Coolier - 新生・東方創想話

夢の始末

2018/10/12 21:33:16
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 さとりはまだ寝起きで、微睡みのなかにあった。
 ランプシェードの薄明りは霞がかったよう。ベッドサイドに、吹けば飛びそうな、眠りの余韻を残している。
 夢うつつの褥。姉妹はひとつの布団にくるまり、お互いの温度と匂いに触れ合っていた。枕に頭を埋めて、蕾のような唇を向け合い、見合っていた。
 妹の蕾が身動ぐ。
「お姉ちゃん。私は知っているんだよ?」
「何の話よ……」
「んふふ~」
「ちょっと、こいし……」
 ふんす、と妹の鼻息が顔にかかるのがくすぐったくて、姉のさとりは甘く微笑む。口元をやわく撫でる花の匂い。
 今朝、さとりは瑞々しい薔薇の香りで眼を覚ました。
 目尻をふるわせて夜が明けると、眼前で少女が眠っていた。白い肌が薄い影を帯びて、艶めいて映る。滑らかな目蓋は深く閉じられていて、唇は甘く開いていた。
 すう、すう、と息を漏らして眠る妹に、ようやっとさとりは気がついた。
「こいし……?」
 ぼんやりと呟く。
 起き上がるには気怠く、妹がどうして同じ布団で寝ているのだろう、昨晩ベッドに入ったときは一人だったはずだが、と思考は流れていく。
 けれど、可愛らしい寝顔を眺めていると、どうでもよくなった。
 ずいぶんと深い眠りだった。
 枕に頭を埋めたまま思う。心を読む能力を持つためか、さとりは眠っているとき、飼っているペットの見る夢が混線して、しっちゃかめっちゃかな悪夢に放り出されてはショックで目覚めることが多々ある。
 けれど昨晩はそんな気配が全くない、穏やかな眠りだった。夢自体を見ないほど深く、深く。
「……ああ」
 おかしな能力を持つ妹が、同衾していたからだろうか。いままではそんなことなかったように思うけれど。本当にそうなら、妹とひとつの枕を共にして眠るのも、たまには良い。
「難しいかしら。いつも、どこで眠っているのだか知れないものね……」
 姉妹おのおのの胸元にある第三の眼が、シーツの上でくっついていた。心を読むさとりの眼と、その力を閉ざしたこいしの眼。
 さとりはそれからそっと目を逸らして、あどけない妹の顔を見つめる。
 すると、木の葉が擦れるように身動ぎがあった。
 お姉ちゃん、とこいしが目を覚ます。そして口をきく。
 やりとりの後、布団から上体を起こしながら、さとりは尋ねた。
「ねえ、何を知っているって?」
「お姉ちゃん、私を捜していたんでしょう」こいしが枕を独り占めにして微笑む。「聞いたよ。寺に住んでるお坊さんから。『こいしがどこに居るか知りませんか?』って聞いて回っていたんでしょ」
「……?」
「なにゆえー?」
「そうね。……もう少し頻繁に帰って来てくれるとありがたいから、かしら」
 むふん、とこいしが寝返りを打ち、仰向けになった。見上げる、その視線。
「っていうか、いまさら心配ってことないでしょ。お姉ちゃんが私を捜したって見つかるわけないじゃん。お腹抱えて笑っちゃったよー?」
「いまさら、ね」さとりは曖昧にうなずく。
 妹の頭をそっと撫でてやり、指で髪を梳く。ごわつき、埃っぽい。外ばかり出歩いているからだ。ペットたちにするように、指で毛づくろいをしてやる。
 こいしは肩を震わせて喜色をあらわした。
「いひひひ、」
 無意識ゆえ遊歩逍遥し続ける妹は、邸に帰って来ることが少ない。反対にさとりは自分の部屋にばかり引きこもっているので、こうして部屋を訪ねてくれなければ、顔を合わせることもなくなる。
 そもそも地底の妖怪は、幻想郷へ姿を現すべきではないのだ。旧地獄跡を管理し、地上には影響を与えない。その代わりにこの土地を貰う。昔々、そういう約束をしたのだから。
 だから、さとりは地底を出ない。地霊殿を出ない。自室に引きこもる。
 つまりこいしの言ったことは間違っている。
 さとりが地上へ足を運ぶなんてありえないし、見つかる当てのない妹は捜さない。地霊殿の邸を出たのがどのくらい前だったか、もう覚えていない。
「ねえ、こいし。なんの噂を聞いたのか判らないけど――あんたの心は読めないから。私はね、一歩も地霊殿から出てないわよ。ここのところは、怨霊の管理で忙しいんだもの。あれ以来、妙に活発になって……」
「でも聞いたもんね。お坊さんや、仙人のひとから。……あっ、そうそう! 最近はすっごくヘンなことが起きてるんだー」
「なによ?」
 こいしが言うには、地上ではいま「最強の二人」の座を争っているのだという。妖怪たちがこぞってタッグを組み、弾幕ごっこで喧嘩の花を咲かせては、自分たちこそが最強の二人だと名乗りを上げる。
 相変わらず幻想郷の妖怪たちはお祭り好きだ。さとりは呆れて溜息をつく。だって、それに自分の妹も参加しているのだから。
「聞いたんだからー!『お姉ちゃんが貴方を捜しているよ』って」
「きっと夢でも見たのよ。あんた、どうして私のベッドにもぐりこむの? ペットじゃあるまいし、なんのために部屋を掃除させているのかわかりゃしない」
 頭を撫でていたさとりの手が、ぱしっと払われる。と、こいしがそのまま手を伸ばした。
 心を読めない相手の突然の行為に、さとりは瞬ぎできないままで、視線を絡ませた。
 こいしの腕は虚空に伸び、何も掴めないまま、さとりにその手のひらを見せた。その向こうで妹が笑っている。
「だって、お姉ちゃんは眠るときひとりでしょ?」
「うん。だって、他人の夢がうるさいもの」



 こいしを風呂で丸洗いしてから、いっしょに朝ご飯でも食べようか。というところで、いつの間にか妹の姿が消えていることに気がついた。またどこかへ、無意識に遊びに出たのだろう。いつものことなので気にせず、日常へと戻る。
 ペットたちが集まる食堂は賑わう時間を過ぎており、さとりは一人きりで席に着く。ペットが給仕してくれたスープを黙々と飲んでいると、燐がやって来て声をかけられた。
「さとり様、何かプレゼントでも注文したんですかい?」
 彼女の腕には、綺麗で四角く白い箱が抱かれている。丁寧にピンク色のリボンも掛けられて。けれどまったく覚えのないプレゼント。
 箱を受け取って調べてみるが、差出人の名前はない。
「誰が持ってきたの?」と、さとりは胸元の第三の眼で燐の心を読む。「――置いてあった。エントランスの扉の前に? そう」
「他のペットにも尋ねてみましたが……」
「――ふうん」
 燐が思い浮かべる心を読む限り、誰も箱について知っているものはなかった。境界が裂けるのを見たとか、不審な妖怪が居たとかいう話もない。
「手掛かりは、箱だけか」
「あたいが開けますよ。さとり様に何かあったら大変ですから」
「はいはい。開けてみたいのね」
 にゃはは、と笑いながら燐が箱のリボンを解き、両手でそっと蓋を開けた。警戒したが、何か飛び出してくる様子はない。一度のぞき込んでから、箱の中に入っていたものが取り出された。
 それは、ふかふかした宝物のような布の塊だった。
「枕?」
 ファンシーな獏の柄が入っていて、フリルもふんだんに使われている。燐から受け取ると、もふりと手のひらが埋まってふかふかに包まれた。外側の生地の手触りもさらりとして心地良い。
「さとり様、お顔がとろけてますよ」
「むむ……随分上等な枕だわ。このまま、ウチの備品にしてしまいたいくらい」
 箱の中に一枚、手紙が入っているのに気がついた。枕の送り主からのメッセージが流麗なペン字で記されている。
 『古明地さとり様 
  このたびは〝スイート安眠枕〟の当選おめでとうございます。
  ただいま新作枕のキャンペーン中です。幻想郷にお住まいの
  妖怪の中から、安眠を必要とされている方に、当方自慢の枕
  をお送りしております。是非、ご活用頂きますようよろしく
  お願い致します。      あなたの夢の守人・ドレミー』
 さとりは、枕をもふりもふりと両手で弄びながら、二度三度メッセージに目を通した。
 そして唇を尖らせて言った。
「うさんくさい」
 ぱあっと笑顔を華やがせたのは、燐だった。
「うわぁ! スイート安眠枕! さとり様、これはすごいやつですよ。地上じゃあ大人気で、こぞって欲しがるんですが、なかなか手に入らなくて高値がついてるんですよ」
「あら。そうなの」
「さとり様も、こいつを使えばよく眠れるんじゃないでしょうか!」
 顔を上気させて身を乗り出した燐の心を読めば、本気で言ってるのがよくわかる。
 さとりが他者の夢に邪魔されて、よく眠れていないのを心配しているのだ。いまさら気にするようなことでもないのに、優しい子だ。
「ありがとう、お燐」
 お礼を言って、さとりは抱きしめた枕に頭を埋めてみる。
 それでもうさんくさい。手紙へちらりと目を遣る。うさんくさいが……枕が心地良いのは本当のことだし、燐がこうして喜んでくれるものを、みすみす投げ出すことも勿体ない。
「そうね……せっかく届いたものだから、ありがたく使わせてもらうわ」
「はい! ではさっそく!」
「なに言ってるの。私はいま朝ご飯を食べたばかりよ。それ、片付けておいてもらえるかしら」
 スープを半分ほど残して、枕を抱いたさとりは席を立つ。箱もほったらかし、手紙だけをひょいと手にすると、燐に振り返った。
「ねえ、このドレミーというのがどんな妖怪か知っている?」
「そこに描いてあるやつです」
 と、燐が指さしたさとりの胸元。
「ドレミーは、獏の妖怪だって噂ですよ。あたいは会ったことがありませんけど」
「なるほど」
 抱いた枕の動物柄は、たしかに、白黒模様の獏の姿が描かれていた。
「ありがとう、お燐。私は書斎で調べ物をします」
 さとりは食堂を出て、書斎へと向かう。
 どうして自分のところに〝スイート安眠枕〟が届いたのだろうか?
 手紙には『幻想郷にお住まいの妖怪』と書かれているが、地霊殿は正確に言うならば幻想郷からは外れた、地底世界に建っている。ここの主人であるさとりがドレミーの言うキャンペーンに該当するかといえば、疑わしいところだ。なにせ人気があるという話だから、自分のような妖怪にプレゼントをしては、評判の善し悪しに関わる。
 推察を巡らせるが、無機物の手紙相手では、第三の眼でも心を読むことができない。
 それでもさとりは手紙から『嘘を吐いている』とはっきりと読み取ることができた。
 何か理由がある。
 この枕を古明地さとりにプレゼントしなければならない理由が。
「――獏は夢を管理している、か」
 書斎に着いたさとりは、スイート安眠枕を膝に載せ、もふもふと肘置きにして楽しみながら、獏について文献を調べた。
 ドレミーという名前は見つけられなかった。ただ、獏が夢を管理していることや、個人の夢へ干渉する能力も持っていること、枕の謳い文句にあるように悪夢を取り除いてくれることなど、妖怪らしい特徴を知ることはできた。
 もしかして、本当にただの善意なのか?
 慢性的に不眠症気味であるさとりの存在をどこかで知って、枕をプレゼントしてくれた?
「……こいしの仕業かしら? でも、獏とどういう関係があるの?」
 さとりと地上との繋がりといえば、放浪妹のこいししか考えられない。
 しかし直接話を聞こうにも、こいしは姿を消した後だ。しばらくは帰って来ないだろう。
「……はあ」
 もふん、とさとりは枕に顔を埋めた。


    *


 赤いナイトキャップを頭に被り、白黒のファンシーなワンピースを着た少女だった。足元は靴下だけ履いて、ぷらぷらと揺らしている。
「――夢の世界はいま、大騒ぎになっているのですよ」
 そう言って彼女はくるりと足を組み替えた。さとりの注意を引くには十分で、視線を上げて表情をうかがう。
 と、相貌を認識する。きっと彼女のことは知っていた。けれどなんという名前だったのか思い出せない。どこか絵画の中で見た少女に出会ってしまった。そんな心持ちだった。彼女は誰だ? 誰か知っている。いや、知らない。
 さとりは声を低くして答える。
「そうですか」
「大わらわです。なので完全に油断していたのです。まさか、覚妖怪がこちらへ干渉してくるなんて考えが至りませんでした」
「それは、すみませんでした」
 会話に違和感がある。間を持たせて、カップから一口飲んだ。コーヒーの良い香りと熱。砂糖を入れないのに、甘みを含んでいる。余韻が舌に残るあいだに、辺りを見回した。
 地霊殿のさとりの自室だった。
 見慣れた、落ち着く場所だ。本棚も、机の上の小物も、クローゼットも、ベッドも。記憶にあるものと違いない。
 ただ一点、目の前に居る彼女だけが記憶に無く、それなのに違和感も無い。
「失礼ですが、どちら様でしたっけ?」
「およよ。私に興味が? でも、さとりさんは知っているはずです」
「ええ。そのはず……なんですけど」
 また違和感があった。さとりは痛むように胸に手当てする。
 うつむいていると、彼女から質問された。
「あなたは何か望んでいることがありますか?『こうなったらいいな』と思うことは?」
「……」胸元の第三の眼を撫ぜた。
 心の声が読めない。――はっと顔を上げて、さとりは彼女を見る。
「あなたはだれ?――……」
「ダメですさとりさん。そんな風に、力尽くで能力を使おうとしては、いけません」
 心を読んでやろうと躍起になる。第三の眼が熱を持つ。ぐにゃり、視界が歪んだ。
 音も無く、景色が崩れていく。
 さとりの部屋だったものは色褪せ、立体は平面に、匂いは無味乾燥になり、本棚も、机も、床も、砂糖菓子で作られていたみたいにボロボロと崩れていった。
 割れた欠片は溶けるように消え、あとからのぞく景色は一面の白。
 崩壊せずに残ったのは、白いシーツを被ったベッドがひとつ。
「――これは」
 真っ白い景色の中で、さとりは彼女と対座している。
「ダメですよぅ。私なんかの心を読んだら、きっと変質してしまいます。なぜなら私は世界の言葉に近く、いわばあなたにとっての禁書です。読ませるわけにはいきません」
「よく、わかりました」
 ここは夢の中だ。さとりはようやく理解した。そして大人しく読心能力の発揮をやめると、ふつりと世界の震えが収まり、胸に静寂が満ちた。
「ドレミーさん」
「はい」
「いったい何の用事でしょうか? ここは夢の中。あなたは私に会うためにあの枕を送りつけてきたんでしょう」
 ドレミーが、足を組み替えた。
「そうです。キャンペーンの対象となった方にアンケートを取りに来たのですよ。あなたには何か夢がありますか?『こうなったらいいな』と思うことです」
「ありません。私はいまのまま穏やかに暮らしていければ良い」
 嘘ではなかった。嘘をつく意味も無い。
 獏について調べた知識によれば、ドレミーはいまさとりの夢を支配しているに違いない。無理矢理に口を割らせることも容易いはずだ。でもそれは、お互い望むことではないだろう。こうして〝対話〟という形を取っていることからそれがうかがえる。
「それに、少しだけスパイスがあれば良い」
 つと、さとりの台詞を引き継ぐようにドレミーが口を開いた。
「たまには人間が自分を尋ねて来たりして、怯えた心を読ませてもらえると、妖怪としての自尊心が満たされる」
「……きっとそうね」
「いえいえ。妖怪ならば当然のことですし、むしろ可愛いものです。現状維持なんて考えを夢の中で持ち得るものは珍しい。あなたは、幸せなのでしょう」
「ええ。割と」
「あなたは他者の心を読むことが当たり前になっている。ゆえに、自分の心については何ら関心が無いようにも見える。それは他者に依存している」
「ええ。ペットは私を慕ってくれますもの」
「そのことで自身の夢の時間を損なっているというのは、あなたの在り方そのもののよう。他者の心ばかりが胸に詰まっていて、自身の心は湧き上がってこられない。だから夢の世界でも、あなたは何をするでも無く在る」
「そんなこと……ないわ」
 第三の眼に触れようとして、危うくその手を止める。心を読む能力を使えない会話が、こんなにも自分を不安にさせるものだとは。夢の中だとわかっていなかったら、咄嗟に殴りかかっていたかもしれない。
「これ以上会話する意味があるかしら?」
「およよ?」
「……いえ、すみません。ちょっと、苛立っていたようです」
 自制するさとりの耳に、くすくすと楽しそうな笑い声が届く。
「あなたは、本当に妹さんのことが好きなんですね」
「……?」
「古明地こいしさん、というのでしたか……」
 これまでずっと飄々としていたドレミーが、深く、重く、溜息をこぼした。
「妹さんがどこに居るのだか、ご存じ在りませんか? 彼女だけは、私の方から捜しても、一向見当たらないのです」
 それを聞いて、ここにきて初めてさとりは表情を緩めた。
「そんなもの、私が知りたい」
 これだけは飾らない言葉で言える。
 古明地こいしがどこに居るのか。そんなこと、さとり自身がいつでも知りたいことだ。
 からからと開き直って笑うさとりの表情を見て、ドレミーはうなずいた。
「やはり、あなたの夢の在り処は彼女の元にこそありそうです」
「なぜ――」不意に、ぐわん、と頭を揺すぶる眠気の暴力がさとりを襲った。「……っ!」
 床へ転がり落ちそうになる目眩。額を押さえて、纏わり付くものを払うように頭を振る。
 ドレミーの声はくぐもり、遠鳴りに響いていた。
「そろそろ時間切れのようです。ご協力ありがとうございました。……アンケートの。どうぞスイート安眠枕をご愛顧頂けますようよろしくお願いします……」
「待って……! どうして……! こいしを捜しているの……」
 もう座っていられないほどの眠気に、さとりは目蓋を閉じることをぎりぎりで堪えている。
「私もそれが知りたかったのですが。時間切れです」
 その声が遠ざかっていき、さとりはがたりと床に倒れ込んだ。衝撃は無く、ふわふわの羽毛に飛び込んだみたいに、やわらかな感触を頬で受け止めた。
 微かにドレミーの声が聞こえる。
「きちんと布団で眠らなくてはいけませんよ」
 揺れる感覚があった。どうやらドレミーがさとりを抱き上げて運んでいるようだ。頭は揺すられるまま、手足はぶらりとして力が入らない。微睡みから眠りへ転げ落ちていく。その多幸感に抗えない。
 とぷりと、ぬるい水に沈むような感触と、頭を受け止める枕の柔らかい感触を最後に、さとりの意識は途切れた。



 肩を叩かれる感触で目覚めた。
「さとり様……? さとり様……」
「うん……なに……どうしたのお燐……?」
 ゆっくりと体を起こす。
 顔を上げると、燐が苦笑してさとりの横に立っていた。
「寝るのなら、ベッドで寝てください。またお体を壊しますよ」
 にゃひひ、と笑われた。
「やっぱり、その枕のせいでしょうか?」
 はっと自分の抱えている物を、さとりは見る。頭を預けていたのは例の〝スイート安眠枕〟だった。書斎で調べ物をしているうちに、居眠りしてしまったらしい。
「どうです? 良い夢は見られましたか?」
 燐の質問に、さとりは胸元の第三の眼で心を読む。
「ふうん……」
「え?」
「――枕を使ってみたい、ですか? 構いませんよ。あなたの感想も聞いてみたいわ」


   *


 それから数日が経った。
 変化の無い、邸での穏やかな暮らしは、あのとき夢の中でアンケートに答えた通りの日常。妹は帰って来ない。来客すらない。ただひとり、部屋に閉じこもって思索に耽る。
 さとりの夢の中にドレミーが現れたのは、書斎でうたた寝したときの一回切りで、その後姿を見せていない。
 あの怪しげな枕を使わなかったからだろうか。かといって、枕を使った全員のところに姿を見せるわけでもないことは、燐が日々快眠している様子を見ればわかる。そのプレゼントを対価に、さとりは燐を地上へ向かわせて、こいしの語ったことについて調べさせた。
 古明地さとりが妹を捜し回っていた、という噂話だ。
「さとり様を地上で見かけたという話に関しては、信憑性がありそうです」
 燐はメモを取った紙を手に、書斎でそう報告した。
 さとりはうなずき、地上から戻った燐の心を読む。――寺の坊主や仙人、人間の巫女など。彼女らから得た証言は確かに、さとりが妹を捜していた、実際に尋ねられた、というものだった。彼女らと出会ったさとりの様子は、どうやら焦っていて、大した話もせずにそそくさと立ち去った、という印象が一致している。
「そのさとり様が、偽物だという疑いはなかったみたいですね。なんでかって、」
「第三の眼があり、会話の中で心を読まれた――ですか。……むむ。こうなると、本当に私が気がつかないうちに地上へ出ていたと思い込んでしまいそうだわ」
「夢遊病じゃぁないですよねぇ……、ってことはですよ」
「こいしに無意識を操られた?――いいえ、お燐。それはないわ」
 仮にこいしに無意識を操られたとして、さとりが自分の足で地上へ赴き、こいしを捜し回り、人に会ったら質問をして、あまつさえ会話の中で能力を使用する。……そこまでの一連の行動を無意識に行えるとは思えない。
 たとえば書類に判子を捺す作業をさせる、とかであればできるかもしれない。たいていさとりは無意識にぱこぱこ判子を捺しているからだ。しかし、特定の書類だけを見つけ出してサインをさせる、だとか本人の無意識下にない行動は制御できないはずだ。
「そういえば、こいし様は帰ってきていないんですか?」
「いいえ。数日前から見かけていないわよ。どうして……と、――地霊殿にこいしが戻っている? そう聞いたの?」
「そうです。古い情報だったんですかね」
「そもそもこいしがどこに行くと言ったって、真実そこへ行くなんてありえないもの」
 はあ、と二人は顔を見合わせて苦笑する。
「まあ、こいし様はどうにかできると思えませんから……。いまはさとり様のニセモノについてですが……」
 燐は改めて手元のメモを見た。
「やっぱり、魔法使いに聞いた話が有力ですね」
「うん? それはどんな話」
「こんな話です」と、想起する。
「――なるほど」
 ドッペルゲンガー。
 そう呼ばれる妖怪が地上にいるらしい。その話を教えてくれたのは、人間の魔法使い、魔理沙だ。こいしが懐いているらしいと耳にして、燐は彼女を訪ねた。
 さとりと直接面識がある魔理沙は、引きこもりがわざわざ地上へ出てくるとは思えない、という考えに賛同を示した。それだったらこういうことではないか、と彼女が示した答えがドッペルゲンガーだ。
 ドッペルゲンガーとはもうひとりの自分。実際に自分自身に出会ったというものは何人も居るという話で、本人と同じ容姿に同じ思考、そして同じ能力を持っているという。
 さとりのドッペルゲンガーが地上で活動しているのなら、一連の噂話に説明がつく。
「確かにその可能性は高そうです。ありがとう、お燐。助かりました。仕事に戻ってちょうだい」
「了解です。じゃあ地下の方に行きますんで」
「……あ、ちょっと待ってお燐。枕を貸してくれない?」
「まくら……ってあの、安眠枕ですか……?」
「大丈夫よ。ちょっとお昼寝に使うだけだから。すぐに返します。別に取りゃしないわ」
「はいっ、すみません! すぐに持ってきますね!」
 燐が書斎を出て行くと、さとりは椅子の背に体を預けて、思案に耽る。
 地上に現れた〝古明地さとり=ドッペルゲンガー〟だとして、目的はなんだろうか。
 こいしを見つけ出して、いったい何ができる? 妹を害する目的だとしても、読心の能力は無意識を操る妹に通用しない。そうなれば、さとりはただのお姉ちゃんでしかない。ついでに、切った張ったの殴り合いならば、肉体に依存している妹の方が断然強いのだ。正面から姉妹喧嘩になったら、さとりはあっさりと負けるだろう。
 会話の中で、「妹を捜している」という情報を漏らすことも意味が無い。現にこいしはその話を聞いて、地霊殿に――地底に帰って来た。ところが、未だにドッペルゲンガーは地上へ出没している。まったく見当違いだ。
 ふうー、と大きく呼吸する。
「どうやらまともな理由ではなさそうだわ」
 一点気に掛かることといえば、地上にいるさとりは、ドッペルゲンガーという〝妖怪〟であること。つまり、ドッペルゲンガー自身の妖怪としての能力を何か持っているはずだ。
 自分のドッペルゲンガーを見た者は死ぬ――。なんて話がある。
 本当にそのような能力を持っているのなら、こいしを害することができるかもしれず、それは避けなければならない。
 できれば自分たちの手を煩わせず、第三者の手で捕らえてもらうことが理想だ。
〝ドッペルゲンガー=古明地さとり〟に関する情報が欲しい。
 情報を持っている人物に、心当たりがあった。
 さとりに対して、どのような行動を取るかを質問し、こいしはどこにいるか? と尋ねてきた人物。



 スイート安眠枕を借りて眠った。しかし、ドレミーが夢の中に出てくることはなかった。
 この日もペットたちと夢が混線することはなく、快眠できてしまったことが腹立たしい。



 また数日が経った。平穏な日々でありながら、邸ではちょっとした事件が起きていた。
 そうはいっても、さとり自身の中では大事件という程度。ペットたちにとっては珍しいものを見たという程度、地底の妖怪たちにとっては、酒の席での話題ができたというくらいの、微々たる事件だ。
 自他共に認める引きこもりであるところの古明地さとりが、何十年ぶりかに邸を出て、旧都へと赴いたのだ。
 そのときの、道行く妖怪が覚妖怪に気がついた反応といえば、今思い返しても、にやにや笑いを浮かべながら反芻してしまうが、歓迎されなかったのは間違いない。
 目的はこいしを捜すためだった。
 本当に妹を見つけようとしたわけではない。さとりのドッペルゲンガーを捕まえるための行動だ。もしも、仮に、万が一、思いあまって、妹を捜しに出掛けるとしたら、さとりはどこへ向かうか。その思考をトレースしたのだ。ドッペルゲンガーがさとり自身と同じ存在ならば、きっと考えることも同じはずなのだから。
 最初のうちは、地霊殿の中をくまなく捜し回った。出不精の自分が外出するとは考えにくかったのだ。さとりは確信を持って邸内を徘徊し始めた。
 これだけで三日はかかったし、毎日へとへとになって、夜は温泉に浸かってご飯も美味しくて快眠もできた。しかし、ドッペルゲンガーもこいしも見当たらなかった。
 ドッペルゲンガーが地霊殿内に居たとして、ペットたちはさとり本人と勘違いして気がつかない可能性も考慮して自分の足で捜し回ったが、徒労に終わった。
 次に考えられるのが旧都だった。こいしはあの辺りで遊んでいることも多い。さとりはそれを知っているから、捜しに出る可能性は否定できない。三日間運動を続けて若干ハイになっていたさとりは、外出することを決めた。
 魑魅魍魎住まう地底のなかでさえ、心を読む妖怪は嫌われる。さとりはお供のペットを連れて地霊殿を出た。
 さとりが把握出来ないくらいに混沌と広がる旧都の町並み。相当な時間が掛かることが予想されたが、あっさりと、ドッペルゲンガー&こいしの捜索は一日で終わった。
 少し考えてみればわかることだったのだ。
 さとりと同じ容姿能力を持つドッペルゲンガーが旧都に現れて、「妹を知りませんか?」なんて歩き回っていたら、噂になっていないはずがない。現に地上では、いまこうして噂になっているのだから。
 道行く妖怪たちの心を読んで、あらためて自分自身の忌避されっぷりに気がつくと、さとりは早々に旧都から引き上げた。そして温かい自室に籠もりながら、ぞくぞくとした嫌悪の快感を噛みしめて、飽くまでの数日を機嫌良く過ごしたのだ。


   *


「地上の噂は消え始めていますね。最近の目撃情報はないです」
 もう何度目かの、燐からのドッペルゲンガー捜索に関する報告会議。
 いつも通りの様子で、さとりは椅子に身を預けながら、燐は近くのソファでくつろぎながら、二人でティータイムだ。心を読んでみれば、燐はすっかりこのくつろぎの時間を気に入っている様子。
「こいし様の話はしょっちゅう聞くんですけどねぇ。本人には出会っちゃいませんが」
「あの子ずっと地上に居るのね。――……うん? 地霊殿に帰って来ているの?」
 さとりは第三の眼とともに、こてん、と首を傾げる。
「会っていませんか? どうも、『古明地こいしは地霊殿に帰った』って話を聞いたんですが。でもでも、弾幕ごっこして遊んでたって話もよく聞くので、どっちが本当なのやら……」
「少なくとも私は、しばらくこいしに会ってません。……なんだか、噂、噂ばっかりでうんざりしちゃうわ」
「地上じゃあ、噂話が本当になる、なんて異変もあったらしいですよ」
「それはさぞかし混沌としたのでしょう」
「興味がありますか?」
「ないわね」
「ですよねぇ」
 二人は談笑を続ける。当初にはあった緊迫した空気は、すっかりなくなっていた。
 ドッペルゲンガーがいるといっても、実害が出ていないのだ。地上でさとりを見かけたというのも、何かの勘違いだったのではないかとすら思える。それくらいに、手掛かりが見つかっていない。
 もしも、と考えたことがある。
 もしもさとりが本気で隠密に行動したとしたら、それなりに情報を操ることはできる。いまこうして、跡を追うものに手掛かりを渡さないくらいはできるだろう。なにせ、さとりは心を読み、心を喰らう妖怪だ。どうして心に宿る情報など残すだろうか。
 ――それにしても、なぜドッペルゲンガーは妹を捜すのだろう?
 やがて紅茶がなくなると、会議はお開きになった。
「もう地上での聞き込みは終わりにしましょう」
 さとりがそう告げると、燐は少し残念そうな顔をしながら、うなずいた。このまま続けることに意味がないと気がついていたのだ。
「ごめんなさいね。また、話し相手にはなってあげるから……え? そういってさとり様はいつも忘れてしまう、って? いやいやお燐。私は約束したことは忘れませんよ。面倒だから守らないだけなのです」
 呆れました、と苦笑した燐が部屋を出て行くのを見送り、部屋にひとりきりになる。
 しばしの間。
 さとりは椅子から立ち上がった。
 そして突然に履いていたスリッパを蹴り飛ばすと、ベッドに向かって走り込み、飛び込んだ。ぼふん、と布団に埋まった勢いのまま、ごろごろとその上を転げる。
 埃が立ち、さとりはげほげほと勢い咳き込む。
 それから、ばったりと仰向けになって、呟いた。
「……しょせんは、噂だったということね……」
 さとりが妹を捜していた。
 こいしはどのような気持ちで、姉にそれを告げたのだろう。
 自分のことをさとりが捜していると耳にして、わざわざそれを地霊殿まで持ち帰って来た。無意識で行動してしまう妹がそれをしたことに、どんな意味があるのだろう。きっと、さとりはそれが知りたかったのだ。
 だから理由を求めて捜した。自身のドッペルゲンガーを。
「こいし……」
 さとりは布団をまさぐる。
 返事はない。
 当然だ。妹は、まだ、帰って来る気配がない。
 妹の体のやわらかな感触はなく、空虚だけが、まさぐる指の股の間をすり抜けていく。転がり乱れて、露わになった肌は抱かれず、漠漠と塵《ちり》を心に積もらせる。
 こいしは帰って来ると、たいていさとりの布団の中に潜り込んだ。眠っているときに暑さで目を覚ますと、妹がくっついて寝ている。それは姉にとって忘れ難い記憶のひとつで、それだから、さとりはわざわざ外へ捜しに出ることをしない。
 妹が帰って来るのは、この場所のはずだ。
「次は、いつ帰って来るのだか……」
 さとりは寝転がったまま、ぎゅっとその身を抱いた。もう薔薇の香りもしないベッドの上で、ひとりきりで、思い馳せる。



 静かだ。
 思わず、胸の中で呟いてしまうくらいに、静かだ。
 仰向けに横たわったまま、目をつむっていた。すう……すう……と自分の寝息が聞こえる。どうやら耳だけが鋭敏に働いている。さとりは「眠っているのだ」と眠っているはずの頭の中で思った。
 体は身動ぎひとつできない。眠っているのだから当たり前。何も力が入らない。目蓋もあかない、瞬ぎひとつできない。
「死んだように眠っている」。さとりは眠っている自分を俯瞰してそう思った。
 耳だけが生きている。すう……すう……。
 死んだように静かで、穏やかな眠り。そこに微かな扉の音が、きしり、と忍び込んだ。
「私だ」と、さとりは自分の姿を見た。
 部屋に入ってきたのは、胸元に第三の眼を持ち、不健康そうな顔をした、さとり自身に相違なかった。洗面所の鏡で見かける自分の顔が、いまそこにあって、動いている。
 ベッドで寝ているさとりに向かって、もうひとりのさとりは近づいた。
「こいしを見かけませんでしたか」
 と、眠っているさとりの耳に、ぼそぼそとした声が聞こえる。ベッドの横に立つさとりは、がっくりと頭を垂れていた。すう……すう……。
 寝息に重なって、吐き出された言葉がおろおろと耳に入ってくる。
「……あの子が帰って来ていると聞いたんです。ああ、もう疲れました。私は歩き疲れた。もう太陽に灼かれるのも星が煩いのもうんざりだ。朝の鳥が姦しいのも、夜の動物が欲を垂れ流すのも聞き飽きた。糞便を食べて生き長らえて、それでもあの子は見つからない。もうたくさんだ。たくさんだ。空っぽなんです。私は。だけどもう疲れた。地霊殿に帰り、温泉に浸かりペットに作らせた食事を摂り気が済むまでベッドで眠りたい。そうして目が覚めたら飽きるまで本を読み紅茶を飲み菓子を貪りたい。ただ待っていればいいのです。ただ待っていればそれでいいのですか。あの子は帰って来ない。だけど、あの子が帰って来ていると聞いたんです――」
 おもむろにさとりは、目の前で眠っている体を両手でまさぐり始めた。布と布が触れ合う、ずっ、ずっ、ずっ、という音が眠っているさとりの耳に聞こえている。体の上を手が這い回っているけれど、自分の体の、柔い肉に沈む手指の感触と聞こえる音だけが感じられるすべてだ。ずっ、ずっ、ずっ。気色が悪く絡みつく骨が、体の周りを探り、さ迷う。
 突然悲鳴が耳を劈いた。
「ほら! いない! やっぱりいないじゃないか! 誰が聞いたというんだ!」
 ああ、ああ、と慟哭するのをさとりは見ていた。耳だけが生きていて、誰か
が眠っている体にすがりつき、泣き声をあげているのを聞いた。べとべとと耳にへばりつく塩水は今にも穴を埋めそうなほどごぷごぷと溢れている。
 どのくらい泣き腫らしただろう。一晩、二晩。
 やがてさとりは顔を上げ、種が発芽するようにゆっくりと体を持ち上げた。その顔に萌芽する笑みは陰惨だ。
 ぎしり、とベッドが軋む。
 眠っているさとりの体にさとりが跨がっていた。お尻が腹を圧迫したため、寝息が苦しく乱れる。ぼそぼそした声が真上から降ってきた。
「あの子が帰って来ない……帰って来る……、あの子が帰って来ない……帰って来る……、」
 徐々に耳元へと近づいてくる。「帰って来ない……帰って来る……」吐息が顔にかかるほどに、近く。
 ひやりとした指先が、眠っているさとりの首元に触れた。そのまま止まらない。指は皮膚にへばりつき、肉に沈み、気管を狭め、いま手のひらが首を覆い尽くした。指が力の限り絡みついた。ぎゅうっと首が絞まり始める。
「帰って来ない……! 帰って来ない……! 帰って来ない……!」
 さとりの瞑った目の奥で、眼球がひっくり返った。目蓋がなかったら、眼窩から転び出ていたかもしれない。
 ぎしっ、ぎしっ、と体を揺さぶられる。口元からよだれを吹いた。喘ぐ。呼吸はできない。首を絞められているからだ。ぎしっ、ぎしっ、と叩きつけられる力が強くなる。
 眠っているさとりの、耳だけが生きていた。
 静かだ。部屋のなかは、まったく静かだ。
 その耳に、ぽとり、と花の落ちるような音が聞こえた。
「見つけました」
 それは誰の声だったろうか。
 さとりは、自由になった体で目を明いた。
「そこまでです。ヒロインは遅れてやって来る。なんちゃって」
 ベッドサイドにあるその姿を見て、さとりの口を自然と言葉が突いて出た。
「……ドレミー」
「はい。ご協力ありがとうございました。古明地さとりさん。そして、古明地さとりさん」
 ドレミーはさとりに口元だけで笑ってみせて、それから上に覆い被さっているさとりへと目を遣った。
 先程までさとりの首を絞めていた彼女は、ぐったりと倒れ込んでいた。
 その重たい体を押しのけて起き上がると、さとりはベッドの縁に座り直し、ドレミーに向かって尋ねた。
「死んでいるの?」
「いいえ。私がちょちょい、と眠らせてあげました。ひどく錯乱している様子でした。現のさとりさんを害されては、私が困ってしまいます」
「私が死んだからって、あなたが困るの?」
「夢の管理が私の仕事です。夢の世界で死者が出ただなんて、私が仕事していないみたいじゃないですか。誰に叱られるわけでもないですが、寝覚めが悪い、でしょう?」
「覚める夢ならいいですけど」さとりは、絞められた首筋をちょっと撫でて気にした。「それで誰かがあなたを褒めてくれるの?」
「いいえ。夢の管理者は私で、私の職場は現実が見る夢の世界です。現実が夢に気がつくことはできないのです」
「そう。じゃあ今のうちに言っておくわ。……ありがとう、ドレミー」
「……どういたしまして。さとり、さん」
 ドレミーが自然に微笑むところを初めて見た。さとりは満足して、しかし、夢の世界では第三の眼が働かないことが悔しいと苦笑する。きっといまのドレミーの心を読めたら、上質な食事が摂れたに違いないのに。
「ありがとう、ドレミー。あなたを食べられないのが、本当に残念だけれど」
「もう結構ですよ。欲しいわけじゃないんです。与えるのも違う。あなたは意地が悪いな」
 ドレミーは甘笑みから苦笑へと表情を落として、それからいつものアルカイックスマイルに戻って、尋ねた。
「私と会話することは不快ですか?」
「いいえ。どうして?」
「第三の眼を気にしています」
「ああ……夢の世界なのだから、理不尽でも仕方がないわ。仕事を邪魔するのも悪いし。ところで、いまは話をする時間があるということかしら」
「さとりさんがよろしければ、お詫びを兼ねて説明をするつもりでした。ずいぶんと疲れさせてしまったようですから」
「本当よ。まさか、三日も掛けて自分の家を歩き回るとは思わなかった」
「さとりさんの体力が無いだけだと思いますけどね……」
 ぶつくさとドレミーは言いながら、ひょいひょいと夢の世界を模様替えしていく。ベッドは消え、倒れていたもうひとりのさとりも消え、いつの間にか黒白モノトーンの調度品で設えた部屋に変わっていた。
 その中で、彼女の深い藍の髪と同じ色取りのカーテンが目を引く。窓外には、刷毛で塗ったみたいに黄色い月がぽっかり浮かび、薄紫色の夜空に架かってくるくると回っていた。
「さて、」
 とドレミーの呼びかけに視線を戻す。
「夢のような話をしましょう」
 二人はラウンジテーブルに掛けて、飲んでも目が冴えないコーヒーを飲み、美味しい夢のかけらのクッキーをつまみ、明けない夜の部屋で会話をした。
 さとりが、その眠りから目覚めるまでの話だ。


   *


 日記に書き付けていた手を止めて、さとりは一呼吸入れた。それからまたペンを握り、文章を綴り始める。
 いままで日記というものは書いたことがなかった。本を書くのは趣味の一つではあるけれど、自身を記する欲望なんて欠片も無かったからだ。
 それに現在書いているこの文章も、単純に興味深い出来事であったから書き留めておこうと思ったのみで、タイトルが付く予定もない。それでも何かと問われれば、さとりはこう答えるだろう。
 夢の日記、と。
 あの日、夢の世界で出会ったもうひとりのさとりは、件のドッペルゲンガーだった。これはドレミーから得た回答だから、間違いない。
 最近地上で噂になっていた「最強の二人」に関する異変の影響で、夢の世界の住人が現実に逃げ出してしまう事件が起きていたそうだ。ドレミーは仕事の一環として、その夢の世界の住人を連れ戻す働きをしていた。
 ところがその最中に、彼女が首を傾げるイレギュラーが発生した。
 夢の世界のさとりの存在だ。
 異変の影響は地上のみに止まっていたはずなのに、なぜだか地底の住人が夢の世界から逃げ出して、欲望のままに行動している。それが地上で「こいしがどこに居るか知りませんか」と尋ね回っていたさとりのドッペルゲンガーの正体だった。
 ドレミーは早速さとりに枕を送りつけて、現実のさとりとコンタクトを取った。おそらく夢の世界のさとりはこいしが居る場所へ現れると踏んで情報を収集し、それから罠を張って待ち構えた。「こいしは地霊殿へ帰った」という噂を流し、誘い込んだのだ。
 そして先日、ドレミーは無事に夢の世界のさとりを捕らえ、連れ帰ることに成功した。
「地底に住まう妖怪のなかで、夢の世界の住人が逃げ出してしまったのは、さとりさんだけです。原因はあなたの妹さんでしょう」
「こいしが何かした?」
「……私も彼女の能力を把握できていません。ですが、推測はできます。おそらく古明地こいしは、たびたびさとりさんが眠っているベッドに潜り込んでいたのでしょう。そして無意識のうちに〝完全憑依〟を発動させて、夢の世界のさとりさんを現実へと追い出してしまった」
 つまり、地上の異変の影響をこいしが持ち帰り、さとりに影響を与えてしまったのだ。
 どうしたものだか、と頭を抱えるさとりに、「もう異変の影響は収取付き始めましたので大丈夫でしょう」とドレミーは慰めるように答えた。
 あの夢の世界でのお茶会から、ドレミーは姿を見せていない。仕事が片付いたので、また別の誰かの夢の世界へと仕事の場を移したのだろう。彼女が淹れてくれた、目が冴えないコーヒーは美味だったので、次に会う機会があったら豆を分けて頂きたいものだ。
 さとりは手を置くと、読むとはなしに書いた文章を目で追いながら、ペットに淹れさせた平凡な紅茶の味を楽しむ。
 と、不意に書斎の扉が開いて、とことこと入って来るものがある。
「お姉ちゃん、何書いてるのー?」
「……始末書よ」
「えへへ、いったい何やらかしたの? だっさーい」
 けらけらと笑う妹の顔を睨みながら、さとりは言ってやった。
「あんたがやらかしたのよ」
「えっ」
「ま、もう解決したから。せいぜいお姉ちゃんに感謝して……。そうね、今度美味しいコーヒーでもごちそうしてくれたらいいわ」
「ぶー。知らないよそんなのー。だって知ってるでしょう?」
「あんたは無意識なんでしょ」
「うん」
 それから、「眠くなっちゃった」というこいしを風呂場で丸洗いして、きちんと食事もスープだけは飲ませて、歯も磨かせて着替えさせたあと、「おやすみなさい」を言って姉妹それぞれの部屋に別れて眠った。
 翌朝、さとりは瑞々しい薔薇の香りで目を覚ました。
 目の前には、薄く笑みを垂らした妹の顔がある。
「……こいし」
 寝起きの、喉にくすぐったい声で呟くと、その表情がほころんだ。
「おはよう、お姉ちゃん」
「……自分のベッドで寝なさいって、言ったでしょ」
 こいしは先に目覚めて、さとりの寝顔を観察していたらしい。目元のクマが残念とか顔色が悪いとかさんざん言われる自分の顔を見て、楽しいことなんてないだろうに。
 さとりはごまかすように布団から手を出して、寝癖のついた妹の髪をわしゃわしゃとかき回した。ふぎゅう、とうなり声を聞く。
「自分のベッドで寝なさい。そうしないと……夢だって見られないでしょう?」
 それはドレミーから聞いた話だった。
 どうして、夢の世界のさとりは現実の世界で妹を捜し回っていたのか。その質問に彼女はこう答えたのだ。
 古明地こいしは夢を見ない、と。
 幻想郷の夢の管理者になってから、ドレミーは夢の世界で一度も古明地こいしに会ったことがないという。
 彼女が眠っているときに、無意識を操る彼女の意識はどこへ行っているのか。何も無い空虚のなかで彼女は眠るのか。そもそも彼女の意識はあるといえるのか。眠っている彼女とは誰なのか……。ドレミーがこいしのことを把握できていなかったのは、そのためだ。
 かつて、こいしが第三の眼を閉ざしてしまう前、夢の世界には夢の世界のこいしが居たのかもしれない。だから夢の世界のさとりは、いなくなってしまった妹を捜し回っていた。
 夢の世界のさとりは、存在しない妹を捜して、延延とさ迷い続けているのか。
 ドレミーはアルカイックスマイルを浮かべるばかりで、その質問には答えなかった。
「夢……?」
 咀嚼するように、こいしはゆっくりと口を動かした。
「わかんない」と、それが嬉しいとでも言うように、変わらない笑顔を作る。
「それがわかるまで、お姉ちゃんのベッドで眠るのはやめなさい」
「がーん。なんでぇー?」
「こら、布団の中で暴れないの……こいし!」
 わたわたと手足を動かす妹を諌めて、押さえ込む。
 もみくちゃになった布団の中で、姉妹はひとつの枕で、再び向き合った。
 こいしが言う。
「あのね」
「うん」
「お姉ちゃんとくっついて寝るとね、なんだかヘンテコなところに行くの」
「どんなところ?」
「……」こいしはむずがるように、胸元を手のひらで擦る。「……あったかいところ。無意識で歩き回ってるときとは、ちょっと違う。ううん。体は無意識よ。でも、歩いているところが……風景? が、ヘンテコなの。だから……」
 姉妹の視線が絡み合う。
「お姉ちゃんと一緒に寝ると、面白いから。……だめ?」
 さとりは答える。
「あのね、こいし」
「うん」
「こいしの第三の眼。それをまた開けば、それくらいの夢は簡単に見られるのよ。それよりも、ずっと面白いものが見られるわ。そうすればわざわざ私のベッドで眠る必要も無い。眠るよりも楽しいことばかりになるのよ。その、眼を開けさえすれば……」
 こいしは、自分の胸元にある閉じた第三の眼を見た。
 それから今度は、さとりの胸元にある明いた第三の眼をじっと見た。
 やがてぱっと笑顔を花開かせると、さとりの顔を見た。
「それは、いや!」
 ばっと布団をはね除け、笑い声を高く響かせながら、こいしはベッドから飛び降りて逃げ出す。
「こら、こいし!」
「嫌なこと言うお姉ちゃんなんか嫌だもんね! べーっ、だ!」
 裸足のまま部屋を飛び出して、こいしは一瞬のうちにさとりの目の前からいなくなる。
 あとにはまだ寝癖をつけたままのさとりが、部屋のベッドの上にひとり、呆然として残された。
 しばらく扉を見つめたあと、おもむろに、深く、溜息をついた。
「ま……。そのうち帰って来るでしょう」
 さとりは胸元の第三の眼を撫でる。
 夢といえば、夢なのかもしれない。
 妹のこいしが、閉ざしてしまった第三の眼を再び開き、さとりと同じような覚妖怪もどってくれること。そうすれば、こいしの放浪癖もきっとなくなり、邸に姉妹二人で暮らせる。さとりはこいしを捜す必要がなくなり――それはきっと夢の世界でも、恙ない時を過ごせるだろう。
「穏やかに暮らしていければ良い」と古明地さとりは言った。
 ベッドから降りると、書斎へと向かうことにする。
 夢日記に、いま思いついたさとりの夢を忘れないように、書き留めておこう。
 姉妹二人の、夢の話だ。


〈 了 〉


秋例大祭で本にします。
 追記:しました。オールド系の書体で作った、しっぽりした本文がおいしかったです。
    ありがとうございました。
アラツキ
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コメント



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好きな雰囲気のお話でした
3.90奇声を発する程度の能力削除
とても良かったです
4.100サク_ウマ削除
洗練された良いさとこいでした
9.90創想話が好き削除
見つめ合い絵になるさとこい
卒なく読みやすく面白い
その割に読まれてない不思議。なんでだろ皆目見当も付かない
10.100名前が無い程度の能力削除
他に書きたい感想いっぱいあるけどひとつだけ

ベッドで絡み合う古明地姉妹はえっちだ…