Coolier - 新生・東方創想話

空想イマイマシー

2019/04/07 21:58:54
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 第三章『無意識を操る程度の能力』

 早苗がベッドの上で目を覚ます。そこは紅魔館の客室であった。窓の方へと目をやる。すでに朝である。朝日が柔らかく部屋へと差していた。拭いきれない微睡みの中で、早苗はこれまでの事をゆっくりと思い出していく。
(確か、スカイフィッシュを探すために魔法の森に入って……そうだ、スカイフィッシュの群れに襲われたんだ……)
 そこで、早苗は自分の置かれている状況を把握した。スカイフィッシュの群れからこいしを守る為に、霊力を使い果たしてしまったのだ。そのまま気絶し、ここに運ばれたのである。
 そこで、早苗はベッドの左脇で寝息を立てている者がいる事に気付く。古明地こいしである。早苗は安堵した。
(良かった……こいしちゃん、無事だったんだね……)
 妖怪と人間ではそもそも身体の作りが違う。あれだけスカイフィッシュの斬撃をダイレクトに受けておきながら、こいしの身体は既に回復してしまっていたのだ。改めて、種族の違いを思い知らされる早苗であった。こいしは早苗の左手をぎゅっと握りながら眠っていた。一晩中、握っていたのか? 早苗は空いている方の手を上げ、ゆっくりと動かす。肉体的に損傷はない。身体の節々が少々痛むが、治癒魔術のような物が施されていて、大した傷は残っていなかった。恐らく、紅魔館に住んでいる魔法使いがやってくれたのだろう。もう一眠りすれば元気に動けるようになるはずだ。早苗は上げた腕をそのままこいしの頭へと伸ばし、優しく撫でる。こいしがむにゃむにゃと寝言を言う。

「うぅ……どうして英語なの……霊夢……?」

「……まったく、どんな夢を見てんだか……」
 早苗は呆れた様子でこいしの頭を撫で続ける。こいしが、ここまで早苗を運んできたのだ。その事実が、早苗は少しだけ嬉しかった。
 本当は、怖かったのだ。
 昨日、あの魔法の森でスカイフィッシュの群れに囲まれた際、こいしは、早苗の身代わりのつもりでわざと自ら的となった。四方から鋭い暴力にさらされ、血塗れになりながら、こいしは呻く事も叫ぶ事もしなかった。ただ、笑っていたのだ。
 その様子が、早苗は怖くて仕方がなかったのである。
 もし、あのままこいしを見殺しにしてしまったら、あのまま、こいしを助ける事が出来なかったら、この可愛らしい少女の肉体から、世にも恐ろしい怪物が生まれてしまうのではないかと思ったのである。理性も、温情もなく、掛け値なしの暴力のみが存在する邪悪な存在が、「古明地こいし」という檻から放たれてしまうのではないか? 早苗はそう思い、命を賭してこいしを守ったのだ。
(こいしちゃん……)

 そこで再び、早苗はこいしの手を見つめる。朝の静寂の中で、誰にも知られる事なく、小さく頷いた。この手を離せば、こいしが、こいしではなくなってしまう、そんな気がした。

 ……。

「おはようございまーす。具合の方はどうですか、早苗さん」
 しばらくして、美鈴が部屋へとやって来た。それと同じタイミングでこいしがボーっとした表情で目を覚ました。
「おはようございます、おかげさまで、もうすっかり元気になりました」
「それは良かった……パチュリー様の回復魔法のおかげですよ」
 早苗の言う通り、身体の痛みはもう完全に引いていた。そもそも、早苗が倒れた原因は外傷ではなく、防御の為に体内を巡る霊力をフル稼働させた事による疲労であった。
「それで、早苗さん……本日はどうするんです?」
 美鈴がすぐそばの小さなテーブルにパンとスープを置く。それも一人分である。恐らく、こいしの事はカウントしていないのだろう。妖怪に人間の食事はいらない。同じく妖怪である美鈴だ。その辺は理解しているのだろう。早苗は礼を言いながらそれを口にする。
「とりあえず、今日は……」

 正直、スカイフィッシュなんてもうどうでもいい。

「……うぅ……ああ、早苗、おはよう……」
 ようやくこいしが寝ぼけ眼で早苗に声をかけてきた。そう、早苗の中で目的は完全に変わっていた。神奈子の言いつけを守る為に今日までスカイフィッシュ狩りを続けていたが、それよりもはるかに大切な事を見つけてしまったのだ。早苗はこいしの眠気を覚ますために彼女の頬をパタパタと優しく叩きながら言う。
「スカイフィッシュ狩りはお休みにします。今日はずっと、この子と遊んであげるつもりです。この子が、クタクタになるまで」
 その言葉を聞いた途端、こいしはうつらうつらとした顔を瞬時に切り替え、驚きの表情を浮かべた。驚きと、喜びが合わさった、実に子供らしい表情であった。
「ホントッ! 早苗、私と遊んでくれるのッ!」
 こいしは信じられないといった様子で何度も早苗に問いかける。パンが食べ辛い。朝食を一気に胃袋に詰め込み、こいしに宣言した。

「こいしちゃん、スカイフィッシュなんて後回しよ! 遊ぼう! もう嫌になるくらい遊ぼう! こいしちゃんの好きな事をしよう! 決めたわ。今日は何処までも付き合ってあげる!」

 こいしが目を輝かせながら早苗に抱き着く。早苗も嬉しそうに微笑む。そんな二人の様子を、美鈴は、物憂げな表情で見つめていた。

(お嬢様、早苗さんは、本当に大丈夫でしょうか……?)

 早苗はすぐに身支度を済ませ、こいしと共に紅魔館を出た。遊ぶと言っても、早苗の知る遊びとこいしの知る遊びは恐らく一致していない。とにかく、まずは外に出ようと思ったのだ。幸運にも本日は快晴である。何処かに行かずにいるには勿体無いほどの日本晴れ、曇り一つない天気だ。何処に行こうか? 早苗はこいしの手を握りながら問いかける。こいしはいつものリュックサックを背負っていた。今日はもうスカイフィッシュの事など忘れようと思っていたのに、こいしは律義にリュックの中に例のこいしちゃんバズーカやこいしちゃんポイポイ等の、ハンティング用の武器や罠を入れてきた様子である。お出かけする際はいつも肌身離さず持っているらしい。こいしがスキップをする度にリュックからカチャカチャと金属の鋭い音がする。妙に心地の良い音である。
「それじゃあ、それじゃあ、人里に行こう!」
 意外な返答であった。もっと緑のある場所、人がおらずのびのびと出来る場所を希望するかと思っていたのだ。しかし、人里なら大した危険もない筈である。早苗はそう思い、さっそくこいしと共に人里へと向かった。
 ・・・
 人間の里、この幻想郷で最も安全な場所であり、幻想郷で生きる人間の大多数がこの里で暮らしている。人里には妖怪退治の専門家もおり、ここなら外部に住む妖怪の魔の手が及ぶ事もない。何より、妖怪の賢者に管理されている区域なので、妖怪達はこの里で勝手が出来ないのである。まさに人間を保護するための場所だ。
 人間達のように買い物やお喋りなどをするのが好きなら楽しいかもしれないが、どうして妖怪であるこいしは人里に行きたいと思ったのか、道すがら、早苗はこいしに問いかけた。
「うーんとね、人がいっぱいいるところは、静かだから!」
 答えが矛盾しているような気がした。静かな場所へ行きたいのなら、人がたくさんいる場所は避ける筈だ。だが、こいしにはこいしなりの「基準」のような物があるのだろう。早苗はそう思い、その件に関してはこれ以上深くは聞かなかった。
 早苗とこいしは里に足を踏み入れた。人間達の朝は早い。誰もが早朝から働きに出かけるからだ。しかし、どういう訳か、人里には人っ子一人見当たらない。姿はおろか、人の気配がまるでしないのだ。空箱の中のように、人里は静寂であった。
「ど、どういう事……? どうして誰もいないの?」
 人里の規模は大きい。数えきれないほどの人間がこの土地で暮らしている。だというのに、人里には不気味なほどの静けさで満ちていた。いつもなら商店や市場等で人が行き交い、賑やかな筈だ。なのに、今日は人っ子一人見当たらない。

 まるで、誰も彼もが消失してしまったかのようだ。
早苗とこいし、二人だけを置き去りにして……。

そこで、早苗は気付いた。奇妙な事に、通りに並ぶ店の支度は既に出来ている状態であった。看板も出ている。誰もいないというのに。早苗は小声で「お邪魔します」と呟き、無作為に家の戸を開けてみる。やはり誰もいない。なのに、朝食の支度がしてある。かまどに火がついている。米の炊ける匂いと、味噌汁の良い香りがしている。今、この場に人がいないとおかしい状況である。
付近には甘味処があった。店頭には蜜のかかった甘そうな串団子が並んでいた。誰もいないというのに。こいしはそこから二本ほど団子を手に取り、そのうちの一本を早苗に手渡してきた。まるでいつもの事のようにこいしはそれを食べ始めた。こいしに倣って早苗はそれを口にしようとするが、それではただの泥棒になってしまう。早苗はこいしに気付かれないように店内へ入り、二人分の団子の代金を店のカウンターに置いた。変な罪悪感が残った。
「何でもいいよ、早苗、遊ぼう、ここで、一緒に」
こいしに腕を引っ張られ、早苗は慌てて表へと出る。違和感だらけだ。あれだけ騒がしい里だというのに、今日は人の声が一切聞こえない。蒼天の真下、誰一人存在しない人間の里の真ん中で、早苗はこいしと二人きりであった。だが、不思議と寂しさは感じられない。それどころか、人がいなくなった人里についても、早苗は深く考えようとはしなかった。明らかに異常だというのに、何も思う事は無かった。それより、こいしと一緒に遊ぶ事を優先したのだ。
「それじゃあこいしちゃん、何して遊ぼうか?」
「えっとね、えっとね……怪物ごっこがしたい!」
 怪物ごっこがどういう物なのか早苗には良く分からなかったが、とにかく何でもいい。こいしが喜ぶような事をしてあげたかった。内容はこうだ。理由はとにかく何でもいい。早苗とこいしは殺し合いをする運命にあった。二人は敵同士だ。武器は個人の自由で銃器、刃物問わず使用を許可されている。二人は剣を手に取った。そこからがこの遊びのスタートであった。景色は歪み、二人はとある世界に降り立つ。そこで悲しい事件が起きた。人間の死体が見つかったのだ。死体にはあまりにも大きな化け物の歯型が残されていた。怪物が出た、怪物が出た、人々は恐怖した。そんな中、この世界の支配者が化け物討伐の為に民の名から勇者を募った。名乗りを上げたのはたった二人、それが早苗とこいしであった。早苗とこいしは命令により化け物討伐の旅に出た。二人は良き友となり、互いに背中を預け合うまでになった。そして、被害が出た場所で二人は人間を襲ったとされる怪物と出会う。怪物には目が八つついていた。早苗は怪物に向かって剣を振るうが、怪物の皮膚は鋼のように硬い。剣を弾かれ、早苗は負傷してしまう。そこで、こいしが身を挺して早苗を助ける。そばには崖があった。こいしは怪物を道連れに深い谷底へと落ちていく。早苗は傷を負いながら、こいしの形見である剣を持って故郷へと帰った。こいしのおかげで生き永らえた。あの子は、私の命の恩人だと、こいしに感謝をした。世界の支配者から報酬が支払われる。一生遊んで暮らせるだけの金であった。早苗はその全てを、世界の恵まれない子供たちの為に使った。怪物を倒し、子供たちを幸せにした早苗は英雄として祭り上げられた。誰もが早苗という存在を讃えた。そして、誰かが言う。この方こそ、この世界を統べるに相応しい、と。誰もがそれを肯定した。権力も、名誉も、称賛も、早苗は望んでなど無かった。それを真に望んだのは早苗ではなく、早苗を取り巻く環境、つまり早苗以外の「見ず知らずの誰か達」であった。人々の願いを叶えるために、早苗はこの世界の、次の支配者となった。世界をより良くするために、世界の片隅で苦しむ誰かの助けになればいいと最初は思っていた。だが、現実はそうならなかった。誰かを助けるには、誰かを見捨てなければならない。誰かを選ぶ事は、誰かを選ばない事と同じだ。心の優しい早苗も、それは分かっていた。仕方のない事だ。誰かがやらなければならない事なのだ。そんな事、初めから分かっていた。そして今、その断を下すのは、早苗だ。選択をするのは、選ぶのは、早苗の義務であった。何処かで紛争が起こる。誰を助け、誰を見捨てるか、早苗には選ぶ義務があった。誰かが言った。人の生き死にを左右する権利があるのは早苗だけだと。何が権利だ、こんなもの、名誉でも何でもない、これは檻だ。支配者とは、責任とは、立場とは、足枷でしかない。どうしようもなく窮屈な鉄格子の中、早苗は遠くの国に住む顔も名前も分からない人々を殺す決断をした。彼らを殺さなければ、より多くの人間が死ぬ事になる。その国で、伝染病が蔓延したからだ。早苗はその一帯に住む人間を皆殺しにした。それが正しい事だと誰もが言う。その決断を下した早苗だけは、自分を責めた。たとえそこに真実があったとして、正しさがあったとして、間違いであることに変わりはない。人の命を人が奪うのは間違いだ。早苗は心の優しい人間であった。大昔には友達もいた。戦いの中で自身の背を預ける事が出来る友がいた。最近はそんな事も忘れてしまっていた。多くの人間が早苗を正義と呼んだ。それと同じ数だけ、人々は早苗を恐れた。今この瞬間、早苗はこの世のどんな怪物よりも恐ろしい存在であった。確実にその手は血で汚れている。どんな怪物よりも、多くの命を奪っている。だけど、それは仕方のない事だ。正しくあろうとするには、時に正しくない事をする必要がある。早苗は思った。もしあの時、谷底に落ちたのが私ならば、こんな苦痛を経験する事もなかったのかもしれない。もしあの時、死んでしまっていたら、誰かの命を奪う事もなかったのかもしれない。私は、怪物だ。怪物は、私なのだ。その日以来、早苗は人としての尊厳を失った。ただ純粋に、この世界をよりよく、正しく留めるための抑止力の装置として生きる事にした。死刑、否、死刑、否、この世の法は罪と罰であり、そこに感情など不必要だ。すると早苗は、世界は思っていたよりも単純だという事に気付く。生きるか死ぬか、殺すか、殺されるか、結局はその二択でしかないのだ。簡単な事だ。正しくなければ殺す、それ以外は、殺さない。早苗は全てに対し、仕方ないと思う事にした。「仕方ない」、それは思考停止の呪詛だ。仕方ない、だって、本当に仕方ないのだ。それが、正義であり、法律であり、人間である。誰よりも正しい事をしている筈なのに、誰よりも不正解な道を選んでしまう。それも全て、「仕方ない」事だ。そんなある日の事、世界の何処かに怪物が現れた。怪物は特に何もしない。ただ、そこに存在するだけである。しかし、怪物である以上、いつ人を襲うか分からない。支配者として、早苗は人々にこの怪物を殺すように命じた。しかし、誰も名乗りを上げない。皆が怪物に恐怖してしまっていた。そこで、早苗は自ら怪物討伐に赴く事にした。かつての自分がそうであったように。そして、決意していた。自分の命を、その怪物にくれてやるとしよう。そこで、全てを終わらせるのだ。この世を救済するただ一つの方法、それは、自分がこの世界から消え失せる事だ。本当はずっと昔から気付いていた事だ。誰もが早苗を讃える。英雄と呼ぶ。神と崇める。それが死出の旅だとも知らずに、誰もが喜んで早苗の凱旋を待ちわびていた。そして、早苗は怪物の元へと辿り着く。その怪物と対峙した時、何処か懐かしい物を感じた。怪物は早苗を襲う。早苗は、怪物を抱きしめた。その身を鋭い爪で斬り刻まれながら、涙を流して怪物を、その凶悪な瞳を見つめた。早苗は気付いた。この怪物は、かつての親友、こいしである。あの時、怪物と共に崖に落ちて死んだ筈のこいしが、目の前にいるのだ。こいしは、醜い怪物となってこの世界に留まったのだ。怪物が、歪な声で早苗に懇願する。殺してくれ、と。早苗には出来なかった。早苗は、震える声で怪物に告げた。殺してくれ、と。怪物は咆哮を轟かせるばかりで、それ以上、早苗を傷付ける事は出来なかった。こいしがその醜い瞳から大粒の涙を流す。殺してくれと、再度、早苗に懇願する。早苗は悲痛な表情でそれを拒む。遠くの世界に住む顔も名前も知らない何百万人は簡単に殺せるというのに、目の前にいる悍ましい怪物は殺せなかった。一人と一匹は絶望しながら、殺してくれと、互いに懇願し合った。本当の怪物は、早苗なのか? それとも、こいしなのか? 早苗には、もう何が正しいのか分からなかった。
 ……。
ええーッ、でもそんなのつまらないよ。悲しいじゃん! 二人共、もっと幸せでもいいじゃん! えっとね、こいしと早苗はね、この後ずっと戦い続けるの。何日も、何日も。そのうち、早苗は人間ではなくなるの。私と同じ、怪物になるんだよ! そしてこの世界から支配者はいなくなっちゃうの! 他の人達をみんな置いて、早苗は私と一緒に怪物になっちゃうんだ。私と早苗は、誰もいない場所で楽しく暮らすんだよ。誰にも邪魔されないで、何かに怯える事もなく、ずっと、楽しく遊ぶんだ。だから、もう寂しくないよ! 悲しい思いをする必要なんかないんだから。早苗は、もっと幸せになっても良いんだよ! 私だって、早苗と一緒に幸せになりたいよ、私は人間じゃないけど、私は怪物だけど、それでも、楽しく生きていたいよ。だから、殺して、なんて言わないでよ。私も言わないよ。言いたくないよ、そんな事。それでね、世界は大パニックになっちゃうの! だって、今まで世界の大事な選択肢を選んできた早苗はもういないんだから。次の支配者を決めなきゃいけないの。だけどね、アハハッ、結局、誰が支配者になっても同じだったの! 誰が偉くなっても、やっている事は何一つ変わらないわ。都合の悪い事が起きた時、海の向こうの貧しい村に爆弾を落とすの。早苗と同じように。人間達は、いつまでもそうやって世界を回していくの。だけどね、私達にはそんな事、もう関係ないんだよ。私と早苗は、明日のご飯を考えて、新しい遊びを考えて、夜になったら一緒に星を見るんだ。いつか、あの星に行ってみたいな、なんてバカみたいな話をして、そして、夢の中でも一緒にいるんだ。私は、早苗を一人にはしないよ。だって早苗は、私の大事な友達だから。そうやって二人は、いつまでも幸せに暮らすんだ。そうだよ、それが一番良い。
早苗は答えた。「そっか、そうだよね」……と。

 日が暮れたので、遊びは終わりである。

 オレンジ色の夕暮れの中、早苗はこいしの手を握って妖怪の山へと向かった。登山口付近にあるこいしのアジトへと向かっていたのだ。道すがら、早苗はこいしに尋ねた。
「……ねぇこいしちゃん、今日は、楽しかったかな?」
 結局、日が暮れるまでこいしのごっこ遊びに付き合ったのだ。早苗はもうクタクタであった。正直、普段の妖怪退治で行う弾幕勝負の百倍は疲れた。子供の遊びとは、ここまで体力を使う物なのだ。
「うんっ! 楽しかったよ! 早苗は?」
 早苗は答えなかった。楽しいかどうか、なんて考えてなかったのだ。改めて、今日一日やった「怪物ごっこ」を思い出す。楽しかったのか、それともつまらなかったのか、早苗は答える事が出来なかった。だが、ごっこ遊びの中で使った剣、に見立てた木の棒を、早苗はいつまでも手放さなかった。それが、答えであった。
「私、ずっと早苗と一緒にいたい。早苗と一緒に生きていたいよ。早苗の傍は、温かいんだ。楽しいんだ。私、早苗が好き。大好き」
 幻想郷が、全世界が黄金色に輝いている。早苗とこいしはアジトに着いた。早苗はふと、何気なく思った。こんな楽しい日々が永遠に続いたら、それはとても素敵だな、と。

「こいしちゃん、大丈夫、私は一緒にいるよ。ずっと」

 はっきり言うと、早苗が軽い気持ちで放った今の言葉は、ただの口約束である。早苗は「ずっと」という物がどの程度の年月を指しているのかなんて分からなかった。ただ漠然と、「ずっと」という言葉を口にしてしまったのだ。黄昏の灯りに照らされたこいしの表情は、とても嬉しそうで、どこか、寂しそうにも思えた。
 なんて、空想的なのだろうか――。
こいしと二人で、いつまでも楽しく、難しい事や悲しい事など一切考えず、守矢神社の巫女としての務めも忘れ、朝から晩まで遊んで、お菓子を食べて、夜には眠る。それこそが人間としての正しい在り方なのでは、早苗は本気でそう思っていた。――その時。

「やっと――、やっと見つけたわ!」

 背後から鋭い声が飛んできた。早苗とこいしは揃って振り向く。そこには、アリス・マーガトロイドが立っていた。どういう訳か、全身が汚れていた。一日中野山を歩き回らないとここまでは汚れない筈だ。アリスは息も絶え絶えの状態で早苗の方に歩み寄ってくる。ただならぬ雰囲気である。しかも、アリスは全身を魔力で覆っていた。魔法に関してはど素人である早苗でも目で見てわかるほどの濃度である。アリスは一旦息を整え、早苗に向かって叫んだ。

「早苗さん、目を覚ましなさい!」

 アリスは早苗の方を見ていない。まるでアリスの目には早苗が映っていないかのような素振りである。早苗は何の事なのか良く分からず、ポカンとした表情を浮かべていた。
「あ、アリスさん……? どうしたの、一体……」
 早苗が返事をした瞬間、ようやくアリスは早苗を見た。早苗の姿が見えず、今の声を頼りに早苗の方へ振り向いた、という様子だ。ますます訳が分からない。早苗はジッとアリスの表情を見る。あくまで早苗の中での印象であったが、アリスは常に冷静でクレバーな魔法使いである。早苗は魔法使い、魔女の類が苦手であったが、アリスの事はあまり嫌いではなく、むしろ幻想郷に住む者として尊敬すらしていた。そんなアリスが、血相変え、額に汗をかいて慌てていた。一体何があったというのか?
「早苗さん……一体何があったの? どうしてそんな事になっているの? ……ああもう、訳が分からないわ!」
 すると、アリスの声を気にも留めず、こいしが早苗の裾を引っ張ってきた。「どうしたの早苗? 早くアジトに戻ろうよ」と催促するのである。早苗は困ってしまった。早苗も、早くアジトに入りたいのだ。アリスの話など聞かず、こいしと二人きりで楽しくお喋りがしたいのだ。どうしてアリスさんは、邪魔をするんだろう? と、早苗は虚ろな目でアリスを見つめた。
「早苗さん……貴女、今の自分の状況を分かっているの?」
 ああ、まだ話は終わらないのかな? いい加減、無視してアジトに戻ろうかしら? 早苗はアリスに向かって舌打ちした。こいしが笑顔で早苗の腕を引っ張る。その力は最早少女のソレではない。
「早苗さん、貴女は今、存在していない事になっているのよ!」
 
 別に、どうでも良いじゃないですか。そんなの。

 最早、何かがおかしい事に、早苗は気付く事が出来ない。
 その時、早苗の身体に存在する全神経が痙攣してしまったかのような感覚に襲われた。アリスがこいしの手を思い切り叩いたのである。こいしが小さく悲鳴を上げ、早苗から手を離した。その瞬間、目の前が黒色に包まれた。全世界が停電したかのような闇であった。一秒間、思考が止まった。こいしの手から離れたその一瞬、早苗は、意識を取り戻した。
「え? ……ええ? アリスさん……どうしてここに?」
「……そう、この子が原因だったのね……」
 アリスが冷たい目つきでこいしを見下した。こいしは怯えた目でその場に蹲ってしまった。まるで、悪戯がバレた子供のように。

 いつからそれが起こっていたのかは分からない。
 早苗は、こいしの能力によって意識を奪われていたのだ。

「こいし、ちゃん……?」
 こいしは何も言わない。ただ、酷く怯えた様子で縮こまっているだけであった。
「……貴女は、この子の能力で意識を操られていたのよ。それだけじゃないわ。他の人間からも、貴女とこいしの存在は認識出来なくなっていたの……思い当たる節はないかしら?」
 アリスは早苗の頬に手を添え、先ほどまでその身に纏っていた魔力を解除する。アリスは魔法で他者の気配を察知する感覚を一時的に強化し、早苗達を探していたのだ。手を叩かれた衝撃によってこいしの能力が途切れ、ようやく早苗とこいしを肉眼で確認出来るようになったのである。
「そんな……本当なの? こいしちゃん……」
 やはり、こいしは答えない。叱責に怯える子供のように、固く顔を伏せてしまっている。こいしは、何も答えない。
「……地霊殿で間欠泉の異変が起こった時期、私は一度魔理沙と一緒にこの子の能力を体験した事がある。だからピンと来たの」
 ――無意識を操る程度の能力。
 覚妖怪として備わった「心を読む能力」、その第三の目を差し出した事によって得た力。それは、誰にも認識されなくなるという能力だ。こいしと共に過ごす事により、その力が一時的に「早苗」にも影響を及ぼしたという事である。早苗は思い出す。
 それは、紅魔館での事だ。

「お嬢様、どうでしたか?」

「……ああ、何とか声だけは聞こえた。美鈴がいて助かったわ。貴女の『能力』が無けりゃ、きっと何にも分からなかったでしょうね」

 そう、レミリアに、早苗とこいしの姿は見えていなかったのだ。美鈴が早苗達を感知出来たのは、美鈴の持つ「気」によるものだ。全ての生き物が身体に纏っている僅かな気を読み取り、美鈴は辛うじて早苗という存在に気付いたのである。それでもかなりあやふやな状態であった。

「早苗さんは、その、気付いているんでしょうか?」
「恐らく、あれは気付いていないだろうね……」

 早苗は、気付いていなかった。この時点で、自分がこいしの能力に支配されていた事に。それは、こいしが意図的に起こした事なのか、それとも偶発的に「起こってしまった事」なのか、こいしは何も喋らない。早苗だって、問いたいとも思わない。
 昨日、魔法の森にてアリスと出会った時もそうだ。
アリスは、早苗を無視したのではない。
早苗がそこにいる事に気付けなかったのだ。

性質が悪い事に、こいしの「無意識を操る能力」には段階があった。こいしと親密になるほど、絆を深めるほど、能力の深さは増していくのである。早苗は思い出す。それは、先ほどの人里での事だ。人里が完全に無人と化していた。朝から夕方まで、早苗は誰とも顔を合わせる事が無かった。しかし、それはこいしの能力に付随する物であった。あの時、人里は決して無人ではなかったのである。
 人里にはいつも通り人がいたのだ。
早苗はそれを認識出来なかったのだ。
 そして、周りの人間達も同様だ。早苗とこいしを認識出来なくなっていた。まるで、幻想郷から切り離されたかのように。こいしの無意識が早苗を取り巻く世界を侵食し、早苗は、この世から存在を忘れ去られてしまった。その能力が、解かれたのだ。
 他者の認識の障害。
 自身の、認識の障害。
 早苗は、完全にこいしの能力に足を踏み入れていたのだ。
 早苗は、ゆっくりとこいしに視線を移す。その瞳に、怒りや悲しみと言った感情は宿ってはいなかった。そこにあるのはただ一つ、何故、という疑問だけである。その時、アリスが鬼の形相でこいしの衣服を乱暴に掴み、自身の方へ引き寄せる。こいしが小さく悲鳴を上げた。アリスはお構いなしにこいしを睨みつける。
「一体どういうつもりなのッ!?」
 こいしが両目を見開いてアリスを見つめていた。唇を震わせ、腹の底から怯えきっていた。小声で「あの、えっと」と呟くが、それ以上弁解の言葉が思いつかない様子である。早苗は一瞬アリスを止めようか迷った。子供のやった事なのだから、許してやってほしいと。そこで、早苗は酷く重い鉛が心臓にのしかかったような感覚に襲われた。子供のやった事だから、こいしは確かに子供だ。
 だが、それ以前にこいしは妖怪である。
「まさか、早苗さんを殺す気だったのかしら……ッ?」
 剣呑な言葉がアリスの口から出てくる。その言葉に、こいしは酷く混乱した表情を浮かべてかぶりを振った。
「ち、ち……違うよぉ……わ、私……そんなつもりじゃ……」
 こいしがたどたどしく応える。瞳が潤んでいた。まるで空気を限界まで入れた風船のように、あと少しの刺激で爆発してしまいそうな表情であった。しかし、アリスは容赦しない。こいしの胸倉を力強く掴み、張り裂けそうな声で彼女を叱責する。
「人間相手にここまで大掛かりな術を施して……タダで済むと思っているの? そこまで馬鹿な妖怪じゃないわよね、貴女?」
 こいしは一瞬だけ、ちらと早苗の方を見た。助けを求める視線であった。だが、早苗は固まったまま、何を言う事も出来なかった。何を言うのが正しいのか、何を行うのが正しいのか、それを、たった今この場で瞬時に判断する事が出来なかったのだ。
「答えなさいッ! 何が目的なのッ?」
「わ、私は……ただ、本当に、早苗と、友達になりたかっただけだよぅ……っ、一緒に遊びたかっただけだよぅ……っ!」
 アリスは思い切り、こいしの顔に平手打ちを放った。頬を打つ音が辺りに高く鳴り響いた。その衝撃でこいしが地面に倒れ込む。こいしが背負っていたリュックサックから中身が零れ落ちた。お菓子やおもちゃが辺りに激しく散らばった。こいしの頬が赤く染まっている。一瞬、何が起きたのか分からないという表情を浮かべたが、すぐに自分が殴られた事に気付き、その表情は見る見るうちに歪んでいった。流石に、早苗がそこで止めに入った。
「ちょ、ちょっとアリスさん、もういいじゃないですかっ! この子も反省しているみたいだし……何も、殴る事なんて……」
 早苗の言葉に、アリスは一呼吸つく。冷静さを欠いた自分を戒めるようなため息であった。そして、落ち着いた様子で早苗に告げる。
「結果的に早苗さんは無事で済んだかもしれない。だけどね、もしこの子が早苗さんではなく、人里の、何の力もない子供に同じ事をやったらどうなると思う? それも大多数に。そうなったら、もう誰にもその子達を救う事は出来ない。今回だって、私が貴女に気付けなかったら、貴女はどうなっていたと思う? 誰にも気付かれず、命の危険に晒されていたかもしれないのよ? それに……今回は無邪気な動悸だったけど、もしこの子が、この能力を悪用して、幻想郷の人々を見境なく襲い始めたら? 誰にも知られる事なく、人間や、妖怪達が襲われたら、取り返しのつかない事態になる。この子の能力には、それだけの危険が伴っているの」
 ――その時に傷付くのは、この子自身なのよ。
 早苗はアリスの鋭い剣幕の中に隠れた、ほんの少しの憂いに気付いた。アリスが言った事、当初、早苗がこいしに対して抱いていた危惧と全く同じものであった。早苗は、地面に倒れて項垂れているこいしを見つめた。アリスは、何処までもこいしの為を想って、心を鬼にしているのだ。彼女も、楽しくて、好き好んでこいしを殴ったわけではない。それは当たり前だ。早苗は思った。やはり、アリスは大人だ。誰かが誰かを叱る意味をちゃんと理解している。その術も。それは、今の早苗には無い物であった。
 アリスは膝を地面に付き、俯いたこいしの服を掴み、再び顔を上げさせる。こいしの顔は涙と鼻水でボロボロになっていた。
「人間と、私達のような妖とでは物差しが違う。それだけよ。こいしちゃん、もう二度とこんな事はしないって、誓えるかしら?」
 こいしは顔を真っ赤にし、大粒の涙を流しながら泣いていた。零れ落ちる涙を拭う事もせず、嗚咽交じりにアリスに返答する。
「しないよぅ……二度としないよぅ……っ」

こんな時に、何も言ってあげられない自分が忌々しい。

泣き崩れるこいしを見ながら、早苗は心の中でそう思った。こんな時に、適切な言葉を用意出来ないのは、自分自身、まだ「子供」だからだ。だが、それ以外にも理由はあった。
こいしの事を、悪と、思いたくなかったのである。
早苗は、既にこいしの事を友達だと思っていた。意識を操られていたとはいえ、早苗の中に残っているこいしとの思い出までが嘘になる訳ではない。おぼろげな時間の中で、早苗は、こいしの事を友達として好きになった。好きに、なれる筈だったのだ。
早苗は言葉をなくした。こいしも、泣きじゃくるばかりで何も言わない。辺りに残酷なほどの静けさが訪れる。もうすぐ夜が来る。

「アリスさん。こいしちゃんは、夜が嫌いなんですよ……」

 何でだったかなぁ、と、早苗は寂しそうに、それも、まるで独り言のように呟いた。アリスは何も言わない。それもそうだ。いきなりそんな突拍子もない事を言われても、返答に困る。しかし、そんなアリスをよそに、早苗はぽつり、ぽつりと言葉を続けた。

「そうだ、こいしちゃんは……暗いのが怖いんだ。あはは、月並みですよね。普通過ぎて逆にびっくりしちゃいますよね。私も、暗いのは怖いです。アリスさんはどうですか? 夜は好きですか?」

 質問を投げかけられても、アリスは何も答えない。

「私ね、こいしちゃんの事、好きですよ。子供っぽくて、言う事聞かなくて、滅茶苦茶で、いつも変な事を言って私を困らせるんです」

「……どうしてですかね……私、こいしちゃんを責める気にはなれないんだ……アリスさん……何で、何でかなぁ……?」

 何処までも落ち込んだ様子で早苗はアリスを、アリスの目を見て呟いた。アリスは何も答えないが、薄っすらと優しい笑みを浮かべて早苗の頭を撫でた。早苗が、こいしの頭を撫でた時と同じような仕草で。アリスにとって、早苗はまだ右も左も分からない子供だ。早苗は、アリスの柔らかな手つきに、今までのこいしとの日々を想った。それは、決意の合図だ。一つ、大人へと成長する瞬間があるとしたら、それはまさに今なのだろう。
「よく聞いて早苗さん……これはまだ公にはなっていないのだけれど、今、幻想郷では不可思議な『異変』が起こっているの」

「霊夢と、魔理沙、咲夜。三名が行方不明になっているのよ」

 何か知っている事はない? と、アリスは問う。咲夜の名前を聞いて、ようやく早苗はハッとした表情を浮かべる。
「私達、紅魔館で寝泊まりをしていたんですよ……そこで咲夜さんが行方不明になっているとは聞かされましたけど……まさか、霊夢さんや、魔理沙さんまで……?」
「咲夜に関しては詳しくはまだ分かっていない。だけど、霊夢が姿を消したのは二日前、魔理沙が姿を消したのは昨日よ……」
 二日前と言えば、早苗が神奈子にスカイフィッシュ狩りを命じられた日だ。そして、昨日はこいしと二人で魔法の森でスカイフィッシュを捕獲するための罠を仕掛けていた。そこで早苗は納得した。アリスは恐らく昨日、魔理沙の家を訪ねたのだ。その際に、こいしの仕掛けた罠に引っかかってしまっていたのだろう。早苗のその様子を見て、アリスは何故か意味ありげなため息を吐く。
「……この一件、私はこいしちゃんの能力が一枚噛んでいると踏んでいたのだけれど、どうやら当てが外れたみたいね……」
 アリスはそう言って泣き続けるこいしを見下ろす。こいしの能力についてのキャパシティは未だ不明であるが、どうやら術をかける対象は一人が精いっぱいのようである。霊夢、魔理沙、咲夜、それに合わせて早苗、四名の意識を持続して操る事は出来ない。こいしは今まで早苗の傍にいた。たとえ早苗の元を離れた時間があったとしても、その短時間で霊夢、魔理沙に何かを仕掛ける事は不可能だ。
「とにかく、早苗さんも協力して。三人を探すのよ。もしこれが他に漏れたら……異変解決に携わる人間が同時に三人も姿を眩ましたなんて知られたら、幻想郷は大混乱になるわ。そうなる前に」
「しかし、探せと言ったって……手がかりも何もないですよ!」
 早苗がそういうと、アリスは三枚の紙を手渡してきた。それは新聞の切り抜きであった。それも、見覚えのある記事である。

それは、スカイフィッシュの目撃情報が書かれた記事、こいしが持っていた物と同じ新聞の切り抜きであった。

「詳しい事は私にも分からないけど、三人には共通点がある。それは、このスカイ……何なのこれ? とにかく、このスカイフィッシュとかいう生き物の目撃情報と、三人の住処が一致しているの」
 一枚目、霧の湖、ここは紅魔館の付近だ。あくまで推測だが、咲夜はここで姿を消してしまったのである。
 二枚目は、魔法の森、魔理沙の住処だ。
 そして、最後の記事、三枚目、これは早苗も初めて見る情報である。スカイフィッシュが、博麗神社の付近で目撃されたらしい。
「私には、この一連の事が偶然だとは思えない。とにかく、私はこれから今まで異変に携わってきた人たちに声をかけてくる」
 アリスの言葉を聞いて、早苗はすぐに行動に移す事が出来なかった。後ろ髪を引かれるように、早苗はこいしの方を見つめた。その様子を見て何かを思ったのか、アリスは穏やかに言った。

「早苗さん……もう、遊びの時間は終わったのよ。あなたには、やるべき事がある筈。……そこは自分で決心しなさい」
 
 アリスはそれだけ言ってこの場から去ってしまう。残された早苗はこいしの蹲る姿を見つめる事しか出来なかった。一分か、五分か、少しの間、早苗はこいしを見た。こいしには、多分、きっと、悪気はなかったのだろう。悪い事をしていると、自分では思っていなかったのだろう。
 しばらく経つと、こいしの呼吸が落ち着いてきた。小さく、すんっ、すんっ、と鼻を鳴らす。びしょびしょの顔を服の裾で乱暴に拭う。そして、何事もなかったかのように、いつもの笑顔を浮かべて早苗の方を見たのだ。無理をしているのは一目瞭然であった。
「えへへ……怒られちゃった……」
 鼻声であった。気を抜いたら、また涙が零れ落ちてきそうな、すんでのところで耐えている、そんな表情であった。
「こいしちゃん……私、もう行かないと……」
 早苗は申し訳なさそうにこいしに向かって呟いた。こいしは何も言わず、いつもの、何を考えている変わらない表情で、ただじっと早苗の顔を見つめ続けていた。言葉が出なくなる表情だ。
「早苗、私、本当だよ……本当に、私はただ、友達に、早苗と、友達になりたくて……だから、その……」
 言わなくても、早苗には分かる。こいしは純粋だ。そこに、悪意がない事など、言われなくても分かる。早苗はただ短く「大丈夫」と呟いた。こいしの手を取り、優しく微笑む。
「大丈夫だよ……こいしちゃん、大丈夫、私、ちゃんと分かってるから……大丈夫だから……」
 無意識という物は理解し難い。早苗のその優しさが、こいしにとって、何よりも痛い罰だったのか、こいしは表情を歪ませ、許しを請うような目で早苗の手を掴み返した。これは、こいしの、本音だ。
「ごめんさない、早苗。私……こうしないと……誰とも友達になれないから……一緒に遊べないから……だから……」
 夜が訪れる。辺りは一気に暗くなる。空を染めていたオレンジ色の夕日が姿を消していく。もう、行かなければ。早苗はそう思った。頭の中は霊夢達を探す事でいっぱいだった。これが異変というのなら、自分は、守矢神社の巫女として、解決に赴かなくてはならない。それが、幻想郷に生きる自分の使命だからだ。
「こいしちゃん……私、もう……」

「……ねぇ早苗、今日は、私と遊んでくれるんでしょう?」

 何処までも、疑う事を知らない目でこいしは早苗に訴えた。こういう時、大人はなんて応えるのだろうか? 上手い返答が見当たらない。早苗は、何も言わず、こいしの目を見ながら、首を横に振った。相手を傷付けてしまう、容赦のない拒絶であった。
「……ど、どうして……だって、早苗、言ったじゃん……今日は、私と遊んでくれるって……どうして……」
 こいしの、仮面のような笑顔が少しずつ壊れていく。早苗は目をそむけたい衝動に駆られた。心の底から、自分の思慮の無さを呪った。こんな苦痛を味わうのなら、出会わなければよかった。自分と、こいしは、出会うべきではなかった。本気で、そう思った。
「こいしちゃん、ごめん、でも、私……」
 早苗は慌てて弁明の言葉を探す。しかし、こいしの悲痛な表情を見ていると、どんな言葉も意味を成さないような気がして、早苗の中で、声がカサカサと音を立てて消えてしまうのである。言葉を続けられない。すると、こいしが慌てて、辺りに散らかった物をリュックに入れ始めた。
「そうだ……そうだ、早苗、スカイフィッシュだよ! 一緒に、捕まえに行こう! また私、新しい秘密兵器を用意したんだ!」
 声が出ない。今の感情を言葉にしようとすると、胸が圧し潰されそうになる。早苗は悲しい顔をしてこいしを見つめた。もう、スカイフィッシュなんて言っている場合ではないのだ。早苗の表情を見て、こいしは目から涙が零れそうになるのをグッと堪えていた。
「よく聞いて、こいしちゃん……もう、スカイフィッシュはいいのよ。それより、私はやらなきゃいけない事があるの。それは、危険な事なの。だから、私はもう行かなきゃいけないの……」
「……いやだ」
 早苗は子供を諭すようにこいしに説明するが、こいしは聞く耳を持たない。早苗の言葉を無視し、しかし、だからと言って引き留める術も持たないまま、どうすればいいか分からない様子でこいしはその場に立ち竦んでいた。早苗の瞳から、静かに涙が流れた。
「もう、遊びは終わりなの……私は、行かなきゃいけないの……お願い、分かって……こいしちゃん……」
「いやだ……嫌だよぅ……っ、早苗と一緒にいたいよぅっ!」
 こいしが早苗の腕をぎゅっと掴む。乱暴に振り払おうとすれば呆気なく剥がれてしまうような力だった。だが、早苗は無理にこいしの手を拒む事はしなかった。したくなかった。
「お願いだよぅ……行っちゃやだよぅ……」
 心が張り裂けそうになる。早苗の瞳からポロポロと涙が零れる。どうすれば分かってもらえるのか。どうするのが正しいのか。すると、こいしが、悲しげな表情でポツリと呟いた。
「宝石……」
「え……」
「宝石、そうだ、宝石だよ……早苗、アレがあれば、一緒にいてくれる? 私、いっぱい持っているんだ……全部あげるよ。全部、早苗にあげる……宝石が採れる場所も教えてあげるから……」

「そしたら、一緒にいてくれる……?」


 こいしは、早苗の心を理解出来なかった。だから。

 早苗は、こいしの心を理解したかった。なのに。


 その瞬間、早苗の心は、脆く崩れてしまった。
「……いらないよぅ……っ」
 早苗は自身の顔を両手で覆いながら、その場に膝を付く。早苗はもうこれ以上、何も聞きたくなかった。何も見たくなかった。
「……いらないよう……グスッ、ひぐっ……こいし、ちゃん……もう、そんなの……うぅ……私……いらないんだよぅ……!」
 早苗は、子供のように泣き出してしまった。
「でも私、早苗にあげられる物なんて、もうコレしか……」
 早苗の涙を見て、こいしが辛そうな顔になった。本当に、何もかもを差し出すつもりだったのだ。早苗は、悲しくて仕方がなかった。こいしには、心が無い。ずっと分かっていた筈なのに、それが、とても悲しかった。こいしの心には何もない。感覚だけで、この子は生きている。こいしには、言っていい事と悪い事の区別がついていない。いや、本当は分かっているのかもしれない。だけど、もしかしたら、そう思って、こいしは宝石の話をこの場に持ち出してしまった。早苗が、そんな人間じゃないと、知っている筈なのに。
「……そんな物……何になるって言うの!」
 早苗は、涙交じりの声で叫んだ。
「分かんないよぅっ! 分かんないけど……何にもならないなんて、思いたくないよぅ! 待ってて、まだ、アジトにいっぱいあるんだ……取ってくる……早苗、待ってて……待ってて……っ!」
 こいしがリュックサックを放り出し、後方にあったアジトへと入っていく。早苗は顔を両手で塞ぎ、声を上げて泣き喚いた。虚しい。悲しい。心を通わせているつもりだった。心で、繋がっている筈だった。そんな相手が、その実、空っぽだった。こいしには、何も届いていなかった。その事実が、寂しくて仕方がなかった。
「こんな物……いらないよ……」
 早苗は、懐に入れていた宝石を取り出した。投げ捨てる為であった。宝石を手に掴んだ時、妙な違和感に気付いた。早苗は、恐る恐る宝石を掴んだ手に視線を移す。そこには――。
「あ、ああ………っ」
 早苗は、まるで、魂の一部を削ぎ落したような嘆声をもらした。


 早苗がその手に掴んでいたのは、ただの木の実だった。


 一瞬、意識が遠退きそうになった。理解が追い付かなかった。早苗の手から木の実が滑り落ちた。木の実が転がっていく。そこには、先ほどこいしが放り投げたリュックサックが置いてあった。早苗は、しゃっくりを上げながらリュックの中身を見た。たくさんのお菓子と、おもちゃ、そしてスカイフィッシュを捕まえるための道具が入っている……筈だった。
早苗は、こいしちゃんバズーカを手に取った。それは、木の棒に輪ゴムを巻いただけの、子供騙しの銃であった。次は、こいしちゃんポイポイを手に取った。段ボールの破片をセロハンテープで拙く繋いだだけの、ただのガラクタであった。
 魔法は、解けてしまったのだ。
 早苗はアジトの方へ目を向けた。立派だった筈の砦が、見る見るうちにしぼんでいく。後に残されたのは、雑木林の中に広げられたビニールシート、段ボールの壁に覆われた、いかにも子供が作りそうな、簡単な子供の遊び場、秘密基地だ。中央には新聞紙で出来た粗末なテーブルが置いてある。その上には、食べ終わった駄菓子の袋やジュースの空き缶が転がっていた。昨日、早苗はあそこに座り、ステーキを食べ、ワインを飲んだ事を思い出した。駄菓子にジュース、それがあの豪華な食事の正体であった。道理で腹が膨れない訳だ。こいしが、その隅っこで必死に何かをかき集めていた。こいしの両腕には、たくさんの木の実や松ぼっくり、どんぐりがあった。あれが、宝石の正体である。ただの、空想の宝石である。

 全て、空想だった。

 それらは最初から、こいしが見せた、ただの空想だった。いよいよ、早苗は言葉を失った。ずっと、こいしに意識を操られていたのだと、この時、初めて実感したのだ。いや……。
 意識、無意識は関係ない。こいしにとって、その木の実やガラクタは、宝石と同等の価値がある物なのかもしれない。こいしは本当に、それを大切な宝物として扱っていたのかもしれない。大事な物として、それを早苗に譲ったのかもしれない。
 その瞬間、早苗の目の前が暗転した。夢から覚めるように、現実へと戻っていくかのように、早苗の意識は「落下」した。
 ・・・
 それは、子供の頃の記憶だ。
そこは、子供が親の帰りを待つための公園であった。幼い頃の早苗は、遊具で遊んでいた。しかし、友達が一人、また一人と、日が暮れるにつれ姿を消していった。ついに、早苗は独りぼっちになった。早苗は一人、砂場で遊んでいた。いつまでも。
そんな時、誰かが早苗に声をかけた。早苗と同じくらい小さな女の子であった。早苗は、その子の名前も顔も思い出せない。
その子は早苗に、一緒に遊ぼうと言った。早苗はその子と、砂場で大きな城を作った。城と言っても、かき集めた砂の山に、木の棒を立てただけの、稚拙な物だ。だけど、早苗とその子にとって、その砂の城はこの世のどんな宝よりも価値のある物だった。
それから、早苗は毎日その子供と遊ぶようになった。鬼ごっこ、かくれんぼ、いつまでも飽きる事なく、その子と公園で遊んだ。この世に存在する物は全て自分達の遊び道具だと信じて疑わなかった。遠くに見える巨大なビルの山も、夕暮れに染まる滑り台も。
その正体の分からない子どもは毎日のように公園にいた。だが早苗は、時間と共に、徐々にその公園に足を運ぶ回数が少なくなった。最後の遊びは、確か、かくれんぼだ。だけど、早苗はその子を見つける事が出来なかった。先に帰ってしまったのかと思い、早苗は公園を後にした。その日以来、早苗は気まずさからか、その公園へ足を運ぶ事はなくなった。時は確実に前へと進む。小学生から、中学生、高校生になる頃には、その公園で遊んでいた事さえ思い出せなくなっていた。ましてや、そこで毎日のように遊んでいた子どもの事など、すっかり忘れ去ってしまっていた。
ここからは、ただの空想。
これは、あり得たかもしれない、早苗の未来の話だ。これは決して、早苗の確定した運命などではない。ただの、空想だ。
早苗は、第一志望の大学に落ち、第二志望の大学へ行った。そこで初めて恋をし、徐々に大人とはどういう生き物なのかを知るようになった。楽しい事も多いが、それ以上に辛い事も多い。だけど、辞める事は出来ない。それが、大人だ。
早苗は大学卒業後、中小企業へと就職した。度重なる激務の中で日々を滑らせて生きていた。大学で知り合った男に振られ、早苗の心は一度空になってしまった。元々器用な方ではない早苗は職場の人間関係で精神を摩耗させていた。
理不尽な事には慣れているつもりであった。女性職員同士の陰口、派閥、上下関係、気の遣い合い。早苗は優しくて真面目で、嘘が苦手で、無意味に努力家であった。そんな早苗に対し、世界は、おかしいくらい残酷になる。全てが鋭利な刃物に思えてしまい、早苗は傷付けられないように職場では肩を丸め、怯えるように過ごしていた。若さを失い、気力もすり減り続けていく。徐々に欠勤が増えた。朝起きると身体が、脳が痺れて動けないのだ。精神科で貰う薬が自宅の机に増えていく。死にたい、そうではなく、消えてなくなりたい。そんな感情に支配されてしまうのだ。通勤で利用する満員電車の中では満足に息が出来ない。常に水中、それもゴミの溜まった汚水の中に沈められているかのような、世界との絶望的な不和を感じながら、早苗は職場へ向かう。生まれ変わったら、次はもっと利口な人間になりたいと思った。世渡り上手で、気を遣うのが上手くて、誰からも愛される人間に。そんな空想を描き、時間を消費する。
夜が来る。寝て、起きたら、また仕事に行かなくてはならない。だから、寝るのが怖い。一時間おきに目が覚める。怖くて眠れない。仕事以外で生き甲斐を探そうとも思うが、そんなの、分からない。早苗には、やりたい事など無いし、行きたい場所もない。将来の夢、なんて一度も真面目に考えた事など無かった。そもそも早苗は既にそんな甘い「青春」を語れる年齢ではなかった。
早苗には、未来なんて存在しなかったのだ。
いや、早苗だけの話ではない。
人の行く末は基本的に「行き止まり」だったりする。遅かれ早かれ、何処かで立ち止まらなければならない瞬間が来る。引き返す事も出来ず、ただただ止まる事しか出来ない場所にいつか辿り着く。早苗の場合、それが今だった。それだけの話だ。
早苗は、職場で大声を上げて泣き崩れた。誰もが早苗から目をそむけた。早苗は会社を辞め、実家へと戻った。大学時代の友人は結婚し、子供が二人いた。大人になって、学生の頃に仲の良かった友人たちが、まるで顔も良く分からない他人のように思えた。また、消えたくなった。地元の精神科で薬を貰った。その帰り道。
 昔、遊んでいた公園にふと立ち寄ってみる。
 すると、そこにはあの子がいた。
顔も名前も覚えていないけど、早苗と毎日遊んでくれた、あの少女が、あの頃の姿のままで公園の砂場で遊んでいた。あの頃と同じ、砂の城を作っていた。あの頃と同じ、あの時と同じ、砂の城だ。
 早苗は堪らず、公園へ入ろうとした。だけど、足が思うように動かない。少女が、早苗に気付いた。少女が早苗に向かって無邪気に手を振った。早苗は叫びたくなった。公園の入り口で膝を地につけ、声を殺して泣いた。自分は、「そっち」にはもう行けないのだ。
 少女が早苗の名前を呼ぶ。
その声に応えてはならない。
大人として、それは許されない行為だ。
目の前に、今の自分の姿が現れる。少女の頃の、艶のある髪も、張りのある肌も、失われつつある。もう、早苗は少女ではない。
 少女が早苗の名前を呼ぶ。
 その声に応えてはならない。
「本当は、私もそっちに行きたい」
 早苗は情けない呻き声を上げ、苦痛に塗れた表情で公園の少女を見つめた。子供にはもう戻れない。大人を、辞めてはならない。
 
『もういいかい?』
 
 その一言を口に出来ない自分が、忌々しい。
 ただの空想、ただの、あり得たかもしれない未来の話だ。

 ・・・
 
 早苗の脳裏に、途方もない空白が訪れた。とても長い夢を見ていたような気がする。それは、子供の頃の自分自身、そして、幻想郷ではなく外の世界で生きた、未来の自分自身の夢だ。早苗の目の前には、ビニールシートと段ボールで作られた謎のスペースが広がっていた。いつからここにいるのか、どうしてここにいるのか、早苗は詳しく思い出す事が出来なかった。足元には誰かのリュックサックが転がっている。誰かが近くにいるのだろうか?
「私は、何をしていたんだろう……?」
 呆気にとられた表情で、早苗は目の前の景色を見つめていた。この、子供の秘密基地のような場所が、何故か懐かしく思える。それがどうしてなのかは忘れた。しかし、確かな記憶が一つある。
「そうだ……霊夢さん達を探さなきゃ……」
 それは、異変が起こっているという事。とても大切な事だ。早苗はぼうっとした頭を整理した。どうしてここにいるのかは分からないが、アリスがやって来て、霊夢達が行方不明になっている事を知らされた。自分は今から、彼女達の捜索に行かなくてはならない。早苗は全部思い出した。思い出したと同時に、悲しくなった。どうしてこんなに心が痛いのか、その理由は思い出せない。視線を落とすと、リュックサックの傍に小さな木の実が一つ落ちている。
「私、誰かと一緒だったのかな……?」
 顔も名前も思い出せない少女が頭の中でチラつく。その少女が何者なのかも思い出せない。しかし、その子の事を思い出そうとするたびに、心が重く、痛む。それが何故かは思い出せない。
「行かなきゃ……私は……」
 ・・・
「早苗ぇっ!」
 こいしが両手いっぱいに木の実を抱えて早苗の目の前に立った。
「ほら、見てよ早苗! いっぱいあるよ! 全部、全部、早苗にあげる! だから、私と一緒に……一緒に……早苗……」
 こいしは、早苗の表情を見た。
そして、思い知ってしまった。
全ての術が解けてしまった事に。

 無意識を操る程度の能力。
 
 それには段階があった。まず、本人の存在を他者の意識から切り離す事、こいしと出会ったばかりの早苗の状態である。次に、本人の意識から他者を取り除く事、今日、人里で怪物ごっこをしていた時の早苗である。早苗の意識の中から、人里に住む人間達の存在を取り除いたのだ。だから、早苗には人里が無人に見えた。
 そして、最後の工程、それこそ、この能力の真髄である。

 それは、古明地こいしという存在の完全なる忘却であった。

 早苗は、こいしと過ごした日々を、こいしという少女を、その全てを、何もかも忘れてしまった。その作動スイッチは――。

「どうか、あの子の手を離す時は、容赦なんてしないで下さい」

 古明地さとりが早苗に放った言葉である。手を離す時、それは肉体的な意味なのか、それとも精神的な意味だったのか、どうやら、答えは後者のようである。早苗は、こいしから手を離してしまった。
 早苗にとって、それはほんの一時の別れのつもりであった。この異変が解決すれば、もう一度最初からやり直せばいい。こいしに会って、今までと同じように一緒に遊んで、そして、少しずつ、ゆっくりと、時間をかけて理解していけばいい。早苗はそう思っていた。難しい事なのかもしれないけれど、こいしと、分かり合えるのは時間の問題だと思っていた。ちょっと、今日は用事があるから。早苗にとってはその程度の些細な別れ、だが、こいしにとって、それは今生の別れに等しい物であった。
 それを知っていたから、こいしは頑なに早苗との別れを拒んでいたのである。ほんの一瞬のさよならが、こいしにとっては永遠の別れだったのだから。それが、無意識を操る能力の『代償』だ。
 宝石はいらない、早苗がそう思った瞬間、こいしとの最後の繋がりが断たれた。こいしの、最後の能力が作動したのだ。こいしは、手に持っていた木の実をポロポロとその場に零し――。

「……うわああああああん……ッ!」

 早苗の身体にしがみつき、声を上げて泣いた。
 誰かに抱き着かれている事に、早苗は気付かない。もう、早苗がこいしを認識する事はない。早苗は、そのまま歩き出そうとする。こいしの手が剥がされる。こいしは慌てて早苗の後を追った。
「い、嫌だよぅっ! 早苗……待ってよ早苗ぇ……っ!」
 もう、こいしの言葉は早苗には届かない。こいしは慟哭の声を上げた。悲痛な叫びであった。だが、どんなに喚いても、早苗がこいしの言葉に耳を貸す事は、もう二度とないのだ。
「嘘つき……っ! 早苗、言ったじゃないかっ。「ずっと」、一緒にいるって……嘘つき……っ! うわああああん……ッ!」
 早苗は虚ろな表情のまま、静かに涙を流した。流れる涙の理由も、心の痛みの正体も知らないまま、早苗はこいしから離れていく。
「早苗ぇ、夜が来る……夜が来るよぅ! 怖いよ、早苗、怖いよぅ……。一人は嫌だ……もう、独りは嫌だよぅ……ッ」
 こいしの声に、早苗が振り返る事はなかった。
 こいしは、一人ぼっちになってしまった。
「うわあああん……ッ! うわあああああん……ッ!!」

 辺りが闇に染まり、静かな夜が訪れた。
 早苗は、思った。
 誰かが、夜を怖がって泣いているかもしれない、と。
 それが誰なのかは、もう、早苗には一生分からない。
 もう早苗は、こいしを見つける事は出来ないのだ。


 ……。


 …………。


 ………………。


 早苗は急いで守矢神社へと向かった。神奈子と諏訪子に事情を説明し、助力を仰ぐためだ。もうスカイフィッシュなんてくだらない事言っている場合ではないのだよ。しかし、早苗の足はやけに重い。気がかりというか、心臓の奥で何かが引っかかっているような気がしたのだ。やけに寂しい。もうちょっと賑やかな奴が隣にいたような、今までずっと一人だった筈なのに、誰かが足りないような、そんな気がしたのだ。
(ダメダメ、切り替えないと、しっかりしないと……)
 そうは言っても、気になるものは気になる。早苗は、一度だけ、本当に何の意味もなく立ち止まり、振り向いた。勿論、誰もいない。胸がチクリと痛んだ。どうして胸が痛むのかは分からない。
 それが、どうにも悲しく思えて仕方がない。
 そんな時であった――。
「……っ!?」
 がさがさと何かが動く音が聞こえたのだ。早苗は弾幕の用意をし、警戒しながら辺りを見渡した。目には見えていない。だが、確実に何かが傍にいる。早苗には確信があった。幻想郷、博麗神社の巫女である博麗霊夢には天才的な勘があるように、早苗には身の危険に対する、天性の直観力があった。数は、一つ、二つ……否、もっと多い。数えきれないほどの敵がすぐそばまで迫ってきている。
「……な、なに……っ?」
 その時、早苗の背後で、何者かが動いた。早苗に振り返る隙を与えず、そいつは早苗の後頭部に向かって攻撃を仕掛けた。
 首筋にチクリと針を刺されたような痛みが走った、その瞬間、早苗の視界はぐらりと歪んだ。まるで即効性の麻酔を打たれたような感覚だった。早苗はぼやける視界の中で敵の顔を見ようとしたが、突如やって来た猛烈な眠気に逆らう事が出来ない。
 早苗は、眠ってしまった。
 姿を現さない敵は、早苗の周りをグルグルと回り続ける。そして、一斉に彼女の身体を持ち上げ、何処かへと運んで行ってしまった。


 ……。


 …………。


 ………………。


「うう……ぐすん……」
 一人置いてけぼりにされたこいしは、しばらくその場に蹲ったまま動こうとしなかった。完全に、早苗から存在を忘れ去られてしまった。その事が悲しくてたまらない様子であった。
 辺りはすっかり暗くなってしまっている。こいしはすっと立ち上がり、辺りに散らばった木の実を拾い始めた。一つ一つ、リュックサックの中に大事に仕舞っていく。その度に、早苗との思い出が蘇ってくる。それが切なくてしょうがなかった。心が空っぽでも、切ないっていうのが一体どういう感情なのかを、こいしは知っている。
 その理由は、本人もよく覚えていない。
 辺りに散乱した木の実、木で出来たおもちゃの銃に、段ボールの欠けらを繋いだだけのガラクタを粗方リュックサックに詰め終わると、こいしはため息をついた。
「もっと、早苗と遊びたいよ。友達になりたいよ……」
 呟くのも虚しい願いであった。こいしはリュックを地面において、静かにアジトに目を向けた。こいしの目には、立派な砦に見えていた。どんなにお粗末な秘密基地だとしても、一生懸命作れば、そこは大事な場所になる。しかし、ここを訪れる者はもういない。
「はぁ……お家に帰ろうかなぁ……」
 こいしがしょんぼりと呟く。いつまでもここにいてもしょうがない。こいしはリュックを拾い上げてそのまま帰ろうとした……が。
 足元に置いていた筈のリュックが無い。
「え……あれ……?」
 そこで、こいしは「そいつら」の存在に気付いた。

 誰かが、こいしのリュックを勝手に持ち去ろうとしていたのだ!

「えっ! 何っ! 何アレっ!?」
 こいしは驚嘆の声を上げた。
そいつらは、人間ではない。
そいつらは、黒くて丸い物体であった。
まことに奇妙な生き物だ。大きさは丁度バスケットボールほどである。そんな謎の生き物が群れになってこいしのリュックを必死に持ち運ぼうとしてるのだ。
「ま、待ってーっ! それ、私のリュックだよーっ!」
 黒い物体はダムダムと弾みながら茂みの奥へと行ってしまう。こいしは慌てて彼ら(?)の後を追った。すると、黒い物体達はリュックを運びながら互いに謎の信号で会話を始めた。

『ねえねえ、僕達、誰かに追いかけられてない?』
『まさか! 透明装置はちゃんと作動しているし、誰かに気付かれる訳ないよ。僕、ちゃんと確認したもん!』
『それより、コレ、持って帰って大丈夫かな?』
『だって、周りには生体反応なんて無かったよ? という事は、この荷物は誰の物でもない。だから持って帰って大丈夫だよ』
『そうかなぁ? でも、何だろう? 誰かがいる気がする……』

 こいしは黒い物体達に叫んだ。
「待ってよーっ! 持って行かないでーっ!」
 だが、黒い物体にこいしの声は聞こえていない様子であった。
「どろぼう! どろぼう!」
 こいしがわーっと泣きながら彼ら(?)の後を追いかける。すると、妖怪の山、その林の中にマンホールのような扉が不自然な形で設置されているのが見えた。黒い物体達は急いで扉を開け、その中へと消えてしまった。謎の入り口である。
「な、何……ここ……?」
 ――その時、こいしは酷い眩暈を覚えた。頭の奥に激しい痛みが走る。何かが、こいしの脳内に入り込んできた。
「まるで、『悪意』そのものじゃない」
「ここは何処? みんなは? 私の神社は何処へ行ったの?」
「どうして、英語なんだ……霊、夢……ッ!」
 霊夢、魔理沙、咲夜、三人の声が聞こえる。このマンホールの中からだ。こいしは恐る恐る扉を開ける。中には梯子が備え付けられており、通路のように何処までも奥深く伸びていた。こいしは一瞬躊躇した。こいしには「恐怖」が具体的にどういう物なのかが分からない。ただ、恐怖と呼ばれる物に直面した時、全身に生じる不快さなどは感じ取る事が出来た。こいしは理解した。この奥は、多分、入ってはいけない場所なのだと。しかし――。
 再びこいしの脳内に言葉が入り込んでくる。弱々しく、何処か不安定な声であった。その声を聞いた時、こいしはハッと気づく。
「この声は……早苗の声だ……」
 霊夢達だけではない。この地下通路の奥から、早苗の声が聞こえたのだ。それは実際に発せられた声ではない。人間が無意識のうちに脳内に並べるような、現実的には「存在しない声」だ。この世に生まれる事のない、無意識が生んだ微弱な意思、誰にも聞こえない筈の声を、こいしは受け取る事が出来るのであった。
「行かなきゃ……早苗を、みんなを助けなきゃ……」
 こいしはごくりと唾を呑み込み、延々と地下へ伸びている通路に入っていく。早苗達の、無意識の声を頼りに――。






「例えばなんだけど、霊夢。あなた、自分が創作の中の登場人物だと思った事はない?」




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