Coolier - 新生・東方創想話

Voodoo Crab

2019/10/07 17:07:21
最終更新
サイズ
34.01KB
ページ数
1
閲覧数
491
評価数
8/8
POINT
700
Rate
16.11

分類タグ

立て続けに不幸に見舞われて、鈴瑚はすっかり参っていた。

始めのうちは、よく転んだ。それも何もないところで。突っ立っているだけでいきなりズッコケたこともあったし、なんなら座っているだけで地面にぶっ倒れることもあった。最初は面白がって笑っていたけど、だんだんとその頻度に笑えなくなっていった。

「なんか、急に転ぶ。それ以外に言いようがない」とは、鈴瑚の弁だ。つまり、こいつ自身にも何もわかっていないということ。何かの呪いの類か、頭でも強打して脳みそに異常をきたしたのかと疑ったが、本人が「大丈夫」と言うので放っておいた。

次に、クレームが相次いだ。言わずもがな、団子屋に。鈴瑚の店、鈴瑚屋は誠実な仕事で評判が良く、これまで決して不祥事など起こしたことはなかった。それが、突然のクレームの嵐。やれ団子がグズグズだっただの、やれ頼んだ本数と違うだの、やれ虫や人の歯が混入していただの。わたしとて、鈴瑚がいい加減な仕事をする筈がないと信用しているものの、クレームの全てが事実だったから、どうしようもなかった。度重なるクレームに、鈴瑚は笑って暮らすのが難しくなってきた。

店はしばらく休業にし、鈴瑚にはわたしの店の配達を任せることにした。キツく包装しているので、よっぽど酷い転び方をしなかったら、団子はバラバラになったりしない。一切の不純物の混入する隙間もない。鈴瑚も胸を張って、任せてくれ、と息巻いていたが、その目にはどこか不安があった。

で、事は起きた。鈴瑚が人里を疾駆していると、突然に背後から組み伏せられた。何事かと思い、鈴瑚は瞠目し、叫んだかどうかは知らないが、とにかくそれがトラウマになった。息を荒げながら、ずっと好きだったんだと鈴瑚に詰め寄る男は、明らかに彼女のことを性的対象として見ていた。たまたま人が通りかからなかったら、兎だって自殺できることを証明できたかもしれない。

これには、わたしは敢えて叱ることにした。そんな臍を出して誘惑するような服を着ているのが悪いんだ!すると、次の日にはイスラム教の信者みたいになってしまった。家の外でも、鈴瑚には陽の光の一筋も当たらなくなった。正直、叱ったのは失敗だった。

そんな出来事が立て続けに起こって、とうとう、昨日、鈴瑚がぶっ壊れた。

家に帰ると、鈴瑚は万年床の上で身体中を掻きむしっていた。

「ああ、お帰り」鈴瑚は身体のあちこちを血まみれにしていた。「晩御飯作っといたから、わたしはいらないからね」

「り、鈴瑚…」わたしは鈴瑚に駆け寄った。「やめて、それ以上掻いたら死ぬって!」

「いやいやいやいや」その時の鈴瑚と来たら、吸血鬼が見たら格好の餌食になっていたと思う。「ちょっと痒いだけだから。気にするなってさ、それよりごはん冷めちゃうよ」

首筋からピュッと噴出する血を見て、わたしは戦慄した。

はっきり言って、鈴瑚が転びまくったことも、クレームが止まらなかったことも、強姦されそうになったことも、全部引っくるめて呪いであるという事に何の疑いも持っていなかった。だけど、身体中を掻き毟る行為だけは、判別がつかない。積もり積もったストレスによる行為なのか、呪いが最終段階に入ったのか。

とにかく、わたしは鈴瑚の頬を平手で張り、荒縄で締め上げて、永遠亭まで運んだ。

血まみれの鈴瑚を見て鈴仙が腰を抜かしたけど、八意様は氷のように冷静だった。即座に白衣に着替えると、手術台に鈴瑚を乗せて集中治療室へと運び込んだ。わたしは、患者の関係者の全てがそうする様に、治療室前のベンチで手を合わせ、鈴瑚の無事を祈った。

十五分くらいして、手術室から八意様が出てきた。

「八意様!」わたしは縋るように八意様を見た。「鈴瑚は…鈴瑚は無事なんですか!?」

八意様は頷いたが、その目が予断を許さないことを物語っていた。

「彼女は外傷より精神的ダメージの方が大きいわね。いったい何があったの?」

わたしは、鈴瑚が最近転びまくったこと、鈴瑚が最近仕事が上手くいかないこと、鈴瑚が強姦されそうになったことを掻い摘んで話した。

「仕事には真面目な彼女が、失敗続きねえ…」と、八意様の助手をしていた鈴仙も手術室から出てきた。「何かが取り憑いているようにも見えなかったけど」

「お前に何がわかるんだ、このアホ兎め!」

「はあ!?」

「とにかく」と、八意様は場を取り仕切った。「これが呪いの類なら、専門家に見てもらうよりないわね」

わたしは強く頷いた。



次の日には歩けるようになったので、わたしは鈴瑚を連れて博麗神社へ来ていた。縁側で茶を飲んでいた巫女は、黒尽くめのムスリム鈴瑚の姿を見るや噴き出した。

とりあえず、事情を話した。これこれこういう理由でこういう格好をしています。もしかしたら、何かヤバいものが取り憑いているかもしれないんです。見ていただけませんか。すると、この話に金の匂いを感じ取ったのか、巫女の双眸に¥マークが浮かんだ。

「報酬はもちろん払うんで」と、鈴瑚。「こいつが」

「いいか、自分の立場をわきまえろよ」と、わたしは因果を含む。「お前が悪霊に取り憑かれて死のうが、わたしにはまったく関係ないんだからな」

鈴瑚が舌打ちをする。この様子を見るに、服装以外は以前とまったく同じに見えるのに。鈴瑚は確実に弱っている。だけど、わたしにそれを悟られないように、軽口を叩いているのだ。いじらしい奴、何としてでも守ってやりたくなってくる。

そんなハートフルなやり取りなどお構い無しに、巫女がソロバンを弾く。まあ、これで何かが見つかってお祓いが出来るのなら、高くはない値段だった。

「行くわよ」

巫女が神妙に目を閉じ、何事か唱え出す。真っ黒な鈴瑚の目の前で祈祷するように手を合わせる少女という構図は、側から見れば怪しげな黒魔術と相違ない。それでも、彼女らは真剣なのだ。

「よう、霊夢。遊びに来た…」空から声がした。見上げると、白黒の魔法使いがこの世の終わりでも見るような表情で巫女を見下していた。「れ、霊夢がおかしくなったー!」魔法使いは西の空に消えた。

みんな不幸になっていく。

いったい、どうしてしまったと言うのだろう?

鈴瑚はプルプルと震えて笑いを堪え、巫女は怒りにプルプルと震えている。誰も、前と変わってなどいないというのに、周りから見れば、わたし達の身には何か変化があるように見えるのかもしれない。

やがて巫女が吐き出したため息には、怒りや疲れが滲んで出ていた。

「ダメね、何も見つからないわ」

巫女の報告に鈴瑚はがっくりと肩を落とす。

「本当に何も無いんですか」落ち込む鈴瑚の代わりに、わたしが聞いてやる。

巫女は力無く首を横に振った。どん詰まりだった。幻想郷の危機を救ってきた巫女でさえどうすることも出来ないなら、わたしにできることだって無い。せいぜい、鈴瑚の肩に手を置いてやることくらいだ。

「ちくしょう、ちくしょう!」鈴瑚がまた身体を掻き始める。縫合されていた傷口から血がドバドバ出た。

「ちょ、ちょっと。止めなくていいの?っていうか、止めて!」地面の上でのたうち回る鈴瑚を、しかし、どうすることもできない。

「兎はストレスが溜まると身体中の毛を毟っちゃうんですよ。それこそ、肉が抉れるくらいに。兎の性なんで止めようがないです」

鈴瑚の下に血だまりができると、鈴瑚自身はピクリとも動かなくなった。

「あーあー…こんなに血で汚しちゃって、兎っていうのも難儀な生き物ね…」

すると、巫女はハッと顔を上げて、手のひらをポンと打った。

「そうだ。最近、兎が怪しい行動をしているらしいのよ」お前らなんかに構っている暇は無いんだった、と言わんばかりにため息を漏らす巫女。「あんたも兎でしょ。何か知らない?」

何も知らなかった。地上の兎と月の兎は、どちらも兎という意味で本質的には同じだが、価値観や死生観などには大きな違いがある。だから、地上の兎が何をやろうが知ったことではないし、そもそも耳に入ってくることがない。

そう伝えると、巫女は初めから何も期待していなかったかのように「そう」と呟いた。

「でも、本質的には同じなんでしょ。何かあったら連帯責任だからね」と、鬼の巫女。

「いったい、兎が何をしてるっていうんです?」 こう言われたら、黙っているわけにもいかない。

「ラビット・フットを名乗る兎が、怪しげな集会を開いている…らしいわ」

巫女の口から横文字の言葉が出てきたことに驚きつつ、思わず自分の足を見てしまう。

ラビット・フット。つまりは兎の足のことだが、これが鈴瑚を襲う不幸と何か関係があるのだろうか。少し考えてみても、何にも思い浮かばない。

「兎の足って、とても美味しいのよ」巫女が味を思い出して、涎をこぼさんばかりの恍惚の表情を浮かべた。「兎のあんた達にはわからないでしょうけど」

わたしは曖昧に笑みを浮かべ、巫女に礼を言い、血だまりに沈む鈴瑚が出血多量で死んでしまう前に、永遠亭に運ぶことにした。

神社を出る道すがら、兎──動物の兎──を見かけた。そいつは口に何かを加えていた。わたしの目に狂いが無ければ、そいつはたしかに兎の足を咥えていた。



放っておけば死ぬまで身体を掻き続けるので、鈴瑚は鎮静剤を打たれ、拘束具を着せられて監禁されることになった。ごっつい拘束具に身を包んだ鈴瑚は、ぶっちゃけカッコよかった。仮に外部から鈴瑚の命を狙おうとする輩がいても、頑丈な鉄格子が守ってくれるだろう。だから、今は問題を直視することができた。

「ラビット・フットねえ…」鈴仙も、わたしがそうしたように、自分の足の付け根を弄ったりした。「聞いたことないけどなあ」

八意様が知らないことを、鈴仙が知っているはずがなかった。ラビット・フット、すなわち兎の足は、食料として重宝されるものの、薬の材料になることはほとんど無いそうだ。

そもそも、兎の足と鈴瑚に降りかかる、何か大きな存在による悪意のような不幸の攻撃と、関連性が見出せない。だけど、兎の問題は、兎にしか起こせない。ラビット・フットなる連中が何かを企んでいるのなら、それを突き止めるのもまた、兎でなくてはならないような気がした。

わたし達はうんうん唸った。そうすれば問題の方から出向いてきて、解決の糸口が見つかるのではないか。もちろん、そんなことはあり得ない。あり得ないが、追い詰められた者には現実味のない希望こそが、一番現実味を帯びてしまうということを、わかってほしい。

そんなわけで時間を無為に費やしていると、玄関の方から声がした。仕方なく鈴仙が応対しに行った。わたしは一人で考えるでも無しに、天井のシミの数などを数えたりした。

で、戻ってきた鈴仙が手に持っていたものを見てビビりまくった。

「なに、それ?」思わず目を背けてしまう。

「急患よ」血だらけの鈴瑚を見た時は腰を抜かした癖に、片足のもげた兎を見た程度じゃ、鈴仙は屁でもないみたいだった。「すぐ終わらせるわ」

言った通り、鈴仙はテキパキと治療を進めた。素人目には八意様と大差ない腕前に見えた。

「まるで何回もやっているみたいに手際がいいね」

「何回もやってるのよ。因幡は好奇心が強くて、悪戯好きだから、怪我も多くてね」

「え、ペットじゃないの?飼い主が持ってきた奴だと思ってた」

言ってて、それもそうか、と思う。鈴仙はもう傷口の縫合とかやっているし、家で足を無くしたんなら、飼い主が一緒に持ってくるはずだ。運が良ければ、またくっつくかもしれないし。

「たしかに…」いつの間にか、鈴仙の手が止まっていた。「この子、外で見つかったらしいんだけど、足はどこにも見つからなかったって、妹紅が言ってた」

鈴仙は短くなった兎の足をじっくり観察した。

「それに、この傷。もげたというより、切断されたみたいね。あまりにも傷が綺麗すぎる。ほら」と、鈴仙が兎の足先を見せつけてくる。

「やめろ!グロいグロいグロいグロい…」

「誰かが悪戯で切ったのかしら。うーん、でも、わざわざ危険な竹林に来て、そんなことをするかしら」

夢に見てしまいそうな断面図を、必死に記憶から追い出そうとする。「…ってことは、足が欲しかったんじゃないの」

「どうして?」

「知るかよ…」口に込み上げてきた酸っぱいものを、茶で押し戻す。「足って美味いらしいよ。博麗の巫女みたいな奴が狩ってったんじゃない?」

「この子が切断されたのは前足よ。後ろ足ならともかく、大して肉の無い前足だけなんて…」

「いいからさっさと治療してやれよ、こののろま!」

「もう終わり、お疲れ様」

鈴仙が尻をポンと叩くと、兎はおもむろに震え出して、新品同様の治療台の上で糞を出した。

「あー!」鈴仙が大慌てするところを見るのは、やっぱり気分が良い。「恩を仇で返しやがって!」

思う存分に出し切った兎は、片足を失ったことなんかまるで気にして無いかのように、台を飛び降り、部屋中を駆け回った。なかなか逞しい奴みたいだ。

鈴仙が掃除道具を取りに部屋を出て行ってしまったので、無聊に任せて兎の観察をする。今でこそ人の形をしているわたしにも、かつてはこんな時代もあったのだろうか?人目も憚らずウンコを垂れ流し、足の一本や二本なぞくれてやる、というハングリーな精神を持った、野生の時代が。好奇心旺盛に部屋のものを物色して回る兎を見るだに、懐かしい気持ちにさせられる。

兎はどこから来て、どこへ行くのだろう?

鈴瑚はこれからどうなってしまうのか?

兎は片足を失ったことで、未来を諦めたりしない。何度も転びながらも、この部屋からの脱出を目論む兎。見ていて、なんだか勇気が湧いてくる…ん?

何度も転びながら?

嫌な予感が胸を過ぎる。考え過ぎだと戒めるも、ここは幻想郷で、わたしなんか月の都出身だ。何がどういう形で繋がってるかなんて、確認するまで誰にもわからない。いやいや、そもそも、鈴瑚も転びまくったからといって、だから何だと言うのだ。あいつには足がちゃんとくっ付いているじゃ無いか。

「…」

とはいえ、確認せずにはいられなかった。鈴瑚の監禁部屋へと向かい、鉄格子から中の様子を確認する。鈴瑚がいなくなってたらどうしようかと思っていたが、杞憂に終わった。鈴瑚は本当に幸せそうに眠っていた。ずっとそうしていた方がマシにも見えた。足もちゃんと繋がっていた。

やっぱり、考え過ぎだろうか?部屋に戻る道すがら、どうしても晴れない胸のモヤモヤとしっかり向き合ってみることにする。ラビット・フットなる連中。片足を失くした野生の兎。鈴瑚の不幸。たった三つの出来事だけど、どれも足が密接に関わっている。

部屋に戻ると、鈴仙と兎が、糞の取り合いをしていた。兎は自分で出した糞を食うことができる。しかも、たいへんに栄養があるのだ。

「清蘭、手伝って!このままじゃ部屋が汚れてしょうがない!」

わたしは椅子に座って、今後のことを考える。先ずは、ラビット・フットに接触しよう。鈴瑚のことが解決しないにせよ、片足を失くした兎については、何かわかるかもしれない。

それにしても、鈴仙とウンコを取り合って戦うこの兎。一見、元気そうに見えるけど、わたしには、心に空いた穴を埋めようと躍起になっているように見える。

玉兎時代に、訓練中の事故で片腕を落とした奴がいた。腕は手術でくっついたし、普通に生活できるくらい回復はしたんだけど、それまでの間の、そいつの精神状態がやばかった。具体的にはあまり思い出したく無いけど…とにかく、取り乱したり、泣き叫んだりはしなかった。けど、一日中、失くした腕の先を見つめながら、ブツブツ言うのだ。それで、やおら他の兎の腕を睨みつけてきたりするもんだから、こっちも気が気じゃなかった。

この兎からは、喪失感のようなものは感じない。だけど、既視感がある。そうだ。さっきの鈴瑚だ。神社でわたしに軽口を叩く鈴瑚。必死に弱ってることを悟られまいとする、気丈な姿が、ウンコを貪り食う兎と重なって見える。こいつもまた、必死だった。

「食わせてやれ、鈴仙」わたしは言ってやった。

「はあ!?」

「わたし達にも、きっと、そういう時代があったんだぞ」

「…」

台の上で生死に汚れる兎を見る鈴仙の目が、哀れみへと変化する。鈴仙もまた、過去に想いを馳せているに違いない。兎にしか理解できないことだし、周りに理解されようとも思わないけど。

「大変よ、れいせ…」と、唐突に部屋の扉が開け放たれ、八意様が息を切らして入ってくる。部屋の惨状に一旦目を眇めたが、すぐに仕事モードに戻った。「すぐに来なさい!」

「何かあったんですか?」と、呑気な鈴仙。

「足を失くした兎が、そこら中で倒れているのよ!」

わたしと鈴仙は顔を見合わせ、すぐに八意様の後に続いた。

これはもう、兎だけの問題じゃ無いかもしれないぞ。




いったい何が起こっている?

目が覚めたら、身体をガチガチに拘束されているし、おまけにカビ臭い部屋に閉じ込められている。かなりの確信を持って言えることだけど、あの天井についてる赤いシミは、血だ。

馬鹿め。何が「かなりの確信を持って言える」だ。直近の記憶さえあやふやじゃないか。とりあえず、自分の名前を頭の中で反芻してみる。わたしは鈴瑚わたしは鈴瑚わたしは鈴瑚わたしは…

思い出した。すると、途端に身体中が痒くなってくる。けど、身体の拘束は解けそうにない。あの野郎、幾ら何でもキツくしすぎだろ!月の連中は加減ってものを知らない。

「うがー!うー、うー!」と、声も出せないことに気付く。猿轡を噛まされていた。舌を噛まないように、なんて呑気な想像をする。猛烈な痒みに頭が狂いそうになってくる。いっそ死にたくなるほどの痛痒に、猿轡を噛ませたあいつらの判断が正しかったことを痛感する。

こんな状況、ストレスが溜まって身体を掻いちゃうに決まってるでしょうが!

「うー、うー!うががー!」言葉にならない声は、やっぱり誰にも届かない。あまりにも孤独だった。兎は孤独だと死んでしまうという通説を思い出し、身が震える…と思いきや、そんな隙間もないくらいに拘束具はガッチリしている。「うっうー!」

死神の鎌が目の前でチラつき始めた頃だった。いっそ死神でも、わたしを痒みから遠くへ連れて行ってくれるなら、良かった。

「おい、そっちを持て」と、誰かが言った。了解、と誰かが応じた。

「あうあうあう」拘束具ごと持ち上げられる。「あうへて!」助けて、と叫ぶや否や、目隠しをされて視界を遮断される。

ガタン、と扉の閉まる音。また開き、そして閉まる。廊下をドタドタと歩く音がして、そういえばここは永遠亭だったな、と思い出す。

じゃあ、今わたしを運んでいるこいつらは誰だ?

途端に恐怖が身体を支配するけど、実際に支配してるのは拘束具だ。抵抗の意思が無いんじゃない。身を捩らないほどに固く拘束されている!馬鹿にでもなった気分だ。命の危機に直面しているのに、助けの一つも呼べないなんて。

清蘭はどうした?八意様は?鈴仙は?彼女らの安否を考えただけで身体が痒くなり、ついには意識まで遠のく。ああ、神様。わたしが悪うございました。せめて、死ぬ前に好きなだけ身体を掻かせてください…


次に目が覚めたら天国かなと思ったけど、そんなことは無かった。背中には畳の柔らかい感触。天井からは優しい灯りが降り注いでいる。わたしは上体を起こして──なんてこった!

身体が動くぞ!拘束具が無い!

「気持ちいいいい!」もう明日など必要無いと言わんばかりに身体を掻きまくった。やっぱり血が出まくったけど、知ったこっちゃねえや!けど、喉だけは慎重に掻く。やっぱり、命は惜しいしね。

「目を覚ましたようだね」

と、誰かの声。振り返ると、知らない奴がいた。

「あんたが拘束具を外してくれたの?」

相手が頷くや否や、平身低頭。心の底から礼を言いまくった。手まで握ってしまって、困らせてしまった。構うもんか、三十秒ほどそうしていた。

そんなわたしの様子を見て、そいつは微笑んだ。

「ようこそ、ラビット・フットへ」



わたしは酒を求め、夜の人里をぶらついていた。アルコールのせいで思考がまとまらない。けど、実際はアルコールのせいじゃ無い。考えることに疲れていた。

足を切断された大量の兎達の命に別状はなかった。が、得られる情報もなかった。兎達は突然現れた集団に、突然足を切断され、竹林の中で放置された。その手際の良さたるや、八意様ですら完璧な仕事と認めてしまうほどだった。

そんな奴らに、ただの兎であるわたしに何が出来る?敵は月の技術で拘束された鈴瑚を連れ出せるほどの力を持っているのに、今やただの地上の兎であるわたしに、何が?

考えれば考えるほどに諦める以外の手立てが無いような気がしてきたので、胸のつかえが取れたような気分で適当な店を見繕って入ることにした。悪いのはわたしじゃない。兎に厳しいこの世界なのさ。月にだって地上にだって、安寧を享受出来る場所が無い。わたし達は何のために生まれてきたんだ?

と、お目当ての店に歩を進めていた時だった。わたしの身体が突然に宙に浮き、世界が反転したかと思えば、激しい衝撃に視界が霞み、意識が遠のく。

「…?」

わたしは転んでいた。転んだおかげで、丸いお月様を拝むことが出来た。しばらく仰向けに寝転がって、現実が追いついてくるのを待ち、やがて起き上がっては地面を散策した。

うっかり躓いてしまいそうになるような物は何も無い。ザラザラとした砂の触感だけが返ってくる。油でも撒かれていようものなら、後頭部から地面に激突するほど派手に転んでしまうのも頷ける。けど、ここには砂があるだけ。

「あわわ…」

鈴瑚の恐怖がわかったような気がした。正常な世界から一人だけ取り残されたような気分になった。まだ一回目だから偶然、なんて言い逃れは通用しない。偶然で押し通そうとするには、衝撃が強すぎた。

あまりにもどうしたらいいか分からないので呆然としていたわたしの目を覚まさせたのは、集団の足音だった。夜の人里と言えど人間にとってはそこそこ危険なことには変わりないので、本当に心細い人が聞けば安心感を覚えただろう。わたしだって縋りたくなった。

誰だ、とわたしは誰何した。足音が続く。このまま通り過ぎれば万々歳だけど、返事が無い。返事が無いまま足音が止んだ。

「誰だ」もう一度問う。先ほど転んだ衝撃で、視界が霞んでよく見えないのだ。

殆ど夜と一体化している影が、不気味に微笑んだ気がした。返事を待たずにわたしは立ち上がって、走った。それに呼応するかのように大勢の足音が着いてくるのがわかった。疑問が確信に変わった。この足音はわたしを地獄に引きずり込む死神の足音なのだ!

走って、走って、走りまくった。人にぶつかり、足がもつれ、時には転びながらも地面を蹴った。七転八倒しながら路地に飛び込むと、わたしは影だ、わたしは影だ、と自己暗示をかけ、影になりきった。世界の終わりまでそうしているのもやぶさかじゃなかった。

物が二つに見えるほど疲れていたけど、不思議と頭は回った。たぶん、極限状態だったからだろう。鈴瑚を攫ったのと追いかけて来た奴らは同じと見て間違いはない。わかったのはそれだけで、結局何も考えることなんか無かった。頭はやっぱり回ってなどいなかった。

「ちくしょう、なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ…」

「清蘭」

「…」

誰かが背後から呼んだのは疑う余地もない。が、今のわたしが影だというのも、また事実。清蘭なんて奴はここにはいないのだ。晴蘭を呼んだ誰かが何か勘違いをしているだけなのだ。決して振り返ってはならない。

そう決意したのも束の間、早くも決心がブレ始めている。兎というのは好奇心が強い生き物で、一度気になることが起きると確かめずにはいられない性分なのだ。

「清蘭、大丈夫か?」「清蘭、起きてる?」「清蘭、もしかして疲れた?」

「ああーっ!」気が狂ったわたしは奇声をあげながら振り返った。「もうやめてよ!ストーカーはダメだよ!犯罪なんだよ!」

どうせ殺されるなら死ぬ前に全部壊しちまえという気持ちで、さっきから語りかけてきてる野郎にもしこたまパンチをぶち込んでやろうと思ったのだが、そいつはわたしの肩をガッシリ掴んで離してはくれなかった。

「落ち着け、清蘭」

「やだ、やだ、やだ!許して!もう仕事の余り物をこっそり鈴瑚の在庫に混ぜたりしないから!」

「お前そんなことしてたのかよ!」

「あんたには関係無い…え?」

目を擦ってよおく見てみると、わたしの肩を掴んでいるのが鈴瑚だとわかった。

「り、鈴瑚…?」

目にバイ菌が入るのも厭わずに擦って、何度も何度もそれが鈴瑚であることを確かめた。わたしの奇行を目の前の鈴瑚は黙って見ていた。しまいには、わたしは臭いまで確かめていた。兎などの常に命の危険が付きまとう野生の獣は、目ではなく鼻を信じる。鈴瑚は四六時中団子を貪っているので、体臭も仄かに甘く香ってくるのだ。

「鈴瑚!」わたしは鈴瑚に抱きついた。臭いだけで糖尿病になりそうだ。「よかった、生きてて…本当によかった」

「よしよし、清蘭…よしよし」

いつまででも鈴瑚のおっぱいに顔を埋めていたかったけど、そうもいかない。

「何があったの?」

鈴瑚は質問には答えてくれず、辺りをキョロキョロ見回した。

「ここじゃなんだから、移動しよう。安全な場所にね」

拒否する要素が見当たらないので、鈴瑚に着いていくことにする。もしこの状況で友達を疑えるような奴がいるなら、ここに連れて来い。そんな気持ちで鈴瑚のケツを追った。散々走り回った後だったけど、月にいた時みたいに軽やかなステップを踏めた。二人して何度か転んだけど、二人だけの秘密を共有しているみたいで、そんなに悪いもんでもなかった。

わたしが連れて来られた建物には『ラビット・フット活動拠点』と書かれた看板が立て掛けられていた。

「ざけんなよ!」鈴瑚の胸ぐらを掴む。「どういうつもりだよ、おい!」

「ああ、ラビット・フットっていうのはね、兎による兎のための…」

「そういうことじゃないって!ここは敵の総本山じゃないのか?」

「良いから来なよ」

「ちょっ…」

鈴瑚はスタスタと建物の中へ入ってしまった。わたしは迷いに迷った挙句、鈴瑚に着いていくことにした。

建物の中は、床中にマットが敷かれていた。玄関、廊下、便所に。おかげで転んでも大して痛くなかった。鈴瑚は転ぶ頻度に拍車が掛かっていて、マットが無かったら、常人なら数回は死んでいたと思う。柔らかいマットが兎の命を守るためにあるのなら、ラビット・フットが本当に兎のために存在している組織というのも、あながち口から出まかせというわけでもないのかもしれない。

とはいえ、この心遣いがわたし達を懐柔する罠でないとも限らない。用心するに越したことはないけど、鈴瑚の態度が気になった。誰かに誘拐されたかと思えばいきなり現れ、その敵だと思っていた奴らの拠点に何のためらいも無く上り込む。鈴瑚のことだから、何か考えあっての行動だとは思うが、それにしたって真意が読めない。

「ここだ」長い廊下の一角で、鈴瑚が立ち止まった。「ここに仲間がいるよ」

鈴瑚が戸を開いた。戸を開くと、部屋の中では懐かしい光景が広がっていた。いつか、具体的には四年くらい前までは自分もこの光景に混じっていた。

「おお、おかえり!」淡い水色をした髪の兎がわたし達を出迎えてくれた。「わたしはレイセン…って、知ってるよね。月ではよく話したもんね」

部屋の中を睥睨しても、そこにいる奴らのことなんかてんで思い出せなかった。思い出せないけど、レイセンという奴の口ぶりと見てくれから、こいつらが月の兎だと言うことはわかる。全部で五十人くらいいて、奴らは相も変わらず身も蓋もない噂話に夢中になってるらしい。

「何してんの?」わたしはレイセンに尋ねた。

「月に危機が迫ってるんだ」答えたのは鈴瑚だった。「このままじゃ故郷が滅んじまう」

わたしは皆からの視線の雨の中、部屋の中をふらりと歩いて、部屋の隅に壁に背を預けて座り込んだ。またヒソヒソ話が聞こえてくる。何?あいつの態度…なんかウザくない?

とりあえず、何よりも大事なのは考えることだと思案したわたしは、回らない頭を殴ったり壁にぶつけたりしてテコ入れを試みた。月が危機だって?そりゃ結構。わたし達はもう月の兎じゃない。

「清蘭。色々言いたいことはあるだろうけど、こいつの話を聞いてやってくれ」

鈴瑚がレイセンの肩を叩いた。レイセンはわたしの前に正座して、わたしの許可も得ずに勝手に話し始めた。

「月は今、とある侵略者によって危機に陥っています」

「前も来てたらしいじゃん。そんなに月が欲しいならくれてやれば良いんだ」

レイセンが鈴瑚に目配せした。わたしは鈴瑚との酒の席で、月に来た侵略者についての話を幾度も聞いていた。百万回は繰り返されたその話によると、月を憎む人や神が定期的に襲撃に来てるのだと。その煽りを受けて、四年前くらい前にわたし達は地上に駆り出され、そのまんま地上で暮らすことと相成ったのだ。だから、わたしはその人達に感謝こそすれど、別に憎く思ったりはしていない。月が憎いなら勝手に滅してくれ。

そんな了見が態度に現れたのか、レイセンは悔しそうに歯噛みした。

「わたしもよく知らないんですけど、その侵略者とはまた別の存在なんです」

わたしは鈴瑚を見た。鈴瑚はレイセンの発言を裏付けるように頷いた。わたしは続きを促した。

「そいつらは『月の兎よりも先に我々が月に住み着いていた』と言うんです」

「原住民ってとこか」

「わかりません。今まで生きてきて、あんな奴らは見たことがありませんから…」

いつの間にかレイセンの話を聞いていた他の奴らが、その『敵』の姿を思い出して身震いしていた。余程恐ろしい見た目に違いないが、その敵とやらはエイリアンなどではなく、ネイティブだったと言う。

「玉兎は玉兎の威信にかけて、我々こそが先住民であると主張しました。すると、仲間の一人が奴らに襲われて…」

レイセンは涙を流した。その襲われた奴とやらが辿々しい歩き方がこちらに近寄って来て、履いていた袴の裾を上げた。

「拷問にかけられました。『月の先住民は玉兎ではないと言え』と脅されました。だけど、彼は頑として口を開かないばかりか、奴らに唾を吐きかけたそうです。そうしたら、奴ら、彼の脚を切断して…」

部屋中が狂気の鼓舞で満杯になった。誰かがこの拷問にかけられた哀れな兎の勇気を称え、誰かが切断された脚のことを嘆いた。

「しかし彼は諦めませんでした。兎の未来のために一本しかない脚で立ち上がり、我々に情報を齎したのです!」

「へえ」わたしは帰りたくなっていた。「ふうん」

「その情報とは何か、知りたいでしょう!?」

「その前に聞きたいことがあるんだけど」

「知りたいですよね!」

「…」

わたしは腹痛を訴え、その日は鈴瑚と一緒に帰らせて貰った。わたし達は人里の酒屋に流れ、酒を頼み、鈴瑚への事情聴取の時間が始まった。面倒臭いので適当に今までの出来事を纏めると、鈴瑚は永遠亭で月の兎達の組織であるラビット・フットに拉致られたかと思えば月が今まさに危機に陥っていると伝えられ、それをあっさりと信じ、その上わたしまで巻き込もうとしている。月の危機を救うには玉兎の力が必要で、月では着実に未知なる敵によって兎達が数を減らしているらしい。この事態に月の偉い人達は「兎の問題なのだから兎達でどうにかしろ」とだんまりを決め込んだ。兎の命なんか軽いもんである。

「どうしてわたしが不幸な目にあってるかって?」鈴瑚は今までの不幸について、玉兎どもから教えてもらった見解を述べた。「簡単な話さ。兎の足、つまりラビット・フットは幸運の象徴で、人間達はあれをお守りにするんだ。今回の襲撃だって、言っちゃえば月の不幸だろ?それはわたし達が月から地上に移り住んだせいで、月を外敵から守っていた幸福のバリアが薄くなっちまったからなんだ」

「じゃあ、四年前のはどういう理屈だよ。わたし達はまだ月にいただろ」

鈴瑚はだんまりを決め込んだ。

そんなわけで、月には幸福という概念が足りなくなっていった。これには月の人達もちょっと黙っていられなくなった。具体的にどういう面で困ったかというと、桃の実の収穫量が減ったとか、海にゴミが流れ着くようになったとか。自分達の部下である兎が絶滅の危機に瀕しているという点については、一切触れられることがなかった。

月の上層部は狂気という面でも一段と上の存在なので、トチ狂った命令を部下に下した。地上に住む兎の足を集めて持ち帰って来い。ついでに自称ネイティブどもをぶっ殺せるような戦力をこさえて来い。竹林で大量に足のない兎が発見されたのには、そんな浅い理由があったのだ。

「兎の不幸はみんなの不幸だ」鈴瑚は酒を飲んだ。「月を救わない限り、わたし達を取り巻く不幸も晴れやしない」

鈴瑚の頭の中では未知なる敵の大虐殺劇が繰り広げられているのだろう。ここに機関銃があれば、敵でも味方でも御構い無しにぶっぱしかねない表情を浮かべている。相方が興奮していると必然的にもう片方が冷静になるもので、わたしは真剣に今回の出来事について色々と思うところを述べてみた。

「なんか、嫌だね。戦わないと幸せになれないなんてさ」と、口に出してみたものの、自分の口からこんなロマンチックな言葉が出てくることに驚いた。さらに驚くことに、わたしの口は止まらなかったのである。「幸せってそういうのじゃ無いと思うんだよね」

他人の癖にいきなり話しかけて来た奴を見るような目で睨まれてしまった。

「足を切断された竹林の兎達も可哀想だよ。冷静に考えてみなよ、ダメだよやっぱ。他人を踏みつけて自分達だけ幸せになろうなんて」それでも、わたしは言った。「ダメだよー、なんて」

「現実と理想が両立する道なんか無いのさ」

「お前もこんな事は馬鹿げてるってわかってるんだろ?だから理想なんて言葉が出て来たんだろ?」

「やるしかないんだ、清蘭。終わらせるには、戦うしかない」

「でも…」

言ってて気付いたが、自分はだいぶ地上の価値観に染まって来ている。昔ならば鈴瑚のような都合の悪いことは考えないままジェノサイドに踏み切っただろう。月では奴隷同然だったのだから、それも仕方がない。

しかし、自分の力で生きて、色んな物事と繋がりを得て、その度に命の重さも増したのだ。例え相手が故郷の仲間達を皆殺しにしようという連中でも、その命を奪うことに抵抗がある。

月には月のやり方があって、敵にも敵のやり方があるなら、地上のやり方だってあっていいはずだ。

「対話だ」わたしは決意を胸に言った。「戦う前に対話をするんだ。わたし達は相手のことなんかさっぱり知らないじゃないか。まずはお互い話し合って、理解を深めるんだ」

わたしは胸が高鳴るのを感じていた。自分のことをとても立派な奴だとさえ思った。そうだ。これが地上のやり方だ。やられる前にやれの精神は今や時代錯誤もいいとこで、闇雲に重火器を振り回す時代はとっくに幕を下ろしている。わたし達は敵を知ることが出来る。

これには流石の鈴瑚も薫陶されたことと思ったが、どっこい鈴瑚の奴は大笑いに笑い出して、そのまま死んでしまうんじゃないかと思ったほどだった。

笑いにかき消されながら、鈴瑚は訥々と言った。

「ははは!お、お前…対話って!ここは幻想郷だぞ?ここに住んでる奴ら、みんな話し合いより先に戦ってるじゃん!敵の正体はともかくさあ、目的が何であれとりあえず戦うのが幻想郷の住民だろ?違うか?」

「…」

とてつもないバカになったような気分で、わたしは酒を煽った。何か反論を考えてみたけど、鈴瑚の「話し合いなんか必要ねーっつーの」という一言で、全てがどうでもよくなってきた。

「この世はやるかやられるかだぜ、清蘭」

しばし意味の無い思考をしてから、わたしは答えた。

「それもそうだね」

段々と想像力の劣化と、身体の痒みを感じ始めていた。




身体の痒みが耐え難いものになってきた時、ちょうどラビット・フットにて決起集会が開かれた。リーダーのレイセンが言っても言わなくても良いような決意を表明し、もはや敵を殺すことになんら躊躇いをもたないわたし含む同士たちは、身体中を掻き毟りながら高らかに敵の死を願うようなことを叫び、兎の威厳を満天下に知らしめようとした。そんなのはどうでもいいから、さっさと月に行こうぜという雰囲気を醸し出していたら、じゃあ今行こうという話になって、レイセン達が通って来た槐安通路から月に行くことになった。

月の都の居住区は大まかに二つに別れていて、だいたい上層部が住んでいるところと、兎達の住むところで別れている。もちろん、住み心地などのグレードもしっかり分けられている。わたし達は玉兎居住区へ降り立ち、その変わりようにたまげた。

「こりゃひどいな」と、鈴瑚が背中を掻きながら言った。「建物が殆ど焼かれちまってる」

わたし達は幾つかのグループに別れ、わたし達の住処をこんな風にした奴らを探すことにした。わたし達には地上の兎から刈り取った兎の足をお守りとして持っているから、今やどんな敵が現れようとも怖いものなんか何もないのだ。

「いたぞ!」と、仲間の一人が叫んだ。「あいつらだ…あいつらにわたし達の仲間がやられたんだ!」

粉塵が舞う廃墟の中で、確かに蠢く影があった。仲間達は御構い無しに撃ちまくった。が、敵の影はスイスイと銃弾をかわしてしまうのだった。

「気を付けろ!」また誰かが叫ぶ。「奴らの水平移動の速さは常軌を逸してる!しっかりと狙いを定めろ!」

たいへんタメになるアドバイスをくれたそいつの断末魔が轟くと同時に、生暖かいものがかかった。足元を見ると、そいつの足が転がっていた。

「よし、当たった!」誰かが戦果を報告した。が、すぐに悲鳴もあがった。「だ、ダメだ!銃弾が通らない!」

やがてそいつも足を切られた。そうこうしているうちにみんなが足を切られ、残っているのはわたしと鈴瑚だけになった。すると、敵の攻撃が止み、粉塵も晴れ、敵の姿がお披露目された。わたしは目を疑ったし、この状況も夢かなんかなんじゃないかとも思った。夢だったら、まだ笑える。

「☆%£▽!」わたし達が敵と呼んでいたカニが騒ぎ立てる。「♩⁂◇℃+!」

カニだ。目の前にいる奴らは紛れもなく、頭だけがカニで、頭以外は普通に人間の姿をした、名付けることが許されるならカニ人間と呼ぶ他に表しようがない。カニ人間はわたし達を取り囲み、頭に付いてるカニの部分のハサミをガチガチと震わせている。

鈴瑚がライフルをぶっ放すも、銃弾は全て甲殻類特有の強靭な防御力で弾かれてしまう。

「≡⊆∀∂↑!」

「ちくしょう、ガチガチボディーめ!叫ぶんならわたしらにも分かる言葉で叫べってんだ!」

「我々はこの星に元々住んでいた、偉大なるカニの王族の末裔である!」

「喋れるんかいっ!」

「いや、レイセン達と喋ってただろ」わたしは辛抱堪らず口を開いた。「喋ってただろ!」

「清蘭!?いきなり大声出して、どうした!」

「我々の目的は、我々の故郷の奪還である!」愚かなカニどもは口から泡を飛ばしながらまくし立てた。「月の都に住まうお方達には、本来我々が仕えるはずだったのだ!それを後から来た兎どもが…許せん!」

カニどもは猛然と突進してくるかに見えたが、彼らは横にしか歩けないので、円を描きながら徐々に距離を詰めてくるしかなかった。

グルグルと回るカニ。囲まれたわたし達。あらゆる意味で為すすべが無い。この状況には未だに理解が追い付かないし、追いついたところで、だから何。想像力の欠乏を感じている。イライラして身体が痒くなってくる。頼むから、もう誰でもいいからわたし達を解放してくれ!

懇願するように天を仰いだ、まさにその時だった。空から緑色の物体が降り注いでくる。カニどもも動きを止め、空を見上げていた。それらは何かにぶつかることなく、地面に激突し、大きなクレーターを幾つも作った。

落下の衝撃で舞った埃の中から現れたのは、見たこともない生物だった。

「なんだ貴様ら!」と、カニ。

「憎きカニどもめ、我々を差し置いて先住民などと嘯くとは片腹痛し!」目が横に付いていて、尻尾の生えたそいつらの身体には、鱗がびっしりと付いていた。「我々はワニの王族の末裔である!卑怯極まりないカニの策略に嵌り一度は没落したが、今こそ積年の恨みを晴らす時!」

ワニは見た目に相応しくない機敏さを見せ、カニの一匹に飛び付き、恐るべき咬合力でカニの装甲を食い破った。食物連鎖の観点から見ても、軍配はワニに上がってそうだった。

「おのれ不意打ちとは卑怯な!」カニのハサミがワニの鱗を穿つ。「ここでは邪魔が多い、あちらでケリを付けるぞ!」

「望むところよ、卑劣なカニめ!」

いつの間にか兎の出る幕は無くなっていて、カニとワニは仲良く空に浮かび上がり、そのまま宇宙空間へと消えた。足下では足を切り落とされた兎達が、血溜まりの中でのたうち回っている。建物はどれも全壊していて、復興には百年くらいかかりそう。後から聞いた話だけど、あのカニとワニどもは同士討ちでどちらの一族も滅んだらしい。

鈴瑚がワニに食われたカニの死体に近寄って、溢れ出した身を手に取って口に含んだ。そして、言った。

「美味い」

それは、不幸続きの最近の日常の中で、久々に聞いたポジティブな意見だった。

終わり
テレビのニュースを見て「そういえば、香港の月にはカニが住んでるんだったなあ」と思った。
サイタマユウスケ
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.簡易評価なし
1.70大豆まめ削除
うーん、この投げっぱなしジャーマン。
鈴瑚たちが急にころび始めた理由とか、全身が痒くなる理由とか(単なるストレスを貯めてる様子を描写したいってだけにしてはちょっと凄惨にすぎる)、地上のウサギ足切られ損じゃん、とか、いろいろ考えてしまって、ちょっと勢いだけで押しきるのは難しい気がしました。

でも、敵の正体が蟹っていうのは、面白かった。
確かに、月にはウサギが、ってのは日本的な発想ですし、別に月鰐や月蟹がいても何らおかしくはないのだ。
2.100サク_ウマ削除
な、なんだこれ……
全く分からない。俺たちは感覚でものを読んでいる。
3.80名前が無い程度の能力削除
なんだかよく分かりませんが笑えます
笑えますよ
4.80封筒おとした削除
崖から突き落とされたような気分
5.90南条削除
面白かったです
なにも解決していませんが勢いがあってよかったです
6.100ヘンプ削除
カニいいいい!
7.80名前が無い程度の能力削除
堅実に進んでいながら最後の方の放り投げで笑っちゃった
ある意味おもしろい? ような気がする。。。
8.100終身削除
話が進んでいくうちにどんどん狂気の度合いが高まっていってカオスになっていくのが不思議と雰囲気にハマってたように感じました どっかの国から見たらカニに見える的な話は記憶があったんですけどワニまで出てきておっぱじまるので、前半の緊迫感があって段々と恐怖が迫ってくる感じが全部持っていかれてなんかもう最高でした