Coolier - 新生・東方創想話

明治十七年のアリス・シャンハイ

2020/03/20 20:35:40
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明治十七年のアリス・シャンハイ(Meirin Meets Remilia)




第一章 “London”




 毎年のことながら、この国の暑さにはうんざりとさせられる。
 私は水筒を開けると水を一気に飲んだ。それだけで中身が半分になった。
 残りの水は帽子を脱ぐと、ひと思いに頭へかけた。頭と水の温度差で、蒸気が立ちのぼりそうとさえ思う。
 この国はきらいでないけれども、夏くらいはほかの国へ行きたいと。
 私が想いを馳せるのは……。

「ロンドン」

 と私は呟く。
 あの街のことは、忘れたくても忘れられない。
 霧ふかき街。迷路のようにさかえた街で、天にそびえるビッグ・ベンを目じるしに、私は日々をやりすごしていた。いずれ消えゆくその日を待って。
 夏は涼しく、代償に冬は底びえる。あの雪に立ちむかうには、4ペンスのジンがかかせなかった。工業用のアルコールを薄めたような、一般庶民の味方の酒。
 ……こんな平穏が訪れると、私は信じていただろうか?
 今でも鮮明におぼえている、1884年の夏のできごと。
 あれは今、ヴィクトリア朝と呼ばれる時代。
 妖怪たちが急速に、姿をけしていったさなかのことだった。



 その日の目ざめは最悪だった。ネズミに耳をかじられた痛みで、目を覚ましたからである。

「ちくしょう」

 起きあがると、私は部屋の隅まで逃げた、一匹のネズミをにらみつけた。
 日ごろからパンくずなんかを恵んでやっているのに、その態度はひどいと思った。
 私の怒気に面くらったのか、ネズミは動かずに縮こまっていた。
 その姿があまりになさけなくて、私はついそれを、人間たちの進歩に怯える、近ごろの妖怪と比べてしまった。
 妖怪ではなく、英語で“Monster”と呼ぶべきかもしれないけれども。

「……はっきりと言っておく。汝の敵を愛し、汝を憎む者を許したまえ」

 私は溜息を吐くと、清装束に着がえた。それから星のあしらわれたハンチング・ハットをかぶると、部屋を出て階下に降りていった。
 下ではもうハーモニウス牧師が、朝食を作って私を待ってくれていた。
 新聞から目を放すと牧師はにこやかに、

「おはよう。叫び声が聞こえましたよ、何かありましたか」
「ハーモニウス、私はネズミに耳をかじられた。
 でも私はそれを、イエスの福音を引用して、許すことにした。立派だろうか?」
「はっきりと言っておく」

 牧師は新聞をとじると、

「身内に親切をするのは当然のことです。無関係な他者にこそ親切をしなさい」
「きびしいわ」

 牧師は自分にも他人にもきびしいことで名が知られていた。
 私が席につくと、牧師は新聞を差しだしてきた。ハム・エッグを片手で切りわけながら新聞を読む。

“フランスと清、一触即発。開戦なるか?”

「ふん」 と私は鼻を鳴らした。

 ハム・エッグをたいらげると、私はパンをかじりはじめる。
 私とちがってパンは別に、かじられて痛がったりはしない。

「不安でしょう、母国が戦火に近づくと」
「ハーモニウス、まえにも言っているでしょう」

 私は牧師に新聞を返すと、

「私は別に、清に愛着なんてありはしないわ」

 従わなければ、汝の敵を枯らしたまえ。
 イエスが実のないイチジクの木をそうしたように。



 教会を出るとランべス橋に向かった。
 ランべスとウエスト・ミンスターのあいだには、ひとつの橋がかかっている。
 そもそもロンドンをピザのように半分にするテムズ川には、ほかにも沢山の橋がかかっているけれども。ただ私が、その橋をよく使うと言うだけだ。
 このネズミ色の橋から、すこし北のウエスト・ミンスター橋には、こちらよりも沢山の人々が闊歩しているように見える。まるでビッグ・ベンと言う大木にむらがる虫の行軍だ。
 ビッグ・ベン。迷路の街の、ただひとつの道しるべ。正確無比に時を刻む、約90メートルの時計塔は、たしかに私にも示されていた。
 ウエスト・ミンスターの広場に出ると、私はあたりを見わたした。
 成金連中がそれなりにうろついている。稼ぐには絶好の日だった。
 私は帽子を地面に置くと舞踊をはじめた。見ばえのよい、見せもののための舞踊を。思いでのない、清の民謡に合わせながら。
 たちまち人だかりができる。成金も貧乏人も、分けへだてなく集まってくる。
 尊敬、感心、好奇、軽蔑。さまざまな思惑を込めて、人々は私を見つめている。そのどれもが私に金銭を恵んでくれる視線だった。
 私の足が空を切り、汗が飛ぶ。
 ……わるい気分じゃない。と私は思う。
 帽子に硬化が投げいれられる。なけなしの1ペンスや、たわむれの1シリング。
 ……私はいつまでも、こうして暮らしているのだろう。妖怪のくせに、人間の機嫌をうかがいながら。
 そうして小銭を稼いだらジンを飲んだり、ウエスト・エンド・シアターの劇場で、シェイクスピアの劇を見るのだ。
 いつか消えゆくその日まで。
 最後に見るのは“尺には尺を”がこのましい。あれには心のすべてが詰まっている。人気がないから、演じられることは少ないけれども……。
 しかし私のそんな感傷は、ある観客の行動で、たちまち掻きけされることになった。
 子供がひとり。
 つかつかと私のまえにあゆみよる。
 そして、

「あぶないよ」

 と私がたしなめるまえに。
 およそ10ポンドはある紙幣の束を、帽子に投げいれたのである。



第二章 “Remilia”



 私はおどろいて舞踊を已めた。おかしな姿勢で体を止める。はやしていた観客たちも静まりかえる。
 当然だろう。10ポンドは切りつめれば、三ヶ月は生活できる額である。おどろかないわけがない。
 私は子供を眺めた。黒いズボン、白いシャツ。肩にかけて、サスペンダーをつないでいる。典型的なロンドン少年のいでたちだ。その頭の上の赤いハンチングも含めて。
 珍しいのは、きよらかな銀青色の髪。そして血のように赤い双眸の……。

「……女の子?」
「おまえは何をしているの?」

 その子供の声には有無を言わせぬ迫力があった。言葉は疑問系であるのに、私はなぜか命令されているような気分になる。

「何って……」
「人間を相手に大道芸で日銭を稼いで、恥ずかしくないの?」

 息を呑んだ。
 妖怪だ! と私は理解した。しかも随分と格上の。
 それからは、早かった。

「えっ」

 と子供が素っ頓狂な声を漏らす。
 私が地面のハンチングをすばやく拾うと、一目散に逃げだしたからである。

「ちょっと……ちょっと! 話しくらい聞いてよ!」

 私は無視して、通りの人ごみにまぎれこんだ。群衆の引っかかりもせずに、するすると人々の脇をすりぬける。
 やがて南の地区、ピムリコの適当な路地に隠れた。
 ……路地から通りをゆっくりと見やる。子供は追いかけてきてはいなかった。
 どうやら逃げきることはできたらしい。
 少なくとも、今は。



 とは言うものの、安心はできない。
 私はさらに広場から離れるために、ウエスト・ミンスターの西側を迂回して、ベーカー街に抜けた。
 まさか南へ逃げた私が、北側のベーカー街にいるとは思うまい。
 ただ思わぬ収穫があったので、もよりの酒場に行きたかったのもあるけれども。
 私は抜けめなく、ハンチングと一緒に10ポンド(実際は12ポンドもあった)を回収していたのだ。
 丁度よく酒場の奥の席には知りあいがいた。

「コニードリー、朝から酒とは感心しないわ」
「君もだろうが。私は今日は休みなんだ。それにどうせ患者なんて来やしない。今日は独りの気分だから、相席はひかえてくれたまえ」
「奢るわ」
「気分が変わった」

 コニードリーは腕のわるい医者で、私が彼と知りあったのは、日やとい仕事で怪我をしたときのことだった。
 そのときの治療が劣悪だったので、私はコニードリーを本名ではなく、そのなさけない渾名で呼ぶことにしている。
 ロシヤ人のようで気にくわないよ! とコニードリーはよく口にした。
 そう言われると、その渾名はたしかに、ロシヤの名前の中でもドミートリィと似ている気もする。
 私はこの酒場で三番目に高いウイスキーを、水と一緒にボトルで注文した。

「おどろいた、景気がいいんだな」
「あんたも飲めばいいわ」
「まったく君はふしぎだな。小娘のくせに、大人のように振るまって」
「ロンドン女は老けやすい。苦労してるからね」
「君はアジア人だろ。アジア人は若く見えるからいいよな」
「……ねえ」

 と私は小声で話しはじめる。

「近ごろ何か事件は起こってない?」
「事件とは」
「奇妙な殺しかたの……殺人とか」

 私がそんなことを聞いたのは、かならずあの妖怪がさわぎのひとつやふたつくらいは、起こしていると思ったからだ。

“よほどしたしくなければ、妖怪が昼間から路上で会うことはこのましからず”

 と言うのはロンドン妖怪の暗黙の了解だった。
 数を減らし、力を失いつつある私たちの、涙ぐましい処世術である。
 そもそも夜にさわぎを起こすやつでさえ、今はほとんどいないのだ。
 なのにあの妖怪は、私に白昼堂々と話しかけてきた。
 それにあんな妖怪がいたら、超上現象マニヤの“ピクウィック”が知らないはずがない。
 あの妖怪を、私は近ごろロンドンに来たよそものだと思ったのだ。

「あるよ、ひとつ」

 とコニードリーは得意そうに言った。

「これは友達の刑事から聞いたんだけど……近ごろ二、三件の強盗殺人が起きているのさ」
「よくあること、珍しくもない」
「おもしろいのはここからさ。ただの殺人なら刃傷でもあるところだが……その被害者たちは、きわめて異常な死体で発見されたと言うんだね」
「異常?」
「血を抜かれて、干からびていたのさ。そして首もとには、まるでコウモリにでも噛まれたような傷跡があったのだと……ハハハハ、おかしいね。これでは……おい?」

 そこまでだった。私は2シリングをコニードリーに押しつけると、足早に酒場を出た。
 近道の路地を通って、いそいでランベスに戻ろうとする。
 ……。
 信じられない。
 体のふるえが止まらない。
 しかし私は納得もしたのだ。
 吸血殺人。そして血のような、あの子供の赤い瞳で。
 あれは……。

「ヴァンパイア」

 と呟いたのは、私ではなかった。
 そう呟いたのは、路地の角を曲がろうとしたとき、そこで私を待ちかまえていた……。

「名を言うことさえ怖ろしいのか?」
「……ちくしょう!」
「レミリア・スカーレットよ。よろしくね」

 一匹のコウモリを肩に乗せて、気さくな挨拶でもするように、その子供は言ってのけた。
 それが私とのちの主。レミリア・スカーレットとの廻航だった。
 運命が……私たちを引きあわせる。



第三章 “Alice”



「大道芸人。ランベスの小教会に住みついている、赤髪の清人。その名前は……アリス・シャンハイ!」

 レミリアがそう言いおわったとき、私はもう腹を蹴りあげられて、地面にうずくまっていた。
 それはあまりに速すぎた。もしちかちかとする視界に、片足をあげたレミリアがいなければ、私は蹴られたことすら分からなかっただろう。

「昼間からコウモリを飛ばして、誰かのことを嗅ぎまわったり、追跡するのも楽じゃない。と言うか私にそんなことをさせないでよ」

 レミリアはあきらかに油断していた。
 それもそのはず。吸血鬼は西妖怪の王さまなのだ。私のような小物には、油断してしかるべきである。それでこそ、王さまなのだ。
 しかし、それが命とりになる。
 私は隙を突くと、ふところに隠してある“切りふだ”をすばやく抜いた。
 あたりに発砲音が鳴りひびく。距離が近いこともあって、私が闇雲に撃った自動拳銃の弾は六発も当たった。
 ……しかしレミリアは、倒れなかった。それどころかまだ、平気な顔で私を見おろしている。

「おどろいた。最近の銃はそんなにも連射が効くんだな。それにしても私は加減したのに、おまえは加減してくれないのか?」
「この……怪物め!」
「それは自分のことでしょ」

 そのときピィーーと笛の音がする。近くに警察がいたらしい。

「まずいことになった、特におまえは。たとえ中身がそうでなくても、私は子供に“見える”からね。服も血まみれになったのだし、重傷のフリでもしようかしら……なんてね」

 とほほえむと、レミリアは私を担ぎあげる。

「何をする!」
「動くな」

 そう言うと、レミリアは空を見る。そして彼女の背中から、コウモリのような羽が現れる。

「空へ逃げるよ」

 爆発音がした。それはレミリアが、空へ飛びたったときの風の音だった。
 あまりの勢いに目をとじて、開けたころには……。

「……ベン。ビッグ・ベン!」

 をはるかに越えて、私はもう鳥の領域にいた。
 眼下にロンドンが広がっている。人々は米粒くらいにしか見えない。それは向こうからも同じだろう。まさか人型の生きものが飛んでいるとは思うまい。

「熱い!」

 急にレミリアの体から蒸気が噴きだしはじめる。

「太陽が近すぎる!」

 そう慌てると、レミリアはいそいで降下しつつ、やがてビッグ・ベンの頂上に降りたった。

「あっ……ついなもう」

 この高さなら、レミリアの肌は焼けないらしい。
 私は担がれたままに言う。

「なんのつもり」
「ふん?」
「吸血鬼に追われる筋あいはない」
「逃げなければ追わなかった」
「吸血鬼から逃げないやつは馬鹿よ」
「逃げるやつも馬鹿よ。賢いやつは“下僕にしてください”と懇願する。尤も私は、そう言うやつでも殺すけどね」

 レミリアは私をビッグ・ベンの頂上に手ばなすと、

「そうにらまないで、景色でも見れば? おまえのような小物はこう言う景色を知らないでしょ。感謝しなさい。見おろすのは王さまの特権なんだから、本来は。
 すばらしい天気! 忌ま々ましいしきかな太陽。夜までおまえと会うのは、待つべきだったかもしれないね」

 私はレミリアの視線のさきを追った。
 吸血鬼の怖ろしさも忘れて、息を呑む。
 ロンドンの街は日の光で、くすんだオレンジ色に輝いて。
 排水まみれのテムズ川も、ここからなら美しい。
 私は思わずうっとりと、賛嘆の溜息を漏らしさえした。

「すごい……!」
「でしょ!」

 私は見ぼれた。ロンドンよりもレミリアの得意な笑顔に。魔性と言うのか、その顔だちにはどうしても引きつけられるところがある。

「どうして私につきまとうの? スカーレット、私は……」
「レミリアね」
「レミリア、私はただの小妖怪よ。あなたにかまわれるほどの価値はない」
「運命よ。それが私たちを引きあわせる」

 レミリアは羽をひるがえす。偉大な王さまが、マントをそうするように。

「アリス。おまえ私の、下僕になれ」



第四章 “Harmonious”



「どうして教会に住んでいるの?」
「ハーモニウス。牧師の好意で……彼はいわゆる、おひとよし。路頭に迷っている私を拾ってくれた」
「なんだ……体と引きかえじゃないのか」
「体!?」
「神父や牧師はみんなロリータ・コンプレックスかホモ・セクシュアルなんだよ」
「ひどい偏見だ……」

 ビッグ・ベンから降りた私たちはランベスに向かっていた。
 降りてしまうともうロンドンは、頂上で見た美しさを失っていた。
 過酷な労働と、工業でがんじがらめにされた街。
 ランベス橋から見るテムズ川はひどく汚かった。

「ロンドンにくるのは久しぶり。すこし観光もしたいわ。近ごろ博物館ができたんだって?」
「大英博物館は二度と行きたくない。それと“近ごろ”じゃない。あれができたのは何十年か前」
「最近じゃないの。おまえ、若いでしょ」

 その口ぶりに、私とは比べものにならないほどの歴史を感じる。

「牧師か……会いたくないな」
「言いわすれてたけど、私はキリスト教徒よ」
「はあ!? 妖怪のくせに……馬鹿かよ!」

 のちに数百年を一緒にあゆんでも、このときほどレミリアが私におどろいたことはなかった。

「アーメン」
「已めろ、耳が腐る!」
「キリスト教はきらい?」
「キリストはきらいじゃない、キリスト教もきらいじゃない。でもキリスト“教会”はきらい」
「そう……私もよ」

 やがて教会に辿りつくと、牧師が庭で花の手いれをしていた。
 レンガづくりのこの教会は貧乏で、壁はくすんでいるけれども、頂上の十字架はいつでも威厳をそこねない。教会の質はけっして外観で決まらない。それは神父や牧師、そして信徒の敬虔さで決まるのである。
 ロンドンの、数すくない清貧ありし場所。

「ハーモニウス」
「おかえりなさい。そちらの子は?」

 さいわいレミリアの血は太陽の光で蒸発していたので、彼女を見なりの汚い子供に欺瞞できる。
 ただの子供と言うには、あまりに顔だちが美しすぎるけれども。
 私は迷ったあげくに、

「うん……拾った」
「拾った!?」

 とレミリアが抗議してきたけれども、私は意に介さない。

「ベーカー街のストリート・ガールなの。かわいそうで、つい……」
「かわいそうに。女の子なのに男の子の服を着て。それに穴まであいている」
「うん、背中にも」
「おなかも減っているでしょう。すこし早めの昼食にしましょう。待っていてください、沢山のベーコンを焼いてあげますからね」

 牧師は今にも涙を流しそうと言ったふうである。しわくちゃの顔がさらにしわくちゃになっている。
 牧師は料理のために、足早に教会の裏にはいっていった。

「下僕のくせに拾ったなんて!」
「私は別に下僕になるなんて言ってない」
「別に聞いてないし。だから返事も聞かずにビッグ・ベンを降りたのよ。アリス、私は頼んでいるんじゃない。命令しているの。
 私は強く、おまえは弱い。だからおまえは従うのよ」
「あなたに強制されたら逆らえないでしょうとも。でも腑に落ちない。私のように弱いやつを下僕にしたって無駄でしょうに」
「おまえは強弱で友達を決めるのか?」
「そう言うわけでは」
「それに弱すぎると言うほどのことじゃない。私をとっさに撃った拳銃、あの判断は見事だったわ」

 レミリアはふところから、私の“切りふだ”を取りだした。

「返すよ、拾っておいた」
「……私はまた撃つかもしれないよ」
「それくらい受けいれてやる」

 ……レミリアは平然とそう言った。私を許す器の大きさに、眩暈さえもする。
 困ったことにこの短時間で、私は早くもレミリアを好きになりはじめていた。

「ひとたらしめ」

 レミリアは笑った。その偉ぶらない気さくさが、ただ高圧的でないことで、さらに彼女を魅力的に見せていた。

「惚れた?」
「なんの……まだまだ」



 私たちは昼食を取った。
 レミリアがキリスト教会ぎらいと言うので、正直なところ牧師と一悶着あると思ったけれども、さいわい何も起こらなかった。彼もまた別の部類で器が大きかったから。
 レミリアはベーコンをむさぼりながら、

「ハーモニウス、私は教会の“おかみ”がだいきらいだ。やつらは金にしか興味がなく、その腹の中は悪魔よりも黒い」
「それには同意しますが、さいわい以前よりもよくなっています」
「それは衰退したからだろ、以前よりも……近ごろはやたらと無神論がはやってる。それは列車のためだろうか? それとも白熱電灯のためだろうか? あるいはチャールズ・ダーウィンの遺産のためか?」
「どうでしょうね。どれも相互に影響しているのでしょう」
「それまで信じていた神さまを、必要なくなった途端に捨てる。むごいことだ」
「アリス、随分と賢い子を連れてきましたね」
「知識をひけらかしているだけよ」

 と私は返した。

「そう思うのはおまえが馬鹿だからだろ」

 それからレミリアは油まみれの口を牧師に拭いてもらうと、

「ハーモニウス、おまえはどうしてアリスを拾ったの?」
「はっきりと言っておく。困っている者は、みんな私のところに来なさい」
「イエスの真似か、聖人きどりか。おまえが善くあろうとしたところで、世の中は変わらないよ」
「芋皮をみんなが路上に捨てるからと言って、自分が捨てる理由にはなりません」
「ふん」

 レミリアは立ちあがった。

「ごちそうさま、おいしかった。教会の中を見物してくる」
「どうぞ」

 レミリアが去ってから、牧師はまた口をひらいた。

「奔放ですね」
「ごめんなさい……すこし人間不信で」
「隠さなくてもよろしい。あの子も君と同じ、人でないでしょう」
「……ふん」 

 と私はうなるしかなかった。 

「分かってたの」

 この牧師にはもとから、そう言う他者を見る目があるのだ。

「どうして分かるの?」
「まえにも言ったとおり、神を信じていますから」

 それは理屈になっていない。しかしハーモニウスにとって、それが何よりも理屈なのだろう。
 それだけが真実を知る知恵なのだ。



 教会の中へはいると、レミリアは説教台に座って、ぱらぱらと聖書を読んでいた。

「あいつは私たちの正体に気がついているよ」
「言われたわ」
「なんだ……喰えない爺だな」
「ハーモニウスは私に生きる知恵を教えた。聖書を読ませて、産まれもった武芸で稼ぐことを勧めた。しばらくして正体を明かすと……彼は“知っています”と言った」
「困っている者は」

 レミリアは説教台を降りながら、

「みんな私のところに来なさい、か」
「なさけないと思うでしょう。でもみんな、あなたのように強くない。人を虐げていたツケが来たんだ。あなたのような年輩の乱暴者が貯めたツケよ。私たち若者がそれを払ってる」
「……わるかったと思ってるよ」
「あなたたちは、どこかで人間の手を取るべきだった。私たちの歴史の中に、一度ならずチャンスは……あったでしょうに。
 今でもときにはオカルトが流行して、妖怪がロンドンで産まれてくる。でも長くは生きられない……一ヶ月もすれば飽きられて消えてしまう。セミは……七日しか生きたくなくて、産まれるのだろうか?」

 まるで私たちは、神のまえで懺悔しているようだった。
 本物の神は、私たち妖怪存在を許したまうだろうか? ……許しはしない。あれもまた、人々の心から産まれたのだから。
 神は人心の光より産まれ、私たちは人心の影より産まれてくる。
 そして神は“光あれ”とは言っても“影よあれ”とは言わなかった。少なくとも聖書においては。

「セミになりたくなくて、旅をしているんじゃないか」
「旅?」
「言ってなかったっけ。私はしばらく家をあけて、各地を練りあるいていたんだよ。
 私だって馬鹿じゃない。自分の力の衰亡に、四十年ほどまえに気がついたさ。
 だから私は探してる。妖怪の生きられる土地が、まだどこかにあるのだと」
「そんな……夢物語を」
「はっきりと言っておく。それを言ったやつを、私はみんな殺してきた。おまえを殺さないのは、おまえが気にいっているからよ」
「……」
「絶対に見つけてやる。私には妹がいる。このまま消えさせたりなんてしない!」

 レミリアは怒りふるえるように拳をにぎっていた。
 その姿は滑稽で、けれども同時に偉大だった。
 あの吸血鬼がなりふりかまわず、なんとか生きながらえようとしているのだ。
 ……そんな覚悟もないから、私たちは消えてゆくんじゃないのか?
 私は言った。

「あなたの望みに沿うかもしれない場所を、ひとつ知っている」

 レミリアの顔が、ぱっとあかるくなる。

「本当?」
「夜を待ちましょう。そしてあなたを“ピクウィック”と引きあわせる」



第五章 “Pickwick”



 夕方。
 レミリアを置いて外に出かけていた私は、また教会に戻ってきた。彼女のほうも外出していたのか、シャツの上に着る茶色の小マントを買ってきていた。
 ロンドンの夏は昼でも高くて二十度前後。夜にはそれくらいの厚着もわるくない。
 私もジャケツを着た。
 牧師に声をかけてから、私たちは夜のロンドンに繰りだした。

「ピクウィックにあなたのことを伝えに行っていた」
「別に連絡しなくていいじゃん」
「そうはいかない、あなたがいると怯えるやつもいる」
「なさけな……そのピクウィックさんはどうかしらね」
「早く会いたいと言っていた。ピクウィックは吸血鬼のファンなのよ」

 今日は月がきれいだった。ほほえみを見せる方われ月。夜なら街風も多少は臭くない。
 そして私は、何事かを期待している。唐突に来英したこの吸血鬼に。
 もしかしたらロンドンの妖怪に、新しい風を吹きこんでくれると……。
 私たちはベーカー街の西の端まで歩いていった。そしてそこにあった、廃墟の酒場の鍵を開けると中にはいりこむ。
 中には誰もいず、もちろん埃まみれである。

「ここは幽霊屋敷として有名なの。それがどう言うことか分かる?」
「畏怖ありたまえば、そこは私たちの根城たりうる」
「正解! ここは幻想の小さな郷なのよ」

 私たちはカウンターにはいると床をずらした。
 そこには階段があり、私たちはそれを降りていった。
 光の漏れでるドアが見えてきた。
 私はドアを押したとき、レミリアに言った。

「新約酒場へようこそ」



「待ちくたびれたよ、アリス」
「そうですわ」 …… 「そうですとも」
「君がレミリア・スカーレット。会えて光栄だよ」

 地下酒場にはいると、そこにいた四者三妖が口々に言った。
 四ではなく、ある理由で三である。声を発したのが四であったも。
 最後に声を発したピクウィックが、ふわふわとレミリアのまえに踊りでる。さすがに彼女も面くらっていた。
 なぜなら、

「ピクウィックが人間霊とは思わなかった」
「世の中には君の知らないことがいくらでもあるのだよ」
「ハムレット」
「正解!」

 ピクウィックは典型的な足なし霊で、いつもふわふわと浮いていた。
 五十八歳で死んだと言う。前髪ははげていて、代わりとでも言いたげに、その顎にはちりちりの髭がたくわえてある。そしておかしなことにピクウィックの目には死んでいるのに、いつも精力的な熱意が満ちあふれていた。
 ともかく私たちは、まず三にんで話すことにした。あまり多くても、話しが錯綜するにちがいないから。

「おれたちはカウンターで飲んでるよ」 とトーテンコップは言い。
「わたくしたちも」 …… 「そうしますわ」 とバビロニア・シスターズは言葉をつなげた。

 私たちもまた、別の席で顔を突きあわせる。尤もピクウィックだけは、あいかわらず浮かんでいたけれども。

「ちょっと」

 とレミリアが小声で聞いてくる。

「あの頭がふたつある女たちは何?」
「バビロニア・シスターズはシャム双生児の妖怪なの。背中から見て、右が姉のジュリエットは残虐で、左のジュスティーヌは姉に似ず善良な性格で……」
「分かった、々かった。もうけっこうだから」
「数が揃わなくて申しわけない、スカーレットくん。君が吸血鬼と聞くと、怖ろしがって揃わなかったのだ。まったく大者に会えると言うのに!」
「見せものじゃない」
「それは失礼!」
「声の大きい爺だな……」
「それも失礼!」

 ピクウィックはレミリアに会えて興奮していた。私が彼女のことを夕方に教えにきたときは、今よりもうるさかった。

「生前の私はオカルト・マニヤだったのだよ、スカーレットくん。超上現象や怪奇現象が好きでね。幽霊を信じていた。
 そのためもあってか、私は死んだあと、気がつくと自分の葬儀を見ていたのだ! ハハハハ、あんなに笑えることはなかった……図らずも自分の身で幽霊を証明するなんて。それをもはや本にして発表することも叶わないが」
「小説家だったのか?」
「これでも名の知れた男なのだよ。気が向いたら代表作のクリスマス・キャロルを読みたまえ」
「残念ながら暇がない。ときに……私がここへ来た理由は?」

 ピクウィックは髭をさすりながら、

「それならアリスに聞いておるとも」

 それまで飄々と語っていたピクウィックの目に、理知の炎が灯っていた。

「君が望んでいる場所よりも、はるかに小さいかもしれないが、それでもここは妖怪たちが集まっている。そもそも私がこの集会を立ちあげたのだが……。
 さいわい私は人間だったので、徒党の強さを知っている。数とは力なのだよ。
 しかし何も、ここは先をくやんで互いを慰めあうための場所ではない。活動のほとんどは情報収集。世界一のこの都会には、さまざまな見聞が流れつく。君のような旅する者の言葉、あるいは貿易商の日記を盗むとか」
「なるほど」
「君が望むなら、私の知っている世界の怪地を教えよう。
 私たちはロンドンを離れられないが、君なら辿りつけるかもしれない」

 そのあたりで、私たちの会話は終わった。
 それを察してかトーテンコップと、シスターズが、ジンとグラスを持って近づいてきた。
 トーテンコップは肉も皮もない頭蓋をかたかたと揺らしながら、

「堅くるしい会話も已めて、乾杯しましょうや。かくも名だかき吸血鬼と会えたこの日に。スカーレットさん、おれはドイツ出身なんだ……行ったことは?」
「あるよ」
「そうか、よければ今のドイツを教えておくれ。百年も帰っていないんだ」
「わたくしたちは故郷のフランスのことが知りたいですわ。あの革命のあと、あそこがどうなっているのかを」

 たとえ月は見えずとも、ここには夜の力がある。
 私たちは安物のジンで乾杯した。新約酒場に現れた、新しい同胞のために。



第六章 “Flandre”



 それから数日後の夜の教会。
 私は二階で、独りでジンを飲んでいた。飲みなれている喉に、はじめての焼けるような感触はもやはない。
 この数日、レミリアは足しげく新約酒場にかよっていた。ピクウィックと情報を交換したり、ほかの妖怪に紹介されているらしい。
 帰ってくるとレミリアはまるで、見目相応の子供のように、その日のことをたのしそうに話してくれる。
 私はそれがうれしくもあり、たのしくもある。
 ただ一日だけだとしても、酒場に紹介するまえのレミリアは、私だけの吸血鬼だったのだから。

「今日はパチュリー・ノーレッジと言う魔女と会ったよ」

 帰ってくるとレミリアは、私のジンを飲みながら言った。

「どうもウマが合ってね、運命を感じたよ。家にこないかと誘ってみた。最初はしぶっていたけど、家に魔法図書館があると言ったら、目の色を変えて飛びついてきた。明日にはロンドンをたつらしい」
「それはありがたい」
「どうして?」
「あいつは偏屈だからきらい」
「それは困るね。いずれはおまえも一緒に住むのだから、したしくしてくれないと」
「えっ」

 私はおどろいた。自分はもうレミリアに飽きられたと思っていたから。
 レミリアはまだ私なんかを下僕にするつもりでいたのである。
 ……と言うようなことを口にすると。

「まえにも言ったでしょう、運命だって」
「そう言えば……あなたは運命が好きらしい」
「好きなのではない、知っているのよ」

 とレミリアは双眸をほそめて私を見る。その妖艶な表情を見るだけで、心の弱い人間なら、テンプテーションにかかってしまうだろう。

「そうでなければ、誰がおまえのような卑屈者にかまうものか。おまえが自分を卑下しようと、私には分かるんだ。
 アリス、おまえは私をピクウィックに引きあわせた、パチュリーにも。
 ……運命よ。
 そして私は、さらなる運命さえも感じている。それはまだおぼろげにしか見えないけど、まるで月の光のようにあたたかだ。
 私は近ごろ夢を見る。奇妙なかたちの、日本足の赤い十字架の夢を。それもおまえに会ってから」

 それから私たちは、しばらく黙ってジンを飲んでいた。
 レミリアは運命を“知っている”と言う。それは何かの比喩だろうか? あるいは事実を述べているのだろうか? ……私は無知で、だから何も分からない。彼女とちがって歴史がないから。
 “あそこ”で私が産まれたと知ったら、どう思われるだろう。
 失望されるかもしれない。レミリアは気ぐらいが高いから。
 だから私は急に歴史ある吸血鬼のことが知りたくなって、口をひらいた。

「そう言えば、あなたは妹がいると言っていた。それ以前に、あなたの故郷は?」
「アイルランド」

 意外だと思った。
 それが顔に出てしまったのだろう。レミリアは私の顔を見ると、自嘲するように笑った。

「植民地で失望した?」
「失望だなんて……近いじゃない。妹さんに顔を見せに帰ったら?」
「帰れないわ、なんの成果もないのにさ……住むには素朴でわるくない。エビやろうがこなければ」
「イングランド人はきらい?」
「きらいだね、反吐が出る。だから最も多く殺してる。
 ……そうだね、妹のことを話そうか。
 私の妹は、産まれながらに力が強くてね。なんでもすぐに壊してしまう。だから家の地下に引きこもっている……何百年も。
 何を壊したって、私は怒らないのにさ。
 私が壊しておこるのは、家族の絆それのみよ」

 レミリアが悲しげにうつむくと、その顔に影が差しこむ。怖ろしい吸血鬼の、ただひとつのもろい部分。赤い目が影で深紅に染まっている……。

「いつか」

 私は何も分からないから、

「いつか仲よくなれるといいですね」

 そんなふうに励ますことしかできないけれど、

「……へへ」

 とレミリアは、うれしそうに笑ってくれた。
 それからレミリアは、酔いにまかせて歌をうたてくれた。彼女の故郷の、アイルランドの別れの歌を。
 ランベスの一角で、それが静かに響いている。

すべての金は、使いはたしてもはやなく
それでも友は、別れの時を惜しんでくれる
若かりしひのあやまちを、もう思いだすことなどない
別れの酒を注ぎたまい
おやすみなさい、みんなによろしく

 いつまでもたのしい日々が続くと、昔の妖怪たちは信じていたはず。
 地獄に地上を見る望遠鏡があるのなら、私たちをどう思うかな。



第七章 “Totenkopf”



「アリス、ロンドン観光に行こうよ」

 その次の日に、レミリアは私にそう言いだした。

「おまえの行きたいところでいいからさ」

 私はことわったけれども、レミリアはあくまで強情だった。
 しかし観光と言われても、私は別に行くべきところもあまり知らない。あるいは異邦者のレミリアには、ロンドンが魅力的に映るのかもしれないけれども……地元民ほど自分の街は色あせて見えるものである。
 大英博物館はもちろん私がいやだった。レミリアに“あれ”を見られるわけにはいかない。

「ならバッキンガム宮殿に行こうよ。女王を血まつりにするためにさあ」
「恐ろしいことを考えるなあ……」

 小物の私には口が裂けても言えないだろう。
 そう言うわけで、ロンドンの数すくない美点である、ウエスト・エンド・シアターに、私はレミリアを誘った。
 夜になるとレミリアはフリルのついた赤いドレスを着ていた。それを買うポンドをどこで手にいれたのかは、聞かないことにする。
 コニードリーから今日の昼間、新しく二件の吸血殺人があったらしいと聞いたけれども、もちろんそれも追求しない。藪中の蛇は無視してしかるべきだろうから。
 ウエスト・エンド・シアターは、名のとおりウエスト・エンドの劇場地区だ。そこには沢山の劇場が立ちならぶ。かつて名だかきウィリアム・シェイクスピアの劇団も、ここで活躍したことがあると言う。
 そしてピクウィックの小説も、ときには劇として催されると。私はついに見のがして、ロンドンを去ることになってしまったけれども……。
 劇場地区につくとレミリアは目を輝かせながら、

「きらびやかね! 何を見よう?」

 劇場が白熱電灯の光で、さらに華々しく輝いて見える。文明の光もこう言う場所ならわるくない。
 見目うるわしい吸血鬼といるなら、なおさら。

「今日がハムレットがやっているわ。あれにしましょう、私はシェイクスピアの劇が好きで」
「普通すぎるね。まあ、はずさないしいいか」

 そのとき相談しあっている私たちのうしろから、

「おい。アリス、スカーレットさん」

 とひそひそと声をかけられる。
 私たちは振りかえった。

「トーテンコップ? こんなところでどうしたの」
「ふたりもピクウィックに頼まれてきたのか?」
「いや、観光」
「そうか……じつはおれは、日本って国と関わりのある貿易商に用があるんだよ。聞くところ日記をこまめにつけていて、いつも肌身はなさず持っていると。今日はハムレットの劇を見るらしいので、それを盗みにきたんだよ」

 とトーテンコップは小声で早口に言う。

「せっかく会ったんだから、協力してくれないか。どうもボディ・ガードが多くてね」
「レミリア……どうする?」
「いいよ、おもしろそうだし。どうせハムレットを見るはずだったんだ、ついでだね」

 とレミリアがふたつ返事で了承した。

「ところでおまえは、どうして人のように見えるんだ。酒場で会ったときのおまえはスカル・フェイスだったはずだけど?」
「奪った人皮をかぶっているのさ。それとスカーレットさん、スカル・フェイスなんて呼びかたは已めてくれ。ドイツへの愛を込めて、トーテンコップと、そう呼んでくれ」



 私たちが新約酒場で見ていたトーテンコップは、文字どおりの骸骨だった。
 どこの国でも古今東西、しかばねが墓から這いだして、襲いかかってくると言うのは、共通する空想らしい。そしてトーテンコップは、そんな共通の恐怖心から産まれたことを誇りにしていた。
 たとえ人種や文明の差異で争っても、恐怖心と呼ばれる根源的なるものは、すべての人間が同じ生きものであるとささやくのだ。
 ……劇場にはいると、もうハムレットがはじまっていた。
 銃眼胸壁の歩廊、やぐらのひとつにハムレット、ホレイショー、マーセラスが集まっている場面である。そのあと亡霊に扮した役者も現れる。

ハムレットさま、あれを!
神の加護を! 天使か悪魔か……天のそよかぜとともに吹きおくられて、この世を浮かれているものか……

 私たちは立見席から観客席を見おろしていた。
 トーテンコップが観客席の中心あたりに指を向けて、

「見えるか? あの茶色っぽい、高級そうな襟の高いコートと、トップ・ハットの御仁。あれが件の男だよ。横に奥方とボディ・ガードもいるな」
「どうするの?」 と私は聞く。
「劇が終わるまで待とうや。おふたりは劇が終わって貿易商が外に出たら、なんとかして気を引いてくれ」
「私はあやしいアジア人よ」
「でもスカーレットさんは白人だろ。差しずめ高貴な娘とその下僕だな」
「下僕!」

 とレミリアはすかさず喰いついてくる。目をきらきらとさせながら。
 私はにがい顔をする。奇しくもその“設定”はレミリアの望みどおりのものだ。そのうえ腹だたしいことに、それは彼女のドレスすがたも相まって、ぴったりと合致しているのだった。
 珍妙な清人をつれた、うるわしい娘。いかにも人目を引けそうだ。

「アリス、私のことはお嬢様と呼びたまえ。いや、別に他意はない……これもトーテンコップのためよ、でしょう?」
「馬鹿な子供」
「殺すぞ!」

 臑を蹴られた。
 痛かった。

「今は何もできないんだ。劇でも見ましょうや、おふたりさん」
「どこまでやるかな、今日は」
「ローゼングランツが出てくるまではやるだろうね。おれは二人の道化の場面が見たいんだが」
「ふたりとも詳しいのか」
「劇は酒の次、ロンドンで二番の娯楽でさ。そこに成金と貧乏人、人間と妖怪のちがいもありはしない。おれたちが争うのは劇場の外のみよ」

 トーテンコップの言う二人の道化は、鍬とつるはしを持った墓ほりのことだ。
 第五幕の第一場。
 そこにハムレットも現れる。彼は嘆く。

あの頭蓋骨にも舌があったのだ。昔はそれで歌いもしたろうに! ひどいやつだ、地面に叩きつけるとは! ……生きていたときは政治家だったかもしれないのに、今ではこんな驢馬のようなのろまにあしらわれている

 トーテンコップはむくろ骨の妖怪だ。だから彼が感情移入しているのはハムレットではんくて、おそらく頭蓋骨のほうだろう。
 およそ人皮をかぶってみても、トーテンコップは泣くことができない。しかし、もしも涙腺があるのなら……彼はその場面に涙のひとつも流したのだろうか?



「動きだした」

 とトーテンコップが劇の途中で言った。
 貿易商が席をたとうとしている。飽きてしまったのかもしれない。

「おれは先に劇場の外に行くよ。ふたりともそこで貿易商の気を引いていてくれ。うしろからスリとろう」

 トーテンコップは足早に去る。

「アリス。お嬢様よ、分かった?」
「あー……分かりましたよ、我が主」
「よろしい。そうだな、おまえは……美鈴と呼ぶわ」

 私たちも外に出て貿易商を待った。
 すぐに貿易商たちが出てきた。
 するとレミリアは、余所見をしているフリをしながら歩きだし……。

「きゃんっ」

 と貿易商の足にぶっつかって、地面にころんだ。さすがにボディ・ガードも子供は無警戒でいたらしい。
 私はレミリアに駆けよって、

「大丈夫ですか、お嬢様」

 と助けおこして、いかにも心配そうに言う。ひどい茶番につきあわされていると思った。
 貿易商はレミリアの(嘘の)不注意がわるいにも関わらず非礼を詫びた。
 この善人を騙していると思うと、心が痛まないわけでもなかった。
 それから不意に貿易商は、私がアジア人であると気がついたらしい。すこし妙な顔をした。
 レミリアはそれをのがさずに、

「お目が高いですわ、私の従者は優秀なのよ」

 と私をたたえる。聞いたこともないレミリアの猫なで声は、すこし気味がわるい。
 それから私の(嘘の)活躍をでっちあげて語りだす。それがかわいらしいからか、貿易商とその妻は、にこにことレミリアの(嘘の)従者自慢を聞いてくれた。
 ……さて、どうするのだろう。
 と私は思った。
 いかに貿易商とその妻の気を引いても、ボディ・ガードは一筋縄ではいかないだろう。レミリアを素どおりさせてしまったこともあって彼等はすこし、あたりを警戒ぎみでいた。
 レミリアはここから、どうするつもりでいるのだろう?

「そうだ、美鈴」

 私は呼びなれない名前に一瞬だけ返事に詰まりつつも、

「なんでしょう」
「これも何かの縁。せっかくだからこの御仁たちに、あなたの得意な武芸を見せてあげてよ」

 思わぬ白羽の矢が私の左胸に刺さった。
 たしかにそのシナリオは、従者自慢をしたいわがままな娘の頼みと言うたてまえで、なりたたないこともない。
 貿易商のほうも珍しがって、意外と乗り気でいるようだ。
 ……あとは私のほうが、腹をくくれば成立するだろう。

「レ……お嬢様、私は……」
「美鈴」

 レミリアは私に目くばせして、

「信じて」

 と言ってのけた。
 なんの根拠もないのに、自信ありげに。
 ……。
 別に英語が好きなわけではないけれど。

TRUST ME

 その声はどんなに美しい教会の鐘の音よりも、私の心に染みいってきた。
 “信じて”とは……わるくない言葉だと思う。
 私は構えた。ウエスト・ミンスターの広場でそうするように。
 じらすようにそうしていると、貿易商とその妻、ボディ・ガードだけでなく、周りの人間の視線も集まる。
 私は知っている。人間の目線だけが、妖怪に力を与えてくれる。私たちの気分をよくしてくれる。
 そして武芸を、踊りはじめた。それを見て、貿易商の口から感心の嘆息が漏れる。ボディ・ガードも一心に私を見つめている。しかし別に、彼等のために踊っているつもりはまったくない。
 私はただ、ひとりの吸血鬼に頼まれたから、渋々ながらもそうしているだけである。
 レミリアは、私の武芸をどう思うかな? この産まれもった、唯一の誇れる力。もし彼女が気にいらなければ、夢と思って、忘れてほしい。
 ……ゆっくりとトーテンコップが、貿易商のうしろに忍びよる。



「うまくいったな」

 劇場地区の路地で合流すると、トーテンコップは日記を見せびらかしながらそう言った。

「もう二度とやらない」
「そう言うなよ。スカーレットさんも、協力いたみいる」
「おやすいごよう、トーテンコップ」
「お嬢様、最後にがんばったのは私です」
「そんなことを言って、意外とたのしかったんじゃないの?」
「ではおふたりさん。おれは早くこれをピクウィックに届けなければね。それでは!」

 トーテンコップがこの場を去ろうとしたけれども、

「待て」

 とレミリアは引きとめる。
 それから、

「おまえ、けっこうおもしろいじゃないか。どう、パチュリーのように家に来たら?」
「……スカーレットさん、それはできない」
「どうして? ここにいたって、いずれ滅びゆく運命だろうに」
「おれは聖職者に追われてロンドンへ逃げてきた。それでじつのところ、もはやドイツよりもロンドンにいた時間のほうが長いのさ。
 バビロニア・シスターズなんかも同じようなもので、凶暴な奇形の怪物として長らくバスティーユの監獄の、地下のそのまた地下に封じられていたが、革命のときに命からがら、逃げおおせてきたと聞く。
 そんなおれたちを、この迷路の街はかくまってくれる。
 アリスはそうじゃないらしいが……おれはここが好きなんだ。ここは第二の故郷なんだよ。離れることなんて、できはしない。もう二度も、故郷を失うことはできない」

 トーテンコップは人皮の裏から、頭蓋を揺らして笑っていた。
 レミリアはそれを見て、

「……そっか!」

 そうほほえみかえすのだった。
 トーテンコップが去るとレミリアは呟く。

「悲しい覚悟だ。どこだろうと生きられるなら儲けだろうに」
「お嬢様。誰にでもこだわりがある。あなたにとって、妹がそうであるように」
「ふん……ところでこれからは、私を“お嬢様”と呼んでくれるのか……美鈴?」
「あ……」

 それにしてもレミリアが来てからは、たのしい日々が続いていた。彼女といると退屈しない。
 ……だから忘れてしまっていたのだ。
 フランスと清が、一触即発だったことなんて。
 人間と人間が争うとき、人間は私たちへの関心を失い、それは妖怪の消失を引きおこす。



第八章 “Babylonia Sisters”



「なんで私が買いだしになんかに、つきあわなければならないの?」

 ある日の夕方、レミリアはランベスの市場でぶつくさと文句を垂れた。

「働かざる者、喰うべからずです。ただでさえ私たちはハーモニウスの教会に泊まっているのだから」
「吸血鬼なんだけど」
「関係ない」

 レミリアが不意に果物うりを見て、

「ねえ、リンゴが食べたいわ」

 と私にねだってきた。
 おつりが余っていたので、私はリンゴを買ってあげた。

「妖怪がリンゴを食べるとどうなるのかな? 知恵がつくのかしら」

 とレミリアは手のひらでリンゴをもてあそぶ。

「楽園を追放されることはたしかね」
「それは困る、私は楽園を探しているのだから」

 夕日がまぶしい。市場を照らす、オレンジ色のほのぐらい光。そのうち月が、はっきりと見えるようになるだろう。

「そろそろ潮時ね」

 レミリアは呟くように言う。独りごとなのか、それは私に言っているのか。

「新約酒場で情報も得た。パチュリーとも知りあえた。これ以上の収穫は望めない」
「……そうですか」

 レミリアはリンゴをかじろうとした。
 禁断の果実を食べた人間は、楽園を追放されると言う。もし妖怪が食べてしまったら……私たちは、どこへ向かってゆくのだろう。
 そのときだ。まだレミリアの歯形がリンゴへつくまえに、市場へ新聞うりの少年が駆けこんできたのは。
 少年は息を整えると市場へ響きわたるように、

号外、々々! フランス海軍が昨日、馬江の海岸で砲撃。戦いの火蓋が切られる!

 思わずそれまで買った物を取りおとした。
 夏だというのに悪寒を感じた。レミリアはくまで少年にむらがりだす蟻のような人々を冷ややかに眺めていた。

「アリス。実際のところロンドンの妖怪はどう言う状況なの」
「数年前のアヘン戦争で感心がまた薄れて、数を減らした。今回は外国の戦争だけど、ヨーロッパだし……弱っているから……」
「とにかく新約酒場に行こう」

 荷物もリンゴも捨てて、私たちは走った。暗いオレンジに染まるロンドンを。
 手つかずのリンゴが地面にころがる。
 ベーカー街についたころには、もう日が完全に暮れかけていた。酒場へはいって、隠し通路の階段をどたどたと降りた。
 ドアを開けると一番に、

「誰かいないか!」
「アリス。スカーレットさん」
「トーテンコップ、無事でよかった!」

 私はきょろきょろとあたりを見る。

「ピクウィックはどうしたの?」
「それを言おうと思っていた。アリス……落ちついて聞いてくれよ」

 ……。

「ピクウィックは消えた、もういない」



 耳をうたがった。あるいはトーテンコップの思いちがいだと思った。
 あの剽軽な老霊がそう簡単に消えるはずがない。そう信じたかった。

「フランスと清の戦争は耳にした。ここは新聞社が近いから……ピクウィックはここのリーダーだが、死んで十年ほどの“産まれたて”だ。戦争によるおれたちへの、感心の薄れには耐えられなかった。残念だ……あの頭のよい男がいなければ、ここもまとまらないだろうよ。所詮は烏合の衆だから」

 私は崩れおちそうになる。ロンドンの妖怪の最後の砦が、一瞬で崩壊していまったのだ。

開戦

 その鶴の一声で。
 認められない。いかに人間にあだなすとしても、私たちの生命は、こうも易々と葬りさられてよいのだろうか?
 しかし今、流れ作業のように私たちが消えうせている以上、それは神さまの決めたこと。その怖ろしさこそは神さまだった。

「スカーレットさん」
「どうした?」
「ピクウィックから、あなたへの手紙を託された。消えるまえに“さよなら”と言っていた」

 その“さよなら”はFarewellだった。Good-byeでも、ましてやSo longでもなかった。それで私も失意の中で、ようやくピクウィックが消えたのだと認めた。
 レミリアが封筒を受けとって、中身の手紙を取りだそうとする。
 そのときだ。
 勢いよくドアが開いて、

「ジュリエット、ジュスティーヌ?」
「アリス、姉さまを……助けて!」

 血まみれのシスターズがはいってきたのは。
 たちまち崩れかけるシスターズを、私たちは支えた。

「ひどい血だ、何があったの!」
「撃たれた、警官に……アリス、姉さまが声を発しないの!」

 私に泣きすがるジュスティーヌとちがい、姉のジュリエットは頭をぐったりと垂れていた。

「おねがいよ、助けてよ。私たちはふたりでひとりなのよ。姉さまが死んだら、とても生きられない!」
「トーテンコップ、あるいは治療できないのか」
「無茶を言うな! 医学部を出てるように見えるってのか? おまえこそ東洋の漢方とかでどうにかできないのか!」
「医学部……それだ!」

 私は案を思いつく。
 そしてシスターズを担ぎあげて、

「人間の医者に見せてくる」
「正気じゃないぞ。誰がシャム双生児の怪物を診てくれると言うんだ!」
「知りあいなの、そいつは……腕はわるいけど、信用できる。絶対にふたりを治療してくれる、少なくとも努力は」



 私は夜闇にまぎれながら、シスターズをかかえて走った。
 レミリアがうしろからついてきてくれる。それだけでも私は安心できた。
 それにしても、いやに警官の多い日だった。まさか怪物をかかえているところを、見られるわけにはいかない。私はいそぎながらも慎重に、路地を選んで走りつづけた。
 私は息も絶え々えに、ベーカーの東側のコニードリーの診療所に辿りつくと、どんどんと何度もドアを叩いた。

「コニードリー、急患だ!」

 すこし経って、ドアの裏側から声がした。

「誰だ?」
「アリスよ! 怪我をしているやつがいるの、開けてちょうだい!」
「それは大変だ、すぐに開ける」

 ドアがひらいた。
 そのときのコニードリーのおどろきようと言ったら。まるで眼球が飛びだしそうなほどに目をむきだしていた。
 それもそのはず、まさか私が双頭の怪物をかかえているなんて、夢にも思わなかっただろうから。

「ア、ア、ア、アリス! ……そいつはなんだ!」

 私は怯えてドアを閉められるまえに、押しいり強盗のように診療所へはいりこむ。

「銃で撃たれてる、治療して」
「その怪物はなんだと聞いているんだ!」
「人間だろうと怪物だろうとなんでもいいでしょうが! あんたは怪物だからって、銃で撃たれている女を見すてるのか、あんたはそんなに臆病なのか!」
「しかし……私は弾丸の摘出手術なんてしたことがない。ただのしがない診療医なんだぞ」
「誰だって最初はしたことがないんだから、今からおぼえればいいでしょうが!」
「無茶を……」

 私たちの言いあらそいが、平行線を辿るまえにレミリアは言った。

「40ポンドだ!」

 そう叫んで、レミリアは札束を診療所の机に叩きつける。
 私もコニードリーもぎょっとする。

「成功しようと失敗しようと、最大限の努力をするならくれてやる。しかし、もしこいつを見すててみろ。私はおまえをやつざきにしてビッグ・ベンの頂上に磔にしてやるからな、貧乏白人!」

 コニードリーはふるえていた。こんな子供にどなられて怯えている自分が、理解できないと言ったふうでもあった。彼は呼吸を整えると、やがて……。

「やればいいんだろう、やれば!」

 私からシスターズを引ったくる。

「アリス、君と知りあったことを後悔するぞ」
「コニードリー」
「なんだよ!」
「ありがとう」
「……ふん」

 とうなると、コニードリーは奥の部屋に引っこんでいった。
 心労のためだろうか。私は疲労を感じて近くのソファにぐったりと座りこんだ。服がシスターズの血でべとべとになっていた。

「みんなが消えてしまう……耐えられない」
「信じてやりなよ、助かることを」

 それは神さまだけが知っている。
 レミリアは私に座ると、診療所の棚に置いてあった本を呑気に読みはじめた。その肝の据わりかたがうらやましかった。
 ……。
 何時間か経っただろうか。
 コニードリーが奥の部屋から出てくる。彼は溜息を吐くと……。

「一応……命は取りとめた……と思う。息はしている、信じがたい生命力だ。胸と腹、合わせて四発の弾丸だぞ」

 と呆れるように言う。そして壁にもたれかかると、ずるずるとそのまま床に座りこんでしまった。

「疲れた……」
「コニードリー、助かったわ。本当は腕がいいんじゃないの」
「奇跡だよ。まるで神が乗りうつったように、腕が動いた……でも、もう長くはないだろう。私はただ最後に話せる時間まで長らえさせただけだ。いかに怪物でも、遺言くらいは聞いてやりたまえ」
「充分よ」
「……医者、已めようかな」
「おい、おまえ」

 とレミリアが本をめくりながら聞く。彼女はこんなときでも、あくまで剛胆らしい。

「この本はおもしろいわ。誰が書いたの」
「私だよ。本当は小説家になりたくて……うまくいっていないけど」
「主役の名前が、田舎くさいのがよくないんじゃないの」
「そう思うか? じつは私もそう考えていた。どんな名前がいいだろう」
「そうね……シャーロック・ホームズとかどう?」

 それを聞くとコニードリーは感心するように、

「それ、いいね。貰ってく」



 私はシスターズをかかえて新約酒場に帰った。
 さすがに深夜でもう警官は見かけなかった。
 カウンターにシスターズを寝かせたとき、ふたりの意識はまだ戻っていなかった。
 めいめい離れたところに座って、私たちは黙りこむ。時計の音がいやにうるさい。

「これからどうしよう」

 別に誰かの返事を求めていたわけではなかったけれども、トーテンコップが諭すように言葉をつなげた。

「どうしようも何も、これまでと同じ。ただ日々をやりすごすのさ。おれはもう充分に生きた……満足さ。どうせドイツで、果てるはずの運命だったんだ。それがすこし、延命されていただけのこと」

 そのときうなり声がした。ジュリエットとジュスティーヌが目を覚ましたのだ。
 私とレミリアはカウンターに近づいた。トーテンコップは動かずに黙りこくっていた。薄情だと、そのときは思った。
 ふたりの顔はひどく青ざめて、死体のように血のけがなかった。私はふたりでひとつだけの、その左手をにぎってあげた。

「ジュリエット、ジュスティーヌ。聞こえる?」
「アリス?」 …… 「暗いわ、とても暗いわ。アリスさん、明かりをつけてくださらない」
「ふたりとも、目が……」

 見えないの? とは言えなかった。口をつぐんだ。
 それから私は、

「ごめんなさい、今は停電しているの。待っていて、すぐに見えるようになるから。ジュリエット、何があったの? ふたりはどうして撃たれたの」
「アリス、アリス」

 とジュリエットは憎々しげに言う。

「許せなかったの。もう……人間たちの争いの余波で、私たちが消えるのは見たくない。ほかの国ならまだいも、今度は私の故郷のフランスよ……耐えられなかった。
 私は故郷の革命で、沢山の同胞が消えてゆくのを見てしまったから。まだ痛みをおぼえているから、バスティーユの監獄に封じこめられていたその苦痛を。
 それを思うと、私の中に憎悪が満ち々ちたわ……フランスと清の戦争を知って、体が勝手に動いていた。夕闇の中で、人間を殺しまわった。それで警官に撃たれてしまった」

 どおりで警官が多かったはずだ。おそらく明日にでも新聞の一面を飾るにちがいない。

「馬鹿な姉さま。人間を殺してもなんにもならないのに。それどころか神さまは、悪事をはたらく者に相応の報いを受けさせるのよ。そんなことは、知っていたのに」
「アリス……あの吸血鬼さまは、いらっしゃいますか」
「ここにいる」

 とレミリアが語りかける。

「吸血鬼さま。短いあいだでしたけれど、最後にあなたのような高貴な怪物と会えたのは、私たちにとって、ひとつの体に産まれたことの次に幸運ですわ。
 もし許されるのなら、私たちをその心の中におぼえて。そしてあなたがのぞんでいる、世界のどこかの妖怪の国に連れていってくださいまし。
 たとえこの身が滅ぶとも、誰かの心にありさえすれば、私たちは永久不滅。
 どうか最後に……私たちに福音を……さずけて」

 ジュリエットはレミリアに、涙を流して懇願した。

「ジュリエット、レミリアはキリスト教会が……」

 しかしレミリアはふたりの右手をがっしりとつかんで、

「アーメン。おまえたちの殺戮は、私の心の中で永遠に祀られる。だから安心して逝きなさい」

 それを聞くと、ふたりはほほえんで息を引きとった。たとえようもなく幸福そうに。
 ……私は拳をにぎりしめて、

「トーテンコップ、ふたりが! ……」

 と振りかえる。
 しかし、

「トーテンコップ……どこに行ったの?」

 いなかったのだ。トーテンコップが。
 その代わりに、床に落ちている衣服を見つける。トーテンコップの衣服だけを。
 まるで中身がなくなったように、それは床に捨ておかれているのだった。
 それを見て、レミリアが冷酷に言った。

「アリス、ついに……ふたりだけだな」



第九章 “Meirin”



「あしたロンドンを出よう」

 呆然とする私にレミリアは言った。

「ここにはもういられない。新約酒場……残念よ。烏合の衆だとしても、これほどうまく妖怪がまとまっている場所は見たことがなかったのに」
「そうですか……さよなら」
「何?」

 レミリアが私の“さよなら”に目を丸くした。
 それはピクウィックと同じ、二度と会わないFarewellだ。

「おまえもくるのよ。さあ、教会に戻ろう。おまえが消えてしまわないうちに。旅支度をする、ハーモニウスに別れの挨拶をしておきなさい」
「レミリア、私は行かない」
「まだそんなことを言うのか! おまえは若いんだ。トーテンコップはともかく、ロンドンに執着なんてないだろうに! だいたい私は意見なんて聞いてないってまえに言ったでしょう!
 私は強く、おまえは弱い。
 だからおまえは私に従うんだ!」
「あなたは!」

 私はレミリアを遮ると、

「あなたは……歴史があるからいいよな。だからそんなふうに、なんでも成せると言う顔をする。吸血鬼の歴史と、それに裏うちされた強さ」
「何が言いたいのよ!」
「私の過去を聞いたら、連れていこうなんて思わなくなる。なんの価値もない妖怪だと思ってね」
「おまえを決めるのはおまえじゃない、おまえのことは私が決める!」
「本当にしつこいな……」

 しかたがない。と私が思った。
 私はレミリアを見すえると、

「なら大英博物館に行きましょう」
「こんなときに観光か?」
「観光じゃない、そこに私の歴史がある。
 そこで改めて決めてください。私の歴史を見て……それでも本当に連れてゆくのか……そのときに」



 大英博物館はグレート・ラッセルの通りにある。
 おそらく世界一の……そこにはイングランドが世界中で略奪してきた美術品と、それにイングランド自身のそれも展示されている。
 私が最後にそこを“出て”もう何十年か経っていた。目的の物がそこに残っている保証はなかった。
 ベーカー街を東に抜けて、私たちは大英博物館を眺められる位置まで来た。当然ながら外には警備員がうろついていた。

「さて、どうやってはいろうか?」
「なんだ、おまえ。抜け道を知っているとかじゃないの?」
「別に博物館の館長でもあるまいし」
「呆れた……行きあたりばったりじゃない」

 とレミリアは呆れて、

「まあ、とにかくはいればいいんでしょう」

 それから私の手を取った。
 すると私の視界が一瞬にして黒く染まった。おぼえるのは水の中を泳いでいるような浮遊感。

「ついた」

 とレミリアが言うころには、もう私たちは博物館の中にいた。

「どうやったの?」
「影の中を通っただけ。それは闇の通路なのよ」
「そんなこともできるのか……」

 私は吸血鬼の御業に感心するばかりだった。
 博物館の中は暗かったけれども、私たちの目にはよく見える。どこかで警備員の足音が聞こえた。いかにランプを持っていても、私たちは簡単に捉えられまい。
 レミリアが館内の異邦の壷や絵画をきょろきょろと眺める。

「ひとつ貰っていこうかな」
「荷物になるわ」
「どうせ奪ってきた物だろ。奪われたって文句は言えない。これだからエビやろうはきらいなのよ」
「……行きましょう、案内しますよ」

 私たちは館内の東側へ向かう。ときおり警備員の目をのがれるために、物陰に隠れながら。
 私は“あれ”が、残っていないことを願う。
 しかし目的の場所についたとき、それはまだ館内の隅に飾られていたのだ。イングランドの美術品が、展示されている場所に。

「これは……」

 レミリアはおどろいたように目を見はる。
 それはそうだろう。
 そこにはひとつの絵画があった。油絵で描かれた人物画だ。
 その人物は清装束を着ている、赤い髪の女だった。それは私に“うりふたつ”だった。
 タイトルはアリス・シャンハイ。
 私はここで産まれたのだ。



 見たこともない土地を夢にえがいて、人々は思う。それが本当かも分からないのに。
 ……ある偏見。それもイングランド人の偏見。
 清の人々は、竜のような赤い髪をしているかもしれない。
 清の人々は、誰でも奇妙な武術を使いこなしているのかもしれない。
 清の人々は、いつでも清装束を誇らしげに着ているのかもしれない。
 たとえ戦争をしても、実際に清人を見たのはごくわずかだ。
 清人は別に奇抜な髪色をしていないし、誰でも奇妙な武術を使いこなすわけでもないし、誰もが清装束を着ているわけじゃない。
 しかしロンドンの一般市民にとっては、そんなことは関係がないのだ。イングランド人が油絵の具でえがいたその清人は……とても美しかったから。
 およそ清の歴史を持たない、イングランドで産まれた人間まがいの……妖怪。
 それが私の正体であり、その中身のなさこそが、自分の歴史だったのだ。

「私はどこかに帰属したかった」

 レミリアは黙って絵画を眺める。私は恥ずかしさで、ぽろぽろと涙を流した。歴史ある彼女に比べて、自分のその背景は、あまりに卑称すぎたから。

「私はここで、イングランド人の空想から産まれおちた。でも私は別に清の妖怪ではなかったし、ましてやロンドンの妖怪とも言いきれない。
 そうでしょう? 姿かたちは清人でも、私はロンドンで産まれてきた。どうして自分を誇れるでしょう」
「……」
「私には誇れるような歴史がないんです。
 それが私をくるしめる。だからキリスト教にしがみついて、新約酒場に帰属していた。
 でもそれこそは、私の中途半端の証し……そんなことをしたって、自分に歴史がないと言う、事実は変わらないのにさ」
「……」

 レミリアは黙りこくっていた。
 失望された。と私は信じた。
 しかし、それでよかったのだ。私のような足手まといが、レミリアについていくわけにはいかない。

「レミリア、ありがとう。
 あなたに誘われたことは、私の生涯で最高の幸福だった。神さまに救われるよりも。でも私は、何も持たざる者だから……あなたと一緒に行くことはできない、あなたの足を引っぱてしまう。
 だから……」
「これか?」

 レミリアは絵画に指を向けて、

「これがおまえをくるしめるのか?」
「何を……」
「これがおまえをくるしめるなら」

 爪をむきだす。

「引きさいてやる、私の手で」

 そして私に笑いかけて、勢いよく絵画に飛びかかった。



 まるで紙ふぶきのように。
 その絵画は何度も引きさかれて、ばらばらになると宙を舞う。
 私は呆然とそれを見ていた。
 そして胸の奥で、私をロンドンに縛りつけていた。鎖のように重い枷が、こじあけられる音を聞いた。
 レミリアは私にまたほほえむ。闇の中で、赤い瞳を輝かせながら。私はそれが、これまで本で見たどんな偉人よりも偉大に見えていた。

「歴史が欲しいなら、与えてやるよ。
 まさに今、これまでのおまえはここで死んだ。そしてこれからは、スカーレットの歴史の一部になる。
 おまえに名前を与えてやる、スカーレットの名前をな。今日からおまえはアリス・シャンハイを捨てろ。おまえはこれから、誇りたかく紅美鈴と名のりなさい。
 そして……」

 ……。
 そして今日からは、私がおまえの神さまだ。
 ついてきなさい。私に従って、どこまでも。
 とレミリアは言った。
 この瞬間、レミリアは私の主になった。



第十章 “The Parting Glass”



「行きますか、アリス」
「ハーモニウス、私はアリスじゃなくて美鈴よ」
「そうでした。ムヱ……ハハハハ、うまく発音できません」

 とハーモニウスは困ったような顔をする。私はそれを見てくすくすと笑った。

「あなたを拾ったときを思いだします。あのときから、あなたはすこしも変わっていない」
「そう言うハーモニウスはすこし老けたかしら」
「なんの……まだまだ」
「美鈴、列車の時間に遅れてしまうわ!」

 レミリアの声が、教会の外から聞こえてくる。

「さよなら、ハーモニウス……また会えるだろうか」
「心配はいりません。神はわたしたちのえにしを守ってくれる。困っているときは、いつでもわたしのところに来なさい。いつでも歓迎しますから……さよなら」

 しかしハーモニウスは“Farewell”と言った。これが今生の別れだと知っているのだろう。それは私のほうでも同じ。
 “さよなら”と言ったとき、私も同じように言ったのだ。
 外に出ると私はレミリアに、

「レミリアさま、ハーモニウスに挨拶はされないのですか?」
「誰が聖職者なんかにするものか。私は吸血鬼だからな……もう二度と、顔なんて見たくない」

 私たちがランベスから北、キングズ・クロス駅に向かうと、そこでコニードリーが待っていた。

「やあ、アリス」
「コニードリー、来てくれたの」
「当然だ。君がロンドンを離れると聞いておどろいた」
「あんたにも世話になったわ」
「そうだ、アリス……あの患者はどうなった」

 私は曖昧に笑った。
 それでコニードリーも察したのか、

「そうか」

 と言って、それ以上の追求もしてこなかった。

「じつはわたしも、ロンドンを離れようと。診療所を一緒にやっている友達と喧嘩してね。
 まあ、どうせ已めるつもりだったんだ。丁度40ポンドもはいったのだし、この機会に執筆に専念しようと思うんだ。
 たとえ今生の別れとしても、いずれ世界のどこかで私の本を読んでくれ。いずれコナン・ドイルの名前が、世界にとどろいたその日にな」

 私たちは列車に乗りこんだ。
 やがて駅にベルが鳴りひびき、列車は煙を噴きあげて動きはじめる。
 車内の席でくつろぎながらレミリアは、

「ロンドンを離れるのは寂しいか?」
「まさか……私はロンドンがきらいです。もう二度と、来たいなんて思いませんとも」

 そう言うわりに私はいつまでも、窓から小さくなってゆく駅を見ていた。見えなくなると、今度はビッグ・ベンを見た。あれだけはいつまでも小さくならない。
 迷路の街の、ただひとつの道しるべ。

「ときに」

 と私はレミリアに聞いて、

「どうしてまた、日本に行くと言いだしたんです?」
「うん? ……そう言えば、おまえはまだピクウィックの手紙を見てなかったっけ」

 レミリアはピクウィックが消えるまえに書いた手紙を、私に差しだしてきた。

“親愛なるレミリア・スカーレットくん

フランスと清の戦争がもうすぐそこまで来ていることを、君も知っているだろう。おそらく私はそれまでだ
そう言うわけで、もし自分の口から伝えられなかったときのために、トーテンコップくんに手紙を渡しておくことにした
先日のウエスト・エンド・シアターの一件、協力感謝する
その礼と言っては失礼だが、件の貿易商の日記におもしろいことが書いてあった
貿易商の部下が日本にいるとき、奇妙な土地にはいりこんだと言うのだよ。部下はその土地の名前をGenso-kyoと呼んでいたらしい
そこは妖怪の国だったと言う
それが本当かは分からないが、もし君が日本に行ったことがないのなら、行ってみる価値があるかもしれない
最後に吸血鬼と会えて光栄だった。私は吸血鬼のファンだから

ピクウィックあらためチャールズ・ディケンズ”

「どう思う?」
「日本ですか……たしかにわるくないかもしれません。あそこも文明はひらかれているでしょうが島国です。山の奥地なら、あるいはそのような場所もあるかもしれません」
「残っているとも」

 とレミリアは確信を込めて言った。

「分かったんだ。私がおまえに感じていた運命。それはすべて、この手紙につながっていたんだよ」
「運命、ですか?」
「運命さ、それが私たちを引きあわせる。まだ見たこともない、東の国の幻想の郷へ」

 ロンドンを、離れるために、夏の列車が走る。
 東の港へ行くために。
 ここを去る、私の気も知らないで。



……。
美鈴。ちょっと、美鈴
お嬢様、どうしました?
寝ていたの?
そんなことは……すこし考えごとを
そんなことで門番が務まると思っているの
申しわけない……ところでどうして私のところに?
なんだ。今日がなんの日か、おまえは忘れてしまったのか
まさか! 忘れたくても忘れられない。今日は私とお嬢様がロンドンで会った日でしょう。
そうよ……
去年はこなかったじゃありませんか
まあ、そうだけど。急に懐かしくなってね
へえ……じつは私も、同じことを考えていました
本当?
はい……ピクウィック、トーテンコップ、バビロニア・シスターズ……みんな、消えてしまいましたね
だからこそ今がある
私なんかを連れてきて、本当によかったんですか?
なんだ、まだそんなことを言っているの

「なんであろうと、事実は変わらない。おまえは私に会い、ピクウィックに引きあわせた。
 そして私はパチュリーに会い、それから貿易商の日記を盗む手だすけをして、それが幻想郷につながった……運命よ。
 その運命を誇ればいい。おまえが誇らなければ、誰が消えていったロンドンの妖怪を弔うのだ?」

そんなふうには、考えたこともありませんでした
ねえ……アリス。私と一緒に来て、後悔していない?
アリスですか、懐かしいですね……

 ……。

「ねえ、レミリア。私は……」

 ……。

すべての金は、使いはたしてもはやなく
それでも友は、別れの時を惜しんでくれる
若かりしひのあやまちを、もう思いだすことなどない
別れの酒を注ぎたまい
おやすみなさい、みんなによろしく




明治十七年のアリス・シャンハイ(Meirin Meets Remilia) 終わり
コニードリーがこのころ じつはロンドンにいなかったのはナイショです
ドクター・ヴィオラ
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コメント



0.簡易評価なし
1.100奇声を発する程度の能力削除
雰囲気も良くてとても面白かったです
2.100サク_ウマ削除
美鈴の正体、どろりとしたロンドンの空気感、現実の人物と架空の人妖の交差点。
素敵だと思います。レミリアの魅力も良く出ていて素晴らしいですね。良かったです。
3.100終身削除
活気の中にもお洒落な娯楽や雰囲気のあるロンドンの光の裏で、汚水や排気と一緒くたに人々の視界から追いやられていく怪物たちの悲しみをすぐ近くで見ているような気分になりました
ロンドンとのしがらみを大したことじゃないと言うふうに軽くぶった切るお嬢様の器がデカすぎてもう最高でした
4.100名前が無い程度の能力削除
舞台に漂う雰囲気が素敵でした。美鈴が実はロンドン出身だったというのは面白い過去だなと。レミリアの豪胆さもさることながら、ほかのキャラクターたちも生き生きと矜持や心情を語っていて良かったです。
5.100名前が無い程度の能力削除
現代入りもいいけど歴史上特に近代で東方キャラが暗躍してるとわくわくするよね
ロンドン橋落ちろ
6.100南条削除
とても面白かったです
舞台といいキャラといい映像が目に浮かぶようでした
歴史のはざまで翻弄される怪異たちがとても素晴らしかったです
仲間たちが次々消えていく場面での緊張感と話が進んでいく躍動感は圧巻でした
7.100やまじゅん削除
素晴らしい作品でした。
東方キャラが当然のように現実世界(過去だけど)に紛れていて、それでいて違和感なくヴィオラさんが生み出す世界観に没入できました。
ロンドンの陰鬱とした雰囲気、いいですね。

読みやすく、演劇を観ている様な登場人物たちが生き生きと活動しているのがありありと感じられました。
美鈴の妖怪としての解釈には感心させられました。

読み応えのある面白い作品でした、ありがとうございました。