Coolier - 新生・東方創想話

ろくろ首の夏、飛蚊症の夏。

2018/07/13 00:57:43
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 私の名前は赤蛮奇。妖怪。
 種族はろくろ首。
 友人にはばんきちゃん、なんて呼ばれてる。
 私を〝ばんきちゃん〟と呼ぶのは主に今泉影狼、わかさぎ姫の二人だ。というより、悲しいことに、私にはその二人の他に友人らしき人物はない。強いて挙げるならば、働き先の大衆食堂で働く少女ぐらいか。
 でも寂しがることはないよ。
 影狼はいい奴だ。
 まず可愛げがあるし、何より一緒に居ると面白い。
 姫……、わかさぎ姫は、そうだな。まあ、なんだ。
 自分で会って、話してみるといい。
 そうそう、人を食べてはいけないよ。私の働いてる食堂というのは、人里にあるんだ。
 私を〝おせきちゃん〟なんて呼ぶものがあれば、それは私の〝人間の知り合い〟だ。
 くれぐれも、人間の前では妖怪然とした態度は取らないように。
 なにより、博麗の巫女が怖いしな。
 日常生活を送る上での様々なことや、働き先での業務などについて心配することはない。
 必要なことは〝体〟が覚えている。〝体〟は、割合ポンコツに思えることもあるかもしれないが、まあ。信頼してもいい。
 ううむ。
 他に何かあったかな。

 ああ。
 お前の生きる季節は〝夏〟というらしい。
 影狼から聞いた話によると、夏は暑いだけで何も良いことがない、という話だ。ははは。
 まあ、精々楽しみにしておくことだな。

 ああそれと。

 これは、私の前のやつに聞いた話で、私はよく知らないが。
 もし、お前の視界の端に小さなミミズのような物が現れても、それを目で追ってはいけないよ。
 そんなことをすれば、お前は忽ち目を回してしまうに違いないのだから。



 私の前には首から上のない体が立っていて、そんな体が、私に向かって見知らぬ生首を差し出していた。
 数多の頭蓋骨が転がる部屋の中。その見知らぬ生首は、椅子に〝すわる〟私に向かって、そのような事を語るのだった。


 次に私が目を覚ますと、私は大きな鏡の前に〝立っていた〟。
 鏡を見やると、件の〝首から上のない体〟に、私の首がくっついていることが判った。不思議と、そこまでの驚きは感じなかった。〝首〟の辺りに広がるじんわりとした暖かさが、この体が自分の一部であることを俄かに確信させた。
 しかし、首から下の感覚は無い。
 私がどうにか首から下を動かそうとして、云々と念じていると、鏡に映った〝体〟が徐に慌て始めるのだった。
 その慌て方は、私に向けて、ちょっと待って、と言っているように見えた。
 〝体〟は、慌てた様子で私の頭を両の手で撫でたり、私の頬を両掌で軽く、ぺちぺち、と打ったりと、首から下を動かそうと急ぐ私を宥めるのに必死だった。
 そんな〝体〟の慌てぶりを鏡越しに見て、私は首から下を動かすのを暫しの間諦めてやることにした。
 すると、〝体〟は安心したようで、それを私に伝えるためかは分からないが、〝体〟は、わざとらしく胸をなでおろして見せるのだった。

 それから、〝体〟はおもむろにストレッチを始めた。
 両腕を上げ、背筋をぐんと伸ばしてみたり、軽く屈伸してみたり。軽くその場で跳ねてみせたりと、〝体〟は私に見せつけるようにストレッチを続ける。
 体が軽く跳ねるたびに、ギシ、ギシ、と木の板が張られた床が鳴る。木の板は、とっくの昔に傷んでいるようで、その悲鳴にも似た音は、私に一抹の心許なさを抱かせるのだった。
 ああ、或いはこの床は、ちょっとの拍子に抜けてしまうのではないか。私がヒヤヒヤしているうちに〝体〟のストレッチは終わった。
 ストレッチが終わると、体が一つ、気持ちよさそうに伸びをした。
 体の一連の奇妙な行動を鏡越しに眺めていた私は、その妙な時間から逃げ出す術はないかと踠いていた。
 今やっと、首から〝私〟が外れそうな、そんな手応えを感じたところなのだが。
 首から逃れようとする私の頭頂部を、ガシ、と両の掌が押さえた。その力は優しいものだったが、しかし確実に、私を首へと押し込んでいる。
 抵抗はしなかった。しかし疑問はあった。この体は、私に何をしろというのだろう。
 私の首が〝すわる〟と、体はもう一度屈伸をしてみせた。
 屈伸が終わると、体は鏡の中の〝私〟を指差すのだった。
 やってみろ、ということだろうか。
 一間置くと、私と繋がっている首の部分に広がるじんわりとした暖かさが全身に広がった。体全体に広がる暖かさは、首の辺りの暖かさと比べれば微かなものだ。しかし、手の先、つま先までもが確かに暖かいのを、私は感じた。
 ああやはり、これは私の体で違いない。
 腕を動かしてみた。動く。
 指を動かしてみた。動く。
 つま先を丸めてみる。よし、つま先も動く。
 ストレッチか、よおし。

 まず、私は伸びをしてみることにした。
 両手の指を絡ませて、そのまま腕を上へと挙げる。首を両腕の間にくぐらせるように。私はぐんと、背筋を伸ばした。
 ぐ、ぐ、ぐ、と伸びをすると、とても気持ちが良かった。私の口から、思わず呻き声が洩れる。
 絡めた指を解き腕を下げると同時に、あぁ、と深く息を吐く。首、肩、背中、脇腹。暖かさが、じんわり広がる。
 よおし。次は屈伸といこう。
 私は膝に手をつき、ゆっくり、しかし確かに力強く屈み込む。が、屈みこもうとした、その時。
「あ、あれ?わ、わわ」
 衝撃に、ギシッ、と力強く床が鳴る。
 私は、床の上に尻餅をついてひっくり返っているのだった。
 鏡に映る私のその姿は無様なものだった。
「あいたたた」
 痛みに悶えていると、ふいに体の感覚が遠くなった。気分としては、体を動かす主導権を〝体に取られた〟ような気分で、私は少し腹が立った。
 おい、なにするんだ。返せ。私が口を開こうとすると、私の腕がやおら動き始める。腕は下半身へと伸びていき、身に付けた〝スカート〟を押さえるのだった。
 なんか腹立つな、こいつ。

 その日、私に〝主導権〟が戻ることはなかった。
 体は私を首から取り外し、抱きかかえたまま、腐りかけの床の上に敷かれっぱなしの布団に入った。
 布団の中で体は、体をうまく動かせなかった私を慰めるかのように頭をぽんぽん、と軽くたたいた。
 布団は煎餅のように固く、酷く黴臭かった。

 それからの数日間、体は同じように私にストレッチを強制した。上体を動かすことに苦は無かったが、下半身が思うように動かない。ストレッチは、主に下半身を動かすメニューに集中した。
 途中、どうにも退屈になった私は反抗を試みたのだが、私が勝手な行動を取ろうとすると、体は忽ち〝体を動かす主導権〟を、私から奪うのだった。
 私があんまりに反抗すると、体はその日のストレッチを諦め、私を抱きかかえ、黴だらけの布団へと潜り込んでは、私の髪を、宥めるように撫でるのだった。
 それから更に数日が経ち、私が足腰を自在に動かせるようになった頃、私の体が、末端まで〝馴染んだ〟ような気がした。
 その日のストレッチが終わっても、体が私から主導権を奪う気配がない。
 もう好きに動いてもいい、ということなのだろうか。
 私が恐る恐るボロボロの襖を開け、外へ向かうも、体はなんの反応も示さなかった。
 瞬間、私の心は昂揚した。私は勢い勇んで、外へと飛び出した。
 玄関の戸を開けるが早いか、私の視界は眩い光に包まれた。ギラギラと輝く陽光が、数日間薄暗い部屋の中にいた私の瞳を突き刺したのだ。私は思わずその目を細めた。
 程なくして、ひやりとした黴くさい部屋の中で過ごしていた体を、むわあ、とした熱気が包む。
 ああ、これが夏というものか。
 私は柳に囲まれた廃墟のような我が家を一瞥し、どこへ向かうともなく歩き始めた。

 しばらく歩いていると、里が見えてきた。ああ、あれが人里か。里の家々を眺めながら、私は里へと歩みを進める。
 里への道は、均された地面が歩くために程よい幅を為しており、道の両脇は草木に囲まれている。息を深く吸い込むと、澄んだ空気と微かな草木の香りが胸いっぱいに広がる。私は息を深く吐き、空を見上げた。
 空には恰幅の良い雲が疎らに浮かび、その青さはどこまでも澄んでいた。日差しは少々眩しすぎる気もしたが、そんな空模様は、私に、清々しい解放感を抱かさせるには十分だった。
 そんなとき、私は視界の中に不思議なものを見つけた。
「んん?」
 視界の端に、何やら小さい〝ミミズ〟のようなものを、私は見つけた。
 ――もし、お前の視界の端に小さなミミズのような物が現れても、それを目で追ってはいけないよ。
 私はそんな忠告を思い出すよりも早く、〝ミミズ〟を目で追っていた。
 しかし、私がどれだけ〝ミミズ〟を視界の中心に捉えようとしても、ミミズは視界の端へ端へと逃げていく。
 次第に、私の視界はぐるぐると、回転を始めるのだった。
 視界の端へとミミズが逃げる。
 路に建てられた立て看板が視界に映る。
 ミミズは更に逃げていく。
 立て看板を素通りし、視界に背後の道が映る。
 ミミズは更に逃げていく。
 視界は背後の道を素通りし、森へと続く岐路を映す。岐路に何やら人影を見つけたが、私は御構い無しにミミズを追い回す。
 ミミズが逃げる。立て看板を素通りし、ミミズが逃げる。背後の道を素通りし、ミミズが逃げる。森を背後に此方へ近づく人影を素通りし、ミミズが逃げる。
 そんな具合に、私は首から上をくるんくるんと回転させ、ミミズを追いかけた。
 立て看板、背後の道、森へと続く岐路、里の入り口。立て看板、背後の道、森へと続く岐路、里の入り口。逃げるミミズ。……。
 里の入り口、立て看板、背後の道、森への……ぎゃあ!
 私の回転を、ガシ、と両掌が押さえた。
 これが私の両の腕から伸びたものならさして驚くこともないのだが。視界の端のミミズを追い回す私の回転を止めたのは、見知らぬ人物の、その両掌だった。
「ばんきちゃん、また〝飛蚊症〟?こないだ治ったって言ってたのに」
 私の頭部を、ガシ、と押さえ、私の目を見てそう語る人物。この人物は恐らく――。
「今泉影狼、か?」
 私がそう口にすると、目の前の人物は怪訝そうに眉をひそめるのだった。
「ばんきちゃん、目、回ってるんでしょ」
 確かに、視界はぐらりぐらりと揺れていた。ああしまった、二分の一を外してしまったか。じゃあ、目の前のこの人物がわかさぎ姫か。
「私が影狼じゃなかったら、誰が今泉影狼なのよ、まったく」
 違った。やはり目の前の少女は今泉影狼で間違いないようだ。いやぁ、わかさぎ感が不足してるとおもってたんだ、私は(?)。
「あ、ああ影狼か。そりゃ、そうだよな。いや、視界の端に妙なミミズが現れてな、でも、もう大丈夫そうだ。だからその、そろそろ頭を離してくれないか」
 影狼は怪訝そうな面持ちのまま、私の頭から両掌を、ぱっ、と離した。
「……飛蚊症」
「え?」
「だから、〝飛蚊症〟でしょー?それ。ばんきちゃん、治ったって言ってたのに、またぐるぐる回ってるんだもん」
 ヒブンショウ、聞き覚えがあるような、無いような。
「まあ、ばんきちゃんが自分で『季節の変わり目に治ったり、罹ったりする』って言ってたから、昔。まあ、そういうことなんでしょうけど」
 とにかく、と影狼は続けた。
「人里の近くで首を三六◯度ぐるぐる回すなんて、そんな妖怪じみたことしちゃダメよ」
 おっしゃる通りである。でも、気になっちゃったんだもん。
「それに、ばんきちゃんは人里で働いてるんでしょうに。〝おせきちゃん〟なんて呼ばれて。余計に気をつけなきゃよ。そうでしょ?」
 いやぁその通りで。言いかけたそのとき、〝体〟が私から〝主導権〟を奪った。
 体は何やら慌てていて、暫し意味のない身振り手振りを経たのち、右の掌で私の後頭部を押しつけ、下を向かせた。そして、ピン、と伸ばした左手を、今泉影狼の前に突き出すのだった。
 それは、所謂〝御免!〟のポーズだった。影狼と私の間に、微妙な沈黙が流れる。
 あ、主導権を奪われてる時も喋るのは私なのか。
 しかし場に流れる居心地の悪い沈黙は、私に口を開くのをためらわせた。なにより、〝体〟の言わんとするところを、私はいまいち察せていなかった。
 そんな沈黙を、今泉影狼が打ち破った。
「こ、こわいわー。急にどうしたのよ。急用でも思い出したわけ?」
 ああ!急用か!
「ごめん!そうなんだ、ちょっと、急用を思い出して……」
 口に出してみると、私は私自身の発言に胡散の臭気を感じずにはいられなかった。
 急用を思い出した。それは、偶然会った友人と別れる際に使うには、どうにも頼もしさに欠ける言葉に思えた。
 急用、急用、急用。
 急用とは、果たして如何なる用なのか。私は思索を巡らせるのだが、それらしい用事が思い付かない。
「ああ、ばんきちゃん、仕事でしょ。人里で。もう、最近ばんきちゃん全然捕まらなくて、久々に会えたー、と思ったんだけどな」
 そうか!仕事か!
「そう、仕事なんだ。いやぁ、悪いな。折角久しぶりに会ったっていうのに」
 正直、私にとって今泉影狼は初対面他ならない。しかし。

 ――影狼はいい奴だ。まず可愛げがあるし、何より一緒に居ると面白い。

 それでも何故だか、初対面という気がしなかった。
 出会って数刻もしないはずなのに、私は今泉影狼に親しみを感じていて、そんな今泉影狼とこの場で別れるのを惜しく感じていた。
「仕事なら仕方ないわ。そうだ、ばんきちゃんの仕事が終わったら〝いつもの居酒屋〟に行きましょうよ。折角久しぶりに会えたんだから、いいでしょ?」
「それで、仕事は何時頃終わるの。ばんきちゃんの仕事が終わる頃、私、先にお店に入って待っていようと思うんだけど」
 すると、〝体〟はまた慌て始めた。
「え、ええと。何時頃だっけなあ」
 体はやはり意味のない身振り手振りを経て、漸く、ああ思い付いた、と言わんばかりに何か意味のある動作を始めた。
 まず体は右手の人差し指で空に浮かぶ太陽を指差した。次に、左の人差し指で何も無い西の空を指差す。
 ああ、これは分かりやすいぞ。
「そうそう、夕方頃に終わると思うよ。詳しい時刻は分からないけど」
 影狼はそれを聞くと、分かった。じゃあ、その頃に、と言って、里とは反対方向に歩いていくのだった。

 その後、私は人里に来ていた。正確に云えば、人里の、大衆食堂に居た。影狼と別れてから〝体〟は私に主導権を返す事は無かった。〝体〟の歩みに身を任せていると、この大衆食堂にたどり着いたというわけである。
 体が慌てた様子で食堂に入ると、怒号が飛んで来た。それはしわがれた声で、声の主は店主と思しき婆さんだ。
「困るんだよねえ、無断で何日も休まれたら。人の苦労が考えられないかい。最近の若いのは全く」
 ここで、この食堂が私の働き先であることを確信した。しかし、急に婆さんから叱責を浴びせられた私の口からは、いやそのええと、といった言葉が溢れるのだった。
「何をごにょごにょ言ってるんだい。先ずは何か言うことがあるんじゃないのか」
 トレイを抱き抱えた少女が、台所の入り口付近に立ち、そんな光景を気まずそうに見つめていた。
 体が慌てて〝ポーズ〟を作った。それは例の〝御免!〟のポーズだった。
 例の如く、場に微妙な沈黙が流れる。ああどうしたものか、謝ると言う事は分かるが、どう謝ったらいいものか。悩んでいる間にも、微妙な沈黙、この場の雰囲気はどんどん妙な重みを帯びていく。
「その、すみません、でした」
 私の口から出た言葉は、それはシンプルなものだった。
「まあ、良しとするかね。……それで、今日は」
 婆さんが私に詰め寄るように問いかけた。
「今日は」
 体が、私の口元を左手でぽりぽりと掻く。何か喋れということだろう。
「ええと、今日は……」

「今日は空が青いですねえ」
 体が、ビシッと敬礼を決める。……うーん、多分間違えたな。互いに。
 場に、またしても微妙な沈黙が流れる。
 台所付近の少女は何やら驚いた様子で、抱き抱えたトレイで顔の下半分を覆っていた。
 婆さんも一瞬目を丸くして驚いていたが、すぐに口を結び、眉間にしわを寄せるのだった。
「〝今日は、働けるのかい〟って聞いてるんだよ」
 婆さんは顔をしかめたまま言った。
 漸く、婆さんの言う『今日は』の意味を解した私だったが、正直なところ、その問いにどう答えたものかと迷っていた。
 まず、私は妖怪である。妖怪である私が、どうしてこんな婆さんの下で働かなければならないのか。そもそも、妖怪が働くなんてナンセンスではないか。妖怪なんて日中眠って、夜毎ふらふらフラついていれば、それで十分だ。
 そして、百歩譲って人間の下で働くことを許容したとしても、それは私の意思でなく〝体〟が勝手にやろうとしていることだ。何故、私がそんなことに付き合わなければいけないのか。私には納得できなかった。
 今日は帰ります、というか、もう来ません。口に出そうとしたその時、〝体〟がその掌で私の両頬を強く叩いた。二度も!
「なんだ、やる気じゃないか。ならいいんだよ。その調子でバシバシ働いていっておくれ」
 体はまた、ビシッと敬礼を決めるのだった。
「それにしても相変わらずだねえ」
 婆さんが出し抜けに言う。
「相変わらず、格好と表情の決まらないやつだ。敬礼なんてするのなら、もう少しシャキッとした顔をしたらどうなんだい」
 婆さんの話はそれからしばらく続くのだった。
 私は婆さんの話を、はあ、それは、はい、等々、それらの言葉をあむあむと述べ、聞き流していた。
「そんなんじゃ人を疑われてしまうよ、全く」
 婆さんは私への小言をそう締めくくって、その矛先を今度はトレイを抱き抱えた少女へと向けるのだった。
「ほら!あんたも突っ立ってないでとっとと働く!皿洗いはいつになったら終わるんだい?ぼーっと見てる事ないだろうに。さ、動く動く」
「は、はい!」
 少女は慌てて返事をし、慌てて台所に向かい、皿洗いを始めた。
 婆さんはそれを一瞥すると、何やらボソボソとぼやきながら、店の奥へと引っ込んでしまった。
 食堂に客はいなかった。その代わりに、各テーブルには大量の食器類が積み重なっているのだった。
 少女は必死に皿洗いをしている。体は、そんな少女に徐に近づいては、またしても〝御免!〟のポーズを取るのだった。そろそろ慣れて来た私は、言い澱むことなく口を動かした。
「あー、ごほん。ごめんごめん、勝手に休んだりして、悪かったね」
 私の口から発せられた言葉に私自身、多少大根の感を覚えたが、まあ、こんなものだろう。
 少女がハッとして皿洗いの手を止めた。
「ああ〝おせきちゃん〟!私なら大丈夫だよ。そりゃ、少しは大変だったけどね」
 えへへ、と笑って、少女は言葉を続けた。
「それより、おせきちゃんは大丈夫なの?また〝気象病〟?今度はどうしたの?〝片頭痛〟?それとも〝風邪〟?あ、〝関節痛〟だ?」
 少女は立て続けに私に疑問符を投げ掛けた。しかし、少女の口から発せられる聞き慣れない言葉の数々に、私の脳内は疑問符に埋め尽くされるのみだった。
 また、体が私の頰を掻く。
「まあ、そんなところ」
 少女は、仕方ないなぁ、と言わんばかりに、一つ息を吐き出した。
「おせきちゃんたら、季節の変わり目に絶対体調を崩す、って自分でも分かってるはずなのに、なんでかなあ。どうしても、体調崩しちゃうんだよねえ。抵抗力が弱いのかな?」
 少女はそんなことをボソボソと、誰に言うともなく呟いていた。
 少女はそれからしばらく、ボソボソと続けていた。〝呟き〟が一通り終わると、少女は何か納得したように、コク、コクコク、と小刻みに頷き、こちらに向き直るのだった。
「うん。私は大丈夫。気にしてないよ。そうだ、お婆ちゃんはあんな風に言うけど、あんまり気にしちゃダメだよ。お婆ちゃん、あれでもおせきちゃんが来ない間、なんだかんだでずっと心配してたんだから」
 体が、わざとらしく私の後頭部を右手で〝わしわし〟とした。
「いやぁ、そうか。心配かけてしまったようで、申し訳ないやら照れ臭いやら」
 少女はそんな私を見て、何故だか可笑しそうに微笑んだ。
「あはは。おせきちゃん、なんか変!」
 そのとき、店の奥から怒号が響いた。
「あんたら、もしや手を止めてくっちゃべってるわけじゃあないだろうね!」
 少女はギクリとして、私に小さな声で話しかけた。
「じゃあ、体調、もう大丈夫なんだ?」
「ああ、問題ないよ」
「そっか、よかった。じゃあ、私はお皿洗ってるから、おせきちゃんはテーブルの食器持って来ちゃってね」

 それから、〝体〟はテキパキと働いた。テーブルの食器を全て台所に運び終え、食器の載っていたテーブルを全て綺麗に布巾で拭いた。
 その間、私は暇で暇で仕方なく、テキパキと働く体をよそに、店の窓から見える景色などを眺めたりした。
 窓から見える空はとても青く、雲は白く。ああ、私はどうしてここにいるのだろう。そんなことを、私はぼんやりと考えていた。
 ぼんやりしていると、店の奥から婆さんのしわがれた声が響いた。
『こら、おせき。もし余所見なんてしながら仕事をしようものなら、首斬りにしてしまうよ』
 婆さんが、見てもいないのに私の余所見を看破するものだから、私は婆さんが少々恐ろしくなって、慌てて余所見を止めた。
 そんな私を見て、台所で皿を洗う少女は、くすくす、と笑うのだった。
 〝体〟が少女と並び、二つある流しの一つでコップ類を洗っている頃だった。
 私はやはりどうしても暇で、またも余所見をして、食堂にある窓の外の、空を眺めていた。
 窓は台所からでも見えた。
 窓から見える空はやはり青く。でっぷりと肥えた雲は白く。夏が始まってからずっとあの廃屋のような家で過ごして来た私は、どうしてもそんな空に焦がれずにはいられなかった。
 そういえば、仕事が終われば影狼と居酒屋に行くのだった。空を眺める内に、その事を思い出して、私の心は踊った。
 空を見ながら、この煩雑な仕事が終わる事を願っていた私の視界を、不意に何かが横切った。
 気がつけば、私の視界の端にはあの〝小さなミミズ〟が現れていた。私はぼんやりしながら、ミミズを目で追いかける。
 ミミズが逃げる。追いかける。
 首から上が、四十五度回転する。
 ミミズが逃げる。追いかけ、ぎゃっ。
 体が、私を泡だらけの両掌で押さえつけた。
 同時に、パリン、と、コップの割れる音がした。
「ああ!おせきちゃん、……やっちゃったね」
 隣で皿を洗っていた少女が、僅かの驚きに憫然を混ぜた視線をこちらに向けた。私が俄かに焦りを感じて下を向くと、私の足元には粉々になったコップの欠けらが散らばっていた。
 私はこのとき、計らずも〝しまった!〟のポーズをしていた。
 当然、音を聞いた婆さんは店の奥からやってきた。
 コップを見ると婆さんは、
「ああ!〝やった〟よこの子は。全く、大方余所見しながらぼんやりしてたんだろ。仕方ない子だね」
「まあ、割れちまったもんは仕方ないが、しっかりしておくれよ。全く」
 それから婆さんは、全く、全く、と、いつまでもぼやきながらまた奥へと引っ込んで行った。
「まあ、お婆ちゃんの言う通り。割っちゃったものは仕方ないよ。おせきちゃん、あんまり気にせずにね。まあ少しは気をつけないと、ダメかもだけど」
 少女はそう言って、えへへ、と笑って、流しに向き直しては皿洗いを再開した。
「あ、ああ。すまない、気をつけるとするよ」
 体はいつまでも私を責めるように、その泡だらけの両掌で、私を首へと押し付け続けるのだった。それはもう、ぐりぐりと。
 それから、少女と私、或いは少女と私の体が皿洗いを終えると、しばらく私は少女と共に暇を持て余していた。その間ずっと少女は私に語りかけては、他愛もない話を繰り広げるのだった。
 あまり話題の持ち合わせのない私は、少女の話に相槌を入れて頷くことしかできなかったが、それは意外な程に楽しい時間だった。
 日暮れ、そんな楽しい時間を打ち破るように、食堂に人が雪崩れ込んできた。客が雪崩れ込んでくると、婆さんは店先に出て『商い中』の看板を裏返した。少女から後で聞いた話だが、この食堂は基本、昼、夕の〝二回転〟からなるらしい。
 その客の多さに私は面食らったが、婆さんと少女はテキパキと注文をこなし、〝体〟もまたテキパキとそれを運んだ。
 そうして、空の橙色と紺色が程よい階調を為した頃、私の食堂での業務が終わった。影狼との約束があったので〝賄い〟は断った。
 店を出ると、体は私の頭頂部を、ぽんぽん、と二度叩き、私にその主導権を明け渡した。
 瞬間、私の内に解放感が駆け巡り、私は思わず伸びをした。
 ぐ、ぐ、ぐ、と体を伸ばすととても気持ちがよくて、私の口から、勝手に呻き声が洩れだす。
 頭上で絡めた指と指とを解き放ち、一つ大きく息をついた。
 紺と橙が織りなす空、西の方角で、沈みかけている太陽はギラギラと輝いていて、それはまるで、今日の労働の終わりを讃えているようだった。
「まあ、私、何にもしてないけどな」
 誰に言うともなく、私は独り言ちて、影狼の待つ〝いつもの居酒屋〟へと歩き始めた。
 胸中に湧き上がる借りてきた達成感と共に、地面を数歩踏みしめると、私は或ることに気がついた。
「いつもの居酒屋って、何処にあるんだ」
 私は仕方なく主導権を〝体〟へと明け渡した。すると体は私の頭を、ぽんぽん、と二度叩いて、私の知らない〝いつもの居酒屋〟へと歩き始めるのだった。
 体が私を居酒屋へと運ぶ間、私は夕空にうっすらと浮かぶ丸い月や、里の往来を眺めていた。岡持ちを気怠そうに担ぐ者、何やら小銭袋を遊ばせて鼻歌を歌う者、手を繋ぎ家路を辿る親子。そんな夕空に照らされた夏の景観は、私にどこか憧憬の念を抱かせた。
 しかし、私は直ぐに居酒屋に今泉影狼の待つことを思い出した。それを思えば、憧憬は情景へと変わり、その情景は一層美しく映えるのだった。
 ああ、居酒屋に着いたら、いよいよ私の夏が始まってしまうな。
 私は無自覚に微笑んでいた。
 不意に、体が足を止めた。能天気な想像を頭に浮かべている頃、体が急に主導権を寄越すものだから、私は少しふらついてしまった。
 少し蹴つまずきそうになりながら眼前の建物を見やった。
 私の目の前には、影狼の待つ〝いつもの居酒屋〟が待ち受けていたのだった。

 居酒屋に入ると、端の方の小さなテーブル席に影狼はいた。
 影狼は、こっちこっち、と言わんばかりに手をひらひらとさせている。
 私は早足になりそうな心を押さえつけながら席に向かった。
「ばんきちゃん、ちょっと遅かったんじゃなーい?」
 からかうように影狼が言った。店内の各所に括り付けられた電球が、影狼の少し赤らんだ顔を照らす。
「なんだ影狼、もう呑んでるな?」
「先に入って待ってる、って言ったでしょー」
 影狼のその口調は、当たり前じゃない、とでも言いたげなものに感じた。
「あ、ほらばんきちゃん、座って座って」
 私は席に着いた。腰を下ろすと、自然と大きく息をついてしまった。
「おつかれさま。忙しかったんだ?」
「まあね。それと少し慣れないことをしてさ、いやぁ疲れたよ。今日は」
 もちろん私は影狼とは今日会ったばかりということになるが、今となっては関係ない。どうせ私の友人には違いないのだ。それなら、話したいように話してしまえ。私はそう考えた。
 影狼は相槌を打つなりテーブルの上のジョッキに半分ほど残された麦酒を飲み干し、声を上げた。
「すいませーん。麦酒を二つ」
 はいよ、という声が響いて、それから間も無く席に麦酒が運ばれてくる。
「あ、麦酒でよかった?」
 私は運ばれてきた麦酒を見ると、脳が微かに〝うずく〟のを感じた。
「ああ、多分これでいい」
「多分ってなによ。まあいいや、とりあえず……」
 影狼は一瞬の間を作り、瞬間朗らかに口を開いた。
「改めましておつかれさま!それじゃ、カンパーイ!」
 私は慣れた手つきで影狼のジョッキに自分のジョッキをかち合わせた。
「乾杯!」
 私はたまらず麦酒を喉へと流し込む。瞬間、私の脳の皺一本一本に、冷えた麦酒が染み込んだ。脳の芯がじわあと冷えて、目の裏側が何とも言えない感覚に襲われる。
 夏の熱気と仕事の疲れで火照った体と顔が、なんとも気持ちいい。
 気づけば私は、ジョッキ一杯飲み干していた。くうー、といった声が、私の口から思わず洩れる。
 ああ、これだ。これは〝体〟が覚えている。麦酒、これは悪魔の発明に違いない。
「さっすが、仕事終わりの人は飲みっぷりが違うわ」
 ジョッキに半分ほど麦酒を残した影狼が上機嫌に言う。
「いやぁ、ははは」
 私は何か面白くなって、そう答える他できなかった。
 すいません、麦酒追加で。私の普段より大きな声が、店内の騒めきの一部を担った。

 それから私たちは麦酒をぐいぐい飲みながら、他愛もない話に花を咲かせた。話は麦酒の美味いことから始まり、夏の暑さ、じきに里で縁日のあること、幻想郷に〝海〟がないことの不満、影狼自身の、最近体重が増えてしまった、なんて悩みについての話と、話は転々と転がっていった。
 そんな中、それにしても、と影狼が出し抜けに言った。
「ばんきちゃん、最近なにしてたのよ。全然見つからなくて、心配だったんだから」
 どう答えたものか、と一瞬悩んだが、私はあえて正直に答えてみることにした。
「最近?最近は、そうだな。ストレッチをしてたよ、ずっと」
「ストレッチ?……あはは、ばんきちゃんらしいわね。こわいわー、ばんきちゃんこわい」
 影狼の返答に、私は固まりかけていた私自身の自画像にどこか不安を感じずにはいられなくなった。らしい、とはなんぞや。
 私の内に湧き上がる疑問を他所に、影狼は続けた。
「にしても、ばんきちゃんは時々そうよね。時々何処かに引っ込んじゃって、全然見つからなくなる。思えばよくあるわ」
 影狼は目を瞑り腕を組んで、何やら、ううむ、と考え込むような仕草をする。
「たしかこの間は冬の終わった頃だったっけ。そうだ!その前は秋が終わった頃……。思えばいつも、季節の変わり目ね……。季節の変わり目、季節の変わり目……わかった!」
 なにか合点のいった様子で、影狼が私の顔を指す。ギクリ。
「ばんきちゃん、ストレッチだなんて言って!隠すことないのに、もう」
「ばんきちゃん、風邪、引いてたんでしょう」
 私は自信満々の影狼をみて、どうもその自信満々な口調に〝影狼らしさ〟を感じずにはいられなかった。
「風邪か。まあ、そんなとこかな」
 影狼はジョッキを片手に持ち、テーブルにもう片手を置いて口を開く。
「まあ、季節の変わり目に風邪を引いたなんて、妖怪なら隠したがるのも分かるけどねー」
 私たちの仲じゃない、隠すことなんてないのに、と、影狼は続けた。私は影狼の放った「妖怪なら」という言葉に、影狼がなにか〝妖怪〟という言葉そのものに尊厳めいた感情を抱いているらしいことを感じた。影狼の放った言葉には、どうも〝人間なら或いは〟などという含意が在った。
「まあ、人間なら或いはね」
 影狼の思想を確かめるべく、私は心中に浮かぶ〝影狼の言わんとするところ〟をすっと呟いた。すると、私の心に俄かに仄暗い愉悦に似た感情が浮かぶのを感じた。ああ、ともすれば、妖怪とは本能的に人間を下に見る心があるのかもしれない。私は思った。
 それから私たちの会話は、その心に沿った内容へと推移していった。無論、影狼も私も本気で人間に対する害意を持つわけもなかった。所詮、それは所謂〝愚痴〟だった。
 まず影狼は、幻想郷の岡っ引き的存在である〝博麗の巫女〟をこき下ろした。夏が始まってから薄暗い廃屋同然の住居でストレッチしかしていなかった私は当然、博麗の巫女を知る由もない筈なのだが、どうやらそれも〝体〟が覚えていたようだ。
 博麗の巫女の溢れ出んばかりの強さは、私や影狼といった木っ端の三下妖怪風情には震えが出るほど恐ろしいものだった。
 せめて私たちに異変の起こせる力があれば、私たちはこんなところで博麗の巫女が取り締まる現体制にクダを巻くこともせずに、博麗の巫女に勇敢に勝負を挑んだことだろう。しかし私たちはどうしても、悲しい程に木っ端だった。そうして博麗の巫女についてクダを巻いていると、その自覚は急加速して、私たちの愚痴に熱を加えるのだった。

「だいたいさー、なんで人間よりも何倍強い私たちがさ、金なぞ支払わきゃならんのかなー。人里で働いて日当貰ってまでさー」
「わかるわー。ばんきちゃんなんて、人間たちにおせきちゃん、なんて馴れ馴れしい呼ばれ方されてるのよね。なーにがおせきちゃんですか、喰らうぞこらって感じよねー」
「まあ、ばんきちゃんもおせきちゃんも、呼び方としては大差ないと思うんだけどな。呼び方はともかくとしてさ、馴れ馴れしいんだよ、人間風情がさー。博麗さえいなければなー。そうしたら今頃、酒なぞ飲まなくても人喰って満足できてるだろうに」
「でも、ばんきちゃん。私ね、人間の作る麦酒だいすき。もはやこれがないと生きていけないわ。ある種私はもう既に、人間に支配されちゃってるのよ。こわいわー人間こわいわー」
「たしかに。人間の作る酒はやめられないな、私も。あーあ。妖怪に管理されてるはずの人間たちに管理されちゃってるんだなー、私たちって。あの紅白もなまら強いらしいし、なんか、情けなくなってきたなー自分が。これはもう、やっぱりあれだな」
「うんうん。呑むしかないよ、ばんきちゃん」
 そのように、私たちの夜は更けていくのだった。

 店を出る頃、私たちは〝ふらふら〟だった。酒席を彩った〝妖怪の尊厳〟なんてどこへやら、千鳥足で満ちた月が照らす路傍の上をダンスした。

 程なくして、私は芒の生い茂る獣道を歩いていた。というのも、ふらふらになった影狼をその自宅まで送り届ける為である。
 その頃には、店を出て、いいからいいから、送っていくよ、なんて言っていた〝酔っ払い〟はやおら鳴りを潜め始めていて、私は妙に息遣いの荒い影狼に少量の不安を抱き始めていた。
「おい影狼、大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫……」
 影狼はしおらしく答える。具合が悪いのか、と問いかけるも、どうやらそうではないという。
 様子の妙な影狼を心配しながら、しばし芒の中を歩いていると、私の腕に掴まりながら歩いていた影狼が不意にその歩みを止めた。
 真暗な夜を、大きな月が煌々と照らす。光は強く、視界は俄かに青白い。吹き抜ける風が、芒をざわざわと揺らした。
 ひんやりとした夏の静寂の中、影狼がおもむろに口を開いた。
「……ばんきちゃんはさ」
 影狼のどこか弱々しい口調に、私は辺りが一層静まり返った気がして、口を開くことができなかった。
「……ばんきちゃんは、隠し事って、ある?」
 髪で隠れて、影狼の表情が読めない。
「ど、どうしたんだよ、急に」
 私の腕を握る影狼の手に、ぎゅっ、と、力が込められるのがわかった。
「……私はね、あるの。隠し事」
 不意に、影狼が私の胸に飛び込んできた。
「お、おい」
「ばんきちゃんが、家まで送ってくれる、って言ったとき、不安だったの。大丈夫かな、……我慢できるかな、って。でもそのときは酔ってたから、大丈夫だろう、なんて思っちゃって……」
 影狼が、私の服をぎゅう、と掴む。それはまるで、何かに追いすがるような弱々しさだった。
「お、おいったら」
「私、ずっと我慢してたんだけど、もう無理なの。ごめんね、ごめんね」
 そう言って、今泉影狼は私にその全体重を預けてきた。別段重たいということはなかったが、私は驚いて、そのまま地面へ倒されてしまった。
 気がつけば、影狼は私に馬乗りになり、私の頭の両脇を、逃げ場を塞ぐように掌を地面につけている。
 青白い月明かりが、上気した影狼の顔を照らす。私はそんな影狼の顔を見て、息がつまるのを感じた。
「か、影狼、やめろったら」
「ごめんねばんきちゃん、ごめん、ごめん。……私、もう――」
 ああ!なにかされてしまう!私がそう思った次の瞬間――。

 アヲーーーン。
 アヲーーーーーーーン。

 満月の芒の原に、どこか聞こし召した様子の遠吠えが響いたのだった。
 後日、影狼に今日の事を聞くと「姫にはどうか言わないで」と、影狼はその両手を合わせて、私に必死で懇願するのだった。

 私の夏の幕開けは、まあ、そんな感じだった。


 それからの私はというと、昼は食堂で働き、夕暮れ、仕事が終われば影狼と呑む、そんな日々を送っていた。
 〝いつもの居酒屋〟は、妖怪だということがバレてを出入り禁止になったので、私と影狼は新たな行きつけを見つけるべく、夜毎店をハシゴしては呑んだくれていた。
 影狼との酒席での話題は専ら〝人間について〟、或いは〝妖怪の尊厳〟、それらに付随する話だった。それから、比較的よく話題に上がったのは〝姫〟の話だった。〝姫〟の話をする影狼の表情はいつもどこか〝うっとり〟としたものだった。私はそんな影狼の語る〝姫〟の話を聞いて、件の姫に一度会ってみたいと考えるようになった。
 しかし、その機会はなかなか得られずにいた。なんでも姫――わかさぎ姫は〝水棲〟の妖怪らしいのだ。その特性と一目見ただけで妖怪と判別のつく容姿から、人里に出るのは難しいようで、会うにはこちらから出向く他ないという。
 私は影狼に何度か会いに行く提案をしてみたが、影狼はその度にうやうやしく私の提案をはぐらかすのみだった。
 そんなわけで、影狼の案内なしではわかさぎ姫の住処に辿り着けない私は、影狼のうっとりとして語る〝姫〟には会えないままでいた。
 そんなことよりも、夏の日差しの照りつける日々の中、私にとっての〝切実な問題〟は働き先の食堂に在った。
 それは、また一段と暑い日のことだった。

 私は日中目が覚めて、いつも通りに食堂へ向かった。道中、逃げて行く水溜まりを追いかけていると人里へはすぐに着いた。
 食堂の前に来ると、いつもならそこで体へと〝主導権〟を渡すのだが、その日、私はそれをしなかった。おい、今日は私にやらせろよ、と、それは一種の悪戯めいた思いつきだった。
 結論、その日の昼の業務は散々だった。雪崩込む注文の山中にて、皿を二枚割った頃、私は体へと主導権を明け渡したのだが。体は、やると決めたらやり通してみろ、などと言わんばかりに、主導権を受け取ることはなかった。
 婆さんはそんな私をみて、料理を作る手を止めることなく、全く、全く、とぼやき続けた。それから更に二枚ほど皿を割ると、ついには少女までもが、なんでかなぁ、どうしてかなぁ、と、呟き始めた。それはちょっとした地獄のような時間だった。そんな地獄の中、軽率な思いつきで業務に当たってしまったことを、私は猛烈に後悔したのだった。
 しかし、昼間の客をなんとか捌ききり、テーブルの上も片付いた頃、私はそんな身を焦がすような後悔も忘れ、夕暮れあたりにもう一度起こる〝注文の土砂崩れ〟までの時間を持て余していた。素直にいえば、暇だった。暇で、ぼんやりしていたのである。
 それは少女も同じだったようで、その辺りの時間は婆さんが店の奥へと引っ込むのをいいことに、少女は私に楽しげに話しかけてくる。
 お皿、あんまり気にしちゃダメだよ、なんてのを口開けに、少女の話は続いた。
 これも、私にとって問題の一部だった。少女の快然たる表情や話口調は、連日の影狼との酒席での会話を私に想起させずにはいなかったのだ。
 話もほどほどに、それにしても、暇だねえ、暑いねえ、などの言葉が頻出し始める。私はそんな少女に対し、なんとはない罪悪感を抱きながら、ああ、暑いなあ、なんて相槌を打っていた。
 空が俄かに朱を帯びる頃、それは起こった。
 やることが見当たらず、そんな時間が昼からずっと続いていた私は、いよいよもってぼんやりとしていた。
 そんな普段にも増して〝ぼんやり〟な私の視界に、例の小さなミミズが現れたのである。気付けば私は〝ぼんやり〟と、視界の端のミミズを追いかけていた。体も〝ぼんやり〟していたのか、それを止めることはしなかった。
 逃げるミミズを追いかけて、首が、くるん、くるん、くるん、と三回転したころ、私はハッとした。私の眼前には、目を丸くした少女の顔があったのだ。
 少女は途端に腕を組み、なにやらぶつぶつと高速で呟き始めた。私はそれが、少女が何か自身を納得させる際の癖だということを承知していた。
 私は焦って、違うんだ、これはその、特技であって……などと頓珍漢な弁明を試みるも、少女の〝呟き〟が治まる気配はなかった。
 少女は時折首を傾げては、いやでもなぁ……、たしかに首が……、と呟き続けた。それから少しの間、少女のそれは続いたが、不意に少女は、コク、コクコク、と二、三頷き、その顔を上げるのだった。
 おせきちゃん、ちょっと。と、少女は私の手を引いて、店の裏口から、其処の路地まで私を導いた。
 路地の中、幅の狭い排水路の木蓋の上で、少女は私の方へと向き直しては、出し抜けに私に尋ねた。
「おせきちゃん、私の名前、覚えてる?」
 私は少女の問いに対して、沈黙する他出来なかった。私は少女の名前を知らない。夏が始まってから、聞く機会が無かったのだ。無論、気にならないわけでは無かったが、名前を忘れたので教えて下さい、などと、言えるはずもなかった。
 瞬間、私は、私が何か失敗する毎に励ましてくれたり、婆さんの永遠に続くような叱責から私をかばってくれた少女の姿を思い出し、少女に対して、とても申し訳ない気分になった。無論、連日の影狼との酒席での会話――人間いじりも、少女に対する罪悪感をより辛辣なものへと変えた。
 その、ごめんよ。と口を開こうとする私を、少女の声が遮った。
「やっぱりね。おせきちゃん、また、なんだ」
 また。また、〝また〟。
 その一言は、私を酷く当惑させた。
「まあ、今日はやけにお皿割るもんだから、怪しいなあとは思ってたけど」
 私は、少女の言わんとするところを今一つ解さないままでいた。
「おせきちゃん。私の前で首回すの、今回が初めてじゃないんだよ。覚えてないだろうけど」
「おせきちゃん、お皿割ったり、ぼーっとすることが多くなると、いつもそのうち首を回すの」
「そして、首を回すたびに、私の名前も忘れてる。あーあ、ショックだな、私」
 少女は、態とらしく私を責めるような口調で言ってのけた。
 その時、私はどんな表情をしていただろう。もしかすると、鳩が豆鉄砲喰らって忽ち禿げて、その代わりに筋骨隆々になったような顔をしていたかもしないし、街行く人が突然往来の筋骨隆々の鳩を捕らえて噛り付いたのを目撃した雀のような顔をしていたかもしれない。わからないが、一つ言えるのは、それほど間抜けな顔をしていだであろうということだけだ。
「じゃ、じゃあ、知ってたのか。私がその、人じゃないって」
「まあね」
 少女は、えへへ、と笑って、 言葉を続けた。
「最初に分かった時なんて、今日よりもっとショッキングなもの、見せられたんだから」
 少女の語るショッキングなもの。それは、在りし日の〝私〟が屈んだ際、首が、ぽろっ、と落ちて、転がる首を、首から上のない私の体が慌てて追いかけた、と、そういう話だった。
「でも、あの時のおせきちゃんの素っ頓狂な顔ときたら……」
 少女はまた、えへへ、と笑った。私の口からは、思わず乾いた笑いが二、三溢れた。
「じゃあ、婆さんは。婆さんも知ってるのか?」
「お婆ちゃん?気付いてないんじゃないかな。まあ、お婆ちゃんもあれで勘がいいから、気付いてるかもしれないけど」
「そ、そうか……」
 少女は、まあとにかく、と切り出して、
「そろそろ戻らなきゃ。もし混んでたら、お婆ちゃんカンカンだよ」
 あんまり気にしちゃダメだよ、少女はそう言い残して、足早に店へと戻って行った。
 気にしないなんてそんなこと、出来るわけないよなぁ。その時の私の心中に浮かんだのは、そんな言葉だった。
 私は一つ溜息を吐いて、視線を下に向けた。そこには大雑把に組み上げられた排水パイプから流れ出た水が、生温くなって溜まっていた。
 そんな水溜りを一瞥して、私は店に戻ったのだった。
 店に戻るなり、私を待ち構えていた婆さんは私に小言を浴びせた。
「サボりに日当与えてたら、首が回らなくなっちまうよ。全く」
 先に戻っていた少女に助けを求めるように視線を向けると、少女は私に向けて申し訳なさそうに、はたまた気まずそうに両手を合わせるのだった。
 その後私は、結局有耶無耶になってしまった少女の名前について尋ねてみたが、少女曰く、悔しいから教えてあげない、自分で思い出してよね。とのことだった。
 
 それからその夜、私はやはり影狼と酒を酌み交わしていた。影狼の話はいつも通り〝妖怪の尊厳〟に終始したが、私は日中の少女とのやり取りを思い出し、軽率にも、
「人間もそれほど悪くないかもな」
 なんて台詞を吐いてしまったのだった。それはやはり軽率だった。影狼はそんな台詞を吐く私を訝しげに見つめた。
 そうして暫くすると、影狼はわかった!と、出し抜けに切り出した。
「ばんきちゃん、食堂でなにかあったんでしょ?あーあ、妖怪ともあろうものが人間に絆されるなんて、情けないわー」
 影狼はそのように、私を白々しく嘲るのだった。
 私はそんな影狼に少し腹が立って、二、三反論を試みた。
 しかし私がどれだけ言葉を尽くせど、影狼はニヤニヤと笑いながら、ふうん?と相槌を打つのみだった。

 明くる日、幻想郷を夕立が襲った。それは、天蓋に穴が開いてしまったかのような土砂降りだった。
 その日、私は一応、と思い、狂ったような豪雨の中食堂へと出向いた。しかし、食堂に着くなり〝こんな日は休みに決まってるだろう〟と、婆さんに叱られてしまった。婆さんのみならず、少女までもが私を叱った。
 というより、少女の方が婆さんよりよっぽど怒っていた。
「こんな日に傘も差さないで、何考えてるのさ、おせきちゃんたら!ただでさえすぐに体調崩すくせに」
 少女の叱責は私の身を案じての優しいものだった。しかし私はそんな少女の叱責を受け、自分が情けなくならずにはいられなかった。
 そうして、今現在。
 家に辿り着いた私は、布団の中に潜り、私の身に起きた〝切実な問題〟を思い返していたわけである。
 布団の中、体は相変わらず私を抱きしめている。私が眠るとき、体はいつも私の体を抱きしめる。
 いつもなら、なんとなく柔らかくて心地が良い、なんてことを考えなくもないのだが、今の私にとって、私を抱きしめる体の柔らかさは、私を更に情けない気持ちに追い込むだけのものに思えた。
 しかし、体に抱きしめられながら、窓を打つ不規則な雨の音を聞いているうちに、次第に眠気が私を襲った。
 私は自身の情けなさや、食堂での問題に諦めをつけるように瞼を閉じた。
 目を瞑ると、私の意識はやがて、私を包む柔らかさへと解けていくのだった。

 夜中、目を覚ますと、雨は未だ窓を不規則に叩いていた。
 布団の中、私は寝惚けてはいたが、それでも何か妙な感覚を覚えた。それというのも、いつもなら私を抱きしめている筈の体の気配を、布団の中に感じなかったのである。
 私はこれを不思議に思い、布団の中から部屋を見渡し、体の姿を探した。
 部屋には一つ、古びた机が在ったのだが、体はその机に座り、机上でなにかしら作業をしているようだった。
 それを見た私は薄らと、部屋に用途の分からないボロの工具が何点か散らばっていたことを思い出した。
 ああ、ともすれば、この雨にこの廃れた家屋だ。体は何か修繕の作業をしているに違いない。私は寝惚けた頭でそんなことを想像したが、寝惚けていたことや視点が低いこともあり、体が実際なにをしているかを見定めることは叶わなかった。
 しばらく見つめていると、体は視線に気付いたようで、やおら立ち上がり布団に潜り込んでは私を抱き寄せるのだった。

 朝、私は湿り気を帯びた夏の息差にやられて目を覚ました。体も同時に目を覚ましたようで、その上体をゆっくりと持ち上げる。
 汗だくの体はやおら私を気怠そうに持ち上げて、その首にすわらせた。そうして私が体の主導権を握ると、私に気怠い体の感覚が繋がった。
 どうやら外では蝉が鳴いているらしかった。恐らく昨日の雨で揺り起こされたに違いない。
 ああ、そういえば、雨の音が聞こえない。今日の天気はどんな塩梅だろう。私は外の様子を確かめてみることにした。
 木の板が乱雑に打ち付けられた窓を一瞥して、私は玄関へと向かった。
 戸を開け、空を見やると、空は昨日の雨が嘘のように晴れ渡っていた。ギラギラとした陽光が、私の瞳を嫌という程に突き刺す。
 土の均された路を見渡すと、路は泥濘んでいたが、そこかしこに出来た水溜りが、晴れやかな空を仰いでいた。
 けたたましい蝉の鳴き声の中、私は無表情に夏を感じたのだった。
 その後、私は例の食堂に居た。食堂へ入ると、私はやはり少女の表情を窺わずにはいられなかった。しかし少女は私に含みのある笑みを一度浮かべてからは、まさにいつも通りの態度を一貫するのだった。そんな少女のいつも通りな態度に、私はどこか頼もしさを感じて、思わず胸をなでおろした。同時に、やはり情けなさも込み上げたのだが、それは昨夜のそれに比べると〝ちょっとしたもの〟だった。
 それから一度目の〝土砂降り〟のような注文をこなした後、私と少女は相も変わらず暇を持て余していた。一つ変わったことといえば、私と少女の、暇だねぇ、の応酬に、さんざめく蝉の鳴き声が加わったことくらいか。
 そんな折、不意に食堂の戸が揺れた。基本的に、食堂の客は決まった時間に纏めてやって来るもので、それ以外の時間には殆ど客は訪れない。私と少女は少し驚いて、思わず目を見合わせて首を傾げた。
「客かな」
「さあ」
 立て付けの悪い戸は尚もガタガタと揺れている。
「客だったら、面倒だな」
「そうだね」
 婆さんが奥に引っ込んでいるのをいい事に、私と少女はそんなことを言い合せた。暇だ、暇だ、とはいいつつも、客に来られると面倒がるのは、私も少女も同じだった。
 その内に、戸はガラガラと不健康そうな音を立てて開かれた。
「いらっしゃい」
 戸が開くなり少女が言う。私はいつも出遅れてしまうのだ。少女に続けて、私もその句を述べようとした、その時だった。
「開いてるかな?」
 そう言って、戸の前に立つ人物を見て、私は驚愕した。
「見ての通りがらがらです。どうぞ、お好きな席へ」
「すまないね、ありがとう」
 妙に気障ったらしい口調で席へと向かうその人物は、今泉影狼に他ならなかったのである。
「ええと、メニューは」
「品書きでしたら、あちらに」
 影狼はどういうわけか、その身に妙な変装を施していた。
 変装、とはいっても、身に付けた衣服はいつもの影狼然としたもので、なんら違和感はない。頭に被った大きめの鳥打帽――ああ、影狼曰く〝きゃすけっと〟だったか。それもまあ、わかる。
 しかしある一点が、私に妙と言わしめた。
 影狼はその顔上半分を、なにやら〝どでかい〟サングラスで覆っていたのである。
「うーん。なにか、肉が食べたいな」
「お肉でしたら、生姜焼き定食などがございますが」
 どでかい、は私の言い過ぎかもしれなかった。しかし、なにがどうして、そのサングラスはやたらに〝ハードボイルド〟だった。
「じゃあカレーで」
「カレーライスがお一つですね」
 そんな〝ハードボイルドなサングラス〟は、私に〝どでかい〟印象を与えるには十分すぎるほど、妙だった。しかしよく見ると、なかなかどうして、似合っているように見えてくるのが影狼らしさか。
 ああ、そんなことより、影狼は一体この食堂へなにをしに来たというのだろう。
 夏が始まって以来初めての出来事に、私はまた当惑した。
「あ。大盛りで頼むよ」
「はい、カレーライス大盛りですね」
 ……。
「カレーライス、お待ちどうさまです」
「ありがとう。いただきます」
 ……。
 黙々とカレーライスを食べ進める影狼を、私は強張った面持ちで見つめていた。流石の少女もあのサングラスには当惑した様子で、同じようにそれを見つめていた。
 がらがらの食堂は、ハードボイルドなサングラスを中心に、妙な空気を帯び始めている。間の抜けた蝉の鳴き声が、余計に〝妙な空気〟の輪郭を際立たせた。
「うん。中々美味しいよ」
「あ、ありがとうございます」
 サングラスといい妙に気障ったらしい話口調といい、影狼はどういうつもりなのか。婆さんがカレーライスを作ってる最中、私は先日の影狼とのやり取りを思い出し、影狼は概ね私を絆した人間の〝偵察〟に来たのであろうことを察したが、私にはまた一つ疑問とは違う懸念が生まれたのだった。
「テーブルの調味料は好きに使っていいのかい?」
「ど、どうぞ!」
 少女が多少緊張しながら答える。
 私の懸念とは、影狼が妖怪であることを少女と婆さんに露呈してしまうことだった。それでもし、影狼が私の友人であることを口を滑らせたりすれば、私が妖怪であることが、婆さんにまでバレてしまうではないか。もしそうなれば、その時私は首斬りにされてしまうかもしれない。
 いや、それよりも第一に。
「じゃあ、醤油を使わせてもらうよ」
「どうぞ、ご、ご自由に」
 友達だと、思われたくない。
 こんな妙なサングラスをかけて里を歩き回り、カレーライスに醤油をかけるようなやつが私の友人だとバレたら……ああ!
 それから影狼がカレーライスを食べ終わるまで、私は更に表情を強張らせて影狼を見張るかのように見つめていた。
 少女もまた、どこか緊張した様子で、カレーライスをパクつく影狼を見つめていた。
 婆さんも途中までそんな影狼を眺めていたが、暫くすると「なんだいあのサングラスは。スタローンかい」などと奇怪なことを呟きながら店の奥へと引っ込んでいった。

 程なくして、
「ごちそうさま、美味しかったよ」
 影狼はそう言って席を立ち、戸へと手をかけた。戸は意外にもすんなりと開き、それが意外だったのか、影狼は少しよろけていた。
 ああよかった、何事もなくて。私が一息つくべくと息を深く吸い込むと、出し抜けに少女が口を開いた。
「あ、あの!」
「ん?」
 少女は影狼に駆け寄り、その手に持ったトレイでうやうやしく顔半分を隠しつつ、影狼に尋ねた。
「あ、あの、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
 ん、なんだろう、この感じは。
「私の名前か?そうだな、今泉影狼、とでも名乗っておこうか」
 本名じゃないか、と口を開きそうになったが、すんでのところで堪えた。
「ありがとうございます!あの、それで、ま、また来てくれますか……?」
「また、か。いつになるかは分からないけど、きっと来るよ。そうだな。品書きに、君の名前が追加された頃に、きっとまた」
 あまりにもな台詞に、少女は押し黙ってしまった。そんな少女を他所に、影狼は、それじゃあ、と去っていった。
 暫くの沈黙の後、私はハッとして少女に駆け寄った。影狼について何か弁解なきゃいけないような、こき下ろしてやりたいような気持ちになった為である。
 しかし私の口から出たのは、当たり障りのない言葉だった。
「その、なんか変な客だったな」
 少女は尚もトレイを顔下半分に抱き抱えて押し黙っていた。
「な、なあ、大丈夫か?いやそれにしても、変なやつだったなあ」
「……カ…ロウさん」
「え?」
「カゲロウさん。かっこいい……」
「え?」
 そうして、蝉の声だけが、私の聴覚を揺らし続けた。

 その日の夜、私は影狼に、どういうつもりだ、あのサングラスはなんだ、と問い詰めた。
 影狼は、
「気になっちゃったんだもん」
 と、悪びれもせずに答えるのだった。
 また、あの気障ったらしい話口調について私は、それを尋ねるのがとても恐ろしいことに感じて、終ぞ追求できぬままでいた。
 その夜にも蝉はやはり、けたたましく鳴いていた。


 そんな出来事があってからそう遠くない、ある日のことだった。

 どんどんどん、どんどんどん。
 と、何者かが戸を叩く音に私は目を覚ました。いつも暗い部屋からでは、現在が何時頃なのか判断がつかない。しかし、目が覚めてなお、睡魔が私を侵している。それは不十分な私の睡眠を指し示すには十分だった。
 判然としないまま戸口へ向かう私の耳に聞き慣れた声が響いた。
「ばんきちゃん?いないのー?」
 それはかの今泉影狼の声だった。溢れ出る能天気さの世話をしない影狼の朗らかな問い掛けに、私は慨嘆せざるを得なかった。影狼の常に一定した一種の間の抜けた感のする声は、起き抜けに聞くには辛いものがあったのだ。
 影狼は尚も戸を叩いては、ばんきちゃん、ばんきちゃん、と眠っているかもしれない私に呼びかけている。
「はいはい、今行きますよ」
 と、半ば諦観をもって戸を開けると、これまた妙な格好をした影狼の姿が私の視界に飛び込んできた。しかし、私が何より驚いたのは空のまだ黒いところだった。
「うわ、まだ真っ暗じゃないか。影狼、お前、今何時だと思ってんだよ」
「何時って、三時ぐらいでしょう?」
 私の言葉に理不尽な疑問符を付けて返答する影狼に、私は慨然と溜息を吐いた。
「お前、いつもこんな時間まで起きてるのか」
「そんなわけないじゃない!今日は早起きしたのよ」
 影狼の早起きの理由、それは影狼の奇妙な格好を見れば一目瞭然だった。影狼の纏う衣服はやはりいつも通りだったが、普段と違うのはその頭に麦わら帽を被っていること、その手に網を持ってること、その肩に何やらカゴをかけていること。そして何より、もう片手には恐らく私の分と思しきそれら一式が、器用に握り込まれているのだった。ああ、いやだ!行きたくない!
「ばんきちゃん、虫取りに行きましょうよ。最近香霖堂がカブトやクワガタを高く買い取ってくれるらしいわ。はい、これ。ばんきちゃんの分ね」
 そう言って、影狼は私に虫取り網とカゴと麦わら帽を押し付けた。
 空が僅かに藍色めいた頃、私と影狼は妖怪の山の中腹にて、カブトやクワガタの姿を数多の木の幹に探し求めていた。
 夜露の降りた草木は強く新緑の香りを帯びていて、息を吸うとむせ返るほどに私の肺を満たす。
 影狼が熱心に虫を探している間、私はそれをせずに、眠気で薄ら靄がかった意識の中、一人考え事をしていた。
 というのも、私は影狼が私の住居の所在を知っていたことに驚いていたのである。
 夏が始まってから初めて影狼と会った時、影狼は、その時節私が全然捕まらず、久々に会えた、と云っていた。なので、私はてっきり影狼は私の住居の所在を知らないのだとばかり思っていたのだ。しかし影狼は今回、あっさりと遠慮もせずに私の家に訪れた。影狼のいう〝私が全然捕まらなかった〟時期に、影狼がそれをしなかったとは考えられない。
 そうすると、その時期の私――〝前のやつ〟はどこで何をしていたのだろう。
「なあ影狼。お前、私の家に押し掛けたのは今日が初めてか?」
 木の幹を睨みつけながら私の前方を歩く影狼は、訝しげに答えた。
「押し掛けたって、人聞きが悪いわね。夏らしい儲け話を持って来てあげたんでしょー?感謝して欲しいくらいだわ。それに、なによその素っ頓狂な質問は、そんなわけないじゃない」
「はは、それもそうだな」
 言いながら、私はまた或ることを思い出した。
 私と影狼は道中河辺に沿って妖怪の山に向かったのだが、その河辺で、影狼が頻りに石を拾ってはカゴに詰めていたのだ。そのとき私は自身の眠たさと立ち向かっていて、それを気にするどころではなかったのだが、思えば、影狼は何のために石なぞ拾い集めていたのだろう。
 私は草木を掻き分けて行く前方の影狼に、なんなはなしに尋ねてみた。
 影狼は、
「ああ、姫にあげようと思って」
 と答えた。
 ああ、そういえば、以前影狼から聞いたような気がする。姫、わかさぎ姫はどうやら綺麗な石が好きで、それを収集しているとかなんとか。
 この後行くのか?と、私が何とは無しに尋ねると、影狼は、
「こんな格好で、行けるわけないじゃない」
 と、それを否定するのだった。
 私はそれからも色々なことをとりとめもなく頭に浮かべた。虫取りが嫌だったというわけではない。もちろん、家を出る頃は嫌で仕方なかったのだが、妖怪の山の麓に着いた頃には、私はそんな気持ちも忘れて、やおら瞳を輝かせていた。
 しかし、そこから山の中腹まで登ると聞いたとき、私の瞳の輝きは僅かに、しかし確実に濁った。中腹に辿り着いても目的の虫が中々見つからない状況は、私を退屈させ、ぼんやりとした思考の世界へ誘うには十分だったのだ。
 それから暫くすると、影狼が出し抜けに、きゃー!と声を上げた。
「ど、どうしたんだよ急に。びっくりしたな」
「みて、みてばんきちゃん!いるわよ、カブト、クワガタ、わんさかいるわ!」
「ほんとか!」
 影狼の指差す大きな樹木には、確かにカブトやクワガタが〝わんさか〟在った。私は、
「穴場ね」
 とはしゃぐ影狼に引っ張られるように、私自身の心がはしゃぎ出すのを感じた。
 しかし一方で、私はそんな流されやすい自分の心を、少し情けなく感じるのだった。

 正午。山をおりた私達は人里の茶店でぐったりしていた。
「ああダメ。もう一歩も歩けないわ、わたし」
「いやほんと、疲れたな」
 里に入る際、もしかすると影狼が例のサングラスを懐から取り出すのではないかと警戒していた私は、余分な疲れを感じながらも影狼に相槌を打った。
「結局一匹も捕まえられなかったし。はあ、悔し」
「ほんと、一匹も捕まえられなかったな」
 影狼のいうとおり、私達のカゴに虫の存在は無かった。影狼のカゴには少量の石が在ったが、私のは空だ。
「奴ら、意外と素早いのね。もっと簡単だと思ってたんだけど」
「な。難しかったな」
 里には蝉の声が響いていた。以前よりその勢いは衰えたように思えるが、それでも、私には蝉の声が虫達からの嘲りのように感じて、嫌に耳につくのだった。
「はあ、なにがいけなかったのかしら」
「なにがいけなかったんだろうなぁ」
 原因は、私と影狼の両名が虫に触れられないことにあるように感じた。しかし、私はそれについて言及するのも、なんだか馬鹿らしく思えて仕方がなかったので黙っていた。何より、夜分中途半端に叩き起こされた睡魔の虫が、私の頭の中に巣を張っていたのだ。
「はあ、眠たいわ。慣れない早起きしたせいね」
「ああ、私も眠たいよ」
 お前のせいで、という語句が喉元まで差し掛かったのを感じたが、どうやらそれも馬鹿らしさの検閲を前にして、すごすごと引き返していったらしい。
「おじさん、お勘定」
「はいよ」
 影狼はもはやただの甘い汁と化した削り氷を飲み干して、痩けた財布から代金を支払うのだった。
「でも、私、諦めきれないわ」
「おい影狼、そんなところに入っていくなよ」
 店を出るなり、影狼は店の路地へと入っていった。狭い排水路の上にはやはり木蓋が在った。どこか頼りない足取りで路地へと入っていく影狼を見て、私は仕方なく追従することにした。
「意外とこういう所にいたりするのよ、きっと」
「いたとしても、触れないじゃないか、私たち」
 路地の中程に至ると、影狼は立ち止まり、キョロキョロと店の外壁を見渡している。
「はあ、やっぱりいないわよね。あーあ、今日は諦めて、お開きにしましょうか」
「ああ、とっとと帰って眠るとしようじゃないか」
「そうね」
 去り際、私もなんとはなしに、影狼のするように路地を見渡してみた。
 木蓋の上には蝉の死骸やそれを運ぶ蟻の姿が見られたが、外壁にカブトやクワガタらしきものは見当たらなかった。
 そうして、私は帰路を辿った。
 しかしどうしてか、道中、私の眠たい頭には、排水路の木蓋の上を蟻に運ばれていく蝉の姿が反復して映し出された。それはまるで、酒場などで見た切れかけの電球のように、いつまでも焦ったく、点滅を繰り返すのだった。

 蝉の鳴き声が殊更その勢いを落とした頃、日中、私は少女の勧めで縁日に来ていた。
 最近、食堂での業務になかなか身が入らない私を見かねた少女が、今日の縁日の存在を教えてくれたというわけである。
 しかし少女は私に、縁日に行って見てはどうだろう、と言ったのちにわ私がいまいち身が入らないのは夏バテが原因なのではないか、と私の体調を憂慮している様子だった。婆さんはそんな私と少女のやり取りを聞きつけて、少女と一緒になって、
「また体調崩されたんじゃ、困るよ、全く」
 なんてボヤいていた。
 そのやり取りの中で、少女は縁日に行かないのか、と尋ねてみると、意外にも意外な答えが返って来たので驚いた。
 少女は私の問いに何か不敵な笑みを浮かべて、
「ふふん。私はね、なんとカゲロウさんと縁日をまわることになったの」
 と言ってのけたのだった。加えて、だからおせきちゃんとは一緒にまわれないや、ごめんね、なんて同情までされてしまった。
 私はその日の夜に、これはどういうことか、と影狼を問い詰めた。なんでも、里で見つかってしつこく付きまとわれた、という話だった。普段〝妖怪〟という言葉そのものに尊厳めいた感情を抱いては人間をこき下ろしてばかりいる影狼が少女の猛攻撃にたじたじになっている様を想像すると、私はそんな影狼に〝らしさ〟を感じずにはいられなかった。
 ちなみに、その際例のサングラスはかけていたのか、と尋ねると、影狼は然として、かけていた、と答えた。
 そんなわけで、私は白昼の中、一人寂しく縁日をまわっているわけなのである。
 縁日は人で賑わっていたが、あの〝虫取り〟以来、どうにも体が重たい私は、いまひとつ縁日を楽しめないままでいた。
 もしかすると、少女と影狼も今の時分に縁日に来ているかもしれなかったが、私はそれを探すでもなく歩き続けた。射的、型抜き、輪投げ、くじ引きと、様々な出店が立ち並んでいたが、私の食指が動くことはなかった。
 傍ら、河童が何やら子供向けの新製品の展示販売をしていたが、どうやら展示品が電池切れを起こしたらしく、子供達からブーイングを受けていた。それを横目に通り過ぎると、金魚掬いの出店が私の目を引いた。大きな水槽の中でたくさんの金魚が泳ぐ様は、俄かに私の心を動かした。
 綺麗だな。
 そんな言葉を浮かべた途端、私の頭に例の蝉の死骸が点滅した。
 夏が終わるまでにすくわれなかった金魚達は、夏が終わればどこへ行ってしまうのだろう。そんな考えが私の中で鎌首をもたげた。私は途端に陰鬱とした気持ちになり、踵を返して家路を辿るのだった。
 屋台の連なりを抜ける前、戯れにアクリルで宝石を模したおもちゃなどを救ってみたが、私の気分が晴れることはなかった。少女曰く、夏の終わりにもう一度縁日があるという話だが、それに私が赴くことはないだろう。
 その日、家に帰っていつものように買い置きの酒を呷り、夜には眠りに就いた。
 夜中に目を覚ますと、布団の中から〝体〟が消えていた。
 以前、夜中に私が目を覚ますと、いつもなら私を抱きしめて眠っている筈の〝体〟が布団の中におらず、部屋の古びた机でなにやら〝作業〟をしていたことがあった。それから、同じようなことが何度もあったので、私は今日もそうなのだろうと考えて、部屋の古びた机に目をやってみたが、どうやら今日はそうではないらしいことがわかった。トイレにでも行っているのだろうと考え、家の中をそれとなく探してみたが、終ぞ体を見つけることは叶わなかった。
 しかし、私はこれを好機と捉えた。というのも、私は黴だらけの敷布団の下にいつも〝ノート〟のような物の感触を感じていたのだ。いつもは体が私を抱きしめている手前、それを公然と確かめることが出来なかった私だが、今ならば或いは。いや、これを確かめるのは今しかない。私はそう考えた。
 布団をどうにか無い腕でめくると、そこには確かにノートがあった。これはもしかすると〝体〟の日記だろうか。悪戯心に胸が踊るのを感じつつ、私はノートを開くのだった。
 しかし瞬間、私の心を戦慄に似た不安が襲った。
 開いたページには、大きく『ひみつ』と書かれているのみだったが、私はなにか、私がこのノートを見るのを予見されていたような気がしたのだった。
 それでも私は、ノートの続きが見たい気が起こり、ページを捲ってしまったのだった。
 そこで、先の大きな『ひみつ』の文字が、私の覗きを予見してしたためられたものでは無い、ということがわかった。何故ならば、ページをいくら捲れども、ノートにはただひたすらに、同じ文字が綴られていたからである。
 『ひみつ』、『ひミツ』、『ヒみツ』、と、表記のブレはあったが、ノートに書かれているのはどこまでも『ひみつ』の文字だけだった。
 私が言い知れぬ不安を感じながら『ひみつ』の文字を眺めていると、不意に上り口の木戸がガタガタと音を立てた。体が帰ってきたのである。
 私は焦ってノートを元の位置に戻し、敷布団を被せて狸寝入りをした。
 幸い、体は何一つ勘付くこともなく、布団に潜り込んではいつものように私を抱きしめ、私の頭頂部を優しく叩くのだった。
 私を抱きしめる体の柔らかさは、私をどこか不安にさせた。私を抱きしめる腕の中で、私の頭には何故か、昼間、縁日で見た金魚が浮かんでいた。金魚達が大きな水槽の中で、その小さな体を揺らしながら泳いでいる。赤いのや、黒く斑の入ったもの、また真っ黒の金魚。
 それらが、私の頭の中を泳ぎ回っていた。そんなとき、不意に外で蝉が鳴いた。瞬間、泳ぎまわる金魚の映像の中、例の蝉の死骸が点滅を始めた。
 そんな想像の傍ら、私はぼんやりと、言葉を浮かべていた。

 ああ、夏が終われば、あの金魚達はどこへ行ってしまうの、だろう。

 蟻は、蝉を何処に運んでいくのだろう。
 
 体は夜毎、私が眠っている間、何をしているというのだろう。
 
 私の前のやつ。
 私の次のやつ。

 ああ、私は、夏が終われば。

 不安に似た曖昧な柔らかさの中で、思考は金魚のように、いつまでも、すくわれず泳いでいた。
 私にとって二度目の、満月の夜だった。
 
 
 それから私は、あまり外へ出ずに、家に引きこもるようになった。薄暗い部屋の中は落ち着いた。一応、暫く暇を貰うために食堂へと出向いたが、夏の穏やかな日差しは今の私にとってなんとなく辛辣に感じられた。
 夜はまだよかった。夜になると、時々影狼が私の家を訪ねた。そうして影狼と飲み歩いていると胸のすく気分だった。
 家にいる間も、私は極力体に主導権を与えなかった。体が私の意思とは別に動くのを見るのが、なんとなく嫌だったからだ。
 それでも体は、私があんまり長い間引き籠もっていると、私の握る主導権に時たま指をかけた。私も、どうしても仕方ないときは体に主導権を明け渡した。すると、体は私の気をひくように、鏡の前でストレッチなどを始めるのだが、私はいつも、それを見るともなく見つめていた。
 そうした日々の中、私は漠然と例の金魚達を思い浮かべていた。金魚達が大きな水槽で美しく泳ぐ様に夢中になっていると、いつもそのうちに無数の蟻が私の脳内に蝉の死骸を運んできた。そんなとき、私はいつも少し泣いた。
 そんなある日、廃屋のような我が家の戸を、コン、コン、と丁重に叩く者があった。私はとっさに影狼の顔を浮かべたが、すぐにそれをかき消した。影狼の戸を叩く音は、どんどんどん、と云ったもので、今回のそれとは大きく異なっていたからだ。
 しかし、戸を開けると、そこに居たのはやはり今泉影狼だったのである。
 私は影狼がそんな丁重なノックをしたことに驚いたのだが、真に驚くべきは影狼のその姿だった。
 先ず、身に付けた衣服が普段のそれとは大きく違った。その時の影狼の衣服には、普段の衣服にはない、慎ましいながらも瀟洒な装飾が施されていたのだった。影狼のその顔にも少なからず何か工夫が凝らされていたように思うが、そういったものに頓着のない私は詳しいことまでは判らなかった。
 とにかく、影狼は普段よりずっと〝よそ行き〟だった。
 そんな影狼を見て何とは無しに予想はついていたが、影狼はやはり〝わかさぎ姫〟に会いに行こうと、そう言った。
 比較的涼しい空の下、私は影狼に連れられて、霧の湖へ向かうのだった。
 山の麓、霧の湖までの道は意外なほど小綺麗に均されていて、それは歩きやすいものだった。影狼曰く、妖怪の山の神様が、最近観光客向けに道を整備したという話だった。私が妙に感心しながら小綺麗に均された道を歩いていると、程なくして霧の湖、その岸まで辿り着いた。
 そこは大きく空が開かれていて、水面は陽光をキラキラさせながら、その大きな空を快く仰いでいた。その光景を見て、否応なしに湧き上がる感動に、私は少し変な気持ちになった。
 岸辺には独特な形の石が二つ置かれていた。影狼はその石を一つ拾い上げると、水面にそれを放った。石はぽちゃん、という音を立てて、水底へと沈んでいった。どうやら、それがわかさぎ姫への合図になっているらしい。
 ともすれば、岸辺にも一つ残された石は私の分なのだろう。私はなんとなく察していたが、それを放ることはしなかった。
 不意に水面が揺らいだかと思うと、程なくして、水面は勢いよく飛沫をあげた。
 私は飛沫に驚いて、一瞬の間目を瞑った。瞬間、
「影狼ちゃん!来てくれたんだ」
 嬉しそうに影狼の名を呼ぶ声が響いた。
 瞼を開くと、そこにはわかさぎ姫の姿が在った。
「それにばんきちゃんまで!ああ、今日はなんて良い日なのかしら」
 陽光をキラキラと反射させる美しく澄んだ水面の中、嬉しそうに語るわかさぎ姫の姿は、その美しい景色そのものに思えた。
 それから、私は私が驚くぐらいに言葉を紡いだ。
 夏が始まって、影狼に襲われかけたこと、視界の端のミミズを追って目を回したこと、影狼のかけるどてかいサングラスのこと。それらをわかさぎ姫に面白可笑しく聞かせると、わかさぎ姫はその口に手を当てて美しく、しかし可愛らしく笑うのだった。
 私はそんなわかさぎ姫の姿が妙に嬉しくて、夏に起きた出来事を殆ど語り尽くしてしまったほどだ。しかし私の話はやはり今泉影狼の素っ頓狂な行動が主な割合を占めた。すると影狼は負けじと、私の人間に絆されたことや、私が酒席でミミズを追いかけて目を回して仕舞いに吐いてしまったことなどを、わかさぎ姫に面白可笑しく語るのだった。それでも、わかさぎ姫はその口に手を当てて、しとやかに、はたまた快活に微笑むのだった。わかさぎ姫の手は透き通るような白さで、その指はすんなりと長く、一本一本の関節にはうやうやしく薄い紅が差していた。私は気付けば、わかさぎ姫の一挙手一投足に注視するようになっていた。
 中でも私の目を引いたのは、わかさぎ姫を〝水棲の妖怪〟足らしめるその鱗だった。私にはその鱗の一枚一枚がキラキラと輝いて見えた。しかし、その鱗達が水面からチラリと見える度、私は妙に恥ずかしいような気持ちになった。それはなにか、気安く見てはいけないものな気がしたのだ。
 それから、私と影狼の話は途切れることを知らなかった。私たちが何かを話すたび、わかさぎ姫はただただ楽しそうに微笑んだ。
 わかさぎ姫のしとやかで、はたまた可愛らしい澄んだ笑顔は、私の視界の中、どこまでも美しく輝いて映るのだった。
 恐らくその時、私はわかさぎ姫に恋をしたのだろう。
 そんな楽しい時間は、日が落ちるまで続いた。
 そうして、その日を境に、私は外に出ることの一切を放棄した。

 
 今は何時頃だろうか。影狼が上り口の木戸を叩いているから、朝かもしれないし夜かもしれない。
 あれから、私は一切の夏を放棄していた。
 時たま戸を叩きにやってくる影狼には申し訳ないが、私はもうそれに応じる気が起きない。私はただ、日差しの差し込むことのない暗い部屋で、ただぼんやりと時をやり過ごしていた。
「ばんきちゃーん?いないの?姫のところにいきましょうよー」
 戸を叩きながら、影狼はいつも通りのどこか間の抜けた声をあげる。
 行けば、きっと楽しかった。しかし私にとって、その楽しさは、夏の景色の美しさは――わかさぎ姫の美しさは、痛いほど、辛辣なものだった。私はもう、綺麗な夏を見たくない。
「今日は絶対、アヲーンってしないからー。……ばんきちゃん居ないのかな」
 行けば、きっと楽しかった。でも、行って、笑って。それが一体何になるのだろう。
 どうせ私は、夏が終われば。
 ……。
 戸の揺れがおさまり、影狼が去った頃、私は或ることに気付いた。
 ああ、ともすれば〝前のやつ〟もこうしていたに違いない。だから影狼は――。
 ああ、ばんきちゃん、仕事でしょ。人里で。もう、最近ばんきちゃん全然捕まらなくて、久々に会えたー、と思ったんだけど。
 ――あんなことを言っていたのだろう。
 私は、私が〝前のやつ〟と同じように時を過ごしていことに気がつき、少し救われたような気になった。しかし、それは一瞬のことだった。私の前のやつ――。
 ああ。お前の生きる季節は〝夏〟というらしい。影狼から聞いた話によると、夏は暑いだけで何も良いことがない、という話だ。ははは。まあ精々、楽しみにしておくことだな。
 ――あの生首は、確かに笑っていた。それを思い返すと、私にはそれが羨ましくて、妬ましくて、たまらなくなった。
 それから、私は〝体〟がどれだけ私の握る主導権に指をかけようと、その主導権を明け渡すことはしなかった。
 体が夜な夜な私の眠っている間に行うあの〝作業〟が、私にはどうも怪しく思えて、仕方がなかったのだ。根拠はないが、あの〝作業〟をさせなければ、私にとっての〝次のやつ〟が現れることはないのではないかと考えたのだ。しかし、私は眠る。眠っている最中、体が動くことを止める術は私にはない。なので、私の頑なさは、幼稚な八つ当たりと表現することもできるだろう。
 暗い部屋の中、私は一つ、自嘲めいた笑いを溢した。
 それから、私がまたぼんやりとしていると、不意に、視界の端にあの忌々しいミミズが現れた。私にとってこのミミズは、今まで〝私の首〟が何度もすげ替わってきたことを明示する忌々しい証に他ならなかった。
「……お前さえ」
 私はミミズを追いかけた。
 ミミズが逃げる。追いかける。
「お前さえいなければ、私は!」
 回る視界に、用途不明の工具が映る。
 ミミズが逃げる。追いかける。
「私はずっと、影狼と笑っていられた筈なのに!」
 回る視界に、古びた机が映る。
「あの子の名前だって、覚えていられた筈なのに!」
 ミミズが逃げる。追いかける。
 回る視界に、木の板が打ち付けられた窓が映る。
「お前さえいなければ、私はもっと、姫と話せた筈なのに!」
 ミミズが逃げる。追いかける。
 回る視界に、床に転がる数多の頭蓋骨が映る。
「お前さえ、お前さえいなければ!私は春だって、秋だって、冬だって、好きになれた筈なのに!」
 私は尚も、ミミズを追い回し続けた。
 そのうちに、視界はぐちゃぐちゃになって、ミミズは見えなくなっていた。

 蝉の声はもう、聞こえなかった。私はとても悲しくなって、まだ鳴いてる蝉は居ないかと、外へ飛び出した。
 家の外は、とても静かな夜だった。ぼんやりとした青白い光が、辺りを照らしている。
 空には大きな月が浮かんでいた。
 月は、残酷に、優しく、柔らかく、とても綺麗に、丸まっていた。
 それが、私にとっての最後の満月で。
 そんな月を見て、私はやっぱり少し泣いた。
 泣き疲れた頃、私は一つ、心を決めたのだった。
 その後、私は久しぶりに、体に抱かれて眠りについた。




 目がさめて外に出ると、空はまだ明るかったが、最早薄らと少し欠けた月が浮かんでいるのだから私は驚いた。
 私は焦って駆け出したが、不意に体が私を引き止めたような気がしたので、足を止めた。
 体はどこか遠慮がちに私の握る主導権に指をかけている。急いでるから、少しだけだぞ。と念を押して、私は体に主導権を明け渡した。
 すると、体はおもむろに家の脇の茂みへ近付いて、その茂みをまさぐり始めた。
「あ、あんまり汚さないでくれよ。今日は大事な日なんだから」
 体は尚も茂みをガサガサとさせていたが、程なくして何かを掴んだようにその動きを止めた。
 体が茂みから勢いよく腕を引くと、茂みからはなんと手押し車があらわれたのだった。
 体は茂みから手押し車を完全に引っ張り出したところで、私に主導権を返した。
 私は茂みからこんな大きな物が飛び出してきた時点でかなり驚いたのだが、その手押し車は底が深く、何より御誂え向きに背もたれが取り付けられていたのだ。そんな手押し車は私の目に、ちょっとした車椅子のように映った。
 まさか茂みからこんな御誂え向きな手押し車が出てくるなんて。
「これ、お前が作ったのか?」
 私は思わず体に尋ねた。
 体は反応を示さなかったが、なんとなく、これは体の用意したものに思えて仕方なかった。
 途端に、昨日までの体への仕打ちが頭によぎった。
「その、ごめんな。昨日まで八つ当たりみたいなことしてさ」
 やはり体はなんの反応も示さなかったが、それでも私は、どこか胸が暖かくなるのを感じた。しかしその暖かさは、まるで体が私に応えて生じたものに思えて。私はどこか面映ゆい気持ちを感じながら、薄く浮かぶ月に急かされるように駆け出した。
 おおい、わかさぎ姫。おおい。
 霧の湖、岸辺に私の声が響く。麓の山道を手押し車を押して走るのはかなりキツかった。私は呼吸を乱して、石を放るのも忘れてわかさぎ姫に呼びかけた。空はまだ辛うじてその明るさを保っていたが、今にも緞帳が下りてしまいそうだ。
 そこで私は漸く石を放る合図を思い出して、足元に二つ転がる独特な形の石、その一方を掴み湖に放った。ぽちゃん、という音がして、石は水底へ沈んでいく。
 程なくして、水面が揺れた。そして、水面が飛沫を上げる。
「影狼ちゃ……あれ?ばんきちゃんじゃない。もう、ばんきちゃんの石はこっちでしょ」
 ふふ。と笑いながら、わかさぎ姫は岸辺に置かれたも一つの石を指した。
「あはは、間違えちゃったか」
 わかさぎ姫が笑ったのが嬉しくて、私は少し照れながら答えた。
「でも、来てくれて嬉しい。今日はどうしたの?あ、ばんきちゃん走って来たんでしょう。そんなに息切らして。もう、ばんきちゃん体弱いんだから、そんなに急いで来ることないのに」
 わかさぎ姫はやっぱり、ふふ。と笑って。でも、嬉しいな、と付け加えた。
「姫、行きたいところはないか。どこでもいい、私が連れて行くよ」
「うそ!本当に?」
「本当だとも。ほら」
 私は後ろに置いた手押し車を指差した。手押し車には並々と水が注がれている。注がれている、とはいえ、私が先ほど湖に沈めて持ち上げただけなので、厳密には注がれたわけではない。ちなみに、かなりキツかった。私の息切れの要因の一つである。
「ああ、その手押し車!」
 懐かしい、なんて言いながら、わかさぎ姫は驚いたように口を両手で覆っていた。
「姫、どこに行きたい。ほんとに、どこでも連れていくよ」
 わかさぎ姫は暫し逡巡して、じゃあ、と徐に口を開いた。
「私、縁日に行きたい」


 里に着く頃、空はもう夕暮れていた。紺色が、今にも橙色を押し潰してしまいそうだった。里では縁日が開かれていた。夏の終わりの縁日だった。ひしめく人々は、薄暗い紺と橙の空の下、屋台の灯に照らされている。私が見た夕景の中で、一番綺麗な夕暮れだった。
 ひしめき合う人々が通りを流れていくその様子は、緩徐として強かに流れる川を思わせた。
 そんな人の川の中を、私はわかさぎ姫の乗った手押し車を押しながら歩いている。手押し車にはわかさぎ姫の〝水棲〟を隠すために、私の外套がかけてある。外套をかける際、私はなんとなく裏地の青を表面にして水棲を覆った。
 何やら向こうの方で演し物をやっているらしく、祭囃子の笛の音や、太鼓の音が響いてくる。人々の喧騒に絆されて、私の顔は何だか火照っていた。
 わかさぎ姫は、
「賑やかね。綺麗ね」
 なんて言いながら、綿菓子を啄むように食べていた。そんなわかさぎ姫の仕草を、私は少し息が詰まるのを感じながら見つめていた。あんまり見ているとわかさぎ姫に悟られてしまうのではないかとひやひやしたが、でも、バレたらバレたで、それもいいや、と考えていた。
 すると、わかさぎ姫が何かを見つけたように、あ。と声を上げた。
「ねぇ、ばんきちゃん」
 わかさぎ姫が、あれ、と指差したのは型抜きの屋台だった。
 屋台に入って、私とわかさぎ姫は型抜きをした。わかさぎ姫は器用に〝槌〟の型をくり抜いていたが、傍らで、私の〝瓢箪〟は物の見事にバラバラになっていた。ばんきちゃんは意外に不器用よね、と、わかさぎ姫は笑っていた。
 どれ、という気持ちで体に主導権を渡してやると、体は嬉々として店主に小銭を渡し、型抜きを始めた。しかし数秒しないうちに、体は〝独楽〟に亀裂を走らせるのだった。
「全然ダメだなぁ」
 なんて私が言うと、体は照れたように私の後頭部を掻いた。
 それから、いろんな屋台をまわりながら歩いた。わかさぎ姫の射的の至妙さには驚かされた。わかさぎ姫の放った弾は、悪ふざけに設置された〝香車〟すら見事に撃ち抜いた。私自身射的の腕はそこまで悪くなかったが、やはりわかさぎ姫程ではなかった。しかし、輪投げは二人してダメだった。
 それから、並ぶ看板の中に『河童の新製品 手を鳴らすと反応するおもちゃ』という何だかその宣伝文に不器用さを感じるものを見つけた。物は試しと、屋台の前まで行くと、そこには何やら憎らしい顔をした〝カッパのおもちゃ〟があった。屋台の前には子供達が集っていて、各々懸命に手を叩くので、それはまるで称揚の拍手のような具合になっていた。
 子供達の拍手に反応し続ける〝カッパのおもちゃ〟は、延々と、『ウッサインジャイ ウッサインジャイ』と繰り返していた。
「なんか、憎たらしいおもちゃだったな」
「えー。可愛かったじゃない」
 それから、河童の展示販売の屋台を後にして、私はまた人の川の中を歩いていた。わかさぎ姫の乗った〝ちょっとした車椅子〟押して歩いていると、人混みに揉まれることなく、比較的するすると通りを歩けた。
「まさか見るだけで金取られるとはな」
「ほんと。でも、安くてよかったわね」
 わかさぎ姫はその手にりんご飴を握りしめている。屋台にりんご飴を見つけた、ばんきちゃんに似てる、なんて言うものだから、私はまた息の詰まるのを感じてしまった。
「でも、おもちゃ自体は滅茶苦茶に高かったな」
「ふふ。あれじゃあきっと、誰も買ってくれないでしょうね」
 そうして、私たちは暫く喧騒の中を曖昧に笑いながら、とりとめもなく話し続けた。私はそんなとりとめもない話が、嬉しくて、楽しくて、たまらなかった。
 ふいに、わかさぎ姫が、ああ!と嬉しそうな声を上げた。どうやらその感嘆の矛先は金魚すくいの屋台に向いているようだった。泳ぐ金魚達を、綺麗、なんて言ってはしゃぐわかさぎ姫は、綺麗なのに可愛くて、私は、ずるいな、と思った。
「みて、あの赤い金魚。くるくる回って、可愛い」
「ああ、ほんとだ」
「赤くて尻尾がリボンみたいで、くるくるしてて、ばんきちゃんみたい」
「私が回ってるところ、見たことないくせに」
「あるわよ、何回も」
 わかさぎ姫は口に手を添えて微笑んだ。私が財布を取り出して、やってみようか、と尋ねると、わかさぎ姫は、ううん、と答えて、少し憫れむような眼差しを、金魚達に向けるのだった。
 そうして、金魚すくいの屋台を通り越し歩いていると、わかさぎ姫が突然、いけない、隠れて!と声を上げた。私は思わず踵を返して人混みに紛れた。
「ね、ばんきちゃん。みて、あれ」
 何やら愉しそうに微笑むわかさぎ姫の指差す先には、影狼と食堂の少女が並んで歩いていた。影狼が例のサングラスかけているものだから、私は思わず吹き出しそうになった。それに、影狼のあのおどおどした表情ときたら。
「あれが、ばんきちゃんの言ってた子?」
「そうだよ」
「可愛い子じゃない!影狼ちゃん幸せ者ね」
「何だかおどおどしてるようだけどね」
「ほんと。影狼ちゃん面白い」
 あんまり見てたら悪いわね、とわかさぎ姫が言うので、私はそのまま影狼達を背後に歩き始めた。しかし、私もわかさぎ姫もやっぱり影狼達が気になって、いつまでも後方を見やっていた。
「金魚すくい、やるのかしら」
「そうみたいだな」
「ああ!影狼ちゃんたら、女の子にお金払ってもらってる。もう、情けないんだから」
「あいつ、金ないからなぁ」
「まあ、影狼ちゃんたら、下手っぴねぇ」
「ほんと。なんだ、あの情けない顔は」
 私とわかさぎ姫の視線の先には、破れた網を残念そうに掲げた影狼がいた。少女はその傍らで、器用に金魚をすくい続けている。影狼はそれを、情けないやら、感心するやらの表情で見つめていた。
 そんな光景を見た私の頭の中で、赤くて小さな金魚が、元気よく跳ねた。

 それから、私とわかさぎ姫は麦酒を飲みつつ縁日を彷徨っていた。今日はお酒を飲むつもりはなかったのだが、思いがけずわかさぎ姫が飲みたがったので、結局私はのんでしまっているというわけだ。わかさぎ姫が一口ずつ口を離してはちびちびとやるので、私もそれに合わせた。
 そろそろ殆どの屋台をまわってしまっていた私たちは何をやるとも無くウロついていた。祭囃子の笛や太鼓の音が止んでから、人々の数は減るどころか増えてきているように思える。喧騒に耳をすますと、人々は何かを待っている様子で、それが私たちを縁日に留めた理由だった。もちろん、私がこの時間が終わるのをを惜しんだことも、その理由の一つ他ならないが。
「なんだか、騒がしいはずなのに、静かに感じるわね」
「祭囃子が止んだからかな」
「それもあるんでしょうけど、なんでかしら」
 わかさぎ姫に言われると、俄然周りが静かに感じられた。そんな静けさは、私に夏の終わりを強く感じさせた。私は、少し寂しくなって。
「なあ、姫」
 瞬間、辺りがパッと明るくなって、直後空から爆音が響いた。私もわかさぎ姫も驚いて、思わず空を見上げると、限りなく黒に近い紺色をした夜空を、綺麗な火花が彩っていた。
「わ。花火よばんきちゃん!」
 わかさぎ姫はまた無邪気にはしゃいだ。その瞬間、散り散りになっていく火花の横に、一つ大きな火花が咲いた。続けざまに、一つ、また一つ、夜空に火花が咲いていく。爆ぜるたびに、パッと光って、花火に見惚れるわかさぎ姫の顔を照らす。
「綺麗……」
 そう呟くわかさぎ姫の傍らで、その時私は、果たして花火を見ていたのか、それとも姫を見ていたのか。判然としないまま、それを見つめていた。
 わかさぎ姫が麦酒にちびりと口をつけるので、私も同じようにした。そのように、私と姫はいつまでも、夜に咲く火花を眺め続けた。



「今日はほんとに楽しかった。ばんきちゃん、本当にありがとね」
「うん。こちらこそ」
 霧の湖の水面を、青白い月明かりが照らしていた。そこら中に蛍がゆらゆらと飛んでいて、黒々とした水面に映る少し欠けた月は、風に吹かれて揺れていた。
「また、連れていってくれる?」
「もちろん」
 体の感覚はもう無い。霧の湖にわかさぎ姫を送り届ける最中に、体の感覚は遠のいて、気がつくと、私の四肢は〝体〟が動かしていた。
「じゃあ、今日はそろそろ帰るとするよ」
 私がそう言うと、わかさぎ姫は一寸、寂しそうに俯いて。しかしまたその顔を上げる頃には、わかさぎ姫はいつものように微笑んでいた。
「うん。……じゃあ、ばんきちゃん。ちょっとだけ、こっちに来てくれる?」
 体が、湖の岸まで歩いていく。水面から、わかさぎ姫は私の顔を見上げていた。
「少し、耳を貸して欲しいの」
 体が徐に私を首から取り外し、わかさぎ姫の顔の前に〝私〟を差し出した。

「あのね」

 そう言って、わかさぎ姫は、一瞬、その唇を、私の頬へと押し当てたのだった。
「それじゃあ、またね」
 少し照れた表情でそう言い残して、わかさぎ姫は夜の湖に溶けていってしまった。

 帰り道、麓の山道にて、歩く体に小脇に抱えられながら、私は今までのことを思い返していた。
 初めての満月の晩に響いた、影狼の聞こし召した遠吠えのこと。
 食堂で、私に、暇だねぇ、と語りかける少女のこと。
 ぶつぶつと、ぼやき続ける婆さんのこと。
 影狼の、妙すぎるあのサングラスのこと。
 虫取りに行ったのに、二人して虫の触らなかったこと。
 わかさぎ姫の、綺麗で可愛い笑顔のこと。
夏の空の青いこと。
夕空の、切ないこと。
 水槽の中、泳ぎ続ける金魚のこと。
けたたましい、蝉の声。
 そんなことを思い返す最中、私の視界の端に例のミミズが浮かんだが、私はもう、それを追うことはしなかった。

 家に着くと、体が私を抱きしめてくれた。体はとても柔らかくて、私はやっぱり泣きそうになった。でも、それ以上に幸せな気持ちだったから、涙がこぼれることはなかった。
「もういいよ。ありがとう」
 私が言うと、体は私の頭頂部を、ぽんぽん、と優しく叩いた。
 でも最後に、一つ気になったことを体に尋ねてみることにした。
「なあ、もしかして、私とわかさぎ姫は、その……」
 そこまで言うと、体は布団の下からノートを取り出して、白紙のページに何やら大きく文字を書いて、私に差し出した。
 そのページには大きくて、拙い文字で『ひみつ』と綴られていた。
「そっか、ひみつか。あはは」
「よし。今度こそ、ほんとに、もういいよ。今までありがとな」
 体がない首で、ゆっくりと、頷いた気がした。

 家に着いたその時には、既に次のやつが椅子に〝すわって〟いて。そんな〝次のやつ〟の前に〝体〟が〝私〟を差し出すと、次のやつの瞼が、ゆっくりと開かれたのだった。







 そうだな、まずは――。
 
言い訳が思い浮かんで仕方ないですが、やめておきます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
精進します。
kodai
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コメント



0.390簡易評価
2.100サク_ウマ削除
この重暗いのにすこしだけ明るい雰囲気、とても好きです
3.80奇声を発する程度の能力削除
良かったです
4.100名前が無い程度の能力削除
赤蛮奇がアンパンマンみたいでした。
あなたが次にどんなものを書いて下さるか、楽しみです。
5.90名前が無い程度の能力削除
この発想で淡々と進んでいく物語に不思議な気分にさせられ、“この”ばんきちゃんの視点にどんどん引き込まれます。
夏の描写も相まって終わりを自覚していくあたりの切なさが見事でした。
6.100名前が無い程度の能力削除
切ない
しかし不思議な生態だなぁ
7.100TAMAAAGO削除
こだいさんの書く女の子はどの子も本当に可愛いです。
それも色々なバリエーションの女の子を美しいまでに書き分けられていると思います。
序盤中盤の一定した最高レベルの面白さ。終盤の不気味さを、なぜあそこまで最高に清々しいほど「夏」という描写にまとめられるのかと、感嘆しました。
この作品を読まずに、今年の夏を終えてしまうのは、損と言っても過言ではないでしょう。
終。
9.100名前が無い程度の能力削除
なんというか、ラストが心にストンと来た
面白かったです
10.100名前が無い程度の能力削除
かなしい
必要な事以外はいずれ忘却してしまうと言うのがわかっているのは自らの死期を悟っているのに等しい寂寥感がありますね
ラストまで見て冒頭を見るともっとかなしい
12.100削除
次の彼女も、その次の彼女も、
きっと同じように素敵な体験をしていくのだろうと確信できる。
悲しみの通奏低音の上に主旋律が希望を奏でるかのような書きぶりに脱帽でした。
13.100名前が無い程度の能力削除
妖怪飛頭蛮の見ているとても残酷なのにどこかおかしく、優しく、切ない世界を見事に切り取った傑作です。序盤の設定から引き込まれ、飛蚊を追って目を回すなど彼女でないと分からないような話が見てきたように生き生きと語られ、この短い夏のイメージが鮮明に焼き付けられるわかさぎ姫との美しいシーンに心惹かれました。本当に面白かったです。
14.80名前が無い程度の能力削除
設定が斬新で面白かったです
次作も楽しみにしてます
19.100名前が無い程度の能力削除
悲しいけど爽やかだけど生々しい話で良かったです