Coolier - 新生・東方創想話

元人間・雲居一輪

2020/01/31 00:19:32
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 この拳で誰かを最初にぶち殺したのは、十と三の頃だった。今はもう顔も覚えていない糞野郎だった。

 後ろから思い切り顔面を蹴り飛ばし、もんどり倒れたところで土手っ腹を何度も踏みつけた。大体の奴はこれで戦う気を無くす。何度も鼻面に握り拳を落とす。何度もだ。感情の炎のままに殴り倒して鼾を掻いたところに藁を被せて、なけなしの油を撒いて火をつけた。

 真っ赤というよりはどす黒く吹き上がる炎が、いやに綺麗に見えた。歯に当たって血だらけになっていた私の拳は中々に開かなくて、そんな真っ赤な手を優しく包みながら、母は泣いていた。


 何かを、言っていた気がする。


 右の視界が無い。左の視界が暗い。うなじにかかる圧迫感で上を向いているということを認識した。次に理解したのは揺れと脱力感。首の『すわり』は悪いし、膝も笑っている。

 尻もちをつきそうになるのをやっとこさ堪えて視線を前に戻す。そこでようやく、きちんと働いているか妖しい脳みそが、全力で私の心に命令する。

 杯を捨てた鬼。生傷のできた顔で、にやりと笑っている。揺れが少なくなる代わりにやってきたのは吐き気と激痛。そして胸の奥から湧き上がるのは、ただただ怒りだった。


「なに笑ってやがんだてめぇっ!!」


 あの時と同じように、私は拳を握りしめた。







「一輪」


 そう私を呼び止めた姐さんの顔。綺麗だなあと思いつつも、いつも見せるような朗らかな顔ではなくて、随分と柳眉が下がっていた。


「どこへ行くのですか?」

「……少し、散歩にでも」


 間違ってはいない、だが事実でもない。知っている、彼女が迷っていることを。姐さんは優しい、だから私はその優しさに付け込んで、彼女が追及できないように言葉を選ぶのだ。

 何かを言おうとしているのはわかったが、言葉が固まる前に踵を返す。申し訳なさを抱えたまま見上げた空が嫌に灰色がかっていて、苛つきながら里へと足を向けた。

 まだ、朝日が顔を覗かせてからそれほど間もたっていない。朝の修行やら食事やらがあった気もするが、どうでもよかった。

 別に、何かがあったわけではない。何か心に波が立つような出来事があった訳ではないのだ。船幽霊はこんな寒い日だというのに腹を出して寝ていたし、マミゾウはとっくに起きて煙管をくゆらせていた。ただ、たとえ何がなくても波が立つことはあるということで、今の私がそれだった。

 思考に耽りたくて、雲山には申し訳ないが何も言わずに外に出てきていた。まあ、短くない付き合いだから、こういう時はなんとなく察してくれる。それが有難くもあり、気を遣わせている自分にも、それをしてしまう相手にも苛つくのだ。だから、こういう時は距離を置くのが一番だった。

 お気に入りの団子屋でみたらしを買って川へ向かう。団子屋は私が一番乗りだったらしく、店をやっている老夫婦は私の顔を見ると元気のよい笑顔を作ってくれた。跡取りがいないとぼやく爺さんを激励しながら川へ向かう。そこにある土手か岩に腰掛けながらただ団子を食べるのが、この郷に来てからの私が見つけた、睡眠以外で虚無を感じる方法だった。

 吐く息が白く、空は相変わらず灰色のままで、きっと遠くないうちに雪が降るのだろうことは容易に想像が働く。雪見団子も乙かもしれないし、降るかもしれないと考えつつも降らないかもしれない。折角一人でいるのだ。団子ではなく、寺では目があるから飲みづらい般若湯でもよかったかなどと考えていると、やにわに土手の下が騒がしいことに気が付く。

 近づく。何人かの餓鬼が倒れ伏していて、これまた一人の餓鬼が肩で息をしながら一人立っていた。倒れているのは五人。背格好からして歳も近い。中々の暴れっぷりだ。だが、そんなことはどうでもよいのだ。私は川を眺めながら団子を食べたいのだ。その視界にうう、ううと唸る餓鬼どもが視界に入るのでは、折角落ち着いていた苛つきが再燃するだろうことは固くない。

 仕方がなかったので、唸っている奴らを担いで土手の上に運んだ。道端に置いておけば誰かが気付くか、勝手に家に帰るだろう。担いでいる途中でやたらと五月蠅かった声を無視していたが、最後の一人を運び終えたところで声の元凶へと近づく。肩でしていた息はすっかりと落ち着き、だが目の前にいる糞餓鬼の目は、まだ鋭く震えていた。

 どうしたの、と、優しく尋ねた。私も姐さんの教えを受けてそれなりの時間が経っている。今現在私の心は凪や止水からは程遠かったが、それでも事情を聴くぐらいはできるはずだ。


無視してんじゃねえ


 その一言で私の方針は決まった。心の中の前言を撤回する。むかつく糞餓鬼が苛つく言葉を吐いたのだ。それだけで充分だろう。腕を組み、顔を傾ける。久しぶりの感覚に少しだけ頭が痺れるのを感じた。本来ならば私の予定をこいつらが邪魔しているのだ。二の句を告げる前にぶち転がしてもよいのだが、それでは流石に人生と妖生を生きてきた先輩として威厳に欠ける。おい坊主、と我ながら可愛らしく言葉を出した後に心地よく顔を歪める。


「女は殴れないのかい?」


 その言葉が決め手になったのだろう。何かを言う前にすぐに行動に移したことは評価してもよいが、だからといって私を苛つかせたことに対する評価が覆るはずもない。思い切りのよい振りかぶり。がら空きになった頬に、死なない程度に拳を振りぬいた。

 そういえば、なんで苛ついていたんだっけか。そうだ、しょうもないことで。結局のところ、やっぱり私の根っこは人間のままのようだ。







 名前もない寒村が、私の生まれ故郷だった。いや、名前はあったのかもしれない。ただ、それを思い出すこともできないし、当時の私は字を読むことができなかった。

 上に兄が二人、下に妹が一人いたことを覚えている。母は器量がよかった。逆に父親は、糞のような男だった。何故あんな糞と母がくっついたのか。きっと私が墓に入るまでこの謎は解けないだろう。良くも悪くも私はこの二人から半分ずつを受け継いだ。母からは外見を、そして父親からは内面をだ。

 子供の頃の記憶は冬のほうが多かった。風がない地方だっということもあったのだろうが、深々と降る雪を見て、子どもながらに綺麗だと感じていた。当時のことを考えると、あれは死に惹かれていたのかもしれない。

 母親は生まれつき体が弱く、そして父親は酒と暴力だけは一丁前の屑だった。年の離れた妹を兄たちと交互に背負いながら畑仕事に精を出した。私たちが飢えで死ぬことなくあの頃を生きることができたのは、間違いなく兄達のおかげだった。

 村に、随分と麗しい少女がいた。私より幾つか歳が上であり、私はそんな彼女をお姉ちゃんと慕っていた。自分のように暴力的ではなく、兄達や他の住人たちとも朗らかに過ごす彼女を見て、私は胸が満たされていた。幼いながらに、きっと私は彼女や兄達を守るために生まれてきたのだと、頭が悪かったせいで上手く言葉にすることはできなかったが、そんなことを感じていた。


 ずれが生じたのは、私の歳が十を超えて数年経ったころだった。長兄が顔を腫らすことが増えた。よく、父親と言い争うようになった。

 
 父親は、子供である私から見てもどうしようもない奴ではあった。ただ、諦観の念が強かったのは私がまだ幼い子供で、私の世界はあの村だけだったということが大きかったのだろう。腕っぷしだけは強かったのが質が悪く、何か不満を感じるたびに私たち兄妹は激しく打ち据えられ、注意をしてくれていた大人たちに父親はさらに拳を奮い、そうして村人たちは関わらないようになり、自然と私たち家族も周囲から浮いていった。

 それでもよかったのだ。少なくとも当時の私はそう思っていた。例えどれだけ糞のような父親のもとに生まれようとも、母は優しく、兄たちは頼りがいがあり、そしてお姉ちゃんがいた。それだけでよかったのだ。

 ある日、あっさりと終わりの日はやってきた。音も風もない、ある冬の日だった。

 いつものように口論していた長兄と父親だったが、その日は様子がおかしかった。父親の暴力は止まることがなく、兄は普段以上に殴られ、蹴られた。私は恐怖で動くことができず、ただその防風が過ぎ去ることを祈るしかできなかった。

 長兄の顔は見ていられたものではないほどに腫れあがり、ぐったりとしていた。次兄が必死に止めに入ったが長兄の様子を見て、ただごとではないと山一つ離れた医者の所まで担いでいくこととなった。それまで父親に辟易はしていたものの従っていた母が、初めて父に反抗した。私は妹を連れて近くの森に向かった。ようやく物心がつき始めた妹は親たちの口論にびっくりしたのだろう、泣いていて。私もいち早くその場から立ち去りたかったのだ。

 道中でお姉ちゃんとすれ違った。この頃、お姉ちゃんは長兄とよく逢瀬を重ねていた。私が今でも幸せというものを信じられるのは、きっとあの景色を目に焼き付けることが出来たからだろう。

 不意にだった。もうすぐ日も沈もうかというところで、本当に不意に嫌な予感がしたのだ。妹がぐずり始めたというのもあったが、それでもあの父親の暴力を前にした時のような胸の嫌なせり上がりを感じて、私は妹を背負って家への道を駆け戻った。子供の足でも本当に少しの距離。あっという間に見えてきた我が家が、何故だか別のものに見えたのだ。

 段々と家が近づいてくるところで、何か布のようなものが戸の前に投げ捨てられていることに気が付いた。嫌な予感はもう吐き気となって私の喉元までせり上がっていて、どこか予想していたのだ。それが人だということを。

 果たしてそれは鼻血を出しながら呻いている母親で。あの時に私は母の安否よりも自身の奥底にあった何かに従ったのだ。私は妹を背中から落として、戸の中に飛び込んだ。

 聞こえていたのだ。理解ができなかっただけで。私はお姉ちゃんの泣き声など聞いたことがなかったから。そんなお姉ちゃんの上に、私たちが父親と思っていた糞が跨っていた。

 糞はこちらを向くと何かを喚いていた。この時ほど、自分が頭のよいものでなくてよかったと思う。考えるのではなく、感情のままに身体が動いてくれるから。


 殺すしかないと思った。







 糞餓鬼が完全に目を覚ましたのは殴り飛ばしてから四半刻ほど経ったころだった。やはりあの店の団子は私の舌と相性が良かった。目を覚ました餓鬼はゆっくりと上半身を起こすと私の姿を見つけると、正しく獣のように飛び掛かってきた。また気絶させるのも面倒だったので、避け際に足を払う。中々に痛そうな転び方をしたが、知ったことではない。

 その後も起き上がっては飛び掛かりを繰り返し、その度に張り倒し、投げ飛ばし、蹴飛ばした。中々の根性だったが、諦めたのだろう終に膝をついたまま動かなくなった。


「すっきりしたかい?」


 流石に泣き顔を見るほど無粋じゃない。泣き止んだ餓鬼の顔は、最初に見た時よりは随分と澄んだ顔をしていた。


強いんだな、あんた

 
 一応私も女の生まれであって、強いという言葉はなんとも言えない気持ちになるが、先程よりは随分と険が取れている。私の拳説法も捨てたものではなかったようだ。

 どうしてこんな所で喧嘩なんかしていたのか聞いてみた。特に理由はなかったらしい。数人で道を歩いていたことにむかついたからだと餓鬼は返した。あまり褒められたものではないが、この餓鬼の回答を私はとても好ましく思っていた。

 人間なのだ。どれだけ未来を行こうとも、科学の火を灯そうとも、二本足のケモノなのには変わりがない。姐さんの姿が浮かぶ。人も妖怪をも導こうとする姿は、神々しさに近い、大らかなる母性を感じるのだ。だがそれに付き従う私が、未だに人も妖も獣も変わらないのではないかと逡巡することは少なくなかった。

 家に帰らないのかと口を開くと今はいいと返ってくる。それなりの理由でもあるのだろうかとも思ったが。その原因はほどなくして分かった。一人の少女が、こちらへと駆けてくる。どうやら、餓鬼の姉のようだった。ふと、ある景色が頭に浮かんだ。記憶の沼の奥底にあった、そうだ、私の中でどうやらこの景色は尊いものらしい。

 顔の傷を見て少女は声を上げる。犬も食わないような内容で言い争っている二人を見て、ほんの少しの違和を感じた。少女の頬が、赤く腫れていたのだ。まるで叩かれたように。

 呆けている間に少女は私に頭を下げるとこの場を後にした。どうやら女中としての仕事があるらしい。餓鬼、ではなく少年がこちらを見ていた。確かに首を突っ込みたがる性格であると自負しているが、それは楽しいことに限られる。本当ならば面倒ごとに突っ込む首など一又も持っていないのだ。


「……あの怪我は?」

……親父がやるんだ


 心の内に昏い火が点るのを、年甲斐もなく感じた。母親は身体が弱いらしく、父親は傘売りをしているらしいが、売り上げは芳しくないらしい。主な稼ぎは少女の働きによるところが大きい。だったら猶更こんなところで油を売っている場合ではないだろうと言いかけて、結局言えなかった。私も似たようなものだからだ。

 袖どころではない。拳を振りぬいた仲だ。半ば強引に少年を家に送ることにした。上手く笑顔を作れていた保証はない。もしかしなくても、私は姐さんに付き従うものとしては失格だろう。この心の内に点いた火を、まだ味わいたかったのだから。

 連れてこられた先は里から外れ、貧民街との境界にある長屋街の一角だった。ここらの住まいなのかと尋ねると、少年は先程私に飛び掛かってきた覇気は鳴りを潜め、金がないからとぼそりと呟いた。

 少年の家で寝込んでいた母親を見たとき、私は遥か昔の母の面影を追っていた。決して似てはいないのに。少年の母親は病床に臥せりながらも少年を叱咤し、私に謝辞を述べた。どうやら姐さんや私のことを知っていたらしい。御仏の導きだのなんだのと、私にそんな器量はない。仏門に仕えている私がそんなことを考えるのだから、救いようがない。

 家を後にして少し歩いたところで、少年がこちらを追ってきた。振り向いてどうしたのかと尋ねると姉を迎えに行くらしい。ここら辺は治安もよくないからついでに大通りまで送っていくとのことだった。そんな心配はしなくてもよいのだが、面子という言葉もある。最初に会った時は随分と可愛げのない糞餓鬼だと思ったが、今の表情は年相応の元気に満ちていた。

 喧嘩の仕方を教えてくれとせがまれたが、そんなものを頼んで教えてくれるような稀有な存在は書物の中くらいなものだろう。武術ならまだわからなくもないが。

 そうして目抜き通りまで出たところで、少年の顔がある方向で固まった。つられるように向けた視線の先。少し離れた道端では不揃いな傘を広げてまるで浮浪者のように座り込む男の姿があった。男は座り込んだままずっと下を向いている。誰かに買ってもらうよう声をかけることもせず、ただ人々が動く景色の中で止まっていた。 


じゃあな、おばさん


 そう言い残して、少年は止まった風景へと飛び込んでいった。少年は男に何かを言っている。体の動きと勢いが、いいことを言っているわけではないだろうことを容易に予測させる。そんな少年の姿を見てか、道を行く人々の何人かが足を止め始めた。

 空を見上げる。今にも降り出しそうなほどに分厚い冬の雲は、それでもただ空にあるだけだった。雪の一つでも降ればきっと少しは売れるだろうに、少年の父親の運が悪いのか、それとも雪が降らないことに感謝すべきか。目線を戻すと、男は大柄な体を震わせながら少年に怒鳴りつけている。少年もまた気圧されながらも何かを言い返している。

 眺めることもできた。だが、それを私の中にあった感傷は良しとせず、気が付くと寺への帰路へ足を向けていた。今度会った時には、おばさんではないと言わなければと思いながら。







 後ろから全力で糞の顔面を蹴り飛ばした。子供とはいえ、私は女にしては背の高いほうだったし、村でもよく喧嘩をしていたこともあってか、殴り方や蹴り方は自然と身についていた。

 お姉ちゃんから剥がれるように倒れた糞の土手っ腹を何度も踏みつけた。あばら骨を狙った。骨をやった時のあの痛みは、誰であれ動きを止めるほどの痛みだということを当時の私は感覚的に理解していた。ばり、という音が何度か聞こえ、糞は大きく呻いた。

 腹を抱えるように身体を丸めながら、糞が、こちらを睨みつけた。その眼は、もう私のことを見てはいなかった。私も、そして苦言を呈した兄達も母も、こいつにとっては最早敵なのだ。

 踏みつけている間までは、やりすぎだと心のどこかで思っていた。だがその瞳を見たときに、私の中にあった柵は、あっけなく崩壊したのだ。ここで止めてしまったら、こいつは必ず私達に復讐する。確信だった。理由はなかった。だがわかるのだ、私の内面はこいつと似通っていたから。

 そのまま身体に跨り何度も鼻面に握り拳を落とした。何度もだ。最初こそは腹を抱えながら何事か声を張っていたが、その内に腕で顔を守り始めた。やめろ、やめてくれと懇願の声が聞こえてきた。そんな言葉は私の中にあった炎を更に大きくするだけだった。何度も虐げられてきたのだ。それをそんな言葉で止められると思っているのだろうかと。

 腕の間から、何度も拳の土手と槌を叩き落す。顔を守る腕に力が無くなり、私はそれを払いのけてひたすらに拳を振り上げた。何度も拳と歯がかち合い、そのたびに皮が切れるのを、痛みと拳に纏わりつくぬめりで悟る。

 段々と、力の抜けていた腕が何かを求めるようにしゃかしゃかと動き始めた。糞の両目はもう潰れていて、鼻は膨れた顔に埋まっていた。それでもまだ足りなかった私は何度もその顔を踏みつぶした。私もまた、叫んでいた。もうそれは言葉ではなかった。獣の咆哮と変わりがなかっただろう。

 鼾をかき始めた糞を見て、私はまたも激高した。最早なんでもよかったのだ。単純に私はこの男に暴力をふるう理由を欲しているだけだったのだから。藁を被せて、もう無くなりかけの油を入っていた壺ごと叩きつけた。囲炉裏の炭を手に取ろうとしたところで、その腕を掴まれた。振り向いた先にいたお姉ちゃんの瞳は、怯えていた。

 そこまでなら、戻れたかもしれない。だが許せるはずもなかった。こいつは気儘に私たちに暴力をふるうのに、誰もがこいつを裁かないのだ。だからきっと、自分が裁いてもよいはずだと、そんなことを考えていた気がする。

 結局私はお姉ちゃんの腕を払いのけ、糞の上に火を落とした。油と藁で、あっと言う間に炎は糞の身体を包んでいく。止まっていた身体が再び虫のように動き出したのを見て、まだ死なないかと三度激高した。だが流石に炎の熱気はすさまじく、私はお姉ちゃんを引っ張るようにして家を飛び出した。

 ぱちぱちという音は次第に大きくなっていき、黒と赤のうねりとなって私たちの家を包み込んだ。左の手は力が無くなり、逆に右の手は余程の間力を込めていたのだろう、自分の力では開くことが出来なかった。

 そんな拳を、母は両手で包んでいた。

 ごめんねと。それは母の贖罪だったのかもしれない。


「ふざけるなっ!」


 私は、そんな母の言葉にすらも怒りを覚えたのだ。私も、兄達も、妹も、耐えに耐えてきたのだ。それを間近で見ていた筈だ。それなのに、どうして、どうしてそこで出てきたのが謝罪だったのか。それがどうしても許せなかったのだ。

 燃える我が家を見ながら、自分はもう人間ではないとそんなことを考えていた。

 お姉ちゃんに視線を向けた。その顔は、今まで見たことのない表情で、それはきっと怯えだったのだ。

 その日の内に私は村を飛び出した。悲しくもあったが、それ以上に怖かったのだ。もしあの場にいたら、きっと自分は第二の糞になっていたのかもしれないと、その考えが私の背中を押す決め手だった。

 寒く、怪我をしていて、着の身着のままで碌な食料もなかった。そのまま死ぬことがあったのなら因果を信じたかもしれないが、どうしてか私は生き残り、何度か季節を巡るころには、いっぱしの悪党に育っていた。

 道を行くものに無垢なふりをして近づき、暴力にものを言わせて食を、酒を、宝を巻き上げた。この頃には私の横には雲山がいた。雲山は私の暴力を称賛はしなかったが、否定もしなかった。そんな時代だった。

 今でも思い出す。ある日、いつものように旅をしている一行に襲い掛かった。裳付姿の僧侶達。私はいつものように酒と食い物と金を置いていくように脅した。大体の奴は私の言葉に従ったし、そうでなければ喋れなくしてから奪えばいいだけの話だった。

 金と黒で彩られた珍妙な髪の女はやたらと慌てていたが、一人の尼僧が観念したのか足元に食物と水を置き始めたのだ。置いていきさえすれば殺すかどうかは気分次第だったが、その日は気分がよかったのだ。殺すのは勘弁してやろうと思っていたところで、尼僧が顔を上げたのだ。私は思わずその眼を見てしまった。それが全ての始まりだった。


「どうかこれでご勘弁を」


 その眼を見た瞬間に、食い物などどうでもよくなっていた。私は何故か女が見せたその眼差しに憶えがあり、それが酷く私の心の中にあった燃え盛るものに薪をくべたのだ。


「おい」

「……はい」

「なんだその眼は」


 今にして思えば完全な言いがかりだった。それでもその頃の私は、世界が全て己を中心に回っていると思っていたかったのだ。女が見せた眼差しは、そんな私の中にあった存在意義のようなものをはげしく揺さぶったのだ。


「なんだ、と申されましても」

「私を、虚仮にしているな。こちらを見ろっ」


 女が傘を取る。鮮やかな紫の髪、その髪がどこか誰かに似ていたのだ。そしてその眼差しを見たときに、その誰かが形を為した。それは遠い記憶にあった、最期に見た母親の眼差しとそっくりで。

 つまるところ、目の前にいた女は私を憐れんでいたのだ。


「私を、私をッ……馬鹿にすんじゃねえッ!!」


 私は怒りのままに拳を振り上げ、そしてこの先終生まで共に歩みたいと思う人と出会ったのだ。 







「珍しいですね」

「は」


 夜更けの本堂で、姐さんは私にそう言った。何が珍しいのかとも思ったが、普段ならば確かにこの時間は寝入っている。珍しいといわれるのも納得だった。

 冬の板張りの間だ。刺すほどの冷え込みを感じながら禅を組んでいた。心頭を滅却したところで寒いものは寒いのだ。目の前に置いておいた火立を挟んで姐さんは正座を組む。所詮蝋燭の火だ。姐さんの顔を照らすには少々光が不足している。きっと私の表情も見えていないのだろう。


「今日は、なにかあったのですか?」

「……里で、昔の私のような子を見かけました」

「救いたいのね」

「まさか。私にはとても」


 今こうして姐さんと対峙していて、改めて理解する。私にとって仏の教えより、聖白蓮の存在の方が大きいのだということを。そして、妖怪となり永い時を生きても、私の内面は矯正が出来ないのだということも。


「ねえ、一輪」

「はい」

「もう、自分を許してもいいのではないのかしら……これで何度目だったか」

「前は、ここに来た直後でした」


 姐さんの言葉が私の耳を打つたびに、私の心には波が広がるのだ。それは時に耳の痛いものでもあったし、心地の良いものでもあった。姐さんの前でだけは、私は人間だった頃に戻ることが出来る。


「貴女は自身の弱さも、罪も、しっかりと認めている。私はそう思う。そんな貴女ならばわかるでしょう」

「姐さんのおっしゃりたいことはわかります。ですがそれでも」

「難しいと」

「私の心の内には獣がいます。そして私の身体は神仏ではなく妖怪化生の類なのです。そんな私が人間を、自分自身を許すのは、道が違うと思ってしまうのです」

「ふむん、貴女は強情ねえ一輪。それを言うのならば私だって破戒僧だし、ねえ」

「それは……」


 結局問答とも呼べぬ話し合いは火立にさしていた蝋燭の火が消えたことでお開きになった。

 深い考え事した次の日というのは、総じて機嫌というか気分の乗りがよくない。しっかりとお務めを果たしたところで縁側から空を眺める。昨日の空模様とは打って変わって太陽は輝いており、もうすぐ山に隠れようとしている、そんな時だった。


「あのう、一輪」

「何?」

「ちょっと買い物に付き合っていただけませんか? 聖は忙しいですし、ナズーリンもいないのです。一人で行くのも味気ないですし……駄目ですか?」

「アンタはもうちょっと言葉の選び方を学びなさい。まあ、別に構わないわよ」

「やった。ちょっと準備をしてきますね」


 思い返してみると、星と二人で買い物など随分と久しぶりのことだった。主に寺の雑事や門弟たちの世話役である私とは違い、星は姐さんとともに対外的な集まりに出かけることが多い。帰ってきてからもそれらを整理し、そして普段通りのお務めも果たすのだ。私的な用で出かけることがそもそも珍しい。


「何を買いに行くのよ?」

「寺の日用品と、あとお味噌ですね」

「そんなもん……そこらの奴を捕まえて買いに行かせりゃあいいのに」

「いやあ、だってみんな疲れているでしょう。それに内緒ですけど、この前美味しそうな羊羹を売っているところを見つけたのですよ」

「そっちが本命か」


 人里につく頃には、太陽は既にその姿をを山に隠し始めていて、赤く燃える日が星の髪をより一層鮮やかに染める。なんというか、絵になる奴だと、私はこの妖怪に対してよく思う。

 買い物はあっさりと終わったが、それよりも時間を取られたのが星を取り巻く人間たちの応対だった。何人もの人が彼女を呼び止め、挨拶をし、時には茶やら菓子やら野菜やらを勧めてきた。そのたびに私が持ってきた風呂敷は重みを増して、そして腹にはお茶だの菓子だのが貯まっていった。

 屈託なく笑い、人々に笑顔を振りまくその姿は、そこらの人間より余程人間臭い。結局里を後にしようとする頃には風呂敷も私たちの胃袋も、随分と膨れてしまった。少しばかりくたびれてしまった私は星を団子屋に案内した。どうやら私たちが最後の客らしい。冷やかしというのもばつが悪いので一番好きなみたらしを注文する。ここに星を連れてきたのは初めてだったが、笑顔を崩さない星が真剣に団子を味わっているのを見ると、どうやら気に入ってもらえたようだ。


「こりゃあ、おゆはんはいらないね」

「そうですね……ありがとうございます」

「いいよ。それに、あんたがあんなに慕われているところも見ることが出来たし。ナズーリンには悪いけれど」

「ふふっ、後で自慢しましょう。たくさん美味しいのを頂いてきたって」

「羊羹は買ったんだし、みんなも喜ぶよ」


 真剣に味わっていた表情を崩し、ころころと笑う星の顔は女である私でも見惚れるほどに輝いていた。ようやく鳴りを潜めていた苛立ちが、またも心の奥底から湧き上がる。だが、今日はそれと一緒に、別の感情もついてきた。


「ねえ、星」

「はい?」

「今、幸せ?」


 本当に、口から出た言葉だった。この場所で寺を構えてから、いつかは聞いてみたいことの一つ。その言葉が意図せずして出てしまったことに、我ながら驚いた。だがそれ以上に驚いたことは、星の反応だった。


「勿論。幸せですよ」


 星が私の問いに答えるまでに、間は無かった。ただあるがままに私の質問に正直に答えたのだ。それはつまり本心で。私は急激に鳩尾からぐらぐらとした感情が高ぶってくるのを感じた。

 あの時、姐さんが封印された時の星の姿を、私はよく憶えていない。正確に言えば私は星の顔を見ることが出来なかったのだ。封印される直前の頃、姐さんと星は吹けば飛ぶようなあばら家に手製の像を作り、日がなを祈っていた。私と水蜜はそんな星に、そんな星の姿を是とするナズーリンにも、そして一度は信じようと思ったこの世界にも、怒りを持っていた。

 そう、怒りだった。世界に対して怒っていたのだと私自身思いたいが、そうではなかった。私は、世界が姐さんを認めなかった、その一点に燃え狂っていたのだ。

 今でも思い出すことができる。夜だった。松明の光が何百もあった所為で暗くはなかったが、やたらと熱かった。姐さんがどのような最期を迎えたかはわからない。私と水蜜は先に倒されてしまったから。

 真っ暗な空の縁が炎で燃えて。私たちは地の底へと封じられた。あの時の僧侶たちの顔を今でも思い出す。あいつらは、笑っていたのだ。確か最後の捨て台詞は、笑ってんじゃねえだったはず。思い出したらむかっ腹が立ってきてしまう。

 地底での生活は、言うほど悪いものでもなかった。きっと私の中にあった糞のような性格と水が合ったのだろう。確かに危険だったが、あの頃は、私は私の感情の赴くままに生きることが出来たから。
 
 
「あの頃は」


 星の言葉で、私の意識はあの頃の地底から今この瞬間に引き戻される。一度口ごもった星の顔は、怒られるのを待っている子どものようだ。


「聖が封印されて、貴女や水蜜もやられてしまって。私とナズーリンは常に気を張って生きてきました。あの、何時自分の命が終わるかわからないあの頃に比べれば、今は帰る場所があって、ぐっすり眠れる布団があって、そしてみんながいるのです。幸せじゃなくてなんだというのでしょうか」

「そう、だね。確かにそうだ」


 妖怪なんざ、どんな奴だって一つや二つや三つや四つくらい死ぬ目に遭ってきている。星の生来の優しさは、だからこそあの頃には重い枷となっていたのだろう。それとも、姐さんについてきてしまったことがと考え、その思考を星に気づかれぬよう頭の隅に追いやる。

 今、幸せだと星は言った。それは私だってそうだ、星の言葉には同意しかない。けれども私の中にあるこの靄のようなものは時折現れては心の内を占め、勝手に霧散していくのだ。たとえ幸せであったとしても。


「一輪は」

「んん?」

「幸せでは、ないのですか?」

「んん、ああ~……幸せだよ。本当に、言われてみればさ。ただきっと、慣れてないんだよ」


 私は目の前にいる妖怪のように気高くはあれない。だってそうだろう。理由もなく苛ついて、それを発散することを是と考えている。無知なままならまだ救いもあるだろうが、それを仏の道にいる私が考えてしまうのだから。

 言いたくはないが、嫌な考えが頭の中を占めていく。そんな考えを振り払おうとちらりと店の外を眺めると、夕暮れ時の濃い影に隠れてはいたが、見知った姿を見つけることが出来た。昨日殴り飛ばした少年だ。


「星、悪いけど先に戻っていてくれる? ちょっと用ができたみたいでさ」

「ええ、構いませんが……聖にはどのように」

「日を跨ぐまでには帰るって、言っておいて」


 代金を机に置いて店を出た私は、少年が通ったであろう道を歩き始めた。どうしてか、嫌な予感がしたのだ。それが強い西日の所為ならば自身の目の節穴具合を笑えばよいだけの話だが、果たして昨日訪れた家の前で、少年は包丁を片手に立ち尽くしている。

 夕焼けが作り出す影が、路地ごと少年を染めている。何処から持ち出したのかはわからないが、その手に握られた刃は、まあ人を刺し殺すには十分な長さを持っていた。


「どうする気だい?」


 私の言葉に、少年が振り向く。その顔は昨日以上に『青タン』が増えており、見る人によっては痛々しく映るだろう。だが、その瞳の奥は真逆の色をした炎が燃えている。簡単に言うならば、苛つきだ。憎しみでもよいかもしれない。


関係ないだろ

「私が知りたいんだよ」


 私の返しが気に食わなかったらしい。少年がこちらを向いてその包丁を振り上げる。どうやら刀か鉈かと勘違いしているらしい。その腕の動きが止まっていたことはわかったが、言葉より先に手が動いて、私は昨日と同じように少年を殴り飛ばした。







「アンタ位だよ。いつも喧嘩売ってくるのなんざあ」


 昔、何度目か地底の鬼の顔役に喧嘩を売った後に言われた台詞だった。

 命果てるまでついてゆきたいと思った人は、あっさりと私たちの前から奪い去られて。そして私たちは地獄へ叩き落された。住めば都だったが。

 それまで、姐さんと共に生き始めて、私は初めて己を律するということの大切さを学んだ気がした。そう、気がしただけだった。だから姐さんのいなくなった世界で、私は箍が外れて暴れるようになった。

 結局のところ私の魂は根っこが腐っていたのだ。だからだろうか、地底の生温い空気は私の肌に妙に合った。水蜜はよく血の池で何者も問わずに沈めて遊び、私は私で気に入らない奴がいたら問答無用で喧嘩を売るくらいには荒んでいた。

 澱の中の澱、塵の中の塵。そんな奴らがうねり集まっていた地底で私が滅されることなく生きていけたのは、私自身の中に、まだ人間味が残っていたからだった。つまりは負けそうになったら必死に逃げ、命乞いをし、また機を伺って完膚なきまでに叩きのめす。そんな生き様は地底の妖怪たちからも忌み嫌われるものだった。

 そんな中で、鬼の顔役だけには何度もつっかかった。他の奴等は大体が関わらないようにしている中で、そいつはご丁寧に私が喧嘩を売るたびに快く買ってくれた。一番最初につっかかった時は何もできずに一撃だった。出直して来いと言われたのが始まりだ。

 その時点では、私は負けを認めていなかった。ある時は仲間がいないときに闘いを挑み、またある時は待ち伏せをした。例えどれだけ負けても、最後に勝てばよいのだと考えていた。私が叩きのめされるたびに周りの木っ端たちは嘲り、私を下に見ようとした。そういう奴らを同じように叩きのめし、またそいつらに突っかかっていく。そんな人生を飽きるほどに長く続けた。

 凡そ千を超えるほどに叩きのめされたときに、自分が少しずつ渡り合えるようになっていることに気が付いた。そこに私は無上の喜びを感じたのだ。喧嘩を売る感覚は次第に長くなり、己を鍛える時間が少しずつ伸びていった。水蜜は修業をする私の姿に呆れていたが、どうでもよかった。私は、この時に初めて己の中に求道を見たのだ。皮肉なもので、姐さんの隣にいるときはこんなことを考えもしなかった。究極的に、私は姐さんと同じ道を見ることはできても、歩むことはできないのだとも悟った。

 ある時、馴染みにしていた居酒屋でそいつと出会った。互いに目線でこそ殴り合ったが、特段喧嘩を売る理由もなかったし、なによりここで揉め事をおこして店から追い出されることの方が私には辛かった。

 そいつはわざわざ私の横に座ると、いつも持ち歩いている杯をこちらによこした。言葉を出さずに目線で問いかけると、そいつは金の髪を揺らしながら笑ったのだ。どうやら私が感傷に浸っていると思ったらしい。とりあえずその杯に注がれた酒を飲み干してから、余計なお世話だと突っかかった。結局こんなことをしながら私は、それでもこの地底での生活を存外気に入っていたのだ。

 あの時、異変が起きて私たちは地上に出る直前に、そいつに言われたことを思い出す。また来いよと、そう言ったのだ。その言葉が耳を撃って、私の感情は半分は喜びで、そしてもう半分は子供じみた反骨心で満たされたのだ。偉ぶってんじゃねえぞと、今度会ったらぶっ殺してやると。そう吐き捨てながら、私とそいつは笑いあった。

 私は、結局己の中にある御しがたい、子供じみた、糞のような性格を直すことは出来なかった。直し方を知らなかったのではなく、直した先を見つけることが出来なかったのだ。そしてそれでよいとも思った。だからこそ成長できたのだと。

 だが、拳を握ることしかしてこなかった私が、拳を解いて掌を見せることを説くことが出来るのだろうか。







「目え覚めた?」


 布団からはね起きた少年に、言葉をかける。最初こそあたりを見回していたが、事情を理解したのか、少年は胡坐をかいてこちらに向き直った。もう日もとっぷりと暮れている。今頃は里で騒ぎになっているかもしれない。それとも、貧民街の長屋の出来事など噂にもなりやしないのだろうか。

 殴り飛ばした少年を寺に連れ帰った時、今度は何をしでかしたと水蜜や鵺に詰め寄られたが、無視をしておいた。事情を説明するのが面倒だったし、これは私の話ではないのだから。

 どうやら私は言葉よりも拳で道を説く方が性に合っているらしい。何があったのかを聞くと、ぽつり、ぽつりと話始めた。

 昨日私との別れ際に、少年は父親に何かを言っていたことを思い出す。どうやらその時に随分と痛い腹を突いたらしい。その後に家に帰ってから大喧嘩となったそうだ。そこまでならよかった。まだそこら中に転がっているような話だったろう。ただ、その日は勝手が違った。


いつもは止めに入る姉ちゃんも、親父を責め始めたんだ


 少年の言葉通りに、きっと少女は要の役割をしていたのだろう。病弱な母と生意気盛りの弟。そして父親はろくでなしときたもんだ。まだ年若いとも言えない、幼い少女が背負うには幾分か重すぎる。幻想郷は狭い、将来を悲観させるのには十分だ。

 要が外れたら、どんなものでも簡単に形を崩す。少女は父親にしこたま暴力を振るわれ、そしてそれを止めようとした少年はそれ以上に殴られたというわけだ。

 少年と少女は騒ぎを聞いて駆け付けた近所の人間たちによって里の診療所に運ばれた。少女は目を覚ましてはいるものの、未だに泣きはらしているらしい。少年にとっては、それがきっかけだったのだろう。さっきの包丁はどこから持ってきたのかと問い直すと、診療所の調理場からくすねてきたらしい。騒ぎになることがわからないあたりはまだ子どものようだ。後で雲山に頼んでこっそり返してきてもらおう。


「殺してやりたい?」

 
 そう、言葉を投げかけた。答えなどわかっている。あたりまえだ、そう返した少年の瞳は殴られて腫れてもなお怒りに燃えていた。ただそれでも、聞かずにはいられないのだ。性根が悪い、だが仕方がない。私は聖人ではないのだから。

 少年の膝元に、差し入れを放り投げる。布に巻かれたそれを少年が剥がすと、中からは小刀が姿を現した。星が集めた財宝の中からちょいと拝借したものだ。


「さっきの包丁よりかはよっぽど上物だよ」


 少年の瞳が小刀からこちらに向く。その瞳が驚きを現していて、私は喉の奥から出そうになる笑いともうめきとも取れないものをぐっと押しとどめた。


「一応寺にいる身としては、殺しはいけない。とだけ言っておくよ。ただ私個人としては、それを使っても使わなくてもどっちでもいいんだけどさ。選択肢は多いほうがいいわよね」


 多分、私の顔はにやけていたのかもしれない。姐さんの後ろを追いかけている身だが、究極的に姐さんとは違うのだ。あの人は、聖白蓮は救える人なのだ。先に相手が来る人なのだ。私はそんなことはできないのだということを、この瞬間に改めて思う。

 もしあの時、私が糞親父を殺す前に誰かが止めてくれたなら、私はどうなっていたのだろうかと何度も自問したことがある。そして大体悩む時間も結果も毎回同じ。

 恐らく、何があったとしても私はあいつを殺していただろうと。

 つまるところ後付けなのだ。あの時こうだったらとか、こうしていればとか。考えることは幾度もある。だが、私の行動基準は私の心のままが一番で、そしてそう考えると方法や選択肢に差はあっても結果は変わらないだろうとも思う。

 私の中身は結局人間だったころと変わっていないか、さらにねじくれて育っているのだと。

 ぱちぱちとした音が耳に入る。それが囲炉裏の音ではなく、庇に当たる雨粒の音だと気が付くのに少しの時間を要した。


「前はだめだ。警戒されるし、胸に刃は刺さりづらい。だから背後から横っ腹にぶっ刺せば一発さ。間違いなくアンタの力でも、それこそもっとガキの力でも死ぬよ。間違いない」
 

 少年の瞳は既に私を見ておらず、その手に握っている小刀の鞘に落ちていた。その胸中がいかばかりのものか、知る由はないし、知ってはいけない。そして、知ったところでどうでもいい。

 雨音が強さを増していくのを感じた。耳に入る雨音が、雑音のはずなのに心地よい。そう、私は昂っている。

 『この話の結末に、自分がどこかねじ込まれている』その事実に、昂っているのだ。言ってしまえばこの少年が父親に返り討ちに遭おうが、それこそ父親を刺し殺そうが、きっと私はどうでもよいと思うのだろう。私の高揚感は、今この瞬間にこそあるのだ。
 

「ただ言っておく。ここで獲物を持つなら、アンタはこの先辛い時にまた獲物に頼るようになる。これは呪いだ」


 ああ、楽しくってしょうがない。


「次にだ。もし今、姉ちゃんと母ちゃんのために怒っているなら、あんたの怒りはいずれ二人に向く。これも呪いだ。憎いなら、ぶち殺したいなら、アンタがそう思わないとだめだ」


 私は少年を救っているのだろうか、堕としているのだろうか。


「何もしないという選択もいいと思う。だがもう考えちまったんだ。知らないということには出来ないさ。今のままなら、いずれまた今日みたいな日が必ず来る。そしてその度に今日みたいに苦しむのさ。これが最後の呪いだ」


 私には、選択肢なんてなかった。正確には、それ以外の選択肢が見えていなかった。だからこそ少年が私とは違うことはわかる。私は一体、何に惹かれているのだろうか。言葉にすることはできる。だがそれを認めるのは負けのような気がして、何度か宝輪を鳴らして部屋を後にした。湯浴みを終えて戻ってくると、布団に人影はなく、そして小刀は無くなっていた。

 雨が、激しさを増していた。







 金、幸せ、美味しいご飯に温かい布団。酔狂な奴は仕事だとか他人を助けるだとか言うかもしれない。時を過ごしていくうえで、誰しもが無意識に生きる目的ってやつに順位をつける。それは当たり前のことで、だからこそ争いは絶えない。

 私は、ただひたすらに『納得』が欲しかった。己の選んだという自負が、今の私を形成している。だからこそ、それを邪魔する者には全て拳で楯突いてきたのだ。

 雨は最早嵐に近くなっていて。里の大通りにも人影は少ない。それが長屋街の奥ならなおさらだ。三度訪れた家の前で、少年は包丁ではなく小刀を持ったまま、濡れ鼠になっていた。両手で小刀を握りしめているその後姿を見て、彼女も今の私のように見えていたのかもしれないと、もう顔も思い出せない母の両手だけが心に浮かんだ。

 復讐なんて愚かなことだから止めた方がいいと説く聖人擬きを何人も見てきた。復讐をしたところで益は無いぞと諭す馬鹿野郎を見たこともある。そうではないのだ。


 復讐は、救いなのだ。虐げられて、蔑まれ、誰からも見られることなく砕かれたその魂を救うことなのだ。そこにある天秤は酷く歪で、裁く者は自分自身。あるのは己と、その魂のみなのだ。だからこそ不条理で、不合理で、理不尽に見える。それでいい。綺麗ごとではない。


 少年はじっと、それこそ時が止まっているかのようにじっとしている。そこにある葛藤、姉や母といった大切なもの。そして自分の魂を秤にかけて、今心の中で少年は自分自身と戦っている。その光景は尊いもので、雨の音が少し、耳から遠ざかった。

 どれほどの時間が経っただろうか、少年が突然に後ろを振り向いた。私がいることをわかっていたのだろう。軽く、そこにあったはずの様々な感情も抜けたように軽く、こちらに小刀を放りよこした。その顔は、夜の闇と雨に遮られてもわかるほどに、晴れ晴れと笑っていて、私が笑い返したのを見てから、少年は貧相な立て付けの戸を蹴り飛ばすと長屋の中に消えていった。

 雨音が耳元に蘇る。そこに交じって父親であろう男の声と、獣のような声が聞こえてくる。しばらく経ってから、母親の声も聞こえ始めた。何事かと近所の戸から顔を出し始める人々を振り切るように、長屋から影が飛び出す。少年だ。肩で息を切らし、その拳は強く握りすぎたのだろう、固まったままだ。

 母は、どんな思いで私の拳を包んだのだろうか。

 目が合う。私が掌を見せると、少年は興奮しているのだろう強がりのような笑顔を見せて、お互いに叩くように掌を重ねた。

 騒ぎになる前にその場を離れた私達は、里を飛び出してしばらくしたところで、どちらからともなく笑った。大笑いだ。
 
 少年の話はこれで一区切りがついた。だが、私の心はいまだ昂ったままで、久しぶりに頭の先からつま先まで血が通い、熱を持っている。これをそのままにして布団に入れるほど、お淑やかではない。 
 
 だからきっと、少年に口を開いた時に私は笑っていただろう。


「ちょっと付き合わないかい?」







「んん……? おやおやおや! 久しぶりだねえ、なんだいなんだい、こんな場所に! ああ、言うな、言わなくていい。当ててやるよ。そうだなあ……そいつの親でも殺しちまって、そいつも食べるつもりだ! ただ地上には巫女がいるからな、だからこっちに持ってきたってわけだ! どうだいどうだい、寸分の狂いもなく当たっているだろう?」

「頭から違うよ馬鹿」


 久しぶりに訪れた地底は、やはり生温い、湿った空気を纏っていて、横で絡んでくる土蜘蛛のうざったさも、橋ですれ違った橋姫の据何を考えてるかよくわからない眼差しも、鶴瓶落としの可愛さも、何もかもが変わっていない。

 地底への縦穴を落ちる際に気絶した少年を叩き起こして、地底の街を練り歩く。百鬼夜行を見るたびに少年はこちらをちらちらと見てきた。帰るかい? と意地悪く聞くと、目線を泳がせながらも否定した。その仕草が年相応に感じられて、つい笑ってしまう。

 土蜘蛛に聞くと、目当ての奴は馴染みの居酒屋にいるらしい。私もよく足を運んでいた、狭っ苦しい小さい飲み屋だ。道中で知り合いたちが声をかけてくる。時には足を止めて笑いあい、また別の奴は喧嘩を売ってきたので殴り倒して蹴り飛ばす。そんなことをしている内に喧騒は段々と大きくなり、目的の場所に着く頃には私の周りもまた百鬼夜行になっていた。


「それで雲居よう」

「なによ」

「勝てる見込みはあるのかい?」

「最初から負けること考えて喧嘩売る馬鹿がいる?」


 私の言葉に土蜘蛛はにっかと笑うと店の中へ消えていく。店の前の道は広く取られており、野次馬どもは好き勝手にこちらを囃し立てる。一緒についてきた橋姫に少年を預けて、肩を回して膝を三度ほど曲げ伸ばしたところで、店の戸が開く。

 相変わらず長い金の髪、額に生えたこれみよがしの一本角。軽く飲んでいたのだろう頬を少し赤らめながら、ソイツも土蜘蛛と同じようにこちらを見ると、やはり笑った。


「なんだい一輪、もう戻ってきたのかい?」

「急に喧嘩を売りたくなってさ」

「……本当、アンタもよく飽きないもんだ」
 

 当たり前だ。まだ私は負けていない。理由なんざどうでもいい、ただ未だにこいつに参ったと言わせられないのが、私の心に火をつけるのだ。

 こいつの拳はめっぽう痛いのだ。そんなこと知っている。何度も何度もぶん殴られているのだから。それだけでむかつくし、苛つくのだ。こんなに痛い拳をしやがってと。

 互いに歩み寄り、身体半分のところで互いに足を止める。拳を全力で降り抜ける距離。いつからか、これが私とこいつの喧嘩の始まりを示す儀式になっていた。

 互いに同時。

 拳に衝撃が走る。殴ったことは確実だ、だが同時に、顔面が爆発したような衝撃が走った。足の裏に走る振動で、私は吹き飛びそうになるのを踏ん張っているらしいことを理解した。

 右の視界が無い。左の視界が暗い。うなじにかかる圧迫感で上を向いているということを認識した。次に理解したのは揺れと脱力感。首の『すわり』は悪いし、膝も笑っている。

 尻もちをつきそうになるのをやっとこさ堪えて視線を前に戻す。そこでようやく、きちんと働いているか妖しい脳みそが、全力で私の心に命令する。

 杯を捨てた鬼。私の拳はどうやら鼻っ面に炸裂していたようで、鼻血を出しながらもこちらを見て笑っている。揺れが少なくなる代わりにやってきたのは吐き気と激痛。そして胸の奥から湧き上がるのは、ただただ怒り。痛い。苛つく、むかつくんだ!


「なに笑ってやがんだてめぇっ!!」


 初めて喧嘩を売った時のように、私は拳を握って飛び掛かった。







 この話に所謂『オチ』がないのは、私が物語の登場人物のように、英雄然としていないからだろう。きっと。

 私は倍ぐらいに顔を腫らして、少年とともに寺に戻った。門前で掃除をしていた響子ちゃんは大慌てし、鵺には笑われ、星には心配されてナズ公には呆れられた。水蜜は私が何処に行ってきたのか分かったのだろう、にやけていたが。結局姐さんに『お説教』をされてしまい、倍だった顔は三倍に腫れた。マミゾウがこっそりくれた塗り薬のおかげで、あっと言う間に元に戻ったが。

 父親を半殺しにしたことで、少年は長屋街を出ることになった。どうやら奥さんも姉と一緒に出ていく方向で決まったようだ。一家離散という形になったが、奥さんも姉もその顔は晴れ晴れとしていたらしい。父親の方はどうなるかはわからないが、なんやかんやで里は人間が生きていくための沢山の仕組みがある。大路で死臭をまき散らすようなことにはならないだろうと信じたい。

 少年は、今は団子屋の老夫婦のもとで修業している。意外と面白いらしい。なによりも、爺さんも婆さんも優しいのだと。

 珍しく早く起きて、掃除をしている門弟達を眺めていると、寒さが和らいでいることに気が付いた。もうすぐ春になるのだろう。そうしたら、またあの団子屋で今度は少年の作った団子を食べて冷やかしてやろう。

 私は誰かを救える日が来るのだろうか。


「ま、どうだっていいか。ねえ雲山?」


 突然話を振られた雲山はきょとんとしていて、思わず私は笑ってしまった。

 
 
 「ただ手のままに書いてみる」というのを意識しました。話をきちんとかける作者様は尊敬します。

 最後に、ここまで読んでくださった方に感謝を。ありがとうございました。
モブ
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コメント



0.520簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
えぇ?やだぁ! by 雲山
2.100名前が無い程度の能力削除
一輪、こんなに豪快で喧嘩強くて、でも衝動的でうじうじしてて母性的で女性的だなあ。
3.90奇声を発する程度の能力削除
面白く良かったです
4.100サク_ウマ削除
地底極道上がりな一輪だあ!(?)
たいへん泥臭くて、(本人は否定しそうですが)人間臭くて、いいなあと思いました。楽しましていただきました。
5.90名前が無い程度の能力削除
良かったです
6.100ヘンプ削除
泥臭い人間だなあ。妖怪のはずなのに妖怪になりきれなくて、人間のままで。
とても良かったです。
7.100名前が無い程度の能力削除
拳が先に出る一輪が何だか不思議とらしいなぁと思いました。情熱で殴られた感じがします
8.100名前が無い程度の能力削除
この無骨な感じがたまりません
血が滾るような喧嘩したくなるような青春に戻りたくような
キャラが生きてる喋ってる!!
9.80ルミ海苔削除
いいバトルモノでした
10.100南条削除
面白かったです
喧嘩っ早い一輪がとてもよかったです
まさに『元人間』でした
11.100名前が無い程度の能力削除
こういう泥臭い話本当に好きです
12.100名前が無い程度の能力削除
良いですね
その拳に人生とか生き方が凝縮されてる感じが
13.100名前が無い程度の能力削除
本当は途中まで読んで今度また読もう、と思っていたのですが読みやすくて途中で止められませんでした。一輪のことはよく知らないのでこの話を読んでこういう妖怪なんだな、とすとんと落ちた感じがしました。ぼこぼこにされて帰ってくる彼女が好きです
14.100名前が無い程度の能力削除
理屈でもないただ暗い衝動でしかない怒りを腹の中に抱えた一輪の壮絶さが良かったです。一輪が人間を辞める経緯としても腑に落ちるものがありました
16.100平田削除
かっこよくて、意地が悪くて、拳を真っ赤にして、泥に這いつくばるのが似合う、最高な一輪さんでした。
間違いなくマイベストオブ一輪の中に入りました。

ちょっとだけ読もうと思ったのに、40KBがあっという間。
自分に仏道は合わないのだと、諦観しながらも、己なりの道で少年を救う彼女が、本当にカッコ良かったです。
17.100名前が無い程度の能力削除
少年漫画の主人公と見紛うような熱い一輪が良かったです。
21.100名前が無い程度の能力削除
憧れた人と同じ道は歩めなくても、だからこそ誰かの救いになれる事もある。血気盛んな一輪に引き込まれるお話でした
22.100終身削除
自分の心の内に思うところがあるようだけれど、それはそれで受け入れてうじうじ悩んだりはしないし、行動に迷いもないような快いくらいの芯のブレなさが印象に残りました
聖のようになれず親父や少年に近いものを持っていることを嫌というほど自覚している一輪だからこそありえた救いの形ですね…
30.100竹者削除
とてもよかったです