Coolier - 新生・東方創想話

メイ・美鈴・メイリン

2019/08/02 01:02:08
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 月の明かりも星の煌めきも届かないほどの鬱蒼とした森の中を必死に走り回る。遥か後ろからは、明らかに動物ではない者たちの怒号が聞こえてくる。

 少女の母は、野盗どもに追われて滝壺へと姿を消した。少女の父は、武器を持って戦いに向かった。私が出来たことは只管に少女の興味を引き、あの凄惨な場から逃がすことだけだった。
 
 道中で、虎に会った。言葉などは必要ない。虎はしばらく私たちを見つめると、こちらに背を向けて尻を地に下ろした。一も二もない。私たちは虎の背にしがみつく。先ほどよりも早く、激しく、森を駆け抜けた。段々と声は遠ざかっていき、草をかき分ける音と動物たちの足音、鳥たちの鳴き声が私たちの耳を占めていった。

 森を抜けたところで崖が現れ、少女が虎の背から降りた。未だ、私たちの眼前には峻厳な山脈が、さらにその先には果ての無い荒野が続いているのが見えた。少女が振り向いた。私たちが駆け抜けてきた森の向こうはからは、赤黒い光が空を飲み込まんとばかりに波打っている。その光が己の故郷を焼いている光だと知るのには、少女はこの後数年ばかりの時間が必要になった。

 あそこまでの火の手を見るのは初めてなのだろう、攻撃的に喉を鳴らす虎を落ち着かせてから、私は少女と同じ方向を見た。火の光が、少女の顔と髪を淡く照らす。森を抜けたおかげでか月の明かりも相まって、少女の赤い髪は一層その輝きを増しているようにも見えた。

 少女は、まるで呆けたようにじいっと赤く染まる森を眺めていた。だがここも安全とは言えない。早く逃げなくては、きっと奴らは追ってくるだろう。少女はようやく、こちらへと視線を向き直した。その瞳には、何が映っているのか。


行こう、メイリン


 私の声が聞こえたのか、少女は微かに体を震わせた。







 紅魔館にはほんの少しの例外を除いて窓がない。しとしとと降っていた雨は止み、雲の切れ間からは月が顔を覗かせている。十六夜咲夜は庭先に出たところでそんな外の様子を知り、傘を開くのをやめた。

 事の起こりは、門番隊の報告からだった。話を聞くと、どうやら最近美鈴の元気がないらしい。いくら同じ館の下に住んでいるとはいえ四六時中視界に収めているわけでもない。少し気にかけてもらえないだろうかという門番妖精たちの報告に、二つ返事で咲夜は了承した。ほっとした表情を浮かべる者もいれば、心配なのだろう未だに柳眉を下げているものもいる。これだけ心配されるのも、きっと彼女の徳のなせる業なのだろうと、咲夜は己でも知らず微笑んだ。

 人間と同じような生活リズムを刻んでいる主は珍しく屋根の上で酒を嗜んでいる。横につこうとも思ったが、邪魔だとばっさり切り捨てられてしまった。少しばかりできてしまった暇にどうしようかと悩んでいる時にの報告だったのだ。もしかしたら何か悩み事でもあるのだろうかと咲夜は忙しなく手を動かしながら考えたが、頭に美鈴のにへらとした笑顔を思い浮かべると、そんなことは無いのではないのかと思ってしまう。手が動きを止めると、夜食代わりのサンドイッチが綺麗にバスケットに詰め込まれていた。

 土の香りが微かに鼻をつく。この匂いに不快感を示さなくなったのは何時からだろうかと咲夜は自問する。庭園の管理を手伝うことはあるが、主な担当は美鈴である。自分で管理していないからこそ、今年はどんな顔を見せてくれるのか。そうやって想像することは咲夜にとって楽しみの一つであった。

 雨が止んだことに気が付いていないのだろう、外套を纏いながら、門番である美鈴は門の柱にもたれかかっていた。夜の番であるため、人間である咲夜には少しばかり夜目がきつかったが、その様子が少しおかしいことには一瞬で気が付いた。あまりにも規則的に動く肩と胸、もたれかかっている姿。それらを見て考えられることは、一つしかない。


「……でこぴんかしらね」


 はあとため息をつきながら美鈴へと近づく。ふと、そこで咲夜は違和感を覚えた。それが何なのかを一瞬考え、美鈴の眼前まで近づいたところでその正体に気が付いた。美鈴が起きないのだ。起こさぬように静かに、雨よけに被っていたフードから美鈴の顔を覗き込む。寝苦しいのだろうか、整った顔を少しばかり顰めている。

 
(こんな顔、初めて見たかも)


 しばらく咲夜が覗き込んでいると、美鈴の目がわずかに開いた。少しばかりばつが悪くなって咲夜は一歩後ずさったが、美鈴の顔を再び見て、もう一歩足が動いた。

 紅い瞳は焦点が合っておらず、ふらふらと揺れている。その瞳だけが咲夜を捉え、後を追うように顔と身体が咲夜へと向き直る。ゆらりとした動き、糸の絡まった人形のような美鈴の様子に、咲夜は不気味さを感じたのだ。

 
「……美鈴?」


 咲夜の言葉から数瞬遅れて、美鈴の瞳が段々と焦点を合わせていく。しばらくの間咲夜の姿をじいっと見つめていたが、弾かれたように美鈴は苦笑いを浮かべると、すいませんと咲夜に謝った。


「調子でも悪いの?」

「ああ、いや、そんなことはありませんよ。ただ」

「ただ?」


 普段とは違う美鈴の様子は、咲夜に心配を抱かせるには充分だった。美鈴は何度か口をもごもごと動かした。短くない付き合いだ。癖は把握している。言おうか言うまいか悩んでいる時に美鈴が自然に行う癖だ。


「ああ~……昔の夢を見ていたんです」


 昔の夢。その言葉を口にした時の美鈴の表情は余りに人間臭かった。

 結局どんな夢を見たのか聞くことはせず、咲夜は館へと戻った。夜食の入ったバスケットを渡した時、美鈴は顔を伏せていた。なんというか、らしくないなと思った。もしかしたら昔の夢というのは嘘で、本当に調子が悪いのかもしれないと考える程度には、心配をしていた。

 咲夜は美鈴の過去をほとんど知らない。咲夜が知っていることは元々美鈴は主であるレミリアの親、先代のスカーレット郷に見出されて紅魔館へやってきた。ということのみである。咲夜がこの紅魔館に来た時から既に彼女は今と変わらぬ姿で門番をしていた。今と違うところといえばメイド業務も兼務していたところくらいのものだ。その仕事を咲夜は受け継ぎ、美鈴は門番業務と庭園管理に精を出すようになった。

 部屋に戻ってベッドに身を投げ出す。頭に浮かんだのは先ほどの美鈴の顔だった。多分に紅魔館で一番人間臭いのはと聞かれたら、咲夜は美鈴と答える。そんな彼女の過去を知りたいと思ったのは本当に気まぐれだった。

 小一時間程だろうか。休もうかとも思ったが思考がそれを許してくれない。うんうんと唸っていたが、咲夜はこの問題を解決してくれる相手を考え、ベッドから少しはしたなく飛び起きるとその場所へ足を向けるのだった。







 あてのない、そう、あてのない旅だったと言えた。嬉しい誤算だったのは、メイリンはあの旅に苦の感情をあまり見出していなかった。それだけが救いだった。

 燃えるような赤い髪と、少しばかり言葉を覚えることが遅かったことを除いて、少女は他の人間たちと変わらぬように育ってきた。

 この子には、生来不思議な力があった。何をしたというわけでもないのに動物たちと心を通わせ、枯れた花に触れば再び芽吹き、黄泉路へ足を突っ込んでいた者は、彼女と関わることで元気を取り戻した。それはまさしく奇跡であり、そこだけが、彼女が他のものと完全に違うところでもあった。

 彼女の住む集落を訪れた商人から噂は広まっていき、私たちの住んでいた龍神伝説からやれ龍神の使いだ奇跡の力だと彼女を見るためだけに訪れる者もちらほらと現れた。その力は正の力であることは誰が見ても疑いようのない事実であった。だが、周りが彼女を放っておくわけもなかった。あの野盗共も、そのような噂が招いた負の側面に違いなかった。

 野盗共から逃げた私たちは時に山野の声を聴き、時に動物たちに助けられながら、森を越え、山を越え、砂漠を越えた。そんな旅の途中で、私が一番印象に残っていることがあった。メイリンが一度も親を求めなかったことだ。まだ判らぬのだ。もう親と会うことは無いであろうということを。私としては有難いことではあったがその事実はとても哀しく、またこの子が何を考えているのか上手く掴めず、うすら寒くもあった。

 道中、私たちはとある一座に拾われた。座長の目が下卑た感情を帯びていたのを覚えている。売られるのか、それとも見世物にされるのか。不満も屈辱もあったが、あてのない旅を終わらせるには、ある意味いいきっかけでもあった。

 どれほど長い間荷馬車に揺られただろうか。結局、私たちには程なくして売り手がついた。いつの間にか私たちは遥か西に流れ、そんな西のとある地方のとある領主に買われた。この時、メイリンと私にとって大きな歯車が回ったのだった。







「昔の美鈴?」

「ええ。パチュリー様なら何か知っていらっしゃるかなあ、と」

「いや、私じゃなくてレミィに聞けばいいじゃない」

「お嬢様に聞くのはちょっと……美鈴本人にも少し聞きづらい雰囲気ですの」
 
「それで第三者である私から勝手に美鈴の過去を聞こうと?貴女も中々悪魔の館の住人らしくなってきたわね」


 意気込んで来てみたはいいものの、大図書館の主であるパチュリー・ノーレッジの言葉に流石にばつが悪くなったのか、咲夜は苦笑いを浮かべることしかできなかった。

 紅魔館地下の大図書館。懐中時計の針は、そろそろ日を跨ごうかという時刻を指している。そんな咲夜の様子をパチュリーはじとりと睨めつけ、くすりと笑った。


「冗談よ。ただそうねえ、多分すぐ終わる話ではないと思うけれど、明日の仕事は大丈夫なの?」

「ご心配なく。問題ありません」

「そう。なら貴女は客人ね。小悪魔、咲夜にお茶と簡単なものを」

「ごめんなさいね、小悪魔」


 美鈴と似た深紅の髪を揺らし、気にしないでくださいと小悪魔は咲夜にウィンクを残して給湯室へと消えていく。座りなさいなというパチュリーの言葉に従い、普段は使わない来客用の椅子に腰を下ろした。

 柱時計の音と魔女が本を捲る音、その二つの音だけが大図書館の今を構成していた。館内とは違い、妖精メイドたちがこの場所で作業をするのは決められた時間だけである。視線をちらりと後方に向けると、巨大な本棚の列が、闇に吸い込まれている。上を向けば、これもまた壁一面に収蔵された本棚が、闇に向かって伸びていた。空間拡張の術式を施しているこの図書館がどれほどの広さなのか。それは咲夜ですら把握していない。だが、少なくともここに一日中いたいと思うことはできなかった。


「私がレミィと出会った時」

「え?」

「彼女は常にレミィの横に控えていたわ。今よりも随分と刺々しい空気を出していた憶えがある」

「美鈴に、ですか?」


 唐突に始まった魔女の語りに、咲夜は耳を傾ける。魔女は時折視線を中空にさまよわせながら当時のことをぽつり、ぽつりと話していく。


「まあ流石に外面は使い分けていたみたいだけど、今よりも目つきが鋭くなることは多かったわね」

「意外、ですわ」

「荒事には率先して参加してたわね。まあ今と違って『何でもあり』だったからやりやすかったのもあったんでしょう。あれで一応レミィの体術の師匠だったみたいだし」

「そうなんですか?」

「美鈴本人から聞いたから間違いないわよ。まあ途中であまりにも自分と動きが違い過ぎるから基本的なことだけ仕込んで後は諦めた、とか言っていたけれど。お嬢様はちっとも私の言うことを聞いてくれないんですよおって」


 きっと美鈴の真似なのだろう。パチュリーのおどけた仕草と声色が珍しく、咲夜はくすくすと笑う。あとすこしで、一日が終わる。小悪魔の持ってきた珈琲を一口味わうと、パチュリーはまたいつものようなむっつりとした表情に戻っていた。


「そういえば、美鈴の調子がおかしいって言ってたわね?」

「はい。それがあったので、パチュリー様に聞いてみようと思ったのです」

「そう……小悪魔。悪いけれどもう一仕事お願いね」


 パチュリーの言葉に、再び小悪魔は大図書館の闇の中に消えていく。今頼みごとをしたということはこれから何かをするのだろう。会話の流れから、美鈴のことではあるのだろうと咲夜は薄々感づいてはいたが、口を開く前にパチュリーに制された。今にわかる、と。時計が鳴らした重い鐘の音とともに、空気が震えた。





 私たちを買った領主は、一言で表すのであれば「人間臭い人間」であった。買った理由も単に憐憫の情から来ていたと後に知ったが、私たちに言っていないだけで後ろ暗い感情もあったのだろう。が、それを表面に出すことは多くは無かったし、出したとしても大抵後で後悔していた。

 妻に先立たれた領主には、一人娘がいた。生まれつき病弱で、特に足が悪かった。私たちを買った理由の一つにその一人娘と年齢が近いからというものもあったらしい。その時も申し訳なさそうな顔をしていたのは、あの子の姿を娘と重ねていたからかもしれないと思うと、何も言えなくなってしまった。

 少女が初めてメイリンを見た時、その赤い髪の毛を大層気に入っていた。領主の目論見通りに娘とメイリンはすぐに打ち解けた。そして、日に日に元気になっていく娘を見ることで、領主は初めてメイリンの力に気づいた。

 娘はゆっくりではあるが確実に健康へと向かっていった。季節が二、三度巡る頃には娘はほとんど他の者たちと変わらぬような生活を送ることが出来るようになって、館の者たちを驚かせた。今までにどれほどの者たちに診せても匙を投げられていたらしい、領主の喜びようは大変なもので、何か魔法でも使ったのではないのかと詰め寄られたが、色々と説明が面倒だったので、東の国に伝わる神秘の一つだということにしておいた。メイリン自身、力について説明を求められても上手く答えることが出来ない、というのもあったが。
 
 館に勤めているメイドたちも、メイリンに優しくしてくれた。仕事に邪魔になるだろうと私はメイリンに極力関わらないようにしていたが、彼女がどんどんと周りの者たちに助けられながら成長していく姿を見るのは、少なくとも私にとっては一番幸福な時期だった。

 館には面白い者たちがいた。食客として館に住んでいた騎士はことがあるごとにメイリンに慕いの情を伝えていた。決まって従者がそんな主を制すのが館に一つの名物となっており、私も思わず楽しんでいた。メイリン自身が何を思っていたのかはわからなかったが。だが、終に彼女から騎士のことで話が無かったのは、脈がなかったということなのだろう。

 他にも、私たちと同じく東から流れてきたという老人もいた。老人だけはメイリンの力に気がついていたようで、体術とともに力の扱い方を教わった。老人曰くどうやら筋がよかったらしく、もしその気があるのなら武の道を目指すのも悪くないと言われていた。だがメイリンとしては、暖かいベッドがあり、飢えることが無く、そして大切な人がたくさんできたこの生活こそが一番のようだった。老人は何回か季節が廻ったのちに、館の者たちに看取られながら庭園に埋まった、哀しい出来事ではあったが、彼女は確かにメイリンの師であった。私たちが武に興味を持ったのは間違いなくこの老人のおかげだった。

 言葉を覚え字を覚えて、領主の娘が元気になって。その後も季節は幾度も巡り、何人かの使用人が館を後にし、また新しい者たちが館へとやってきた。赤毛の少女は段々と背も大きくなり、美しい、立派なメイドとなっていた。

 そんなある日のことだった。領主の下に一人の紳士が訪ねてきた。領主の娘に聞くと、どうやら旧知の仲らしく、領主と紳士は話を弾ませていた。そんな二人にメイリンが茶を出す。そこで、紳士と目が合った。


 紳士は、名をスカーレットと言った。


 この時、私たちの運命は既に決定づけられていたのかもしれない。







 美鈴は先ほど咲夜からもらったバスケットを開けると、サンドイッチを一切れ取り出し、口の中に放り込んだ。


「……美味しい」


 もしかしなくても心配させてしまったのだろう。少しばかりの罪悪感とともに、自分の身体の中をどす黒い錆の様なものが巡っている感覚に美鈴は眉をしかめる。

 脱いだ外套の上にバスケットを置くと、門前で身体を動かす。最初はそれこそ錆をとるようにゆっくりとした動きを。拳を突き、腕を引いて受け、蹴り上げる。幾通りもの型は滑らかに夜の湿った空気を滑っていく。

 自分に武を教えてくれた師の顔を思い返す。だがどれだけ必死に頭を働かせようとも、もうその顔を思い出すことはできない。それだけ時が経ったのだという事実と、その時に感じていた暖かなものが、胸にちくりと刺さる。今はもちろんだが、あの時も、きっと幸せだったのだろう。

 力を込め、拳を放つ。震えた空気が草木の雨露を吹き飛ばす。その衝撃が伝わったのだろう、草木に隠れていた虫たちがかすかな羽音とともに夜の闇に飛んでいった。


「あらら、悪いことをしちゃいましたね」


 独り言に応える者はいない。雲の切れ目は大きくなり、完全に月がその姿を現している。美鈴は赤い瞳で月を見上げた。月には魔力がある。それは古来より言われていることであり、美鈴も何度も体感したことがある。だが、今自分が感じているのは妖怪的なものよりも、もっと別なものであると感じていた。

しばらくそうして呆としていると、肩に柔らかさを感じる。次いで、慣れ親しんだ重さ。はあと一息を吐くとくすくすと笑う声が頭上から聞こえてきた。何時から見られていたのかはわからないが、気が付かなかったのだ。笑われても仕方がなかった。


「いつからいらっしゃったのですか。全く気が付きませんでした」

「しばらく後ろにいたのに、お前は全く気が付かないんだもの。笑いをこらえるのが大変だったわ。湖まで行きましょう。ほら、早く」


 無邪気な顔で笑って、レミリアは美鈴の頭をぺしぺしと叩く。罰ゲームだと称され、主の肩に乗せたまま美鈴は湖へと歩を進めた。蜩たちの声が、耳に心地よく響く。遥か昔、山野を駆け回っていた頃を、不意に思い出した。

 目を閉じながら記憶を映像に起こすが、所々が擦り切れてしまっている。時間による風化ではない。もう、その擦り切れてしまった部分を思い出せないという事実は、折角身体を動かして軽くなっていた胸の内に更に重りを乗せる。先ほどまでの雨を吸った地面がの柔らかさが、少し煩わしく感じられた。

 
「何年ぶりだ?」


 不意に響いたレミリアの声に、美鈴は何のことかわからず、数秒ほど足を止めてしまった。考えてみたが本当に何時振りか思い出せず、うんうんと唸って、ようやく以前は咲夜がまだ小さい時だったことを思い出した。子どもというのは聡いもので、当時調子が悪かった美鈴をいち早く心配したのはまだ幼さの抜けきらない咲夜であった。


「久しぶりですねえ」

「久しぶり、ね。私たちからすればまたか、ってくらいの時間だと思うのだけれど。後でパチェに言っておきなさい。一番困るのは門番をしている他の奴らなのだから」

「はは、すいません」


 林を抜けて、湖のほとりについた。雨は湖に漂う霧を少しばかりはがしてくれていたようで、穏やかな水面を、美鈴はレミリアとともに眺めた。


「人間だった精神には、妖怪の生は長すぎるか、美鈴」


 それは慰めなのか、それとも妖怪らしいからかいだったのか。そして、今も自分の内に人間としての部分は残っているのか。考えるには美鈴は少し疲れていた。







 スカーレットという者と出会ってから、しばらくが経った。結局その後も何かがあったというわけではなく、平穏な日が過ぎていった。今日は日が沈んでから、私たちは貰ってはいたが使いどころがわからなかった幾らかの給金を握りしめて街の酒場へと足を向けた。

 酒場に着いて、メイリンは店内を見まわした。酒家なんていくら店の外観を取り繕おうとも中身は変わらない。騒がしく、野卑で、湿った熱気が身体を撫でていくのだ。だが、私もメイリンもその雰囲気は嫌いではなかった。メイリンはどうやらお目当ての人物たちを見つけたらしい。テーブルに着くと、既に一人の少女はテーブルに顔を突っ伏してあーだのううだのと声にもならぬ鳴き声を上げていた。他のメイドたちは早々に酔いつぶれている少女の太陽のように輝く金の髪を指先で弄びながら、めいめいが酒や食事を楽しんでいた。メイリンはそんな様子をほほえましく思いながら席に着いた。

酔いつぶれている金髪の少女は、マーガレットと言った。メイリンとほぼ同じ時期に館へとやってきた少女たちは、喧嘩をしたりもしたが、今ではよくつるむことが多くなった。

 数日程前に、マーガレットは同じ館に仕える庭師に求婚を申し込まれた。元々両思いだったのをメイリンも私も何度も聞かされた。そんな少女を祝おうと、他の者たちが計画したのだ。余程嬉しかったのだろう、マーガレットは泣きながら店中の者にありがとうと言っていたという様子に、私たちは思わず声をあげて笑ってしまった。

 私たちは確かに幸せな生活を送っていたが、やはりどこか以前とは違う空気が私たちを包んでいたのは間違いがなかった。心配だったのだろう、迎えに来た庭師の男に迎えを任せ、メイリンは一人になったテーブルで安い酒を口につけた。

 思えば、昔より私がメイリンに関わる機会は以前よりも明らかに減っていた。私はそれを自然なことだとも思っていた。メイリンは今の生活が楽しいらしい。このままここで骨を埋めてもいいかもしれないとも言った。だが、子供の頃のように流浪をするのもいいかもしれないとも考えていたようだ。少しばかり夢を見がちな意見にも思えるが、夢というには大仰すぎるような気もした。安酒に頬を染めながら人生について考えるその顔は、少女とも女性とも言えない曖昧な顔で、私はやはり、何かが少しずつ変わっていることを感じずにはいられなかった。

 こんな場所に少女が一人でいるのは不用心ではあるのだが、以前に声をかけてきた酔っ払いたちを相手に『大立ち回り』をしてしまってから、私たちに不用意に話しかけるものは居なくなった。一人で過ごしたい時などは、逆に都合の良い場所でもあったのだ。

 ほど近くから聞こえたぎしりという音で、私たちはその方向に目を向けた。誰もいなかったテーブルの向かいには一人の男が座っていた。間違いがない。以前に館に来ていたスカーレットという男だった。

 私もメイリンも、この男のことを信用してはいなかった。見た目こそ筋骨のしっかりとした紳士に見えるが、そもこの姿も本当の姿か判らない。これは勘の様なものでしかなかったが、目の前の男から人外の気配を感じたのだ。メイリンも油断がならないようで、テーブルの下の足は、少し踵が沈んでいた。

 何用かと尋ねると、スカーレットはおどけながら葡萄酒を頼んだ。どうやら敵意は無いらしい。長話をするつもりはないと断ると、スカーレットは思わず人間に見えてしまうような晴れやかな笑顔を浮かべた。胸元から一枚の紙を取り出すと、それをこちらに差し出した。広げた紙には模様の様なものが書き込まれていた。それを地図だと理解するのに少しばかりの時間を要してしまった。

 何かと尋ねようとしたところで、町娘がおり悪く酒を持ってきてしまった。まずは乾杯でもいかがかなというスカーレットの言葉に私たちは渋々従った。

 スカーレットがおよそ紳士らしくない大袈裟な飲み方をしている間、もう一度地図だと思われる紙に視線を落とした。よくよく見ると、私たちがいる街の北、険しい山々の間に印がついていた。


そこに、私の屋敷がある


 その声色に、思わずぞくりとした寒気を感じた。何時の間に飲み干したのだろうか。組んだ手に顎を乗せながら、その紅い瞳がおよそ常人ではない程の重圧を持って私たちを見据える。だがそれ以上の違和感に周りを見渡すと、客も主人も皆が眠りこけたかのように気を失っていた。

 メイリンの身体から力が溢れ出していた。私が怯んでいる間にだった。彼女は不思議な力を持っていたが、それを除けば確かに人間であった。そんな彼女が私よりも戦闘に関する才があったということは、今にして思えばこの上ない皮肉だったように思えた。

 なぜこんなものをと聞くと、目の前の紳士の皮を被った何かは、にやりと口の端を吊り上げた。そこから見えたのは白く輝く牙。実物を見るのは初めてであったが、間違いがない。目の前にある絶望と形容できるほどの力。伝説にある吸血鬼。

 ふと、空気が緩んだ。目の前の吸血鬼はけらけらと笑いながら、非を詫びてきた。本当に他意は無いらしい。もし何かあったら存分に頼ってくれという言葉を残して、スカーレットは霧となって消えた。金だけ置いて店を飛び出したが、最早気配を感じることすらできなくなっていた。

当初の楽しかった気分は何処かへ吹き飛び、私たちには何ともいえぬ不安だけが残った。出来るこならば二度と会いたくはないと思ったが、領主と知己というのだからそれも無理だろうとメイリンはため息を吐いた。

 結局この予想は遠からず当たった。この出来事からしばらくが経った後に、私たちはスカーレット卿の館へ向かうことへなる。

 そして私は、否、私たちはこの世に顕現した地獄の一端を垣間見ることになる。



 
 
 

「……それで、美鈴は先代に仕える前はどうしていたんですか?」


 大図書館の時計の音を聞きながら、咲夜はパチュリーに問いかける。パチュリーの話は美鈴とレミリアの話であった。勿論咲夜が知らなかったことも多分に含まれていたが、まだ「思い出話」としか呼べないような内容だった。咲夜が知りたかったのはそれよりも昔、そう、彼女がどこから来たのかということだった。

 咲夜の言葉にパチュリーは一寸押し黙ったが、もう少し待っていなさいと再び口を開いた。一体何が起こるのだろうか。とはいえどもこの幻想郷では何が起こるか想像するだけ野暮であることを咲夜は知っていたので、とくに不満などを感じることもなく、時計の音を数えることにしたが、ちょっとばかりむずむずしてしまったのも事実だった。


「そういえばパチュリー様は先代にお会いになられたことは?」

「ん、何回かあるわよ。とは言っても向こうから訪ねてきたときに会ったことがあるだけだから、どこに住んでいるとかは知らないわ。ただまあ、チャーミングではあったわね」

「チャーミング?」

「レミィは小父様似ね、間違いないわ。逆に妹様は小母様似ね。まあ、あの方たちのことだから今の外の世界でもうまく溶け込んで暮らしているでしょう……と、来たわね」


 大図書館の扉が開いた。視線を向けると影が二つ、大図書館へと入ってきた。見慣れた主と門番の姿に、咲夜は日常に戻ったかのような安心感と、勝手に人の過去を探ろうとしている罪悪感で知らず、眉尻を下げた。そんな咲夜にちらりと美鈴は顔を向け、微かにほほ笑んだ。

 小悪魔から紙袋を受け取りながら、美鈴はパチュリーの前へ歩を進める。レミリアはパチュリーと一言二言言葉を交わすと、その身体を霧に変えて何処へと消えた。

 
「咲夜から聞いたわよ。調子が悪いんですって? 準備をしておいて正解だったわね」
 
「ええ、ご迷惑をおかけします」

「別に構わないわよ。私の仕事だからねえ。んじゃ、さっさとやっちゃいましょうか……咲夜がいるけれど構わないかしら? 外させる?」

「いえ、構いませんよ」


 恭しく美鈴はパチュリーに跪く。何が起きるのだろうか、咲夜が館で勤めるようになってそれなりに長い時が経つが、このような状況を目にしたのは初めてだった。パチュリーは椅子から立ち上がると手に持っていた本をじいと見つめ、何言かを口にした。咲夜にそれを聞き取ることはできなかったが、何かしらの魔法の呪文であることは理解が出来た。本はパチュリーの手から離れると、誰の手を借りることもなくふわりふわりと宙を舞ったのだ。

 本はパチュリーと美鈴の頭上をゆっくりと飛び回りながら、意思があるかのように頁を捲っている。本はまるで舞いながら力を蓄えているかのように段々と発光していく。ぱらぱらとした本の頁が擦れる音と時計が刻む規則的な音が、いやに耳に響く。


「すごい……」


 知らず、咲夜は感嘆の言葉を口から出していた。本から出ていた光は、そのまま沢山の光の粒となって、パチュリーの身体に染み込んでいく。パチュリーは呪文の詠唱を止めぬまま、空いた手を美鈴の額へとかざした。

 本から溢れた光がパチュリーに渡り、そして美鈴へと吸い込まれていく。どれほどの時間だろうか、光を出し終えた本はパチュリーの手の中へ戻り、全ての光が美鈴へと吸い込まれていった。一体何の魔法なのか、それを解決するかのように美鈴は立ち上がるとパチュリーを見、次いで咲夜と小悪魔を見、大図書館を見まわした。

 その最中に渋い顔をしたかと思えばとたんに目を見開いたりなど、表情が目まぐるしく変わる。何度か図書館内を見まわしながらの百面相を繰り返すと、ぴたりとその顔が無表情に戻り、普段の美鈴が浮かべるようににへらとした、柔らかな笑顔を浮かべた。


「パチュリー様、ありがとうございました」

「まあ問題は無いと思うけれど、しばらくは夜の番は他のものに任せなさい。薬もきちんと飲むこと」

「ええ、わかりました」


 一体何が起こったのか色々と聞きたい衝動に駆られたが、咲夜はその衝動をこらえて美鈴を見る。先ほどの様な複雑な雰囲気は消えたように感じられ、普段の美鈴と変わらないように見える。その様子に、知らず安堵の息を吐くと、美鈴と視線があった。

 
「ああ咲夜さん、先ほどは御馳走様でした。美味しかったです。バスケットは後で食堂に戻しておきますね」

「え、ええ。お粗末様でした」

「で、美鈴。咲夜が貴女の素性を知りたいらしいんだけど、私が話してもいいのかしら?」

「構いませんよ。別に減るものでもありませんし。では、失礼しました」


 先ほどの魔法のことなど何もなかったかのように、美鈴は何ともなく、普段通りに大図書館を後にした。その様子を咲夜はしばらく眺めていたが、思い出してパチュリーへと向き直る。またも聞きたいことが出来てしまった。


「パチュリー様、先程のは一体……」

「人間の」


 パチュリーのその言に咲夜はきょとんとしつつも、言葉の続きを待つ。パチュリーは首を軽く回しながら『寿命は』と続けた。人間の寿命、とんと考えたことは無かったが、人里には齢百を超える妖怪の様なご長寿もいるらしい。そんなことをふと思い出しながら、それが何故いきなりパチュリーの口から発せられたのか。

 パチュリーは椅子に座り直すと、咲夜に持っていた本を差し出した。受け取れ、ということなのだろうと咲夜は察し、本を受け取るとその表紙に視線を落とす。皮なのは間違いないが、どのように着色を行ったのだろうか、その本は模様も何もなく、ただただ鮮やかな赤で染まっている。


「百五十年」

「え?」

「人間の寿命よ。この前外の世界から流れてきた情報で知ったのだけれどね。私の経験でもそれくらいだと思うわ」

「百五十年ですか……ちょっと考えが及びませんね」

「そんなものでしょうよ」

「もし、それを超えるとどうなるのですか?」


 咲夜の質問は、同じ人間という種族ならば当然の興味ともいえる質問だった。パチュリーは軽く息を吐くと、そうねと呟く。じっと手元に視線を落とすその仕草は、パチュリーにとっては記憶の確認と思考を練ること両方を兼ね備えた行動であり、そして咲夜はそれを知っていた。


「……身体はもちろんのことだけれどね、それ以上の年月を生きようとすると、人間は精神が死んでいくらしいわ。脳と、そして心の寿命が、それぐらいらしいのよ」


 精神が死んでいく。心が死んでいく。それが一体どのような事柄を指すのか、咲夜にはわからなかったが、大凡ろくでもないのだろうということだけは想像が出来た。そして、同時に鳥肌が立った。まさかと思ったのだ。


「古来から、人間はそのラインを越えるために様々なことを行ってきた。そして中には人の道を踏み外して、その境界を越えた者もいる……少し、読んでみなさいな」


 パチュリーの勧めで、咲夜は自分が本を持っていたことを思い出した。言われたとおりに、真っ赤に染めあげられた本の表紙を捲る。その導入に書いてあったのは、とある少女の伝記だった。



「まさか」

「なんとなく気が付いてはいたと思うわよ。思考じゃなくて感覚でね。だって貴女、子供の頃一番彼女に懐いていたんだもの」


 以前に何度か考えたことがあった。それはあくまで冗談の様なものだったので、咲夜はその考えを直接美鈴に聞くことはしなかった。自分も過去のことなど聞かれなかったためだろう。だからこそ、今の今まで知らなかったのだ。まさか美鈴は、その言葉の続きを吐こうとして、喉のかすれで咲夜は咳き込んだ。そして、咲夜が言おうと思っていた言葉は、パチュリーの口から発せられた。


「美鈴は、元々人間よ。元々はね」







 私たちの住んでいた地域は、非常に治安のいい場所ではあったと思う。戦乱、飢饉、流行り病。酷い処になるとそこらに石を投げると何がしかの死体に当たるような場所もあったあの時代で、それはとても幸福なことだったと思う。

 領主の娘は、足がよくなってからはよくメイリンや御付の騎士と共に領内を散歩していた。本来なら危険な行為ではあるのだが、やはり私たちの住んでいる場所は平和だったのだろう、領主の娘が危機に会ったことは精々片手で事足りるほどの回数だった。

 時に娘の散歩に付き添い、時に老人から教わった体術の稽古に明け暮れ、時に他のメイドたちと街の酒場で羽目を外す。そんな人生が、私たちは大好きであったし、もし私たちがこの場を離れることになったとしても、この幸せな場所はずっと残っていてほしい。そう思っていたのだ。

 ある日のことだった。領主は騎士と大量の傭兵、農奴を連れて、館を出立した。私たちは領主から直接ものを聞かなかったので憶測ではあったが、戦か、それに近いものが起こっていたのだろう。その後に古株の女中から聞いた話では、南にいる城主がよからぬ魔術を研究しているらしく、真意を問い質しに向かったとのことだった。その話を聞いた時、私たちはあの一件以来会っていないスカーレットを思い出していた。その女中は笑いながら、しばらくで戻ってくるだろうと言っていたが、私たちは上手く笑うことはできなかった。

 館には程よい大きさの庭園があった。館に来た当時、メイリンはなぜこのような庭を造るのかわからないと言っていたことを思い出した。彼女にとって自然とは在るものであり、造り管理するものではなかったのだ。だがこの頃は自ら進んで手入れを行うなど、気に入っていたようだった。

 領主の娘とともに、よくこの庭園で時を過ごした。娘はメイリンと過ごすことで健康にはなっていったが、立場というものもあったのだ。だが、それだけ娘にとってもメイリンにとっても長い時間を過ごした場所であった。


私、この家が大好きなの


 ある時、娘は普段のようにメイリンを誘って庭園へ足を向けた。だが、どうやら普段とは用向きが違うらしい。そこで娘はメイリンと同じメイドであるマーガレットの名を出した。あと数日で、伴侶である庭師とともに館を出ることが決まっていた。娘は上気しながら二人との思い出を語っていく。私たちが知らないところで、随分と世話になっていたらしい。元々世話焼きの気があったマーガレットは、娘の快復をとても喜んでいた。庭師はまだ娘の足が悪かった頃、剪定や植樹で窓に見える景色を色々と変えてくれたらしい。話す娘の声は楽しみの色を含んでいたが、それとは正反対に顔は哀しみの色を帯びていた。


メイリンは、いなくならないわよね


 少女の健気な願いに、私たちは上手く応えることが出来なかった。この頃、私はもうメイリンの気持ちを上手く察することが出来なくなっていた。距離が離れたから、ということではなかった。この館にいる者たちが、領内の人間たちが私の知らない彼女を作っていったのだ。だから私はメイリンが答えなかったこと自体はまだ理解が出来たが、彼女が何を思って娘の質問に答えなかったのか、その中身を悟れなかったのだ。嬉しくもあったが、やはりすこし物寂しい気持ちもあった。

 ふと外を見ると、吐き気を催すほどに空が赤くなっていた。気が付かない内に夕刻になっていたのかと私たちは驚き、娘を部屋に戻した。部屋を後にすると、テラスで使用人たちが俄かに騒いでいた。近くにいたマーガレットが私たちに気づき駆け寄ってきた。いつもの溌溂とした表情ではない。目の前の少女の顔は、今まで私たちがみたことがないほどの不安に染まっていた。

 何があったのか問う。マーガレットはメイリンの手を引っ張り館の外まで連れ出すと、南の空を指さした。気持ち悪さすら感じる赤い空、その一部が真っ黒に染まっていた。まるでその一部分を切り取ってしまったかのように。

 この時の私にはわからなかったが、メイリンはあの景色が地獄の始まりだということを既に見抜いていたのかもしれない。怖がるマーガレットにおどけながら、私たちは館に戻った。

 その日の夜、メイリンは一通の手紙と一枚の地図を持って、執事の下に向かった。館で一番の古株であった執事は突然の客に怪訝な顔をしていたが、メイリンが地図を渡すと眉根に更に深く皴を刻んだ。あの時、スカーレットからもらった地図だ。執事は地図の場所に心当たりがあったのか驚きながら顔を上げたが、メイリンは質問には答えずに三日後の日没までに領主が戻らなければ、地図に書かれた場所へ館の皆を連れて行ってほしいと頼んだ。領主がいない今、実質的に一番力を持っているのは執事だ。だからこそこの地図を渡したのだ。

 メイリンの顔を見て、執事は深く息を吐いた。その仕草が普段仕事をしている時よりも弱弱しく私には感じられた。メイリンは部屋に戻り、支度を進めた。皮をなめして作った手甲と胸当てをつけ、外套を羽織る。今は土の下に眠る老人が、メイリンに送ってくれたものだった。まさか使うことが来ることになるとは夢にも思わなかったが、今となっては非常にありがたかった。

 支度を整えて玄関へ向かうと、メイリンを待っていたのだろう執事が夜空を眺めていた。何かとメイリンが尋ねると、執事は布の袋を差し出してきた。受け取ったときの重量感と音で、それが少なくない量の金だということはわかった。

 執事は独り言のように夜空を見上げながら言葉を吐く。その金を持っていけば少しの護衛と馬くらいは雇えるだろうと。ありがとうと深く、深くメイリンは頭を下げた。

 酒場に赴き何度か話したことのある傭兵崩れを雇い、馬を借りた。既に日は暮れていたが、南の空は未だに赤く染まっていた。そして、間違いなくその赤い光は領主たちが向かった城から放たれていた。私たちは、似た光を遥か昔に見たことがあった。火だ。それは故郷を焼いた火の光に似ていた。

 雇った護衛は二人だった。その二人の内の一人、私たちの中で一番の年嵩である中年の男が空を見ながら呟いた。曰くこんな空は生まれてから見たことが無いと。そして、私たちも感じてはいたが、男は『風』が違うとも言っていた。生温い、とか鋭い、とかではない。体感ではなく本能がこの風の異質さを感じ取っていたのだ。

 厩へ向かおうとしたところで地面が軽く揺れ、物見台から鐘の音が響いた。助けてくれという声が続いて聞こえ、誰かの叫び声が上がった。考えるよりも先に足が動いた。私たちが向かった先、街の入り口にある砦の近くにそいつはいた。

 息を切らしながらもついてきた若い狩人が、そいつを見て口を開いた。叫びたかったのだろうが、恐怖で声が出ないようだった。中年の男は既に剣を抜いている。メイリンも直ぐ様に力を解放した。

 そいつは、巨大な赤ん坊だった。否、赤ん坊の姿をしていた何かだった。赤ん坊に掴まれている衛兵は、必死に大声を張り上げて助けを求めていた。その声につられるかのように、やにわに後方が騒がしくなってきた。街の者たちが騒ぎを聞きつけてきたのだ。

 一人の衛兵が、あっと声を上げた。何事か、そう思う前に二度地面が揺れる。巨大な赤ん坊が二匹、降りてきたのだ。騒がしくなってきた後方から、嬉しそうな子どもの声が上がった。


天使様だ!


 天使様は掴んでいた衛兵を口元に運ぶと、鎧ごとに食らいついた。男は命乞いをする暇すらなく、胸から上が無くなった。こんな、こんなものが、天使であってたまるか。誰かが叫んだのを皮切りに、天使たちはこちらに襲い掛かってきた。

 忘れられない、地獄が始まった。
 





「美鈴が、人間……」


 咲夜の呟きは、誰かに聞かせるというよりかは自分に言い聞かせているようにパチュリーには聞こえた。パチュリーにとって意外だったのは、咲夜がそこまで驚いた様子を見せていないことだった。


「あら、あんまり驚かないのね」

「いえ、驚いてはいますが、なんというか、すとんとしたというか。ほら、美鈴って時折人間みたいでしたから」

「ああ、なるほど」


 それだけ美鈴の様子を見ていたのだろう。館に来たときはあれほど小さかった少女は、今は自分や美鈴と然程変わらぬ目線になるほどに成長した。なるほど、だからこそ目の前の少女は美鈴の心配をすることができたのだろう。その事実に、未だにぶつぶつと呟いている咲夜を見てパチュリーは微笑んだ。

 咲夜の質問に答えているうちに、パチュリーは以前の美鈴を思い出していた。百年はいっていないはずだった。七か八十年ほどだろう。今とは違ってメイド服を着ていた美鈴は、今とほとんど変わらない様子だったが、時折鋭い目を見せることはあり、また今よりも多少情緒が不安定だった。

 パチュリーが今でも鮮明に覚えていることがある。まだ幻想郷に来る前、館に迷い込んだ人間を食した時のことだった。その頃食材を捌くのは美鈴の役目だった。捌いている時の彼女に興味半分で聞いたことがあった。同族だったものを捌く時の気持ちはどのようなものなのかと。美鈴はもう慣れました、と前置きをしたうえでパチュリーの質問に答えた。


「ごめんなさいという気持ちと、美味しそうという気持ち。その二つですね」


 そうして彼女は同族だったものを生で食し、焼いて楽しみ、煮て頬を綻ばせていた。あの時の彼女は妖怪だったのだろうか、それとも人間だったのだろうか。今となってはどうでもよいことだったが。


「パチュリー様」


 不意の一言で思考が現実へと戻る。声の主である咲夜は美鈴の件もあったからだろうか、心配そうな表情で大丈夫ですかと聞いてきた。大丈夫よと返し、パチュリーは続きを語り始めた。








 長い生の中で『悪い夢に迷い込んだようだ』という言葉を聞くなり読むなりしたことがあったが、この時は正しくその通りだった。縦も横も大人の倍はあろうかという赤ん坊の姿に、殆どの者が恐慌に陥っていた。

 メイリンは力を拳に乗せ、赤ん坊に飛び掛かった。思えば、彼女が己の力を明確に他者を傷つけるために奮ったのはこの時が初めてだった。

 放たれた拳は圧倒的な速力をもって赤ん坊の顎を打ち抜き、私たちの上半身ほどはあろうかという頭を吹き飛ばした。盛大な血飛沫を噴き上げながら、ずずんと赤ん坊だったものが倒れこんだ。

 間髪を入れずに、メイリンは近くにいたもう一匹に襲い掛かった。赤ん坊は腕を振り回してメイリンの飛び込みを叩き落そうとした。言葉にすれば可愛いものだが、実際は『死』という文字が丸太のように振り回されているのだ。だがメイリンは赤ん坊の腕を難なく潜り抜け、もう一匹の頭も吹き飛ばした。

 降りてきたのは三匹だった。もう一匹を探そうと見渡し、残りの一匹は衛兵たちが数人がかりで串刺しにしていた。

 誰かが歓声を上げるのと、地鳴りが響くのが同時だった。そこかしこから、悲鳴や叫び声が上がり始める。私たちが思ったのは、館にいる皆のことだった。領主の娘は、執事は、マーガレットは。私がそう考えている間にメイリンはその華奢にも見える足に力を込めて、館へ向かって駆け出した。

 どこかで明かりの火が地面に落ちたのだろう。領内のいたるところが火の手に包まれていた。後ろから、狩人と中年の剣士が付いてくる。走っている最中にも、赤ん坊たちは背中から羽を生やし、質の悪い弦楽器の様な声を張り上げながら何匹も何匹も領内に降り立っていた。

 段々と焦りが大きくなっていく。私たちはまだよかった。立ち向かえるだけの力があるのだから、だが館の者たちは戦える者の大半は領主とともに館を後にしていた。戦力として残っているのは数人の雇われ兵士のみだった。

 道中、道端で少女が大声で泣いていた。その近くには一匹の巨大な赤ん坊がいた。きっと母親なのだろう、少女の近くで倒れている女の姿が、少女の絶望の理由を物語っていた。館へ急いでいるのも勿論だったが、私たちはその子を放っておくことはできなかった。

 メイリンは少女を襲わんとしている赤ん坊の腹に一瞬で肉薄すると、速力を殺さぬままに手刀を突き刺した。耳障りな声に顔をしかめながら、メイリンは空いていたもう片方の手も突き刺す。メイリンの身体が淡く光ったのと、赤ん坊の身体が爆裂したのは同時だった。

 頭上から降ってきた臓物と肉片を取り払い、メイリンは少女に向き直った。大丈夫かと声をかけようとしたところで、少女はぱくぱくと口を横に開いた。先まであげていた叫び声は消え、微かな声でひいいと叫びながら、私たちから後ずさった。

 中年の剣士が少女を抱き上げた。この子は自分たちが安全な場所まで連れていくと。剣士は少女に笑いかけながらその小さな身体を抱え上げ、狩人は少女の母親を担ぎ上げた。どうやらまだ息があったらしい。メイリンはこちらを見ようとしない少女に手を伸ばそうとして、指の間に少量の肉片がこびりついていることに気が付いた。

 剣士はふっと笑いながら顎をある方向にしゃくった。館に行く前に顔くらい洗っていった方がいいという言葉で、私たちは体のほとんどが血と肉と臓物の欠片で赤く染まっていることに気が付いた。ありがとうと言葉を返して、私たちは剣士たちと別れた。城に向かうために雇ったのだが、そんなことはもうどうでもよかった。狩人の方は少々頼りない感じがしたが、あの剣士と一緒ならばここから逃げるくらいのことは出来ると信じたかった。

 川で軽く顔を洗った。だが、手を洗うたびにじわじわと赤い体液が滲み出てきてしまう。その事実がまるでもう現実には戻れないことを示しているようで、私たちは館に向かった。あそこが、あそここそが、私とメイリンに残された居場所だったのだ。

 緩い坂道を駆け上がりながら、夜だというのに館がやたらと明るいことに私たちは気が付いてしまった。何も言うことは無く、坂道を必死に駆け上がる。空からはまるで火に集う羽虫のように、さっきの赤ん坊なのであろう人影が何度も館の中に吸い込まれていった。

 ひしゃげた門を飛び越えて、庭へと躍り出た。抵抗をしたのだろう、何人かの傭兵が倒れこんでいた。綺麗に切りそろえられていた木々は燃えている。燃える木々や庭園を見てはしゃぐ赤ん坊たちをなぎ倒しながら館の中へ躍り込む。ホールの中は、まさに地獄絵図だった。何匹もの赤ん坊たちが館を壊し、貪っていた。そんな無機質な音たちの中で、どこかから声が聞こえた。赤ん坊たちに気取られぬように、声のする方へ向かう。声が聞こえた厩では、生き延びていた執事やメイドたちが馬車の準備をしていた。

 よかった、とメイリンは呟き、崩れ落ちた。館の者たちは大半が無事だった。メイリンに老執事とマーガレットが気づき、駆け寄る。二人は途中で真っ赤に染まったメイリンを見て立ち止まったが、それでも身を案じてくれた。話を聞くと、領主の娘は一番にこの場から脱出させたとのことだった。この馬車が最後だという老執事の言葉に、深く、メイリンは安堵の息を吐くと、執事とマーガレットに馬車に乗るよう促した。


お前はどうするんだ


 執事の声は微かに震えていた。きっと、わかっていたのだろう。メイリンには、ここしか無かった。私にはメイリンしかいなかった。今が賭け時だと悟ったのだろう。二人を優しく馬車の荷台に戻し、メイリンはただ一言、愛しているとだけ告げた。

 全てだ。領主の娘もこの館も、住む者たちも。不思議なもので、私にはこの別れが最期だとは感じなかったのだ。御者に声をかけ、馬車はゆっくりと館を離れ始める。メイリンは、皆が見えなくなるまで手を振っていた。彼女が何を考えているのか、最早私にはわからなかったが、感情はわかった。

 まるで待っていてくれたかのように、館からも空からも、赤ん坊たちが湧いてきた。虫のようにそこら中から現れる異形共の姿を見るメイリンの目は、ひどく、いやらしく吊り上がっていた。

 怒り。メイリンは怒っていた。いきなりの不条理に、理不尽に。

 そして同じほどに、歓喜していた。思う存分力を奮えることに。

 一匹の赤ん坊がこちらに向かって突進してきた。美鈴は両の足に力を込めるとその突進を受け止めた。赤ん坊が上げたその顔に拳を振るう。その拳は目を突き抜け、どんどんと腕を飲み込んでいく。ふっと息を吐いて拳にまとわせていた力を解放する。赤ん坊の頭は綺麗に破裂し、残った身体は死にかけの虫のようにしゃかしゃかと四肢を動かしながら地面に突っ伏す。メイリンの目は怒りで吊り上がり、そして口元はにやけていた。

 私たちの姿は、あの化け物共の血と肉がこびりついて未だに赤黒く染まっていた。私たちも既に人の道からは外れていたのだ。赤ん坊たちは母親を見つけたかのようにこちらを見て笑いながら鳴いていた。 

 人のいなくなった館で、メイリンは吠えた。



 

  

 咲夜は、軽い休憩のために大食堂へ足を運んでいた。先程美鈴の夕飯を作ったときには大勢の妖精メイドたちで賑わっていたが、今は夜半、かつ夜勤の者たちの休憩というには中途半端な時間であり、結果として大食堂には片手の指で数えられる程の者しかいなかった。その中に美鈴の姿があったのが、意外といえば意外だったのだが。


「おや、咲夜さん。お話は終わったのですか」

「ええ、まあ、なんというか」


 美鈴に勧められ、咲夜は対面に座る。咲夜はあの後も続きを聞こうと思っていたのだが、少しばかり疲れてしまったらしい。続きは後日でいいかしらということで、この日の語りはお開きになってしまったのだ。咲夜としては元々聞きたいところであった美鈴の過去について少なからず聞くことが出来たので概ね満足ではあったのだが、こうして目の前に本人がいると、他にも色々と聞いてみたいことがあるのもまた事実であった。

 美鈴の手元には自分で淹れたのであろう珈琲のカップと、一冊の本が置かれている。思わず、咲夜は口を開いていた。


「何の本を読んでいるの」

「ああ、これですか。さっきパチュリー様が持っていたものと変わりませんよ。まあ簡単に言うと私の伝記のようなものです。大したものじゃあないんですけどね」


 少し照れたように笑う美鈴の顔にを見て、自然と咲夜も頬が緩む。そうだ、このような空気を持っているのが美鈴なのだと、咲夜は再確認をした。そして同時に、猶更興味がわいたのだ。

 どうして人間であることをやめたのか、と。

 どうやって切り出そうか、そんな考えをしている咲夜に気が付いたのか、美鈴は咲夜に問いかけた。どこまで聞いたのかと。表情に出ていたのだろうかと少しばかり気恥ずかしくなってしまったが、美鈴から聞いてくれたことに少しばかり救われた気がした。

「どうして、美鈴は妖怪になったの?」

「どうして、ですか」

「気を悪くしたならごめんなさい。パチュリー様から元々は人間だったことは聞いたのだけれど、どうして妖怪になったのかとか、そこまでは聞いていなかったから」

「ああ、そこら辺までは聞いたのですか。なんで、なんで、かあ。多分ですけど『死にたくなかった』っていうのが一番だったと思いますよ」


 あっけらかんと答えているがやはりというべきか、美鈴が答えたその理由は重い。当たり前ではあった。淹れ直してきますと告げて美鈴は席を立つ。その時にぱさりと揺れた特徴的な紅い髪に目が吸い寄せられた。

 そも、人をやめたということは、そう思うだけのことがなければ考えすらしないことなのだから。異変の中で出会った者たちの中にも何人かそのような者はいた。皆一様に今となっては楽しんでいるようではあるが、それぞれに苦悩があったのだということは聞かずともわかることではある。美鈴にもそのような時があったのだろうか。パチュリーが、昔はとてもぴりぴりとした雰囲気をまとっていたと言っていたことを思い出す。目の前でカップにふうふうと息を吹きかけている様子を見ると、本当にそのような時期があったのだろうかと疑いたくもなってしまう。

 
「とにかく、死にたくなかったんですよ」

「え?」

「確か……そうそう。まあ強い妖怪にこてんぱんにやられましてね。死にたくないなあって思っていたらお館様に助けられたのですよ」


 先代のスカーレット卿のことを言っているのだろう。だが、それは一つの考えを咲夜の中に浮かび上がらせる。我らが敬愛なるレミリア・スカーレットは吸血鬼である。その父である先代のスカーレット卿もきっと吸血鬼なのだろう。つまりは、だ。


「じゃあ、美鈴、貴女」

「まあ、そうですね。一時期吸血鬼の眷属、やってました」


 時間は既に真夜中といっていい。だが、咲夜の目は未だに眠気で重くなることは無く、美鈴の紅い髪を鮮明に映していた。




 

 どれほどの間戦っただろうか。拳を打ち込み、足先をめり込まる。館にいたモノ達だけではない。メイリンは領内の全ての化け物を仕留めんばかりに荒れ狂った。地面はなんの生き物か判らぬほどの大量の死骸と、それらから流れる血で赤黒く染まっていた。

 まかれた火で気が付くのが遅れたが、少しずつ夜が白み始めていた。もう少しで夜が明けるだろう。こんな地獄のような景色を、きっと浄化してくれるに違いない。私はそんな期待を、見たこともない神の存在のように信じていたのだ。

 一際大きな地鳴りとともに、私たちの目の前に一匹の悪魔が降り立った。今までの赤ん坊たちのような姿ではない。岩のような皮膚、皮を剥いだ山羊のような頭部。私たちの身長と変わらぬほどの巨大な刃を持つ両刃の斧と、それを軽々と扱う巨躯。まさしく伝説の中に登場する悪魔の姿だった。

 今までの雑魚とは違う、悪魔が濃密な死の気配を振りまく。悪魔は私たちに気が付くと、羽虫を払うように無造作に斧を一振りした。ただの一振りだった。悪魔が振るったその刃は寸分違わずにメイリンが直前までいた場所を裂いていたのだ。

 もしかしたら、この地獄から抜け出せるかもしれない。密かに私は思っていたのだ。それほどまでにメイリンの力は圧倒的だった。だが、そんな考えも一瞬で打ち砕かれた。目の前で斧を構え直す悪魔の姿を見て、私はメイリンがこの場を切り抜けることのできる未来を想像することが出来なかったのだ。

 もし、私に力があるのならば幾らでも貸しただろう。幾らでもだ。だがそれすらもできない私はメイリンに逃げるよう言葉をかけるしかなく、そしてそれすらも聞こえていなかったのだ。結局この時の私にできたことは、メイリンを見ることだけだった。

 悪魔は斧を頭の上にまで大きく振りかぶった。先程のような小手先の一撃ではないだろう。メイリンはそれを見て、両踵に力を込めながら、腰を落としたのだ。離れるでもなく逃げるでもなく、それは明確に悪魔の斧を受ける決意を決めた構えだった。

 切る、といった表現は正しくなかった。形を持った暴力は私たちを塵屑にするには充分すぎるほどの破壊力を秘めていたのだ。刃が触れるその刹那、メイリンは腰をさらに深く落としながら斧の『腹』をその腕でかちあげた。軌道を逸らされた斧と同じ速度でメイリンは悪魔に肉薄すると、そこからさらに加速した。畳んだ腕は槍の穂先、必殺の肘を悪魔の腹に叩き込んだ。

 ぐち、という音が確かに聞こえた。そしてメイリンの叫びもだ。彼女の腕は、例え力を纏っていたとしても悪魔を破ることはできなかったのだ。砕けた肘をかばおうとしたところで、斧を放して腕を大きく振りかぶった悪魔が笑っていた。まだ動く片腕で咄嗟に受けたが、振り下ろされた爪は受けたメイリンの腕ごと、身体を易々と引き裂いた。

 完全に致命傷だった。メイリンは痛みを知覚できていなかったのか、もはや肩しかない腕だったものを呆と見た。胸は完全に切り開かれて、何か、私たちを私たちたらしめていたものがずるりとはみ出していた。


メイリンっ


 私の呼びかけに応じるかのようにメイリンは顔を前に向けた。悪魔の拳がメイリンの身体を吹き飛ばす。人形のように所々不自然な転がり方をしながら仰向けになったメイリンは、もうぴくりとも動かなかった。 


メイリンっ


 どれだけ呼び掛けても、メイリンは動かなかった。どうしてだろうか。私たちは何かしてはいけないことをしてしまったのだろうか。断じてそんなことは無かった。彼女はただ、ほんの少し不思議な力を遣うことが出来た。ただそれだけだったのだ。

 その終わりが、これか。許されるわけがない。何をだ? 私は守らねばならなかった。できなくてもだ。私は神を信じてはいなかった。だが、ここは地獄で悪魔がメイリンをこのようにしたのだ。ならば神頼みのひとつでも聞いてもらわないと、つり合いが取れないではないか。

 私はどうなってもいい。だからどうか、彼女の身に奇跡を。私の祈りが届いたかどうかはわからなかった。だが、聞こえてきたのは悪魔たちの叫び声で、私たちの下に近づいてきたのが悪魔でもなく赤ん坊達でもなく、見たことのある顔……スカーレットだったことを奇跡というのならば、私の祈りは届いたことになるのだろう。

 私たちを見下ろしたスカーレットの顔は、憐れみを持っていたように感じられた。しゃがみ込み、メイリンの顔を覗き込んだ。吹き飛んだ時に擦れたのだろう、メイリンの血と泥で汚れた顔をスカーレットは軽く拭い、その口元に手首をかざした。聞いたことがあった。吸血鬼たちは血を使って己が眷属を増やすことが出来ると。


メイリン


 三度、私は呼び掛けた。返事は無い。当たり前だ、わかっている。彼女にもう私の声は届かないだろう。だが彼女の魂が死んでいないことはわかっていた。だって私が生きているのだから。けれどもその輝きが最早消えかかっていることもまた事実だった。このままでいれば、きっとこの子は死んでしまうだろう。

 今の今まで随分と長い間を共に過ごしてきたが、メイリンの顔をまじまじと見たのは、本当に久しぶりだった。血と砂利で汚れ、その半分は悪魔の拳でひしゃげていても尚、目を閉じた顔はやはり昔と変わらずに可愛いものだった。本当ならば、番いになり、夫や子と一緒に過ごす人生もあっただろう。あの館で働き続ける未来もあったのかもしれない。もしかしたら、放浪の果てに何かを見つけるような、偉大な旅人になれたかもしれない。抜けていっているのだ。今こうして横たわる彼女からは未来が消えていくのを感じた。


ごめんね


 許されないだろう、私は彼女を奪ったこの世の理不尽全てが許せなかった。そして、私はメイリンに許されることは無いのだろう。

 引こうとしていたスカーレットの腕を、私は掴んだ。もう、この身体の持ち主は私になってしまったのだ。スカーレットは瞬間驚いた顔をしていたが、意図を察してくれたのか、己が爪でその手首に切り傷を入れると、傷口を私の口元に運んだ。

 気を抜くと意識ごと命を持ってかれる気がした。だが、こうしてメイリンの彼女を動かすことが出来るようになって、私はやはり彼女と一緒の存在だったのだと改めて気が付いた。そうだ。本当ならば消えるのは私のはずだったのだ。


ありがとう


 もう、上手く声を出すこともできなかった。喉ではない。きっと胸と腹が潰れているからだ。スカーレットの血が、私の口から身体中へと巡っていく。メイリンの夕日の色をした赤い髪が好きった。きっと、もう二度と見ることはかなわないだろう。

 思えば、私はこの子に何かをしてあげられたのだろうか。

 あの時、生まれ故郷から逃げ出した時、この子もまたあそこで生を終えた方がよかったのではないだろうか。まだ物心のつかぬうちに、そう思ったことは幾度もあった。私はこの子をいたずらに連れまわしただけなのではないか。その答えを応えてくれる人は遂に現れなかった。当たり前だ。メイリン以外、私の声は聞こえなかったのだから。

 けれども私は、救われていたのだ。この子が見せる笑顔に、この子が大きくなっていく姿に。新たな世界を作っていくその姿に。私がしてきたことは間違いではなかったのだと思えたのだ。

 ここから先は、きっと灰色の世界が続いていくのだ。身体中を駆け巡っているこの痛みも、吐き気も、熱も。全部私が引き受けよう。だからどうかメイリン、私に力を。この世界を灰色に染めた奴等を血の海に沈める力を。夕日よりも尚赤く、血よりも尚紅く染める力を。

 どれほどの時間だが経ったのだろうか。いつしか痛みも、吐き気も治まっていた。不思議だった。身体中からは力が溢れてきているのに、私の目に見える景色はやはり灰色で、そして胸の中にある赤黒く燃える怨嗟の炎はさらなる火種を求めてぐらぐらと揺れていた。

 気分はどうかとスカーレット問うてきた。私は一言の謝辞を述べて、答えた。


「最高で、最悪の気分」


 私の目は彼女のように澄んでいたのだろうか。スカーレットは目じりを下げたまま一つため息を吐くとようこそと私に言った。そうだ、もう私は人間ではないのだ。怒りに任せてかみしめた唇から己の牙で血が流れたことで、気が付いた。


よろしく、美鈴


 そうだ、私は美鈴だ。そして私はメイリンだった。







「……不思議な感覚ですね。私自身、経験したかどうかあやふやなのですが、こうして話していると少し、懐かしく思えてくるんです。ふふ、面白いですね」


 美鈴の表情には確かに自身が言ったような懐かしさを感じさせる表情が浮かんでいた。咲夜にはそれがどのような感情かまでは読み取れなかったが。気がつくと、残っていた珈琲はカップごとすっかりと冷めていた。結構な時間が経っていたようだった。


「すいません咲夜さん。ちょっと長く話し込んでしまったみたいですね」

「構わないわよ。それにもうちょっと聞いていたいもの。美鈴の話」

「大丈夫なんですか?早いんでしょう」

「ふふっ。多分ね、これから布団に入ってもっと美鈴に話を聞けばよかったと悩む時間と、これから満足するまで貴女と話をするのでは、大して変わらない気がするの」


 咲夜のその言葉で自分のことを話題に出していた気恥ずかしさが来たのか、少しばかり顔を赤く染めながら、美鈴はあははと笑う。その姿がやはり妖怪には見えなくて、だからこそ咲夜は興味を持ったのだ。

 瞬間、美鈴は頭を掻いていた自分の手にぎこちなさを感じた。感覚で知っていた。咲夜が時を止めたのだろうと。案の定テーブルの上には新しく淹れ直された珈琲とアソートのクッキー。美鈴が上げた視線の先で、咲夜はウインクをする。たまにはいいじゃないという言葉は、夜更かしについてなのか夜食についてなのか。きっと両方なのだろう。

 美鈴は自分の手に収まっていた本に目を落とした。題名も何もない紅い装丁の本。記憶を思い出すことはできる。だが、その記憶に付随していた感情まで思い出せるか、といえば難しい。ここに書かれている自分は、何を思っていたのだろうか。


「ねえ美鈴。続きを聞いてもいいかしら?」


 咲夜の言葉で、美鈴は視線を上げた。目の前にいる少女も大きくなったと思う。あの時自分は何を思っていたか。それを完全に思い出すことはきっと出来ないだろう。だが、懐かしむことはできる。美鈴はそうですね、と一つ呟き、続きを話し始めるのだった。




 

 今際の時をスカーレットに助けられた私は、傷を癒やすために彼の館に招待された。身体が馴染むまでは休んだ方がいい、というのはスカーレットの言葉だった。その言葉通りではないが、身体の傷はたったの数日で傷跡すら残らずに完全に快復した。

 あの時脱出した館の者たちもまた、馬車は道中で化け物や野盗に襲われることもなくスカーレットの屋敷に避難していた。皆が私の身体を心配してくれたことは正直に嬉しかった。

 そんな中で、マーガレットは私の姿を見ると転びそうな勢いで駆け寄って抱き着いてきた。彼女は特にメイリンといる時間が長かった。私の胸元で泣きながらよかったと連呼する彼女のうなじを見て、不意に空腹感が押し寄せてきた。くうと鳴った私の腹の音を聞いてマーガレットも私も、笑った。


 この時の私は気が付かなかった。人間が人間以外になることが容易なことではないことなど、当たり前のことだということを。


 身体を休めている間、スカーレットから幾らかの話を聞くことが出来た。化け物を呼び出した城主は、元々は死んだ娘と妻に会いたいがために魔術を始めたらしい。それが転じてあんな化け物共を呼び出してしまったのだ。妻と娘に会えたかは定かではないが、もうまともな状態ではないことだけは確かだった。

 行くのかというスカーレットの言葉に、首肯した。そのために拾った命なのだ。スカーレットは少しばかり眉尻を下げていた。行くな、ということだろうか。その表情を一瞬で戻すと、もうしばらくは身体が馴染むまでに時間がかかると言われた。確かに自分の中に圧倒的な力が蓄えられているのを感じていた。私はメイリンを介してでしか人間の身体を知ることが出来なかったが、それでも今身体に溜まっているこの力は明らかに人間のそれを凌いでいた。そして、手に入れた力に比例するように、異変は少しずつ私の身体を蝕み始めていた。

 やはり吸血鬼の眷属になったからだろう、私の身体は日光を拒絶するようになっていた。スカーレットのように純血ではないためか、瞬時に灰になるようなことこそ無かったが、日の光を浴びるだけで、身体がどんどんと爛れるようになった。じくじくとした痛痒感と、爛れて血がじわりと流れる腕を眺めて、そういえばメイリンは日の光がよく似合う子だったことを思い出した。この身体は、見た目こそはメイリンなのだ。だが、日の光の下にいられぬという事実は、決定的に彼女と私が違う存在なのだと訴えているように思えた。

 圧倒的な力に比して、何よりも辛かったのが吸血鬼特有の衝動、いわゆる吸血衝動だった。肉や野菜は確かに舌を満足はさせてくれたが、それでも腹の奥底にある空腹感は常に残っていた。まだメイリンの身体を動かすようになってから数日だったが、それでもこの衝動は耐え難いものがあった。

 身体の調子が戻りつつあるときだった。スカーレットの館でメイドを始めたマーガレットの姿を見て、私は空腹を感じたのだ。

 その事実に気が付いてから私は意図的に彼女を避けるようになった。メイリンの記憶を持っている私にとって、彼女をメイリンの友人ではなく例え一瞬とはいえ『食物』として見てしまったことが恥ずかしかったのだ。マーガレットだけではなかった。領主の館から共に逃げてきた者達が、私の目には皆等しく食料に映ったのだ。それは、スカーレットに勧められて口にした人間の血液を味わってから、より一層強くなった。

 更にしばらくの日が経ち、吸血鬼の力が身体にすっかりと馴染んだある日のことだった。テラスの日陰からぼうっと館の中庭を眺めているとマーガレットの姿が目に入った。彼女は客人としてではなく、この館で働くという道を選んだ。彼女だけではない、領主の館からやってきた大半の者は、ここを新たな仕事場だと考えるようになっていた。その背景にはきっと領主と知己の間柄だったスカーレットの人望もあったのだろう。人外の身でありながら人望があるというのも、なにやらおかしな話ではあったが。 

 マーガレットのもとに、伴侶である青年が駆け寄る。あの化け物共の襲撃がそれこそ悪い夢であったのだと思えるほどに、日の光の下で仲睦まじく笑いあう二人の姿は、平和で、尊いものだった。その光景を見ていられなくなって、私はテラスを後にした。

 館内に戻ると、領主の娘と目が合った。彼女もまた、廊下の窓からマーガレットたちを眺めていたようだった。その視線が、こちらを向く。その瞳には生気が感じられず、元々白かった肌色は、薄暗い廊下の空気の所為か病的にも見えた。父親は安否が分からず、自分の住んでいた場所は化け物共にめちゃくちゃにされたのだ。まだ年端もいかない少女なのだ、無理もなかった。

 部屋に戻ろうと少女の横を通り過ぎようとしたところで、腕をつかまれた。振り返ると、少女の瞳が一層じっくりとこちらを見つめていた。何か、私がそう口にしたところで、少女は口元だけを笑わせて、メイリンはどこにもいかないよね、と言ったのだ。その顔を見ていられなくなって、私は苦笑いを浮かべることしかできなかった。

 その日の夜。既に大半の者たちが寝静まっている頃に、私は館を後にした。スカーレットに出ていくことを告げた時は、やはり柳眉を下げられたが、以前のように止めるような真似はしなかった。気を付けなさいと一言だけをもらった。きっと何を言っても無駄だと感じたのだろう。無駄に引き留めようと言葉を重ねられるよりは、よっぽどありがたかった。

 暫くを館の皆と過ごして分かったことがあった。結局、皆は私のことをメイリンだと思っているということで、私はやはりメイリンにはなれないのだということだ。私は彼女の作った世界を見ていただけに過ぎず、それをどうにかする術を持たなかった。メイリンのように同僚たちに気の利いた言葉をかけることもできなければ、領主の娘を慰めることもできなかった。残っているのは抜け殻に等しいメイリンの身体だけなのだ。

 館の者たちは、私のことを何と思うのだろうか。本当ならば、ここで皆と一緒に過ごすという人生もあったのかもしれない。だがその選択をするにはこの場所は眩しすぎて、きっと私は惨めになってしまうのだ。ただ、ただひたすらに許せなかった。

 この夜から、長い旅が始まったのだ。









 美鈴の言葉は、まるで自分に言い聞かせているように所々リズムを途切れさせながらも続いた。咲夜はそんな彼女の独白を、ただ静かに聞いていた。ひとしきり話したのだろうか、美鈴はしばらく黙り込んでいたが、残っていた珈琲を飲み干すと、片づけましょうと言った。無言のままに一人と一匹の妖怪は食器の片づけを終える。


「折角ですから、外に出ませんか?」


 美鈴の誘いは少しおどけているようにも感じられて、咲夜はくすりと笑いながら賛同した。外に出て感じたのは、雨上がりの土の匂いと微かな蒸し暑さ。先程まで雨粒を降らせていた雲は何処かへと姿を消して、今は月が爛々と輝いている。美鈴も咲夜と同じように月を眺めていたが、行きましょうと告げると、眼前に広がる森の中に足を向ける。咲夜も倣ってその後ろをついていくことにした。

 月明りが、葉の間から真っ暗な森を照らす。気を抜くと森の闇は視界を奪ってしまうほどに濃密だ。そんな中で、美鈴は咲夜を気遣いつつも、すいすいと先を進んでいく。美鈴が進んだ先に何があるのか。咲夜は知っている。森を抜けた先、月の光を反射する霧の湖の水面は、ゆらゆらと穏やかに揺れいていた。

 
「あの頃」


 湖から吹く風が穏やかに咲夜に肌を撫でる。そうして一緒に水面を眺めていると、美鈴が口を開いた。先程の続きなのだろう、咲夜は何も言わずに続きの言葉を待つ。 


「あの頃は、きっと世の中の全てに対して苛ついていたのだと思います。力の無い自分にも、力を持たないと奪われるしかない世界にも。なまじ幸せだったから、きっと余計にそう思ったのでしょうね」 

「貴女がそんな感情を持つなんて、なかなか想像が出来ないわね」

「今だからこそ、考えられるのでしょうね。もう二度と太陽の下を歩くことは無いと思っていましたし、その必要も資格もないと思っていたでしょう、上手く思い出すことはできませんがね。ただ、きっと」


 きっと、その言葉の先は続かず、咲夜は視線を水面から美鈴へと移す。美鈴の目線は、水面ではなく月を見ている。何かを思い出しているのだろう、唇は結んだままだが、微かにもぞりと動いている。何を言おうか考えているのだろう。考えがまとまったのか、僅かに美鈴の唇が開く。咲夜はそれを見逃さなかった。


「怒っていたんだとも思いますが、多分、きっと、喜んでいたんだとも思います」


 美鈴の口角が、緩く吊り上がっていたことを。







  



 
 スカーレットの館を後にし、夜の眷属となった私が目指した場所は、領主達が討伐に向かったという城だった。未だに魔物たちが跋扈しているその城の周りは決して晴れない霧が覆っており、その中は確認ができないのだと旅行く商人から聞くことが出来た。行くのかいという商人の言葉に首肯すると腕を掴まれて止められたが、やんわりと払い、私は歩を進めた。去り際に見た商人の怯えたような表情は、きっと気づいたのだろう、私の腕が人間のものとは思えぬほどに冷たかったことを。

 一つ夜が来るたびに、私の周りには何匹かの魔物達の死体が出来た。私はメイリンのように上手く力を操れなかったので、怒りに任せて力を奮う程度しかできなかったが、それでも尚、他の有象無象共とは隔絶した力の差があった。それほどまでに、スカーレットからもらった吸血鬼の力は強大だったのだ。

 目を凝らせば全ての動きが緩やかに見え、軽い拳打でも魔物達に致命傷を与えることが出来た。少し力を込めて握れば、骨ごと相手の頭を握りつぶすことも可能だった。城を目指すまでの間、僅かな期間ではあったものの、私の中にあった、メイリンとともに築いてきた価値観は急速に変わっていった。

 私は間違いなく、力を奮い魔物共を肉の塊に変えることに薄暗い喜びを感じていたのだ。痛みを表す聞くに堪えない叫びは私の耳を震わせ、拳や足先に感じる心地の良い衝撃は、私の心を悦ばせた。憎悪や復讐という言葉を薄っぺらく感じてしまうほどに、己が捕食者になった事実は甘美だったのだ。

 領主たちが向かったという城の周りは、まるで重さを持っているように分厚い霧に覆われていた。その霧をかき分けて進む。霧は実際に微かな重さを感じるほどに濃く、分厚くかかっていた。どれほどの距離を進んだだろうか。ふと、霧が薄くなっていくのを感じた。その感覚は正しく、霧を抜けた先、私の眼下には未だかつて見たことが無いほどの巨大な廃城が見えた。

 霧に閉ざされた空を見ると、あの時に見た赤ん坊たちが空を飛びかい、城からは悲鳴とも笑い声とも取れない不鮮明な音が途切れ途切れに聞こえてきた。

 胸の奥にあるメイリンの残滓を感じた。魂の動きを感じることができなかったのは、抜け殻だからなのか、それとも私がそう思っているだけなのだろうか。だとしたらこれほど滑稽なこともなかった。誰も私のことを知らないのに、私はメイリン越しに見た世界を踏みにじられたことに憤りを感じているのだ。はたから見れば気狂いの類に違いなかった。

 太陽の光が届かないことを確認して、私は翼を広げ、正門へと降り立った。見知った顔が見えたからだ。忘れもしない、メイリンの命を奪ったあの悪魔が門前にいたのだ。どうやら私の顔に見覚えがあったらしい。臼をひいたような声を上げ、あの巨大な斧を両手に構えた。

 あの時メイリン越しに見た時に感じた死の気配は、この時には微塵も感じなかった。事実として、私の右の手は悪魔が全力で振るったであろう大斧の刃を軽く受け止め、その刃を握りつぶした。空いた左手に力を込め、中空を薙いだ。薙いだ力は見えない斬撃となり、悪魔の両腕を身体から切り離した。

 悪魔が悲鳴を上げる。何を言っているか理解はできなかったが、どうやら痛がっていることは理解が出来た。だからきっと悲鳴だったのだろう。そんな悲鳴の様な鳴き声を上げながらも、悪魔は瞬時に両腕を再生していた。その腕を、再び切り落とす。今度は足も切り離した。四肢をもがれて石畳の上に倒れ伏した悪魔は瞬時に身体を再生していったが、その全てを私は切り落とした。

 三十か、四十か。詳しく数を数えてはいないがそれぐらいの回数四肢を千切ると、終に悪魔は再生をしなくなった。限界だったのか諦めたのか確認する術は無かった。悪魔は必死に口を動かしていた。命乞いでもしていたのだろうか。だが、許す気は毛頭なかった。あの時、こいつはメイリンを奪ったのだから。拳を握って、喚いている頭部に叩き落とした。それっきり声は止んだ。我ながら随分と慈悲深い最期だと思って笑おうと思ったが、上手く笑顔が作れなかった。

 城の中はやはり外から見た時と同じように非常に広大だった。所々に人外の者たちが住んでおり、そいつらを叩き潰しながら私はただひたすらに奥へと歩を進めた。人間が住んでいたような痕跡はあったが、私が見つけることが出来たのは死体か骨だけだった。

 階段を上り、廊下を進み、階段を下り、広い廊下を突き進む。時間の感覚が段々と曖昧になっていった。霧の所為か窓から入る光量は常に一定で、ふと立っていた柱時計は狂ったように凄まじい速度で針が回っていた。

 ひたすらに歩いた先で、廊下はついに突き当り、その先には大階段が続いていた。古ぼけた赤絨毯がまるで大きな舌に見えて、誰もいないところで私はくすりと笑った。


 階段を昇った先に見たのは、巨大な蛞蝓のような肉の塊だった。


 肉塊には顔が付いていた。男だろうその顔の下には泣いているような女の顔が二つ。それぞれの口からは言葉になっていない喘ぎが聞こえていた。よく見ると、肉塊はうねうねと蠢き、その度に喘ぎが漏れていた。

 肉塊は、交わっていたのだ。

 誰だったか、館の者が言っていた。城主は無くなった妻と娘に会いたいがために魔術に手を染めたのだと。それが、これだったのだ。


「っはは」


 館の皆の顔が、頭をよぎった。美しい庭も、心地よかったあの時間も、そしてメイリンの幸せが、こんなものに奪われたのだ。胸の中にあった暗い炎が、どんどんと燃え上がっていった。許せなかった。こんなものに私たちは踏みにじられたのだという事実が、そして、同時に安堵もしていた。罪悪感なく暴力を振るえることに。

 殴っても、切っても、肉塊は瞬時に再生した。門前にいた悪魔の比ではない。ぶつりとした音と共に目の奥から痛みを感じ、視界が真っ赤に染まった。私は血の涙を流しながら、悦びながら何度も拳を振り上げた。







  全てを終えて、私は城を後にした。もしかしたらと思って領主の姿を探したが、もはやどの躯がそうなのかもわからず、残っている意味もなかったからだ。入ってきた時と同様に霧を抜けて、スカーレットの館を目指した。酷く疲れていたし、渇いてもいた。だが、血を吸おうとは思わなかった。もう、私の旅は終わったと、この時は思っていたのだ。

 どれだけ身体を洗おうとも血と肉片の匂いは鼻腔に残っていた。もしかしたら吸血鬼になったせいなのかもしれない。人目を避けながら何日もかけて、私はようやくスカーレットの館にたどり着いた。太陽は既に沈んでいたが、館には明かりがともっていた。スカーレットは私の姿を見て、何も言わずに着替えを出してくれた。

 館に同僚たちの姿は無かった。その替わりに、私が見たことの無い者達が働いていたのだ。翌日、一体皆はどこへ行ったのかとスカーレットに尋ねると、何も言わずにこちらに傘を差し出した。そのまま館を出る後姿についていく。館の裏庭、そこにいくつもの墓碑があった。


皆、ここに眠っている

「え?」

……君がこの館を出て行ってから、もう百年程経っている


 私は、この時スカーレットの言葉を理解できなかった。一体何を言っているのかと。スカーレットは私が館を出た時と同じように、眉尻を下げていた。困っているということはわかったが、何に対して困っているかまでは、分からなかった。

 最初はスカーレットの言葉を質の悪い冗談と聞き流していたが、館の中を探しても誰もおらず、そして、私たちがかつて住んでいたあの町に向かうと、廃墟などではなくすっかりと復興していた。その様を見て、私は事実を受け入れる外なかった。つまりあの霧の中は外と時間の流れが違う場所だったのだと。

 別に、誰かに認めてもらおうと思っていたわけではなかった。だが、もうメイリンを知る人間は、誰もいないのだ。私はまだいい。まだこの身体があるのだから。だがメイリンはどうだ。彼女が生きた証は、もう私しか知る者がいなかった。その事実がたまらない哀しみとなって、私の心の内にのしかかった。

 皆の墓を見た翌日には、私はスカーレットの館を後にしていた。前に出ていった時とは違い、スカーレットは私を引き留めようとしたが、またいつかと告げると、やはり以前と同じように困った顔を浮かべながらも、旅立ちを祝福してくれた。

 館を後にして、あてもなく曇った空の下を歩いた。陽が出ていると街道を歩くこともままならない。だが、このまま日に焼かれてもよかったとは思っていた。けれども代わりに顔に降ってきたのは生温い雨粒で。それは私の中の何かを壊す切っ掛けには充分すぎた。


「うっ、うぅっ……」


 メイリンは、少なくとも私が知る限りでは泣いたことの無い少女だった。哀しい時は困ったように笑い、悔しい時には頬を膨らませ、嬉しい時は笑う娘だったから。だから私は泣き声を上げることすらできなくて、只々顔を上げて唇を結ぶことしかできなかった。

 メイリンのために。スカーレットに命を救われた時の私はそう考えていた。復讐は成ったのだ。だがそれでも胸の中には哀しみや悔しさが一杯に広がっていて、私を動かしていた火種は逆に燃え尽きたように鳴りを潜めていた。

 私は頑張ったのだ。褒めてほしかった。


「うわぁあ、ううっ……」


 私は初めて、赤子のように泣き続けた。









「確かに私達のルーツは人間だったのかもしれませんが、きっとどこかで人外になったのでしょう。ただそれでも、どこか人間だった頃の感覚だけは残ったままでした」


 手首をしならせて、美鈴は湖に石を投げる。それは何度も水面を弾き、やがて見えなくなった。二度、三度と水切りを繰り返す。三度目に放った石は予想外に早く湖に沈んでしまい、美鈴はあちゃあと声を上げた。そんな横顔を見て、咲夜は改めて美鈴の『人間臭さ』のようなものを感じ取っていた。それは元が人間だとか、妖怪のような胡散臭さが無いとか、そのような問題ではない気がしたのだ。

 感覚だけは変わらないという美鈴の言葉を考える。咲夜は、先程パチュリーが言っていた言葉を思い出す。人間の寿命、その限界を超え、尚も生きていく。首筋がぞわりとするのを感じる。そんなことが自分にできるだろうかと。


「結局、復讐を終えたのはいいんですけどね、生きるのに疲れちゃいまして、死のうかなとも思ったのですが、いざとなると怖くてですね。なのでしばらくの間は根無し草のような生活をしていた、んだと思います」

「確信は無いの?」

「やっぱり、当時に何を考えていたまでかは思い出せませんね。ああ、ただ、疲れてはいましたね」


 疲れた、という単語が美鈴の口から聞こえるのも、咲夜にとっては新鮮だった。この門番は正しく太陽のように、時には真面目になりながらも常に余裕のある態度をとっていたからだ。自分の知らない美鈴の一側面を知ることが、何故か咲夜は申し訳なく感じた。


「当時の私達は、きっと今のように一所で門番をやるなんて絶対に考えていなかったでしょうね。そう考えると人生とは面白いものです。何が起こるかわからないのですから」


 不意に、咲夜は美鈴に一つの質問を投げかけようとし、口をつぐむ。『今は幸せか』と聞こうとした自分を恥じた。そんなことを聞いたところで何になるというものでもないのはわかっていたが、何故頭に浮かんだのか、咲夜自身も不思議に思った。そんな咲夜の顔を見て、美鈴はにっこりと微笑む。考えを見透かされているような気がした。


「人間だった頃も、きっと幸せだったと思いますが、私は今も幸せですよ。咲夜さんがいて、お嬢様がいて、妹様も、パチュリー様も。館の皆がいて、太陽の下で生きることが出来る。何に縛られることもなく夜を楽しむことが出来るのです。これ以上は贅沢ですよ」


 ですから、と美鈴は言葉を続けた。


「ですからどうか、私達の人生を可哀想などと思わないで下さい」







 スカーレットの館を後にしてから、どれ程かの月日が経った。何度となく命を絶とうと思ったが、陽の光は私の身体を滅してはくれず、ならばと自分で自分の首を刎ねても、気が付くと再び胴体とくっついてしまう。幾つかの方法を試したが死ぬに死にきれなかったのだ。

 私は人間たちの社会に溶け込むことを選んだ。血を吸うことこそ無くなったものの、それでもただの人間とは比べるべくも無い力の差があったのだ。誰かの恨み言を聞き、繰言を持ち掛け、暴力を振って報酬を貰う。金を持っている人間ほど都合がよかった。そして今度は口封じに私を狙う者に拳を振り上げ、また金を握る。面倒が多くなってきたなら住処を変える。何も考えていなかった。糞のような生だった。

 ある時のことだった。奴隷を売り飛ばしていたところで、その子を見つけたのだ。まだ十にも届いていないだろう少女は、鮮やかな紅の髪を持っていた。その顔も、どことなく似ていたのだ。私は一も二もなく奴隷商に金貨を投げつけて彼女を買い取った。

 少女はまだ己の身に何が起こったのか理解をしていないようだった。住処であったあばら家に戻り、私は少女に名前を尋ねた。こちらを向いたその瞳がわずかに動いたことで私の質問を理解したことはわかったが、少女から言葉が出てくることは無かった。

 聞こえないのか、私は次にそう問いかけた。少女からの返答は無かった。だが聞かずともこちらの声に対して瞳を向けたのだ。大なり小なり聞こえているということは確かだった。喋れないのかと問いかけても、少女は瞳を微動だにするだけだった。

 仕方がないと少女の襤褸を取り換えようと腕を取ったところで、微かな違和感を覚えた。腕を引き寄せることに、少女は初めて自分の意志ともとれる抵抗を見せた。だが所詮は子供で、引き寄せた腕に違和感の正体が映った。

 本来人間にはないはずのもの、硬質な緑の鱗が手首から二の腕にまで走っていたのだ。剥がされたのだろう、所々が赤いかさぶたとなっている。そんな緑と赤の入り混じった腕を見て、少女に瞳に視線を合わせる。その瞳は、やはり微かに動くだけで。だからこそ少女の唇の動きをはっきりと認識できた。

 
メイ


 それが名前かと聞き返すと、少女はこくりと頷いた。名を名乗った少女の顔は、子供の時分にメイリンが浮かべていた表情とよく似ていた。声だけは多少違うのが私にとっては救いだった。そうでなければ、きっと私は泣いてしまっただろう。

 胸の内に何かが去来するのがわかった。私がそう思っただけなのかもしれない、だが確かに胸の中で何かが動いて、それがきっと眠っていたメイリンの魂なのだろうと私は確信めいたものを感じた。もしかしたらそれはただの気の迷いのようなもので、とうの昔にメイリンの魂は無くなっていたのかもしれない。それでも、胸の中に響く感情はしっかりと私に届いていたし、何よりも私は疲れていたのだ。あの日メイリンを失って、全てが灰色になったのだ。神を信じることなど無かったが、少女との出会いは何か運命めいたものを感じずにはいられなかった。

 私の魂か、それともメイリンの魂なのか。ただ一つの気持ちが、どんどんと胸の中で固まっていった。守らなければならないと。

 私の、最後の旅が始まった。







「龍の鱗は、古来より様々なものに使われました。煎じて飲めば万病の薬となり、鱗の一枚でも強大な触媒になるのです。本来ならば金で買える存在ではないのですが運がよかったのか悪かったのか、見世物として売られていたのです」


 美鈴の言葉には何の感情も無かった。過ぎ去ったことだからなのか、それとも別の何かがあるのかと咲夜は考えたが、訪ねることは出来なかった。湖を見ていた美鈴は、くるりと咲夜に向き直る。


「お嬢様の嫌いな言葉、咲夜さん知ってますか?」

「嫌いな言葉?」


 いきなりのことで咲夜は数瞬固まった。主人のことは何でも知っているつもりではあったが、美鈴の問いに胸を張って答えることの出来る言葉を一瞬で返すことは出来なかった。両手を軽く上げて、降参のジェスチャーを取る。美鈴は内緒ですよと前置きをして答えた。

「お嬢様は『完全』という言葉が嫌いなのです。そこに成長進化の余地がないという意味と、なんとも傲慢に聞こえると」

「……意外。ただまあ、お嬢様らしくもあるわね」

「ですよね」


 風が吹く。それは微かな涼しさを伴って美鈴の紅い髪をゆらりと揺らした。咲夜は思う。目の前にいる妖怪は、はたして不完全なのかと。一体何をもって完全、不完全を別けるかなど考えた咲夜自身にもわからなかったが、それでも咲夜にとって美鈴は『完全な』存在だった。門番業務中に昼寝をしてしまうことも、庭園の花壇をのほほんと世話している姿も、そして自身の武を振るう時の凛とした姿も。それら全てが美鈴の構成要素なのだと考えている。

 
「考えてみると、あの頃の私はきっと不完全だったのでしょう……まあ今もですが、ね」

「どうして、そう思うの?」

「私たちは、きっと単独では存在が出来なかったのです。一つの魂にならずに分かたれ、歪に絡み合ったモノだったのです。吸血鬼の眷属として生きることも、かといって人間に戻ることも出来ない。そういったモノだったのです」


 だから、私達は。そこまで呟いて美鈴は言葉を止めた。







 龍が人間に変化しているのか、龍と人間の相の子なのか。少女が一体何者なのかは結局わからずじまいだったが、他の人間と同じように食事を取り、眠り、成長していった。

 同じく人外のものならば何かわかるかもしれないと、私は数十年ぶりにスカーレットの館を目指した。館へは一月程でたどり着いた。大きな館を目にしたことはあっても訪ねたことなど無かったメイは視線を忙しなく動かしており、その姿を見て私は微笑むことが出来た。

 門番に用向きを告げた。最初は怪訝な顔をしていた男だったが、同類だと告げて牙を見せると大慌てで取り次いでくれた。門番とともに出てきた館の主、スカーレットは私とメイを見るなり大きく目を見開いていた。


険が取れたな


 次の日にスカーレットに言われた言葉だった。曖昧な返事しかできなかったが、険が取れたというよりは最早そんな顔が出来ないくらいに疲れていると言った方が正しかった。あの時復讐を誓った私は確かに心の中に炎を飼っていたが、その暗い炎に延々と薪を投げ入れることなど、少なくとも私には不可能なことだった。

 あの子のおかげかな、とスカーレットは続けた。そこに間違いは無かった。私の心の中にあるメイリンの残滓は、メイを守らなければならないと鼓動するのだ。そのことを正直に伝えると、スカーレットは笑っていた。

 館に会った蔵書やスカーレットの人伝などを使ってメイの身体のことを調べたが、結局分かったことはメイの持つ龍の鱗はやはり本物で、つまり彼女はなにかしらの部分において龍の力を持っているということだけだった。彼女がどのように成り立ったのかを解明することは出来なかったが、それでよかったのかもしれないと思ったのは、後になってのことだ。

 メイは、確かに所々に龍の鱗こそあったが、人間と同じように成長していった。やはり動作はゆっくりで、声を上げることも滅多になかったが、興味を持った事には瞳を揺らし、驚きがあったときには大袈裟に肩を震わせた。人間を捨て、かといって人外の者にもなりきれない私などよりは、余程彼女は人間だった。

 なりきれない、というのはスカーレットの館に着いた時に分かったことだった。出された酒に口をつけた時、私は激しい吐き気に襲われた。出された手前飲みきりこそしたが、顔に浮かぶ不快感まで隠すことは出来なかった。スカーレットは何時ぞやのように眉尻を下げ、こちらを見ていた。何か盛ったのかと問いただすと、深く息を吐いて答えたのだ。


今の酒には人間の血が入っている


 その言葉で、私は最早何者でもないのだという事実に改めて気が付いた。私はメイリンではなく、しかし身体はメイリンなのだ。私の魂は仮初で、そんな仮初の魂が主のいない身体を動かしているのだ。そんな私の胸の内を占めていたのは一種の諦観のようなものだった。

 終わりが、見えたような気がしたのだ。大切な者たちの命を守ることが出来ず、かといって守るべき者たちと哀しみに浸りながら添い遂げることもせず、人妖問わずに様々な者たちの命を踏みにじってきた。碌な死に方はしないだろうとも思っていたし、それでも構わなかった。だが同時に、今までは感じたことの無いものが心の内に浮かんでくるのもまた、事実だった。

 その夜、客間のベッドに身を投げ出しながら、私は隣で寝息を立てる少女に目をやった。本来ならば私とメイには別々の部屋が用意されていたのだが、予想外に駄々をこねられたのだ。段々とあどけなさが抜けてきてはいたが、それでもまだまだメイは子どもだった。

 最初にこの少女を買ったときに感じたのは、報いだった。
 
 言えるだろうか。結局、私がやっていることは自慰でしかないのだ。ただ自分のために、自分が縋るものを欲して目の前の少女を手に入れたのだから。メイの成長は、私に人間だった頃の心に近いものを与えてくれた。癒されていたのだ。しかし、目の前にいる少女を育てながらも、私は少女の奥にメイリンの姿を見ていたのだ。

  メイの成長した証を見つけるたびに、私の魂は躍動した。きっとこの躍動はメイリンの残滓が喜んでいるのだ。それがまた私の救いとなっていた。 

 きっと私は、救われたいのだ。何処かに神はいるのだろう。ただ、救ってくれないならいないことと同義なのだ。数えきれないほどの過ちを犯した。過ちだと感じるのはメイリンと共に過ごした人間としての部分が私の中に残っているからだ。罪は罰せられなければならないなどと偉そうに説法を垂れていた坊主を思い出した。


 私は天上には行けぬのだろう。そしてきっと、地の獄にも行けないのだ。何者でもないから。だからこれは贖罪であり、救いだった。私が、私に課した。


 スカーレットの館を後にした私たちは、そのまま様々な場所を転々とした。私の外見はほぼ変化していなかった。一所に留まることは難しい私達は、様々な場所を転々とした。旅の道すがらにメイに言葉を、字を、計算を教えた。彼女は多少物覚えの悪い所こそあったが、それでもすくすくと成長し、どんどんと知識を吸収していった。私は暗殺業を辞め、狩りをしながら行商人の真似事のようなことをして生計を立てた。

 屋根の無い夜が多い生活だったとはいえ、それなりに蓄えがあったことも事実で、結局そういったものは大体が書物や食物に消えていった。メイは、よく食べる子だった。貴重な甘味や豪華なスープを見ては瞳を輝かせて、味わっていた。

 ある時、戦が起こった丘を通った。死体を見たことはあっても、屍の絨毯は見たことが無かったのだろう、メイは何度か吐きながら、その光景を悲しんでいた。そこで、この場では聞きなれない音を聞いたのだ。微かな空腹の音。きっと本人も気にはしていないだろう程度の音だった。


 それがメイから聞こえたことに、私は絶望を覚えたのだ。どうか、間違いであってほしかった。


 その夜、私はメイに焼けた肉を差し出した。直前に取った野犬の肉だと言って、先程の戦場から失敬した人間の肉を。メイは美味しいと言いながら何の抵抗もなく頬張っていた。臭みにさえ気を付ければ、肉など焼けば大体は喉を通るようになる。どうか杞憂であってほしいと思いながら夜を明かした。

 次の日にメイは目を輝かせ、昨日の肉がとても美味かったことを私に力説した。きっと、満たされたのだろう。吸血鬼が血を欲するように、龍は人間を贄とするのだから。

 この頃になると、私はメイを人間だと思っていた。人の死を見て心を痛める子に育ってくれたのだと、喜びを感じた。だからこそ、この不条理がまたも私の中にあった火種を燃やしていった。どうして、この子は人間として生まれなかったのだろうかと。

 いっそ、妖怪としての生を歩ませてやればよかったのかもしれない。それをしなかったのは私の責任だ。私が少女の中にメイリンの面影を見てしまったから。

 旅を始めて四、五年経ったある夜のことだった。

 北の方だった。野営の準備を終えて私とメイは焚火を眺めていた。揺れる炎を何とはなしに目で追っていると、急にメイが口を開いたのだ。


どこかで、店でも構えない?


 どうしてかと尋ねると、普段は”ませた”表情を浮かべることの多い子が、年相応にもじもじとしながら言葉を続けてくれた。少女は声こそ多少低かったが、その姿は私の中にあるメイリンの生き写しのように成長していた。この頃には引っ込み思案だった性格は潜み、快活な少女へと変貌していた。それがまた、輪郭となりつつあった思い出の中のメイリンと重なった。


旅をする母さんの姿が、辛そうだから


 いつからか、少女は私のことを母と呼んでくれるようになっていた。そんな少女に、私は心配をされていたのだ。優しい子に育ったと思うと同時に、日の下を共に歩くことが難しい自分の身体を恨めしく思った。そこでふと気が付いたのだ。私自身、せめてこの少女が幸せを得るまでは生きようと考えていることに。

 聞くと、途中まで一緒だった隊商の一人が、北に大きな街があるとメイに教えたらしい。灰色の空にも荒涼とした大地にも飽きていた私は、少女からの提案を受け入れることにした。

 空を覆い隠すほどに乱立した建物たちと、整然と敷かれた石畳。たどり着いた街は確かに大きく、そして今まで以上に寒さを感じた。メイは乱立した建物たちに目を奪われていた。

 どこかで鴉が鳴いていた。鳴き声の方に目を向けると、墓の数が足らないのか折り重なった死体の山が見えた。私はメイが気づかぬよう、違う場所に行こうと誘い、その場を後にした。

 石と、寒さと、死体の街。この街が、私の旅の終着点だった。







「そこで、店を構えたのです……雑貨屋、みたいなものでしょうか。食堂でもよかったのですが、出入りの激しい店は、なんとなく抵抗があったのでしょう」

「五月蠅いのは、疲れちゃうものね」

「今となってはわかりませんがね。どうして漂流していたのか、顔を見せずに暮らす方法も、それこそ世俗から離れて暮らすことも出来たとは思うのです」


 闇はすっかりと濃さを増していて、咲夜の眼には湖と岸の境界すら曖昧に見える。そんな闇の中でも美鈴の紅い髪は闇を吸収しながら、しっかりと存在を放っている。

 美鈴の話は段々と途切れ途切れになってきていた。思い出せないのか、話を纏めようとしているのか、美鈴の背中からは判断が出来ない。咲夜は知らず美鈴に呼び掛けた。少し、不安になったのだ。

 美鈴はすいませんと一言謝り、帰りましょうと咲夜に促した。突然の言葉に咲夜は考えることもなく従った。紅魔館へ戻るまでの間、美鈴は一言も口を開かなかった。そのことに対して文句を言うつもりもない。元々、自分から話の続きをせがんだのだ。話が終わっていないのは明らかだったが、もうすぐ夜も明けるという時間だ、成程とも考える。館に戻ると、美鈴はずんずんと歩を進めていく。咲夜も倣ってついていくと、美鈴は自室の前で止まった。


「どうぞ、座ってください」


 そう言われ、咲夜は美鈴の部屋へと足を踏み入れる。部屋の間取りは他の部屋と変わらない。普段は外にある詰所で過ごすことが多いからか、咲夜の部屋以上に殺風景な部屋だった。 

 クローゼットから取り出したのは曇りの無いグラスと、何処から仕入れたのかワインの瓶。それらを咲夜の前に置き、美鈴はグラスにワインを注ぐ。飲め、ということなのだろうと咲夜はグラスに口をつけた。安い味だったが、悪くは無い。

 美鈴はもう一度クローゼットを探索すると、探し出したものをテーブルの上に置く。布にくるまれた小さなそれは、額に入った一枚の絵だった。描かれているのは二人の女性。そのどちらもが、美鈴に似ていた。


「これってもしかして」

「店を構えて数年後に、偶々店を通りかかった画家に描いてもらったのです。そういえばクローゼットの奥に眠っていたなあと」


 絵の中の人物たちは、穏やかに笑っている。微笑む、という表現がしっくりくる絵は、塗装の剥げや欠けが気になる額とは対照的に、ともすればジョークのように綺麗に保存されていた。椅子に座っている年上に見える女性と、その椅子の背凭れに手をかける少女。美鈴が二人に分裂しているように感じられるその絵は、なんとも咲夜の目には斬新なものに見える。


「この、座っているのが美鈴なのよね?」


 なんてことのない一言だった。椅子に座る女性は、今の美鈴よりも幾分か歳をとっているように見える。どちらかといえば、椅子に手をかけている、美鈴がメイと語っていた少女の方が今現在の美鈴に近いように咲夜には感じられたのだ。

 美鈴は、絵の中の人物たちと同じようにほほ笑みながら指を伸ばす。一瞬、咲夜には理解が出来なかった。

 美鈴は人差し指と中指を使って、二人同時に指した。

 咲夜が絵から顔を上げる。美鈴の顔は、やはり絵の中から抜け出してきたように見えた。


「両方とも、私なのです。私は、私達だったのです」


 幾つかの例外を除いて紅魔館に窓は無い。その例外の中の一つが美鈴の部屋だった。夜明け前の一番深く沈んだ闇が、美鈴の笑顔を隠す。ワインで少しふやけた咲夜の心が美鈴の表情に感じたのは、恐怖と、そして哀しみだった。

 夜が明ける。追憶も、終着が見え始めた。







 私たちの画を描いた画家は、満足した表情で店を後にした。頼まれた手前笑顔を浮かべこそしたが、私にはそんな絵にどのような価値があるのかとんと考えが付かなかった。だがメイの笑顔を見てしまうと、理解のできない私の方が愚かなのではないかと思ってしまった。

 街の端の方にある貧民街の一角に、私たちは店を構えた。面倒な手続きを取ることもなく空いた物件を見つけることが出来たのは、ささやかながらの幸運だった。

 老いることのない私も、龍の鱗をもつメイも、端から見れば奇異の目の対象だっただろうが、十日もすれば誰かしらがいなくなって、また新たな住人が流れ着くこの場所は、私たちが身を隠すには都合がよかったのだ。女所帯ということもあってよく絡まれたが、メイに食べさせる食料が向こうからやってきてくれるのだと考えると、むしろ好条件だった。空気によく死臭か腐臭が混じることを除けば、私にとっては住み心地の良い場所ではあった。

 店を構えてから程なくして、メイは近くの教会に通い、子どもたちに字を、詩を教えるようになった。教会から帰ってくるたびに、今日はどのようなことがあったのかを私に報告した。何が楽しいのかと問うと、屈託のない笑顔を浮かべて言ったのだ。誰かの役に立てるのが嬉しいのだと。

 私の店に、教会の子どもたちが顔を見せることがあった。大体がメイを探してのことだったが、私をメイと見間違える者も多くは無かったがいた。悪い気がしなかったのは内緒だ。

 娘は満たされていた。私は神というものを信じる気にはなれなかったが、それでもこの生活を享受できることに確かな幸せを感じていたのだ。

 店を構えてから数年が経ったある冬の事だった。街では大きな流行り病が蔓延した。何が原因だったのか、そんなことはどうでもよかった。事実として街に住んでいた者は老いも若いも、富める貧するを問わずに屍となっていったのだから。メイは死者の処理を進んで手伝っていた。そこに邪な気持ちは無かったのだろう。糾える縄のように、きっとこの不幸を耐え忍べば、また皆と穏やかな日々が送れるのだと、信じて疑っていなかった。

 雪の深いある日のことだった。帰ってきたメイが泣いていたのだ。一体どうしたのかと尋ねると、娘はまた長い間泣き、ねえ母さんと前置きをして口を開いた。


私は、やっぱり人間じゃないみたい


 その言葉は、いつか聞くことになるだろうと思っていた。顔見知りの子どもが亡くなったらしい。個人の墓穴を作っている余裕などない。大きく掘られた穴の中にその死体を運んでメイは投げ入れた。その時に、感じたらしい。投げ入れられた沢山の死体を悲しむと同時に、食料に見てしまったのだと。

 その日以来、メイは私が出す肉を受け入れなくなった。薄々と気がついてはいたのだろう。私が肉を出すたびに飢えが満たされていたのだから。その原因を知ってしまったのだ、無理からぬことだった。きっと出ていくのだろうと思ったが、次の日にメイが私に告げたのは感謝の言葉だった。言うに、今まで私のことを思って言わなかったのだろうと。ありがとうと告げられたのだ。 

 私は、喉元までせりあがった言葉を飲み込んで、代わりに謝罪を告げた。それしかできなかった。娘は黙っていてくれてありがとうと、私の謝罪を曲解していた。違う、と反論できなかったのは、きっと私は一瞬でも目を背けたかったのだ。私の選択が、娘を苦しめているという事実から。

 メイは、己の中にある力を使うことが出来るようになっていった。彼女が祈って触れると、死にかけていた花は再び咲き誇り、怪我人は棺桶から足を出すことが出来た。いつしか、貧民街の聖女などと呼ばれるようにもなった。

 娘は笑みを浮かべながら、自分の力が役に立つ嬉しさを私に説いた。何の見返りも求めていなかった。その奥で人外としての葛藤を抱えながらだ。それでも娘は人間と歩むことに幸せを感じていたのだ。娘のその笑顔を見て、私もまた満たされた思いを抱いた。

 だが、未だに燻っていたのだ。少しずつ、少しずつ、灰色の石畳を隠す雪のように、私の心の片隅に何かが積もっていった。それが一体何なのか私自身気がついてはいたが、形にはしなかった。もし、それを認めてしまったら。きっと私はメイと一緒にいられぬだろうから。人外であることを隠しながらも、私たちは街に溶け込んでいった。
 

 忘れていたのだ。幸せなど砂の城と大して変わりがないのだということを。


 憎たらしいほどに晴れた最期の朝に待っていたのは、蒼白な顔のままに店に駆け込んできた数人の少年たちと、滅びの景色だった。誰かが異端の力を持っている者がいると密告でもしたのだろう。数えるのも面倒なほどの兵達が店を取り囲んでいた。

 外にいる連中は、メイを差し出すよう通告してきた。メイの力に気が付いたのか、それとも貧民街での活動が疎ましかったのか。今となっては定かではないが、碌なことにならないだろうということは、耳障りの悪い讃美歌を歌っている者たちと、その後ろで明るく燃える貧民街の建物たちを見れば明らかだった。

 何時か感じた諦観は、これだったのだ。

 私はばたばたと階段を降りてきたメイを見つめた。動揺の色が浮かんでいたその顔が、呆としたのを確認して胸をなでおろす。吸血鬼の瞳は、見つめた者を惑わせる。まさか使うことになるとは思っていなかった。店に駆け込んできた子どもたちは、メイが人間ではないことを知っていた。それでも彼らはメイを信じてくれたのだ。

 店に残っていた金貨を子どもたちに渡す。受け取れないと首を振る者たちに私は頼んだのだ、どうかしばらく身を隠し、この娘を街の外に逃がしてほしいと。最早自分が人間ではないと思っていたが、俗っぽい所だけは最期まで残っていたようだった。子どもたちに頼みこんで驚いたのは、全員が一も二もなく頷いたということだった。石を投げれば何かしらの死体に当たるこんな時世に、それでも子どもたちは娘を信じていてくれたのだ。

 メイは作り、守ったのだ。己が築いたものを。あの時、奴隷小屋の片隅で見世物のように売られていた少女がだ。その事実だけで、充分だった。この娘にはまだまだ先があるのだ。兵士たちで出来た絨毯と対照的な澄んだ空を見て、気持ちは固まった。

 メイの腕を取り、私はその手首に薄く、撫でるように爪を走らせた。数秒の間があって、数滴の血が垂れ、それを指にまとわせた。吸血鬼でも人間でもない、抜け殻のような生き物。それが私だった。口に運んだ血の味は久しぶりで、喉元から頭頂へとぞわぞわとしたものが走った。これだけ貰えば、充分だった。

 身体中が熱を持つ。血を吸ったときに沸き上がる高揚感は、未だに忘れていなかった。今の今まで、娘の血を、龍の血を取り込んだことは無かった。必要がなかったというのも勿論あったが、メイが人間と共に歩もうとしたように、私もまた娘の前ではきっと人間でありたかったのだ。

 最初の異変は感情だった。抑え込んできたのか、それとも今生まれ直したのか、私の心の中に、炎が渦を巻いていた。この感情が一体何なのか、考えるよりも先に私は子どもたちに激を飛ばした。ここにいては彼らもただでは済まないだろう。メイの両肩を支えながら、子どもたちは店の地下へと向かっていった。遊び心で作った隠し通路が役に立つとは思わなかった。

 誰もいなくなった店の中、ここが私の城だった。幸せも、不幸も、色々なものを見てきた。もう張り上げることは無いと思っていた喉が、意に反して激しく震える。噛み締めた牙が唇を突き破った。血の代わりに出てきたのは、紅く燃える炎だった。

 メイリンは、人間だった。メイは、人間であろうとした。

 結局、私は最期の最期まで人間にはなれなかった。

 魔物達を肉の塊にした時に感じた破壊衝動と、そして怨嗟だけが私の心に残った最後の感情だった。

 扉を開け、兵たちを率いていた男と対峙した。男が口を開いた瞬間に、その上顎と眼窩に指をめり込ませた。がちりとした音と共に、男の顔面を剥がした。顔が無くなり、柘榴の表面のような肉が現れた。直後に、幾本かの槍が私の身体を貫いた。痛みを感じることもなかった。もう、私の身体は最期を迎えていたのだろう。槍から伝う血が燃えて、兵士たちを焼いた。メイの血の影響だろう、私の血も身体も、段々と燃えていくのだ。人の形を保ったまま。

 不思議と、痛みと同様に熱さも感じなかった。視界が真っ赤に燃えて、心はどす黒く燃えた。槍が刺さったままの不自由な身体をそのままに、腕を薙いだ。身体から生まれた炎は、取り囲んでいた者たちを舐めるようにその身体にべたりと張り付き、燃え広がっていく。

 怒号と讃美歌が鳴り響く空の下。私は最後に叫んだのだ。そこが私の墓場だった。  







「両方とも自分だって、さっき言ったじゃない?」


 咲夜は向かいに座る美鈴に、そう問いかけた。ええ、と美鈴が返す。朝焼けが部屋の三分の一ほどを照らしている。身体は疲れているのだが、まだ眠気は無かった。ただ心は落ち着いている。美鈴の過去を知りたいと思ったのは本当だ。そこには例えば驚きや、興奮が多くを占めると思っていた。実際に話を聞いている限り、波乱万丈と言えるだろう。それでも咲夜の感情に波が立たないのは、美鈴の語り方によるものが大きかった。話している美鈴自身が、そこにあったはずの記憶や感情を思い出せないのだ。

 喉の渇きを、差し出されていた水で潤す。この話の結末がどうなるのか、そんなこと少し考えればわかるはずだ。美鈴は咲夜の目をじっと見据えた。その瞳には、やはり生気が満ちている。そこに美鈴を見ることが出来て、咲夜は安堵の息を吐く。

 両方とも自分だと、美鈴は言った。言葉遊びを好む柄ではない。つまりはそういうことなのだ。 


「きっと、幸せだったんでしょうね」


 まるで他人事のように、美鈴は言葉を発した。誰が、というのはわかりきっている。当時の自分たちに対してだろう。例え記憶を残すことは出来ても、そのとき胸の奥に感じたものまでは、残すことが出来ないのだ。だから、咲夜は聞き返した。


「幸せ?」

「ええ」

「多分……悪いけれど、よくない結末になると私は思っているのだけれど」

「間違いないですよ。だからこそ振り返って幸せに気づけたのでしょうし、最期に」

「最期に?」

「何も、何も先のことを気にすることなく、運命とか、因果とか、そういったものに自分の終わる場所を用意してもらえる。そしてそこで全力で散ってよいのです。何の柵もなく。それは」


 それもきっと、幸せなんだと思います。そう話す美鈴は笑みを浮かべている。朝日が、その顔を眩く照らした。







 世界がぐるんぐるんと回っていて、視線と思考がはっきりとしたとき、私は店の地下室にいた。周りには見知った子どもたちがいて、私は彼らから事情を聞くことが出来た。

 私の力は、神様にはそぐわなかったらしい。そんなことはどうでもよかった。私には不思議な力があるのは事実なのだから。ただ、それよりももっと重要なことを聞いた。母は、どうなったのかと。

 子どもたちは皆一様に口を噤んで項垂れた。その態度が、もう答えだった。私は子どもたちを一所に集め、抱きしめた。私を守ってくれたのだ。きっととても怖かったに違いないだろう、そしてここで待っているように告げた。何人かが反対したが、日が沈むまでには戻ると約束し、私は街へと引き返した。

 地下室は、母が遊びで作っていたものだった。長い梯子を上り、地上へ出る。違和感があり、直ぐに気が付いた。私たちの店は、無くなっていた。店だけではない、街そのものが無くなっていたのだ。

 燃えた柱の破片が、まだ熱を持っていた。空は明るいはずなのに、私の視界は黒い煙に包まれていた。誰かと、声を上げた。返事は無かった。誰かいませんかと、もっと大きく声を上げた。誰の返事もなかった。

 母は、人間ではなかった。拾われてしばらく経ってから気が付いたことだった。あまり喋る人ではなかったし、表情も乏しかった。ただそれでも、私に沢山のものを与えてくれた。

 母は私と喋るときによく目を逸らした。いつからだろうか、きっとあの人は私ではなく、誰か別の人を私に見ているのだろうと、気が付いた。きっと母は後ろめたさでも感じていたのかもしれない。そんなこと、くだらない。そんなことで母を嫌うわけが無いのに。

 熱気と肉や金属の焦げる匂いで、あっというまに鼻が利かなくなった。汗をぬぐうたび、煤が混ざって腕や顔を黒く染めた。目の痛みに涙を流した。どれだけ声を張り上げても、返事は無かった。

 広場に出た。沢山の人間だったものが折り重なって、山を作っていた。その麓に、見慣れた紅い髪を見た。駆けつける。その身体は、身体があるのに所々が燃えていた。肩を抱いて、振り向かせた。見覚えのある母の顔は、その所々がひび割れ、そして燃えていた。血が燃えていたのだ。

 私は力を込めて、母に手を翳した。たくさんの人たちを救ってきた私の力は、母の焦げ付いた身体をぼろぼろに砕いた。混乱した私は、もっと力を込めなくてはならないと、ありったけを母に翳した。治るどころか、翳した母の腕は灰のように、崩れていった。

 泣きながら、私は祈った。祈ったのは振りだけだった。私の内を占めたのは悔恨の情だった。許されてよいのかと。私は、母は確かに人間ではなかった。神は人間にだけ奇跡を授けるのだろうか、私も母も、心は人間のはずなのに、許されないのかと、今までに見てきた死体たちを全て棚に上げて、私は祈った。名前も知らない山ほどの人間よりも、私は母が必要だったのだ。

 母が、その真っ黒に染まった手で私の腕に触れた。顔を見る、その口元が微かに動いて、祈っていた私の両手を解いた。母さんと呼び掛けても、彼女は返事をしない。ただ、ぼそぼそと口元だけが動いていた。耳を近づけた。


食べなさい


 その言葉は、弱弱しくもはっきりと私の耳を打った。何を、決まっている。私に食べろと言っているのだ。自身を食べろと。出来るわけがないと叫ぼうとして、熱を持つ空気と煤でむせてしまった。ただ、私の心に反して、私の本能は沢山の思い出をその脳裏に浮かび上がらせるのだ。もう後が無いことを知っているかのように。

 気が付くと、私は母の捥げた腕を手に持っていた。やめろ、やめろ。そう心で願っていても、分かっていた。その断面を齧って、飲み込んだ。

 地獄のような風景だった目の前が切り替わって、私の瞳は見知らぬ人物を映し出した。金髪の、笑顔が眩しい女中だった。私は視界に映ったその女性を知らなかった。ただ、不意に奥底から湧いたのだ。彼女の名前はマーガレットと言った。知らない。私の生にはいなかった人物を、私は知っている。そして気づいた。これは、母の記憶なのだと。

 気づくと口に幾らかの圧迫感があって、私はまたも肉を頬張っていた。次に浮かんだのは見知らぬ少女。少女はとある領主の娘だった。足が悪かったのだろう、少女のつま先から母が優しく撫でていく。記憶のはずなのに、私の身体に温もりがともる。その時に感じた暖かさは、私が持つ力と非常に似通っていた。

 気が付くと、母の腕は無くなっていた。拒否も出来た。出来るはずだった。ただそれでも、私はすでに崩れかかっている母の首筋に、噛みついた。燃えていた血が、口の中へ広がっていく。不思議と、熱さは感じなかった。

 ああ、ごめんなさい。ごめんなさい、お母さん。

 母の血肉を得る度に、私の心と視界は、沢山の思い出を写した。そして知ったのだ、この思い出は母の思い出であり、そして同時に母が見ていた誰かの思い出なのだと。記憶の中で、私はメイリンと呼ばれていた。メイリンは優しく、そして朗らかだった。感情が豊かだった。思い出の端々はすでにぼろぼろになってしまっているが、それでもわかる。この思い出たちは幸せの中にあったのだと。

 地獄がやってきて、そして母はメイリンになり、美鈴になった。そこにあったのは灰色の景色。きっと私は泣いていた。母の思い出は色褪せ、血と肉で錆付いていた。それでも母は歩みを止めなかった。思い出の中で泣きながら、誰もいない空の下で。

 そして、思い出は最期を映した。垢と砂の匂いが漂う奴隷小屋に、小さい頃の私がいた。

 灰色だった景色が、色を付けた。それだけで充分だった。

 そして私が気を取り戻した時、私の身体を走っていた龍の鱗は消え、母は消えていた。

 そうだ、私の名はメイだ。そして私はメイリンで、美鈴になったのだ。

 


 
 

 「後は大体ご想像通りです。お館様のところで働かせてもらって、お嬢様と妹様のお世話をして、本好きの客人と小悪魔に出会って、そしてこの世界に来て、あなたと……」


 言葉を続けようとしていた唇が、動きを止めた。その視線の先で、咲夜が目を閉じていたからだ。すっかりと日の光が部屋を照らす中で、美鈴は柱にかけられていた時計を確認する。どうやら酒を入れたままの徹夜は、少女の若さをもってしてもその影響は大きかったのだろう。

 美鈴は咲夜の額を、指で軽く突いた。受容か拒絶か、はたまたナイフか、柔らかな感触と共に返ってくるはずの反応がない。随分と深い眠りのようだ。そんな少女の身体を抱き上げ、ベッドへと寝かせる。何故起こしてくれなかったのかと文句を言われそうだが、気にしないことにした。

 主であるレミリアに今日の業務を咲夜共々休むと告げると、なにを今更と言わんばかりの表情を返された。その足で、美鈴は普段と変わらぬように紅魔館の門前へと向かう。休むとは言ったが、自然と足が向いていた。門扉を開けたところで、朝日が美鈴の目を穏やかに焼いた。きっと昔では想像もできなかったであろう穏やかな気持ちで、美鈴は伸びをする。

 幸せか。そう、別れ際にレミリアから投げかけられた。陽光を浴びる充足感を味わいながら、幸せだと美鈴は思う。自身の一部が人間で構成されている以上、きっとまた記憶は薄れ、長い妖怪の生に嫌気がさすことがあるだろう。そしてその度にどこか遠くなってしまった記憶を思い出し、充足を得るのだ。

 軽く拳を突きだし、足先で弧を描く。運動代わりの演武を終えると、いつからいたのだろうか黒白の魔法使いが拍手をして応えた。どうやら許可を取ろうと待っていたらしい。意外なところが不器用なのを見て、やはり人間は面白いと美鈴は笑った。

 魔法使いは館内に消え、美鈴は晴れた空を見上げた。入道雲が大きな顔をしている。きっと暑くなるだろう。門柱に背中を預け、美鈴は目を閉じる。

 薄れていく記憶に新しい頁を積み重ね、門番は幸せを感じるのだった。

 
 

『一人称と三人称を混ぜてみる』というテーマで書いてみました。

久しぶりに長い文章を書きました。少しでも何かが読んで下さった方の何かに掠ってくれると幸せに思います。

最後に、ここまで読んで下さった方に感謝を。ありがとうございました。
モブ
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白くとても良かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
良いよね、こういうの
良いよ
3.100サク_ウマ削除
お見事でした。
4.90すずかげ門削除
面白かったのですが、私の読解力のなさゆえかメイリンと美鈴の関係がどうしてもよくわからなかったです。
二重人格か憑依体だったということでしょうか?
7.70名前が無い程度の能力削除
過去話は退屈になりがち(と個人的に思っているの)ですが、ほどよい文章の重さでさくさく読めました
ただ、自分もメイリンと美鈴の関係性がよく汲み取れなかったです
最後にメイの竜の鱗が消えたのもよくわからなかった
9.70名前が無い程度の能力削除
こなれた文章で煩雑になりがちな戦闘描写もすんなり読めて面白かったです
が、物語の大筋を理解するのに幾度も前に戻って読み返し「この読みで正しいんだよなぁ」と疑いながら読み進めなければなりませんでした。

ここから先は野暮です。
細部は明瞭で読みやすいのに、大筋を理解するのが難しいのは物語の構成が非常に複雑なためですが、これは作者には百も承知でしょう。
冷たい編集者の視点で見ますと、前半の二重人格パートは二重人格である必要性が感じられません。全ての物語はメイが語っているはずなので、三人称/三人称的視点で前半を語っても問題になりそうには思えません。
加えてメイリン/美鈴が二重人格である理由/必然性も語られていません。
結果読者にとって二重人格設定は物語を複雑にするためだけのギミックのように感じられてしまいます。

各パートそれぞれは地に足の着いた文章で情景もしかっりしたものだと感じました