Coolier - 新生・東方創想話

緋の名残り

2019/10/13 19:38:48
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 時間を巻き戻せぬことだけが、今はただひとつの心残りでございます。あの頃の私には、あえて世を憚ってまで申し上げることなど何ひとつございませんでした。一介の道具に過ぎない私にとって「記録」とはもっとも縁遠いもののひとつであり、陰に生き、陰のうちに世を去り、去ったのちは速やかに皆様の記憶からも姿を消すのが使命と、そう信じて疑いませんでした。
 多くを求めるつもりはございません。私は皆様に、賤陋な使用人の身の上でここにあてなき言葉を述べることを、ただお許しいただきたいのです。それだけが私の願いです。それさえも果たされぬということであれば、その時はここに浅ましいひとりの使用人がいた、ということだけをせめて心の隅にとどめていただければ、いくらかでも救われる思いがいたします。
 贖罪はすでに果たされました。果たされたそのことが、しかし何にもまして今の私には苦しいのです。お嬢様は寛大なお心で私をお赦しくださいます。ですがそれですべての罪は贖われると、本当に信じてよいのでしょうか。お嬢様は私をお裁きにならなかった、であるならば、ほかならぬ私自身が、その役を負わなければならないのではないでしょうか。
 申し遅れました、私はレミリア・スカーレット様の庇護にあずかり、この紅魔館に御奉仕する卑しい小間使いでございます。かつては名乗る名も持たない鼠同然の小娘でございましたが、お嬢様の御厚意によって新しい名前を賜り、以後は僭越ながら「咲夜」と名乗らせていただいております。もとより言の葉の綾など私のような下女の得意とするところではございません。聞くに堪えない点があれば、所詮は使用人の戯れごとと、どうぞこの身の卑賤をお嗤いくださいませ。

 本題を申し上げる前に、まずは私とお嬢様の過去について少しばかり語らせていただきたく存じます。回り道をするようではございますが、ものには語るべき順序というものがございますから、これをなおざりに先へ先へとお話を進めてゆくことは自然ぬかるみに家を建てるがごとき愚挙となり、申し上げる私といたしましてもけしてその無法を是認するわけには参らないのでございます。何とぞ御寛恕くださいますよう――。
 そう――確か簡単な繕いものだったと記憶しております。それがお屋敷に来たばかりの私に任された、初めての仕事と呼べるだけの仕事でございました。針と布を前に、途方に暮れたのを覚えております。――そうなのです、まだ十を越すか越さないかといった当時の私は、単純な針仕事さえ満足にできないばかりか、己がそれを「できない」ということさえ知らなかったのでございます。
 思い返すだにお恥ずかしい話でございますが、ここでいま一度の御説明を差し上げねばなりません。そもそもの初めを申せば、レミリアお嬢様は私を使用人としてお召しになるにあたり、その家事の腕をお認めになったわけではけしてなかったのでございます。詳しい経緯については差し控えさせていただきますが、かつての私は同時代、同年代のお嬢様方に比べて少しばかり「血を見る」機会の多い暮らしを送っておりました。少しばかり、とは言うものの有り体に申せばほとんど獣同然の、およそ文明の光を逃れた生業で日々の命を繋いでいたのでございます。お嬢様との出会いも、もとを正せばそうした人の理を離れた日陰者としての暮らしが生んだ、まったく偶然の邂逅だったのでございましょう。
 今でもありありと思いだすことができます――お屋敷に勤めだしてからしばらくは、毎日が不安との戦いでございました。自分のような薄汚い小娘がこんな立派な場所にいてもいいのか、こうして踏みだす一歩一歩がお屋敷を汚すことになりはしないか、そればかりを考えて拙い家事に精を出しておりました。とかくに当時の私は、自分がここにいて構わない存在である、という当然の自信をどうしても持つことができませんでした。と申しますのもお屋敷に勤める前の私には、無条件に居ることの許される場所などどこにもございませんでしたから、この紅魔館において家事労働を立派にこなすという「条件」を満たせていない私は、つまりはいつお暇を出されてもおかしくない存在なのだと、半ば諦め調子に考えていたのでございます。しかしそのような未熟な私に、お嬢様は格別にお目をかけてくださいました。
 それがどれほどの喜びを私にもたらしたか――私は、いまだにそのすべてを語りおおせる言葉を持ち合わせません。かつてぼろぼろの衣服に身を包み、うつむきながら歩いていた私にお嬢様は特注のエプロンドレスを与えてくださいました。メイドに必要な所作のあれこれを教えてくださいました。美味しいアールグレイの淹れ方を語ってくださいました。右も左もわからなかったお屋敷の仕事が身についていくにつれ、お嬢様は私をお側に置いて下さるようになりました。少しずつ自分が、見知らぬ何か、輝かしい何かに変わっていくのがわかりました。そして、
「あなたは私の一番のお気に入りよ。咲夜」
 そう、仰ってくださったのでございます。酒席のお言葉ではございましたが、それを差し引きましても、私のような従者にはあまりに過大な、勿体ないお言葉でございました。いまだかつてそのようなお言葉を私は別の場所でかけられたことがなく、ゆえに好意という感情とも長らく無縁であり、その温かな手触り、じわりと心に染み入る優しさに、給仕として控える身でありながら私は、危うく涙をこぼしそうになるほどに熱く胸を震わせておりました。準備のために一度退がった薄暗い別室で、私はこっそり片手を口元にあてて嗚咽をこらえました。
 お嬢様が私をメイド長に任じられましたのは、その翌日のことでございます。
 私はここにいていいのだ――今までに一度たりとも信じることのできなかったそれを、しかと肯定することができたとき、私はこのお方に一生の忠誠をお誓い申し上げようと、そう決めたのでございます。そこにあったのは――もしもここにひとつの放言が許されるのなら、それはひとつの「愛」の手触りであったのだと、私はそれを露ほども疑いません。誰かの思いを受け、それに倍するほどの思いでお応えする。お嬢様は私を「人間」にしてくださったのでございます。
 それからの数年は、嵐のごとく過ぎ去ってゆきました。かつて暮らした故郷との別れ、亜細亜諸国の歴訪、新たな使用人の雇用、極東の島国への移住、それにともなう紅魔館の大移築作業、そして幻想郷における賢者との折衝――けして何もかもがスムーズに進んだとは申しません。しかしそこには貴人の傍らに侍る従者としての誇りがあり、絶えず押し寄せる激務に半ば忙殺されながらも、私は身に余る幸福とともに日々を生きておりました。
 ただそれだけをよしとして、生きていればよかったのでございます。されど私は罪を犯しました。しかしそれもまた、お嬢様に教えていただいたこの感情の末路であるという事実が、私には何より口惜しく思われるのでございます。
 「出会い」は、今から半年前に遡ります。

 私はそれをけして忘れません。忘れようにも、心の底に澱のようにこびりついた記憶が、どうしても剥がれ落ちてくれないのでございます。それはちょうど我々がこの場所に移り住んでから一年ほどが経過した頃のことでございました。移住に際してどうしても必要であった折々の交渉に一応の決着がつき、晴れて我々紅魔館一統はこの「幻想郷」なる隠れ里に新たな住人として迎えられたのでございます。季節は春先、いよいよ桜の咲き始める時分でございましたその日の暮れ方、私は当時何度目かになる、人里への買い出しに出かけました。
 およそこれほどの大邸宅に暮らす以上、必要なものは次から次へと生じます。雑多な布の類に始まり、縫い針や鋏などの金物、食器磨きのための粉や石鹸なども必需品です。いかに貯蔵が十分でも消耗品はいずれその数を減じます。減ったものは補充せねばなりません。自然、買い出しの必要が生まれるわけですが、ことはそう簡単ではありません。何となれば、私のいただく主人は人ならざる吸血鬼。里に暮らす人々にとってはそれが、いささか以上に気味の悪いものに映るらしいのです。もちろんその吸血鬼にお仕えする私も嫌悪の対象に含まれておりまして、その「生理的嫌悪」と称すべきものは、どれだけ私が人間であること、主人から皆様への加害の意図が存在しないことを御説明差し上げましても、なかなか一朝一夕のうちに拭い落とせるものではないのでございます。となれば、できうる限りの配慮をさせていただくほかに共生の道はございません。買い出しに日暮れ時を選んだのもそれが理由でございます。人通りの多い日中は避けること。そしてなるべく人里の中心に近づくことなく、その外縁部で買い物を済ませること。それが当時の私に課せられた、使用人としての至上命題でございました。
 さて、人里の皆様が我々を嫌悪している、と一口に申しましても、もちろん住人のすべてがその意に賛同していらっしゃるわけではございません。中には私のような「はぐれ者」にも店を開けて下さる心優しい方がいらっしゃいまして、運よく(というよりはある種の「私たちと同じ」力学に動かされて)人里の外れに存在するその荒物屋で、私は日々の買い物をすませておりました。その日もまた私は色々の買い物をいたしますと、店の奥の御主人に短いお礼を述べ、また来るということを約束した上で踵を返し、薄暗い店の出口をくぐろうといたしました。
 そこに人影があったことに、ついぞ私は気がつきませんでした。
 両手に荷物を抱えていたということもございます。しかしそれを踏まえましても何とも間の抜けた失態でございました。私はそこに人がいるということに気づかないまま、勢いよく正面からぶつかってしまったのでございます。何かにぶつかった、と感じた時にはもう遅く、どうするすべもないまま私は弾かれ、抱えていた荷物を盛大に路地に散らばしてしまいました。
 いけない、と私は思い、ひとまずぶつかってしまったことを謝ってから、道に落ちた荷物を集め始めました。するとありがたいことにぶつかってしまったその方も私を手伝ってくれ、道の反対側まで広がっていた品物は苦もなく私のもとに集まりました。
「ありがとうございます」
 私がお礼を言った先に立っていたのは、ひとりの若い殿方でございました。背はすらりと高く、短い髪を頭の後ろで縛っており、この国特有の簡素な着物に身を包んだ彼は、暗い眼差しで私を見つめておりました。
「……じきに日が落ちる。暗くなれば妖怪も出るから、なるべく早く帰ることだ」
 それだけを言って、殿方は先ほど私が出ていった店の戸口をくぐってゆきました。
 私は何とも返事のできないまま、そこに立ち尽くしておりました。もちろん私こそがその妖怪のもとに帰るのだと言えたはずはございませんが、それを差し置いても、奇妙に言葉を失くしたまま私は、あの方の最後に見せた表情をじっと心の中に反芻していたのでございます。
 その顔の端に滲んだ寂しさのようなものが、どうにも私には、初めて見るものには思えなかったのです。
 思い返せばそれが、私とあの方との、出会いの最初でございました。

 あの方が私と同じ店に買い物をしにきていたということは、ほどなくしてわかりました。あれからひと月ほどが経った五月の夕暮れ、私はふたたび買い出しに出かけました。前回の買い物と出かける時刻を同じくしたのはけして偶然ではございません。私は、叶うのであればもう一度あの方にお会いしたかったのでございます。それはあの時に私が感じた不思議な感覚の正体を、もう一度確かめるためでありました。
 果たして運のいいことに、あの方は店の中で荒縄を物色している最中でございました。私は御主人への挨拶もそこそこに殿方のもとへと歩み寄り、そっとお声かけをいたしました。
「……あの」
 ちら、とこちらに向けられた視線に、私は続く言葉を失ってしまいました。というのも、恥ずかしながら私は今までに同年輩の殿方とほとんど言葉を交わしたことがなかったのでございます。メイドとしての主人への取り次ぎ、ということであればもちろん経験もございましたが、そうした職分を離れたまったくの「個」として男性に接する、ということを私はほとんどないがしろにしてきたのでした。その言わば「怠慢」とでも言うべきものの代価を、不文明な絶句という形で私は支払うことになったのでございます。
「…………」
 殿方はじっとこちらに視線を注いだのち、私が何を言うでもなく黙っているのを見て取ると、何かの勘違いとでもお思いになったのか、ふたたび品物の群れに目を落としておしまいになりました。これではいけない、と私は思い、意を決して声を絞り出しました。
「……あの。この間はその、ありがとう、ございました」
 何とも情けないことに、最後の方はほとんど蚊の鳴くような声でございました。それが果たして届いたのかどうか、殿方は顔を上げることなく、ほとんど私を無視なさるように店の品をあらためておりましたが、やがてぽつりと、
「悪いが思いだせない。この間ってのはどの間だ」
 消え入りたいほどの思いでございました。しかしここで引いてはすべてが無駄になる、と私は思いつめ、先日落とした荷物を拾っていただいたことをたどたどしく御説明いたしました。すると彼はようやく気づいた様子で、
「ああ、あの時のあんたか」
 ようやく思いだしていただき、私はほっと息をつく思いでございました。たとえ「あの時のあんた」という扱いであっても、とにかく私が初対面ではない、という事実については共有できたのでございますから。
「礼なんて忘れろ。そんなものひと月も覚えとくもんじゃない」
 殿方は続いてこう仰いました。やはりこちらに目を向けることもなく。取りつくしまもない、という言葉が私の脳裏をよぎりました。ああ、なべて世の殿方というのはこうした難しさを備えているものなのだろうかと、当時の私は途方に暮れる思いでございました。しかしそれから奇妙なことが起こりました。殿方は、突然何かに気づいたようにちらと顔をお上げになると、私の顔をじっとお見つめになり、
「ん、いや、待て。今のは無しだ。あんた、俺に感謝してるんだな? そういうことでいいんだな?」
 いきなりの問いに私は驚きましたが、今度はどうにかうなずくことだけはできました。
「……え、ええ」
「恩を返す気はあるか?」
 私は目を見開きました。そこまで直截な問いは、あのお嬢様でさえついぞお下しになったことのないものでした。しかしもちろん私としましてもそれを否定するつもりはございません。
「私にできることでしたら」
 そう私が口にすると、殿方は先ほどまでの様子が嘘のように力強くうなずいて、
「俺と来い。今すぐだ。時間は取らせん」
 そう仰るが早いか、殿方は私の手をぐいと引いて、何とそのまま店の外に歩き始めるではございませんか。目の回る思いでございました。生きてここにある殿方の肌に触れるなど、今までまったく経験もなかっただけに、いきなり訪れたこの奇妙な仕打ちを、私はほとんど冷静に考えることもできないまま、ただ転ばないように彼の歩みに従って足を動かすだけで精いっぱいだったのです。しかし不思議と恐怖はございませんでした。生涯で初めて触れる、硬く力強い殿方の手に引かれ、私は変わった夢でも見ているような心地でひたすらに歩き続けました。
 たどり着いたのは人里を離れた山のふもとの、お世辞にも手入れが行き届いているとは言いがたい一軒の小屋でございました。庭に幾本かの牡丹が植わっており、殿方はそこでようやく私の手を離すと、「汚いところですまんが」と仰って、開け放しの引き戸の奥へ私をお導きになりました。有り体に申せば、そこでわずかな不安が私の中をよぎったのでございますが、小屋の中に山と積まれた「それ」を拝見いたしますと、わずかにそのような気持ちも薄れました。
 結論から申し上げますと、この方の御生業は木を専門とする彫師だったのでございます。身近のこまごまとした品物、それはたとえば鏡であるとか化粧箱であるとか、あるいは別の日用品の「木」で作られた部分に様々な意匠を彫りつけ、然るべき店へと卸して日々の糧を得ていたのです。ではなぜ私がそのような場所に連れてこられたのかといえば、これはもう簡単至極に「ひとりではできない仕事があるから」とのことでした。つまり殿方は、人手を欲していたのでございます。そこに偶然現れた私は、ひと月前の小さな恩をいつまでも覚えているような小娘であり、「これは使える」とあの方はお考えになったに相違ありません。
 容易には肯んじえない部分ももちろんございましたが、とにもかくにも先月の恩は恩としてございます。細かい事情はこのさい考えないことにして、私は殿方のお仕事を手伝うことにいたしました。もともと誰かに使われることには慣れております。また僭越ながら、指先の仕事には多少なりとも精通しているという自負もございます。果たして私の働きは殿方のお眼鏡にかなったようで、一通りの仕事が終わると、あの方はその顔にほんのわずかな満足げな笑みをお浮かべになり、
「すまん、助かった。おかげでヤマが片付いた」
 それだけを端的に仰ると、もう帰っても構わない、夜道にだけは気をつけろとお続けになって、黙々と別の仕事に取りかかり始めました。
 それはひとつの解放ではございました。この時点において私とあの方との「貸し借り」は、その一切が償却されたことになります。私たちは元の他人同士の関係に立ち戻り、たとえまたあのお店で顔を合わせることになろうとも、型通りの挨拶を交わす以外にはいかなる関係の進展も望みえないでしょう。しかし私にはそれが、なぜだかとても寂しいことのように思えたのでした。と申しますのは、里に暮らす人々に――そこに如何ともしがたい事情があるとはいえ――距離を置かれてしまった私にとって、ここまで近い場所から、何の分け隔てもなく声をかけてくださる方というのは、あまりにも得がたい存在だったのでございます。行きがかり上とはいえせっかく結ぶことのできた縁です、事が片付いたからといってすぐに手放してしまうのは、私にはとても勿体ないことのように思われるのでした。そしてさらにもうひとつ、彼の仕上げたいくつもの作品――無造作に部屋に転がされていた彫物――は、素人目の私から見ましても、非常な美しさを持っているように思われました。このような美しいものをお作りになる方のお心がまさか貧しいはずもないと私は考え、にわかにこの方への興味を持つようになりました。そうした心の動きもあって、今すぐにも帰って構わないはずの私は、それでも土間の靴に足を通さぬまま、何とも申し上げがたい心持ちであの方の背中を眺めていたのでございます。
 意を決して、申し上げました。
「あの、よろしければ……またお邪魔させていただいてもかまいませんか」
 殿方は顔だけでこちらを振り返りますと、怪訝な面持ちで眉をお上げになり、
「あとはひとりでできることばかりだ。人手はもう必要ないが」
 いえ、と私はかぶりを振り、
「その、彫物の仕事というのは、見ていて飽きないものだなと思いまして。傍で見ているだけで構わないのです。またここにお邪魔しても、よろしいでしょうか」
 殿方は私の顔をじっくりと眺めた後でふたたび手元に視線をお落としになり、
「あんたの勝手なら、俺に止める義理はない。ただし話相手には向かんぞ俺は」
 事実上の、承諾、でございました。正直に、救われる心地がいたしました。私はこの方の道具としていいように利用されたに過ぎない――その事実も一面にはございましたが、しかしもう一度あの、一心に手元の彫物に打ちこむ横顔を見られる機会ができたと思うと、やはり心の弾むような思いがするのでございました。

 それからの私は、買い出しの用が生ずるたびにあの方のもとへ出かけてゆきました。けして特別のことがあったわけではございません。私たちは簡単な挨拶を交わし、後はただ、日の暮れきった暗がりの中、手元の灯りだけで仕事をする彼の御様子を、飽かず眺め続けていたに過ぎないのです。あまりに遅くなりますとお屋敷の家事に支障をきたしますから、ほどよいところで私はいつも切り上げてお暇を申し上げます。すると殿方は「ああ」とのみお返事をなさって、やはり手元の仕事に目をお向けになっているのでございました。
 思えば不思議なものでございます。そこにあるのはただの木と刃物、しかしそれらが然るべき場所に然るべき跡を刻むうち、目にも鮮やかな花や、龍や、美人画が姿を現すのでございます。すべてはあの方の大きな手によって為される魔法でございました。そしてその魔法に打ちこんでいるうちは、あの方の顔に絶えず浮かんでいる寂しさの色が、つかのま消え去ってしまうのでございます。幾度となく通い詰めるうち、私はいつしか彼の描き出す彫物ではなく、あの方自身のそうした表情を眺めるために小屋を訪れるようになりました。
 三、四ヶ月ほど、そうした生活が続きました。私は紅魔館のメイド長としての顔と、彫師の客人としての顔を、同時に持つようになったのでございます。
 いつしか私は、彼の仕事を手伝うようになっていました。どちらから言い出したことだったのかは覚えておりません。しかしこの援助は良好な結果をもたらしました。彼は簡単な仕事であれば私に刃物を持たせてくださるようになり、その結果として品物ひとつの仕上がりが格段に早くなったのです。彼はある時、ぽつりとこう仰いました。
「いい指だ。俺よりずっと刃物に向いている」
 ふいに、心のうちの言葉がもれた、といった調子でございました。私はこの二言ばかりの台詞を、今も忘れることができません。それまでほとんどの仕事をひとりですませてきたあの方が、私の手に対してそれだけの言葉をかけて下さったのです。その喜びは、かつて私をメイド長として見出してくださったお嬢様の、あの時のお言葉にさえ迫らんとするものでした。
 そして喜ばしいできごとはもうひとつございました。
 それは、さる大きな仕事が完成した日に起こりました。私と彼とはともに助け合いながら――と申しましても私はあくまで補助の役目をお勤めするのみでしたが――その仕事を終え、どうにか私の帰る時間までにすべてを済ませることができました。私たちは大きな達成感と充実した疲れの中にあり、それでもあの方は次の彫物の構想を練るために黙々と手近な木切れに目印をつけておりました。私の方でもそうした彼の振る舞いはすでに承知しており、ならばと私も手荷物をまとめていつも通りに帰り支度を始めました。
「待ってくれ」
 しかしその声が、引き上げようとした私の背中にかけられたのでございます。
 かつてそのように彼に呼び止められたことなどただの一度もございませんでした。面食らった表情をどうにか隠そうと努めながら私が振り返りますと、先ほどまで何もなかった小屋の板張りの床の上に、簡素な小箱が置かれているではありませんか。彼はそれをお示しになり、
「お前にやる」
 私が戸惑いつつその場に立ち尽くしていますと、開けてみろ、とあの方は手ぶりをお見せになります。仰るままに私は小箱を手に取り、おそるおそるその蓋を開けました。
 思わず、息を呑みました。
 中に入っていたのは、小さな手鏡でございました。
 いつも手伝わせてばかりいた分の礼だ、と彼は仰いました。
 ただ静かな驚きに、私は打たれておりました。壊れものに触れるような慎重さで私はその鏡に触れ、ゆっくりと箱から取り出しました。鏡には呆けたままの私の顔が映っております。裏返しますと、そこには見事な牡丹の花が一輪、思わずため息がこぼれるほどの精緻さで彫りつけられておりました。
 それはあの方から私への、まごう方なき一箇の贈り物でございました。
 本当は上等の紅を買ってやりたかったのだが、と彼は仰いました。しかし実入りの少ないこの暮らしではなかなかそれだけの金銭を貯めることもかなわず、ならばと自らの手で生み出せるものを鏡の裏に彫りつけ用意したのだと仰いました。だがこんなものは見飽きているだろう、とややきまり悪そうに彼は瞳をお逸らしになるのでしたが、私は強くかぶりを振ってそれを否定いたしました。
「宝物にいたします」
 これは、ただの牡丹ではないのです。あの方の心に映り、あの方の指先によってえがかれた一輪の花なのでございます。それがこんなにも美しい輝きを放っているということ。日ごろ感情を表に出すことはなく、言葉数はそれにもまして少なく、それでもあの方の心の中にはこの牡丹を咲かせるだけの豊かな大地がある。そしてそれは、ほかならぬ私に向けられた花なのです。これが幸せでなくて何でしょうか。喜びでなくて何でしょうか。それは私のような使用人には、あまりに勿体ないほどの贈り物でございました。
「……そうか」
 幼い子供のように喜ぶ私の姿をご覧になったあの方は、あの寂しげな顔に、ほんのわずかばかりの笑みを浮かべていらっしゃいました。それはあの方としては破格なほどの感情の表現でございました。
 ああ、この人に惹かれている、と私がはっきり自覚いたしましたのは、この時が初めてでございます。
 きっと私たちは深く心を通わせることができる。そう信じて疑わないまま、私は暗い帰り道を歩いてゆきました。
 その夜のことでございます。不躾を承知で「転落」という表現をお許しいただけるのであれば、これはそのまったき端緒であったと申し上げることができましょう。
 それはお屋敷に帰った私が、レミリアお嬢様に晩のお茶を差し上げていた時のことでございました。

「お前の美点は何だと思う?」
 差し上げたお紅茶を一口お召し上がりになったあと、何ということもないようにお嬢様はこう仰いました。私は初め、それが日ごろお嬢様の口になさる戯れと同じようなものであると愚考しておりました。いわゆる冗談や諧謔といったものをお嬢様はこよなく愛しておられます。それが悠久の時を楽しく生きる秘訣よ、と自ら仰っていたくらいでございますからその愛好ぶりは筋金入りと言えるでしょう。しかし私の方はといえば、いつもこの手のお嬢様の御冗談に見合うほどの気の利いた返事を申し上げることができません。この時もまた、それが御冗談であるとわかりながらも愚直にこう申し上げるのが精いっぱいでございました。
「私の、でございますか? それは……お嬢様についてでしたら、いくらでも申し上げることができるのですけれど」
「思った通りの返事ね、咲夜」
 そう仰って、お嬢様は悠然とお笑いになり、
「あなたの美点は、この私だけを頂に置く絶対の忠誠よ。これがなかなか望んでも得られないの。妖精メイドを見ればわかるでしょうけど、あの子たちは陰では好き放題だもの」
 そして開かれたカーテンの向こう、暗い幻想郷の夜に目をお向けになりながらお嬢様は、
「その点あなたは違うわね。咲夜だけは、裏も表も全部、私のもの」
 それは、少々失礼な表現をさせていただくならば、今さら確認するまでもないことでございました。私の主君はレミリアお嬢様ただひとり。これを覆すものがあるとすれば、それはやはり、お嬢様御自身をおいてほかにはございません。ではなぜそのようなことを今、お嬢様が御確認になるのかと私は考えねばなりませんでした。まるで意味もないようなことであっても、それはお嬢様にとって確かな意図を持った御発言であることが少なくありません。ならば今度も――と考えたその時、私の中を冷たく走り抜けるものがございました。
 それは初め、他愛のない些事として一考にさえ値しないことでございました。しかし時が経つにつれ、やはり「それ」をおいて他にないのではないかと私は思いつめ、小さかったはずのその懸念は、今や一秒ごとにその重さを倍にしておりました。予兆は、聡明なお嬢様の目には初めから明々白々のものであったのかもしれません。それは近ごろとみに数を増すようになった買い出しに、あるいはその帰宅時間のわずかな遅れに、小さいながらもはっきりと示されておりました。ことここに及んでただの偶然であると言い張るのは難しいほどに、私は「あの方」に振り向ける時間を増加させていたのでございます。
「ねえ、人間は間違える生き物よね、咲夜」
 まるで何でもないことのようにお嬢様はおこぼしになられました。しかし私にはその言葉の裏のお嬢様の意図が、少しずつ、少しずつ、薄紙を剥がすようにわかるような気がいたしました。
「それならたった一回の過ちで罰を与えるのはおかしな話だわ。だって人間は人間である限り、間違えずにはいられないのだもの」
 確信いたしました。お嬢様は言外に、それがあからさまに響かぬような温情をもって、私の不徳を糾していらっしゃったのでございます。
 お嬢様――いえ、現紅魔館当主レミリア・スカーレット様は、かつてこの世界に存在した貴い者の血を色濃く現代に残す、ほとんど最後の「貴族」であらせられます。その血に与えられた責は「優雅なる支配」、その貴さをもって諸人の上に君臨することこそ至上の責務であり、なればこそ仕える者にもそれと同等の忠誠を求めることができるのです。そして一方の仕える者は、その忠を他のどこにも振り向けぬ、という使命を同時に持ちます。
 率直に申し上げます。お嬢様はその召使に、あらゆる形での異性との交際をお認めになっていなかったのです。これはお嬢様御自身の私情や独断によって生じたものではございません。それは言わば「貴人」にお仕えする者の当然の定め――何となれば従者が他所の異性を慕うということ、わけても女性が男性を恋するということは、そこに新たなる「主人」を見出すことにほかなりません。そしてそこにいかなる事情があろうとも、ひとりの従者が「二君」に仕えるを是とする理法はないのです。それは背信の道でございます。現代においてはもはや絶えて久しい観念かもしれませんが、厳粛な貴族の法に照らせば、私の行ないはその法を破るものでございました。
 もちろん私もその法については存じ上げておりました。しかしこの胸にあの方の存在を問うてみた時、それが軽薄な「色恋」であったなどと考えたことはただの一度もございませんでした。――いえ、しかしそれもまた、不出来な従者の姑息な言い逃れに過ぎないのでしょう。
 私の心は千々に乱れました。もしこの時何もかもをつまびらかにしていたなら、あるいは今とは違った結末を迎えることができたのかもしれません。お嬢様の目に不審と映った時点で、もはや私は立派な咎人でした。主君の御不興を買い、疑いを得ることが従者の罪でなくて何だというのでしょう。しかし当時の私には、どうしてもそれを認めることができなかったのでございます。
「仰る通りでございます、お嬢様」
 私はこう申し上げた後で、わずかな沈黙を間に挟んでこう続けました。
「ですがご安心くださいませ。少なくとも今の私には、あえてここに申し上げるべき不徳はございません。この身と心はすべて、とうの昔にお嬢様に捧げております」
 そう、私はここで、あの時お嬢様がその寛大な心から導いて下さった助け舟を、すげなく撥ねつけてしまったのでございます。
 痛む良心を抱えながら、しかし私はそれを努めて考えないことにいたしました。すなわちあの方との関係は「ひとりの彫刻家との交流」であったのだと、それは言わば従者としての見聞を広めるための行ないであり、そこに一片のやましい気持ちもなかったのだと、私は思いつめました。さらに付け加えるなら――そう、これははっきりと申し上げねばなりません――お嬢様はまだ具体的な私の交流を御存じではない、ただ私の常と異なる様子からそうした結論をお導きになったに違いない、などと従者の身をわきまえぬ不遜な推測をはたらかせて、私はあの場を「切り抜けようと」したのでございます。ここでこうして私の働きに影が差してしまった以上は、もうかつてのように買い出しの時間を使ってあの方にお会いすることはできないでしょうが、しかしそれ以上のことにはならないだろう、今からでも品行をあらためれば間に合うだろう、と狡知を巡らせていたことは、厳然たる事実であり、もはやそこにいかなる反駁の余地もございません。
 沈黙の一瞬が過ぎ去りました。
「……そう」
 やがてお嬢様は小さなため息をおこぼしになり、
「ごめんなさい咲夜。変なことを言ったわね」
 そう仰ったきりで、あとは常の通りに夜のお茶を楽しむお嬢様がそこにはいらっしゃるのでございました。
 正直に申せば、その横顔に私は、心の底から安堵の思いを抱いたのでございます。
 そして私はこの時、自らの運命を変えうる最後の一線を、何の迷いもためらいもないままに、踏み越えてしまったのでございました。

 宵の散歩に出かけましょう、とお嬢様がお命じになったのは、それから三日後の晩のことでございます。私は以前より、従者としてそのお側にお仕えする光栄にあずかっておりました。散歩と申しましてもさほど遠くへお出かけになるわけではなく、せいぜいがお屋敷の前の湖をぐるりと回る程度のものでございます。今宵もまたそうであろうと私が考えておりますと、お出かけの間際、お嬢様はこう仰ったのでございました。
「今日はちょっと遠くに行きましょう」
 これもまた、お嬢様の御命令としてはさほど珍しいものではございません。
 お嬢様が常にまして「遠くに行こう」と仰ること、これはすなわち「遊興」の支度をせよ、ということを意味します。となれば追って必要なものが生じますから、私は今しばらくの猶予をお嬢様よりいただき、粛々とその御用意をいたしました。とはいえさほど多くのものを要するわけではございません。丈夫な麻縄に予備のナイフが一振り、それに大きな布袋があれば用は足ります。準備には五分とかからなかったでしょう。すべての支度をすませ、私とお嬢様は月光の照らす夜の道に出かけてゆきました。
「咲夜」
 お嬢様が私をお呼びになったのは、それから十分ほど経ったころでございました。お嬢様は私の三歩ほど前を悠然と歩まれつつ、
「お前は最近、帰りが遅くなったわね。一度出かけるとなかなか戻らない」
 お嬢様がこちらを顧みられなかったことが、私にとって何よりの罪深き僥倖でございました。ほんの一瞬とはいえそこには、何を取り繕うこともできないままの私の当惑が、ありありと浮かんでいたに違いないのですから。
「帰り道に、何か楽しい場所でも見つけたの?」
 一筋の汗が、背中を伝うのがわかりました。お嬢様は依然、前を向いたままでいらっしゃいます。私は努めて平生の調子を保つようにしながら、
「以前使っておりました道に、妖怪が出るとの噂を耳にいたしまして」
 お嬢様はお答えになりません。ただ沈黙の中に、お話の続きを促すようでございました。
「以来、避けて通るようにしているのです。遠回りにはなってしまいますが、何より物騒でございますから」
「ふうん」
 わずかばかりの申し開きをさせていただけるのなら、これはけして、まったくの偽りということではございませんでした。かねてより私が買い出しの行き帰りに使用していた道は、その実本当に、魑魅魍魎の跋扈する道として有名な場所だったのでございます。しかしそれだけが遅れた理由のすべてではない、どころか真に語るべき事情の一切を秘匿しているという点において、私の不誠実はここにふたたびその愚かな働きを生ぜしめたと申せましょう。
「――ああ。こっちよ、咲夜」
 その時でございました。道はちょうどそれまでの山林を抜けたところで、蒼白い月光が降り注ぐ中、我々の前には二手の岐道が姿を見せておりました。平素であればこれは当然「左」の道をゆくべきはずのものでございます。と申しますのは、お嬢様のお目当てを首尾よく達するにあたり、右の道を選ぶのはいささか都合が悪いのでございます。何となればそちらは人里へと続く道でございますから、このような夜更けに吸血鬼の主従が里に姿を見せる、という珍事を避けるためには、やはり左を選ぶほかに道はございません。
 お嬢様もそれを十分御理解なさっていたことと思います。ですがこの時に限っては、お嬢様は自ら率先して、ただ里に続いているばかりの右の道をお選びになったのでございました。
「お嬢様……?」
 その御意図をはかりかねた私がおそるおそるこうお尋ねいたしますと、
「今日はこっちにするって決めたのよ。何か異存があって?」
「……いえ」
 異存などあろうはずもございません。あくまでひとりの従者に過ぎない私がお嬢様に諫言など、主従の節を超えた分不相応の振る舞いでございます。お嬢様がそうお決めになったのであれば、私はただそれにお従い申し上げるばかりです。しかしそれでも、一抹の疑問は私の内に残りました。かねてより申し上げた通り、お嬢様はたとえ気まぐれのように行動される時であっても、必ずそこには何らかの深遠な意図をお含みになっていることが少なくありません。胸にしこりのように凝ったそれを考えつつ、私は歩き続けました。
 そうしてしばし歩くうちに、私はある可能性に思いを致し、致したが最後、恐怖に裏打ちされた興奮と指先の震えとを、抑えきれなくなりました。
 あえて伏せてきた一事を、今こそ明かすべき時であるかと存じます。ほかならぬお嬢様の「遊興」についてでございます。お嬢様がこうして遠方に足をお向けになる時――取りも直さずそれは「狩り」のための散策なのでございます。
 ではいったい何を狩るのか。
 あえて申し上げるまでもないでしょう。むろん「狩り」と申すからにはそれは当然の娯楽という一面と、もうひとつ、「食料調達」の一面とを兼ね備えている場合がほとんどでございます。少なくともお嬢様の場合はそうでございました。
 そして、この道の先にあるものは――、
 かつてお選びになったことのない道を、ためらうことなくお嬢様は進んでゆきます。私はその後ろに、身も世もないような心地で付き従いながら、これがお嬢様流の御冗談であればと、そればかりを一心に願っておりました。
 先刻申し上げました通り、この道は人里へと続いております。しかしお嬢様がそこにお向かいになるであろうとは私も考えておりませんでした。何となれば、里に暮らす人間を脅かしてはならないという不文律がこの幻想郷にはございますから、どれだけお嬢様がお望みになろうと、この一線を越えることは断じて許されないのです。
 ですがそれは、あくまでも「里の人間」に限ったお話でございます。
 そうなのです。この不文律が守りうる者は、あの大きな人里に帰属し、そこに住処を持つ人間のみ。ひとたびその集落を捨ててはぐれ者の暮らしを送る人間を、この幻想郷という箱庭は決して守ることはありません。
 果たしてお嬢様は、里に着くより遥か手前で立ち止まられました。
 荒い息を噛み殺しつつ、私もまた歩みを止めました。斜めにうつむけた顔を、どうしても上げることができませんでした。一度それを見てしまえば、もはや何を疑うこともできません。しかし結局はそのままでいることもできず、総身の震えをどうしようもないまま、ゆっくりと私は眼前の光景に目をやりました。
 お屋敷から人里へと続くこの道には、一軒の家屋がございます。
 何かの間違いであってほしいと、そればかりを私は願っておりました。しかし今さら見間違いなどあろうはずもございません。庭に整然と植わった幾本もの牡丹――ただそれを見ただけで、月の下にきらきらと開いたその花弁を視界におさめるだけで、もはやすべては私の前に、つまびらかにされたも同然でございました。
「人の気配があるわね、咲夜」
 こちらに背中をお向けになったまま、お嬢様は仰いました。ああ――お嬢様は初めから、何もかもをお見通しだったのでございましょう。低級の使い魔をお遣わしになったか、あるいは御令友のパチュリー様に御相談あそばされたのか――詳しい手立てについては存じませんが、ともかくも、私が買い出しの帰りに何をしていたか、いかなる理由があってお屋敷への帰着が遅れたのか、すべてを御存じでいながら、お嬢様はあえてそれをあからさまにお示しになることはなかったのでございます。それがお嬢様にできる最大限の譲歩であり温情であったことは疑いを容れません。しかし私は狡猾な知恵をはたらかせてお嬢様を欺こうとした。今ここに私が命を繋いでいることすら奇跡のように、私には思われました。それだけの罪を、私は犯したのでございますから。
「これが最後のチャンスよ」
 お嬢様はそう仰って、じっと目先の小屋を見つめていらっしゃいました。窓から漏れるあかりは、まさしくあの殿方のいらっしゃる証でございます。やがてお嬢様はぽつりと、

「あの男を殺して、ここに持ってきなさい。咲夜」

 今にもその場に膝をつきそうになるのを、私はただこらえることしかできませんでした。
 御命令は下されました。となればもはや、私の一存でそれを覆すすべはございません。しかしこれは、これだけは――今までお嬢様がお下しになったどんな御命令も違えたことのない私が、この時ばかりは呆然と、その場を動くことができずにおりました。
 ですがそれは、絶対なのです。もはや私に選択の権利はなく、身に帯びたこのナイフをもって、私はあの方を殺めなければならない――その義務を明々白々に意識しながら、それでも身体は動いてはくれません。どうして動くことなどできましょう。胸を巡るのはかつての思い出でございました――不器用な出会いでしたが、私はその先に、お嬢様に向けるものとはまた異なる熱い思いを知ることができたのでございます。それは時に尊敬であり、またある時は喜びであり、何もかもが新鮮な驚きの日々でございました。言えなかった言葉がございます。聞きたかった言葉がございます。ただそれだけの思いが――果たして、罪なのでございましょうか? それらすべてを塗りこめてしまう流血が、私とあの方との間には、果たして本当に、必要だったのでございましょうか。
 長い長い苦悩の果てに、私はそのような疑念さえ、胸のうちに巡らすようになっておりました。忠誠の、揺らぎ――あれほど強く誓った言葉さえ崩れかかるほどに、人間の心とは弱いものなのだと気づき、しかし気づいたところで何ができるものでございましょう、ただ息をあえがせながら私がうつむいておりますと、お嬢様が、ちらとこちらをお振り向きになりました。
「……また、この匂い」
 そう仰ったお嬢様の瞳に、氷のような光が宿っているのを、私は地の底が抜けるような驚きとともに見つめました。
「愚かな雌の匂いだわ。今までのあなたには、なかったものよ。咲夜」
 そこには、誰の目にもはっきりとわかるほどの、確かな、
 蔑みの、色が――
「…………!」
 危うく出かかった悲鳴を、剣を呑むような心持ちで私はこらえました。
 それは、絶対にあってはならないことでございました。
 私はかつて、救われました。お嬢様の手によって救われたのでございます。もしこの世界の一切に拒絶されようとも、私は生きていくことができるでしょう。しかしお嬢様は――お嬢様だけは違います。あのお方は、私の光でございます。闇に落ちる柔らかな月あかりのごとき、道を照らすただひとつの光――しかし今、その光は、ほかならぬ私自身の罪によって、その輝きを失おうとしておりました。ぽたぽたと手を濡らす水に気づいて、ようやく私はその時、自分が涙をあふれさせていることに気づきました。もし私がお嬢様を失ってしまえば、あの煌々たる光を見失ってしまえば、それはもはや、私というひとりの人間の死と、何を相違するところがございましょう。ゆえにそれだけは、決してあってはならないことだったのでございます。
「お嬢様……お嬢様。私は……」
「私はここで見ているわ」
 滂沱の涙を流しながらなおも動けない私に、お嬢様は仰いました。
「あなたが、今でも私のメイドなのか。それとも……もう遠いひとになってしまったのか、どうか」
 その時ばかりは表情にわずかな、ともすれば寂しげな温度をお示しになると、お嬢様はくるりとまた、私に背をお向けになってしまわれました。
「…………」
 私は、長い長いためらいと苦悩と沈黙のあと、
 腰のホルスターから大振りの銀ナイフを抜くと、
 震える手にそれを構え、おぼつかぬ足取りで小屋の入口に歩き、
 そっと、音の立たないように閉ざされた扉を開きました。
 そこにあったのは、かつて幾度となくこの場所から眺めた背中。座り込み、一心に彫り物をするあの方の背中は、今宵もまたかつてのそれと寸分たがわぬ姿で、そこにございました。私は音を殺してその背後に歩み寄り、やがてただ一歩を隔てた距離に、立ちました。
 支度は整いました。もはやあまりにもそこには、なすべきことというものが残されておりませんでした。あとはこの刃を彼の胸に突き入れてしまえば、すべては終わるのでございます。しかしそれは、永久にこの方を失うということ。この世からひとりの罪なき人間の、そして私の愛した方の命が、失われることを意味します。
 いつまでもここに立っている暇はございませんでした。いつ何時、彼が背後の私に気づかぬとも限らないのです。そして私には、けしてお嬢様を失うわけには参らないというもうひとつの理由もございます。静かに呼吸を繰り返し、それでもなお私は迷い、手を下すことができずにおりますと、
「もう少しだけ待ってくれ」
 銀ナイフを力なく握る私の耳に――その時、ひとつの声が響きました。
「っ……!」
 相違ございません、確かにそれは、あの方の声でございました。手元の彫物にじっくりと手を加えながら、こちらを振り返ることなくあの方はそう仰ったのでございます。まるで背後の私に、初めから気づいていたかのように、少しも動ずることなく。一方の私はその場に凍りついたまま動くことができません。そして、
「驚いてくれるなよ。そんだけの気配出してりゃ嫌でもわかる」
 続けて、これはわずかな空白をもって、
「……妖怪の仲間なんだろ? あんた」
 それを認めることも、偽ることも私はできず、ただ背中越しの彼の声を聴くばかりでございました。
「それか、あんた自身が妖怪か、だな。俺を殺しに来たのか?」
 そしてあの方は、ようやくこちらをお振り向きになると、唇を噛みしめた私の表情に目をお留めになり、
「……図星か」
 そうおこぼしになって、再び手元の作業に戻ってしまわれました。
 長い長い沈黙がございました。彼はその手の小刀を慎重に動かしながら、
「覚悟はしてたさ。こんなところに住んでりゃ、どのみち長生きはできねえと思ってた。むしろ今まで死なずにすんだのが不思議なくらいだ。どうせ大して値打ちのある人生でもなし、いっそすぱっと片づけてくれるならその方がいい……と、今でもそれは変わらねえが」
 わずかな間があって、
「悪いが少しだけ待ってくれるか。やり残した仕事がある。こいつが済んだら後は煮るなり焼くなり好きにしろ。だがこいつを仕上げねえうちは、死んでも死に切れん」
 それだけを仰ったきりあの方は、またしても深い沈黙の底に沈んでしまわれました。その手は先ほどと少しも変わることなく、よどみなく手元の彫物を進めていらっしゃいます。
「それは……」
 私が消え入りそうな声でお尋ねいたしますと、彼は小さくため息をおつきになり、
「……まあその、何だ。塵芥同然の人生だったが、そん中で俺がそこそこ『悪くねえ』と思えたもの、だな」
 それ以上は私も問うことができず、むろんこの手の中の刃物に力を加えることもできないまま、ただ過ぎていく時を感じておりました。願わくはこの時間が永遠であってほしいと、私は祈りました。そうすれば私は、少なくともこの方を殺めずにいられるのです。しかし永遠はここにはなく、瞬きのような時間の後に、彼は手になさっていた小刀を脇にお納めになり、仕上がったとみえる作品を自らの傍らに置かれました。それは私の位置からも容易にうかがうことのできるものであり、そして、
「…………!」
 意識が真っ白に、塗りつぶされていくのがわかりました。
 それは、彼のもっとも得意となさる人物画のひとつのように見えました。そこに彫られていたのはけして見知らぬ顔ではなく――たとえばその髪の形、あるいは顔のつくり、あるいは頭に載ったヘッドドレス、両耳を通って垂れる三つ編み――すべてが既知のものであり、それはまさに疑いようもなく、
 私の――、

 浮かぶのは、すでに幾百、幾千と繰り返された問いでございました。私は本当に――本当にこの方の命を奪わなければならないのか、と。

「さあ終わりだ。さっさと済ましてくれ」
 彼はどうということもないようにそう仰いますと、私に背を向けたままどっかりと胡坐をかいて背筋をお伸ばしになりました。
 もはやこの運命を変えることはかないません。殺されてしまう当の本人すらこれほどの覚悟を固めているのです。ならば私が今さら、どうしてそれを踏みにじることなどできましょうか。ならばせめてと、震える声で、私は彼に、声を届けました。
「……私は、あなたを……あなたと、あなたがお作りになるもののすべてを……心の底から、」
 そして、その続きを静かに言い終えた時、私はゆっくりと歩を進め、両の手にしかと握った銀ナイフを、あの方の背中に突き入れました。
 重い衝撃が私の両手を震わせました。
 言葉は、ありませんでした。私のナイフは正確に彼の心臓をつらぬいておりました。おそらくは苦しむ暇もないほどの一瞬で――彼の身体がわずかに震え、そのままうつ伏せに倒れるのを、私は後ろから抱きすくめるようにして受け止め、ゆっくりと床に寝かせました。それだけを呆けたように行なって、そして、私はその場に、膝から崩れ落ちました。
 どれだけの時間が経ったあとでございましょうか――くず折れた私の足もとに、小さな木の手鏡が落ちていることに私は気づきました。
 おそらくは私の服から滑り出たそれを手に取り、何を考えることもできぬまま私は、そこに映る幽鬼のような白い顔を、見つめました。
 顔にかかった赤い返り血は、まごうことなきあの方の命の証でございました。まだ乾いてもいないその鮮血の一部を指先で拭い、私はそれを、そっと唇の上下にあて、ゆっくりと引きました。途端に熱い涙が両のまぶたにこみ上げ、鏡の向こうの私の頬を伝い落ちました。
 それは、ついぞあの方にお見せすることのできなかった口紅――罪深き私の、存在すら許されない愛の証明でございました。

 以来、あのお話がお嬢様の口端にのぼったことはございません。翌日にはまるで何事もなかったかのように、常の通りにお振る舞いになるお嬢様の姿が紅魔館にはございました。ひとりのメイド長として私をお目にかけてくださり、時に優しい言葉や美しい笑みをお向けくださる――それがお嬢様の、私に対する確かな「恩赦」の形でございました。最後のチャンス、とお嬢様自身表現なさったお約束は、ここに確かに、守られたのでございます。私もまた平素の姿を取り戻さんと努め、しかしともすれば心の片隅に、あの方の影はどうしようもなく、揺らぐのでございました。
 今ここに再びあの方の横顔を見ることができたら――そのような幸福を、けして私は望みません。
 ですがただひとつ、たったひとつ、過ぎた時間を巻き戻すことができれば――。
 たとえこの出会いが泡沫のごとく消えうせようとも、もしそれがかなうのなら――と、そればかりを私は、灰のごとくに燃え尽きた胸のうちに、願い続けているのでございます。
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コメント



0.50簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.90名前が無い程度の能力削除
太宰みたいな文章だね
4.90名前が無い程度の能力削除
この吹っ切れていない咲夜を受け容れられるか、というところでしょうか
5.100封筒おとした削除
イシグロの小説の従者における一種の何とも言えない諦めのようなあの感じを東方にとてもうまく落とし込んでいて、とにかくクオリティが凄まじい。
澱の喩えも紅魔館流で大好きです。
6.100サク_ウマ削除
お見事でした。残酷なような、そうでもないような、なんとも悩ましい作品だなと思います。良かったです。
7.20名前が無い程度の能力削除
オリキャラ、ヘテロのタグをつけて欲しかった。