Coolier - 新生・東方創想話

タイで高速回転する犬

2019/06/24 04:03:52
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 考えることを辞め、六時間ほどのフライトでぐっすりと眠った私は、着陸の振動と共に目を覚ました。目線の先、膝の上には、いつの間に新聞が置いてある。機内で配られた新聞なのだろうが、それを受け取った蓮子が、読み飽きて私の方にほっぽり投げたとか、そんなところだろう。
 片面がタイ語、もう片面が英語のその新聞。一面トップの見出しはこうだ。

 ――DOGS ARE VIOLENTLY ROTATING IN THILAND

 タイで高速回転する犬、という現実は、どうやら私を見逃してはくれないようだった。

「おはよう、メリー」

 肘をついて外を眺める蓮子から、今日で二度目の朝の挨拶。

「よく眠れた?」
「……当然よ」

 分かりきったことを。

「昨日……というか今日は夜中まで倶楽部活動してたのよ? 私たち。疲れてるに決まってるじゃない」
「……それもそうね」

 なのになぜこんなスケジュールを組んだのか。私はそれを暗に批判するつもりで言ったのだが、生憎蓮子は自らの思索に没頭していて私の皮肉に気づかない。
 これだから……東京人は京都人に嫌われるのだ。

「墓を回してパンパンになった私の上腕二頭筋、どうしてくれるの?」

 席を立った蓮子を見上げるように。私は精いっぱいの愚痴をこぼす。彼女は振り返りこそしなかったものの、「はいはい、分かりましたよメリーお嬢様」と一言。私の手を取りいつものように背中を向けて、通路を歩きながら言った。

「あとでじっくりマッサージして差し上げますからね」



 * * *


 
 飛行機を降りた私達は、すぐさまその現実に直面した。
 到着ロビーで誰かの帰りを待っているのであろうおじいさん。その隣で、ペットの犬が高速回転していた。或いは、麻薬や爆発物を検知するよう訓練された警察犬。それが、自分の仕事を放棄して高速回転していた。そして……振り返ってみれば、私たちが乗ってきた飛行機。そのエンジンのファンが……犬になって高速回転していた。

「ねぇ蓮子」

 私の不安は、すぐ彼女に伝わる。

「えぇ、分かってる」

 ……犬が高速回転してるだけじゃない。高速回転するものが犬になっている。

「……とりあえず街に出てみましょう」

 蓮子が帽子を目深に被った。推理モードだ。



 * * *



 空港を出てすぐ、蓮子はトゥクトゥクを一台呼び止めた。何故普通のタクシーを選ばなかったのか、というか電車を使わなかったのか。初めは蓮子が異国情緒に憧れてわざとそうしたのかとも思ったが、その真意はすぐに分かった。
 街を広く見渡すためだ。
 蓮子はせわしなく首を動かし、バンコクの街の隅々に視線を巡らせていた。あちこちで犬が高速回転している。あるいは高速回転するものが犬になっている。その一匹一匹を詳細に観察し、タブレットに何やらメモを取っていた。
 これだけ荒唐無稽な現実を目にしていながら、何故そこまで冷静になれるのか。私は不思議でならなかった。自分が見ている光景が夢なのか現なのか、こっちは今、それすら判断しかねているというのに。

「何してるの」
「当ててみる?」

 彼女はタブレットをこちらに向け、私にメモを見せた。

「げ」

 軽く背筋が凍った。
 自分で顔をしかめているのが分かる。

「なによそれ」

 そこに描かれていたのは、無数の矢印だった。メモ帳アプリいっぱいに、ぎっしりと、あらゆる方向を向いた、あらゆる長さの矢印が並んでいる。
 ……前言撤回。蓮子は冷静なんかじゃない。
 とうに頭がおかしくなって……

「これが狂人の落書きに見えるなら、アンタはまだまだね」

 表情に出てしまったか。

「……偉そうに何よ」
「狂ってるのは私じゃない。タイの犬たちよ。私はそれを印しているだけ」
「自分が狂人じゃないと証明したいなら、きちんと説明して頂戴」

 ふぅ、と。蓮子は腕を組み、数秒黙り込んでから、再び作業に戻ってしまった。

「これは角運動量ベクトルよ」
「……へ?」
「犬の回転の、角運動量ベクトル」

 手を動かし、首を回しながら、彼女は続けた。

「矢印の向きは回転軸の方向。矢印の長さは角運動量の大きさ。大きさは犬の回転軸方向の慣性モーメントと角速度に比例する。今は全ての犬を球体と見なして質量と半径の二乗と角速度に比例する量として目測でプロットしてるんだけど……」
「は、はぁ……」

 犬の高速回転を真面目に科学した物理学者など、かつて存在していただろうか? 
 間違いなく人類史上初だ。間違いなくノーベル賞が取れるだろう。
 イグの方の。

「実際のところほとんどの犬は地面に足を付けて横に回ってる。だから回転軸はゼット軸、つまり垂直ね。となると情報として意味があるのは……」
「……回転の向き?」
「そ。私のメモで言うと、矢印が上向きか下向きか、ね。……で。メリーさんに改めて質問」

 蓮子は笑顔で私に向き直った。正直、私は意味が分からず適当に返事をしたのだが、それが期待していた答えだったらしく、彼女は見るからに上機嫌だ。

「このメモから何が読み取れる……?」

 再びこちらに向けられたタブレット。かなり聞き流してはいたが、説明を受けた分、そのメモを見る私の目は変わっている。
 確かにそこには、有意な傾向があった。

「……下向きの矢印が多い」
「へっへーん! 半分正解」
「半分は不正解なのね……」
「それだけじゃないわ。下向きの矢印で、かつ長いのが多い。これは角運動量の合計を取るとき、その和に大きく寄与することを意味する。一方で回転軸が垂直じゃない犬も確かに居るけれど、そのばらつきは各方位にランダムに割り振られているように見えるわ。だからこのずれは和を取れば打ち消される。歳差運動をしている犬もいるようだけれど、これも時間平均を取れば垂直を向く。したがって、タイで高速回転する犬の角運動量ベクトルを合成し、時間平均を取れば、なり垂直に近い、大きな下向きベクトルになる……」

 得意な顔でウインクをした蓮子。その顔は、しかし一瞬で引きつることになった。

「オーマイブッダ!!!!!!!!!!!!」

 運転手の叫び声と共に、車体が大きく傾斜。危険を感じ、本能的に掴んだひじ掛け。次の瞬間、強い衝撃に襲われる。二人の乗っていたトゥクトゥクは横転し、三秒ほど滑っていってから、歩道を仕切る街路樹にぶつかり静止した。 
 混乱したまま、私は暫く硬直してしまっていた。

「メリー? 大丈夫?」

 声をかけられて初めて、自分が事故に遭ったのだと理解する。

「もう! 何なのよ!」

 車体から顔を出せば、そこには蓮子の靴があった。差し伸べられた手を取り、車から這いずり出る。振り返れば、運転手のおじさんも無事に脱出していた。立っていられる程度で、怪我は軽いようだ。どうやら我々は運が良かったらしい。
 しかし……おじさんの顔色は悪かった。私たちに負い目を感じているからだろうか? ……否。寧ろ私たちが無事であることには安心していた。では、自分の商売道具が駄目になったのを嘆いているからだろうか? それもまた否だ。
 本当の原因は、彼の目線の先にあった。

 横転したトゥクトゥク。三輪自動車として、かわいらしい見た目が観光客に人気の乗り物。その三つのタイヤは、しかし、今……

 ……高速回転する犬になっていた。

「なるほど、事故の原因はこれね」

 蓮子は懲りずに、メモ帖に三本の矢印を追加した。
 ……三つとも下向きの。

「やってる場合?」
「やってる場合よ」

 相場の三倍のタクシー代を渡し、おじさんの肩を叩いてから、蓮子は歩き出した。

「早く解決しないと、もっと犠牲者が出る」

 蓮子は真剣な眼差しでそう言った。まるで、人類滅亡が迫るハリウッド映画の主人公のように。それがおかしくて仕方なくて、私は笑いを堪えるのに必死だった。
 だいたい、タイで犬が高速回転しただけで人類滅亡って何よ。イチローじゃあるまいし。

「で、これからどうするつもり」
「データは取れた。次はモデルを構築する段階よ」
「モデルですって?」

 私が少し呆れたのを、蓮子は不服そうに見ていた。

「こんなめちゃくちゃなオカルトを? 説明するためのモデルを考えるっていうの?」
「えぇ。私はそれ以外に方法を知らないもの……」

 半ば開き直るように。

「……プランク並に馬鹿だから」
「そんなこと言って……各方面に失礼よね」
「いいえ? 物理学者は皆馬鹿よ。それも馬鹿真面目。全てをモデル化して説明しようとする。……それにね、今回は寧ろ仮説を立てやすい部類なのよ? 物理とのアナロジーが効くから」
「ふーん……」
「なに? 私の仮説聞きたい?」
「言いたいんでしょ」
「では遠慮なく」

 蓮子が帽子のつばをつついて上げた。講義モードだ。

「考えられるのは二つね。一つはイジング模型。各格子点に設定されたスピンと犬の高速回転を類似させるのよ。犬はほとんど地面に居るから、今は二次元イジングで考えて良さそうね。それで、今、タイの犬たちはスピンが揃っている状態だから、イジング模型で言う相転移温度以下の状態、つまり全体としては強磁性を示していることになるわ」
「キョウジセイ、って、磁石の話?」
「そうね。……磁石って、加熱すると原子のスピンがバラバラになって磁性を失うものなの。逆に、磁石じゃない金属でも冷やせば原子のスピンが揃って磁石になれる。その温度は物質の種類によるんだけどね……」

 蓮子はつらつらと物理を述べながらも、近くの地下鉄の駅に向かっていた。

「……この、磁石と磁石じゃない状態の境目になるのが相転移温度、あるいはキュリー点っていうの。それで、タイの犬たちの系を一つの金属と考えると、今はキュリー点以下って訳」

 蓮子は迷わず列車のホームを選び、またしても迷わず電車に乗った。
 ……明らかに目的地が決まっている動きだ。だがその目的地と、そこに向かう理由を知るためには、いずれにしても蓮子の説明を聞くしかないようだった。

「じゃあ……犬たちを元に戻したければ……〝温度〟を上げればいいってこと?」
「推論はそれで合ってる。ただ、今は犬たちを磁石と類似させるために〝温度〟って表現を便宜的に使ってるだけよ。実際にタイの犬たちの角運動量の向きが揃うか揃わないかを決めるパラメータが何であるかは、今のところ謎ね。少なくとも……普通の意味での〝温度〟ではないはずよ。昨日と今日で気温が劇的に変化したわけじゃないし、それに今の気温で相転移するならタイの犬たちは過去何度も高速回転していたはずだから……」

 そう何度も犬が高速回転しては困る。犬小屋は壊れるし、リードははち切れる。ペット道具屋は儲かるかもしれないが。風が吹いて桶屋が儲かるよりも確率は低そうだ。

「だいたい、電子のスピンって量子論の領域なのよね。しかもイジング模型はふつう、全角運動量の保存を考慮しない。それは外から適切に補充されたり、逆に外へ逃げたりするって前提があって、だから電子は自由にスピンの向きを変えられることになっている。でも、巨視的な系で、それこそあれだけ高速で回転する犬の角運動量を、そうコロコロ変えられるもんじゃないわ」

 蓮子は地下鉄の窓の向こうの暗闇だけを見つめていた。カレイドスクリーンの無い地下鉄なんて、今や絶滅危惧種である。

「結局ボツなのね」
「発想の道筋としてはそうじゃないけど、理論の道筋としてはそういうことになるわね」
「ご苦労なことだわ」

 私はタイで高速回転する犬をきっかけに、結局関係の無かった統計力学の授業に付き合わされたわけだ。

「だからこそ考えるに至った、二つ目のモデルが犬角運動量の保存よ」
「犬角運動量って何」
「その名の通り、犬が持つ角運動量よ。実は犬の角運動量は一般的な角運動量とは独立した物理量で、それはそれ自体で保存されている。だからこうして、街中の中で犬だけが選択的に角運動量を得ているのよ。その角運動量の輸送には通常の角運動量とは異なるプロセスが用いられていて、だからこれまで人類には検知できなかった。しかし今、こうしてタイで犬が高速回転してくれたおかげで……その存在が明らかになった。 つまりこれは……この宇宙に存在する四つの力、電磁気力、強い力、弱い力、重力のいずれにも当てはまらない、新たな〝五つ目の力〟の存在を示唆しているのよ!!!」

 今度こそ本当に、立証されればノーベル賞モノの仮説が蓮子の口から飛び出した。

 ……でもやっぱりイグみが深い。

「発見したのは私だし、実証されたら私が名前をつけても良いわよね?」
「……お好きにしたらいいんじゃないかしら」
「そうね……じゃあこれを……犬に働く力、犬の力……。すなわち――

 ――犬力[けんりょく]と名付けましょう!」
 
 何故、こうも物理学者にはネーミングセンスが無いのか。

「嫌な響きね」
「何よ。好きにしてって言ったのはメリーじゃない」
「そうだけど……」

 仮にも権力に抗い結界を暴く秘封倶楽部として、これは矜持に関わる大問題である。

「ともかくね、この仮説に則るなら、私たちがすることは一つよ」

 なんだか、相槌を打たされている気分だ。私は赤べこなのか?

「ねぇメリーさん。宇宙が始まったばかりのとき、犬って存在したと思う?」
「さぁ。居たんじゃない?」
「居 な い わ よ ! つまり宇宙が始まったとき、犬角運動量の合計はゼロだった。だから、太陽系ができ、地球に生命が芽生え、進化を繰り返し、地上に犬が現れた後であっても、犬角運動量の合計はゼロでなければならない。未来永劫、永遠に。だとしたら……今のタイの状況は、おかしいと思わない?」
「……みんなが同じ方向に回転している、って話だったわね」
「そう、それよ! ……もし犬力が、四つの力と同じように、凡そ近いほどよく働く力なら。もし私の仮説が正しくて、犬角運動量保存則が成り立っているなら。……どこかに居るはずなのよ。その埋め合わせをしている奴が」
「つまり……どういうことだってばよ」

「タイのどこかに――









 ――猛スピードで〝逆回転〟している犬が居るッ!!!」










 列車の扉が開くと共に、私の手を取り駆け出す蓮子。

「さっきトゥクトゥクで街を回っている間に気づいたの。この辺り、犬角運動量密度が異常に高い」

 犬角運動量密度って何よ……と、今度はツッコむ暇も無い。
 けれど、なんとなく私も分かってきた。蓮子のメモにあった、〝下向き矢印〟が、この辺りで特に長く、そしてたくさんあるということなのだろう。それだけ〝下向き〟が強い場所には、それを打ち消すだけの、とんでもない強さの〝上向き矢印〟があるに違いない、というわけだ。

 二人は走った。高速回転する犬に困惑する、タイの街を切り裂いて。私たちが目指すべきはただ一つ。犬の回転の特異点。よりたくさんの犬が、より強く、そしてより大きく回転している場所に向けて。
 息を切らしながら必死についていき、走ること十分。蓮子が急に立ち止まり、私もつられて足を止めた。手を膝につき、ぜぇぜぇと荒れる息を整え、顔を上げた先。そこで私が見たのは、タイのど真ん中に相応しくなく、意外にも日本語だった。



「……やっぱりね」

 私にとっては意外でも、彼女にとっては必然だったらしい。改めて、錆び落ちたプレートをもう一度読み直す。

《《郵政省 電脳管理局 結界課 結界移植試験区域〝イザナミ〟》》

 見逃すはずがない。〝結界課〟の文字。全省庁の内部組織で最も強力で、かつ最も秘匿された組織。

 ……私たち秘封倶楽部の宿敵。

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