Coolier - 新生・東方創想話

新月の下に導く仮説

2019/06/02 18:24:21
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一.



 道行く草木に銀色の霜が走る、そんな晩冬の日だった。
 白く輝く太陽は朝から厚雲に隠され、一度も顔を見せる事なく日没の時間を迎えようとしている。凍りついてしまったかのように薄灰色になった寒空を見て、普段寒さをそれほど感じない私でも、今日ばかりは半袖一枚で外出した事を少し後悔していた。
 いつもならば、わざわざこんな日に人里までやって来る事は決してないのだが、今日に限っては、どういうわけか日を指定されて慧音に呼び出されたのだった。
 もしかしたら、叱られるのかもしれない。傘を持った人々とすれ違いながら、私は心当たりを思い浮かべようとする。この前、襲い掛かってきた妖怪を問答無用で燃やした事か? それとも、人里にある甘味処のツケをずっと払っていない事か? はたまた、寺子屋の子供たちに漢字の宿題をサボる裏技を教えた事だろうか。考えれば枚挙に暇がないが、どれも叱られるほどの事ではないだろう、と私はそれらの考えを一蹴した。結局、呼び出された理由がわからないまま寺子屋に着いてしまった。

 慧音に気づかれないよう、外窓から教室内の様子を伺う。どうやらまだ授業中のようだ。私に気づいた幾人かの不真面目な子供たちが、此方を見てニヤニヤしたり小さく手を振ったりしている。それに対して、私は膨れっ面で慧音の方に指を向ける。授業を妨害するとひどく叱られるのだ。
 無数の足跡が残る庭を通り抜け、寺子屋の正面玄関へ向かう。中に入ると、見慣れた光景が私を歓迎してくれた。無造作に突っ込まれた何本もの傘を、その一身で全て受け止めている傘立て。乱暴に靴を入れられても、文句一つ言わない靴箱。こいつらも影でこの寺子屋を支えているんだな、なんて事をわざわざ考えるのは多分私ぐらいだろう。

「……む、もう時間か……仕方ない、今日は天気が悪いから延長は無しだ。お前たち、雪が降ってくる前に家に帰るんだぞ」
 慧音の言葉を合図にして、子供たちが一斉に騒ぎ始める。珍しく時間通りに授業が終わった事を喜ぶ者、雪を心待ちにして浮かれている者、慌てて板書を書き写している者など。外の薄暗い空とは逆に、気鬱な様子の子はいないようだった。
 彼らの中には、私の元へ真っ先にやってくる者もいた。私自身、彼らを相手にする事にずいぶん慣れたな、と思うのと同時に、変に懐かれてしまったな、とも感じている。避けられるよりは良いのかもしれないが、彼らの慧音への態度と比べると、少し馴れ馴れし過ぎる気がする。
 というのも慧音曰く、彼らは私の事を『見た目は怖いが本当は優しいお姉さん』程度に見なしていて、どうやら全く心外な事に、大人だとは少しも思っていないらしい。まあ、私はそれに対して怒る気もないのだが……ましてや、真実を伝える事なんて出来ない。慧音にも「精神年齢なら同類じゃないか」なんて言われてしまったし、多分今の距離感が一番なのだろう。

「久しぶり、妹紅。今日はちゃんと来てくれたな」
「ああ……久しぶり」
 子供たちに囲まれながら、慧音と久方ぶりの挨拶を交わす。これから何を言われるのか、内心警戒しながら。
「……? どうした、『忘れたら頭突き百回』と言われた宿題を忘れた生徒みたいな顔して」
「い、いや……何でもない」
 どうやら、怒ってはいないらしい。怒ってはいないようだが、子供たちはこんな威圧を受けながら勉強していると思うと、何だか気の毒に思えてきた。子供たちが私の方に親近感を覚えるのも、これの所為じゃないだろうか。
「相変わらず自堕落な生活をしているんだろう、全く」
「自堕落とは何だ、私は死ぬ為の努力を続けてるんだよ」
「私の目が黒いうちはそんな事させないぞ。ま、そんな心配する必要ないだろうけどな」
 慧音が私の頭にぽんぽんと手を当てる。今の言葉がどっちの意味なのか、私にはわからなかった。

 その後、私たちは一言二言交わしてから、まだ残っていた子供たちと共に外に出た。雪はまだ降っていないが、辺りは既に暗くなり始めている。
「天気が悪くなる前に、買い物に行ってくるよ。子供たちを頼む」
「あいよー」
 ……もしかして、このために私を呼んだんじゃないだろうな。
「妹紅さん、リフティング教えて!」
「あいよー」
 迎えを待っている子供の一人から、人の頭ほどの大きさの白黒模様のボール――サッカーボールとかいう名前が付いているらしいが、よく跳ねる事以外は普通のボールである――を受け取る。幻想郷では今、このボールが外の世界から大量に流れ着いたとかで、これを使った遊びが子供たちの間で大流行しているみたいだ。
 リフティングというのはその遊びの一環で、足や頭を使い、このボールを地面に落とすまでに何回跳ねさせられるかを競うものらしい。で、子供たちはその回数を他の子に自慢するために、この遊びの達人である私にコツを聞きに来るわけである。
「よっ、と」
 一、二、三……手を使わないで済むから、こんな寒い日には楽でいい。ポケットの中に手を入れながら、ボールを蹴った回数を数える。三十を超えると子供たちから賞賛の声が上がってくる。こうなると私も気分が良くなって、思わずにやけてしまう。こういう所があるから慧音に同類だと言われてしまうのだろう。子供の遊びが楽しいのがいけないんだ。

 最後の子供の迎えが来る頃には、小さな白い冷気の塊が私の肩に積もるようになっていた。私は少し駆け足気味になって、寺子屋の中にある慧音の私室に向かう。慧音はまだ帰ってこない。帰り道で降られてしまいそうで、少し心配になる。
 慧音の私室には、彼女の趣味で西洋の調度品がいくつか揃えられている。特にこの時期目に付くのはこのストーブとかいう暖房で、この中で薪を燃やすと部屋の中が春のように暖かくなる。囲炉裏しか知らない私にとっては衝撃的な道具だったが、冬の夜風に晒されながら布団一枚で寝ていた平安貴族の娘としては、この暖房は少し暑すぎる。
 慧音が帰ってきた時の為に、薪に火をつけておく。火花が散り、木が弾けてバチバチと小気味良い音が鳴る。中の橙色の炎と合わせて、すぐに暖かい気持ちにさせてくれる。流石、肝が冷えるほど高価な暖房器具なだけある。

 ソファに座るとすぐに眠くなってきた。火元から目を離していると慧音に怒られるが……
 壁に掛けられた時計を見る。四時半……この分だと、慧音は暫く帰ってこないのかもしれない。どちらにしろ、私にとって睡眠は、死ぬよりも死に近づける貴重な時間なんだ。慧音にだって邪魔される筋合いは無い。
 目を瞑って全身の力を抜くと、無意識が近づくのが感じられる。私が私である必要が無くなる時間。一喜一憂する心と思考を奪われる時間。千年以上前から、私はこの時間が一番好きだった。



二.



 新月の夜。眼前からあらゆる光源が消え失せ、人だけでなく妖怪までもが静まり返る恐怖の夜。こんな時間に迷いの竹林を歩き回るような者は自殺志願者しかいない。そう、まさに私のような。
 だが非常に残念な事に、迷いの竹林は私を殺してくれない。餓死するまで此処に閉じ込められてみても、三途の河の向こう側までは運んでくれなかった。こんなにも死を望んでいるのに。
 随分遅い時間になってしまった。風も無く、全てが停止した竹林には殊更不気味な印象を受ける。明かりはいつでも用意出来るし、妖怪は大した事ないので不安は無いが、何故だかいつもと違う胸騒ぎがする。
 新月の夜に出歩くなんてまず無かったから? だが、暗すぎる以外は普通の夜だ。むしろ妖怪が大人しくなって助かる。こんなに寒い夜なのに半袖だから? それは、あるかもしれない。燃えながら移動した方が楽なんじゃないかと思う程だ。

 嫌な予感を覚えながら歩いていると、見覚えのない円形に開かれた道が目の前に現れた。まるで、此処だけ竹が切り取られてしまったかのような……私はいつも通りの帰り道を歩いていた筈だ。もしかして迷ったか?
 嫌な予感とはこれの事だったか。でも、私に限って迷うだなんて……いや、そんな事はあり得ない。正しい道を歩いているなら、そろそろ私の家に着く筈だ。きっと誰かの悪戯だろう。この円形の中心にある石の形には見覚えが……石?
 石の上に何かある。そのうっすらとした影像を見て、肌を撫でる寒さより冷たい何かが、私の心臓を貫いたような気がした。嫌な予感の正体を突き止めた事に舌打ちしながら、その場に屈み込んだ。それは何かの入れ物……揺り籠、だ。その中に入っているのは……

 気づけば私はそれを抱えて走り出していた。思った通り、其処から私の家まではすぐだった。だが、私の家では駄目だ。永琳……私の家からなら、目を閉じても行ける。炎を消し、揺り籠を両手で抱えながら、暗闇の中を走り抜ける。
 彼処の姫と殺し合う度に、永琳には世話になっている気がする。今日もまた、新しく借りを一つ作ってしまう訳だが……今はそんな事を考えてはいられない。私には赤子の事なんて、何一つ分からないのだから。

「ぐ、うぅッ!?」
 何かに足を取られ、うつ伏せに転んで土塗れになる。幸い揺り籠を放り出さずには済んだが、同じく土塗れになった布が見えた。焦燥感を覚え、急いで中の赤子を確認する。だが、光り輝くように尊いその面貌は、私と布が土を浴びても、不純物の混じる事無い神々しさのようなものを保ったままだった。
 奇跡を体験したような気分だったが、私は一先ず安心して再び駆け始める。そういえば、これだけ激しく動いているのに、この赤子は一切泣こうとしない。何故だろうか……親から見捨てられた悲劇の運命を受け入れた奇跡の子、今の私にはそうとしか思えなかった。死んでいるかもだなんて、全く考えられなかった。
 ――竹林、赤子、奇跡――まるで、あの馬鹿馬鹿しい物語のようじゃないか。この子を最初に見た時、私だけがこの子の悲劇の運命を変えられるのだと思った。だから私はこうして、この子を連れて医者の元に駆け付けようとしているのだ。だが今にして思えば、私はあの物語の翁と同じ事をしているのだ。何という皮肉だろうか……だが、不思議と嫌悪感は無かった。何故なら私は既に、この子があのかぐや姫のような、人並み外れた子になるだろうと確信していたからである。



三.



 永琳から「命に別条はないわ」と聞かされた時、全身の力が抜けるようだった。こんなに長い距離を全速力で走るのは久しぶりだったから、脚がずっしりと重く感じた。
 彼女は適切な処置を施してくれただけでなく、この子が人間の子供である事――月人でなくてよかった――、生まれてから二ヶ月ぐらいである事、情緒が芽生えつつある事などを教えてくれた。どれも私にとっては未知の世界の話で……何というか、長く生きていても知らない事は、意外と身近にあるものだなとぼんやり思った。

「ねえ、この子をどうするつもり?」
 いつの間にか隣にいた輝夜も、この子供に興味津々のようだった。
「永琳、今日二度目の一生のお願いになるけど……」
「ええ、勿論」
 ああ、こういう奴が妙に素直なときは必ず裏があるんだ。彼女は輝夜の方をちらりと見てから、私に厳しい視線を向けた。
「ただし、条件がある」
「……条件」
「そう、二つね。私もこの子を助けてあげたいと思っているし、そのために協力を惜しむつもりは無いわ」
 そう言いながら、永琳はベッドの上の赤子に手を差し伸べる。
「でも……この子を育てるのは、貴方。貴方が拾ってきたのだから、当然でしょう?」
「……それが、この子を助ける条件だってのか」
「ええ。それに貴方、案外楽しみにしてるみたいだしね」
 ――何てこった。私が子供を育てるだと? 私自身ですら、親の寵愛をまともに受けていないってのに……そんな私が、本当にこの子を愛せるのか? この子を幸せに出来るのか?

「えー、妹紅だけ狡い! こんな面白そうな事、滅多に無いのに!」
「もう一つの条件は」
 声を荒らげる輝夜に割って入るように、永琳は静かに喋り始めた。
「この子の前では喧嘩しない事。それぐらい出来るわよね? 子供じゃないんだし」
「何よ、私はこいつみたいな野蛮人じゃないわ」
「ああ、今は私も我慢してやるよ……口までならな」
 睨み付けてくる輝夜を無視しながら、これからの選択について考え始める。

 珍しく真面目な顔をした輝夜が、口元を袖で隠しながら、赤子と私をチラチラと交互に見る。
「そんな事はどうでも良いのよ。貴方、本当に大丈夫なの?」
 改めて、赤子の顔をじっと見つめる。暗闇の中で見たのと同じ、今までに見た事のないような純粋さと、清廉さを感じさせる、才能に満ちた美しい顔だ。
 だが……私は、何と比べてそんな事を感じているんだ? 私の今までの人生の中で、赤子の姿を見る事がどれだけあった? もしかしたら、この子は特別な赤子なんかじゃなくて、世界中の赤子は、この子と同じような綺麗な顔をしているのかもしれない。もしそうならば、そんな事も知らなかっただなんて……私の今までの人生が、急にちっぽけで希薄なものに思えてきた。
 輪廻の輪から逃げだした私は、無意識の内に人間の誕生の瞬間を自分から遠ざけていたのかもしれない。いや……間違いない。一切皆苦のこの世に解き放たれるその瞬間が、美しいものである筈がないと決めつけていたんだ。だが、実際は……

「竹林に捨て子なんて、何も珍しい事じゃないわ。貴方だって、それを知らないわけじゃないでしょう」
 ……人は、目の前で井戸に落ちそうになっている赤子を見ると、生まれつき備わった善の心に端無く従って、助けずにはいられない……例え、その子が飢えによって自ら死を望んでいたとしても。
 私が助けたこの子がそうだとしたら? 私がすべき事はただ一つ、この子が栄養と親の愛情に飢えないように、大切に育ててやる事だ……人情に従ってしまった私には、その義務がある筈だ。

「……わかった。私が責任を持ってこの子を育てる」 
「そう、貴方ならそう言ってくれると思ってたわ」
 永琳がにこりと笑う。私が此処に来た時から、この子に対する私の気持ちはお見通しだったのだろう。
「でも、どうして私にここまで協力的なんだ? ただの親切心って訳じゃなさそうだが」
「貴方と輝夜が喧嘩すると、私にとっては不幸な事しか起こらないから。けど、そもそも喧嘩しなければ、衣装代を工面する必要もない」
 ああ、二つ目の条件はそういう意味だったのか……
「貴方が育児なんてしたら、ストレスでこの子の服も燃やしちゃうんじゃないの」
「ストレスにはかなり耐性ついてるよ、お前の所為でな」
 どうやらこの女は私に協力する気が無いらしい。それでいてこの子には干渉する気満々なのだから、厄介な奴だ。

「じゃあ早速、この子に名前を付けましょうか。親としてね」
「おい待て、そんなとこまで首突っ込んでくる気かよ」
「だって貴方、こういうの苦手でしょう? まさか、自分からしたいと思っているのかしら」
 ぶっ飛ばしたくなるようなニヤニヤ顔で輝夜が此方を見てくる。
「お前に任せるわけにはいかない。親としてな」
「仕方ないわね。じゃあ、一緒に"仲良く"決めましょうか」
「なんでお前が譲歩したみたいになってるんだ? 関係ない奴に出しゃばらせるつもりはないぞ」
「はぁ、一体何日かかるやら……」
 ため息をつきながら退室する永琳を脇に、熱を帯びた口論が静かに始まった……



四.



 全ての生き物に等しく厳しさを伝える、冷徹な季節を感じさせる冷たい風が人里の中を通り抜ける。この寒さの中でも、人間――と、それに依存して生きる妖怪――は活動を止めない。雪かきに精を出す者、凍った道筋を早歩きで進む者、真昼間から酒を呷って暖を取る者など……その誰もが、間近になった春を待ち望んでいる事だろう。
「――久依理」
 私の声に反応して、長い黒髪の小さな少女が此方に振り返る。久依理(クイリ)――それが私たちが娘につけた名前だった。

 娘を育てるこの短い時間が、長すぎる私の人生を大きく変えるだろうと、あの時は確信していた。その途中で、今まで生に対して目を背け、無為な生き方をしてしまった事を悔いるかもしれない。或いは、娘に向ける愛情を、何故私は親から受ける事が出来なかったのかと、人間だった頃の私の過去を悔いるかもしれない。人生の大きな転換期を迎えるに連れ、それらの"悔い"から"離"れる、その決意を込めて私はこの名前を付けた。
 輝夜がどんな拘りを持っていたかはよく覚えていないが、多分漢字を当てたのはあいつだったと思う。『久しく理に依る』、娘へのメッセージを込めた当て字だと思うが、輝夜はこの子がどのように育つのか見抜いていたのかもしれない。

 久依理は知に関して間違いなく鬼才だった。一歳の頃は変わらなかったが、二歳になる頃には私たちの話し言葉を完璧に理解して、自ら考えて会話するようになった。次の年には、読み書きが不自由なくなり、教えられていない敬語の使い方まで会話の中から記憶し熟練していた。
 この子は躾の意味を理解し、私が言った事を絶対に守るので、育児に苦労する事は――飽くまで、普通の育児と比べたらの話だが――あまり無かった。私はこの子が人間だという永琳の判断には疑問を持っていたが、「人間としては凄いのかもしれないけれど、私と比べたら別に」という何のアテにもならない返事が返ってきたので、諦めるしかなかった。

 そんな久依理も、もう四歳になる。私はこの子の誕生日を知らないので、私がこの子を見つけたあの日、『年明けから二度目の新月の日』を誕生日としている。だから、正確に言えば四歳と一ヶ月程となるだろうか。久依理にはまだ、私が本当の母親でない事を明かしていないが、私は本当の娘だと思ってこの子を育てている。いずれ明かす時が来るのだろうが、今はまだその事を考えたくない。

「次は何処に行きたい?」
「……本屋さんに行きたいです」
 久依理はまだ寺子屋に通う程の歳ではないが、普通の子供ではない久依理に、私から教えられる事は殆ど無かった。そもそもこの子の教育に関しては、全て輝夜と本に任せている状態である。悔しいがあいつには学の面で勝てる気がしないので、私はこの子に必要な分の金を稼ぐ為に、身分を隠して臨時的に働いているわけである。こう見ると家族のようだが、私はたまに久依理に会いに来るだけのあいつを、久依理の親だとは認めていない。
「輝夜とどんな話をしてるんだ? 変な事を吹き込まれてないだろうな?」
「輝夜さまはいつも優しくて、面白い話をしてくれます。将来はあのお方のようなれでぃになりたいです」
 これは一度あいつを問い詰めてやる必要があるな。別に嫉妬してる訳じゃない。
「お母さまは、輝夜さまが嫌いなのですか?」
「あいつの事はもう良い。せっかくの人里なんだから、もっとよく見ておけ」
 私が竹林で身を隠さなければならない身分な所為で、久依理を人里から遠ざけてしまっている。人里での生活について、知識では知っているだろうが、大人になってから他人とのコミュニケーションが苦手になったりしないだろうか。それが今の不安要素である。

「此処かな。本屋は」
 初めて来る本屋に、久依理は興奮しているようだ。一緒に中に入ると、本の多さに驚いたのか、久依理は小さな声を上げた。
「いらっしゃいませー」
 人里では貸本屋が主流だが、気に入った本はそのまま買える事も珍しくない。今日は久依理の誕生日プレゼントとして、欲しい本は何でも買ってやるつもりである。
「此処に寺子屋で扱うような教科書はあるか?」
「教科書、ですか? 時期が時期なので、ありますかねえ……」
 この辺ですかね、と案内された本棚に久依理を連れ、必要そうな本を確認する。
「娘さんはお幾つですか?」
「今日で四つになる。私から教えられそうな初学的な事は教えたから、これを買いに来たんだ」
「はー、まだこんなに小さいのに、賢いんですねえ」
 私の中で優越感がむくむくと起き上がってくるのを感じる。これが親馬鹿の気持ちなのかな。自分でも少し自分が嫌になる。

「欲しいのはあったか?」
「はい、数学と歴史はこの本で勉強したいと思います」
 久依理は満足そうな笑顔を向ける。これが今や、私の唯一の生き甲斐になっている事は言うまでもなかった。
「欲しい本は何でも買ってやるから、もっと色々見てこい」
「はい! お母さまも一緒に見てくれませんか?」
「ああ」
 久依理はどうやら、子供が好きそうな物語よりも、随筆の方が好きらしい。まあ、昔の人間が書いた本はその二つの区別が無い事が多いが。
「昔の人が書いた本からは学ぶ事が多いです。いつの時代も、大切な事は変わらないという事ですね」
「そうかな。私はずっと、こんなもの生きるために何の役にも立たない、ただの紙クズだと思ってたけどな」
 久依理が露骨に悲しそうな顔をする。いや、そういうつもりで言った訳じゃない。
「お前は私とは違うからいいんだよ。それ、何の本だ?」
 久依理が読んでいた本を受け取り、中をパラパラと確認する。どうやら、人間と妖怪の共存を目指して奮闘する、尼僧の冒険譚のようなものらしい。随筆というより伝記のような内容で、写実的な内容ではなく、過激な表現も無く読みやすそうではある。
「いいんじゃないか」
「あの、こんなに買ってしまっていいんでしょうか……」
「気にするな。私はお前のためだけに働いてるんだから、欲しいものは何でも買ってやるよ」
 娘を育てるようになって初めて、金のかからないこの身体に感謝するようになった。今までは他人のために働くなんて馬鹿らしいとずっと思っていたが、普通の子供のように育てられない詫びとして、今は久依理のために尽くそうと思っている。

 その後、他にも何冊か本を選んで店を出た。今まで一番金を使ったが、満足感しかなかった。
 外は既に薄暗く、夜の始まりを告げるように太陽は沈みきっていた。肌に刺さる風の強さはマシになっていたが、日も落ちて下がった気温の所為で、肌寒く感じるのは相変わらずだった。
「あの……お母さま、寒くないのですか?」
「大丈夫だよ。久依理は気を遣えて偉いな」
 久依理はすれ違う人々と半袖の私を見比べている。親子連れとすれ違うと、久依理はそれに惹かれるように立ち止まった。
「……お母さまは、人里の皆さまより随分若く見えます」
「あの親子の親よりは若く見えるだろうな」
「あの方だけでなく、この町で見るどの母親よりも若く見えます」
 久依理は真剣な目で此方を見つめている。好奇心の強い久依理は、興味を持つとどんな事でも鋭い質問をしてくる。今がまさにその時だった。
「お母さまは……おいくつなのですか?」
「千何百歳だったかな。忘れたよ」
「本当の事を言ってください!」
「本当だよ、嘘はついてない」
 久依理が大人になったら、私の事について話そう。今そう決めた。だが……久依理の事だから、大人になる前に気づいてしまうかもしれない。むしろ、そっちの方が楽なのではないか。久依理と一緒に歩くこの瞬間を愛しく感じながら、大人になったこの子の姿に思いを馳せた。



五.



 夜の闇に包まれた家の中で、囲炉裏の火が薄い影を作る。布団に包まった久依理はまだ眠りについていないようで、何かを期待するような目で此方を見つめている。
「お母さま、今日もお願いします」
「ああ、いいよ」
 傍にあった本を取り、久依理の前に座る。私の身体が明かりの陰になり、久依理の顔が影に染まった。
 子供らしい振る舞いをあまり見せなくなった久依理でも、寝るときはまだ子供っぽい。こうして明かりを点けながら読み聞かせをしてやらないと眠れないようだし、トイレに行く時は付いていかなきゃいけない。それを怠って久依理の服と布団を汚したのは苦い思い出だ。
「久依理は本当にこの本が好きなんだな」
 久依理にいつも読み聞かせるこの本は、人間と妖怪の共存を目指す尼僧の物語だ。何が気に入っているのかは知らないが、いつも読み終える前に眠ってしまうので、久依理は起きてから何度もこの本を読み返している。それ程この本が好きなようだ。

「あの、お母さま……」
「何だ? トイレは寝る前に行っておけよ」
 私の言葉に、久依理はふるふると首を横に振る。どうやら真剣な話らしい。
「私は里にいる他の子のように、良い子でいられているでしょうか?」
 久依理の周りには、同じぐらいの歳の子供はいない。だからこんな風に不安に思うのも当然の事だろう。だが私から、この子にかけてやれる言葉は大して多くない。それはこの子がデリケートだからではなく、単に私がこの子の気持ちになれないからだった。
「お前は里にいるどんな子供よりも頭が良くて、いい子だよ。だけどな、他の奴らと比べる必要はない。他の大人はお前に足並み揃えさせようとするだろうが、お前はお前らしくしていればいい」
 私の無責任な言葉は久依理の想いに答えられただろうか。久依理は布団に包まって顔を隠す。
「私……私には、足りないものがあると思うのです……いい子になる為に」
 久依理の声が、いつにもなく不安そうな震え声になる。何を言い出すのかと思い、私は無意識に眉をひそめていた。
「……お母さまのようになるには、どうすればよいのですか?」

「……何言ってんだ? 私はお前が思うような、いい子からは程遠いぞ」
「お母さまはいつも毅然としていて、どんな事にも物怖じしません……私とは正反対です」
 私が否定しようとする間もなく、久依理は矢継ぎ早に言葉を投げかけてくる。
「私には、勇気が足りないのです……お母さまのような、気丈な人になるには、どうすればよいのでしょうか?」
 久依理の話を聞いて、初めて気づけた事がある。私は今まで、久依理はどの点を取っても優秀な子だと考えていたが、それは私の主観でしかないという事だ。久依理から見れば、私の捨て鉢のような態度に、自らに無いものを感じ羨ましいと思うのだろう。他人の気持ちを考えるのは、改めて面倒だと心の中で一人ごちた。
「私は図々しいだけだ、私のようにはなるなよ」
 久依理の額に掌を乗せる。それまで緊張していた久依理は、幾分か落ち着きを取り戻した様子で瞼を閉じた。
「でも、お前は私の真似をするぐらいが丁度いいのかもな」
「真似……ですか?」
「冗談だよ。お前が好きな事を続けていれば、勇気なんて後から付いてくるさ」
「……はい」
「さ、もう寝よう。お前が好きなこれを読んでやるから」
 久依理が自信を身に着けるには、この子を自由にさせてやるのが一番だという気持ちはある。だが……この子にとって、外の世界は危険すぎる。過保護だと言われるかもしれないが、私は一人で生きていく厳しさを誰よりも知っている。久依理には、私がいてやらないといけない。
 しかし、私のこの感情が、久依理の成長を阻害しているとしたら……私は再び自己嫌悪に陥る。いつもこうだ。自分を愛していない奴が、他人を愛せるはずもない。
 不甲斐ない私には、久依理が私を反面教師にして、自ら殻を破ってくれるのを、ただ願う事しか出来なかった。



六.



「見てください、これ」
 久依理から渡された、高そうな装丁の本を見てみる。
「何だこれ……?」
 神話の解説書か何かだろうか、大陸の神獣がイラスト付きで紹介されている。硬い表紙の作りといい、あまり見た事ないタイプの本だ。外来のものだろうか。
「Qilin(クィリン)……でしょうか? 私の名前みたいですね」
 久依理が此方を向いて楽しそうに笑う。
「面白いですね、借りましょう」
 久依理は寺子屋に通うような歳になって、知識欲もどんどん増しているようで、貸本屋に通う回数も増えた。私の家にも本がたくさん増えて、空間が足りなくなりつつある。その甲斐あって、今や久依理は私よりずっと賢くなった。

「ありがとうございましたー」
 久依理と共に店を出る。後ろから娘を眺めると、大きくなったなと思う。毎日見ているはずなのに。
 長く生き過ぎた私と人間の子供では、進んでいる時間が違うんじゃないかと思う事がある。私が一を学ぶ間に、久依理は百を学んでいる。私の髪が地につくほど伸びる間に、久依理は一回りも二回りも大きくなっている。私は親として娘を見ているだけでなく、変化を拒む身体を持つ者として、変化していく者への憧れを持って娘を見ている。いずれ久依理の身体が老いて滅びる事になったら、私は親として悲しむのか、それとも呪われた不死者として嫉むのか。ふと、久依理が死ぬその瞬間を考えてしまう事がある。

「お母さま、今日はとっても楽しかったです」
 久依理の声で我に返った。今の私がすべきなのは、この子を立派な大人に育てる事、ただそれだけだ。それ以外はこの子にとって雑音でしかない。
「そうか」
 既に外は薄暗くなり始めている。今すぐ帰らなければ、直に足元も見えなくなってしまうだろう。
「暗くなる前に帰ろう」
「はい」
 久依理と手を繋ぎながら、家路を辿る。上機嫌な様子の久依理は、先導するように私の手を引っ張ってくる。今日借りた本を読むのが楽しみで仕方ないのだろう。夜更かししないように注意しておかないとな。

「ん……何でしょうか、あれ」
 立ち止まった久依理の視線の先を見ると、何やら人だかりが出来ている。その中では一人の男が倒れていて、もう一人の男が周りの者に取り押さえられながら、一方に向けて汚い言葉を吐いている。どうやら暴力沙汰のようだ。
「……多分、博打か何かだろう……あいつはいつも……」
「……あいつは信用ならないからな……他にも……」
 人里では人間同士の争いが絶えない。それは私が住んでいた時代も、今の時代も変わらない。此処の人間は、妖怪という脅威を相手に互いに団結する事もなく、ただその支配を甘んじて受け入れている。だから外の世界がどうであれ、この閉鎖空間はこのまま永久に変わる事は無い。そうなるように妖怪たちに仕組まれているからだ。
 妖怪の遊戯に巻き込まれる人間たちに同情こそすれど、関わるつもりは毛頭ない。所詮は私を見捨てた奴らだ。
「さ、行こう」
「……はい」
 久依理はこの喧騒に驚く事も不思議がる事もなく、意外にも平然としているようだった。私の方は質問攻めに会う事を覚悟していたから、何だか拍子抜けだ。まあ何にせよ幸運だと思って、これ以上の面倒事に巻き込まれる前にさっさと帰ろう。
 それからの帰り道も、久依理は特に何も言い出す事はなかった。ただ……私としては、久依理が私の手を妙に強く握り返してくるのが気になった。この子なりに何か考えがあるのだろうか。それを聞き出す気力は、私にはもう残っていなかった。



七.



「……起きてください」
 久依理の声で目が覚める。無理な体勢で寝ていたせいか、身体のあちこちが痛い。とりあえず……顔を洗おう。
 いつの間にか、久依理に起こされるのも、寝起きに身体が痛いのも、顔を洗うのと同じく朝の日常の一部となっていた。いや、この日常を嫌になるほど過ごしてきた私にとっては、『日常に埋没してしまった』という表現の方が正しいかもしれない。
 大きくなった――と言っても、まだ子供だが――久依理は、両手で数え切れないような歳になって、私の代わりに家での面倒事を全てやってくれるようになった。その一環として、仕事に行く前の私をこうして起こしてくれるのだ。まあ、久依理と言葉を交わすのも、これと食事の時ぐらいなのだが……そう、久依理は以前と比べて、間違いなく口数が減った。これが噂に聞く、二次反抗期というやつなのだろうか。一次は無かったけど。
 勿論、久依理と一緒に布団で寝る事も無くなった。そうなると私は布団で寝る意味が無くなるから、椅子で眠るようになった。毎朝身体が痛むのも、これが原因だ。久依理が来る前も椅子で寝ていたから、以前に戻ったとも言える。
 久依理の存在が当たり前になった今は、無為に生きていたかつてと同じように、時が経つのがとても早く感じる。特に最近は久依理と会話しなくなった所為で、昨日と一昨日の違いも分からなくなってしまった。どちらも朝から仕事に行き、久依理と一緒に晩ご飯を食べて、酒を飲んでから寝た。それぐらいしか覚えていないのだ。寺子屋に行く子供を持つ親なら、こうはならないのかもしれない。

 髪を梳きながら、久依理と共に食卓につく。
「いただきます」
 この朝食も久依理が作ってくれたものだ。まだ作り始めてから日が浅いから、良い出来ではないのを本人は気にしているらしいが、私は食べられれば何でも良いと思っている。
「……今日も、遅くなりますか?」
「多分な」
 私の言葉を聞いて、久依理の表情が曇る。そしてこれ以上の会話が続く事はなく、また黙々と食事を続ける。こうなったのは私の責任もあるだろうが、私は自分から話しかける性格ではないから……話す内容が思いつかない。

「……人里に行かせてください、お願いします」
 食事も終わり、私が家を出ようとした時、久依理が躊躇いがちに口を開いた。
「私なら大丈夫です。道は覚えていますし、お母さまから教わった護身術で身を守れます」
 護身術。そう、私は幼いこの子に、自らの身を守る術を教えてきた。ずっと箱に閉じ込められていた私と違って、この子はこの歳にして戦う事を覚えている。臆病な筈のこの子に教え込むのは酷だったかもしれないが、私が教えられる事はこれぐらいしかなかった。
「駄目だ。それにこの竹林は、道が分かってても迷うんだよ」
「知っています。妖精さん達に"協力"してもらうのでしょう」
 ……久依理が一人で人里に行きたいと言い出したのは、これが初めてではない。だが、これほど頑なに主張してくる事は今までになかった。どうしても人里に行きたい理由があるのか、それとも……
「教えてください。どうして止めるのですか? 正当な理由を、私に聞かせてください」
 先程までとは打って変わって、久依理が鋭い視線で私を見つめてくる。彼女にこれほど強い声色で何かを言われるのは、記憶にない。
 変な汗が出てきた。私は、久依理を子供だと甘く見過ぎていたのかもしれない。彼女は私が想像するよりも、ずっと頭が良く、自らを客観視しながら、自我を強く持っている。この状況では、誰の目から見ても間違っているのは私の方なのだろう。だが、それでも私は……

「……母さんの言う事が聞けないのか?」
 罪悪感で、私の心が痛む。久依理に正当な理由を説明出来ないのは、私が論理的な理由を持っていないからだった。
 久依理は顔を伏せたまま、口をぎゅっと結んでいる。私が無理やり久依理を家に閉じ込めるのは、彼女の事が心配だから、ただその身勝手な理由が故だ。今の彼女にその理由を説明しても、全く耳を貸さないだろう。それは私自身がよくわかっている。箱の中に閉じ込められ、外の世界に夢を見ていた私自身が……
 それでも私は、久依理が私の元を離れるのが嫌だ。万が一、久依理を失う事になったら、あの吹けば飛ぶようなちっぽけな生き方に戻ってしまうばかりか、二度と立ち直れない程のショックを受けるだろう。当たり前の日常の繰り返しの中でも、久依理の存在だけは特別だ。彼女を見守る事だけが、私の心の拠り所なのだ。
 こんな事をしても、その場凌ぎにしかならない事は分かっている。私は生きる罪人だ、必ずその報いを受ける事も知っている。いや……報いを受けようと構わない。この生活が崩れてしまう以上の苦しみは無いのだから。
「……お前の事が心配なんだよ。分かってくれ」
「……お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
 久依理はただ、そう一言発するのみだった。



八.



 久依理は何かを隠している。それは間違いない。問題なのは、その決定的な証拠が見つからない事だ。嵐の前の静けさと言うべきか、最近の久依理はやけに静かで、それが証拠も無く確信している理由である。
 何処に何を隠しているのか、あるいは物ですらないかもしれない。探すのは至難の業だ。ただ、久依理が秘密裏に何かをするとしたら、それは私が仕事に行っている時だろう。
 認めたくないが……久依理は私がいない間に、一人で人里に行っているのだろう。そう考えるのが自然だ。彼女が私に証拠を掴ませない以上、私もそれについて叱るわけにもいかない。それに……人里に行くぐらいなら大丈夫だろう。私自身、心の奥底ではそう認めているというのに、表面では認める事が出来ない。

「……久依理」
「はい」
 久依理を呼び止め、抱き締める。久依理は驚いた様子で、身体をビクッと震わせた。
「……行かないでくれ、久依理……」
 久依理が一人で人里に行くのは、私の中では許容範囲内である。だが、彼女はいつも私の想像を超えてきた。初めて出会ったあの時でさえそうだ。今回だって、ただそれだけで終わるはずがない。彼女は何か考えがあって、人里に通っているのだ。
「お前がいなくなったら、私は……」
「……お母さまを悲しませるなんて、私は親不孝者ですね」
 久依理は私の胸元から離れ、私の目を見ながらはっきりと言う。
「ですがお母さま、私だっていつまでも守られている訳にはいかないのです。私がお母さまを守れるぐらい強くなる事、それがお母さまにとっても幸せな事だと信じています」
「で、でも……」
「私に勇気を教えてくれたのは、お母さま、貴方なのです。何も心配は要りませんよ」
 久依理は私の想像よりも、遥かに大人びている。最早私が親を名乗るのは相応しくないのかもしれない。成長が止まった私と、成長し続ける久依理を比べれば、いつか逆転してしまうのも当然の事だ。これ程早いとは思わなかったが。

「私は此処にいますから」
「……ごめんな、久依理、こんな母親で」
「……それだけ、私の事を考えてくれているのですね。嬉しいです」
 久依理が私に微笑みかける。喜んでいるようだ。……表面上は。
 久依理の笑顔を見ても、私の不吉な予感はまるで収まる様子が無い。これが私が見る、最後の久依理の笑顔だとしたら。久依理が笑顔の裏で、苦痛を感じているとしたら。
 母親として、もう一度久依理を抱きしめてやるべきなのだろうか。私には……判断できない。母親である事が、これ程重く感じる事は無かった。私は……どうすればいいのだろう。どれだけ考えても、その答えは出なかった。



九.



 永遠亭。此処に住む連中は、この館の事をそう呼んでいる。この永遠亭は人里、いや、幻想郷中から隔離されていて、人間どころか妖怪さえ近づこうとしない。正確に言えば、近づく事が出来ないのだ。
 変化を拒む術が施されたこの場所は、外界からの全てを受け入れず、閉ざされている。この館を外から認識する事は出来ても、中に入る事は絶対に出来ない。そんなこの館に入る事が出来た者は、相当に不幸だと言えるだろう。この館の主を考慮すれば。

「まさか、あんたの方から此処に来るなんてね」
 私の隣に座っているのが、この館の主、蓬莱山輝夜だ。勿論、人間でも妖怪でもない。まともな思考もしていない。
「で、暴力じゃないなら何の用なの?」
「……酒を飲みに来ただけだ」
 月明かりが薄っすら照らす夜の竹林を眺めながら、月の酒を呷る。これで隣の奴がいなければ、言う事はないのだが。
「そんな訳ないでしょ。あんたが此処に来る理由なんて、他に一つしか思いつかない」
「分かっているなら話は早いな」
「私もその事で、あんたに会いたかったのよ。これ以上は我慢できそうにないから」
 私を睨みつけながら、輝夜もまた盃を傾ける。普通は酒を飲むと感情が強くなるものだが、今日は不思議と怒りが湧いてこない。輝夜は違うようだが。
「勿論、久依理の事だ」
「ふん、あの子の母親代わりになってから、あんたは随分と軟弱になったみたいね」
「代わりじゃない、母親だ」
 盃を持ち上げようとして、輝夜に「それは私の」と止められた。私のは右じゃなくて左のだった。
 
「最近、久依理の様子がおかしいんだ。お前、何か知ってるだろ?」
「あんたこそ、知らないとは言わせないわ」
 輝夜は私にぐっと顔を近づけ、挑発気味に言う。
「あの子はあんたの事が嫌いになったのよ。どうしてか分かる?」
 私の中に怒りの感情がぐっと湧き出て、すぐに消える。私自身が散々自問自答してきた事でも、改めて眼の前に突きつけられると、ショックで言葉が出なくなった。輝夜の視線から目を逸らし、必死に心を落ち着かせようとする。
「あの子にとって、あんたは檻なのよ。初めは外敵から守ってくれるけど、何れは外に憧れを抱いて邪魔な存在になる」
「……お前には、私の考えは分からんだろう」
「あんたの方こそ、あの子の事を何も分かってないわ。あの子はあんたみたいな、愚昧な母親に縛られるような器じゃない」
 輝夜の語気に殺意すら感じる。久依理は私の前で不満を言う事も、不服そうな顔をする事もないが、心の中では私を恨んでいるに違いない。その恨みを輝夜は代弁しているのだ。それなら、私に言い返せる事なんて何も無い。
「あんたが、あの子の事を大切に思ってるなんていうのも嘘。あんたは母親である自分の立場を失いたくないだけ」
「……ああ、そうなんだろう、お前が言うなら」
 私の言葉が火に油を注いだのか、激情した輝夜が私の胸ぐらを掴んできた。勢いに押され、私は床に押し倒される。
「見損なったわ、妹紅……あの子のおかげで少しは変わるかと思ったら、こんな冷めた腑抜けになるなんて」
「どうしてお前が怒っているんだ? 私の事で」
「何の為に、あんたにあの子を託したと思っているのよ! 今すぐあんたを殺して、私が代わりたいぐらいなのに!」
 輝夜が私の服を力任せに掴みながら、怒鳴りつけてくる。こうなると、何か別の感情が籠もっているとしか思えない。
「……やめようぜ、なあ」
 私が輝夜の手を払うと、舌打ちしながら私の元から離れた。

「……近い内に、あんたにとっては不幸な事が起こるでしょう。これはもう、避けられない」
 分かりきった事を。私はぐっと酒を仰ぎ、適当に聞き流す。
「けど、それはあんた以外にとっては幸運なこと」
 輝夜は立ち上がり、私を見下しながら笑いかけてくる。
「次はもっと激しくしましょう。"私たちを縛り付けるものも失くなる"のだから」
 そう言って、輝夜は部屋に戻っていった。鬱陶しい奴がいなくなって、少し心が落ち着いた気がする。
 ……私は何をしに此処に来たのだろう。結局、あいつと話しても、改めて事実を突きつけられただけだった。家の居心地の悪さに耐えられなくて、こんな所に来てしまった。今、久依理は何をしているのだろうか。
 不幸はもう避けられない、か。私は馬鹿な母親だ。その所為で、随分と久依理を不幸にしてしまった。
 夜の竹林を眺めながら、自棄気味に酒を流し込む。空に浮かぶ斜めに裂けた三日月が、私を見て嘲笑っているような気がした。



十.



 強風で竹の葉が戦ぐ音に紛れて、自らの存在を知らしめる獣の遠吠えが判然と聞こえてくる。煌々とした月の下では、か弱い者はその月明かりに照らされる事はなく、血に飢えた血気盛んな連中から逃れて身を潜めるばかりである。
 黒い夜空に浮かぶ満月の光が、途轍もなく眩しく感じる。これ以上無いぐらい不吉な夜だ。一体何が起きるのだろう。今日は既に不幸に見舞われたというのに。
 随分遅くなってしまった。夜遅く帰る事になるのは決まっていたが、迷惑な連中が付き纏ってくる満月の日だという事を忘れていた。どうせ生き返る妖怪を埋葬してやる必要はないが、せっかくだから火葬しておいてやろう。

 やっと家に着いた。戸に手をかけようとした途端、強烈な違和感を覚える。部屋の灯りが点いていない。いや……もう寝てしまったのだろう。或いは薪が無くなってしまったか。
 何もない筈なのに、何かが引っかかる。妙な胸騒ぎがする。満月に当てられたか。早く中に入らなければ。
 家の中に入っても、外の音と風で戸が揺れる音が聞こえるのみである。だが、すぐに他の違和感に気づいた。仄かにだが、家の中では普段嗅ぐことのない、嫌な臭いがする。そして、それは私にとってかなり馴染みのある臭いだ。
 まさかとは思うが。私は焦って買い物袋を投げ出し、部屋に飛び込んだ。
「久依理!」
 部屋の中は薄暗く、窓から月明かりが僅かに差し込むのみで、中の状況はよく分からない。だが少なからず分かる事として、窓際に少女が一人座り込んでいて、この部屋に外敵の気配は無い。私の悪い予感は外れた。
 だが、それで一安心するどころか、私の焦燥感は更に高まった。部屋に入った事で、この鼻を突く臭いの正体が、間違いなく血であると確信できた。その臭いが玄関から分かるなんて、その流血量は尋常ではない筈。そして、この部屋にいるのが久依理だけならば……彼女は夥しい量の血を流している。そう考えるのが自然だろう。
「おい、大丈夫か!?」
 もしかすると、私の悪い予感は当たっていて、久依理を傷つけた敵は既に逃げたのかもしれない。だが、今はそんな事はどうでも良い。久依理の無事を確認しなければ。私は彼女の元に駆け付けようとする。
「近寄るな!」

 予想もしなかった言葉に、私の足は誰かに掴まれたかのように動かなくなった。今のは……本当に久依理の声だったのか?初めて聞く語調、威圧感。私に対して、どうしてそんな態度を取るのか。全てが理解出来ない。
 月の光を背にして、久依理が立ち上がる。左手には赤い本を持っている。もう一方の右手には……包丁。左腕に幾つも刻まれた傷跡が、彼女の周りに多くの血を滴らせている。左腕に持つその本をよく見ると、赤い装丁を施されているのではなく、久依理の血で真っ赤に染まっていた。
「お……おい、お前……」
 久依理は流血を気にすることなく、手に持った本に目を向け、呪文のような何かを呟いている。その毅然とした様子に、私はただ見ている事しか出来なかった。

 暫くして、久依理の身体に起きた変化に私は目を疑った。彼女の腕に深く刻まれた傷が、見る見るうちに再生していく。次第に傷跡一つ見えなくなり、何事もなかったかのように元の綺麗な腕に戻った。
 変化したのはそれだけではなかった。久依理の髪が、月の光と同化している。いや……彼女の髪の色が、夜の闇に溶ける黒色から、光り輝く銀色に変わっているのだ。私のような白い色ではなく、月光と見紛うような荘厳な髪色だ。
 そして、最後にして最大の変化を見て、私は久依理に何が起きたのかを悟った。彼女の側頭部から、二つの大きな角が顕現している。それは彼女を守る為に、彼女を強く見せる為に存在しているかのようだ。こんな変化をするなんて、考えられるのは一つしかない。久依理は……妖怪になったのだ。

「どういう事だ……これは……」
 こんな事実を突きつけられても、私には何一つ理解出来なかった。そんな私を他所に、目の前の妖怪少女は小さく呟く。
「……行かなくては」
 行く? こんな深夜に、一体何処に行くと言うんだ?
「おい、何のつもりだ? 説明しろ!」
 私は焦って、思わず少女を怒鳴りつける。それでも彼女は表情一つ変える事なく、冷静な様子で口を開いた。
「私は自ら進んで妖怪になった。その理由は自らを守るため、そして人間たちを守るため」
 彼女は聞き覚えのない口調で、淡々と事実を話す。そこに感情は籠もっていなかった。
「幻想郷では、人間は虐げられる側の存在だ。それなのに彼らは団結しようとせず、内輪揉めを繰り返すばかり。この時代には、彼らを導く強い存在が必要だ」
「私は彼らを救いに行く。だから、止めないでくれ」

「……お前の話を聞いても、何も理解できない。どうしてあんな屑どもを救いに行く必要があるんだ? あいつらが、妖怪になったお前を受け入れると思うか?」
「……私は人間であることを捨ててはいない。この身体の半分は妖怪で、もう半分は人間だ。人間として生まれたからには、それを半分諦めてでも、人間を守る義務がある」
 何故そこまで自己犠牲を厭わないのか。何故そこまで冷酷でいられるのか。考え方の差に苛立ちを感じて、掌を彼女に向ける。それが段々と熱を帯びて、手の中で火球が生み出される。
「ふざけるな! お前を失う私の気持ちはどうなるんだよ! 私には、お前しか無いのに……!」
「……私は、自分の使命を果たす為なら、全てを犠牲にするつもりだ。例えそれが貴方だとしても」
「……ッ!」
 私の放った火球が壁にぶつかり、小さな爆発を起こす。生み出された火は、熱を持って木の壁を飲み込んでいく。生み出された光は、床の血塗れの本、少女の緑がかった銀髪、大きな双角を照らす。
「どうして私の言うことが聞けないんだ! 私には、お前を無理やり止めることだって出来るんだぞ!」
「……すまない」
 私の言葉に彼女は全く臆する事なく、私の脇を通り抜けていく。私が彼女を止めようと手を伸ばす頃には、彼女は随分遠くなっていた。
「クソッ、クソッ!!」
 私が滅茶苦茶に放った火が、天井、壁、床を飲み込んでいく。私の大切な思い出だったものが、その中に焚べられる。火がそれらを取り込む音で、外の全ての音が聞こえなくなる。

 私の顔を涙が伝う。すっかり乾ききってしまったものだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。この高熱空間の中でも、はっきりと涙が零れるのが認識できる。いや、仮に蒸発していたとしても関係無い。少なくとも、私の心は悲鳴を上げていた。
「待って……待ってくれ、久依理」
 私の哀願が届いたのか、久依理は足を止めた。彼女はまだ、私の呼ぶ名前に答えてくれている。
「お、お前は……何とも思わないのか? 此処を離れる事を……」
「……私がこんな話し方をするのは、貴方に勇気の出し方を教えて貰ったからだ。貴方の真似をしろ、と。私はこれから、貴方になったつもりで生きていく」
 久依理が此方に振り向く。薄暗くて今まで気づかなかったが、彼女の服の襟元には、何かで濡れたような大きなシミが出来ていた。
「でも、私だって……私だって、悲しいに決まってるじゃないですか! 少し前まで、お母さまの元を離れて生きていくなんて、絶対に無理だと思っていましたし、今だってそんな……!」
「……だけど、そんな弱虫な私とは、今日でお別れです。意気地無しで、誰かに守られてばかりの"久依理"は、此処に捨てていきます」

 家の天井が焼け落ち、大きな音を立てながら崩壊していく。もう長くは保たないだろう。私の意識も遠のいていく。
「……さようなら。私は、必ず――」
 彼女の言葉を聞き終える前に、目の前に焼けた瓦礫が落ちてきた。私の身体も殆どが埋まり、何も聞こえなくなった。
 瓦礫の重みなど大したものではない。だが、私の身体は、もう動かなかった。無気力になって、急に眠くなってきた。今日は随分久しぶりに、よく眠れそうだ。重圧が無くなって、精神が軽くなっていくのが分かる。
 やっぱり、私が子供を持つなんて無理だった。私自身が子供のままなのだから。でも、これでやっと解放されたんだ。私も、あいつも。今は少し休みたい。数年か、数十年か、或いは数百年か……私の心の傷が癒えるまでは。



十一.



 無数の竹どもを上手くすり抜けて来た、冷たい風が私の肌を突き刺してくる。太陽の日差しは此方まで届かず、実りの少ない冬と相まってなかなか憂鬱な気分にさせてくれる。
 もう少しでこの掘っ立て小屋から、石造りの頑丈な家に引っ越せる。人里で働くのは嫌いだが、他に手段がない以上は仕方がない。だが、のんべんだらりとやっていた所為で、いつから働いているのか忘れてしまった。数ヶ月のようにも、数十年のようにも思える。
 そういえば……今日は『二度目の新月の日』じゃないか? 最早、それが何月何日なのかもうろ覚えだが、今日のようなよく冷える日だった気がする。
 あの出来事から、どれ程の時が経ったのだろう。あれから私は、日を数えるのを忘れ、飯を食うのを止め、人に会うのが嫌になった。だが、悪い事ばかりではない。私にとっては、この無責任で捨て鉢な生活の方が合っているように思えるし、何より今までずっと封印されていた、輝夜との殺し合いが最高に楽しい。あいつを殺せば気持ちが良いし、殺されるのも日々の刺激としては悪くない。私の人生の中では、こうして生きていた時間の方がずっと長いのだから、馴染むのも当然である。

 だが、それ以外の時間はやはり退屈で、何の価値も無い自堕落な生活だ。そして、今の時間が正にそれである。とりあえず昼寝でもするか、私はそんな事をぼんやりと考えていた。
 ふと空を見上げると、黒い何かが横切った……ような気がした。竹林の空は暗いし、何よりそれが速すぎて正確には視認できなかった。だが、すぐに気の所為ではない事が分かった。風を切りながら、何かが私の元に突っ込んでくる。避けようとする間も無く、私は咄嗟に身構える。
 超スピードで飛んできたそれは、私のすぐ目の前で急停止した。遅れて突風がやって来て、風圧で私の小屋が悲鳴を上げる。なんて迷惑な奴なんだ。
「……ふう。どうも、清く正しい射命丸です」

「……お前か、用は無いから帰れ」
「いえいえ、私の方が貴方に用があるのです」
 こいつの事は良く知らないが、とにかく面倒くさい天狗だ。現に、こいつの所為で私の家が失くなる所だった。沈んだ気分になっている今、一番会いたくないタイプの存在である。
「新聞、お一ついかがですか? お代は結構ですので」
「要らん。その紙きれは、尻を拭うには面が荒すぎるからな」
 天狗の片眉がピクリと動く。苛立ちを隠そうともせず、身を乗り出しながら私に新聞を押し付けてくる。
「言ってくれますね。無料って言ってるんだから、ホームレスみたいな貴方なら嬉しいはずでしょう」
「まあ、雑巾代わりぐらいにはなるかもな」
 嫌々ながらも、新聞を受け取る。天狗はへばり付いたような笑顔で此方に笑いかけてくる。
「今は受け取ってやるが、私はお前ら妖怪とは違うからな」
 
「で、今日お伺いしたのは取材の件でして。迷いの竹林の中にある、あのお屋敷の事、ご存知ですよね?」
「ああ、彼処には入れないよ。誰であろうと」
「まあ、それは知っています。でも、貴方は入ったことがあるのでしょう? 其処まで案内してくれませんか?」
「入ったことはあるけど、自由に出入り出来るわけじゃない。入り口まで案内しろって意味なら、お前には必要ない筈だろう?」
「まあまあ、そう言わずに。とりあえず行きましょう」
 天狗は私を先導して、永遠亭の方角に向かって歩いていく。案内とは一体何なのか。
「そういえば貴方」
 沈黙する間もなく、天狗は口を挟んでくる。今日は私から何かを聞き出す為に、わざわざ会いに来たのだろう。
「仙人みたいな生活をしている割に、娘さんがいるらしいじゃないですか。今何処にいるのですか?」
 この女、完全に人を苛つかせる術を知っている。わざとやっているとしか思えない。
「……何処でそんな事聞いたんだよ」
「天狗はあらゆる場所に情報網を持っていますから。で、何処ですか?」
「……いない。逃げられた」
「……え?」
「……二度言わせるなよ」
 長い沈黙が暫く続く。私としてはこのままの方が楽なのだが。

「……えー、気を取り直して。今日は貴方にぴったりの情報をお持ちしました」
「私に? 何かな、お前の殺し方とかかな」
「世間知らず……いえ、世俗から離れた貴方はご存知ないでしょうが、先日人里である異変が起きました」
「はあ」
 はっきり言って、興味は無い。私が知らないんだし、どうせ大した異変でもないだろう。そもそも、人里がどうなろうが私の知ったことではない。
「満月の夜に、突如として人里が丸ごと消えたのです。跡形もなく。で、そんな事が可能な程強大な力を持った者は少ないですから、すぐに異変だと判断された訳です」
「あっそう」
「ですが、その異変は巫女が戦う事なく、すぐに終息しました。曰く、異変の主犯者に悪意は無く、『私は人間に与する者である』と」
 ここで初めて、この天狗の意図が見えてきた。その主犯者とやらの事を私に聞きたいのだろう。
「『私の力を示す為、私はこの異変を起こした。だがこの力は他者を傷つける為の力ではなく、人間たちを救う為の力である。私は彼らの守護者として、此処で彼らを守り続ける』だそうです」
「私たちとしては聞き捨てならないですが、彼女は人間と妖怪のハーフだそうで。この幻想郷では、人間と妖怪は相容れないながらも、共存しなければ互いに消滅してしまいますから。彼女にはその象徴としても、人里に残ってもらう事にしました」

「……で、その話が私と何の関係があるんだ?」
 私の疑問を聞いて、天狗は「ふっふっふ」とわざとらしく笑う。
「彼女はこの竹林から来たと言っていました。ここに長く住んでいる貴方ならば、彼女について何か知っているかなと」
「……はぁ」
 余りに想像通りの展開過ぎて、思わずため息が出てしまう。
「そう言われても、そいつの名前が分からないとな」
「彼女は自らを"上白沢慧音"と名乗っていました。まあ、妖怪が自称する名前なんて疑わしいですけどね」
 上白沢慧音。その名前を聞いて、少し目眩がした。私としては、その事実を受け入れたくない。だが、赤の他人が自称している名前だと思えば、何ということはない。これからは無理してでもそう思うことにする。
「もしかしてそいつは、ネギみたいな色の髪をして、でかい角を二つもぶら下げている奴か?」
「ええ、ネギかどうかは分かりませんが。やはり何か知っているのですね?」
「いや、知らないな。で、そいつは今人里で何をしているんだ?」
「ちょっと、取材しているのは私なんですから」
取材を受けた覚えは無いが、どうやらこいつは今も立派に仕事をしているらしい。
「彼女は歴史に関する能力を持っているようで。今はその力を使い、幻想郷の歴史を纏めながら、里の寺子屋で教師をしているそうです」
「彼女は妖怪ですから、彼女の事を良く思わない人間も当然います。ですが、勤勉に働く彼女の姿を見て、考えを改める人も多いみたいです」
 それを聞いて、私の心は平穏を取り戻した。赤の他人である筈なのに、私の事のように嬉しく感じる。結局私は、あいつの事が忘れられないのだ。

「以上が私の知っている全てです。次は貴方の知っている事を教えてください」
 口籠る私に対して、天狗はグイグイと私の裾を引っ張って催促してくる。
「貴方、お金が必要なんでしょう? 謝礼もちゃんとしますから、さあ早く」
 ……正攻法でこいつを撒くのは無理だ。金も貰えることだし、答えてやるとしよう。嘘を多分に織り交ぜながら。
「私だって、殆ど知らん。ただの旧友だよ」
「ただの旧友? そうは思えませんがね」
「何が言いたい?」
「私は上白沢慧音が、貴方の娘さんと何か関係があると踏んでいます」
「……私の娘本人だと、そう思っているなら違う。私の娘の名前は"久依理"だ」
「……ふむ。まあ、慧敏な彼女と貴方では、親子として似ても似つきませんからね」
 以後、天狗はこの件について深追いしてくる事はなかった。こんな奴でも、踏み入ってはいけない問題だと察していたのかもしれない。私としても、本当の事を知られる訳にはいかなかった。私自身認めたくない事だし、それを広められたら、里で働く彼女にとってもマイナスだろう。
「……はあ、結局大した収穫は無かったわね」
 天狗は落ち込んでいるが、私としては大きな収穫があった。上白沢慧音……彼女の元を訪れるのは迷惑だろうから、今はそのつもりは無い。だが、尋ねたい事が沢山ある。結局は私の我慢がどこまで続くか、それだけの問題だ。
「永遠亭に行きたいんだろ? 入れるか聞いてきてやるよ、無理だろうけど」



十二.



 夜に歩く人里は、昼とは明らかに違った顔を見せる。灯りが点いているのは酒屋のみで、暗がりでも酒が飲まれているか、情事が行われているかのどちらかである。そして、この時間は人目につかないのを良い事に、怪しげな格好をした者もしばしば現れる。人間から見たら、私もその類なのだろうが。
 商店街を抜け、住宅地域に向かう。此処は更に人通りが少なく、人里の中とは言え夜中に出歩くのは奨められない。どんな奴が出歩いているか分からないからだ。例えば、目の前にいる幼げな金髪の女の子。怪しい格好をしている訳ではないが、深夜という背景まで考慮すれば、こいつも立派な不審者だ。私に向かって手を振ってきたが、別に私は同業者じゃない。

 寺子屋の前を通りかかる。当然、この時間では教室の灯りは点いていない。だが、灯りを漏らす部屋が一つある。彼女は彼処にいるのだろうか。
 玄関の扉が施錠されているか確認してみる。……なんだ、開いているじゃないか。遠慮なく入らせてもらおう。
 中に入ってみると、屋外よりかは僅かに明るい。廊下の突きたりの扉の隙間から漏れる光を頼りに、そこに向かって歩を進める。悪い事をしているような気分になり、ついゆっくりとした歩調になってしまう。音を立てないよう、私の気持ちを落ち着かせるように着実に歩みを進める。
 部屋の中からは物音が聞こえる。確実に誰かがいる。扉に手をかけられる距離になった時点で、足を止める。こんなに緊張する事になるなんて、思いもしなかった。一旦落ち着こう。私は扉の傍にしゃがみ込み深呼吸をする。あいつの目の前で、変な姿を見られる訳にはいかない。ただの来客として、普段通り振る舞わなければ。大丈夫。扉を開けよう。

「……何だ、こんな時間……に……」
 私が部屋に入りこんだ瞬間、目の前の少女は本棚に手をかけながら茫然自失した。一方の私は平静を保っていたが、心内では思わず面食らっていた。目の前にいる少女が、私の想像よりも遥かに大きくなっていたからだ。
「夜分遅く申し訳ない。幻想郷の歴史に詳しいという貴方に、どうしても聞きたい事があって来たんだ」
「え、えっと、あの……」
 彼女は明らかに狼狽えている。無理もない、人里での出来事に関心の無い私が、彼女の事を知っている筈がないからだ。
「不躾だが、私には他に頼りがいない。お願いするよ、"慧音"先生」
「うっ……」
 慧音は呻き声のようなものを上げ、此方を訝しげに見つめてくる。驚かしにしては、少し刺激が強すぎたのかもしれない。別に驚かしに来たつもりはないのだが。
「と、とりあえず、向こうの部屋に行きましょう」
 慧音は半ば強引に私の腕を引っ張りながら、廊下の脇にある和室に私を案内した。この和室も慧音の私室同様にかなり広く、大の字になって寝られる程だ。羨ましい。
「茶を淹れてきますので、暫くお待ち下さい」

 慧音は逃げるようにして私室に戻っていった。これで少しは落ち着いてくれるだろう。私は寝転がりたい気持ちを抑え、胡座をかきながら思考する。
 今日の目的の半分は達成できた。もう半分は、純粋に知識人に知恵を借りたいという思いである。私と彼女の間の様々な面倒事は、今は捨て置こうと思う。突然その話をしてもお互いに気まずいだろうし、今の私にはそれを上回る心配事があった。
「失礼します」
 落ち着いた様子の慧音が、盆を持って戻ってくる。その外見からは、今の彼女の心境は読み取れない。
「……それで、今日はどういった要件で?」
「ああ。最近、ふと妖怪の山の事が気になってな……あの山を見ていると、どうも不吉な感じがする。普通の火山にある、死の匂いではなく……何というか、嫌な記憶を呼び覚ますような――」
 突然、私の視点が身体から離れ、私の肉体の存在が鋭敏に感じる精神状態になる。これは、遠くない過去に見た夢で、遠くない過去にした体験だ。私がそれを自覚した瞬間、早回しで映像が進んでいく。

 私はこの時、自らが不死になった原因を慧音に語った。私の想像とは違って、それを聞いても彼女は表情一つ変えず、罪人としての私を受け入れてくれた。そして、妖怪の山が私にとっての生きる形見である事を教えてくれた。
 この時の彼女が、長年私を縛っていた足枷を外し、フラついてまともに歩けない私を支えてくれた。今の私が正しい方向を向いていられるのも、彼女のおかげだ。この時人里に行っていなかったら、私は苦しみながら後ろ向きに歩き続けるままだったのだろう。
 彼女は本当に強い人間だ。彼女は敵ばかりの環境に自ら進んで身を投げ、周りの者たちに自分の存在を認めさせた。それは強い意志無くしては絶対に成し得ない事だ。彼女の意思の原動力は、周囲の者を見返してやろうという反抗心である。落ち着いているように見える彼女でも、内に秘めたその心は今でも忘れていない。
 彼女は私の手から離れ、私の人生観を変えるまでに成長してくれた。彼女と再会する事で、今までの形骸化した親子の関係よりも、人生の友人としての関係、これが私たちにとっての新たな理想なのだと思い知らされた。だから私は、"上白沢慧音"としての彼女を受け入れようと思う。これからは私が彼女を守るのではなく、お互いに足りないものを補い合い、一緒に人生を歩んで行こう。それが彼女にとっても幸せな事だと、私は信じている。



十三.



 竹林に迷い込み、困り果てていたあの子供の笑顔を思い出す。人助けして感謝されるのは嬉しいが、過ぎれば何も残らない虚しいものだ。私は感謝される事に誇りを持ち、それの為に努力するような高潔な人間ではなく、代価として何かを求めるような強欲な人間でもない。結果として、あの子のように帰る場所が無い自分に嫌気が差すだけだった。
 この石造りの家の中では、外の音は殆ど耳に入らない。更に、竹林の中は昼でも薄暗く、戸を閉めたこの部屋に入り込んでくる外の光は皆無と言っていい。無気力な私は、此処で灯りも点けずにただ寝転がっていた。
 人助けは私の存在意義を何とか留めていてくれているが、死ぬ事ばかりを考える私の性格は変わらなかった。私の人生の中に楽しい時間があったとしても、それらは全て一過性のもので、またすぐに退屈で暗い時間がやって来る。この無味乾燥な生き方から抜け出すには、結局この世からいなくなるのが一番良い。
 だが、出来ない事をいくら考えても答えは出ない。だから今の私は、鬱でない時に外に出て、人助けをする事に自分の存在意義を見出している。輝夜との殺し合いしかなかった昔と比べたら、少しは進歩した……と思いたい。
 特に何かきっかけがあった訳ではないが、今は鬱状態である。何もする気が起きないので、こうして真っ暗で何も聞こえない空間でじっとしている訳である。

「おーい」
 突然、玄関の戸を叩く音がして、私は飛び起きた。頭痛で重い頭を抱えながら、夜目を駆使して玄関に向かう。
「はい、はい……」
 戸を開けると、外の光に目が眩んだ。大して強い光ではない筈だが、一時的に前が見えなくなった。
「お、居て良かった。入るぞ」
 その人物は、私の言葉を聞く間も無く、図々しく私の家に入り込んでくる。日陰に来た事で、ようやくその人物の姿を確認できた。

「慧音……なんでこんな所に」
 慧音とは、あの時人里で会ったきりである。人里に住めない私は、慧音と一緒に生活することは出来ない。だから、これからは定期的に会おう、そう約束したのだった。私は今の今まで忘れていたが。
「いやぁ、私は最後に言った筈なんだけどな……『必ず此処に戻ってきます』って」
「最後、って……」
 私は慧音がいなくなったあの夜を思い出す。彼女が竹林に住む私の元を訪れるのは、あの時以来だ。私の中に様々な感情と、彼女に対する想いが浮かんでくる。
「中々良い家じゃないか、少し狭いけど……一人で済むなら、十分か」
 私が灯りを点けると、彼女は周りを見渡してそう言った。この家に彼女がかつて残した物は残っていないが、彼女も私に思う所があるようである。
「この間は、本当に混乱していて……まぁ、初対面って事で、恭しい言葉遣いだったんだが、もういいよな」
「初対面だから、ねぇ……昔のお前は、いつもああだったのに」
「今となっては、私の方がお母さんだよ。周りから見れば」
 慧音は私の目の前に来て、私の頭にぽんと手を乗せる。いつの間にか、彼女の身長は私のそれを追い抜かしていた。
「……まぁ、良いよ。私の方が子供なのは、その通りだし」
「ふふ、でも私は、貴方の娘としての私を忘れた訳じゃないよ」
 慧音は私に笑顔を向けながら、誇らしげにそう言った。

「今日は、此処に捨ててしまった"久依理"を取り戻しに来たんだ」
「……何?」
「あの時の私には、冷酷さが必要だった。それで弱い"久依理"を捨ててしまったけど、後で必ず必要になる事も分かっていた。"久依理"は半人半妖の私の、人間の部分だから……」
「……」
「だから、私は最後に『私は、必ず此処に戻ってきます』と言ったんだが……聞こえていなかったか」
「そんな事を思っていたなんて……てっきり私は、嫌になったのかと思っていたよ」
「嫌だなんて、そんな訳ないよ。でも今の私たちは、家族であるだけじゃなくて、友人同士でもある。そうだろう?」
「……そうだな」
 奇妙な関係。誰もがそう思うだろうが、私にはそれが心地良かった。不死者と妖怪の歪な関係は、単純なものでは表せない。それだけの事だ。

 私と慧音は囲炉裏の前に座り、互いに顔を向き合わせる。慧音の私室と比べて、私の家は物が殆ど無い。慧音は殺風景な辺りを見ながら、口を開いた。
「家族として、友人として、お互い知りたい事はたくさんあるだろう。今日はそれを話し合おうと思って」 
 こうして慧音とゆっくり話し合うのは初めてだ。私が知らない間に彼女が体験した事は、全て知っておきたい。それが私の本音だが、焦ることもないだろう。まずはあの夜の事を聞いておきたい。

「……あの夜、お前は何の妖怪になったんだ? どうしてその妖怪になろうと思った?」
「妖怪になったというより、神獣の力を宿したと言う方が正しいな。私の名前……上白沢にあるように、私はハクタクという神獣の力を借りたんだ」
「ハクタク……聞いた事もないな」
「ハクタクは外の世界、それも大陸側の神獣だ。彼はあらゆる知識を兼ね備えた、謂わば知の象徴だ。私はその力を借りたいと思ったんだ」
「戦いの力ではなく、知の象徴、か……」
「そう、人間である私が妖怪に対抗するには、知の力しかない、そう思ったんだ。私が大好きだったあの本、あの尼僧の冒険譚のように、勇ましく力づくで平等を得る方法は、あの尼僧のように強い、超人でなければ出来ない事だ」
 あの本は、いつも私が寝る前に聞かせてやっていたものだ。その作中でも、人間と妖怪の平等が理想として描かれていたが、彼女はそれと同じ手段を取ることはなかった、という事か。

「私がハクタクを初めて知ったのは、貴方と一緒に行った本屋で借りた、大陸の神話に関する外来本だ」
「ああ、あの、神獣の名前がお前に似ているとかいう……」
「麒麟、だな。彼もまた神獣の一体だが、政に関する力は、私には必要無かったから」
 あの時を思い出して、慧音も私も思わず笑顔になった。彼女がまだ、とても小さかったあの時から、彼女は神獣の力に憧れを抱いていたのだろうか。
「とても長い時間をかけて、私はハクタクになる方法を調べ上げた。あの頃は、貴方に知られないように必死だったな」
「お前が何かしようとしている事が分かっても、私にはどうする事も出来なかった。ただ、私はお前の事が心配だったんだよ」
「それは申し訳ない。でも、今こうして此処にいるんだから、許してくれ、な」
「……お前、何というか……随分強引な性格になったな」
「ははは、そうかな。これくらい図太くないと、女一人でやっていくのは無理って事だな」
 ……私の所為でこうなったのだろうか。いくら私のようになれと言っても、私はここまで豪快な性格ではないのだが。

「あの満月の夜、ハクタクになるための条件が揃った。だが、成功するかどうかは賭けだった」
「……他人の為にそうまでする理由は、未だに理解出来ないな」
「自分だって、他人の為に無理して働いているじゃないか」
 慧音は前のめりになって私の顔を見つめてくる。
「里で噂になってるぞ、竹林に迷いこんだ者を助けてくれる、親切な人がいるって」
「別に、大した事じゃない」
「私は知っているよ。貴方が心の奥底に、優しい気持ちを持っている事を」
「そんな……私は」
「そうじゃなければ、竹林に捨てられた赤子を拾って、一人で育てるなんて出来ない」
 慧音は私の手を取り、両手でぎゅっと握り締めてくる。彼女の想いが伝わってきた気がして、自然と背筋がピンと伸びた。
「他人の為に尽くすのが、人が生まれ持った使命なんだって事を、私は貴方から学んだんだ」
 私はずっと、本当の母親でない事を彼女に言えずにいた。その事を、後ろめたく感じていた。私が産んだ子ではなく、私はあくまでも義母であるという事実を、認めたくなかった。
 彼女は疑問に思っていた筈なのに、本当の事を私に聞いてくる事はなかった。それが逆に、私の罪悪感を増幅させていた。何故、あれだけ疑問の存在を許さなかった彼女が、それを氷解させなかったのか。

「……私が、偽物の母親だって事、知っていたのか」
「輝夜様から聞いたんだ。あの夜に」
「……そうか、そうだろうな」
 慧音は目を伏せ、繋がれた私たちの手をじっと見ている。
「……でも私は、私は……」
 突然、慧音が私の胸に飛び込んできた。彼女は私の服に顔を埋めながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「……貴方を、偽物の母と思う事なんて……今までも、これからも、絶対に無い……! 私の母は、貴方しかいないんだ……!」
 考えてみれば、彼女は本当の母親の事を何も知らないのだ。人間は成長するに連れて、赤子の頃の記憶が自動的に消去され、成人する頃にはその殆どを忘れてしまう。彼女が本当の母親と過ごした記憶は、失くした記憶のほんの一部でしかないのだから、覚えている筈がない。彼女にとっては、私が唯一の家族なのだ。
「私も……お前が本当の娘じゃないって事を、認めたくなかったんだ。だから、今までずっと言えずに……」
 慧音が私の背中を強く抱き締める。暫くの間、私たちはそのままでいた。

「……ありがとう」
 慧音が顔を上げる。その表情は、今までよりずっと晴れやかなものになっていた。
「でも、本当の母親の事、気にならないのか?」
「いや。私にとっては、貴方が母親である事を、疑う余地が無いんだ」
「……正直に言えば、私は少し気になる。お前は子供として、良い意味で普通じゃなかった。どんな生まれだったのか……」
「……私の中に、今考えると不思議な記憶がある。その記憶の中で、私は赤子として母親に抱かれていたと思う」
「西洋風の家具と……幻想郷では、見たことのない調度品。あの時の記憶から、私は西洋風の家具が好きになったのかもしれない」
「……そうか、何となく分かったよ」
 私の言葉を聞いて、慧音は眉をひそめ訝しげに見つめてくる。
「何が分かったんだ?」
「分からないままの方が良い事もある、って事だ」
「?」

 私の家に、食べ物の類が殆ど無い事に、慧音は困惑している。とりあえず、お湯で我慢してもらう事にする。
「そうだ、今度また寺子屋に来てくれないか? こんな生活を続けてるなんて、心配になる。それに、貴方ならすぐ子供たちに馴染めると思うから」
「ええ? でも、私は……」
「大丈夫だ、人里では貴方の悪評なんて無いから。みんな、親切な人だと思ってる」
「それに、私と一緒にいれば問題ない筈だ。妖怪の友人が妖怪っぽくても、何もおかしくないだろう?」
「……仕方ないな」
 私の本心としては、満更でもなかった。私の帰る家が一つ増える、それが嬉しかった。周りの評価などどうでも良いが、良い評価をされて悪い気はしない。

 これは私の勘だが……近い内に、人間と妖怪の対立が少し緩くなる、そんな時代が来る気がする。慧音の存在は、その時代の誕生に一役買ってくれるだろう。彼処に戻る気は更々無いが、私がもっと堂々と過ごせるような場所になれば……
「ただ、本当の事は、私たちの間だけの秘密だ。人里に来た時は、私の友人……藤原妹紅として、貴方を迎えよう」
 慧音から名前を呼ばれ、少し驚いた。彼女に名前を呼ばれる事に、これほど親近感を感じるとは思わなかった。
「普段から……そう呼んでくれないか」
「……その方が良いのなら」
 彼女自身も、何処となく嬉しそうに見える。今まで、彼女との間に変な距離感を少なからず感じていたが、これがその距離感を縮めてくれる事を祈る。

「……それじゃ、私はそろそろ帰ろうかな。輝夜様にも挨拶しに行かないと」
「……ああ」
 慧音は立ち上がって、玄関に向かって歩いて行く。
「今日は来て良かったよ。またな、妹紅」

 ……今の私は、この時からどれだけ変われただろう? 寺子屋の子供たちからは好かれている……と思っているが、人里に馴染む事はまだまだ出来ていない。自堕落な生活は変わっていないし、死ぬ事ばかり考えて、輝夜と殺し合いを楽しんでいるのもまた変わらない。
 私の長い人生を考えれば、こんな一瞬の時間で私の中の何かが大きく変わるなど、ある訳がない。ただ……僅かでも、変わった事があるとすれば……少しだけ、前向きに生きられるようになった気がする。
 宴会や祭りなどに慧音と一緒に参加するのは楽しいし、寺子屋で子供たちが成長する姿を眺めるのも、他にはない不思議な魅力を感じる。それらが新たな人生の楽しみとなったおかげで、鬱でない日が少し増えた気がする。これが続けば……いつかは、人間たちと同じように、私も日々を大切にして生きていけるようになるかもしれない。

「ただいまー」
 遠くから慧音の声が聞こえる。そろそろ、夢から覚める時間だ。



十四.



「ただいまー」
 玄関の扉が開く音と共に、慧音の声が聞こえてきた。外は既に真っ暗で、霜がついた窓越しに、雪が降り積もっているのが見える。
 壁に掛けられた時計を見る。六時……私にとって、あの日々は一時間半程度の記憶だったのだろうか。だが、仮にそうだとしても、今ではもう味わえない一時間半だ。
「いやー、降られてしまったよ」
 慧音は濡れた上着を脱ぎ、火の傍に干す。急いで帰ってきたのだろうか、少し汗をかいている。
「暑くないか? この部屋」
「いや、別に」
「ずっとこのままにしていたのか? 全く、つけっぱなしにするなっていつも言ってるのに……」
 慧音はむすっとした顔をしている。最近、慧音に怒られてばっかりな気がする。子供じゃないんだから、とか、ちゃんとしろよ、とかそんなのばっかりだ。私は昔からずっとこうなのに。

「どうしてこんなに遅かったんだ?」
 雪が降っていたとは言え、ただの買い物に一時間半はかかりすぎだ。何かあったのだろうか。
「ああ、ちょっと用事があってな。迎えに来てくれても良かったんだぞ」
「ふーん」
「……全く」
 私が心配しなかった所為で、慧音が拗ねてしまった。分かりやすく怒った仕草で、部屋から出ていこうとする。
「けーね、私が悪かったよ、夕飯作るの手伝うからさ」
 後ろから慧音の肩に手を乗せ呼び止める。絶対怒っていると思っていたのに、彼女の顔を見ると、何故か笑顔だった。
「妹紅、今日来てもらった理由……分かるか?」
「あれ、そういえば私……なんで此処にいるんだっけ?」
 私の反応を見て、慧音はフッと笑う。ここまでくると何だか気味が悪い。私はまた怒られると思っていたのに。
「全く……いつまで経っても子供なんだから」
 そう言って、慧音は部屋を出ていってしまった。私は訳も分からぬまま、一人取り残された。

 慧音はすぐに戻ってきた、が、彼女が持っている物を見て、私は更に困惑してしまった。彼女は大きな花束を抱え、此方に笑顔を向けている。これが、彼女が言っていた用事なのだろうか。
「妹紅、本当に心当たりは無いのか?」
「え、え? 私には何も……」
 慧音ははぁ、と深いため息をつき、花束と共に私の前に立つ。私は謎の罪悪感に苛まれ、思わず後ずさってしまう。

「……今日は、『二度目の新月の日』。私の誕生日だよ」
「……あ」
 私は完全に忘れていたし、この日の為に何も用意していなかった。それで慧音が怒るなら納得出来る。だが、何故花束を?
「……どうせ、忘れてると思っていたよ。だから、私が用意した」
 慧音は曇りなき笑顔のまま、花束を此方に差し出す。まるで、彼女自身が一番喜んでいるかのように。

「私をここまで育ててくれたお礼に」
「久依理からお母さまへ、この花束を贈ります」

 ……ストーブの火が薪を燃やし、バチバチと音を鳴らす。何だか、暑いな。私は顔を背けながら、その花束を受け取った。
 
ありがとうございました。
この作品は『もしも』を仮定して書かれた物語であり、他者の解釈を否定する意図はありません。
Crapena
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コメント



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とても面白かったです
3.100サク_ウマ削除
面白い解釈だと感じました。良かったです
4.100評価する程度の能力削除
なる程、こんなけねもこという選択があったとは…
妹紅の心情描写が細かくて、それでいてリアルで好きです
親子説、100点で!
7.100メイ=ヨトーホ=グミン削除
距離感が微妙でちょっともどかしい感じの関係のもこけねも良いですね… もちろん新しい解釈だったんですけどそれを感じさせないくらい流れや描写が自然に頭に入ってきましたし、何よりこういう成長に伴って関係が変わっていくけど、いつか根底のところを再確認する感じ個人的にめっちゃツボです
8.無評価名前が無い程度の能力削除
これが新説もこけねか…
良い。
9.100名前が無い程度の能力削除
魅力的な解釈でした
子ばなれができない妹紅と離れてゆく慧音の対比 しかし慧音が離れられたのも妹紅を近くで見てその強さを学んだゆえと言う...
妹紅の生活がこれからよくなってゆくといいですね
文章も丁寧かつ文学的でこのみでした
10.100封筒おとした削除
暖かい作品でした
そこで繋がるのかと
文章もさることながら対比が綺麗ですごく良かったです