Coolier - 新生・東方創想話

空想イマイマシー

2019/04/07 21:58:54
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 第二章『やれ逃げろ! スカイフィッシュ大襲撃!』

 ソファーの上で早苗は目覚めた。結局こいしが添い寝をねだってうるさかったので早苗は渋々、本気で渋々とベッドを譲り、自分はソファーの上で眠ったのだが、何故かやけに身体が重い。
起きてみると、ベッドで寝てた筈のこいしが自分の身体におぶさる状態で寝息を立てていたのだ。恐らく、真夜中の内に目が覚めてこちらの方へ移動してきたのだろう。よだれが早苗の肩にぽとんとだらしなく垂れている。でろーんと糸を引いている。カーテンの隙間から差す朝日によってよだれが光り輝いて見えた。早苗はその黄金色に輝くよだれを咄嗟に「栄光の架橋」と名付けた。いや、今はそんな事を言っている場合ではない。よだれだ、よだれ。
「汚ぇなぁーもう何だよコイツッ!」
 早朝だというのによく声が出るなぁと自分でもつくづく思う早苗であった。スカイフィッシュ狩り、まさかの2日目突入である。
「うーむにゃむにゃ……アレ? 早苗、おはよう……」
「おはようじゃねーよバカたれッ! オラッ、さっさと起きろ!」
 眠気でボーっとしているこいしを床にぺいっと蹴り落とし、早苗はよだれだらけになったジャージを着替える。
「うぅ……何だか、怖い夢を見た……早苗ぇ……」
 こいしが目に涙を溜めながら早苗の裾を引っ張る。どうせ聞いたところで頓珍漢な事しか言わないだろうし、眠気を覚ますために罵声を浴びせようかと思ったが、こいしのウルウルとした瞳を見たら何も言えなくなる。早苗はどうしようもなく返答に困った。
「……はぁ、もう……一体どんな夢を見たの?」
 しょうがないといった感じで早苗は質問してみる。

「えっとね、あのね……霊夢が、魔理沙にどら焼きを食べさせられて、その後、咲夜に『ドンキーコング3 謎のクレミス島』の左のゴリラのモノマネを見させられるっていう夢なんだけど……」

「わはははははははははッ!」
 何だよそれ、と言いながら早苗は爆笑した。こんな馬鹿な返答されるなら聞くんじゃなかった。呆れて笑うしかなかった。ちなみに早苗は空から金が降ってきて億万長者になる夢を見た。内容がすげーバカだから他人には口が裂けても言えない。
「そんな事より、こいしちゃんは一応スカイフィッシュハンターなんでしょ? 何か次の手掛かりとかないの?」
 すると、途端にこいしの表情がぱーっと明るくなった。私に任せとけ! と胸をポンポンと叩く。二人は支度を済ませ、美鈴に挨拶をして紅魔館から出て行く……本当は当主であるレミリアの所にも顔を出すのが筋だと思ったが、向かう途中で美鈴に止められた。今は早朝、吸血鬼であるレミリアが起きている筈が無い。仕方なく二人はそのまま次の目的地へと向かった。
 こいしの雑なナビゲートによって連れてこられたのは魔法の森である。正直に言うと、早苗はこの森が嫌いだった。高く伸びた木々によって一日中暗がりであり、湿気も多い。そして何より、ここにはWi-Fiが無いのだ! 違う。そもそも幻想郷にWi-Fiなんてない。早苗がここに来るのが嫌な理由は、純粋に「怖い」からだ。
 早苗が怖いと思う物の一つが「魔女」である。幼少期の頃、早苗はとある絵本を読んで「魔女」という存在が嫌いになった。どんな話だったかはもうよく思い出せないが……確か女の子がパンを踏む話だ。その話を読んで以来、早苗は種族としての「魔女」を恐ろしいと思うようになった。だから自称魔法使いの霧雨魔理沙と初めて会った時は「どうしたのこの子?」と困惑してしまった。話を戻して、ここは魔法の森である。ジメジメとした環境、いかにも恐ろしい魔女が住んでいそうな雰囲気だ。
「どうしたの早苗―、早くしないと置いてっちゃうよー?」
「ちょっと待ちなさいって! ああもう、靴がビショビショ……」
 足元の草木が湿っており、数歩ほど歩いただけで靴が汚れてしまうような場所である。好んでこんなところに住もうと思う奴はきっと滅茶苦茶バカな人だろう。ひどいのぜ。
 ある程度森の深部まで来た時、こいしがリュックから新聞を取り出した。またもや『文々。新聞』の記事である。同じく、スカイフィッシュの目撃情報が掲載されていた。一面の写真には霧雨魔理沙のやっている『霧雨魔法店』が写っている。相変わらず胡散臭い店だ。つまり、この森にスカイフィッシュが現れる可能性が高いという事だ。すげーなこいしちゃん、ちゃんとしてんじゃん。
「ここら辺にスカイフィッシュがいる可能性があるって事ね」
「ふふふのふ、その通り! 昨日と違ってここは遮蔽物が多過ぎるから、今回はトラップを仕掛けるよッ!」
 そう言いながら、こいしはリュックサックから『こいしちゃんバズーカ』と同様、メタリックな材質で出来た謎の器具を取り出した。
「え、何コレ」

「……名付けて『こいしちゃんポイポイ』だよーっ」

 早苗は絶句した。ネーミングセンスがクソ過ぎてもう何も言う気になれなかった。こいしちゃんポイポイ、略してこいポイはビジュアルで言うと狩猟などで使われる「トラバサミ」に近い形をしている。作戦としては、昨日と同様、ゆで卵を餌にし、スカイフィッシュをおびき寄せる。スカイフィッシュが近付いた瞬間にこいしちゃんポイポイが作動し、餌に食い付こうとしたスカイフィッシュを捕獲する、という物であった。
「なるほど、これなら危険も少ないわね……」
「でしょう? それじゃあさっそく罠を仕掛けていこう!」
 そう言ってこいしはせっせと森のあちこちにこいしちゃんポイポイを設置していく。早苗はその光景を見ているだけであった。でも楽しそうだからこのままテキトーにやらせておこう。早苗はそう思ってそこら辺の木々にもたれた。何かヌメヌメする木だった。
「ああもう最悪だココ! ゴルフ場になっちまえッ!」
 悪態をつきながら早苗はチラとこいしの方を見た。せっせと働きながら「ちょっとー早苗も手伝ってよー」みたいな文句を一度も言わないこいしに何となく罪悪感を覚えてしまう。早苗は躊躇いながらもこいしに話しかけた。
「精が出るねーこいし君。どうだい調子は」
「ああ、お疲れ様です、早苗社長。あと少しで今月のノルマ達成ですわ。いやーそれにしても今年のスカイフィッシュは活きがいいですね。こっちもやる気が出ますわ。あのね、ワシはね、スカイフィッシュをその手に掴んだ時の「ぴしゃっ」と尻尾を仰け反らせた時の感触が堪らなく好きなんですわ。生命を肌で感じ取る事が出来るというかね、とにかく、それがワシの生き甲斐なんですわ」
 水産関係の人間みたいな喋り方だ。
「ところで話は変わるけど、私も何か手伝おうか?」
 このまま黙って何もしないでいるのは流石に手持ち無沙汰すぎる。すると、こいしが嬉しそうにこいしちゃんポイポイを手渡してきた。「何処かシゲシゲしてるとこに仕掛けて」とこいしは言うが、この辺は何処もかしこもシゲシゲしている気がする早苗であった。本当は「シゲシゲ」がどういう物なのか具体的には分からなかったが、何となく言葉のニュアンスだけでそのシゲシゲしている個所を探してみる。そしてぶち当たる。「いや、シゲシゲって何だよ」という疑問に。
しばらく一人でうろうろと歩き回っているうちに随分こいしから遠ざかってしまっている事に気付いた。そこで一気に自分の置かれている状況を思い出してしまう。こんな薄気味悪い場所に一人きりって死ぬほど危なくないか? 得体の知れない妖怪は勿論、人間なのか化け物なのかすらも分からない変態共に囲まれてあんな事やこんな事をされる可能性だってある。そんな事になってしまったらもうお嫁にいけない。嫌な妄想が早苗の中で膨らんでいく……。
すると、後方からいきなり声をかけられた。
この声はこいしの声ではない。堪らず、早苗は悲鳴を上げた。
「うわあっ?」
 真夜中に露出狂に遭遇してしまった時のような悲鳴であった。普通、男性がいきなり恥部を露出しているところを女性が見たら誰もが甲高い悲鳴を上げるイメージがあるが、実際は違う。人間、咄嗟にそこまで大きな声は出せないように出来ている。露出狂に出会ってしまった時の第一声は大抵地味で、はっきりとした声は出せない。それが「うわあっ?」である。混乱と困惑、そして瞬発的な嫌悪が合わさって「うわあっ?」という言葉で出力されるのだ。
 そこに立っていたのは、こいしの姉である古明地さとりであった。
露出狂ではない、のだが、それとほぼ同等の嫌悪を早苗は抱いてしまった。姉妹だけあって何処かこいしと似た顔つきのさとりであったが、その表情には明らかにこいしとは違う物があった。
それは目つきだ。こいしの表情には多少なりとも何処か「無邪気さ」が感じられるのだが、さとりは違う。その目には確実に負の感情が宿っていた。「目は口程に物を言う」、この言葉の意味を、早苗は生まれて初めて理解した。嫌悪、侮蔑、理由の存在しない悪意が無条件で自分自身に注がれる。明らかに敵意のある視線であった。早苗は反射的に身構えてしまう。
 
「初めましてかな? 地霊殿の当主、古明地さとりと申します」

 さとりは慎ましく挨拶をする。ひょっとしたらニコリと笑みを浮かべていたかもしれない。しかし、早苗は気付いた。この妖怪、柔らかい口調だが、目だけが笑っていなかった。それは第三の目ではない。さとりの顔面に付いている鋭い両の目だ。
「ああ、初めまして……東風谷、早苗と言います……」
(……こいしのお姉さんか……一体何の用だろう?)
「いえ、実は……我が妹の様子を確かめたくってね……」
 何も聞かれてないのに唐突に返事をするさとりに、早苗は一瞬ぞわっとした何かを感じた。身体の内面を無神経にベタベタと蹂躙されるような不快感があった。心を読まれたのだ。気色が悪いなんてもんじゃない。裸体を見られるより心細くなる。文字通り丸裸にされたような気分であった。自分の肉体だけではなく、更にその奥、内臓の奥深くに隠された、露呈すべきではない『東風谷早苗』という人間の本質に、断りもなく土足で上がり込んできたのだ。
(うげぇ……マジ無理、怖い……って、これも全部向こうには筒抜けって事か……じゃあもう開き直ろう。勝手に人の心を読むなんてさとりさんは最低です! 無神経です! 大嫌い!)
「あはは、そんなに嫌わないでもいいじゃないですか。別に貴女の事をどうこうしようというつもりはありません。私が勝手に人の心を見てしまうのは仕方のない事ですから……」
 地霊殿だけではない。地底は人々から忌み嫌われるような妖怪の巣窟だ。その中でも、目の前のさとりは別格である。噂には聞いていたが、早苗はその嫌悪の塊を実際に肌で感じ、その恐ろしさを痛いほど思い知らされた。なるほど、嫌われる訳だ。
 一歩後退る早苗を見て、さとりは鼻で笑う。どうやら、軽蔑されるのは馴れっこらしい。その様子を察したのか、早苗はほんの少しだけ罪悪感を覚えた。もし、さとりが一瞬でも寂しそうな表情を浮かべたら、そこまで心は揺れなかったかもしれない。そう、さとりは、拒絶する早苗の姿を見て、何も思わなかったのだ。嫌われる事に対し、悲しいとか、怖いとか、そう言った悲観の気持ちを表情に一切表さなかったのだ。それってつまり、「自分」を理解ってもらえなくても別に構わない、という事だ。どういう生き方をすれば、そんな風に割り切れるというのか、否、それは彼女の問題ではない。
覚妖怪は、世の人の在り方で左右される。彼女を一方的に罵るのは何処か間違っている。早苗は少しだけ反省した。
(ああもう……さとりさんの気持ちも知らないで……、神奈子様の言う通り、私ってこういうところが未熟なのよね……)
 今の早苗の心を読んだのか読んでいないのか、さとりは少しだけ眉をひそめた。そこから間を空け、ゆっくりと口を開く。
「ところで、どうして貴女はこいしと一緒にいるの?」
「えっと、それは……」

(スカイフィッシュを捕まえるためのお供としてあの子を連れているなんて言っても意味分からないだろうなぁ……)

 流石にこの返答は想定外だったのか、さとりは口をポカンと開けた。

(え、何それ……? スカイフィッシュ? 何この人、そんな変な事の為にうちの子を連れ回しているの? やだ、怖……)

「私の心を読めるんなら、口で説明する必要ないでしょう? 今あなたが読み取った通りですよ。文句あんのか」
 何処かのタイミングで唐突に吹っ切れてしまったのか、早苗は臆する事なくさとりの第三の瞳を睨みつけた。
「いや、分かんないんだけど。何、スカイフィッシュって? 私の妹に何してくれてんの? 何か、凄い、怖いんだけど」
(私だって別に好きであの子を連れてる訳じゃないし。ただ、こいしちゃんが「私はスカイフィッシュハンターなんだから」って言いながら勝手に付いてきているんだ。それはもう仕方ないのだ)
「え、何あの子、スカイフィッシュハンターだったの? いつの間にそんな職に就いたの? 実の姉なのに知らなかった」
 時間にして約十秒、二人の間に沈黙が訪れた。情報量が多すぎるので互いに脳が一時的に停止してしまったのだ。
「……いや、まぁ……こいしが楽しそうにやっているなら、別に良いわ。では、私はこれで失礼します」
「ちょっと待って下さいよ。こいしちゃんに顔ぐらい見せていったらどうです? すぐそこに居ると思うので……」
「結構です。別に、あの子は私の顔を見ても楽しくないと思いますし。貴女と一緒にいる方が、こいしにとっては重要そうですしね」
 どんな感情なのか良く分からない抑揚でさとりは言い放ち、そのまま早苗に背を向けて立ち去ろうとする。「とりあえずあの子が飽きたら地霊殿に帰ってくるように言ってあげて下さい」とだけ言い残す。それこそ本人に直接言えばいいのに、と早苗は思った。
しかし、早苗はそれを口にする事はなかった。何となく、自分のような部外者では立ち入る事を許されない、彼女達だけの事情があるのだろうと悟ったからだ。っていうか、いずれにせよ早苗にとっては別にどうでもいいッスって感じの話だった。すると、立ち去ろうとしていたさとりがふと足を止め、早苗の方に振り返った。

「早苗さん……でしたっけ? 他者から見れば私は恐らく「悪」の類の存在です。私は決して善良な生き物ではないので、世間一般で言うところの「いい人」という物をあまり知りません。でも、少なくとも、あなたは多分「悪人」ではないのでしょう。それくらいは私にもわかります。だから、どうか……」


「どうか、あの子の手を離す時は、容赦なんてしないで下さい」


 それは多分、あなたの為になりません――。さとりは笑顔を作るのが下手だったので、早苗がそれを「笑み」と理解するのに時間がかかってしまった。さとりがそんな不器用な笑顔を浮かべながら早苗に告げる。意味深過ぎて理解が追い付かず、早苗は返答する事が出来なかった。さとりはそのまま森の暗がりへと消えてしまった。早苗は思った。何・じゃ・そりゃ、と。そしてこうも思った。
(よし、ここにこいしちゃんポイポイを仕掛けよう)
 だって何かここ凄いシゲシゲしてるんだもん。シゲシゲが何なのか知らないけど早苗は適当に木を一本選び、その根元にこいポイを仕掛けた。はっきり言う。こんなんで捕まるワケが無い。
 ……。
 元来た道を戻り、早苗はこいしと合流する。こいしは木陰で気持ちよさそうにうたた寝をしていた。もたれていた木が何かヌルヌルする樹液を垂れ流していた。とどのつまり、こいしの肩もヌルヌルになっていた訳だ。早苗は慌ててこいしを起こした。
「ちょっとこいしちゃん! こんなクソみたいなトコでお昼寝なんてしたら服がヌルヌルになるでしょ!」
 ぱちっ、とこいしが目を開ける。どうやら用意していた全てのトラップを仕掛け終わったらしい。「早苗おはよー」と言いながら早苗の腕にぎゅっと抱き着いてくる。早苗は悲鳴を上げた。
「ヌルヌルした手で抱き着かないでぇッ! うわああすげえヌルヌルする! ちょっと、離してッ! 離せこのバカッ!」
「うーっ、やだ! 私、早苗のこと好きだもん! ぎゅーっ!」
 もう最悪だ! 帰らせてくれぇ! という早苗の悲痛な叫びは森の静けさの中で儚く溶けてしまった。二人してヌルヌルの樹液に塗れながら魔法の森を後にした。
 ・・・
 二人はそのまま妖怪の山方面へと戻り、例のアジト『うっちゃれ! ファイヤーこいし組』本部で待機する事になった。改めて見ると外観はゴツいのに内部はかなり簡素な造りである。スカイフィッシュ探しを始めた際、こいしちゃんによる面接を受けたのがこの場所だ。
「はぁ……お腹が空いたな……」
 椅子に座って途端に早苗のお腹が「くぅ」と可愛らしい音を立てる。時刻はもうすでに昼食の時間、そりゃあ空腹にもなる。すると、横にいたこいしが早苗の独り言を聞き、目を輝かせて部屋の隅っこへと向かい、そこでゴソゴソと何かを始めた。何をやっているのか、早苗の位置からでは見えなかった。数秒ほど経った後、こいしは鼻歌を歌いながら、おもむろに食事を早苗の前に用意したのである。綺麗な皿の上に見た事もないほど分厚いステーキ肉が鎮座している。しかも今調理しましたというような温かみがあった。パンとスープもある。終いには赤いワインまで用意されてしまった。
「一体、何処から出したの……コレ……?」
 驚くのも無理はない。このアジト内には別の部屋や通路など存在しない。食事を用意しようにも、調理出来る空間が無いのだ。早苗はいつの間にか用意されたスプーンを手に取り、恐る恐るスープをすくってみる。匂いを嗅ぎ、ゆっくりと舐めてみる。正真正銘のポタージュスープであった。
「さ、遠慮しないで食べていいよ!」
 早苗は躊躇いを覚えたが、この個室に充満した食べ物の香りでもう堪らなくなってしまった。普通、こんな得体の知れない物を口にするなんてあってはならない事だ。そもそも、このステーキだって一体「何」の肉なのかも分かったもんじゃない。
「心配しないでよー、百%牛のお肉だよー」
 幻想郷の人間による食肉文化の中でも牛肉はよっぽどの上流階級の間でしか浸透していない。農民たちにとって馬や牛を飼育する理由は主に稲作で田起こしをするためでしかないのだ。
(問題はそこじゃない気もする)
 本当は口に入れるべきではない。しかし、早苗はフォークとナイフを手に取り、慣れない手つきで肉の端を切り取る。そして、こいしの顔を伺いながら、ゆっくりとそれを口に含んだ。
(……旨い、けど……)
 どうもおかしい。何なのだこの状況は。早苗はそう思いながらも肉を切りながらパンにかぶりつき、スープを飲み、その全てを赤ワインで胃に流していく。……? ……? ……?
 気付けば、早苗は目の前に用意された料理全てを平らげてしまった。食べ終わってから、早苗はゾッとした。
(おかしい……明らかに変だ……)

 食べた記憶がない。

 そもそも、一人で食べるには結構な量があった筈なのに、こんなにも早く完食出来る訳がない。早苗はどちらかと言うと食事に関してはゆっくり時間をかけて楽しむ方である。しかし、こいしが用意した食べ物を全て胃袋に詰め込むのに五分、いや、下手したら一分もかかっていない。しかも、どれをどのように口に運んだのか、料理を口にしている時の記憶が早苗の脳からごっそりと抜け落ちてしまっていた。早苗はチラとこいしを見る。
(悪意はまるで感じられない……だけど、この違和感は何……?)
 あまりにも奇妙な時間であった。本当は、食事なんてしていなかったのかもしれない。しかし、先ほどまで早苗に纏わりついていた空腹は消え去ってしまっていた。確かに、早苗は食べたのだ。料理を。だけど、それでも満腹とは言えなかった。あれだけの食事を一気に腹に入れたらそれなりに胃の圧迫感でわかる筈だ。なのに、満たされた量は微々たる物であった。せいぜい、軽食程度である。
 早苗はこいしに気付かれないように自分の腹に手を当てた。巫女として備わっている霊力を集中させ、体内に「毒素」が侵入していないかを探る。しかし、特に変わった様子はない。実は人間の肉、なんてソイレント・グリーンみたいなオチではなさそうだ。
 やめた。これ以上考えてもきりがない。早苗はそう思った。
 魔法の森に仕掛けた罠は本日、日が暮れる前に回収に行く予定である。夕刻まで時間が余ってしまった。
「こいしちゃんは……ご飯食べないの?」
 一人だけ満腹になってしまって申し訳なくなってしまったのか、早苗はこいしに問いかけた。
「あはは、大丈夫だよ。私は別にお腹空いてないもん」
 そこで、早苗は改めて認識する。目の前にいるこの子は、見た目は人間だが、れっきとした妖怪、つまり、人々が恐怖する怪物に他ならないのだ。自分のような人間と同じサイクルで食事を摂るとは限らない。こいしは、ただの女の子ではない。妖怪なのだ。だが、そう意識すればするほど、こいしという存在が分からなくなる。
(この子は、一体何者なんだろう?)
 そこで、先ほどさとりに言われた言葉が頭の中で反芻した。
――あの子の手を離す時は、容赦なんてしないで下さい。
あの言葉の意味をずっと考えていたのだが、答えはまだ出ない。
(こいしちゃんの手を離す時? それって、いつだ?)
「ねぇ、こいしちゃん……?」
 早苗は向かいに座ってジッとしているこいしの隣に椅子を移動させながら話しかけた。「んー?」と何処までも無邪気な返事をするこいしの顔を見て、早苗はこの質問をすべきか否か戸惑った。
こいしちゃんって何者?
「こいしちゃんの話を聞かせてよ」
 頭に浮かんだ疑問を最低限のオブラートで包んで口にした。こいしは少しだけ良く分からないというような表情を浮かべる。
「私の話なんてつまんないよ。それより、早苗の事を聞きたいな」
「……そうね、ではこうしよう。お互いに一つ一つ質問をしていって、答えられなかったら負け……っていうのはどう?」
 機転を利かしたのか、早苗は一種の遊びのようにこいしに提案して見せた。ゲームであれば喜んで食いついてくると思ったが、意外にこいしは気難しい顔を浮かべていた。そして、こいしにしては珍しく小さな声で「いいよ、それなら」という。
「……じゃあ特別に、こいしちゃんから先に質問していいよ」

「ホントッ? じゃあじゃあ、早苗は朝と夜、どっちが好き?」

 早苗の話になった途端にこいしの表情が明るくなる。というか、質問があまりにも稚拙だ。というより、荒唐無稽だ。
「えっと、どっちかっていうと……やっぱり朝かな……?」
 早苗はぎこちなく応えると、こいしが溢れんばかりの笑顔を浮かべて早苗の身体に抱き着いてきた。
「わーッ! 私と一緒だーッ! 私も朝が好きなんだ!」
 そんな事、今まで問われた事が無かった。朝と夜、どちらが好きかなんて、何の意味も成さない問題だ。好き嫌い関係なく、朝は朝だし、夜は夜だ。早苗が「朝の方が好き」と応えたのも別に大した意味は無い。何となく、朝の方が好きだから。だからと言って、夜が嫌いなわけではない。その程度の答えである。
「交代ね……こいしちゃんは何で朝が好きなの?」
 本当はそんな事聞きたくなった。聞く必要がない事だ。しかし、急にこいしについて探るような質問を投げかけては不自然だ。早苗はそう思い、敢えてこの質問をしたのである。
「えっとねー、朝ご飯が好きだから! お日様があるから! あと、皆が起きて、新しい一日が始まるから!」
 ……。
(何だよ、割と普通の答えじゃんか)
 こいしの事だからもっとトンチンカンな返答をされるかと思っていたが、こいしの「朝が好きな理由」はシンプルであった。それを言ったら早苗だって朝の献立は好きだ。朝の肌寒さを包み込むような、温かい白米に若干塩辛い味噌汁。卵を使っておかずを一品、カリカリの焼き魚、美味しそうな香りが眠気を吹き飛ばしてくれる。今日という日が、味噌汁の香りから始まる。その食事を用意している時は、結構楽しい。そこで、早苗は気付いた。
 そっか。私、「朝」が好きだったんだ……。
「じゃあ次は、私の番だね!」
「え、ええ……そうね、何でも聞いて」

「じゃあ、この世から「朝」が無くなっちゃったら、どうする?」

 ……。
「いや、違うかな? 朝も昼も無くなっちゃって、世界はずっと夜になっちゃうの! もしそうなったら、早苗はどうする?」
「どうも、しない……かな?」
 どうもしない、というより、どうしようもない。「無くなる」というのはどういう事だ? 恐らくそれは言葉通りの意味なのだろうが、あまりにも話のサイズが大き過ぎる。そう思いながらも、早苗は想像した。朝と昼、つまり太陽だ、太陽がこの幻想郷から奪われるのだ。そして、世界は真っ暗な夜に支配される。
 明けない夜はない、という言葉が全くの嘘になる瞬間だ。
「私は嫌だなぁ。私ね、夜は嫌い……」
 こいしがぎゅっと早苗の手を握る。温かく、柔らかい手だ。これが妖怪の手なのか? と、早苗は思い、ゆっくりと握り返した。
「どうして、夜が嫌いなの?」
 これは二つ目の質問だ。先ほどと同様、やはりこれも問う必要のない事であった。だが、明らかに意気消沈の表情を浮かべるこいしを見て、質問せずにはいられなかったのだ。
「夜は、暗いからね。怖いんだ」
 これもさっきと同じだ。何の変哲もない。誰もが思うような事だ。早苗は何も言わず、じっとこいしの目を見た。潰れた第三の目ではない。こいしの顔に付いている二つの眼球の方である。人間とほぼ同じ形の目だ。しかし、凝視していると何故だか少し不安になる。まるで谷底を覗いているかのような恐ろしさがあった。
「どうしたの……早苗?」
「……」
 あまりにもまじまじと見つめられたのでこいしは困惑してしまう。早苗はそれに気付き、返事をする代わりにこいしを笑わせようと思って頬を膨らまし、寄り目をしてみせる。そのおかしな顔を見てこいしが嬉しそうにケラケラと笑った。
(こうやって見ると、本当に普通の女の子なんだけどなぁ……)
 そう思いながら、早苗はこいしの頭を柔らかく撫でてみる。すると、こいしはまるで暖房器具を前にした猫のようにとろんとした表情を浮かべ、早苗の膝へすとんと頭を落とし、そのまま寝息を立て始めたのである。明らかに警戒心が欠如している。早苗はそう思いながら、しばらくこいしの寝顔を見つめ続けていた。
 そこで、ふと、早苗はこいしの身体に繋がれている第三の目に視線を移した。こいしの姉、さとりと全く同じ形状の目だ。だが、その瞼は重く閉ざされている。こいしが眠っているのを確認し、早苗はゆっくりとその第三の目に手を伸ばした。
 指先が、その瞼に少しだけ触れた。
「あ、れ……?」
 ・・・
 その瞬間、早苗はまるで上下が反転してしまったかのような錯覚に襲われた。まるで頭に石を叩き付けられたかのような衝撃であった。眩暈がする。吐き気がする。寒気がする。先ほどまで何の異常もなかったのに、こいしの瞳に触れた途端、高熱に魘されている時のような不快感が全身を包み込んだ。身体全身がゴワゴワする。身体の皮膚を一枚ずつ剥がされていくかのような、身体中の神経をベタベタとなぞられているかのような「異物感」があった。早苗は悲鳴を上げた。しかし、声が出なかった。嗚咽が漏れ出て、やがて呼吸さえ満足に出来なくなる。早苗の瞳から涙が流れる。視界がぼやけ、回転する。上下左右、何一つ法則もなく乱れまくる景色の中、早苗はこいしの姿を探した。「早く、手を離さなければ」そう思うが、身体が全く動かない。自由が利かない。指を曲げる事さえ出来ない。早苗のグルグルと回転する脳内で、こいしの言葉が歪んだ音で再生される。早苗は朝と夜、どっちが好き? それは先ほど応えた筈だ。早苗は、朝が好きだ。朝と夜が天秤にかけられる。夜が座る「皿」にひびが入る。天秤の皿から溢れ出た夜が液体のように早苗の足元に広がっていく。そこから逃げようとしても、身体が言う事を聞かない。早苗のつま先に、夜の端が付着する。その途端、夜が早苗の足を滴るような音を立てながらせり上がってくる。早苗の身体が少しずつ夜に侵食されていく。身体が夜に染まっていく。

 早苗は、『夜』になる。

 早苗の内部に、暗闇が広がる。果てのない、暗黒の世界であった。月と星の灯りを頼りに、早苗は夜の中へ沈んでいく。水中のように身体が重い。夜の底の底に辿り着き、辺りを見渡してみる。そこで早苗は一本の外灯を見つけた。灯りの傍まで駆け寄ると、そこにはこいしが居た。こいしはテーブルに座っている。テーブルには沢山のキャンディの山と、粉々に砕けた一枚の皿。こいしは何も言わず、ただ黙々とキャンディの包みを開き、中身を一個ずつ皿の上に並べようとしていた。しかし、皿は粉々だ。キャンディはテーブルを転がり、即座にこいしの足元へ落下してしまう。こいしの足元には夜が充満していた。こいしが開いたキャンディは、音もなく夜へと溶けてしまう。それについて、こいしは何も言わなかった。何の表情も浮かべなかった。皿は割れている。破片の上にキャンディは置けない。全部、全部分かりきっている事だ。それでも再びこいしはキャンディを手にする。同じように包みを開き、中身を皿の上に置こうとする。キャンディは転がり、夜へと落ちていく。「こいしちゃん、何をしているの?」早苗の声は泡のように闇の中でフワフワと漂うばかりであった。こいしには何も届かない。何も聞こえない。それでも早苗はこいしに声をかけ続けた。「何をしているの?」「キャンディを並べて楽しい?」「いつからここにいるの?」「キャンディ、好きなの?」何度も質問するが、こいしは答えない。それもそのはずだ。だって今は、早苗の番ではない。

「今は、私が質問する番だよ」

 こいしがゆっくりと口を開く。しかし、そこで辺りに光が差した。明けない夜はない。朝日が昇り始めたのだ。早苗は急いでこいしの手を握ろうとした。だが、どれだけ前に進もうとしてもこいしには辿り着けない。早苗はこいしに向かって手を伸ばした。そこで気付いた。自身の腕が、徐々に溶け始めている事に。早苗が、夜が、朝日の中で消失していく。それは「死」と同義だ。朝が来る。夜が死ぬ。古明地こいしには、まだ辿り着けない。
 ・・・
 目が覚めると、時刻は既に夕方、もう空が茜色に染まりだす頃であった。早苗はゆっくりと目を開ける。こいしのアジトだ。いつの間にか眠っていたらしい。ぼやけた思考で夢の内容を思い出す。しかし、意識がはっきりしていくにつれ、記憶が曖昧になっていく。思い出せるのは、酷く恐ろしい夢を見ていたという事。
 すると、自身の頭を撫でる者がいた。こいしだ。早苗は、こいしの膝を枕にして眠っていたのだ。起きていた時とは全く逆の状況であった。早苗はゆっくりと身体を起こし、ジッと彼女の顔を見つめた。質問する気にはなれなかった。何かを問うたその瞬間、今この身体を包んでいる現実感が脆く引き剥がされそうな気がしたのだ。そして、またあの夢の中へと引き摺られてしまう。早苗はそれが怖かった。何も言えず口ごもる早苗に、こいしはいつもの元気な表情で高らかに告げた。
「早苗、トラップ見に行こう!」
 トラップ、今朝、二人で魔法の森のあちこちに仕掛けた物の事だ。確か名前はこいしちゃんポイポイ、略してこいポイだ。
「ええ……ええ! 見に行こう!」
 早苗は少し無理をして大きな声を出した。弱気になった自分をこいしに悟られないようにするためであった。理由ならある。おぼろげであったが、それは確実に早苗の影のようにへばりついていた。
 先ほどの夢が、到底夢の事とは思えないのだ。
「ねぇ……こいしちゃん……」
「んー? どうしたの、早苗?」
 何でもない。そう言って笑い誤魔化す。
変なの、とこいしが笑う。
 ……。
 今朝と同じ、魔法の森へと到着した二人はさっそくこいポイを仕掛けたポイントへと向かう。早くしないと日が暮れる。夜の魔法の森は辺り一帯に漂う瘴気の濃度が跳ね上がる。そうなるとこの辺に生息する妖怪も凶暴になり、危険度が増すのだ。無駄に戦闘する気はないし、今は傍にこいしがいる。早苗はこいしがどういう妖怪なのか未だに良く分かっていない。だが、戦闘に巻き込むのだけは避けたいと思った。この子に血や暴力は似合わない。いつものようにマイペースな事ばっかり言って、暢気に遊んでいる方が良い。それがこの子の為だし、この子を取り巻く環境にとってもそれが正しいのだろう、と早苗は考えていた。それに……。
「あーッ! ねぇ早苗! 見てよ!」
 気が付くと、罠を仕掛けたポイントに辿り着いていた。果たしてスカイフィッシュは引っかかっているだろうか? 早苗は内心ちょっとドキドキしながらこいしの方へ近付く。彼女が指を差している方へと目を向ける。そこには、なんと……。

 アリス・マーガトロイドが罠にかかっていた。

「わははははははははは!」
 早苗はアリスを指差して笑った。「わはははは引っかかってやんの!」と言いながら腹を抱える。アリスはそんな事お構いなしと言った様子で自身の足にぱくりと噛みついて離さないこいしちゃんポイポイを懸命に引き離そうとしていた。爆笑する早苗の事を全く無視し、アリスはため息を吐いた。ひとしきり笑った後、早苗はアリスの目の前まで駆け寄る。その時丁度アリスの足からこいポイが離れた。怪我はしていない様子だ。どういう原理なのか、こいしちゃんポイポイは相手に外傷を与える事なく束縛する機能を持っているらしい。
「だ、大丈夫ですかアリスさん、ふ、ふふふふ……」
 ツボにはまってしまったのか、早苗はにやにやとした表情であった。アリスは早苗とは目を合わさず、そっと呟いた。
「はぁ、最悪ね……今日はもう帰りましょう」
 早苗の言葉を無視し、アリスは役目を果たしたこいポイを道端に投げ捨て、そのままスタスタと歩いて行ってしまう。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ! すいません、笑ったのは謝りますから、ねぇアリスさーん! ちょっと待ってーッ!」
早苗の話をまるで聞かず、アリスはそのまま姿を消した。早苗は何処か違和感を覚えた。あからさまに機嫌を悪くして帰ってしまうのなら、もう少し、それこそ目で見てわかる程の怒りが表情に現れる筈だ。確かにアリスは不機嫌ではあったが、その眼差しに険悪は存在しなかった。アリスは、早苗とこいしに全く関心を示さなかった。二人について、何一つ感情を持っていなかった。
「何なのよ……無視する事ないのに……」
 早苗はムッとした表情を浮かべたままこいしを探す。アリスに声をかけているうちに一人で何処かへ行ってしまったらしい。途端に心細くなってしまう。橙色の木漏れ日の中、早苗はこいしの名を呼んだ。返事はない。知らないうちにずいぶん遠くの方へ行ってしまったらしい。早苗は小走りになってこいしの姿を探す。
「おぉーい! さーなーえーッ!」
 すると、遠くの方からこいしが駆け寄ってくるのが見えた。早苗はホッと安堵する。この時間にこの森の中ではぐれてしまったら探すのは困難だ。早苗が勢いよくこいしに向かって手を振る。
「あははははは! 早苗―っ!」
 早苗は目を細めてこいしの方を凝視する。薄っすらと、こいしの背後で何かが蠢いていたからである。こいしが駆け足で近付いてくる。辺りに夥しい数の羽根音が響き渡る。嫌な予感がした。
「あははははは! 早苗―っ! たーすーけーてーッ!!」

 こいしが、スカイフィッシュの大群に追われていたのだ。
 
「ぎゃあああああああああ! こっちくんなああああああッ!」
 こいしの背後で、荒れ狂う波のようにスカイフィッシュが蠢いていた。こいしに合わせ、猛スピードで早苗の方へ向かってくる。早苗は目ん玉をひん剥いてその場から走り出した。
「ああああああッ! 待ってよ早苗えええええええっ!」
「待つかボケえええええッ! 死ぬ! 殺されるッ!」
 しかし、もうすぐ夜が訪れる。辺りは木々が生い茂っており、視界は最悪であった。辛うじて草木を描き分けながら早苗は疾走する。霊力を使って空を飛ぶ事も出来るが、スピードを出すのであれば下手に浮遊するよりも地面を全力で走った方が速い。それに、森を抜け、空高く逃げたら一切の障害物が無くなり、スカイフィッシュ達にとって恰好の餌食となってしまう。それよりも地上を低く、木々を縫いながら相手を撒いた方がまだ生還出来る確率が高い。そんな事を考えながら、早苗は派手に転んだ。木の根に躓いたのだ。
(あ、一巻の終わりだ)
 コケた拍子に足を捻った。これでもう走る事は出来ない。
「さ、早苗!」
それに気付いたのか、こいしは瞬時にその場で足を止める。スカイフィッシュの気を引くために留まったのだ。スカイフィッシュの大群が機関銃のようにこいしの華奢な身体に激突していく。
 獰猛な唸り声を上げて稼働する巨大なミキサーの中に身を投じるような物だ。こいしが、こいしの身体がズタズタに引き裂かれていく。一帯に、こいしの血が激しく飛び散っていく。
「あははははははッ!」
 こいしは楽しそうに笑いながら吐血した。身体中を空魚の群れが苛んでいく。衝撃に耐えられなくなったのか、こいしが頭を抱え、その場に蹲る。それでも、笑い声は止まない。絶望の光景がそこにあった。その様子を見て、早苗は絶叫した。
「う、うわあああああああッ! こいしちゃんッ!」
 痛む足を引き摺りながら、急いでこいしの方へ駈け寄る。スカイフィッシュの群れがまるで渦のようにこいしを取り囲んでいる。まるで鋼鉄の刃の嵐、死の荒波であった。その中で、こいしが楽しそうに笑っている。傷だらけになりながら、微笑んでいる。
 早苗は、飛び込むのに一切躊躇しなかった。
 全身にありったけの霊力を纏い、早苗は衝撃の渦の中へと身を投じる。身体中を鈍器で殴られているかのような痛みであった。
「え、さ……早苗ッ! 駄目だよッ!」
 こいしが慌てて早苗の方を見る。スカイフィッシュの猛攻によって全身が粉々になりそうであった。渦の中でこいしの姿を見つけ、早苗はこいしを地面へと突き倒し、その上に覆いかぶさった。スカイフィッシュの攻撃から庇うためである。こいしは叫んだ。
「駄目だよ早苗! 逃げて! 私はいいから……ねぇ!」
 早苗は朦朧とする意識の中、霊力をコントロールするので精いっぱいであった。無論、こいしの喚き声なんか聞こえちゃいない。辛うじて身体へのダメージを最小限に抑える。それでも、スカイフィッシュ一匹一匹の衝撃は本物である。それぞれが一本のハンマーとなり、早苗の身体を容赦なく叩き壊そうとする。それが、無限に続くのだ。早苗の鼻から少量の血が流れ出て、こいしの額に落ちる。こいしは悲しげな表情で早苗を見つめた。早苗は――。

「大丈夫だから、そんな顔しなさんな」

 そう言って笑い、こいしをひしと抱きしめた。しばらくして、スカイフィッシュ達の数が少なくなっていく。徐々に群れを離れていき、辺りにはスカイフィッシュの突撃によって粗く削られた木々と地面、そして、満身創痍に傷付いた早苗と、その下で怯えるこいしの姿があるのみであった。スカイフィッシュの攻撃が止む頃には、既に早苗の意識はなかった。全身を強打されたのに、最後の最後まで霊力を保ったのか、外傷はそんなに多くない。しかし、短時間で身体のエネルギーを使い果たした事により、早苗の体温は上昇してしまっていた。酷い熱が出ている。こいしは何も言わず、早苗を背負い、その場から歩き出した。


 ……。


 …………。


 ………………。


『?』


眼が覚めると、幻想郷が白く染まっていた。

いや、落ち着け。まずは自分の記憶がちゃんと機能しているか確認しよう。私の名は霧雨魔理沙、種族は人間、好きな食べ物は海苔。オーケー、ここまでは完璧。問題無しだ。
で、私は昨日どこで何をしていた?
確か、図書館から『動物のお医者さん』全巻借りて、自分の家で読みながら寝落ちしてしまった筈だ。何で紅魔館の図書館に『動物のお医者さん』が全巻置いてあるんだよ。
つまり、寝る前までは普通に自宅にいたという事だ。なら、寝てる間にここへ連れてこられたのか?……いや、それは無いだろう。
自分で言うのも何だが、私は「眠り」に関してはかなりデリケートだ。私は枕が変わると寝れない。北枕だと寝れない。人の家だと寝れない。寒いと寝れない。暑いと寝れない。横に人がいると寝れない。満腹だと寝れない。空腹でも寝れない。不安があると寝れない。ムカついてると寝れない。そして、少しの物音で目が覚める。
眠ってる間に誰かが私の家に侵入したら確実に一発で気付く。仮に物音立てず家に侵入してきたとしても、私を起こさずにこんなとこまで運ぶなんて不可能だ。
では、一体何があって私はここで目覚めた?
定番だが、とりあえず自分の頬を抓ってみる。痛みはある。これは夢ではない。でもたまに夢の中で怪我をしてメチャメチャ痛い時ってあるよね。しかし、いずれにせよこれは現実だろう。
そうと決まればまずは行動である。何時間か、私はこの白い空間を歩き回った。だが、何らかの魔術が働いているのか、一向に前に進んでいる気がしない。試しに遠くの巨大な壁に向かって弾幕を飛ばしてみた。魔力によって生成された弾はそのまま真っ直ぐ飛んでいくが、何秒経っても壁には到達しなかった。次第に肉眼で確認出来ないほど遠くへと飛んでいき、ついに視界から消滅してしまった。 いや、ここどんだけ広いんだよ。
天井についても同様の結果であった。撃ち込んだ弾は景気良く飛んでいくが、どこにも当たる事なく次第に見えなくなるだけであった。何もかもが果てしなく遠い。ここは素晴らしく異常だ。
もう一度眠れば、全て無かった事になっていつものように自宅で目を冷ますかもしれない……と思ったけど、先ほども言った通り、私は睡眠に関しては本当にデリケートなのだ。こんなだだっ広い空間のど真ん中で眠れるわけない。何より、床が硬い。布団もない。横になるのも苦痛である。
「ああ、困った。本当に困ったぞ……」
打つ手がない。これは何らかの異変なのだろうか?気付かないうちに私は妖怪の精神攻撃を受けて、この変な空間に閉じ込められたのだ。そうとしか考えられない……今のところは、だが。
人の声が一切聞こえないのはすこぶる心細い。こういう時、人間が心に思う事は一つだ。
どうして私だけこんな目に?
最も苦痛なのは「暇」である。とにかく話し相手が欲しかった。1人だと心が折れてしまう。しかし、誰かがいてくれたらこの状況を突破する案が生まれるかもしれない。私は頭の中で「一番頼りになる奴」を思い浮かべた。
……悔しいが、一番頼りになる奴といえばアイツしかいない。
霊夢だ。アイツなら勘も働くし、どんな状況でも狼狽える事はしないだろう。今、ここに霊夢がいてくれたら心強いんだけどな……なんて思っている時に、それは起きた。
私の目の前に、霊夢が出現したのである。
音も無く、まるで瞬間移動でもしたかのように現れたのだ。私は思わず情け無い声を上げてしまった。「うわ」みたいな。
「霊夢……なのか?」
どう見ても霊夢なのに、何故か私の声は疑問形であった。何となくだが、どうも様子がおかしい。目の前にいるのは確実に霊夢だが、その顔はまるで作り物のように無表情であった。
「私は霊夢よ。英語で言うとアイ・アム・レイム」
「何で英語で言ったのかわからんけど、とにかくお前は霊夢なんだな。良かった……お前がいるなら安心だな」
私 が安堵のため息を吐いた時、霊夢は親指をグッと立てて自分を指しながらドヤ顔で言葉を続けた。
「アイ・アム・レイム」
「いや、うん。もう分かったって。別に英語で言わなくていいよ。しかもメチャクチャ単純な英語だし凄い馬鹿っぽいぞお前」
「イェス。アイ・アム・レイム」
……。
落ち着け魔理沙。ただでさえ異常な状況に置かれているのに、ココでパニックになったらいよいよ最悪だ。落ち着いて考えろ。このボケナス霊夢にこれ以上心を乱されるな。逆に考えろ。霊夢だって英語を喋る事だってあるさ。うん、霊夢って普段からこんな感じだったと思う。お米の事をたまにライスって呼ぶし。
「そんな事より魔理沙、お腹空いてない?」
唐突に霊夢が話を振ってきたので反応が遅れた。
正直全然空いていない。こんな状況だ。食欲なんて湧くはずがない。だが、霊夢は私の返答も待たずにゴソゴソと脇の間から『博多通○もん』を取り出し、私に手渡してきた。
うわぁあ汚ねぇなあもう。仄かに暖かい。人肌。
説明しよう!『博多通り○ん』とは九州、福岡県を代表するお土産の饅頭である!
「うわぁあ汚ねぇなあもう。何で脇に饅頭入れてんだよ」
「良かれと思って」
本当はこんな事にいちいち時間を割きたくないんだけど、何でかな、今の霊夢の一言で私の中にあるスイッチがオンになった。つまるところ、怒りの琴線に触れたのだ。
「え? じゃあお前、つまりアレか。お前、私の事「脇で温めた饅頭が大好きな変態さん」だって思っているのか? 馬鹿かお前。いや、……ちょっと待て、私が仮に「そういう人」だとして、お前はそんな私のために、兼ねてより脇に何らかの食べ物を収納してんのか? それも全部「良かれ」と思って」
「はい」
この野郎、肯定しやがった。
急に怖くなった。私の事を「霊夢の脇汁大好き女」だと思い込んでいる事もだが、何よりそれを眉一つ動かさずむしろ率先して受け入れようとしているコイツが怖い。一体どうしてコイツはそんな事を……いや、待て、待て。聞きたいのは、そんな事じゃない。
「……なあ霊夢、とりあえず質問に答えてくれ」
私は霊夢から手渡された饅頭を床に置いた。
「饅頭、食べないの?」
霊夢が上目遣いでこっちを見てくる。
「食べられるわけないだろ。そんな事より……」
「食べてくれないの……? せっかく私が魔理沙の為に一晩中温めていたのに。魔理沙の事を想いながら一生懸命温めた饅頭なのに。魔理沙だと思って温めた饅頭なのに」
最後のは少しおかしくないか? というか、それを言うならさっきから霊夢の発言は全部おかしいけどな。霊夢は自身の小さくて柔らかそうな唇にそっと指を添え、切なそうな表情で私を見つめていた。少々顔を赤らめながら、霊夢は私の眼球を見つめていた。私は目を逸らした。逸らした視線の先には饅頭。私は目を瞑り、唾を飲み込んだ。このままでは拉致があかない。もう話をそらすな霊夢。頼むから。意を決し、私は口を開いた。
「そもそも、何で脇なんだよ、霊夢……!」
聞きたいのは、そんな事じゃない。
不味いな、本格的にイカレてきた。脳みそが疲弊しているのが分かる。このままでは、「何かがおかしい」事すら忘れてしまう。
「……少し待ってて」
私はキョトンとする霊夢に背を向け、そのまま5メートルほど距離を取り、そこで思い切り自分の頬をぶん殴った。歯が欠けるほど強く……は無理だった。自分で自分を本気で殴るのは出来ない。どうしても無意識に制御がかかってしまうのだ。口の内側の肉を切るのがせいぜいだった。私は口元に滲んだ血を拭く事もせず、また霊夢の方へと駆け寄る。
今の一連の行動の意味は……強いて言えば、戒めである。霊夢のペースに合わせていたらいつまで経ってもこの空間の中だ。何の意図があってふざけているのか知らないが、私は一つ確信した。
この霊夢は、霊夢じゃない。霊夢の姿をした、別の「何か」だ。これ以上コイツに付き合っていたら、こっちまでおかしくなる。そういう時に「痛み」というのは、シンプルだが確かに有効な手段だ。痛みがあれば、自我を強く保つ事が可能だからな。私は霊夢を睨みつけ、出来る限り冷たく、鋭い声で問いかけた。
「お前は、誰だ?」
我ながらよくここまで冷淡な声が出せたものだと感心してしまう。すると、霊夢はクスリと笑って見せた。
「何言ってんのよ魔理沙、私は霊夢よ」
 今の一言は流石に腹が立った。爆発寸前である。今までアホみたいな言動だった筈なのに、その一言だけは、まさしく霊夢そのものだったから。見た目だけじゃない。仕草も、言葉も。だからこそ許せない。コイツの化けの皮を剥がしてやろう。
「これ以上嘘をつくと、私にだって考えがあるぞ。正直に答えろ。お前は一体何者だ? 一体何の目的があって霊夢の姿をしている?」
「な、何なの魔理沙……なんでそんな意地悪言うの?」
 困惑した様子で私の方を見つめてくる。困惑、と言うよりはむしろ怯えに近い。まるで「気でも違った友人を相手にしているかのような」反応であった。違う。私は正常だ。おかしいのは、コイツの方だ。何故か? 私は「正常」だからだ。
「いいから答えろよ……お前は、一体誰だ?」
「英語で言うと、アイ・アム・レイム」
私は目の前にいる「霊夢によく似た誰か」を突き飛ばし、そのまま馬乗りになって、思い切り胸倉を掴んだ。
「いい加減にしろ! お前は霊夢じゃない、お前は、一体何者なんだッ! 霊夢はッ! 霊夢は英語なんか喋らない!」
いや、喋るかもしれないけど、まあ、うん。
正直に答えろ! お前は一体誰だ! ここはどこだ! どうして私をここに連れてきた! ……と叫んだつもりだった。だが、言葉が出てこない。違う。おかしい。声が出せないのではない、何だこれ。確かに、私は言葉を叫んだ。口にした。それは確かだ。だが、声が空気に触れた瞬間、まるで煙のように消えて無くなってしまったのだ。スカスカと、私の疑問が、私の叫びが消える。霊夢はよく分からないという顔をしたまま、首を傾げて私に問いかけた。
「アー・ユー・リアリィ・マリサ?」
限界であった。私は思いつく限りの罵詈雑言を「コイツ」に向けて喚き散らした。だが、先ほどと同じで声が消えてしまう。何度も叫んだが、私の声がコイツに届く事はなかった。まるで、私の意見を拒絶するかのような現象だな。本当に、何が起こっているんだ?
その時、急に目蓋が重くなった。頭の中で警報が鳴り響く。おかしい。これはあり得ない。私は今、眠くなっているのだ。
私は、眠りに関してはかなりデリケートな方だ。こんな場所で、それも、得体の知れない誰かの横で眠る事なんて出来る筈が無い。怖い。どうしようもなく、眠るのが怖い。目が覚めた時、一体何が起こる? 私は、何をされる? 私は、どうなる?
「あら、眠るの? 魔理沙」
 おぼろげになっていく景色に、薄っすらと紅白の色が浮かんでいる。この霊夢を名乗る者は、一体誰なんだ? 私が眠った後、コイツは、私に何をする気だ? 柔らかな表情で私が眠りに入るのを見つめている。その笑みが優しければ優しいほど、恐怖が生まれた。
(いやだ……眠りたくない……起きていなきゃ……)
 まるで暴力のような眠気であった。どんなに気を強く持とうが、何の意味も成さない。あと数秒もしないうちに、私の意識は途切れるだろう。身体の奥から溢れる焦燥感とは裏腹に、脳がどんどん停止していく。私の脳がもうすぐ止まる。
 ずぶずぶと、私は静けさの中へ沈んでいく。
「グッナイ・マリサ……」
 霊夢の姿をした何者かが笑いかけてきた。
私は最後の質問をする事にした。これがダメだったら、もうどうしようもない。息を吸い、思い切り「霊夢」に向かって叫んだ。すると、何故か、その言葉はちゃんと発声する事が出来た。
「どうして、英語なんだ……霊、夢……ッ!」

聞きたいのは、そんな事じゃない。

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