Coolier - 新生・東方創想話

山にイル

2018/05/28 09:37:40
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「必ず迎えに来るから、ここで待ってるのよ」
 少女の母は、焚き火の傍で、ひどく弱々しい声で、そう言った。
 そして、大きな赤いリボンを、少女の頭につけてくれた。
 覚えているのは、布の赤と、燃え盛る炎の赤。
 母の顔は、もう、覚えていない。
「必ず、必ず、迎えに来るから」
 何度も何度もそう言って、母はその場を去った。
 そして、母が戻って来ることはなく――
 少女は、妖怪にさらわれた。

      ■ ■ ■

「二人とも、何か面白い話の一つもないの?」
 霊夢は、退屈の極みにあった。社務所の居間にて、火鉢に当たりながら、ため息混じりに傍らの二人に尋ねる。最初から、色の良い返事など期待していなかったが。
 ごろごろしていた魔理沙と華扇が、案の定、ぞんざいに応じる。
「急に言われてもなぁ」
「暇なら、そこの本を読めばいいのでは?」
 畳の上には、鈴奈庵から借りてきた本が積まれている。霊夢は、首を横に振った。
「もう全部読んだわよ。新しいの借りに行きたいんだけど……」
「ま、この天気じゃ、出たかないよな」
 障子の向こうでは、昨晩から雪が降り続いている。風も強い。とてもではないが外出する気になれない。客ならぬ客二人も、帰るに帰れないのだろう。
 それならばそれで構わない。問題なのは、二人が揃って、家主に対して微塵も気を遣わないことだった。
「そんなに手持ち無沙汰なら霊夢、お茶のおかわりをちょうだい」
 煎餅をかじりながら、華扇が催促してくる。
「あっ、私のぶんも頼む」
 汁粉を啜りながら、魔理沙が催促してくる。
「あんたらね。そのくらい、自分でやりなさいよ」
「客が勝手に台所使うわけにはいかないだろ」
「使いなさいよ、勝手に」
「私は、霊夢の淹れたお茶が飲みたいの」
「……好き勝手言ってくれるんだから」
 渋るが、どうあっても、この二人は動きそうにない。霊夢は仕方なく、重い腰を上げた。ドテラを羽織り、台所へ向かう。
 と――どんどんどん、と、玄関を叩く音が聞こえた。
「誰かしら? この寒いのに……」
 戸を叩く音はやまない。よほど焦っているのか、殴りつけるような音になっていた。
「はいはい。どなた?」
 のっそりと、戸を開ける。
 そこにいたのは、見知らぬ中年の男性だった。小柄だが、精悍な身体付き。雪焼けか、冬だというのに、肌が黒々と焼けている。里の百姓(オオミタカラ)だろうか。そう考える霊夢の前で、男は悲壮に声を張り上げた。
「巫女様、お助けください!」


 人が住むのは、里だけではない。妖怪の山の麓、平地と山地の境界近辺にも、人の住む小規模の村が点在している。
 神社に駆け込んできた男から村の場所を教わった霊夢は、マフラーと防寒着を羽織り、出発した。神社の諸事は、暇そうな魔理沙と華扇に任せる。
「ここね」
 粉雪まみれになりながら、村に降り立つ。
 すぐさま、霊夢を待ち望んでいたのであろう住人達に、四方を取り囲まれる。
「巫女様!」
「巫女様、お助けください! お願いします!」
 彼らの眼には、霊夢の予想を上回る切迫の念が秘められていた。
「ちょ、ちょっと」
 うろたえる巫女の傍に、永年の農作業によってその形に固定された、ひどく腰の曲がった老人が、ゆっくりとした動作で歩み寄ってきた。
 彼が長なのだろう、その言葉を待つように、騒がしかった人々が静まる。
「ありがとうございます、巫女様……」
 深々とお辞儀をされ、同じほどの高さまで、頭を下げる霊夢。そのままの体勢で、おずおずと尋ねる。
「それで、私は、何を……?」
「こちらです」
 老人に促され、その背を追う。住人達もまた、カルガモのように、巫女の背を追う。
 村は狭い。問題の現場には、すぐに到着した。少し注意深く観察すれば上空からでもわかったであろうほど、そこは、荒らされていた。
 住人達が、汗水垂らして耕した畑。手塩にかけて世話した農作物。それらが、ことごとく掘り返されていた。それも、なまなかの荒らし様ではなかった。大根やゴボウ、白菜などの種々雑多な根菜が、無残に撒き散らされている。
「酷いわね……」
 霊夢は、思わず呟いた。それほど凄惨な光景であった。
 住人の中には、直視するのもつらいのか、固く俯く者もいる。
「私を呼んだということは……妖怪?」
 小声で、長老に尋ねる。ほとんど同時に、周囲から声が上がる。
「猪です! 猪が荒らしたです!」
「ありゃただの猪じゃねえ。妖怪だ!」
「巫女様、お願いです。どうか、どうか、退治してください!」
 八方からの声にたじろぎながら、聞き取った情報を素早く整理する。
 どうやら、事件はこの四日、連続で起こったものらしい。
 最初は、単に飢えた猪が山から降りて来ただけと思われていた。毎年数頭ほど、そういった鹿や猪は現れる。山の恩恵を受けて生きる者として、ある程度ならば、農作物の被害にも目をつぶる、というのが暗黙の了解だった。
 だが、二日前から、猪の荒らし方が、執拗かつ容赦のないものとなった。追い返そうにも、あまりにも大きく、手出しができない。そうこうしている内に、その猪は、畑を根本から引っ繰り返すほどになったのだという。
 並外れた巨躯と、野生の動物とは思えぬ乱暴狼藉に、住人達はこれを妖怪と見た。そして、脚の速い者を、博霊神社に遣わせたのだという。
 ――守矢の連中では、近すぎて頼みにくい、か。
 単なる獣であっても、山の妖怪であっても、いずれかの面子が立たなくなる。
 そんなことを考えながら、掘り返された畑を仔細に見ていく。
 すぐに、異常に気づいた。
 荒らされた畑の周囲の草が、放射状に倒されている。いずれも、ちぎられたり、踏まれたり、といった様子はない。ただ、一定の規則をもって、倒されている。
「風?」
 しかし、一点から周囲に拡散するように風が吹く、というのも、おかしな話だ。首をひねり、これからどう動くべきか考える。
「なんにしたって、猪とは相性悪いのよね。魔理沙、連れてくれば良かったわ……」
 周りの人間に聞かれない程度の小声で、ぼやく。
 用心していたためだろう、耳が音に敏感になっていた。かちゃ、というささやかな金属音を捉える。
 音の発生源に目をやると、開墾していない空き地に、タライや鍋などの金具が積まれているのが見えた。
「あれは?」
「ああ、あれは、使い古した金具類の置き場です。皆で共同で使っております。使えそうな物は直して、無理なもんは鋳溶かして、新しい物に叩き直します」
 集落とも村とも言えない規模の生活では、銅製品にしろ鉄製品にしろ、大切に使わねば、生活が立ち行かない。捨て場ではなく、あくまで置き場なのだろう。
 その一帯の草も、畑と同様、規則的に倒されていた。
 さすがに、偶然や自然現象ではあり得ない。
 ――やはり妖怪の仕業か。
 ――あるいは、村の中に狼藉者がいる?
 一瞬そう考えるが、すぐに取り下げた。軽く見回しただけで、そんなことはあり得ないとわかる。おそらくここにいるのが、住民の全てだろう。皆が皆、不安そうな、暗い表情をしている。
 言うまでもない。畑が、大切なのだ。畑を荒らされ、憤っているのだ。いかなる理由があろうと、命の源たる畑を、自分の手で荒らすことなどあり得ない。
 と、その時。
 視界の端で、動くものがあった。
「…………っ!」
 村から離れ、妖怪の山に至る、道とも言えぬ道。平地が絶え、斜面と森とに呑まれる場所。そこに、一本の大きな杉の木が生えている。
 その下に。
 一人の女が立っていた。
 長身痩躯の陰。風にたなびく、銀色の髪。
 遠くからでもそれとわかる、紅色の瞳。
 霊夢はそれに、見覚えがあった。
「あれは」
 村の者達は、誰一人として気づかなかったようだ。霊夢が突然出した声に、何事かと驚いているだけだ。だが、見間違えであるはずがない。伊達に弾幕ごっこに興じているわけではない。視力には自信がある。
「この仕事、ひとまず引き受けたわ!」
 このタイミングで、あの女が姿を現す――それが、偶然なわけがない。
 村人の戸惑いを背後に残し、霊夢は地面を蹴り、宙を飛んだ。


「ちょっと! 待ちなさいって……っ!」
 勇み山に突撃したはいいものの、霊夢は即座に、山の洗礼を浴びることとなった。
 木々の密度があまりに高く、まともに直進することができない。上空から探そうにも、枝葉に積もった雪が、視界を遮る。
「……地道に行くしかないか」
 仕方なく、地面に降りる。
 ずぼ、と、間抜けな音を立てて、脚が雪に埋もれる。
「うわっ? 歩き、にく……」
 しばしその場でよろよろとした後、どうにかバランスを取り、直立する。
 幸先は悪かったが、それでも不幸中の幸いというべきか、女の足跡ははっきりと雪上に刻まれていた。
 これならば逃すこともなかろう、とひとまず安心して、追跡を開始する。
 ――が、十分と経たず、後悔に苛まれることとなった。
「たまらないわね、これは」
 雪のために、一歩一歩が重く深い。いたずらに体力を削がれる。加えて、革のブーツの内部に溶けた雪が浸蝕してくる。不快指数が際限なく上昇していく。
 それでも、と霊夢は脚を前に出した。
「あんな顔見せられたら」
 村の人々の、顔。困惑、憤怒、悲嘆。そして霊夢に向けられた、感謝の顔。
「巫女が来ただけで、あんな顔すんじゃない……わよ……」
 なにか、霊夢の内にも、形容のできない感情が生まれかけていた。
 実態不明の負の念を糧として、雪中を強引に進む。
 周囲は白一色、他に見るものもなく、山の奥へと続く女の足跡を見る。長身であることを差し引いても、恐ろしく歩幅が広い。だが、なにがしかの術を使った形跡はない。ただ単純に、跳ぶように走ることができる、それだけなのだろう。
「妖怪ってより、獣ね」
 ぼやきながら、追う。寒さで思考力が低下していくのがわかる。
「どこまで……行く、のよ」
 やはり、集中力が散漫になっていたのだろう。
 気づけば。
 目の前に、女が立っていた。
「ネムノ!」
 慌てて飛び退き、懐から霊符を抜き出す。
 ――坂田ネムノ。
 妖怪の山に住む山姥。およそ他種族と交渉しない、孤高の者。
 こちらの警戒に比して、山姥は呑気なものだった。その場に突っ立ったまま、ただ、霊夢を見ている。左腰に山刀をぶら下げているが、手を伸ばす素振りもない。
「あんた、あんなところで何してたの」
 睨み、聞く。
 まともに応じるものかすら、わからなかったが――
「いや、麓の連中が騒いどったからな。ちっと見に行ってたんだ」
 ごく平然と、ごく平凡に、ごく穏当な言葉を返してきた。
「山姥は、浮世とは関わらないんじゃないの?」
「人間のことは、別にどうでもいいんだがな。はぐれの奴が、まァた悪さしとるみたいだったからよ。どうにも、気になってな」
「はぐれ?」
「群れからはぐれた雌のシシが一頭、おるんだ。そいつが最近、ここら荒らしてる」
「シシ……やっぱり、畑荒らしの犯人は、猪で間違いないのよね?」
 住人達の危惧は、間違いではなかったのだ。事態が好転したわけではなかったが、わけもなく、ほっとする。
「ん? 他にいるか?」
「――あんた、さっきなんで逃げたのよ」
「お前が追いかけてきたからだ」
「あんたが逃げたからここまで来たんじゃないの」
「お前が先に追いかけてきたんだろ」
 不毛な遣り取りをしていると自覚して、霊夢は、深くため息を吐いた。
「どっちでもいいわよ、もう」
「話は終わりか?」
 ネムノは言うや否や、さっとその身を翻らせた。
 まだ聞かねばならないことがある。霊夢は、慌てて女に声をかけた。
「ちょっと、どこ行くのよ!」
「いっぺん、家に戻る。そんで、はぐれのヤツ、追ッかける」
 振り返りもせずに言うと、ネムノは鹿を思わせる軽快さで、山の奥へと入っていった。
 その背は、すぐに遠くなる。
 しかし、山の強い風が、山姥の声を霊夢に届けた。
「もう、我慢ならねえ」
 その声には、明確な負の念が籠もっていた。
「あいつ……怒ってる……?」
 どうあれ、ネムノを追うより他にない。
 寒さで固まった膝を叩き、大きな足跡を踏む。


 雪中を進むこと半刻、ネムノの歩みがようやく止まる。
 高い木々、道無き道の奥、谷と谷とに挟まれた場所に、小さく、空間が開けていた。周囲の岩壁が寒気を防いでくれるのだろう、そこは、優しい温かさに包まれていた。
 どこか、八雲のマヨヒガを想起させた。ただ、少し違う部分もある。紫の存在がそうさせるのか、彼の地には、どこか不穏な空気が流れている。しかし此の地には、純然たる清浄、たとえば滝の傍にいるような、安らかな大気が漂っていた。
 その、谷中の異界の中央に、質素な造りの、茅葺きの小屋が佇んでいる。積雪に備えて、屋根の傾斜が強くされている。土台となる柱も太く、しっかりしている。おそらく内部は四畳半程度しかないだろうが、丁寧に手入れされていることが見て取れた。
 ――まるで仙境ね。
 心中にそんなことを思う霊夢だったが、視線を地面に落とし、愕然とした。
「これは……」
 山姥の住まう小屋の傍には、ささやかな畑があった。決して広くはないが、適度な幅の畝を見るに、丹念に世話をしていたことは想像に難くない。
 葱や山葵、大根や菜っ葉や芋――四季折々に実りをつけたであろう畑。それが今、無残に荒らされていた。
「ちっと前にやられて、昨日の晩、またやられた」
 特に大根畑が、念入りに掘り返されていた。しかも、実りは食われるでもなく、ただ執拗に破壊され、撒き散らされている。地面に散らばる大根の表面には、金属で削られたような無数の傷。
「遊びでやってる、ってこと? 獣が? そんなことあり得るの?」
 疑問を連ねる中、霊夢は、己の体温が上がっているのを感じていた。喉の奥に、いがらっぽいような息苦しさがある。
 大半を削り落とされた大根を握りながら、ネムノが、憎々しげに言う。
「実際、遊んでる。とにかく、もう、許さねえ。ここは、山だ。獣どもの住む山だ。だから、半分ぐらいはくれてやってもいい。でも、ここまでやらちゃ、黙ってらんねェ」
 透き通るほどに白い、ネムノの肌。その頬が、紅潮している。
「少し、調べさせてもらうわね」
 夜のうちに荒らされたためだろう、畑は、霜が降りて固まってしまっていた。もう少し気温が上がり、土が柔らかくならなければ、手の施しようがない。
 土に、痕跡が刻まれている。村で見た、放射状に倒された草。ネムノの畑の周囲の雑草はしっかりと摘まれていたが、撒き散らされた土が、同様の放射を描いていた。
「これまで、動物に荒らされて、こんな風になったこと、あった?」
「いや、なかったな」
「亥は水気の獣。風は木気に属するのに……どうなってるの?」
 百年を経た器物が付喪神となるように、齢を重ねた獣が妖怪となることがある。それならばそれで納得できるが、なお、不明な部分がある。
 いずれにしても、見過ごすわけにはいかない。
「ネムノ。あんた、本気で猪狩りに行くつもり?」
「何度も言わせんな。行く。今すぐ出る」
 断固たる声、揺るがぬ意志を秘めた、真紅の双眸。
 霊夢は、山姥の眼を、真正面から見つめた。
「じゃあ、私も連れていって」
「正気か?」
「正気よ」
「きついぞ?」
「きついのには、そこそこ慣れてる」
「寒(さび)ぃぞ?」
「……我慢する」
「なんでだ? 猪狩りなんか、巫女の仕事じゃねえだろ?」
 ネムノが同行を渋るのも、仕方のないことだった。妖怪といえど、まずもって猪だ。山中を自在に駆ける獣を追うことになる。そうなれば、巫女は戦力というよりもむしろ、足手まといになる可能性が高い。それでも、と霊夢は呟いた。
「それでも――やるわ」
 使命感などではなかった。そんな崇高なものではなかった。ただ、胸の奥から湧いてくる衝動が、霊夢にその言葉を口にさせた。
「そうか」
 ネムノが、小さく頷く。そして彼女はなぜか、霊夢の首筋に、鼻を寄せた。すんすん、と少女のにおいを嗅ぐ。
「よし、酒は飲んでねえな」
 霊夢にしては珍しく、昨日一昨日と、アルコールの類を口にしていなかった。雑煮とお汁粉を交互に延々と食べていたためだ。
「山にないモンのにおいはな、シシにゃ、すぐばれるんだ」
 なんでも、猪は犬よりも鼻が利くらしい。
「しっかし、そんなじゃ、山ン中まともに動けねえな」
 霊夢の身体を頭の先から脚の先まで眺め、ネムノが言う。
 簡単な防寒着を羽織ってきたものの、雪山の中ではいかにも心許ない。つい先ほども、ブーツを履いてきたことを後悔したばかりだった。
「待ってろ」
 ネムノが一旦、家に引っ込む。そして一分ほどの後、
「これ貸してやる」
 言いながら、なにやらもこもことした服を担いで来た。
「ちょ、ちょっと」
「じっとしてろ」
 霊夢の着てきた防寒着を強引に脱がせ、毛皮でできた上下を着せるネムノ。
「ちゃんとした作り……」
 家といい、庭といい、防寒着といい――いずれも、細やかな作りだった。カモシカの毛皮だろうか、よく鞣されたそれは、しっかりと寒気を防いでくれた。軒先でブーツも脱がされ、短い藁沓の上から、これもカモシカ皮の靴を履かされる。
「よし、いいぞ」
「ありがと……」
 礼を言いながら、雪の地面を何度か踏んでみる。柔軟性が高いのか、サイズに違和感はない。靴の底が雪を柔らかく噛む。ブーツに比べると、格段に動きやすい。
 その傍で、ネムノもまた、同様の一式を装着していく。
「…………? あんた、ここで一人で暮らしてるんじゃないの?」
「おう。今はな」
「じゃ、これは?」
 自分に着せられた一式を示す。
「それは、うちがちっさかった頃に使ってたやつだ。で、こっちは、おっかぁが昔、使ってたやつ」
 ――今。
 ――おっかぁ。
 それらの言葉が気になったが、霊夢が尋ねる前に、ネムノが口を開いた。
「よっしゃ、行くぞ」
 その背には、いつの間に用意したのか、一抱えほどの荷と、長物を収めているらしき袋が担がれていた。さらに右手には、赤いリボンの巻かれた山刀を握っている。
「随分と物々しいのね」
「まあな。今日の内に帰れればいいが――下手すると、泊り山になるかもしれねえ」
 そして、谷間の片隅に設えられた小さな祠に手を合わせ、出立した。


 清閑たる冷気、空を覆う分厚い灰色の雲、絶えることなく降り注ぐぼた雪。
 雪は、くるぶしが埋まるほどに積もっている。一歩一歩が、沈み込む。一歩一歩を苦労して引きずり出し、前へと進む。
 人の身には、全てが厳しい試練となる。
 それでも霊夢は、ただただ、耐えた。まだ、ネムノの家を後にしてから、一時間と経っていない。この程度で音を上げるわけにはいかない。
「ふぅ……」
 下がりかけていた顔を上げ、大きく息を吐き、前を見る。
 三メートルほど先を、ネムノが進んでいく。一瞬たりともその場に留まることなく前進を続ける、凛然たる女の背。並外れた健脚だった。
 横殴りに吹く風が、彼女の髪を大きく揺らす。銀色の髪が、周囲に広がる雪景に、今にも溶け込みそうだった。
 その髪をじっと見つめ、導かれるようにして、脚を前に持っていく。今どこにいるか、霊夢には全くわからない。猪がどこにいるのかも、また、わからない。猪の正体もわからない。ネムノのことも、まるでわからない。
 ――わからないことだらけね。
 声には出さず、苦笑いする。
 と、心を読んだわけでもないだろうが、ネムノが、歩みを止めぬまま、振り返った。
「大丈夫か、霊夢」
 その問いに、霊夢はすぐに答えられなかった。問われるまでもなく、大丈夫ではなかった。息が乱れていた。大きく息を吸い、吐き、呼気を整える。
 ようよう、言葉を吐き出す。
「……大丈、夫」
「そんな調子じゃ、この先、もたねえぞ。やっぱ戻るか?」
「いや、行く。今さら戻れない」
 何か、霊夢は強烈な情動に押されているのを感じていた。わからないというのならば、何より自分自身のことが、わからない。
 肩が下がり、顎が上がる。自然、空を見上げる。
「空を飛んで、上から探せればいいんだけど」
 風も雪も、じわりじわりと勢いを増している。
「とても無理ね」
 飛んでしまえば、猪を探すどころか、ネムノをすら見失ってしまうだろう。そうなれば、引き下がるしかなくなる。
「ちゃんと、うちの踏んだトコ歩けよ。そしたら、ちっとは歩きやすいから」
 先行し、雪中に轍を刻むネムノ。彼女の方が、疲弊ははるかに強いだろう。にもかかわらず、そんな言葉をかけてくれる。
 加えてネムノは、道中にある小枝を、山刀で切り払ってくれていた。刃渡りは、二十四センチほどもあるか。軽くはない。それを、振るい続けている。
「ありがと、ネムノ」
 息は苦しかったが。
 それでも、そう呟いた。山姥の足跡を、踏み締める。


「……あった」
 それまで迷いなく進んでいたネムノの歩みが、突如として止まった。その場で小さくかがみ、雪の表面を矯めつ眇めつする。
「何か見つけたの?」
「シシの足跡(トアト)だ。雌だな、こりゃ」
 ネムノの肩越しに覗き込む。二股にわかれた楕円形の跡があった。次々と雪が降り積もっているというのに、それとわかるほど、地面に深々と蹄の形が刻まれている。
「よくわからないけど、これ、かなり大物なんじゃない?」
「ああ。百五十……いや、二百キロ近くある」
「猪って、そんなに大きくなるの?」
「なるやつァなる」
 妖怪と化すほどの雌猪。何が彼女をそこまで生き永らえさせたのか。何が彼女をそこまで現世に執着させたのか。巨体を引きずり、畑を荒らす。何がしたいのだろうか。
 そんなことを考えるでもなく考えていると、ネムノが北西方面を指差した。
「……あっちに向かってる」
 藪の先まで、足跡が点々と伸びていた。猪が押し歩いたのだろう、跡に沿うように、下草が一定方向に倒れていた。これまで進んできた道は、文字通り道無き道だったが、このあたりは若干、傾斜がなだらかになっていた。いわゆる、獣径だろう。
 歩きやすくなったことに、ほっとする。周りを見回す余裕が生まれる。
 やはり細かな位置はわからないが、頭の中に地図を描く。村は南方にあり、ネムノの家がその北東、猪は北西に逃げた。ネムノはそれを知っていて、まずは西へと進み、足跡を見つけた、というところか。
 とはいえ、ようやくスタート地点に着いたに過ぎない。うんざりしそうになるのを自戒して、霊夢は小声で尋ねた。
「そういえばさ……その長いの、何?」
 ネムノが担いでいる、革袋に包まれた、全長一メートル三十センチほどの代物。鉈の類かとも思ったが、長すぎる。山中で刀を振るうはずもない。
「シロビレだ」
 短く言うと、ネムノは少しだけ、覆いをまくって、中を見せてくれた。
 細長い、木製の柄のようなものが覗く。普段の生活ではおよそ見る機会もないが、ないが故に、すぐにわかった。鉄砲だ。
「うちは、これでやる」
 妖怪相手に鉄砲が効くのか、と問いかけて、やめる。ネムノは、最初から言っていたではないか。猪狩りだ、と。
 続いて、新たな疑問がわく。
「それ、弾ってどうするの? そんなのまで自分で作るの?」
「火薬は無理だ。うちにゃイジれねえ――村と山の境目にな、でかい木、あったろ?」
 ネムノがその傍に佇んでいた、杉の木のことだろう。あの杉を境にして、木々の密度も、山道の斜面も強くなったのを覚えている。
「そこにな、おっきいフクロをかけるんだ」
「フクロ? フクロって、袋よね。物を入れる袋」
「ああ。たとえば、うちがその中に、山で獲った鹿の肉やら皮と一緒に、空の薬莢を入れとくとする。そしたら村の連中は、代わりに、米とか味噌とか塩とかを入れてくれる。で、次の猟のために、新しい弾を入れてくれる」
 阿求曰く、山姥は時として、他の種族とビジネスライクな交流をするらしい。それが何を指しているのかこれまでよくわからなったが、ようやく納得する。
 村や里の人間にとって、獣肉は貴重な蛋白質となる。
 豚や牛などを扱う養畜業はあるが、大規模なものではない。里での肉食といえば川魚か鶏がメインだ。鹿肉や猪肉となれば、相応の需要がある。
 対して、山で一人で生きる山姥には、稲作をする空間や、味噌や醤油などの発酵物を造る設備、塩を得る手段がない。火薬を扱う技術もない。
 そこで、原始的な物々交換が、無言の内に行われることとなる。
 人間と山姥、お互いに、持ちつ持たれつの関係を保っているのだろう。袋を介することで、直接、面を合わせることを避ける。人間が大杉を越えて山地に入ることはなく、山姥が大杉を越えて平地に入ることはない。
「なるほど。上手いことできてるものね」
 霊夢は素直に感心しながら、同時に、一つのことを想っていた。
 ――けれど、それであんたは、寂しくないの。
 その問いを口にすることは、憚られた。


 坂を登り、降り、また登り、また降り、小一時間ほど獣径を辿ると、黄土色に濁った、楕円形の泥だまりに行き当たった。
 ネムノが、先ほど足跡を見つけた時と同様、その傍で止まり、周囲の観察を始める。
「ヌタ場だ」
 山言葉というか、猟師言葉だろうか。ネムノの扱う語彙は、霊夢にはいまいちよくわからないものばかりだった。考えても仕方がないので、率直に尋ねる。
「なにそれ」
「シシやらシカやらが、身体を洗う場所だ。泥の中で転がって、身体についたノミやら何やらを落とすんだ。それを、ヌタ打ちっていう。で、ヌタを打つからヌタ場だ」
 沼は四方八方に飛び散り、雪を汚している。指先で雪上の泥をすくい、ネムノが言う。
「生乾きだ。ここ使ってから、あんま時間たってねぇな」
 まだ遠くには行っていない。
 なによりの朗報だ、と安心しながら、霊夢もまた近辺に視線を巡らせた。
 泥だまりの近くに、松の木が一本生えていた。根から七十センチほどの位置に、大量の泥土が付着している。おそらく、猪が身体をなすりつけた跡だろう。体重に比例して、体高もかなりあるようだ。
「ヤスリで削ったような跡ね」
 仔細に見ると、泥の下に、無数の刻み傷のようなものがあった。猪の毛皮は硬いらしいが、いくらなんでも、尋常の傷つき方ではない。
「妖怪化して、さらに皮が硬くなった? いや、そんなに単純に考えていいことかしら?」
 ネムノが横からその痕跡を睨み、呟く。
「大根に残ってた傷に似てねぇか?」
 確かに、食べるでもなく荒らされた大根、その表面につけられた傷と同様の跡――目の荒いザルを押しつけたような形の傷があった。
 不吉な形、というよりもむしろ、単純に暴力的なその痕跡に、霊夢は体温が下がるのを感じた。
「厄介だけど……厄介事は、それこそ専門よ」
 お祓い棒、陰陽玉、退魔針、霊符、と装備はひと通り揃っている。相手の正体は判然としないが、それら全てが通らないということはないだろう。
 自分自身をそう鼓舞し、山の向こうに伸びる足跡を見遣る。泥が付着しているため、霊夢にも一目でそれと判ずることができる。
 即座に、気が萎えた。この泥だまりは、山の中の窪地のような場所にある。そこから脱したということは即ち、坂を登っていった、ということだ。
 傾斜の強い坂道に、猪の足跡が克明に刻まれていた。
「ぅわ」
 今さら弱音は吐きたくなかったが、反射的に霊夢はそんな声に漏らした。
 即座にネムノが、ぼそりと言う。
「ちっと休むか」
「いや、気なんか使わな――」
「うちが休みたいんだ」
 そう言われると、何も言い返せなくなってしまう。
 そして、二人、沼から少し離れた平らな場所に、腰を下ろした。冷気が身体に染み込まないよう、漬物石ほどの石を敷く。
「ゆっくり、たっぷり飲め」
 ネムノが、背に負っていた荷の中から、楕円形の革袋を引っ張り出す。受け取ると、液体らしき物が中で揺れるのが、掌の感触でわかった。
 寒さのために自覚が薄かったが、喉が乾いていた。ありがたく、口をつける。
 中身は、ドクダミ茶だった。苦味の強い、薬のにおいのする茶が、するすると食道を下りていく。鈍りかけていた全身の神経が、その独特の味に刺激される。
 充分に喉を潤し、礼を言ってから、ネムノに水筒を返す。ネムノもまた、ごく緩慢に茶を飲み下していく。急激に水分を摂取すると、かえって疲労が強まる。
「…………」
 水を飲む姿すら、ネムノは様になっていた。見惚れそうになっている自分が気恥ずかしくて、霊夢は慌てて目を逸らした。
「……それにしても、随分と大きい水筒ね」
「これか? これはな、おっかぁが、熊の胃で作ってくれたんだ」
 木片で栓をしてから、ネムノが続ける。
「おっかぁと熊な、すごかったんだぞ。熊のヤツ、シロビレで何発撃っても倒れねぇもんだから、取っ組み合いよ。最後は、ナガサ、口ン中にぶち込んで、ミソをぐっさりだ」
 言いながら、傍らの山刀を見つめる。ナガサというのは山刀のことだろうか。彼女の赤い瞳には、強い憧憬の光が宿っていた。
「ねえ。おっかぁって、誰?」
 母は母だろう。それ以外の意味があろうはずがない。だが、ネムノの言葉の端々に、もっと複雑な意味がこめられているような印象があった。
「うちを育てくれた人だ」
「育ててくれた人……」
 鸚鵡返しに言う霊夢の手に、ネムノが何かを握らせる。
「食え。うちが干した柿だ」
「……うん」
 もそもそもと、渡された干し柿を食べる。
 里で食べる甘味でもこれ以上はそうはないだろう、というほどの、濃縮された甘さが口の中に広がる。疲れた脳が、貪欲に糖分を吸収する。
「うちな、ガキのときに、かあちゃんに捨てられたんだ」
 ネムノはそう、あっけらかんと言った。
「春に嵐が来た。夏が寒かった。秋が暑すぎた。冬が長かった。ちょっとのことで、畑は駄目になる。そんで、みんな飢える。ガキに食わせるもんもねえ」
 自身も山の実りを口にしながら、山姥は続ける。
「殺すのは、かあちゃんの役目だ。でも、殺すに殺せねえ。だから、山まで連れて行って、置き去りにする。よくある話だ」
 この頃は多少は安定したが、里も村も、未だ田畑の収穫は安定しない。天候に恵まれない年は、悲惨な状況になることもある。今回のように、獣に荒らされることもあるだろう。
「で、雪ン中に残されて、死にかけてるうちを、たまたま、おっかぁが見つけてくれた。うちが、五歳ぐらいの時のことだ」
「その、おっかぁって人も……山姥?」
「おう。ずっと昔から、この山に住んでた。家作って、畑作って、獣獲って、生きてきた。この服も、水筒も、おっかぁが作った。ナガサも、シロビレも、おっかぁの使ってたもんだ。うちは、それを直しながら使ってる」
 いつのまにか、ネムノの声は弾んでいた。強く厚く慕っていることが伝わってくる。
「ん? うちが今履いてるのは、自分で作ったやつだったかな。作り方もな、ちゃあんと、教えてもらったんだ。一人でも生きてけるように、ってな」
 そして今、彼女は一人、山に生きている。
「おっかぁも、昔々に、山に捨てられたんだと。で、おっかぁのおっかぁに、拾われた。うちらはずっと、そういう風にして、生きてきた」
 山姥の命脈。
 血の繋がりを持たず、けれど、連綿と受け継がれる意志。
 技術を、道具を、生き様を、脆く儚く紡いでいく人々。
 似たような存在を、霊夢は知っていた。
「まるで――」
 その先は、言葉にしなかった。
 そして、ネムノが、ぱん、と掌を打ち鳴らす。
「そろそろ行くか。あんまり休むと、汗が冷えて凍えっちまう」


 猪の駆けた跡は、斜面を登り、藪を抜け、尾根を越えていく。
 身体は依然として疲弊していたが、お茶と干し柿を摂ったおかげで、意識は明瞭だった。そして、山の閑寂に慣れていた耳が、周囲の変化に敏感に反応した。
 雪にたわめられていた枝が、大きく跳ね上がる音。
「猪……ッ?」
 咄嗟に、袖から退魔針を引き抜こうとする。
 その動作を、ネムノが言葉で制した。
「違う。エテだ」
「エテ?」
「ほら」
 彼女の指が、向かって左手にある、杉の枝一点を示す。そこにはいたのは、
「ああ、サ」
 と、今度は、手で発言を遮られる。
「そいつは口にしちゃなんね。シシが逃げる」
「う、うん」
 山中のしきたり、というものだろうか。霊夢は大人しく、口を噤んだ。
「っても、ここらでうろうろしてんのはおかしいな。見てみろ。餌になるようなもん、ねえだろ」
 言われ、周囲の木々を見る。なるほど、実のなっている木はない。
「自分のシマから出る時は、そのシマに、普段はいねぇヤツがいるってことだ」
「ってことは――」
 こくり、と頷くネムノ。
 猪が起きているにしろ眠っているにしろ、いたずらに刺激をして逃げられては、元も子もない。息を押し殺し、慎重に前進する。
 程なくして、登り坂の途中、やや平らになっている空間に、獣が伏せている姿が見えた。厚く敷かれたシダの上に、巨大な猪。眠っているのか、動く気配はない。
 遠目にその姿を確認し、ネムノが口の中で、小さく呟く。
「やっぱデケェな」
 伏せていてすら、わかる。体高も体重も、子牛ほどもある。おそらく二百キロを越えている。その身は、乾いた血を思わせる、くすんだ赤色をしていた。
「あっちから行くぞ」
 猪は睡眠状態にあるものの、音を出さないに越したことはない。ネムノが、人差し指で半円を宙に描き、順路を示す。
「了解」
 左手方向から大回りして坂を登りきり、上から猪を狙い撃てる場所に立つ。不測の事態を考慮して、猪から、直線にして六十メートルほどの距離を置いた。
 ネムノが、鉄砲以外の荷物を全て、足元に下ろした。
 革袋の中から、武器を取り出す。かつての日本で広く普及した銃。ある時期の日本を支えた銃。人を殺すための道具から、獣を獲るための道具となった銃。時代に追い越され、幻想郷へ辿り着いた銃だ。
 木製のストックは傷だらけだったが、丁寧に修繕が重ねられている。金属部は、よく磨いた上から、光沢を少しでも減らすためだろう、炭らしき物が塗りたくられていた。
 ネムノが、指を振った。
 ――もう少し近づく。
 仕草で理解できた。小さく首を縦に振り、了承を示す。
 漸次、猪に接近していく。
 二十メートルほどの間合いを詰め、彼我の距離は四十メートル。
 二人の立つ位置から猪まで、視界を遮る木はない。ネムノがそのように位置取りをしている。ターゲットの身体は、しっかりと見えている。
 だが、ネムノにはなお、不安要素があるようだった。
 片膝立ちになり、銃床を右肩に押し当て、照門を覗く。
「……草が邪魔だな」
 彼女の狙いは、猪の頭部。対する猪は、シダをかき集め、寝床としている。その周囲には、密度高く、細かな下草が生えている。これ以上接近しても、あるいは左右に位置転換をしても、頭部が露わになることはないだろう。
「私がおびき出すわ。こっちの方に頭を出させればいいのよね?」
「どうやる?」
「私を誰だと思ってるのよ」
 博霊の巫女の面目躍如、とばかりに、霊夢は懐から霊符を取り出した。設定した標的を自動で追尾する術を施してある。
 霊符を打つ――その前に、再度、標的をよく見る。何か、言い知れぬ胸騒ぎがしていた。
「ん?」
 やはりおかしい。遠目ではっきりとはわからないが、猪が敷いているシダが、微細に震えているように見えた。加えて、その周囲の下草、さらにそれらを取り巻く雪が、舞い上がっている。
 たとえば平らな地面や夏場ならば、視認することができなかっただろう。冬、雪の中なればこそ、その異変が目に見えた。
「猪の周りにだけ、おかしな空気が流れてる」
「うん。妙だな」
 とはいえ、
「――考えていても仕方がない、か」
 ここからでは、観察と誘引と狙撃以外、できることはない。
「おう。こうなりゃ、やるしかねぇ」
「出たとこ勝負っ!」
 腹を据えて、符を射出する。
 追尾霊符は一旦、大きく宙に舞い上がった。
 そして、標的を一旦飛び越え、弧を描き、右後ろ脚を急襲。霊気を打ち込む。
 獣の口から、特有のくぐもった鈍い声が漏れる。
 どれほどの衝撃となったかはわからないが、眠りを破られ惑乱した猪は、猪突猛進の言葉通り、前方に向かって、ただだた驀進する。
 突撃する猪、その頭部が、はっきりと見えた。
「よし」
 霊夢の右隣から、甲高い銃声。
 放たれた弾丸が、的を目掛けて、一直線に飛んで行く。
 もちろん、ネムノは猪の走る速度も勘案に入れている。弾は、最後まで見届けるまでもなく、直撃のコースを辿っていた。
 狙い過たず、弾頭が猪の頭部に刺さる。
 だが。
 金属と金属とが正面衝突する、鈍く高く激しい音が響き――
「んなっ!?」
 猪の突撃は、止まることも緩むこともなく、むしろその速度を増した。
 霊夢もまたネムノ同様に驚愕しながら、その中で、相手の身に起こった変化を確認していた。獣の額の中央に、金属質の物体――卸し鉄が浮かび上がってくる。さらにその背を覆う毛が、鋭さを増し、ことごとくが鉄針に変じていく。
 そして、ようやく、理解する。
「山颪(ヤマオロシ)!」
 名の通りに、卸し鉄の付喪神だ。しかしこれは、単なる付喪神とも思えない。はっきりと、生物としての息吹を持っている。また同時に、単なる猪の妖怪であるとも思えなかった。熊ならばまだしも、弾丸を直撃を受けて平気なほど、猪の頭蓋骨は頑丈ではない。
 猪とも山颪ともつかぬ生命体が、一迅の風の如き烈しさで、接近してくる。
 ネムノの動揺は、一瞬だった。ボルトを引き、次弾を装填する。
 最早、狩りの流儀だ何だなどと言ってはいられない。霊夢は自身のフィールドで戦うために、退魔針と霊符を指の間に挟み、地面を蹴った。
 上空に退避すれば、相手の攻撃は届くまい。身体が宙に浮き上がる。
「これなら!」
 山颪の身体が膨れ上がる。
 その鼻から、圧縮された大気が打ち放たれ――豪風が、霊夢の華奢な身体を煽った。
 飛んだばかりところに猛烈な衝撃波を食らい、バランスを崩される。堪らず、霊夢は尻から雪上に落ちた。
 地面を転がる。それでも、視線は敵から外さない。
「疾ッ」
 退魔針を飛ばす。こと攻撃力ならば、霊符を遥かに上回る。
 あらゆる妖怪を貫く神針が、山颪に触れ、そして、甲高い音と共に、弾かれた。
 ヌタ打ちによって猪の体表面に付着した泥は、それだけでも、蓑の如くに硬くなる。さらに身体が松に擦りつけられることによって、松ヤニが付着した。結果、全身が鉄板同様の硬度を得ることとなった。
「それなら――!」
 追尾霊符を、次々と飛ばす。頭と言わず胴と言わず脚と言わず、山颪の身体のそこここで、小規模の霊的爆発が起こる。だが、いずれも致命打には程遠い。突撃は止まらない。
「喰らえやッ!」
 ネムノが叫び、引き金を絞る。狙うは左前足のすぐ後ろ、心臓部。
 だが、これもまた、あっさりと弾かれた。今や体毛の硬化は全身に及び、そのことごとくが刃物の如く鋭くなっている。
 さらに山颪の周囲に、濁った赤色の靄が漂い始める。付喪神として身に宿した瘴気だ。
 山颪は、突撃の対象を、銃を抱えた猟師としたようだった。深い朱色の瞳が、ネムノただ一人を睨む。その視線に沿うように、今や鉄塊となった肉体がひた奔る。
 鋼鉄の蹄が、凍った大地を蹴った。
 空に逃げようにも、先ほどの突風がある。下手に飛べば、落とされるだけだ。
 攻め手はなく、逃げ道もない。それでもネムノは怯むことなく、再度、弾を装填。戦意は、いささかも衰えていない。
 そんな姿を見せられて、黙っていられる霊夢ではなかった。
「ええいっ!」
 山颪とネムノの間に割って入り、結界霊符を展開。眼前に、ありとあらゆる霊障を遮る、唯一無二の防壁が立ち上がる。
 山颪が、真正面から、衝突――結界に、ヒビが入る。
「なに!?」
 人型を取る高位妖怪の攻撃をすら凌ぎ切る、博霊の防御陣。堅牢無比なるその障壁に、ヒビが入った。
 半透明の壁の向こうで、憤怒を宿した瞳が、雪を吹き散らす吐息が、木々を切り刻む体毛が、蠢く。懐からさらに結界符を打ち、防備を重ねる。しかし、破壊の方が、わずかに速い。結界の断裂が、じりじりと、その幅を増していく。
 驚嘆。緊張。恐怖。全身から汗が噴き出る。防御のための符という符を、胸元から抜き、陣を補強する。障壁上に、火花が散る。顔が熱い。掌が熱い。残符わずか。
 破られる。
 その寸前。
「かっくらがすぞ、シシッコロがァッ!」
 怒号と共に、横合いから、ネムノが強襲を仕掛けた。壁を破ることに躍起になっていた山颪は、わずか、反応が遅れた。
 山姥の手に握られた山刀が、深々と、山颪の左眼窩に突き刺さる。
 猪の絶叫が、雪を、葉を、枝を、木を、揺らした。
 山颪の前足が大きく浮かび上がり、組み付いたネムノを、山刀ごと吹き飛ばす。獣はその勢いのまま、霊夢の傍らをかすめて、山の彼方へと姿を消した。
「助かっ……た……」
 その場に呆然と佇み、霊夢がようやく口にできたのは、そんな言葉だけだった。
 顔も掌も、焼けるように熱かった。
 なのに、全身の震えが、止まらなかった。


 山の日は短い。空が、薄紫に染まり始めている。
 山颪との戦いは、一分ほどもなかっただろう。それでも二人は、ひどく疲弊していた。一刻も早く休息を取りたかった。言葉少なに、移動を開始する。
 ネムノの先導に従って十分ほど歩くと、幅五メートルほどの沢に行き当たった。さらにその沢沿いを、五分ほど歩く。
「今日は、ここで休むぞ」
 そう言って彼女が示したのは、沢から程遠からぬ場所にある、岩屋だった。なんでも昔、熊狩りに出た際に見つけたのだという。奥行きもある。これならば、雪風を凌げるだろう。ひとまず腰を下ろし、水筒を回し飲みする。茶は、すぐに尽きた。
 荷を下ろし、息をつき、霊夢は小さく、頭を下げた。
「ごめん。私、何もできなかった」
「謝るな。うちの弾だって全然効かなかったんだから」
「でも、巫女として……情けないわ」
「巫女としてとかどうとかは知らねぇよ。お前は、充分、やった。情けなくなんて全然ねぇし、悔やむ必要もねぇよ」
「うん。ありがと」
 少しだけ、心が軽くなった。
 頭を切り替える。自責に甘えるのを、やめる。冷静に、現状を分析する。
 そして、二度三度と深呼吸をしてから、改めて、ネムノを見つた。
「私の推測、話していい?」
 猪一頭相手に、巫女と山姥、二人して、まるで歯が立たなかった、その理由。
「頼む」
 ネムノが頷くのを見届けてから、霊夢は口を開いた。
「齢を経て、力を得た猪。その猪が、山から下りて、畑を荒らしていた。そしてそいつが、偶然、村の金具置き場で、卸し鉄の付喪神に取り憑かれた。それが、さっきのあの妖怪の正体」
 卸し鉄が年を経て、付喪神《山颪》となる、というのは、江戸期の妖怪本に記されている。《オロシガネ》と《ヤマオロシ》の言葉を掛け合わせた洒落が元となったのだという。その名の故に、風を操る。加えて、《ヤマアラシ》と音が似ているため、その背に針を生やした姿で描かれる。
 大根を念入りに荒らしていたのは、卸し鉄としての本能といったところか。
「でもそんなのは、単なる妖怪だろ。博霊の結界に傷つけるなんて、普通、できないじゃねえか?」
 なにしろ、幻想郷を成立させる力の一端を、そのまま流用しているのだ。並みの妖怪に傷つけられるものではない。
「ただ、見立て、というのかしら。摸倣や共感をベースにした、ある種の類感染呪術。神に仕える巫女っていうのは、猪とは絶望的に相性が悪いのよ。実際に戦うのは初めてだったから、まさかここまで効果が減衰するとは思わなかったけど」
 予想外だった、と言えばまだ良いが、見くびっていた、と言ってしまえばそれまでだ。思わず、ため息を吐く。
「だから、悔やむこたぁねって。で、その原因は?」
「古事記曰く、ヤマトタケルは、伊吹山で白い猪と対峙した。この猪は山の神で、ヤマトタケルに氷雨を浴びせ、昏倒させた。それまで数々の偉業を成し遂げたヤマトタケルだったけれど、このことが原因で病を得、程なくして、亡くなった」
 続ける。
「遡って、オオクニヌシ。オオクニヌシが、まだ、オオナムヂだった頃のこと。オオナムヂは、伯岐国の山にて、兄神たるヤソガミに『赤い猪を捕えろ』と命令される。これは、オオナムヂを嫌うヤソガミの策略だった。猪を待ち構えていたオオナムヂは、焼けた大石を落とされ、潰され、焼かれ、一度目の死を迎えた――その石は、猪の形をしていた」
 ネムノは、時折相槌を打ちながら、静かに耳を傾けてくれる。
「たった二例だけれど、神代の二例には、大きな意味がある。神に仕える巫女にとっては、どうあっても、抗えない原理となるの」
 神話に語られる神々の力は、そのまま、巫女の力の源となる。そして、そうであるが故に、敗北の記憶は世界の法則となって、受け継がれる。
「その上、猪と卸し鉄、相乗効果で強くなってる。亥ってのは、水気に属する獣なの。卸し鉄は文字通りの金気。金生水の則で、単純に、妖怪として強くなってる」
 自然界にあって、風水五行は絶大な影響を及ぼす。
「妖怪に付喪神、猪に卸し鉄、水に金。符は猪の部分に弾かれ、弾は付喪神の部分に弾かれる。こっちにとっては、不利も不利ね」
 暗澹たる表情を浮かべ、語り終える霊夢。
 十秒ほどの沈黙を挟んでから、ネムノが問うた。
「いっぺん、里に戻るか?」
 確かに、神話に依らぬ力を持つ誰かに助けを求める、というのが最善の選択だろう。たとえば魔理沙の魔法ならば、山颪を正面から焼き切ることもできる。咲夜の時間停止による攻撃でも、妖夢による剣術でも、征伐できる可能性は高い。
 それでも、素直に首を縦に振るわけにはいかないのだった。
「このままじゃ……帰れないわ」
 霊夢の胸には、忸怩たる想いがあった。
「ヤツは、危険過ぎる。あれは立派な妖怪よ。老猪でも、付喪神でもない、一匹の妖怪。博霊の巫女が、相性悪いからって尻尾巻いて逃げるわけにはいかないわ」
 そう語りながら、どこか空回りしているのを、霊夢は感じていた。
 妖怪退治を誇りに思ったことはない。単なる、巫女としての仕事、義務だ。
 だから、自分がなぜここで退かないのか、霊夢自身、理解ができなかった。
 その疑問を振り払うように、ネムノに尋ねる。
「……あんたは、どうなのよ」
「やる」
「どうして」
「ありゃ、うちのトコの大根食って、味覚えたんだ。で、そいつが、村まで降りて、悪さした――もし、うちがあそこに住んでなかったら、あいつは大根になんて興味持たなかったかもしれねえ。あいつがああなったのは、うちのせいだ」
「そんなことまで……あんたの責任にはならないでしょ」
 彼女の語る理屈は、あまりに迂遠だ。それでは、代々あの地で生きてきた山姥達にまで、責が及んでしまう。
「なるんだ」
 ネムノは、そう、はっきりと言った。
「うちは、獣じゃねえ。人じゃねえが、獣でもねえ。山は、獣のもんなんだ。うちは、山の一部を借りてるだけだ。だから、これはうちの責任なんだ」
 人でもなく、獣でもなく、
「それじゃ、あんたは、なんなのよ」
 反射的に、霊夢は、聞いていた。聞かねばならない気がした。
「山姥だ」
 薄闇の中、女の紅い眼が、爛と輝く。
 その視線に、射竦められる。
「山に捨てられて、山に拾われて、山に育てられた、山姥だ」
 慧音、妹紅、白蓮、神子、布都、屠自古、青娥。人間が、後天的な要因で妖怪になる例は、いくつもある。だが、坂田ネムノという存在は、そのいずれとも違う。
 人であった者が、人としての習慣を全て捨て、ある様式と一体化する。そして、人と似て非なる何か、人ではない何かにある。
 それではまるで。
「 と同じじゃない」
 ぱくぱくと。
 ただ虚しく、口が動くだけだった。
 想いは、言葉にならなかった。
 言葉にするのが、怖かった。
 霊夢の気持ちを、知ってか知らずか。ネムノは、なお、言葉を続ける。
「それに、うち、やつを手負いにしちまった。猟師ってのはな、山の獣傷つけたら、最後まで責任持って、追わなくちゃなんねえんだ。そんで、ちゃんとブって、ちゃんと殺して、食えるトコ全部、腹に収める」
 ネムノはそのことに、気負いも、覚悟も抱いていない。抱く必要すらない、習慣。その習慣から外れれば、人でも獣でも山姥でも在れない。
「――それが、山に生かしてもらってるヤツの責任なんだ」
 と、その時。
 くるるるるるるる、という音が、洞穴に響いた。
 音の源は、ネムノの腹だった。
「…………」
「はぁ、締まらないわね」
「へへ。ほんまにな」
 いずれにせよ、双方、方針は最初から定まっている。決して退かない。追い、進み、戦う。それ以外の道はない。


 日沈は間近だった。闇の範囲が、一秒一秒、増してきている。夜間、獣を追えるはずもなく、今日はこの洞窟を宿と定める。
 山が夜闇に没する前に、ネムノが尋ねた。
「霊夢、お前、火焚けるか?」
「ええ。もちろん」
 境内を掃き、集めた落ち葉は、四季を問わず焚き火にしている。
「そんなら、火ィ頼む。うち、ちょっとメシ探して来る」
「ちょっと」
 霊夢が止める間もあらばこそ、ネムノは軽い足取りで外に出て行った。
「もう……」
 本当は、火を焚く以外にも、もっと手伝いをしたかった。だが、山に慣れていない霊夢がついていけば、ネムノの動きは鈍ることになるだろう。それがわかっているからこそ、不満とも自責とも言えない感情が募る。
「まったく、駄目ね。うじうじし過ぎだわ」
 神社を出てからずっと、何もかも、思う通りにいかない。それでも、できることはしよう、と洞窟から外に出る。
 西に落ちる日の光が、どうにか、残っていた。それを頼りに沢沿いを歩き、比較的乾燥している枝を拾っていく。そして、山の積雪の薄い箇所に入り、乾いた落ち葉を二掴みする。十五分ほどで必要な量を集め、霊夢は洞窟に戻った。
 槇の枝を厚く敷き、雑多な枝を重ね、最後に落ち葉を撒く。
 当然、マッチなど持って来てはいない。
「こういう時、魔理沙の八卦炉みたいなのがあれば手っ取り早いだけどね」
 だが、手段がないわけではない。乾いた葉の上で、陰陽玉を高速回転させる。陰陽玉は博霊神社の御神体であるらしいが、霊夢にとっては、有効活用してこその御神体だ。遠慮無くこき使う。
 陰陽玉と枯れ葉の間に摩擦熱が生じ、火種となる。火の勢いはそのままじわじわと強まり、枝に着火、立派な焚き火となる。
「おぉ……」
 秋から初冬にかけて、庭で焚き火をするのはほとんど日課となるが、この寒い中で火を生むというのは、また別種の感慨があった。
「……あったかい」
 火に手を当て、率直な感想を口にする。それ以外の言葉など思いつかない。山中の寒気で冷えきっていた手が、ゆっくりと、熱を取り戻していく。ぎくしゃくとしていた関節が、徐々に普段通りのなめらかさを得る。
「できてるな」
 響いた声に振り返ると、何やら色々と抱えたネムノの姿が見えた。彼女の向こうに広がる外景は、すっかり黒一色だ。
 さすがは山姥、というべきだろうか、ネムノの手並みはあざやかなものだった。
 泊り山を見越して持ってきたという米を沢で洗い、付近の竹藪から切り出した竹筒に、適量の水と共に入れる。これを火にくべれば、飯が炊けるのだという。
 さらに、竿も無しにどうやったものか、岩魚四匹を捕まえてきた。その腹を山刀で裂いて内臓を抜き、串に刺して遠火でじっくりと焼き、余分な水分を抜く。
 続けてなぜか、親指の爪ほどの小石を、五、六個、火の中に入れる。
 そして、先ほどとはまた別の、直径五センチほどの竹筒に、沢の水と、持参してきた味噌とゼンマイの塩漬け、干し菜、凍み大根を入れる。さらに、取って来たばかりだというヒラタケとセリを投入。霊夢が火を焚く間に、随分な量の収穫だった。
「それ、味噌汁、よね? そのまま飲むの?」
「いや、沢の水は、そのまま飲むとハラ下すからな。ちゃんと、火は通す」
 しかし、火に近づける素振りも見せない。霊夢が首を傾げていると、
「ま、もうちっと待て。すぐに、いっぱい食べさせてやるからな」
 ネムノは優しくそう言うと、手を休めることなく、次なる作業に入った。縦に細く割った竹の幹を、山刀の刃で削っていく。
 見る間に、単なる竹が、箸としての形を得ていった。
「…………」
 霊夢はその手元を、ただまじまじと見るばかりだった。
 待つこと半刻、霊夢の空腹も限界に来る頃、ネムノの料理は完成した。
 火にくべていた竹筒を割ると、湯気と共に、柔らかく炊き上がった白飯が出てきた。
 ネムノは竹の箸で火中の石を拾うと、汁未満の汁で満たされた二つの竹筒に、ゆっくりとそれを差し入れた。石に籠もった熱によって、筒の中の水が、一瞬で沸騰する。さらに、焼きあがったばかりの岩魚を、一匹ずつ素手でほぐし、身を汁に入れる。
「よっしゃ、いけるぞ。霊夢、たんと食え」
 にこにこと、とても楽しそうに笑いながら、ネムノが夕飯を並べる。白米、汁、魚。一部を家から持ってきたとはいえ、山中でこれほどの食事を用意できるとは、霊夢は思ってもみなかった。
「ネムノ。あんた、すごわいね」
 先ほどと同じような、工夫のない感嘆の声が、霊夢の口から漏れる。しかし今は、それ以外の言葉が思い浮かばない。
「へへ」
 はにかみ、気恥ずかしそうに眼をそらせるネムノ。ほんの少し、頬が紅潮している。その仕草は、少女のような初々しさを湛えていた。
 ――これ以上は、何を言っても余計だろう。
 霊夢はそんなことを考えて、そっと、手を合わせた。
「それじゃ……いただきます」
「うん。うちも、いただきます」
 白米の炊き加減は絶妙だった。噛めば噛むほど、味わいが深くなる。
 味噌汁には、たくさんの具が入っていた。一口ごとに、異なる味わいが生まれる。
 火の傍の岩魚に味噌を塗り、齧りつく。越冬のために蓄えた脂が、よく乗っている。噛んだだけで、芳醇な味が染み出してくる。
「……おいしい」
 やはり、それ以外の言葉は出ない。ネムノの応答もまた、簡潔なものだった。
「うん。うまいな」
 米が、魚が、汁が、身体のすみずみまで行き渡る。疲弊していた身と心が、活力を取り戻していくのを感じる。服の下でたくさんの汗をかいたためだろう、濃厚な塩分が、何よりありがたい。夢中で箸を進める。
 箸の使い心地も良かった。このまま持って返って、普段使いできそうな代物だった。
「ほんと、器用なものね」
 汁によって柔らかくなった切り干し大根を噛み締めながら、ネムノの傍らに置かれた山刀に視線をやる。ネムノはこれ一本で、道を切り拓き、猪に一撃を入れ、竹を切り、魚を切り、箸を作った。長大な刃を、細かな角度で、自在に使い分けてみせる。
 その柄には、赤色のリボンが巻かれている。単なる布ではない。よくよく見れば、上等な織物、たとえば嫁入りの際に締める帯のような布から作られていることがわかる。
「そういえば、そのリボン、どうしたの? それも、お母さんが作ってくれたの?」
「ぅん――これは、かあちゃんに持たされたんだ」
 ネムノの中には、二人の母がいる。半日と経たない付き合いではあるが、霊夢には、今の言葉がどちらの母を示すのか、明瞭に伝わっていた。
 ただ、素直な感想を、口にする。
「とっても、きれいね」
「だべ?」
 ネムノの顔には、幼な児のような、無垢な笑みが浮かんでいた。


「ふぅ。ぽかぽかしてきた」
 食後の白湯を啜る。
 滋養が五臓六腑に染み込み、身体が芯から温まる。血液が胃に回り、頭が少し、ぼぅ、とする。全身の筋肉が弛緩し、汗腺が開く。
「気持ちいい、けど……身体中、ねとねとする」
 するとネムノが、出立の時と同じように霊夢の首筋に鼻を近づけ、においを嗅いだ。
「これじゃ、シシに気取られるかもな」
 今日、気づかれなかったのは、猪が寝ていたからだろう。明日もそうとは限らない。
 それは事実であるが、体臭を指摘されるのは、やはり恥ずかしい。霊夢は少し口を尖らせ、反抗する。
「そういうあんたはどうなのよ」
「慣れりゃ、汗抑えることもできんだ。嗅いでみるか?」
 そんなまさか、と思いながら、ネムノの首元に鼻を寄せ、控え目に息を吸う。
「どうなってんのよこれ」
 本人の言う通り、ネムノは全くの無臭だった。欧州貴族は人前では決して汗をかかない、などという話を聞いたことはあったが、苛酷な猪追いの中でそんなことができるとは、文字通り人間離れしている。
「だから、慣れだって。霊夢だって、ちょっと慣れりゃこんくらいできるさ」
 平地の生活でその特技を活かす機会はなさそうだ、と霊夢は少し苦笑した。
「ま、でも、なんにしたって、このままじゃ良くないな――霊夢、来い」
 ネムノは、そう言うや否や立ち上がり、霊夢の手を握った。
 大きく堅い手に引っ張られ、ゆっくり、立たされる。
「どうするの?」
「いいトコ連れてってやる」
 そして、荷物はそのままに、洞窟を出る。
 雲はわずか、晴れていた。狭い隙間から、時折、山吹色の満月が覗く。沢が近くにあるためだろう、特有の、水分を多く含んだ風が吹いた。広葉樹の葉擦れの音が、囁きのように鳴り渡る。森のどこか遠くから、ミミズクの鳴く声が響いてくる。
 足元は、ほとんど見えなかった。それでも霊夢は、不安を感じなかった。夜目が効くのだろう、ネムノの歩調は大らかで、迷いがない。足元の覚束無い霊夢のために、殊更そうしてくれているのだとわかる。霊夢は手を引かれるまま、足を進めた。
 沢まで出て、上流へと突き進んで行く。
 川のせせらぎが、絶えず聞こえる。
 一つ、不安が生まれた。
「まさか……水垢離?」
 汗を流す、魔と対する、そのために水を浴び、身を浄める。理屈はわかるが、とてもではないがやる気になれない。こんな寒空の下でしようものなら、凍死してしまう。
「違う違う。ほら、あれ見ろ」
 ネムノが、無骨な指をすっと伸ばし、沢の一点を示した。
 乏しい月光の下、眼を細める。
 沢が小さく湾曲している箇所、その片隅が、ちょっとした入江のようになっている。そこから、湯気が立ち上っていた。
「昔、見つけたんだ」
 滑らぬよう、小石を慎重に踏みしめながら、件の場所に近づいていく。
 どうやら、山肌から滾々と湧き出す熱泉が、沢に直接、注いでいるらしかった。それら二つの水が混ざり合う箇所を、一抱えほどもある無数の岩が、取り囲んでいる。文字通りの露天風呂だ。
 よく見ると、川原にはスノコまで敷いてあった。
「こんなのまで置いたの?」
「いや、それはうちらのじゃねぇ。――天狗ども、勝手に使ったな」
 憎々しげに、けれどどこか楽しそうに、言う。
 各々の妖怪に生命圏があるものの、山の中であれば、天狗はどこにでも現れる。取材という名目の暇潰しの後、ここで汗を流す者がいてもおかしくない。
 経緯はどうあれ、使える物は使う。スノコの上で、今日一日、寒さから身を守ってくれた服を剥がしていく。零下の外気に触れた素肌が粟立つ。
 飛び込むようにして、湯に身体を浸した。
 痺れるような温かさに包まれる。
 体表面にへばりついていた汗が洗い流される。産毛に、皮膚に、筋肉、骨に、内臓に、熱が浸透する。押し出されるようにして、声が出る。
「ふぅぅぅ……これは……たまらないわ……」
「んんんっ」
 ネムノが、機嫌良さそうに、湯の中で伸びをした。
 身を切るような冷気と、少し熱めのアルカリの湯。雲間に見える太陰、穏やかな沢の音。神社裏に湧いた温泉とはまた別種の快楽が並んでいた。
「こう気持ちいいと、歌のひとつも唄いたくなるわね」
「あぁ……気持ちはわかるが、それはやめとけ」
「どうして?」
「山ン中で歌ァ唄うと、悪いことが起きるんだ」
 鉄砲をシロビレと、猿をエテと呼ぶような、ある種の願掛けだろう。
「それも、おっかぁが教えてくれたこと?」
「おう」
 彼女も、今の自分と同じように、たしなめられたのだろうか。その姿を思い描く。霊夢は我知らず、微笑んでいた。
「……覚えておくわ。ちゃんと」
 外気で冷えた顔を、湯につけ、温める。身震いするほど心地良い。
「色々教えてもらっちゃったな。お返ししなくっちゃ」
 顔を上げ、呼びかける。
「ねえ、ネムノ」
「なんだ?」
「今度、さ」
 ほんの一拍の逡巡の後、
「今度、ウチに、来てくれない?」
「博霊の神社にか?」
「ええ」
「…………」
 沈黙。その沈黙が、少し、怖い。断れるのが、少し、怖かった。
「――おう」
 ごく短い返答だったが。
 霊夢には、それで充分だった。
「……よかった」
「でもよ、いきなり、どうした?」
「お礼よ、お礼。さっきのご飯のお礼。素敵なお風呂を教えてくれたお礼。山のことを色々教えてくれたお礼。他にも、色々なことへの、お礼がしたいの」
「うん。ああ、まあ、そうか。お礼か。……お礼なら、断れねえ……かな」
 お互い、ぎこちない言葉を連ねる。
「それでね、あんたの食べたい物、作ってあげる。あんまり高いのとか難しいのとかは無理だけど、私が作れる範囲なら、なんでも好きな物、作ってあげるわ」
 腕によりをかけよう。お酒もたくさん用意しよう。暇な連中を集めて宴会にしてもいいかもしれない。ネムノの喜ぶ顔が見たかった。
「ネムノ、何が食べたい?」
「うぅん、そうだなぁ」
 空を見上げる。如月の夜に、太陰が浮かんでいる。
「……うち、つきたての餅が食いてぇ」
「餅? 別に構わないけど……なんで餅?」
「だって、ほれ」
 ほんの少し、言い淀む。
 そして、なんでもないことのように、
「餅は、一人じゃ作れねえだろ?」
「……そう、ね」
「おっかぁが生きてた頃な。トシの暮れに、村の人が、フクロに餅米、ちょっと入れてくれたんだ」
 どれほど昔の話なのだろう。霊夢には、なんとなく、自分が産まれるよりもずっと以前のことのような気がした。
「で、おっかぁとうちで、臼と杵こさえてな。明けに、餅ついて……」
 里での生活では、もう、餅は特別な食べ物ではない。祝いのための食べ物ではない。食べようと思えばいつでも食べられる、そのぐらい物だ。
 けれど。
 山姥の眼には、深い深いノスタルジィが宿っていた。
「あれぁ、うまかったな……」
 その光景を、想像する。
 少女だったネムノと、彼女を守り育てた山姥。その二人の姿を、想像する。山の中、二人で生きる姿を。雪と木に囲まれて、たった二人で生きて、山と人を寿ぐ。
 それは、ひどく物哀しく、ひどく美しく、ひどく儚い光景だった。
 薄闇の中、霊夢は、ネムノを見つめた。
 湯気の向こうで輝く紅色の瞳に向かって、一言一言、ゆっくりと告げていく。
「絶対、来なさいよ。必ず、絶対に。それで、一緒に、餅つきするの」
「……おう」
「ぼた餅でも、磯辺餅でも、きなこ餅でも、からみ餅でも、なんでも作ってあげる」
「……おう」
「いやってほど、食べさせてやるんだから」


 手拭いで水分を払い、装備一式を慌てて着て、小走りで岩屋に戻る。
 心身共に猛烈な眠気に押されていたが、まだ、しなければならないことがあった。
「――はぐれの、どうすべかな」
「有機物と無機物、妖怪と付喪神、水と金。幾つもの要素が、頑丈に絡み合ってる。単純な力押しでは勝てないわ。なんとしても、こっちに有利な状況を作らないと」
「ってぇと?」
「龍脈が交わる地点、龍穴の上で戦えば、ヤツの瘴気をかなり減衰させられる」
 龍脈とは、大地にとっての経絡脈のようなものだ。妖怪の山の下には、太い龍脈が無数に走っている。それが交差する場所に、龍穴、人体で言うツボのようなものがある。
「場所の見立ては、私がするわ」
 博霊の術は、大陸の道教と関係が深い。ひと通りの知識は入れてあった。加えて、豪族連中から、雑談がてら、占地術(ジオマンシー)の手ほどきを受けている。
 たとえ猪との相性が悪くても、地に住む龍の力を借りれば、勝機はあるだろう。加えて八卦陣、あるいは九星陣で囲むことができれば、優勢に事が運ぶ。記紀大系とは別種の論理(ロジック)を衝突させることで、世界に打ち込まれた呪秘(オカルト)を乱す。
「それで、およそ今日と同じ手段を取る――私が足止めをして、あんたがトドメを刺す。どう? 単純だけど、単純な分、効果的だと思う」
「いや、それじゃ駄目だ」
「どうして」
「シシはあれで賢い。同じ手は、たぶん、通じねえ」
 ネムノが断言するのだから、根拠があるのだろう。その眼に迷いはない。そして、ただ否定しただけのようでもなかった。
「他に手段があるの?」
「うちが勢子(セコ)やる。お前が立間(タツ)やれ」 
「…………?」
「うちが囮やって足止めするから、お前がシロビレ使ってシシ撃て」
「どうして、そうなるのよ」
「お前の符や針じゃ、猪の部分に弾かれる。うちの弾じゃ、付喪神の部分に弾かれる。そんなら、お前が弾に力込めて、撃つしかねえ」
 理屈ではある。ネムノの力の本質は未だよくわからないが、今の弁からすると、彼女が銃弾に己の力を注ぐ、ということはできないのだろう。
「でも私、てっ――シロビレなんて、撃ったことはないわよ」
「簡単だ。よく狙って、引き金を引くだけだ」
「そりゃ、機構としてはそうでしょうけど。そんな簡単に当たれば苦労しないわよ」
「あるだろ、確実に当てる方法が」
 ネムノの指が、霊夢の胸元を、そこに入っている霊符を、示す。
「……そうね」
 なるほど、弾頭に誘導霊符を巻けば、多少の誤差は修正できる。
 それならば、山颪を撃ち倒すことも不可能ではない。
 ――撃つ。
 ――生き物を、撃つ。撃って殺す。
 ――弾幕ごっこではない。銃弾を使った、本当の狩り。
 ――躊躇している?
 ――まさか。そんなのは、今さらの話だ。
 ――魚を鳥を豚を牛を食べてきた。誰かが殺した生き物を、食べてきた。同じた。
 逡巡は、なかった。そのはずだ。
「使い方、教えて」
「おう」
 弾を全て抜いた状態で、銃を渡される。総重量はおよそ四キロ。見た目から想像していたよりは随分軽い、と霊夢は思った。
「伏射が一番狙いが安定するけど、雪の上でそれやると、すぐ凍えちまう。立射じゃ目立つし上半身がぶれる。膝射で狙え」
 右膝を地面につけ、右肩にストックの底を押し当てる。
「左眼しっかり閉じて、右眼で照門……引き金の上の方にある板みたいなの、それ覗け。その向こう、筒の先っぽに、照星ってのがある。照門と照星と獲物を、一直線に結ぶ」
 焚き火の光に揺らめく小石を仮の標的として、狙いを修正していく。
「もちっと腋と肘、締めろ。肩上げ過ぎンなよ」
 後ろから、抱かれるようにして、体勢を整えられる。きっと、ネムノも、同じようにして教わったのだろう。湯の熱を残した体温を感じる。
「このまま、一発で仕留められるよう、待つんだ」
 たとえ誘導霊符の補助があっても、機を逃せば、有効打は与えられない。
「さっきも言ったけど、下手に汗かいたら、においで場所がばれる。だから、なるべく汗かかねえように注意しろ」
 意識を集中しながら、しかし、身体からは余計な緊張を抜く。難しいが、それができなければ、作戦が成り立たない。
 狙撃の体勢を維持したまま、尋ねる。
「眉間に当てても、胴体に当てても、また跳ね返されるだけよね」
「でも、うちのナガサは立った」
「……眼球。狙うは、残った右眼、か」
 確かに、その部位ならば、硬化のしようがないだろう。そして眼球を射抜けば、弾丸は確実に脳に達する。たとえ妖怪といえど、それで絶命しないということはないだろう。
 その一撃必殺の弾を、相手に存在を感知されないほどの遠方から送り込まねばならない、ということが問題だったが。
「まったく、初めての猟だっていうのに。無茶な条件ね」
「はは。ちげぇねぇ」


 鉄砲が身体に馴染むまで、構えを取り、照門を覗き、引き金を絞る。ここで撃つことはしないが、弾込めの練習もする。弾の一つに、誘導護符を巻いておく。
 ひと通りの工程を終えるのに、一時間ほどを要した。
 あとは、ぶっつけ本番でやるしかない。
 革袋の中に、鉄砲を丁寧に仕舞い込む。
 身体は、疲労困憊の極みにあった。
「もう……限界」
 木の皮やら何やらを敷き重ねた寝床に突っ伏す。脚を焚き火に向けて伸ばす。身体の上から、今日一日お世話になった防寒具をかぶる。
「これ使え」
 すぐ隣に同じような体勢で寝転がったネムノが、丸めた布を渡してきた。触れると、温かい。どうやら、直径五センチほどの石を火で炙り、搾った手拭いで包んだ物らしかった。丹田のあたりに、押し当てる。しかしそれでも、
「寒い。めちゃくちゃ寒いわ」
「まあ、仕方ねえ。我慢しろ」
 震えるほどではないが、落ち着かない。できるだけ、身を縮める。
「そうだ。相撲でも取るか?」
「何が哀しくって雪山で相撲取らないといけないのよ」
 すげなく答えると、
「相撲楽しいのに……」
 ネムノが、心底残念そうに言った。あながち、冗談ではなかったかもしれない。いずれにせよ、相撲など取って汗でもかいたら、風呂が無駄になる。
「そんなら」
「ちょ、ちょっと!?」
 ――ぎゅっ、と。
 大きな腕で、大きな身体で、抱き締められた。
「これならマシだろ」
「……そう、だけど」
 山で生きるネムノの身体は、中心体温を外に逃さないように鍛え上げられている。太い骨を絞られた筋肉が鎧い、その上を適度な脂肪が包む。
 その堂々たる肉体の懐中で、霊夢は身動きが取れなくなる。身体と身体の隙間が狭められ、穏やかな熱が籠もる。
「どうだ?」
「うん。これなら……眠れそう」
「そりゃ良かった」
 意識が途切れ途切れになる。
 完全に眠りに落ちる前に、尋ねる。
「ネムノ。今日、私あんたに、色々、聞いたけどさ」
「おう」
「もう一個、聞いていい?」
「おう」
「ネムノさ。里に降りたいとか、思ったり、しないの?」
「…………」
「一人は、寂しくないの?」
「……そういう時、もある」
「だったら、どうして」
「なあ、霊夢。うちも聞いていいか?」
「いい、けど」
「巫女やってて、疲れねぇか? 妖怪退治したりなんだり。面倒くさいって思わねぇか?」
「…………」
「どうだ?」
「あるわよ、時々は。でも、私は……この生き方以外、何も知らないから」
「うちも同じだ」
「同じ?」
「うちは、山でこうやって生きる以外、知らねえ」
「……でも、知ることはできる。知ることは、できるはずよ」
「…………」
「ご飯、おいしかったわ。あんたの作ったのご飯。ほんとにおいしかった」
「そうか」
「あんなにおいしいの独り占めするなんて……ずるいわ」
「そうかな」
「もっとみんなに、あんたのこと、知って欲しい」
「…………」
「それとも、ネムノは……ひとのこと、嫌い?」
「…………」
「…………」
「……うちも」
「うん」
「うちも、さっきの飯、うまいって思った」
「うん」
「やっぱ、ひとと一緒に食べる飯は、うまいって思った」
「そうね」
「なあ、霊夢」
「なぁに?」
「はぐれの、ちゃんとブてたら、シシ鍋にしよう」
「それは……とっても、素敵、ね」
「大根の食える部分、卸しにして、入れよう。めちゃくちゃうまいぞ」
「うん……楽しみに……してる……わ」
 山の夜は、静かだった。
 ぱちぱちと、焚き火の爆ぜる音だけが、時折、響く。

      ■ ■ ■

 その夜。
 ネムノは。
 一睡もせず。
 ただずっと。
 霊夢の寝顔を見つめていた。

      ■ ■ ■

 日が昇る前に、ネムノに揺り起こされた。
 二人、言葉少なに、出立の準備を始める。
 朝食は、ネムノが昨夜のうちに作ってくれた、ゲンコツほどのおにぎり。味噌を塗って、焚き火で炙って食べる。濃く煮出したクマザサ茶を、大量に飲む。改めて沢の水を汲み、茶を作り、水筒に詰める。関節をほぐし、防寒着を身にまとう。
 食器として使った竹筒を山刀で割り砕き、地面に埋める。焚き火を完全に踏み潰す。
 寒さに身体を慣らしながら、薄明の空の下に出る。
 気温は依然として零下であったが、雪は、降っていなかった。
 深く深く、鼻から空気を吸い込む。早朝の、冷たい大気が肺を満たす。ゆっくりと、口から息を吐き出す。白い靄が、視界を覆う。
 薄い雲が、高い位置にあった。
「狩りするにゃ、いい天気だ」
 ネムノが、霊夢に教えるように、そう呟く。日光が強いと、雪が溶けて足元が悪くなる。加えて、雪が日を反射すると、狙撃の妨げとなるのだという。
 うっすらと残っていた自分達の足跡を辿り、昨夕の戦いの場まで戻る。
 戦闘の痕は、はっきりと山に刻まれていた。霊夢が尻もちをついた跡まで確認できる。巨体の猪が退いた道筋が、山の奥へ奥へと伸びている。
「行くぞ」
「ええ」
 ネムノによって左眼を抉られたためだろう、血が点々と垂れていた。痛痒と憤怒によるものか、辺り一帯に瘴風を撒き散らしながら、突き進んでいる。
 追跡は容易だった。
 だが、それと相反するように、道が苛酷になっていく。
 急な坂を滑り降り、あるいは這ってよじ登る。厚い藪をかき分け、巨大な倒木を乗り越える。追跡行は、甚大な忍耐が問われる。
 往く道にある木々、その表面に、無数の傷が走っている。邪なる金気を伴った風。金気は木気を剋する。刻まれた傷が黒々と滲む。腐敗はいずれ根に至り、立ち枯れとなる。
「はやく、退治しないと」
 木の肌を撫で、呟く。ネムノの背を追う。
 気高き山姥は、雪の中を、泳ぐように歩く。
 その姿は、美しく、恐ろしい。優しく、厳しい。山と似ている。
 息が乱れる前に、霊夢はこまめに深呼吸を挟んだ。
 一歩一歩、着実に、ネムノの足跡を踏む。


 前方に、六十度近い傾斜が迫る。猪の足跡は、峰の向こうまで繋がっている。
「休むか?」
 振り返り、ネムノが短く問うてきた。
「いえ、大丈夫」
 その背に追いつき、答える。もちろん、疲弊していた。身体が休息を欲していた。だが、ここで立ち止まりたくはなかった。
「そうか」
 ネムノは小さく頷くと、霊夢に水筒を渡した。
「歩きながら、ちょっとずつ飲め」
「うん」
「それと、これ。家から持ってきたモンは、これで最後だ」
 そう言って渡されたのは、四枚の干し芋だった。あざやかな金色をしていた。
「ありがと」
「ゆっくり食えよ」
「――ネムノの分も、あるのよね?」
「もちろん」
「嘘」
「嘘じゃねえよ」
「……二枚、もらうわ」
 二枚を押し返し、一枚を懐に、一枚に口に入れる。
 木々にすがりながら慎重に雪坂を登り、同じほどの速度で、干し芋を咀嚼する。干し柿とはまた異なる、柔らかな甘さが広がる。松の葉の茶で、喉を潤す。
 坂を登り切ったところで、ネムノに無理矢理、水分を摂らせる。
 猪の足跡は、なお続く。山颪が、どこまで逃げたかはわからない。それでも追う。
 ――こういう生き方もある。
 霊夢は、心中で一人ごちた。
 産みの母のもとから離され、庇護者に育てられ、人ではない人になる。
 ――どこが違う?
 ――巫女と山姥。どこが違う?
 ごくつまらないことを思いついて、微笑が口に浮かぶ。
 ――山には、お酒がない。
 里の人間との交流の中でしか、酒を得られない。それでは、干上がってしまう。
「お酒のない人生なんて、私にはきっと、耐えられない」
 自分の耳にすら聞こえないような小声で、呟く。
 少し、酒が恋しい。
 少し、神社が恋しい。
 空は曇っている。だが、なんとなく、わかる。今は正午だ。
「まだ、山に入ってから、一日も経ってないのね」
 随分、遠くに来た気がする。
「神社の方は……いつも通り、参拝客なんていないでしょうね」
 華扇か魔理沙が、不平混じりに留守番をしてくれていることだろう。
 そこには、いつもと変わらぬ日常が巡っている。
 否、きっと、山に住む者にとっては、獣を追うこれが、日常なのだ。
 そう考えると、少し不思議な気もする。
「ま、色々あるわよね」
 少し、気が抜けてしまった。
 うっかり、足跡のない雪を踏んでしまう。
 くぐもった音を立てて、右脚が雪中に嵌り込む。
「んっ」
 膝まで、深々と埋まってしまった。引き抜こうとするが、バランスが取れず、力が入らない。五メートルほども離れたネムノに、声をかける。
「ネムノ」
「おう」
 ネムノが、少し戻って、手を差し伸べてくれる。
 大きな掌を、強く握る。
 逞しい腕が、霊夢の身体を引き抜く。
 言葉はいらない。
 ひたすら、進む。


 ――鼻が、わずかに痙攣した。
 血の如き錆びた鉄のにおい、濃厚な獣のにおい、二つの臭気が混ざり合い、漂っている。
「いた」
 二人同時に、捕捉した。楠の木の傍で、巨大な猪が伏せている。山颪と見て間違いない。その場でゆっくりと身を低くし、標的の様子を観察する。
 山颪の肉体は、生ける鉄塊と化していた。全身の毛が針のように尖り、蠢いている。
 今は、休息を取っているようだ。ほとんど動かない。しかし、睡眠状態ではない。左眼窩の傷が痛むのか、時折、身をよじる。
 楠の木を中心として、うっすらと、獣径が見えた。それも、三本。道の交差すら場所。人の世界にあっても、魔所とされる空間だ。傷を癒すため、力を吸っているのだろう。
「まずいわね」
 霊夢は口の中でそう言い、ネムノの肩をつついた。身振りで、一度距離を取ることを提案する。百メートルほど道を戻ってから、囁き声で伝える。
「あいつ、力が上がってる」
「昨日の今日で、か?」
「隻眼、隻腕、隻脚。左右対称だったもののどちらかが崩れた時、そのバランスを取るように、霊力が上がる。何かを喪うことで、何かを得る」
「手負いが危ねェのは、獣も妖怪も同じだな」
「真正面から行ったら、返り討ちに遭うのは必至よ」
「こっからは、二手に別れるぞ。昨日話した通りだ」
 異論はなかった。はっきりと、首を縦に振る。
 鉄砲を渡される。昨晩持った時よりも、何倍も重く感じる。
「…………」
 霊夢は一つ、生唾を飲み下した。少し、緊張する。銃把を握る手が震えていた。
 これから始まるのは、弾幕ごっこではない。人と獣の、命の奪い合いだ。
「震えてるぞ、霊夢」
「大丈夫よ」
「やれるか?」
 ネムノが、ぼそりと、問うてきた。
「やれる」
 今さら、迷いはない。そのはずだ。
「やるに決まってる」
 自分に言い聞かせるように、言う。
「なあ、霊夢。最初に聞いたけどな。最後にもっぺん、聞くぞ」
「なに」
「どうしてお前、そこまでする? 他のヤツ呼ぶことだって、できただろ? お前がそこまで苦労しょいこむことなんて、ねェだろ?」
 ネムノに問われて、改めて、己の内の確認する。
 なぜ、ここまで来たのか。
 なぜ、慣れない雪山を延々と歩き、猪を追い続けたのか。
 上手く、言葉にならない。
 だから、拙い言葉を連ねた。
「私さ……土弄りとかって、しないのよ。植物育てたことも、野菜育てたこともない。お賽銭稼ぎのためにやったこともあるけど、どれも長続きしなかった。まあ、やっぱり、必要無いからね。私にできることは、妖怪退治だけだから」
 必要が無いからしない。理由が無いからしない。やれることだけをやる生活。
「でも、っていうか、だから、っていうか。山の麓の畑や、あんたの畑を見た時、思ったの。ここは、聖域なんだろうな、って」
 聖域を作るために、特別な力はいらない。ただ、毎日を懸命に生きて、自然と真剣の向かい合うだけでいい。その営みは、どんなことよりも、妖怪を退治することなんよりも、ずっとずっと、尊い。どんな力よりも、気高い。
「村の人も、あんたも、丹精込めて、畑を手入れしてきた。土を見ただけで、それがわかった。その聖域を、収穫の前に、荒らされた」
 眼を閉じれば、目蓋の裏に蘇る。撒き散らかされた作物が、掘り返された畑が、救いを求める人々の顔が、浮かび上がる。
「山も、山裾も、山のものかもしれない。ずっと昔から住んできた、山の獣のものかもしれない。でも、あんなの……あんなのは、バランスが、取れてないわ」
 均衡。人と山の均衡。人と獣の均衡。人間と妖怪の均衡。
「私は、博霊の巫女。幻想郷のバランスを保つ者よ」
 手が震えていた。恐怖からではない。寒さのためでもない。
「だから、私はヤツを、」
「ふふっ」
 ネムノの顔に、ひどく穏やかな微笑が浮かんでいた。
「どうして笑うのよ。人が真面目に答えてるのに」
「いや、霊夢、ずっと難しい顔してたからな。うちにゃわからねえ、さぞ大層なこと考えてるんだろう、って思ってたんだけどな。安心した」
「安心した? なにが」
「要するに、お前、あれだろ。うちらのために、怒ってくれてたわけだ」
 怒り。
 その言葉を聞いて、霊夢はようやく、沸き上がる衝動の正体に気づいた。
「……ああ、そうか」
 幻想郷で生きる人間の嘆きを見て。
 幻想郷で生きる妖怪の憤りを見て。
 巫女であるよりも前に、一人の人間として。
 博霊霊夢は、ずっと、神社を出てからずっと、怒っていたのだ。
「私、あの猪が、嫌いなのね」
 ごく単純な感情だ。
 単純であるが故に、どんな理屈も必要ない。
 巫女としての自分ではない。
 一人の人間として。
 怒っている。
「だったら、これは」
 鉄砲を握る手を、震える手を、見る。
「武者震いってやつよ」


 薄曇りの冬空に、音もなく浮かび上がる。
 俯瞰で見る、幻想郷。随分、久しぶりに感じた。
 四方八方に視線を巡らせる。
 山は、無数の地形を、無数の種族の生命圏を抱いている。岸壁、清流、大樹、あるいは動き、あるいは動かず、あるいは昇り、あるいは降るものを抱く。
 その巨大な流れを大地龍の経絡と見なし、龍脈と呼ぶ。龍脈を看るには、四神相応の見立てから始める。
「北の玄武はあれで大丈夫として、東の青龍は……遠いけど、うちの裏の木で賄うか。南の朱雀は、熱さえあればいいから、あれで通る。さて、西の白虎はどうする?」
 何かないか。白。金。秋。商。言。太白。肺。申。酉。戌。固。縮。滅。
「金……金気……金属……鉱脈……違う……金属、金属……工場……河童どもの……」
 早苗曰く、妖怪の山の中に、河童が工場を作っているらしい。そしてそこで、日々、良からぬことを企んでいるのだという。
 玄武の沢は、大きく西に湾曲する形で伸びている。沢の周辺は河童の支配地に属する。工場を設けるとすれば、その近辺であることは想像に難くない。
「確定的ではないけれど……細かいことは言ってられない、か」
 四神相応が成立しなかった時は、また別の論理で補強すればいい。風水とはそもそも、流動的な大系だ。
 およそ三秒で、四神の見立てを定める。続けて、龍脈を探す。
 山容、地下水脈、地下鉱脈、風の道、獣の径。四神相応の地形を出発点として、眼に見えるもの、眼に見えないものを、看透す。それらの収束点に、龍穴がある。気の吹き溜まり、山という一匹の龍、その生命の恵みを受けられる地点だ。
「さて。どこでなら、こっちが有利に戦える?」
 大地の力は膨大である。候補は幾つか見つかる。その中で、見通しが良く、風通しが良く、水捌けの良い空間を求める。また、立間としては、山颪を上方から狙い撃つ姿勢を取りたい。よって、稜線は避ける。そして何よりネムノが、戦いやすいような、平らな場所が望ましい。山の中腹を重点的に探っていく。
 思考と視線を、高速で動かす。
「あそこなら」
 山颪が伏せていた場所から、直線距離にしておよそ八百メートル。ネムノが待機している場所からは、七百メートル。――山坂の途中、上空からでなければ気がつかなかったであろう何の変哲もない空間に、直径三メートルほどの、広場があった。

      ■ ■ ■

 厚く重ねた防寒着のことごとくを脱ぐ。荷の中から、ある物の入った小袋を取り出し、山刀の柄に括りつける。脱いだ服と余分な荷物は、藪の中に隠しておく。
 今、ネムノの身を覆う布はほとんどない。それは、山姥本来の格好だった。寒さは感じない。むしろ暑いほどだった。身体の芯が熱い。戦いを前に、彼女は珍しく、昂奮しているのだった。雌猪との再戦を期して、精神と肉体とを、戦いに収斂させていく。
 本来、獣狩りに、感情を挟むべきではない。時として動物は、アドレナリンの分泌をすら嗅ぎつける。戦意を燃やせば燃やすほど、こちらの位置を気取られ、不利になる。
 それでも、ネムノは感情の奔流を抑えられなかった。怒りではない。憤りではない。強いて言えば、
「楽しいなぁ、霊夢」
 彼方にいる少女に、語りかける。
 命の獲り合いが楽しいのではない。
 山の中で、誰かと一緒にいられるのが、楽しくて、嬉しかった。
 心が沸き立ち、躍る。
 五感が、氷のように研ぎ澄まされる。
 視線を、標的に集中する。木々の彼方、百メートル。相手はこちらに気づいていない。いつでも仕掛けられる。あとは、霊夢の指示を待つのみ。
 そして、霊夢と別れてから、五分ほどの後。
 身を屈め猪を観察していたネムノの傍に、陰陽玉がふよふよと漂い、近づいてきた。少女の声が、小さく鳴る。
『見立ては終わったわ。そこから西の方に、龍穴がある。真っ直ぐ行けば七百メートル。でも、できれば、北から回り込む形で、山颪を誘き寄せて』
「よし」
 短く答え、立ち上がる。腰に提げた鞘から、得物を抜き放つ。
「ソーレァ! ソーレァ!」
 女の澄んだ声が、山間に、広く深く、響く。
 猪の、その一つだけ残った右眼が、声の主を睨んだ。
 ――来るか。去るか。
 まだ、わからない。
 猪が、身を起こす。
 雲の向こうにうっすらと浮かぶ太陽に、山刀を掲げる。わずかな光を白刃に集束させ、雌猪の、血走った眼に向ける。
 ――殺すために追うか。生きるために逃げるか。
 まだ、わからない。
 まだ、動かない。
 ならば。
「もっともっと、怒らせてやるよ」
 その声は。
 ひどく、歪んでいた。
 山姥としての、妖怪としての、恐怖を振り撒く者としての、声。
 左手を懐に突っ込み、一つの物体を取り出す。ぶよぶよとした、ぬるぬるとした、べちゃべちゃとした円い物体を握り、高々とかざす。
 それは、山刀で貫き、抉り抜いた、雌猪の左眼だった。
「よく見とけ」
 眼球を、ぎゅっと握り潰し。
 口の中に、放り込む。
 これ見よがしに顎を動かし、殊更ゆっくりと咀嚼する。おいしくはない。生くさい。どろどろになるまで噛んで、大袈裟に喉を動かし、嚥下する。
「おら、どうだ、シシッコロ」
 雌猪が、一つ、吼えた。
 妖怪の山が、ざわめく。
 ――赤色の陰が、地を奔る。
 来た。ついに動いた。
「ソーレァ! ソーレァ! ソーレァ!」
 声を限りに叫び、雪の上を疾駆する。
 陰陽玉が示す一点を目指して、ひたすらに走る。
 岩を飛び越え、木を避け、葉を突っ切り、枝を切り落とし、突き進む。
「ソーレァ! ソーレァ! ソーレァ! ソーレァ!」
 猪は、百メートルの距離を八秒ほどで駆け抜ける。山姥たるネムノも、平地ならばほぼ同速。しかしここは山の中、坂の途中、雪の上だ。四足獣に、圧倒的な分がある。
 野太い吼え声を引きずり、手負いの雌が猛追を仕掛ける。
 この勢いでは、決戦地点に到着する前に、追いつかれる。しかし、飛んで逃げるわけにはいかない。そんなことをすれば、猪は追撃を諦めてしまう。それでは意味が無い。
 山刀で切った枝を宙空で掴み、後方へ投擲。
 狙うはただ一つ、赤色の右眼。
 視界を塞がることを嫌った猪が、頭を振る。わずかに、速度が落ちる。
「ちッ!」
 同時、ネムノの目元が、震えた。うなじの毛が逆立つ。右の小指が震える。
 憤怒のにおい。においならぬにおい。
 咄嗟に、右に飛んだ。
 つい数瞬前にいた空間を、風の塊が穿つ。撃たれれば、転倒は免れない。そうなれば、伸し掛かられ、喰われる。飢えた猪は、犬も猿も人も食う。
 北西方面に向け、疾走再開。

      ■ ■ ■

 陰陽玉でネムノを誘導しながら、霊夢本人も、立間としての位置取りをしていた。
「ここからなら」
 龍穴を見下ろすことのできる高台に陣取る。ターゲットは右眼のみ。遠すぎては狙えず、近すぎては気取られる。少しでも確度を上げるために、撃ち下ろしの形を狙う。
 風が急峻な山峪に反射している。気流が複雑に渦を巻き、向きが一定しない。風上も風下もあったものではない。
「今日は、においはない、はず」
 ずっと、ネムノの忠告を心に留めていた。汗をかくのを避けて、慎重に動いた。首元に鼻を近づけるが、少なくとも、霊夢本人にとっては無臭と感じられた。
「無茶しないでよ、ネムノ」
 陰陽玉とは、ある程度は視界を共有できる。故に道を示すことはできる。しかし、実際に走るのはネムノだ。山颪の追撃を捌くのは、ネムノなのだ。それが役割であるとはわかっていても、ひどく、もどかしい。
 凍えるような、底冷えのする寒さが身体を刺す。
 静かに息を吐き、掌を温める。手が痺れないよう、こまめに擦り合わせる。
 震える手で、鉄砲を抱き締める。
「ネムノ……」

      ■ ■ ■

 においでわかる。雌猪の感情が、動作が、攻撃が、においでわかる。振り返るまでもない。襲い来る豪風を、右に避け、左に避け、跳躍して避け、屈んで避ける。
「ソーレァ! ソーレァ!」
 叫ぶ。叫び続ける。
 陰陽玉を追い、龍穴へ向かう。
 女と雌猪、一人と一頭の距離が縮まる。
 獣の息吹が聞こえる。
 楽しい。ひどく楽しい。
 喉の奥で、唸り声が生まれる。人間離れした、獣の如き声が、ネムノの口から漏れる。
 少しでも油断すれば、吼えてしまいそうだった。猪のように、狼のように、熊のように、吼えてしまいたくなる。言葉という言葉を忘れて、本能に身を委ねたくなる。
 けれど、今のネムノの傍らには、陰陽玉が、博霊の巫女が、霊夢が、いる。
「ソーレァ! ソーレァ! ソーレァ!」
 走り、走り、走る。
 後方一メートルに雌猪が控える。最早、避けられることがわかっている風は、撃たない。そう決めたのだろう。ひたむきに奔る。
 九十センチ。八十センチ。七十センチ。彼我の距離が縮まる。
 背に、獣の熱を感じる。
 龍穴は近い。しかし、このままでは、追いつかれる。
 前方左手。崖に積もった雪が突出している。雪庇(せっぴ)だ。利用できるかもしれない。しかし、手が届かない。
「霊夢!」
 叫びかける。
「崩せ!」
 雪庇を示す。それだけで、明瞭に伝わった。陰陽玉が高速で宙を駆け、雪塊に直撃する。小規模の雪崩(ナデ)が起こり、ネムノと雌猪の頭上を覆う。
 直撃の寸前、ネムノは雪の下を走り切った。
 白色の大質量が、猪に降り注ぐ。
 確認はしない。そのまま、驀進する。
 そして――山中に、突如として、拓けた空間が顕れた。
 ネムノは、龍穴に足を踏み入れたのだった。
 大地の力が集まっているなどとは、にわかには信じ難い、ささやかで、穏やかで、静かな場所だった。澄んだ大気が、緩やかに流れている。
 遙かなる妖怪の山が、一望できた。険しい崖が、厳しい坂が、激しい滝が、速き沢が、高き木々が、厚き雪が、見えた。
「うん。いい眺めだ」
 さすがは博霊の巫女の見立てた龍穴、ということか。妙に、心が落ち着く。当の霊夢の姿は、視線を巡らせても、発見できない。上手に隠れている。においもない。
 猪は今この時も近づいて来ている。ネムノなりの準備を進める。
「ちっと場所借りるぞ、山の神サンよ」
 山刀に括りつけていた袋を外し、中に入っている物を掴む。
 それをばら撒く、直前――
『それ、塩?』
 と、陰陽玉が問いかけてきた。
「おう。今からここは、血で汚れッからな」
『……ネムノ、それ、西南の方向に、少しだけ多めに撒いてもらえないかしら』
「? おう」
 四方を塩で清め、最後に、霊夢に言われた通りの方向に、残りの全てを撒く。白の中に白が混ざり、同化する。
 続けてすぐに、陰陽玉が、ネムノの山刀を、こつんと叩いた。そして、ゆるゆると動き、広場の一点で止まる。
「ナガサ、ここに刺せってことか?」
『素手になるけど……お願いできる?』
「おう。構わねえ」
 元より、そのつもりだ。霊夢の意図はよくわからないが、指示に従い、山刀を地面に刺す。柄に巻いた赤いリボンが、風にはためく。
「お前は、今日は、こっちだ」
 布をほどき、その本来の在り処に戻す。
 銀色の髪を、引っ詰めの形に、まとめる。
「うん」
 これでいい。
 空気のにおいが変わる。
 木を枯らす風を纏い、雌猪が近づいてくる。
「来たか」
 色無き風が、妖怪の山に吹く。

      ■ ■ ■

「乾宮に退魔針、欣宮に水獣たる亥、艮宮に陽中の陰、兌宮に山刀、震宮に大樹、坤宮に粉塩、離宮に神火、巽宮にお祓い棒――かなり無理矢理だけど、これでやるしかない」
 山颪にこちらの位置を知られぬように注意しながら、退魔針を、お祓い棒を、陰陽玉を、そして大量の霊符を、飛ばす。それぞれが、所定の位置に収まる。
「出し惜しみは無し。ありったけよ」
 ネムノの背後、南方離宮の位置に、追尾霊符を詰んでいく。事ここに至って、後のことは考えない。文字通り、懐にあるだけ吐き出し、さらに結界霊符をも重ねる。
 目的はただ一つ。紙としての役割を果たすこと。
 大量の霊符の上で、陰陽玉を高速回転させる。
 玉が紙との間に摩擦が起こり――
 神火が生じた。

      ■ ■ ■

 その時。
 ネムノの脳裏に、一つの光景が蘇った。
 女。
 火。
 リボン。
 赤。
 声が響く。
「必ず迎えに来るから、ここで待ってるのよ」
 気づく。
 きっと、彼女は、知っていたのだろう。
 山姥の存在を。山に住む、姥なる妖怪の存在を。
 姥は、迎えに来たではないか。
 捨てられた子を、拾い、育ててくれる、山の姥は、来たではないか。
 赤く揺らめくリボンを、雪の中で見つけて。
 赤く燃える炎を、雪の中で見つけて。
 母は、嘘など、言っていなかった。
 自分は、捨てられたのではない。託されたのだ。母の手から、姥の手に。
 背に、熱を感じる。
 母の熱を。姥の熱を。少女の熱を。
「ありがとな、かあちゃん、おっかぁ」
 呟く。
 彼方にいる霊夢に、語りかける。
「やるぞ、霊夢」
 ぱん、と。
 一つ、柏手を叩く。
 ぱん、と、また一つ。
 両の掌で、己の頬を叩く。
 ぱん、ぱん、と二つ。
 右手で左肩を、左手で右肩を、叩く。
 最後に、大きく。
 どん、と
 深く、深く、四股を踏んだ。

      ■ ■ ■

 その瞬間。
 博霊の巫女は、世界に向け、告げた。
「乾欣艮兌震坤離巽、八卦の陣に天地の諸相を顕す」
 亀甲型の八角を、龍穴の上に観る。
「此に央土五拍を加え、以て九星の陣と為す」
 三行三列、縦横斜全てにあって十五を数える魔法陣を、龍穴の上に観る。
「神木より漉きし霊符、之を以て神火を生み、之に依って土に生きる山の姥を清め、之なる者が錆びし金なる妖を制し、之なる者が濁りし水なる怪を制する」
 五芒星を、龍穴の上に観る。
「東に境界たる博霊大樹を仰ぎ、西に鉄塊なる大室を籠め、北に無尽なる三途の大河を抱き、南に蒼き陽へ至る大穴を臨む」
 巨大で歪つな菱型を、龍穴の上に観る。
「四方清まり五行経巡り九星極まり八卦良し!」

      ■ ■ ■

「来いや、はぐれの!」
 ネムノの満身に、力が籠もる。
 猪が、甚大なる憎悪を伴って、猛然たる突進を敢行する。
 身を低く低く屈めたネムノが、赤き妖怪に、真正面から組み付く。
 激突。
「応ッ!」
 一瞬の均衡と、静止。しかし、質量の差は圧倒的だった。
 身のことごとくを金属と化した雌猪は、今や、三百キロを優に越えている。ネムノの大力を以てしても、否応無く、後退させられる。
 妖怪の身から絶えず発せられる魔風が、ネムノの肌を切る。
 妖怪の身を覆う千本通しの如き体毛が、ネムノの肌を貫く。
 一秒と経ずして、ネムノは全身、血塗れになった。
 霊夢が危惧するほどの妖怪、その力は伊達ではない。
 ――相手に取って、不足無し。
 ネムノの口元に、ひどく楽しそうな、ひどく酷薄な、ひどく残忍な笑みが浮かぶ。
 肌を裂かれようが、肉を斬られようが、心は折れない。
「応ッ! 応ッ!」
 威勢良く声を発し、右脚を地面に突き立てる。
 身体が命じている。
 山に生きる姥として育てられた身体が、それを命じている。
 雌猪の突進を、制御する。
 押され、押され、押される。だが、問題無い。これでいい。こうでなくはならない。
「応ッ! 応ッッ! 応ッッッ!」
 威嚇するように、叫ぶ。
 獣が、山姥の策に気づくべくもなく。
 右脚を軸として、ネムノの身体が、その場で一回転していた。
 左脚が、雪上に、痕跡を刻む。
「オォぉぉぉぉぉぉぉォンッ!」
 山姥の声が、冬の空の下、高く高く高く、遠く遠く遠く、響く。

      ■ ■ ■

 ――山中に、聖域が生まれた。

      ■ ■ ■

 息と息とがぶつかり合う距離で、ネムノは雌猪に語りかけた。
「おう、シシッコロ。本番はこっからだ」
 女の口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
「うちゃな、相撲、強ぇぞ?」

      ■ ■ ■

《a》《u》《m》。それは、西方遥かなる天竺より伝わる、人類最古の聖句。圧縮に圧縮を重ねた、三位一体の聖句。始原と終末の聖句。世界の真理を表す聖句。言語化された神秘。
 その言葉が、立体的な聖域を、駆動させた。
 ネムノが左脚で雪上に描いた真円を、その中で、太古の文字が乱舞する。
「山窩、いえ、豊国? 梵字にも似てるけど。まさか……秀真文字?」
 魔理沙やパチュリー、白蓮の使う魔術文字は、空間に描くとはいえ、あくまで二次元的なものだ。符に書くのだから、霊夢自身もまた然り。
 しかし、今、ネムノが見せた業は、違う。
 幻想郷にあってすら喪われた言葉。
 古き祝詞よりなお旧き、寿ぎの言葉。
 それを、三次元的に展開してみせている。霊夢の描いた陣の力を借りる形で、内部の一切を浄化へ導く法句が、乱舞している。
 彼女が、どこでそれを学んだのか。どこでそれを知ったのか――違う。識っているのだ。その身に伝えられた在り方が、生き方が、声となって、動きとなって顕されたのだ。
 山の人生が、それを彼女に刻んだのだろう。山の人生が、聖域を作る力を、山を守る力を、山の均衡を保つ力を、独り生きる女の身に、刻んだのだろう。
「ネムノ」

      ■ ■ ■

 雌猪の激しい息が、ネムノの頬に、朱色の線を走らせる。聖域の中にあってなお、妖怪の力は健在だった。瘴気を伴った風を全身から撒き散らす。
 大きく突き出た鼻、その下で、獣の牙が鳴る。上顎の犬歯によって研ぎ澄まされた、下顎の牙。見るだけでわかる、カミソリの如き切れ味。噛まれたら、ひとたまりもない。指がちぎられ、腕をちぎられ、臓腑をちぎられるだろう。
 それでも、恐怖は感じない。ただ全力で押すのみ。
 最早、一歩たりと、退かない。
 足を踏ん張る。
 背の筋肉が盛り上がる。
 体温が急速に上昇する。
 肌に浮いた汗が、端から蒸散していく。
 押し、押され、けれど退かず、押し返す。
 風が。鋭い風が、ネムノの顔を、その左の目蓋を、深く、斬り裂いた。
 大量の血が、眼球に流れ込む。
 左の視界が朱に染まり、開けていられなくなる。
 構わない。これで、条件は同じだ。
 残った右眼だけで、対手を睨む。
 獣と、視線が合う。
 炎のように揺らめく瞳。
 ネムノを見つめる、爛々たる、ただ一つの眼。
 そこにあるのは、紅色の孤独。
 山の中、ただ一人、生きてきた者の輝き。
「お前も、うちと同じか」
 山の中に一人。
「ひとりで飯取るのが下手で、うちの畑荒らしたか?」
 人間と関われず。
「ひとりが寂しくて、人間の畑荒らしたか?」
 どう関わっていいのかわからず。
「付喪神と一緒になれて、嬉しかったか?」
 誰かと出会っても。
「そんならな、うちは、お前に勝てねぇかもな」
 いつか離れ離れになる。
「でもな、はぐれの、よぅ聞けよ」
 それでも。
「今、うちにはな、」

      ■ ■ ■

 ネムノと山颪、両者の力は、拮抗していた。
 正面衝突の余波が、周辺の地形を揺るがす。雪が舞い上がる。地面に突き立てたお祓い棒が、衝撃で揺れる。霊符で上げた神火が、一秒を経るごとにその勢いを失っていく。
 四重の結界と山姥の聖域によって、山颪は間違いなく弱体化している。それでもなお、守りは堅い。瘴気の壁を破った上で、生物としての身を破らねばならない。
 慎重に、鉄砲を構える。
 一撃必殺の瞬間を、じっと待つ。
「力むな」
 ネムノの助言を思い出し、口にする。
 上半身を弛緩させる。逆に、下半身は地面に食い込ませるイメージを持つ。
 薬室に、誘導霊符を貼った弾丸を入れる。
 恐怖はない。ただ、緊張感で息苦しい。
 外した時のことを考えそうになって、やめる。外せるわけがない。
 撃鉄を起こす。
 円の中で、じりじりと、ネムノが押す。
 山颪が、それに抵抗するように叫び、魔風を吹き散らす。
 ネムノの白い肌に、無数の線が走る。赤き血が、白き大地に飛び散る。痛くないはずがない。けれど彼女は、悲鳴一つ上げない。攻撃を受けるたび、応、の言葉を返す。
「まだ」
 脈拍が速くなる。
 駄目だ。焦るな。何のためにネムノは耐えている。
 深く息を吸って、細くゆっくりと吐く。
「まだ」
 唇の端を噛む。
 震えを抑える。左眼を閉じる。
 右眼で、照門を覗く。照星の先に、山颪の頭部を捉える。その真紅の眼を、中央に据える。眼球と、照星と、照門。三つを、一直線に結ぶ。
 ただ一つ開いた右眼で、ただ一つの右眼を、見つめる。
「まだ」
 感覚を研ぎ澄ませる。
 痛いほどに喉が渇く。
 音が聞こえる。
 山肌を撫でる風の音。
 草の擦れる音。
 沢に流れる水の音。
 どこか遠くで鳥が鳴き、羽ばたく音。
 ネムノの声。
 獣の咆哮。
 全てが、ひとときも休むことなく、動いている。
「耐えて、ネムノ」
 己の心臓の音に耳を傾ける。大丈夫。落ち着いている。
 時を、待つ。その時を、ひたすらに待つ。
 肺の中の、息という息を、全て吐き出す。

      ■ ■ ■

「今、うちにはな、」
 それを思うだけで、身体の奥から、いくらでも力が湧いてくる。
「霊夢が、一緒にいてくれるんだ」

      ■ ■ ■

 ネムノの全身の筋肉が振動する。
 激烈な威力を秘めた右の張り手が、山颪を鼻元を打ち据える。
 すぐさま、左の掌が、放たれる。
 女の掌には、今、大地のもたらす剛力が籠められていた。
 山の精髄が、その肉を、その骨を支える。掌に、大地龍の力が顕現する。
 押して、押して、押して――押し勝つ。
 獣の右後ろ脚、その先端が、円陣の外に出る。
 聖域から逃れようと、瘴気が後ろ脚へと殺到する。
 頭部を守る力が、わずか、薄れた。
 霊夢は、呼吸の一切を止め、そして、
「今」
 引き金を、絞った。
 肩に、反動。
 意識が、冬の空を駆ける。

      ■ ■ ■

 二十八番口径ひとつ弾。その一撃は、羆をも討ち倒す。
 初速四三五メートル毎秒、音を置き去りにする。
 霊夢は意志は、符を介して、弾頭に宿る。
 己自身を一つの弾として、山颪に向かって、驀進。
 飛翔、急速接近、弾道を修正する必要は無い。
 撃った時点で、見えていた。
 ただ、直撃の線を辿るのみ。
 弾頭が猪の眼に突き刺さり、貫き、その脳を、破砕する。
 猪の身体が、大きく膨れ上がり、
 嘆きのような啼き声が、妖怪の山にこだまにした。

      ■ ■ ■

 どさり、と。
 女が、前のめりに倒れる。
「ネムノ!」
 短く叫び、霊夢はネムノのもとへ、一直線に飛んだ。
「ネムノ、大丈夫?」
 呼びかけ、上半身を抱え起こす。間近で見て、改めて驚かされる。顔と言わず腕と言わず脚と言わず胴と言わず、ネムノの身は、ことごとく、山颪の風に切り裂かれていた。
 それでも、彼女の意識は、はっきりしていた。
 すぐ傍で潤む霊夢の瞳を見据え、応える。
「……おう。大丈夫だ。ちっと気が抜けただけだ」
 あるいは、山姥としての生命力か。あるいは、龍穴の直上にいるが故か。流血は、見る間に収まっていく。
 それでも、全てがすぐに癒えるわけではない。深く刻まれた目蓋の傷は、なかなか塞がらない。左眼を閉じたままで、ネムノが、ねぎらいの言葉を口にする。
「やったな、霊夢」
「ええ。あんたも。かっこよかったわ」
 大量の熱をいちどきに放射したネムノの身体は、冷えきっていた。霊夢は、己の体温をわけるように、ひと回りほども大きな女を、抱き締めた。
 そのまま、十分ほども、そうしていただろうか。
 ネムノが、ぽつりと言った。
「ホナビラキ、しねえと」
「…………?」
「シシの心臓を、山の神サマに捧げんだ」
 この場で、猪を解体するつもりだろうか。命を失った山颪はすでに、本来の老猪と卸し鉄の姿に戻っている。それでも、満身創痍の身では、容易なこととは思われない。
「あんまり、無理しない方が、」
「いや、さっさと開いちまわねぇと、肉が駄目になる」
 食べられる箇所は、全て食べる。それが、山の流儀なのだろう。ならば、異論を挟む余地はない。それでも霊夢は、ネムノに無理をさせたくなかった。
「私が……やろうか?」
 おずおずと、提案する。力は足りないかもしれないが、時間をかければ、やってやれないことはない、と思った。
 だが、ネムノはあっさりと、首を横に振ってみせた。
「巫女さんに、血の仕事させるわけにゃいかねぇ」
 その声音は、どこか、拒絶を含んでいた。
「ネムノ」
 山姥の横顔を、そっと窺う。蒼白の貌に、凄烈な厳しさが宿っていた。
「ぅ、んっ」
 ようよう立ち上がり、大地に突き立てた山刀に歩み寄るネムノ。柄を握ろうとして、ほんの少し迷い、一度、手を引っ込める。
 ネムノの指が、銀の髪をまとめるリボンに触れる。ほどこうとしているようだ。しかし、それすら、ままならない。彼女の指は、ひどく、震えていた。昂奮が治まらないのか。寒さのためか。血を失い過ぎたためか。あるいは、それ以外の理由か。
 霊夢には、わからない。それでも、成すべきことは、わかっていた。
「……やってあげる」
 赤いリボンを、ほどく。絹糸のような髪が、山の風にたなびく。
「こっちに結べばいいのよね?」
「頼む」
 母から託された布を、姥から受け継いだ道具に、巻き直す。
 山刀を手にしたネムノは、雌猪の骸の傍らに蹲ると、小さく、合掌をした。
 霊夢もまた、その後ろで、手を合わせる。
 ネムノが、山刀を振るい、獣の腹を割く。
 赤いリボンが、深い朱に染まる。
 白銀の大地に、赤色が拡がっていく。
 湯気を伴って、内臓が溢れ出す。
 心臓を、慎重に掴み上げる。
 膀胱や直腸、肺等の幾つかの臓腑を、少し離れた木の枝に括りつける。時間を置かずして、猛禽の類が啄むことだろう。肝臓等の薬として使える箇所は、持って帰る。
 虚ろになった獣の身体の中に、大量の雪を詰める。
 最後に、ホナビラキをした。心臓に十字の切れ目を入れる。それを龍穴の直上、ネムノが四股を踏んだ場所に、丁重に埋める。
 一切の行動に、迷いがない。全てが、斯くあるべき様式によって、進められていく。
 それはちょうど。
 神事のようだった。
 霊夢は言葉も無く、ネムノの背を見つめ続けた。


「よし、帰ぇんべェ」
 空を飛び、来た道を戻る。回収したネムノの荷は霊夢が、猪はネムノが担いだ。
 あれほど苦労して進んだ道を、眼下に臨む。
 戦いの場となった龍穴は、すぐに木々に埋もれ、わからなくなった。
 空の上からでは、どこを歩いたかも、わからない。
 木が、坂が、崖が、沢が、あっけないほど、後ろへ流れていく。
 それでも、地を這い、汗を流し、一歩一歩を刻んだことを、無駄とは思わない。必要なことだった。全ては、必要なことだったのだ。
 半刻とかからず、ネムノの家に到着した。荷という荷を地面に下ろし、一息つく。
「これ、皮とか剥ぐのよね」
 安心したからだろう。戦いの予熱が、今になって沸き上がってきた。不謹慎なのはわかっていたが、霊夢は少し、昂奮していた。
「一人だと大変でしょ。私、手伝うわよ」
 先ほどは断られた。しかし、それでも、手伝いたかった。ネムノの傍を離れ難かった。
「…………」
 何も言わず、猪の骸を見つめるネムノ。
「ネムノ?」
 重い沈黙が流れる。
「駄目だ。霊夢、お前、もう帰れ」
「なっ――」
「お前の分の肉は、ちゃんとやる。やるから、すぐ帰れ」
 なぜ、突然そんなことを言うのか。霊夢には、理解できなかった。驚き、嘆き、憤り、様々な感情が胸の内で暴れる。
「どうして」
「どうしてもだ」
「昨日、言ったじゃない。シシ鍋、一緒に食べようって」
「駄目なもんは駄目だ」
「理由ぐらい……教えて」
 懇願するような、霊夢の声。どんな答えであっても、納得できそうになかった。けれど
聞かずにはいられなかった。
「こンままじゃ、うち、巫女に退治されッちまうよ」
「どういう、意味」
「これ以上、山ン中で一緒にいたら」
 山姥が、一つ、息を飲む。
 そして、喉の奥から絞り出すように、言った。
「うち、お前を……さらいたくなる」
 さらう。
 山の中にさらう。
 人ではない人の子にする。
 そうだ。そんなこと、最初から、わかっていたではないか。
 ――山姥は、人ではないのだ。
 ――山姥は、山に住む妖怪なのだ。
 ――山姥は、人をさらう妖怪なのだ。
 ネムノの紅色の瞳が、燃えるように輝く瞳が、真正面から、霊夢を射る。
 そこには、ひどく澱んだ光が宿っていた。
 母が、子の運命を操ろうとする光。
 孤独な人間が、他者を縛ろうとする光。
 妖怪が、人間を喰らおうとする光。
 ――人間とは違う、もの。
 たとえ、ほんのひととき、わかりあえたとしても。
 決して、わかりあえない。
 それでも。
「一週間後」
 言う。
「一週間後、必ず、神社に来て」
 ネムノは、また、俯いてしまった。
 彼女が今、どんな顔をしているかは、わからない。
 それでも。
 言わねばならない。
「一度でいいから、必ず。私に、お礼をさせて」


 それからすぐ、霊夢は雌猪の牙と、山颪の核となった卸し鉄を、村の人々のもとに持って行った。畑を荒らす妖が退治されたことに、人々は大層喜んだ。
 少なくて申し訳ないが。そう言って、長が、お礼のお金を差し出してくれた。村の住人全員で、少しずつ、出し合ったものだという。
 一度は辞去しようとしたが、思い直して、ありがたく頂戴した。礼を素直に受け取ることもまた、礼儀の内だ。
 神社へ帰る道すがら、もらったばかりの礼金を全て使って、大量の餅米を買った。
 留守居をしてくれていた二人が、なんやかやと言いながら、迎えてくれた。
 そして、ネムノに持たされた新鮮な猪肉を鍋に入れて、三人で食べた。


 ――一週間後。
「まだ来ないのっ!?」
 傍らに臼を置き、肩に杵を担いで、霊夢が不機嫌そうに叫ぶ。
 よく晴れた日だった。太陽は、とっくのとうに南中していた。
 餅米は、すでに炊き上がってている。水も清めてある。様々な食べ方ができるよう、餡やきな粉の準備も整っている。いつでも、餅つきを始められる。
 餅つき大会か何かと勘違いしたのか、呼んでもいない客ばかりが、ぞろぞろと神社に集まって来ている。なのに、肝心のネムノが、いない。
 落ち着きなく身体を揺する霊夢に、珍しく昼食を抜いたという華扇が問う。
「霊夢、そろそろ空腹の限界です。ペットを呼びに遣わせてもいいかしら?」
「駄目よ。あいつは、来るって言ったんだもの」
 魔理沙が、箒に凭れ掛かりながら、提案してくれる。
「って言っても、朝から待ってまだ来ないんだぞ。いい加減待ちくたびれたぜ。こっちから行った方がいいんじゃないか? 杵ぐらいは担いでやるから」
「約束したの。ここで、うちの神社で、一緒に餅つきするって」
 山姥とは不可侵のはずの文が、言う。
「怖いんじゃないですか、やっぱり。山から降りるのが」
「どうしてあんたまでいるのよ」
「山姥は基本的にディスコミュニーションな種族ですからね。本当に神社に現れるというのならば、これ以上のシャッターチャンスはありませんよ」
 どこから聞きつけたものか、山の神社から降りてきた早苗が、横から割って入る。
「私もまだ、山姥さんに会ったことないんですよねぇ。山の現人神として、ちゃんとご挨拶しないとっ!」
「まったく、もう……好き勝手言ってくれるんだから」
 段々と、頭痛がしてきた。
 境内の一角では、鬼どもが早くも酒盛りをしている。半居候の萃香はともかくとして、なぜか勇儀までが、旧地獄から出てきていた。ネムノと力比べでもするつもりだろうか。
 さらに、何を思ったのか、チルノや、冬は鬱屈しているはずの秋姉妹までがいる。三妖精と地獄の妖精も、相変わらず、そこらでうろちょろしている。
 この分では、まだまだ野次馬が増えるかもしれない。
 ――まあ、いつものことか。
 餅米は充分に用意してある。足りなくなることはないだろう。
 と、あうんが駆け寄り、声をかけてきた。
「霊夢さん、霊夢さん」
「なに?」
「こっちこっち」
 言って、小柄な守護妖怪は、跳ねるような足取りで、鳥居の方へと向かって行った。ひとまず杵をその場に置いて、後を追う。
 鳥居をくぐり、階段越しに、下界を一望する。普段と何ひとつ変わらない、平和で平凡な幻想郷が広がっている。
「ほら、あそこ! 木の下!」
 あうんの指が示す先を見る。
 階段の下、春遠き桜の木の傍に、女が一人、身を隠すように立っていた。雪の中での、山の化身の如き威風堂々たる姿とはまるで違う、不安そうな佇まい。
「ネムノ」
 呟くように言い、霊夢は階段を降りていった。
 一歩を進むごとに、距離が縮まる。
「ちゃんと、来てくれたのね」
「約束、したから。お礼、してもらいに……来た……」
 ひどく、不器用な言葉だった。ネムノらしい、と霊夢は思った。
 今、ネムノの手に山刀はない。赤いリボンは、髪をまとめるのに使われている。その代わりに、彼女の手には、小さな袋が提げられていた。
 袋の中から、ネムノが、山の恵みを取り出す。
「これ、土産。無事だった大根。形は悪いけど、うまい」
「うん」
「こっちは、猪の肝臓。苦いけど、風邪に効く」
「うん」
「それと、肉の燻したの」
「うん。ありがとう、ネムノ」
 お礼をされに来たのに、たくさんのお土産を持ってきてくれた。どこまでも不器用で、どこまでも優しい。無数の感情が、数多の言葉が、心の底から沸き上がる。
「ネムノ。来て」
 手を、差し伸べる。その手は、震えていた。
「……おう」
 ネムノが、手を握り返してくれる。その手は、震えていた。
 そして二人、ゆっくりと、階段をのぼる。
「餅米、いっぱい用意炊いてあるからね」
「……おう」
「お酒も、たっぷりあるわよ」
「……おう」
「暇な連中が、やたらと集まって来てるの」
「……おう」
「ネムノ――みんなでたくさん、おはなし、しましょう」
 前回はたくさんのご感想、ありがとうございました。投稿二作目です。前作とは同一の世界線ですが、物語的な繋がりはありません。
『遠野物語』の山人関連の話と、『なめとこ山の熊』のマタギの在り方が妙に心に残っていて、坂田ネムノにそれら二つを統合してもらいました。
 巫女と山姥の物語、楽しんでいただければ幸いです。

 6/10 感想ありがとうございます。
 コメント返信させていただきます。

>3様
 ありがとうございます。

>5様
 山姥、マタギ、山窩、山人、それぞれに異なる存在ですが、ネムノならそれらを統合して体現できるかも、という感触があって、このようになりました。

>6様
 霊夢がレギュラーメンバー以外と関わった時、どのような側面が出るか、というようなことを考えながら書きました。
 ネムノは現状でゲーム本編での会話と設定テキストしか情報が開示されていませんが、山に入った者にとって頼もしい存在になるように書きました。
 次作、完成したらまた投稿させていただきます。

>奇声を発する程度の能力様
 ありがとうございます。

>創想話好き様
 ご指摘ありがとうございます。誤字の方、修正させていただきました。
『レヴェナント』や『エッセンシャル・キリング』を観返して、ネムノと霊夢の歩くすぐ後ろからカメラを回すような気持ちで描写いたしました。二人の歩いた情景が伝わりましたら幸いです。

>ばかのひ様
 お褒めいただきありがとうございます。
 二人とも「そうならざるを得なかった」という所からスタートして、ネムノはその生き方を自分の意志で貫き、霊夢は自分自身の感情も含めて未整理段階、という形になりました。
 同人界隈でもほとんど見ない組み合わせですが、色々な部分が対比になって、書いていて楽しい二人組でした。
 また読んでいただけましたら幸いです。

>13様
 ありがとうございます。
 空を飛んで異変解決に向かったり、色々な人妖に囲まれていたり、というのが基本な霊夢なので、「底から見上げた幻想郷」と「雪山という密室にネムノと二人きり」という雰囲気で書かせていただきました。

>14様
 ありがとうございます。
 話の筋が「霊夢がネムノと猪狩りに行く」という非常にシンプルなものなので、盛りたい要素をじゃんじゃん盛ってみました。『朝霧の巫女』を読んで以来、「山というのは平地の延長ではなく、怪の住む異界である」という観念が非常に好きです。
 二次創作として、「どれだけ少ない台詞と行動でキャラクターを表現できるか」というのは一つの至上命題なので、あうんちゃんを褒めて頂けると嬉しいです。
七節ミサオ
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コメント



0.380簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
しびれました
5.100名前が無い程度の能力削除
マタギ要素を噛ませるのはありそうでなかったですね
6.100名前が無い程度の能力削除
霊夢が可愛らしかったです。ネムノも格好良かったです。
あなたが次にどんなものを書いて下さるか、楽しみです。
7.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
8.100創想話好き削除
情景がすすっと脳に浸入する。空間が作者の中で確りと整理されてるので読者は言葉をなぞってうんうん頷くだけで楽しめる。幻想は良いもの。こちらの世界でも今一度無形の価値は見直されてほしいね

狙撃の体勢を意地したまま →維持

戦闘の後は、はっきりと山に刻まれて →痕、跡
9.100ばかのひ削除
最高に面白かったです。
生き方に軸のあるキャラは見ていて気持ちの良いものです
彼女らのこれからを考えるのも楽しいです
また読みに来ます
13.無評価名前が無い程度の能力削除
最高の空気感
14.100名前が無い程度の能力削除
なんというハートフル山中異界山岳信仰狩猟妖怪退治活劇小説
言葉に出すと恐ろしく要素モリモリに見えますが、一つのストーリーとしてきちんとまとまっていて、最後までワクワクを絶やさずにどくしょできました。
ここで普通ならネムノさんや霊夢カッコ可愛いと言う感想が出るのでしょうが、自分が最初に思った感想は、「あうんちゃんは忠犬可愛い」と言う物でした(酷