Coolier - 新生・東方創想話

アヘン濫用、ダメ絶対!

2020/04/20 20:49:34
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 不徳は選択に始まる。各自の遺伝だとか、知能だとか、神経の疲労によってだとかによって、この選択は説明できない。阿片は、僕らが形のないものに形を与えることは許してくれるが、惜しいかな、この特権を他人に伝えることを禁ずる。
 阿片を呑む人は、熱空気球のようにゆるゆると上昇し、ゆるゆると体の向きを変え、ゆるゆると死んだ月の上に降りてくる。一度降りてしまうと、月の引力のために二度とは登れない。帰り道は楽しくない、しかしそのくせ、地球に戻ると郷愁がのこる。
 夢の活語は現の死語だ。
   (ジャン・コクトー『阿片』より)
 


 父に左手を引かれ、右手でロザリオを握りしめながら上海租界を初めて歩いた。幼い瞳には、ここは最高に楽しい世界に映った。ボクの故郷の片田舎より一〇〇年は進んでいただろう。大口を開き、誰もかも丸呑みで受け入れ、悪夢のように踊り狂う絢爛な千年祭。夜にはカーニバルじみた照明が点き、オーケストラが黄埔公園(パブリックガーデン)で演奏する。美国(アメリカ)製の物々しい最新型自動車が人の数と同じくらい行き交っていたように思う。
 西洋人が思い描く、柳並木の似合う中国ではなかった。古い円形城壁に囲まれた街からはみ出しながら発展した、異国と土着、利益と権力がせめぎ合う混沌の街。誰もが生計を立てるためか、もしくは億万長者になるために上海ドルを追い求めていた。
 なんで租界に移住することになったのかは知らない。引越しした日はボクの誕生日だったから、壮大なサプライズ・プレゼントの一端なのかも、とか当時は考えた。事実、その日の夜はなんちゃら飯店とかいう六〇階建てホテルの屋上で、ボクの誕生日パーティが開かれた。故郷にいた僅かな友達は誰一人来ていなくて、父の友人を名乗る多国籍のおじさま達がノルマのように順番に「お誕生日おめでとう、お嬢さん」の挨拶を述べる。無難なテディベアやドールの山が積み上がる傍で、ボクはそれらの一員になったように黙りこくっていた。

 上流社会の箱庭の少女の生活は、消費者の想像の域を出ない。上海では、少し見栄えのする女であれば一月五〇〇ドルの現金に自動車、ジャズ(当時の流行だ)、その他何でもそろった暮らしができる。忌々しいくらい高くつく。速記者から銀行員のご令嬢、ホテルのマダムまで、白人女は運転手なしじゃあどこにも出歩かなかった。あくびが出る……ボクは幼くして余すところなくその体験をしたけれど、転落人生の前フリなど語るに値しない。
 時計の針を、現在へ。語るべくは、ボクが波止場地区のぞっとするような迷宮の踊り場に転げ落ちた一因である。アメリカ人ジャーナリストが糾弾することには、邪悪の象徴、幻滅という名の鬼火。理性を毒し、身体を吐瀉物による窒息死へと誘うあの火煙の話をしよう。すなわち、アヘンの話を。

 幸せな生活だったかもしれない。憧れの箱入り娘生活にも慣れてきた時期だった。唯一の家族だった父は外灘(バンド)に立ち並ぶ雑居ビルの日陰で射殺された。アヘンの強制捜査に端を発する銃撃戦に巻き込まれたらしい。真偽はどうだか。父の裏家業――アヘンの卸売業の現場を嗅ぎつけたのかもしれない。誰も泣いていない葬式では、「誰が旦那様を撃った(売った)のか」という疑念が渦巻いていた。泣き女の号泣がひたすら、寒々しかった。
 葬式が終わってすぐ、ボクは捨てられた。「殺されないだけ感謝しろ、アバズレ」との餞別と共に。別に、理不尽だとは思わない。ボクにとって、父は所詮父(パパ)でしかなかった。ちょっと見栄えのいいボクは、パパの言う通りに着飾って、微笑んで、手を振って、黙ってされるがままにしていれば一月五〇〇ドルのお小遣いをもらえた。でも、もうそんな生活も終わりだった。
「ばいばい、パパ。幸せだったけど、楽しくは無かったよ」
 一等地の屋敷から蹴飛ばされたボクは、着の身着のまま、ポケットに精いっぱいのヘソクリを突っ込んで歩いた。風雨から逃げるために軒下へ。闇から逃げるために街灯へ。上流の住まう地域にはいられなかった。座り込むだけで目立つから。唐突に転げ落ちた人生の最初の夜を、整備の追い付かないごちゃごちゃした路地の踊り場で明かした。
 凍え死ぬには、上海は蒸し暑かった。目覚めたのは、汗と垢と吐瀉物を併せたとんでもない悪臭がボクのすぐ隣から漂ってきたからだ。観光客らしい身なりの男で、死体かと思ったけど、かろうじて生きていた。まぁ喉にゲロを詰まらせて虫ほどの呼吸をしている状態は、じきに終わるだろう。急病か、酔いすぎか、どちらにしろ哀れな。
「は、やく……」
 警官を呼ぶべきか。呼んでくる間に死んでそうだな。中腰浮かせて、どっちに駆けていくべきか逡巡していると、言葉がまだ続いていることに気付いた。
「金、なら……ある……だから……」
 やっぱり助けるのやめた。完全に中毒者の禁断症状だ。父に手を引かれて歩いた煌びやかな夜の陰は、ずっと覚えている。ヴィクトリア王朝の作家たちがロマンを抱いた、アヘン煙る暗黒街。その伝説の内訳は、悪臭香る社会の鼻つまみ者なのだ。
「お金、あるんだ。どこ?」
「上着の、ポケットの中だ……なぁはやく、出せ……」
 ボクは男の言う通りクシャクシャの上海ドルを頂戴し、ついでに金目の品を漁ることにした。ぐったりしたアヘン中毒患者はもう死体同然、抵抗ゼロで上着の内ポケットに手が届いた。探り当てたのは雑貨屋の所在地の走り書きと、警察手帳だった。腐敗ここに極まれり。潜入捜査官がアヘン窟の物証を抑えようとしたは良いが、上手いこと抱きこまれて墜ちた、ってところかな。ハニートラップと同じように喰うだけ喰うのは役得、なんて甘い考えだ。化学物質の快楽は女よりずっと捨て難い。
「ありがとう。正直者に幸あれ……もう聞こえないか」
 男は仰向けになり、降臨する天使を目で追っていた。これ以上この場に留まるべきではない。死体は目立つから、日が昇ればすぐ業者が片付けに来る。それにおこぼれに預かる漁り屋にもテリトリーがある。無関心・無関係を装うのが最善である。
 ボクは立ち上がり、スカートの埃を払って踵を返し……音もなく背後に立っていた誰かの胸に顔をぶつけた。柔らかかった。あと良い匂いだった。
「正直者に幸あれ、ってどゆ意味?」
 そう問うた誰かさんは、美人のお姉さんだった。

 漢族ではないどこかの民族衣装をノースリーブで着こなし、星型バッジ付きの赤い帽子を被った黒髪の少女。ボクより年上かもしれない。ボクより背が高くてスタイルが良い。派手な佇まいと怪しい色気で路地裏に溶け込んでいるあたり、五〇〇ドルを小遣いで貰うよりは手管で巻き上げるタイプの女みたい。
「……そのままの意味」
 値踏み。慎重に言葉を選ぶ。こいつは誰なんだ。男から抜き取った財布と手帳はさりげなく後手にやったけど、多分見られたな。
「そいつ、工部局の取締状況を知りたくて抱き込んだの。でも欲望に正直すぎて、元締めにはまるで信用されてなかったのよね。使えない駒だったわ」
「どこから見てたの」
「哀れな中毒患者が、家出少女の隣でゲロぶちまけるところから」
 つまり最初から。最悪。
「あなたは誰?」
 美人のお姉さんはちょっと微笑んで、路地の先を指し示した。
「すぐそこの雑貨店の女主人。ちょっと面貸しなよ」
 手招きには、応じられない。誘い込んだ薄暗い店の片隅でボクの口を封じるのは、きわめて合理的な顛末だから。
「行くアテ無いんでしょ。そんな迷子のお嬢様みたいな恰好してたら、昼頃には素っ裸で首輪付けられるよ」
 反対側の通りから漁り屋の子供たちが走ってくる。ボクを見るや訝しげに首を傾げる彼らと友情を築くのは、難しそうだ。リーダー格の少年は梳きっ歯の隙間にパイプを咥え、ギョロリと濁った瞳をボクに向けている。おもむろにお姉さんがボクの肩に腕を回し、少年へ含みのある笑みを向けた。
「うちの新しい小間使いだよ。心配するな、君らの縄張りを荒らしたりはしない」
 それを聞いた少年は小さく頷いた。彼の指示のもと、動かなくなった男を子供たちが手際よく路地の奥へと引きずってゆく。腐り切った生者は、裏返せば新鮮な死体という見方もできる。なるほど。

 雑貨店というが、そこには万国の人形が陳列された、異様な空間だった。朝なのに仄暗い店内で、塵がガスランプに照らされて神秘のヴェールを演出している。人の形をしてなお、生きることのない者たちの租界。棚の片隅で、ナイフを持ったピエロを模したオルゴールが、異邦の仙境を想起させる音楽を奏でる。ちぐはぐで、薄気味悪く、だからこそ惹きつける。陶磁製のピエロの顔は少しも笑っていなくて、笑顔の振りした化粧との落差でどこまでもひんやりとしている。
「人形租界へようこそ」
 ボクが新奇な置物に幻惑されていると、お姉さんがボクの目の前に回り込んで手を振った。
「おーい大丈夫?」
「あ、うん」
「そういえば、自己紹介がまだだったね。私はレべ子」
「れべ……なんて?」
「満州に居たころ、レベッカという偽名で商売をしてた。その時に知り合った日本人がね、私のことレべ子って呼んだの。英語は勉強中だそうで。面白い響きでしょ」
 懐かしそうに語るお姉さん、もといレべ子。でもいまいち要領を得ない由来だなぁ。しかも東洋人らしい見た目なのにレベッカって。
「その日本人が奇妙なことにさぁ、金髪に紫の……っと脱線しちゃう。君の名前は?」
「……ええと」
 何と言おうか。名前を教えるのが怖いとか、そんなんじゃない。ボクに決まった名前は、無い。パパにはジャクリーンと呼ばれていた。パパが誰かの幻影を求めて、勝手にボクをそう呼んでいた。もっと前はジャッキーと呼ばれていた。理由は、忘れた。もっと前は、ジャッカル。なんでそんなバカみたいな名前だったのか、もう思い出すのも億劫だけれど、不思議と『JACK』に縁があるようだ。
「……ジャケ子」
「っぷははは! なにそれ変なの!」
 愉快そうに肩を震わせるレべ子。こいつ、自分のこと棚に上げて……。
「ばいばいレベッカ。ヤク中のお友達と仲良くね」
「待って待って待って!」
 踵を返すボクの前にレべ子は慌てて立ちふさがる。必死過ぎる。
「ごめん冗談! 素敵な名前だよ。お茶くらい出すからゆっくりしていって、ね?」
「こっちこそごめんだけど、ボクみたいな子供に構うのが不思議だ。放っとけば独りで野垂れ死ぬ。あなたの商売の邪魔なんかしないよ」
「ぇ……んーっとねぇ……」
 レべ子は急に歯切れが悪くなった。怪しいな。特に行く当てがないのは彼女の言うとおりとしても、アヘンと関わっているような女はやはり避けるべきだった。アヘンのほかにも奴隷とか臓器とか売っている可能性が大いにある。
「覆面捜査官のことは忘れる。だから、これでおいとま――」
 肩を掴まれた。ヤバい、と思ったけど、レべ子は顔を紅潮させながらとんでもない方向へと話の腰をへし折ってしまった。
「私、ゴモラの女なの!」
 ゴモラの女。ゴモラとは旧約聖書でソドムと共に、肉欲に溺れ背徳の限りを尽くした罪で神様に焼き尽くされた都市。要はレズ。そうきたか。
「あの、君、可愛いよね。すっごくタイプ! もし良かったら私の愛人になってよ」
「あ、愛人?」
「一月五〇〇ドルなんて退屈な話はナシ。太ったおじさまのお人形よりも素晴らしい生活を約束しよう」
 レべ子の瞳は天真爛漫に輝いている。正直な瞳だ。どちらかといえば、好ましい。ボクの肩をサワサワしている指はさておき。今ボクの最優先課題は、明日を生きたまま迎えること。願わくば屋根の下、安全を保障された状態で。悩ましい……出会ったばかりの年下の少女に「愛人になれ」と言うような少女(?)が果たして信用に足るかどうか。
「うーん……」
「どう? 私、話めっちゃ面白いよ?」
 ズイ、と寄るレべ子。
「んー……」
「どう? 下層社会の処世術、教えてあげられるよ?」
 さらにズイ。顔が近い。良い匂いがする。
「んんぇ…………」
「どう? 夜の方も女同士のアレソレを」
 ズズイ。
「分かった! 愛人で良いから!」
 ゼロ距離。抱きしめられた。レべ子の胸で息が苦しい。
 未知の女の色香に負けたとか、そういうのは断じて否定しておく。ボクにその気はない。念のため。

 雑貨店は本業の隠れ蓑、レべ子の本業はビルの二階にあった。アヘンを売りさばく悪党の、純然たる証拠が。
「人形租界のサービスはアヘンを提供すること。でも客に持ち帰らせたら不味い、工部局警察が目を光らせてるからね。だから、そう、秘匿しなくちゃってわけ」
 狭い船室を想起させる薄暗い空間には、二段ベッドが幾つも並べてあって、それぞれに虚ろな目をした客が寝転がっていた。身なりも様々で、路地裏で倒れてた観光客のような白人がいれば、粗末なボロを着た中国人の下男まで。彼らの弛緩した口にはパイプが咥えられ、静かに快楽物質を吸引している。そして人形たちが、空いたスペースに所狭しと詰めてある。部屋の中央にまたしてもピエロのオルゴールが置いてある。死と悲恋を想起させる、異邦の曲だった。蒸し暑いのに底冷えする、笑い化粧の能面……ピエロからボクを隠すように、あるいはボクからピエロを隠すように、再びレべ子が前に回り込んだ。
「アヘン取締の要点は、正義の執行じゃあない。共同租界から売人たちを追放すれば、すぐ近くのフランス租界に流れていくだけさ。なんで奴らが躍起になるかっていうと、警察人員のおよそ半数がアヘンの密輸売買に関わっていると疑われているからなんだ。史上まれにみる汚職に、当局は恐れをなした。かつて権益のために堕落させた中国人が、今度は我々を地獄へと誘惑してくる……」
 レべ子はボクの髪に指を絡めながら、熱っぽい口調で言葉を紡ぐ。
「定期船が寄港すれば、売人はビジンイングリッシュで旅行客に囁く、『ねぇ、アヘン吸ってみない?』。幻惑という名の鬼火に誘われて、三日後には旅行客は辺獄の亡者だ。偶然でくわした強制捜査に『旦那、旦那、俺は病気持ちでいつもアヘンを処方されてるんです』と見苦しい嘘を吐く」
 しなやかな白い指がボクの首筋を這い上り、頬を撫で、唇をなぞる。愛おしげに。愛惜しげに。
「君は火の中に飛び込んできた、美しい蝶。逃しはしない。しかし、破滅的な快楽で、地獄の窯への投身自殺に追い込むなんてもってのほか。忍び足で、カンテラを提げ、漆黒の回廊を緩やかに降りてゆくのがお似合いだ」
 先ほどと打って変わって、昏い情動がレべ子の瞳を塗り潰した。
「レべ子がボクに何を求めるのか、分からない」
「悪徳を。私は人を堕落に導く悪魔だ。命はこんなに短いのに、気持ちいいコトせずに終えるなんて冒涜的だとも」
 影が落ちる。顔と顔が近い。吐息が混じる。まつ毛が重なる。肩を抱き寄せられて、ボクは囚われた蝶になる。頭がクラクラするのは、ここの淀んだ煙のせいだろうか?
「カッ」
 ベッドの上で、客の一人が痰の混じった汚い咳をした。
「チッ」
 顔と顔が離れた。レべ子は舌打ちしつつベッドの方を睨む。
「この演出は失敗だったか……」
「演出?」
「女の子を口説くには、ロマンティックな演出が必要かと思って。ほらほら社会の屑共、今日の営業は終わりだよ~」
 レべ子が手を叩くと、半分夢心地の客たちがゾンビのようにベッドから這い出す。ロマンティック……?
「商売なのに大丈夫なの?」
「どうせここでの商売は、もう終わりなんだ」
 一本の煙管と、一夜のもてなし。それがこの店に残された全てだとレべ子は言う。
 
「そうそう、茶を出すと言ったね。ケシ茶をご馳走しよう。ケシはアヘンの元になる素晴らしい果実、知ってるよね」
「アヘンは……嫌いだ」
「そう言う奴に限って、人生の逃げ道に薬物を濫用する。ね、私は君に正しいアヘンの使い方を教えてあげたいの」
 恩着せがましいな。客を建物から追い出して戻ってきたレべ子は、大きな盆に乗った様々な器具を自慢げに披露した。タバコ缶やら煙管やらアルコールランプやらその他雑多ななにやら。
「まず、こちら、ケシ坊主。赤ん坊のガラガラとしても使える」
 最初にピックアップされたのはミニチュアのマラカスみたいな植物の房だ。確かに振ると乾いた音がする。レべ子はそれらの茎を切り取って、中の黒い種をボウルに空ける。驚いたな、こんなに入ってるんだ……。これを栽培したら一生ケシの収穫に困らないのでは、と思ってしまうくらい。
「使うのは種じゃないよ。空けたケシ坊主を砕いて、コーヒーミルで挽く」
 レべ子は慣れた手つきでケシ坊主を砕いてミルに放り込んでいく。ザリザリ、ゴリゴリ。並行作業でランプに炙られていた小鍋には、お湯がカップ二杯分。ケシ坊主が粉になるまで挽いたら、お湯の中に投入する。
「長々と火にかける必要はない。かき混ぜながらゆっくり冷ます」
 鍋を火から外すと、レべ子は暇つぶしにアヘンの精製法について滔々と語り始めた。
「アヘンは静かで、優雅な趣味だよ。モルヒネやヘロインを濫用するジャンキーと一緒にしないでもらいたいね……」
 ピピー(アヘン愛用者をそう呼ぶらしい)曰く、未精製アヘンを調合する際に、アルカロイドの配合の歩合は偶然に委ねるそうな。結果を予測するには類まれな経験と感性を必要とする。ドロスを加えることは成功の機会を増やすが、同時にまた、傑作をめちゃくちゃにする危険を伴う。これはメロディーをごっちゃにしてしまう銅鑼の音だ。レべ子が得意げに講釈するには、ポートワインやコニャックを一滴加えるのも無粋な真似だとか。本格派を求めるなら、古い赤生葡萄酒一リットルに水を混ぜたものの中に未精製アヘンの塊を浸し、沸騰するギリギリのとろ火で煮詰め、七度ろ過し、八日がかりでこの仕事をやり遂げる。
「このように非常に面倒な製造過程は、小粋な芸術家や風流人の趣味として醸成されたの。規制が強まるまでは、アメリカでは上流階級のドラッグとして親しまれてたんだから。そう、楽し過ぎるのかな、それが頭の固い人の癪に障ったのかな」
「まるで見てきたかのように語るんだね、レべ子は」
 無駄な知識が増えていく。
「つまんなそうな顔しちゃって。突き詰めれば、睡眠食事繁殖以外の時間は無駄なのに」
「シャーロック・ホームズが脳みそは屋根裏部屋だって言ってたような気がする。不要な知識のせいで、ボクの脳みそがはち切れたらレべ子のせいだよ」
「無駄知識の万博みたいなホームズが生きてるんだから大丈夫」
「……? ホームズは死んだんじゃなかったっけ」
「さては、途中の巻までしか読んでないな? 駄目だよ、流行は終わりまで見届けなきゃ」
 ともあれ、粗熱が取れたところで針金製の茶こしの登場だ。これに湯を通してティーカップに注ぐ。完成したケシ茶をよそに、レべ子は鍋の底に貯まったケシの残りカスを呷った。最後の一滴まで舌に落としてから、ボクの方を見て顔を赤くする。
「あぁ、下品だったかな」
「いや、ボクだってたまにやるよ」
 妙に、器の外の一滴というやつは美味しいから困る。貧乏性の同志であると知ってか、レべ子は胸を張って偉そうに言った。
「それだけケシ茶は、美味しいのだ! というわけで完成!」
 黒褐色の透き通った液体が、カップの中でボクの顔を揺らめかせていた。あの下層社会のすえた匂いとは一線を画す、芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。けれど、口を付けようとして、ふと路地裏の死体が頭をよぎった。
「あー美味い! キメる前はケシ茶に限るね! もうキメてるけど!」
 ボクが逡巡する間にレべ子は自分のを飲み干してしまった。アヘン密売業者の彼女は、おそらく自身もアヘンの常習者である。なのに彼女は健康体そのもので、快楽と引き換えの昏い側面はおくびも出ていない。
「……戻れなくなるとか、思ってる?」
「ちょっとは」
「杞憂だね。ジャケ子は例えば大理石を見て、これはミケランジェロに砕かれたのだと言うかい?」
「適当なこと言って煙に撒こうとしてない?」
「……画布を見て、ラファエロに汚されたと言うか? 紙を見て、これはバッハに破られたとは?」
「それ続けるんだ」
「答えはノー。アルコールが発狂の発作を誘発するように、アヘンは節制の発作を誘発する。あのド・クインシーだって、アヘンを貪りながら七四歳まで生きた」
 ド・クインシー、その名前と『阿片常用者の告白』なるタイトルだけは知ってる。ヴィクトリア朝のアヘン人気の一助となった作家だ。
「アヘンに関する固定観念は、アヘンによって身を崩すのがいつだって犯罪者や貧乏人や、不摂生者であることに由来しているんだよ。君は見た? あの路地裏の死体の、醜くボロボロになった腕の血管を! そうとも、アヘンの依存性は財布を圧迫する。しかし自らの身体に不徳を働いてまで安くて不潔で純度の低い混ぜ物入りのドラッグを選ぶのなら、そりゃああもなるでしょ!」
 こいつ、アヘンの話になると物凄い早口になるな。
「実際、アヘンに精神の安定を求めるのが褒められることとは言わない。だからこそ悪徳足り得るのだからね。濫用は不味い、しかしそれは煙草や酒も全く同じ。アヘンに限っては、飲む者と飲まざる者が同じ健康の特権を享受し得るなんて虫のいい話さ」
 悪魔に勧められて、ボクはアヘン摂取の最初の一歩を踏み出した。
「本当に、一杯で依存症とかないよね」
「ギリシア人が『悲しみを消すもの』と呼んだ奇跡を信じられない?」
 信じよう。投げやりがごとく。飲み口は軽く、香ばしさが香り高く、茶色く透き通った見た目にたがわず素直な味だった。巷で悪名高い快楽物質が喉を通り過ぎるのに僅かな拒否感があったけども、ともかく飲んだ。
「どう?」
「おいしい」
 至極真っ当な感想になってしまった。単純に、変わり種のお茶と評するのが適切だ。
「それでいい。導入には充分だ。ではアヘンを調製しようか」
 レべ子はお盆に載った器材を手際よく並べた。最初に手に取ったのは大きなオレンジ。半分に切って中身を取り出して、皮に四つの蒸気孔を開ける。これが何なのかと聞いたら、香り付けに使うのだと。三脚の上にオレンジの皮のドームを置くと、小さなアルコールランプの火がすっぽりと収まった。次はイギリス煙草のブリキ缶。中には黒い糖蜜のような塊が詰まっていて、その一つを大きな編み針のような道具で突き刺してランプの火に当てる。
「生アヘン。泡立ったら潰して、これに詰める」
 オレンジの傘の中で共に炙られたアヘン塊を、レべ子は煙管の先に押し込んだ。彼女はボクをベッドに横たわるよう促し、自分もボクに添い寝するかたちで仰向けになった。ボクのお手本になるように、彼女は優雅な手つきで一服した。深く吸って、随分長く息を止め、そして徐々に息を吐いた。沈黙。その横顔はあからさまに快楽を表すことはなくて、静かに神に敬服するかのように宙を仰いでいた。
「……」
 煙管から流れる薄い煙が、天蓋に霞みを掛ける。しばらくして、煙管がボクに手渡された。レべ子は肘をついてボクに向き直った。
「やってごらん」
 躊躇するには今更すぎた。ボクは自ら煙管を口にあてがった。深く吸って、息を止めて、長く吐く。短い人生の語彙では説明のつかない味と香りが、体内に染みわたってゆく。
 少し興奮した心臓の鼓動を数えて十数拍した。突然、ボクの精神が水晶のように澄み切ったのが分かった。すぐに効くとは思わなかったから、その変化に驚愕する。何の比喩でもなく視界が拡大したのだ。
 例えるなら、妖精のいたずらだろうか。アヘンの見せる幻影は優しい夢であって、現実を侵蝕する支配的妄想とは異なる。部屋の中を大小さまざまな動物たちが動き回っている。視野の中央に置くと消えてしまう程度の曖昧な幻視だ。これは、面白いな。愛らしい狐が向かいのベッドを跳ねまわっている。小鳥がボクの胸の上でさえずっている。
「うふふ」
 笑ったのはいつぶりだろう。単純な光景が至上の幸福のように感じられる。隣でレべ子も微笑んでいる。幻視の補正もあってさながら天女の美しさだ。
 視界だけではない。全身の感覚が世界と一体化したかのような錯覚が訪れた。全身を最高級の絹のヴェールで包まれる。オルゴールは絶美の調律を模る。呼吸をするたびに、懐かしさと清涼感が鼻孔をくすぐる。神への敬服、その意味を今理解する。福音が世界に降りてきた。自然と目を閉じる。眠気が襲ってくるというよりは、夏の川で緩やかな流れに身を任す……そんな感じ。
「そうだ。いい子だね、ジャケ子」
 ちゅ、と。唇に柔らかく湿った感触がした。レべ子はボクにキスをしたのだと思う。誰が唇を許した、と言うべきところだけど、ファーストキスとしては最高の味だったのはアヘン様々だった。恋の味と勘違いしてしまいそうで、危なかった。

 キスの感触が残っているうちに、ボクの意識は深い所へと誘われた。水底の水中花が開く。これがおそらく最もスピリチュアルな体験だった。一つの過去と一つの未来を、ボクは鮮明に思い出していた。
 何でこんな些細な記憶を呼び起こしたのか、聞かれても困る。その過去は、ボクがパパの屋敷にいた頃のことだ。暇を持て余して屋敷をうろついていると、とある下女の話が耳に入った。
 彼女たちは休憩時間に食卓に着き、北の生まれの新入り下女の世間話を聞いていた。先輩たちは戦争中の北部地域が占領されていた時の様子を伺う。もちろん、恐ろしい話を期待して。彼女は答える、「皆親切だったわ。少ししかないパンをあたしの子に分けてくれるくらい」と。一同は失望する。ドイツに親身な態度を取ると、いい気のしないヨーロッパ人が結構いる。新入りはラ・ボーシュ(ドイツ女)と陰口をたたかれるようになった。だから彼女は、思い出を変えてゆく。何かにつけてドイツの悪口を言い、占領時代のそら恐ろしい嘘を語る。彼女は、嘘によって生きなければならなかった。
 嘘は、嫌いだ。さめざめとすすり泣く下女を盗み見て、ボクはそう思った。この記憶に顛末などない。ボクはその後、パパの死と共に屋敷を追い出された。

 もう一つの記憶は、厳密にいえば単なる妄想に過ぎない。
 正体不明の、支離滅裂な記憶だ。深緑の最奥にある、がらんどうのロータスランド。荒れた花園。寂れた洋館。散乱する煙管、注射器。喧騒と隔たった絶境には、死が溢れていた。バルコニーから見える増水した湖に、死体が浮いていた。ダンスフロアの暗がりに、幼い死体が転がっていた。地下室に、怯えた死体が伏せっていた。気怠い午後のテーブルで、恍惚の笑みを浮かべた死体。庭の木に打ち付けられた死体。首を撥ねられた死体。そして、首吊り。
 誰がこんな恐ろしいことを?
 答えは自明だ。終われない楽園を終わらせた、真犯人は。ご満悦顔で彷徨うその姿が、割れた鏡に映った。
 ……あぁ。正直者に幸あれ。馬鹿ばかり見る惨めな正直者たちが、寛大なる主の御元へと召されますよう。血化粧をした、ブロンドの美しいピエロが祈った。

 陽光が讃美歌となって窓から降り注ぐ。祝福された午睡は、夢と現の境界を溶かした。高い晴れ空の下、精神は緩やかな下り坂を降りてゆく。水中花が色を失い、散った。深層から引きずり出された意識が揺らいでは調律され、上海人形租界へと舞い戻る。
 レべ子がボクの目元を拭った。濡れていた。
「悲しい夢だった?」
「分からない」
 誇大妄想を自分の記憶と断じるのは危険である。しかしそういえば、古代ギリシアの宣託は、巫女に麻薬を摂取させるのだった。一種のオカルト体験との邂逅に、薬物が関わってきた歴史がある。この妄想は思い留めておくべきだと理性が警告する。いつかあの凄惨なピエロが現世に出てこないように。
 西日が目に染みる。吸い始めたのは午前だったのに。時計の針が進んでいた。全身を包み込む快楽が退いて、程よい疲労が残った。
「ボク、どのくらい寝てた」
「さぁ? 君の寝顔可愛かったな」
「もしかして寝てる間に変なことしてない?」
 レべ子はニタァっと頬を緩ませた。着衣の乱れを確認する。まさかこいつ。
「アヘンは女の性を増進させると言われてるの、って冗談よ冗談」
 信用できるか、ゴモラの女。
 こつん。窓に何か当たった。小石が飛んできたようだ。
「おや」
 もう一度、窓を小石が叩いた。
「ジャケ子、これで外を覗いてみて。顔出さないように」
 レべ子はいきなりボクに手鏡を寄こすと、自分はベッドから離れ、床に耳を当てる。それから姿勢を低くしろ、とのジェスチャーも。疑問符を抱えながらも、ボクはレべ子と同じように床に膝を付けて窓際まで進む。手鏡で外を確認する。漁り屋の子供たちが、雑多な繁華街の看板の下、小石を投げて遊んでいた。音の正体は、子供たちの誰かが窓に石を投げたのだった。
「何人いる? 子供」
「え、と……五人かな。一体どういうこと?」
 レべ子は笑顔を見せてくれた。ちっとも笑っていないあの凍り付いた仮面を。
「あの子たちはカチコミや強制捜査が来たら教えてくれる。外で五人遊んでたら、五人の招かれざる客が来るってこと」
「工部局警察?」
「そ。捕まれば私は処刑される」
 それは身から出た錆なのでは。果たしてアヘン売買だけでこの罪状を言い渡されるのか、レべ子の言動からは余罪がありそうな気配が漂う。
「ビルに入ってきた」
 レべ子は跳ね起きる勢いでそのまま二段ベッドに飛び乗った。
「あのー、ボク退散した方がいい?」
「出口は固められてるし、捕まるに決まってるだろ。汚いおっさんたちと同じ牢屋に入れられた君がどんな悲惨な目に遭うのか、想像するだけで、あぁ、興奮するなぁ」
 上のベッドが小刻みに揺れる。
「ちょっと何してんの? 動くのやめてよ気持ち悪い!」
 ボクが甘かった。激しい後悔が脳を苛む。工部局警察にマークされている密売業者にノコノコ付いていってほだされたあげく、ヤク中の罪を順当に被ることになるとは。そして控えめに言ってレべ子はキ〇ガイである。こいつを置いて独りで逃げる素振りを見せれば、どうなるか予測がつかない。
 複数の大人が階段を上ってくる音がした。ベッドの振動が止まった。近づいてくる処刑人、いや、レべ子にとってはそうかもしれないが、ボクにとっては更なる転落劇への案内人となる。タイトルは『はじめてのとうごく』。ロザリオを強く握って、祈りの言葉を口にしてみようとして、正しいやり方で祈ったことなど一度もなかったことに今更気付く。
「レべ子、ボクどうしたら良かったのかな」
 生きたいと願うなら、生きるための行動をすべきだった。ボクは獣としての衝動に正直であろうとしたけど、死に至る病に罹った理性の嘘に流されて、誰かの遺影の裏にかろうじて生存を許されていた。
 レべ子は沈黙のまま伏せている。部屋のドアが開いた。
「動くな、工部局警察だ!」
 拳銃を持った物々しい制服の警官たち。素早く、かつ優れた精度で銃口が室内を走査し、ボクたちの伏せっているベッドに慎重ににじり寄る。先頭の捜査員はボクのことを厳しく睨んで、一部の隙も見出せない。
「下の奴、両手を挙げて、立て。上の奴もだ」
 ボクは言われた通り、両手を挙げてベッドから降りた。レべ子は、沈黙している。
「おい、上の奴は店主だろ。聞こえてるのか!」
 一歩、にじり寄る。拳銃がレべ子に向けられ、チャキっと鳴った。ヤバイ、殺気立っている。この街に住んでいれば強制捜査の評判は嫌でも聞くことになる。相手がギャングの場合、時にはサブマシンガンや迫撃砲すら持ち出すこともあるのだ。下手を打ったらこの場で殺されちゃうぞ。とっさにボクの口を突いて出たのは、黙ってた方がマシなレベルの苦しい言い訳。
「あの、彼女はついさっきまでキメてて、」
 ほんの一瞬だけ、捜査員の注意が逸れた。そして次の一瞬で、ベッドの天板が大きくたわんだ。物凄い勢いで、赤いスカートが宙を舞った。密室で起きた突風は煙の残滓を纏う。ボクの鼻先を横切ったレべ子の脚が、純然たる殺意を以て捜査員の顔面を粉砕する。噛み切った舌先から血しぶきを上げながら、屈強な白人男が吹っ飛んだ。不運にも向かい側のベッドの柵にぶつけた頭がひしゃげて脳汁をぶちまける。あっという間に死体が一つ。
「貴様ァ!」
 後続の警官は二人。一切の躊躇なく、床に着地したレべ子を拳銃で狙う。しかしレべ子は距離を詰める一歩でローキック、片方の体勢を崩し、もう片方の射線を遮るように押し込める。たたらを踏んで押し合う三人。狭い屋内、銃火器どころか数の優位すら容易く封じたレべ子は一気に畳み掛ける。パンチを振りかぶるにも窮屈なインファイトで当て身、肘打ち、掌底打ち。機先を制した連続攻撃で片方の警官が苦悶のうめきを吐く。すかさずレべ子は右腕の関節を打ちすえ、ホールドが緩んだ相手の指をへし折りながら銃口を持ち主の胴体へと返す。連射。弾丸が肉を穿つ。警官は絶叫と共に絶命。もう片方が体勢を立て直し、銃創から鮮血溢れる死体をレべ子へと突き倒す。レべ子は自分が射殺した死体ともんどりうって倒れる。もう片方の警官は今度こそレべ子を撃つため狙いを定める。
 銃声は二発。
 ボクは立ち尽くしていた。これは現実なのか、アヘンの見せた悪夢なのか。本当は床に伏せて震えているべきだったのに、その一連の暴威から目を離すことが出来なかった。たった十秒ちょっとで、三人死んだ。
「お~い、ジャケ子生きてる? よね?」
「あ……ああ。生きてる」
 二階に侵入した警官は全員レべ子に殺された。
 先に撃たれた方の警官の死体、その下から声がした。レべ子は死体からもぎ取った拳銃で三人目を射殺し、ついでに肉壁として銃弾を避けるのに利用した。ボクは格闘術のことなんかからきしだけど、彼女が異常な場数を踏んだ手練れだってことは身に染みて感じた。
「レべ子。これは下層社会の処世術の範疇?」
 血の匂いとアヘンの残り香が混じって吐き気がする。床に転がったピエロが血に染まる。深呼吸。幻聴。けらけら。笑ったのはピエロか、レべ子か。つられてボクもおかしくなる。
「ここを切り抜けたら、手取り足取り教えてあげよう……静かに」
 レべ子は入口の壁に張り付いて、力を抜いたフォームで拳銃を構えた。人間の、頭の位置に。再び足音が階段を昇る。ボクは半端な中腰でベッドの陰に隠れる。自然と数秒、息を止める。
 シルエット、射線、重なる。ヘッドショット。 現れた四人目の警官はグチャっと崩れ落ちた。予見しても身がすくむ。間髪入れず、部屋の外にいた敵が制圧射撃を加える。
「うわ、ああ!」
 ボクのすぐ近くにも着弾する。砕け散る窓ガラス。けたたましい破壊の音と火花と粉塵に、情けなく悲鳴を上げてしまう。レべ子はボクに構わず反撃の隙を伺うけど、急にジャムがどうとか呟いて拳銃のグリップを逆さに握り直した。
「なにしてんの!?」
「ピストルは、ぶん殴っても強いのさ!」
 ああ、ジャムって弾詰まりのことか。直後、レべ子は勢い付けて突入してきた五人目の拳銃を弾き飛ばす。からの顔面殴打。素手よりずっと硬いフレームで殴られた警官は鼻血を吹くが、巨漢の体格差でレべ子を突き離す。お互い銃火器を失ったイーブンの状態で睨み合う。二人とも上段に構え、呼吸を整えながら機を伺う。散らばったガラスを踏みしめる度に精神を刺す。焼け付くような殺気が沸点を超え、攻防が再開する。交錯する腕と腕。パズルのように敵のガードを解いて攻撃を通す。肉体を破壊するための打撃の応酬。
 ボクは逃げも隠れもする余地がない。浅い人生経験の中で目撃したチンピラ同士の喧嘩
とは格が違った。今ここで殺さなければ、殺される。アヘンに囚われた人間はかくも悪徳を積み重ねる。誰のだか分からない血が跳ねて、ボクの頬を汚した。怯えて、縮こまるのが無力な子供にはお似合いだ。しかし、縮こまっていれば誰かがボクを助けてくれるとでも? そんなことは、一度だってなかった。
 体格差で負けたレべ子が宙に投げられ、床に押し倒される。マウントを取られてなお猛抵抗され、警官もそのあまりの気迫にやけくそ気味の罵声を返す。
「大人しくしろ、このイカレ売女め!」
 殴られながらもレべ子は不敵に笑う。また殴られる。鼻が折れたのか、鼻血が止まらないようだ。それでも、笑っている。何が、この状況のどこが、そんなに面白いのだろう……。
 ボクの道が決定したのはこの時だった。ボクは散乱した道具類のなかから、一番殺傷力のあるモノを迷わず拾った。アヘンを炙るのに使った長い針を。そして、レべ子を拘束するのに手一杯の男の、首筋を狙って刺した。
 頸が急所たる所以を体感する。何の抵抗もなく針は喉を貫いた。フォークでステーキを突き刺すのと一緒。
 驚きの表情がボクに振り向いた。
 死に瀕した人間の殺意が溢れ出てボクを刺し返した。
 空を掻く男の腕がボクを捉えようとする。ボクは後ずさりする。刺した針が一緒に抜けて、落ちた。赤い滝が溢れる。レべ子の拘束が緩む。彼女は下半身を跳ね起こし、脚を警官の首に掛けて床に叩きつける。おまけにその無理やりな体勢で踵落としを首に打ち込む。仰向けの巨漢がもがく。
「私が、売女、だって?」
踵落とし。ヒールが針の傷口を抉る。グチャ。レべ子は笑っていた。グチャ。ヒールが赤く染まる。五人目の警官は動かなくなった。
「……危なかった。ジャケ子、ナイス」
 死体の下からサムズアップ。この世の終わりみたいな絵面だ。
「一応さ、この人たち、仕事でレべ子を捕まえに来たんだよね」
「言ったでしょ、ここの警官の半分は汚職に関わってる。それに、手を汚さないだけで潔白な人生だなんて傲慢じゃない? イギリス人がイギリス人であるだけで、どれだけの善人を踏みにじったのか、考えるだけで恐ろしいわ」
 それはちょっと、耳が痛い。罪悪感を覚えるほど生まれの国に良くしてもらった覚えなんてないにしても。でも、偶然といえど初めて人を殺めたボクを気遣っているのだろう。人は生まれながらに罪を背負う。そういう風に出来ている。ならば悪徳もまた、人が行うべくして行うのだと。

 レべ子は実に手際よく、部屋に火を放った。一階の人形たちにも何の躊躇いなく灯油をぶっかけたのは、何だか勿体ないような気もしたけど。
「どうせ強制捜査が来たら放棄する予定だったし。共同租界のアヘン商人は、遅かれ早かれ潰されることになってたからね」
 人形たちが無言の死を迎える。ピエロもだ。すべて赤く焼却されて、人形租界は崩壊する。ボクたちは悠然とビルから脱出し、湧き上がる黒煙を背に野次馬たちの中へと紛れた。
 街の一角で火の手が上がろうと、租界の夜は延々と続いてゆく。蒸し暑くてうるさい夜が。悪事の証拠が焼き払われ、自身が無辜の民であると信じる人々の群れに、悪党が溶け込む。
「レべ子。何処へ行くの」
「さて……とりあえずはフランス租界かな。共同租界を追われた売人は大抵、そこへ流れ着く。けれど、あっちも時間の問題だろうね」
 騒ぎを聞きつけた官憲が慌ただしくボクらの去った方へと駆けてゆく、ボクは帽子で顔を隠した。嫌だな、また一つ、生きづらい理由が増えてしまった。
「行くアテはあるんだ、実は。満州で会った日本人に聞いてね、日本の山奥に古い隠れ里があるそうよ。永住と引き換えに戸籍やら色々洗ってくれるって言うから、かなり怪しいんだけど……好条件なうえ、面白そうなのよねぇ。舶来の商人は歓迎されるって話だし」
「ねぇ、レべ子」
「んん?」
「愛人になってほしいって、本気?」
「フッ、勿論さ」
 レべ子はボクの肩を抱き寄せた。こんな風に触られたことが無かったから、それが愛人への振舞いなのかどうか、いまいちピンと来ない。けれど、存外良いものだ。
「君が望むなら、道に迷わぬよう、地獄まできっちり付き添ってあげたいね」
「そう。日本は素敵なところだと良いな」
 ボクらは街の灯を避け、暗がりへ暗がりへと歩む。夜風に二人の髪が絡んだ。転落人生の奈落には、地獄への案内人が居たのだ。彼女はひと時の悪夢をボクに見せてくれた。奈落に天使がいるなんて端から期待しちゃいない。
 二度目の大戦の気配が色濃くなっても、租界のダンスパーティは素知らぬふり。公園で流行りのジャズバンドが喝采を受ける。自動車が気取ってエンジンをふかす。絢爛な千年祭はなおも続く。たとえそれがまやかしだと気付いていても。


 ………………。煙管の持ち方もだいぶ板に付いてきた。今日は肌寒いな。燃焼するアヘンの熱が尊いものに思える。仮住まいとしては上出来な小屋だけど、隙間風のせいで侘しい。薪、出しておこうか。
 あの女に頼んで、時折外の新聞を取り寄せてもらっている。世界恐慌とやらで自殺者が大量発生したそうだ。ここにも経済は存在するが、完全に外部から遮断されている。完全な他人事も、暇つぶしくらいにはなる。
 そうそう、ここではケシを栽培していいことになった。あいつ、ボクの前では気取っているくせに、最近では現地民に教わって熱心に農業に勤しんでいる。お陰でボクは素朴な里人相手に商才を磨くことになってしまった。すんなり土地を貰えたのは、“まだ”人口が少なくて駄々あまりなんだとか。山道や湖を歩くと、わりかし人らしき気配を感じるんだけど、彼らに土地を与えたりはしないのだろうか。
 気になることがもう一つ。湖のほとりに誰も使っていない洋館があった。あいつは気に入って新居にしようとしたけど、里から離れているし二人で住むには広すぎるからとボクが拒否した。本音は、あの時見た夢を今でも憶えているからだ。不思議と、風景が重なる。ここがあのロータスランドなのだと、薄々感づいてはいるのだ。けれどボクは、地獄へ助走をつけてダイブするような真似はしない。なるたけあの洋館には近づかないようにしている。何年か何十年か先、相応しい住人が現れるだろう。ボクが分を弁えていれば、運命は彼ら或いは彼女らへと向くはずだ。
 小さく呼び鈴が鳴った。今日は客が来る。この土地を治める巫女らしい。まだ幼い少女が、おずおずと引き戸を開けた。ボクは煙管を置いて、彼女が座るために椅子を引いた。
「初めまして。いつもは専門家がいるんだけど、今回はボクがインストラクターを務める。よろしく」
「あ、あの、いんとら、く……?」
「師匠だ。霊験を引き出すのにお薬の力を借りるなら、その薬の用法を正しく理解する必要があるだろう」
「あ、はい」
 こんな幼い子にアヘンを吸わせて良いものか迷うけれど、自分も若くしてアヘンの常用者だ。この地の法がアヘンを許可している現状、金に困らなければ禁断症状に苦しむ心配はない。彼女の肩書はそれをクリアしている。
 にしても、霊験とは。自分自身の体験があるから、今時非常識な……と言い切ることは出来ないが。彼女、椅子の上で脚も届かず縮こまっている。この部屋に滞留するアヘンの紫煙に気圧されているな。
「目を閉じて。水の中に墨汁を一滴、垂らす。それに明日の天気を占う。アヘンを吸うっていうのは、それだけの気楽な行為だ。恐れてはいけない。縋ってもいけない。アヘンは神でも悪魔でもないのだから、ね?」

 ボクは幼い彼女にお手本を見せるように、穏やかに煙管をくゆらせる。楽園の素敵な一日が、今日も過ぎてゆく。
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コメント



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2.100終身削除
ろくでもない場所でのろくでもない二人の生活感とかしぶとい生き抜き方に熱量と迫力があってしばらく頭から離れないような読み応えがありました アヘンの加工方法とかの細くてリアルで印象的な描写とかが所々に挟まりながらトントン拍子で展開が進んでいくのがはみ出しものの二人の空気によく合っているような感じで読んでいてとても痛快でした ひょっとして実際にキメ
3.90奇声を発する程度の能力削除
色々ぶっ飛んだ感じが面白かったです
4.100名前が無い程度の能力削除
この題名で凄い内容……
6.100とらねこ削除
ギャグみたいなタイトルとは裏腹の退廃的で艶っぽい内容が素敵です。レベ子と「ボク」は後の誰なんだろう。めーさくかアリマリか? 想像するのも楽しいです。