Coolier - 新生・東方創想話

少女と人と妖怪桜-妖怪桜-前編

2005/11/27 08:47:05
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 ※この作品は、『少女と人と妖怪桜-少女と人-』の裏話的物語です。
 ※その為、その作品を読んでからの方がより一層楽しめます。




















 それはその場所に、ずっと前から立っていた。
 




 それがどれほど昔から存在していたかは、あまりに古すぎて覚えていない。それだけでなく、自分が何なのか、どこからやってきてどうしてここに居座ることになったのかさえも覚えてはいない。記憶と呼べるものは長い年月を経るうちに消え去っていき、原初の事は殆どが抜け落ちてしまっていた。


 それは己が実在していることは感じているが、その己がどういうものなのかと判別しようとすると、全ては闇の中。記憶を探ろうとしても、いつのまにか記憶というものさえもすっかり忘れている。時間とともに砂と化していく岩のようなものだ。段々と気付かないうちに己自身がばらばらになっていき、最後には何もかもが風に吹かれて消えてしまうのだ。己の存在であれ、記憶であれ、この世界であれ。


 しかしまあ、今現在己はこうしてここにいるし、この場所もまた存在している。きちんと視界に入ってくるものを判別することもできる。おそらくあと何千年もすれば己は完全に消え去ってしまうのだろうが、今はまだその時ではない。……ただ、あまりに長い時間を存在しているとたまに生きているのか消えているのかすら分からなくなる時があった。完全に消えては居なかったけれども、それはもう消えかけていることと同義なのではないだろうかと、それは思う。


 考えすぎた。今己が何をしているか、それを把握しよう。それはそう考えた。


 己を省みてみると、まず一番に上から見下ろしているということが分かる。下を見れば遠くの方に地面があるし、脇を見れば、何か、そう………『桜』というものもずらりと、かなりの数で並んでいる。そして正面には広大な物体がある。『桜』と隣にあるものを呼んだあの人間が言っていたことから判断すると、確か『屋敷』というものらしい。ここから見ても大分屋敷は大きく、人間に換算すれば何十人は入れるのではないだろうか。


 たまにあの人間が出てきてはそれを見上げて、一言二言何か呟いて―――時には独白をしているときもある―――あの屋敷へと戻っていった。一体何を抱いているのだろうか、あの人間がそれを見上げるときにはよく笑っている。たまに泣いている時もあるし、何か形容し難い表情をしているときもある。悲しいのか嬉しいのか、もしくは慈悲でも請おうとしているのか。この己が何かすら分からない存在に?


「あなたは、私と同じなんだね」

 以前に少女はそう独白―――この場合は、話したと言えるだろうか?―――をしたことがある。このことは覚えている、今まで誰も触ろうとしなかったのに、彼女はそれに触れたからだ。


 確かそれから、何と言っただろうか。


「あなたは人を食べて楽しいと思うかもしれないけど、私は悲しい。ごめんなさいって謝りたい気持ちになるし、怖い夢を見たときの気分になる。……だから、すごくあなたがうらやましいの。いやな気持ちにならないし」

 彼女はこう言った、…と、そう思う。それからも言葉は続いていたが、何を言われたかは忘れてしまった。これも己のことを忘れてしまったことと同じく、どうしようもないことなのだろう。


 彼女の口調そのものは世間話でもしているみたいだったが、その表情は全く違っていた。むしろ無表情に近く、寒々しさや諦念を感じさせるものだった。


 もうどうしようもない。少女の目は、そう訴えかけていた。


 それが自分と同じだと思い込んでいる少女が何を求めているかは、それには分からなかった。分かろうとも思わなかった。


 すぐ後に少女は庭に出ていた人間に連れられ屋敷へと入っていった。今まで屋敷の人間に大して注意を向けることは無かったので気付かなかったが、ここでそれはある発見をした。………その人間は、半幽霊を従えていたのだ。人間である限りそんなものと共存することは不可能であるのに、あの男はなんと、矛盾するべきものを同時に抱えていたのだ。生と死、互いの象徴である魂と幽霊、いやはや、どうして今まで己はこんなものに気付かなかったのだろうか? それは己の視界の狭さを恥じ、また己はそこまで消耗しているのかもしれないと思い至った。


 まさしく奇矯そのものである半幽霊を連れた男はあの人間を連れて行く際、それに目を向けた。『この子に手出しをするな』と、男の仰々しい目つきからはそう読み取れた。それを破れば男がどうするかも、男の中にはしっかりと刻み込まれているだろう。何にせよ男はそれほど興味が無いのでどうでもよかった。半幽霊を連れていること自体は面白いが、そこまで興味をそそられるものでもない。


 見たところ、あの人間と半幽霊の男の他にも屋敷に人間はいるらしい、二人か三人だろうか。それはあれだけの広さがある代物の中にそれぐらいしかいないことについて疑問を持ったが、すぐに立ち消えた。これもまたどうでもよかったからだ。


 己を視界に入れまいとしているのか、それらは滅多にこっちを見ない。ごく稀に目を向ける時があれば、あの人間とは逆の感情が込められている。憎悪に侮蔑、それにほんの僅かの恐怖感。あの人間は表情をころころと変えたりするが、こっちの方は極めて画一的だ。


 けれどもしかし、それだけだ。何か動きがあるわけでもなく、殺そうとしたり己を封印しようとすることもない。ただ何かしらの呪詛を呟くか、汚物を見るような目つきをこちらに向け、あとは放置するのみ。それにとっては、その方が大分良かった。下手に手を出されるよりも放って置いて貰ったほうが幾分楽であったし、この身を維持することだけでも消耗しているのが感じられたからだ。下手をして餌に逃げられたり殺されたりすれば元も子もない、そうなれば己は数十年のうちに朽ち果てるだろう。


 それの時間の感覚はあまりに不定形だ。一瞬一瞬が一昼夜のように長い時間にも感じられるときもあるし、その逆もまた然り。太陽と月の違いを見定めるということも無い。好きな時に行い、好きな時に止めるだけだ。ただ、ある程度の抑制が必要だということはわかっていた。今のペースが丁度いいのだ。人間の様子を見て良いと判断したら、人間を一人か二人。それ以上を行おうとすれば、おそらく歯止めが利かなくなるだろう。もしかすれば人間が攻撃してくるかもしれないし、だとすればその人間達を喰わねばならない。


 前にそれが行なった行為の事で、未だに人間は警戒している。だからこそだろうが……屋敷の中にいる人間からは、嫌なものを感じる。女の方はそれほどではないが、男は酷い。生死とまではいかないが、男が攻撃してくれば自分にとってかなりの痛手となるだろう。そう感じさせるだけのものが、男にはあった。


 男が来る前は、人間たちがそれを切ろうとしたことがあった。当然の如くそれは抵抗して、最後には人間が数人ほどばらばらになった。その後でここに男と女がやってきて、それの周りに何か―――黒い猛毒とそれは呼んでいる―――を描き、それのせいで消耗は一段と激しくなった。


 なに、食う数を増やせば良いことだ。


 人間達は十中八九己を警戒しているのだろうが………妙なことに、それが感じるかぎり、それだけに注意を向けているわけではなかった。遥か下にいる人間たちを見ていると―――というよりは、それぐらいしかすることが無い―――そういった諸々のことは分かってくる。もしかすれば、そうした情報の代わりとして昔の事象を忘却の沼に沈めているのかもしれない。なるほど、大いにありえることだ。


 時たま人間達があの人間―――そう、『幽々子』と呼ばれていた―――を見るときにも、己に向けることと同じような目を向けている。己の視界が正しければ、つまり幽々子は人間から蔑まされているし、怖がられている。


 どういうことだろうか。幽々子は己と同じ存在なのだろうか。その割には幽々子は足を使って身体を動かしているし、口の中に物を入れることもできる。前にここに来たとき、幽々子は桜餅という食べ物を口にしていた。そして己はここから動けない。そう言う面では同じというわけではなさそうだった。


 そうすると残るのは、それがしている行為であり、能力そのものだ。以前に下から聞こえた話から察するに、幽々子は西行妖と同じ能力を持ち合わせているのだろう。そして人から恐れられている。


 悠久の時間を生きていれば、本当に様々で色々なことがある。喜んだり、怒ったり、嘆いたり、何かで表すことも出来ないほど、本当に様々なことが起こる。そしてその出来事を満遍なく塗りつぶしてしまうほど様々なことが起きて、それが繰り返す。あまりにそれが数多く発生してしまい、最後には何も分からなくなってしまう。だが、退屈というものが残る。ほんの微量で他の感情を汚染し、悠久に負けないほど長い時間をかけて全てを埋め尽くし、やがて振り出しに戻ったかのように退屈のみが残る。それは酷く苦痛であり、また耐え難いものだ。


 だが―――暫くは、その退屈が場を占めるようなことは無いだろう。何せ己のすぐ近辺には同じ能力を持ったものがいるのであり、尚且つ自分とは根本的に違う者なのだ。一体それはどういうことなのか、それの行く末には一体何があるのか、思い描いただけでも退屈を打ち消すものが湧き上がってくる。いわゆる興味心というものが活発化しているのだ。


 面白いことになるだろう。


 西行妖と人に名づけられ、人を食うと恐れられている妖怪桜はそう考えて、自身の中で笑い始めた。その拍子に辺り一面に突風が吹き荒れ、麓でそれぞれのことに勤しんでいた人間たちは、一種の寒気を同時に感じた。


 何か末恐ろしいものがあると知ってしまい背筋が凍りついたような、そんな種類のものだった。















 行動を起こすならば、おそらく今が好機だろう。西行妖はそう判断した。こっちを監視してくる人間やあの嫌なものを放つ男がいたが、だからといって見咎められる心配は欠片ほどもない。


 それに消耗は耐えがたいところまできている。このままでは限界が来るだろう。


 おそらくそれを視認できる人間は、この世界にはいないに違いない。精神―――そうでなくとも、それにごく似たもの―――を集中させると、西行妖は本当にわずかに、極限まで緩めた振動を起こして身体を揺らし、その際に西行妖の表面からはそれが出てきた。


 それは粉のようでもあったが、決して粉の範疇に入る代物ではなかった。その小さい何かは人間に見えるものではなかったし、何より意思を持っていた。何百万もの粒からなる微小な物体は、全てが西行妖そのものだった。ひとつひとつに妖怪桜が乗り移り、それらを構成していた。今この時、西行妖の意識は自身の身体から抜け出て浮かび漂っていた。人間には決して見えない粒子が一箇所に集まると、西行妖は適当な方角を決めて進みだした。風は反対の方角に向かって吹いていたが、それにはそんな物では何の問題にもならなかった。


 そろそろ、人間を食おうと思っていた。


 己を粒子と化して進んでいると、闇に包まれた遥か下の方にのろのろと動く物体が見えた。粒子である今の存在からしても、物を見ることはできたし聞くこともできた。大きさから判断して人間に違いないと西行妖は思った。千鳥足でふらつきながら、下手な歌を口ずさみやかましい音を立てて砂利道を歩いている。その様を見て以前に食った人間の味を思い出すと、思わず身体が震えるような感覚を覚えた。確か前のもこんな奴ではなかったろうか。いや、もっと若かったか? それから、人間の種別は味に殆ど関係しないことを思い出した。


 あのつるんとした感触、背筋をぬめりながら降りてくるような、何とも言えない快感、そしてまさしく自分自身が満たされているという至福………なんとも、素晴らしい。あれこそが己にとっての至上目的、そう思えるような事象だ。そして次の人間は、それなりに舗装された道をのたのた歩きながら、己に食われるのを待っている。


 楽しみに打ち震えるのも致し方ないものだ。


 西行妖はゆっくりと降下すると、人間の進行方向のすぐ前方の方で止まり、ゆっくりと形を整えた。こういう時にどうすればいいのか、全て分かっている。どうやれば人間が怯えるのか、どうやればより食べやすくなるのか、どうやれば人間の味が美味しくなるか、頭の中には全て入っている。色んな物が西行妖の中からは出て行ったが、この能力はまだ残っていた。酷く人間としては杜撰な出来だが、目の前にいる酔っ払った人間がそれに気づくことは無いだろう。


 西行妖は眼前の人間と同じ姿―――着ている服、体の作り、顔の位置、似せられそうなものは全て似せた―――になり、足元の小石や砂利を踏みしめながらゆっくりと近づいていった。その人間はと言うと、路傍にしゃがみこんで何かをしている。音から判断するに嘔吐しているに違いない。


 彼の前に近づいていき、しゃがみこんだままでいる人間の肩に見せ掛けの手を置く。

 「うぁ?」と吐き終えたばかりの人間はゆっくりと顔を上げて、己の顔でもある西行妖の顔を見た。最初はまじまじと見つめて、次に戸惑ったような顔をした。今見ているものがおかしいのだが、何がどうおかしいのかよく分からない、というような感じだ。次に何をしたら良いか戸惑っているらしいから、西行妖は笑ってみた。男が持っている乱杭歯を剥き出しにして、出来るだけ下卑た笑い方が出来るように。


 男はたちまち顔を真っ青にして、極限まで押し開こうとするかのように、目を大きく見開いた。その目は如実に、『なんでこんなところに俺がいるんだ 目の前の奴は何なんだ』と物語っている。これまでの人間達はどれも同じような顔をしていたが、おそらくこいつはその中で一番驚いているに違いない。中には無表情で見つめたまま、事実を知るなり気絶した人間もいた。まあ、そのまま食ったが。


「は、ひゃ、お前、なんで何で、え、なんで、俺なんだよ? どうしておま…」

 男がしどろもどろになって言葉を発した。西行妖は何も言わないで、ただ黙って男の肩に手を置いたままにしていた。人間と言うものは時に特殊で面白い判断をすることがあり、自分で自分を落とし穴に追い込んでしまう時があるのだ。そんなことがあるからこそ、人間は飽きない。そして食べがいがある。


 察するに、男は大量の酒を飲んでいたのだろう。だからこそ路傍で反吐を吐き、顔を醜悪な赤と青のまだら模様に染めているのだ。西行妖は今まで声を出さなかったが、このとき始めて声を出してみた。思ったよりも声は人間に似なかったようで、まるで硬いものが擦れたような音が出てきただけだった。


「ひぃ、あうぁうぁうう!!」

 恐怖が絶頂に達したのか、男は西行妖の手を振り払うと、千鳥足のまま逃げ始めた。赤ん坊のような拙い走り方を見ていても面白かったが、逃げられては困る。体の一部を粒子に戻すと、男の足に西行妖自身を巻きつけた。たちまちバランスを崩して男が転び、素早く人間に変化して西行妖は男の前に立った。いや、男にとっては聳え立っているようなものかもしれない。男の中で西行妖は、幼年時代の夢の中に出てきた怪物そのものなのだ。


 男は言葉も無くして、呆然としたまま西行妖を見上げていた。男は地面にへばり付いた蛙のように見えて、それもまた面白かった。こうして怯えた生き物を見ていると、自分が自然界の輪廻に囚われた憐れな桜ではなく、本当に強い存在になったような気がする。もしかすれば、そんな気分を味わいたくてこれをしているのかもしれない。


 西行妖は身体を粒子に変えると、男の中に滑り込んだ。中から男の様子を観察してみたが、やはり泥のような怯えと恐怖で一杯だ。あれを見ても、これを見ても、何を見ても。この男は怯えきっていて、誰かに助けてもらわないと立ち上がることすら出来ないほどなのだ。獲物としては最適そのものだ。


 すぐに目的のものを見つけると、邪魔なものをすり抜けて手早く近づく。なかなか大きくて美味しそうだ。これくらいだと少々大味かもしれないが、この際は我慢しよう。自分はえり好みを出来る立場ではない。


 魂に巻きつくと、西行妖はそれを吸い始めた。嗄れた男の悲鳴が外から聞こえるが、今となってはそんなのは関係なかったし、更に言えばどんなことが起きても知ったことではなかった。この瞬間西行妖は正体をなくし、ただ魂という人を構成している物を貪ることに夢中だった。完全に我を忘れたと言っても良かった。


 男の人生で最後に出てくる悲鳴は暫く続き、やがてぴたりと止んだ。


 体の中から出てくると、既に男は事切れていた。ぴくりとも動かなくなり、瞼も開いたまま。だらしなく開いた口から涎を垂らしたままの様には、脳に異常をきたした生物に通じるものがある。股間に目をやると失禁すらしていた。何とまあ、どんな様を見ても人間は面白い。


 さて、これからどうしようかと考えた。男を食ったことで大分マシにはなったが、満腹にはまだ程遠い。それにこのままの状態でいることでさえも消耗するのだ。


 だが今回はなかなか良い物を取れたし、もしかすると…もしかするかもしれない。何か大きな幸運があり、また食えるかもしれない。


 時間をかけて考えた結果、二人目を捜すことにして、西行妖は出発しようとした。


 途端に、後ろのほうに何かの気配を感じた。本当に唐突だった。


 人間ではない、声もしないし、その匂いでもない。全ての感覚が違うと告げている。それでは……後ろに居るものは、一体何だ? それは小さくて、多くて、空を飛ぶものだ。そのようなものでここに存在しているのは、一体何なのだ?


 西行妖は後ろのほうを向き、何かの正体を探るために近づいた。非常に面白いと思ってから、それを打ち消す。これはとても面白いことなのだ。生半可なものではない。


 後ろの方、男の死体を超えた先にぼんやりとした輪郭が浮かぶ一軒の家があった。こぢんまりとしていていつも見慣れているあの屋敷よりは遥かに小さい。方向から察するに、さっきの男はここに帰ろうとしていたのかもしれない。


 近づいていくと、闇でおぼろげだった影がうっすらと浮かび上がり、家の周りを何かが取り巻いているのが目に入った。それらは小さく、数も多く…何より空を飛んでいる。己の感覚が告げた通りだった。


 蝶のように見えた。西行妖が知っている限りでは。


 そこには黒い蝶、白い蝶と二種類の物が飛んでおり、白黒が闇に生える様は、見ていて感嘆するものだ。蝶達は何百匹も家を取り囲んでいたが、むしろこれは檻に近いと言っても良かった。中には何かあるのだろうか? 蝶達が欲しがるようなものが?


 西行妖はもう少し近づこうと思ったが、そのうちに蝶達の上にいるものに気付き動きを止めた。そして直感的に気付いた―――なるほど、なるほど、そういうことだったのか、と。それに気づいた途端、何か久方ぶりに感じるものがあった。


 蝶達の上には群れを離れ一匹で飛んでいるものがおり、それは群れの中にいる蝶達よりも身体が大きく、黒と白を混合させた色であり、その蝶は、他の蝶には無いものを纏っていた。威厳、だろうか。黒白蝶から漂ってくるものは、他のものとは一線を画している。他の蝶と形はそんなに変わっていないと言えたが、それは一際大きく目立っていた。


 あの蝶は、幽々子なのだ。


 あの蝶らは幽々子に従っているものであり、彼女は今自分がしたことと同じく食おうとしているのだ。家の中には誰が居るのか分からなかったが、おそらくはそれが目的なのだろう。


 だとすれば、これは同族が行なう狩りだ。そして自分にその狩りを邪魔する資格は無い。あの中にいる人間は既に幽々子のものとなっているし、奪う権利は何者も持ち合わせていない。


 西行妖は上空まで一気に浮かび上がると、真っ直ぐに西行寺家を目指した。もう狩りをする気分ではなくなっていたし、もう少しで制限時間を過ぎてしまう。あまりこの身体でいることも考え物だ。


 屋敷に入る直前、幽々子の事に考えが及んだ。己と同じく人から恐れられており、蝶を使って人を殺し、魂を食う少女。人として生まれているのに人で無い能力を有し、人を殺し、人から忌み嫌われている少女。


 とても面白い。


 笑い出してしまいそうな程面白かった。


 あの蝶―――さしずめ死蝶とでも呼べばいいだろうか―――を操る少女は、今果たしてどんな気分なのだろうか? 人を食う気分はどんなものなのか? 己と同じなのか、それとも逆のものなのか、いやはや。


 西行妖はいつも呪っているばかりだったが、今ばかりはここまで生き延びた己の寿命に感謝したい気持ちだった。


 もう少しだけこの世界を眺められることに。















 当然のことながら、人間達の警戒度は最高潮にまで高まった。今までこういうことは何回かあったが、ここまで大規模なものは始めてだ。


 というのも、西行妖から何十人もの人間達が屋敷に押しかけているのが見えたからだ。


 人間たちは里から屋敷へと続く長い階段を駆け上がり、獣のように叫びたてながら屋敷の前にたむろしている。あの嫌なものを放つ男や半幽霊を連れた人間も出てきていたし、彼らが大声で話しているのも聞こえた。こっちの方は里の人間よりもまだ理性的だと感じられたが、この様子が長く続けばどうなるものかは危うい。


 そして彼らの言葉を聞いて驚いたが、妖怪桜に関する言葉は一言も出てこなかった。出てきた単語は幽々子を現す言葉のみ。どうやら彼女の狩りは成功したようで、そのせいで民衆はいきりたっているらしい。以前までは西行妖を切り倒すよう要望するものだったが、それがいつのまにかすりかわってしまっていた。


 得体の知れない妖怪桜よりも、より現実的で御しやすそうな娘の方が殺害対象としてはぴったりということだろうか。西行妖はそう考えたが、どうでもいいことだと思ってすぐに考えるのをやめた。


 当事者の一人でもある幽々子の姿はどこにも見えなかったが、外の様子からして屋敷の中にいるのだろう。状況を鑑みればあの民衆に見つかった場合ただで済む筈も無い。こぞって手にした得物で幽々子を襲い、私刑にするだろう。生きていられる確率の方が少ないと断言できる。


 まあ、民衆が憤る気持ちも理解できなくはない。潜在的に自分たちよりも上位である生き物が己らの中に紛れ込んでいるとすれば、そんなものを放っておく事はできない。妙な気を起こさないうちに叩き殺してしまうのが常道という奴だ。既に異分子は妙な気を起こしてしまっているが、殆どの点で幽々子はまさに典型的だ。


 保身のために少女を環から押し出そうとする人間たち、己に備わった力のせいで同族に狙われる少女。


 なかなか滑稽だ。屋敷の庭に聳え立ちながら、妖怪桜はそう考えた。


 思考から意識を戻すと民衆のほうはいよいよ興奮が高まってきたようで、足を踏み鳴らしたり大声をあげて自身を鼓舞しながら叫びたてている。あれこそ畜生が人の皮を被った存在だと言える。


 曰く―――殺されてたまるか、俺たちにはここしかない、あの娘を引きずり出せ、もう我慢なんかできるか、等等。


 怒声に塗りこめられた感情は、憤怒と憎悪の混じりあった禍禍しい代物だ。ここまで大規模なものは屋敷の者も初めてなのだろう。彼らは狼狽しながら民衆の前に立ち尽くすだけだった。刀を携え半幽霊を従えた男がある程度の抑止力となっているだろうが、それがいつまで続くかも危うい。あの男のみで民衆を全て追い払うことは無理だろう。とりわけ今の状態では。


 まさしく現場は一触即発の状態と言える。今ならば、子供が泣き出しただけでも大暴動が発生するだろう。結果は火を見るよりも明らかだ。この家はめちゃくちゃにされるだろうし、あの男たちも死ぬだろう。幽々子は民衆の目的であるのだから、少なくとも五体満足では終わらないに違いない。身体がばらばらにならなければ僥倖だろう。


 他の人間は別にどうなっても構わないが、幽々子が傷つくことはあまり望ましくは無い。こんな形で終わることを望んでいるわけではないし、魂を食うことにも大きく支障が出てくるだろう。この先起こるだろうことは決して好ましいものではない。


 仕方ない。


 西行妖が地面の遥か下の方にあるもの―――遥か昔に忘れてしまったが、それは土の下深くに根ざした、西行妖の根だった―――に力を込めると、持てる限り渾身の力を込めて、『揺さぶった』。


 僅かながら地盤に影響を受けて地表へとそれが如実となったとき、それは地震となって現れた。こういうことをすればかなり消耗するので出来れば使いたくなかったが、これくらいの事態となればこうでもしないと治まらないだろう。それに人を食ったから、いつもは使えないこの能力も使うことができた。


 それまではあれほど血気盛んだった人間達が、地面が揺れ始めたことで動きを止めた。すぐに驚きの声をあげ、悲鳴をあげる。怯えて地面に座り込んだり、近くの木に捕まったり、家と里を繋ぐ階段を転げ落ちていくものもいた。西行寺家の人間に目をやると、半幽霊の男がいち早く反応して中へと避難していた。中にある物は倒れるかもしれないが屋敷を崩すほど強いものでもないので、彼らは大丈夫だろう。


 己自身も揺れていることが感じられる。隣の桜に目をやると激しく揺れ動き、下のほうにある石灯籠が倒れるのが見えた。少し強すぎたかと思ったが、このせいで何人か死んでも別に知ったことではなかった。


 そろそろ良いだろう。力を緩めると段々と地面の震えは治まり、何か不吉なものを感じさせる強い一揺れを残し、地震は完全に止まった。まだ騒ぐようならば、今度はもっと強いものを引き出してやろうか―――――そういった威圧の意味も込めてだった。実際にはこれ以上のものはできなかったが、脅しとしては十分だ。


 今にも相手に噛み付くばかりの犬のような勢いだった民衆は、猫に見つかった鼠のように小さくなっていた。さっきの勢いはどこへやら、得物を放り出して失禁している者も見える。怯えた一人が逃げ出すと、二人三人と階段を駆け下り始めて、数はどんどん増えていった。五人、七人、数分もしないうちに、里の人間は全員逃げ出していた。


 屋敷の人間は神経を地震で落としてしまったかのようにしばらく呆然としていたが、屋敷の様子を確認するためかあの男が戻り、半幽霊の男は外を見て周っていた。戻り際に半幽霊の男が西行妖に視線を向けたが、すぐに視線を逸らして家へと入っていった。西行妖にとっては、別に分からなくても良いし、分かっていたとしても構わなかった。


 それはただ、人を食うことができる安定した日常を送れればそれで良いのだから。















 民衆が屋敷に集まった頃よりも、少しは時間が経過しているだろう―――西行妖はそう思った。こういった感覚があやふやになっていると、時間を計るというのはどうにもやりにくい。


 里の人間は爆発する機会を失ったことで辛うじてだが小康状態になっていたし、西行寺の人間も表面上はいつもどおりの生活を送っていた。里の人間たちは未だに焦れているような気配を漂わせていたが、おそらくは相当の事態が起きないと以前のような一触即発にはなるまい。西行妖はそう思っていた。


 しかし、幽々子だけはいつもの生活に復帰していなかった。今まででは三日に一度は庭に出ている生活を送っていたが、あの暴動寸前の状態からは一度も姿を見ていない。よくよく意識を凝らしてみれば、里の人間ほどではないにしろ屋敷の人間にも焦燥感というものが感じ取れた。幽々子の身に何かあったと考えて間違いは無いだろう。それも、すぐに事態が回復するような代物でもない。


 西行妖は不思議に思ってはいたが、心配に思うということはなかった。そもそも、心配するとは何かということすら妖怪桜は忘れている。そしてそれにも気づいていない。


 そんな折だった。


 雲も無くよく晴れた日であり、この日も何事も無いかと思われた。里の人間達は少しずつ落ち着きを取り戻し始め、このままならば徐々にだが平穏が戻っていくだろうと西行妖は思っていた。こういうものは火種になるようなものが現れない限り、爆発せずに萎びていくものだからだ。幽々子は未だ姿を見せないが、まずは最前の餌の方が重要だった。


 音はしなかった。それまでで何一つ不穏な気配は無かった。異常のように見えるものは砂粒ほども見当たらなかった、そう西行妖は後になって思った。


 突如として空が暗くなった。つい先ほどまでは太陽が燦々としていたのに、一瞬にして雲に覆われたようなものだった。いったい何が起きたのかと西行妖が上を見上げ、その原因はすぐに見て取れた。


 蝶。


 あの白と黒が入り混じった蝶の群れだった。


 それも、極めて膨大な数の。


 視界に入り数えられる限りでは、その数は千や二千では利かない。万以上かそれとも億まで達するのか、世界にあるもの全てを覆わんばかりに感じられた。空を埋め尽くし、地表を自身の影で暗くさせ、生物全てを飲み込もうとしているような。地表に存在する蝶全てをかき集めてきたようなものが、この里の上空にはあった。蝶は西行妖の遥か上に密集していて、互いの羽が擦れあうほどだというのに何も音が聞こえない。人間であるところのおぞましさというものを己が感じていると、西行妖は思った。蝶たちは何かするということはなかったが、尋常ならぬ威圧感を放射しているとも桜は感じた。


 いやはや―――これは一体、どうしたことだろうか。


 もちろん、こんな状態の空を見上げたことなんてついぞ無い。確信できるが、里の人間でさえもこの状態のものを見たことは無いだろう。彼らが生まれる前から己はここにいたのだ。彼らの短い歴史の中であんなものを目撃する機会があるとは思えない。


 西行妖と同じく里中の人間たちが勤しんでいた作業を止めて、成す術もなく空を見上げていた。家の中にいたものは同居人に連れ出され、子供達は小さな学校から教師の注意も聞かず我先にと飛び出してきた。老婆は震える手で同居人の手を握り締めながら、子供は空にいるのを蝶ではなく怪物だというように。そして一番怯えているのは大人だった。見た目こそ驚愕で声も出ないように見えていたが、その実は明らかに現実世界と離反したこの現象に怯えているのが目の中に見て取れた。当たり前だ、どうしてここまで自分たちの世界とかけ離れたものを見ていながら怯えることが無いのだろう? おそらくは西行妖ですらも怯えていたし、蟻や蜘蛛や蜻蛉もあの白と黒の集合体には怯えていただろう。


 更に言えば、生きているもの全てが。


 視界の隅に西行寺家の人間が出てくるのが見えたとき、ようやく西行妖は幽々子の存在を思い出した。この上空にある代物が幽々子の手によるものならば、大体の理由がつく。見渡しても彼女の姿は見えなかったが、この現象がどう見ても幽々子の起こしたものだということは明白だった。己が辿り着くように、容易に里の人間達もこの異変の原因に突き当たるだろう。


 もしかすれば、幽々子の力は己をも超えているかもしれない。己の力を結集したとしても、こんな代物を作れるとは思えなかった。いや、最も力があった時でさえ、こんな物を作れたかどうかも危うかった。同族がここまでのものを生み出すことに西行妖はある種の歓喜を覚えたが、自身の奥のほうにざらざらとしている、あまり歓迎できない感触もまた覚えていた。芽生えたそれはどろどろとしていて、まさしく反吐のように自身の中にへばりつき、病苦のように溶け込んでいた。


 嫌な気分、人間ならばそう表現するかもしれない。


 蝶が発生したことが唐突な事だったとすれば、消えたこともまた唐突だった。あの無数の蝶に意思があり消えることを望んだのか、もしくは幽々子が威圧には十分だと判断したのか。


 一瞬にして蝶たちは跡形も無く消えうせて、気が付いたときには空はついさっきまでのように晴れ渡っていた。後には太陽の光に柔らかく照らされながら、呆然と空を見上げつづける人間たちだけが残っていた。西行妖もまた、暫くは空を見上げ続けた。鳥が一匹人々と妖怪の視線の上を通り過ぎただけだった。


 あれが起きるだろう、西行妖は考えた。あの一触即発の光景、手に武器を持ち子供を殺そうとしていた集団。


 あの暴動寸前の状態からは桁違いの事象が発生するだろう。あの蝶の群れ、あれほど自衛心という自衛心を意識する現象もそうない。人間たちは以前と比べ物にならないほどの規模で屋敷に集まり、そして破壊して回るだろう。目的は簡単だ、至極簡単だ。


 自分たちを一瞬で殺し尽くせる存在を逆に殺すために。間違いなくこの異変の原因である幽々子を殺すために。


 殺される前に殺してしまえ、という奴だ。


 なんともはや面白い。そして極めて残念だ。これから起こるだろうことは地震如きでは止められないだろうし、それこそ奈落の底の底まで転がりきらないと憎悪に満ちた巨石は止まらないだろう。人が自分の保身のために同族を殺すこと、大勢が一人をなぶり殺しにすること、それは確かに面白い。見ていて絶頂感すら感じる。だがそれが己の同族であるとすれば、その殺しあう人間たちが餌であるとすれば、興味心は嫌気へと変わる。


 もう数日もしないうちにここは不毛の土地となるだろう。生きるものは絶えてしまい、辺りには呪詛がまんべんなく撒き散らされるに違いない。己はここを動くことができないから、永遠に荒地に居続けなければならない。己の滅びは格段に近くなるだろう。最早人間を見て楽しむこともできなくなるだろう。


 ただただ、それが残念で仕方が無い。
このSSでは西行妖が意思を持っていますが、『妖怪』桜ならば意思を持っても当然なのではないでしょうか? と言った考えの元に書いていたらこのような感じとなりました。

幽々子と妖忌の話と同じくあまり良い様とは思えない話になりそうですが、後編にも目を通していただければ幸いです。

それでは、次は後編にて。
復路鵜
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コメント



0.350簡易評価
4.60774削除
『奴』は自我くらい普通に持ってると思う
5.80名前が無い程度の能力削除
後編に期待
7.70aki削除
なるほど。村人の変死は西行妖も一役買っていたと…。
中盤以降の、西行妖が幽々子や人間の行動を見て楽しんでいるあたりがとても面白いです。
ある意味、よほど人間らしい。

ふと思ったのですが、西行妖は元が桜の木なので、別に人を襲わなくても生きていけるのではないかな、と。
妖怪になっても木であることに変わりはないわけですから。
…や、それだけじゃ足りないというのなら話は別ですが。

後編を楽しみにしています。
11.無評価復路鵜削除
レスをしますよー。

>akiさん
なるほど、読み返してみれば確かに人間らしいといえばらしいですね。
そして桜の栄養源に関してですが、まあ、やはり長い時間を生きている妖怪ですから、土の中の養分だけでは満足できないのでしょう。おそらく。

>名前が無い程度の能力さん
ありがとうございます。後編は近日に投稿する予定ですので、もう少しお待ち下さい。

>774さん
むむ……ですね。他のSSでも西行妖視点から書かれているものなどはあったりするのでしょうか。
12.60まっぴー削除
視点としては珍しいものだと思いますね。
西行妖自体が見ている、というものは記憶にありません……
14.無評価復路鵜削除
再びレスですよ。
>まっぴーさん
なんですってー。それならば私は誰も書かないようなものにいど(ry
何にせよ、幽々子か妖夢、妖忌の視点から全部語られているのでしょうな。もしくは一般人も入るものでしょうか。