Coolier - 新生・東方創想話

“妖精憑きのマエリベリー”

2020/01/06 21:14:54
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第一部 相対精神治療用ベータ型シム「夢違」



 
 その子は魔女だとか妖精憑きだとかいうあだ名で呼ばれていた。
 あの頃の私はどんな子どもが相手でも偏見に囚われるのは良くないと、スクールカウンセラーの職務に対する誇りから考えていたものだ。私はロンドン郊外のそのプライマリースクールが初任地だったが、それまでにも様々な背景や事情を持つ子を見てきた。両親が離婚したばかりで授業を休みがちな子、全感覚体感没入型シミュレーション(シム)にはまりすぎて子どもとは思えないくらい足腰が弱ってしまった子、家庭が貧困(最近では“ちょっと大変な家”と遠回しに表現することになっている)で一番劣等な合成食品しか食べていない子、いじめられ自殺未遂をした子。みなそれぞれ違った問題を抱えていて、共通点は笑顔が無いことだけだ。それぞれに対して違った対処法を、大学で学んだ相対性精神学を駆使してなんとかひねり出していく。
 それでも、三年半やっていて、だいぶ「コツ」が掴めてきたところだった。いかなる心理的な問題であっても、所詮は脳の中で生じた自己イメージと社会がちょっと折り合っていないだけで、適切な心理ケアプログラムを噛ませてやれば、笑うようになってくれるものだ。この調子で行けば、半年後の契約満了時に更新してもらえるかもしれない。そう甘く考えていた。
 だが、その子は、他のどんな子とも違っていた。正真正銘の、トラブルを抱えた子だった。名前はマエリベリー・ハーン。私は今でもあの頃のことを恐れとともに思い出す。


 

 
 保健室の隣にある自分のオフィスで書類を読んでいると扉がノックされた。転校してきたばかりで問題を続出させている噂の子が、ついに私の下にやってきたのだ。
 担任のキャシー先生に連れられて部屋に入ってきたのは、薄い藤色のワンピースドレスが長い金髪によく似合う十歳くらいの女の子だった。彼女は私との間に壁を作るかのように黒猫のぬいぐるみを抱きかかえて、猫の耳の間から不満そうな両目を私にじっと向けた。私は少し拍子抜けした。転校前の学校のカウンセラーからは、申送り書には「素行に問題あり」「危険」「解決困難」という不穏な単語がびっしり書かれていたので、どんな悪魔のようななりでやってくるかと身構えていたのに、眼前の彼女はどちらかと言えばシシリー・バーカーの「花の妖精」にでも出てきそうな可愛らしさだったからである。
 とはいえ、と私は思い直す。事前情報が最悪だったからには何かあるのだろう。ぱっと見ても一見問題が分からない子もいる。それに、ふつうは十歳ともなると子どもっぽく思われるのがいやでぬいぐるみは学校に持ってこようとしなくなるものだ。それをお守りのようにしている部分に何かありそうに思われた。だが、この頃成立した馬鹿な法律のせいで申送り書にはプライバシーの関係から具体的なことは書けないことになっているため、評価「最悪」以外なにも分からない。私に言わせれば、数字だけを記す方がかえって統計的偏見を助長することになる。だが結局のところ私もその不合理なシステムの一部として仕事をしているわけで、本当のところは自分で探っていくしかない。
 
「やあ、はじめまして。私はグレッグ・スミスだ。気軽にグレッグと呼んでくれ。君の名前は?」
 ハーンの名前どころかその悪い評価までファイルでとっくに把握済みだが、最初の関係づくりは大事だ。
「わたし、マエリベリー・ハーンです」
 不安そうな声が答える。
「そうか、よろしく、ハーン」   
「よろしくお願いします、先生」
「ね、グレッグ先生に昨日のこと話してみない?」
キャシーが水を向ける。
「でも、本当になんでもないの。単に“普通”にあの子と歩いていただけで、カウンセリングなんて必要ないです」
「どんなことがあったんだい?詳しく話してくれないかな」
 そう言いながら、私はキャシーに目配せをした。キャシーは小さく頷いて、授業があるからといって部屋から退出した。
「何もないわ。本当よ」
 キャシーが出て行った後もハーンは一言だけ言って黙ってしまった。その声色や眼のようすに、攻撃的というよりは諦めたようなニュアンスを私は感じ取った。
「そうか。まあ来たからにはゆっくりしていきなさい。ちょっと狭いけれど、こちらの椅子にどうぞ」 
 私は机の本の山の脇に隠れていた袋入りのクッキーを取り出し、ハーンの前のテーブルに並べた。
「紅茶でも飲むかい?」
「ありがとう。グレッグ先生」
「先生はよしてくれ。グレッグで良いよ。君以外の誰からも先生なんて呼ばれたことはないし」
「わたし“古風”ってよく言われる。ちょっとルイス・キャロルのオリジナル版『不思議の国のアリス』を読んでただけなのに、皆と一緒に全感覚体験型シミュレーション版をやらないのは変わってるんだって。でも、シムじゃ行間に起きる不思議を十分に味わえないと思わない? 解釈の幅をコンピューター任せにしちゃうなんてもったいないわ」
「そうだね。君は“違い”が分かるんだな」
 私は相づちを打ちながら、戦略を練る。どうやら今度のクライアントは早熟な内向タイプというわけだ。得意なタイプではないが、ちょっと自尊心をくすぐってやれば年相応に心を開いてくれる場合も多い。笑ってくれさえすれば、良い兆候なのだが。
 





 その日の面談はたわいもないおしゃべりだけで終わった。厄介な子の場合、最初から根掘り葉掘り聞き出さない方が良い。急ぎすぎて関係を構築できなければ、心理ケアプログラムに抵抗されて逆効果だ。
 結局、ハーンのクラスメイトが突然泣き叫びながら職員室に駆け込んできて、意味不明なことをわめき散らした事件の真相は聞けずじまいだ。その男の子は教室でハーンと何かで言い合いをしていたことや、放課後に学校の裏の道でハーンを囃しながら追いかけていたことが目撃されているだけである。これだけなら、ハーンが「何かした」なんてとても言えない。だが、彼女が転校してまだ一カ月もしないうちに、彼女にかかわったクラスメイトが同じように発狂したようになり、これで四人目なのである。
 大人しくて内向的だがコミュニケーションは取れるし、年の割に頭も良さそうな子だったが――大人に見せない顔があるのかもしれない。とはいえ、明らかに軽度の心的外傷の兆候を示していた被害者児童の顔を思い出し、それとハーンの顔を結びつけようとしてもうまくいかないのだった。
「クラスメイトとはうまくやっているかい?」
「ええ」
 ハーンは澄ました表情で頷いた。
「わたし、彼らとは適切な距離を取れていると思うわ。これまでのところ」

 またある日ハーンは、自分たち一家が今住んでいるマンションの周辺地域の探索の様子を滔々と述べた。
「でね、どうしてもその丘の上の館にたどり着けないから、私は森を突っ切ろうかと思ったの。でも森に入ると道がぐにゃぐにゃに曲がって、何度やっても元来た場所に戻ってしまう。仕方がないからあの丘の屋敷を攻略するのはまた今度にせざるを得なかったわ」
 新世代型英国森林再生プログラムの成果で今ではロンドン郊外にも中世のように深い森がいくつも再生されている。だが当然ながらそうした森林は厳格に管理された植生と動物相、自己補修型の道を有する。ナビも充実しており、危険も迷うこともほとんどないはずだ。にもかかわらず、ハーンはしょっちゅうどこかで迷子になっていた。
「君はよく迷子になるんだね」
「道に迷うのは妖精のせいなのよ」
 ほどなくして私は彼女が誰にともなく”妖精憑きのマエリベリー”と呼ばれていることを知った。
「わたし妖精とは時々友だちになるわ。でも気がつくと彼らは急にいなくなったり、ひどく姿が変わったりするんだけどね。ともかく、わたしを追いかけたあの男の子みたいな奴も、妖精の機嫌が良ければ何もないところで転ばせたり突如季節外れの蜂の大群に襲わせたりしてやっつけてくれるし……。でもね彼らはとても意地悪でもあるからわたしのことも散々迷わせたりしてからかうのよ。馬鹿にしてるわ」
 なるほど、”妖精さんがやった”というわけだ。ずいぶん古典的な妄想だ。とはいえ頭ごなしの否定はまずい。
 私は彼女の信念に正面から衝突せず、少しずらした方向から攻めることにした。
「妖精が迷わせるというけど、自動運転車に乗って、全部ナビに任せて眠っていれば目的地に勝手につくんじゃないかな」
「でも“行間に何かが起こる”かもしれないし……」
「それは『ソフィーの世界』かな?」
「あ、先生ももしかして読んでいたのかしら?」
ハーンは少しだけ口元を緩めてくれた。私は糸口を掴んだと思った。
「何度も繰り返し読んだよ。もっとも、君ほど若いうちからじゃないけどね」
「先生は哲学は詳しい?」
「うーん、あの本に出てくるアルベルトみたいにはいかないかな」
 それから私たちは紅茶を飲みながらしばらく話し込んだ。やはり彼女は同じ年代の子の平均よりかなり賢い。
「私たち、シルクハットから取り出された兎なんだわ」
「本ではその兎の毛の中にいる虱じゃなかったっけ?」
「虱は嫌」
「それはそうだな」
「……先生はわたしのことを馬鹿だと言わないのね」
「うん」
「先生は私の秘密、知りたい?」
 会話の流れの中に急に異質なものが飛び込んできた。これはクライアントが私を信頼し、本人にとって大切な内的世界を開示しようとする良い兆候だ。
「ああ。聞かせてくれるかい?」
「じゃあ今度持ってきてあげる」
 
 次の面談日。彼女は黒い服を着て、金色のふさふさしたものを抱えていた。動物の死骸だ。ぎょっとしてよく見ると、動物の死骸はよく出来たイミテーション、ぬいぐるみだと分かった。尻尾が九つもあったし、メイド・イン・チャイナのタグが耳の裏から飛び出していたからだ。しかし、薄気味悪いほど精巧なぬいぐるみだ。彼女がそうやっていると、まるで魔女のように見える。
 私がじっと見つめていると、尻尾がぴくりと動いたような気がした。
「やあ、これは狐のぬいぐるみだね? 良く出来ている。まるで本物みたいだ。今にも動き出しそうだ」
「ときどき動くのよ」
 なるほど、内部に人工筋肉を備えた一昔前によく見かけた玩具だろう。
「見せたかったものってこれのことかい」
「そうよ。可愛いでしょう。特にふさふさの尻尾がいいの」
 ハーンは見せびらかすように芝居がかった仕草でぬいぐるみをぐるりとターンさせた。
「これは大事なものなんだね」
「ええ。これはね、友だちからもらったの」
「そいつは良かった」
 私は彼女に友だちが居たことに安堵した。だが、直ぐに私の職業的直観は警鐘を鳴らす。キャシーからはハーンは相変わらずクラスで友人をつくっていないようだと聞いている。なら誰からもらったのだろう?転校する前の友人だろうか?
「クラスの友だちからもらったのかな」
「いいえ、違うわ」
 ハーンは恥ずかしそうにもじもじした。自慢したいことがあるのに、それが通常なら人に言わない方が良い内容で、信頼できる誰かに打ち明けて承認してもらいたいというサインにみえる。
 私は努めて冷静な声色になるように彼女に尋ねる。
「同じ年齢の子からもらったんだよね」
 もし彼女が「大人のボーイフレンド/ガールフレンドからもらった」などと言い出したら、警察の児童搾取対応部門へ通報する必要が出て来るかもしれない。
「同じ年の子からよ」ハーンは嬉しそうにぬいぐるみを撫でつける。私は安堵した。
「なんて名前の子? 言いたくなかったら言わなくてもいいけど」
「レンコ。レンコって名前の子」
 伝統的な英語圏の名前ではなさそうだが、最近では別に珍しくもない。
「夢で遭った子よ。運命的な出逢いだったの」
 すっかり安心したものだから、彼女が続けて発したその台詞をメルヘンチックな子どものファンタジーだと私が考えたのも無理もあるまい。  
「この学校にはいない名前だね。近所の子?」
「いいえ。日本に住んでるんですって」
「へえ。そうするとVRシムのチャットとかで会ったのかな?」
「夢で会っただけ。現実には会ってない。でもこのぬいぐるみを夢でくれたわ」
 ハーンは奇妙なことを言った。どうやら夢の出来事を実際にあったことだと思い込んでいるらしい。どうやらこれがハーンの抱える「トラブル」の一端のようだ。
「信じてくれる?」
 彼女は問いかけるような視線を私に向ける。その瞳はとても不安で繊細な心を映していた。私はどこかその様子に魅了された。ハーンがそういうと、信じなければならないような気がしてくる。
「そういうこともあるかもしれないね。僕は夢の中から物を取り出したことがないから分からないけれど」
 もちろん高等教育の訓練まで受けた大人の私がハーンの言うことを信じるなどありえない。だが頭ごなしに否定してはせっかくの介入の糸口が閉じてしまう。そこで私は否定せず、かといって過剰に肯定しすぎることもない共感的デタッチメントの姿勢につとめることにした。
「グレッグ先生って変」
「何が変なんだい」
「だってわたしが変なことを言っても怒らないもの」






(報告欄)
・○月○日、狐のぬいぐるみの照会結果来る。中国で生産され、主に日本でしか流通していないモデル。「レンコからもらった」とのM・Hの発言と整合する。

・○月○日、ハーンを含む五年次クラスとの××高原へのハイキングで、何もない丘からバイオリンとトランペットとキーボードの合奏が聴こえた。教員と生徒複数名に精神の不調を訴えるものあり。極端な躁と鬱の症状に大別される。後で調べると、同高原にはずっと昔にプリズムリバー伯という貴族の屋敷があったが、あるとき忽然と館ごと消えたという記録が見つかった。

・○月○日、キャシーからの報告。ハーンが野外活動の授業中に突然いなくなり、二日後にストーンヘンジの中で発見された。
※そんなことがあるのだろうか?

・〇月〇日、ハーンが私のオフィスに入った瞬間、つむじ風のようなものが私のデスクの上の書類を無茶苦茶に吹きとばし、私の仕事用の予備端末も巻き上げられ、強かに床に打ち付けられた。今日は無風だったはずだ。私が慌てて部屋に入るとハーンのものではない子どものクスクス笑いが耳元を駆け抜けていった。それともあれはハーンが声色を変えて笑っただけなのだろうか? だがハーンはすまなそうに私を見て、「あの風の妖精の子にはわたしからきつく言っておくわ」と渋い顔をするだけだった。

・○月○日、三叉路にたたずみ、気味の悪い有機合成素材がたっぷりの皿を前にして月を見上げながらぶつぶつと独り言を言っていたらしい。まるで傍に友だちがいるかのように何かに話しかけてもいたらしい。クラスメイトK・Fが問いつめると「ヘカテーの魔術よ。人に危害を加えるものじゃないから安心して」と答えたとのこと。K・Fによると皿の中は「ぞっとする血溜まりと動物の腐った匂い」だそうだ。

・〇月〇日、キャシーはハーンが結界を見ることができ、それを壊しているみたいだと意見を述べる。確かに結界自体は十年前に科学的に存在が証明されているが、それを生身の人間が見ることができる、ましてや干渉できるなんてあり得るはずがない。ハーンの行く先々で結界が壊れていることが多いとしても、偶然だろう。結界は人気のない場所で壊れていることが多い。人気の少ない場所が好きなハーンがそこに迷い込む確率は一般的な子どもよりもずっと高い。私がそう指摘すると、キャシーはあくまで「まるでそう見えるだけ」だと弁解した。誰しも自分の現実認識能力を疑われたくはないものだ。
―― ケースカルテ「M・H」 記入:グレッグ・スミス



「クラウンピースっていう地獄の妖精が」
「オーケイ、ハーン。今度は地獄の妖精がいたんだな? どこに? 月の中か? 森の茸の裏側か?」
 私はイライラして、つい詰問調の言い方をしてしまった。もう少しで、「それは君の頭の中か?」とまで言ってしまうところだった。なんてことだ、この程度の子どもの虚言でカウンセリングアプローチを破ってしまうなんて、カウンセラー失格だ……。そう思うとますます癇癪が募る。自らの焦りがあまりに尋常ではないことに頭の片隅では気がついていたが、押し寄せる感情の波に溺れそうで、何が正常で異常なのかもよく分からなくなってきていた。
「先生ごめんなさい。きっと先生が普段より怒りっぽいのもクラウンピースの能力の影響なの」
 ハーンがすまなそうに謝る。能力? ああ、もう限界だ。私は扉を乱暴に開けると、ハーンをオフィスに残したまま校舎を飛び出し、駅前まで走った。よほど目が狂気に囚われていたのだろう、私はステーションポリスから職質まで食らってしまった。
 自己嫌悪の最悪の気分で自分のオフィスに戻ると明かりは消えていた。当然ハーンはもう帰宅したのだろう。机の上には「先に帰ります。今日の夜にもレンコと夢で会う約束だったから早くベッドに行きたいの」というハーンの書き置きがあった。
 私はすぐにハーンに学校連絡用のSNSで謝罪の連絡を入れた。このSNSは教師と生徒が不適切なやり取りをしないように学校統括のAIプログラムが常時監視している。じきにAIから事情説明を求めるメッセージが届くだろう。今回の件は私の時期契約更新の際に不利な判定材料になるかもしれない。私はキャリアへの不安と、子どもにきつく当たってしまったことで傷つけられたプロ意識との狭間でまんじりともせず朝を迎えた。おそらくハーンがことさらに周囲に疎まれるのは、こうした理解不能な現象を意図せず周囲に出現させてしまうからなのだろう。
 翌週の教員のミーティングで、私はハーンについてまた頭痛の種になる情報を聞いてしまった。魔女信仰のサークルがハーンを「本物の魔女」と崇め、自分のサークルの看板に据えようとしているというのだ。先日ハーンが三叉路で行っていた不気味な「ヘカテーの儀式」とやらを街中で見かけ、その様子にまるで啓示を受けたように感じ入ってしまったのだという。
「その男は手を尽くしてこの学校にハーンが通っていることを突き止め、堂々と学校の理事にアポを取ったらしいのよ」
 キャシーは憤慨して言った。
「あの子はこんな世俗の学校にいるべきではない。適切な魔法の学校に入れ、英才教育を受けるべきだ。そうすれば、今後百年のロンドンの霊的守護を盤石なものとする霊的指導者にいずれ成長してくれるだろう。ですって! どういう神経なのかしら! 信じられる!?」
 理事は当然一笑に付し、カルトを追い払った。だが、立ち去る間際の男の様子から今後学校に直接現れる可能性も予想されるため、しかるべき警戒を行ってほしいということだった。
 男およびその魔女信仰サークルの情報は学校のセキュリティシステムに登録された。滅多なことでは問題は起きないだろう。
 しかし今後このようなことはきっと繰り返される。ハーンには人を引き込む特殊なオーラがある。嫌な言い方だがある種の人間にとって「利用価値」があるのだ。無害なオカルト趣味なら私もとやかく言わないが、大人が子どもをオカルトビジネスに利用するために搾取することだけは絶対に防がなければならない。あの聡明なハーンが、世界からの疎外感を深め、自分を祭り上げる大人たちの中で有頂天になり、人生を歪めてしまう様を想像して私は吐き気がしそうだった。





 
 私はキングス・クロス駅で偶然ハーンを見かけた。彼女は駅の九番線と十線ホームの間にある壁の前をうろうろしていた。そして、通行人をちらちらと見て、時折壁に自分の体を押し付けている。まるでそうすれば壁を通り抜けられるとでもいうように。私はピンと来た。ハリー・ポッターだ。
 
「なにをしているんだい、ハーン」
 私が声をかけると、まるでいけないことを見咎められたかのようにびくりと体を震わせ、怯えた表情でハーンが振り向いた。
「先生」
「ハリー・ポッターごっこかな」
 私の笑った顔に少し安心したらしい彼女は、夢見るような表情を私に向けた。
「わたしにも魔法学校から手紙が来ないかなあ。わたしのハグリッドやダンブルドアはどこにいるのかしら」
 心臓が止まるかと思った。まさか彼女は先日の魔女カルト騒ぎのことを知るまい。だが彼女が知ってしまえば、容易くあちら側に靡いてしまいかねない。はやく彼女の抱える「トラブル」を解決してやらねば。
「レンコがわたしのロンかもしれない」
 「レンコ」はいわゆるイマジナリー・フレンドだ。ハーンの孤独が幻の友人をつくり出したのだ。
 通常イマジナリ−フレンドは放っておいてもよく、無理に消そうとすると良くない影響をもたらすことが多い。とはいえ、ハーンのような事態に至っては、なるべく穏便に、だが早急に退場してもらった方が良さそうだ。
 

 私は、荒療治をやることにした。ハーンはかなり頭が良い。自分でも、自分の妄想や幻覚が突拍子もないものであることを理解している。それなのに、彼女は自分でそれを認めようとしない。だから、私ははっきりと、それは夢だと自覚させてやるつもりだった。シム中毒者や極端な幻覚患者を現実に復帰させるために、患者の意識をシムから少しずつ現実に近づけていくための特別なシムが存在する。この方法ではおよそ八割の患者が無事に社会復帰する。深い水に潜ったときには急浮上せず、ゆっくりゆっくり減圧して上がり、潜水病を防ぐように、このシムは患者の意識を現実に浮上させる際に、それと比喩的にはとても似た挙動をする。シムの正式名称は相対精神治療用ベータ型シム。日本のメーカーはそれに「夢違」という呼称を付けていた。悪夢を見たときそれが正夢にならないように行うまじないが由来らしい。
 ただ、これは一種の賭けだった。もし少しでも現実に浮上するスピードが早すぎれば、物語を解体された自我に後遺症を残しかねない。逆に遅すぎれば物語の深みに退行する恐れもある。私は本来、コミュニケーション・ケアを通して解決できる問題なら安易にシムに頼るべきではないという見解に与している。だが今回のケースではやらないわけにはいかなかった。これ以上放置していても彼女の妄執はひどくなるばかりだし、私の正気も危うくなってきているのだ。
 治療用シムはある種の潜在意識下での思考様式の条件付けを行うことができる。しばしば洗脳プログラムとの誹りも受けるが、それは悪意のある甚だしく不正確な形容だ。これに出来るのは、あくまで対象が潜在意識のレベルでは気がついている客観的現実を受け入れやすくすること。対象が完全に自分の幻想の中に埋没している場合は効果が薄い。つまり、対象が持つ合理的な思考のプロセスを補助し加速させてやるためのツールに過ぎない。これを洗脳だというのであれば、物理学の教科書を読んで上手く飛行機を設計できるようになった人のことを洗脳されたと言わなくてはならないはずだ。
 とはいえ、本来このプログラムを未成年の患者に施すには審議に数か月かかる特別の審査委員会を通さなければならない。私はもう待ってはいられなかった。ハーンの両親も娘のことを案じている。誠意を持って話せば事前に説得可能だろう。――今思えば明らかに誤った判断だ。だが止められなかった。

 




 ハーンにはこれは君が本来持っている現実感覚を司るニューロンの結合を強化するもので、メンタルの安定を助けるものだと一通りの説明をし、シム使用の同意を取る。「レンコ」が消えるだろうことに私は言及しなかった。ハーンはあきらめたように小さな声でイエスと言った。ハーンの両親にも事前に許可は取った。
 私はインターン生のローラの助けも借りて、ハーンをシム用治療用のベッドに寝かしつけ、非侵襲的マシン・ニューロン・フィードバックシステムに治療用シム「夢違」のプログラムを走らせる。
 まず治療用シムは対象の好みに合わせためくるめく物語の世界を再現するところから開始されるはずだ。十五分後、ハーンの脳波モニターは期待通りの反応を示しはじめた。
 ――気分がふわふわとして、なんだかいつものように頭が働いてくれません。でもメリーは気にしませんでした。なにせ、ここに来るまでにもとても素敵な御伽噺の冒険をしてきたのですから。
 シムのモニターがハーンの主観的世界をハーンの語彙できわめて不十分ながらに記述する。おぼろげな映像も時折入るが断続的であてにならない。また映像だけでは主観的な反応が分かりにくいためこうした補助UIが併用されている。
 一人称のメリーというのは聞いたことが無い名称だ。だれか彼女をそう呼んだことがあるのだろうか。
 私は自分の生徒の主観世界を覗き見するという自分の行為の客観的構図に吐き気を覚えながら、モニタリングを続けた。
 ――そしてついに、メリーは九と四分の三番線の前まで再びやって来ました。
 おずおずと壁に手を当てると、すっと手が吸い込まれます! メリーはどきどきして、壁の中に飛び込みました。
 眼を開けた先に広がるのは夢にまでみた九と四分の三番線のホーム。でも、メリーのとびっきりの笑顔は、すぐに曇ってしまいます。日が落ちて昏いホームには、とっくに明かりが付いていないとおかしいのです。それなのに、酷く薄暗く、そしてなによりメリーの他には誰もいません。 
 ずいぶん昔に捨てられたらしいコカ・コーラの空き缶が転がり、配線がむき出しになった電燈が目立ちます。ホームには列車がくる気配はありません。ホームの天井には穴が空いていて、夜空だけが綺麗に静かに輝いています。
 
「九と四分の三番線は廃線になりました。20XX年 魔法省交通部マグル界担当課」
 
 ついに古びた掲示板にそれだけ書かれた張り紙を見つけてしまいました。
 ハリー・ポッターに魔法省「交通部」なんて出てきたでしょうか。メリーはこれはシムなんだとシムの中で自覚し始めました。メリーはなぜ自分がこれほどまでにシムがきらいなのかが分かったように思いました。現実ではないシムが結局戯言にすぎないなら、メリーの「ヴィジョン」もまた単なる妄想に過ぎないと、分かってしまうのが怖かったからです。
 シムからの目覚めは刻一刻と近づいています。サンタクロースの正体がなんとなく分かってしまった年のクリスマス。なにも知らないつもりでプレゼントを開けるときの、あのなんともいえない白々しい喪失感と、大人になった感覚。今日、メリーはまた一歩大人になるのかもしれません。
 

 ここでハーンのモニタリングは脳波パターンを除いて観測が不可能になった。焦ることはないと自分に言い聞かせる。治療用シムの核心部分においては対象が複雑な内的葛藤を行うため、そのプロセスが翻訳ソフトを用いても映像化や言語化できないことも多い。今できることは、結果を辛抱強く待つことだけだ。
 





 ハーンがもう一度寝返りを打つ。シムに没入して数度目だ。予定時間を四割もオーバーしている。そろそろ強制中断を行うか判断するべき頃合いだ。
 「ううん」
 やがてハーンはとろんとした目つきで目を開いた。 
 「気分はどうだい」
 私は祈るような気分で尋ねる。声が震えているのが自分で分かった。
 「夢を見てたみたい」
 「ああ。お友達は?」
 「あの子とは夢の途中で別れたわ。東洋の果ての島国に帰ってしまったの」
 それを聞いて、私はもうハーンの夢にレンコは現れないだろうと思った。
 私は一瞬ハーンの傍に黒い髪の快活そうな少女が寄り添っているのを幻視したように思った。もちろんそれは徹夜でシムを走らせていた私の疲れと潜在意識の願望が生み出したゴーストに過ぎない。瞬きすると影は跡形もなく消えた。
 「そうか、寂しいかい?」
 「いいえ、まだそんなに。でも、きっと、これから寂しくなると思う」
 この日のことをハーンは二度と話題にしなかったし、私も敢えて言及しなかった。
 それからのハーンは、私以外に対する他者への目つきもずっと柔らかくなり、もうむやみに結界を見つけて暴くようなこともしなくなっていった。長く現実を離れすぎた後遺症なのか、それとももともとの彼女の性格なのか分からないが、少しマイペース過ぎる以外は、特に問題はない。私は彼女がクラスにとけ込めるか心配していたのだが、何度かサポートをするうちに、彼女から同級生に挨拶をするようになっていった。何をみているか分からず不気味に思えたハーンの視線も人間に向けられるとミステリアスな魅力のある眼差しになり、彼女の独特の惚けた物腰と相まって、クラスメイトに静かな人気を広げていた。
 私は、自分がしたことが良かったのだと言い聞かせた。なにより彼女は笑うようになったではないか。だが、治療用シムでハーンが眠っているときに、「レンコ」いう寝言を言ったときの、あの花の妖精のような表情は治療後に一度も見ていない。それが、引っかかるといえば引っかかることだった。
 それからしばらくして私は別の生徒の問題にかかりっきりになり、ハーンが卒業するときにオフィスに挨拶に来てくれたことを嬉しく思ったくらいでその後は没交渉になった。その後はハイスクールで彼女が日本語を熱心に勉強しているらしいという話を風の噂に聞いただけだ。
 
 卒業のとき、私はレンコという少女を知っているかと尋ねてみたが、ハーンは不思議そうに首を傾げるだけだった。
 
 彼女の卒業から数年後、私は相対性精神学者として自分のクリニックを開業した。そこそこ評判になるにつれて、他では治せなかったといって紹介状付きで地方から患者が移管されてくることも増えた。それで、ここ数年で三例ほど奇妙な症状を診た。三人とも大人だったが、夢に呑み込まれたり、極端に冷笑的な態度だったり、笑えなくなったりするというものだった。それもある日突然に発症する。
 私には手の施しようがなかった。それで彼らの病歴を調べるうちに、どれも子どもの頃にハーンとよく似た症例を示して、私がガイドラインを逸脱して行ってしまった矯正プログラムと同一の処置を施されていると知った。理由は分からないが、きっとあれははぎ取ってはいけない幻想だったのだ。私はそう結論するしかなかった。ああ、マエリベリー・ハーン。私は君に一体何をしてしまったのだろう?
 
 


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