Coolier - 新生・東方創想話

二心の水

2018/10/19 12:42:04
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 微かな水音の変化が来客を告げるのを聞いて、私はまどろみから覚めた。三途の川の名残が橋の下で不意に嵩を増していた。
「ああ、今日は帰りにね」と来客は気安い挨拶をくれた。私は頷いて「飽きないものね」と彼女を見送った。
 朝のやり取りはそれだけで、彼女は地底の中心へと立ち去って行った。後を追うようにして川の水がゆっくりと引いていく。そうしていつものように彼女の罪の水位が橋の脚に刻まれるのを私は見た。たぶん、初めて彼女に会ったときもほとんど違わない位置に線はあったと思う。
 この橋にわずかな往来が生まれはじめてから、私は川の変化を観察していた。水が三途の川の系譜にあることは推測できていたが、それを確かめる術を知ったのはごく最近のことだ。渡る者の罪に応じて川の水位が上下することに私は気付いた。もっとも変化の原因がそれだというのは私の想像にすぎない。だが、有力な説だと思う。きっと地底の水が枯れるまではこの考えを改める必要は無いだろう。
 そう思いながら橋守をしていると、自分がちょっとした裁判官の席に就かされているような気分になってくる。今ならあの古明地の視界も理解できるかもしれない。それが姉の方のものだとは限らないが。
 間欠泉が地底と地上を繋げてからここは明るくなった。地上から流れ込んでくる妖精たちによって、発光性の苔の成長や弾幕の明滅が活発になっている。暗闇と呼べる場所が昔よりもずっと少なくなっていて、橋の塗装が相当くすんでいることや、そこに真新しい足跡の数々が残されていることに私は気付いた。少しは綺麗にしておいた方が良いのかな、と思う。経年によって箔の付くこともあるだろうが、それも全体の斑として受け取られればただみすぼらしいだけだ。
 そうして、川の水を汲み上げて橋の掃除をするのが退屈しのぎの一つに加えられた。それから間もなくして、私は彼女に出会った。
「何をしているんですか?」
「掃除よ。でも、ちょっとだけ無駄になった」
 橋の脚を磨きながら、私はそう言った。言葉の意味を理解できない彼女に対して「おめでとう。記録更新よ」と私は川と橋の境を指した。彼女の量刑がそこに示されていた。
「更新すると、何かあるのかしら」
「新しい掃除の手伝い、とか」
「いいですよ。水の扱いは得意ですから」
 確かに彼女はよく働いたし、退屈を紛らわせるための話し相手としても優秀だった。水汲みの手際も異様に良くて、その対象に自分が含まれていると気付くまでに衣服はずいぶん水を吸って重くなっていた。そこでようやく思い出したのだが、そいつは舟幽霊だった。ひとまず惨事になる前に彼女の柄杓は取り上げて、代わりに箒を押し付けた。もしかしたら彼女なりの冗談だったのかもしれないけど、冗談にしたって沈むのはごめんだ。
 だが、それからは彼女の訪問に合わせて橋を洗うようになった。主に二つの理由で。つまり適切に注意さえしておけば、彼女は水を用意する手間を除いてくれるということだ。彼女が訪れるなり掃除を始めることもあったし、昼食を共にしてから午後の時間をその習慣と会話に費やすこともあった。しかし、ときおり彼女が血まみれになって帰ってくることが分かってからは、掃除はその都合に合わせて行われるようになった。
 橋を渡った先で彼女が何をしているかを私は知らない。その異様な姿を見ればほとんど推測はつくのだけれど、尋ねたことは無かった。推測を確かめることは私と彼女の距離を変える役には立たない……変えない役にしか立たないから。
 今日は早朝に来たから、きっと日が暮れるまでには帰ってくるだろう。でも、少なくとも正午は過ぎるだろうか。より深い場所では時間はゆっくりと流れる。それは地上に対しての地底と同じことだ。もっとも、天上の時間の遅さには敵わないけれども。存外、時間を決める神は地上にいるのかもしれないと私は考えていた。
 書棚の上にある一冊の本を手に取った。先日、彼女が地上から持ってきたものだ。借り物だから、とのことだった。別にわざわざ言われなくたって、私物を沈めるようなささやかな報復に走るつもりはないのだけれど。本に挟まれた二つの栞の内、柳染の方を抜き取って読みはじめた。地上では推理小説が流行っているらしい。あのさとりも小説の趣味を持っていると聞いたことがあるが、いつか偶然に彼女の文章と出くわすときが来るのだろうか。偶然以外によってそうなるのは少し嫌だな、と思う。もしこの本が彼女の作だったら、と想像してみたが、上手くいかなかった。
「まあ、あいつは推理を台無しにする奴よね」という感想がたちまち浮かんだから。
 いくつかの短編を経て、私の栞をもう一方に重ねた頃に彼女は帰ってきた。時刻はほとんど予想通りだった。そして、彼女が血に汚れているということも。
「よろしくね」と彼女は合図を送った。私たちは川の傍に並んだ。
 桶にたっぷりと水を汲んで何度も頭から掛けてやる。幽霊という理由もあるのだろうが、水の中から現れる彼女の身体はひどく透き通っているような気がして不安になる。ふと水の檻に囚われて、そのまま見えなくなってしまうのではないかと思うほどに。
 しかし、彼女はそんな危惧など持たないように白い指で柄杓を操りながら、血と水の紅で鮮やかに染まった爪先を清めはじめる。どろりと血液が剥がれ落ちると、蓮のようにまっさらな肌が現れた。
 幽霊が皆彼女のような美しさを持っているなら、少し羨ましいと思う。何物かに縛られがちなのが欠点なのかもしれないが、それは妖怪にも人間にも、あるいは神についても付きまとうものだ。
 最後に柄杓を捧げ持つようにして口を清めると、彼女は水と一滴の血を嚥下した。
 露わになった喉元からその緋色が覗いて見えるのではないかと期待したが、それは想像の内に留められた。三途の川に彼女の罪は浮かばない。緑眼の紗を通して見えたのはせいぜい血管の暗い痕跡だけだ。それがわずかに脈を打つたびに、淡い炎の霊体はゆらりと燃えて元の像へと帰っていった。
「ありがとう」と彼女は笑った。
「それじゃあ、そろそろ取り掛かる?」と言いかけて、私は他者の気配に気付いた。振り返って確かめるよりも先に、それは話しはじめた。
「こんにちは。ちょっと通らせてもらいますよ」とさとりが手を振っていた。
「ああ、私がどこに行くのか気になるのですね。いつもの通り、妹の捜索ですが。へえ、私とこいしと、どちらが妬ましいか考えているのね」
 挨拶に応じる間もなく彼女は一方的にまくしたてる。相変わらず会話が楽しいようで妬ましい。
「ええ。心を見るのは楽しいこと。パルスィも、相変わらず嫉妬が楽しそうね」
「ねえ、本当に心が分かってる?」
「そちらこそ、分かっている癖に」
「なんて性質の悪い……」
「ところでそちらの方は……ああ、いつかこいしの言っていた。でも、あの子がどこにいるかは知らないようね」
「残念です」と言い残して、さとりは地上へ上って行った。
 さとりとの会話はやはり落ち着かないなと思う。声も語り口も一応穏やかな部類に入るだろうに、それがこちらの心を通過するときには局所的な嵐のような印象を与えられる。多少の恨みを込めながらさとりの背を見送っていると「私たちも行かない?」と傍らの彼女が切り出した。
「どこに?」
「外に」と彼女は上方を指して続ける。
「あのお屋敷の主が地上に出ていけるんだから、あなたがずっと橋にいる理由も無いでしょう。ねえ、舟に乗りましょうよ」
「あなたの舟に乗りたいと思う?」と反射的に距離を取った。
「聖の舟を沈めたりはしません」
「でも、遊覧船でしょう」
「最近は小さいのもあるのよ。お一人様コース」
 そうして差し出された彼女の手を、私はつい取ってしまった。

 手を引かれるまま縦穴の外へ出てみると、傍に小舟が繋がれていた。
「小さいのって、私用の舟じゃない」
「でも、その方が安心するでしょう。お一人様ご案内でーす」
 背中を押され、半ば倒れるような形で舟に乗りこむ。私たちは向かい合わせになって狭い空間に座った。舟が静かに上昇を始める。その振動に驚いた私の顔を見て彼女は笑った。「そんなに緊張しないで」
 そう言って、彼女は慣れた調子で地上の光景や船乗りたちの物語について話しはじめた。語りの出自が何であるのかはもちろん知っていたけれども、それを除けばある種の異国趣味として楽しめたし、逆に加えてみれば全体として諧謔に転ずるという点で面白かった。
 船乗りたちはつねに勇ましくそれぞれの錯誤に基づく神話を語ったが、それらが一定の着地を得ることは決して無かった。たいていうやむやになるか、突然打ち切られるかだ。そこが彼らの断末魔だったということだろう。
 でも、死の際にあって自身の神話を残せるのはもしかすると幸せなことなのかもしれないと私は思った。呪詛を吐きながら徒労に朽ちていった人々ばかり見てきたから。あるいは、語るべき生を語り終えたからこそ彼らは死んでいったのか……。因果の順序への疑いが浮かんだが、それを尋ねる相手として目の前の推定仏教徒はさらに疑わしいものだった。
 だから代わりに「あなたのことを聞かせてよ」と私は呼びかけた。
「では、聖と会ったときの話をしましょうか」
 そうして、彼女の神話を私は聞いた。異国趣味にも諧謔にもなりえない彼女の歴史を。「そういうわけで私は聖に出会い、今まで付き従ってきたのです」と彼女が無事締めくくっても、何も終わることは無かった。当然だ。彼女はとうに幽霊なのだから。
「あなたの元には、待ち人が来たのね」と私は感想を返した。
「羨ましい?」
「いいえ。それで破滅した人間ばかり見てきたから」
 待つという行為はしばしば人間を狂わせる。たとえ待ち人がついに現れようとも、彼らの時間の尺度はずっと壊れたままだ。
「でも、その割にはあまり改心していないように見えるけど」と私は言った。
「ほら、自殺するとそれはそれで良くないでしょうし」
「別に、あなたの改心は期待していないわ。問題は、あなたが慕っている人の方」
 もう何度も投げかけられた問いなのだろうが、それでも彼女の瞳が一瞬緊張するのが分かった。
「そうね。でも、少なくとも私たちは聖と聖の言葉とを区別している……しすぎているくらいに。それじゃいけない?」
「あなたはそれで割り切れるの」
「聖が好きなのと、だから聖の信じているものも知りたいと思うのと、自分がどちらから入って今どちらを見ているのかはちゃんと分かっているつもり」
 彼女は左右の人差し指を交互に上下させながら言った。「なるほどね」と私は感心した。「けれども、他者にとってそれは裏切りになりうる」
「それはどうでしょうか」と彼女は反論した。
「むしろ聖がああいう人だからついてきた信者も多いと思いますよ。たとえば私のように。それは道が一つしかないやり方よりずっと多くに伝わります。教えに惹かれる者と、聖に惹かれる者。彼らが私たちのように区別を立てているかまでは知らないけれど、結果だけを見れば、聖は皆を救いたいと思っている人で、そのための言葉をより多くに伝えている。これ以上望むのは、それこそ裏切りを誤解している人のやることでしょう」
 私は彼女の言葉を理解した。彼女がそうした弁護についてつねに考えつづけていたということも。だけど同時に、それを考えなければならなかった理由も分かってしまった。彼女たちは誰も裏切っていない。裏切られていない。だから救いを待ちつづけている。たぶん、私はさっき嘘をついた。彼女の期待していることをおそらく推測できていたはずなのに、それを口にするのを避けてきた慣性によって。
 自罰なんてものは、今より幸せになろうとする奴のやることだ。
「でも、あなたはまだ救われてはいないみたいね」と私は投げつけた。
「どういうこと?」
 私は彼女の問いに答えようと思ったが、声は勝手に「ねえ」と切り出していた。寸前で躊躇って唇の形を修正する。「また、溺れに来るの?」
 彼女はその意味を呑み込んだように微笑んで「拒まれないなら、きっとね」と答えた。結局、会話は成立した。本心の代替に、決して渡られることの無い橋を渡すことで。
 彼女は柄杓を回して前方を指した。太陽を運ぶ船が徐々に沈んでゆくのを私たちは見た。神話の終点、あるいは始点が燃えながら……。空から眺める地平線の炎はいやにはっきりとしていて眩しかったが、それが私たちを捉えることは決して無かった。そうして私たちの舟も、ぐらりと傾いて緩やかに旋回を始めた。
「危ないですよ」と声を掛けられて、慌てて舟の縁を掴んで再び顔を上げる。反対側の空では、遥か地底から月が昇りはじめていた。
 夕日と月の光の狭間で目を細める彼女の横顔を見張りながら、私は躊躇った唇の動きだけをひそかに繰り返した。
 彼女の――水蜜の罰や祈りが、結局のところ誰に向けられているかは知っているつもりだ。別に私は、その対象の位置を奪いたいわけではない。私は橋守だ。境界は通過するための経路であって、行く舟を留める権利は私には無い。
 それでも彼女がまた訪れてくれるなら、水が尽きるまでは付き合ってやろうと考えていた。仮にそれが、まさに彼女と同じ舟に乗り合わせるという事態であったとしても、あるいはそれで水位が一致するなら、私たちは互いに沈んで行けると思ったから。
ありがとうございました。
空音
http://twitter.com/ideal_howl
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コメント



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1.80奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100サク_ウマ削除
お見事でした
4.80名前が無い程度の能力削除
恋っていいですよね
5.100仲村アペンド削除
ただ通り過ぎるだけの立場として水蜜を見守るパルスィの心情がとてもたおやかに描かれていて魅入られました。とても素晴らしいです。
6.100南条削除
とても面白かったです
罪に応じて水位が変わるというのが妙にしっくりきました
7.90名前が無い程度の能力削除
おもしろかったです
8.100名前が無い程度の能力削除
秋の夜に相応しい情緒でした
ありがとうございます