Coolier - 新生・東方創想話

第九話『二色蓮芥瞳』 7/8

2019/04/21 01:02:45
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「あの!起きてくださいよ!みなさん!」

 いつもと同じ、目覚ましの声。最も早起きな彼が、いつも通り僕たちを起こしにきたのだ。けれど、彼の様子はいつもと随分違っていた。それに……

「な、何ですか……まだ真っ暗じゃないですか……」
「て、敵襲か!?」
「勘弁してよ」
「ね~どうしたの~?」

 右から左から、半分寝言のような文句が上がる。最も臆病な僕は、何やら嫌な予感がして、身体が震えてしまっていた。

「大変なんですよ!アリスが気を失っていて、部屋が壊れていて、それに彼が頭を打っていて……」

 見るに、早起きの彼は誰よりも早く異変に気付き、それを僕達に伝えようとしているらしい。だがその肝心の連絡内容が錯綜している。

「あーすまん、今一番緊急性のあることを伝えてくれ」

 賢い彼の的確な注文。それに早起きの彼は答えた。



「上海人形が勝手にアジトを出ていきました……」



***



 赤、赤、赤。
 赤より紅い紅の血。其の滴りは雨の日の上海に紅く。ずるりと溶け込み、かき乱され、洗い流されていく。低い方へ、低い方へ、低い方へ。未だ青空を見ぬ水溜まりが、紅に汚され、見上げる空は雨、その視界を濁らせる。
 夜に灯す灯は暗く、雨粒を弾いてかたかたと鳴り。足元を照らすその影の内に、血と雨垂れを捉えるのみ。辿る、辿る、辿る。踏みつけた靴はやがて紅く、いつしか自ら道を残す。紅い足跡を四つに増やして。
 血は流れる。誰とも知らぬ血は流れる。幼い女の血、壮年の男の血、高貴な令嬢の血、薄汚い物乞いの血。綯い交ぜになって、いよいよ紅く、それは只、血である以外の性を持たぬ紅い滴り。租界を染める赤い血は、一筋の道となり、最も臆病な僕を導いた。



 ――僕たちは上海人形を手分けして探すことにした。あの人形が街で好き勝手に暴れるのは本当にまずい。なにより彼女はあの姿でサーカスに出ている。この街の人間の誰もが知っている顔だ。そいつが手当たり次第に街の人間を襲って血で手を染めているなんて知られたら、僕たちは本当におしまいだ。それだけじゃない。あの人形は明らかにこの世の摂理を外れた存在だ。それが公の手に渡ってしまうことを想像するだけでもおぞましい。世の摂理を外れた存在は、その存在故、容易に世界を混乱に陥れる。多少の不思議はサーカスの見世物として消化されるだろうが、今の暴れる彼女はその範疇にない。犠牲になった人間がこうも急激に増えれば、それだけ急激に恨みを買う。出口の定まらぬ怒りを、この街全体に増やしてしまう。そうして溜め込まれた煮えたぎる感情、それが向かう先。それは何処か?容易に想像がつく。言うなれば、今の僕たちは死神を放った悪魔なのだから――



 灯[ともしび]の、彼[か]の足照らす影の内。滴る雨の、紅く染まらん。
 紅の、血の道彼を辿らしめ、其の燭台へ推して誘[いざな]う。
 許さるる、目にする者は唯一人、臆病者こそつきづきしけれ。されば彼こそ紅の、其の導きを引き享くべけれ。
 性愛の美徳ぞ積まれける。移り気の宴ぞ開かれける。彼は扉の前に立ちて跪き、其の手を合わせ、其の目を瞑れり。其の扉は今に開かれん。恥の恥ずべき狂乱に至れん。

 僅かに作った扉の隙間。漂ってきたのは汗の酸のむせ返る、滴ることも許されぬ熱。濡れる赤、ぴちゃりと跳ねてその色は紅く。白い吐息の曇った質感、首に絡まる湿り気の、目に見えぬ手に締められるよう。美の嬌声、硬い反復音と無機質な軋み、頭蓋の内を反響し合う声の塊。
 踏み入れる。熱の香りはいまに鼻孔を満たし切り、くすぶる脳を打ち震わす。彼の身を、その内側まで舐めるよう、どろりどろりと這いつくばり、酸の臭気は肺の奥底に沈みゆく。扉の先、その移り気の間、忽ち彼を内に取り込みその一部となす。目に見えぬ、声と吐息の立ち込める、辺り一面湯に満たされるが如く。目に染みる、恥の色味を掻き分け進む。
 少年、その目に愛を映せ。
 少年、その身に愛を宿せ。
 愛に溺れしヒトガタ、軋む節々、意にも介さず只香らせる。組み伏せられ、力なく天井を仰ぐは壮年の男。黒い山高帽を無造作に転がし、その紳士は既に紳士に非ず。目に光は無く、開いた口から琥珀色の泡を吹き。その一切に自を覚える様子は見られず。消えかかる意識に縋りつくよう、稀に情けない声を上げるのみ。

 ――あぁ、君は――

 その男、その腰の上。棒読みの嬌声を発し、あらぬ方向に腰を振り、不自然なほど身体を震わす、その人形は移り気の、狂乱の美徳に溺れていた。 ない 穴を探るが如く。 ない 器官をその身に宿すが如く。少年の持つ灯は、はだけた彼女の衣装を照らし、その紫を赤く染め上げていた。まるでそれが、本来の色であるかのように。
 部屋の壁に描かれた、八角形の文様が、柱に刻まれた、唐草模様の彫刻が、右手に持つ、刺々しい十字架が、男を脅すのに使ったであろう、床に転がる血まみれの鉈が、そして、男を逃がすまいと、自らのスカートを通して床に打ち付けられた、長い長い杭が、その全てが赤く照らされている。赤く紅い世界の中で、紅く赤い人形は、かたりことりと蠢いていた。
 そのスカートの下、布に隠され、窺い知ることのできないその内側を想っては、少年はその目に愛を映した。汗の酸、白の吐息、関節から漏れ出る潤滑油の緑、黄の泡、紫照らされ赤の衣装、ブロンドの髪、振り乱す、声を上げる、機械的な反復、狂乱の美徳、少年はその身に愛を宿した。遂に少年は、湯に溺れるが如く、移り気の空気に身体を侵され、鼻孔の奥まで湿り気を満たされ、その声を頭蓋に詰め込まれ、圧迫され、圧縮され、その意識は宙を漂った。

 手にした灯、支えを失う。灯宿す蝋燭、重力に引かる。その硝子は潰され割らる。その枠組みは潰され割らる。床に散らさる緑の油、其処に蝋燭ぞ倒れける。忽ち火の手は上がりけり。部屋は一層照らされり。青く赤き炎の、いたく燃え広がるる、少年を忽ち包みければ、せむかたなし。

 ――僕は見てしまったのだ。その人形、アリスが上海人形と呼ぶ彼女が、あの男、昨日サーカスで最前席に座っていたあの男と、不気味にも交わっているのを――

 彼の女、打ち捨てられし帽子の、極楽鳥の羽の刺さるるをば掴みて被り、其の指を男の右目に伸ばせり。今に頂を迎えんとするに、指はつぷりと眼孔を抉り、その眼球を引き出さむとす。男、薬に酔いければ、抗う様も見せず、ただ呻くばかりなり。即ちその目は取り出され、女の右の目の、がらんどうになりけるに埋め込まれり。男、女、共々荒ましく腰を跳ね上げ、声を漏らし、赤き炎もなかなか冷たきほどに熱く身を揺さぶる程、いとすさまじければ、少年いたく怖ぢ、得も言えず、膝を折り、顔を覆い、居ながら伏せて涙を流す。
 然れども少年、その指の間に女を垣間見、目を離すこと能わず、女の髪を振り乱し、帽子をかたぶかせ、血を散らし、油を滴らし、音を上げ、その身の遂に満たさるるを悦び、その目の遂につきづきしく埋まれるを飽くを……なかなか美しと思ふなり。



 ――部屋一面に広がる炎の中で。僕は、逃げることも、助けることも無く、ただ彼女を見つめていた。なぜなら……



……美しい、と、思ってしまったから。僕たち、上海アリスサーカス団で、最も美しいキミに、見とれてしまったから。この感情、初めての感情のを、呼び表す術を僕は未だ知らないけれど。それは、悪い感情ではないと、信じることにした。僕がこの一生で、きっとこれが、最期に味わう感情なのだから――



 水符「見よう見まねのプリンセスウンディネ」



 ――聞き覚えのある少女の声を最後に、僕の意識は途切れた。








***







「どういうことだ、アリス、説明してくれ」

 最も賢い彼は、語気を強めていた。

「僕にはそれを聞く権利があるはずだ」

 彼があれだけ怒りを露にするのは久々だ。普段は冷静沈着な彼も、今回ばかりは落ち着いていられないだろう。いくら警戒心の強い僕だって、こうしてひどい緊張状態が続いていては疲弊してしまう。普段のような危険感知の鋭さも、今は発揮できないかもしれない。
 現状、緊急的な危機を脱してはいるものの。次の危機はきっとすぐやってくる。夜明けとともに、あるいはそれよりも早く。
 上海人形の回収には成功した。今は一旦アジトに戻っている。何故か羽のついた黒い山高帽を被っているが。見つけたのは最も臆病な彼で、追ってアリスがやってきたときには火事になりかけていたらしい。だが、それもアリスの魔法で消し止められたという。幸い、彼は無事だった。……上海人形が無事だったことを喜ぶべきかどうか、僕には分からない。火事に関しては、レンガ造りの建物だったおかげか外からは気づかれにくく、工部局の消防が駆け付けるようなことも無かったため、火事の目撃者と言える人間は居なかったのだろう。
 だが目撃者以上に、被害者が居る。このジョージ・ビドル・エアリーという壮年の男性だ。フルネームを知っているのは、もちろん、昨日のサーカスの間にモブに選ばれた彼が、自らそう名乗ったからだ。ではなぜ彼をアジトまで運んできたのかというと……それはこっちが聞きたい。
 生きている被害者だから正義感で助けた……?そんなはずはない。僕達は寧ろ、上海人形が被害者を、そして目撃者を一人残らず殺していることを願って止まないのだ。その倫理は盗賊団だった頃から変わっていない。もし僕が最初の発見者だったら、迷わず彼を殺していただろう。この連続殺人事件の犯人がこの上海人形だと知られたのなら、困るのは僕達の方なのだから。命に正直な僕達は、自分の命のためなら他人の命を切り捨てることを厭わない。

「何故この男を殺さない」

 一度殺しを経験した者は、常に殺しという選択肢を候補として持ってしまうものだ。殺しを止めたところで、その選択肢が消えるわけでは無い。再び状況が整ってしまえば、僕は迷わずその選択肢を掴むだろう。

「それから何故、こいつは暴れ出した!」

 今は静かに草臥れている上海人形を指差し、彼は怒鳴った。

「いいわ、話してあげる」

 本来、ここでゆっくり話している時間は無い。上海人形がどれだけの人間を手にかけたのかは分からないが、死体はそのまま放ってあるのだろう。それに、目撃者が一人も残っていないと考えるのにはあまりにも無理がある。となれば、真っ先に疑われるのは僕達サーカス団だ。手分けして探している間に、僕達が見つけた死体。その数二十四体。未だ見つけていないものもきっとある。こんなものを一人の〝少女〟が全てやってのけたなど、工部局が考えるはずがない。まず組織的な犯行を疑うだろう。実際には上海人形が一人でやったのだが、それは彼女が人ではない、そして人を超えた力を持つからだ。そんなことを説明したところで無意味だし、そう説明することさえ許されない。僕達は魔法や自律人形といった超常的な事象について一切口外しないという条件の下で、アリスに生かされているのだから。
 死体があちこちから見つかれば、すぐにでも工部局の捜査が始まり、たちまちこの場所にガサが入るだろう。もちろんこのアジトは秘密の扉からしか入れないが、この仕組みはそもそも上の階、表の家に住んでいる「ことになっている」僕達が疑われないようにするためのものだ。サーカスという「表舞台」で「表の顔」を晒してしまった状態の僕達が、今、疑われている以上、この機構は時間稼ぎ以上の意味を持たない。捜査は表の家の床を掘り返してでも進められるだろう。

 僕達がここに居られるのは、せいぜいあと二時間だ。

「ま、この男を殺さないのは、私の研究のためよ」
「ほう?では……研究が終われば殺す……と?」
「それは……もちろん」

 訝しみは晴れない。

「分かっているのか?その男、唯の英国人じゃないぞ。この世に空間の基準と時間の基準を定めた天文学者だ。租界に転がるガキが行方不明になるのとはワケが違う。どうやって工部局をごまかすつもりだ?それに失踪扱いしたとして、疑われるのは我々なんだ。舞台裏から糸を繰るだけで一度も表に顔を出さなかった、存在さえ知られていないお前と違ってな。なのにこれまたお前の上海人形とやらのせいで……」

 彼の言葉が止まったのは、目と鼻の先に例のスピアーを突きつけられたからだ。

「私はまだ二つ目の質問に答えてない」

 彼女もまた、語気を強めた。だが。彼は動じることなく口を開いた。

「焦っているな、アリス。本当はお前にも……この者達を殺す意思は無いのだろう。いや、初めから……お前は憐みで我々を拾った。そうだろう?だのに今、上海人形のせいで救ったはずの我々を却って窮地に陥れた。それを後悔しているのだろう?自分を愚かしく思っているのだろう?我々を……また一層、憐れんでいるのだろう?」
「っ……!」

 アリスが、唇を噛んだ。出所の分からぬ青白い光が、彼女を中心に広がり始める。スカートははためき、ブロンドの髪がなびき、彼女の瞳は文字通り赤く輝いた。スピアーを持つ人形もまた、それに同調するように怒気を放ち始める。

「そんなに殺して欲しいんだったら……先にあんたから殺す」

 睨む彼女の目は一層鋭く、それを迎える彼の拳もまた一層強く握られた。

「……殺れよ……!」

 彼は迷わず一歩踏み出した。額に、スピアーの先端が刺さる。押された人形はそのまま引き下がり、浅い傷からは血が滲みだした。

「……どのみち僕に未来は無い。魔法使いだと知っているこの者達を、お前は逃がせるはずがない。それに我々と共に逃げるつもりが無いことも分かっている。その男をわざわざ呑気に生け捕りにしているんだからな。だから……お前はここで皆を殺すんだろう?覚悟していたことだ。お前に拾われようが拾われまいが、盗賊団である我々が近いうちに迎えるべき結末だ。アリスという魔法使いを知ってしまった我々はもう、こうして使い捨てられるだけの隠れ蓑でしか無かった。あぁ、なんて可哀そうな盗賊団。なんて無慈悲で冷酷な魔法使い……」

 彼は賢い。確かに賢い。僕達の中で最も賢い少年だ。だが、それはその賢さ故なのか、或いはプライドが許さないのか、窮地に陥ると彼はひどく悲観的になる。試すことを忘れる。最後まで必死にあがくということを忘れる。
 アリスの感情に訴えるというのが、彼の最後の悪あがきなのかもしれないが。
 実のところ、彼女の心情は量りかねる。今、少しだけ睨みを弱めたのが、彼女のどんな心情の変化を表しているか、分からない。

「……この四年間に意味は無かったと言うの?」
「そりゃあ、お前にとっちゃ意味があったろう。だが我々にとっては唯の延命だ。そこに意味なんて……。最後に僕を殺すのがお前であったという以外に、意味など無いだろう」
「私だって……殺したくて殺す訳じゃない」

 彼の訴えが効いたのだろうか。しかし……

「なら自害しろと?やってやる。お前が道具を用意しろ」

 ……僕は、そんな彼の悲観に付き合って、何度も好機を逃したことがある。何度も味わう必要のない心労を負ったことがある。このままでは、本当に縋るべき希望さえも断ち切れてしまいそうで、僕は気が気でなかった。
「待った、待ってくれェ」

 だが彼を止めたのは僕ではなく、最も大人びた彼だった。

「今回の件はァ僕に非があるんだ、頼むから、待ってくれよぉ……」
「ハリー、あんた余計なことまで……」
「喋らねェよォ、頼むから謝らせてくれって言ってンだ」

 打った頭をさすりながら、彼は二人の間に入った。

「アリスが言い渋るのは当然だァよ。何せこれを少女の口から語らせるのは酷ってもんだ。だから僕がァ代わりに二つ目の質問に答えてやる。上海人形がおかしくなったのは……」

 後ろ手で、上海人形を指差す。

「僕があいつに、惚れ薬を盛ったからだ」
「………………は?」
「……」

 賢い彼は拍子抜けした声を出したが、アリスは何かを飲み込むように黙ったままだった。他の奴らはどうだか分からないが、僕はもう話半分にしか聞いていなかった。早く身の安全を確保するために行動するべきだというのに、こいつらは本当に……何を下らないおしゃべりをしているんだ?

「そんできっと発情しちまったんだよォ……、ま、まさか人形に効くとは思わなかったもんでなァ……はは、っ……」

 頼む。アリス。殺すならまずこいつからにしてくれ。
 こんなことなら、早くこんな馬鹿らしいサーカス団、抜けてしまえば良かった。いやいっそ、盗賊団の頃から。魔法使いを裏切って逃げるのは無理だろうが、盗賊団の野郎共からなら、もし試せば、上手くいったかもしれない。だがそれもこれも、今となっては後の祭りだ。

「すまなかった。許してくれッ……!」
「……呆れて物も言えん」
「……」

 代わりに物を言ったのは最も早起きな彼。丸眼鏡をくいと整える仕草は彼が何か意見を主張するときに出る癖だ。

「で、でもですよ、人形をちゃんと管理しなかったのはアリスの責任じゃないですか?」

 否、本来僕達はアリスに責任を問える立場じゃない。彼はもう忘れてしなったのかもしれないが、僕達はアリスに完全服従する代わりに命を許されているのだ。だがその建前もこの四年間のサーカス団員生活をするうちに徐々に崩れている。今ではアリスを本当に只のグループの一員としか見ていない奴も多い。四年間ずっと彼女に命を狙われる警戒をしているのは僕くらいのものだ。
 だがどうやら、今回は僕が人を信用しなさ過ぎていたようだ。



「分かってる。分かってるわよ……だからあんた達を何とか逃がす方法を考えてるのよ!」



 アリスの心の叫びに、皆は何も言い返さなかった。偶に見せる、アリスの幼いその見た目通りの言動。純粋に、彼女は申し訳なく思って、皆を助けようとしているらしかった。これでは、そんな幼い少女を、いつまでも警戒していた僕がの方が大人げないみたいじゃないか。

「ただ……逃げて、欲しい。私も協力する、から……」

 それは切実な願いなのだろう。彼女はもう、睨むのを止め、目を伏せていた。最も賢い彼を脅していた人形は、いつの間にスピアーを引っ込めていて……代わりに彼の額の傷を、静かにハンカチで拭いていた。

「逃げるったって、どこに………?この上海にはもう居られない。租界の外に出れば生きる術を失う。それに捕まったら……その時こそ、アリス。お前のことを黙っていられる自信は無いぞ」
「だから……もっと遠くへ逃げるしか」
「どうやって!何処にそんな手段がある!」

 静寂が流れる。賢い彼にも、アリスにも分からないとなれば、僕達が提示できる案もたかが知れていた。だから誰も何も言わなかった。地上の雨音さえ、聞こえてくるほどに、静かな時間が流れて。ぽつぽつと、さらさらと、そしてこつこつと雨音だけが響いて……

                        ……こつこつ?

「待ってください」

 眠っていた僕の警戒心が目を覚ます。これは雨音なんかじゃない。
 ……足音だ。

「誰か来てます……!」
「いきなりどうしてここに……!」

 足音は確かに、地上の家ではなく、地下の入り口に向っていた。その足音はすぐさま、このアジトに続く階段を降りる音に変わっていた。

「馬鹿な、鍵を一瞬で……!」



 ――用意できるぜ。その手段ってやつをよ



「誰……っ!」

 聞こえてきたのは、大人の男の声。発音からしてネイティブの英国人。だが今そこに横たわっているエアリー氏とは違う、もっと太くて重い声だった。

「そうだな……」






















「……〝ロンドンの不死商人〟とでも名乗っておこうか」
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