Coolier - 新生・東方創想話

必殺・針仕事人

2019/01/02 02:48:41
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登場人物。

少名針妙丸:詐欺師。
村紗水蜜:人殺し。
鈴仙・優曇華院・イナバ:偽善者。
霧雨魔理沙:普通の魔法使い。

 

 
必殺・針仕事人


 

 
 ◆針妙丸Ⅰ

 

 
 こと馬鹿な婆さんに関しては、適当なとこに針を突き刺して「あぁ、これはうまくいったなぁおばあちゃん、今日はいつもより針の調子がいい」など言っておけばころっと信じこんで「やっぱり針妙丸ちゃんの針は幻想郷一ねえ」とか無学なことを堂々と口走り、満足げに帰っていくのである。
 この手口を知ってからというもの、少名針妙丸の鍼灸院は、すっかり悪徳の限りを尽くしている。結局、針などというものは、思い込みのなす部分がほとんどなのだ。客が誰もいなくなってから、大あくびをかいて、針をそこらへんへ放り捨てた。
 午後になると、早々に、針妙丸は鍼灸院を閉めてしまう。夕方まで続けていたところで、熟年女性の溜まり場がひとつ増えるだけである。生産性まるで無し。鍵を閉める手に迷いはない。がま口を片手に、石塀の上をてけてけ駆けて、針妙丸が向かっているのは、あんみつ屋であった。

「おりょうちゃーん。いつもの!」

 やっとこさに戸を開けると、中ではいつものように客が賑わい、忙しそうに歩き回る給仕の娘は、針妙丸の声へ元気に振りかえって、

「いらっしゃい、針妙丸ちゃん。ジャンボきんぴらごぼうあんみつでいいのね?」
「おうよ」

 入口から一番近い椅子へ飛び乗ると、あぐらをかいて座って、ジャンボきんぴらごぼうあんみつの到来を待つ。常連の間では、誰も注文しない謎のメニューを勢いよくかっ喰らう謎の小人ということで有名である。あんまり美味しそうに食べるものだから、興味本位に注文した客もいるそうだが、その客は固く口を閉ざし、二度とジャンボきんぴらごぼうあんみつを語ることはなかった。

「おまちどうさま!」

 しばらくして、針妙丸の前に、そのあんみつが到着する。針妙丸の図体よりはるかに大きい。山のようである。山を構成するのは、串刺しにされた大量のきんぴらごぼうだ。占めて、数十本ほど。野次馬の客が騒然とする。一方、針妙丸といえば、目を輝かせて「いただきます!」と宣言すると、自分の身長より長いきんぴらごぼうを器用に抜き取って、いったい身体のどこへ入っているんだといわんばかりに飲みこんでいく。針妙丸にとっては、なにより幸せな瞬間である。一度、見たことのある客から「そんなものの、なにがうまいのかね?」など問いかけられたが、余計なお世話なのだ。そんなもの、こんなもの、それを判断するのは人それぞれなのだから、黙って見ていればよい。不躾な視線も、いい加減に慣れてしまって、針妙丸はひたすら、目の前のごぼうに立ち向かうばかりである。
 ごぼうの山の半分が切り崩されたころ、山の反対側に、誰やら人間が座った。誰か、来たな。ほんの少し気に留めて、すぐにごぼうへ意識を戻す。しばらくじっとしていたそいつは、やおらごぼうを一本引き抜くと、勝手に口の中へ放り込んだ。強盗である。こうなると針妙丸も、黙ってはおられぬ。

「おい、こら。人の食いもんを盗るっつうのは、どういう了見だい」

 身長より長い箸をずんと突きつける。見上げる先には、なにやら暑苦しい、白黒の装束をまとった、針妙丸にとっても顔見知りの、あんまり親しくはない知人がいた。

「なに、すっかりごぼうに夢中だから、こうでもしないと気にしてくれなそうだったもんでね」

 三角帽子を脇に置きながら、霧雨魔理沙は、周囲にばれないように「うえ」と舌を出した。

「よくこんなもの食えるな。小人は普通と味覚が違うのか?」
「勝手に食っておいて、本当に、どんな了見なんだろうね」針妙丸は憮然としている。
「まあ、そう怒るなよ。減るもんじゃなし」
「減るんだよなぁ」

 魔理沙はわははと笑うと、ごぼうの山を挟んで、ずいと顔を近づけてきた。

「儲け話がある」

 ひそひそ、周りに聞こえないような声で、魔理沙は言った。少し、真面目な顔をしている。針妙丸は、ほんの数秒だけ魔理沙の顔を見返して、しかし、すぐきんぴらごぼうの処理に戻った。

「おいおい。興味なしかい? ちょっとくらい聞いてくれてもいいだろう」
「興味なし。聞く意味なし」針妙丸はにべもない。
「そんなこと言っていていいのかい」魔理沙はいきなり、あくどく笑った。「お前さんの悪徳商法を、ここで晒し上げてやってもいいんだけどなぁ」
「……」

 針妙丸の手が止まる。どうも、余計なことを知られているらしい。面倒である。嫌になる針妙丸だったが、それも一瞬のことで、すぐにきんぴらごぼうを食べ始めると「好きにすれば」と突き放した。魔理沙は、やれやれ、とでも言いたげにため息をついた。

「これだから、無頼なやつは嫌だね」
「ぶらい?」
「失うものがない、無法者のことをそう言うのさ」
「とことん失礼な奴だな、お前」

 交渉決裂、というより、交渉にすら入っていないのだが、魔理沙は肩をすくめると、自分もなにか食べようと、給仕の娘に声をかけようとする。
 その寸前、店の戸が勢いよく開かれた。戸はばんと大きな音をたてて、店内がしんと静まり返る。客の注目の先に、なにやら柄の悪い、若い男が三人立っていた。針妙丸の見る限り、どうも、ヤクザな連中だ。軽薄そうに笑いながら、店に押し入ってくる。歩く先には、給仕の娘が、怯えた様子で立ちつくしていた。

「やあ、娘さん。お父ちゃんはいるかい」リーダー格の男が問いかける。
「お、お父ちゃんなら、いますけど……」
「そうかい。すぐに出してくれや」
「あ、あの」娘は、なにか決心したように男を見返すと、「お客さんもいらっしゃいますから、また、別の機会に、……」
「あん? しゃらくせえなあ、おい!」

 男のひとりが、おもむろに、近くの机を蹴っ飛ばした。客の悲鳴と共に、机上のあんみつがひっくり返り、むざんな有様になる。騒然として、客はあんみつを食べ残したまま、我先にと店の外へ逃げ出した。一瞬の勇気を振りしぼった娘も、完全に怯えきって、目尻に涙を浮かべた状態で、震えている。針妙丸といえば、なにやら黙りこくって、変わらずごぼうを食べていた。反対に、魔理沙は、静観できぬといった様子で立ち上がり、男三人に詰め寄っていこうとして、

「お待ちください!」

 店の奥から、男がひとり、血相を変えて飛び出してきた。中年の、太った男である。「お父ちゃん」と、娘は男の後ろに隠れた。どうも、娘の父親、要するに店の主人らしい。状況が変わったことを察知して、魔理沙は詰め寄るのをやめた。主人の男は、額ににじみ出る脂汗をぬぐうと、

「娘や、お客さんは、関係ないではありませんか。どうか、一度店の奥に入って、話を、……」
「いやあ、その必要はありませんぜ」男はにやにや笑うと、「今すぐここで、借金を返してもらえば、なにも文句はないって話ですわ」
「借金?」娘は、震える声で反芻する。「お父ちゃん。なによ、それ」
「……」主人は、返す言葉がない。
「信じられないかもしれないがね」男は矢継ぎ早に、「あんたのお父ちゃんは、うちの賭場で大負けに負けて、たんまり借金を作っちまったのさ。借りた金は、返す。それが世間の道理だろう? そういうわけで、返してもらいに来たってわけだな」

 店の主人はうつむいたまま、黙りこくってしまった。娘もまた、呆然と、主人の後ろで立ちつくしている。魔理沙は振りかえって、針妙丸のほうを覗き見た。相変わらず、ごぼうをむしゃむしゃ食っている。呆れているのか、侮蔑しているのか、なんだか知れないが、魔理沙は針妙丸のほうに歩み寄ってくると、

「なに、呑気にごぼう食ってんだ。それどころじゃないだろう」ひそひそと、説教じみた声色である。
「それどころって、なにが」針妙丸は平然とごぼうを喰らう。
「お前の仲良しの娘と、その父親が、大変な目に合ってるんだぞ。ごぼう食ってる場合か」
「私は金を払ってこいつを買ったんだから、食わなきゃ損だし、食べるに決まってるでしょ。それに、仲良いとか悪いとか、知らないけど、借金してるのを返すのは当たり前。逆に魔理沙は、私になにをさせたいわけ?」

 淡々と、理屈じみた言い方である。魔理沙は、気に障った様子で眉を潜めると、しかし目を閉じてなにか堪えて、それから娘たちの方に向きなおった。間に入って、仲裁をしようという様子だ。針妙丸はその様子を、冷めた感じで見ていた。さっさとごぼうを食べてしまうと、金を椅子の上に置いて、開きっぱなしの戸から店を後にする。後ろから、魔理沙と男たちの口論する様子が聞こえてくる。どうでもよい。
 魔理沙が針妙丸に訴えかけていたことを、針妙丸自身、理解はしていた。仲の良い給仕の娘が、突然の窮地に追いやられている。それを友人のよしみで、助けてやろうとは思わないのか。そう言いたかったに違いない。助けることなら、できる。針妙丸は小人だが、そこらへんの人間に実力で負けるほど、腕に自信がないわけじゃない。しかし、だからといって、助けてなんになるのか。救いの手を差し伸べられるほど、立派な人間か? 針妙丸は、そんなことを、まったく信じていなかった。

「今更正義ぶって、なんになるんだか」

 ちょっとだけ振りかえると、針妙丸は、相変わらず不機嫌そうに、帰宅路へ消えていく。

 

 
 ◆村紗Ⅰ

 

 
 村紗水蜜は、ふすまの隙間からこそこそやっている封獣ぬえの姿を見つけた。なにやら、客間を覗いているようである。ひっそり、ぬえの横まで歩み寄った。ぬえは村紗に気づくと、人差し指を口に当てて、静かにするよう暗に働きかける。村紗は一度こくりと頷くと、ぬえと一緒になって、ふすまの向こう側を覗きはじめた。

「――ですからね、住職さん。我々としても、里の中に妖怪がいるっつうのは、安心できないんですなあ」

 客間には、人間の男が三人と、命蓮寺の住職が一人。住職の女、聖白蓮は、男の言葉にも平然とした感じで、

「安心できないというのは、どういうことでしょうか」
「どういうことも、こういうことも、ないでしょうが。妖怪ですよ。妖怪。人間の敵だ。それが、人間の聖域たる人里の中に。恐ろしいことでしょうが」

 聖に向き合う人間の男たち、それも真ん中に座っている、脂ぎった肥満体型の男は、雄弁にしゃべりまくり、その口元にはねちゃねちゃと糸が引いている。村紗には、おぞましい光景にさえ見えた。どっちが妖怪なのか分からぬ。明瞭な悪意が感ぜられる。少なくとも、友好的な客でないことだけは、確かであった。

「確かに、命蓮寺では何人かの妖怪が修行に励んでおります。しかしながら、それらが人間に害を為したことは一度もない。これからも、そのようなことはあり得ないと確信しております」
「これまでは、そうかもしれないが、これからの話は、住職さんの個人的な意見じゃないか。どうも、俺たちにとっちゃ、恐ろしくてたまらないのだ」
「……それでは、いったいどのようなことをお望みで?」
「この寺の妖怪連中は、みんな、里の外に出してほしいのさ。俺たちの願いは、たったそれだけだ」

 男の言葉を聞いて、村紗とぬえは、顔を見合わせた。ぬえに至っては、大声を出しかけて、なんとか堪えた様子である。当然だ。命蓮寺の妖怪を、全員放逐せよ。男たちの突然の要求、村紗とぬえも、もれなくその対象になっている。もっとも村紗は、なぜこのような状況になっているのか分からなかった。逆に冷静となって、ふすまの向こう側を見つめていた。

「確かに、命蓮寺の妖怪が人間に害を為すことはない、それは私の判断による、予測的なことに過ぎません」
「そうでしょう」男は、下卑た笑み。
「しかし、必ずしも、根拠のない主張というわけではない。この幻想郷がスペルカードルールによって統治されている以上、里の内部において、妖怪が人間を襲うことは禁止されているわけですから、そのルールを無暗に打ち破ることはありませんよ。なぜなら、それを打ち破るということは、博麗の巫女を敵に回すということ。いくら私たちが妖怪の大所帯とあっても、巫女の強さは規格外なわけですから、それに歯向かおうというのは、愚かな話です」
「一見、筋が通っているように思えますけどねえ、それはあなたの監督が行き届いていればの話でしょう。妖怪のうち、一人でも暴走してしまえば、我々人間が危険に晒されることだって、考えられなくはない。万が一を考えなきゃいけねえんだ。そいつは、どう思いますかね」
「……仏教には不殺生の教えがあります。人間、妖怪、それらを問わず、命蓮寺に帰依しているということは、人殺しはご法度、そのようなことはありえません」

 聖は、苦々しい口ぶりである。村紗はなんとなく感じ取っていた。妖怪が絶対に、人間を襲わないと証明できるのか。人間の男は、そのようなことを主張している。不可能だ。悪魔の証明。絶対にない、ということを示すのは難しい。いくら聖白蓮とあろう者でも、容易な話ではない。逆にいえば、そういう論調には、あんまり意味がないということでもある。それならば、妖怪と限らず、人間が人間を殺すことの方が、ずっとあり得る話じゃないか。むしろ、スペルカードルールの下では、そういう案件のほうがはるかに多い話じゃないか。妖怪が里を去ったところで、人殺しが減るわけじゃないだろう。そういう方向にだって、話を持っていけるかもしれない。もっとも、堂々巡り、意味のない議論に変わりはないのだが。
 しかし村紗は、人間の男たちの主張について、妙な得心を持って、受け入れてしまっていた。妖怪が、いつ人間を襲うかは分からない。確かに、そうだ。そういう主張を、村紗は、正面切って否定することができなかった。ある種の真実を、突いていたのだ。村紗にはその言葉が、すっと胸の中に入って、しっくりきてしまった。

「それじゃあ、住職さん、あんたは我々の要求は呑んでくれないってわけだね」
「無論です。そのようなお話をお聞きするわけにはいきません」
「そりゃあ、残念だ」

 安堵したのか、ぬえのため息が聞こえてくる。村紗も現実に戻ってきて、ふすまの向こうに目を戻すと、下品な男たちがちょうど帰るところだった。聖は、正座のままで男たちを見送っている。毅然の対応。ざまあみやがれ、ぬえが毒づく。聖が男たちの要求に、命蓮寺の妖怪をすべて放逐せよなどという主張に、間違っても首を縦に振るはずがない。村紗にとって、それは疑う余地もない、確信であった。聖が一度でも、仲間を裏切ったことがあったか。売ったことがあったか。いよいよ自身が魔界に封印されるような事態になっても、尚、聖は仲間のことを想い続けていた。

「面倒な連中が来たみたいだね」

 正座する聖に、後ろから声をかける妖怪が一人。小さな体躯に、丸い耳としなやかな尻尾、命蓮寺の誇る賢将は、憮然とした表情をしていた。

「どうやら、話ができる相手ではないようです」聖が苦笑する。
「そりゃあ、そうだ。ああいう手合いは、自分たちが正しいと思って疑わないものさ。自分たちの存在意義、生きる意味を、そういうことに見出しているんだ。見識が狭くなくちゃあ、やっていけない。主義主張が、そのまま自我になっている。反論はすべて、自我の否定だと思って大騒ぎするのさ」
「ナズーリン。少々、言葉が過ぎますよ」
「ああ。そうだね。悪かった」

 たしなめられて、あっさりと引き下がるナズーリンの台詞は、はたして本人自身が思っていたのか、せき止められた感情を代わりに放流していたのか。村紗は、そのあたりの機微をうまく理解していなかったが、少なくとも聖の表情は、先ほどよりも和らいでいるように見えた。

「しかし、現実問題、ああいう集団は問題を起こしそうだよ。妖怪に対する過剰な反発。ころっと騙される連中も少なくないらしい」
「……そうですか。とはいえ、私たちにやれることといえば、いつも通りに生活することしかありませんね」
「警戒だけは強めておこう。連中の潜窟は、既に部下たちが見張っている」
「いつもありがとう、ナズーリン」

 聖は立ち上がると、ナズーリンと一緒に客間を出ていった。ぬえも、ふすまをひっそり閉めながら「襲撃なんてしてくるようなら、文字通り地獄を見せてやる」などと息巻いていたので、村紗はその首筋を軽くチョップする。なんだよぉ、と涙目のぬえ。そのようなことをしては、聖の苦労もすべて水の泡である。血の気の多いぬえも、聖には頭が上がらないようで、面白くなさそうに、首を撫でながら去っていく。
 そう。聖に悲しい思いをさせないこと、その気持ちが、命蓮寺の妖怪たちを結び付けている。ナズーリンと二ツ岩マミゾウ、このあたりは腹になにか持っているかもしれないが、寅丸星と封獣ぬえがそれぞれ聖を慕っている以上、歩調を合わせるくらいはしてくれるだろう。あのような人間の連中に乱されるほど、命蓮寺は一枚岩ではない。それは間違いないことのはずだ。
 しかし村紗は、疑念を抱いている。固い結束の中に、一点、ぽっかりと穴が空いているように感じる。その穴の正体は、星でも、一輪でも、ぬえでも、ナズーリンでも、マミゾウでも、ましてや雑用の幽谷響子でもない。村紗はどうしても、否定することができない。結束を、信じることができない。深層に眠っている暗い欲望が、聖を、仲間たちを裏切り、傷つける欲望が、擦りガラスの向こう側に、ぼやぼやと、でも確かに、ある。

「ムラサっ」

 唐突に、後頭部へ強い衝撃が走る。視界に火花が散り、現実に引き戻されて、振りかえってみると、悪そうに笑っているぬえの姿があった。

「やられたままじゃ腹立つからね。これでちゃら」
「ああ、そう」村紗は首をさすりながら、「それで、ご用件は?」
「呑みに行こう!」

 いよいよ、仏門に帰依するものとは考えられぬ発言である。ただ、村紗も、なにやら呑みたい気分だった。含みを持たせて笑い返すと、ぬえはずっとご機嫌そうに笑った。

 

 
 ◆鈴仙Ⅰ

 

 
 笠を深々と被った薬売りは、おせっかいで、説教臭く、やけに熱血で、里人の間で小さな話題となっている。

「この薬は、お茶と共に飲んではいけないと、前回申し上げたはずですよね」

 その表情は、笠に隠れてよく見えない、しかし少なくとも、薬売りの不満がひしひしと感ぜられる。そうすると、里人はすっかり怯んでしまい「すんません」以外のなにごとも言えなくなってしまうのである。

「……この薬は、お茶の中に入っている成分と結びついて、その薬効がなくなってしまうのです」薬売りはぶつぶつ話しはじめて「そういうことを、私もしっかり話しておくべきでした。ごめんなさい」
「とんでもねえ」里人は慌てる。「薬師さんは、いつでも俺たち貧乏人のことを考えてくれてるって、評判だぜ。謝ることなんてねえ。俺っちがみんな悪いのさ」

 突然褒めたたえられ、薬売りはうろたえると、見るからにもじもじして、笠をより深く被り直した。更には、ふいにボロの布団から男児が顔を出して、「薬屋さん、ごめんなさい、次からちゃんとお薬を飲みます、ありがとう」などと言ってくるので、いよいよ薬売りは赤面である。
 逃げるように里人の家を飛び出して、路地を早歩きに歩き、もう十分まで離れたところで、薬売り――鈴仙・優曇華院・イナバは大きく息を吐くと、誰にも見られないように少しだけ笑った。
 鈴仙が薬売りに充実感を覚えはじめたのは、貧しい人間たちへ薬を売るようになってからだった。永遠亭と里のお偉方とで話し合いがあり、結果、代金の大部分を里全体で負担することで、貧者にも薬が提供されるようになったのだ。そうして巡り合う人間たちは、みな、金銭的には貧しくとも、心は豊かなものが多いように、鈴仙は感じた。素直な感謝の気持ち、ほっとする表情、そしてなにより、病弱な子供の屈託ない笑顔が、鈴仙のやりがいになっていた。

「やあ、薬師殿。今日の代金はいくらかね」

 反対に、里の中心にある大きな屋敷――成り上がりの商人が暮らすそこへ行くとき、鈴仙はなによりも嫌な気持ちになる。玄関先で、細々と不健康そうな使用人が、淡々と取引を進めようとする。鈴仙は、一瞬ためらってから、しかし意を決して、被った笠をすこし引き上げると、

「……以前申し上げたように、ご主人は、ご節制などされておりますか?」
「ええ。ご心配ありません」使用人は淡々としている。
「しばらく前に、偶然、お見かけしたときは」鈴仙の声に棘が出て、「とてもご節制されているような体躯には、お見受けできませんでしたが」
「なにが仰りたいのですかな」
「消渇は、美食、運動不足、肥満が原因の病なのです。いくら私どもの薬を飲んでいたとしても、それだけでは本質的な改善は、……」
「申し訳ないが、我々も暇ではないのでね。そろそろ失礼して頂こう。貴方がたは、ただ、我々に薬を売ってくれればよい。よろしいかな」

 使用人は金を押しつけると、玄関戸をぴしゃりと閉め、さっさと内側へ戻ってしまった。鈴仙は、足下の土を腹立たしげに蹴り上げて、盆栽だらけの前庭を後にする。薬売りは、ただ薬を売ってくれればよい。淡泊な関係を望むのならば、それでもよい。そういう事務性も、薬売りには必要な態度のひとつだ。しかし鈴仙は、どうもやりきれぬ。里の中には、薬をひとつ買うのにも困っている人間がいるのに、ここの金持ちは、金で薬を買いまくった挙句、正しい処方を無視して、美食飽食の限りを尽くしているようである。腹立たしいが、それならばそれでよい、とも思った。不摂生を続け、最期に困るのは自分自身である。ただ、最終的に、その責任を薬に向けてくるような気がして、鈴仙は不安に感じていた。
 その日分の仕事は、れいの商家で最後であった。迷いの竹林へ向かう道を、不機嫌そうに歩いていく。ふと、目の前の茶屋に、ふてくされた感じで団子を食っている、知り合いの姿を見つけた。知り合いのほうも、鈴仙の姿に気づいたらしく、団子を頬張りながら手を振ってきた。

「……やけ食いしてる。また、博打で負けた?」鈴仙はため息をついた。
「そういう鈴仙も、いつも通りの不機嫌な顔。商家のおデブ絡みだろ」
「本当、頭に来るったらありゃしない。人のはなしなんて、なんにも聞く気がないんだわ」

 ぷりぷりしながら横に座った鈴仙へ、やけ食いしている兎、因幡てゐは「あーん」と団子の刺さった串を差し向けた。鈴仙は大きく口を開けて、団子をひとつかじり取ると、もぐもぐと咀嚼する。甘く味付けがされていてうまい。すこし機嫌がよくなった。

「そっちは、やっぱり博打負け?」てゐに話を振る。
「あれはイカサマだね」てゐは吐き捨てた。「私が言うんだから間違いがない」
「そりゃ、説得力のあるお言葉で」

 鈴仙がせっせと働く一方、てゐはしばしば、うまいことサボって博打に興じている。仕事をしないのは腹立たしいが、結局はてゐ自身の金を使っているので、いくら損しようが得しようが、鈴仙の知ったことではなかった。そもそも、てゐはあんまり損をしない性質で――というより、損をし得ない能力を持っている――そのてゐが最近、やけにスッているという話を聞くようになった。てゐの財布事情などはどうでもよいが、負けが込んでいるというのは、鈴仙としては興味の対象だった。

「イカサマとかなんとか言って、腕が落ちたんじゃない?」鈴仙はにやにやしている。
「ああ、そうかもねえ。鈴仙がしょたっこへ夢中になっている間に、私も焼きが回ったかもなあ」
「なっ……」
「そんなに真っ赤にならなくてもねえ。なんだ、図星?」てゐがにやにやした。

 鈴仙は笠で顔を隠すと「それでイカサマっていうのは?」とか言って、露骨に話題を逸らす。

「あぁ、そりゃあ、まじだね。この私がこれだけ損するなんて、そんなことがあるか? ま、終わったことに文句は言わないけどさあ。念のため、手下の兎たちに賭場を調べさせてみたわけ。そうしたらもう、真っ黒よ」
「なにで勝負してたの」
「丁半。床下、鉛詰め、豆腐、なんでもござれ、よ。あんなんバレたらとんでもないと思うんだけど、平然とやってるっつーのは、なんかコネがあるんだろうねえ」

 丁半は、複数のサイコロを使う博打である。出目の合計が偶数なら丁、奇数なら半、丁半を当てることで当否が決定する。イカサマも多彩なもので、床下から針で出目を操作する、サイコロに鉛を詰める、サイコロを豆腐に載せておき水を吸わせる、など、ツボ振り次第でやりたい放題だ。こうなると最早、どれだけ幸運を持っていようが、関係がない。
 なんにせよ、鈴仙としては、博打などやっている方が悪い、という立場であった。胴元からすれば、損する商売など絶対にやるわけないのだから、賭場にイカサマはあって当たり前である。興味本位に聞いてみたものの、結局、冷めた感じになっていた。

「あと、気になる光景も見かけたんだよな」

 ふと、思い出したように、てゐは空になった木串を立てた。ほとんど興味を失っていた鈴仙は、なかば立ち上がりながら「なに?」と問い返す。

「鈴仙が薬売ってるとこの、ほら、ほっぺたにホクロがある若者。覚えてる?」
「ええ。それなら、つい先日薬を売りに行ったけど」
「そいつ、昨日、その賭場で見かけたよ。血相変えて、やってたねえ。あれはだいぶカモられてるよ」
「……なにそれ」

 頬に大きなホクロのある青年。永遠亭のお得意先、といっても貧者のうちの一人に過ぎないが、鈴仙はそれなりに親しいつもりでいた。従順で、物わかりのいい青年である。老いた母親の薬代を稼ぐため、日夜無理をして働いている。親想いと、近所の評判もよい。鈴仙から見た印象としても、おおむね一致していた。聡明な若者だ。まさか、博打など、するはずはないと思っていた。

「その賭場の場所。教えてくれない?」

 鈴仙は思わず立ち上がると、団子の勘定を呼んでいたてゐへ、ずいと詰め寄った。てゐはなにやら、肩をすくめて、

「慌てちゃって、まあ。行ってどうするのさ」
「止めるに決まってるじゃない。彼にそんなお金あるわけない。騙されてるんだ。止めなくちゃ」
「もう手遅れっぽいけどね。私が見たときは、だいぶ、大損してたからねえ」

 軽薄に言うてゐ、鈴仙はふつふつと、腹が立ってきた。そこまで言うのなら、なぜそこで止めなかったんだ。青年にそんな金銭がないことは、分かっていたんじゃないのか。煮える感情が、頭の中で沸騰して、しかし、拳を握りしめ、抑えこんだ。ここでてゐに八つ当たりしたところで、なんの解決にもならぬ。そもそも、てゐがそこまでする義理なんてないことも、理性のうちには理解していたのだ。

「……いいから。賭場の場所、教えてよ」
「はいはい。メモるから、ちょい待ってて」

 てゐは、さらさらと雑紙に地図を書いて、鈴仙へ渡す。ひったくるようにして受け取ると、鈴仙はすぐに走り出した。しかし、しばらく進んだところで、なにか思い詰めるように立ち止まり、ふいにきびすを返すと、てゐのところまで戻ってきて、

「教えてくれてありがとう、てゐ。恩に着る」
「どういたしまして」

 団子一串分の代金を椅子の上に置くと、すぐに背を向けて、走りはじめた。

 

 
 ◆鈴仙Ⅱ

 

 
 くだんの賭場の前では、客引きの男が忙しそうに動き回っている。店が開いてまだ早いのだろうと、鈴仙は思った。太陽はほとんど落ちきっていて、しかし、大量のちょうちんが並べられた賭場の入り口は、夜とは思えぬくらい、明るく灯されていた。
 徐々に、続々と、客が入っていく。ほとんどは、いかにも金を持っていそうな、高級な服装の男たちである。洋服を着ている奴さえいる。明らかに貧しい服装の者がいれば、すぐに分かりそうだ。鈴仙は物陰に立って、誰にもバレぬように、行列を監視する。
 いよいよ、行列の最後尾が見えはじめたころ、ついに、鈴仙は見つけた。ボロ布のごとき服装、血色の悪い顔、そして頬にある大きなホクロ。れいの、青年だ。青い顔をして賭場に入っていく。がま口を握りしめていた。当然、あの中に金が入っているのだろう。いったい、どのように調達した金なのか、鈴仙はあまり想像したくなかった。
 鈴仙は物陰から出ると、列の最後尾へしれっと並んで、賭場の中に入った。ここへ来る途中、永遠亭で着替えてきたので、服装は薬売りのそれではない。あんまり目立たないように、一般的な里人らしい格好で、耳はうまい具合に帽子で隠した。賭場の中は更に明るく、成金の集団でにぎわい、青年は縮こまった感じで、端っこのほうにいた。すると、青年のもとへ、いかにもヤクザな男が近づいてきて、なにやら耳打ちしていた。青年は一瞬怯えた顔をしたが、一転、決意じみた怖い表情に変わった。

「やあやあ、お嬢さん。初めての顔のように見えますが」

 唐突に、筋肉質な男が、鈴仙に話しかけてくる。鈴仙はすこしぎょっとして、なんとか持ち直し、平常な感じで応える。

「ええ、初めてで。勝手を教えてもらえるかしら」
「それじゃあ早速、お嬢さん、ここは誰かの紹介かい?」
「いえ、そういうわけでは」
「ああ、そうかい。まあ、楽しんでいってくださいや。見ての通り、ここは自由な賭場ですからねえ。初めてでも安心ですよ」

 くっくっ、と笑い、男は去っていく。不審を感じて、男の行く先を盗み見ていると、男は色んな人間へ同じように話しかけ、最終的には、賭場の裏へと消えていった。鈴仙はなんとなく、納得していた。ああいう具合に『カモ』を決めている。
 数分くらいして、賭場の入り口が閉められると、人間たちが畳の上に座りはじめる。まるで、将軍様の御前で会議をする忠臣たちのごとく、将軍の位置にはツボ振りの女が、忠臣の位置には客が並んで座った。それから、コマを持った男たちが現れ、その場でコマと現金を交換する。このコマを賭けて、丁半賭博が行われる。

「さあ、張ってください」

 二つサイコロの入ったツボが伏せられると、客がコマを張る段取りになる。丁、半。客が次々にコマを張っていく。鈴仙はひっそり、周囲を見回した。右ななめ前に、青年を見つける。怯えた顔をして、コマを二つ、半に賭けている。鈴仙は視線を外すと、手持ちのコマ一つを半に賭けた。

「よろしいでしょうか。よろしいでしょうか」

 男の声に引き続き、賭場がしんと静まり返ると、ツボ振りの女がツボを引き上げる。サイコロの出目に注目が集まる。――4と6。シロクの丁だ。

「シロクの丁でございます」

 賭場が再び、がやがやと騒がしくなる。鈴仙は負けなので、さらりとコマが回収されていく。この負けは、鈴仙が予想した通りの結果だった。もしも、鈴仙が『カモ』と見なされているとしたら、そして、右前方、いよいよ小刻みに震えはじめた青年も、また『カモ』であるならば、鈴仙が青年と同じ方へ賭けている限り、ほとんどの場合で、鈴仙は負けるはずだ。なぜなら、この賭場はイカサマで、サイコロは自由自在に動かされているから。
 鈴仙はしばらく、同じ行動を繰り返した。案の定、あれよあれよと負けが込んでいく。たまに勝ったりするが、せいぜい、五回に一回ほどのものだった。それも、青年が臆病になって、少ししかコマを賭けていないときに限った。青年の顔が、涙でくしゃくしゃになっている。鈴仙はいたたまれなくなり、青年の顔を直視できなかった。青年は、絶望しているのだ。おそらく、今賭けている金は、どこかから無理やり借りてきた金なのだろう。借金を返すため、借金をする。その借金さえ返せなくなったら? 遂に、破滅だ。破滅が、眼前に迫っている。間違いのない現実として、青年をあざ笑う。鈴仙は俯いて、唇を噛んだ。

「やあ、お嬢さん。負けが込んでいるようだねえ」

 鈴仙のすぐ左に座っている、いかにも成金といった感じの、洋服を着た男が、話しかけてきた。にたにた、下品に笑っている。鈴仙が思いつめた顔をしているのを見て、金銭的に追いつめられていると、勘違いしたらしい。無節操にすり寄ってくると、鈴仙の耳元に口を近づけて、

「ぼくが援助してあげようか。なに、君の態度次第だが」

 男の手が、正座する鈴仙の脚に伸びてくる。下品で、露骨で、矮小で、低能な、男の行動は、おそらく、このような賭場では日常茶飯事なのだろう。賭場と通じているような客が、食い物にされる客を、結託して陥れる。それは、金銭的にも、別の意味でも。そういう商売として、平然と、成り立っている。

「ふざけんな」

 鈴仙の理性が、冷静な判断力が、ぶっつり音を立てて吹き飛んでしまう瞬間を、鈴仙自身が気づき、感じた。見つめる先の成金男、その目は、みるみるうちに光を失い、ぐしゃぐしゃと視点が定まらない。鈴仙はそのまま、周囲を広く見渡した。ことが済んでしまうまでには、一瞬だった。その場にいる人間の誰もが、平常の精神ではなくなった。鈴仙以外、異常に気づかぬまま、丁半賭博は継続せられた。一時間も経つ頃には、鈴仙と青年は、元手の二十倍近い金銭を得た。鈴仙は立ち上がり、おもむろに青年の手を引っ張って、さっさと換金すると、ぼやぼやと狂気に包まれた賭場から、足早に立ち去った。

 
 賭場近くの草陰で、鈴仙は、青年の頬をぺちぺち叩いていた。やりすぎたかもしれない、鈴仙は少し、慌てている。狂気の瞳に触れすぎた人間は、狂気から戻ってこなくなることもある。月の光が持つ狂気と、同じことだ。幸いにも、青年の瞳には、少しずつ光が戻ってきた。安心した様子でため息をつくと、目の前の青年は、未だぼんやり焦点が定まらず、しかし次第に、何度もまばたきを繰り返すようになって、やがて辺りをきょろきょろ見回しはじめた。

「目が覚めた?」

 鈴仙の言葉に、びくりと一度震えると、青年はまじまじと、鈴仙の顔を見る。それから、いかにも不審そうに眉をひそめ「誰ですか」などと問いかけてきた。鈴仙は一瞬ぽかりとして、すぐ意味に気づき、手荷物から笠を取り出すと、深々と被った。笠を被った姿であれば、それは青年にとって、頭が上がらぬほど世話になっている薬売りである。次の瞬間には、平伏叩頭、今度は鈴仙が慌てる番であった。
 お互いに落ち着いてから、鈴仙は、青年にことの詳細を話す。もっとも、賭場の人間全員を狂人にしてそのまま逃げだしてきたなどとは言えないため、大勝ちした友人から分け前をもらい、それで逃げだしたことにした。青年は、話を聴き終わると、やにわにしくしく泣きはじめる。無理もないと鈴仙は思った。きっと、青年に残っている最後の記憶は、財産という財産をかすめ取られ、人生の希望がなにもかも消え失せそうになっていた、その瞬間の記憶だ。

「ねえ。聞かせて。どうして貴方は、博打なんかに手を染めてしまったの? あんなに、お母さん想いの貴方が、……」

 青年が落ち着いてから、鈴仙は、穏やかに、問いかけた。青年もいよいよ泣きつくしたのか、いくらか冷静に、話しはじめる。
 いわく。安く薬が手に入るようになり、青年と老母の暮らしは、いくらか楽になった。そんなとき、見知らぬ男が、青年に話しかけてきたのだという。

「お母さんの病気を完治させられる薬がある。若干高額だが、うまくやれば、君のお金を増やせるかもしれない」

 そうして青年は、賭場まで連れてこられた。はじめは、少額だけ賭けて、うまくいかなければすぐやめよう、そう思っていたそうだ。それが、面白いほどに、うまくいく。する勝負、する勝負、全てに勝ってしまう。あれよあれよと、元本は膨らんでいった。君には能力がある、感性が違う、おだてられ、気が大きくなり、大きな勝負ばかりするようになって、そうすると突然、負けが込み、これくらいの負けならすぐ取り返せる、そう思っているうち、ずんずん負けは込んで、遂に、取り返しがつかなくなってしまった。
 ふと、青年は血相を変え、「あの男だ」と賭場の入り口を指さした。鈴仙は振りかえって、指差す方向を見る。人の三倍も横幅がある、おぞましい大男が立っていた。その顔には、とぼけたような表情が貼りついている。あごは三重にもなって、垂れ下がり、どのような生活をしているのか、想像もつかぬ。そして、その不養生な容貌は、鈴仙にとって、初めて見る顔ではなかった。
 鈴仙は、人気のない路地を進んでいった先、青年の家まで彼を送り届けると、何度も何度もお礼を言われながら、別れた。青年が家の奥まで入っていったことを確かめると、途端に、身体中が憤怒に支配される。身体が、熱した鉄のように熱く感ぜられた。感情がコントロールできない。脳裏に浮かぶのは、どうしようもなく、ぶくぶくと太り切った、あの商家の大旦那、もとい、イカサマ賭博の胴元。若い青年と老母の人生を、ボロ雑巾のように扱った、情状の余地もない、最低の悪徳漢の姿。ありあまる金で薬を買い占め、そのくせ治す気はなく、大食怠惰の生活を繰り返して、あまつさえ、懸命に生きる里の人間を食い物にし、にたにた醜悪に、笑う。

「荒れてるなあ。お前」

 背後から、どこかで聞いたことのある、軽薄な声が耳に届いた。なにも考えず、振りかえってみると、白と黒の女が立っていた。

「うわ」女が慌てふためく。「おい、おい。その眼でこっちを見るなよ」
「今、ものすごく、不機嫌。なんの用?」鈴仙の息は荒い。
「分かった、分かったから、単刀直入に言おう」

 女は顔の前で、両手をぐるぐるやりながら、しかし口角だけ、にやと吊り上げた。

「ちょっとした仕事の相談だ。どうだい?」

 

 
 ◆村紗Ⅱ

 

 
『人外は立ち入り禁止』などと、大げさに書かれた紙が、露骨に、でかでかと、屋台の真正面に貼られていた。村紗が呆然としているうち、行動の早いぬえは、立ち入り禁止もなんのその、平然たる無視、のれんをひっぺがして中に入り、さっそく店主に詰め寄るのであった。

「おい、おっさん。こりゃどういうことだ」
「勘弁してくれよ」店主は、もう泣きべそをかいていた。「入るなって書いてあるじゃないか」
「知ったことじゃないね。黙って酒を出せ」傍若無人の限りである。
「まあ、落ち着けって」見かねた村紗が、ぬえの両肩に手をかけると、すとんと椅子に座らせた。「いきなりこんなご挨拶なんだ。店主にも、なにか事情があるんでしょう」

 村紗がなだめると、いささか不満げながら、ようやくぬえも静かになる。それから、じいと、二人に見つめられた店主は、気まずそうに視線を逸らして、しばらくもじもじやった後、あぁと天を仰ぎ、顔を机越しに近づけてきて、ひそひそ、ぼそぼそ、話しはじめる。

「最近、幅を利かせてるあいつらだよ。目をつけられたらたまんねえ」
「あいつらぁ?」ぬえが眉をひそめる。「なんだ、そりゃ」
「知らねえのか。妖怪攘夷、人間万歳とか、やってる、あいつらさ」店主は周囲をちらちら見ながら、「妖怪がよほど嫌いなのか、ここらへんの店は全部、おんなじようにさせてるみたいだぜ。なにやら金持ちの旦那と手を組んでいるそうで、ショバの権利を握られちまってるから、俺たちは文句も言えねえ」
「なんだよ、それ、私らがなんか悪いことしたか?」
「知らねえよ。ともかく、そういうことなんだから、出ていってくれ。常連のあんたらにゃ申し訳ないが、俺だって仕事ができなきゃ生きていけねえ」

 半べその店主、おでんのこんにゃくを一本ずつ押し付けてきて、村紗とぬえは追い出される。仕方がないので、里の外の屋台へ向かうことにした。少し遠いが、夜雀の屋台などは、いつでもやっているだろう。真冬の冷え切った空気の中、こんにゃくを齧りながら、ぬえは変わらず、ぶつくさ言っていた。

「なんだよ、くそ。今日はおでんの気分だったんだけどなあ」
「あの様子じゃ、しばらく行けそうもないな」村紗は後頭部に手を組み、「この辺一帯、おんなじような感じ、って。締め出されてるみたいだ」
「いきなりどうしたんだ、っての。はぁ」

 よほどおでんが食べたかったのか、すっかり意気消沈である。夜雀の屋台につき、日本酒で八目鰻をつついている間も、あんまり元気がない様子だった。村紗は妙に気の毒がって「今日の酒は奢ってやるよ」など言うと、ぬえは「まじ?」と嬉しそうに乗ってきて、結局八杯も飲んだあげく、へろへろになって帰宅路へ着く。現金な奴。ぬえに肩を貸しながら、そんなことを思いつつ、ぬえが落ち込んだままじゃなくてよかった、そういうことも考えていた。
 すっかり寝静まった命蓮寺に忍び込むと、「それじゃね、今度は私が奢ったげる」と、ぬえは上機嫌で屋根の上に消えていった。こんな極寒の日でも、ぬえは屋根の上で寝る。長い付き合いのなかで、暑い、寒い、そういう感覚がぬえにはないことを知っていた。もっとも村紗はその限りでないので、身体を縮こませながら、のそのそと寺へ入っていく。
 ――それにしても。
 きしきしと廊下を歩きながら、村紗は、今日の出来事を思い出す。いきなり屋台から締め出されたこと、この辺一帯おんなじ感じだという店主の言葉、そして、更に遡れば、昼に命蓮寺へ押し入ってきた、下衆な風体の男たち。全部、つながりがある。たくさん考えずとも、村紗はなんとなく、理解していた。なにか、妙な流れが、人里にうごめいている。それは、毒ガスのごとく地面へ降り積もる、掴みどころはないが、たしかに実在する、悪意であった。

「……」

 村紗はふいに、動きを止めた。物音が聞こえたのだ。通り過ぎかけた、障子戸の向こう側。動きを感じる。よく見ると、ぼんやり、明かりもついていた。命蓮寺中が消灯せられる時間である。こっそり、夜更かしをしているようだった。その部屋の主が、命蓮寺の妖怪僧侶であることを、同居している村紗は、当然知っていた。

「一輪。起きてるの?」

 障子を軽く叩き、声をかけた。一瞬、障子の向こうの動きが止まる。逡巡しているように思われた。しばらく沈黙して、しかし「入っていいよ」と声が返ってきたので、村紗はおずおずと入室する。案の定、部屋は淡く灯されていて、布団の上に座る僧侶、雲居一輪は、この寒い中で晒一枚という格好である。しかし村紗は、寒くないのかと問いかけるより先に、一輪の身体中、青黒いものが目立つことに気づいた。

「……誰にやられたの?」
「怖い声出さないで」一輪は苦笑した。「大したことないから」
「そういう問題じゃないよ。話してくれるまで帰らない」

 顔が熱くなるのを感じた。だいぶ酒に酔っているが、そういうことではない、自分でも驚くくらいの、義憤の情である。村紗は、一輪の横でどかりとあぐらを組み、動かざることなんとやら、という感じ。一輪は思わずため息をつくと、諦めたふうに、力を抜いた。

「聖様には話さないで。それだけは守ってよ」
「分かった」

 かくして村紗は、ことの次第を聞く。
 一輪は、里の有力な檀家のもとへ、挨拶へ行っていたらしい。穏やかな老爺の暮らす屋敷だ。行けば、いつも茶の一杯も振る舞ってくれる。孫を見るような温かささえ、感じていたほどだ。その屋敷が、今日は、なぜかひっそりしていた。訪問は伝えてあったはずである。普段なら、玄関先で迎え入れてくれるのだ。一輪は、不審を覚える。胸騒ぎがあった。そして、それは的中する。

「やあ、あんた、妖怪寺の人外僧侶さんじゃないか」

 若い男の集団であった。ぞろぞろと、五、六人はいる。全員、十手のようなものを持ち、にやにや笑っていた。一輪は、話しかけてきた男を睨みつけると、

「ここには、お爺さんが一人しか住んでいないはずだけど」
「爺さん? それなら、中にいるぜ」
「お爺さんに会いに来たの。どいてくださるかしら」
「それはできねえ。俺たちは、その爺さんを守るためにいるんだ」

 一輪は、ぽかりと、虚をつかれ、なにも言葉が出てこなかった。若者たちは、お互い顔を見合わせて、これみよがしに、馬鹿笑いしている。

「爺さんからの『依頼』でね。宗教家にしつこく粘着されて、大変だっていうんだ。それも、あの妖怪寺の仕業だって話じゃねえか。これは、黙っちゃいられねえってことで、俺たちが重い腰を上げたのさ」

 それが作り話だと確信するまでに、一輪は、ほんの一瞬も時間を要さなかった。この男たちは、老爺の人格を見誤ったか。もしくは、はなから、筋の通った話などする気がないのか。おおよそ、後者に違いない。とにかく一輪の妨害をするために、馳せ参じているのだ。その理由はまるで不明であったが、一輪としても興味がなかった。投げやりにため息をつき、黙って、連中の脇を抜けようとする。しかし、腕を掴まれた。

「話、聞いてたかい? ここは通せないぜ。さあ、お帰りなすって」
「貴方たちの話は、聞かないわ」一輪は目も合わせず、「どうやら、会話になりそうもないので」
「そりゃあ、そうさ。俺たちは人間で、あんたは妖怪様だ。身分が違う。対等な立場で話せねえのは当然だ」

 身分とか、立場とか、意味がさっぱり分からぬ。

「いいから、離してくれませんか」
「俺だって、妖怪になんて触りたくもねえ」男は、ふいに悪辣の表情を見せ、「万物の不幸の源が、あんたら妖怪だぜ。不用意に触ったら、穢れが移っちまう、はやいこと手洗いうがいだ、いやはや、ところで、この辺なんか臭わねえか、ああ、こりゃ、お前さんの、……」

 男の言葉が、それ以上続くことはなかった。鈍い音がしたかと思うと、一輪の視界から、男の顔が消えてなくなった。一瞬の無音、それから、砂利の地面になにか叩きつけられる音。その発信源で、男は、仰向けにひっくり返って、ぴくぴく痙攣し、口から泡を吹いている。一輪はまったく、手を出していなかった。その代わり、一輪の周囲には、すっかり膨張した入道の強い妖気がうずまいていた。

「雲山!」
「妖怪が手ぇ出してきやがった!」残っている男たちが息巻く。「とうとう本性を現したようだぜ」
「雲山、落ち着きなさい」一輪は、鼻息荒い雲山を抑えるので必死だった。「ここで暴れては、ひとたまりもないわ。ほら、穏やかに、……」
「正当防衛だ。おい!」

 かくして一輪は、男たちと雲山の間に入り、大惨事が起きぬよう、懸命の努力であった。十手の攻撃が、身体中のそこかしこに命中した。ようやく雲山が冷静になると、一輪が被っている事態を理解し、慌てて撤収してきたのだという。
 話を聞き終えて、村紗は、部屋の隅っこのほうで、落ち込んだように凝縮している雲山の姿を見つけた。普段の何倍も、体積が小さくなっている。責任を感じているに違いない。確かに、雲山が爆発しなければ、こういう事態は起こらなかったであろう。村紗は冷静に分析する一方、

「一輪が汚い言葉で侮辱されて、我慢ならなかったんでしょ。許してあげなよ」
「元から怒ってないわ」一輪は笑った。「ありがとう、雲山」

 雲山は、相変わらず縮んだままながら、ほんのすこし体積が増えたように見えた。雲山は、堅気な奴である。情報を真正面から受け取って、怒ったり、喜んだり、悲しんだり、反省したりする。村紗は、雲山のそういう部分が好きであったし、この件における雲山の行動も、結果裏目であったとしても、責められてしかるべきものではないように思われた。
 一輪は改めて「聖様には言わないでよ」と念を押してきた。失態を押し隠すため、というよりも、聖に余計な心配をかけたくない、負担を増やしたくない、そういう気持ちがあるのだろうと、村紗はなんとなく推測していた。

「それから」一輪は続けざまに、「村紗、あんたも余計なこと、しないように。私は大丈夫だから。いい? 了解?」
「……そこまで言うなら、なにもしないよ。納得できないけど」
「納得しなくていいから」一輪はぱんと両手を合わせて、「この話はおしまい。村紗も、もう遅いんだから、早く寝なさいよ」

 一輪の部屋を辞して、村紗は、すぐに自分の部屋へ戻ることはなく、しんと冷えついた寺の中庭で、わざわざ池のほとりの岩に座り、月明かりに沈む水面を見つめていた。
 村紗は今日、一日のできごととしてはやけに濃密な、さまざまな光景に立ち会ってきた。ずけずけと現れた低俗の男たちに、聖が示した毅然の姿勢。命蓮寺に住まう妖怪たちへの気持ち、揺るぎのない信頼。それを見て、村紗は、不安に思ったのだ。相互に依りかかって成立している、張りめぐらされた信頼関係のなかで、自分が全部ひっくり返してしまうような、悪徳の所業を演じてしまうのではないかと、恐れたのだ。
 それでも、ぬえに酒を誘われたとき、直截に嬉しかった。おでんの屋台から追い出されて、落ち込んでいるぬえを見たとき、励ましてやりたいと思った。一輪が暴行を受けたと知ったとき、心の底からの憤りは、真実だった。一輪への侮辱に激昂した雲山の気持ちが嬉しかった。
 今この瞬間に至って、村紗が抱いた不安の気持ちは、仲間への親愛を裏付ける自信に変わっていた。

「こんな寒い夜に、こんな寒い場所で一人。深夜徘徊でも始まったか?」

 唐突に、後ろから声をかけられる。今日、はじめて聞いた声だった。村紗は振りかえらず、そのまま池の水面を見つめて、

「こんな深夜に、平然と不法侵入してくる貴方こそ、よっぽど徘徊の気があると思うけど」
「そう結論を急ぐな。住人にばれなければ、まだ不法侵入ではないぜ」
「私にばれてるでしょ」
「じゃあ、秘密にしておいてくれ」

 あいかわらず、会話の滅茶苦茶な女だ。そう思う村紗は、この女と、わりあいに面識が深かった。しばしば『仕事』を、紹介してもらっている。村紗は、腰かけていた岩から立ち上がると、振りかえって、暗闇にたたずむ白黒の女を見た。

「妙な自警団もどきを取り仕切っている奴だ。ちょいと、目に余るんでね。どうだい」

 女は、人相書きの紙を手渡してくると、それをマッチの火で灯した。ぶくぶくに太った輪郭、細い目、でかい鼻、そして、下衆のように口角の歪んだ唇。村紗は、目の前の女へ視線を戻し、小さく頷いた。女は、人相書きをさっさと燃やして、「妙にすっきりした顔をしてやがる」などと言った。人相書きへの批評ではないだろう。実際どういう顔をしているのか、村紗には知る由もない、しかし少なくとも、いつものような罪悪感、後ろめたさ、破滅感、そういうものをほとんど感じていないことだけは、間違いがなかった。

 

 
 ◆針妙丸Ⅱ

 

 
 午前中は、妙齢のマダムから息子夫婦の悪口を聞かされつづけ終了した。治療の料金を受け取って、針妙丸は店じまいの準備をする。
 さて、閉めたら、あんみつでも食べに、……。
 そこまで考えて、昨日の出来事を思い出す。借金取りの襲撃と、怯える店の親子、そして、魔理沙から向けられた糾弾の視線。そのとき、針妙丸は、さっさと店を出てきてしまった。別に後悔しているわけじゃない。しかし、いざ本日もあんみつへ、という段取りになってみると、逡巡の気持ちが芽生えた。魔理沙から言われたことを、気にしているわけではない。ただ、針妙丸が店を後にするとき、店の娘は、おりょうちゃんは、針妙丸の背中を見ていただろうか。もしもそうならば、どんな気持ちで、見ていたのだろうか。考えれば考えるほど、腰は重くなっていく。

「ええい。人の目がなんだ。私は客だぞ。客は傍若無人だから客なのだ。私はあんみつを食べたい。ゆえに、あんみつ屋へ行く!」

 自らを鼓舞するように、お題目を唱えてみると、とたんに身体は軽くなって、針妙丸はがま口を拾い、れいのあんみつ屋へと向かった。いつもの石塀の上を走っていけば、あんみつ屋はすぐそばである。入り口の戸は、閉まっていた。『準備中』の紙が貼られている。午後一番、客がいちばん入る時間帯に、準備中? 針妙丸は訝しむ。そうしているうち、なにか、ほんのすこし、奥の方から聞こえてくるのに気がついた。戸に耳をつけ、わずかに聞こえる会話を、ぎりぎりに追いかける。

「――借りた金は返してもらわなきゃいけねえ。そいつは世間の道理だぜ」
「しかし、そんなお金、とてもじゃないけどうちには、……」
「金があるないの問題じゃないだろう。どうやっても払ってもらわなきゃ。そこらへん、あんた、自覚が足りてないなあ。まさか、誤魔化せるとか、思っていないだろうね」
「そんな。そんなことは」

 強気に糾弾するのは、若い男。昨日、店に現れた、あのヤクザな男だろう。そして、男と会話しているのは、震える声から恐怖が伝わる、若い女である。快活な声より他に、針妙丸は知らなかった。いつでも元気に満ちあふれ、湯水のように働き、しかし文句ひとつ言わず、常連の間でも評判の、あのおりょうちゃんの声は、いまや見る影もない、ただひたすらに怯えの色が強調され、人間の人格というものは、こんなにも簡単に塗りつぶされてしまうのだと、冷静に分析などしていた。

「現物がないにしても、誠意が必要だろう」男はなお多弁に、「心からの気持ちってもんが感じられて、やっと許してやろうかとか、そういうふうになるもんじゃないかい?」
「それは、……」

 針妙丸は、狡猾な奴だ、と思っていた。こういうふうに、本来の負物よりずっと高価なものを搾取する。まるで、情状酌量してやったように見せかけて、ずっと価値のあるものを奪い取っていく。それは時に、お金では買えないものだって、含まれている。

「こいつは独り言だが」男は白々しく、「人間、なにも持っていないように思って、実は価値を持っていることがある、金になるような価値だ、なに、いや、これは独り言だがね、ときには身体そのものが価値になることもある。いまの世の中、需要と供給だ。どんなもんでも、もし入用ならば、売りもんにできるのさ」
「あ、あの、ごめんなさい、あたし、学がなくて」娘は困惑している。
「だからねえ。若い女の身体なら、入用な連中も少なかねえだろうと思って、いや、なんども言うが、独り言だぜ。ともあれ、女の身体は高く売れる、ちょっとした借金くらいなら楽に返せるかもしれねえ。そうすれば、親孝行になるかも、分からねえなあ」

 男の言葉を最後にして、しばらく沈黙が続いた。戸に耳をつけながら、針妙丸は、おりょうちゃんが言葉の意味に気づいて、言葉を失っているんだろう、と解釈していた。ますます、醜悪な連中に思われた。借りた金のカタとはいえ、こうまであっさりと、身売りの提案を持ちこんで、娘を破滅せしめんとしている。身を売った娘の末路など、ろくなものではない。生涯奴隷のように扱われ、しぼるだけしぼられたら、まさしくボロ雑巾のごとく、ゴミ箱へ放り捨てられる。

「お父ちゃんがそれで助かるなら、あたし、……」

 次に聞こえたのは、そのような言葉だ。声が震えている。父親を助けるため、自らの身を差し出す、献身。

「ああ、そうかい。決まりだねえ」男は喜び勇んで、「そんじゃ、あんたの父ちゃんには俺たちで話をつけておくから、早速、俺たちと一緒に来てもらうぜ」

 戸の向こう側が、より慌ただしくなった。だんだん、近づいてくる。話は終わり、娘を引っ立てる段取りになっていた。針妙丸は、その場を動けなかった。じきに、目の前の戸が開き、娘を連れた男たちが現れるだろう。そのときに、なにをするつもりだ? 針妙丸には、まるで見当がつかぬ。おりょうちゃんを助けるべきか? どうも、そういう気持ちではない。では、静観するか。首尾一貫しているのは、そっちに違いない。そうだ。昨日だって、私には関係ないとかなんとか抜かして、一人でさっさと帰ってきたじゃないか。それがいい。娘の接客がなくなるのは残念だが、別に、あんみつが食えなくなるわけじゃない。なんにも、困らないじゃないか。そもそも、助けたところで、なにが変わるんだ。借金は、借金のまま、残っている。今、男たちが引き下がったところで、明日になったら、また来るかもしれない。いや、十中八九、来るのだ。それを永久に守り続けるつもりか。いったい、そりゃあ、なにもんだよ。正義の味方かな。正義。お笑いだ。私は、正義など語れない。不誠実を積み重ねた、どこまでも小さい人間だ。

「やい。お前ら。おりょうちゃんを離してもらうぞ。さあ」

 それなのに、どうしてか針妙丸は、男たちに立ちふさがっていた。頭で考えた理屈のもろもろが、肉体のコントロールへまるで寄与していない、まさにあべこべの様相、しかし針妙丸は、心身の矛盾に違和を感じなかった。不思議なほどに、すとんと落ちて、納得した。

「なんだ、おめえ。どこぞの小人ちゃんじゃねえか」リーダー格の男が、見下ろして、嘲るように笑った。「今日はあんみつ屋、休みみたいだぜ」
「また明日、出直してきたらどうだい」「ガキじゃ我慢できねえかもしれねえが」同調して、残りの二人も、冷笑する。
「今日はあいにく、あんみつって気分じゃないね。下衆なやり取りを聞いて、反吐が出ちまったから」
「ああ、そうだ。お子ちゃまには刺激の強い話さ」ぼりぼり首筋を掻く。「なんだか知らねえが、踏みつぶされたくなかったら帰んな」
「はあ? できるなら、やってみろよ」
「……よく、聞こえなかったな。なんだって?」
「お前らの鼻の穴、カバみたいに馬鹿でかくて、肺活量よさそうだなって言ったのさ」

 ふいに、針妙丸の周囲へ影が差した。一秒も経たず、だんと音を立てて、男の草履が地面をたたいた。もわりと土煙が立つ。潰されたと思って、娘が悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。だが、男たちのもくろみが外れたことは「これは宣戦布告か?」などという針妙丸の声が聞こえたことで、瞭然となった。

「ちょこまか動くのは得意なご様子だが」リーダー格が眉を潜める。「腕っぷしじゃあ、敵わねえだろう」
「空振りする腕っぷしに、なんも意味はない」
「勝手なこと、言わせておけば、なめてんのか?」
「こっちの台詞だよ」針妙丸は、男を睨めつけた。「お前ら、目ん玉に針刺さったことあるかい。流石の私も、いくらやぶとはいえ、目ん玉に刺したことはないから、気になるんだよな。試してみるか?」

 針妙丸の着物の袖が、きらりと、太陽の光を反射する。袖からは、鉄の針先が覗いていた。したっぱの方の二人が、なにやら騒然として、お互いに顔を見合わせた。踏みつけをあっさりと回避する、針妙丸の俊敏を目撃して、その発言が必ずしも非現実ではないことを察知したようだった。リーダー格は、しばらく針妙丸を見下ろし、凝視していた。しかし、不機嫌に舌打ちなどすると、娘を乱暴に突き飛ばして、さっさとその場を去った。娘はよろよろ揺れ動いたのち、力が抜けたように、その場へ崩れ落ちた。

「おりょうちゃん。大丈夫?」
「針妙丸ちゃん。あたし、あたしは、どうすれば、……」

 娘は、泣き崩れる。わんわんと、顔を覆って、どうにもせき止めが利かない様子だった。針妙丸は、なにか娘に声をかけようとして、とたんに、冷めてしまった。声をかけるって、なにを言うつもりなのか。そんな、徳のあることを言えるわけがない。そういうつもりで、おりょうちゃんを助けたわけでもない。なんだか、よく分からない気持ちに動かされて、つい助けてしまっただけなのだ。だから、こんなふうに乱れられても困る。針妙丸は「気をしっかり持つことだよ」などとなんの立場から発言しているのかまるで分からない台詞を紡ぎ出し、バツが悪そうに、その場から逃げ出した。
 すぐ先の十字路を、左に折れたところで、なにやら女が立っていた。針妙丸にとって、嫌な女だった。昨日も、嫌な感じで絡んできて、嫌な感じに説教までしてきた、やたらに白黒の、嫌な女だ。

「助ける気はないんじゃなかったのか?」

 無視して、通り過ぎようとした針妙丸へ、その女、霧雨魔理沙は、嫌味なにやにや顔で、並走してくる。針妙丸は変わらず、無視であった。魔理沙は、そんなことは百も承知であるといった感じで、ひとり勝手に喋りはじめる。

「あんみつ屋の親父の借金だがな。どうも、博打で作ってきたらしい」
「……」
「しかし、どうも、この博打が、怪しいやつでね。里の連中のなかでも、評判がよくない。要するに、イカサマの疑いがある」
「だからなんなんだよ」針妙丸は、いよいよ突き放す。「そんなところへ行くほうが悪い」
「おりょうちゃんに着物を買ってやろうとしたそうだ」

 針妙丸は、ぴたりと足を止めた。魔理沙のほうは、針妙丸の頭上から、話しつづける。

「金が足りないからって、いつも苦労かけてるのに、ぼろの着物しかない、気の毒がって、どうしようってところに、つけこまれたそうだね。おんなじようなやり口で、貧乏人から搾取をしている連中らしい。まさしく『カモ』として、目をつけられちまったわけだ」
「……別に、どうでもいいけど。さっきから何が言いたいわけ」針妙丸は、地面を見たまま言う。
「無頼なお前にも伝わるモノはあるだろうと」魔理沙は笑った。「どうだい」
「ぜんぜんない」
「はあ。じゃあ、こういうのはどうだい」

 魔理沙はポケットをごそごそやると、取り出した中身を、地面へ投げ捨てた。針妙丸の横で、かん高い金属音をたて、それらが墜落した。一瞬、眉を潜めた針妙丸が見たのは、太陽光が反射して、まばゆい輝きを放つ、数枚の金貨だ。

「好きだろ。こういうの」
「……なんのつもり?」
「前にも言ったが、仕事だよ。言っておくが、これは金が対価の、なんの人情もへったくれもない、ただの、いや、むしろ不誠実極まりない、仕事だ。お前の嫌いな、正義とやらは、毛ほども存在しない。金のために、お前は働く。そういうことで、どうだい」

 魔理沙が、淡々と、実に事務的な口調で、述べ上げる。
 正義などという、まるで信用のならない、夢物語。それは針妙丸がもっとも嫌いな概念であった。なぜなら、そんなもの、成就せられないからだ。針妙丸は、よく知っている。自ら、正義に対して背反した針妙丸だからこそ、言うことができる。もしも、針妙丸が正義に殉じて、最後まで志をひとつとし、共に行動した仲間を裏切ることなく、戦い尽くしたとするならば、現在、このような場所で、悪徳の針師をやっていることなど、決してないのだ。たとえ、その仲間が、悪だくみのため自分を利用していたとしても、それは重要な問題じゃない。いずれにしても、捨てたのだ。強きものによって挫かれ、強きものに屈し、そうして、見捨てた。そんな自分が、正義? まるで笑えない冗談だ。針妙丸は、そう思っていた。正義を動機にして、行動を起こす。針妙丸には、ご立派な虚栄以外のなにものとも、見ることができなかった。
 しかし、目の前に放り投げられた金貨は、正義なんていうものとは違う、明確な因果関係を、示している。針妙丸は、金で雇われ、金のために働く。損得勘定。それ以上でも、以下でもない。そこに、正義が介入する余地など、まったく存在しない。

「仕事ってのは?」

 目を合わせず、答えを返す。魔理沙が肩をすくめる様子が、見ていなくても、分かった。

 

 
 ◆◆◆

 

 
 里の中心にそびえる、まるで城のような屋敷、その客間で、三人の男が、酒を飲み、談笑している。

「や、旦那。商売のほうは、さぞうまく行っていることと、お聞きしておりますが」

 顔中に油が滲み出している、肥満体の醜男は、にへらと目も当てられぬ奇怪な笑みを浮かべ、とっくりを傾けた。零れ落ちる冷酒を、お猪口で受け止めるのは、醜男を更に凌駕する、常人の三倍以上はあろうかという体躯の、大男である。

「なに。学のない貧乏人をちょろりとやるくらい、商売のうちにも入らんわい」ご機嫌に、酒をあおる。「お前たちも、うまく行っているそうじゃないか」
「いやあ、それほどでも。しかし、順調でございます。今月は三軒、土地を接収いたしました」
「お前たちがうまくやれば、やるほど、『本業』のほうの斡旋が楽になる。順調なのは、僥倖である」
「実は、本日もまた一軒、手に入りそうだという話で」醜男は、横に座る若い男をつついた。「お前が行ったんだろう。甘味の店だったか。どうだったんだい」
「それがねえ」軽薄に、首をぼりぼり掻く。「ちょっと、邪魔が入っちまって。また明日になりましょうなあ」
「邪魔だって?」醜男は憮然として、「また、お前の女癖じゃないのかい。行く先々で、女を侍らせては、いい思いをしているって話じゃないか」
「いやあ、そんなことは、……」
「まあ、ある程度は、好きにしてくれてもいいが、本分をわきまえないといけないよ。俺たちは、土地を手に入れなきゃいけねえ。旦那の商売のためにも、そして、妖怪攘夷、人間万歳、だ。俺たちが土地を管理すれば、妖怪の連中を里から追い出すことができる。今以上にでかい顔をさせねえ。人間は、妖怪以上に、優れた存在なんだぜ。知能が違うのだ。本来、妖怪に虐げられていいものじゃねえ、それが、今はなんだい、妖怪が平然と里を歩き回って、我が物顔に、放っちゃおけねえ、正義の戦いだ、これは、……」

 なにやら、熱が入り、延々と話しはじめた醜男の様子を、大旦那は冷めた感じで見ていた。いろいろ主義主張があるそうだが、大旦那にとっては、どうでもよい。里の広い領域における影響力と、好きに動かせる暴力組織。それさえあれば、細かいことは、なんでも良かった。やたら話しまくる醜男だが、差し押さえに関しては優秀に動くし、その下にいるヤクザの連中も、暴力を盾に、うまくやっているようである。そのうちに、里中を支配下におくことだって、夢じゃない。大旦那は、いっそうご機嫌に、酒を一気飲みした。

「旦那様。お薬をお持ちいたしました」

 障子の向こう側から、ふいに、女の声が聞こえてきた。屋敷の女中である。毎晩、こうして薬と水を持ってきては、代わり映えのしない声色で、おんなじような台詞を口にする。無学ゆえに、客人が来ているとか、そういう配慮のできない性質であった。大旦那は、呆れて説教する気にもならず、

「ええい、分かった、そこに置いておけ」

 ぶっきらぼうに言葉を返すと、女中は「かしこまりました」とだけ言って、廊下をすたすた去っていく。

「いや、すまん、いくら教えても、ああいう奴だ」
「とんでもねえ」醜男は奇妙に笑い、「それより、もう遅い時間ですな。旦那もそろそろ寝る時間ですかい?」
「ああ、確かに、そうだな」あくびを噛み殺す。「お開きにするとしよう」
「や、かしこまりました。今日も時間をいただき、ありがとうございやした。それでは、この件は、今後とも手筈通りに」
「うむ」

 そのような具合に、会食はお開きとなった。醜男とヤクザが、何度も頭を下げながら、客間を出ていく。誰もいなくなったところで、大旦那は息をつき、座椅子にぐったり体重をかけて、ふっと、薬のことを思い出す。屋敷の使用人が、大旦那の身体を気づかって、どこからか調達している薬であった。効いているやら、効いていないやら、そもそもなんの為に飲んでいるのかも、さっぱり分からなかったが、別に飲まない理由もなかったので、大旦那は毎日服用していた。のそりと起き上がり、障子を開くと、錠剤と水が載せられた盆を見つける。緩慢に拾い上げると、さっさと水で流しこみ、座椅子のところまで戻って、元の体勢となり、襲ってくる睡魔に任せて、眠りに就いた。
 それから、どれくらい時間が経った頃か、大旦那は、異常な喉の渇きで、目が覚めた。いまにも干からびるかと思われるほどである。水を飲まなくては。立ち上がろうとして、身体が鉛のように、ずっしり重く感ぜられた。それからどうも、腹が痛い。いや、痛い、とにかく痛む、尋常ではなかった。みぞおちを突きあげるような、吐き気も感じる。火急の事態であることは、考えずとも、察知せられた。そのとき、障子の向こう側に、通り過ぎていく人影を見つける。女中だ。助かった。大旦那は、渾身の大声を上げる。

「おぅい、お前、ちょいと、助けてくれ。具合が悪いんだ」

 声はすっかりかすれていたが、女中のもとまで届いたらしく、女中が障子を開けて入ってきた。倒れ込んでいる大旦那を見て、駆け寄ってくる。大旦那は、すこし安心した様子で、しかしひぃひぃと、息も絶え絶えに、

「医者を呼んでくれ。どうも、腹が痛い。げろも出そうだ。しかし、喉は渇いてたまらん」

 それだけ言うと、大旦那は顔を伏せ、うずくまり、強烈な腹痛をなんとか誤魔化そうとする。傍らの女中は、すぐに立ち上がり、医者を呼ぶため客間を飛び出す――ことを、しなかった。

「必然ですよ、旦那様。貴方のそのご病状は」

 まるで、声に抑揚がない、あまりにも平坦で、ひらがなを一文字ずつ並べているだけのような、話し方だった。更には、口走ったその内容、大旦那は一瞬、理解ができない。頭がまっしろになる。今、なんて言った? ゆっくりと、顔を上げる。見上げる先に、女中がいた。いつも、薬を届けにくる、何度も見たことのある、女中だ。しかし、明らかな異常があった。短く切りそろえられた前髪、その下にはっきりと見える、ぱっちりと大きく開いた瞳は、人間のそれとは思えぬくらい、真っ赤に染まり、焦点はまるで定まらず、ぼんやりと大旦那を見下ろしていた。大旦那は、言葉を失った。

「薬さえ飲んでいれば、どうにかなると思っているのでしょう」女中が再び、話しはじめる。「しかし、そのようなことはない。消渇は、生活習慣を改めねば、よくなることはない、ところが貴方は、飽食の限りを尽くし、ぶくぶくと膨らみつづけて、暴飲暴食の毎日、そのツケが、遅かれ早かれ来ることは、もはや決まりきった未来、こうなることは避けられなかった」
「な、なにを言って、……」
「金と権力、それだけあればどうにでもなると、本気で考えていた貴方には、お似合いの末路でしょう。弱きものを虐げ、食い物とし、自分ばかりが利益を享受する。そのようなことは許されない。不誠実は、裁かれる。浄化されねばならない。貴方は抹消される。永遠に、……」

 すっくと、女中は立ち上がり、平然と客間から歩き去っていく。あっけに取られていた大旦那は、その後ろ姿に、どうにか助けを求めようとして、しかしいよいよ、声が出なかった。頭の中がぐしゃぐしゃと、ごちゃ混ぜになっていく感覚が襲う。視界がどんどん暗くなる。理性も本能も、なにもない、全部真っ暗になっていき、意識が失われて、死んだ。

 

 
   ◆

 

 
 屋敷を後にして、醜男とヤクザは、冷え込んだ里の道を歩いている。話題は、醜男の、ヤクザに対する説教だ。

「おい、お前さん。さっきの話だがね」酔った勢いで、ろれつは怪しく、「やはり、女好きも、大概にしなきゃいけねえよ。俺たちの目的は、分かってんだろう、おい、言ってみろ」
「分かってますよ、旦那」ヤクザはうんざりした様子である。「しかし、見返りがすこしくれえあってもいいだろう。俺と、子分の連中は、金と女だけ手に入ればいいんだ。それ以外はどうでもいいのさ。旦那はどうも、立派な夢を持っているようだが、俺らにはちょっと崇高すぎて、理解できねえな」
「理解されてたまるか。これは、本当に、まさしく、正義の戦いだ。お前らのような半端者に、分かるはずがないさ」
「へえへえ。それじゃ、俺っちはこのへんで」

 逃げるように、ヤクザはさっさと立ち去った。相変わらず酔っている醜男は、なお熱気冷めやらぬ感じで、いろいろぶつぶつ言いながら、里の道を歩いていた。人っ子一人いない、夜道である。右手には、深い堀が続いている。寒い夜で、水面は薄く凍り付いていた。足下を気にするくらいの余裕はあり、滑落しないよう気を付けながら、歩いていく。見ろ、酔っていても、こんなに落ち着いている。先ほどのヤクザの対応を反芻してみると、不愉快となった。まるで、面倒な酒飲みをあしらうような、対応である。ばかめ。喧嘩しか取り得のないやつは、これだから困る。俺はこんなにも、冷静沈着に、……
 再び、深い思考のなかへ落ちる。そんな醜男は、一瞬、足下がお留守になった。それゆえ、堀から突然伸びてきた白い腕に、まったく気付くことができなかった。白い腕は、醜男の足を握りしめると、思い切り引っ張った。突然の強い力に、醜男は叫ぶ間もなく、バランスを崩し、背中から掘へ転落すると、水面の薄氷がばりんと割れて、深い水の底へ沈む。
 尋常ではなく冷たい水が、着衣にうんと染み込んで、醜男は心臓が止まりそうになった。同時に、大量の水を飲みこんで、酸素の供給が滞り、すぐ、半狂乱となる。ばたばた両手を動かして、もがいた。しかし、身体は水底へと、ずんずん沈んだ。なにかが、醜男の足を、引っ張り込んでいた。もはや、なにがなにやら分からぬ。そんな中で、醜男は、それまで足を掴んでいたなにかが、すっと全身を包み込んできて、背中からがっしりと抑えこまれたのを感じた。それは、醜男を絶望させた。殺される。恐怖で、身体が動かない。大暴れが収まる。すると、醜男は、無理やり首を右に回された。視線の先に、なにかある。――顔。顔だ。女の顔。上気している。赤く染まった頬が、水の中なのに、異様に強調されて、醜男の目に入った。女は、興奮したように笑っていて、呼吸は短く、荒く、そして、ゆっくり口を開くと、

「ほら、ねえ、どうしよう。死んじゃうよ、このままじゃ」
「あが、ごぼ、ぼ、……」醜男の口から、大量の空気が漏れだす。
「あーあ。やっちゃった」女は嬉しそうに、「これは、駄目だね。死ぬよ。死ぬ。あんた。死んじゃうね」
「……、……」
「ほら、死ぬ。分かる? どんどん、意識が薄れていって、視界が暗くなる、ああ、夜だし、元から暗いか。でも、そういうのじゃないよね、もっと、見たこともない、感じたことのない、真っ暗闇が、思考の中身に、全部押し寄せてくる、ああ、死ぬ、死んじゃう、死んじゃう、ねえ、死んじゃうよ、あ、……」

 醜男は、白目を剥いて、ぴくりとも動かなくなる。女が束縛を解くと、水底に沈みきって、沈黙した。

「……うぅん。憎い奴が相手だったら、倍返しだ! みたいな、相乗効果で、気持ちよさも倍増すると思ったけど、そうでもないな。また、別次元のものなのかな。まあ、いいか」

 女はなにやら、ぶつぶつ言ってから、醜男を放置して、その場を去った。土左衛門になった死体は、それから数日以上、堀の中に沈んだまま、誰にも気づかれることはなかった。

 

 
   ◆

 

 
 半端者。言われてみれば、そうかもしれない。考えながら、若いヤクザの男は、足取り軽く、夜道を歩く。――半端だから、なんだってんだ。むしろ、半端なくらいがちょうどいい。堅気な商売も、あこぎなやり方も、結局は、面倒ばかりが多いのだ。俺くらい半端に、長いものに巻かれておき、そうしていいところだけ貰っておけば、苦労もないし、損もない。一番、楽なやり方だ。そう思うと、男は、醜男からさんざ浴びせられた嫌味も、どうでもよくなっていた。欲しいものは、金と女。一番単純な欲求、それだけ用意できれば、人生は円満に過ごしていける。
 そうして男は、今日、取り立てに行った店の、若い女を思い出す。あれは、上物だった。身売りに出すとか、いろいろ言ったが、自分で抱え込んでしまってもいいかもしれない。最終的に、主目的が達成されれば、なにも文句を言われる筋合いがないのだ。説教は何度喰らったかしれないが、男は、自らの行動を改めるつもりはなかった。
 里の、広い道に出た。ひゅうと冷たい風が吹く。さっさと帰ろう。早歩きになる。地面の、斜め前方ほどを見つめながら、すたすた歩いていく。そういう歩き方と、里を覆いつくした夜のとばりのせいか、男は、前方に人間が立っていることへ、なかなか気づかなかった。気づいたときには、突然、目の前に人間が現れたような格好、男はぎょっとして、その人物を見る。
 すらりと伸びた体躯に、綺麗な着物を羽織り、そして、見たこともないほど器量のよい、女だった。肩ほどまで伸びた、滑りのよさそうな美しい髪が、印象的である。男は思わず、息を飲む。こんな夜遅く、誰もいないような里の通りで、どうして女がひとり立っているのか。謎に感じる一方、親切に家まで届けてやろうなどと、そういうことを思うほど、男は堅気ではなかった。むしろ、唇をぺろりと湿らせ、女に話しかける。

「やあ、あんた、こんな遅くに、なにやってるんだい」男は気さくなふうを装い、「暇してるなら、一緒に飲まねえか。どうも俺も、暇でね。あぁ、それがいい、そうしよう」
「お酒?」女は、平然と言葉を返してくる。「いいよ。ちょうど飲みたいと思っていたんだ」
「決まりだな。さあ、さあ」

 女の腰に手を回し、男は、どきどきと心臓が高鳴っている。運がいい。こんな運がいいことは、滅多にない。このまま、酒場へ連れてくとかなんとか言って、子分たちが待つボロ小屋まで連れ込んでしまえば、後はもう、難しいことはない。最高の夜になることを予感した。見ろ、半端だろうが、なんだろうが、こうやっていれば、なにも問題はねえ。お利口な理屈も、崇高な夢も、なんもいらねえんだ。結局人生は、欲を満たすこと。寝ること、食うこと、そして女と、……
 ふいに、男の腰あたり、ちくりと、刺すような痛みを感じた。なんだ、今の。そう思い、女の腰にあてがっていた手を外して、自分の腰をさすろうとする。

「……、?」

 そこで、男は突然、異常に気がついた。動かない。腕が、足が、首が、頭が、なにも、動かぬ。ぴくりともしない。当然、男の歩行は止まる。女だけは、変わらずすたすた歩いていく。おい、とか、ちょっと待て、とか、言おうとしても、口が動かない。喉が動かない。まるで金縛りのごとく、意識だけが、はっきりしている。男はパニックになり、精神だけが、焼けるように動いていた。
 前方を歩いていた女が、いきなり、くるりと振り向いて、男を見た。変わらず端正な顔立ち、しかし、無表情である。男が突然、その場で動かなくなってしまったことに対しても、なにも思っていない様子だった。むしろ、当たり前のように、見ていた。ぞっとして、男の額から、脂汗が流れ落ちる。女は、ゆっくり、男に近づいてきた。激突するのではないか、というほど、顔と顔を近づけて、

「なんで、いきなり、どうして、こんなことに。とか、思ってる?」
「……、……」
「いったい、なにをするつもりなんだ、かな? それなら、答えてあげられる。殺すんだ」

 平然と述べあげられる、残虐の告知であった。男は、爆発しそうなほど、心臓が暴れているのを感じた。尋常ならば、絶叫の一つも出てきそうな状況、しかし、なにもない。喋れない、動けない。身体中、指一本たりとも、神経が通っていない。男の葛藤とは裏腹に、周辺の空気は、そして、目の前にある女の表情は、しらじらしいほど、冷たく沈んでいる。

「殺す。今、君を殺す」女は、淡々としている。「なぜ? と、思うかもしれない。その質問にも、私は答えられる。金によるものさ」
「……」
「君を殺したいと思う人間に、金をもらったから、見返りに、殺すんだ。それ以上でも、以下でもない。納得できないかもしれない、でも、仕方がないことなんだ。私は金が欲しい。金があれば、だいたいのことはなんとかなる。うまいものが食べられる、暖かい家で眠ることができる、それから、まあ、もっと俗なことだって、できる。金は大切だ。金が欲しい。なので、君を殺す」

 嫌に理屈めいた、女の言葉であった。男の脳は、本能的な、拒否反応を示していた。女の主張を、決して受け入れてはいけないと、叫んでいた。その主張が、結局のところ、男の考え方と大して違いがないという事実は、都合よく、忘れ去られている。
 先ほどまで饒舌だった女も、それ以上、無駄に口を開くことはなかった。着物の袖口から、なにか、金属のようなものを取り出す。月明りで、きらりと光った。針だ。女のそういう仕草を、男はどこかで、見た覚えがある気がする。もっとも、記憶の中からひとつひとつ探していられるほど、男には余裕がなかった。
 女は、つまんだ針を、男の目の前で見せびらかす。その次に、懐から謎の小槌を取り出した。それを一回振ると、指でつまんでいた針が、一瞬にして姿を消した。

「これ、針が消えたように見えるでしょ。違うよ。これは、針がめちゃくちゃ細くなって、肉眼じゃ見えなくなったんだ。でも、その代わり、すごく長くなっている。すごく細くて、すごく長い針。これを使うと、身体の組織をまったく傷つけずに、内臓の奥深くまで、刺しいれることができるんだ」

 女は、男の背後に回った。微動だにもできない男は、女の一挙手一投足を、まったく把握できない。しかし、これから執行せられる残虐を、男はなんとなく、想像できてしまう。視界の右側で、なにかをつまんだ女の指が、それを男の首へ刺しいれるように、動いていた。男には、なんの痛みも、苦しみも、まだ、感ぜられない。

「今、先端が、心臓に刺さっている」

 女は、そんなことを言いつつ、先ほどの小槌を左手に持ち、男の視界の前で、ゆらゆらと揺らす。

「今、これを振ると、針の先端だけ、ものすごく太くすることができる。そうすると、……」
「……、……」

 男の内心における絶望は、なにも、所作として表現せられない。

「たぶん、楽に死ねる。大丈夫。安心して。それじゃあ、安らかに、私の、金のために」

 勢いよく、小槌が振り下ろされる。ぐしゃ、と、凄惨な音が聞こえた。男は、叫び声もなにもなく、うつ伏せに倒れ、動かなくなる。その身体に、外傷はまるでなく、口元からすこしの血液が漏れ出しているだけだった。こと切れた瞬間を見届けて、女は、無言でもう一度小槌を振る。女の姿は消え、夜の道には、男の冷え切った死体だけが残った。

 

 
 ◆◆◆

 

 
 ◆鈴仙Ⅲ

 

 
「あら、これはこれは、お屋敷の」

 笠を深々と被り、大きな薬箱をしょいこんで、白い装束をまとった鈴仙は、不健康そうに細長い男と、偶然すれちがった。れいの屋敷で、いつも薬の売買をやりとりする、使用人の男である。葉のこすれる音だけが聞こえる、迷いの竹林の真っ只中、男の横には、腰ほどまでに伸びた銀髪が印象的な女が、帯同していた。この不死人はしばしば、里の人間が竹林を歩くとき、その案内人をしている。歩いていく方向から見て、今は、里へ戻っていく道のように思われた。

「……」

 鈴仙の言葉に、使用人の男は、バツが悪そうに黙りこんだ。返事はせず、そのまま、鈴仙の横を通り過ぎようとする。

「永遠亭へお越しなさっていたんですか?」鈴仙はなお、男の背中に声をかけた。「旦那様が亡くなったのは、うちの薬のせいじゃないのか、って。違います?」
「……」男はなにも言わない。
「しかし、何度も申し上げたように、消渇は、ただ薬を飲んでいるだけでは、治らない。生活習慣を改めない限りは、決して、治らないのです。旦那様の不幸には、心中お察しいたしますが、くれぐれも、永遠亭の薬によるものだ、などと因縁をつけられないように、全ては旦那様自身が、……」
「鈴仙」銀髪の女が、口を挟む。「そろそろ、日も落ちそうだ。急いでいるんでね。それくらいでいいかい」
「……ええ、そうですね」

 男と、銀髪の女が、その場から去っていく。どこまで、顔の面が厚い連中なのだ。鈴仙は、いまだ興奮に収まりがつかぬ。いざこういう事態となり、服用していた薬へいちゃもんをつけてくることは、なんとなく想像のついていたことであったが、しかし、いざやられてみると、堪らない。なにが起ころうとも、自分たちは間違っていないと、決して非はないと、それ以外にないのだ。――とはいえ、まあ、もっとも、……

「よう。鈴仙」

 永遠亭へ戻ってくると、縁側に、てゐが足をぶらぶらさせながら、座っている。毎日休日のような妖怪だが、今日はこのような場所で、だらだらしている日だったらしい。鈴仙は、まるでやるせなくなり、ため息が出てきた。

「たまには、薬売りの仕事を、手伝ってくれたりしないもんかなあ」
「いやいや、これはサボっているわけじゃない」てゐは指を振り、「鈴仙としょたっこの逢瀬を、邪魔するわけにはいかないという、私なりの気遣いさ」
「だから、ちがう!」

 大慌てで、顔を笠で隠す鈴仙。てゐはにやにや笑うと、ふいに、両手を頭の後ろで組み、

「まあ、それよりも、私がもっと気になることは、賭場のほうの話だけどねえ」
「……その話は、前にもしたでしょ」鈴仙の声が低くなる。
「あの日、鈴仙が血相変えて、賭場へ殴りこみに行ったときの話は、確かに聞いた。狂気の瞳でめちゃくちゃにしたって? 鈴仙もすぐ、感情的になるから」
「イカサマなんてやっているほうが悪い」
「ごもっともだね」てゐは、身体をぐらぐら、前後に揺らす。「ただ、その後、賭場の胴元がぽっくり逝って、しかもそいつに鈴仙が薬を売っていた、と。いやあ、怪しい。屋敷の人間が、永遠亭まで怒鳴りこんでくるのも、仕方がないことかもしれない」
「偶然でしょ」どこ吹く風といったふうに、「いくら薬を飲んでいたって、暴飲暴食を繰り返していれば、ああなってもおかしくない。里の医者も、おんなじような意見だって聞いたけど?」
「そう。おかしくはない」てゐは縁側から飛び降りて、庭の土を踏みしめる。「もっとも、ああいう、消渇の末期症状が、劇症的に起こることはほとんどないけど。起こるとするならば、常軌を逸した暴飲暴食でもしたか、それとも、なにかの薬の副作用か」
「……なにが言いたいの。てゐは」

 庭の真ん中で、何度かくるくる回ると、ぴたとてゐは止まって、鈴仙を見た。その表情は、いつもとなんら変わりのない、いたずらめいた笑顔だ。

「別にぃ。ちょっとした、野次馬根性、みたいな?」

 てゐはきびすを返し、庭から歩き去っていく。てゐの背中を見つめながら、鈴仙は、内心でなにか引っかかって、残っているような心地になった。別に、どうということはないのだ。なにも問題はない。露見する恐れなど、まるで存在しない。それくらい、鈴仙は、完璧にやった。薬の効き目のほうで、いかに文句をつけられようと、薬の効果がどうだったのか、などと考える人間は、まずいないはずだ。大丈夫。安心しようとする。しかし、やはり、なにかが残っている。たぶん、事実が露見するかもしれないとか、そういう不安ではないように思われた。もっと、鈴仙の奥底にある、根源的なものに対する不安であるように、感ぜられた。

「……なにも心配することなんて、ないわ」

 取り除かれるべきものを、取り除いただけ。そこにあるのは、ただ、正義のみだ。疑念など向けられる余地はない。鈴仙は、何度も、言い聞かせている。どうもあんまり、しっくりこない。

 

 
 ◆村紗Ⅲ

 

 
「おう、おっさん。こんにゃく、ちくわ、大根、それから、がんもどき。どんどん、持ってこい!」

 顔を赤くしたぬえが、景気よさそうに、次々とおでんを頼んでいた。横に座る村紗は、ちらりと、屋台の店主をぬすみ見る。明らかに、顔面蒼白である。精気がない。村紗はことの詳細を知らなかったが、おそらく、蒼白の原因は、横に座っている親友によるものであると思われた。

「ぬえ。お勘定、大丈夫なの?」村紗は訊ねてみる。
「大丈夫。今度は奢るって、言っただろ。さあ、どんどん食べて」
「お客さん、あのぉ、もう少し、お手柔らかに」引きつった笑顔の店主。
「なんだい。文句あるのか?」ぬえはこんにゃくを齧りながら、「今やこの店の生殺与奪は誰が握っているのか、分かってないみたいだねえ」
「ぐぬぬ、……」

 村紗とぬえがいるのは、以前、こんにゃく一本の土産で追い出された、れいのおでん屋台である。あれから、いろいろと状況は変化した。ショバを管理していた人間たちの間で、いざこざが発生し、混乱が深まったところで、聖が「この周辺は、一時的に命蓮寺の管理としましょう」などと提案して、ひとまず沈静化した。むろん一時的の措置だが、屋台の『人外立ち入り禁止』は解除せられ、更には、屋台が店を開くためのショバ代も、命蓮寺が決定できるような立場となった。そこにつけこまぬほど、封獣ぬえという妖怪、やさしい奴ではない。

「とはいえ、やりすぎちゃ駄目だよ、ぬえ」村紗はすこし、釘を差す。「ただ飯喰らいされすぎたら、それこそ、この店が潰れちゃう」
「……分かってるよ」ぬえは不満げに、「今回だけ、好きに豪遊できるって話。前に失礼ぶっこいたこともあるし。ねえ、おっさん」
「もちろんですとも」店主は、実に苦々しく、笑っている。

 かくして、一目ですぐに分かるほど、ぬえは腹をまるまる膨らませ、当然高額のおでん代は踏み倒し、満足げに帰っていった。人目をはばからず大号泣する店主に、あまりに不憫がった村紗が、その代金を払ってやると、店主はひたすら平伏であった。村紗には、ちょうど臨時収入が入っていたので、それくらいの支出は、どうということがなかった。
 いつものように、ぬえを肩で支えながら、深夜の命蓮寺に忍び込む。「ムラサ、これでちゃらだよぉ、にひひ」などと笑いながら、ぬえは屋根に消えていった。実際のところを言っても仕方がないので、村紗は苦笑いしながら、自分もさっさと寝ようと、ひそひそ、命蓮寺の廊下を歩く。そんなとき、ふと、珍しい奴が、中庭に座っているのを見つけた。月光に浮かぶ小さなシルエット、丸い耳と、しなやかな尻尾。

「ナズーリン?」

 声をかけてみると、ナズーリンはびくりとして、ゆっくり振りかえった。疲れた表情をしている。「ムラサ船長か」とか呟くと、座っていた岩から飛び降りる。それは、先日、村紗が座っていた岩と同じものだった。

「考え事でもしてたの」村紗は訊ねてみる。「私も、考え事したいときは、よくそこに座ってるから」
「ああ、……まあ、そんなところだね。私もよくここを使うんだ」
「へえ。ナズーリンって、命蓮寺に住んでないから、もっと別の、一人になれそうなとことか使うイメージだった」
「……」

 何気ない言葉だった。しかし、なぜかナズーリンは、バツが悪そうにうつむく。奇妙な光景に思われた。まるで、悪戯がばれて、縮こまっている子供のようにさえ見える。ナズーリンには似合わない姿である。よく分からず、村紗は黙っていた。その沈黙にも、ナズーリンは逡巡している様子で、もじもじと動き、しばらくして、なにか決心したように顔を上げると、村紗のほうを直視してきた。

「最近、この辺りの土地に関することで、いざこざがあったのは、ムラサ船長も知っているかい」
「ん。まあ、あんまり知らないけど」
「そうか。……命蓮寺に敵対する勢力が、里の土地をどんどん接収するようなことが、最近起きていてね。どうも穏やかじゃないと、手下のねずみにいろいろ探らせておいたんだ」
「へえ。まずいじゃん。大丈夫なの?」
「結論としては、大丈夫だ。もう、解決した」
「あ、そうなんだ。よかったね」

 村紗は平然と、とぼけ続けていた。あんまり知らない、というのは、真実でもあるし、嘘でもある。ことの全体像に関して、村紗は別にどうでもよく思っていたが、それが解決済であることは、村紗自身がよく知っていることだった。いずれにせよ、本当のことを話すわけにはいかないし、話すつもりもない。
 そんな、ひょうひょうとした村紗の態度を、ナズーリンはじっと見つめていた。黙って、静かに、見ている。村紗も、ナズーリンの目を見ていた。――怯えが、感ぜられる。なにに対する怯えかは、分からない。まさか、今更、村紗と二人でいることが気まずい、なんて話ではないだろう。村紗は、ナズーリンがもう一度、口を開くことを待っていた。暫時の沈黙。破ったのは、ナズーリンだった。

「……まあ、そういうことなんだ」目を逸らしながら、「ともあれ、私もそろそろ、家に帰ることにするよ」
「もう遅いからね。気をつけて」
「ああ。ありがとう」

 村紗の横を通りすぎて、ナズーリンは、きしきしと廊下を歩いていく。数回、規則的にその足音が聞こえて、ふと、音が途絶えた。

「ムラサ船長。……大丈夫なんだね?」

 突然の、問いかけ。なにやら毅然とした、声色である。村紗は、背中で、その言葉を聞いた。ゆえに、ナズーリンがいま、どんな顔をしているかは分からない。なにを考えているのかも、汲み取りようがない。しかし、どうであっても、村紗が返す言葉は決まっていた。

「なんの話かよく分からないけど。私は、大丈夫だよ」
「……そうか。それじゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ」

 今度こそ、周囲から、ナズーリンの気配が消える。村紗は、中庭の池のほとりまで歩き、先ほどまでナズーリンの座っていた岩に腰かけた。ナズーリンの言葉が、脳内で反芻される。大丈夫なんだね。正直、その発言の真意は、分からない。ナズーリンが、なにを思い、なにを不安がって、そのように言ったのかは不明だ。ただ、村紗には、なにも心配するところはなかった。村紗水蜜という妖怪のあり方に、なにも不安がる部分はなかった。

「安心してよ、ナズーリン。絶対、バレないからさ」

 流れる雲が、月を覆い隠す。水面に浮かぶ村紗の姿は、暗闇の中に消えた。

 

 
 ◆針妙丸Ⅲ

 

 
「おまちどうさま! スーパーベリージャンボきんぴらごぼうあんみつ、増量分はおまけだよ」

 天井まで届かんばかり、これでもかと積み上げられたきんぴらごぼうの山に、店内ではどよめきが起こる。もっとも、その山のふもと、針妙丸は箸を抱えて、きらきらと目を輝かせていた。

「うわあ。最高だよ、おりょうちゃん」歓喜に声が震えている。「でも、いいの? こんなにたくさん、増量してもらって、しかもおまけだなんて」
「いいの。針妙丸ちゃんは、あたしのヒーローだから」
「……そんな、大したことしてないよ」

 困ったように、針妙丸は頭をかく。娘は、針妙丸の困惑など気にしていない様子で、すぐに別の注文を取りに行ってしまった。針妙丸は、まさしく救世主のような目で、娘から見られていた。あんみつ屋の経営危機が好転したのは、まったく別のところでの、偶然である。どうも、借金の原因となった賭場でイカサマが発覚し、借金がすべて帳消しになったのだという。当然、針妙丸が娘を助けたことと、借金に関するうんぬんは、まるで関係のない話であったが、すくなくとも店の娘からすれば、針妙丸のおかげで窮地を救われたように、感じているのであった。
 まあ、難しいことを考えていても、仕方がない。今は目の前のスーパーベリージャンボきんぴらごぼうあんみつに舌鼓を打とう。もはや、山頂のきんぴらごぼうを掴むために、大ジャンプしないといけない有様である。針妙丸が必死でジャンプを繰り返していると、すっと人影が山越しに見えて、きんぴらごぼうを一本抜き取り、もぐもぐ食べ始める。針妙丸は大激怒した。

「おい、こら、てめえ。人のきんぴらごぼうを盗むたあ、どういう了見だい! って、……」

 山の向こう側、きんぴらごぼうをむしゃむしゃ食っているのは、白黒の衣装をまとった、顔見知りの魔法使いである。針妙丸からすれば、あんまり顔を見たくない存在だった。顔をしかめて、しっしっ、と追い払う。

「飯がまずくなるから、さっさと消えてちょうだい」
「いや、これ、元からだろ」
「うるさい。ほれ、こちらからお帰りです、さあ」

 愛想の欠片もない。魔理沙は苦笑いすると、針妙丸の要求をあっさり無視して、山の向こう側に腰かけた。それから、おもむろに新聞紙を広げ、三面の記事を針妙丸へ見せつけてくる。

「これ、見てみろよ。よくできてるぜ。『人里で呪い殺しか? 悪名高い三人、次々に不審死』だって」
「……おい」針妙丸が、魔理沙を咎めるように見る。
「三面記事だぜ。本気にするなよ。まあ、ちょっと見てみろ」

 山の脇から、魔理沙が新聞を投げ入れてくる。むろん、このような新聞を見る義理はなかったが、あんみつ屋の中で、関連の話を大声でされたくなかった。きんぴらごぼうを食べながら、横目に、三面記事を読む。

 
■人里で呪い殺しか? 悪名高い三人、次々に不審死
里に動揺が広がっている。ここ一週間という、非常に短い期間のうちに、三人の人間が不審な死を遂げたのだ。一人は、里の有力な米問屋の旦那。そして、その旦那と癒着が噂されていた、自称自警団『人間第一』の首領一名、幹部格一名である。それぞれ、持病に起因する病死、冷たい堀へ転落したことによる心臓発作、急性の動脈大出血によるものと、取材によって明らかになっている。しかし、相次ぐ不審死に、偶然ではないのではないかという声が上がっている。一部では、三人に恨みを持つ者たちによる『呪い殺し』ではないかという主張も存在する。確かに、本誌の取材を通し、三人をよく思わない人間は多かった。そうして、積もり積もった怨念が、彼らを呪い殺した可能性は決して否定できないだろう。もっとも、彼らが死んだところで困る人間は多くなく、真相を明らかにしたい人間も、大していないであろうが。(文:射命丸文)


 
「これがなんだっていうのさ」

 適当に流し読んで、針妙丸は、新聞を床へ蹴りとばす。魔理沙は、わざとらしくため息をつきながら、新聞紙を拾い上げて、

「いや、なに。お前も案外、やぶじゃなかったんだなってことで、見直したのさ」
「はあ? なんだそれ、意味わからん」
「つまりだな」魔理沙は声を落として、「この記事の中には、不審死とは書いてあっても、他殺の可能性はまったく示されていないんだ。だから、お前の腕は、あんがい悪くないってことになるわけだ」
「そりゃあ、どうも」
「実際、今回は助かったぜ。感謝するよ。ありがとう」

 ふいに、針妙丸の、きんぴらごぼうを食べる手が止まる。それから、おそるおそるといったふうに魔理沙を見て、ごぼうを山に差し直すと、

「……なんか、悪いもんでも食べた? 気持ち悪いぞ、お前」
「ああ、そりゃあ悪かったね」魔理沙は憮然としている。「たまには労いの言葉でもかけてやろうと思った私が間違いだった」
「なんだ。そんなつもりだったの」針妙丸は無感動に、「別にそんなのいらないよ。労われるようなことじゃないだろ」

 結局、今回自分がやったことといえば、徹頭徹尾、善良なる風俗のもとに認められるようなものではないのだ。針妙丸のそういうスタンスは、今の今まで、まったく変わったことがない。不誠実の人間だ。やっぱり、正義という言葉は、嫌いで仕方がない。そんなものは、自己を正当化するための言い訳にしかならぬ。逆に魔理沙は、今回の一件に至るまで、なにを思い、なにを考えて、話を持ちかけてきたのだろう。針妙丸にはそれが気になった。

「むしろ、お前はさ。どうして、そこまで動こうとしたわけ?」
「私か?」
「いろいろと纏めたの、お前なんだろ。そこまでする必要も、義理も、人情もないだろ」
「人情は余計だよ」

 最後の中傷だけは、しっかりと否定しつつ、魔理沙が答えを返してくるまでに要した時間は、そう大して長くなかった。

「確かに、私にそこまでする義理はないかもしれない、けど、そうじゃない奴もいるんだ。そいつは、さんざ、妖怪は嫌いだの、やれ退治だ、抹殺だ、とか言うけどさ。そいつは、今の幻想郷みたいに、人間と妖怪が平然と関わり合うような状態になるまで、ものすごい努力をしてきたことを、私は知ってる。私は、それを大切にしたいし、しなくちゃいけない。妙な革命思想を持つような連中があっても、そいつが直接手を下すような、不幸があっちゃいけない。だから、私は、まあ、そういうことさ」
「ふーん。あっそ」ごぼうをぼりぼり食う針妙丸。
「お前なあ……」

 針妙丸の適当な対応、すわ乱闘かという段階になり、しかし突然、ごぼうの山の横へ、新たな山が置かれた。どん、と重量感すさまじいスーパーベリージャンボきんぴらごぼうあんみつその2、それを持ってきた給仕の娘は、どこまでもにこにこ笑って、「これもおまけです」などと言った。

「まあ、なんでもいいからさぁ。とりあえず、ごぼう食べよ」針妙丸は幸せそうな顔をしている。
「ええい、もう、やけくそだ」魔理沙もなぜか箸を握り、「私も食べる。お前のごぼう、横取りだ」
「あ、くそ、お前!」

 かくして、あんみつ屋では突発大食い大会が開催され、居あわせた客たちの中で大いに盛り上がりを見せた。常連の間では、謎の超特大メニューを勢いよくかっ喰らう謎の小人と、そこへなぜか挑戦した謎の白黒女との奇天烈な戦いとして、しばらく話題は持ちきりであったという。

時代劇みたいなものが書きたかった。
読了いただきありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
あどそ
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コメント



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1.100名前が無い程度の能力削除
完璧です
本当に面白かった
ありがとうございました
2.100奇声を発する程度の能力削除
とても楽しめて素晴らしかったです
3.100サク_ウマ削除
「ジャンボきんぴらごぼうあんみつ」、面白すぎるし絶対美味しくないし針妙丸は正気じゃないですね。とても楽しめました。良かったです。
4.100名前が無い程度の能力削除
これはすごいね、素晴らしかったです
5.100名前が無い程度の能力削除
今の創想話でこういう上質な長編SSが読めたことに感謝
ありがとうございます
6.100名前が無い程度の能力削除
タイトルをパロっただけの一発ネタかな、と思ったら、普通に内容が時代小説で笑うと同時に感心してしまった
ストーリーは勿論だが、文章から漂う雰囲気が絶妙だと思った
祖母ちゃんがよくこう言うの読んでたなと
8.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
東方界隈で色んな作品を長い間みてきましたが何気に人を殺す魔理沙とうどんげをはじめてみた気がします
殺されたほうは悪人のわりにはいい人そうって感じで中途半端なくせに幻想郷に弓引いたからやっぱり粛清されちゃったというイメージです
正義の話ともとれるし正義の勢いにまかせてうどんげや針ちゃんが人を殺し魔理沙がそれを企画するダーティーな物語ともとれる気がします
界隈的にこいつ粛清の対象として検討されてるんじゃないかと散々言われていた魔理沙が粛清する側にまわるという作品も面白かったです
魔理沙からしたら正義のためとしつつ人里の裏のボスになるみたいな野心や妖怪化という粛清されそうな夢を抱いてるからこそ粛清する側になり幻想郷に対すてポイント稼ぎしたかったのですかね
9.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
11.100名前が無い程度の能力削除
良質なドラマを見ているようでした
それも 1時間が30分に感じるような