Coolier - 新生・東方創想話

『私』を作る貴方

2020/06/24 21:10:36
最終更新
サイズ
32.13KB
ページ数
1
閲覧数
537
評価数
9/11
POINT
990
Rate
16.92

分類タグ

 何でもないような一日の出来事だったと思う。
 どこからかヒバリの哭き声の聴こえる、うらうらに照る春の陽気だった。日本庭園を囲う壁沿いに並んだ桜並木が、一斉に咲き始めようとしていた。可憐な蕾は昨日よりも膨らんでいたけれど、昨日とはあまり変わらない陽気で、だからなのか、何でもないような日々がこれからも続いていくのではと自然に思われてくる。そんな、何でもないような一日の出来事だった。
 一点だけ変わったことと言えば、普段は多くを語らない祖父が、珍しく言葉を尽くしていたこと。
 桜を前にすると、先代はいささか平静ではいられなくなるらしい。私が産まれる以前は、毎年春になると他所の管轄から依頼を引き受けて出張に出ることも多かったそうだ。本当は桜の花が嫌いなんだろう。
 まあ、それはさておき。

 魂や霊といった要素、物質としてではなく幽世に存在するもの、ひいては形の無い幽玄のあわいを斬る剣が、魂魄の剣。
 この世からあの世に渡るため、情けをもって斬る。現世の縁を切り、来世へと繋ぐ。目指したものは罪の清算で、魂の妄執や、生前の禍根を未来永劫まで断ち切るような斬撃が成れば良し、と。
 そして、目指す剣の極致は、もっとずっと先にある。

 ……とか何とか。こう言っちゃなんですが、その抽象的な話、数えで十にも満たない童女が理解できると思ったんでしょうか?
「あのね、妖夢。よく聞きなさい。斬れれば良いのではない。力に驕ってはならない。決して、私と同じ血塗られた道を歩むことが無いように」
 語られた内容は若干怪しいのだけど、しかつめらしい表情のことだけは、よく覚えている。

 ところで、ここに至る前日譚に、こんな発言があった。
 つまり、「この刈込鋏が欲しいって? 私に勝てたら受け継がせてあげるよ」と。

 もちろんまだまだ若輩者の私だけど、幼少のみぎりと言って良いくらいには昔の出来事。その何でもないような一日からは十分な時間を経たと言うのに、私は未だに、その言葉の意味を理解できているかどうか。

 それと、その日を境に師匠からおじいちゃんに格下げになった人は、白玉楼から姿を消して、どこか遠い所に行ってしまったのでした。



「よーむー。刀、忘れてるわよ?」
「……?」
 そう言われて初めて、自分の手元に視線を落とす。
「あ」
 何も持っちゃいなかった。
 実は今、試し斬り稽古の真っ最中。巻藁の代用品で、丸めた新聞紙を直に地面に立てて置いてある。長ネギくらいの大きさの筒がにょきっと生えている光景を前に、自分で自分に呆れそうだ。昔は欲しがっていたはずの庭師の小道具を、どうして置き忘れるなんてことができるんだろう。
「全然気付きませんでした」
 最近、ぼうっとし過ぎなのかな。
「あとね、そろそろお茶の時間にしましょ?」
「そうですね」
 呟きながら、新聞紙の塔をちょこんと突っついてみたり。すると、水平に、輪切りに、一個あたり程良い大きさでパラパラと崩落する。金太郎飴? 似てないかな?
「今日は洋菓子の気分です。バームクーヘンとか」
 断面の年輪を見て、そんな風に思う。女の子ですから、甘い物は好きですよ。
 表情をほとんど変えないまま、幽々子様が目を細める。
「……まあ、その程度なら妖忌もやってたわね」
「驚きました? 巻藁を固定しないで斬るのは、ちょっと難しいそうですよ? あと、袈裟じゃなくて横一文字に斬るのも」
「無刀で斬る方よ」
 なんだ、そっちか。
「おじいちゃんも忘れ物を? むすっとした顔ばっかりしてたくせに、案外、抜けてる所があるんですね」
「今日はどうかしたのかしら。普段、試し切りの稽古はあんまりしてなかったわよね」
「あんまり、と言うより、こうやって物を用意するのは、ほとんどやった覚えが無いですね。もっぱら、水とか水月でしたから」
「ああ、妖忌が言っていたわね。形の無いものを斬るんだったかしら。ふーん、じゃあ、試し斬りってのがどういうものかを試していたのね」
「さすがに察しが良いですね。今度、幽々子様にもやらせてみようと思ったんですよ」
 幽々子様は、にこりと微笑んだ。
 それにしても幽々子様には驚かされるばかりである。こんなにもふわふわとした優しい笑顔で、断固拒否という固い意思を表明できるなんて。
「私も洋菓子の気分だわ」
「紫様も来てるみたいです。お土産、ねだってみましょうか」

 そう言えば、こんなこともありました。
「良いですか? 幽々子様。膝です、膝。膝を使って、体全体でバランスを取るイメージです。手を動かすんじゃないですよ? 手首が力まないように注意して」
 テニスのラケットでそうするように、ぽんぽんと黄色いボールをはずませる。まずは体を動かすことに慣れ親しんでもらおうという、私なりの工夫だった。
「それじゃ、やってみてください」
「わりと簡単そうね。これなら私にもできそう」
 刀とテニスのボールを受け取った幽々子様が……あーあ。
 ボールは4:6くらいの割合で分割。断面ってこうなってるんですね。空っぽのゴムボールなんだ。
 そして幽々子様は、ちょっと唖然とした顔で固まっている。
「なーんで切っちゃうんですかー、もー。切っちゃっちゃメーでしょーがー、んもー」
「これ、刃が付いてるやつなの?」
「そりゃそーでしょーがー」
 うちに模造刀は置いてない。
 ちなみにこれは地蔵切りと言って、あるお侍さんが妖怪を切り伏せた……と思ったら、そんなのは全然勘違いで、有り難いお地蔵様を真っ二つに割っちゃっていた、とかいう曰く付きの逸品。うちに残された先代の私物の中では、一応、お行儀の良い子。
「刃を立てて、その上でボールをぽんぽんって。そういうのをやって欲しいんですけど。毬をつくの、やったことありますよね。はぁ、ボールならまだ用意してありますから。……もう切っちゃわないでくださいよ?」
「……教え方の下手さ加減は、師匠譲りかしら?」
「見て覚えろ派だったおじいちゃんよりよっぽど懇切丁寧に教えてると思うんですけどね。良いですか? 膝です、膝。手を動かすと、あらぬ方向に飛んでいっちゃいますので。刃を立てたら、ぐらぐらさせちゃダメです。それから刃筋をボールの中心に真っ直ぐ当てるようにして。これがスイートスポットで捉える練習になるんです」
 慣れてきたら、刃と棟で交互に跳ねさせてみたりとか。そしてゆくゆくは、よそ見しながらでも手の感覚だけでいくらでも続けられるくらいに。
「詳しく聞きたいのはそこじゃないわよっ!?」
「じゃあどこだって言うんですか。コツとかいうやつを、限りなく丁寧に言語化して伝えていると思うんですけどっ!」
 こんなに丁寧じゃないですか、おじいちゃんや幽々子様と違って。
 と、これは思うだけに留めておく。いやほんと心外にも程がありますよ。褒めてくださいよ。あらあら妖夢は教え上手ねぇ。将来は魅惑の女教師かしらって!
 けれども幽々子様は辛辣でした。
「やれやれ、どうして生徒の不出来を生徒のせいにするのかしら。それって普通、教える側の責任でしょう? 私だって、ちゃんとした良いコーチが教えてくれれば、もっとやる気を出すわよ」
「もうほんと何なんです? 幽々子様が文句言うから色々考えてるのに、どうしてこんな簡単なこともできないんですか? 幽々子様は何年剣を持たされてるんです?」
「……最悪の師匠だわ。分からない人、できない人の気持ちになって考える。これは初歩の初歩、絶対に蔑ろにしちゃいけないことよね? はぁ、貴方って、とことんまで指導者という立場に向いていないんだわ。どうしてできないの、ですって? これって禁句じゃなくって?」
 あんたがそれ言いますか?
「たまに、教育方針を間違ってしまったのかしらと思うのよね」
 私も莞爾とした笑顔で返します。
「いえいえ、今の私があるのも、幽々子様の教育の賜物です。というわけで、まずは十回、ボールぽんぽんをできるようになりましょう」
「はいおしまーい。お茶の時間でーす」
「……あー」
 幽々子様にちょっとは運動させる計画が……
「つまんないもん!」
「もん、じゃねーですよ」
 しまった。声に出てた。

 と、こんな話を聞き終えて、紫様は一言。
「それは妖夢が悪いわ」
「むしゅー」
 誠に遺憾であります。
「えいっ」
「ぷしゅー」
 膨らんだ頬っぺたを突っつかれた音です。
「教えるの下手過ぎだわ」
「紫様、棚の上って居心地が良いものなんですか?」
 ほうじ茶で喉を潤して、ふぅ、と一服。洋菓子の詰め合わせの箱から、マーマレードが一つ消える。
 居心地は最高のようだ。棚の上は紫様と幽々子様の玉座も同然ですね。どうして貴方達はそんなに自分のことを棚の上に上げるのがお得意なんですか?
「もうちょっとこう、あるでしょう。ちゃんとできるように説明しなさいよ」
「そんな私が悪いみたいな」
「だって貴方が悪いんですもの。あの話の流れで、まずは十回ボールぽんぽんをできるやつはいない」
 そこまで力強く言われる程ですか?
 斬る斬らないのONとOFF、もしかしてお出来にならない?
「はあ~~~」
 やめてくださいよ、その露骨な溜め息。まるで私がおじいちゃんと同レベルのぽんこつダメダメへっぽこ師範みたいじゃないですか。
「……じゃあ困っちゃうじゃないですかぁ。どうするんですかぁ。おじいちゃんがいなくなって以来、好き放題ぐーたら生活を続けていまして、もはやこのままでは贅肉は余りに余るばかりです。少しくらい運動して、気を引き締めろとは言いませんが、身を引き締めるべきではありましょうよ」
「幽々子がいないからって、言いたい放題ね」
「いえ、むしろ旗色が悪いから逃げたのかと思いました」
 話題の幽々子様は、お狐さんと一緒に台所に立っている。あれでも気が向きさえすれば酒の肴くらいは自分で拵えてみたりもするのだ。三時のお茶の時間の話が、夜まで続く宴会に。料理が忙しいのでお稽古できませんという論法だった。
「幽々子はあれで良いのよ」
「またそう言って幽々子様を甘やかすんですから」
「甘やかしても良いのよ。だって、変わらなきゃいけない理由もないのに、厳しく接する理由は無いでしょう? 何処かを目指している妖忌みたいな人種とは、根本的に異なるの。生涯の目標の有る無しは、人種を隔てる境界だわ」
「……」
 一瞬、丸め込まれそうになった。もー、紫様はすぐ、なんかそれっぽいこと言って誤魔化すんですから。その手には引っ掛かりません。
「いや、私は肥え太る一方という変化を厭ってこそ言っているのですけどね」
「ふぅん。妖夢も言うようになったわね」
 舐めた口きくようになったって意味だけど。と、小声で付け足された。
「それもこれも紫様の薫陶あってこそですよ」
 紫様の真似をして、ふぅ、と息を吐いた。
「こうして軽口を叩くだなんて、もしおじいちゃんが見たら、驚くでしょうね」
「そうね」
 と、口元に手をやって笑う紫様。
「あの頭かっちこちの頑固者がどんな顔をするか、見物だわ」
 その一言さえ無ければ、上品だったと思う。
 ついでに冗談で、そんなもしもがあればの話ですが、なんて付け足してみましょうか。流石に不謹慎でしょうか。
「あまり無いようでいて、意外と覚えがありますね。幽々子様を放っておいて、紫様とふたりって」
 ふと、私はそんなことを呟いていた。
「そうだったかしら」
「ええ、そうでした」
 紫様は的確に教えるのが壊滅的に下手な分、聞き上手ではあった。紫様と話した後は、具体的に何が解決したわけでもないのに、自分の気持ちの中で、しこりが薄くなっているような感覚がある。
「私はこれでも幽々子様と紫様にも感謝しているんですよ」
「でしょうね」
「すいません。真面目な話なんですけど」
「あら、私は大真面目よ? だって、今の貴方があるのは私達のおかげ、これって事実でしょう?」
 いいえ。貴方達のせいですよ。
 貴方達のせいで、今の私があるんです。
「とりとめのない話になりますが、聞いてくれますか?」
「好きにしたら良いわ」
 それじゃあ、どこから話しましょうか。



 よちよち立ち歩きを始めた頃の話だそうで、私はよく覚えていない。
 その日はたまたま誰の手も空いていなくて、白玉楼でふわふわしている曖昧な幽霊が私の面倒を見ていた。でもふわふわしている幽霊は、やっぱり少し仕事の内容もふわふわで。だからほんの一瞬だけ子供から目を離してしまっても、そこまで責められたものではないのだと思う。
 歩けると言っても、支えに手をついてやっとのことだったので、まだ何処かへ行ってしまう程ではないという予断もあっただろう。保育という観点からはあってはならないことだとしても、そういうミスって、有り得るものだ。
 ともあれ、よちよち歩きの私は、祖父の私室の刀箪笥に導かれるように歩いて行って……
 それで、この子は剣の申し子だとか言われたらしい。生涯で最上級に褒めそやされている。ひょっとして私の人生のピークでは?

 刀箪笥の中身は全部引っ繰り返されていた。幼児の私は抜き身の刃を素手で掴んで振り回しながら、それでいて、怪我をするということがなかった。妖刀も神刀も、なべて刃物は私の善き下僕だった。



 これは、何でもない春の日の、その続きの話。

「ゆゆこさまー」
 頑是ない無垢な子供が、とことこと廊下を駆けていく。
 外で遊んだ帰り、土汚れの足跡を点々と残して、それで祖父に大目玉を喰らったことも、もうすっかり忘れている。ただし、今まさに残している足跡は、赤い色をしているわけだが。
「あっ。ゆゆこさまっ。ゆゆこさまっ」
 まだ舌っ足らずなので、簡単な単語しか話せない。それに夢中になっているものだから、戦利品を掲げ持って、ぴょんぴょんと跳ねるばかり。
「これ、もらったっ!」
 自慢げです。
 我がことながら、きっと可愛かったことでしょう。
 褒めて褒めて。ね、これ良いでしょ? そういう顔をしている。例えばそう、可愛いアクセサリーを買ってもらった、小さな女の子のように。実際、状況は似ているのだ。大好きな祖父から、高級な貴金属を譲ってもらったのだから。私はその時本当に、祖父からの贈り物が嬉しかった。
 あら、可愛いわね。そう言ってもらえるものと信じていた。
「──そう」
 幽々子様は、並大抵の人物ではない。
 だから、「貴方はなんて事をしてしまったの?」だなんて、子供の期待を裏切るような、つまらない一言は口にしなかった。ひどくショックを受けた表情でそんな当たり前のことを言われても、私にはどうしてそんなことを訊かれるのか分からなかっただろう。
 斬れると思ったから、斬った。
 人を殺すことを悪いことだとは思っていなかったし、命の重さも知らなかった。
「あのね、妖夢」
 いつも飄々としている幽々子様は、その時も態度を崩さなかった。一瞬でも視線をお庭の方に向けていないのは、正しい判断だ。私から視線を切るべきではない。状況がぴたりと嵌れば、勝手に手が動いていたと思うから。
「昨日のことよね」
「?」
「妖忌の肩を叩いていたのも昨日のことだし、膝の上に乗せてもらっていたのは、今日のことよね?」
「うん」
 要するに幽々子様は、親愛の情を訴えている。
 今の私にはそれが理解できる。当時の私には、察することすらできなかった。
 その少女には恵まれた剣の才があって、けれど、才以外の何もかも欠乏していた。純粋で無垢な、斬れるから斬るだけの装置も同然。だけど。だけど、だ。だけどその子は、まるでただの子供のようにも笑っていたじゃないか。最も親しい人を手に掛けた直後にも関わらず、宝物をもらったことを嬉しそうに報告しているじゃないか。
 だから決して、人ではない生き物ではないんだ。なんと驚いたことに、まだ語彙は少ないながらも人語だって解する。まだ、希望はある。人として正しい道を説くことだって、夢ではない。
 有るか無しかの逡巡の末に、
「大切にするのよ」
 と、それでおしまい。無理もない。少しも動じずに微笑んでいたけれど、幽々子様だって動揺していないはずが無かったのだから。



 私が仕事道具を正式な形で受け継いでから、しばらくの頃。
 ええ、正式で正統な形ですとも。

 これは私の勝手な憶測ながら、白玉楼の護衛役は、主に北面の武士出身の者に由来していた。生前から護衛役を務めていた魂は、死後も貴人の警護を務めるに相応しかろう。
 普通に考えれば、重要な施設である白玉楼には、決して少なくない一定数の者が常に詰めていたはずで、でも、たった一人の剣鬼が制度を変えた。そしてその彼も去った今、何もかもが変わった、のだと思う。変わる以前を知らないから、これは何とも言えないのだけれど。
 とは言え、見渡す限り無人、だなんて。流石にこれは、どうなんだろう。屋敷の内にはお手伝いの幽霊がいるにしろ、広大な庭の敷地は全て庭師が預かっている。私には当たり前の景色は、一歩引いてみると、異例とも思える。
 いや、その時だけは、たまたま無人ではなかったのだけど。突如として、馬の嘶き。紅威の鎧を身に纏った堂々たる武士が、葦毛の馬に跨って現れたのだ。武士は兜の影に隠れた眼をぎょろりと動かすと、ちょうど渡殿を通りかかる所だった私に向けて、五人張りはありそうな重藤弓を引いた。
 白玉楼は死後の世界として、格の高い方だ。本当に余さず全ての人間が来られる場所でもなし、この屋敷に逗留する霊を付け狙う輩も多かった。他に例を挙げるなら、例えば、職務に誇りを抱いていた者だとかも、少なくはないのだろう。

 刈込鋏で、ずんばらりん。

 余分な枝を切り落とすのも、庭師の仕事です。
 ただ、世の情勢が昔と変わったからか、不埒者は昔と比べて減っている。そのため、こうして仕事があるのは珍しかったりするのだ。
 ところが冥界の関係者が言うには、私の代になってから、白玉楼の雰囲気は変わったそうだ。
 確かに、と思う部分はある。だって、それはそうでしょうよ。物々しい武士が何人も詰めていたら、空気が厳めしくて息苦しくって、逗留する霊たちに居心地の悪さを感じさせてしまう。その点、可愛い女の子なら美観は優れていると断言できる。華やぎがあるに決まっています。それで古いタイプの護衛は、もう要らないとか何とか。
「……いけない。お馬さんの方を、忘れていました」

 もう一回、ずんばらりん。

 鋏を閉じる音がいやに大きく響く。白玉楼は今日も静穏に満ちています。──私の代になってから、白玉楼の雰囲気は変わったそうだ。先代以前の白玉楼を知る者は、決まってそう口を揃える。
 私は楽な仕事ができているようで何よりです。昔はもっと、しっかりした警備が必要な雰囲気だったそうですから。

「さっき、手を抜いたでしょう? どうして一回で二回斬らなかったの?」
 日が落ち月が顔を出す頃、紫様にそんな風に指摘されてしまいました。見抜かれていたようです。
「先代だったら有り得ない遊び心だわ」
 紫様は、そうも言った。
「叱らないんですか?」
 と、小首を傾げて。
 紫様が怒っているようには見えなかったからだ。
「私は好きよ? 遊び心」
 実際、懐の広いことを言う紫様なのだ。ただ、その言葉とは裏腹に、表情は浮かばない。
 日が落ち切ってしまっても、形の良い唇は次の一言を紡がなかった。
「幽々子様に会いに来たんですか?」
「……」
「えっと、主人なら、今は部屋で書き物の時間のはずです」
 ちゃんとやっているかどうかは、知りませんけど。
「……」
「主人に用でないのなら、何しに来たんですか? 用が無いなら賊ですね」

 その少女は、死を操ることができた。
 文字通り抵抗なく人を殺すことができる力である。
 道具も距離も関係無く、それができると感じた瞬間、もう事が済んでいる。そういう類いの力である。

「幽々子と貴方は似ているわ」
 ふと、紫様がそう零した。
 決して取り乱さなかった幽々子様に代わって、いなくなった人のことを偲んでいるようにも見えた。月に掲げた杯を、ひとり静かに傾ける。
 東の空から昇り始めた弦月は、中天に懸かろうとしていた。濡れ縁に降りて、青白い光の差す庭を眺めている。
「似てますか? 目元、とか?」
「いいえ。違ったわね。似ているわけじゃなかった」
 少しだけ、微苦笑。今宵、彼女が初めて見せる笑顔は、どこか哀愁を伴っていた。
「私は妖忌のこと、嫌いじゃなかったわ。昔からの知り合いでね」
「そーですか」
「幽々子もね、妖忌のことは避けていたようで、別に嫌っているわけじゃないのよ? きっと、彼がたまに見せる人殺しの顔が怖かったのでしょうね。彼は……人を多く殺し過ぎたから」
「私も、おじいちゃんのこと好きです」
「……」
「えへへ、みんなお揃いですね」
「そうね」
 呼吸を短く区切った紫様は、冷たい眼差しを私に向けた。
「妖夢。貴方は幽々子にとって、出会って間もない、ただの他人だ」
「……?」
「あー、だめね。今のナシ。私らしくない。はぐらかすような口調じゃないとダメでしょう、断言とかナイわー。……はぁ、弟子の世話くらい、自分でやりなさいよもう」
 がりがりと頭を掻く姿も、何と言うのか、こう、乱雑な投げやりさがあって、本当に彼女らしくはなかった。
 思い返してみれば、そのらしくもなさを、好ましくも思うのだけれど。ただ、その時の私は、きょとんと美しい横顔を見上げるばかり。
 弓張の月に外れて見し影の──? なんちゃって、冗談です。“彼”の歌の中では、私はこれが一番好きですかね。
「まあ、どうせ喉まで出掛かった言葉よ。妖夢、貴方は幽々子にとって、ただの他人だ。その意味を、よく考え直した方が良い」
 冷たい眼差しは取り下げになったものの、冷たい一言ではあった。



「この御方が、私の仕える主です。そして、これから貴方が仕える主でもあります」

 最初、引き合わされた時、幽々子様は早く遊びたいという風な顔をしていた。と言うのも、先代にとっては知人の娘で、今更改まる必要も無かったためだ。先代のそういう生真面目で、忌憚なく言ってしまえば面白みに欠ける所、お転婆なお嬢様は辟易していたみたい。
 実際、「もうっ、そういう堅苦しいのは良いから」と言い出すまでの、その早いことったら。生まれ持った特異な能力のために、特例で白玉楼を任されているご令嬢。良いご身分、とは言え年若い少女でもあった幽々子様は、普段は決して触れ合うことのない小さな女の子を、一目で気に入ったのだ。だから、話もそこそこに女の子の手を引いて搗庭へと連れ出した幽々子様を、その日だけは、先代も敢えて叱ることは無かった。
 仕えるべき主と紹介しながらも、立場上孤独でありがちなお嬢様には、自分のような老体ではなく、もっとこう、若い女の子の方が良いのかな、なんて考えてしまった、その青臭い魂胆は透けて見えていた。
 幼い私は、そんなふたりの期待を盛大に裏切ったわけだ。

 先代が白玉楼を去ってから、季節の幾度か巡った頃。
 この頃、幽々子様はどういう気分で過ごしていたんだろう。顔に出やすいうちの家系と違って、幽々子様は容易には魂胆を悟らせない。
 私の思い上がりでなければ、可愛がってもらっていた。私の方も、物腰の柔らかなご令嬢に懐いていた。同じ屋根の下、それなりに穏やかな日々だったはず。
 穏やかでなければ破綻していた、とも言う。
 私は懐いていたが、幽々子様が私に好意を向けているとは限らなかった。

 無垢で純粋。
 斬れるから斬るだけの生き物。
 ほんの少しでも害意を向ければ、瞬時に反応する装置。

 一つ屋根の下、四六時中、ずっと一緒。この間、幽々子様はどういう気分で過ごしていたんだろう。
 幼い私は幽々子様によく懐いていて、仔犬のようにトコトコと背中を追い掛けていた。
 私は他人で、それまでずっと暮らしていた人を、事実上、追い出した相手だ。その相手と一緒に暮らしながら、絶対に疎ましいと感じない。それって、人間の精神性にできることなんだろうか。
 長らく、私が彼女の真意を知ることは無かった。一端に触れたのは、それから何年も経った後の出来事となる。

「あ、やっぱり」
 深夜、書斎で書き仕事をしているはずの幽々子様を呼びに行ったら、案の定だった。その日の内に確認して欲しいことがあったのだ。外出中ということも無いはずで、台所やその他の場所を見て回っても、幽々子様の気配は無い。白玉楼は相当広いお屋敷で、けれども生活圏くらいは決まっている。
「奥の間、かな」
 私も幽々子様も含めて用が無い時は立ち入らない場所が、奥の間だった。霊魂が一時的に滞在する白玉楼を、旅館のようなものだと喩えるのであれば、奥の間とは貴人の間だ。特別なお客様をお招きする場所。つまり、『白玉楼』としての白玉楼。
 一口に静けさと言っても種類がある。奥の間には、日本家屋が持つ特有の静寂、と言うよりは、鍾乳洞を思わせる冷気と圧倒されるような静寂とがあった。廊下には等間隔に、朧な青白い燐光を発する燈明が設けられている。幽霊の火だ。
 目的の部屋の近くまで来ると、桜の花弁が一枚、はらりと視界を横切った。幻ではあるにしろ、気のせいだとは思わない。“彼”にまつわる場所には桜の花弁が散っている。冬に雪が降るのと同じ程度には、とても自然なこと。

 何か、物を取りに来た。その程度の用事だと思っていた。
 だって、そうじゃないですか。他に何の用事があるって言うんですか。
 言い訳させてください。忍び寄ったわけじゃないんです。

 奥の間にある部屋で、幽々子様に何らかの用事があるとしたら、その客室しか無い。ただし客人は既に去っており、ほんの僅かな一時、“彼”が部屋を使用した時のままに保存されている。
 襖は、ほんの少しだけ開いていた。幽々子様は、部屋の中にいた。探し物をしているわけではないようだった。
 間が悪かったんだ。だから、見てしまったんだ。──残された文机に、そっと触れる、その手付きの震えを、その危うさを。
 筆とか、硯とか、思い出を偲ばせる持ち物なら他にもあったはずなのに、そういった品物を取り出して手に取ることさえ恐れているみたいだった。ほんの僅かな動きさえ残り香を散らしてしまうのだと危惧して、決して物の配置を決して動かすまいと。もしかすると、こうして部屋に入るだけの行為でも、多大な勇気を必要とした。
 強張った表情はピクリともしないのに、睫毛だけが細かく震えていた。

「……………………お父様」

 聴こえた瞬間、思わず口元を手で覆って、呼吸なんか止まってしまえと呪いながら息を呑んだ。
 全く、予期していなかった単語だった。それは多分、虚を突かれるという、人生で初めての経験。即刻、足音を殺してその場から逃げ出していた。
 はっきり言って、後悔した。
 あんなもの見なきゃ良かったと本気で思った。
 だってこれ、信じていた世界の崩壊だ。私は彼女のことを誤解していた。あんな顔をする人じゃないと思い込んでいた。心のある生き物とはどういうことか、私は全く分かっていなかった。
 見なければ良かったし、それ以前に見るべきでもなかった。幽々子様も、絶対に余人には見せたくない姿だったはずだ。見てはいけない光景を見た。その報いは、生まれて初めての動揺だった。
「なんて顔を、しているんですか……ッ」
 それだけ吐き捨てるために、どのくらいの時間が掛かったろう。
 初めて、自分が何も知らないことを知った。何も知らずに過ごしていた時間が、今になって、圧し掛かってきた。つまる所、私は斬れるか斬れないかでしか物事を見ていなかったということだ。
 見なきゃ良かったという思いは、多分、後悔だ。迷わず逃げ出したことを恥じる気持ちは、多分、慙愧だ。

 耐えられなくて、とにかく一刻も早くあの部屋から離れたくて、壁に手を付いて歩きながら、転げ落ちるようにして庭に出た。満開の桜が私を出迎えてくれる。今が春かどうかなんて関係が無い。冥界の桜は散りたい時に散っている。丁度、雲の切れ間から月も顔を出した。夜桜だ。
 無知に起因する全能感は、全部が嘘のように消え去っていた。自転車で何処までだって行けると思っていた子供のままではいられない。澄み切った高い空から墜落死した気分。急転直下の錐揉み下降で、上も下も分からない。大の字に横たわっても、まだぐるぐると回っているような気がした。
 思えば幽々子様は、私のことを人間の子供として扱っていた。なんという蛮行。なんという暴挙。刀に素手で触れるだなんて、脂汚れで錆び付いたら、どうしてくれる気なんだ。ちょっと信じられない。
「許さない……」
 涙で頬に張り付いた薄い欠片を摘んで剥がした。
 桜の花弁は、桜の色をしていた。そんな当たり前のことを、その時初めて、頭で考えて理解する。心が分かることと、頭で理解することの違い。私はどういうわけか、後者の方がすっぽりと欠け落ちていた。これは、自己と自我の違いと言っても良いのだろう。風に巻かれる花弁のように、斬れるから斬って、斬りたいと感じた時には斬っていて、そんな自由気儘な生き方に、いちいち行動を考える工程は存在していない。私は無意識で生きていた。
 私が『私』であるという意識。それは、私が何者なのかを考える器官だ。主体というのは不思議なもので、そんなものは錯覚なのに、私が『私』であることは聖域なんだ。
 聖域は、夜の大海に浮かぶ小舟にも似ていた。私が『私』であることがこんなにも心細く苦痛であることなんて、知りたくもなかった。
「なんて、こと……」
 悔しかった。どうして、あんな些細な失敗で、空から突き堕とされなきゃいけないんだろう。ひどい話だ。だって多くの武芸は、無念無想だの明鏡止水だのと、『私』の存在しない何物にも囚われない澄んだ心を至上としているのに。
 きっと最初から、幽々子様は刀をへし折るつもりだったんだ。先代は結局いつまでもだらだらと剣の道を捨てられなかったから、当代は自分好みに育てる魂胆だったんだ。こんなの、言い掛かりかも知れないけれど。

 桜も月も美しかった。
 斬れるか斬れないかではなく、私はただ、その美しい光景を朝になるまで見上げていた。
 程無く近付いて来たのは紫様だった。手には一升瓶と、酒器が二つ。呑むかと問うこともなく、何も言わずに片方を押し付けてくる。誘われたのは初めてだった。
「そんな気分じゃないんですけど」
「やらかした時には、呑むものよ」
「じゃあ、紫様はいつもやらかしてる、ということですか?」
 そう言ったら、額を小突かれた。
 何があったのか、私は何をやらかしたのか、何事も不明瞭を好む八雲紫という女は、興味を持つ素振りさえ見せないのだった。
「お酒は機嫌が良い時に呑むもので、でも、やらかした時にも呑んで良いの」
「やらかしていることは否定しないんですね」
「……別に、やらかしてなんか、いないわ」
「そういうことにしておきます」
 初めて飲む液体におそるおそる舌を伸ばし、それから一息に呷って喉の奥に流した。ああ、こんなもの、一生、慣れることは無いだろうと思っていた。



「まぁこう言っちゃなんですけど、白玉楼は私の力で持っているようなものですよね!」

「私の身長がもう2センチくらいおじいちゃんを追い越しちゃっている現実……教えるには忍びない、かな」

 おっさけー♪ おっさけー♪

 紫様が、深煎りのコクを感じさせる苦み走った表情をしていました。
「ふむふむ……」
「何が、ふむふむなのよ」
「紫様の顔を肴にしていました。なかなかどうして味わい深いものですね」
「…………うふっ」
 にこっと、怒気が滲んだ。
 ああ、ますますお酒がすすむなぁ。
 おかげで口が滑った。生涯、絶対に誰にも言わないと誓ったことまで話してしまった。
「最後のくだりは秘密だったんですけどね」
「それじゃあ私も口を滑らせようかしら。どうせ、忘れてくれるわよね」
 紫様は、らしくない顔をした。幽々子様の見ていない所だと、そういう顔もするようなのだ。思うに、紫様なりに格好付けているのだろう。
「貴方のことね、幽々子に相談されたことがあるのよ。でもね、困るじゃない。誰がこんなものを育てられるのよ」
 私はあの子のことが怖い。
 幽々子様は、そう呟いたのを皮切りに本心を吐露したそうだ。

 その、まだ幼児と言って差し支えない子供は、手間の掛かる子ではなかった。赤子の頃から夜泣きもしなかった。何もしていない時でさえニコニコと笑っていることが、ほとんどだった。正直な所、不気味だった。
 その子がじいっとこちらを見つめている時、いったい何を探しているのか、考えたくもなかった。
 だけれども、こういう風に想像する。その子の頭の中は空っぽで、でも二つだけ、箱があるのだ。つまり、斬れるものと、斬れないもの、それぞれの箱。
 その子が、じいっと自分のことを見つめている。
 これは斬れるものだと、そちら側の箱に、仕舞われた気がした。

「……さあ、どうでしたっけ? よく、覚えていませんね」
 覚えていないのは本当だ。でも、ほぼ確実に当たっている。
「誰がこんなものを育てられるか。あの頃の妖夢は本当に、こんなもの、と投げ捨てたくなる代物だったわ。少なくとも、生きた命に囲まれて過ごすべきでないのは確実だった。育てようと思うなら、冥界に隔離して絶対に外に出すべきではない」
「…………」
「生きているだけで周囲に死を振り撒く。否応なく生き物を殺してしまう。その異常性の重さを……過去の私は、軽く見ていた。その結果は、例の古木の下に埋まっている」
 成る程、やらかしたんですね。
「まあそれはさておき、その異常性の重さを本当の意味で分かっているのは幽々子だったわ。記憶には無くても、思う所くらいはあったのでしょう」
「余計なお世話ですね」
「まったくだわ」
 捨て置かれていても、何も困らなかった。むしろ今よりも自由だった。今頃、百人斬りを百回くらい達成しているのは余裕だったかも。
 投げ出したい重荷は投げ出してしまえば良いのに、まさか、同情でもしたの? 私は自分の力が怖くなったことなんて無い。悩んだことも無い。だからそんなつまらない同情は、全然、的外れだって言うのに。
 なんて、無駄なこと。なんて、莫迦なこと。
 あまりにも理解の埒外に過ぎて、私は幽々子様がそんなことを考えていたなんて、知らなかったんだから。
「あの人、どうしていつも、そうなんでしょう」
 いつも一人で誰も知らない事実を抱え込んで、何も考えていないみたいに笑って。
 私は幽々子様のそういう所、治した方が良いと思っている。
「それが格好良いと思うお年頃なのね」
 と、紫様はにべもなく。
 でも、こういう風にも続けた。
「自分を慕ってくれる子の前だもの、格好付けるものなのよ」
「紫様がそうしているみたいに、ですか?」
 青二才は、ぐ、と言葉に詰まった。見たことの無い表情を見るのが楽しくて、またあれこれ言ってみたくなる。
「……ええ、そうよ。貴方もいつか、誰かの前で格好付ける時が来るのよ」
 実際だいぶ年上なのだけど、また一段と年上のお姉さんぶった表情で。ほら、新しい顔が見れた。
「そういうもの、ですか」
 どうなんだろう。ちょっと、想像できないかも。
 誰かに憧れることはあっても、自分に憧れさせることって、まだ経験が無い。
「まだまだ、先は長いですね」
「だから、いつも言っているでしょう? そんなだから貴方は半人前なのよ」
 半人前になるまでも、長かったですからね。
 ところで武芸には『形を忘れるために、まず形を覚える』という発想がある。
 何か一つ技の型があるとして、何も知らない状態から、いきなりその技を繰り出すことはできない。次いで、技の型を覚えたとしても、やっぱり実際に一連の動きの中で繰り出すことは難しい。だから一旦覚えた後、忘れてしまう。すると、必要になった時、ふいっとおのずから、その技が出て来るものだそうだ。
 形を忘れるために、まず形を覚える。せっかく修めた型を、忘れてしまう。そういう発想。
 さあ、これから先は復路だ。一夜にして墜落した往路は、何年掛ければ戻ることができるのか知れたものじゃないけれど、私は口で言うほど大した不安を抱えていなかった。長い道のりになるとは言え、何しろ、もう折り返しにまで来ているのだから。半人前って、そういうことでしょう?
 私はあの夜に、やっと半人前になれたんだ。
 ……半人前、ね。
「は。好きな子の前で格好付けてる青二才に言われたくはないですが」
「なんで貴方はお酒が入るとそうなのよ。酒の呑み方覚えてから出直して来なさい、小娘が」
「まだ酔ってません! もっと持って来てください!」
 翌朝、頭が痛かったです。



 下界では熱気の立ち込める夏季、白玉楼は特上に過ごし易い気候となる。桜並木はいずれも青々とした葉桜で、搗庭に濃い影を落としている。高地の風に合わせて木漏れ日は揺れて、時季外れの桜の花弁も、はらはらと散っていた。
 そんな中、リズム良く打球音が響いている。涼感があり心地の良い気温。軽い運動で、額にはキラキラと光る汗の粒が浮かんでいた。
 それ程力を込めてはいないけれど、黄色いテニスボールは力強いストロークで白塗りの壁に当たり、跳ね返ってくる。ボールを追い掛けて、フォアハンドにバックハンドを織り交ぜながら打ち返す、その繰り返し。一打ごとに、刀の軌道上にあった桜の花弁が切断されていく。
 程良く息の上がった所でボールを刃の上で受け止め、にこりと笑って、屋敷の方を振り返る。
「さぁ、幽々子様。運動しましょう、運動。今日は必殺のジャンプサーブを伝授してあげます」
「い・や・よ」
「もー、幽々子様はー、まったくもー。……贅肉やばいことになりますよ?」
「……」
 幽々子様は笑っているけど、目が笑っていなかった。
 素知らぬ顔で微笑んでいるよりも、余程、好ましい表情だ。
「まぁ、ふくよかな女性も良いですけど? 今は妖夢ちゃんの時代来ちゃっているんですよねぇ。若々しい健康美と、ダメダメな主に仕える健気さ、つまり妖夢ちゃん可愛いやったー、というわけです。まぁ私は可愛いですからね。こう言っちゃなんですけど、もはや妖夢ちゃんは幽々子様よりも可愛いわけで」
「つくづく、教育方針を間違えたと思うのよね」
 だいぶガチトーンの発言でした。呆れ果てた相手を見る目です。
 私も至極真面目に返します。もちろん、呆れ果てた相手を見る目をしながら。
「滅相もございません。日々、幽々子様の元で学ばせてもらっていますよ」
 ええ、本当に。
 昔に比べれば私の頭の中は空っぽなりにも雑然としていて、でも相変わらず、大きな箱が二つ置かれている。
 片方には、“水”とか“雨”とか、最近は“時間”とか、本当に色々な物がこんもりと溢れ返るほど山積み状態。自己の中の矮小な自我こと小さな妖夢ちゃんが、せっせと箱の中身をひっくり返しては、かなり昔にそこに仕舞ったはずのものを探している。案外すぐに見付けられたようで、一安心。
 そうして、『斬れないもの』とラベルの張られた、数える程しか物の入っていない箱の方に、この尊い人のことを丁寧に仕舞うのだ。
「そろそろ、おやつの時間にしましょうか。運動してるの見てたら疲れたわ。実質、300カロリーくらいの消費ね」
「ちょっとその理屈は意味分かんないんですけどね。……まあ別に良いですけど。今日は、冷たいものが良いですね」
 などと言っておけば、そのうち紫様がアイスを持って来るだろう。こんな穏やかな何気ない日々のことを、今の自分は好ましいと感じている。好ましいと、感じていられる。

 ねぇ、幽々子様?
 今の私があるのは、貴方のせいなんですからね。

簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
やり取りが良かったです
2.100終身削除
本当に頭空っぽな妖夢が恐ろしかったです 紫や妖忌もそうなんですけど幽々子と妖夢の関係で妖夢の方に重心が傾いているような感じがなんだか歪で印象に残りました 望む望まない関係なく妖夢や紫が言っていた通りに幽々子と妖夢がお互いを変えたっていうのが今の白桜楼の下地になっていて取り返しはつかないけどその分大切な事なのかなと思いました
4.無評価名前が無い程度の能力削除
PCで言う処理速度にステータス全振りみたいな。
使いところの無い才能持ったポンコン可愛いみたいな。
これは調子乗ってますよ。
6.100サク_ウマ削除
無垢で盲目で、本当に何も考えてなくて、難しいことは全部全部聞き流して。
唯一、剣の才能だけは溢れんばかりにあって、それ故の、無邪気な全能感に溺れていて。
ああ、これこそが妖夢だ、って、初めて見るのにすとんと納得させられる、不思議な人物像でした。
お見事でした。文字に引き込まれるかのようでした。大好きです。
7.100モブ削除
才能というもの評価するのって、実はとっても難しいなあと思うのです。先人は後ろに続くものを評価する際に、どうしても環境だったり経験だったり、社会だったりといったものでバイアスがかかりやすいので。
その中でこの妖夢の背中にある翼がどれほどのものなのか。このまま進むことは果たしてその才能を伸ばすものなのか。鎖ではないのか。少なくとも蝋ではないと思いますが、高く飛ぶ分、折れたときに落ちる高さもまた情人では考えられないものになるのだなあと。
私個人としてはこの妖夢が無様に野垂れ死ぬほどに愚かになる姿も見えましたし、逆に抜身の刀になってしまう姿も想像できました。鮮やかに、丁寧に飾られる未来もきっとあると思います。妖夢の可能性を沢山見せてもらえた、いい作品でした。面白かったです。ご馳走様でした。
8.100名前が無い程度の能力削除
完成度が高く、大変面白い作品でした。
ふんわりとした狂気と、最後には少し温まる終わり方が素晴らしいですね。
うどんちゃん要素、好き。
9.100名前が無い程度の能力削除
絶妙にどこまでもポンコツな感じが可愛かったです
10.100こしょ削除
雰囲気がとてもあたたかくて好きです
11.100クソザコナメクジ削除
心地よい文体、静かでありながら呼吸をしかと感じ取ることができる。
読んでいて心地よかったです。
それにしても妖夢の未熟さが可愛いこと可愛いこと。
そして紫様のお優しいこと。
内容に反して緩く、最後まで温かい物語でした。
12.100めそふらん削除
幼心、未熟故の狂気の様な物を感じられました。
それを自覚してしまった妖夢がなんとも可哀想に感じられましたが、同時に幽々子とのお互いの関係がより近くなる出来事になったのかなとも思います。
明るい雰囲気のやり取りもあってバランスが取れていて読んでいて凄く面白かったです。