Coolier - 新生・東方創想話

ノッキン・オン・ヘブンズ・ガール

2019/09/19 22:56:44
最終更新
サイズ
36.79KB
ページ数
1
閲覧数
649
評価数
11/14
POINT
1130
Rate
15.40

分類タグ

 必要なものはただひとつ、己の体重を最大に乗せた、一撃必中の渾身の右ストレートだった。
 気に入らないやつをぶっとばすのに余計なものは何もいらない。くれてやるのはただの一発、そこから先は頼まれたって殴ってやるつもりはない。この拳をあいつの肌で汚すのは、後にも先にもこの一度だけだ――そう女苑は誓った。固く固く誓った。胸のうちに沈むその誓いが、ともすれば暴れ狂おうとする心を、迷いの余地なくひとつの目標に透徹せしめた。
 すなわち、実の姉を紙のように捨てたあの女を、力の限りぶっ飛ばしてやること。
 お礼参り、というやつである。
 貧乏神の妹を怒らせるとどうなるか、物を知らない箱入りの生娘に、骨の髄まで思い知らせてやらねばならない。それだけの思いが、暗い女苑の腹の底に、青い鬼火のゆらめきのごとく燃えている。

     ▼

 始まりは三日前、里の外れの貧民通りにまでさかのぼる。
 かつてこの場所を住処にしていたこともある女苑だが、今はすっぱり足を洗って、以来近づいたことはない。擦り切れた着物に目ばかりをぎらぎらさせた連中のたまり場、あるいは酒と博打と「自由」の横行する巷――誰よりもこの空気に馴染み、誰よりもこの場所を嫌っていた女苑が、しかして再び貧乏町に姿を現したのは、むろん本人の意思によるところではない。
 ではいったい誰の意思か。
 寺である。
 つまるところが炊き出しの手伝いなのであった。女苑の奉公する命蓮寺は妖怪寺などと陰口を叩かれもするが、そしてそれもまんざら間違ってはいないが、一方でちゃんと人間のためになることもしている。それを証明するいくつかの「慈善事業」のひとつがこの炊き出しであり、月に二度ほど寺の人間、あるいは妖怪が貧民通りを訪れて簡単な飯と汁物を配ることになっている。初めのうちは怪しがって近づこうとしなかった住人も炊きたての飯と味噌汁の匂いには勝てず、今では月に数度の「温かい飯」にありつける機会として歓迎するようになった。
 そして女苑は、当然のことながら、寺に勤める者の決まりきった持ち回りの仕事として、この炊き出しを手伝うことになった。
 嫌で嫌で仕方がなかった。
 いっそ何もかもを放り出して逃げてしまってもよかったが、怖いのはその後だった。あの女住職の説教は本人がその気になれば半日だって続く。さすがの女苑も一時の労働と引き換えに地獄を引き受ける気にはなれなくて、渋々ながらも参加することにした。
 当日がやってきた。
 もちろんのこと、色々な顔ぶれに声をかけられた。
 それはもうとことんまでに「色々」だった。老いも若きも、あるいは男も女も、この場に集まったほとんどの人間が彼女の名を覚えていた。それもそのはず、女苑はただこの貧民通りに暮らしていたわけではなく、住んでいたころはひとかどの有名人として通っていた。何しろ派手な見た目と金の出入りの極端さとそころのごろつきをまとめて畳む腕っぷしとがひとつの身体に同居していたのだから目立つのは当たり前で、刺激に飢えた貧乏連中をそろって「その気」にさせるような俗っぽい魅力が女苑にはあった。ある日を境にぱたりと彼女が消息を絶った際には、かつての肩で風を切るような勢いと傍若無人の笑い声を惜しむ声が相当にあがったものである。
 その女苑が、あの女苑が、ようやくこの貧民街に帰ってきた。
 と思えば、であった。
 そこには、似合わぬ前掛けをして飯だ汁物だを配りつづける女苑の姿があった。
 かつて浴びたことのない種類の注目が女苑を包んだ。
 だから帰りたくなかったのだ。彼女は目下、苦虫を口いっぱいに味わうような顔で握り飯を配っている。その顔を見てある者が笑い、ある者が指をさし、ある者が驚きのあまり餅を喉に詰まらせたような顔をする。共通する言葉はただひとつ、
 ――あの女苑が?
 であった。
 知ったことか。あれもこれもない。何をしていようがここにいるのが今の自分だ――声を大にして叫びたい女苑だったが、ここで何をどれだけ弁じようともそれが檻の向こうの虎の遠吠えより情けないのはわかりきったことで、だからこそすべてを飲み込んで女苑は配給の仕事に徹した。しかしいくら沈黙を守ったところで口さがない連中の口を閉じることはできない。ここにいるのはそうした品性からもっとも遠い人々であり、かつての自分もまたそうだったと考えればこれもひとつの因果応報と認めるほかになかった。立場が変わり役回りが変わり、かくして依神女苑は似合わない炊き出しの手伝いをして顔馴染みの乞食どもに思うさま笑い飛ばされるのである。
 帰りたい。
 落胆と羞恥に濁った目で女苑は眼前の配給の列を眺めやる。普段は統制の「と」の字もないようなこの貧民通りに、この時ばかりは整然と食事を待つ人間の列ができていた。事前に聞き知っていたことではあったが、実際に目にすると驚きを隠せない女苑だった。なぜといって、かつてこの通りに暮らしていた女苑でさえ、こんなに秩序だった貧乏人の光景を一度たりとも目にしたことはなかったからである。とはいえもちろんこの行儀のよさにはネタがあって、炊き出しにやってくる寺の妖怪どもがみな一級の武闘派なのである。初めのうちこそ喧嘩と言い合いの絶えなかった炊き出しも、それを仲裁する少女然とした「武僧集団」の実力が知れ渡るに至って段々と沈静化してゆき、今ではみなが命蓮寺の平和的な方針を受け入れて食事を受け取るようになった。その裏で誰が何回「お説教」を食らったかなどということは、女苑は知らなくてもいいことである。今はただ先輩方の築き上げた仲良しこよしの貧民街の恩恵に浴して黙々と飯を配っていればいい――そう心に決めて、それ以外をなるべく考えないようにして目の前の男に握り飯を渡し、次に出てきた人間を見るともなく眺めたその時だった。女苑の目が一点を見つめたまま凍りつき、手に持っていた握り飯がぽろりと落ちた。
「……え?」
 それは男ばかりの貧民通りにあって珍しい、正真正銘の女だった。痩せた身体に長いぼろきれを引っかけただけの格好はこの近辺にあって特別目を引くものではないが、その背を覆う伸び放題の青黒い髪は女苑の知る限りただひとりだけのものだった。絶えず伏せられた目とその下の不健康な隈、すらりと高い背を猫のように丸めて歩く立ち振る舞い、布の隙間から覗く骨と皮ばかりの細い手足、長らく目にすることのなかったその姿をいきなり間近に見せられ、震える声で女苑はつぶやいた。
「……姉さん?」
 呼ばれた女が緩慢な動きで顔を上げる。生気の欠けたどぶ川の水のような瞳があらわになり、その視線が女苑の瞳とぶつかるや、事態を知った両の目がゆるやかに見開かれていく。
「え、なんで……」
 女はそれだけをかすれた声で口走り、次いでおびえたように女苑から視線を外し、挙動不審の態できょろきょろとあたりを見回すと、いきなり、弾かれたように炊き出しの列から逃げ出した。
「え、ちょ、」
 引きとめる暇さえなかった。身にまとったぼろ布をばたばたとはためかせながら、いったいどこからそんな力が出るのかと疑うほどの速さで女は駆け去っていく。整理のつかない疑問がいくつも女苑の中に湧き上がり、その全部に答えを与えている時間などむろんあるはずはなく、差し当たっての思考を一旦すべて打ち切って女苑は女を追うことに決める。逃げ走る女を呆然と隣で眺めていた寺の妖怪に、
「ちょっと行ってくる!」
「え? いや、行っ」
 それ以上は聞かなかった。邪魔な前掛けを妖怪に押しつけて女苑は走り出す。その様子を見ていた貧乏人のひとりが「女苑が逃げたぞぉ!」と叫び、聞きつけた周囲の男たちが「それでこそ俺たちの女苑だ」とばかりに次々に立ちあがって泥臭い歓声をあびせた。
 女は今しも辻を左に折れようというところだった。その背中はあまりに遠く、体裁を気にして追いつけるようなものではけしてなく、結い上げた左右の髪をとことんまで振り乱しながら女苑は走った。女の曲がった角を曲がり、女の倒した天水桶をひらりと前に飛び越え、女のかわした野良犬に散々に吠えまくられながら地面を蹴ってひたすらに走り続ける。飛ぶように視界を行き過ぎるかつての街並み――軒先に座るミイラのような老人、矢継ぎ早にしゃべる男と痩せた赤子を抱く女、ありあまる時間と抑圧とが書かせた壁一面の流言飛語、ちり紙代わりに使われた汚れまくりの呪札、上へ上へと建て増すうちに塔のようになった民家の群れ、その間に張り渡された何本もの荒縄と強風に躍るぼろぼろの洗濯物――どこまでも猥雑で、何もかもがあの時と変わらなかった。しかしそれは当たり前のことなのだ。ある日を境に世界そのものが入れ替わってしまうわけではないのだから。今なおこの場所に生き続ける思い出、そのすべてを背後に置き去って女苑は走る。狭い路地や不規則な道がいくつも交差するこの通りは一度誰かを見失えばほとんどそれきりの場所である。他ならぬ女苑でさえ、ここの住人であった時には道の複雑さを利用して地回りだの借金取りだのを幾たびも煙に巻いた。逃げることは得意も得意、大得意の部類だったし、どの道がどこに通じているかもほとんど地図に起こせるほど鮮明に覚えていたが、それでも死に物狂いで逃げる相手に追いつき、捕まえるのはそう容易いことではなかった。どうやら逃げることと追うことの間にはまったく別の技術が必要とされるものらしい。かつて女苑はこれだけの力を尽くして誰かを追った経験がなかったし、それ以上に目の前を駆けていく「あいつ」は、逃げの一手に関して自分より数段まさる経験を持っているはずだった。
 だが、たとえどこまで走ろうとも、けして女が逃げ切ることはあるまいと女苑は考えていた。
 果たしてその予想は、あまりにもあっけない形で現実を射止めた。
 女が賭場の裏手に回りこもうという、まさにその瞬間の出来事だった。女苑は五歩の距離を隔てて女を追っていた。今にもその背中が視界から消えようという時、女の右足が「不幸にも」道の端のどぶ板をしたたかに踏み抜くのを、女苑は見た。
 張り合いのない幕切れだった。女はなすすべなく前に転び、そのまま一切の受身を取ることなくうつ伏せに地面に倒れて動かなくなった。ようやくのことで追いついた女苑が、荒い息の合間、あまりに情けないその背中にぽつりとこぼした。
「……全部聞かせてもらうから」
 あからさまにびくりと肩を震わせ、やがて観念したようにずるずると立ち上がるその仕草は、やはり見間違えようもなく、女苑の実の姉、紫苑のものに違いなかった。

 姉はひとりで幸せになったのだし、女苑はそれでかまわなかったのだ。
 ずっとそう思っていた。ひとたび貧乏神と生まれたからには不運を連れ合いとして生きるほかに道はない――半ば諦めのように思いこみ、暗い闇の中を這うように生きてきた姉が、ある日を境に女苑のもとを離れたのは、己の不幸をことごとく引き受け、洗い流してくれる存在と奇跡的な出会いを果たしたからにほかならない。
 自信過剰な天人だった。そいつの笑い方から立ち振る舞い、果ては視線の配り方に至るまで目に入るすべてのものを女苑は嫌っていたが、それでもそいつから姉を取り返すことをしなかったのは、たったひとつ、あいつにできて自分にできないことの大きさを、どうしようもなく女苑が自覚していたからだ。
 あいつなら姉さんを幸せにできる。
 ともに同じ不幸へと堕ち、そのつらさや苦しみを舐めることしかしてこなかった女苑に、幸福の道を歩む姉を引きとめることなどできるはずがなかった。確かにあいつは気に食わないし声も聞きたくないし顔も見たくはないけれど、それでもその一点にかけて、あいつは自分よりもずっとずっと、姉の隣に立つ資格を持っている。
 ゆえに、追わなかった。できるはずがなかった。自分はひとりでこの道を生きていくのだと、たったひとりの静かな部屋で女苑は固く誓ったのだ。
 何も間違っていないはずだった。
 で、あるならば――。
 たった今、女苑の目の前でぼろぼろの身体を起こし、卑屈そのものに染まりきった目を神経質にそらして、あたかも希望なんてものが存在しない世界に生まれた生き物のようにたたずんでいるこの女は、いったい何者なのか。
 それがかつての姉をどうしようもなく思い起こさせる事実に、いったいどんな理由をつければいいのか。
 何ひとつわからなかった。考えることを心が拒否した。
 しかし頭の片隅には、どぶ川の底の泥のかたまりのような真っ黒い確信が、すでにぐるぐると渦巻いているのだった。
 すなわちそれは、望まない姉妹の邂逅と呼ばれるべきものであり、
 長く連れ添ったその顔を妹が見間違えるはずもなく、
 一方の姉においてもまた、それはまったく同じであろうということだった。

 やっとのことで立ち上がった紫苑は、それで最後の体力を使い果たしてしまったらしく、そこから真っすぐ歩くことさえままならなかった。ふらふらと左右に動く姉の身体を女苑は支え、そのあまりの軽さにぞっとなった。少なくともここ数日ろくな飯を食っていないのは確実で、ひょっとするとそれ以上に飢えていた可能性もある。加えてこの身体であれだけの逃走を演じたとなれば歩けないのは当たり前のことで、むしろよくあれだけ走ることができたものだと女苑は感心する思いだった。姉をそれだけの逃避に駆り立てた動機については今は考えないことにして、とにかく何か食うものを探す方へと女苑は考えを向けた。だが、貧民街にまともな飯屋など期待するだけ無駄である。あったとしても粗悪な粟飯がせいぜいというところで、それでさえ数え切れぬほどの虫が器に涌いている始末だ。うつろな目で地面を見つめ、今にも倒れそうなところを踏みこたえるといった調子で歩く紫苑に声をかけながら、ついさっき飛び出したばかりの炊き出しの列を目指して女苑はたったいま走ったばかりの道を逆行した。
 実に来た時の倍以上の時間をかけて姉妹は路地を抜けた。炊き出しはすでに終わっており、後に残った寺の妖怪の雲居がのろのろと片づけをしていた。暇な貧乏人の群れもちらほらと座っており、再び現れた女苑の姿を認めてやいのやいのとはやし立てたが、その隣でぐったりとうつむく紫苑の姿を見ると黙りこんでしまった。当の女苑はといえばそんなものハナから見えてもいないし聞こえてもいない。今やほとんど背負うようにして連れてきた姉をどうにか炊き出しの前まで引っ張っていき、しゃがみこんで荷造りをしていた青装束の妖怪に一言、
「ご飯、まだある?」
 声を聞いた雲居はちらと顔を上げ、
「女苑、あなたどこに……」
 そこまで言ったところで雲居は目を見開き、ただならぬ様子のふたりを見て立ち尽くした。
「……ちょっと、その人、」
「ご飯貰ってくわ」
 有無を言わさぬ調子で女苑は言い、台の上に残っていた握り飯を二、三つかんで素早く竹の皮でぐるぐる巻きにすると、そばに座らせておいた姉を立たせて再び歩き始めた。去り際に雲居を振り返り、
「あたし今日はもう帰るから。あと、頼んでいい?」
 普段ならここで小言のひとつでも飛び出すはずの雲居だったが、この時ばかりは完全に呑まれてしまい、まともな返事もできなかった。
「……え、ええ」
 それだけを聞き、わずかな笑みとともに女苑はうなずくと、前に向き直って歩を進めた。その背中に声がかかる、
「聖様には伝えておきます。でもこれで貸しひとつですからね、女苑!」
 振り返らないままに女苑は、空いた左手をひらりと振って応えた。
 女苑が目指したのは人里の外れにあるぼろぼろの掘っ立て小屋だった。狭く、古く、汚い場所ではあるが、それでもきっちりと金を払って持ち主から借りている正真正銘の女苑の住居である。こんな場所でも人の目に晒されないだけ路上よりはましと女苑は考え、ふらつく姉を励まし、時に叱りながらどうにかここまでやって来た。ようやく着いたのは日も暮れかかるころで、戸を開け、軽い姉の身体をやっとのことで担ぎこみ板張りの一間に座らせると、拝借した握り飯の包みを解いて姉に食わせてやった。
 ほとんど獣のように紫苑は食った。
 何かはしたないものを見るような気がして、女苑はそうした姉の姿をなるべく見ないようにした。食う間、姉は一言も発しなかった。声を出す間も惜しんで食った。しかしその横顔に時おり女苑が目をやると、それまでろくな飯も食えなかったであろう姉は、黙って握り飯を口に押しこみながら、ぼろぼろと大粒の涙をこぼして泣いているのだった。いったいどれだけの苦しみの中に姉はいたのか、いくつもの想像が一瞬のうちに脳裏を巡って、女苑は静かに唇をかんだ。
 持ってきた握り飯をすべて食い終わると、あとには青い竹の皮と、寄る辺ない沈黙とが残った。身体を丸めて座る姉はじっと床を見つめたまま一言も発さず、一方の女苑もまた、何を言うでもなく黙っていた。長い長い沈黙は、時間にしてみればさほどのものではなかったのかもしれないが、その終わりに口を開いたのは、女苑だった。
「……何で逃げたの」
 うつむけていた顔をさらにうつむけ、姉は抱えた両膝の間に表情を隠した。髪の端からぱらぱらと砂ぼこりが落ち、薄暗い床に跳ねた。
「あのね、女苑、」
「言わなくてもわかるわ。……そんな格好、見せたくなかったんでしょ。あたしに」
 ようやく口を開きかけた紫苑の言葉を、強引に女苑は引き取った。
 紫苑は、こわごわと女苑に目を向け、視線が合うなりびくりと肩を震わせてその目を再び床に向けた。結局姉は、目を合わせることのないままか細い声で、
「ごめんね、女苑」
「どうして姉さんが謝るのよ」
 再び沈黙が降りた。紫苑は何かを考えるように目を泳がせていたが、やがてその仕草をやめ、洞穴の底から覗きこむような視線をおずおずと女苑に向けると、
「それじゃあ、何で女苑は、私を追いかけてきてくれたの……?」
 今度は女苑が、言葉を失って黙りこむ番だった。
 なぜと問われてもそれはわからなかった。しかしわかっていたところで、そんなことを口にできるはずはなかった。当たり前のことではないか。依神女苑にとって紫苑とは、決して赤の他人などではないのだから。
「……姉さんが、逃げるからでしょ」
 ようやくそれだけを女苑は言ったが、一方の紫苑は奇妙に落ち着いた様子で、
「うん、そうね……私が、逃げたから」
 そう言ってうなずくのだった。途端に焦りとも苛立ちともつかない感情が女苑の胸を満たした。
「違うわ、あたしのことなんかどうでもいいじゃない……大事なのは姉さんのことでしょ。どうしてこんな……」
 言いかけて、女苑は口を閉ざした。わかっているのだ、今さらどうしたもこうしたもないことは。すでに女苑の中にはひとつの明確な結論が像を結んでいる。天人に付き添っていた姉がひとりであの場所にいた理由、かつて底の底まで舐め尽くした貧困に再び姉が堕ちてしまった理由。そんなことが起こるとすれば、可能性はたったひとつしかない。
 ぽつりと、女苑は言った。
「捨てられたのね、あの天人に」
 姉は答えなかった。しかしこの場においてはそれこそが百言にまさる答えであり、やがてぽつぽつと紫苑は語り始めた。

 きっと大した理由などなかったのだろう。たとえどんな言い訳をあの天人が述べ立てたとしても、その発端にあったのはただの気まぐれだったに違いない。あれはそういう女であり、傾聴に値する理屈など髪先ほども持ち合わせてはおらず、紫苑はただそのことに最後まで気づかなかっただけなのだ。
 天人の姉に対する気に入りようは並大抵のものではなかった。少なくとも女苑が最後にふたりを見た時にはそのように見えた。紫苑の言葉も同時にそれを裏付けていた。いわく、天人様はどこにでも私を連れて行ってくれたし、楽しいこともいっぱい教えてくれた、笑い声が大きくてちょっとびっくりすることもあったけど、一緒にお酒を飲む時は、嬉しそうに色んな話をしてくれた――。そして酔いが回った時には、「お前みたいにいつまでも私の話を聞いてくれるやつはいなかった」と、こぼすこともあったという。
 その時点における天人の言葉や表情に、おそらく嘘はなかったのだろう。およそ喜怒哀楽のすべてにおいて、あの女は己の感情を隠し立てることをしない。その程度のことは女苑も理解していたし、特に警戒もしていなかった。問題はその軽薄さが、女苑の想像を超えるほどに突出していたという、まさにその一点にあった。
『飽きた』
 天人は、確かにこう口にしたのだそうである。続けて『もうお前に用はない、どこへなりと行って自分で生きろ、二度と私の前には姿を見せるな』と言い放ったらしい。いかにもあの女の口にしそうなことではあるが、言われた当の紫苑にしてみればそんなものは理解できないし、まして受け入れられるはずもない。『どうしてですか』と紫苑は問うたが、肝心の理由について天人はいっさい語ることなく、追いすがる紫苑を振り払って去ってしまった。そうして紫苑のもとには莫大な不幸が舞い戻り、転落に次ぐ転落の末に姉はあの貧民街へと流れついたのだった。それからは女苑も知る通りの顛末である。
 「きっかけ」がどの時点にあったかは、紫苑にもわからないという。しかし何かが決定的にずれてしまった瞬間があるとすれば、それは自分の力によるものだろうと、およそそのようなことを、たどたどしく姉は語った。
 力とはつまり、不幸である。紫苑の宿命は自らを含む周囲のすべてを不運のどん底に突き落とす点にある。並の人間ならまず無事ではすまず、それはあらゆる形をもって相手の前に現れる。紫苑が天人を慕うようになった理由もまさにそこにあって、あの女が生まれながらに持つ陽性の力は、紫苑の不幸へと向かう強烈な陰性の力を綺麗に相殺してしまうのだった。
 出会った最初のころは、まさにその通りになった。生まれてこの方紫苑を苛み続けていた不運はその日を境にぱったりと鳴りを潜め、少なくとも人並みの運気のうちに紫苑は生きることができるようになった。それは紫苑の目に初めて映る「偏りなき世界の姿」であり、明けることのない夜に差した、まごう方なき一筋の陽光だった。
 しかしそれは、完全ではなかった。
 初めのうちは、紫苑に自覚はまったくなかったという。というのも、身の回りでぽつぽつと起きる事故や事件といったものは紫苑にしてみれば不運のうちに入らず、もっぱら彼女にとってのそれは大きな散財や火事などの過激なものを指したのだ。ゆえに天人とともに過ごすようになってからも起きる小さな不幸については、これはもう仕方のないものと諦めるか、そもそも意識すらしていなかった。
 しかし天人の方では、そうは思わなかったようである。
 どうやらこの天人という種族は、毛ほどの不幸も受けつけない運気を生まれつきその身に宿しているものらしい。それはもう、道の石ころに蹴つまずくことさえありえないほどの強烈な幸運である。もしそうした苦労知らずの生粋の箱入り娘が、たとえわずかであるにしろ、殺しきれなかった紫苑の不幸をその身に浴びたとするならば。
 それまでは何もかも上手くいっていたのだ。およそ何を行なうにしても、そこにはただのひとつの苦労もなく行く手を遮る障害もなく、あったとしてもそれは苦もなく乗り越えられる張りぼてに過ぎず、終わってみればすべてが自分の思い通りになっている――それが天人の、強固にして唯一の世界観だった。すべては完全な閉じた輪の中で起きるできごとであり、いっさいは自分を中心に回っていた。長い時を通じて積み上げられたその素朴な認識を、たとえわずかにでも揺るがしうる事件が起きたとするならば、その時――これは女苑の推測でしかないが――その時、彼女の内心はどれだけの衝撃を受けたのか。以降、紫苑に向けられる彼女の視線は、はたしてそれまでと同じものであっただろうか。
 想像するにあまりある話ではある。しかし同時に、女苑にとっては鼻息ひとつで吹き飛ぶようなくだらない話でしかなかった。そもそも女苑は、「世の中を甘く見た」「苦労知らずで」「勝気な」人間が男女問わず嫌いなのである。そこにはわずかな自己嫌悪もあったが、そんなことは知ったことではない。
 ともかくそのような、女苑が心底から軽蔑する女に、それでも一度は認めてやった女に、姉の紫苑はいともたやすく捨てられたのだ。
 頭にかっかと熱い血が上り始めるのを、暗い沈黙の中で女苑は感じていた。

「ごめんね」
 長い話を語り終えたあとで、ぽつりと姉がつぶやいた。それは絶えることのない貧しさが彼女にもたらした、卑屈で矮小な口癖だった。まるで誰かに許しを乞うような色がその言葉にべったりと染みついているのを、妹の女苑は昔から悲しみと嫌悪の両の眼で見つめていた。
「また女苑に迷惑かけちゃったね。もうこんなこと、ないと思ったのに」
「考えが甘かったのよ」
 女苑はその一言ですべてを表現した。そう、甘かったのだ、何もかも。紫苑があの天人について行ってしまったことも、その背中を自分が追わなかったことも、短絡的な思考や期待にとらわれることさえなければ回避できたはずのものである。しかしここまで事態が発展する前にそれを予想できたかといえば、きっとそんなことはなかったのだろう。自分たちは落ちるべくしてその穴に落ちたのだ。今さら過去を振り返って語るべきことなど何もない。
 紫苑はただ一言「うん」とうなずき、よろよろと立ち上がると、
「ご飯、ありがとう。じゃあ、帰るね」
 小屋を出ようとした紫苑の瞳を、素早い動きで女苑は見上げた。
「姉さん」
 呼びかける。平板なその声色に、紫苑の全身が一撃で凍りつく。
「どこに帰るの?」
 紫苑は途端に自信を失った様子でそわそわと視線をそらし、
「だ、だって、これ以上女苑に迷惑かけられないし、その……」
「答えて。姉さんの帰る家はどこ?」
 微動だにしない女苑の視線を、もはや紫苑はまともに見ることができていなかった。
「わ、私ひとりならどこだって……その、どこかの軒下とか……」
「それは『家』じゃないでしょ、姉さん」
 いよいよ追いつめられた紫苑は、いっぺん足を下ろした土間から板張りの床へと戻り、長い脚を窮屈そうに折り曲げてその場に正座した。女苑は小さく鼻を鳴らし、
「帰る場所がないなら、そう言えばいいのよ」
「……ごめんなさい」
 しょげかえる姉の姿を見て女苑はため息をつくと、
「食いぶちなんてひとりでもふたりでも変わんないわよ。そうじゃなくても姉さん小食なんだから」
 おそるおそるこちらを見あげる姉からついと顔をそらし、女苑は立ち上がると、
「ここからそっちの半分は、好きに使っていいわ。留守番もほしかったとこだし、あたしひとりじゃここは広すぎるし」
 それだけを告げて女苑は板の間を横切り、土間に置かれたきらびやかな靴に足を通した。
「女苑」
 無言のまま小屋を出ようとした女苑を、その時、焦り気味に紫苑が引きとめた。
 振り返る。
「っ……その、ありがとう。女苑」
 あちこちに泳がせていた瞳を、その時ばかりはひたと女苑にすえて、紫苑は言った。
「…………」
 女苑は、一言もないままに姉の顔を見つめていた。やがて、
「ひとつだけ教えて、姉さん」
「……え?」
 その時、小屋にひとつだけ空いた明かり取りの窓から月光が射しこみ、表情の消えた女苑の顔を蒼白に照らしあげた。
「姉さんは今、どんな気持ち?」
 長い長い沈黙があった。紫苑は瞳を迷わせ、やがてうつむきがちにこう言った。
「天人さまと……もう一度だけ会って、お話がしたいわ」
「……そう」
 するべき確認はこれですんだ。それはすなわち、あいつがいったいどんな相手を裏切って消えうせたのか、というひとつの事実の確認だった。

 その後、三日間にわたって依神女苑は人里から姿を消す。
 その足跡を知る者はあまりにも少ない。ほかならぬ姉の紫苑でさえ、妹がいったいどこで何をしているのか、まったくもって掴んでいなかった。ただ、胸の内に沸いた説明のつかない使命感とともに、じっと妹の留守をあばら家の片隅で守り続けた。
 彼女が再び里に姿を現したのはそれからきっかり三日後、天頂に満月が差しかかる明るい夜半の折であった。場所は人里の外れ、女苑の住まいがある東の通りとはちょうど対極に位置する、西の外れである。折しもそこではとある女を主とした宴会が行なわれており、日ごろ彼女と縁のある妖怪やそこらの妖精までもが集められて、桃の木の下でどんちゃん騒ぎをやっていた。
 始まって半刻ほどの間は、特に大きな問題もなく宴会は進んだ。座には上等の酒が行きわたり、客の腹にもまた、よい具合に酒と料理とが染みわたりつつあった。
 ある者の言によれば、座をぶち壊した珍客の出現はこれより一時間ほど後、ということになっている。しかしそれを口にしたのは客の中でも特に下戸と呼ばれるひとりの妖怪であり、あとの者はみな口をそろえて「ちょうどこの時間にあいつが出てきた」と話している。
 証言はさらに続く。その珍客は初めのうち、宴会の席の片隅でちびちびと料理をつついていたが、やがてのっそりと立ち上がると地べたに敷かれた縦長のむしろを「右回りに」回り込んだ。客は確かな歩調で歩きつつ着こんでいた上着をその場に脱ぎ捨て、唐突にその身なりをあらわにした。髪は綺麗な栗色で、巻き毛にしたそれをふたつに分けて頭の左右で縛っており、服は上から下までとんとお目にかかれないほどの上物、おまけに両の手には七色に光る指輪がこれでもかとばかりにその存在を主張していた。
 指輪の客は大声で笑う別の客の間を無言のまますり抜けていき、やがて今宵の宴会の首座、長い青髪の女の背後に回り込んだ。
 その時にはすでに、見慣れない格好の客を不審に思った妖怪の視線が、ちらほらと彼女に向けられていた。しかし当の客はそんな視線を意にも介さず、低い声で一言、
「比那名居天子は、お前ね?」
 そう、問うた。
 不意に自分の名を、それも呼び捨てにされた女は、それでも酔いが回っていたために上機嫌を保ったまま、誰かの悪戯かと思って斜めに背後を振り返り、客を見上げた。見上げるその瞳が、すでに振り上げられていた指輪だらけの女の拳に、不思議そうに注がれた。
 まさにその瞬間、座の中ほどから立ち上がったひとりの妖怪が、女を指さして唐突に叫んだ。
「そうだそうだ、やっと思い出したぞ、おまえ里の疫病神の依神、」
 にぶく重い音が、その先の言葉をかき消した。
 すべてはほぼ同時に起こった。音がした次の瞬間には天子の身体は宙を舞っており、居並ぶ酔客の間をほぼ水平に飛び抜けた彼女はそのまま酒と料理の置かれたむしろにろくな受身も取れないまま突っこみ、食器の割れるすさまじい音とともにようやくその動きを止めた。服も、髪も、帽子も、肌も、頭の先から足の小指に至るまで、まったくもって酒と料理に汚れていない箇所はなかった。満座は色をなして立ち上がったが、それでもこの事態を前に動くことのできる者はいなかった。
「痛っ……」
 比那名居天子は十秒もしてからようやく身を起こし、おそるおそる差し伸べられる周囲の手を凶暴に振り払って立ちあがった。左の頬にはたった今受けたばかりの傷、右の頬には酒と怒りとで真っ赤に染まった血色があり、ずり下がった帽子の奥の鋭い視線は、今しも自分を殴り飛ばした女の姿をひたと見据えていた。
「……お前」
「そうかっかすんじゃないわよ、たったの一発でしょ」
 無表情のまま女苑は口走り、つい今しがた女の顔を殴った右手にちらと視線を向け、わずかに血で汚れた指輪を見て取ると、まるで汚いものでも見るように露骨に顔をしかめた。視線を上げ、
「ねえ、天人の血って運がよくなったりとか死ななくなったりとか、そういう効き目、ある?」
 天子は答えなかった。無言の怒りのまま帽子を脱ぎ捨て、再び女苑を睨みつけた。
「ま、ないわよねそんなの」
「やっと思い出したわ」
 低い声でそう漏らすと、天子は左頬に垂れた血を右手でぐいとぬぐった。
「お前、あの貧乏神の妹ね」
「一応覚えてんのね」
 女苑は深々と息をつくと、
「姉さんの代理で来たわ。あんたをぶん殴ってやるためにね。でももうそれも終わり」
 用は済んだわ、さっきの一発で許してあげる――そう告げると、女苑はくるりと天子に背を向けてその場を一、二歩と去りかけた。その時だった。女苑の肩が強烈な力で掴まれ、強引に後ろを振り向かされたかと思うと、岩を落とすような衝撃が左の頬に弾けた。
 声をあげる間もなかった。なすすべなく女苑は吹き飛び、雑草の生える地面にしたたかに背中を打ちつけて倒れた。しばしは立つこともできなかった。それでもどうにか身を起こすと、そこには腕を振り抜いたままの姿勢で立つ天子の姿があった。
「そのまま帰すわけないでしょ……私はそんな意気地なしじゃない。私は……」
 何かを思いつめた表情で天子は女苑を睨んでいた。その顔に浮かぶただならぬ覚悟に、女苑はかつて貧民街でゴロ屋を相手に立ち回っていた時のことを思い出した。喧嘩の勝敗を決するのは何よりも経験と腕力、続いて地の利や時の運と並ぶが、しかしそうしたもろもろをいっぺんに吹き飛ばしてしまう可能性を持つのがこの目だった。一度腹をくくった人間の据わりきった目ほど恐ろしいものはない――かつて幾多の修羅場をくぐった女苑の経験は雄弁にそれを物語る。
「いいわ、そっちがその気なら」
 血の味の唾を吐き捨て、女苑は大きく息をついた。おもむろに自分の頭に手を伸ばすと、髪の両側を縛っていた紐をするりとほどき、かたわらの草地に投げた。縛を解かれた栗色のざんばら髪が月光の下にはらはらと躍った。
 殴るのはただの一度だけ――そう誓っていた女苑だが、本気の相手となれば話は別だ。素性の知れないごろつき拳法でいいなら、正面から相手をしてやろうじゃないか。嵌めていた指輪をすべて外し、女苑は近くにいた妖怪のひとりにそれをあずけた。
「持ってて。くすねたら殺す」
 先ほどの女苑の拳を間近に見ていた妖怪は、ただその言葉に冷や汗を流して頷くしかなかった。
 天子が身構え、女苑もまた拳を作る。
 それを周囲で見ていた妖怪たちはしばし顔色もなく呆然と事態を見守るばかりだったが、中には荒事好きの連中もいたもので、拳を固めて向き合うふたりの女に荒々しい歓声を投げ、やがて無事に残った酒をかき集めると、喧嘩を肴に上機嫌で飲み始めた。
 そしてもちろんそんなものは、女苑にも天子にも聞こえてはいないのだった。

 十発目から先は、数えることをやめた。
 もはや馬鹿馬鹿しいほどの乱戦になっていた。女苑も天子も、すでに自分がどれだけの拳を相手に見舞い、反対にどれだけ貰ったかということをほとんど脳裏から消し飛ばしていた。一撃が互いの顔を撃ち抜くごとに、図らずもこの決闘の見届け役となった周囲の妖怪たちからは歓声があがり、またそれと同じくらいに、不安の混じったうめき声がもれた。この期に及んで戦法などあってないも同然だったが、それでも出自も違えば見てきた世界も違うふたりの戦い方には、おのずから明白な差が生まれていた。
 女苑の拳は、素早く、正確に相手の急所を撃ち抜くことを是とした。貧民街暮らしの長かった彼女は自分より倍も大きな相手に囲まれることもざらにあり、名を知られるようになってからは多対一の戦いもぐっと増えた。そうした中でひとりひとりの相手に長くかかずらっていればどうしても背後に隙が生まれる。そのような、長期戦や読み合いの許されない環境が女苑にもたらした戦法は、「もっとも強烈な一撃を、もっとも弱い箇所に、可能な限りの速度で打ちこむ」ことだった。かける時間はひとりにつき五秒、相手が膝をつくかつかないかという時にはすでに女苑の目は次の敵に向いている。相手がひとりでもすることは同じ――とにかく速く、強く、正確に相手を倒すこと。
 しかし天子は、倒れなかった。
 ここにおいて天人は女苑とまったく逆の戦い方を見せた。彼女の喧嘩は、徹頭徹尾の「受け」の喧嘩だった。はたしてそれが戦法と呼べるほどに成熟した技術であったかどうかはわからない。しかし絶えず移ろい続ける戦況の中で、女苑は確かに天子独自の「色」をそこに見たし、結果として彼女は、経験において明らかに勝る女苑を相手にそうそう引けを取らない戦いを見せていた。
 天子の突出した点は、その細い身体のどこに眠っているのかもわからないほどの、抜群のタフネスにあった。
 女苑にしてみれば、まさに城壁でも殴っている気分だった。女苑がどれだけの力をこめて相手の顎を捉えても、隙だらけの脇腹に拳を打ちこんでも、一向相手は効いた様子を見せないのである。そして本来倒れるはずの相手が倒れないという事実から生まれた女苑の隙をついて、天子の拳は的確に彼女を捉えていくのだった。その戦いぶりは「猛攻撃を加える女苑と耐え続ける天子」という構図そのままであり、傍目には押しまくる女苑が優勢のように見えるが、しかし実際には、戦いはどちらにも大きく傾いてはいなかった。
「ずいぶん、意地張るじゃない」
 それは初めの一撃から十五分後、二十七発目の拳が天子の右の頬を捉えた後に女苑が発した言葉だった。やはりというべきか天子は倒れず、口もとの血を拭って意志に燃える瞳を女苑に向けていた。にわかに静かになった月の下の決戦場で、成り行きを見守る妖怪たちがふたりの声に耳をすませた。
「効いてないわけじゃないんでしょ。倒れちゃった方が楽だと思うわよ」
 天子は、答えなかった。切れた口もとにかすかな笑みを浮かべたきりで、ふらふらと女苑に歩み寄った――かと思うと、唐突に姿勢を崩して、そのまま仰向けに後ろに倒れた。どよめきが周囲を騒がした。
 女苑は無言のまま天子の足もとに膝をつくと、もうすっかり気を失ったように見えるその顔を上から覗きこんだ。閉じられた目がその時、何かの冗談のように開くのを女苑は見た。身体のばねを利用して唐突に天子は起き上がり、勢いをつけた強烈な頭突きを、隙だらけの女苑の額にぶちこんだ。女苑の視界に強烈な火花がはじけ、つんとした痛みが鼻の奥を貫いた。
「……あんたこそ」
 立ち上がり、いまだに座りこんだままの女苑を見下ろして、荒い息の合間から天子は言い放った。
「あんたこそ、尻尾巻いて帰ったらどうなの、疫病神」
 ああ――ちらつく視界の中で女苑は思う。
 こいつの中には何かがある。単なる見栄や虚栄心などでは決してない、ひとたび膝をついたが最後、不可逆的に崩れ去ってしまう何かが眠っている。だからこいつは倒れないのだ。
 もはや勝ち負けなどどうでもいい。ただひとつ、それだけを知りたいと女苑は思った。そしてそれを知ることが、結果として勝ちを得ることなのだと悟った。
 ならばもう、どんな手でも使ってやろうと女苑は思った。とうに平衡を失った足を震わせながら立ち上がり、深く息をついて天子の瞳を見据える。
 問う。

「……どうしてあんたは、姉さんから逃げたの?」

 あるいはそれは、今までに女苑が放ったどの拳よりも深く、鋭く、天子の内奥に突き刺さったのかもしれなかった。
「……違う」
 みるみるうちに色を失っていく天子の様子を、じっとただ女苑は見つめていた。とかくにこの天人は己の感情を隠し立てることができない。そこには明白な動揺があり、女苑はしかとそれを見抜いていた。
「逃げてなんかない。まだ逃げてない。勝手に決めないでよ。私はここであんたに勝って落とし前をつけるの。そうすれば、全部ちゃらでしょ」
 女苑は黙っている。しかしその瞳には、無言のうちに相手をなじるような色がはっきりと浮かんでいる。
「私はあんた『たち』には負けないの。絶対に勝って、私は間違ってないって、ちゃんと証明するのよ」
 なるほど、と思う。
 こいつはこいつなりに苦しむことをしたのだ。きっとこいつは紫苑のことが嫌いではなかったし、それでいながら、彼女の力に自分の幸運が飲まれることを恐れて、逃げるように身を引いたのである。ゆえに苦悩と後悔が彼女には残った。そんな感情がこいつにもあったのだ。しかし今までいかなる葛藤も知らずに過ごしてきた箱入りは、その方法を致命的なまでに間違えていた。始まりの時点ですでに狂っていた軌道を、結局こいつは修正することができなかった。やはり、女苑の戦いはあの最初の一発で終わっていたのだ。あとの喧嘩は何もかもすべて、この天人のくだくだしい言い訳に捧げられていたにすぎないのだから。
「……いいわ、もう」
 深いため息を女苑はついた。先ほどまで心のうちに燃えていた炎は、今やすっかり燃えさしを失って消えてしまった。こんなやつを相手に振るう拳を、女苑は持たない。
 そこに天も地もない、ただのひとりの人間に過ぎないとわかってしまった相手を、いったいどんな気持ちで殴ればいいというのだ。
「付き合ってらんない。おままごとならひとりでやってればいいでしょ」
 天人に背を向け、今度こそ女苑はその場を立ち去ろうとする。その背中に半ば震えた天子の声が飛ぶ。
「……逃げるの、疫病神?」
 あからさまな挑発には、隠しきれない天人の焦りがべったりとこびりついていた。
「何でもいいわよもう。逃げたなら逃げたって言いふらしなさい。別に仕返しになんか来ないから」
 歩き去る女苑の背後に、焦りと怒りの複雑に入り混じった戦意が、どろどろと渦巻く気配があった。
 やがて、地面を蹴る音が段々とこちらに近づいてくるのを、女苑は感じた。
 そんなことだろうと思っていた。
 天子の拳が間近に迫ったその時、くるりと女苑は振り返り、回る勢いそのままに全力のカウンターを相手の頬にねじ込んだ。

 必要なものはただひとつ、己の体重を最大に乗せた、一撃必中の渾身の右ストレート。
 そしてこれは、往生際の悪い天人にくれてやる、大負けに負けた二回目の本物の拳だった。

     ▼

 天人は今度こそ起き上がらなかった。しかし意識までは失っていないようで、草の上に仰向けに寝ころんだ天子は、片腕で自分の顔を覆いながら、深い呼吸を繰り返していた。
「痛いのよ、あんたのパンチ」
 女苑が歩み寄ると、その気配に気がついたのか天子は、そんな言葉をもらした。女苑は露骨に表情をゆがめ、
「馬鹿じゃないの。全部あんたが撒いた種でしょ。今さら被害者面すんじゃないわよ」
 顔を隠していた腕を、ごろりと天子は脇にのけた。その顔は傷だらけでとても見られたものではなく、腫れた片目などほとんど見えていないに違いなかったが、それでもどこか表情は晴れ晴れと、何かが吹っ切れたようでさえあった。
 くそくそくそ、と内心で女苑は毒づく。結局こいつのために自分が協力させられたようになっているではないか。そんな馬鹿げた結末は御免だから自分はあの場を去ろうとしたのに。これではまるきり道化の役回りである。
 天子は思うさま草の上に伸びをして、
「あーあ、何か色々どうでもよくなっちゃった。だいたい悩んだりとか考えこんだりとかそういうの、私っぽくないもんね。慣れないことはするもんじゃないわね」
 女苑は小さく鼻を鳴らし、
「最初からそのくらい馬鹿なら、姉さんもあんたのとこで楽しくやってられたのよ」
「……そうかもね」
 ふいに天子は真剣な面持ちになって、誰に言うでもなくぽつりとつぶやいた。その様子を見ていた女苑が、
「え、何よいきなり。気持ち悪い」
「気持ち悪いって何よっ」
 天子は色をなして起き上がりかけたが、とたんに全身の傷が響いたらしく、「っつー……」とうめきながら再び地面に倒れた。
「……。あいつ、怒ってるかな」
 草地をわたる夜の風に吹かれながら、やがて天子はぽつりとつぶやいた。彼方に沈みつつある月を眺めながら女苑は、
「そういう時に怒れないから、あたしがここに来たのよ」
「……この暴力女」
「うっさいわよ自己中天人」
 わずかな沈黙のあとで天子が、
「あんたのパンチが容赦ないから、嫌でも目が覚めたわ。自己中天人上等。でもまあ、もうちょっとだけなら、下々の連中に情けをかけてやってもいいわ」
「……全然変わってないじゃない」
 そう毒づいて立ち去りかけた女苑の背中に、天子は最後の言葉をかけた。
「あいつに言っておいて。今度は前より全然ましな、最高の天人になってあんたを攫いに行くからって」
 女苑は、傷だらけの顔に小さな笑みを浮かべながら、ぽつりとつぶやいた。
「そうしたら、今度こそ骨も残さずぼこぼこにしてあげるわ。どうやってあたしと姉さんに謝るか、今のうちに考えとくことね」
 天子は答えず、再び腕で顔を覆った。
 傷だらけのその口もとに、女苑のそれとよく似た笑みが浮かんでいた。
「……さてと」
 女苑はふたりの様子を遠巻きに眺めていた妖怪のひとりに歩み寄り、預けていた指輪を取り戻すと、順繰りにそれを嵌めていき、最後に残った一番小さい指輪をぽいと妖怪に投げ渡した。
「とっときなさい。宴会ぶち壊しにした分の迷惑料。たぶん、まあ……しばらくお酒に困らないぐらいのお金にはなるから、みんなで分けて」
 妖怪は、受け取った指輪を信じられないものを見るような目で見つめ、ついで女苑の顔を見やり、
「あんた、いいやつだな。疫病神には思えねえぜ」
「疫病神よ。あたしはあたしの福を吸い取って、ここに捨てたの」
 そんな、言い訳とも何ともつかない言葉を残して、女苑は天人と妖怪とに背を向けた。
 そろそろ帰らねばならない。ひとりでは何もできない姉は、今ごろ家で腹を減らしていることだろう。
「あーあ、やだな」
 そうつぶやきながら、妹の顔には、どうにも仕方ないものを諦めるような、薄い笑みが浮かんでいるのだった。
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.80簡易評価
2.100サク_ウマ削除
とてもかっこよかったです。泥臭くて素直になれない二人がそれでも自分の矜恃を通さんとする姿が、なんというか、とてもロックでした。
3.90奇声を発する程度の能力削除
カッコ良い感じで良かったです
4.100名前が無い程度の能力削除
カッコいいなぁこの姉妹。
読みやすく、勢いがあり、非常に好みの文章でした。
願わくばぜひ次作も期待しています。
6.100電柱.削除
言葉が出てこなくなるほど素晴らしい描写でした。面白いし、動の描き方も巧みだし、本当に良かったです。これからも作者様の投稿をお待ちしています。
7.100やまじゅん削除
とても良かったです。
女苑が全体通してイケメンですね。
キチッと命蓮寺に義理通して、古巣にも配給している姿は美しい限りです。
8.100南条削除
とても面白かったです
姉を侮辱されてキレ散らかす女苑に熱いものを感じました
9.80ルミ海苔削除
状況描写と心理描写が混ざっていたので心理と状況を辿るのにやや整理が必要でした。一瞬を濃厚な描写で切り取られているのは醍醐味とも思いますが、ともすればテーマの整理が甘いとも取れ、満点とはしておりません。
10.90名前が無い程度の能力削除
女苑の姉に対する痛ましいほどの献身ぶり
天人が姉を捨ててしまったのなら、そのまま自分のものに戻してしまえばいいのにと思うけど、
天人の真意を知るために対決へ向かうというのは、もうまったく姉のためだけに動いている感じ
実際、紫苑の心は女苑に戻っていないように見えるし、
それでもお姉ちゃんのために喧嘩できる女苑がとてもかっこよくて切ない
前作でもそうですが、作者さんの女苑がすごく好きだなぁ

あと超蛇足ですけど、
女苑のそういう邪念まで描けていたら、もっと感情が味わい深くなった(?)かも
姉の幸せを一番に考えてる女苑だけど、たまにはちらりと自分の幸せを考えてしまうことだってあると思う

名前読みしてます。次作がとても楽しみです
11.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです。描写も巧みで憧れます
12.無評価名前が無い程度の能力削除
姉妹の絆を感じました。感情の動きもとても良かったです。
13.100名前が無い程度の能力削除
点数を入れますれましたので再度
14.100名前が無い程度の能力削除
女苑ちゃんいいよね
ストリートのファイターだったのか
パンチを叩き込む重さが伝わってきて面白かったです
ノックにしちゃあヘビーすぎるかもしれんが天人相手なら丁度良いかもね