Coolier - 新生・東方創想話

スパナ

2019/10/11 23:01:22
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 肌寒い風が湿った木々の香りと共に魔理沙の肌を撫でる。魔法の森に朝霜が降り注ぎ、その緑の葉に指が触れると、霜はあっけなく崩れ落ちた。この雫に個々の音色があるとすれば、さぞ心地よいメロディを奏でる事が出来るであろう。濡れた指先は雪を塗せたように冷たくなった。
 人間の魔法使い、霧雨魔理沙はいい加減な森の道をこれまたいい加減な具合で進む。冬の早朝である。出鱈目な順路で進んだ先に彼女の目指していた洋館があった。それがアリス邸である。魔理沙の親友であるアリス・マーガトロイド(と言っても、彼女は魔理沙に対し親しみを持っている素振りはあまり見せないのだが)が住む館である。魔理沙は手を吐息で温めた。
「アリス、おはよう」
 ノックもせずに魔理沙は館の扉を開けた。今の言葉は魔理沙なりの朝の挨拶である。そして、目的の人物は既に起床し、身なりを整えて紅茶を飲んでいた。紅茶(紅茶ではないのかもしれないが、魔理沙は洋風のティーカップで緑茶を飲む奴はいないと勝手に決めつけた)からは砂糖の様に白い湯気が出ており、部屋一辺に甘い香りを漂わせていた。魔理沙はティーカップ、その次に白い湯気、そして、それを口に含もうとしているアリスの瞳の順に視線を向けた。しかし、アリスと目が合う事はなかった。アリスはじっと、呆れたような表情で魔理沙を無視している。まるで誰も、自分以外この家にはいないかのように。

 朝から元気ね、魔理沙。

 アリスは簡単にそう呟いた。魔理沙はため息を吐き、テーブルの上の菓子に手を伸ばした。彼女はそれをとても美味しそうに頬張る。甘いビスケットという、あまりにもちっぽけな幸せだが、魔理沙はそれを最大限まで膨らまして味わった。彼女の笑顔につられ、アリスも顔を綻ばせる。

 はしたない、ビスケットの欠片が口に付いているじゃないのよ……。
それで、今日は一体何の用かしら? 

「友達と会うのに理由なんか要らないだろう? 今日は魔法の実験も何も無し。まぁ、所謂ただの暇潰しだ」
 そう言って魔理沙はアリスの向かいの席に座った。この館はアリス一人しか住んでいないはずだが、椅子が一つ余分に置いてあるのは何故だろうか? それは紛れもなく、アリスではないもう一人の誰かのための椅子である。誰のためかと問われても、彼女はきっと答えないだろう。
「家でのんびりするのもいいが、たまには二人で何処かに遊びに行かないか? 魔女だって身体を動かす事も必要だぜ」

 嫌よ、外は寒いわ。今日は新しい人形を作るの。

 アリスがそっけなく返事をする。しかし、魔理沙は不満気な顔をするだけで、それ以上何かを言う事はなかった。
「はは、アリスが嫌だって言うなら、仕方がないな」
 ただ、そう一言だけ呟いて、魔理沙は二枚目のビスケットに手を伸ばす。シナモンとミルクの無垢な甘い香りに、アリスはほんの少し、ほんの少しだけ罪悪感を覚えた。
 たまには、こいつに付き合うのも悪くないかもね。
 アリスはその言葉を口にしなかったが、彼女の蒼い瞳は若干の憂いを帯びていた。アリスのその切なげな視線に気付いたのか、それとも、単に二人の間に流れる空気の淀みが気になっただけなのか、魔理沙は頭の中で必死に別の話題を探した。が、結局魔理沙は黙ったまま、テーブルの木目をじっと見つめるばかりだった。しまった、と、アリスは思った。
 何となくばつの悪そうな顔をして、アリスは小さな呼吸を一つする。それも、魔理沙には気付かれないように小さく。

 ねえ、やっぱり、外の空気が吸いたくなってきたわ。

 アリスのその言葉に、魔理沙は一瞬だけ顔を明るくしたが、すぐにいつもの何を考えているのか分からないような、人を見下したような表情に戻る。いつもの、魔理沙の顔だった。
「遠出はしないよ。アリスが帰りたくなったら、いつでもすぐに帰れる場所に行こう。何処か行きたい場所はあるか?」
 魔理沙の気を使った言葉は嬉しく思うが、その遠慮がちな彼女の言動が、少しだけ煩わしいとアリスは感じた。しかし、アリスは余計な事を言わず、何処へ行くか考えている表情をしてみせる。本当は行き先なんて何も考えていなかった。ただ、魔理沙の顔を見て、その口元にビスケットの破片が改めて付着しているという事を言うべきか言わざるべきかを考えていた。

 魔法瓶とはまさしく魔法の瓶であった。
 今朝入れた紅茶を、その温かさを保ったまま、持ち運ぶ事が出来るなんて。何処の誰なのかは知らないが、これを発明した人物にアリスは心の中で静かに感謝した。
「たまには歩かないか? 空はまるで氷のようだぜ」
 魔理沙のその言葉は何気なく、といった感じだった。その台詞が一匹の生き物だったら、恐らくそいつには内臓も詰まっていない。意思さえ持たない、本当に意味のない存在であっただろう。魔理沙は自分でそう思った。

 それもそうね。今日は久しぶりに歩きましょうか。

 アリスは彼女の提案を無碍にしたくなかったし、何より今日の風はいつも以上に冷たい。アリスは魔理沙の歩数に合わせて、やや遅れて魔理沙の後を追いかける形で歩いた。生い茂った魔法の森の木々が日光を遮断しているため、どちらにしても寒い事には変わらなかったが、魔理沙も、そしてアリスも、二人とも何も言わなかった。とても静かな朝だった。
 魔理沙が早朝の新鮮な空気を吸い込み、両腕を上げて大きく背伸びをする。アリスもそれに倣い、両腕を伸ばした。朝の空気は冷たく、呼吸する事によって心なしか開放的な気分になる。そして何より、普段の空気とは香りが違うという事にも気付いた。湿っている、濁っている、それでいて、何となく切なくも思える。そんな不思議な香りだった。どこまでも陽気な魔理沙は頭の中でオリジナルのメロディを流していた。作曲・霧雨魔理沙、我ながらおかしいと思う程のリズムの緩急、しかもそのどれもが何処かで聞いた曲と類似していた。これはエリック・クラプトンの曲のサビの部分か、打って変わって、これはボブ・ディランのハーモニカの音色か、魔理沙は様々なメロディをチグハグに切り取り、好きなように面白おかしく縫い合わせる。まるで無秩序である。
 魔理沙が出鱈目な音楽の夢想で面白がっている時、アリスはふと、ある曲を思い出し、頭の中でそれをBGMにしていた。それは、一体何処で知った音楽だったのか、誰から教えてもらったのか、それらの記憶など一切ないが、ただその印象だけは強く、火傷の様に心に残っていたのである。アリスは知らぬうちにその歌を口ずさんでいた。

 Linger on, your pale blue eyes
 Linger on, your pale blue eyes
(そばにいて 君の蒼ざめた瞳よ)

 アリスが口ずさんだその曲は、魔理沙も知っている曲だったらしい。しかし、歌詞があやふやだった。アリスの歌声を聴いてすぐに歌詞を覚え、アリスに合わせて明るく歌い始めた。そばにいて、君の蒼ざめた瞳よ。魔理沙は少し音痴だな、とアリスは思ったが、口にはしなかった。ついでに、この曲は今の魔理沙の様に、陽気に歌える内容ではないとも思った。
しばらく歩き、アリスの足音と魔理沙の足音がちょうど二つ重なり始めた頃には、二人は既に魔法の森を出てしまっていた。

 すぐそこを歩くだけの筈だったのに、ずいぶん遠くまで来てしまっていたのね。
何だか不思議だわ。
 
 アリスはか細くそう呟く。魔理沙は顔色を変えず、周りを見渡した。これより先には「無名の丘」という、無数の鈴蘭が咲いている丘が広がっているが、その場所は行っても大して面白い物はないし、何より、気味の悪い曰く(その昔、人間の間引きの場所として使われていたなど)があるため、魔理沙はあまり近寄りたくないと思った。それはアリスも同じであった。
「……そうだな。家に戻るか?」
 魔理沙の問いかけに、アリスは小さく首を横に振った。

 せっかく来たんだもの。もう少し遠くへ行きましょう。

 アリスがそう言うと、魔理沙は口元だけで笑って見せた。
 二人は無名の丘を避ける様に遠回りで歩いた。人間の里付近に臨む丘を目指して歩く。先ほどまで曇り気味だった空だが、雲の切れ間から日の光が差し込み、幻想郷を断片的に照らしている。野鳥の鳴き声が遠くから聞こえた時、魔理沙は歩みを早め、その場所へと向かった。アリスは魔理沙の遠くなっていく背中を見て、思わず苦笑してしまう。

 何よ、魔理沙ったら、まるで子供みたいじゃない。

「アリス、お前もこの場所は知らなかっただろう?」
 そこは、幻想郷の中心である「人間の里」を一望出来る丘であった。里は日光に照らされ、その輝きを強めている。アリスはその光景を見て感嘆する事も、息を飲む事もなかった。ただ、ひたすら平凡にこの土地は美しいのだと再認識していた。
 人間達の朝は早く、心地の良い喧騒を奏で、賑わい、人々は活気ある一日の始まりを描いていた。里を眺めながら、アリスの隣に立っていた魔理沙が口笛を一つ吹く。この甲高い音色は、あの里の人間達にまで届きはしないだろう。アリスはそう思った。だが、無邪気に笑う魔理沙の横顔を見て、自分も自然と笑顔になっていた事に気付いた時、彼女は照れくささで少々赤面してしまった。魔理沙にその表情を見られないようにするため、アリスは少しだけ顔を俯かした。

 まぁ、来て良かったとは思う。
こういう風景って、幻想郷に住んでいてもあまり見るものではないし。
  
 アリスはまるで言い訳のように呟いた。魔理沙はそれに対し、どう返答しようかと一瞬考えたが、何だか気恥ずかしくなってしまい、何も語る事が出来なかった。二人はしばらく、その光景を見つめ続けた。見慣れたはずの風景だったが、今日この場所で見た景色はきっと特別な物に違いない。
「来てくれて……ありがとうな。ずっと、この景色をアリスにも見せたいって考えていたんだ」
 魔理沙が目も向けずにそう言う。しかし、その声は風の音によって掻き消されてしまった。アリスが不思議そうな顔で聞き返したが、魔理沙が再びその言葉を口にすることはなかった。その代りに、アリスの家から持ってきた魔法瓶の蓋を開け、銀色のステンレス容器に紅茶を注ぎ、それをアリスに差し出した。アリスはその紅茶を黙って口に含む。温かな液体が身体中の芯に染み込んでいく感覚がした。冷えた身体が暖まり、自然と顔が緩んでしまう。アリスはほっと息をついた。この時、きっと顔だけでなく、その心も緩んでしまっていたのだろう。アリスはゆっくりと魔理沙の目を見つめ、話しかけた。

 ねえ、魔理沙。

「うん? どうしたんだ?」

 魔理沙も、やっぱりただの人間なんだよね。

「……そうだな、それがどうかしたのか?」

 ううん、別に。ただ……。

「……何だか、はっきりしないな。一体どうしたんだよ」

 やっぱり魔理沙も、私を置いて何処かへ行ってしまうんだよね。

 

 ……寂しいよ、魔理沙。



 一瞬の強風が吹いた。アリスは笑っていた。対して魔理沙はよく分からないという表情をしていた。最後、アリスは何と言ったのか、魔理沙には聞こえなかったようである。しかし、アリスはそれっきり口を紡いでしまう。魔理沙は腑に落ちない顔をしたが、しばらくしてどうでも良くなったのか、再び里の方へ目を向け、沈黙してしまう。アリスも、あの言葉が魔理沙に届いていなかったとしても、本当は内心どうでも良いと思った。

「隣、いいかしら?」

 後ろから不意に声をかけられたが、アリスは振り返らなかった。その声には聞き覚えがあったからである。
「アリスさん、珍しい場所にいるのね」
「貴女こそ、冬眠していなくていいのかしら、紫さん」
 八雲紫、アリスが生まれる遥か昔からこの幻想の地を見守り続けてきた妖怪の賢者だ。紫はアリスの隣に立ち、アリスと同じ物に目を向けた。相変らず、活気に満ちている里だ。
「何の用ですか? こんな、何もない場所に現れて」
 アリスの言葉を聞いた途端、紫はくすくすと楽しげに笑い出した。はっきり言って、アリスはこの女の笑い方が嫌いだった。馬鹿にされているような気がして、蔑まれているような気がして、不愉快な気分になる。
「そう嫌わないでくださいな。私は貴女の事をからかいに来たわけではありませんわ。ただ、ここの景色が好きなだけ」
「……」 
 やはり、アリスはこの妖怪を好きにはなれないと思った。この女は、きっと私の何もかもを見透かしているのだろう。なんてタチの悪い、性悪で、意地悪で、それで……。
「無神経な女? そんなの、言われ慣れているわ」
 無神経な女だ……アリスはため息を吐いた。何を言っても、何を思っても無駄だと分かった。だからアリスは何も言わず、何も思わず、目の前の光景をじっと恨めしそうに睨み付けた。事実、本当はこの光景を恨めしいと思っていた。
「私も、ここから見える景色は好きです。でも今はもうそんなに好きではなくなってしまいました」
 アリスは紫に向かって喋ったつもりだが、その声は自身でも不思議だと思うくらいに空虚であった。感情の無い声だ。例えば、言葉に色彩があるなら、きっとそれは驚くほど無機質で面白みもない、さびしい色をしている事だろう。
「それどころか、今は、この風景が憎いとさえ思います」
 紫は黙っていた。先ほどの薄らとした笑みも消えていた。
「この風景は美しい。まるで幻想郷のありのままの姿を見ているような気がして、それは何だか温もりに溢れていて、感情が溢れていて、それがとても眩くて……ですが」
 でも、そんな物。

「ここに魔理沙がいなければ、何の意味も無いのです」

 魔理沙はもう幻想郷にいない。

 彼女は、もう随分前にこの世を去った。派手好きな魔理沙とは思えないほどあっさりと、驚くほど簡単に死んでしまったのだ。彼女は何も残さなかった。やはり人間は刹那的。脆くて、力が弱く、温かである。彼女はもうこの場所にいない。そんな事、とっくの昔から知っていた。ずっと前から覚悟もしていた筈だった。アリスは魔女、魔理沙は人間、ずっと一緒になんていられない。どんなに彼女を想っても、また、魔理沙がアリスの事を想ってくれていようとも、二人は一緒にいられない。
「また、あの子の事を思い出していたのね」
 紫は静かに言う。アリスは言葉を返さず、ただ小さく頷いた。その通り、アリスは魔理沙の幻影を自分の中で作り出してしまっていたのだ。あの子の心も、その笑顔も、アルバムを捲るより容易く思い出す事が出来る。芝の匂いがくすぐったく思えた。その匂いがつんと、鼻の奥に染みる。何も変わらないこの世界は、魔理沙がいなくなったことで、何かが変わっただろうか? そんな、途方もない疑問だけが、アリスと魔理沙の関係を繋ぎとめていた。とても空虚な絆であった。
「日の光の温かさも、僅かに聞こえる人々の声も、深緑の香りも、何もかも、意味を成さなくなってしまった。あの子がいない景色なんて、私にとって……」
 そんなの、悲しいだけよ。アリスは冷たく言い放った。魔理沙が死んだ時から、アリスの時間は止まったままであった。彼女のいない世界なんて何の意味もない。魔理沙のいない未来なんか要らない。アリスは氷のように、自身の世界を固く閉ざしてしまっていたのだ。
 いずれ、魔理沙の事を忘れてしまえる日が来るだろう。長い日々の中で、記憶の欠片となって漂いながら、日々の虚しさに摩耗され、魔理沙は儚く消えていく。それでいい。それがいい。あの子との思い出をいつまでも大事に抱えていたって、苦しいだけだ。アリスは、本気で、そう思っていた。
「……」
 紫は黙ったまま、とある事を思い出した。
(魔理沙、いいわよね……?)
 それは、霧雨魔理沙との思い出であった。魔理沙にせがまれ、彼女の家にある部屋に結界を施した事がある。他言無用との事だったので、紫は今まで誰にもその部屋の秘密を喋った事は無かった。だが、彼女は、霧雨魔理沙はもういない。魔理沙が死んで、もう大分時間が経っている。秘密の約束も、そろそろ時効を迎える頃合いだ。それに……ここまで魔理沙の事を想うアリスになら、あの部屋の秘密を打ち明けても良い筈である。
「アリスさん……これからちょっとお時間良いですか?」
 紫に言われ、アリスは首を傾げる。そのまま、アリスは紫に案内されるがまま足を運んだ。魔法の森、その奥地、そこで、アリスは何となく察した。この道のりを忘れる筈がない。

 たどり着いた先は、霧雨魔理沙の家であった。

「……どういうつもり? もう私は、ここに用なんか無いですよ」
 アリスは憮然とした態度で紫に言い放った。しかし、紫は意に介さず、そのまま魔理沙の家のドアを開ける。中には、故人である魔理沙の私物が綺麗に整理された状態で保管されていた。時間が経ち、部屋は埃っぽくなってしまっている。しかし、そのざらついた臭いの奥には、まだ微かに魔理沙の香りが残っていた。その香りは、アリスの胸を酷く締め付けた。魔理沙との思い出が色鮮やかに蘇ってくる。途端、目頭が熱くなってしまう。……それが嫌だったから、ここに来たくなかったというのに。
「……貴女は覚えているかしら? この部屋の事を――」
 紫はそのまま家の奥に足を運び、ドアに向かって指をさした。その瞬間、アリスは精神のネジが狂ったような感覚に襲われた。

 そこは、例の『開かずの間』である。

「生前、魔理沙に頼まれてね……このドアに特殊な結界を張ったの。どんなに引っ張っても、力尽くじゃ開かないようにね」
 紫はそう言いながら、ドアに向かって左手をかざし、小さく呪文を唱えた。すると、錆びた金属の音が鈍く響いた。

「アリスさん……この部屋には、正真正銘の、霧雨魔理沙の全てが隠されている。彼女が頑なに隠し続けた物が、ね」

 紫はそう言いながら、ゆっくりとドアの前から離れる。その瞬間、アリスの中に、感傷とは違う、まったく別の何かがドクドクと音を立てて膨らみ始めた。この感覚は久しい。
 以前、アリスはこの開かずの間に酷く執着していた時期があった。どうしても、この部屋の中が見たいと思っていた。何が隠されているのかを知りたいと思っていた時期があった。この部屋は、魔理沙の本性の世界、霧雨魔理沙の真なる姿である。だが、それを知る事はついに叶わなかった――。

 その扉が、今になって開いたのだ。

 アリスはゴクリと唾を飲み、扉を凝視し続ける。魔理沙が生涯隠し続けてきた物とは一体何なのか、その答えが扉越しに待ち構えているのだ。気にならない方がおかしい。アリスは久々に何の曇りもない好奇心を抱いた。そして、何も言わぬまま、ゆっくりと、ドアノブに手を伸ばす。

 魔理沙、あなた、何を隠していたの?
 
 だが、アリスはドアノブを握ったまま、ドアを開けようとはしなかった。ほんの少し腕を後ろに引くだけで、長年の謎が解消されるというのに、アリスはそれをしなかった。

 ほどなくして、アリスは手を放し、両手で顔を抑えながら、扉の前で蹲ってしまった。
「そっか……魔理沙、そうだったのね……」

 今になって、アリスは気付いた。
 ドアを開けるまでもない。


 この部屋の中には、何もない――。


 紫はため息をつき、静かに目を閉じ、生前、魔理沙に言われた言葉を頭の中で反芻する。

『アリスに忘れられたくない』

 それは、魔理沙の単なる我が儘である。自分は人間で、アリスは魔法使い、いつか必ず、自分はアリスの元を去る日が来る。必ず来る。私はそのままアリスの記憶の一部となって、過去となって、次第に色褪せていくだろう。魔理沙は、それが耐えられなかった。

 故に、彼女はアリスに稚拙ながら「謎」を残したのだ。それがこの『開かずの間』である。決して開かないドアの向こうに、想像も出来ないような何かが隠されている。自分が死んだ後も、アリスがこのドアを見たら、きっと自分を思い出してくれるに違いない。この部屋に一体何があるのか、アリスの空想が、想像が、自分を蘇らせてくれるに違いない。先に死んでしまう以上、思い出になるのは仕方ない。だがそれなら、もっと色濃く、迷惑な物となってやろう。ドアの向こうには何がある? 色褪せない謎となって、永遠にアリスに付き纏ってやろう。

 もう二度と、アリスが寂しい想いをしないように――。

 ずっと、アリスはこのドアの存在を無理やり忘却していたのだ。魔理沙が死んだ事により、アリスは、魔理沙に関する全ての思い出を、感情を、自身の中で消し去ろうとしていたのだ。彼女を思い出すのは、辛過ぎる。胸が張り裂けそうになる。だから、一刻も早く、魔理沙を過去にしてしまいたかった。魔理沙の気も知らないで……。
 アリスはドアの前で、子供のように泣いた。
 これまで冷たく保っていた心が次第に溶けていき、涙となって溢れ出る。
 
 忘れない。
 
 忘れる訳がない。

 だって、本当に大好きだったから――。
 
 泣いて、泣いて、泣き疲れて、ようやくアリスは落ち着きを取り戻した。そこで、紫が静かに口を開く。
「もう、このドアに結界は張っていない。いつでも、あなたの好きな時に開ける事が出来るわ」
 紫にそう言われ、アリスは思わず笑ってしまった。……一体、ここまで素直に笑顔を見せたのは何日ぶりだろうか?
「今更、このドアを開けるつもりはありませんよ……私はもう、二度と自分を偽ったりしない。この部屋みたいに、自分の心を閉じ込めたりなんかしないわ……」
 涙を拭いながら、アリスは晴れやかな顔でそう言い切った。もう、開かずの間は必要ない。アリスは心からそう思った。こんな物無くたって、魔理沙の事を忘れたりはしない。魔理沙との思い出を、捨てたりなんかしない。それが、アリスの答えであった。

「……ええ、でもいいのかしら?」

 この部屋には、本当に凄い秘密が眠っているというのに。

 紫は少々意地の悪そうな顔でアリスに言う。アリスは半ば呆れた様子で、それでも清々しく笑った。そんな言い方をされては、ますますこのドアを開ける訳にはいかなくなった。

「そうね……魔理沙はここに何を隠しているんでしょうね?」

 魔理沙はどんな奴だったか、アリスは記憶の扉を開いた。白と黒の服に身を包んだ、生意気で、真っすぐで、努力家で、人の事をからかうのが好きで、その癖に何よりも暖かい、一人の少女、その名は霧雨魔理沙、私の、大切な友達だ。記憶の扉の向こうには、星のように綺麗な思い出が溢れていた。

 この部屋には、何が隠されているのだろう?

 アリスは、開かずの間の向こう側を空想する。

 魔理沙との思い出が徐々に熱を帯びて蘇ってくる。

 冷たく閉ざされたアリスの心が柔らかく開いていく。

 世界が、開いていく――。

たまにはこんな話を書いたっていいじゃない。
人間だのも。だなも。だもの。
電柱.
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コメント



0.410簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
とても良かったです
2.100封筒おとした削除
人が本当に死ぬのは忘れ去られたとき
素晴らしいストーリーでした
4.100こしょ削除
いい話でした。ぐっときました
5.100サク_ウマ削除
お見事でした。相変わらずギャグとシリアスの配分が絶妙です。
死後もなおも生き続ける、というのは、なかなかに素敵な話ですよね。良かったです。
6.100名前が無い程度の能力削除
本当に大好きな人の思い出が薄れていくというのは辛いものでしょうね
幼な帰りしてる魔理沙が可愛いです
8.100名前が無い程度の能力削除
平成の空気が入った缶詰を思い出した
9.90名前が無い程度の能力削除
2ページ目冒頭から中段「ここに魔理沙がいなければ、何の意味も無いのです」までの展開の巧みさと美しさは相当なものだと思います
それだけに開かずの間がギミックになってしまっているような、そんな気がしました
11.100ヘンプ削除
アリスの魔理沙に対する思いがとても良かったです。
最後がとてもすき。
12.100モブ削除
正しく二次創作をしているなと感じます。アドベンチャーゲームの、あるエンディングを見た気分になるのです。物語がきちんと完成しているのに、所々にこの作品そのものが破綻しそうな選択肢が見えて、それをアリスが避けているようにも感じられました。穿った見方をしているかもしれません。昔あった「やるドラ」というシリーズの「ダブルキャスト」というゲームを思い出しました。面白かったです。
13.100名前が無い程度の能力削除
アリスの想いとか物語の構成とか、色んな意味で綺麗な話だと思います
17.90名前が無い程度の能力削除
やー、マリアリ。いいなぁ。
魔理沙の姿を引きずるアリスが、開かずの間の真相を知って、ようやくちゃんと悲しめるシーンがとてもよかったです。
19.100終身削除
丘の上でたった一言で視点が一気に移り変わってしまうところとか、開かない部屋の謎とかの見せ方がすごいと思いました 開かない部屋と最後のアリスの心象が対になって本当に大事な意味になってくるのがとても心に残りました 向き合い方はそれぞれ違っていても最後に一つになれるように感じました