Coolier - 新生・東方創想話

白狼天狗犬走椛の平穏な日常

2018/07/18 00:05:26
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 ひんやりとした空気に包まれた広いガレージの中に、鉄と油の臭いが充満している。辺り一面には、組み上げる途中の機械の群れや、用途のわからない工具が、乱雑に転がっている。
「喰らえぃ、みすちーっ! パーフェクトフリーズ‼」
 開け放たれたシャッターの向こうから、少女達の声が聞こえてくる。ここ最近、よくここに遊びに来ている連中だ。
 川で、弾幕ごっこに興じているようである。
「……また来ているようだな?」
「んー…? まあねー……」
 平たい将棋盤を挟んだ向かいに腰かけるにとりが、気のない素振りで返事をした。
 机の横に取り付けてあるカラクリの実験と、私に頼まれた装飾品の修理を並行し、忙しそうにしている。
「あーっはっはー! リグル、ルーミア! どんどん弾幕を落とすのよ!」
「「えいほらさっさー」」
 激しい水嗚が聞こえてくると、にとりは、作業を続けながら顔をしかめた。
「……あいつら、また川を汚して……」
 と愚痴をこぼすが、動く気配はない。
「まあまあ、子供のする事じゃないか」
「子供が、水柱を氷の弾丸に変えて、高速で飛ばせるわけ?」
「あー…あの時は酷かったな……辺りの木も抉れていたし」
「哨戒の椛さんとしては、あーゆーのがここにいたらまずいんじゃないの?」
「今日は非番でな」
「そんなんでいいの?」
「良いじゃないか、平和で」
 眉間の皺が深まっていく。
「あっちがその気なら、こっちもやってやるわよ、響子!」
 よく響く夜雀の声が加わって、さらなる喧噪となった。
「あいあいさー!」
 水嗚が重なるに連れて、にとりの貧乏ゆすりが悪化していった。
 いつものパターンで言えば、そろそろ我慢の限界が来る頃であるが…私は黙してその時を待った。
「やい、みすちー! あたい達の真似すんなー‼」
「バッカでー! あんたらは氷、私らは音。全然違うじゃん!」
「バカとはなんだー⁉」
「よーし響子! あの新兵器を使うわよ‼」
「まだできてないよー」
「へ? まだできてないの⁉」
 そろそろ日没の頃合いである。
 元気に遊んでいる彼女達も、獲物を待つべく、じきに住処へと帰っていくだろう。
「……新兵器というのは、どんなものなんだ?」
「……さあねー」
 しらを切るつもりのようだ。
 そういえばと。思考が、川で冷やしてある胡瓜の事に移っていった。午後のおやつにと、にとりが今朝から準備しておいたものだ。
 この頃、吹く風に若干の寒気が加わってきた。きっとよく冷えている事だろう。
(……来たか)
 至近距離から、モーター音が聞こえてくる。設置されたアームが動いているのだ。
 先端に取り付けた駒が持ち上げられていき、盤上で位置を定めると、そこからさらにある高さまで達した所で動きを止め、次の瞬間には……
 ぱちん。
 乾いた音が響いた。
「王手」
 機械的な動きでアームが戻っていく。
「…………」
 その言葉に反応するまでには、若干の間を要した。
「…………」
 来る時がきたのだ。
「ええい、もういい! 響子、とにかく撃ちまくるわよ‼」
「やーい、鳥頭ー。バッカでー」
「うるさいわよ‼」
 バシャン、バシャン、バシャン。
 相も変わらず騒がしい……。
 にとりの貧乏ゆすりも、音が聞こえる程になっていた。
「…………」
「…………」
 沈黙が、私とにとりの間を包む。
 さりげなく盤面に目線を戻すと、次の手を探した。
「……やれやれ、仕方ない」
 にとりが立ち上がるのを、私は横目で確認した。
「おーい、馬鹿どもー。いい加減にしないと、作ってやんないぞー」
 わざわざ拡声器を使って、彼女達に声をかけている。
「お! 河童だ‼ 弾幕やろうよ、弾幕!」
「ちょっと開発班! まだできてないってどういう事よ⁉」
「こっちも忙しいっての。それと、そんなとこで遊んでると、こわーい天狗に攫われちゃうぞー」
「「イエーイ!」」
 呆れたにとりは、椅子に座り直し、作業を再開した。
「何がイエーイなんだかねぇ……射命丸様も甘いよなぁ」
 文句を口にしながらも、また、カラクリのチェックと、依頼品の修理を行っている。
 一方、私の方はというと……。
(落ち着け。まだ手はある……)
 目の前には、見慣れた水色の服に身を包んだ、いつもの帽子を被るにとりが映っている。
 ようし、大丈夫。
「待った」
 月並みな言葉に、返事はこない。
「ここも変わっちゃったもんだ……」
 耳にイヤホンをはめていて、こちらの声は届いていないようだった。
 平手を突き出して注意を引くと、
「んー?」
 こちらに目が向けられた。
「千里眼てのは飾りかなー?」
 とぼけた調子で返される。
 玉の横に置かれた成桂を眺めた。
 数手前……その時は、自分が攻めていると思っていた。しかし今は、玉を前に逃がして時間稼ぎをする以外の選択肢を封じられている。このまま続けた所で、時間稼ぎにしかならない。
「飾りだったら……どうだっていうんだ?」
 玉を前に進め、相手の悪手を祈った。
 喰らいついたら最後まで放すな。それが白狼天狗の信条である。
「あー、お腹空いちった」
 にとりは、ポケットから胡瓜を一本取り出した。
「……お、良い歯ごたえ」
 盤面など見向きもしない。空いた場所を使って試運転を行っている。

 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。
 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。

「…………」
 彼女の視線を、誘導する。
「え? 何?」
「…………」
「もう詰んだっしょ」
「まだわからないだろ」
「見てわかんない?」
「いいから早くしろ」
「へえへえ。注文が多いこって」
 ゆったりとした動きで、アームが動く。
(可能性はある。誰にでもミスはあるんだ)
 ぱちん。
 祈りも空しく、駒はあるべき場所へと置かれていた。
「…………」

 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。
 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。

 すぐに試運転が再開された。

 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。
 ぱちん……ぱちん……。
 ごそごそ。

「こりゃ、止まらんわ」
 ポケットから、二本目が取り出される。
「おい」
「頼まれてたやつ、金具がへたってただけだったよ」
「え? ああ、そうか」
「何? 何か言いたそうじゃん」
「……いや、何でもない」
 拍子を外された私は、意味もなく、にとりのイヤホンから流れる曲に耳を澄ませた。
「さあーて、こっからが大仕事かなー?」

 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。
 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。

「…………」

 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。
 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。

「…………」

 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。
 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。
 ごそごそ。

「…………」

 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。
 ぱちん……ぱちん……。
 ぼりぼりぼり。

「ああ……」
 そう呟いたにとりが、ちらりとこちらも覗いた時に、やっと、自分が彼女を凝視していた事に気が付いた。
「悪いね。ほら、やるよ」
「いらん」
「あっそ」
 ぼりぼりぼり。
「……にとりさん、実は折り入ってお願いがあるのですが……」
「ああん?」
 顔は下がったまま、返事がくる。
「待ったはなしだよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「へえ? じゃあ何さ?」
「…………」
 ぐうの音も出なかった。
「へえへえ。河童は、天狗様には逆らえませんからねぇ」
「なに?」
「待って欲しいんでしょ?」
「なら五手前に戻すぞ」
「お好きになさいな」
 五手前に戻して対局を再開する。
 そして、そこからの展開は……
「待った」
 正しく、リプレイの如く。
「負けを認めたら?」
 その言葉には答えずに、一息ついた。
「まあ、今回はこんなものか……」

 ――すまんな、犬走。

 何の脈絡もなく、上司の言葉が頭をよぎった。
 右手を胸元に持っていくが、目当てのものが見つからず、手持無沙汰となる。
「……決め手はあの桂馬だったか……。守りを崩せなかったのが痛かったな……」
 にとりの工房で将棋を指す時には、彼女の仕事をなるべく邪魔しないよう、対局にかかる時間の短い本将棋を用いる。いつもなら連戦を申し込む所だが、今日は気が乗らなかったので早々に片づけを始めた。
「おや椛さん、まだ勝負はついてないんじゃないですかねぇ?」
「…………」
「やるんでしょ?」
 先程までとは裏腹に、急にやる気を出すにとり。私もまた、先程とは裏腹の態度を見せる。
「仕事はいいのか?」
「今、それ関係ある?」
「…………」
「ねえ、やるんだよねー?」
「…………」
「ん?」
「……ま……」
「お?」
「……参りました」
 それだけでも声が震える。種族としての性質が、その言葉に反発していた。
「え? 何だってー? 声が小っちゃくてよく聞こえないよー?」
 聞こえているだろうに、わざわざイヤホンを外してまで耳を寄せてきた。
「にとりさん、わたしの負けです」
「ん? ん?」
 白々しい。まことに白々しい。しかし、文句は言えないのである。
「わかった! わかりましたよ! 負けました。参りました。完敗です!」
「なーんだ、ようやく飲み込めた。それならそうと、早く言えば良いじゃんか」
「ぐぬぬ」
 ひと段落した所で、片づけを再開した。
「機械ってのはさ、シンプルなんだよ。そこが良いのさ」
 にとりはイヤホンを片側だけはめ直すと、おもむろに立ち上がった。
「なんだいきなり?」
 返事がない。客に改造を頼まれたという、音響機器に近づいてじっと眺めている。
「おい、聞こえてるか?」
「ほらよ」
 投げ渡された拍子に、チャラっと音が鳴った。難なく受け取り、首にかける。
 軽く親指で金属部分に触れると、ひんやりとした小さな鉄の板から、馴染深い感触が返ってきた。
 昔、仲間内で作った、ドッグタグ。
「…………」
 にとりの指が、流れている曲のリズムに合わせて動く。
「課題は、出力かなぁ……」
 耳を澄ませ、流れている曲に意識を向ける。聴覚が鋭い白狼天狗ならば、十分な音量だった。
「……外の世界の曲か」
 エレキギターの澄んだ旋律、民族楽器を用いた異国のリズムを刻むドラムス、曲を支えながらも深みを与えるベース、それぞれが音でもって語り合い、それぞれに影響を与えている。頭頂を抜ける柔らかなヴォーカルが加わり、まるでこちらにも言葉が投げかけられたような気がした。
「そういえば、夜雀と山彦がバンドを組んだんだってな」
 空いた耳の方に声をかけた。
「鳥獣伎楽ね」
「そいつは頼まれたのか?」
「ま、そりゃ後でのお楽しみってね」
「さっきの新兵器というのは」
「それよりも」
 先程から使用している音楽プレーヤーをこちらに手渡すと、にとりは続きを話し始めた。
「ipod classic 160GBモデル。圧倒的な容量の大きさで、非圧縮ファイルだって気がねなくぶち込める」
「何だ、急に?」
「買ってみない?」
「は?」
「ちょっと液晶洩れしちゃってるけど、動作には全く問題ない。それに、色んな人間の歌が聴けてお買い得だよ」
「それで?」
「今ならこの、防水機能付きカナル型イヤホンもおつけしますよ?」
「はいはい。そういうのは他所でやって下さい」
 渡されたものを返し、ガレージの奥へと歩いた。引き戸を開け、靴を抜ぎ段差をまたいで、台所に向かう。
 一息吐こうと、煎茶の準備を始めた。
「そもそも、非圧縮とか、液晶洩れってのは何なんだー?」
「買ったら教えてあげるよー」
「ならいい。まー、この電気ケトルとかいうのは便利で良いな」
 水を注いで、スイッチを入れる。
「椛ん家って、電気通ってたっけ?」
「今のご時世、電気が通っていない家の方が珍しいんじゃないか?」
「ふうん……」
 しばらくすると、すぐに湯が沸いたので、保温ポッドに入れてガレージに戻った。
「それならどうだい? これを機に、家電を揃えてみるってのは?」
「河童の売り文句には飽き飽きだよ」
 湯呑にお湯を入れて冷ましている間に、そこいらに放置されているだろう、茶筒を探した。
「流行りに乗り遅れると損だよ」
「得もしないがな」
「同じ山で暮らす妖怪同士。色をつけるのもやぶさかじゃないけどね」
「口車には乗らない。河童は、人間にも甘い言葉を投げかけるからな。何を企んでいるのかわかったものじゃない」
 比較的早くに見つける事ができたが、容器の表面には油がついていて、べたついていた。いつもの事なので気にせず、茶葉を急須に移す。
「私達は親友だろ? 親切にするのは当然じゃないか」
「どうだかな」
 にとりが売り出す商品の幅は広くなる一方で、大体はろくなものを提供しないという。
「ところで、河童の主食ってわかる?」
「胡瓜」
「んなわけないじゃん。良いかい? 河童はロマンを求める生き物なんだよ。胡瓜にはそれが詰まってるのさ」
「まあ、漬物にしても良し、和え物にしても良し。確かに、可能性は広い」
「私は浅漬けが好きかな。小腹が空いた時によく食べてるよ」
 大漁のボトルが詰め込まれた冷蔵庫から、茶請けに胡瓜の浅漬けを取り出した。にとりの家には彼女お手製のぬか床があり、工房で作業する時には、必ずおやつに幾らか持ってきているのだ。
 浅漬けを机に置き、湯が冷めるのを待った。
「んー、良い味してるー」
 にとりは素手のまま、口に運んでいた。
 私は自分用に置いておいた箸を持ってきて、一口つまむ。
 彼女の作る漬物は塩気が薄い。ほぼ素材そのままの状態だった。
「それさあ」
「うん?」
 にとりの指が、私の胸元に向けられる。
「まだつけてんの?」
「ああ……」
 その質問に、続きが出てこず、そのまま黙って咀嚼を続けた。
「ふーん。さあて、お茶お茶」
 湯呑に手が伸びてきたので、手首を掴んで止めた。
「おい待て。まだ早い」
 美味い茶を飲むには、湯の温度・浸出時間・注ぎ方に気を配らなければならない。
「あんたも細かい女だね」
 掴んでいた手を離すと、伸びていた腕が引っ込められ、両腕の長さが均等に戻った。
「お前がせっかちなんだ」
「へえへえ」
 頃合いを見計らい、手順にのっとって茶を入れていく。最後の一滴まで丁寧に。
 湯温を探りながら一口、口に含むと、爽やかな香りが鼻の奥を抜けていった。
「…………」
「…………」
 特に言葉もなく、それぞれの時間をしばらく過ごした後、
「いつまでもつけてるのは、変か?」
 ようやく言葉が出てきた。
「ああん? ……まあいいんじゃない?」

 ぱちん……ぱちん……。

 外はすっかり静かになっていた。
 もう夜である。
 そういえば、冷やしておいた胡瓜は、いつ取りに行けばよいのだろうか? 流れ弾に当たっていなければ良いのだが。といっても、私はもう胡瓜は十分……。
 そんな事を考えつつ、ゆっくりと一口、茶を啜った。

    *   *   *

 これは、もう少し先の話になる。
 神の加護を受ける少女と、しがない白狼天狗の私が、ひょんな事から対峙する事になる。

 ――椛さん、私と、喧嘩して頂けませんか?

 盲目的ともとれる直情さで見つめてくる彼女に、その時の私は、どのように接すれば良いのかわからない。

 ――ですから、人間は言葉以外でも、相手を理解しようとするのでしょうね。

 そう。これはまだ、先の話である。

    *   *   *

 夜の山に、熱に浮かされた天狗達の声が響き渡る。
 地面に御座を敷いただけの、簡素な会場。それでも、気にする者は一人もいない。
 自慢の翼を広げて空を駆ける者、自身の功績を雄弁に語る者、山の未来を憂いて論を展開する者……等々。各々が、思うがままに振る舞っている。
 一夜限りの無法地帯。定期的に開かれる、守矢神社の二柱を招いた大宴会である。それは山と神社、双方が利益を得る、幻想郷で新たに生まれた信仰の形だった。
「調子はどうだ?」
 集団からは離れ、一人で夜空を肴に酒を飲んでいた私に、大天狗様が厳かな顔つきで尋ねてきた。
「と、うるさくてな」
 が、すぐに表情が崩れる。
「恐れ入りますが、今の所、大した進展はありません」
「そうだろうな。わっはっはっはっ。さ、飲め飲め」
 持っていた升に、酒が注がれていく。
「ありがとうございます。大天狗様も、どうぞどうぞ」
 すぐに飲み干し、返杯する。
「お、悪いな。おっとっと」
 この宴会には、山に住む天狗の殆どが参加しているが、哨戒天狗の中には勤務の都合上、参加できない者達がいる。かくいう私も、この日は勤務の筈だったのだが、生憎と強制参加の命令が下った。
「お?」
 上座の方で、熱が膨れ上がるのを感じる。
「ほほー。綺麗、綺麗」
「相も変わらず、桁外れな力ですね」
 祭り好きで知られる神をもてなす為、宴会では決まって弾幕ごっこが催される。
「さて、そろそろ私は上役の機嫌をとってくるとするかな。お前も今夜は楽しめ」
「はっ」
 大天狗様は新しい一升瓶を持って、上座に向かっていった。それを見送り、席につこうとすると……
「――ッ!」
 おぞましい気配が、体を撫でた。
 全身の毛が逆立ち、動悸が激しくなる。
 胸元の金属に触れる。鉄の冷えた触感に、微かな温もりを感じた。
「……ふぅ」
 会場の視線が一か所に集められている、その先では、神と鴉天狗の、弾幕ごっこが始まっていた。
 天狗の名は射命丸文。洩矢様の織りなす神桜を紙一重で避けながら、ファインダーにおさめている。
 軽薄な笑いと、不敬な言葉の羅列。それに洩矢様は、神としての立場から軽快に応じている。
 神が遊ぶ。それは、幻想郷では珍しい事ではない。童女の姿をした洩矢様が弾幕を振りまく様は、一見すると微笑ましい。
 しかし……本能が悟る。
 あの方の本質を。
 神が遊ぶという事の意味を。

 私はあの方が恐ろしい。

 うすら笑いを貼り付けているあの女からは、私が感じるような恐怖は伺えない。客をわかせる為に、自らを窮地に追い込むその姿は、正しく狂気の沙汰と言える。

 祟符「ミシャグジさま」

 宣言と共に、射命丸はカメラから手を離した。
 耐久弾幕の始まり。定められた時間の中では、瞬きすらも許されない程、弾の密度が増していく。それは、我々のような木っ端妖怪には、理解を超えた遊戯だった。
 そう。いつだって私達は、自分の意志とは関係なく、こうした大きな存在によって動かされているのだ。


 ――椛は、この山が嫌いなの?


 ふと頭をよぎる。早苗さんもいずれ、ああなるのだろうか?
 現人神。一子相伝の秘術によって、人間でありながら、神と同等の扱いを受ける筈だった者。それが彼女だ。
 二柱に連れられて幻想郷にやってきてからは、早苗さんは風祝として山で過ごしている。しかし、にとりと一緒に話をしている時の彼女の姿は、ただの一人の少女にすぎなかった。

 意識を自身の内側へと集中させる。

 視覚とは異なる器官が働き始める。
 ミクロからマクロへ。視点の切り替えが行われる。
 想像を現実に変えるには、己の内にある世界を崩す必要がある。
 妖怪、天狗、白狼天狗、犬走椛……。
 私という個人が消失する瞬間、世界と繋がる事ができる。
 自由。それは魅力的な言葉でありながらも、今の私にとっては恐怖を与えるものにすぎない。
 己という殻から解放されたという錯覚。
 千里先を見る。それは今まで築いてきた自分という存在を、捨てるに等しい行為だった。

 特等席で見物を決め込む、上役連中の顔を覗いた。
 弾幕の余波が地上にまで及び、回避に失敗した観客達が爆発に巻き込まれていく。
 その中で、彼らは……。

(なんて様だ……)

 熱に浮かされて恍惚とした表情。

 また、繰り返すつもりか?

 能力を解いて目を逸らす。ぼんやりとした頭で、爆発が織りなす光の芸術を眺めた。
 そうしている内に、いつの間にか私の意識は遠くなっていった。爆発にでも巻き込まれでもしたのだろう。私には、どうする事もできない
 落ちゆく意識の中、かつての友の姿が、頭の中でおぼろげに映っていた。





 楓という、長年任務を共にしてきた同僚がいる。ある日、彼女が、山の沼地で洩矢様と口論をしていたのに居合わせた事があった。
「おや? 見知った顔が来たね」
「恐れ入ります、洩矢様」
「よしてよ。そういう堅苦しいのは、もううんざりなんだ」
 その頃はまだ、守矢神社が山に移ってきてから日も浅く、天狗の中には突然やってきた彼女達を疎む者もいた。特に、勤務上、外部の者と接する機会の多い白狼天狗には、そういった者が多かった。
「申し訳ありません。善処致します」
「あーうー。わかってないじゃん。まあいいや。聞いてよ。こいつらときたら、頭が固くっていけない。こっちはただ、遊ぼうって言ってるだけなのにさ、仕事仕事って、ちっとも話が通じないのよ」
 その沼地は、蛙の鳴き声が幾重にも重なる、騒々しい場所だった。
 洩矢様の目線の先には見知った仲間がいて、楓は、他の天狗達よりも前に出て、場の空気を険しくさせていた。
「楓、何があった?」
「知らん。あっちが勝手に絡んできただけだ」
 楓には、理性よりも感情を優先させる傾向があった。社会的通念を理解しながらも、その先にある個人の感情を大切にする女。そして、それは平等を願う思想から生まれるものだった。
「それじゃあ、何もわからん。いいから何があったのか教えてくれ。教えてくれなきゃ、どうにもできん」
「あんたがでしゃばる幕じゃないよ。すっこんでな」
「せめて言葉遣いを改めたらどうだ。洩矢様の御前だぞ」
「くだらねえ事言ってんじゃねえ。んな事、わかってやってるに決まってんだろ!」
「そうそう。そっちの方が、私もやりやすくていいよ」
「はっ、慎に申し訳ございません」
「おいおい、何に対して頭下げてんのか、ほんとにわかってんのか? え?」
「おい、いい加減に――」
「いいって言ったよね?」
 投げやりではあるが、柔らかな声が聞こえてくる。しかしその調子とは裏腹に、目だけが冷え切っていた。
「仲間割れしないでよ。もー、ちゃんと話聞いてる? 私は、ちっとも気にしてないんだって」
 身長差から、洩矢様の帽子に生えている眼球が、こちらを上目遣いで覗いていたのが見えた。
「ご寛大な対応、痛み入ります」
「あーうー。まあいいけどね」
「持ち場に帰んな、椛。あんたがでしゃばった所で、この場が治まりゃしないんだ」
「井の中の蛙大海を知らず。そりゃ山に籠ってばかりいれば、見えなくなるものもあるよね」
「我々を愚弄する気か! 神と言えど、仲間を馬鹿にされて黙っているいわれはないぞ!」
「うひゃあ。こりゃあ天狗にしちゃ威勢が良いね。何で? ま、良いよ良いよー。そういうのだよ。そうこなくっちゃ」
「おい、楓……」
「よーし、テンション上がってきたぁー!」
 鍔を支点に指先で帽子を回しながら、
「あーうーあーうー」
 くるくるくる……。
 そうして、自分自身も緩やかに回り始めた。
「さあ、皆も張り切っていこう!」
 洩矢様が、姿の見えない蛙達に向かって声をかけると、それに応えるかのように、声音が増した。
「あーうーあーうー」
 げこげこげこ。
「あーうーあーうー」
 げこげこげこ。
「も、洩矢様……」
 場を包む大合唱、沼地に反射する光、陽炎で揺らめく景色、それらがその場を非日常へと変えていた。
 回転を続けながら、洩矢様は、視線だけをこちらに向けた。
「この度は、慎に申し訳ございませんでした。今後、こういった事がないよう、厳重に注意致します」
「またまたー、本当は悪いなんて思ってない癖にー」
「いえ、そのような事は」
「いいよ、気にしないでも。どうせ嫌になったら殺しちゃうんだからさ」
 さらりと発せられた言葉に、戦慄が奔った。殺意は一切込められていなかったが、それが却って恐ろしかった。
 回し続けていた帽子を、ピンと上空に飛ばして回転の方向を縦に変えると、それがそのまま見事に頭に被さった。
「さて、嫌われ者は去るとしますかね」
 去りゆく洩矢様の背中に、楓は、
「神って奴は、肝心な時には何にもしてくれない役立たずだ! 私は、それを忘れた事はない!」
 洩矢様はその時、一度、足を止めた。
「お、おい」
「わかってるよ、椛。あっちは神様。こっちはしがない白狼天狗。わかってるよ。でも、腹が立つじゃないか、こんなの」
「落ち着け、楓」
「誰にでも事情はある」
 自分に言い聞かせるように、洩矢様は空中に言葉を発した。その場に居合わせた、楓以外の面々の緊張が、最高潮に達する。
「それを聞いてやるだけのゆとりも、今はある。祟り神として、そういう面を受け持つのも、悪くない」
 洩矢様は、こちらを見ずに、そのまま去って行った。
 あとに残ったのは、不機嫌な楓と、結局何も説明を受けていない私と、安堵の顔を浮かべる同僚達。
「楓」
 刺激しないよう、殊更静かな声で、呼びかける。
「嫌だね」
「楓!」
 努力は無駄に終わった。
「何を考えてるんだ、お前は。一体、何をしたのかわかってるのか⁉」
「わかってるさ」
「だったら、何でもっと冷静になれない!  洩矢様が寛大だったから良かったものの、神社との関係に亀裂が入っていたかもしれないんだぞ‼」
「亀裂、ね。いちいち喚くなよ。耳に響く」
 耳を塞ぐおおげさな仕草。そんな事をした所で、聞こえなくなるはずもない。
「楓、教えてくれ。何でこんな事になったんだ?」
「…………」
「私には……言えない事か?」
「……そういうわけじゃないさ」
「じゃあ何故?」
「なあ、もうやめようぜ。見ろよ。皆、どうしていいかわからないって面してるぜ? 空気読んで、さっさと解散しよう」
「楓は」
「……何だ?」
「私情で噛み付くような事はしない女だ」
「買いかぶりだ」
「何か理由があるんだろう?」
「うるせえな」
「楓」
 今日一日でどれだけ名前を呼んだかわからないが、今だけは、何のしがらみもなく楓の名を呼べた気がした。
「共に戦場を駆けた日々が、お前を証明している」
「…………」
「あいつが生きてたら、そう言いそうだろう?」
「……かもな」
「悪いな」
「何故謝る?」
「何故だろうな」
「……わかったよ」
 随分と、卑怯なやり方だった。
「今さら何をって話さ。あいつは……はいはい、わかったよ」
 過去に頼るというのは……。
「洩矢様は、天魔様を虚仮にしたんだよ」
 私の目は見ず、何処か遠くを見るようにして、彼女は話した。
 天狗の総統である天魔様。かつて鬼が去ってから二分した山の勢力を統合した、絶大なカリスマ。
 この山が独自の社会を築き上げる事ができたのも天魔様の活躍があってこそであり、その時代を生きてきた者達にとっては、神に等しい存在と言える。
「例え、神様だろうが何だろうが、天魔様への侮辱は許してはならない。それは、この山が築いてきたものへの、冒涜だ」
 私は、思わず目を逸らした。
 平穏に生きる事のできる世の中。それは、あの頃、私達が最も求めたものだった。
 楓の後ろで控えていた同僚達も、皆一様に、顔を伏せる。
「……お前の気持ちは痛い程、わかる。だが、それは洩矢様とは関係のない話だ」
「それがどうした? そういう問題じゃない」
「だから、それは私にもわかる。わかるよ。けど、そうじゃないだろ?」
「それで、何が言いたい?」
「わかるだろ」
「……やめた、しらけた。もう行くわ」
「おい、まだ話は終わってないぞ」
 肩を掴んで止めると、
「いいや、もう終わった話だ」
 振り返った彼女の、自分と同じ獣の目が、私を貫いた。
「人間かよ」
「…………」
「じゃあな」
 話が終わったのを見て、他の同僚も持ち場に戻って行った。
 誰もいなくなってから、ようやく「ああ」と、声だけが出てきた。

『人間かよ』

 幾重にも重なる蛙の大合唱。
 沼地に反射する光。
 舞台には、登場人物はもういない。
 かけられたその言葉だけが、私の頭の中でいつまでも反響していた。何故それ程衝撃を受けたのか、その時の私には、理解する事ができなかった。





 滝の詰所で、交代の為に、哨戒に出ている天狗の帰りを待っている。
 暇を持て余していた私は、千里眼を使って遠方を眺めていた。そこには――

 緑色の長髪に、蛙と蛇を模した髪飾り。

 複数の白狼天狗と、話をしている。恐らくは、索道の件だろう。守矢神社が推し進めている案件だが、天狗の中にはそれを否定的に捉える者が多い。
 食ってかかる同僚に、理を説明するその姿は、ひどく滑稽だ。人間が妖怪に何を求めているのか。
 牙が疼く。あの柔らかそうな首筋に噛み付く事ができれば、どれ程、心地よいのだろうか? 最後に人を食べたのは、いつの時だったろうか?
 さらに想像が進む。
 自然の理によって、彼女の身体は地に還っていく。魂魄の行き先は考えない。この山で生を終えた早苗さんが、どのように形を変えていくのか。それだけを思い浮かべた。
 そうして、さらに想像を進めていくと、それらの想像をしている自分を見る、天狗としての私が作られていった。一部始終を見ていた私は、変化を続ける早苗さんの観察をしている私を見て、笑っていた。出来の悪い、芝居を見ているように――
 骨の軋む音が聞こえる。
 知らない内に、手を強く握り締めていたらしい。能力を解いて状況を伺うと、爪が肌に食い込んで血が滲んでいるのがわかった。認識すると、思わず、ため息がこぼれた。
 滝の音が耳に入る。
 白狼天狗の詰所は滝の裏側に位置しており、そこでは暇を持て余した者達が、無駄に時間のかかる大将棋に興じている。そんな見慣れた景色が、どこか作り物のように見える。
 千里眼の使用には、副作用がある。それは、もしかしたら私だけのものなのかもしれない。周りに、確認した事はなかった。
 使用した時間に応じて、現実感を喪失する。
 そういった時、私は空を眺める事が多かった。そこに、これまでに蓄積してきた自分がいる気がするからだ。しかし今の私に、それは辛い……。
 駒が盤を打つ音、他者の息遣い、湿気を多く含んだ空気の匂い、盤を挟んで向かい合う同僚達の姿。

 ぼんやりとした世界。

「――、――。」
 声が聞こえる。
 まるで、千里も離れた先での出来事のように。
 無意識の内に、ドッグタグを弄んでいた事に気付く。そう認識した後、次第に、現実が呼び起こされていった。
 声は、私を呼んでいるようだ。
「椛ー、仕事だよー」
「……ああ。今行く」
 哨戒任務は交代制を採用しており、何組かの集団に分かれ、日中か夜間、割り当てられた場所を担当する。担当区画はよほどの事がなければ変更される事はなく、自然と組む相手も固定される。
 今、声をかけてきた者とも、随分と長い付き合いになる。この山が幻想郷に移る前は殺気立っていたものだったが、今ではその面影はない。
 入り口の所で、大きく息を吸い込む。待っていた同僚を横切って、一息に滝を突き抜けた。
「うわっ。ちょっと! かかったんだけど⁉」
 今日は夜勤である。抜け出た時に舞った水しぶきが、煌びやかな月光によって、宝石へと変えられていた。
 今夜の相方が、ぶつくさと文句を言いながら追ってくる。
「安心しろ。私なんかびしょ濡れだ」
「当たり前でしょ! 馬鹿じゃないの!」
 思えば、あいつもよく、文句を言われていたな……。

 ――気にしない気にしない。あれは、ああいうコミュニケーションなんだから。

 季節は、秋の中旬。夜風が、濡れた体に沁み渡る。
 先程、月が見せた光景は、生命の輝き。理屈を超えた先にある、心を震わせる何か。普段の私であれば、そう感じた筈だった。
「ねーねー。この間、プリリバと鳥獣伎楽が喧嘩してたの見た?」
「この間の、ライヴの時だったか? 生憎と、その日は彼岸に行ってたな」
「また? あんた、いつもあんな所で何してんの?」
「掘り出し物を探しにな。それで、何で喧嘩になんかなったんだ?」
「ああ、音楽性の違いってやつらしいわよ。途中から、弾幕のぶつけあいになってね」
「結局、弾幕ごっこというわけか」
 幻想郷に移り住んでから、宴会の多い妖怪の山では、催し物にゲストを招待する事が増えてきている。
「にしても」
「ん?」
「さすがに見てらんないわね」
「心配性な奴だな」
「貴方の心配なんてしてないわよ。威厳がないって言いたいの」
 威厳という言葉は、昔よく使われた言葉だ。
 他にも、権威、誇り。それらは天狗が所持していた、力の象徴だった。
「飛んでいればいつか乾くさ」
「なら、かっ飛ばしなさいな。ほら、ブーストチャージ!」
 背後から、弾幕をしかけられる。紋様の意図は明確であり、避ける場所が前方にしか用意されていない。
「おいっ。威厳をとやかく言う前に、品性を磨いたらどうだ!」
「バーカ。あんたの目が濁ってんのよー」
 背中を狙うのは武人としてあるまじき行為であり、高い美意識を持つ天狗にとって、それは恥以外の何ものでもない。それでは何故、彼女がこのような暴挙に及んだのか。

 ――皆、いろんなものを抱えて生きてる。椛だって、そういうの、あるでしょ?

 長く付き合えば、多少の変化でも敏感に察してしまう。それは良くも悪くも、時間が与える副産物と言える。
「音速を超えろー。感情を解き放てっ。その先に、本当の自分が待っているのよ!」
 彼女は察した。同じ時間を過ごしてきた仲間として、きっと……。





 気が付くと、私は仰向けに寝転がっていて、夜が明けていたのを知った。顔だけ動かして辺りを見渡すと、死屍累々の惨状が広がっているのがわかった。
 端に、丸められた御座と、満杯のゴミ袋が幾つも転がっている。
 昨夜は宴会だった。考えてみるに、弾幕ごっこの流れ弾に巻き込まれた連中が、根こそぎ意識を刈り取られ、そのまま夜明けを迎えた……概ね、そんなところだろう。
 通例として、目が覚めた者は、ある程度片づけの手伝いを済ますと、重い身体を抱えて仕事に戻って行く。それにならって私も詰所に向かおうとしたが、後ろから何者かに肩を掴まれ、止められた。
 顔を向けると、不気味な程の笑顔と対面する事になった。そのまま、親指を使って視線を誘導される。
 その先には、気絶した早苗さんがいた。
 御座の上に寝かされている。所々衣服が破れ、淡い緑の髪が砂で汚れていた。
 上着を脱いで早苗さんに被せ、立ち去ろうとする。が、案の定、止められる。
(誰かの差し金か)
 無視してそのまま帰ろうとするも、一歩も前には進めなかった。
「お偉いさん方のご機嫌をとるには、うってつけなんじゃないか?」
 振り返らず、言葉を続ける。
「山の未来を真摯に考えるお前達の方が、対応するに相応しいと、私は思うんだが?」
 振り向いて、手を解く。
 掴んでいたのは、知り合いの山伏天狗だった。
「言葉というのは情報伝達において重要な位置を占めるが、今、この場においては誤解を生むだけだ。現状を察して欲しい」
 面と向かえば、笑顔は止んでいて、眉間に皺の寄った不愛想な顔があった。
 その方が、彼女らしい。
「そうやって皆が黙って、多くの苦しみを生んだ時代があった。その事について、どう考える?」
「どんなに言葉を凝らした所で、根源的な苦しみが消える事はない。先を見据えた上での結果だったのだろう」
「まるで他人事のような言い方だな」
「まさか。他人事なわけがない。それはお前もよく知る事だろう?」
「知りたくもなかったがな」
「そう噛みついてくれるな。人間の娘を一人介抱するだけの事に、何をそんなに突っかかる?」
 確かにそうだ。
 しかし、胸に引っかかる事があった。
「何故、私なんだ?」
 愚直な問いかけだった。言った自分が、そう感じてしまう程に。
「なるほど。白狼天狗というのは、目は良いらしいが、物事を判断する力はないらしい……だからこそ、過去に、大きな混乱を生んだのだろうな!」

 白狼天狗が生んだ混乱……。

 ――椛は優しすぎるんだよ。そんなに気をつかわなくたっても、案外、なんとかなるもんよ?

 対立。陰謀。争い。

「いや……失言だった。忘れてくれ」

 仲間同士で……。

「……あれは、当時の世が、荒んでいただけの事だ。お前達に、我々の何がわかる?」
「確かにな……どうであれ、昔の話だ」
「…………」
 彼女は、一瞬だけ遠くに目を向けた。
「そろそろ、連れて行ってはくれないか? 率直に言って、不毛なやり取りだ」
「……わかった」
 早苗さんを見る。余程疲れが溜まっていたのか、少しの騒ぎでは目を覚ましそうにもなかった。
「今は、皆が平穏を満喫している。犬走、私だって、移り変わったこの時代を良しとしているんだ」
「……ああ」
「過去がどうあれ、な」
「知ってるよ」
 式神を詰所に飛ばし、倒れている早苗さんを抱え上げる。
「まだ、忘れられないのか?」
 視線が、私の胸元に向けられている。
「さあな」
 自宅に向かう為、空へと飛び立った。
(変わっていないな……)
 先程の山伏天狗は、幼い頃には、川でよく一緒に遊んだ仲だった。先の抗争では敵同士となり、争いが終結した今も、疎遠の状態が続いている。
 戦いが始まったその時から、彼女は幼馴染ではなく、山伏天狗となった。時代が移り変わってもなお、変わる事はない。

    *   *   *

 時々、大天狗様の家に招かれる事がある。招かれる理由には主に酒が絡むが、しかし私が知る限り、大天狗様の家に招かれる理由はもう一つある。
 それは密談。そうは言っても隠密に行われるものではない。暗黙の了解によってのみ、その隠匿性は守られている。

 ――東風谷早苗に接近しろ。

 大天狗様は、そう私に命じた。
 東風谷早苗とは、河童のにとりを通じて親交がある。しかし、それだけで私に役が回ってくるとは思えない。適任なのが一名。頭の中に、忌々しい鴉天狗の顔が浮かぶ。
 それなのに、下っ端の私にお鉢が回ってきた。すなわち、誰かのくだらない事情に巻き込まれている……。そんな予感が拭えない。

 くだらない事情……。

 こういった事は、私を含め、仲間の誰もが経験してきた事だ。しかし、幻想郷に移り住んでからは一度もなかった。それが今になってやってくる?

 ――やっぱ私、皆のいる、この山が好きだな。

 末端には末端なりに見えるものがある。
 これは明らかに、愚かな選択と言えるだろう。

    *   *   *

 眠り続ける早苗さんを自宅まで運び、破れた衣服の代わりに自前の着流しを着せて、布団に寝かせた。髪に付着した砂は、濡れた手拭いで軽く拭いて落とした。
 呼吸に合わせて、かけ布団が上下する。吐息には酒気が混ざり、昨夜の状況が伺える。
 人間は脆い。まるで幻のように、目を離せばすぐに消えていく。
 だからこそ、丁重に扱わなければならない。

 ――人間はねぇ、夢みたいなもんなのよ。

 そう言った彼女も、今はもういない。
 昼餉の用意を始めた頃に、寝床から、布が擦れる音が聞こえてきた。作業を止めて様子を見に向かうと、早苗さんが、手で顔を覆って唸っていた。
 用意していた水を差しだすと、緩慢な動きでそれを受け取った。
「……ここは?」
 掠れた声で、早苗さんは呟いた。
 一口だけ口に含むと、容器を枕元に置く。
「お加減は如何ですか?」
「……椛さん? どうしてここに?」
「ここは、私の家です」
「……なるほど。奇跡を起こす力も、酔いには勝てませんでしたか……」
「今は正午です。何か、お腹に入れておいた方が良いでしょう。昼餉を用意しておきます。よろしければ、召し上がってください」
「……ありがとうございます」
 休んでいるよう伝え、台所に戻る。
 山で採れた茸や山菜、それらを使って味噌汁を作るつもりでいる。材料だけは揃えたが、普段料理を殆ど作らない為、何から始めれば良いのかさっぱりわからない。
「出汁でもとるか……」
「あのー……」
 寝床から抜け出た音は聞こえていた。
 青い顔をした早苗さんが、おずおずと台所に入ってくる。
「如何しました?」
「何か手伝える事はありませんか?」
「まだ顔色が悪い。ゆっくりお休みください」
「……そうですね。折角ですから、お言葉に甘えさせて頂きます」
「ご自愛下さい」
 鈍い足取りで戻って行った早苗さんだったが、すぐにまた起き上がってきたのがわかった。
「何を作るんです?」
 深く息を吐く。
「味噌汁でも作ろうかと」
「これはどうも。はあはあ。椎茸を使うんですね」
「ええ、まあ」
「天然食材ですか。幻想郷というのは本当に……ッ。あいたたた……」
「やはり無理をなさらず」
「平気です」
 早苗さんは、台所を歩き回って見物を始めた。
「ヴァーチャルテクノロジーによって、様々な体験が簡単にできるようになりましたが、幻想郷に来て思い知らされました。やはり、生での体験というのは、常識を変えるのです」
「簡単なぐらいが、丁度良いかもしれませんよ」
「そうですか?」
「経験が積み重なっていけば、それが重くなるものです。荷物は軽いに限るでしょう?」
「なるほど。そう言われると、そうなのかもしれませんね」
 現人神として、こうして目の前にいる早苗さんは、これからたくさんの荷物を背負っていく事になるのだろう。
「……すみません。年寄りみたいな事を言ってしまいました」
「いえ、そんな事はありません。椛さんとはあまり話す機会はありませんでしたから、こうしてお話しできて嬉しいです」
「そうですか?」
「はい」
「…………」
「…………」
 それから、長い沈黙が続いた。

 ――椛は真面目だねぇ。冗談くらい言っても良いんじゃない?

「あのー」
「はい?」
「いつ始めるんです?」
「……もう始めてますが?」
「えーっと、天狗の事情というのはよくわからないんですが」
「ええ」
「きっと、椛さんはこれからお仕事ですよね?」
「それはもちろん」
「だったら、さくっと済ませれば、さくっとお仕事に戻れるんですよね?」
「そうですね」
「では、お手伝いしましょう」
 若干の間が流れる。
「しかしそれは」
「正直、見てられません」
「いや、まあ……」
 焦れったくなったのか、早苗さんは包丁を手に取って、まな板に材料をのせて切り始めた。
「お湯、沸しといてください」
「いえ、私だけでも大丈夫ですから。早苗さんは休んでいて」
「椎茸も、水に漬けといてくださいね」
「…………」
 黙って台所を明け渡した。
「やっぱり天狗なんですねぇ」
「そりゃそうでしょう」
 そこから先は、円滑に事が進んだ。
 結果だけ言えば、早苗さん主導で出来上がった味噌汁は、椎茸の香りが良く効いていて美味しかった。
「申し訳ありませんでした。結局、殆ど任せてしまって」
「まあまあ、そう畏まらないでください。これぐらい、お世話になったのですから当然です」
 顔色が幾分か戻ってきたようだった。
「そう言って頂けると助かります」
 恐らく、普段から料理しているのだろう。二日酔いで鈍い動きでありながらも、慣れた手つきで作業を進めていた。
「こんな美味しい味噌汁は初めてです」
「嫌だなぁ、お世辞ですか?」
「……本当ですよ」
「実はですね、この味は、諏訪子様直伝なんですよ」
「え? 洩矢様の?」
 八坂様の早苗さんに対する過保護ぶりはよく聞く話であるが、洩矢様もとは。
「最近、稽古を付けて頂くついでに、教えてもらってるんです」
「それはなんというか……早苗さんは、洩矢様の事を、どう考えておられますか?」
「諏訪子様の事をですか?」
「そうです」
「はあ。そりゃまあ……家族みたいなもんですかね?」
「…………」
「私、変な事言いましたか?」
「いえ。すみません。不快にさせましまいましたね」
「不快? 椛さんは、何か私を不快にさせるような事をしたんですか?」
「え? いや、そのような事は」
 早苗さんは私の言葉を気にした風もなく、朗らかに笑った。
「それにしても、新鮮ですねぇ」
「何が、ですか?」
「実はですね、家以外で料理を作るのは滅多にないんですよ」
「はあ」
「例えばの話なんですが」
 目が合わさる。
「私は、信者の方々と、もっと気軽にお話しが出来るようになりたいと思っています」
「ええ」
「椛さんはどう思いますか?」
「私、ですか?」
「ええ。率直な意見を伺いたいです」
「私は……」
 言葉が出てこない。
「すみません。考えた事もありませんでした」
「なるほど」
 一つ、相槌が打たれる。
「椛さん。常識は覆るんですよ」
「…………」
 頭が堅い。そう言われた気がした。
「この山って閉鎖的ですもんね。覚えてます? 椛さん達、私達がこっちに来た時に、真っ先に襲い掛かってきましたよね?」
「哨戒ですから」
「驚きましたよ」
 真っ直ぐと、目をこちらに向けてくる。
「神奈子様は仰ってました。再び信仰を集める事ができれば、この幻想郷で新たに国を作れると」
「…………」
「実の所、私としては、ただ皆さんと仲良くしていたいだけなんです。信仰を基点に、いずれは手を取り合えれば良いと思ってます」
 彼女は、照れ臭そうに俯いた。

 ――そりゃあ、美味い煙草が吸えるってだけじゃ、世の中、回らないよね……。

 危うい……。
「諏訪子様には、畏れられるようになれ、と言われました。今の私では、まだまだ稽古不足です」
 歴史に埋もれるはずだった存在が、こうしてここにいる。
「お世話になりました。椛さん、お仕事、頑張って下さいね」
 歪な形をして。
「はい。ありがとうございます」
 神に愛された少女は、私の返事を聞くと、残りの汁を一気に啜った。





 取っ手を捻って窓を開けると、やんわりとした風が顔にかかった。階下から、酔っ払い達の陽気な声が洩れて聞こえる。
 徳利と御猪口を持ったまま、窓枠に肩肘を乗せて、二階から見える景色を横目で眺める。
 階段から、大天狗様が上がってくるのがわかった。
「調子はどうだ?」
 杯片手に、間合いの外から言葉が交わされる。
 今宵は、大天狗様の私邸で哨戒天狗を集めての親睦会が開かれている。一階の窓越しに、宴会で騒ぐ同僚達の様子が伝わってくる。
「索道の件か。そうだろうな。いや、お前達の気持ちはわかる」
 大天狗様の邸は山の中腹に位置しており、窓を覗けば、下の方までよく見えた。
 遠くには、幾つかの光点が散らばっている。それは、哨戒天狗達が発する光だった。各々を識別する為、夜光塗料が塗られた腕章を着用するよう義務付けられている。
「だが、守矢神社との関係もある。いずれ話をつけねばならんが、まだ急ぐべきではない」
「恐れながら……そう仰らずとも、仲間達は皆、耐え忍んでおります」
「はっはっは。いや、すまん。まあ、そうだろうな」
 杯に酒が注がれるが、手元が見えていないのか、床に盛大に零している。
「犬走よ! 色気が足りんな!」
「はあ」
「それでは生き辛いだろう」
「そのような事はありませんが……」
「いいや、ある!」
「…………」
 右に左に、前後にと、大天狗様は辺りをうろつき始めた。
「色気というものはな、このぐにゃぐにゃとわけのわからん現実を、一時忘れさせてくれるものなのだ」
「飲み過ぎです、大天狗様。私には」
「必要あるさ」
「……どう必要なんですか?」
「何を今さら。理由なんて、そんなにわかりやすくぶら下げてあるじゃないか」
「…………」
「はっはっは」
 大天狗様は、窓に近づき、月を眺めた。
「なあ、犬走よ……アンドロメダーが悲しい存在だとすれば、それは何故だと思う?」
「……私事で恐縮ですが、それは、あそこで輝いている星々が、こちらの都合で象徴とされてしまった事でしょう」
 象徴……寓話……定められた役割……。


 ――椛、忘れないで……作られたものにだって、先を歩む権利はあるのよ。


 宇宙に散らばる、未だ発見されていない無数の星々。それらは、ただそこにあるだけなのだ。
 並々注がれた酒を呷り、
「これはまた、悲観的な考え方だな」
 大天狗様は顎をさすった。
「では、女子にとっての幸せとは、一体何だと思う?」
「お言葉ですが大天狗様、明確に形を与えられる事が幸せとは限らないのではないでしょうか」
「足りん! 色気が足りんぞ、犬走! それでは女子は食いつかんぞ!」
「承知致しました」
「いや、いい!」
 窓から、ひんやりとした夜風が入ってくる。火照った体には、心地良かった。
「組織を重んじる天狗にとって、個よりも全が重視される。色気とは! 他人にとっては未知なる個の領域! なあに。ただのたわごとだよ」
「この犬走椛。望まれるなら、役者にでも何でもなりましょう」
 酒で淀んだ目が、こちらを見つめてくる。
「はっはっは! 負けず嫌いな奴だな、お前も。いいさ! いい! お前はそのままが良い!」
「左様でございますか」
「ふははっ。素っ気ない女だな!」
「…………」
「犬走よ! 聞け! アンドロメダーが悲しい存在ならば、その理由を、私ならばこう答えるっ」
 大天狗様は、窓の外に半身を乗り出し、天に乾杯を捧げると、
「酒のない人生などまっぴらだ!」
 一息に中身を呷った。
「お前達は頑張ってくれているよ。その、芯の通った真っ直ぐさを、私は評価している」
 迷いのない澄んだ目を横目で覗きながら、昔の大天狗様の事を思い出していた。まだ、天狗同士でいがみ合っていた頃の、大天狗様を……。
「……ご厚意、痛み入ります」
 歯が浮くような台詞だと思った。
 芯などありはしない。そんな者達は、皆、戦場に散っていった。今の私達は、死にぞこないに過ぎない。
「犬走、今も昔も、変わらない事がある。それは、何だと思う?」
「……鴉天狗の、低脳さ」
 先の言葉を訂正しよう。仲間達は、今も立派に生きている。くだらない存在は、私だけだ。
「そう。老若男女問わず、酒は楽しく飲むのが一番という事だ!」
 そうして夜が更けていった……。





「ねえ、椛ったらー。将棋以外も何かやろうよー」
 丁度、三局目に指しかかろうとした所で、にとりがそのように提案をしてきた。
 こいつは、平然と何を言うのだろうか。将棋以外……それが何を示すのか、にとりの背後に広げられた機械の群れが教えてくれている。何よりも、
「たまにはいいじゃんかー」
 にやけ面を隠せていない。
「…………」
「ねー、やろーよー。絶対楽しいって!」
「にとり」
「ん?」
 駒を配置する手を止めた。
「ありがとう」
「は?」
 彼女が私の家にやってきたのは、鴉天狗が朝刊を強制的に投函するより前だった。無論、何かしらの企みがあるのは手に取る様にわかる。しかし、それだけではない事を、なんとなく感じていた。
「いきなり何さ? 気持ち悪いなー」
「感謝の気持ちを伝えただけだろ?」
「覚えもないのに感謝されたって、不気味なだけだよ」
「そうでもないさ。本当に、お前には感謝が絶えん」
「あ、そうやって誤魔化そうとしたって、そうはいかないんだからな!」
「誤魔化してなんていないさ。本当の事だ」
「へぇー? あ、そうそう。今日、これから客が来るから、よろしく」
「は? 初耳なんだが」
「そりゃ言ってないからね」
 客が来るのは構わないが、持て成す準備はできていない。そもそもが、私の家に来ようとする者など、にとりぐらいしかいない。
「誰が来るんだ?」
 そう尋ねると、にとりはこちらの反応を伺う、嫌らしい笑みを浮かべた。
「誰だと思う?」
 捻った頭に、ある鴉天狗の顔がよぎった。
「おい、まさか」
 続きを言いかけた所で、室内の空気が動いたのを感じた。
「これはこれは、射命丸様。いつもごひいきに」
「どうもどうも。毎度お馴染み、射命丸です。お二人とも、いつもお世話になってます」
いけ好かない薄ら笑いが、こちらを向いている。
「まあまあ、こんな狭っ苦しい場所で申し訳ありませんが、ささ、どうぞどうぞ。おくつろぎくだせえ」
「あやややや。これはどうもどうも」
「おい」
「何? どうしたのさ、怖い顔して」
「……いや、いい」
「無暗やたらに牙をむくのは品がないですよ」
 射命丸様は、私達の向かいに腰かけ、意味を含んだ視線を投げかけてきた。
「一途に勤労なさい。それが品性を磨く近道です」
 茶を催促されている。反抗しても面倒なだけなので、すぐに台所へ向かう。
「あ、そうそう。ところで、にとりさん。頼んでおいたものですが、どんな塩梅ですか?」
 背中の方から、話し声が聞こえてくる。
「へえへえ。部品自体は用意できたんですが、どーにも難儀してまして」
「そんなに大変なんですか?」
「いやいや、使う方が射命丸様ですから、調整に迷ってるんですよ」
 文々。新聞の目玉と言えば、弾幕写真である。それらを撮影する為には、並の機材では用を成さない。
「普通に使えればそれで良いですよ」
「いやいや、普通なんてのは面白くもない! 一流の記者様には、一流の道具を持っていて頂かないと」
「あやややや。ほめ過ぎですねぇ」
 それまでのおどけていた様子とは調子を変えて、
「実は、鳥獣伎楽とプリズムリバーを取材する必要がありましてね。そう仰るなら、良い仕事を期待してますよ」
「へへぇ、承りました」
 人数分の湯呑をちゃぶ台に置き、二人に近づける。
「おや? コーヒーはないんですか?」
「嫌なら結構。鼻の利かない鴉に、何を出しても変わりませんから」
「剣呑ですねぇ。それでは、心の貧しさを露呈しているようなものですよ?」
「それで」
「ぬるい茶ですねぇ」
 湯面を眺めると、
「入れた者の細かい性格が伺えます」
 そう言って、もう一啜り。
「まあ、悪くないですがね」
 仕方なしに飲んでやっているという体。
「うん、悪くない」
 駄目押しの、もう一声。
「……それで、何の用なんですか? ていうか暇なんですか?」
 恐らく、あちらから本題に入る事はない。こちらの反応を見て楽しむのが、いつものやり口である。
「おー恐い恐い。暇なのは貴方だけでしょうに」
「そうだそうだ。射命丸様の言う通り! 私達は暇じゃないんだ!」
「はいはい、余計な一言でした。で、どのようなご用件でしょうか。どうか暇な私めにお教え下さい」
「よろしい。お答えしましょう」
 射命丸様は、残った茶を一気に飲み干した。
「腐ってるようでしたので、いっその事、国家転覆でも図ってみたらどうかと、すすめに来ました」
 空いた器に、熱々の茶を入れてやった。
 それを射命丸様はズズリと一口。
「お、やはりこうでなくては」
「茶番はこれまでにしませんか?」
「はて、茶番とは?」
「目的は何ですか?」
「伺っていませんか?」
 片目がちらりと、にとりを覗く。
「にとり?」
 にとりは、降参したように両手を挙げた。
「私はただ、彼女から相談を受けただけですよ」
「当人を除いて、ですか?」
「おやおや、随分と余裕がありませんねぇ?何をそんなに気張っているのです?」
「貴方の事は信用できない」
「何故です?」
「それは」
「椛」
 それまで黙っていたにとりが、口を挟む。
「今ここで、昔の話を蒸し返そうってんなら、筋違いだよ」

 忘れられるものか。

 過去の記憶が再生される。

『やめなさい、危険よ』
『何故、行かせたんです⁉ こうなる事は、わかっていたんでしょう⁉』
『彼女の意思よ』
『意思? 馬鹿な! あれは、自己犠牲に浸っているだけだ!』
『だからどうしたの?』
『どいて下さい。まだ間に合う』
『駄目よ。天狗なら、仲間の矜持くらい守ってやりなさい』
『そんなの関係ない‼ 私が、あいつに死んで欲しくないんだ!』
『残念だけど通すわけにはいかない。彼女に頼まれたからね』
『……力づくで通して頂きます』
『いいわ。きなさい』
『――ッ!』
『約束だから』


 背後から気配を感じ、顧みると、にとりが帽子のようなものを私に被せようとしていた。
 やんわりと後ろ手で抑える。
「何してる?」
「面倒だから、爆発させようと思った。今のあんた、すごい嫌な感じだよ」
「……必要ない」
 掌で、機械を押し返す。
 パシャリ。
 間髪置かずにフィルムを巻き取る音が聞こえ、再度、シャッターが切られた。
「悪趣味ですよ」
「チャンスは一瞬ですから」
 フィルムが巻かれる。
「あらゆる視点から幻想郷の少女達を撮るのが、私の仕事です。貴方方の関係は、残すに値するものだと判断しました」
「貴方が、それを言うんですか?」
「無論。過去なんてものは、笑い話に変えてやるのが一番です。笑って、馬鹿やって、そんな場面を写真に残していって。最後にはそれを眺めて、あー、こんな事もあったなぁって、懐かしんでやるぐらいが良いんですよ」
「酒の肴って事ですかい?」
「そう。たまには、記事にでもしてあげましょう」
「遠慮しておきますぜ」
「あやややや」

 ――私は平気だから。

「やっぱり、貴方の事は嫌いです」
「正直で結構」
 急須に湯を注いだ途中で、ポッドの中身を使い切ったようだった。
すぐに台所に向かい、準備を始める。
 ポッドを開けた時に見えた自分の姿が、ぼやけて見知った誰かの顔に見えた。同じ白狼天狗の仲間。かつて一緒に過ごした、同志。
 しばらく、そうして湯面を眺め続けた。

    *   *   *

 あれはまだ鬼が去って間もない、山の権力争いが盛んだった頃、天狗は河童に兵器開発を依頼していた。小さな山の中で激化していく戦いに、当時は共倒れを予想する者もいた。
 にとりはたまたま、私が所属していた部隊のメカニックで、楓や風樺と一緒に話をする機会があった。楓とは相性が悪かったようで一歩引いて付き合っていたが、私と風樺とは馬が合ったのか、私に至っては今でもこうして親交を重ねている。

 ――機械ってのはさ、シンプルなんだよ。

 にとりはその頃から、よくそう口にしていた。

 ――良いねぇ。物事をシンプルに考える事ができれば、きっと見えるものが変わるよね。

 風樺は、天狗にはない視点を持つにとりの事を気に入って、よく話しかけに行っていた。
 戦いの合間に、待機所の床ににとりの発明品を並べて、仲間内だけのささやかな品評会を開いていた。その時も、にとりは私達を実験台にしようとしていた。
 当然、引き受け手は殆どいなかった。唯一好意的に協力していたのが、風樺だった。その彼女も……今は……。

 ――ねえ、皆でお守り作ろうよ。

 ――いいねえ。どうせだから、格好いいのにしようよ。

 それぞれの髪の毛を、溶かした鉄に入れて固めた。絆の証。

 ――全く、年甲斐もなく何やらせんだよ。

 楓は、表面上は仕方ないといった風にしながらも、いつも身に着けていた。風樺がいなくなるまでは。
 にとりは、戦いの中でなくしてしまったらしい。
 私は……。

    *   *   *

 昼に差し掛かる少し前。
 大剣を手に、哨戒とは名ばかりの、待ち伏せをしている。千里眼で見た先には、守矢神社で境内の掃除をする、早苗さんがいた。
 尻尾の先が、チリチリと逆立つ。
 不可侵の領域に入ろうとする事への、抵抗。既に、あちらには気付かれているのかもしれなかった。
 索道の件が、血気盛んな白狼天狗達をいきり立たせていた。上から、徹底抗議の許可が下りないまま、今の今まできた。このままでは、暴動が起きかねない程になっている。
 誰かが、人柱になる必要がある。
 掃除を終えると、早苗さんは、決まって人里へと赴く。そこが狙い目だ。
 ドッグタグを握り締める。仲間達との、些細なやり取りが思い出された。皆、妖怪らしく、酷い奴らばかりだった。それでも、楽しい時間が、そこにはあった。
 妖怪は、人間を喰らう。そんな当たり前な事さえも、今は遠い出来事のように思える。
 境内を吐き終えた早苗さんは、箒を置きに母屋へと向かった。これから出かける準備をするのだろう。
(そろそろか)
 紅葉の紋様が見えるように、盾を動かす。
 今日の手入れは、念入りに行った。随分使い込んでいるから、細かな傷が残ったままである。自分専用というだけで、僅かな愛着が生まれていた。
 鮮やかな赤には、きっと映えるだろう。
 自然の摂理に基づいて、人間に牙を剥く。
 そして、牙を剥いた妖怪は、退治されるのだ。
 木の頂上に足をかけ、機を伺う。もうすぐ、終わる。こんな機会は、これから先、二度と訪れる事はないだろう。やっと、終わるのだ。
 早苗さんが母屋から出てくる。そうして鳥居をくぐる。
 一足飛びで、間合いを詰めようとした。
 しかし――
「よせっ‼」
「――ッ」
 咄嗟に突き出した盾が、相手の錫杖と重なり合う。
「邪魔をするな!」
 かつての幼馴染が立ち塞がっていた。
「持ち場に戻れ! こちらに、お前が進むべき道はないっ」
 人里に到着してしまえば、手出しができなくなる。そして、こうして襲撃しようとしたのを報告されてしまえば、次はない。
「なるほど……またこうなるわけだ」
「剣をおさめろ! この山を危険にさらす気か⁉」
 風に巻かれた木の葉が意思を持って、障壁となった。呪法によって、この山全体が、私を包囲している。
「最初から、信用されていなかったという事か」
「喋るな」
「長老達の命令か? それとも、大天狗様が手回しでもしたか?」
「黙れ!」
「どちらにせよ、報告するのなら、変わりはしないだろう」
「…………」
「何故、私なんだ?」
「何?」
 愚直な問いかけだった。
「私が選ばれた、本当の理由は何だ?」
「答える義務はない」
「教えてくれよ、鈴鹿」
「……お前」
 一瞬の動揺につけ入り、盾を投げつける。盾の裏側には、私の妖力に反応して作動する爆薬が仕込まれている。
「――チッ!」
 爆風によって、木の葉が散った。
 早苗さんは、まだ麓の所にいる。
「やめろ椛! もう昔の事だろ⁉」
 一目散に、隙間を駆け抜け、両手で柄を握り締める。最高速に差し掛かった所で、何もかもを忘れた。
 誰に、剣を振るうのか?
 何故、剣を振るうのか? 
 今度こそ。
「…………」
 本能が、私を失速させる。
「……駄目だ」
 全身の毛が、恐怖で逆立っていた。
「気付いていたんだろう?」
「…………」
 蛇に睨まれた蛙。もっとも、向こうはこちらを相手にもしていないようだが。
「手間をかける」
「いいさ。幼馴染のよしみだ」
「懐かしいな……。お前には、よく川に突き落とされた」
「何処へでも、突き落としてやる」
「嬉しいね」
 人里に到着した早苗さんを見届けて、私は、千里眼を解いた。





 長い長い非番の日々。
 ある日、自宅の庭で鍛錬をしていると、早苗さんが訪ねてきた。
 家に上がってもらおうとしたが、それは遠慮されたので、縁側に腰を落ち着けて話す事にした。
 流した汗を庭の水道で流していると、
「わ、椛さん。びしょびしょですよ」
「放っておけば乾きます」
「床が痛みますよ?」
「天狗には無用の心配です」
「はあ、まあ、そうですか」
 先日の件を引きずっているのか、彼女は居心地悪そうにしている。
「それ、どこで売ってるんですか?」
「え? ああ……」
 濡れた頭を手拭いで拭きながら、
「知り合いが作ってくれたんですよ」
「手作りなんですか? へえ。お洒落な方なんですねっ」
「そういうわけではないんですが……」
 手拭いを傍に置いて、上着を羽織る。
「それよりも、今日は突然、どうなさったんですか?」
「え? まあ……」
 歯切れの悪い返答に、首を傾げるばかりだった。
「にとりさんからですね、お話を伺ったんですけど……」
「にとりから? 何をですか?」
「ま、それは置いといて」
「はい?」
「新聞というのは、使い道がたくさんありますよね?」
「は?」
「油を使った料理の後片付け、物を運ぶ時の梱包材、冬場においての断熱材。活用方法は様々です」
「そりゃそうでしょうね」
「椛さん」
「はい?」
「外の世界で、ゴミの問題が深刻化しているのはご存知ですか?」
「はあ……まあそれは知識としては知っていますが」
「私も人間ですから、ゴミを出します。人の数だけ、ゴミは生まれるのです」
「ええ」
「しかし、神がおわす国において、そのような問題が横行してしまうとは嘆かわしいと思いませんか? 神とは? 信仰とは? 見えるものだけが、信用に値するものなのでしょうか?」
 その話は、今、必要なのだろうか……?
「いやまあ」
 早苗さんは、腕を組んで座り直した。
「かつて私が読んでいたオカルト雑誌に、月には高度な文明が存在したという都市伝説が取り上げられていました。しかし夢は夢。人間は現実に生きるべきではないかと、私は思います」
「そうは言っても、人が現実に生きたからこそ、こうして幻想郷があるのでしょう?」
「その通りです。諏訪子様は仰ってました。畏れられるようになれ、と。畏れこそが、現実を生むのだと」
「洩矢様が、ですか」
「つまり、人が現実を見るには、畏れが必要だという事です」
 俯いた彼女は、うんうんと頷いている。
「椛さん、私は怒ってるんですよ?」
「はい?」
「あとちょっとで、フジヤマヴォルケイノでした」
 フジヤマヴォルケイノとは、藤原妹紅のスペルカードである。
「フジヤマヴォルケイノ、ですか?」
「大人の事情ってやつは、いつもややこしいものですからね」
「えーと……」
 幼い頃、二柱を見聞きする事ができた早苗さんは、周囲からは利用価値のある存在だったと聞いた事があるが。
「文さんのとこの記事です。一度読んでみて下さい」
 懐から切り抜きを出し、こちらに差し出してくる。しかし、受け取る気にはならなかった。
「……何故ですか?」
「読めばわかります」
 仕方なしに受け取って、文面に目を通す。そこには、索道の件が載っていた。
「椛さんって」
 視線を上げると、早苗さんは空を眺めていた。
「はい、何でしょう?」
「自分が今、どんな目をしているか、わかりますか?」
 足をぶらぶらさせながら、何となしに聞かれる。
「何ですか? 突然」
 にとりが話した内容と言うのも、それでわかるのだろうか?
 すると、
「答えて下さい」
 唐突に、疑いのない、緑色と目が合った。
「いや……」
 急速に、距離を縮められた気がした。
「急にそんな事言われましても」
「なるほど。わかりました。椛さん、宣戦布告です!」
 何なんだ、一体?
「あのー……」
「それじゃあ、私は言いたい事は言ったんで、帰ります。お話し、付き合って頂いてありがとうございました」
 そうして、早苗さんは帰っていった。
 気になって、部屋に置いてある姿見を覗くと、目つきの鋭い散切り頭の自分が映っていた。
「…………」
 本当に、何だったのだろうか?





 哨戒に就く前には、必ず装備が適切に使用できるか点検する事になっている。自分の点検が終わった後、当日の相方にも不備がないかもう一度確認してもらう。そうして問題なしと判断された時、任務につく。
「ほらよ」
 相方から手盾を渡される。表面に紅葉の紋様が施された、私専用のもの。久しぶりの感触に、懐かしさを覚えた。
それから、刀装を渡された。
「ん」
 任務で使用する剣と盾は、管理のしやすさもあって、温度・湿度が調整された詰所の倉庫に預けられている。
「そろそろ一斉手入れの時期か」
 自分の盾と刀装を立てかけて置き、相手のものを見つけ、渡した。
「どーも」
 渡した盾には、楓の紋様が施されている。数多い備品を見定めるにあたって、こういった区分けが利便性を高めている。
「にしても、もう、そんな時期かよぉ」
 哨戒天狗には、季節の変わり目に備品の手入れを行う習慣がある。
 二人で部屋を移動し、刀身の確認に取り掛かった。
 手盾と刀装は、廊下に設けられた指定の場所に一時置いておく。
「お先に失礼しまーす」
 この時間の詰所は、入れ替わりで混雑していて騒がしい。倉庫に入ってから、そんな声がちらほら聞こえてきた。
「だりーなー」
「まだ始まってもないだろ」
 錆、疵、その他故障がないか確かめる。
「昨日、ライヴで盛り上がっちまってな」
「誰が来たんだ?」
 問題がないのを確認し、元の場所に戻す。
「プリリバ」
 楓は既に作業を済ませていた為、点検が終わった刀身を持って部屋から出た。
「ああ……」
 毎年紅葉の時期になると、秋静葉様が紅葉狩りを主催する。そこで、紅葉した山を背景に、幽霊楽団による幻想の音楽が催される。
 失われた音の再現。酒の肴には打ってつけである。
「途中で、夜雀と山彦が乱入してきて、会場全員を巻き込んでの大乱闘。血が滾ったぜ」
「そんなんで大丈夫なのか?」
「さすがの私でも、お前には言われたくねーよな?」
「…………」
 中での作業を終えて出てきた楓に、刀装を装着したものを渡す。
「何かしこまってんだよ? 心配すんな」
 相手からも、自分の分を渡された。
「そうか」
 互いに点検を済ませ、交換した。
 宿直室に移動を行い、宿直者に結果を報告し、日誌と腕章を受け取った。
「お気をつけて」
 定例の挨拶を済ませ、交代まで詰所で待機する。
 待機所の床には、いつ始めたのかわからない大将棋が途中で放置されていた。恐らくは、後からやって来た別の誰かが続きを進めていくだろう。そうして対局が終われば、別の誰かがまた対局を始める。
 楓は、懐を探って何かを取り出した。
「おい、外で吸ってこいよ」
 楓は愛煙家である。勤務が始まる前に巻き煙草で一服するのが、幻想郷に移り住んでからの習慣となっているようだ。彼女は臭いの濃い煙草を好んで吸い、他の白狼天狗からはひんしゅくを買っている。
「へいへい。わーってるよ」
「遅れるなよ」
 彼女と組む時には、いつもこの時間に改めて装備の点検をする事にしている。が、
「……あんたも来いよ」
「何? 何で私が?」
 水気の多い場所は適切ではない。
「ここじゃちょっと言いにくい」
「……わかった」
 結局、外に出る羽目になった。
「それで、何の用だ?」
 出入口から出て、少し離れた所の乾いている壁にもたれて座り、点検を再開する。
「ああ。まあ、ちょっとな」
 楓は、立ったまま背中を壁に預けて煙草を吸っていた。
「……そんなの、拘ってたってしょうがないんじゃないか?」
 現在の管理体制は効率的とは言えず、不満の声が多い。これは上層部との認識の差から生じるもので、最新技術を用いた快適な職場と謳われてはいるが、実際には、その最新技術の為に我々の仕事が増えているのが現状である。
「私は拘るんだ」
 紫煙が吐き出される。楓の愛飲する煙草特有の、甘い匂いがこちらにも届いた。
「あの時は、悪かったな」
「あの時というのは?」
「ああ、そうかい……」
「ぬぬぬ」
 握りの部分が、どうにも気になる。
「……そんなもん、テキトーにやりゃあ、誰かがどうにかしてくれるよ」
「長く使えば手足も同然。無下にはできん」
「そうですかっと……」
 大気に煙が溶けていく。
「煙を嗅がせるのが、お前の謝罪か?」
「そうしてもらいたいんなら、幾らでも嗅がせてやるよ」
 もう一度、念入りに確かめていく。二度手間になろうと、気にはならなかった。
「まあいいや」
 吐いた息そのまま、声が漏れ出ていた。
「そういやあんた、最近、暇そうだね?」
「そうでもないな」
「ふうん?」
 狭い山の中では、暗黙の了解が機能しているから普段は何も言われないが、殆ど周知の事実と言える。
「忙しいんなら、良かったね」
「……何か言いたい事でもあるのか?」
「いや、別に?」
「そうか」
 灰が無造作に落とされる。
 風に巻かれて、こちらにも飛んできた。
「おい」
「あんたにゃ……あの嬢ちゃんは殺せないよ」
 遠くに、任務を終えた帰ってくる哨戒天狗達が見える。
「突然、何言い出すんだ?」
「椛は、白狼天狗にしちゃ考えすぎなんだよ」
「何言って」
「だからいつまでも拘ってるのさ」
 吸殻を滝つぼに捨て、楓は戻っていった。
 冷たい鉄の感触を、指に感じる。私は黙って、彼女の後を追った。
 手入れを終えた、装備を見つめる。
 様変わりした妖怪の山には、変化した時代の名残がそこかしこにある。それは、足跡として、忘れられてからもなお、残り続けていくのだろう。
 楓は、過去を悔やむ事はしない。それが、彼女が選んだ生き方だった。





 あの日から、私を監視する式神の気配を濃く感じる。
「元来、自然エネルギーってのは不安定になりがちで、それのみで供給するには不安が残ります。太陽光、風力、地熱。海があったら潮力なんかありますがね、幻想郷では無理な話です。てなわけで、自然エネルギーを使って安定した供給を図ろうとしたら、大容量のバッテリーが必要になるってわけです」
 この日の非番は、にとりに連れられて守矢神社に向かっている。式神の目から逃れるよう、歩いて向かう。にとりもそれに気付いて、黙って付き合ってくれる。
「ところがこの幻想郷では、バッテリーの大容量化は差ほど重要じゃあない。自然ってのが、そこら辺を服着て歩いてるんですからね。協力を仰げれば、地上でも地底でも、電気なんて作りたい放題ってもんです」
 階段の所までくると、決まって式神は監視から外れる。守矢神社は、天狗達の間では不可侵領域となっているからだ。
「この山だって、風力や水力を利用した発電は行われています。天狗や河童には、風や水を操る能力が備わってるもんだから、文明のレベルは、人里と比べれば、格段に向上します」
 話の途中で、にとりは手で合図を送ってきた。
《もう行った?》
 彼女はいつも、用心深く確認を求める。

 視覚とは異なる器官が働き始める。
 想像を、現実に変えていく。
 妖怪、天狗、白狼天狗、犬走椛……。
 私という個人が消失する瞬間、世界と繋がる。
 この身体が、自分のものではなくなるイメージ。

 式神は、遠くの木の枝にとまっていた。
「……もう大丈夫だ」
「はあ、やれやれ。肩こっちった」
 能力を解除する。視覚を繋げた途端、目眩に襲われた。
「――ッ」
「でもねぇ、面白いのはさ、あえて夢の領域に手を出した事なんだよね」
 八坂様が謳う、核融合によるエネルギー革命。それには、技術屋である河童の手が必要不可欠である。そういう意味で、守矢神社と河童はビジネス上のパートナーとして良好な関係を築いている。
「……それは危険じゃないのか?」
「危険に決まってんじゃん。エレキテルの何倍ものエネルギーを生む為に、超高温・超高圧を利用するんだ。そりゃリスクがあるに決まってる。科学の発展への代償。まあ、そう言う事にしとこうよ。あとは神様が上手くやってくれるさ」
 エンジニアとして、八坂様の思想に強い関心を抱いているにとりだが、それが山にどのような影響を与えるかにはさほど関心がない。
「それにね、この件は今やらなくちゃあ、次はないかもよ。だったら、やるしかないでしょ」
 鳥居を潜ると、祭壇の前には、脇の部分が露出している風変わりな巫女服を着た早苗さんが、待ちくたびれたと言わんばかりに腕を組みながら、大きく仁王立ちをしてこちらを睨みつけている。
「機械技術の革新的進化。今は、その真っ只中なんだよ」
 それが実現した時、この山はどう変わっていくのだろう。
「おはようございます。お待たせして」
「遅い! 遅すぎますよ、お二人とも! それでは時代においていかれますよ!」
「おっす早苗、おはよーさん」
 途端、早苗さんの表情が和らぐ。
(『精々楽しませて頂くさ』)
 話していた時のにとりの顔は、そう語っていた。
「あ、にとりさん。おはようございます」
「時代に置いてかれるなんて心外だなぁ。私達は、常に先を見据えてるよ」
「ほほう? ならば、河童の技術に期待しておきましょうか」
「お、言ってくれるじゃん。ああ、そうそう。例の件だけど、やっぱりエネルギー変換率が段違いだったよ」
「当然です。神奈子様は仰ってました。核融合エネルギーの実用化は容易だと」
「そりゃ理論上は可能だろうね」
「引き続きお願いします。ささ、お二人とも、上がってください」
 玄関を通じて、母屋に案内される。
「これ、良かったらどうぞ。最近同僚達の間で評判の洋菓子屋のケーキです」
 これは出発直前に大天狗様から手渡されたもので、何でも若い娘は決まってこういった食べ物が好きらしいとの事だった。
「どうもありがとうございます。神奈子様、好きなんですよ、こういうの」
 評判の洋菓子屋は、紅魔館に協力を得る事で材料の入手を円滑にしているらしい。聞いた話によれば、提供される全てのメニューが、十六夜咲夜が作る味の再現という。
「意外な気がするね」
「新しいもの好きなんですよ」
 ケーキを受け取った早苗さんは、私達を先導する為、歩き始めた。
「にしても、椛が洋菓子を選ぶなんて珍しいんじゃない?」
「うるさい。今は余計な詮索はしないでくれ」
「え? どうかしましたか?」
「その洋菓子は人間達の間でも大人気で、きっと早苗の口にも合うだろうって、話してたのさ」
「八坂様や、洩矢様も、お口に合えば幸いです」
「それはとても楽しみで…あっ……」
「どうかしましたか?」
「何かあった?」
「いえ、食べた分だけ後で運動すればいいだけですもんね! 常に前向きな姿勢こそ、この幻想郷で生きていくには大事な事ですから!」
 母屋に上がり、客間に向かう。道筋は前に来た事があるので覚えている。
 台所に向かった早苗さんも、荷物を置くと、すぐに戻ってきた。
「飲むだけで痩せる水があるけど、安くしとくよ?」
 水色の小さなリュックサックから出した資料を机に広げながら、にとりは商売を持ちかけた。
「あ、それってもしかして、水素水の事ですか?」
「お、知ってんだ?」
 意外でもなさそうに、にとりが訊く。
「一時期話題に上がってましたからね。でも、本当に痩せられるんですか?」
 水素水の効果が如何程のものかは知らないが、飲むだけで痩せるというのは、良い印象を受けない。
「水素水というのは、保存状態によって水素の含有量が大きく変化するんだよ。適切な形で飲用しなくちゃ、期待した通りの還元能力は得られない。効果がなかったとすれば、それは飲んだ人の管理がずさんだったのかもね」
「はー、難しいもんなんですねぇ」
「これなんか、きちんと保存されていたものだよ」
 そう言って、リュックサックからサンプルを取り出すが、中には乱雑にしまわれた資料や、今取り出したものと区別のつかないものがあったのを、私は見逃さなかった。
「それじゃあ、作るのに苦労したんでしょう?」
「まあね」
(うそつけ)
 商売の邪魔をすると、後がうるさいのだ。
「ふーむ……それだけ取り扱いが難しいとなると……」
「ん?」
 雲行きが怪しくなってきたのを、にとりは感じたようだった。
「いくら河童の技術が高度とはいえ、保存の難しい水素を留めておくには、きっと独自の工夫が必要になるでしょう」
「あ、ああ……そうだね」
「水素……水? ああ、そういう事ですか」
《フォローを求む》
 目で助けを求められる。
「河童には水を操る力があるからこそ、保存状態を保つ事ができるのですね?」
「早苗さん。内部の事情に深入りするのは危険です」
「はあはあ。企業秘密ってやつですね」
 にとりは取り繕うように、
「まあ、早苗は水素水に頼らなくても平気そうだよね?」
「そうですか?」
「そうだよ。むしろ、もっと食べた方が良いって!」
「そんな調子の良い事言って。人間というのは、すぐに太っちゃうんですからね」
「飢えているよりは良いのではないですか?」
 救いを求め、それが与えられなかった者達が、そこかしこに転がっていた時があった。人間がただの物に変わる時は、簡単に訪れるのだ。
「はいはい。妖怪の方々には、関係ない話ですよね」
「そうかもしれませんね」
 廊下から足音が聞こえてくる。
 襖が開き、「お、いらっしゃい」
 声をかけられた瞬間、わずかに緊張がはしった。
 私とにとりは、頭を下げる。
「気にしないで良いよ」
 そう言われて、頭を戻した。室内だからか、八坂様は御柱を外していた。
「神奈子様も参加されますか?」
「いや、これから用事があってね。言っといた通り、今日は早苗に任せるよ」
「わかりました」
「八坂様、ちょっとよろしいですかい?」
 にとりが八坂様に伺いを立てる。
「何?」
「秋静葉様が、今度、神社を訪れると仰ってましたぜ」
「ん? ああ、もうそんな季節か」
「神饌のおすそ分けですか?」
「全く、律儀よね。気を遣わないでも良いのに」
 にとりの肩に手を乗せて、
「伝言ありがとね。今日もよろしく頼むよ」
「いえいえ。神様の頼みですからね。サービス致しやしょう」
「調子がいいのね。じゃあ、行ってくる」
「あ、神奈子様。ナスとインゲンは絶対にもらってきてくださいね」
「あいよ。ああ、それと」
 八坂様は、襖を閉めようとした手を止めて、私の方に目を向けた。
「天魔によろしくね」
「……然るべき手段で、伝達しておきます」
 幻想郷初の、発電所の建造。無尽蔵のエネルギーを手に入れ、それから何を成そうと言うのか?
「固いなー。もっとフランクにしても良いのよ?」
「いえ、そのような無礼な振る舞いは……」
「あんなに猛抗議しといて、今さら? まあいいけどね」
「…………」
「神奈子様」
「わーってるよ。じゃ、今度こそ行くよ」
 幻想郷。それは、生き延びた者達の最期の宴。私には、それで十分な気がした。
「今度はちゃんとお願いしますよ!」
「わーったわーった」
 守矢神社は、人里での信仰を得ようと積極的に動いている。最近では、人間達の中で、失われた御頭祭を復活させようとする流れすらあるらしい。
 今は、御頭祭は妖怪の山で執り行われている。天狗が中心となり、生贄である鹿の提供がなされる。
「神奈子様ってば、ああ言って、いつも違ったものを貰ってくるんですから」
「ああ、そうなんだ」
 この山の御頭祭では、神事の中で、神が実際に矛を振るって鹿を獲る事から、その日の山には獣の血が濃く香る。
 今年、神事を司ったのは、当然早苗さんである。祭り上げられた風祝としてではなく、神長として、彼女は祭りに臨んでいた。
 その姿は、なんとも儚げで、なんとも……血生臭かった。





 ある日、にとりが珍しく手ぶらで私の家にやって来た。にとりは家に上がってから、ずっと畳を見つめて押し黙っている。こちらが話しかけても、一切返事を寄越さない。置物のような彼女に、対応に困った。しかし客観的にこの状況を鑑みると、笑える事に気が付いた。
「ああん? 何、笑ってるのさ?」
 気に障ったのか、沈黙を保っていたにとりがようやく声を発した。
「いや、まるで人間のようだと思ってな」
「馬鹿だなぁ。人間は、もっと面倒なもんなんだよ」
 それもそうかと、納得する。
「そうかもな」
「ふん」
 にとりは、大きく溜息を吐いて、帽子を被りなおした。
「椛さあ、早苗と喧嘩したらしいじゃん」
「喧嘩? 私がか?」
「そっ」
「そうだったのか」
「もっと情緒ってのを勉強すべきだね」
「お前に言われるとは思ってもみなかった」
「盟友の事なんだ。そりゃ、理解しようと努めもするさ」
「へえ」
 その言葉を聞いて、素直に感心した。最近は妙にがめついばかりで、こういった一面を見る機会が減っていたからだ。しかし、元々はこういう奴なのである。
「そっちがその気なら、私にも考えがある」
「何だ?」
「私は、早苗の側につく」
「それは好きにすればいいと思うが」
「吠え面かくなよ」
「お節介なんだな。そういえば、早苗さんに鏡を見た事があるかと訊かれたんだが、意味わかるか?」
「はあ? 鏡? 何で?」
「さあな」
「そんなの知らんがな」
「正直、意味がわからん」
「そいつは人間らしくって良いね」
「そうなのか?」
「そんな事より、さっきの言葉、きちんと覚えときなよ」
 彼女が光学迷彩を開発した理由は、人間が妖怪の自分を見て、怯えないようにする為だという。目の前の友人には、そういう所があった。





 彼岸には、様々な物が流れ着く。
 時々、将棋に関係したものを探しにくるのだ。
 濃い霧に包まれながら、河童の集団が話しをしている。河童達にとって、外から流れてきた物は貴重な資源である。
「今日はどんな調子だい?」
 顔馴染に話しかけると、
「いやあ、大漁ですよ。相変わらず、外の世界の奴らってのは、勿体ない事しますよね」
「そうかい」
 河岸には彼岸花が密集する場所がある。そこで、流れてきた物が見つかる事が多い。
「今日はこれから探すんですか?」
「ああ。ゆっくりやるよ」
「そりゃ羨ましい」
「仲間に変な目で見られてもか?」
「河童にとっちゃ、日常茶飯事ですよ」
「天狗にとっては大事だよ」
 世間話もそこそこに、情報交換を行った。こちらからは、千里眼で入手した情報を提供した。
 河童達と別れ、入手した情報を基に、探索を始める。

 ――音楽に興味ってありますか?

 教えてもらった場所には、人間のものと思われる白骨死体があった。片側が千切れたイヤホンだけが、近くに落ちている。衣服や他の所持品は見当たらない。
 博麗の巫女が守るべき人間は、幻想郷の住人である。外の世界の人間はそこに含まれてはいない。もし生き残った人間がいたとすれば、それは異能の存在だろう。
 聞き覚えのあるフレーズが流れている。
主を失った道具が、刻まれた記憶を回想している。
 エレキギターの澄んだ旋律、民族楽器を用いた異国のリズムを刻むドラムス、曲を支えながらも深みを与えるベース、頭頂を抜ける柔らかなヴォーカル。それぞれが一秒一秒、影響を与え合う、スリルと興奮。
 まだ妖怪化していない道具が、その曲を選んだのである。深い思い入れがあったに違いない。
 しかし、それはもう過去の出来事。
 リリカ・プリズムリバー。彼女がこの場にいたならば、失われた音を拾う事ができるのだろうか?
(一歩千金。さて、やるかな)
 余韻を耳に残し、次の場所へ向かう事にした。





 にとりから忠告を受けた、少し後の事になる。
「椛さん、私と、喧嘩して頂けませんか?」
 突然来訪してきた早苗さんに、自宅の庭先でそう言い放たれた。
「は?」
「喧嘩ですよ喧嘩。もうそれしかないですって」
「はあ」
「言葉なんてナンセンスです。拳で語り合いましょう」
「どういう事です?」
「だから、拳ですよ、拳! 弾幕じゃない、ガチのやつです!」
「弾幕ではいけないのですか?」
「お互いのハートをぶつけあうんです! それには、これっきゃありません!」
「その、人間と妖怪ではそもそも力に差がありすぎるかと思いますが」
「どうせ椛さんは、前に私が言った事、わかってなんていないですよね?」
「それとこれに、何の関係があるんです?」
「もはや言葉に意味なし!」
 叫びと共に、早苗さんは私と対峙した。
 大幣をこちらに真っ直ぐ向けている。
「いざ尋常に勝負せーい!」
「え? あ、はい」
 こちらの事などお構いなしに、早苗さんはスペルカードを宣言した。

 神籤「乱れおみくじ連続引き」

 上空におみくじが散布されていく。
「安心して下さい。これは合図です」
 以前見た時より落下速度が遅い。
 四種類のおみくじが次々と爆散していく中、早苗さんの姿がいつの間にか消えていた事に気が付いた。
「…………」
 爆発の余韻が耳に残っている。
 この状況は何だろう? 彼女はこちらの動きを伺っているのか、場は静寂を保っている。
 仕方なしに集中力を高めた。千里眼を発動させるには若干の時間を要する。
「……っ‼」
 突然の気配に反射的に体が動き、かろうじて回避運動に至る事ができた。頬に拳が掠めていったかと思えば、既に気配は消えている。
 どこからともなく、声が聞こえてくる。恐らくは肉声ではない。
「能力に頼りすぎるのが欠点です。過ぎざるは及ばざるが如し、ですね!」
「ほう?」
 随分と、生意気な口を叩く。
 もう一度、能力発動を試みた。早苗さんの気配が近づいてくるのを察したが、構わずに続けた。
 頬に強い衝撃が加わる。しかし、もうそんなものに構う必要はない。

 視覚とは異なる器官が働き始める。
 地面を踏みしめ、軸がぶれないように支えをとった。
 想像を、現実に変えていく。
 妖怪、天狗、白狼天狗、犬走椛……。
 私という個人が消失する瞬間、世界と繋がる。
 この身体が自分のものではなくなるイメージ。

 千里眼が発動した事によって、彼女の存在を捉える事ができた。
「そんなものに頼るなんて、やはり人間は汚い」
 早苗さんは光学迷彩を纏っていた。しかし、能力が発動された今、もうそれは役には立たない。
「ええ、汚いですよ、人間は。でも、もっともっと、汚くなれるんです」
 迷彩を纏ったまま、彼女は風を利用して素早く上に飛んだ。
 無駄だ。私の能力は視覚の機能拡張ではなく、世界との接続。錯覚を利用した効果など、意味を成さない。
「はあっ!」
 一直線に上空へ先回りし、カウンターで腕を振り下ろした。
「させません!」

 秘術「忘却の祭儀」

 寸前で、身の丈を超える程の五芒星が彼女を守った。しかし、スペルカードを使用した直後には数舜、隙が生じる。
着地後、すかさず地面を蹴り、追い打ちをかけた。
「ってやぁああ‼」
 守りの技があるのはわかった。
 それならば加減は無用。心臓をえぐるつもりで突きを放った。
「っつ‼」
 早苗さんは鋭く息を吐き、手の平を突き出した。先程よりは小さい、赤色の五芒星が真っ直ぐ飛んでくる。放った突きはそれを貫き、彼女の腹部にまで届いた。
「あぐぁ」
 クッションが挟まった事で大分威力が軽減されたが、強い衝撃によって光学迷彩は機能不全をおこしていた。
 私は、不要になった千里眼を解除した。
 発動後の喪失感が自身を襲う。
「――クッ」
 人間相手に千里眼を使うべきではなかった。
 このままではいけない、とぼんやりした頭のどこかで、他人事のように私が言っている。

『いいよ、気にしないでも。どうせ嫌になったら殺しちゃうんだからさ』

『東風谷早苗に接近しろ』

 遠い。

『人間かよ』

『威厳がないって言いたいの』

 遠い。

『それでは、心の貧しさを露呈しているようなものですよ?』

『この山を、危険にさらす気か⁉』

 これでは、遠すぎる。

 まだ始まってから数分も経っていないはずなのに、早苗さんは息があがっている。
「随分と辛そうですね。やはり、やめた方がよいのでは?」
「甘く見ないでください‼」
「いえ、ただ事実を言っただけです」
「これくらい屁でもない。そうです! この程度、何の障害にもなりはしない!」
 これはごっこ遊びでも、客引きでもない。
 激しく肩を上下させて答えた彼女は、神気のこもった風を身に纏い、追い風と共に宙を駆けた。
 印が結ばれ、スペルカードが宣言される。
「ほう」
 辺りを暴風が荒れ狂う。

 奇跡「神の風」

 これほどの力、一歩間違えれば己の首を絞めかねない。
 スペルカードによって抑えられた、異能の業。
「ちょっとした応用です。まだまだ、こんなものではありません」

 このままでは彼女は死ぬな、と思った。

「…………」
「例えば、こんな事だってできます」
 風の流れが変わる。
「はぁあああッ‼」

 奇跡「弘安の神風」

 名前だけ聞けば、正しく神の所業である。私程度が抵抗できる筈もない。
「ぐっ」
 踏み止まって体勢を直し、正面を向く。
 すると、背中に衝撃がやってきた。
「かはっ」
 無意識に地面を踏みしめ、状況を判断した。
 差し迫って警戒すべきは、踏み込み過ぎによる回避運動の阻害。
「なるほど」
 大地を踏み抜くつもりで、天を駆ける。ただの人間には反応できない程の加速。術に集中している彼女に、避ける事はできない。
「フッ!」
 わずかばかりの隙間を縫って、間合いに入った。
(これは違うな)
 通常であれば後退するのが定石。しかし私は、前進を選んだ。これはつまり、遊びだ。
「なんですか? その程度では倒し甲斐がありせん!」
 満身創痍の体で早苗さんは見栄を切った。
「…………」
 神の力を扱えるとは言え、圧倒的に経験の足りない彼女では、私程度でさえ屠る事はできない。すなわち、遊びだ。これは遊びに過ぎない。
「そうです。だから、私みたいな小娘にも付け入られる」
 その認識は、妖怪の私がこの状況でするには、あまりに危険だった。
「…………」
 彼岸に落ちていた、片側が千切れたイヤホンを思い出した。
 瞼を閉じる。
 衝突した弾が、私を地面に吹き飛ばした。
「椛さん、私は嬉しいんです」
 遠い。これ程近くにいるのに、彼女の声がどうしようもなく遠く感じる。
「椛さんが気付いていたかはわかりませんが、私、寂しかったんですよ?」
 瞼の裏には、寂しそうに笑う早苗さんが映る。
「だって、私の事、近所にいる神社の巫女さんぐらいにしか思ってなかったでしょ?」
 何も問題は見当たらない。
「いくら話してもちっとも距離が縮まらないし、あんな事もありましたから、私なんかと仲良くしたくないのかなあって、思っちゃいました」
 山の索道建設の事を言っているのだろうか。
「でも、話しかければ仲良くしてくれるし、すぐにそんな事はないってわかりました」
 瞼を開けて彼女を見ると、想像していた通りの顔が目に映った。
「椛さんやにとりさんが遊びに来てくれるの、本当、嬉しかったんですよ?」
 たかが白狼天狗や河童と遊んだ程度で、何が嬉しいのだろうか。
「勝手に友達だとか思ったりして」
 照れ臭そうに彼女は笑う。
「だから、嬉しいんです! こうやって、ぶつかりあってくれて、本当の友達になれた気がするんです!」
「それは」
「違いますか?」
「…………」
「椛さん、言葉というのは難しいものです。若輩者故、それを痛感します。同じ言葉でも、私の考えるそれと、椛さんの考えるそれは、きっと別のものです」
 ぼんやりとした頭のどこかで、彼女の終わりを悟った。
「ですから、人間は言葉以外でも、相手を理解しようとするのでしょうね」
 早苗さんは構えをとりなおした。
「さあ、仕切り直しです‼ どちらかが倒れるまで、この喧嘩は続くのです!」
 耳が、鼻が、皮膚が、早苗さんが攻撃を仕掛けてきた事を教えた。複数の気配が、各々、別の生き物のように迫ってくる。
 集中する。避けても避けなくても、大した差はない。
 風が迫って来る。集中する。

 ――千里眼を使わねば殺せないと、冷静沈着な私が囁いた。

 視覚とは異なる器官が働き始める。
 想像が、現実に変わっていく。
 妖怪、天狗、白狼天狗、犬走椛……。
 私という個人が消失する瞬間、世界と繋がる事ができる。
 この身体が自分のものではなくなるイメージ。

『あんたにゃ……あの嬢ちゃんは殺せないよ』

「うおおおおおおおおおおお‼」
 能力使用によって空間を認識。空気の流れすらも、把握が可能になった。
 相手が見えなくなる程高く跳躍し、後ろから追ってくる一つの弾を、自らの後方へ誘導した。
 落下する瞬間、誘導した弾を利用して追い風とし、急加速をかける。
 ピキッ……。
 衝撃によってか、ドッグタグの金属部分が軋みをあげていた。
「でえぇえいッ!」
 彼女の頭めがけて、爪を振るう。
 障壁に遮られたが、隙が生じている。止めの一撃を加える為、気を漲らせた。
「ぐぬぅッ!」
 互いの視線が交錯する。
 彼女の瞳に映る、これから彼女の命を刈り取ろうとする者の目。

 ――目?

『自分が今、どんな目をしているか、わかりますか?』

 体感時間が何倍にも膨れ上がっている。

 ――何故?

 思考だけが、緩やかな時の中で高速で働いていた。
 目に見える光景が、ただただ、無性に不思議だった。

 ――何故、この人はこんなにも楽しそうにしているのだろう?

 負ける事など、微塵も考えていないような表情。これから死にゆく者とは思えない程の、輝き。
 それに対して、私は、

 ――私は?

(これは、誰だ?)
 彼女の瞳が映し出した自分自身の姿。そこには、これまで見た事のない、活き活きとした顔をした自分が映っていた。
「……っ!」
 緩やかだった時間が元に戻っていく。
 相手に自分の内面を見透かされているのでないかという動揺から、思わず、動きを止めてしまった。
「おや、どうしました? 千載一遇のチャンスを逃すとは……」
 回復した早苗さんが、印を結び始める。

 開海「モーゼの奇跡」

 彼女の姿がおぼろげになり、像が乱れていく。
 次の瞬間には、
「てぇええええい‼」空から早苗さんが隕石のように降ってきた。
 腕を交差し、一撃を受け止める。
 ピキキッ……。
 亀裂が入っていく。
「ぬぐぐぐっ……‼」
「人間を舐めるんじゃ、ないわよ! この山犬ヤローーーー!」
 支える足が地面にめり込んでいく。
 受け止めたのは失策だった。相手が放ったのは、海を割る意味を持つスペルカード。このままでは、押し切られる。
「ぶっ、ちっ、ぬっ……けぇええええ‼」
 受け止めた腕ごと、沈むように、地面へと叩きつけられた。
「――かはっ」
 強い衝撃によって集中が解け、能力が解除された。鈍麻した思考が、景色を歪ませる。
 戦闘の事が頭から抜け落ちていく。今、見えているものは、自身の回想。巡り巡る……私が生きてきた……足跡? 
 ドッグタグが砕け散っていた。そこからは、懐かしい匂いが感じられた。皆で過ごした時間が、その匂いには込められていた。
 一つの形が、終わりを迎える……。

    *   *   *

 私にとって、世界とはいつもぼんやりしたものだった。
 白狼天狗の一生は、山の為に始まり、山の為に終わる。この山こそが、犬走椛を形成しているほぼ全てである。そこに私個人の事情など、何の意味もなかった。
 早苗さんの幻想郷での生活は、この山から始まった。果たして彼女の目に、この山はどのように映るのだろう?
 守矢神社の布教は最初、侵略と言った方が正しく、消失の危機から逃れようとする者に相応しく、攻撃的な姿勢をとっていた。博麗の巫女に退治されてからはそれが治まり、すっかり幻想郷に馴染んだ早苗さんは、八坂様の手伝いで様々な事情に介入するようになった。

『人間は盟友』

 とは親友の言葉である。昔、二人でしこたま酒を飲んだ時に、彼女がつい漏らした言葉がある。

 ――人間はずるい。

 その時耳に入ってきた言葉について、理由は尋ねなかった。
 自らの意志でこの山に入ってこようとする人間達は、わけありの者が殆どだった。千里眼によって、私はこの世界の多くの事情と繋がる事ができるが、人の心と言うものは幾ら表面を覗いても理解する事ができない。
 早苗さんにとって、あの行動にはなんの意味があったのだろうか。

『わかってないねぇ。意味なんてわからなくて良いんだよ』

 にとり。

    *   *   *

「その隙が命取りですよ! これで終わりです!」
 意識を取り戻した時には、次の攻撃が始まっていた。

 秘法「九字刺し」

 このスペルカードの展開には数秒を要する。避けるのは容易。が、今の私は硬直して動けないでいた。
「…………」
 三本、四本……。宙に、線が引かれていく。
 きっと、回復は間に合わないだろう。
 八本目が引かれた所で、一拍溜めが入る。
「……ああ」
 これで良い。
 あとは、妖怪が退治されるだけだ。例え、ごっこ遊びだったとしても。
 私はその時を、目を閉じて待った。
「――ッ⁉」
 鈍い金属音が響き、目の前に影が差す。誰かが、スペルを止めている?
「……?」
 誰が?
「人間相手にこうもやられるとは、白狼天狗失格じゃないのか?」

『でも、腹が立つじゃないか、こんなの』

「……楓⁉」
「守矢のお嬢さん。身内が迷惑かけてすまなかったな。あとは、こちらに任せてくれ」
「迷惑? ただ、ごっこ遊びをしていただけですが?」
「そっちはそう思っていても、こっちは違う」
 場に、チリチリとした緊張がはしる。
「……伏兵にしては、気の利かない台詞ですね」
「当然だろ。これは遊びじゃないんだよ」
「任せろとは……何をなさるおつもりですか?」
「さあ? それはこいつ次第さ」
「…………」
 身体の熱はそのままに、空気だけが冷え切ったものへと変わっていた。
「……お好きにしてください。守矢神社は、貴方方の事情に関与する気はありません」
「賢明な判断だ」
「しかし、このまま帰っても寝覚めが悪いので、ここでご一緒しても構いませんか?」
「そりゃもの好きなこって」
「お気になさらず。さあ、どうぞ」
「……感謝する」
 彼女の手には、二振りの大剣が、握られている。
「…………」
「…………」
 楓はこちらを睨み付け、何も話さない。
 ただ、視線ばかりが交差する。
「…………」
「…………」
 こんな状況ではあるが、どこか懐かしい気持ちがした。いつもこいつは、三人でいた時には、こうして私達を見ているだけの事が多かった。話しかけても素っ気ない返事をして、何故一緒にいるのだろうと思う事もあった。
 一振り、楓は、私の目の前の地面に剣を突き刺した。それは、私が普段使用しているものだった。
「…………」
 そうして、またこちらを見る。
「……私は……」
 最初に沈黙を破ったのは、私だった。
「覚悟はできている」
「…………」
「度重なる独断専行。許されはしないだろう」
 一介の哨戒天狗にすぎない私がそんな事をすれば、今以上に、まともな役割を与えられなくなる。そうなれば、待っているのは過酷な条件の労働のみ。
「……いや…覚悟なんてものはない。私は、嫌になっただけだ」
「…………」
「流れるまま、時間は過ぎていった。今もまた、そうだ。そんな生き方が、嫌になった」
「…………」
「駒は駒。分相応の振る舞いをすれば良かったのにな」
「…………」
 楓は何も答えない。
「もう終わりにしてくれ」
 目が背けられる。
「こんな事を頼めるのはお前しかいない」
 自分で言っていて、とても魅力的な事のように思えた。やりたい事をやって、後の責任を全て放り投げて、言いたい事も全部吐き切り、介錯を信頼のおける仲間に頼む。
「命令通りに動かない駒など、害を与えるだけだ」
 あまりにも、自分勝手な願望。
「一思いに……やってくれ」
 膝を地面につけ、嘆願するように頭を垂れる。そうして、時がくるのを待った。
「……チッ」
 忌々しそうに舌打ちが鳴らされる。
 楓の剣が、地面に突き刺さる音が聞こえた。
 迷ってくれているのか?
(……これで、皆のもとへいける……)
 今はもう、おぼろげにしか思い出せない、かつての仲間達。
 時々夢に出る、そんな日の朝は……寂しさとともに、少しだけ胸が軽くなる。
 待つ。
 その時がくるのを、彼女が決断してくれるのを、真摯に待った。
「……………」
 しかし、一向に機は訪れない。
「……楓?」
 顔を上げると、両耳を手で塞いでいる楓の姿が目に映った。それに倣って、早苗さんも耳を塞いでいる。
 その時……
「ッッッ⁉」
 全身が跳ね上がる程の、尋常ではない大音量。白狼天狗の利きすぎる耳には、それは凶器と言えた。
「うるっっっせーーーーー! まだ早いっての‼」
 空から、ひらひらと紙が落ちてくるのが見える。
 高鳴る心臓と、ジンジンと痛む耳を気遣いながら、一枚掴み取って内容を覗くと、
(号外 プリズムリバー三姉妹と、鳥獣伎楽、幻想郷が誇るアーティスト達が奏でる、夢の頂上決戦‼)
 そのような表題が見えた。
「何してんだよ、河城⁉ 計画が台無しじゃねえか‼」
 耳をおさえながら、楓が空に向かって声を張り上げている。
 そちらに視線を移すと、両脇に巨大なスピーカーを取り付けたにとりが、大きなリュックから飛び出たプロペラによって宙に浮かんでいた。
「はっはっはーーー‼ これぞ、河童が誇る最新鋭の音響システム。その名も…YAMABIKOサラウンドシステムだっ‼」
 耳が慣れてくると、スピーカーから何が発せられているのかがわかった。
「「ぎゃーてー♪ ぎゃーてー♪」」
 読経だ。
「駄目だ、ありゃ」
「目がいっちゃってますねー」
 夜雀と山彦の織りなす、音の弾幕が、対峙するプリズムリバー三姉妹へと向かっていく。その音量に相応しい、見る者を圧倒する密度の弾の群れは、歌い手の志向に沿っているのか直線的だった。
 相手が誰であろうと、自らが進む道を譲る気はない。若いといえばそれまでだが、そんな気概を感じる。
 最短距離を一直線に通り過ぎていく、彼女達の心の表出は、私にはない、とても美しいものだった。
「あーーー、うずうずする。あたい、ちょっといってくる!」
「邪魔しちゃ駄目だって! 約束したんでしょ⁉」
「そーなのかー?」
 騒ぎを聞きつけた観客達が、ぞろぞろと集まってきた。
 対するプリズムリバー三姉妹は、リリカ・プリズムリバーのソロから入る。
 失われた音の再現。記憶にはないが、何故か聞き覚えのある音色に、皆が耳を澄ませる。
 その中に、彼岸で聴いた、あの音も混ざっていた。
(……よかったな……)
 柔らかな演奏は、次の瞬間には相手に襲い掛かる牙となる。
「友達できて良かったね、リリカ」
「姉さん! そんなんじゃないわよっ」
「ソロでも良かったのよー?」
「……だからー! 違うっての!」
 極彩色の弾幕が、騒霊達の指揮で音色を変える。観客達は、その技巧に拍手を送った。
「椛さん! 行きましょう!」
 突然、手を掴まれ、引っ張られる。
「えっ? ちょっ」
 反射的に、掴まれた手を振り払った。
「……? どうしたんですか?」
「どうしたって、何処に行くんですか?」
「何処って決まってるじゃないですか! あそこですよ!」
 指さされた先は、やはり、空だった。
「……私には、あそこに行く資格はありません」
「資格? 資格とは何ですか?」
「楓、もういいだろ。こんな茶番はうんざりだ。早く連れて行ってくれ」
「何処に行くんですか?」
「自分のような者に相応しい場所です」
「よくわかりませんね」
「楓」
 首筋に、冷たく鋭利なものが当たる。
 僅かな刺激と共に、温かなものが流れた。
「ようやくその気になったか」
「…………」
 腹部に衝撃がやってくる。楓の蹴りが、鳩尾にめり込んでいた。
「ぅぐっ!」
 体勢が崩れた所に、回り込まれて後頭部を柄で打ちこまれ、うつ伏せに倒れる。
 すぐさま左腕の付け根を足で踏まれ、顔の横にある地面に、刀身が刺さる。
「……ッ……ガハッ」
「…………」
「どう、した……? こんなんじゃ……白狼天狗は、死なない。なぶり者にでもするつもりか…?」
「…………」
 視界がチカチカとする。腹部と後頭部への打撃は、的確に行われていた。
 全く動けないわけではないが、もとより、その気はなかった。
「……それも構わないか……。無様を晒すのも……」
 口がひとりでに動いていた。溜まっていたものが、全て放出されていく。
 今だけは、それが許される気がしていた。
 明らかな、甘えだ。
「楓、私は」
「お前は、何者なんだ?」
「……何?」
 長い間、口を閉ざしていた楓が、淡々とした口調で尋ねてきた。
「お前は何者だ。椛」
「私が何者かだと?」
「そうだ。答えろ」
「…………」
「…………」
「私は……」
 考えるまでもなかった。
「白狼天狗の犬走椛」
 彼女の足をどかして、顔を上げる。
「……そうだ」
「それ以外の自分を、私は知らない」
「当然だ」
「だからどうした?」
「お前の事なんか、知ったこっちゃないんだよ」
「…………」
「同じ白狼天狗の仲間、それ以外に、何が必要ある?」
「……もう仲間じゃないだろ」
「馬鹿か。その剣は、何の為にある?」
「…………」
「白狼天狗は、己の為に爪と牙を振るう事はしない。山を守護する者として、自分達の存在を剣に託すんだ」
「…………」
「違うか?」
「……いや、その通りだ」
「存分に振るえよ」
「……何に対して?」
「寝ぼけるな。私達が剣を振るう時、それは――」
「山の秩序を守る為に」
「…………」
 再び、楓は口を閉ざした。
「友との絆を守る為! いざいかん! 飛べ! 三平ファイト‼」
「わー! そんなの当たるわけないって!」
「でも、相手も後がないわ!」
 観客達は、大いに盛り上がっている。
「今よ、メルラン。仕込んでいた仕掛けを解放」
「OK、姉さん。派手にいくわよー」
「タイミングは任せて!」
 空を見上げた。人目を惹く、派手な立ち振る舞い。彼女達は、そういう舞台に慣れているように見える。
 三姉妹の後方、滝の方角から異音が聞こえる。
「な、何だ⁉」
「何だか知らないけど、後ろは滝! さっさと逃げないと、どうなっても知らないからなー‼」
「そう。もっと来い……」
 ルナサ・プリズムリバー目がけて、にとりは超スピードで突撃する。数秒も経たずに、激突するだろう。
「今だ!」
「全開で行くわよー」
「……これって⁉」
 激しい水嗚がしたかと思うと、人一人容易に覆う程の水柱が立っていた。
 真正面からそれに衝突したにとりは、水柱の勢いに負け、そのまま滝つぼへと落ちていった。
「にとりーーーーー!」
「やっぱり。まあ河童だから平気よ、きっと」
 二対三となり、鳥獣伎楽が劣勢となった所で、早苗さんが声をかけてきた。
「どうですか? 楽しそうでしょう?」
「…………」
「ああしてわけもわからず霊撃を撃って、弾幕を避ける事だけを考えて……」
「…………」
「これが幻想郷です。これが、この世界の常識なんです」
 既に、プリズムリバー三姉妹と鳥獣伎楽は、互いの音楽を好き勝手に演奏するだけとなっている。
「楽しむしかないでしょう? こんなの」
「早苗さん……」
 口に出す気もなかったのに、声が、漏れて出てきた。
「神は、確かにいたのです」
「え?」
 互いの間を、静かな時間が流れた。
「私のスペル……受け取って頂けますか?」
 弾幕が、音が、歓声が、妖怪の山に満ちている。
「…………」
 今、この場における、ただ一人の人間。
 妖怪を退治できる、唯一の存在。
「目は……」
 しかし、それは必要なかったのだ。
「今の私の目は、どう見えてますか?」
「それは、聞く必要がある事ですか?」
「必要です」
 千里眼を解く。
 今はただ、早苗さんだけを見る。
「……私にとって、今も昔も、幻想は現実でした」
「…………」
 手が胸元に伸びる。しかし、目当てのものはそこにはなかった。
 手持無沙汰な自分の手を見つめる。
「今の貴方には、何が見えていますか?」
「……私に、貴方の相手が務まりますか?」
「…………」
「私のような……下っ端の白狼天狗に、早苗さんのような方のお相手が」
「そんなの気にしてたんですか?」
「…………」

 大奇跡「八坂の神風」

「いいじゃないですか、細かい事は。神奈子様も仰ってましたよ? ここは、何だって受け入れてくれるって」

 風が吹く。

「さあ、遊びましょう? 椛さん」

 緩やかに、激しく、押しては引いて。

「知ってましたか? 神というのは、遊ぶ事が大好きなんですよ?」

 その中心には、早苗さんがいる。

「……はい」
 一際、大きな歓声が聞こえてくる。
 天狗、河童、神、この山で暮らす妖怪達……。
 空を飛び交う煌びやかな光。
 祭りはまだ終わらない。舞台を彩るのは、それぞれのルールに基づいて生まれた、弾幕という形。
 そしてそれは、私の中にも、存在した。
(嗚呼……)
 地面に刺さっていた大剣の柄を握り、空へと駆ける。
 早苗さんの弾幕が、幾重にも連なって空間を埋めていく。
 避ける、避ける。隙間を見つけては、そこに潜り込む。少しでも見当が外れれば、即座に落とされるに違いない。
 こちらの様子を、楓は渋い顔で眺めていた。
 楓だけではない。それまで向こうに集まっていた視線が、今度はこちらに向いている。
 歓声が、私にも届いた。
 これが弾幕か。
 これが弾幕ごっこか。
「早苗さん、私は――」
 相手を見れば、不敵な笑みを浮かべた彼女の姿が……。
 そうして、私の意識は闇に落ちた。
 結果だけ言えば、博麗の巫女が騒ぎを聞きつけ、こらしめに来たのだ。後の報道で、それが明らかになった。



 その日、私は、安らかに眠る事ができた。夢の中には、仲間達が出てきた。皆、笑っていた。
 遠くの馬鹿騒ぎを肴にして、屈託なく笑っていた。
 そこに、私の姿はなかった。





『文々。新聞』号外。
【狂犬病に注意⁉ 麗しき風祝を野蛮な獣が襲う‼】
 昨日未明、守矢神社にお住まいの東風谷早苗さんが、突如、白狼天狗のM.Iさんに襲われる事件が発生した。
 場所はM.I氏の自宅で行われ、事情聴取の結果によると、被害者は個人的な用があって赴いたと言う。
 被害者からの慈悲深い言葉もあって厳刑は免れた彼女であったが、尋問しても要領を得ない返答しか返ってこず、処罰の検討は困難を極めた。
 引き続き、動向を探っていきたい。
 それにしても、同胞からこのような凶悪犯罪者が生まれるとは、同じ天狗として慎に遺憾である。これには、何か腐敗したものが見え隠れしているように思えてならない。





「我らが同志、犬走椛の職場復帰を祝って、乾杯‼」
 大天狗様の口上に、同僚達の雄叫びが続いた。誰もかれも私の心配などしてはおらず、騒ぎに浮かれている者が殆だった。
「まあ飲め飲め」
「恐れ入ります」
 飲めと言っておきながら自分が飲んでばかりの大天狗様は、挨拶もそこそこに、話に花が咲く一群に割って入っていった。
 今回の一件を、大天狗様は、良い酒の肴だったと笑って締めた。
 酒に呑まれた連中が締まりのない顔で馬鹿話をまき散らし、山の宴会では定番と言える飲み比べが始まっていた。その輪から外れてきた者が一人、こちらに近づいてくるのが見えた。楓である。相当酒が入っているのか顔が赤い。
「よお、極悪人。社会復帰、おめでとう」
「そりゃどうも」
「んで、どうだった?」
「何がだ?」
 夜桜を見ながら、杯を空ける。
 季節はもう、すっかり春になっていた。楓は、私よりも少し早くに解放されたと聞くが、扱いに差ほど変わりはないだろう。
「馬鹿たれ、喧嘩の結果に決まってんだろ。最後、見てねえんだよ」
 向かいでは、飲み比べが盛り上がっている。既に、ただの宴会になっていた。
「さてな。どうだったかな?」
「なんだそりゃ」
 楓の御猪口に酒を加えてやると、器の中に、桜の花びらが一枚、ふわりと落ちた。
「……天狗の恥か?」
 月の光が、穏やかに会場を包み込んでいる。その柔らかな気配に、酒が回ったような心地がした。
 楓は、落ちた花びらの揺れる様を、じっと眺めている。
「私達は皆、恥知らずさ。死んじまった仲間達を、置き去りにしたまんまなんだからね」
 ゆらり、ゆらり。
 水面の月を覆い隠すように、花びらが揺れている。
 二人、夜空を見上げた。
「かもな」
 互いに、傍に置いてあった剣を手に取る。話の流れは関係ない。
 こうして剣に触れるのも、久しぶりだ。
 捕らえられてからは、山の内部にある工場で缶詰になって働いていた。白狼天狗は負傷によって身体が動かなくなれば、皆、そこで働く事が定められている。そしてその場所は、刑罰としても使われる。
「そういえば……」
「ん?」
 工場での生活は、外の様子がわかりづらい。働き通しの内に、季節は春になっていた。
「将棋の駒ってのは大変だよな。仕える相手を自分で決められないんだから」
「全くな」
「おまけに、何の為に戦うのか、わかったものじゃない」
「どのような主であれ、勝利に導くのが使命なんじゃないのか?」
「私らはきっと、歩兵なんだろうな」
「わかりきった事だ」
「でもよかったよ」
「……何がだ?」
 残っていた酒を一息に飲み干すと、楓は空の器をじっと眺めた。
「両隣が、あんたらだったのがさ」
「…………」
 彼女が器を置いたのを見届けてから、自分の分を飲み干し、傍らに置いた。
「……ほら、なまってないか見てやるよ」
 会場から少し離れた所で、間合いをとり、構える。
 決闘の気配を感じ、周囲が沸き上がった。
「久しぶりだな……」
 数えきれない程、共に稽古をしてきたというのに、どこかこのやり取りが懐かしい。

 ――これを渡しておきます。

 私と楓の首には、ドッグタグがかけられている。
 楓は自分のものを。私は、あの騒動の後、あいつの墓の前で射命丸様から渡されたものを。
 風樺が持っていた、最後の一つ。

 ――約束ですからね。

「私もだ」
「あ?」
「神に感謝したいくらいにな」
「……いらねーよ、そんなの」
 大天狗様の野太い声が、場に響き渡る。
「さあさあ。ここにあるのは二匹の飢狼。互いに牙を磨き続けた友の間柄。桜花咲くこの舞台で対峙するからには、何か事情がおありの様子。さて、雌雄を決するのは如何に? 各々方、今こそ御慧眼を見せる時。さあさあ、御照覧あれ!」
 それから、夜明けまで宴会は続いた。





 にとりの工房で、私と早苗さんが将棋を指し、傍でにとりは機械の部品を磨いている。
「えーっと……これってこっちに動けましたっけ?」
「銀ならできますが、金にはできません」
「うーむ、難しいですね。今度諏訪子様にでも教えてもらいましょうかね」
「お、洩矢様になんだ?」
「神奈子様は、教え方が強引なんですよねぇ」
「土着の王たる洩矢様の事です。それこそ、数多くの格言をお持ちでしょう」
「ま、そうかもね」
 普段、奇抜な言動で周囲を困惑させている早苗さんだが、初心者と言う事もあって、打ってくる手は素朴である。私が動かした駒の位地を真剣に眺め、次の手を決めている。
「早苗さんは将棋に向いていると思いますよ」
「えー? そうですかー?」
「おや、早苗、手が止まってんじゃんか。さ、ちゃっちゃと次行こう、次」
「え? あ、すみません」
「…………」
「何? 何か言いたそうじゃん」
 今日のにとりは様子がおかしかった。
「いや、気味が悪いと思ってな」
「ちょ、駄目ですよ、椛さん。そんな事、言っちゃあ」
 何か魂胆があるに違いない。
「ああん? 言ってくれんじゃん。そうは言うけど、あんただってねぇ、変に気ぃつかってるのが丸わかりで、正直気持ち悪いよ?」
「何を企んでる? 今すぐ吐け」
「知らんがな。そんなん言われたって、何も企んでるわけないだろ」
「そうですよ、椛さん。にとりさんに失礼ですよ」
「お、よくぞ言ってくれました。やい椛! 久々に会ったと思ったら、なんて言いぐさだい!」
 虎の威を借る狐さながら、にとりは私を弾劾してきた。
「早苗からも、じゃんじゃん言ってやってよ」
「早苗さんを巻き込むんじゃない。だったら言うがな、知らないと言うなら、何故そんなに構ってくる?」
「ああん?」
「いつから、そんなに親切になったんだ?」
 両手でにとりの頭を抑えて、嘘を見破ろうと目を覗き込む。
「なんだなんだ! やるってのか⁉」
「さっさと吐け! さっきからその態度を見てると、背中が痒くなって仕方ないんだ!」
 強い力で手が振り払われる。
「おーおー、よく言うよ。あんたこそ、さっき私が言った事に答えてないじゃんか」
「なんだと?」
「気を遣ってんのはどうしてなのさ?」
「……気を遣ってなんていない」
「ほほう? 答えられないんだ。じゃあ私も、答えられないね。ま、私は、探られた所で、ちっとも痛くなんてないけどね」
「言いたい事はわかった。表出ろ。弾幕じゃすまさん」
「野蛮な奴だな。天狗だからって、偉そうにすんなよ」
 にとりの目が、下から真っ直ぐこちらへ向けられている。にらみ合いは、激しくなる一方だった。
「ちょっと、二人とも! 何ですか、突然。 みっともないですよ!」
 醜い争いに耐えかねたのか、早苗さんが間に割って入ってきた。
「止めてくれなさんな。こういう駄犬はきちんと矯正してあげないといけないんだよ」
「ふん。胡瓜と機械にしか興味を示せない異常者こそ、矯正するべきだと思うがな」
「ああん?」
「おまけに悪徳業者の真似事ときた日には、目も当てられないな」
「商売の手を広げてるだけだろ。何が悪いのさ?」
「不良品を売りつけるのは商売とは言わないぞ」
「たまたまだよ、たまたま。ま、あんたみたいに、白狼天狗の癖に群れから外れて一匹狼気取った痛い奴よりマシじゃん!」
「何だと?」
 再び至近距離で睨み合う私達を、早苗さんは両腕で強引に引き離した。
「いい加減にして下さい! 本当の事を言い合ったって、互いに傷つけあうだけですよ!」
 本当の事?
「申し訳ありませんが、脇を露出して信者をたぶらかす変態巫女は黙ってて下さい」
「なっ――⁉」
 接触していた掌から、硬直が伝わってくる。
「その通り。ここからは妖怪だけの時間さ。神様に頼りっきりの箱入りお嬢様は、さっさと帰った帰った!」
「なっ、なっ――」
 力が抜けた早苗さんをすり抜けて、先程の続きを再開した。
「おい、さっきは一匹狼を気取ったと言ったがな、私は好きでそうなったわけじゃないんだ。お前らと付き合ってる内に、気が付いたら変な目で見られてたんだよ。こっちだって困ってるんだ」
「は、私達のせいにするってか? やだやだ、すぐ責任転嫁するんだもん、天狗ってのは。正直に言っちゃえばいいじゃん。個性的な私格好良いって」
「何でそうなるんだ。大体お前は――」
「椛さん、にとりさん……」
 妖怪退治「妖力スポイラー」

「「あばばばばばば」」
 体勢を保てず、思わず床に膝を着ける。
「どうですか⁉ これが人間にして神である、私こと、東風谷早苗の力です‼」
 得意気にする前に、威力の調整を願いたい。このままでは、腑抜けになってしまう。
「も、椛―……」
「な、何だ……?」
 先の争いから一変し、にとりとの間には既に協力関係が生まれたのを感じた。
「このままじゃやばいよ……」
「ああ……まさかこんなに短気だったとは……」
 唾を飲む音が聞こえた。
「……こうなったら、あれっきゃない……」
「……? 何だ?」
 にとりの指が、私に近い所にある機械に向けられた。その機械には見覚えがあった。
 私が視認したのを確認して、にとりは説明を始めた。
「それを被るんだ……」
「何だと……?」
 以前、私に無理やり被せようとした帽子型の機械。それが今の役に立つと、彼女は言う。
「爆発だ……爆発しかない……この状況を打破する為には……」
「しかし……」
 早苗さんの様子を伺うと、怒りでテンションがあらぬ方向に進んでしまったのか、狂ったようにこちらの力を吸い取っている。
「そうです! 私がっ! 私こそがっ! 神っ‼ なのです‼」
 あれは駄目だ。
「……被れば良いんだな……?」
「――っ⁉ やってくれるのかい……?」
「……やるしかないんだろ……?」
 私には解決案は思い浮かばない。ならば私は、長年の友であるにとりを信頼する他ない。
 にとりも覚悟を決めて、「わかった」と頷きを返してきた。
「……それを被ったら、ありったけの妖力を溜めこんで、そいつに付いてるボタンを押すんだ……!」
 確認すると。帽子に有線で小さなボタンが繋がっていたのがわかった。
「……それだけで良いのか……?」
「……あとは、ペットボトルロケットの要領さ……きっと上手くいく……」
 このままでは搾り取られる事は確実。やるなら早い方が良い。
「……わかった……」
「頼んだよ。あんただけが頼みの綱だ……」
 帽子を被り、残存する妖力を体に巡らせた。私の妖力に反応しているのか、帽子を中心に非物質的な膜が形成されている。
「……椛……! 駄目だ……まだ……まだ、そんなんじゃ足りない……‼」
 たかが哨戒天狗に何をやらせようというのだ? 全く、こいつはいつも無理な注文ばかり言う。
「……やってやるさっ……」
 息を吸い込む。今吸い込んだのは、この地に流れる生命の煌き。そう考えた。
 自分の力だけではない。友が、この山が、この世界が、私に味方しているのである。
 縛り取られているはずの妖力が、無尽蔵に膨れ上がる気がした。
「おぉぉおおおおおおおっっっ‼」
 カチッ。
 思っていたよりも、簡素な音が聞こえてきた。

 それが聞こえた数舜後には、にとりの工房は粉々に吹き飛んでいた。

 これは……どういう事だ?

 私も、にとりも、早苗さんも、全てが吹き飛んでいった。

 それを知る私は、一体何処にいるのだろう?

 急激に転換する景色の中に見えたもの……

(空に浮かぶ……城……?)

 川の流れる音がする。
 湿った、地面の匂いがする。
 鳥の鳴く声が聞こえる。
 草花が風でささめいているのが聞こえる。
 生命の、営みを感じる……。

 ――私の耳に、明らかにそれらとは異なる音が響いた。

 ぱちん……ぱちん……。

 ――アームの駆動音と、駒が盤を打つ音。

 ぱちん……ぱちん……。

 ――お前達……無事だったのか……。

 ぱちん…ぱちん……。

 音が聞こえる。

 何度も、何度も。

 この山に、乾いた音が響いている。

 何度も、何度も。

 私という存在に……その音は、どこまでも響き渡っていた。
読んで頂き、ありがとうございました。お疲れ様です。
4作目となります。
ご縁があれば、またお会いしましょう。
竹津
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