Coolier - 新生・東方創想話

冷たい手のひら

2019/01/16 22:59:27
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「手が冷たい人は、心が暖かい」。そんなことを、誰かが言っていた。
 私はそれを鼻で笑い飛ばす。それを肯定したら、暖かい手をしたあの人は、心が冷たいってことになってしまう気がするから。





 * * *





「村紗。手を、つなぎましょうか」

 聖が言った。
 いつも笑顔で唐突なことを言う人だったから、あまり驚かなかった。
 里への買い出し、その帰りだった。青果店や八百屋で買った食料品二袋を、二人でそれぞれ一袋ずつ脇に抱えていた。

「何ですか、いきなり」

 私は横目で、左隣りを歩く彼女を見る。彼女はにこにこしながら、並んで歩く私を見ていた。

「ほら、せっかく手が空いてるし」

 そう言って目を細めると、聖は、私に近いほうの彼女の手、つまりは右手をにぎにぎと動かしてみせた。私はつられて、聖に近いほうの自分の手、つまりは自分の左手を見る。確かに、聖の言う通り、お互いの片手は空いている。
 それぞれが持つ袋は大きく重量もそれなりにあったけれど、身体強化魔法を得意とする聖も普段からアンカーを振り回す私も、力は十分足りていた。この程度の荷物、運ぶのは片手で事足りていて、必然的に片手は、余る。
 ――でも、だからと言って、手をつないで歩かなきゃいけない理由にはならないと思うんだけど。

「聖、あのさ」

 口を開いた私をさえぎるように、風がびゅうっと吹いた。
 通りに砂埃が舞った。身に染みるような冷たい風。通り過ぎる人が、寒そうに首をすくませた。私は舟幽霊だからこのくらいの寒さなんて屁でもないけれど、その寒々とした人里の光景は、見ているだけで私の心を寒くした。
 隣では、聖が口元をマフラーにうずめて寒そうにしていた。いかな魔法使いといえど、元・人間の聖には、この寒さは応えるのだろうか。

「ひゃー寒い寒ーい」

 聖は、大袈裟なリアクションで、自分の両手に息をはぁーっと吹きかけ、暖を取るように手を擦り合わせてみせた。
 年甲斐もなく女学生のようにおどける彼女は、でもそんなお茶目な仕草も似合っていて、可愛らしかった。その仕草に、自然と顔がほころぶ。

「ね、手をつなぎましょう」

 こちらをのぞき込んで、聖は再度言う。
 にやけた顔が恥ずかしくて、私は目線を外して「なんでさ」と素っ気なく返す。

「手をつなぎたいから」

 はぁ。私は呆れる。なんという理由にならない理由。
 なんて返したらいいか分からず、外していた目線を戻し、聖を見る。聖は、にこにこしながら、まっすぐに私の目を覗き込んでいる。当然、目が合った。
 数秒、無言で目を合わせていたけれど、なんだか無性に恥ずかしくなってきて、そして何よりも彼女の邪気のない笑顔が眩しくて、私は視線を逃がすように、空を見やった。

 冬の寒空には、鉛色の重たそうな雲が、低く立ち込めている。
 嫌な天気だ、と思った。こういう天気のときは心がくさくさしてきていけない。考えなくてもいい、余計なことを色々と思い出してしまう。

 からっと晴れてくれればいいのに。
 あるいはいっそのことどしゃ降りになってくれたら、スッキリするのに。

「――それとも村紗は、こんなおばあちゃんと手をつなぐのは、イヤ?」

 それが存外に寂しそうな声音だったので、思わずそらしていた目線を聖に向けてしまう。そこには、こちらの顔色を伺うように眉をひそめ、小首をかしげる聖の姿。

 ずるい。
 ずるいずるい、聖はずるい。そんな顔で訊くなんて。そんなこと、訊かれるまでもないじゃないか。

「そんなわけ、ないじゃないですか」

 私の声に熱がこもる。思ったよりも大きい声になってしまい、自分で戸惑った。
 そもそも、歳の話で言えば、私も彼女も大差ないのだ。聖の普段の態度から、つい彼女を母親のように錯覚してしまうけれど。
 聖は、一度きょとんと目をしばたたかせた後で、嬉しそうににまーっと笑う。そして、ん、とその手を差し出した。

「じゃ、手。つなぎましょ」
「だから、なんで――」

 私は、それに反論しようとして。

 ――突然、目眩がした。


 突然、気が遠くなり、白昼夢を見ているような錯覚に陥る。
 手をまっすぐこちらに伸ばす聖の姿が、いつかの私の記憶と重なる。記憶の渦に引きずり込まれる。私の思考は、一気に昔に引き戻される。


 荒れ狂う海原で、船を沈め続ける私。輝かしい法力の船に乗り、私を説得する聖。拒絶する私を意に介さず、辛抱強く彼女は千々の言葉で説き伏せる。やがて、その手を、私に差し出す。
 まっすぐ。迷うことなく。
 罪にずぶ濡れになった私に。私なんかのために。

 ――ああ、そうだ。この手だ。

 私は、過去と現在の二重写しの世界で、ぼんやりと、聖の手を見つめている。見つめながら、思う。
 差し出されるのはいつもこの手だ。暖かい手。大きくはない、けれどすべてを包み込むような広がりを感じる手。血の通った、生きている手。救う者の、手。
 聖と初めて会ったときも、私は、その手と対峙したんだ。
 記憶の中の私は、恐る恐る、手を伸ばす。私の手が、彼女の手に触れる。そして――。


「村紗?」

 はっとした。聖の声に、過去に張り付いていた意識がひっぺがされる。意識が、今に帰ってくる。
 気づけば、目の前に聖がいて、不思議そうにこちらを眺めていた。

「あ――」

 手。
 暖かい彼女の手が、私に向けられている。あの時と同じように。
 私はゆっくりと手を伸ばして――けれど、途中で止めた。伸ばしかけた手をそのまま引っ込めると、視線を落として、じっとその自分の手のひらを見つめた。

 白く細い、頼りない手。どれだけ鋼鉄製の錨を振り回しても、鈍重な舵を握っても、その手は荒れることもなく、傷つくこともない。私は舟幽霊であり、その手は霊の手だからだ。
 それはつまり、死んだ手だ。血の通わない、ひどく脆弱な手。それは、あまりにも、聖の手とはかけ離れている。
 そして、その血の通わない幽霊の手のひらは――ひどく冷たかった。

 私は想像する。私のこの冷たい手が、彼女の暖かい手と触れ合い、つながる光景を。私が彼女の手を握ると、あまりの冷たさに彼女が驚愕し、戸惑う。それでも、彼女は私の手を握り続けるだろう。そして、その優しさを、熱を、私の冷気は容赦なく、奪っていく。彼女の温もりを、凍てつかせていく。
 それは、なんて残酷なことだろう。
 なんて、恩知らずなことだろう。

「村紗」

 再び聖の声がする。
 それに私は応えようとした。けれど、私の頭は、重しでもつけられたみたいに、持ち上がらなかった。呆然と自分の手を見つめたまま、じっとしていた。
 たかが、手をつなぐ程度のことで。そう思うも、海に沈められた碇みたいに、私の心は沈んだままだった。
 聖が、一歩近づこうとしているのが、視界の端に映った。きっと、突然黙り込んだ私を心配してるんだろう。何か、声をかけようとしている。けれどそんな彼女に私は、早口で告げた。

「済みません、急用を思い出しました。先に帰ります」
 
 私は、聖の返事を待たず、背を向けると、逃げるみたいにして帰り道を駆け出した。
 事実、私は逃げたのだ。彼女から。彼女のその、暖かい手のひらから。





 * * *





「手が冷たい人は、心が暖かい」。そんな言葉は迷信だ。
 だって、冷たい手を持つ私が――大切な人を突き放して逃げる私が、心の暖かい人になってしまうから。





 * * *





「あー」

 地底の薄暗い天井を見上げながら、呻く。
 私は一人、真っ赤に染まった池の中心に、ぷかぷかと浮いていた。仰向けで、四肢をだらしなく投げ出し、風もなくほとんど揺れない水面に身を預けていた。
 地底にある、血の池地獄。正確には、すでに地獄として機能していないので、元・血の池地獄だ。訪れる人もほとんどなく、また旧都からも離れているため、周囲に灯りはない。ごみごみした喧騒もない。ただ、ごつごつとした岩肌の表面に、ヒカリゴケの一種であろう名前も知らない植物が張り付いて、厳かな光を水面に投げかけている。静かで薄暗い場所。
 ここは私の、地底に閉じ込められていた頃からのお気に入りの場所だった。
 考え事をしたいとき。意味もなく一人になりたいとき。そういうときには、こうやってじっと天井の薄く光るのを眺めながら、手足をだらんと投げ出して、波間のクラゲみたいにぷかぷか浮いたものだった。
 そして、今も。

「最低だー」

 言葉一つ吐き出して、呪うは己の愚かな行動。
 大切な人を傷つけた自分の浅慮。
 私は、今し方自分がしでかした行為を思い返していた。


 聖から逃げた私は、彼女が帰ってこないうちに寺の食料庫に買ってきた食料品たちを置くと、一輪にしばらく出ることを伝えてから、足早に寺を出た。
 どんな顔をして聖と顔を合わせれば分からなかった。
 境内を駆け抜け、門前で掃除をしていた山びこが驚いて目を丸くするのを尻目に門を飛び出し、寺の前の石段を二段飛ばしで一気に駆け下りた。どこに行こうか決めていた訳ではないけれど、気づけば足は地底に向いていた。


 私は、あーとかうーとかうめきながら、何もせず水面に揺れている。
 ――恨めしい。自分なんてなくなればいい。
 そうやって、心の中で呪詛を吐いた。何度も何度も。こうして自分を呪いながら浮かんでいれば、いつか血の池の奥の奥まで沈んでいってしまうのではないか、と半ば本気で期待して。
 だけど、結果はこの通り。ただみじめにぷかぷかと浮かぶだけ。
 ――きっとこの体は、空っぽの霊体だから、質量なんてなくて、それで沈んでいかないんだ。
 そんなことまで、自嘲の種にして、私は自分を呪い続ける。
 そのときだった。

「あー! また舟幽霊さんが溺れてるー!」

 突然、甲高い声が響いた。こんなうち捨てられた地底の片隅には不釣り合いな、ひどく明るい声だった。
 ぎょっとした。こんなところで誰かに会うなんて思ってもいなかった。
 顔だけ動かして、声のした方を見る。池の岸辺で、なにやら子供っぽい小柄な人影が、慌てたように手をわたわた動かしながら、驚いたように私の方を見ていた。
 それから、思い出したようにきょろきょろあたりを見回す。かと思えば今度は、オーバーリアクション気味に、飛んだり跳ねたり、こっちにぶんぶん手を振ったり。ずいぶんせわしない子供だった。
 私は、あっけにとられながらその子供を観察する。
 人間の童女だろうか、と考え、すぐに思い直す。ここは地底だ。こんなところに人間がいるわけもない。とすると、やはり地底の妖怪だろう。
 驚いたように丸められた、くりくりと大きな目。小さな体を目一杯に使った大げさな仕草。口を開けば、きんと響く大きな声。そういう立ち居振る舞いは、見た目相応の幼い少女を連想させた。頭にはつばの広い黒い帽子。跳ねる度に胸元で、青い薔薇の蕾みたいなアクセサリが上下に弾んでいる。
 ――一人になりたいからここに来たのに、面倒くさいなあ。
 どう対処すべきか。心の中で迷った。

「そうだ、助けを呼ばなきゃ! もしもし? もしもーし! こちらこいし! へい兄ちゃん救急車一丁!」

 少女は、突然、黒電話の受話器をどこかから取り出すと、訳の分からない言葉をがなり立てる。
 まるで言動に脈絡がなかった。というか、そもそも彼女が持っているのは受話器だけで、電話機につながるべき線の先は刃物で切られたようにぷっつり途切れている。あんなのでは当然、電話はつながりっこない。
 厄介な奴に絡まれたかもしれない。
 ため息を吐く。面倒くさい奴らばかりが雁首そろえた地底の妖怪の中でも、きっととりわけ面倒くさい奴だ。そう直感した。
 そういう奴には関わらないに越したことはない。そっと身をよじり、少女から顔を背ける。そのまま無視してれば、やがてそのままどこかに行ってくれるんじゃないか、そんな淡い期待をした。
 でも、そんな期待は簡単に裏切られた。

「待っててね、今助けに行くから!」

 岸辺から、そんな声が上がる。私は再度、声のした方へ顔を向けて――ぎょっとした。
 少女は、おもむろに靴と靴下を脱ぎ捨て、スカートの裾をつまむと、ためらいもなくざぶざぶと血の池に足を進め始めていた。
 慌てる。私は服まで含めて霊体だから、血で汚れようが簡単に洗い流せる。だけど、彼女はきっと違う。着ているそれは、たぶん実体のあるちゃんとした布製で、そのまま血液の中をかき分けて進もうものなら、それはもう取り返しのつかないことになる。

「や、私は大丈夫だから!」

 私は慌てて身を起こすと、ひらひらと手を振って、大丈夫、ってアピールして見せた。だけど、遅い。少女はすでに腰まで池に浸かっていた。あちゃー、と私は額に手を当てる。そんな間にも、少女はざぶざぶ血の池を横断し、やがて、私の元まで泳ぎ着いた。

「だから、大丈夫。私溺れてないって」

 弁明する私。だけど、聞く耳持たぬ少女は、ぐいぐいと私の衣服を引っ張り始める。
 
「だからっ――わっぷ」

 反論しようとした私の口に、血液が流れ込む。強引に引っ張られるものだから、体は池の中で大きく揺れ、そのたびに容赦なく血の波がざぶんと襲い来る。思わず咳き込んだ。これじゃまるで、本当に溺れているみたいだ。そしてそれを見た少女は、当然、勘違いを加速させる。

「あとちょっとだからね! ファイト!」

 見当違いの励ましをかけながら、私を牽引して、岸までざぶざぶ泳ぐ。文字通り、閉口するしかなかった。そうして、さしたる抵抗もできず、最後まで引かれるままになっていた。





 * * *





「はあはあ」
「げっほげほ」

 大きく息をつく少女、激しく咳き込む私。
 結局、少女に引っ張られるままに岸まで引き上げられてしまった。池の血が喉に詰まり、むせる。口の中に、鉄のような苦々しいすっぱさが広がり、顔をしかめた。
 荒く息をつきながら、傍らを見る。
 果敢に救助を試みてくれた傍迷惑なヒーローは、血のりにずぶ濡れ、疲れてへたり込んでいた。

「あのさ」
「ちょっと!」私の言葉をさえぎり、少女が詰め寄る。「駄目だよ! 命を粗末にしちゃ!」

 すでに一度命を捨てている私に、これくらい響かない忠言もない。
 だけど、その少女の瞳は、思った以上に真剣味を帯びていて、どうにも文句を差し挟みづらかった。どう言葉を返そうか迷った挙げ句、目線を外し、一言「ごめん」とだけ返した。

「分かればいいんです」

 むふー、と満足げに鼻息を吐く少女。
 悪い奴ではないんだろうな、と思った。こうまで初対面の人妖に献身的になれる奴はそうそういない。変な奴だし、傍迷惑な奴だけど。
 私が苦笑を浮かべていると、少女は、「どっこいしょ」と言いながら、私の隣に座り直す。少女の濡れた肩が、私の肩にぶつかる。
 肩を並べて、二人、池を眺める格好になった。

「私、古明地こいし。あなた、水蜜ね? お寺の妖怪でしょ?」

 驚いた。
 少女が、私のことを知ってるとは思ってなかった。

「どこかで会ったっけ?」
「あー、ひっどーい。私、ときどきお寺に行って修行したりしてるのに」

 少女――古明地こいしは、不満げにぷくーっと頬を膨らませる。
 最近では、人妖関わらずお寺にやってくる人が増えた。おそらく、そのうちの一人なのだろう、と得心する。これだけ奇抜なファッションをしている奴を覚えていないのは不思議だったけれど、まあ、一人ひとりの顔を覚えているわけでもなし。

「どうしてこんなところで溺れてたの? 前も溺れてたでしょ? 和尚さんが心配してたよ」

 溺れてた、の部分に反応しようとしたけれど、それよりも他の単語の方に意識を引かれた。
 「和尚」。聖のことだろうか。
 聖。
 顔を思い浮かべて、目を伏せる。今、いちばん聞きたくない名前だった。
 私の様子に気づいているのかいないのか、こいしは続けた。

「和尚さん、優しいよね。ひだまりみたいで、優しくて、好き。うん、お姉ちゃんみたい」

 脈絡もない、会話の飛び方。
 だけど、こいしはそういう奴だ、と一度思ってしまうと、自然と気にならなかった。飛んでいった先の会話に、私は飛び乗る。

「お姉ちゃん?」
「そ、さとりお姉ちゃん。お姉ちゃんはねえ、優しくって、私の好きな甘ーいホットケーキを焼いてくれたり、私が欲しいって言ったペットを連れてきてくれたり、ご本読んでくれたり、それからね、それから」

 姉の話になると、途端にこいしは目をきらめかせた。一つ一つ指を折って、姉の好きなところを上げていく。その様子は、仲の良い姉妹を連想させるに十分だった。仲良し姉妹を頭に思い描く。ほほえましくて、思わず顔がほころんだ。胸がじんわりと熱くなる。
 じゃあ、私たちはどうだろうか。ふと、思った。
 私と聖は、はたから見て、仲良く見えるだろうか。最近は、気恥ずかしさから、ぞんざいなやり取りになってしまっていないだろうか。
 頭で思い描いていたこいしの姉の顔は、いつしか聖の顔になっている。

「あとね、久しぶりに地霊殿に帰ってくると、必ずぎゅっとしてくれるのが好き。どこ行ってたの、心配したのよ、って言いながら、後ろから腕を回して、強めに、ぎゅううっと」

 私は、こいしの言葉を聞きながら、血の池の水面を見つめていた。
 聖も今ごろ、心配しているだろうか。あんな別れ方になってしまって。
 お願いしたら、聖も私を抱きしめてくれるだろうか。こんな冷たい体でも。
 私は、こいしに訊く。

「お姉ちゃんのこと、好き?」
「うん!」こいしは、間髪入れずに大きく頷く。「抱きしめられると、部屋干しした生乾きの服の匂いと、カビの匂いと、埃臭い本の匂いがするの!」
「……ホントにお姉ちゃん好きなんだよね?」
「うん! 大好き!」
「そっか」

 愛されているんだ、この子は。
 愛されてるし、愛している。うらやましかった。その確固たるつながりが。その、姉妹の熱が。
 しばらく、ぼんやりと血の池の水面を二人で眺めた。
 赤黒い水面に、苔から発せられた光がぼんやり瞬いた。風はなく、波もない。音もない。こうなると、時間というものが存在することさえ、忘れそうだった。

「お姉ちゃんのこと話してたら、久しぶりに帰りたくなっちゃった」

 はずみをつけて、勢いよくこいしが立ち上がる。いまだ赤く濡れた衣服から、ぴしゃっと飛沫が散った。
 こいしは、自分のお尻を、埃を払うようにぱんぱんと叩くと、こちらを向いた。

「さ、水蜜もかえろ。和尚さん、心配してるよきっと」

 私に手が差し向けられる。
 つるんとして可愛い手。無垢な子供みたいな手。それを取ろうとして逡巡する。頭の中を、さっきの聖の手がよぎった。しかし、私のその迷いを断ち切るみたいにして、こいしが強引に私の手を取り、ぐいっと引っ張り上げた。

「ひゃっ! つめたーい」

 私を起こしてから、びっくりしたみたいにこいしは手を放す。目を真ん丸にして、手に、はあっと息を吹きかけている。
 ずきり。少しだけ、胸が痛む。無垢な彼女を傷つけてしまったような気がして、私は暗い気持ちになった。

「ごめん、私」
「お姉ちゃんみたいだね」

 謝ろうとした私をさえぎるようにして、こいしは言う。
 また、お姉ちゃんみたい、か。苦笑する。
 でも意外だった。私の想像の中のこいしのお姉ちゃんは、むしろ優しくて暖かい、慈愛にあふれた人だったから、そういった冷たさを想起させる特徴とは、無縁のような気がしていた。私の中のイメージとは、正反対だ。
 私がそう言うと、こいしは可笑しそうにけたけた笑った。

「そんなことないよー。毎日青白い顔して引きこもって、亡霊みたいに生きてる人だもん。冷え性だし。ぎゅっとされるとね、私の熱が、どんどん奪われてくみたい」

 こいしは、大げさに肩を抱いて、ぶるぶる震えるジェスチャー。おどけた様子がおかしくて、私は少し笑った。こいしも、いたずらっ子みたいににししと笑ってみせた。
 さっきの陰鬱とした気持ちが、ちょっと和らいだ気がした。
 こいしはひとしきり笑うと、ふいに遠くを見るような眼をした。

「きっと――きっとね。怖いのよ」こいしは、寂しそうな顔をして、笑う。
「怖い?」
「うん、怖い。お姉ちゃんも、私も。いつの日か、急に離れ離れになっちゃう気がするの。いつの日か、強い風に吹かれて、タンポポの綿毛みたいにふわあーって飛んでって、そのまま、私、お姉ちゃんのとこに戻ってこれなくなる。そんな日が来る気がする。口には出さないけど、私もお姉ちゃんも、それをなんとなく予感してる」

 こいしは、遠く、血の池地獄の向こう側を見ている。
 私もそちらを見やった。何もない、暗闇がぼんやりと佇んでいる。薄闇の向こうに、こいしは何を見ているのだろう。

「だからね、求めてるのはきっとつながりなんだと思う。私がここにいるよって、実感したいんだと思う。お姉ちゃんも、私も。だから、私が帰ると必ず抱きしめてくれるし、私も、抱きしめられたいなあって、思うんだ」こいしは言葉を区切る。呼吸する。彼女の手の中で、青い薔薇の蕾みたいなアクセサリが、きゅっと握りしめられているのが、見えた。「心が読めなくなった二人には、それしかないから」

 私は、こいしのことはなにも知らない。
 だから、私は「そっか」と気の利かない返事しか返せなかった。
 弾かれたように、こいしが顔を上げた。

「きっと、和尚さんもそうだよ。水蜜とつながりが欲しいんだよ。今、ここにこうしているあなたを、もっと感じたいの。暖かいとか、冷たいとか、そういうの関係なく。きっと――きっとね」

 びっくりした。
 急に私の話になったことに。そして、その言葉が、間違いなく、私の悩みに向けられていたことに。
 私は一言も、こいしに自分の悩みについて語ってなかったはずだ。
 私がきょとんとしてると、こいしがくすりと笑う。

「あー、ほんっと水蜜は分かりやすいなあ」
「もしかして、心が読めるの?」確か、地底にはそんな妖怪がいるという話を聞いたような気がする。
「ざんねーん。私は心は読めませーん。お姉ちゃんじゃないんだから」
「え。こいしのお姉ちゃんて、もしかして」

 私が言うより先に、こいしがずいと身を寄せた。
 こいしの顔が迫る。目が合う。吸い込まれそうな、深いエメラルド色した瞳。

「心が読めなくても分かるよ。いや、心が読めなくなったからこそ、かな。私があなたの手に触れようとしたら戸惑ったり、『冷たい』って言ったら悲しそうにしたり、何より、和尚さんのことを言うと、つらそうにしてたり。そういうのを見てたら、なんとなく分かっちゃうよ」

 そんなに分かりやすく仕草に出ていただろうか。
 あるいは、目の前のこの少女が特別、仕草や表情と言った、無意識に出る感情の発露を巧みに読み取る能力に長けているのかも知れなかった。心を読むとおぼしき妖怪の妹ならば、そのくらいはできてもおかしくない。

「ね、そうかな」ぽつりと私。
「ん?」小首をかしげて、こいし。
「聖もつながりたいのかな。私を感じてたい、のかな」
「きっとそうだよ」

 何の根拠があるのか、自信満々でうなずくこいし。
 もしかしたらこいしはこいしで、私と聖を、自分と姉に重ねているのかもしれないな、とふと思った。
 だとすると、その「きっとそうだよ」は、自信があるというよりも、そうであって欲しいというこいしの願いなのかも知れなかった。あるいは祈りだ。痛切な祈り。

「うん、そうだね」

 私もうなずく。
 無根拠に、だけど、そうであって欲しいと祈りながら。

 遠くから笑い声が、さざ波みたく聞こえた。
 そちらの方を見ると、旧都の方から、ゆらゆらと灯りが二、三個揺れてながら、近づいてきていた。どうやら、誰かが血の池地獄の方に向かってきているらしい。旧都の飲み屋で酒をあおった鬼たちが、酔いざましに郊外をぶらぶら歩いて来ている、たぶんそんなところだろう。
 どうやら、この秘密の邂逅もお開きの時間のようだ。
 私は、こいしの方へ振り向く。

「私、そろそろ――」

 言いかけて、やめる。そこに、言葉をかけるべき相手はいなかった。
 こいしは消えていた。まるで煙のように。

「こいし?」

 きょろきょろと辺りを見回す。
 けれど、彼女がいた形跡はどこにもない。そこはただの、静かで暗い洞窟の一角で、いつもの赤黒い色をした池が広がっているだけだ。
 夢でも見ていたのか。
 私は不安になって、自分の手のひらを見た。その手のひらには、確かに彼女と繋がっていた感触が残っている気がした。

「帰ったのかな」

 姉の話をするときの、嬉しそうなこいしの顔を思い浮かべる。
 きっと、その「お姉ちゃん」のところに行ったのだ。きっと、そうだ。

「それにしても」

 本当に、風が吹けば飛んでいく、タンポポの綿毛のような奴だな。私は、苦笑する。
 ――そりゃ、お姉ちゃんも心配するよ。こいし。
 唐突に現れて、唐突に消えてしまった、お騒がせ妖怪に心の中で声をかけつつ、私も歩き始めた。足はしっかりと地上へと、命蓮寺へと向いている。迷いはなかった。
 足取りは、心なしか軽くなっていた。血に濡れていた霊体の服も、いつの間にか、すっかり乾いている。





 * * *





 私が戻ると、聖と日常が待っていた。
 聖はいつものにこにこ顔で、なんでもないように迎えてくれた。心配してるかな、と思っていたので拍子抜けした反面、ほっとした。その日は、私の好きな野菜カレーだった。無性にお腹がすいて、おかわりして山盛り二杯食べた。
 唯一、一輪と響子だけが気遣わしげにしていたけど、私が「なんでもないよ」と言うと、それ以上詮索はしてこなかった。
 日々は過ぎる。寒い季節は続く。

 
 新年を迎え、正月ムードも落ち着いてきた、ある日のこと。
 私が寺の縁側で腰かけてボケーっとしてると、聖がやって来た。

「キャー寒い」

 いつかのように、おどけて聖。私は苦笑する。
「わかってるくせに。こんな日に縁側なんて、寒いに決まってるじゃん」言いながら、私は半分、隣にずれる。聖は、そこに腰掛けた。二人、肩を並べて、寺の小さな庭園を眺めた。

「ね、手をつなぎましょう」

 唐突に聖が言う。いつか聞いたのと同じ台詞。来た、と思った。

「何で」

 いつかと同じようにそっけない言葉を紡ぐ。そうじゃないだろ、と自分に突っ込むも、こういう気性なんだから仕方がない。
 だけどやっぱり、聖は意に介さず、にこにこして言った。

「手をつなぎたいから」

 いつかの時と、全く一緒。相変わらずの脈絡のなさ。二人、目を合わせて、次の瞬間には同時に吹き出していた。そのままひとしきり、声を上げて笑った。
 風が吹いた。庭の枯れ木が揺れた。
 私たちは、やがてどちらからともなく、お互いにそっと手を伸ばす。
 いつかの戸惑いやわだかまりなんてなかったみたいに、自然に、すんなりと、二人の手はつながった。
 私の手が聖にしっかりと握られる。私も聖の手を、離さないように握る。指が絡み合う。聖の熱が私の中に流れ込んでくる。きっと、私の冷たさも、聖の中に流れ込んでいる。今、聖と私が、ここに確かに存在している。そんな感触がじわっと、二人の指のくっついてるところから広がる感覚があった。
 暖かさとか冷たさとか、そういうのはきっと関係なかった。どちらかを温めるとか、凍てつかせるとか、そういうのじゃない。体温よりももっと大事な、たとえば、気持ちだとか存在だとか、そういったものをお互いに交換しあってるような気がした。二人のつながれた手を介して、一つの循環器みたいに、お互いの中のものが巡り巡っている。今、私たちは、どうしようもなく、一つだった。

「ね、村紗。私、貴方の手、好きよ」

 聖は、もう一つの手を、私の手に添える。
 両手でそっと、私の手を包み込むようにした。

「だって、貴方の手、蓮の花に似てるもの。貴方の、白く透き通った細い指を見てると、思い出すの。白く儚げで清廉な、白い蓮の花。夏の早朝、泥でにごった沼からひっそりと顔を出して、ふわっと開く白い花びら。――ねえ、村紗。貴方の指ってホントに綺麗。だから好きよ。私、大好き」

 慈しむように私の手に指を這わせて、聖は歌うように言葉を紡ぐ。
 私もそれに答えようとした。だけど、聖くらいうまく言葉を紡げる自信がなかった。私は、口を二、三度もごもごやってから、結局「うん。私も聖の手、好きだよ」なんて、そっけない返事をした。
 もっと気の利いた言葉をかけなくちゃ。
 口を開こうとした私をさえぎって、風が吹いた。
 冷たい、真冬の風。思わず目を閉じる。それから、ゆっくりと目を開けると、目の前で、どこかから飛んできた木の葉が数枚、吸い込まれるように冬空に舞い上がった。
 その様子に、こいしが言っていた、タンポポの綿毛が風に飛ばされる姿を重ねる。

 ――飛ばされるもんか。私は、ここにいるんだ。

 いつか突風が吹いても。私は、ここにいる。
 念じながら、祈りながら、私は、つながっていた手を少しだけ、強く握り直した。



<おわり>

ご読了、ありがとうございました。
大豆まめ
http://twitter.com/isofurab
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コメント



0.220簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良くて面白かったです
2.100サク_ウマ削除
自己嫌悪にどっぷり浸かった村紗の心情が強く感じられました。素敵で良い作品でした。
3.30名前が無い程度の能力削除
白蓮に拾われたときすでに水蜜は白蓮から受けるあらゆる施しを黙って受け取るのが礼儀と心得ていて然るべき。
冒頭で拒絶する無礼さはいささか唐突で不自然だ。
また、こいしが白蓮と水蜜の関係から何かを学ぶ様を掘り下げて読ませて欲しかった感がある。
他人の考えに触れて鬱屈する心から行動へ移せるようになるという主題は良い
4.70あああ削除
ストーリーの展開にじゃっかん違和感はあったけど、心情描写が綿密でよかったと思います
5.100はつかねずみ削除
登場人物一人ひとりが魅力的に描けていて、素敵でした。
心温まる作品でとても良かったです。
それと、こいしちゃんの救急車のくだり、笑いました。好きです。
6.100名前が無い程度の能力削除
ひじむらさとこいわっしょい
9.100ヘンプ削除
二人の距離がとても絶妙で好きです。そこからの繋がりがとても良かったです。
10.90南条削除
面白かったです
とてもいい話でした
村紗の反応が初々しくていいと思いました
11.80小野秋隆削除
話の解体、とくにコンプレックスが氷解するシーンへの共感がもう一つ欲しかったです。
書かれていたシーンは好きでした。