Coolier - 新生・東方創想話

兎は如何様な夢を見る

2020/05/16 15:59:49
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 底 『月兎は如何様な夢を見る』


 地上の前線基地に用意されたクールダウン用の部屋には、私しかいない。
 私は部屋に備え付けられたデスクの前に座り、情報端末のディスプレイと睨めっこをしていた。デスクの上には、携帯用の小型の情報端末と、団子が乗った皿が一つあるだけだ。
 団子は、まだ齧ってもいない。報告書を書くために支給された情報端末のディスプレイは延々と光を放っているが、やけに眩しくって、鬱陶しかった。
 ディスプレイは、乱雑に書きなぐった報告書の下書きを表示し続けている。でも私はこれ以上現実を綴ってまとめることができないでいた。

『地上浄化作戦 八月十四日における報告書 情報特技兵 鈴瑚
 上等兵 清蘭が地上人 霧雨魔理沙・東風谷早苗と交戦を行う。
 その後、前線基地に地上人 博麗霊夢および玉兎の脱走兵 鈴仙が現れる。両名の目的を確認するため、鈴仙と訓練兵時代の同期であった情報特技兵 鈴瑚が接触を試みる。
 両名の目的が地上浄化作戦の阻止であると判明。対処方法を立案する時間稼ぎを目的として、鈴瑚特技兵は弾幕勝負の形式で応戦する。
 しかし戦闘を継続した場合、前線基地の存在が地上に広く露見するという危険性が発生した。鈴瑚特技兵の提案により、対象の夢の世界への誘導、および封じ込めを敢行する。
 第四隗安通路への入り口を開放後、博麗霊夢・鈴仙に霧雨魔理沙・東風谷早苗が合流した。その後、一同を夢の世界へと誘導した。』

 ――報告書には、載せていない。
 この後、霧雨魔理沙と東風谷早苗を追跡していた清蘭が追い付いてきて、鈴仙の後姿を見たのだ。それで、清蘭は狂喜と笑った。
 その後、清蘭は笑い続けていた。私と鈴仙の名前を、何度も叫んでいた。連日の作戦の疲れが出たのだと、清蘭はクールダウン用の個室で一晩隔離されることになった。
 私もまた、地上人との交戦における疲れを癒すことを理由に、クールダウン用の個室を一室手配された。清蘭と違って、自由に個室を出入りすることも許されている。もっとも、報告書の作成という仕事を言い渡されたから、呑気に休憩はできない。
 サグメ様との面談以来、時の流れは速くなってしまった。まるで、時間という概念が崩れ去ってしまったようだった。
 あの夜からずっと、時間からまとまりがなくなった心地がしていた。毎日、気がつけば次の日が来ていた。それでいて、時々無性に、清蘭と鈴仙のことが頭から離れず、しばらく苦悩に襲われた。
 清蘭と鈴仙が出会ってしまったら、私はどうしたらいいのか?
 あの面談の夜以来、私の思考もまた、まとまりを欠いてしまったようだった。
 何一つ考えが決まることなく、地上浄化作戦は進んでいった。
 私たちイーグルラヴィは地上へ潜入し、情報を集めながら、少しずつ地上浄化用の兵器キュリオシティで植物を枯らし続けた。
 不十分な思考なりに立てた作戦が功を奏し、清蘭は鈴仙の行動範囲に踏み入ることなく、数か月以上、潜入調査を進めていくことができていた。
 けれども、そこで今日の出来事が起きた。
 ふとお腹が、どこか深くへ落ち込んでいき、ぽっかりと穴が開いてしまったような感覚がある。団子が、食べたい。今でも団子は私の生活に欠かせない。こういう頭を悩ませる事案を抱えている時には、団子を食べながら取り組むのが一番なのだ。気分が悪く食べた傍から吐き出してしまった朝もあったが、あんなものは一時の体調不良にすぎない。
 そう。団子を食べられれば、この仕事もきっと乗り越えられる。
 私たち玉兎の仕事に、失敗は許されていない。だから、仕事のできない玉兎に、生存の許しは降りない。仕事は、こなさなければいけないのだ。
 だから、いまは個人的な感情など、捨て置くしかないのだろう。徒なものは重荷になってしまう。
 清蘭が、どうなっていくのか。鈴仙がどうなっていくのか。そんなことは捨て置いて、考えないようにして、目の前の仕事をこなしていくしかないのだ。
 それが、我々玉兎が月の都で生きていくために避けては通れない道だ。
 デスクの上に置かれた団子を手に取り、餅を一玉、口の中に入れる。そうして餅を噛もうとする。
 すると、ちょうどその時。キャンプの外から、鴉の鳴き声が聞こえてきた。ガア、ガア、ガアと、反響するように、何度も何度も、執拗に。まるで囲い込んでくるような鳴き声は、一方からではなく、周囲のいたるところから聞こえてくる気がした。
 鴉の群れでもいるのだろうか。そんな考えがふと浮かんだ。遠くのあちらこちらから、近くのあちらこちらから、絶え間なく鴉の鳴き声がやってくる。
 無秩序に、不統一に、自分勝手に鴉は鳴いている。鳴き声を追いかけるように、別の鳴き声がする。そんな濁流のような鴉の鳴き声の中から、かすかに、誰かの声が漏れ聞こえた気がした。もしかすると、この部屋には不備があるのだろうか。叫ぶ者さえいるクールダウン用の部屋なのに、防音が十分ではないようだ。報告することが一つ増えてしまった。どうしてこんなにも、仕事は積み重なっていくのだろう。
 今度は、甲高い、ヤカンが沸騰するときのような音もしてくる。防音なんて、あったもんじゃない。ヤカンの音さえ聞こえてくるなんて。というか、これは風切り音だろうか。鋭い風切り音だ。どうして風切り音がするのだろう。何かが、飛んでいるのか。
 そこまで考えて、はっとした。
 まずい事態が起きているのではないか?
 直後、大勢の鴉が、がなり立てるように一斉に哭きだした。鴉の声と声が同調し、音は増幅し、鼓膜を破り抜けようとする。
 そして地面が私を拒絶するように、高く跳ね上がった。爆裂音が続く。
 私の体が宙に浮く。今まで目の前にあったデスクが遠く下方にあるが、すぐに目の前まで接近する予感があった。避けようがない。
 玉兎遠隔群体電波通信網が鳴り響く。
《メーデー メーデー》
 視界の中で、デスクと床が私に急接近したかと思うと、頭蓋がやかましく音を立てた。目の前が真暗く潰れる。


 ……… …… … …… … …… ………


 報告書の下書きが表示されていたディスプレイが、踏み砕かれる。
 誰かが、目の前を踏みつけ、駆けて行った。これは、地面か? 視界の半分が地面。もう半分が、空。夕刻のような赤と、夜の黒が、汚らしく混ざっている。屋内にいたはずだが、屋根がない。私は今、横たわっているのか?
 視界が、赤く、熱い。炎が上がっている。臭い。肉と、プラスチックと、樹木と、金属と、他にも雑多なものが混ざり、燃えているような悪臭が鼻孔を侵している。
 どれくらいの間、意識を失っていた?
 前線基地の跡形は、もはや、無い。壁も床も天井も、内外の境を形成していたものは、すべて無秩序に破り捨てられている。どちらに月があり、どちらが東西なのか。空は粉塵で覆われていて方角さえも分からない。暗いけど、目を覆いたくなるほど、明るい。月あかりは閉ざされ、戦火ばかりが光景を照らし出していた。
 私を覆うのは、怒号と、爆裂音。そして、獰猛な狼と鴉の哭き声だった。
 玉兎遠隔群体電波通信網が騒がしい。

《メーデー メーデー
 緊急事態発生 地上浄化作戦において緊急事態発生
 前線基地が地上の天狗妖怪の襲撃を受ける
 隊長は攻撃を受け安否不明
 基地外部にて潜伏任務中の者は身を隠し事態に備えよ
 基地にて任務中の者は緊急時対応を発動すべし
 待機中のキュリオシティを出力最大にて一斉起動せよ
 地上浄化を敢行せよ
 地上を一塵の穢れなき浄土へ帰せ
 我々月の玉兎兵に任務失敗の文字は無い
 繰り返す メーデー メーデー 緊急事態発生……》

 まずは、息を整えよう。息を吸って、吐く。呼吸をコントロールして、安定させる。
 そして、思案するのだ。現状もまた、呼吸と一緒だ。どれだけ乱れていても、落ち着いて対処すれば、ある程度コントロールできるはずだ。
 ――けれども、この状況で、何をする? この混沌とした、何一つ平安のない状況で。
 なにもかも、滅茶苦茶だ。地上浄化作戦で使う資料も、食料も、部屋も、荷物も。なにもかもが、いまはぐちゃぐちゃだ。前線基地のキャンプさえ、崩壊している。ぜんぶぜんぶ、壊れてしまった。
 地上の妖怪たちの襲撃が起きた。地上浄化作戦は、もう崩壊寸前だろう。
 冷静に対処しなければいけない。分かってはいても、悪い情報ばかりが、次から次へ、とめどなく、溢れ出てきてしまう。
 しかも今日は、鈴仙と清蘭が、出会ってしまった。悪いことはこうも重なって良いのか? そもそも、こんな状況で、清蘭は無事なのか? 清蘭はクールダウン用の部屋に隔離されていたはずだ。同じ状況だった私がいま無事なら、清蘭も無事でいるのだろうか? 一体、どこにいるのか……。
 ああ、駄目だ、駄目だ。
 こういう時だからこそ、冷静に優先事項をこなしていくしかない。それ以外のことは、捨て置くしかないのだ。今までそうしてきたように、生きるために。
 この中で、何をすべきだ? なにが、最善か。何が生き残るために必要なものなのか。
 そう、玉兎遠隔群体電波通信網でも指示は出ていた。最優先すべきは任務の達成だ。月の都において玉兎とは、任務を達成するための存在だ。任務を達成できない玉兎に、生きる価値はない。
 現在、任務の目的はキュリオシティの最大出力での起動だ。事前の作戦でも決められていた、緊急事態用の措置。私たち情報部門の兵士は、最重要課題である、キュリオシティの起動コードの入力を担うことになっている。
 生命を浄化する月の兵器、キュリオシティ。その兵器が通った跡には何も残らない。
 本来の作戦では、キュリオシティへの直接攻撃を警戒し、秘密裏に少しずつ地上の浄化を行う予定だった。植物から浄化し、植物と共生する人を弱らせ、人間から力を得ている妖怪を弱らせ、少しずつ浄化を進めていく計画だった。
 しかし前線基地と私たちの存在が知られたいま、そんな悠長な手段はとれなくなった。だから最大出力で浄化の短期決戦を仕掛ける。キュリオシティが起動したのなら、あとはキュリオシティを破壊しようとする地上の勢力を相手に、防衛戦へ移行予定だ。
 キュリオシティを最大出力で起動した場合のことなど、私はマニュアル上でしか知らない。きっと、どの玉兎も同じはずだ。
 最大出力のキュリオシティの周囲に、生命は存在できない。ただ静かに、すべてを浄化し、何の穢れもない空虚へと返すだけだ。
 そして起動したキュリオシティは、あらかじめ入力された幻想郷という範囲を移動し、浄化し尽くすまで、止まらない。
 そんなキュリオシティが計八機、基地には存在している。地上の妖怪も全機撃墜は困難だろう。起動さえできれば、完璧な浄化は難しいにせよ地上の浄化は大きく進展するに違いない。
 鼓動が、はやくなる。キュリオシティを起動するのなら、キュリオシティの格納庫へ行き、操作盤で指示を入力すればいい。それで、任務は完結する。もはや原型もない前線基地だが、格納庫の場所は、玉兎遠隔群体電波通信網を通して探知できるようになっている。
 行くしかない。まだ同僚は誰も、キュリオシティを起動できていないようだ。
 他部門の玉兎たちが地上の妖怪を戦闘で誘導する中を潜り抜け、格納庫へ向かう。戦地を走り抜けて、駆けていく。やるしかない。けれども、可能だろうか。可能だろうか、そんなこと。しかし。生き残るためには任務を達成しないといけない。キュリオシティを起動しないといけない。やらなければいけないなら、やるだけだ。
 どんな場所であろうと。どんな状況であろうと。
 一息おいて、玉兎遠隔群体電波通信網を通して届く位置情報を目がけて、駆け出す。
 自分の身に何が起ころうと、駆けていく。周囲で何が起ころうと、駆けていく。キュリオシティを起動する。ただそれだけを念じ、考え続けて……。それ以外のことなど、意に介さないように……。他のことが、夢幻と溶けてしまったというように……。
 ただただ、意識を亡くして、駆けていく……。


 ……… …… … …… … …… ………


 玉兎が飛んできて、地面に打ちつけられた……固い地面に、窪みができる……赤い血が吹きあがった……そして窪みは、爆発する……身に巻いていた爆弾が暴発したのだ……石や土と一緒に、赤い血も降ってくる……
 もはや空は見えない……粉塵と、煙で覆い隠され、なにも定かではない……しかしその中で、飛び交っている……玉兎が……笑っているのか、叫んでいるのか……波長を操り、弾を撃つ……そして、黒い羽を広げる、鴉……そして、それを従える天狗たち……当たらない……当たらない……
 ガア、ガア、ガアと、鴉が哭く……。空でも、地上でも、玉兎を追い立てるように……頭を丸めてうずくまる玉兎がいる……ヤメテ、ヤメテと、訴える声……鴉たちは、その嘴で、彼女の体に孔を空ける……血が、吹き出す、吹き出す……ヤメテ……ヤメテ……
 天狗たちは……ただ遊ぶように……弾など、花が散っていると、物見遊山をするように……目にもとまらぬ速度で……宙を飛ぶ……いまも、玉兎の一人が、頭を掴まれ、そのまま地面に叩き付けられた……
 もはや何も見えない……どこを見ても……霧のような、混沌とした粉塵……狼が走っている……鴉が急降下して来る……玉兎が駆ける……逃げているのか、向かっていくのか……目まぐるしい……何一つ整理する間もなく……次々と映像が飛び込んでくる……何を見ている間もない……白い毛をぐちゃぐちゃとした色で染める狼……走る……走る……伴に走る天狗……弾が当たっても……止まらない……向かってくる……
 ガウ、ガウ、ガウと、狼が哭く……。ひきづっている……誰かの腕を……腕の爪先が紅くなっているのは、血なのだろうか……誰かがあんな化粧を施していた記憶がある……イヤ……イヤ……狼は咥える……玉兎の頭を……振り回す、引きずり回す……血が、飛ぶ……血が、地に跡を付ける……獣の鼻からは、隠れられない……イヤ、イヤと、声がする……
 天狗が、武器を振り上げる……玉兎は、長筒で、受け止めようとする……長筒ごと、打ち砕かれて、肩が、胴から引きはがされる……赤い、赤い肉の向うに、白い骨が見える……けれども、すぐに白は、赤色と、粉塵の汚らしさに覆われてしまう……
 カアイソウ、カアイソウと、声がする……脚を失った玉兎が、骨の覗く自分の太腿を見て、泣いている……泣きながら笑っている……カアイソウ、カアイソウ……コンナニ酷イナラ、モウ見逃シテ……ネッ、ネッ……鴉が、彼女の眼玉を啄みに急降下する……狼が、彼女の腕を噛もうと、飛びかかる……ネッ、ネッ、ネッ……オ願イ……それ以上の声は聞こえない……哭き声に押しつぶされてしまっている……獣の哭き声……

 ぜい。ぜい。ぜい。……荒い、息の音が、聞こえる。音が、はっきりする。そして、視界も、はっきりする。
 操作盤が、ある。目の前に、キュリオシティの操作盤がある。どうにか辿り着いた。息だ。息をしている。はやい。休む暇なく呼吸が、急いている。段々と、全身に、感覚が戻る。思考が戻る。
 全身が痛んでいた。いつの間にか私の全身は、もはや傷だらけだった。先ほどまでの光景は、私自身に起きた出来事だったのだろうか。それとも此処へ辿り着くまでに目にした仲間の身に起きた出来事だったのだろうか。まるで、分からない。何も定かではない。
 ただ確実なのは、いま私はキュリオシティの操作盤の前にいるということ。全身に孔が空き、肉が裂け、血が流れ出て、脚が震えるほど痛んでいるということ。しかし、操作盤を動かすには何ら支障がないということ。
 痛むから、何だっていうんだ。操作盤上で指を動かし、緊急時用の指示コードを入力した。
 そしてキュリオシティが、起動していく。


 ……… …… … …… … …… ………


 キュリオシティが、起動していく。私は、キュリオシティを見上げていた。巨大で、圧倒されるような、その機体。その中核部に、浄化するための機構が装備されている。透明な水晶玉のような機構だ。半円だけがドーム状に覗いている。その部分が、光を湛えていく。
 ああ、あれが、浄化の光か。生命を塵へと、無へと返す、浄化の光。ふと、全部、消えてしまえばいいのに、という思いが浮かんでくる。こんな地獄のような世界も。そうしたら苦しみは亡くなる。全部全部。いや、地獄だけではない。好物という概念で私を縛り付ける団子も。生まれて以来ずっと断ち切れず周囲にいた玉兎も。みんな、みんな。そうしたら、こんなあれこれ考えなくて済む。痛みを感じなくて済む。そんなことになったら、どれだけ気が楽だろう……。ずっと、月の都では言われてきた。穢れがないことが素晴らしさだと。浄化。そう、浄化されてしまえばいいのだ。ぜんぶぜんぶ。そうしたら、こんな世界も、私も、少しは上等な、月の民のような存在になれるのかもしれない。私はただ、起動したキュリオシティを見つめ続ける。脚を動かすことも忘れて。離れることも忘れて。キュリオシティが、起動していく。浄化するための光が、少しずつ溜まっていく。キュリオシティが光を湛えていく。私は、食い入るように、光を見ていた。光は強くなっていく。私は、惹き込まれたように、ただその光を見ている。すべて、浄化し、何も残さない光を……。いまにも起動し、周囲を浄化しようとしている光を……。
 ああ、そうだ。もう、光は、すぐそこにある……。
「自滅なんて、意味がないわよ。あんな光。美しくもないし、何にも残らないもの。だったら、穢くても生き残っていた方が得じゃない?」
 しかし、想いを絶つように、声が聞こえてきた。
 振り返ると一人、少女ほどの背丈の、何者かがいた。人間では、ない。かすかだが人間とは違う波長を感じた。
 なぜだろう。私の感覚が、何かを告げようとしている。どこかで見覚えがあるような姿だった。
 黒い髪。白を基調として、所々紅く装飾された天狗の装束。やや装飾が華美なことを除けば、どの天狗とも大差のない姿だ。
 その何者かの瞳が、キュリオシティを見上げる。色が吸い込まれていくような瞳だ。永遠を閉じ込めているかのように、どこまでも色を吸い込んでいく、昏い空の色をした瞳。
「これが、あんたたちが必死になっていた目的ね。千年経ったって、月のモノ作りは何も進歩してないみたい。いつも物騒なものしか作らない」
 千年経ったって。こいつは、月の技術を知っているのか? しかも千年前。幻想郷との月面戦争の時代か?
 くすりと、何者かは少し微笑む。そして彼女は空を飛んだ。キュリオシティに向かって一直線に。そしてキュリオシティと、何者かが、ぶつかる。彼女は、キュリオシティを打ち砕いた。
「ハ! ハハハハ! ハハハハハハハ!」
 彼女は笑う。ただただ高らかに、ただただ無邪気に、爛漫に……。これが私であると掲げんばかりに、彼女は笑っていた。
 高く空を飛ぶ彼女の姿を、私はまだ茫然と見上げていた。
「私は楽園を望む者、天魔である! どう在ってもこの地は守る! そして、妖怪を軽々しく潰えさせるものか!」
 キュリオシティが一機、堕ちていく。遅れて、鴉と狼の咆哮が、遠くのあちこちから一斉に湧き立つ。天狗たちの歓声も起こる。まるで、勝鬨を挙げているようだ。しまった。士気を上げる目的もあるのか。
 堕ちていく? 破壊されたのか。キュリオシティが。意味が遅れて、やってくる。まずい。まずい、まずい。私は慌てて空へ飛び出す。迎撃しなければいけない、あいつを!
「おい、やめろ馬鹿! 月の民の作戦だぞ、私たちなんかが失敗していい作戦じゃないんだ……お前ら地上の民が、どうこうして良い問題じゃないんだぞ!」
 空へ飛び出して尚、天魔と名乗った彼女は、より高くに居る。遠い。どうやって、あんな高度まで飛んだんだ。あの一瞬で。
「あー? 月の民がなんだって? あんた、私がそんな名前一つにビビる相手に見えるわけ?」
 天魔の両目が私を見下す。天魔、という名前に、今更気づく。ああ、こいつ。あの天魔か。妖怪の山を支配しているっていう。
 私がまばたきをした直後、視界を何かが遮る。肌色。脚か。脳天に、何かが撃ちつけられる。蹴られたのか? 視界がちかっと一瞬くらみ、意識が茫々と霞む。しかしすぐに、背中が地面に叩き付けれ、痛みで意識を取り戻した。目の前ががぐらんぐらんと揺れている。
「この私を誰だと思ってるの! 黙らせたいなら名前じゃなくって腕っぷしでかかってきなさい!」
 天魔は、そうやって高笑う。その姿は、空高く、まるで手が届かない頂にいるように、遥か遠くに見えた。そして、天魔はぐるりと視線を巡らせると、残る七機のキュリオシティに向かって飛んでいった。
 止めなきゃならない。頭ではわかっていても、体が動かなかった。まるで、彼女は空に立つ側で、私は地を這いずるしかないのだと、体が認めてしまっているような心地がした。
 目の前に広がるのは、信じられない光景だった。キュリオシティが、堕ちていく。何機も、何機も。あの、キュリオシティが……。
 駄目だ。何も考えられない。
「なに……なにやってんだ、お前!」
 気がつけば、叫んでいた。
「キュリオシティ! これ、キュリオシティだぞ! お前、これで私たちは仕事をしなきゃいけないのに……壊すな! 壊すなよぉ! キュリオシティがなかったら、どうやって任務すんだよぉ……? どうやって生きていけばいいんだっツってんだよぉおお!」
 やめてほしい。やめてほしい。伝われ、伝われ。そう念じる想いが、止まらない。無意味と分かっている。でも、声を止められない。
 天魔は空高くから、絶叫する私を見つめ返していた。まるで馬鹿を見るように、眉を寄せて、よくわからないなあ、という表情をしている。駄目か。何も、伝わっていない。
「どうやって生きていけばって。いま生きてんじゃん。五体満足だし。この兵器なしだと、あんた死んじゃうの?」
 そうに決まってる! 叫ぶ直前、何故か言葉は私の中に留まる。
 キュリオシティなしでは、私は死んでしまうのか。
「生きりゃいいじゃない。タブー犯さなきゃ、住めば都なんだから。幻想郷って」
 悠々と、遊ぶように。ただ空を飛ぶことだけを愉しんでいるというように。天魔は何一つ不自由なく、戦塵が舞う混沌とした空を飛んでいた。キュリオシティが堕ちる。もう七機すべて、堕ちてしまった。それさえも、ただ事のついでと、大して気にも留めていないようだった。
「さてさて。あんたたち、これが目的だったんでしょう? でも、もうあんたたちを縛っていた目的はない。じゃあ、あんたたちは何をして生きてくの?」
 私は。何をして、生きていく? キュリオシティは、もうない。任務は達成できない。
 だから、月の都では生きられない。失敗した玉兎に、生き場所はない。
 状況を、理解しろ。いま私たちがとれる、最善の行動は。
 いや、私が、これから生きていくためには。任務なんて関係ない。生きていくためには。
 思考がまとまらなくても、私は、通信網で叫んでいた。
《緊急事態発生! 緊急事態発生! キュリオシティ全機撃墜、任務実行不可能! 繰り返す! キュリオシティ全機撃墜任務実行不可! 全玉兎に告ぐ! 直ちに退却だ……生き延びろ!》
 私たちは、まだ、生きている。
 だけど、生きて何をする?
 そうだ。清蘭がいる。清蘭が、夢を見ている。清蘭をどうにかしなきゃ、私はまだ安心して生きていけない。
 いつの日か清蘭は、私と鈴仙を、殺そうとするかもしれない。
 清蘭の所に行かなくては。一緒に居なくてはいけない。
 かつて。訓練兵時代が終わったあの頃。私は、戦場から逃げ出した。もう耐えられないと、安全な情報部門に逃げ延びた。
 どうやら結果的にその選択が、清蘭を今の状況に追い込んだらしい。
 そしていまもまた、何の因果だっていうのか、私は、戦場に居る。この地獄のような戦場にいる。もう、嫌だ。一刻も早く逃げ出したい。いまだって、その思いは変わらない。
 でも、いまだって清蘭は、一人で戦っているのかもしれない。私が逃げ出したいほど嫌な戦場は、清蘭にとっても同じなのだろう。けれども清蘭は、いまも戦場に居る。
 だったら、私は。私が今度とるべき行動は。
 もう、間違えたくない。清蘭をこれ以上、一人で戦わせたくない。泣かせたくない。今度は、やり直したい。
 だから、走るのだ。どこかに居る清蘭を、見つけるしかない。今度こそ。今度こそ。
 そうして私は一緒に居よう。清蘭が鈴仙を殺してしまわない様に。私を殺してしまわない様に。私が生き延びられるように。どうにか解決策を見つけるために。
 私は清蘭と一緒に居るのだ。
「なんだ。やっぱりあんた、行きたい場所があるんじゃん。いいよいいよー、走りなさい。ここではそれが大切なんだから」
 天魔の声が、背中の方から聞こえてきた。
 私は駆け出していた。もう一度、戦火と怒号の中へ向かっていく。恐ろしい。恐ろしくって、たまらない。だけど、清蘭もこの中に居るのだったら。まず私は、一緒に居なくては、死んでも死にきれない。生き延びても、生き延びきれない。
 玉兎遠隔群体電波通信網を通して清蘭の位置を探る。居た。私の現在地から、近い。そちらへ向かって、駆けていく。
 視界はどこを見回しても赤い炎ばかりが映る。けれども、この清蘭はこの場所に居るのだ。会うまでは、逃げ出せない。
「ま。でもね。大切な土地を、ここまで荒らされたんだし。お灸は据えなきゃ、筋は通らないわよね」
 冷やりとするような天魔の声が、私を追いかけてくる。そしてその声に対して、聴き慣れないもう一人分の声が応えた。
「あやややや。そうは言っても、ご自分は動く気がなさそうじゃないですか」
 いつの間に。もう一人、天狗がいる。戦火の中を走り逃げる中、天魔たちの声だけは確かに耳が拾い続けた。
「少しくらい下っ端天狗に任せてもいいじゃない。私は大仕事したんだもん。じゃ、あとはよろしくね」
 その声の直後、天高く昇る風切り音が響き、何かが遠ざかっていった。天魔が離脱したのだろうか。しかし安堵する間もなく、一陣の突風が、私の後ろから吹き抜け、追い抜いていく。思わず目を閉じ、視界が消える。肌だけが風を感じる。突風はすぐに弱まったが、それでも、そよ風が、前方から吹いてくるようだった。目を開き、状況を確認する。
「まったく、いつだって上司は自分勝手なものです。あなた方玉兎も、そうなのでしょうか? お互いに苦労しますよねえ」
 全速力で駆ける私の眼前に、天狗が、居た。何千里であっても一晩で駆ける私の脚力を上回って、前方でリードしている。
 目が合い、天狗は、にこりと笑う。
「おぉ、速い速い。大した速度です。幻想郷でもトップ争いができるくらいじゃないですか。玉兎とやらの脚力、素晴らしい。心からの賞賛をお送りしたいくらいです」
 天狗は、そんなことを涼しい顔をして告げる。ぱちぱちと、空々しい拍手をしてみせる。
「ま、我々天狗がお墨付きをあげるくらいです。堂々の敢闘賞ですよ」
 直後、天狗が手を振るうと、突風に横から殴りつけられるような感覚があった。
 ぐらりと、駆ける足元が揺れる。どうにか体勢を立て直そうと、私は脚を踏ん張る。すると、天狗が狙いすまし、その脚へ向かって手を振るってきた。再び、突風の殴打が、私の膝を襲う。
「こっ……のぉお!」
 ムカつくやつだ! 脚が殴られたから、なんだ。駆けていた勢いをそのままに、私は飛び上がり、天狗の頭を蹴ろうと狙い見舞う。
 ひらり、天狗は宙で遊び舞った。私の蹴りが宙を空振る。
「んー。筋肉質、とは言えませんねえ。むしろ、ぷにぷに柔らかい。この脚であの速さなのだから、種族の特徴っていうのは恐ろしくも面白い」
 振り切って力を失った私の脚に、いつの間にか天狗が手を伸ばしていた。天狗の細い指が、私の脹脛を撫でる。くすぐったい。加えて、つー、と人差し指で私の脚をなぞってくる。しかしその感覚は脳まで昇る前に、苛立ちに変わっていた。
「ふざけ晒せクソ天狗!」
 叫ぶと同時に天狗へ弾幕を撃ち込む。しかし天狗は、きりきりと目まぐるしく飛び、遠く離れた射程距離外まで難なく逃れた。
「弾幕の筋だって侮れない腕をお持ちだ。人間なんかと遊んだら、きっとお互い楽しいんじゃないでしょうか?」
 天狗は悪戯っぽくにやりと笑い、こちらを小馬鹿にしたような態度だ。本当に、苛立たせるのが上手い。完全にあちらのペースに呑まれている。
 きっと、このまま下手に感情を高ぶらせたら相手の思う壺だろう。
 相手の目的はなんだ。明らかな挑発。こちらの気を惹こうとしているのか。
 いや、違う。相手の目的なんてどうだっていい。私にとって肝心なのは、どうやってこいつを撒いて逃げていくかだ。どうやって清蘭と合流するかだ。
 じっと、お互いの様子を探りあっている様に、私も天狗も動かない。ただ静かに相手を見ている。どうにか、この相手の隙を突いて、追いつけない様に振り撒くしかない。
「あら、意外に冷静だ。そんなに私に怒っていない。逃走に意識を向けている、というところでしょうか」
 やがて、天狗が沈黙を破った。どこか残念そうな、興が覚めたような顔に見えた。
「あなた方、幻想郷でここまでのことをして、まだ逃げる気でいるのですか? それは少し、見積もりが甘いというものでしょう。行いには報いがあるというのが、筋ではないでしょうかね」
 轟音。それと共に、天狗が空高くまで打ち上がる。反射的に視線を高空に向けた時には、一筋の黒い閃光が、私に降り注ごうとしていた。考えるより先に、後ろへ飛び退く。目の前の地面が雷でも落ちたように爆ぜ、石礫が私を襲った。
 落ちてきたのは雷ではない。さっきの、天狗か。礫の向う側に、薄く笑う天狗の顔があった。
「私たちの山の木々が枯れた。玄武の沢も流れがおかしいと河童が嘆いています。あなた方の行いが及ぼした影響は、あまりにも大きい」
 巨木が、草刈鎌のように、私を薙いでくる。そんなイメージが浮かんだ。両腕で、左側面を守るように構える。すると直後、横っ腹がぺしゃんこに潰れたような感覚があり、口から鉛臭い液体があふれ出す。ああ、視界の天地が、逆様だ。気付けば、頭を、固い地面に打ちつけていた。
「全ては、因果応報。あなた方にお返しいたしますよ。それがお仕事なのでね」
 何をされた。風で、薙がれたのか。どうにか立ち上がり、天狗を見やる。天狗は追撃するつもりらしい。さらに腕を振るっている。風の揺らぎが、何となくわかる。
 先ほどの天狗の言葉が、ふらふらとする頭の中に、響く。因果応報。行いには、報い。私の行動に対する、これが報いか?
 私が一体、どんな行いをしたというのか。何を求めたというのか。ぜんぶぜんぶ、私の求めるものなどなかった。私が望んだ行いなんてなかった。ただ月人が求めていたものへ、私たちが代わりに手を伸ばしていただけだった。
 そうだ。
 違うんだ。それは、私じゃないんだ。月の都で生きていくには、働くしかなかった。動くしかなかった。私のしたかったことでは、ない。なのにどうして、報いが私に来なくてはいけない? 私が、何をしたって言うんだ。
「理不尽だ!」
 思わず、叫ぶ。
「莫迦おっしゃい。あなたがここに居ることは、あなたの選択に他ならないのですよ?」
 しかし天狗は、あざける。
 大きなうねりを感じる。今度は槌のように、風が天高く振り上がっている。
 逃げ場は、何処かに無いのか。周囲を幾ら見回しても、視界の何処であろうと、赤い炎が壁のように取り囲んでいる。逃げ場など、ない。
 ならば、救援は。味方の玉兎は居ないのか。玉兎遠隔群体電波通信網で探る。いた。すぐ近くに、一名だけ玉兎がいる。
 いや、違う。救援ではないかもしれない。この玉兎は。むしろ、あちらから、こちらに近づいてきていたのか?
 清蘭が来ている。
 すぐ近くまで。そう気づいた直後、清蘭の笑い声が聞こえてきた。
「鈴仙も、鈴瑚も呼ぶからさあ! もっと聞こえるように、みんなも歌ってくれてるんだもんねえ! ねえ、ねえ!」
 私の正面の炎の、向こう側。ちょうど目の前で風の槌を振り下ろそうとする天狗の後ろ側だ。そこからかすかに、清蘭の声が、戦乱の音に紛れて聞こえてくる。
「鈴仙?」
 ぴくりと、目の前の天狗の注意が私から逸れた。しかも、鈴仙の名前を呟いている。かすかに彼女の意識が、その背後に向く。
 天狗に、隙が生まれた。逃さない手はない。私は天狗に向かって滅多打ちの弾幕を放つ。不意の攻撃にさすがの天狗も慌てたようだ。今まで大きく渦巻いていた風の槌が霧散したかと思うと、横薙ぎの突風が吹き、私の弾幕を掻き消した。
「あやや、こりゃ失敗……!」
 天狗は一つ飛び退き、私から距離をとる。私は野生動物が威嚇をするように、ぎろりと、天狗を睨む。天狗は余裕を見せて笑うも、先ほどよりも慎重に、互いの距離を測っているようだった。
 私もまた、天狗と私との距離を目測で測りつつ、その裏、玉兎遠隔群体電波通信網で、清蘭との距離を測っていた。距離にして、数百メートル。そう遠くない。しかし、電波が指し示す清蘭の居場所は、巨大な炎の壁の向こう側だった。
 清蘭の声は、少しずつ大きくなっている。近づいているのだろうか。しかし同時に、清蘭以外の声も混ざっていることに気づかざるを得なかった。
「来てよ、来てよ、どんどんもっと! ほらほらやいのやいの楽しいんだもんねえ! もっと大きな声で呼んでよ、ほらほらほらぁ!」
 清蘭の声と共に、鴉の、狼の、天狗の、悲鳴が聞こえてくる。悲鳴だけではない。獰猛な威嚇の唸り声。何らかの感情を伴う叫び声。そして、弾を撃つ音、何かが爆ぜる音。続くのは、清蘭の絶笑だった。
 この笑い声。思い出す。今日、鈴仙と清蘭が出会ってしまった時から、清蘭はこの笑い声をあげている。私は、清蘭に何も声をかけることができなかった。ただ同僚に拘束され、クールダウン用の個室に連行される清蘭を、見送るばかりだった。
 何を想って笑っているのか。その想像が、及びつかないのだ。
 同期たちが眠る森でも、清蘭は笑っていた。この笑い声は、あの時の笑い声と似ている気がする。
 清蘭はもう、止まらないのではないか? そんな予感が、私の胸に浮かぶ。
 清蘭は、この後、どうなっていく? 私が清蘭にどれだけ近づこうとしたところで、彼女は私を一目見たら、殺そうとするのではないか。もう、手遅れなんじゃないか。私が近づいても、無駄に命を落とすだけじゃないか。
 頭の中に様々な思いが想起する。その中から、一つの言葉が、やたらはっきりと蘇る。『あなたの命は、そうまでして守る価値のあるものだと、この月の賢者が保証しましょう』。サグメ様の言葉だ。あの、夢の世界で聞いた言葉。
 ふと、私の視界の中に一つの道が見えた。炎の壁の中に、ほんのわずかな縫って行ける道がある。あそこなら、どうにか天狗から逃れる道筋があるかもしれない。ただ、清蘭からは遠ざかる道だ。方向がまるで違う。
「……私が、兎を逃がすとお思いで?」
 私の視線に気づいていたのか、天狗が笑った。気取られたか? そんな不安が胸を過ぎる。
 清蘭の笑い声は、なおも続いていく。
「ねえ、もうすぐ行けるよ、でも待ってって! まだ、まだ鈴瑚も鈴仙も、ぜんぜん予定が分かんないんだから……みんなでだよ! みんなで集まろうよ! そんなに無理言わないでって!」
 肉が爆ぜる音。弾が爆ぜる音。地面が爆ぜる音。そんな中で清蘭は笑っている。
 正気ではない。清蘭は、正気じゃないんだ。
 私は、やっと気がついた。答えを見つけた気分だ。
 こんな地獄のような戦場の中で、清蘭は、私が情報部門にいる間、ずっと過ごしてきたんだ。正気でいられるはずがない。なにもかも、まともではなくなってしまったんだ。
 きっと、きっとそうなんだ。もう清蘭は、壊れてしまった。もう直せない。
 そんな清蘭といくら一緒に居ようとしたって、天狗と同じように、屠られるだけじゃないか。近づいても、私は、殺されて、それでおしまいになってしまう。だったら、無駄死にするくらいなら、私がとる行動は。
 きっとサグメ様の言葉は、正しいんだ。
「最期はみんな一緒だよ! 最期はみんな一緒で、ハッピーエンドで!」
 清蘭は、高らかに告げる。そんなこと、ありえない。何を言っているの。私には分からない。正気じゃない。
 サグメ様の言葉は、きっと正しいんだ。『清蘭を殺してしまいなさい』。サグメ様の言葉は、智慧は、きっと正しい。
「なんだこれ。月の兎。狂っているとは聞いていましたが、これは中々ですね」
 そうやって天狗さえも笑っていた。今までとは違って、薄気味悪そうに笑っていた。
 そして、まだ、清蘭は続ける。私たちには分からない言葉を。
「だから、まだそっちには行けない! だって、私は鈴仙と! 鈴瑚と一緒が良いんだもん!」
 私たちには分からない言葉の、はずだ。清蘭はもう壊れてしまっているはずだ。
 でも私の頭の中には、夢に見るほど食べた、月白色の団子が蘇った。あの味。あの匂い。それから、あの団子を作ってくれた、清蘭との日々のことが、蘇る。
 何度も、何度も。私は、鬱陶しくって清蘭を遠ざけたのに。何度も餅をついてきて、何度も食べさせてくれて。それで最後には、清蘭は、にやっと笑った。私は、言ったんだ。これ、美味しいって。その時の顔が、蘇る。清蘭の顔だけじゃない。私の顔も。私の気持ちも。周りにいた同期みんなの顔も。ぜんぶ蘇る。
「私は! 二人と一緒に居たいんだから!」
 思い出す。同期みんなが眠る森で、清蘭は私を抱き締めてくれた。あたたかかった。清蘭の鼓動は、ぽかぽかとしていた。それで私は、ほっとした。助けられた。
 それで私もまた、清蘭を抱きしめた。その時もまた、清蘭はあたたかかった。そして、清蘭は熱を持ちすぎていたから、私は決めたんだ。
 何を決めた。そんなことは、決まっている。
 いま、あの炎の向うに、清蘭はいる。はじめて配属された部隊の時と同じように、地獄のような戦場で、一人だけで居る。
 一緒に居るから。私は、そうやって清蘭に叫んだ。そして、催眠の解けた清蘭が、私に目いっぱいぶつけた、たくさんの言葉を思い出す。
「ねえ、鈴瑚!」
 笑っている。いま、地獄のような戦場の中で、天狗を相手取り、清蘭は笑っているはずだった。
 けれども、私の心の中で、清蘭は、哭いていた。きっと、そうなんだろう。ずっとずっと、私が情報部門に行ったあの日から、清蘭は、一人で哭き続けていたんだろう。
 私は、駆けだしていた。
 視界の先には、さっき見つけた逃走経路だ。それを見計らっていたのか。眼前の天狗が、腕を振るい、突風を放った。私が見る、逃走経路を塞ぐように。
 あたる。本当に心の底から、そうやって後悔した。
 しかし、天狗の風は、空振りだった。そちらに私はいなかった。
 私が、私がいる場所は。
 すぐに天狗の眼は、私を捉えた。私の正面に、天狗は居る。私は、天狗の背後にある炎の壁に向かっている。清蘭の、声のする方へ。
 私が、向かう場所は!
 呆気にとられた顔をしていたものの、天狗はすぐに追撃の風を振るった。でも、私の身体の動きの方が早かった。思いっきり天狗の横っ腹を蹴りつけ、退ける。
「あややややっ!?」
 そんな天狗の声を置いてきぼりにして。私は、炎の中へ跳び込んだ。
 私は炎の中を、駆けていく。清蘭の、声のもとへ。それだけを頼りにして、まっすぐに、まっすぐに。どこまで続く。どこまでも赤い。熱い。熱い。呼吸が、できない。してしまえば、それっきり、内側から焼かれてしまう。そんな予感が、呼吸を止めていた。
 それでも、駆けていく。赤い視界。まるで夢で見た宇宙のマス目のようだ。夢の世界であれば、すぐに着いたのだろう。私は、こんなにも念じている。いつの間にか、目的地に、着いていたのだろう。
 けれども、ここは、夢の世界ではない。正しい手順を踏まなければ。着かないことさえ、あるのだろう。
 もう、脚が、無い。感覚がない。駆けることができない。視界が、上がっている。眼球が上を向いている。いまにも意識を失う前兆だろうか。私の身体の感覚だっていうのに、もう、ほとんど何もわからない。
 けれども、前へ。行かなければ。前へ。でも、前へ。
 この先に、清蘭がいるのだから。
 突然、風が、後ろから、私を吹き飛ばす。炎さえ、掻き消すような、突風だ。私の全身が、引きちぎられるような、悲鳴を挙げる。
「あややや。本当に炎の中にいる。よくわかんないけど、なんとも酔狂な兎ねえ」
 そんな声が、後ろから聞こえてくる。あの天狗の声だ。
「……今のでとどめは刺しました。お仕事達成。私には、まともな妖怪がそれ以上動けるイメージがつきません。もはや、あなたは野垂れ死ぬ他ないでしょう」
 どれほど吹き飛ばされたのだろう。無抵抗に、地面に体を叩き付けた。それでも顔を声がする方に向けると、はるか遠くに、あの天狗の姿が見えた。炎は突風でかき消えていた。
 天狗は空に立ち、私を見ている。
「ただ、それでもあなたが動くというのなら。私は、ぜひあなたを取材して記事を書きたいものです」
 天狗はにこりと笑う。あの天狗。あんな笑顔も出来たのか。
「リンゴさん。あの鈴仙さんのご友人。それが、あなたの在り方なのですね。良い記事になること、期待していますよ」
 そして炎の壁が蘇り、再度視界を塞いだ。
 どうやら私は炎の壁の向こう側に出ることができたようだ。
 何が、起きている。ここでは。清蘭がいる、この場所では。何が起きている。体を起こし、状況を確認する。
 すると、視界の中に、清蘭がいた。そして五名の天狗が清蘭を囲んでいる。その周囲には、何匹もの狼と鴉が力なく横たわっていた。
 清蘭の背後で、一名の天狗が重たく光る剣を振り上げていた。清蘭は気付いていないようだ。眼前の光景ばかりに囚われているようだった。
「清蘭んンンッ!」
 思わず、力のあらんかぎり、叫ぶ。
 言わないと。もう一度、言わないと。清蘭に伝えないと。
「私は、ここに居るから! ここに、一緒に居るから!」
 そう叫んで、力の限りの、弾を撃つ。細工なんて何もない。ただ速く、ただ速い弾を。弾は天狗たちを貫いていく。しかし、二名の天狗は倒れたが、まだ動く天狗も三名いた。
 速い。もう、生き残った天狗たちの姿を見失ってしまった。一名見つける。そのまま正面から迫っている。残り二名は。音がする。背後だ。振り向く間もない。正面から迫る天狗も、獲物を振りかざしていた。
「鈴瑚、鈴瑚! ねえ、鈴瑚ったら!」
 そして、天狗だけじゃない。迫る天狗の奥から、清蘭が叫んだ。そして、清蘭が、杵を振り、弾を撃つ。天狗へと。天狗だけではない。その弾は、私にさえ向かっている。
 ああ、そんな。
 サグメ様の言葉が頭の中に蘇る。『清蘭があなたを殺そうとしている状況は、どうにか抑えられているだけ』。私に、清蘭の弾が触れる。
 私の体が、撃ち抜かれた。そのはずだった。しかし弾は、私をすり抜けはしたものの、体に傷をつけることはなかった。正面に居た天狗が、背後から清蘭に撃ち抜かれ、その場に崩れ落ちた。はっとして振り返ると、私の背後の天狗たちもまた、弾で撃ち抜かれ、その場で果てていた。
 異次元から弾を撃つ程度の能力。状況を理解して、思わず安堵の息を漏らした。
「鈴瑚、鈴瑚……」
 ゆっくりと、ふらふらと、清蘭が私に近づいてくる。私は、動けなかった。全身が痛む。脚のあちこちに空いた孔から、血が噴き出し続けている。もう、これ以上は、立つことさえも難しい。
 ぱたりと、清蘭は、私に向かって倒れ込んできた。
「鈴瑚ぉ……」
 その清蘭の感触でわかった。もう、清蘭も、体力の限界のようだ。あたたかい。こんな状況だが、そんな想いが浮かんだ。清蘭の全身の熱が、私の熱と、重なる。
「よかったあ……どこ行ったんだろうってね、探してたんだよぉ……」
 そんなことを清蘭は呟く。
 私は、なぜだか胸からこみあげてくるものを感じた。そして口元が震えてしまう。それでも、言葉は留まることなく出てきた。
「ごめんね……ごめん……。ちょっと、遅くなった……迷ってたんだ、ずっと……ずっと……」
 そして、もう一度、伝えた。
「私もずっと、清蘭と一緒に居たかった……」
 清蘭は、とても簡単で事もなげに、答えてくれる。
「えへへ……私もだよぉ……」
 私たち二人は、しばらく、身を重ねたまま、体に力を入れることもできず、その場にとどまっていた。炎が、燃えている。叫び声も、哭き声も、まだ響いている。けれども、私には、清蘭の熱が、なによりもあたたかく、つよく感じられた。
「いこう、清蘭……まずは、生き残らなきゃ……」
 少し、体に力が戻った。私も清蘭も、動ける状態になったと判断して、そうやって提案した。
「うん、そうだねえ……まずは、安心してお餅つけるところにいきたいねえ……」
 私と清蘭は、互いに支え合って、立ち上がっていく。私の脚に力が入らないときは、清蘭が代わりに力を入れて。清蘭の体が動かないときは、私が手助けをして。そうして、意識がまだ朦朧としていながらも、歩きはじめた。
 もはや、どちらが、どちらの体重を支えているのか、それさえも定かではなかった。どちらが行く先を決めて、どちらがついているのか、それさえも定かではない。
 それでも私と清蘭は、歩いていく。時に片方の重みに足をとられながら。時に、片方の力に足を支えられながら。私たちは、一緒に歩いていく。
 ささやかに風が吹いていた。まるで肌をくすぐるように、撫でるように。
「風下……そう、鈴瑚、風下だよ……。そっちなら、匂いもごまかせるから……」
 清蘭の声が聞こえる。風は、途絶えることなく吹いている。かすかだが、けれども確かに、絹のように優しく肌に触れ、背中をさすって助けるように、ずっと吹いてくる。まるで道を示して、導いているようだった。
 風が導く方向へ、歩みを進めていく。
 そのうち、ぽつ、ぽつ、ぽつと、雨が降ってきた。すぐに雨脚は強くなり、大雨になる。深い深い雨闇が、視界を覆った。
 もう、なにも見えない。煙の臭いも、血の臭いも、きっと流れていくだろう。空は重たい雲の色に沈んでいた。もう、粉塵も見えない。紅く脅かしていた炎の色さえ鎮まりかけている。これだけの雨が続けば、きっと後には、青い晴れ空が続くばかりなんじゃないか。そんな予感さえした。
「まるで神の御業みたい……」
 私が無意識のうちに言ったのか、それとも清蘭が言ったのか。どちらからともなく、そんな呟きが聞こえた。
 先ほどまでの混沌が嘘のように、雨は、あらゆるものを鎮めているかのようだった。
 もう、哭き声も、叫び声も、何も聞こえない。ただ雨音の中に、私と清蘭の足音が、静かに溶けているだけだった。
 ふと空を見上げた私の視界に、高く高く天に向かってそびえる柱が映った。四本並んでいる。そのうちの一本の頂に、何者かが座っているような影が見えた。その何者かは、ただ静かに、力強く、すべての成り行きを見守るように、そこに居た。
 げこ、げこ、げこ。けらけろ、けらけろ、こぉ、こぉ、こお。
 そんな囃子が、雨音の中から聞こえてきた。目を側方の遠くにやると、子どもくらいの小さな影が、一つ見えた。それから、その影よりももっと小さな、小石くらいの影が、子どもくらいの影を円陣で囲むように、いくつも並んでいた。まるで小さな影を中心に、輪を描いて踊っている様に動いていた。ゆっくりと、楽し気に。まるで何かを願うように、祈るように、そこに居た。
 雨は一向に弱まらない。むしろ、すべてを清めて流していくかのように、空から土へと流れ続けていく。そして風も、雨を吹いて傾かせ、進んでいく道を示し続けていた。
 私と清蘭は、歩いていく。開けた湖の周囲を抜けて、木立が続く森の中へと入っていく。ここならば姿も見つけられないだろう。
 ただ、歩くのも限界が近い。もう段々と、何もわからなくなってきた。どこへ歩いていくのか。どちらから歩いてきたのかさえ、おぼろげになっている。脚は、動いているのだろうか? 体は、無事なのだろうか? それさえも、曖昧になっている。
 ただ、清蘭の熱だけは感じている。そのはずだったが、もはや、その熱さえも、だんだんと消えかけているような気がして、私は、その熱だけを感じ取ろうと、その熱に縋っていた。
 つなぎ留めたい。そんな思いが、口から出てくる。
「ねえ、清蘭……私ね、もっと……清蘭のお団子、食べたいんだ……」
「わあ……うん、鈴瑚……いいよ、いくつでも、作ってあげる……」
「……ねえ、清蘭。私ね……いままで、恥ずかしくって、一度も言ってなかったけど……清蘭のお団子、大好きなんだよ……」
「知ってたよお……」
「ねえ、清蘭……それからね……それから……」
「うん。なに……?」
「私にも、私にもね……? お団子の作り方、教えてよ……それでね、私も……私だって、清蘭の、好きなお団子を……おいしいって、食べてもらえるお団子を、作れるように、なりたいから……だから、私ね……」
「うん、そっか……ありがとう、鈴瑚、ありがとう……おぼえてる、きっと教える……私も、食べたいから……きっと、教えるから……」
「約束、だよ、やくそく……だから、きっと、これからも……きっと……ね……」
「うん……うん……」
 そうやって、言葉だけが、つながっていく。けれども、気付けば、その言葉さえ、音さえも、どこか、遠くへ。いつの間にか、ぜんぶ、真っ暗だ。もう、体が、どこにもない。なにも、動かせない。私自身の言葉さえ、清蘭の言葉さえ、遠くなっていく。
 清蘭の熱が、消えていく。それとも、私自身の熱が、消えているのか……。
「あなた……だれ……?」
 消えていく意識の中、そんな清蘭の声が聞こえてきた。かすかに、かすかに……だれかの、こえが……呼び声が。きこえてくる……。
「――私は、久侘歌。地獄と幻想郷の境を見守る者でございます」
 けれども、私は、はなれていく。清蘭からも、呼び声からも、遠く、とおく、トオク……。


 ……… …… … …… … …… ………


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