日後、また夢を見た。
"また"。そう、"また"だ。
眠りに落ちて、温かい空想の皮膜に包まれるまで以前もそんなことがあったことなど忘れていた。前回はどんな内容だっただろう。その中で、かの手稿に関する天啓を得てはいないだろうか。
漠然とした不安を抱きながらあたりを見渡すと、隆起した岩がちの地面から幾条かの黒煙が立ち上っている。何を焼けばここまで密度の濃い黒煙を作れるのだろう。
それは見上げた途中の高さで不自然に途切れ、まるで見えないフィルターに吸い込まれるようにして消えていく。
このような景色は、あの本には無かった。おそらく一日中意味不明の図と文字と向き合っていたことで、私の中の想像や思考がかき混ぜられて不可解な作品を織り上げたのだろう。自然な現象としての夢は概ねそのようにして出来ている。
どうせなら手稿に記された植物たちの立体化した精巧な模造品が現れてくれればいいものを。
あれほど見詰め合ったスケッチは、しかし私の脳に曖昧な悪戯を施すだけだ。
私は焦げ付いた思考の煤を恨めしく思いながらも周囲を観察し、まずは当所もなく歩き出すことにした。脚は鈍いながらも動く。無理をして飛んだり、走ったりしたならば肉体が存在すべき空間を思い出して目を覚ましてしまうだろう。いつも通り、のらりくらりと往くことにする。
いつからか水がせせらぐ音が聞こえるようになった。
それはとても心安らぐ旋律で、ともすればその水辺に何か有益な啓蒙をもたらす発見があるかもしれない。点在する岩はセピア色の苔にぬかるみ、それでも確かな摩擦で私の体重を受け入れる。
いつか董子から聞いた説は私にとっても興味深いものだった。有益な手掛かりを見つけることができたなら、まずはそれを検証することにしよう。
相も変わらず根拠のない仮説が頭上を飛び交う。夢の繭は壊れやすく、最初から何も約束していないというのに。
不意に指先に柔い温かさを感じる。何かが触れたような、最初からそうであったような。
見れば鼠色の埃が、意味ありげに指紋を薄く覆っていた。
お読みいただきありがとうございます。うつしの、と申します。
普段はなるべく読みやすい短編を心掛けているのですが、天邪鬼なもので今回はどこか煙に巻くような、ぼかしの強いストーリーを書いてみたいと思い立ちました。解説をさせてください。

テーマは無意味と有意味です。考えるだけ無駄なことって案外世の中にたくさんあるように思います。
今回拠り代とした"ヴォイニッチ手稿"は数百年の時を経てなお無意味と有意味の両極を揺れ動く遺物です。(ご存じない方や、興味を持った方はウェブで全編公開されていますので是非。)
これを通して、世の中の多くが無意味なもの/有意味なものではっきりと分かたれていく中で、なおも揺れ動く奇妙さと尊さを書きたいと思いました。
ヴォイニッチ手稿について自分なりの見解があるのですが、具体的な読み解き方についてはあえて触れないことにします。これを読んでくださっているあなたも、この異質な振り子を揺らす一因になっていただければ。

思春期の頃、親にとある娯楽を無意味だと断じられた経験が自分の中に呪いめいた色合いで刻まれています。今となってはその娯楽はごく自然に興味を失ってしまいましたが、あれは果たして本当に無意味だったのでしょうか?少なくとも、そのあと閉じ込められるようにして取り組んだ数学の解法は今のところ自分にとって意味あるものではないようです。

さて、そもそも東方でやる意味なくね?という感じの作品になってしまいましたが、こんな妄言の羅列にも快く身を預けてくれる東方という作品、そして何だかんだで適応してくださる読者の皆様に精一杯の感謝を。ありがとうございました。
うつしの
[email protected]
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コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白く楽しめました
2.100めそふらん削除
まさかヴォイニッチ手稿とは…
凄く面白いテーマでとても楽しく読ませていただきました
3.100終身削除
色々な場面の比喩がとても綺麗で素敵だなと思います 自分の知識の外にあるからと言って意固地になって苛立ったり無意味だと決めつけたりせずにどういう意図があるのか向き合うとするパチュリーの姿勢に研究とか知識に対する謙虚さと素直さがあるような感じがしていいなと思いました 会う人に対するパチュリーの分析が面白くて良かったです 菫子…
4.無評価名前が無い程度の能力削除
小鈴ちゃんを連れてこよう!
6.無評価名前が無い程度の能力削除
知識の魔女を描く上で、この上ないテーマだと思います。
意味の有ることばかり知ってる方と、意味の無い事ばかり知ってる方、それぞれ魅力はあったりしますよね。
7.100サク_ウマ削除
ううむ、らしいといえばらしいですね。妙な凄みがあって良かったです。
8.100モブ削除
このお話は、きっと沢山の人々が過ぎてきた一部分なのかなあと。この先にあるのが何かしらの進歩なのか、それともあとがきにあるような煙の濃い迷路なのかは私達にはわかりませんが、きっとタイトル通り、円環ではなく螺旋となっているんだろうとは信じたいですよね。面白かったです。ご馳走様でした。
9.90名前が無い程度の能力削除
狂気的な良い作品でした。
謎を追い求めるのがパチュリーというのがまた良い。
10.100クソザコナメクジ削除
ただ明確な謎だけがそこにあり、物語がなにも進展しないにも関わらず、最後まで読まされました。
もどかしさや冗長さ、無意味さを含めて、なおも面白い。と最後に感想を付けさせられるのがすごかった(小並感
不思議な物語、良い体験をさせてもらいました。
11.100こしょ削除
夢の描写が不思議で良かったです
こんな夢を見てしまうほどのめり込んでしまうパチュリーもいいですね