Coolier - 新生・東方創想話

今夜はお赤飯!

2018/05/07 20:22:57
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・茨歌仙45話(単行本未掲載)の一部ネタバレがあります。
・生理的表現が多く含まれます、苦手な方はご注意下さい。








 人里で男が死んだ。
 善良な男だった、働き者で礼節を絶やさず、妻を愛し健やかに日々を過ごす若者だった。
 だが男は働いていた商店での不正を押し付けられた、真っ直ぐ過ぎたが故に上手く立ち回れなかった。
 責任を負い、周りから罵られ、やがて自らの首を縄で括るに至った。

 残された女は、愛する夫の死に涙し、復讐を決意した。
 その腹に、大きな命を抱えながら。

 女は妊婦だった。










 私は銭湯に来ていた。地底の旧都にある、ただ湯を沸かしただけのありきたりな銭湯だ。
 今日は萃香に誘われ、私と天子と紫苑とで地底を飲み歩いていたのだが、その最中に些細なことで天子と喧嘩になった。
 それはまあ、いつものことだ、大したことじゃない。
 けど彼女ともみ合っている内に二人して川にドボンしてしまった、盛大な飛沫が上がって、橋姫が嫌そうな顔をしていた。
 その結果、二人して川底の苔やら藻やら緑色のをおっかぶってしまい、大変臭くなってしまった。

 なので飲みは一時中止、風呂に入ってさっぱりしようと言う提案が出た。お酒の後のお風呂は普通危険だが、そんなのでどうにかなるほどヤワじゃねー、と有頂天の鶴の一声で銭湯行きが決定した。
 ただ紫苑は顔を真赤にして長椅子の上で目を回している、彼女は割りかし繊細なほうだったようだ。私が天子に介抱してやるよういうと、天子は「わかってるわよ」と私を睨んでから紫苑に謝りながら手を貸していた。

 私は、湿ったタオルを首から下げ、脱衣所の鏡の前で裸のまま突っ立っていた。
 鏡に映った自らの像の中でも下腹部のへこみに目をやり、人差し指でへこみを直に触れてみた。
 弱々しい皮が引っ張られ、痛みに満たない軽い刺激が脳に返ってきた。

「裸のままで、何やってんのよ」

 少し右に目をやると、風呂上がりの天子が、私の用意してあげた浴衣に袖を通して立っていた。鏡越しに目が合う。
 もうちょっと奥を見ると、寝転んだ紫苑の向こうにマッサージチェアに揺らされる萃香がいた。身体と共に「あばばばばばばばばば」と声まで揺らして不気味な雑音を奏でている。細かく動く角先の輪郭がぼやけた。
 視線を戻しに戻し、鏡像の自分と視線を合わせた。

「へそよ」
「いや、だからそれがどうしたのよ」

 呆れた様子で肩を落とされた。所詮低能な彼女ではわからないだろう、私が彼女の立場なら無論わかるまい。

「天子、あなたはへそが何のためにあるかは知っているかしら?」
「へっ? そりゃあ知ってるわよ」
「ふうん、そう……」

 常識だろうという顔をされた。確かに人間なら子供でも知ってるだろう。
 生き物は産まれてくるまで、母胎とへその緒で繋がり栄養の供給を受ける。へその緒の名残がへそだ。
 きっとそれを知らない者は愚者なのだろう。

「私は知らなかった。私は肉の胎内から生まれたんじゃないから」

 天子は真顔のまま押し黙った。
 価値観の違いにクラリと来たのかも知れない。私は昔、似たような覚えがある。

「私ね、初めの頃はうんちみたいに、身体に溜まった悪いものを出す場所かと思ってた。一生懸命指でほじって、臭いのを外に出そうとしてたことがあるわ」
「ははは、何よそれ。まあでも臭いしねあれ」
「あれって垢とか汚れとからしいわね」
「えっ、私今でもちょっとごま出るんだけど、五衰的にやばくない?」
「どうせ埃が溜まってるだけでしょ」

 ちなみにへそのところは皮が薄いため、いじくりすぎると内蔵を刺激して腹痛になることがある。気になるなら綿棒にオリーブオイルを付けて優しく掃除しよう。ゆかりん豆知識。

「スキマからたまたま出産を覗いて、赤ちゃんのへそから管が伸びてるのが見えてぎょっとした。今まで見たどんな内臓や肉とも違っていて、すごく……本当にとても驚いた」

 はるかな昔、邪魔が入らない洞窟の奥深くで、みんなに見守られながら、産まれたばかりの赤ん坊が懸命に泣いている様子を思い出す。
 赤子のへそから伸びた白い管は、まだ母親と密接に繋がっていた。

「あれが美しい命のつながりなのだろうね」

 ぼんやりと呟く。
 鏡には、天子が鏡像から目を離して、隣りにいる私に顔を向ける様子が見えていた。

「――へっくしょん!」

 私としたことが、油断して口も押さえずくしゃみをしてしまった。
 垂れそうな鼻水を慌ててすする、危ない危ない、女はつつしみ。

「うぅ……ずず……」
「いい加減服着なさいよあんた」

 天子に言われてはどうしようもない。
 負けを認める私を他所に、苦しげな紫苑と愉しげな萃香は相変わらず唸っていた。



 ◇ ◆ ◇



 天子を夕食に誘ったのはその翌日のことだった。
 たまたまその日になって上質なお肉が手に入ったのだ。
 私の家で一対一。藍には天子のご飯を作ってもらったが、二人っきりにしてもらうようお願いした。
 お互いのお膳にそれぞれの夕食が乗せられ、広めの一室で私と天子は向かい合って座している。

「……でさ、それなに」
「見ての通り、お、に、く」

 頬を引きつらせる天子に、ちょっと可愛らしっ子アピールをしてみる。
 私のお皿に盛り付けられたのは、赤黒い物体の上に乗せられた細長い白色の肉だった。
 それが何の由来なのかなど言わなくてもわかるだろう。
 案の定、天子は激情して緋想の剣を手に取って気質の刃を作ると、立ち上がって私の喉元に剣先を向けた。

「っざっけんなぁ!!! よくもまあ、私の目の前で食人なんてふてえ真似できると思ったわね!?」
「一応勘違いしないように言っておくけど、これはあなたが考えてるような肉ではないわ」

 剣の光が肌に突き刺さるようで、喉がひりつく。強い怒りに思わずゾクゾクする。
 想いの刃を突きつけ、人の側として吠え立てる天子に、私はゆっくりと説明してあげる。多分彼女も実物を見るのは初めてだろう。

「昨日、人里で赤子が生まれた。これはそのへその緒、こっちは胎盤」

 正体を知った天子は、目を丸くして刃の先を下ろすと、剣の気質を解いてしまい、自らの席にあぐらで座り込んだ。
 膝に頬杖を突いた彼女は、苦虫を噛み潰したような顔で私を見てくる。

「殺して食うわけじゃないのはわかったけどさあ、あんたそれ親に許可取ったわけ?」
「あら必要ないわそんなの。幻想郷で産まれた赤子のへその緒は勝手に消えるのが常識。毎回私が食べてるもの、すでにそういうものよ」
「悪趣味ッ!!!」

 そう言いながらも天子は席を立とうとはしなかった。
 彼女の非難めいた視線を受け流し、私はご飯を前に両手を叩く。

「ではいただきます」
「……いただきます」

 天子がお箸を手に取る、大して私は素手だ。
 ナイフのような爪を立て、自らの手でへその緒を刻み食べやすいサイズにする。
 白い肉が裂け、血と粘液が断面から糸を引く。
 円盤状になった緒を指で摘み、口に運ぶ私を見て、天子は箸を咥えながら嫌そうな子をしていた。

「つーかさー、だとしても私の目の前で食うのはどうなわけ? しかも夕食の席に呼んどいて、食欲失せるんですけど」
「そう思って藍には精進料理を頼んどいたわ。肉類一切なし、とってもヘルシー、身体に優しい」
「種類がどうこうの問題じゃないっての」
「藍のお得意料理のハンバーグが良かったかしら?」
「ミンチ肉とか余計信用できんわッ!」

 残念、食べ終わった天子に何のお肉なのか、嘘を言って反応を見たかったのに。

「へその緒ねぇ、妖怪ってそんなの食べて美味しいの?」
「あら、あなたも人食に興味がお有りで?」
「あるわけあるか。妖怪にとってどうなのかちょっと気になっただけよ」

 残念、天子と一緒に美味しいお肉を分け合うのは楽しそうだったのだが。

「そうね、そもそもへその緒を食べる妖怪なんてほとんどいないわ。子を生む必要のない妖怪にとって縁の遠いものであるし、下級の妖怪じゃ存在すら知らないのも多いでしょうね」
「昔のあんたも知らなかったわけだしね」
「種類にもよるけど、世の影から産まれたあやかしは多いもの。私もそうだし……藍は知ってたけどね。彼女は赤子として産まれたタイプだったわ」
「主人がへそをごまの穴って思ってると知ったら笑いそうね」
「後でお仕置きしてやったわ」

 あの子ったら鼻で笑ってくれちゃって。仕方ないでしょう知らなかったものは。

「話を戻すけど、妖怪にとって人の肉は、多くの場合、栄養でなく心を満たすためのものよ。だから妖怪にとって人間のどの部分が美味しいかは、その妖怪の精神や執着によって異なる。私はへその緒が好きだけど、藍に食べさせてみても味気ないって言われちゃったわ」
「へえ、であんたの感想は?」

 天子に問われ、皿の上に視線を落とす。
 白い管と赤黒い胎盤。どんな内臓よりも美しく、どんな肉より穢らわしい。

「澄み切った無垢な命の味がするわ」

 罪もなく、憂いもなく、ただゆりかごで守られる赤子が伸ばしていた生命の糸。
 他にない味わいで。まるで透明な水のようにも思えた。

「……ねえ、あなたは生理は来てるのかしら?」
「ぶっ」

 逆に私が質問すると、天子が吹き出して、口から食べかけの白米が散らばった。
 私の食事にまでかかってしまったじゃないか、まあ気にしないけれど。むしろどんと来いだけど。

「もったいないわね、食べ物は大切にしないとダメじゃない」
「あんたは先にデリカシーを大切にしろ!」

 思いっきり睨み付けられた。嗚呼、やはり彼女を弄った後の視線は熱くていい、素敵だ。

「来てるわよ、来てますわよ。とびっきり重いんだから。毎月痛くて苦しんでますよだ」
「そう、あなたは子供が産めるのね」

 私がつい言葉を零すと、天子はハッとなって見つめてきた。
 この視線はちょっとバツが悪い、というか、慣れない。
 少し眉を垂らした私に、天子は時間を掛けて口を開いた。

「……紫は」
「えぇ、生理は来てないわ。所詮この体は人を模しただけの器に過ぎない」

 服の上から、汚れた手でお腹を押さえる。
 指先についた血がわずかに染み、生臭さが布をすり抜けて身に届いているような錯覚を覚える。

「人間の天敵として産まれた妖怪に、子を産む必要はない。特に私みたいなのは尚更」

 人の恐怖、その具現。我々妖怪が残すのは凄惨な爪痕のみ。

「昔は、親がいないならせめて私が母親になりたい、なんて夢に見てたけど、儚いものね。確かな繋がりなど持てないまま、闇で一人野垂れ死ぬ。それが妖怪の宿命なのよ」

 闇から生まれ闇に落ちる。
 妖怪の生涯を語る私を、天子はじっと見つめている。
 私は胎盤を切り取って口に含む。強烈な生臭さに頭がクラクラした。



 ◇ ◆ ◇



 私は夢の世界で、スキマに腰を下ろして本を読んでいた。確かな自意識をそのままに、肉体的には休息しながら思考を続ける。
 夢の世界には現の自分の深層意識である夢の自分がいたが、私はとうに現の自分と夢の自分の境界線を掌握し、意思の統一化を済ませていた。
 夢の人格はどれも嘘を言えない、夢で繋がった彼ら彼女らは他者との境界が薄いのだ。
 万が一にでも夢の私にアクセスをかけられれば、そこから情報を引き出される可能性もある。自らのことを知られることは私にとって大きな恐怖だ。だから対策を打って現と夢の意識を統合した。
 案の定、夢のお城を背景に活字の海を泳ぐ私へと、近づく影があった。

「何か用かしら、夢の支配者さん」
「こんばんは幻想郷の支配者さん」

 暗闇に背を預けたまま、本から視線を上げるとそこにあったのはナイトキャップをかぶった眠たげな目。

「どうも八雲紫さん、あなたをこちらで見かけるのは珍しいですね。いつもどうやって隠れているのです」
「夢と現の境界線などあってないようなもの。現実が胡蝶の夢でないとあなたに証明できますか?」
「おやおや、夢の世界でそんなことを言ってのけるのはあなたくらいのものですよ」

 はぐらかす私に、ドレミー・スイートは呆れながらピンク色の夢魂の塊をクッション代わりにお尻に敷いた。気持ちよさそうだ、いつか私も座ってみたいと思ってるのは内緒。

「なに、私が来たのはただの世間話ですよ。あなたは厄介ですが、何かをしでかす時は裏で動く。目で追えるうちは安心できます」
「あらあら、舐めていると頭から食べられてしまいますよ。夜の闇はどこにでも潜んでいるもの、例え夢の中でもね」
「勿論警戒はさせていただきますとも」

 建前通りが三割、探りに来たのが七割と言ったところか。マメなことだ、バクなど大した妖怪でもないのに夢の支配者などやれてるのは、努力家だからだろう。

「読書とは……その本は、母と子について?」

 私の手元を見て尋ねてくる。隠してもいない表題には初めての妊娠と書かれていた。

「えぇ」
「あなたなら今更読まなくとも大抵の知識はあると思いますが。子を産むことに興味がお有りですか?」
「少しはありますとも。我々妖怪には手が届かない話ですし、幻想郷の人間が繁殖するのに必要なことです」

 真実を織り交ぜて本心を隠す、会話の常套手段だ。
 しかし今回ばかりは無駄かもしれない、この件に関して私は饒舌になりすぎるきらいがある。でなければ食事の席に天子を招待などしたりはしない。

「あなたは知っていますか? 人間の女性は産まれた時に、卵子を卵巣に200万個ストックしておき、それを消費していくそうです。最終的には卵子は尽きて再生産はされない、仙人や魔法使いなどは長く生きた後でも子供を産む者がいますが、そういう人はどこから卵子を用意したのでしょう?」
「さあ、私にはわかりかねますとも。あるいは人が後世になってそう定義付けたから、人がそういう構造になったのかも知れません。仙人や天人など、いくら人の側と言っても我々と同じ精神に依ったファンタジーで曖昧な存在ですから、どうとでもなるのでしょう」
「卵が先か鶏が先か」

 あるいは、天子が詳しい生物知識を身に着けた場合は閉経してしまったりするのだろうか。
 数百年間も生理を繰り返せば生物学的に卵子が残っているはずなどない、彼女に子を産むチャンスは残っているのか。

「どうせなら妊娠に関する夢を見せて差し上げましょうか? 現実の人間の夢を引っ張ってきて追体験できるので、当事者のことを良く知れますよ」
「結構です、私には無用な事柄ですよ」

 ――それより気になるのだが、さっきドレミーはわざわざ『天人』と言ったが、どういう意図なのだろうか。
 私が懐疑的な目で見つめると、夢の支配者はニヤリと笑った。

「おや、あなたから何か言いたいことがありますか?」
「いや何も、あなたも物知りだなと思っただけです」
「夢からは色々な情報が入ってきますから」

 もしやこいつのほうが、私などより数段厄介な存在ではないだろうか。イドの海を潜り、包み隠しの出来ない深層意識の本心を識れるのは、覚りでも難しい。
 私と天子の関係も、天子の視点から見た情報に関しては掌握してるのだろう。甚だ不愉快だが、残念だが夢の世界で分身まで作る此奴を葬るのは私でも難しい。まあやる気はないが、脅迫のカードにならないのはもどかしい。

「しかし妖怪に繁殖の意義がないのに、興味を持つとはあなたも珍しい――あらら?」

 話し込んでいると夢の世界にドンドンと、叩くような音が鳴り響いた。
 これは夢の世界が叩かれているのではない、私の意識が揺らしている。
 現実の眠った私の肉体が、鼓膜に音をキャッチしているのだ。
 どうやら寝ている私になにかしている者がいるらしいが、心当たりが一人しか居ない。

「どうやらお目覚めのようですね」
「そのようです。これで御暇させてもらいますわ」
「次はお茶を用意してあげますよ」
「それでは私はお菓子を持ってこようかしら」

 イニシアチブを取り合いながら立ち上がる。現実で待つものが何なのか、興味半分面倒半分。ネガティブな境界を超えて、彼女が引っ張り出してくれることを願う。

「それでは、ごきげんよう――」

 閉じた本を胸に当て、お辞儀をしながら私は意図的に肉体を覚醒状態にさせた。
 眼の前の夢の光景が薄れていき、ドレミーの姿も消え視界が瞼の裏側の黒を映す。

 五感がハッキリするにつれ、敷布団の感触や肌寒さを覚え始めた。どうやら掛け布団は剥がされてるらしい。
 まだ意識がなじまない脳がまぶたを開くのを拒否していたが、手の甲で拭って開けさせ、起き上がろうとするとお腹の辺りに引っかかるというか、引っ張られるような感覚があった。
 ボヤーッとする視界でよーく隣を見てみると、あったのは天子の寝顔と、お互いのお腹から繋がった管があった。
 ぎょっとしてよく見てみると、二人のへそに、ビニール製の白いホースの両端がガムテープで固定されていた。

「……とりあえず起きんしゃい」
「いだっ!」

 いたずらしといて勝手に寝ていた天子の頭にチョップを叩き込んだ。
 この小娘が寝てからまだそんなに経ってないらしく、天子はすぐに起きた。
 私ははだけた浴衣のスキマから、天子はまくった服の下から、布団の上でお互いにホースで繋がったまま正座して向き合う。妙な状況になってきた。

「あなたねえ、寝てるところに悪戯しないで頂戴。というかこの管なに」
「ブーブー、いきなり否定から入るのはあんたの悪いクセですー」
「余計なお世話ですっ」

 心あたりがあるのが辛い。とにかく話を戻そう。

「ホースは無縁塚で拾ったものだけど洗ったから綺麗よ」
「いやそうじゃなくて、意図は何? 原因は……まあわかるけど」

 十中八九、この前の夕食が起因してるのだろう。

「これなら、紫も赤ん坊の気持ちがわかるかと思って」

 そう言ってにへーと笑う彼女に、カーっと首の裏側が熱くなった。
 天子にはこういうところがある、それが可愛いところだが、時折投げられる豪速球のストレートは直視するに眩しすぎる。

「へその緒に興味があるのは本当だけど別に赤ん坊になりたいわけじゃないわよ」

 早口でまくしたて、自分が恥ずかしがってることに気付く。
 こういう時には振り回してくる天子のことがわずかばかり憎らしい。

「というかこれじゃ二人共赤ん坊役じゃない」
「しょうがないじゃない、ホース子宮に突っ込むなんてイヤよ私は」
「私だってイヤよ」

 なんというかそういうのは自分の手でやらせて欲しい。いや他意はなくてうん、何考えてるのかしら私。冷静に。

「細かいことはいいじゃん、物は試しに」

 天子はいやがる私に両腕を広げた。

「……なに?」
「やーい、来なさいゆかりちゃん。天子ママが抱きしめてあげる」
「気色悪い! いやよ止めなさい」

 抱きついてこようとする天子に対抗するうち、お互いの指を渾身の力で絡ませ、手四つで競い合う。
 拮抗し小刻みに震える両手の間で、至近距離から睨み合った。

「なによー! 紫のためにやったげてるのに!」
「押し付けがましいわー! 母親やるなら私でしょうが!」
「いーじゃん、いつも母親ヅラしてるんだからこんな時くらい、赤ちゃんみたくなりなさいよ!」
「そんな趣味なーい!!」
「ぐぬぬぬぬぬぬ……ふぅー」
「あふんっ」

 可愛らしくすぼめられた口が私の耳に狙いをすまし、吐息を吹きかけてきてあられもない声が出た。
 力が抜けてしまった私に天子は素早く腕を回すと、私の顔を平坦な胸に抱き締めてしまった。ゆかりん不覚!

「ほーら、よしよし。ゆかりんかわいいでちゅねー」
「くっ……その赤ちゃん言葉止めないとその口縫い合わすわよ」

 天子に赤ん坊扱いされるのは、どうにも屈辱的だ。私は常に彼女を上回る存在でいたい。はぁいい匂い。
 しかし一応は私のためにやってくれてるのであるし、悔しいが勝敗が決した以上は大人しく天子の胸元に収まってやることにする。ちょっとだけ柔らかい。
 ビニールのへその緒で繋がったまま抱き締められ、奇妙な体勢で天子が私の頭を撫でる。やばい、癒やしがヤバイ、定期的にしてほしくなってしまうので勘弁して欲しい。

「母胎回帰とまではいかないけど、結構安心できるんじゃない?」
「……まあ、なんとなく」

 歯切れの悪い言葉が出たのは羞恥から。
 別に天子の言うような母胎回帰なんてしたいとはサラサラ思わないし、こうやって抱き締められ撫で付けられ、妖怪の賢者でもある私がこんな扱いなど耳まで熱いが、気持ちは穏やかになってくる。
 これ自体は悪くない、だがへそから繋がったものについては微妙な心境だった。

「で、どう? 感想は」
「そう、ね」

 少し頭を俯かせ、お互いに繋がった紛い物のへその緒を見やる。
 ガムテープで固定されているのは、生々しい肉の白でなく人工のシロの管。
 実際のへその緒よりは硬いだろう、ビニール製のホースはハサミでは中々切れまい。
 でも妖怪である私が爪を立てホースにあてがうと、先端がビニールを裂いて切れ目を入れる感触が伝わってくる。私にはこの程度、か細い糸に過ぎなかった。

「……弱々しい繋がりね。今にも途切れてしまいそう。紛い物だからかしら」
「ふーん、そっかぁ。紫はさ、なんでへその緒のことが気になるの?」
「……何でかしらね」

 いや、答えはもう出ている。
 ずっと腹の中に抱えながら、吐き出す機会を伺っていたのだから。

「命を得た時から繋がりを持っている人間が羨ましい」

 実際には、私が羨むほどの繋がりではないかもしれない、子供のためなら親は何でも出来るなどという言葉は、悲しい嘘だと知っている。
 人間の親子の縁とて軽薄なものはある、中には産まれた直後に埋められる子供すらいる、そんなことはわかっている。
 それでも羊水の海を漂っている時から、大切な存在と繋がっていられる命のあり方は、私のような闇夜から這い出た幻想にとっては輝かしすぎて、見るなと言われても無理だった。

「我ら妖怪は闇から独り出で立ちて、子を産むことすらできない者もいるのに、産まれいづる前から血と肉の絆で結ばれた人間は眩しくて……ズルいわ」
「そっか……紫は独りがイヤなのね」

 天子はより強く、私を抱きしめた。

「私も少しわかるな」

 吐息が私の髪を撫で、気持ちが伝わってくる。
 影に独り、天に独り。立っている場所は違えど、寂しいのは一緒か。

「いや違う」

 だけど口を衝いて出た言葉はそんな賢いものじゃなかった。

「下手な慰めはやめて。あなたなんかに私の気持ちが分かるわけがない、帰るところがあるあなたに……」

 手に力を込め、天子の身体を押し返し、恩讐を込めて睨み上げる。
 怯んだ彼女の顔を見て、心の隙間からいい気味だとせせら笑いが耳朶に響く。

「いつ生まれたのかも知れない、気がついたら闇の中でぼうっと光を見つめていた気持ちがわかるというの?」

 この気持ちに人の子などが安易に分かるだなどと言ってほしくはなかった。

「ごめん……」

 しかし天子が悲しげな顔をするのを見ると、途端に後悔の波が押し寄せてきた。
 何も彼女を傷付けるようなことを言わなくても良かったではないか。
 凍てつく脳髄で我に返り、私は天子に手を伸ばすと、今度はこちらから彼女の頭を胸元に抱き締めた。

「……いえ、私こそごめんなさい」

 天子は眼を閉じて、口をつぐんだまま私の胸に頭をあずけていた。
 静かな薄暗闇の中でしばらくそうしていると、天子が瞳を開けるのを感じた。
 天子が私の身体に手を当てて離れたがっているのを察すると、私も彼女を開放する。名残惜しい熱が暗闇に溶けていく。
 天子はおもむろにホースを掴み取ると、勢いよく引っ張ってへそから取ろうとした。
 ガムテープがベリベリと音を立て剥がれ、天子は顔をしかめてお腹を押さえる。

「っつぅー……」
「ガムテープなんて使うからよ」

 哀れんだ視線を送る私に、天子は反論もせず立ち上がると背を向けてきた。
 廊下へと続く戸を開け、顔だけを私に振り返させる。

「……今日は帰るわ。それじゃあ」

 私は布団から少し身を起こしただけで、何もせず戸が閉まるのを見送っていた。
 一人、夜に取り残された私は、だらしなく口を薄く開き呆っとしながら、ホースに手を伸ばした。
 ガムテープなど、私なら境界を操作すればいとも容易く剥がせるが、そうせずに力づくで引き剥がす。

「っつぅ……」

 赤くなった肌の痛みに慰められながらホースを投げ出すと、私は深い溜め息をついてまた布団に横たわった。



 ◇ ◆ ◇



 ――紫と一緒にいられるのは、私には嬉しいけど、それは私の都合なんだろうか。

 私は他人の気持ちに耳を貸さないタイプだけど、紫はまっすぐに悪いは悪いと言って怒ってくる、私にはありがたい。
 その時は喧嘩しちゃって憎まれ口叩いちゃうけど、紫のおかげで色んなことに目を向けられて、多くを教えてもらってる。

 そして何より、幻想郷があるから私は天界から出てこられた。
 私の企みの最後に紫は出てきて踏み潰しながらも、拒絶はせずに受け入れてくれたから私は今ここにいる。
 私は紫に与えられてばかりだ。



 ◇ ◆ ◇



 紫の家での出来事から数日が経った頃、まだ天子は冴えない顔をして輝針城の窓に腰かけていた。
 窓枠に背を預けながら、天地逆転した逆しまの風景を見る。眼下に広がる青空、頭上に日に照らされて生命が息吹く緑の大地。
 そのどちらにも今の天子は関心を示さず、同じ天と地の狭間で過ごしているだろう紫のことを思う。

「……自惚れよね、ちょっと辛いことがあったからって助けてあげられるかもなんて」

 自嘲が風に攫われて消える、いっそこの憂鬱も拭い去ってくれればと思うが中々消えてくれはしない。
 正直、紫に拒絶されたのは結構堪えた。いや、あれは拒絶ですらない、ただ誰にしも理解り合えない一線があるだけだ。相互理解などただの夢に過ぎず、人はみな他人を通して自分に都合のいい幻を見ているに過ぎない。
 それでも、紫が寂しい顔をしているなら何かを分け与えたいと思っていたが、なんとも他人と共に生きるとは難しい。

 憂いていると、唐突に頭に重みがのしかかって、帽子が天子の目元まで塞いできた。
 針妙丸が乗っかってきたのだ。

「どうしたのさ、重たい顔してさ」
「重たいのはあんたでしょ」

 悪態をついた天子がずれた帽子を直し、不機嫌そうな目を覗かせる。
 針妙丸は浮かび上がって帽子の上からどくと、天子の向かい側で外に両足を向けて窓枠に座った。

「暗い顔してどうしたの?」
「……紫とちょっと喧嘩……とは違うかな。まあ上手くいかないことがあってね」
「へえー、珍しい。いつも喧嘩しても何だかんだ仲良さそうなのに」

 そう言われるのは少し気恥ずかしいが否定はしない、天子とて紫との仲が特別入り組んでるのは自覚している。
 だがだからこそ届かない想いに、境界線を超えられないもどかしさに苦しむ。

「私はさ、頭がいいわ、力だってあるし、心だってそう簡単にはへこたれないつもり。でも大切なことは何も知らなくて教えられてばかり」

 異変のような大げさな騒ぎを起こせても、満足できるのは自分だけ。
 独りきりのときは万能感に浸れても、他人と繋がるようになると途端に自らの矮小さを知らしめられる。

「所詮、空で退屈してただけの私には、どん底の不幸を知らないのよ。そんな私じゃ本当に辛いやつの力になるなんて無理なのかな」

 ちょっとでも他人の力になりたいと思うのは、傲慢なのだろうか。

「そんなことないよ、天子は大切なものを持ってるもん」

 憂いていた天子の胸の奥に、針妙丸の鈴のような声はするりと心の膜をすり抜けてきた。

「私たち小人一族は、弱いがゆえにみんなから利用されてその都度捨てられてきた。でも天子はそういうことしないでしょ」
「そりゃ当然でしょ」
「それを当然って言えるのは、天子の良さだよ」

 天子にとって世の中の全ては自分のためにあるようなものだが、自分を慕ってくれる相手であれば絶対の慈悲と加護を与える、そこになんの迷いがあろうか。
 だがそれは万人が持ちえないもの、長い人生を掛けて一人か二人そんな存在ができれば上出来だが、天子はいとも簡単にその対象を増やす。

「天子は、決して自分から見捨てない人だよ。だから私は天子と今もこうしているし、貧乏神の紫苑だって跳ね除けないで受け入れてる。それは、それだけで物凄くすごいことなんだよ」

 そして針妙丸も、天子が他人を見捨てない人物だからこそ、輝針城に天子がいることを許している。
 幾度となく利用され捨て去られる歴史に現れた、消えることなき極光の輝きに、自分がどれだけ救われているのか天子にはわからないだろうと針妙丸は思った。

「他人のことなんてわからないで当たり前、そんなことより天子の良さにみんな助けられてる。だから天子が何も出来ないなんてことないよ」

 針妙丸は無邪気に笑いかけてきた。
 屈託のない笑みに、天子もようやく気持ちが入れ替わって歯を見せてはにかんだ。

「ありがと、針妙丸。勇気が湧いてきたかな」

 自分にもやれることはある、となれば突っ走る道を探るだけだ。

「さて、どうしよっかなぁ。紫のやつになにかしてあげたいけど、私一人じゃ手に余るのも事実……」
「紫ねぇ、そう言えば私、下剋上する前に紫のやつと会ったことあるのよ」
「え?」

 初めて聞く話に天子は驚いて丸くした目を向けると、針妙丸は話し始めてくれた。

「私は正邪ってやつにそそのかされて、弱者の報われる世界を作ろうと下剋上した、利用された形だったけどそれは別にいい。ただ言われて即従ったってわけじゃなくて、流石にちょっと悩んでたんだ」

 小槌を使い、魔力をばらまいたという異変の概要は天子も耳にしている。
 だがそれの裏に八雲紫がいたなどと、誰にも聞いたことない。

「でも考え事しながら散歩してた時、新月なのに月見をしているっていう変な女と会ってね、暗くて顔がよく見えなかったけど今思えばあれって紫だったんじゃないかなあって」
「へえ……なにか話ししたの?」
「うん、たくさん」

 天子は話を聞きながら、紫が針妙丸にどう関わってきたのかおおよそ見当がついていた。

「初めて会ったはずなのに、私の話をよく聞いてくれてる感じがしてね。おかげで話しやすくて、下剋上周りの計画もポロッと言っちゃった。そしたらその女は最後に言ったんだ」
「なんて?」
「『この幻想郷はすべてを受け入れるから、好きにするといいですよ』って」

 こちらの態度を煙に巻くよう胡散臭く、けれどどこか優しさが滲み出た紫がその台詞を言う姿を、天子は想起するかのようにハッキリと思い描いた。

「かくして、私は下剋上に出て失敗して痛い目見たけど、おかげで皆に存在を知られて今もこうして元気にしてます、おわり」
「はあー、あいつらしい……というかそこら中に顔だしてんのねあいつ」
「中々気付かなかったけどね。でも天子を通して紫と何度か関わってる内に、もしかしてあの時の女の人じゃって思ったんだ。多分天子とつるまなかったら今もわかってなかったんじゃないかな」

 きっと紫は針妙丸も、その後の天邪鬼の騒動も、すべてを予想した上で針妙丸に発破をかけたのだろう。
 全てが終わった暁には、またいつもどおり、何もかもが幻想郷に馴染むと見越していたのだ。
 天子は改めて、紫ほどこの郷とそこに住まう住民を思いやっている者はいないのだなと感じた。
 自分では寂しいと言いながらも、誰よりも情に溢れていて、沢山の人を受け入れて癒やしている。
 それと同じだけのものを紫に返せれば――

「そうだ! いいこと思いついた!」

 思い至り、弾けるような笑顔になった天子が背中を起こして手を叩いた。
 調子が乗ってきた天子に針妙丸は喜び、興味深く天子を見上げた。

「えっ、なになに?」
「それはね……」

 天子は手の平に針妙丸を乗せると、顔の高さにまで持ち上げて耳元でこそこそと小声で囁く。
 その内容に針妙丸は驚いた顔をして、天子の強い眼を覗き込んだ。

「いいの? そんな勝手なことして?」
「いいのいいの、この私がやることよ、喜ばないはずないわ」
「出た、いつもの自信過剰っぷり、でも面白そう!」

 そうと決まれば早速行動を始める。
 二人は部屋に戻って窓を閉めると、玄関に向かって歩き出した。

「私も手伝うよ、どうしよっか?」
「できるだけ多くの人に伝えないとね、場所は博麗神社でいいかな。表向きは宴会ってことで……針妙丸ならメッセンジャーがちょうど良さそう、衣玖と紫苑にも手伝ってもらうわ」
「来てくれるかな」
「来るわ、来てくれるはず。紫のためならみんな何だかんだ動くはず……だと思う」

 今回のことは天子一人で成せることではない、幻想郷に住む大勢の力を借りる必要がある。
 不安がないと言えば嘘になる、だがそれでもどこか確信していた。

「それだけのことを、あいつは積み重ねてきてるんだから」



 ◇ ◆ ◇



「紫! 今度宴会開くから来なさいよね!」
「イヤよ」
「はぁー!!?」

 意気揚々と私を誘ってきた天子を秒で振ってやると、面白いぐらいに声を荒げて突っかかってきた。

「なんでよ来なさいよ!?」
「この前、あなたが幹事やった時の有様ならスキマから見てたわよ。貧乏神の言うことホイホイ聞いて、まずそうな料理にまずそうな酒、見てるだけで気が滅入ったわ」
「ご飯は不味かったけど紫苑のおかげで盛り上がったから良いじゃない。流石私、仲間を使うのが上手いわ」
「本気でその結果論で鼻伸ばしてる辺り、あなたってすごいわ」

 綺麗なドヤ顔だ。万人が失敗と感じるような出来事で、これだけ威張れる者など幻想郷中を探しても彼女くらいだろう。
 とは言え、いかに可愛いドヤ顔だからと言って、それに巻き込まれて不味い料理を食べさせられるのはゴメンだ。しかし天子はしつこく食い下がってきた。

「だけど今度はこの前とは違うわよ、料理の質に関しても妥協なく頂点を目指すわ。方方に声を掛けて一流の酒に一流の料理に一流のケーキを揃えるんだから!」
「ケーキ? 酒の席で?」
「あっ……わ、私が食べてみたいのよ! 美味しいスイーツがあるって噂聞いてたから」

 反応が少し怪しい気がする、またなにか企んでいたりするんだろう。
 けれどそれに乗るのも一興か、それにそこまで力を入れてるのに天子を寂しがらせるのもなんだ。

「まあ、そこまで言うなら行ってあげてもいいわ」
「やった! 絶対よ!?」

 そっけない態度で了承してみると、天子は満面の笑顔で大喜びして両手を握りしめた。何でもない表情を取り繕っていたのに、こっちまで顔がほころんでくる。
 こういうところがあるから彼女にはついつい甘くなってしまう。この純粋さが眩しくて、とてもホッとするのだ。
 それでいつ宴会をやるのかと聞いてみると、天子からの答えはかなり先の日付だった。

「来月じゃない、だいぶ先だわ」
「だって本気でやるつもりだもん、準備にも時間がかかるのよ」
「いつにも増してやる気満々ね」

 天子が元気溌剌なのはいつものことだが、今回は特に全力らしい。
 一体何を企んでいるのやら、俄然楽しみになってきたじゃない。

「よーし、それじゃあ宴会に向けてまずはー!」
「まずは?」
「紫と遊ぶ!」
「はい、また来週」

 天子が腕を組もうと飛びついてきたのをひらりと躱すと、またもや彼女はぷりぷり怒って騒ぎ立てた。

「もー、紫ノリ悪い!」
「ノリじゃないでしょ、準備なさい」
「それはそれ、これはこれ、上手くやるから紫の心配することじゃないわよ。それより今日は行きたいところあるのよ! この前地底に行った時に目をつけてた店があってさ」
「はあ、もうしょうがないわね」

 まあ、彼女はこれでやりたいことはキチッとやりきるタイプだ、私が気を揉む必要はないだろう。
 今日のところは天子に付き合ってあげることにする、組んだ腕から伝わってくる柔らかさ、うーん至福。



 ◇ ◆ ◇


 紫と天子がじゃれ合っている裏側で、白玉楼に集まった者達がいた。
 針妙丸と紫苑によって集められたのは、白玉楼に在住する幽々子と妖夢はもとより、紫の家族である藍と橙。
 彼女たちは打ち明けられた内容に声を揃えて聞き返した。

「「「「八雲紫誕生日おめでとうパーティ?」」」」
「そう!」
「発案者は天人様よ」

 お椀に乗って胸を張る針妙丸と、無気力そうな瞳の紫苑の二人を見比べて、集められた一同は困惑を表した。
 なにせ紫の誕生日を祝ったことなど彼女たちにもないからだ。

「紫様のって、あの方の誕生日なんて私だって知らないぞ」
「誰にもわからないんだから、勝手に日付決めてやっちゃおうって天子が」
「なんだそれ……」

 紫に限らず妖怪の間では誕生日を祝うという習慣はほとんどない、そもそも自分の誕生日がいつなのか知っている者が少ないから祝いようがないのだ。
 それに長い時間を生きる妖怪は人間とは、時間に対する尺度が違う、一年歳を経た程度でどうして祝ったりするのか、特に藍は首を傾げている。
 この提案に最初に賛成したのは幽々子だった。

「あら、でも面白そうじゃない? 私だって紫の誕生日を祝うのはやったことないのよ、ワクワクしてきちゃうわ」
「そうですか? 勝手に日にちを決めて行なったところで意味があるのでしょうか」
「あら、誕生日というのはただの記念日じゃないわ。生まれてきてありがとう、今日まで生きてきてくれてありがとう、そう感謝するところに真髄がある。本来の日付が確かめようがない以上、月日の正確さは些細なことでなくて?」
「ふむ……なるほど」

 幽々子の説明に藍も否定的な言葉を止めた。
 続いて橙と妖夢も明るい顔で賛成側に加わる。

「はいはい! 私も賛成です!」
「そうですね、紫様なら喜びそうです。私も祝われてばかりは心苦しかったですし」
「あれ? 妖夢ってお祝いしてるの?」
「というかウチは幽々子様と私の誕生日は毎年お祝いしてますよ。と言ってもいつもより食事を豪華にする程度でささやかなものですが、紫様は毎年、良いお酒とか食材などを差し入れしてくれてます」
「ほえー、知らなかった……」

 橙も猫たちについては正月には数えで歳が増えてことをお祝いするが、それだって全員を祝っておしまいだ。個人の誕生日を祝うという習慣がすっぽり抜けてる。
 だからこそ気になって疑問を尋ねた。

「でも、何でいきなりそんなこといい出したの?」

 この質問には紫苑が答えた。

「私もよく知らないけど、天人様が沢山の人に紫が生まれてきたことを祝って欲しいんだって」
「……それは素敵だわ」

 幽々子が感じ入って深い息をつきながら言葉を返す。天子の真意がどこにあるにせよ、その計画はとても素晴らしいものだと胸の奥があたたまる思いだった。
 みんなから賛成を得られたことで、改めて針妙丸が説明する。

「場所は博麗神社、宴会って名目で紫には天子から誘ってるよ。できるだけ色んな人に声をかけてみるつもり。どうせならサプライズでってことで、幹事は天子だけど実行委員は私たちがやることに決まったの。天子が紫と遊んで気を引いて、その隙に準備しようって話」
「なるほどな、天子は囮役か」

 八雲紫は幻想郷中に張り巡らされたスキマの眼で世界を監視している、誰かが上手く気を引かないと隠し通すのは難しいだろう。
 こうして紫の知己の者たちに説明したのは協力を仰ぐためだ。
 紫苑はスカートのポケットに手を突っ込むと、そこから墨で呪文の書かれた符を数枚取り出した。符の中心には太極図が描かれており、今はそこが緋色に発光している。

「これ、天人様が作った伝令用のお符、霊力なり妖力なり流すと発動して他の符に伝わるわ。今は天人様が紫の気を引いてるから覗き見される心配はないって伝えてくれてるの」
「これで狼煙を送り合ってタイミングを測りつつ、サプライズパーティの準備を進めるわけだな」
「みんなで紫の裏をかくのね。うふふ、面白そうね」

 得心した藍たちは各々符を手に取る。

「わかった、そういうことなら協力しよう。ただ私は仕事があるし、下手に動けば紫様にバレてしまう。橙、実務をお願いできるか?」
「お任せ下さい!」
「ならウチは妖夢に行ってもらおうかしら、お願いね」
「わかりました……でも藍さんと違って幽々子様はそんなに忙しくないんじゃ」
「あら、紫とお茶を飲むので忙しいわ~」
「まあ、気を引くのが天子だけじゃ不安なんで一理ありますけど、なんだかなあ」

 説得はすんなりと話が進んだ、これもみな紫が少しずつ積み上げた信頼と尊敬に因るものだろう。
 針妙丸と紫苑は、満足げに顔を見合わせて親指を立てた。



 一方、天界では衣玖から萃香へと同様の話が持ちかけられていた。

「というわけです」
「ははは、さすが天子、ぶっ飛んだことやるねぇ!」

 衣玖に酒を注いでもらった萃香は、あっというまに盃を飲み干して愉快な声を上げる。
 計画を聞いただけで楽しくなった萃香は、衣玖の肩に手を回して抱き寄せると、酒気を孕んだ笑いを浴びせかけた。

「いいよいいよ手伝おう! で、何すればいいの?」
「良いお酒を用意してもらいたいのと、分身能力を活かして伝令役を。また当日にはくす玉を設置したいので、大工仕事をお願いします」
「あいあいー、いいねぇ、張り切っちゃうよ」
「あと酒に酔ってうっかりバラさないように」
「わかってるって、口は堅いよーわたしはー」

 あの紫をみんなして盛大に祝おうというのだ、こんなに面白いこともそうないだろう。
 果たしてあのひねくれ者の紫が、大勢から祝われでもしたらどんな反応を取るのか、楽しみでつい頬がニヤける。ここまでワクワクするのも久しぶりだ。

「ただ一つ懸念があるとすれば、そこまで紫のためにみんなが集まってくれるかだね」
「……そうですね、何分誤解を受けやすい方ですから」
「いっつも胡散臭く振る舞ってるあいつの自業自得とは思うけど」

 紫と言えば神出鬼没、胡散臭さナンバーワンで通っている幻想郷きっての厄介者だ、本質的には世話焼きの出しゃばりのくせに、実行には他の誰かを利用してばかりだから恨みを買うことのほうが多い。
 幻想郷住民から見て、素直じゃない紫への心象は決して良いものではないだろう。

「さあて、どうなるかなぁー……」



 ◇ ◆ ◇



 天子は手元の符を確認した。符は桜色に発光している、幽々子が気を引いてくれてるようだ。
 安全を確認し、衣玖と共に博麗神社へと乗り込んだ。

「――と、言うわけで。サプライズパーティを開きたいから神社を使わせて欲しいのよ、あとパーティにも参加して」

 天子は畳の上で折り目正しく正座しながら、強気な顔で計画をぶち上げた。
 実務は針妙丸たちに任せると言ったが、幹事として大事なところは締めなければならない。そのため、宴会場を提供してもらうに当たって、天子から直接話をつけに来たのだ。
 話を聞かされた霊夢と魔理沙は、胡座をかきながら胡散臭そうなものを見る目で天子を睨んでいる。

「誕生日? あいつの? そんなの聞いたことないわ」
「誰にもわかんないから私がその日に決めた!」
「何だそれ、どうしてそうなった」

 厄介者で嫌われ者の天人が、厄介者で怪しさ満点の妖怪を祝おうなど突然言い出したのだ、わけも分からず訝しむしかない。
 だというのに言い出しっぺは「当然やってくれるわよね」と、それが世界の理であるかのように自信満々の表情だ。
 どうしようかと悩んだ霊夢は、天子の斜め後ろで同様に正座している衣玖へと視線を向けた。

「何なのよいきなり」
「この人が突飛なのはいつものことですから。でも裏はありませんよ、純粋に紫さんをお祝いしたいだけです」

 霊夢と魔理沙がどうするか測りかねて顔を見合わせる。
 神社の持ち主が悩んでいるところで、日が当たらない奥の方で座布団に座ってふんぞり返っていた第三者が喉を鳴らした。

「ククク、どうだ咲夜、面白い運命の乱れがあるから来てみたら、とんだ厄ネタが飛び出してきたぞ」
「はいお嬢様」

 容姿こそ幼いが、背中に広がった悪魔の翼とその身に宿る妖力は一流の貴族のもの。
 天子が声の方へと顔を向けると、その妖怪はメイドを侍らせながら鋭い視線を叩きつけてきた。

「あなたは?」
「私はレミリア・スカーレット、紅魔館の主だ」
「例の悪魔ね、噂は聞いてるわ。そこのメイドの主ってわけね」
「咲夜からは、お前が異変を起こした時に世話になったと聞いている」
「あの時のナマズは美味しかったわ、ご馳走様」

 吸血鬼の姉妹と言えば幻想郷の妖怪でも屈指の実力者と天子も聞いていたが、今は傍観しているようなので置いておいた。
 今はそれよりパーティの準備のため、霊夢へと向き直る。

「パーティと言っても何をどうするのよ」
「簡単よ、飾り立ててくす玉でも用意して、紫が来たらみんなでクラッカーをパーン! それでもって一通りお祝いしたら、後は呑んだくれるだけ。メインがお祝いだけどそれ以外はいつもどおりの宴会よ。藍や幽々子にも協力を申し込んである」

 霊夢は腕を組んで考え込んだ。この天人は嘘を言ってないようであるし、九尾と亡霊の手助けもあれば料理も悲惨なことにはなるまい。

「それくらいなら、別に場所を提供するのは良いけど、私たちは何すればいいの?」
「何もしなくていいわ」

 霊夢がわずかに眉をひそめた。

「どうせならサプライズのほうが面白いと思ってさ、紫にはただの宴会だって伝えて、私たちの方で裏で準備を進めとくから、霊夢たちは安心して騒ぐことだけ考えてくれればいいわ」
「ふぅーん……」

 ニコニコと言葉を並べ立てる天子に、霊夢は不服そうに呟き、隣りにいる魔理沙も口をすぼめた。
 そこに再び、レミリアが口を挟んできた。

「霊夢、ハッキリ言ってやったらどうかしら? そんなつまらなそうなパーティに貸してやる神社はないって」

 水を差してきた悪魔に、天子は不機嫌を隠さずに睨み付ける。
 せっかく紫のために話を進めていたのに、邪魔をされて不愉快だった。

「何か文句でもあるの?」
「あるともさ、本物の誕生日パーティのことを何も知らないんだな」

 レミリアは座布団の上で姿勢を崩すと、前のめりになって鋭い爪の生えた手を、誇らしげに自身の胸に添える。

「うちはそこらの野良妖怪と違う、由緒正しいツェペシュの血統なのでね。誕生日パーティだって毎年盛大に祝っているもの。なあ咲夜、去年の私の誕生日はどうだった?」
「はい、バースデーケーキを中心に年の数だけカップケーキを用意し、一本一本にロウソクを挿して飾り立てました」
「そうそう」
「お嬢様が妹様にけしかけられた結果、一息で会場中のロウソクを吹き消すと豪語しましたが百本台までしか吹き消せず、わがままで五十三回のリトライを敢行しましたが失敗に終わり、ロウが先に尽きるということでうやむやになりましたわ」
「まあそんなこともあったか」

 細かいことだとレミリアは流し、話を元に戻す。

「天国住まいの面白みのない女よ、誕生日パーティのキモを教えてやろう」

 見た目とは裏腹に威厳のある言葉に、さしもの天子も固唾をのんで耳を傾けた。

「それはな、参加者の一人一人が主賓に敬意を払い、心から祝おうとすることにある。だからこそ演出から料理の種類、飾りの一つまで、祝いたい者が案を出し合って、それぞれがよりよいイベントになるよう努力することが大事なのだよ」

 それは長く紅魔館という組織の長として務め続けた経験に裏打ちされた、一種の信念のようなものだった。
 わがままを通しながらも、決して自分一人だけが楽しいだけにせず、より多くのものが満足できるようお互いを支え合う、いわば家族の絆。

「サプライズはけっこう! あのスキマを出し抜くのに苦心するのもわかる、だが自分たちが全て用意しますからあなた達は当日におめかしだけして足を運んでどんちゃん騒ぎしてくれればいいですだと? 誕生日という尊き日を、そして八雲紫を舐めているのか。真心がないんだよ、それじゃ程度の低い自己満足に過ぎん。彼奴の誕生日を素晴らしいものにしようという気概が感じられん、そもそもお前が何を考えてるのかすら私達には見えない、不透明だ。そんなので周りが祝いたい気になるか?」

 レミリアに指摘され、天子は表情を歪めて押し黙るしかなかった。
 耳が痛い言葉に固まる天子へと、レミリアは人差し指を突き出してきた。

「言え、その胸中にあるものを。それがパーティに招待する者の礼儀ってものだろう」

 話を聞いていた霊夢と魔理沙は言い過ぎだとは思ったが、同時にレミリアの言うことにも一理あると感じていた。天子が何もしなくてもいいと言った時に、彼女たちは敬遠にされ、仲間外れにされたような気がしたのだ。
 天子は自身の身勝手さを痛感し、肩を強張らせている。それを後ろから眺めていた衣玖は、思うところがあったが見守っていた。
 これは天子が他人と生きていくにあたり超えていかねばならない禊ぎであるし、彼女なら乗り越えれるだろうと信じていた。

「……確かに、私はただの自己満足で動いてるのかもしれない」

 わずかに震えた声で口を開き、天子は自らの非を認めた。
 口に出した途端、自らの幼稚さに恥じ入り、体の芯が冷え切っていくようだ。
 だからといってここで言葉を止める訳にはいかない、こんなことがあるとは思わなかったが、それでも天子とて確かに紫を思う気持ちはあるのだ。

「私は、紫のやつが悲しい顔をする時を知っている、寂しくて眉をひん曲げて、暗い顔して昔を語る時のあいつを知ってる。だから私は、その瞬間が少しでも短くなるようにしてあげたい」

 霊夢と魔理沙は、いつしか真剣な表情で話を聞き始めていた。
 瞬く間に成長していく天子に、レミリアは少しばかり呆気にとられている。

「私は、紫に怒られた、受け入れられた、たくさんのことを教えてもらって与えられた。だからその恩返しがしたいのよ、私は紫に教えてあげたいの、紫がどれだけみんなの支えになっているのかを、紫がばらまいた愛の万分の一でも紫に返してあげたい。紫にも、生誕を祝ってくれるやつがいるんだってことを、教えたい」

 天子は嘘偽りない気持ちを吐露し、再び霊夢に向き直ると、膝の前に手を突いて丁寧に頭を下げた。

「お願いします、もしあなたたちにも紫から受け取ったものがあるのなら、少しだけで良いから、気持ちを返してあげて下さい」

 真摯な言葉が、されど凛として力強く神社の神聖な空気に響き渡る。
 その様子を興味深く見守っていたレミリアの耳元に、咲夜が後ろからそっと口を近づけた。

「お嬢様、あまりいじめてはいけませんよ」
「わ、わかってるわ。ちょっと試しただけでここまですると思わなかったわ」

 レミリアとて真剣だったが、これほどまで誠実な言葉が返ってくるとは思ってもいなかった。
 最初に反対した者として、霊夢たちより先に口を開く。

「バースデーケーキのアテはあるのかしら?」
「えっ?」

 驚いた天子が幼い顔を上げる。

「い、いや、まだ計画する段階だから決まってないわ」
「ならそれは我らが用意しよう、当日に博麗神社へ運び込むわ。咲夜、最高のものをお願いね」
「かしこまりました、紅魔館の名に恥じぬものをお作りいたしますわ」
「えぇ、吸血鬼事変のころから、私たちもアレには貸しがある」

 昔から幻想郷を守るために裏で暗躍してきたのが紫だ、レミリアも彼女に助けられた一人に違いない。

「気持ちは見せてもらったよ、疑って悪かった。ケーキを以って謝罪とさせてくれ」

 そして霊夢たちも、天子の行動に納得し、硬い表情を和らげた。

「たくさん人を呼ぶんなら、料理も量が必要よね。私も作るわ」
「あいつの世話になってるのは何だかんだ多いからな。私もアリスを誘ってみるぜ、あいつならきっと来るし」
「華扇には私から声かけとくわ。それから小鈴ちゃんも紫に助けられてるし、あと阿求とも繋がりあるんだっけか」

 他にも天子が知らない紫の交友関係があるだろう、人伝に探っていく必要があるはずだ。
 積極的に話を進める霊夢たちに、天子は呆気にとられていた。

「紫には、私もちょくちょく助けられてる。まあ厄介事押し付けられることのほうが多いんだけど、それはそれよね」

 少し恥ずかしくなった霊夢がコホンと咳払いしてごまかすと、全員が天子へと熱の宿った目を向ける。

「私たちにも協力させなさいよ」

 全員の気持ちを代弁した言葉を聞き、天子は満面の笑みで顔を綻ばせた。
 確かめるように衣玖に振り向くと、彼女も喜びを以って天子に笑いかける。

「皆さんの分の符も必要ですね」
「――うん!」

 かくして、パーティについていくつかの変更があったものの、たくさんの人と妖怪たちの意見を織り交ぜて、柔軟に対応しながら準備が進められていった。

 普段は天子、幽々子、藍の三人が紫の気を引きながら、その隙に各所で誕生日パーティについて招待が広まっていき、天子が知らないような人物にまで話が行き届いた。
 大勢の人妖が参加を表明し、大掛かりなイベントとして盛大に執り行われることとなった。



 ◇ ◆ ◇



 夫に死なれた女は、殺しの準備を進めた。幸いにも女は武術の心得があり、不意をついて距離を詰める足捌きを覚えていた。
 身ごもった身でどこまでやれるか不安だったが、試してみれば思った以上に身軽に動けた。
 新たな命を宿し九ヶ月、いつ産気づいてもおかしくない状態、こんな妊婦が今から殺しをやろうなど誰も思いもしないはずだ。必ず復讐を遂げられる自信があった。
 だが仇討ちなどすればもはや人里にはいられない、そうすれば腹の子を見捨てることになろう。
 母としてそれで良いのか、復讐にまだ生まれ出ぬ命まで巻き込むことはせず、憎悪を知らぬ無垢な赤子を産んであげるべきではないのか。
 母性の囁きに迷った女だったが、この子とて親の無念をはらさずして産まれたくないはずと思い込み、刃を手にした。

 ――だが後で思うのだ。

 嗚呼、あらゆる屈辱に甘んじてでも、この子を大切にすればよかったのに、と。










 天子主催の宴会を目前に控えたその日の朝、マヨヒガから帰ってきた橙が、起き抜けの私に慌てて伝えてきた。
 人間の妊婦がマヨヒガにたどり着いたと言うのだ。心当たりはあった、だがまさかマヨヒガにまで来るとは思いもよらなかった。
 眠気も吹っ飛んだ私は、急ぎ藍を連れてその妊婦の元へと赴いた。

 猫たちに囲まれて廃屋に横たわる彼女は、玉のような汗を浮かべていた。
 荒い息を吐く妊婦は、今にも閉じそうな瞳を私へと向け苦しそうな声を絞った。


 ――曰く、子を抱えながらも復讐のために人を殺し、その罪により人里を追い出されたと。

 追放の身となってから、子を産んであげられないことへの後悔が込み上げてきたのだと。

 そして噂で聞いた幸運の迷い家ならば、腹の子を助ける術があるかも知れないと願い、一縷の望みに縋って、夜通し歩きここまで来たのだと。


 私は愕然とした。この女のことは知っていた、人里を追放される経緯も知りながらも放置した、見て見ぬふりをした、私には彼女を救うことも、止める資格もないのだから。
 だが彼女は後悔の末、贖罪のために人里からマヨヒガまで、夜の幻想郷をたった一人で渡り歩いてきたというのだ!
 出産間近の妊婦となれば赤子や羊水、妊娠により増加した脂肪や血液など含め7キログラム前後の体重増加がある。それに加え赤子への酸素と栄養の供給が必要で、水も飲まずに長時間の運動など出来る状態ではない。
 そんな中、彼女は月明かりだけを標にして夜の森を抜けてきた、言葉にするほど簡単なことではない、この幻想郷の夜は妖怪の危険と隣り合わせだ。

 闇夜の奥からいつ人ならざるものが飛び出してくるか気が気でなかっただろう、自分以外の気配を感じればすぐさま木陰に身を縮め息を殺したことだろう。
 ただ一人、誰にも頼ることできず、すべてが敵の世界で死の足音に怯えながらの行軍。
 気が狂ってもおかしくなかったはずだ、いっそ途中で喰われたほうが救いだったかも知れない苦行だっただろう。それでも幸運が彼女を導いた。
 極限の精神状態で幻のような希望だけに縋って夜を超えてきた、偶然と意地だけで成されたそれがどれだけの奇跡なのか、この私の頭脳を以ってしても想像もつかない!

「――私は、彼が大切だった。だから復讐も、果たせないと、この子に合わせる顔がないと、自分を騙して手にかけた。でも間違いでした、新しい命は、憎しみなど知らないのだから、あの人が残してくれた、この子のことを大切にすれば良かったのに……」

 彼女は感情に振り回され、罪で魂を汚しながらも、最後の最後には母親たらんとして、新たな命を繋ぐべく決死の覚悟で狂気に身を投じたのだ。
 そこに私は、幻想でない血と肉を持つ本物の人間が獲得する愛を垣間見た気がした。

「おねがいです、どうか、この子を――」

 ――だが、もはや母子ともに限界だった。
 母胎が衰弱しすぎている、この分では早々に胎内の赤ん坊も長くは持たない。そもそも本当ならとっくに流産しててもおかしくない、今この瞬間まで生き残っただけでも奇跡的だ。
 本当なら、人を殺める前にこの結論に行き着くべきだったのだ。
 誰にも彼女を助けることは出来ない、だが。

「……一つだけ、子供だけを助ける方法ならあります、それは――」

 私の口から常軌を逸した方法を告げると、そばに佇んでいた藍が青い顔をして私の肩を叩いた。

「まさか、紫様正気ですか!? 危険すぎます、狂気の沙汰だ!」

 妊婦もまた、死に際でありながら私の言葉に大きな驚きを見せている。
 確かに藍の言うとおりだろう、だがそれでも、私には彼女を見捨てることは出来なかった。
 彼女が見せた子を産もうとする尊い意志こそが、私が何よりも求め、否定せざるものなのだから。
 妊婦は私に問うた。

「あなたは……どうして、そこまで、この子を……」
「あなたは何も考えなくともよいことです。私にはその手段があり、そうしたいだけ。さあ、やりますか、やりませんか、あなたが決断するのです」

 問いながらも、選択の余地はないだろうとわかっていた。
 妊婦は苦しげな顔で、それでもやっと掴んだ希望にニコリと笑い。

「……あなたに、託します。この子の名は――」

 それが彼女の最後の言葉となった。



 ◇ ◆ ◇



 待ちに待った誕生日パーティの当日、参加者たちは朝早くから博麗神社へと集まり、今日まで出し合った案を実行に移すため、大急ぎで会場のセッティングを開始していた。
 くす玉を境内の邪魔にならない場所に置いた天子は、本殿前の萃香に声を掛けた。

「くす玉ここ置いとくよー、割らないでねー!」
「あーい。ところで霊夢、くす玉用のアーチって参道に作っても大丈夫なのかな? 神様的に」
「知らないけど大丈夫でしょ」

 萃香は先に用意した材料を運び込み、能力で分裂してくす玉の設置に取り掛かっている。
 空を見上げると、アリスが数体の人形に自宅のテーブルを運ばせてやってきた。

「うちのテーブルを持ってきたわ、どこに置けばいい?」
「一旦隅っこに置いとくわ! 後でケーキが来てから位置を調整するから、こっちにお願い」

 すぐさま天子は飛び出してアリスを誘導する、主催者として朝から大慌てだ。
 もう三十人ほどの参加者たちが集まり、境内はごった返しだ。
 忙しそうにするもの、手持ち無沙汰で時間を潰すもの、色々いるがみんな紫のために時間を割いてくれている。
 天子はあっちこっちに指示を出して、気が付くと紫苑が大きな袋を抱えて傍に来ていた。

「天人様、作り置きしてた飾り持ってきましたー」
「紫苑ナイス! ある程度設計図持ってきたから、これに沿って飾ってって。自由にアドリブきかせちゃってオッケーだから」

 紫苑が開いた袋の中には、色紙を組み合わせて作った輪っかや折り鶴などがたくさん詰まっている。
 天子はポケットから完成予想図の絵を取り出しながら、袋を覗き込んだ。

「おー、いっぱいね。裏方やってくれてありがとー」
「ううん、私が大役だと不幸で失敗しても怖いし、手伝えただけ良かったわ」

 今回、紫苑には飾りなど手間のかかる裏方作業を頼み込んでおり、彼女は自分でも力になるならと嫌な顔せずに請け負ってくれた。

「女苑も連れてきたから、一緒にやるわね」
「お願いね、後で暇なのを見つけて手伝いを増やすわ」
「おーい、ケーキが来たぞー!!」

 魔理沙の声に空を見上げれば、リボンでラッピングされたドデカイ箱が空をふよふよ飛ぶ様子が、視界に飛び込んできた。
 もはや柱のような四角い箱は、高さ2メートルは超えている。
 それをパチュリーが魔法で浮かばせて、ゆっくりと境内に下ろし始めているのだ。

「パチェ、しっかりとね。せっかく咲夜が作ったんだから落としちゃだめよ」
「大丈夫よ、うっかり落としても美鈴が受け止めるから」
「私がですかぁ!?」

 無茶振りをされて驚く美鈴の傍には小悪魔と咲夜、それに傘を指したフランドールまでいる。
 パチュリーは軽口をいいながらも丁寧に位置を調節し、ケーキの箱を境内の真ん中に優しく着陸させた。

「よく来てくれたわ! ありがとうレミリア」
「この程度は当然さ。紫が来たら箱がぱっくり割れて、中から最高のケーキがドバーンという寸法だよ」
「えっ、それするとスペース足りないんだけど、今日四十人は人が来るし、それに粉塵も飛ぶと料理に付いちゃうし」
「えっ」
「はあ、だから言ったじゃないのレミィ」
「お姉さまはこれだから」

 こんな巨大な箱を割れば、倒れた板だけでも結構な場所が必要になる、参加人数を考えると難しいだろう。

「あっ、やば、どうしよう」
「ふわ~っと浮かせて箱を開ければ良さそうよね、外来人の超能力者が上手いことやれそう。そっち当たってみるから、とりあえずこのまま置いといて。咲夜は厨房の手伝いをお願い!」
「わかったわ、美鈴も来てくれる?」
「はい、お手伝いしますよ」

 天子は焦るレミリアを置いて、本殿の傍で机の上にクラッカーを並べて配っていた菫子の方へと駆け寄った。
 彼女には外界からクラッカーを大量に持ち込んでもらったのだ、幻想郷でも用意できないことはないが数を揃えるとなると大変なため、これには助かった。

「でさ、あの箱を上にふわ~って浮かせて開けて、中のケーキを出したいんだけど、できる? ちょっとでもずれると崩れそうだから、真っ直ぐ上げたいんだけど」
「できるできる、任せてよ。誕生日パーティなんて初めてだから、世紀の大魔術を見せてあげるわ」
「外界じゃあんまりこういうのしないの?」
「することはするけど、形式上祝ってるだけみたいな感じでさ、こんなにみんなが本気でやろうとしてる誕生日なんてそうないのよ。これはきっとすごいパーティになるわ」
「うん、楽しくしましょ!」
「総領娘様ー! 桃をお持ちしましたー!」
「はーい! それじゃあ頼むわね」

 慌ただしくも順調に準備が進められていく。
 やがて会場のほとんどにシートと机が並べられ、現場指揮にも余裕ができてきたころ、天子も飾り付けに加わった。
 紫苑たちと一緒に作業をしていた針妙丸が、手を動かしながら天子へ話しかける。

「パーティ、成功させようね!」
「もちろんよ、紫のやつ驚くわよー」

 あのひねくれ者が、いきなり大勢に祝われでもしたらどんな顔をするだろうか。喜ぶか? それとも感極まって泣いちゃうか?
 天子が悪戯っ子っぽく笑っていると、紫苑が何気なく問いかけた。

「そういえばみんな、誕生日プレゼントは何選んだ?」
「えっ」

 思わず固まる天子の隣で、衣玖と針妙丸が答えを返す。

「私はお古の羽衣を使ってストールを作ってきました」
「あっ、私も似た感じ。私はお手製の手袋縫ってきたよ、白メインだけどちょっとだけ柄の入ったやつ」
「私は女苑と一緒に、ヒメジョオンとハルジオンの押し花の栞を作ってきたわ」
「あ……え……あ……」
「天子は?」

 しどろもどろに呻く天子へと、針妙丸が声を掛けるが反応は芳しくない。
 不審な様子に一同が首を傾げていると、やがて天子は青い顔をして口を開いた。

「た、誕生日プレゼント用意するの忘れた……」
「「「……えええぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」」」

 喧騒の中、天子のつぶやきが聞こえていたのは三人だけであったようだが、響いた悲鳴に何人かは顔を向けてきた。
 あまりこれを知られては不味いと思い、衣玖は苦笑いを浮かべて誤魔化しながら、さっと天子に顔を近づけて小声で叫んだ。

「ちょっ、主催者が肝心なの忘れてどうするんですか!」
「あぁぁぁぁぁぁ、私だって誕生日のお祝いなんて数百年ぶりなのよ! プレゼントなんてあるの忘れてたぁぁぁ……!」
「ま、まだ時間はあるし人里まで行って何でも良いから買ってくれば……」

 紫苑の言葉に天子は頷く、もう設営もほとんど済んで指示なしでなんとかなるだろうし、現状それが一番だろう。
 プレゼントを買うにちょうどいい人里の店を思い出していると、か細い声が届いてきた。

「あのー、天子いるー……?」

 声の方へと振り向くと、そこには橙が肩を縮こまらせ、おどおどした様子でやってきていた。
 まさかもう紫が来るのかと、天子は慌てて橙に駆け寄った。

「ちぇ、橙! 紫はいつ来る!?」
「そのう、それなんだけど……」

 さっきの天子とそっくりな様子で橙が恐る恐る口を開く。

「紫様、来れなくなっちゃった……」

 言葉の衝撃に、一瞬天子は声を失った。

「……どういうこと!?」
「う、あんまり詳しくは言えない……けど天子となら会ってもいいって紫様が」

 紫が来られないと言うならプレゼントどころの話ではない、このパーティの意味がなくなってしまう。
 一番優先するべきことは紫だ。天子は振り返って叫んだ。

「あんたたちは準備を進めといて!」
「総領娘様、どうするんですか!?」
「連れてくる! こんなとこまで来てドタキャンなんて許さない。さあ橙、紫のとこまで行くわよ!」
「う、うん、でも天子」

 慌てる天子を、橙が引き止める。

「紫様と会っても、驚かないでね」

 その言葉に、嫌な予感をぐっと飲み込んだ。



 ◇ ◆ ◇



 天子は橙に連れられて八雲邸へと急いでやってきた。
 橙の言いぐさからは何か問題が発生しているようだが、一体紫の身に何が起こったのか。
 天子が足音を立てて廊下を駆け抜けると、閉じられた紫の部屋の前に藍が立っていた。

「藍!」
「来たか……」
「紫はここね! あいつ……」
「待て!」

 すぐに部屋の戸を開けようとした天子の手を、藍が掴み取って邪魔した。
 険しい顔をする天子に、藍はそれ以上に切羽づまった表情で早口でまくしたてる。

「いいか、入る前に深呼吸して気を落ち着けろ。中に入っても喧嘩するな、喚くな、大声を出すな。とにかく紫様に負担を掛けるような行動は一切するな」
「な、なによどうなってるっていうのよ」
「……見たほうが早い。だが約束できないなら、式神の名誉にかけて部屋には入れさせない」

 どうやら、本当に尋常でないことが起こっているらしい。
 天子は驚きに体を強張らせながらも、注意に従って大きくゆっくりと深呼吸を三度繰り返した。

「はぁー……わかったわよ、約束する」
「……よし」

 頷いた藍が、先に部屋へ向き直り、中にいる主へと語りかける。

「紫様、天子がお見えになりました」
「聞こえてきたわ、入れてちょうだい」

 そして開かれた襖の向こうから飛び込んできた光景に、天子はしかめた顔のまま目を見開いた。
 敷かれたままの布団の傍に座椅子が置かれ、そこに紫が背を預けくつろいでいる。
 だが緩やかな浴衣に包まれた紫の身体は、腹部が異様なほど膨れ上がっていた。
 それはそう、さながら妊婦のように。

「いらっしゃい天子」

 それなのににこやかな笑顔を投げかけてくる紫に、天子は情報を処理しきれず頭を押さえた。
 藍と橙に見守られながら、言葉にならない声しか出てこない。

「あ……お……これは……」

 どうしてそんな重たそうな腹を抱えているのか、まったくもってわからない。
 いっそそんなに食べすぎてどうしたんだと冗談を言えれば良かったが、そんな余裕もなかった。
 だが狼狽えたまま紫に近づいた天子は、一番重要な疑問を自分で片付けようと声を絞り出した。

「さ、触っても、いい……?」
「えぇ、どうぞ。ゆっくりお願いね」

 快く了承してくれた紫に、天子が震える手を伸ばした。
 手の平を大きなお腹に当て、その柔らかな肉の下に意識を伸ばすと、紫の気質の他にもう一つ、天子が知らぬ透明な気質が感じ取れた。
 楽しさも哀しみも知らぬ、ただ母親に守られる安心だけを感じている無垢な気質。
 決定的だ。間違いない、紫の腹の中に赤ちゃんがいる。
 恐るべき事実を突きつけられ、天子はようやく声が回り始めた。

「わ、わけがわかんない。どういうことよこれは、全部説明して」

 そも紫は妊娠しないはずだ、本人がその機能はないと言ったのだ。
 それなのに身ごもった理由は何だ、しかもこの大きさは、すぐにでも産まれそうなほど赤子が育っている。
 未だ混乱から醒めない天子に、紫は至極冷静に語り始めた。

「一昨日、殺人の罪で人里を追放された妊婦が、マヨヒガに現れた。彼女は子を産むために、幸福の迷い家ならと縋り、夜の幻想郷をたった一人で踏み越えてきたけど、酷く衰弱していて赤子は放っておけば死ぬ状態だった」
「まさか、あんた」

 それだけ聞いて、紫をよく知る天子はピンと来た。
 紫はうなずき、言葉を紡ぐ。

「彼女の赤子を胎盤ごと、私の胎内に移植したわ」

 予想したとおりの結論に天子は絶句した。
 いくらなんでも無茶がすぎる、狂気の沙汰だ。

「ば、馬鹿でしょ、あんたは……赤の他人の子供でしょ、どうしたらそんな真似できるのよ」
「そうね、この決断には勇気がいった」

 紫は自らのお腹を見下ろし、命の宿った身体を優しく撫でた。

「でも私は、みんなから受け入れてもらいたいから、すべてを受け入れられる場所を目指して幻想郷を創った。その私に、これから生まれくる命を拒絶することは出来なかったわ」

 紫が抱え込んできた悲壮がどれだけのものか見せつけられ、天子は言葉に詰まり力なく首を振る。
 だがもはや実行に移されている以上は、ここで紫を否定しても仕方がない。

「……これからどうするの」
「この状態は長くは保たない、私自身の妖怪と人間の境界、赤子の生と死の境界、私たちの間にある母と子の境界、それらを不眠不休で操作し、微調整を続けねばならない。そもそもが衰弱した赤子を安静にするための応急処置よ」

 ならば紫はもう二日は寝てないことになる、しかも今もくつろいでいるように見えて体の内側では常に能力を発動し、自身と赤子の肉体を改造し続けているのだ。
 しかもその状態で、これから更なる試練に立ち向かわなければならない。

「スキマで安全に赤ちゃんを取り出したりは出来ないの?」
「不可能ね、生命維持で精一杯。境界操作を疎かにすれば私の肉体が元に戻ろうとして赤ん坊は圧死するか、妖力が流入してショック死してしまう、本来の営みに則った自然分娩しか手がないの」

 紫は淡々と、しかし力強く宣言した。

「すでに陣痛は始まってる、恐らく今日中には出産が始まるわ」
「出産……紫が……」

 ここに来るまでこんなことになるとは思いもよらなかった、予想できる者などいないだろう。
 差し迫った事実に天子は現実感を無くしそうだが、もう一度紫のお腹に手を当てると確かに伝わってくる赤子の気質が現実を知らしめた。
 紫が出産、こんな無理な形で身ごもって大丈夫なのか。
 天子の不安を見て取って、紫は再度口を開いた。

「心配することはないわよ、助産師の式はすでに組み立てて藍に貼り付けてある。私だって丈夫な妖怪だもの、万が一にも命を落とすことはない、今日産んでぐっすり眠れば、明日の朝にはほぼ回復してるわ」

 それを聞いて天子は少し安心する、とにかく紫が死なないのであれば天子にとって最悪の事態にはならない。
 だが紫はあくまで予断を許さぬよう、厳に言葉を締める。

「不安要素と言えば、この子が問題なく産まれてこれるかという点ね。すでに一度大きく衰弱してる、この二日で元気になっていることを祈るしかない」
「専門の場所には頼れないの? 永遠亭とか」
「罪人の子を私が産んだとあれば、幻想郷のバランスに影響が出かねない。それにこの赤子は部屋を私に変えただけのただの人間よ、私の子供だと広まっては不幸になる。すべては内々に済ませねばならない」

 ここで産むのかと、天子は部屋を見渡した。出産に立ち会った経験はないが、専用の設備もないこんな場所で産めるものなのか。

「さあ、私が宴会に出れないのはわかったでしょう。天子は戻りなさい」
「イヤよ」

 紫の言葉を天子は跳ね除けた。

「私は……ここにいる……」

 跪いて紫の手を取る。細い手に、少しでも力を分け与えられるように祈りを込めて強く。
 紫は心底嬉しくも、複雑な気持ちで苦い顔をした。

「ごめんなさいね、あなたならそう言ってくれると思って秘密を打ち明けてしまった。甘えるなんて賢者失格ね」
「謝ったりなんて、しないでよ」

 こんなの誰かを頼りたくなって当たり前だ、天子は謝られたくなんてない。
 紫に負担をかけないよう慎重に身を寄せ、紫の胸に顔を埋めて抱きしめた。

「私は、ちょっとでも紫の支えになりたいだけなんだから」
「……ありがとう、天子」

 しばらく抱き合っていた天子は、気持ちを整理してゆっくりと身を離すと、藍へ顔を向けた。

「橙を借りていい?」
「あぁ、今はまだ余裕がある。だが夜には忙しくなるぞ」
「わかってる。橙、こっち来て」

 紫に「すぐ戻る」と言い残して、天子は橙と廊下に出て小声で話しかけた。

「橙、皆に伝えて。誕生日パーティは最低でも明日に延期、もしかしたらもっと掛かるかも知れないけど、せめてケーキだけでも一日保たせるようにして、明日無理ならもうみんなで食べちゃっていいから」
「うん、みんな残念がるね……」
「もしかしたら興ざめして来なくなるやつもいるかもね、でも仕方ない」
「わかった……行ってくるね」

 橙は天子の頼みを聞き、足音を立てないよう静かに走って行った。
 その背中を見送っていると、藍も部屋から出てきた。

「藍、私に手伝えることはある?」
「いや、準備は大丈夫だ。それよりお前は紫様と一緒にいてくれ、メンタルケアも重要だ」
「うん……」

 天子も出産に関して詳しく知っているわけでない。
 しゃしゃり出るよりは言われた通り大人しくしていたほうがいいだろうと思い、部屋に戻って紫に話しかける。

「……ホント、あんたはさー、いつもこんな無茶してるわけ?」
「まさか、流石にこんなのは私だって初めてよ」
「普通はこんなこと一生ありえないわよって……でも、紫だからしょうがないわね」

 呆れるが、紫らしくもある。天子はこの行動はすでに納得していた。
 なら今は他の話をしようと思った。

「ねえ、この子を託した母親のこと、紫は知ってるの?」
「えぇ、もちろん」
「どんな人だった?」

 紫が何でもない幻想郷の一住人を知っていることに、天子は今更疑問を持たない。
 この優しい妖怪は、そういうやつなのだ。

「人里で大工の娘として産まれてね、昔から情にもろい人だったわ。子供の頃は武術を習ってて、型の練習ばかりだったけどとても真剣に取り組んでた」

 過去を思い出し、情景を脳裏に浮かべながら紫が呟く。
 だがその先は決して明るいものではなかった。

「夫さんは幼馴染だった、その人はとても優しかったけれど……不器用だったのね、周りの責任を押し付けられ自ら命を絶ってしまった。そしてこの子の母親は復讐に走り、罪を犯して追放された」

 業に飲まれ不幸になるなどよくあることだ、悲しいがすべてに手を伸ばすことは出来ない。
 紫も最初は、その母親に関わる気はなかった、どうしようもないことだと割り切っていた。

「できれば、この子にも親のことは教えてあげたい気もするけど、下手に情報を与えても不幸になるだけ。何も言わないことが得策でしょうね、この子がそれで幸せなら親の真意に沿うはず」
「産まれた後は紫が育てないの?」
「ふふ、それも素敵かもしれないけど、私には役者不足よ。この子は普通の人間に過ぎないし、人里で養子に出すわ」
「えー、紫ならきっと良いお母さんになるのにな。自信を持っていいわよ」
「そうかしら?」
「そうよ、絶対そう。これありがたーいの忠言ね」
「それはどうも、ありがとう天人様」

 得意げに胸を張って言い含める天子を、紫はコロコロと笑って眺める。
 ふと、紫は遠い目をした。

「この子の母親は、罪を犯したことよりも、先走って赤子を産めなくなってしまったことを悔やんだ。人間なら愚か者と彼女を呼ぶかも知れないけど、それでもその人は最後には行いを省みて、身ごもった身体で一人夜を超えて私の前に現れた。これは真なる気持ちがなければ成せないこと、それを私は尊いと思うし叶えてあげたい」

 業に身をやつし、それでもそこから這い出て手の届く場所までやってきて、願いを乞うたあの母親に、紫は応えると誓ったのだ。

「この子には母親の願いどおり、幸せになるため産まれてきて欲しい」
「できるよ、紫なら」

 天子は紫の隣に座り込むと、肩を寄せて手を握る。
 疑うことなく肯定してくれる天子に、紫は感謝しながら握り返そうとしたが、下腹部から走ってきた痛みにお腹を押さえた。

「ぐっ……」
「紫?」
「また、陣痛が……」
「えっ!? ら、藍を呼んで」
「いえ、まだ大騒ぎする段階じゃない」

 現在、紫の身に起こっているのは前駆陣痛と呼ばれ、赤子が通る子宮下部などを柔らかくするためのものだ。赤子を出そうといきみたくなるが、まだ出口が開いていないためいきむと危険である。
 痛みの間隔も不規則で、人によって痛さの度合いが違うが後の本陣痛ほど強くはない。
 とは言え、能力を酷使した状態ではこれでも堪える。紫は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を意識していきみたくなる感覚を逃がすと、額に汗をにじませながら薄く目を開いた。

「前駆陣痛の時に、人によっては……生理痛のような、痛みがあると聞いた……これがそうなのかしら……」
「……かもね」
「人って、立派ね……毎月こんな痛みに耐えてるなんて……」

 紫も戦いで傷ついたことは何度もあるが、それとは別種の痛みだ。これをほぼ毎月耐えている女性を尊敬する。
 黙ってしまった天子に、紫が薄い開けた目を向けた。自分のために心配してくれる彼女が、少し喜ばしくて、苦しみながらも唇で笑う。

「話を……したい……気が紛れるわ」
「……うん」
「そういえば、今日の宴会は幹事なのに、ここにいて平気なの……?」

 天子は心配で歪む顔に笑みを作り上げると、緊張をほぐすように紫の手をにぎにぎと揉み、明るい口調で話し出した。

「私だけでやったんじゃないし、みんなで上手くまとめてくれるわよ。今日集まったメンバーはすごいのよ、私や紫の友達は当然として、霊夢魔理沙は元より、紅魔館でしょ、人形野郎とか死神に鴉天狗、人里からも何人か来てたし、紫が好きな楽団だって招待したわ。四十人くらいの大宴会よ」
「まあ……そんなに? 頑張ったじゃない」
「うん……中には明日まで残ってくれてるやつもいるかもだからさ、明日元気になったら一緒に顔出しましょ」

 とは言いながらも、果たして明日はどれだけ集まってくれるだろうかと天子は内心不安を覚えた。
 一度離れた心というのは寄り付かなくなるものだ、延期を受け白けた者はもうお祝いという気分ではなくなるかも知れない。
 せめて一人でも紫の命を祝福してくれる者が残るよう、握った手に祈りを込めた。



 ◇ ◆ ◇



「ということで、延期、です」

 博麗神社では、橙が運んできた言伝に騒然となっていた。

「えぇー、どうしてだよ、せっかくここまで準備したんだぜ」
「料理も半分くらいできちゃってるよ」
「ケーキどうしましょう」
「せめて納得行く説明をしてほしいけど」

 せっかく集まってきたのに中止を言い渡され、不満が飛び交った。
 淀んだ言葉の中心で、橙が身振り手振りで不満を掻き消して声を張り上げる。

「え、えっと、とにかく来れないの! 極秘作戦中! 明日には来れるかもしれないから、ケーキはそれまで置いといて! 明日来れない場合はみんなで食べちゃっていいからって天子が!」

 橙は事実を言うわけにはいかず、曖昧な言葉で誤魔化すしかない。
 みな乗り気でパーティの準備をしていたところに、理由もはっきりしないまま楽しみを奪われ空気が落ち込み始めた。
 あのスキマ妖怪が理由など教えてくれないのはままあることだが、今回のようにただ虚しさだけが残ることは珍しい。唯一覚り妖怪だけは事実を知り得たが、彼女も事の重大さに何も言わなかった。
 とは言え橙を責めるわけには行かず、神社に集まった者達は一様に口をつぐんで暗い表情で俯く。先程まで慌ただしく準備に明け暮れていたのが嘘のように、静まり返っていた。
 嫌に冷たく感じる風だけを聞いていると、誰かが歩き出す音がしてみなが顔を上げた。

 音がした方向にいたのは、まだ手付かずの飾りを掴む霊夢だった。

「おい霊夢、何してんだ」
「明日は来れるかもしれないんでしょ? じゃあいつでもパーティできるよう、飾りだけでもやっとくわよ」

 明日に来れるとは断言されていなかったが、霊夢は可能性があるなら諦めていなかった。
 彼女こそ、幻想郷の異変を幾度となく紫と共に駆け抜けたのだ。あの胡散臭いが大事な場面では必ず現れる妖怪が、これだけの期待を背負ってこのまま来ないとは思っていなかった。

「……そうだな、私も手伝うぜ」

 それに魔理沙も同調し、作業を再開する。
 二人の姿が波及を呼び、集まった人妖達が再びざわめき始めた。
 霊夢は振り返ると、無秩序に騒がしくなりそうな妖怪たちにピシャリと言いつける。

「あんたたち、本番は明日以降だから今日はお酒禁止よ」
「えー、せっかく楽しみにしてたのに」
「おだまり、料理だけで我慢してなさい。勝手に飲むやつは陰陽玉よ」

 何処からか噴出した不満は力づくで押さえ込まれ、人妖たちはヒィと鳴いた。勝手に飲めば間違いなくそいつは地獄を見ることだろう。
 そんな中、一匹の鬼が躍り出た。

「へへっ、しょうがないね」

 大きな二本角を揺らした萃香が、持っていた瓢箪を霊夢に向かって投げて渡した。

「霊夢ー、明日まで瓢箪預かっといてよ」
「了解、奥しまっとくわよ」
「あと今日はここで寝させてね、明日まで待ってみるからさ」
「おいマジか、あの萃香が禁酒……!?」

 博麗神社に集まる妖怪でも飲んだくれ代表の鬼が酒を断ったとなれば、他の者も安易に酒を飲みたいとは言い出せなくなった。
 段々と場の空気は、せめて明日に向けてできることはないかという方向にシフトしてくる。
 レミリアが指を鳴らすと咲夜に問いかけた。

「咲夜、ケーキの保存はできる?」
「ケーキの時間を止めるのも限度があります、暇そうな氷精がいるのでアレにも協力させてみますわ」

 よく神社に来ている仙人が、酒を捨てた萃香を見て仕方ないと息をつく。

「他にも待つ者もいるだろうし、二日分となれば食材が足りないわね、一度家に帰って持ってくるわ、すぐ戻るから」
「霊夢ー、ここって将棋盤とか置いてない? 囲碁でもいいよ」
「トランプならあるわよ、それ以外がやりたいなら自分で持ってきなさい」
「小悪魔、暇つぶしの本持ってきて。私用のと……あと日本語で書かれた小説本も幾つか」

 もうこうなれば一泊くらいは覚悟する者も現れた。
 待つのもまた一興と、境内は俄然慌ただしくなり、それぞれがやれることを探し始める。

「わーい、お泊りなんて初めてー!」
「はしゃぐなフラン。淑女らしく優雅にだな」
「何であれ私たちが音楽を奏でることに変わりはない。メルラン、リリカ、雷鼓、皆の気持ちを和らげよう」
「ねえ、私は人形劇をやるから、BGMをお願いできない?」
「私は待つけど慧音はどうする?」
「流石に里のことがな……今日は戻って明日様子を見に来るよ」
「永琳、あなたは永遠亭に戻ってお留守番をお願い。私は明日まで待つわ」
「では鈴仙に布団を持ってこさせましょう」
「映姫様、明日の仕事は」
「心配せずとも、今日明日で有給取ってますよ、私はここで待つことにします」
「早苗、あまり神社を空けるのもマズイし、私と諏訪子は帰るわ。あなたは」
「待ちます!」
「お燐、お空、みんなのお手伝い。こいしは邪魔しないようにね」
「はーい」
「小鈴、あなたはどうするの?」
「うーん、神社まで往復でけっこうかかるから、どうせなら泊まっちゃおうかな。こんなにいっぱいのお泊まり会も面白そうだし」
「私はいつまでも幻想郷にいられないのになぁ。明日寝るタイミング合うかしら」
「スクープ! 妖怪の賢者謎の失踪! どう転んでも私的には美味しいです」
「文ぁー、同じライターとして気持ちはわかるけど、サプライズなんだから文面には注意しなさいよね。ともあれ私も写真は押さえとこっと」

 すっかり喧騒を取り戻し、前夜祭としてこの状況を楽しみ始めた。
 どうしても帰るしかない者もいるが、ここに来たほとんどが一日程度なら待つ姿勢を見せ始める。
 その中心にあるのは、紫への感謝と信頼だろう。
 あの妖怪は胡散臭くありながら、その実、多くの人妖を助け続けた。それは確かに、みなの胸に刻まれていたのだ。

「みんな……紫様のためにこんなに……」

 動き出した会場を前に、橙は熱くなる胸を押さえていた。
 感動する彼女の前に、行き交う人妖たちの間から幽々子が現れる。

「橙、紫はどうしたの?」
「幽々子様、ごめんなさい、言えないんです」

 紫が他人の赤子を請け負ったことは誰にも言うわけにはいかない。
 幽々子は眉を曲げたが、声を荒げたりはしなかった。

「そう……寂しいけど、一番寂しいのは紫のはずよね」

 きっと親友は、ただ家族と天子だけを頼りに、何かを頑張っているんだろう。

「ここに心配することはなにもないわ。橙は紫の助けになってあげて」
「はい、もちろんです!」
「それと天子にも伝言をお願い。一番いいポジションにいるんだから、紫を悲しませたら承知しないわってね」

 熱気を受け表情を明るくした橙が、神社から飛び上がって帰っていく。
 黒猫の背中を見送っていた幽々子は、姿が見えなくなってから「よし」と呟いて拳を握りしめた。

「さてと……妖夢ぅ~、ご飯作るんでしょ? 手伝うわ~」
「えぇぇぇ!? 幽々子様が!?」
「そんなに驚かなくても、私だってやる時はやるわよ」
「はぁ……わかりましたけど、つまみ食いはしないでくださいよ」
「信用ないわねぇ」

 今の自分にやれることを探しながら、親友の無事を祈った。



 ◇ ◆ ◇



 天子が屋敷に来てから、紫は前駆陣痛に耐えながら本番に向けて体と心の体勢を整えていた。
 藍が作った美味しいご飯を食べたり、ぬるま湯に浸かったり、日常を送りながら体を極力リラックスさせるよう務めた。
 そして日が暮れ始めた頃、いよいよ強い痛みが彼女を襲い始めた。

「ぐうう……っ」
「紫、しっかりして!」

 布団に横たわった紫が、目をぎゅっと閉じて苦しそうに呻くのを前に、天子も出来る限り名を呼んだ。
 部屋には出産に向け、大量のタオルに、いくもの桶が用意されており、藍もそばに控えて陣痛の感覚を測っていた。
 痛みが去り、次の陣痛が始まるまでの合間に、天子は紫の右手を握りながら話しかける。

「私の手、もっと強く握って、思いっきりでいいから。私たちがついてるからね」
「えぇ、ありがとう……一旦落ち着いたわ」
「紫様、呼吸を止めないで、しっかりと息をして下さい、赤ん坊に送る酸素が必要です。それと絶対にいきまないで、子宮が完全に開ききるまで、赤ちゃんを出そうとしてはなりません」
「えぇ、わかってるわ……あなたのその式だって、私が組んだのよ……」

 境界操作を続けながら、曖昧な思考で言葉を返す。
 藍はわかっていることをあえて繰り返し言い聞かせて、忘れないようにしてくれてるのだろう。実際、少し気が抜ければ呼吸を忘れて無理にいきんでしまいそうだ。

「藍にも、迷惑をかけるわね……」
「紫様の無茶ぶりには慣れっこですよ。あなたはいつもどおり、私をこき使ってくれればいいです」

 緊張の汗をかいた藍が、プレッシャーに負けぬよう強気な顔で口端をニヤリと吊り上げた。
 頼もしい式だ、そう思っていると可愛らしい式が、蒸気を漂わすやかんを持って入ってきた。

「藍様、予備のお湯持ってきました!」
「よし、ここにいてサポートを頼む。破水が来たらタオルで羊水を取り除くから準備しておくんだ」

 指示を出しながら藍自身も緊張で汗ばんだ手を握りしめた、彼女とて赤子を取り上げるなど初めての経験だ。
 大丈夫だ、紫様の組んだ式を信じろ、そう自分に言い聞かせ、プログラムをこなす式神であるよう厳に努める。

「どれくらい時間が掛かるの?」
「すでに本陣痛に入った、ここからなら二時間から三時間と言ったところだ。天子の方こそ準備はいいな?」
「当然、何時間だって紫のそばにいてやるわよ」

 天子の支えも、みんな何もかもありがたい。
 だが、それでも不安がジリジリと紫の心臓を裏側から炙ってくる。

「まだ、痛みは序の口なはず……ここからもっと強くなる……」

 今はまだ子宮口を開いている段階だ、陣痛の間隔から恐らく5cm程度。
 これからまだ子宮口は拡張され倍の10cmまで広がるのだ、更にその後ようやく分娩が始まる。

「私は……耐えられるかしら……」

 もし痛みに負けて能力の手綱を手放せば、その瞬間に赤子の命はなくなる。
 激痛の中、わずかな気の緩みも許されない、痛みにより気絶してしまっても同様だ。

「大丈夫よ、あんたの強さは私が知ってる。あんたなら何だって乗り超えられる」
「……ふふ、天子にそんなことを言われるのは不思議ね」

 不安を励ましてくれる天子に、紫は笑って口を開いた。

「あなたが今言ったことは、私がいつも天子に思っていることよ」

 天子は強い、自分よりも強いと紫は思っている。情熱に身を任せ一人でも走れる強さ、大切な相手ならこうやって親身になって、辛抱強く寄り添える強さ。
 天界にいた頃はろくな経験を積めれなかったのに、まだまだ心の成長過程にありながら、これだけ強靭な心を持った彼女が紫は心底羨ましかった。
 彼女こそ、紫が羨む人間のすべてを持っているような気がする。

「あなたにそれを返されると、なんだか大丈夫な気がしてくる」

 まるで光の塊のような魂を持つ天子に強いと言ってもらえることは、今までの歩みを認めてもらえたようで紫は嬉しかった。
 そこから更に陣痛は続く。

「ぐっ……ふぅ、ふぅ……痛み、消えたわ」
「陣痛の間隔が四分を切りました、そろそろですよ紫様」
「えぇ……」

 もうすぐ子宮口が全開になる、そうすればきっと破水も始まり、ついに出産もスタートだ。
 もはや痛みがないときも紫は目を閉じ、無言で天子の手を握るばかりだ、肉体を人間寄りに改造した握力は平均的な成人女性と変わりない。いつもより弱々しい紫の力に、天子も不安がよぎったがそれでも紫を信じようとした。
 そして紫が瞳を開けた。

「ぐううぅぅぅ!」
「……破水が来ました! 橙、タオル!」
「はい!」

 叫び声を上げる紫の体から、赤ちゃんを守るための羊水が排出され始めた。
 生臭い匂いが充満し、換気のために橙が窓と扉を全開にする。
 しかし藍の首筋を冷や汗が流れ落ちた。

「……少し厄介だな、羊水が濁ってるみたいだ」

 本来、羊水は無色か白濁した色合いだ、しかしタオルに染みた水はわずかに黄色が差している。
 胎内で赤ん坊が胎便をしてしまったために起こる現象だ、もしかしたら移植なんて無茶をした際にこうなったのかもしれない。
 しかしこれ自体は出産の際によくあることで大した問題ではない、藍は冷静にこぼれ落ちる羊水を拭き取った。
 陣痛が去り、次の波が来る前に藍が主へ話しかける。

「紫様、破水が始まり、恐らく子宮口も全開です、ここからですよ」
「……えぇ」
「ヒッヒッフーでいきんで下さい」
「頑張ってね紫」
「えぇ……」

 ここからは陣痛のたびにいきんで赤ちゃんを押し出していくのだ、二時間前後の戦いとなる。

「来た! あぁぁぁ、痛いっ!!」
「ヒッヒッフーでいきんで!」
「ヒィッヒィッ、フゥー!!」

 見守られながら、紫は境界操作を続けつつ、陣痛のたびにいきんで、合間に休む。
 陣痛の時間はおよそ一分ちょっと、痛みが去るのは二分程度だ。
 繰り返し、繰り返し、痛みに声を上げながら赤ちゃんを子宮から押し出した。

「ひし……ひいっ……あぁいだい……ふぅー!!」
「あ、頭! 頭が見えました!」

 しばらくして橙が歓喜の声を上げた、その間も紫は苦しい息遣いでいきんでいる。


「その調子よ紫! ちょっと出てきたわよ!」
「ひぃ……ひぃ……!」

 少しして陣痛の波が去ると、赤ちゃんの頭が再び隠れていく。

「あぁ、引っ込んじゃった!?」
「いやこれでいい、陣痛の合間に引っ込むんだ、ここまで順調のはずだ。橙は紫様がいきむのに合わせてお腹を押してくれ、タイミングは私が出す」
「は、はい!」

 問題は、紫の精神が何処まで保つか。
 ただひたすら激痛の濁流に耐えながら、精神は平静を保って境界操作を維持し続けなければならない、困難極まる苦行だろう。
 これほどまで紫が苦痛に叫ぶのは初めてだ、藍は心配を胸に秘めながら、赤ちゃんの頭に手を伸ばしお産を手助けした。

「いだぁっ! いたい……!」
「紫、しっかり!」
「呼吸をするよう言い聞かせろ天子! ヒッヒッフーだ」
「紫、ヒッ、ヒッ、フー!」
「ひぃっ……ひぃっ……ふうぅーっ……!」

 紫は必死にいきむが耳鳴りが酷い、藍の声が遠く聞こえづらい。
 痛みで朦朧とした頭で、何でこんなことをしているのかと、自暴自棄な考えが浮かび始めた。
 今までこんなに苦しんだことは一度だってない、月と戦争した時も、幻想郷を作った時も、吸血鬼の騒乱を止めた時も、ここまでの苦労はなかった。
 そもそも、この子を請け負ったのは、本当にあの母親のためだったのだろうか。
 ただ自分が親と子の関係に憧れて、この子を掠め取っただけではないのか。

「ひぃ……ひぃ……ふぅ……ふぅー……」

 もしそうなら、自分が子を産むなんておこがましいことを、運命が、そしてこの子が許すはずがない。
 呼吸が弱くなる、力が抜けていく。目の焦点が合わなくなり、ぼやける視界が思考を閉ざしていく。
 見る見るうちに活力を失っていく紫に、藍も見守りながらやはり無謀だったのではと怯み始めた。
 そんな時、陣痛の合間に天子が口を開いた。

「ねぇ紫、幻想郷にいるみんなのことを思って」

 天子の声は、迷いがなく透き通っていて、修羅場に不釣り合いなほど冷静で芯のある声だった。
 苦しくて話せない紫は、浅い呼吸を繰り返しながらそれを聞いていた。

「霊夢のことどう思ってる?」

 霊夢。幻想郷を守ってくれる素敵な巫女さん。
 彼女のことはずっと裏から見守ってきた、マイペース過ぎて抜けているところもあるが立派に育ってくれて嬉しく思う。

「魔理沙は?」

 魔理沙。人里で産まれた商人の娘。
 いきなり里を飛び出して魔法の森で暮らし始めた少女が出た時は心配だったが、今はすっかり頼れる魔法使い。

「私は?」

 天子……嗚呼、天子。
 一人で剣を振るい、この地上に降り立った強すぎる女の子。
 傲慢で、無謀で、思わず怒ったけれど、彼女を知るにつれまたたく間に関心を惹かれるようになった。
 自我の強さに振り回されがちだったのに、今はもう仲間がいて、そしてそんな彼女が今も隣りにいてくれるなんて、本当に嬉しい。

「紫は、この幻想郷にいる皆のことを娘のように感じてるんじゃない?」

 声は続く。紫の記憶を洗い出していく。
 幻想郷の空と大地の眺めを思い出す、そしてそこに住む人も妖怪も、あるいはそれ以外の誰も彼もが、紫にとっては尊い宝だ。
 誰一人として同じ者はおらず、みな違った宝物を携え生きていく、その一人一人が持った宝物を羨ましいと思い、だからこそ傷つけられないよう、手の届く限り守っていきたい。

「紫にとって、この赤ちゃんも娘の一人みたいなものよ。お母さんは、子供のためなら何でも出来る。紫が、この子を産めない理由なんて何処にもない」

 天子の言葉が心に染みていく、これまで幻想郷のために尽くしてきた記憶が、今という一点に収束してくるのを感じる。
 幻想郷の住人たちの笑顔を一人一人思い出していき、彼ら彼女らと同じくらいに、今ここで生まれようとする命も守りたいと思った。

「紫ならできる! だから頑張って!」

 紫が大きく目を見開いて、震える口で胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
 悪戦苦闘した出産は破水から二時間続き、とうとう光が見えた。

「頑張れー! 頑張れー!!」
「紫様! あとちょっとです! ヒッ、ヒッ、フー!」
「ひっ、ひっ……ふぅー!」
「押せ!」
「はい!」

 橙にお腹を押されて紫が目一杯いきむと、とうとう藍の手で赤ん坊が完全に取り出された。
 両手で受け止められた赤子を見て、橙が目を輝かせて紫へ叫ぶ。

「産まれました! 全身が出ましたよ紫様!」
「あ……ぁ……やっと……」
「紫!」

 緊張の糸が切れ、心身ともに極限に達していた紫は気を失ってしまった。
 慌てて藍は自分の指から伸ばした爪で、へその緒を切断する。

「気絶した!」
「子は切り離した、大丈夫だ!」

 これで紫の妖力で赤子が殺されてしまうことはなくなった。
 だが安心するにはまだ早い。

「産まれた……だがマズイ、泣かない……!」

 赤ん坊は生まれた際、最初に産声を上げることで、肺から羊水を吐き出し呼吸を開始する。
 すでにへその緒を切断したため母胎からの酸素供給もできなくなっている、早急に呼吸を開始しなくてはならない。

「泣かないって、それじゃ呼吸が!?」
「落ち着け、こんな時は尻を叩くんだ」

 藍は声が震えそうなのを抑えながら、赤子の足を掴んで逆さ吊りにすると、平手をお尻に叩きつけた。
 ピシャリと音が鳴ったが、赤ん坊はうんともすんとも言わない。

「く、くそ……おい、泣け! 死にたいのか!? 胎便が器官に詰まったか!?」

 そういえば羊水が汚れていた、漏れた胎便を赤子が吸い込んでしまったのかもしれない。
 藍は赤ん坊を寝かすと唇に重ね、器官に詰まった異物を吸い上げようとする。
 だが奥で塞がっているのか上手く吸い出せない、もう一度吊り上げて今度はお尻をつねったが反応はない。
 不気味なほど、赤ん坊は動きを見せない、藍が手を止めかけた瞬間、嫌な静寂が耳に残る。

「まさか……もう死……」

 生気のない赤ん坊に橙が絶望的な声を上げた。

「――いや、まだこの子は生きてる」

 天子は強い眼光で感覚を研ぎ澄まし、赤ん坊の胸の中心をじっと見つめていた。
 胸の奥に、まだ気質を感じる。まだこの赤ん坊は意志を持っているのだ。
 それは今まで天子が見た何よりも無垢で、欲にも罪にも濡れることなく、ただただ懸命に『生きたい』とだけ願った純粋な心。

「貸して!」

 汚れなき意志に押され、天子が赤ん坊を手に持った。
 即座に畳の上に寝かせると、緋想の剣を取り出し気質を集める。

「な、何を」
「緋想の剣は気質を見極め弱点を突ける、ならその逆も可能なはず!」

 赤ちゃんを傷つけないよう、この無垢な気質に合わせ緋想の剣の刀身を形成する。
 想いを織り込み、気質を編み上げると、燃え上がりそうな緋色から激しさを鎮め、朝焼けで薄く染めたような浅緋(あさあけ)色へ。出来たのは柔らかな光を放つ短刀ほどの刃。
 透き通るような輝きを、天子は躊躇なく赤ちゃんの胸に突き刺した。
 藍と橙が驚く前で、浅緋の刃は決して柔らかな肉を害することなく、その奥にある肺へと気質を送り込んだ。
 体内に浸透した気質は内部の気管に詰まっていた羊水と胎便を包み込み、口へと向かって押し出して行く。
 赤子の小さな口から黄ばんだ羊水が漏れ始めた。

「お願い、今度こそ、その意志があるのなら……」

 胎便が口から零れたのを見て、天子は赤子の足を掴んで藍に倣って平手を構えた。
 赤ん坊の願いに想いを届けるべく、あらん限りの力を振り絞って叫んだ。

「生きろおおおおおおお!!!」

 天子の激しい心が、お尻に叩かれた手の平から赤ちゃんに伝わった。





 ――おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあぁ!

 生命の産声が家に響き渡った。

「藍!」
「あ、あぁ! 後は任せろ!」

 誰もが喜びを表し、藍は急いで産後の処置を施す。
 産湯で丁寧に洗われる赤ちゃんを天子が眺めていると、紫が泣き声に気付いたのか僅かに目を開いた。

「あっ……」
「紫、気がついた?」
「あの子は……」

 心配する紫の額に汗が滲んでいるのを、天子が余っていたタオルで拭う。

「無事よ、すっごく元気に泣いてる。女の子だってさ」
「……ああ、良かった…………」

 安心した紫は、これ以上ないくらい深い息を吐いて、身体中から力を抜いた。

「最後に紫様の体から胎盤を抜かねばなりません、やれますか」
「えぇ、ここまで来たのだからそれくらい楽なものよ」

 もう赤子に気を使う必要はないのだ、急速に元に戻っていく妖怪の体から、藍はへその緒を引っ張って胎盤を取り出した。

「赤ちゃんの処置も全て完了しました。抱いてみますか?」
「お願い……」

 紫は天子に支えてもらって身を起こす。
 すでに泣き止んだ赤子を、橙がタオルで丁寧に包み差し出してくれた。
 紫が恐る恐る腕を伸ばし受け取ると、産まれたばかりの赤ちゃんが、重みを持って腕の中に預けられた。
 柔らかな身体が、布を通してでも伝わってくる。紫の想像よりも少し重たい。
 赤ちゃんを胸元に抱き、小さな顔を間近で見下ろすと笑い声を零した。

「ふふ、産まれたての赤ちゃんって、いつ見ても変な顔……」
「確かに、ちょっとしわくちゃね」

 しわくちゃで猿っぽい。でも何故だか愛嬌があって、とても可愛いと思えた。
 ここからどんな可愛い女の子に育つのだろうと、紫は想像を巡らせた。

「紫様、へその緒はどうされますか? 冷やしておけば食べることも出来ますが」
「……いや」

 桶の中に置かれたへその緒は、白く生命の息吹に満ち溢れ、いつもの紫なら本能を刺激されたことだろう。
 だが今は。

「布でくるんで乾かして。お守りになるでしょうから」

 自分よりも、この子のこれからに、与えられるだけのものを与えたいと、そう思った。

「紫は身体どう? 大丈夫?」
「えぇ、かなり疲れたけどすぐ回復するわ。でもこんな大きな命が、私の中から出てきたなんて信じられない」

 こんなに辛く死ぬかと思ったのは紫の人生でも初めてだ。
 苦労を知り、身をもって命の尊さを知った紫には、抱いた赤ちゃんがキラキラと光り輝いて見えた。
 幻想郷という小さな世界で、生まれる前に母親とともに死にかけていた命を、紫は自分の力で護り、世界に送り出せたのだ。
 あくまでこの子は他人から託されただけのもので、本当の母親になれたわけではない。
 それでも。

「おめでとう。あなたもこの場所で、どうか立派に生きて……」

 少しだけ母親の気持ちがわかったような気がした。



 ◇ ◆ ◇



 ――今までで一番ハードな一日をくぐり抜けた私は、夢の世界に漂いぼんやりと口を開いた。

「疲れた……」

 出産の後は赤ちゃんの世話を藍に頼んで、私は湯浴みと着替えを済ませると速攻で眠りについた。
 肉体の物理的影響など妖怪にとっては微々たるものだが、とにかく痛みで精神が疲弊しすぎた。出産の苦労は私の想像以上だった。
 後は永遠亭に拾い子として赤ちゃんの経過を見てもらいながら、人里で里親を探せばいいだろう。
 とにかく今日は疲れた、このまま休んでいたい……と思っていたのに、夢の世界を渡って私の領域にアクセスしてくる者がいた。
 現れた赤い帽子のバクを見て、溜息をつかざるを得ない。

「おやおや、お疲れのようですね」
「なぁに、ドレミー・スイート。今日の私はクタクタなの」
「えぇ、そうでしょうとも。こっちでは三人ほど大慌てでしたから」

 敬語を使う気力もない私に、ドレミーは含みのある言葉を投げかけてくる。
 夢の世界側の藍たちのことだろう、ということは事情もすでに知っているわけらしい。
 私が言うのも何だが本当に厄介な妖怪。

「その情報を漏らしたら、賢者の誇りにかけて、あなたを夢の果てまで追いかけて挽き潰すわ」
「おぉ怖い。心配せずとも世のお母さんを敵に回すことはしませんよ、元気に過ごせるといいですね」
「わかってるならあとは休ませておいて、もう一週間くらいは寝てたいの」

 実際にそうする訳にはいかないが、それぐらい寝ていたい気分だ。

「それは困る、せっかく私もプレゼントを用意しておいたのに」
「……プレゼント?」

 ドレミーから返ってきたのは身に覚えのない言葉。

「明日、博麗神社に行ければわかることです。よく休むことですよ、そしたらあの天人も歓ぶことでしょう」

 それっきり彼女は姿を消して、今日の夜は姿を表さなかった。
 気になったが、博麗神社に行けば分かることらしい。天子ともできれば明日は行こうと約束していたし、ここは素直に言うことを聞いて休息に努めることとした。

 そして翌日、八時頃に置き出した私が着替えてから居間に行くと、泊まっていた天子が太陽みたいに明るく出迎えた。

「おっはよ紫、身体大丈夫?」
「えぇ、少しくらいはお酒も飲めそうだわ」
「流石に人間より回復が早いわね、普通だったらしばらく安静でしょ」
「あなたは知らないかもしれないけど、目の前にいるのは妖怪の賢者とも言われる大妖怪なの」
「うっそー、みえなーい。ホントは布団の付喪神だったりしない?」
「誰が食っちゃ寝妖怪よ」
「そこまで言ってなあばばば」

 天子の鼻面を摘んで失礼な軽口をねじ伏せてやり、部屋の奥に顔を向ける。
 居間には藍もいて、赤ちゃんを抱いて哺乳瓶から粉ミルクを飲ませているところだった。

「おはようございます紫様」
「えぇ、おはよう。その子は問題ないようね」

 赤ん坊はデリケートなのでまだ注意しないといけないが、ひとまず安心して良さそうだ。
 この子も昨日は疲れたことだろう、私は髪をかき上げて藍の傍でかがむと、赤ちゃんを覗き込んだ。

「おはよう、あなたもよく休めたかしら?」

 この時期の赤ん坊はまだ目も見えていないが、声を掛けると反応を示し、私に顔を向けてくれた。
 私の横から見ていた天子が感心した声を上げる。

「おー、私とかが話しかけてもイマイチなのに、紫にはバッチリ反応するんだ」
「実の母親でなくとも、産んでくれた相手が分かるんでしょうか」
「あら……ふふ、嬉しいわね」

 赤ん坊は胎内にいるころから音を聞いて母親の声を覚えるそうだが、わずか三日程度の宿主を母親として認めてくれているのかと思うと、嬉しくて、誇らしかった。

「いっそもう育てちゃったらー? 紫だって本当はそうしたいんじゃないの」
「もう、馬鹿言うんじゃないの。うちで育てたって悪影響よ」

 まあ惜しい気持ちはないことはないが、私のような地位にいる妖怪がいきなり人間の赤子を育て始めては、色々問題が起きるだろう。
 最悪、私を恨む何者かに狙われる可能性すらある、普通に人間の間で育つのが一番リスクが低い。
 それに。

「それにあなたみたいなお子様の相手をしながら、育児なんて身が持ちませんー」
「ちょ、コラ子供扱いすんな!」

 まだ本当に母親になるのは気が早いと思うのだ。

「ところで橙はどうしたのかしら? あの子も一緒になって騒ぎそうだけど」
「先に博麗神社に向かいましたよ。紫様のことを伝えねばなりませんから」
「私の?」

 何のことだろう。考え込んでいると天子が、私の腕に抱きついてきた。

「神社に行けば分かるわよ紫!」
「この子は私に任せて、紫様は楽しんできたください」
「はぁ……どういうこと?」
「いいから、ほらスキマ開いて!」
「わかったから、落ち着きなさいって」

 困惑しながらも博麗神社へ続くスキマを開く、天子と共に空間を潜る直前、藍を振り返ってみたがにこやかな顔で見送られただけ。
 視界が切り替わり博麗神社につくと、早々に天子が声を張り上げた。

「みんなー! 紫が来たよー!!」
「来たか、みんな準備しなさいよー!」
「ようやくか、待ってたぜ」

 境内からどよめきが上がる。周囲を見渡してみると昨日宴会があったというのに、今日もまたこれから宴が始まるみたいに料理と酒が並べられていた。
 大勢の人や妖怪が集まってるし、そこら中が色紙を使った飾りで彩られていて、おまけに境内の中心には巨大な箱、本殿前にはくす玉まで見えた。

「これは一体……」
「紫、やぁーっと来たかあ!?」
「きゃっ、萃香?」

 何故か私の腰に萃香が飛びかかってくる始末。
 小さな友人は、目をうるわせて私を見上げてくると大きく口を開いた。

「お前が、お前が来てくれなかったら私はー!」
「ど、どうしたのよ、萃香ったら酔ってるの?」
「シラフだよ! お前が来ないから飲めてないんだよぉー!!」
「はあ?」
「紫、こっちこっち!」

 天子がわけがわからないことを叫ぶ萃香を引き剥がし、私の両手を掴むとステップを踏んでくす玉前まで引っ張っていく。

「天子、何コレは?」
「いいからいいから! せーのでこれ引っ張って!」

 意味深に笑う天子は私にくす玉の紐を持たすと離れてしまった。
 他にも博麗神社に集ったこの余興の参加者らしい者たちが、ぞろぞろと私の前に集まってくる。中には橙や幽々子の姿も見えた。

「はい、紫、せーの!」
「えぇ?」

 よくわからないまま言われて仕方なくくす玉を開くと、周りの者たちが一斉にクラッカーを取り出して、私に向けてパンパンと音を響かせた。

『『『『『紫! 誕生日おめでとー!!!』』』』』
「……はい?」

 まったくもって、どんな明晰な頭脳を持っていても予想し得ないような言葉が、周りから一斉に投げかけられた。
 花吹雪が舞う中、ポカンとしばらく呆けていたが、慌ててくす玉の垂れ幕を確認すると確かに『祝! 八雲紫生誕祭』と書かれていて、聞き間違いではないと知らしめられた。
 いやいや、余計わけがわからない!

「私、今日誕生日ってわけじゃ、というか産まれた日なんて知らないんだけど!?」
「僭越ながら、私があんたの誕生日を今日にしました、ありがたく頂戴しなさい」
「何のために!?」
「聞いて紫!」

 狼狽える私だったけど、天子から真っ直ぐ向けられた眼に不覚にも押し込められた。
 口を閉じた私の前で、天子が姿勢を正して両手を腰の前で重ねると、凛とした声で口を開いた。

「産まれてきてありがとう、生きてきてくれてありがとう。無理矢理なやり方だけど、私はそのことを伝えたくてあなたの誕生日パーティを開きました」

 贈られた言葉に、思わず身体が震えた。
 じゃあ、ここに集まった者達は?

「見て紫! みんな紫のために集まってきたのよ。紫の生誕を祝うために、昨日からずっと待ってた」

 天子が両腕を広げて周りの者たちを示す、私が視線をあちこちへ向けると、見つめ返してくる者、恥ずかしそうに目を逸らす者、手を振る者、笑う者、ただ頷く者、たくさんの反応があった。
 けれど最後には、みんな同様に柔らかな輝きを瞳に込めて私を見つめてくる。

「みんな紫のことは好きだったり嫌いだったりするけど、紫に恩があり、感謝を伝えるために集まった」

 自分が、そんな風に想ってもらえるだなんて、思ってもいなかった。

「だからハッピーバースデー! 生まれた日がいつかなんて関係ない、私たちと出会ってくれてありがとう紫!!!」
「ハッピーバースデー!」
「おめでとう、紫」
「いつもみたいに逃げるなよ?」
「諦めて祝われな」
「おめでとさん」
「こういうの、案外お似合いじゃない、妖怪さん?」
「ハッピーバースデーね」
「人の感謝を受け取るのも善行ですよ」
「紫さん、おめでとうございます」
「おめでとうございます紫様!」
「紫、いつもありがとう」
「なぁ紫! 一緒に酒飲もう! 酒!」
「ハッピーハッピーハッピーバースデー!!!」

 口々に押し寄せる祝辞に圧倒され、まるで押し寄せる嵐か洪水の中に立っているみたいだった。
 だけど嫌じゃない。

「……みんな」

 こんなの、嫌じゃないはずないじゃないか。
 気がついたら、私の両目からはボロボロと涙が溢れ出してきて、次から次に頬を伝って熱が駆け抜けていく。
 嬉しくて、嬉しくて、もうどんな顔をすればいいかわからないぐらい嬉しくて、多分笑ってたと思う。

「ゆ、紫? だいじょ……」
「――てんしぃー!!!」

 もう身体が勝手に動いていた。一心不乱に目の前の天子に抱きつき、彼女の顔を私の胸に埋めてやって、涙でいっぱいの頬をこれでもかとこすりつけた。

「ありがとう、ありがとうてんし……!!」
「うぷ……紫、息できな……」

 私のために集まってくれた皆は、私の泣き顔を見て笑ったり慌てたり、怖がってたりしてる。失敬な、私だって泣くとも、嬉しかったらいつだって。
 あんまりにも私が天子を締め付けるものだから、霊夢が声を掛けてきた。

「ちょっと紫、そこまでにしときなさいよ」
「うぅ……れいむぅー!」
「うぇ!? 今度は私!?」

 嫌そうな顔をして逃げ出そうとした霊夢を、背後から思いっきり抱きついた。

「ありがとうれいむ……みんなありがとう」
「は、離してよ恥ずかしい!」
「うわー、ハグ魔だ! ハグ魔が出たぜみんな逃げろ!」
「まりさぁー!」
「うわぁあー!?」
「スクープ! 八雲紫、誕生日パーティに感動して……」
「あやぁー!!」
「あややややや!?」

 境内はもう大騒ぎ、私は次から次に、目についた連中を片っ端から抱きしめて、ありがとうと言い返してやり、そして最高の誕生日パーティが始まった!

「それじゃあ、紫の誕生日にカンパーイ!」
『『『『『カンパーイ!!』』』』』
「うぅ……かんぱーい……」

 ようやく泣き止んだところでお酒を飲んだ。こんな無茶苦茶でボロボロな状態でもわかるぐらいお酒は芳香な匂いと透き通った味がして、すぐに萃香が骨を折ってくれたんだとわかった。

「それじゃケーキ開けるよー! そーれ!」

 菫子がサイコキネシスを使うと、ずっと気になってた巨大な箱が蓋を開け、中から何段も重ねられた2メートルもの巨大バースデーケーキが現れた。
 てっぺんにはしっかりと『HAPPY BIRTHDAY!』と書かれていて、また熱いものが込み上げてくる。

「うわぁぁ……こんなりっぱなけーき、ぐすっ、わだじのだめにぃ……!」
「紫ってば泣いてばっかり」
「これ誕生日プレゼント渡したら泣き死にしそうね」
「ぷれぜんどまでぇ!? やだぁ、わだしじんじゃう!!」
「やっぱり泣いたよ」

 泣きじゃくる私を見て楽しげな笑いが響く。
 そんな中、咲夜が話しかけてきた。

「歳がわからないのでロウソクはまだ挿してませんが、何本行きます?」
「うぅ、ぐす……17本」
「サバ読み過ぎか!?」

 それはもう、最高の一日だった。
 朝から晩までずっとどんちゃん騒ぎ、大量のプレゼントを渡されて、一つ箱を開けるごとに感激してまた抱きついた。
 幽々子からは新しい扇子。橙からは新しい湯呑に、藍の分だという櫛を。霊夢からはリボン、魔理沙からはきのこから作った栄養ドリンク。いつのまにか来てたドレミーからは安眠枕をプレゼントされた。
 泣きすぎでスキマも使えないくらいだったので、大量のプレゼントは社務所に置かせてもらい宴会に移る。

「そう言えば紫、昨日来れなかったのはどうしてなんだ?」
「えっ? そうねぇ……」

 魔理沙から尋ねられ、どう答えようか悩んで口端を吊り上げた。

「今までの人生観を揺るがすような強大なボスが現れて、激しい死闘を繰り広げていたの」
「何言ってだよ、お前を追い込むようすごいやつが、そんなポンポンいるわけないしな、ほとんど嘘だろそれ」
「さあ、どうかしらね」

 産まれてすらいない赤ちゃんが、妖怪の賢者を苦しめたなど言っても誰も信じないだろう。
 私は病み上がりのため、ちょびちょびとしか酒を飲めなかったが、周りの皆はそんなの気にせず思い思いに酒を飲み、大いに楽しみ合った。
 昨日からみんな待っていてくれたため、暇つぶしのゲームがいくつもあったので、トランプをしたり将棋をしたり。
 それにプリズムリバーwithHの演奏を間近で聞けて、その上メンバー全員のサインまで貰えたのは最高だった! ゆかりちゃんへって書いて貰っちゃったわキャー!!!

「ありがとうございます家宝にします!」
「いやぁ、よく演奏に来てくれてたから今日はこっちから参加してみたけど、こんなに喜んでくれて良かったよ」
「滅相もありません! これからも追っかけます!!」
「あいつこんなにファンだったんだ……賢者の威厳もあったもんじゃないわねー」

 天子に呆れられたのは、そのあとブラックジャックで仕返ししてやった。
 ほろ酔い気分で、ほっぺたが落ちそうな美味しさのケーキを食べて、騒いで遊んで、置いてきた藍には申し訳なかったけど、正直に言うと彼女のことも忘れてしまうくらいはしゃいじゃった。
 そして日が沈み、いい加減参加者の半数以上が酔いで寝落ちし始めた頃、縁側で寝始めた天子の隣で、緩やかにパーティの終わり際を楽しんでいた。

 酒を微酔に飲みながら、篝火で照らされた会場を見ると、まだ少しだけ残ったケーキを食い意地はった者たちが選り分けて食べていた。
 私はケーキの他にも、あれやこれやと料理を持って来てくれたおかげで、お腹いっぱいだ。
 私一人のために、こんなに盛大なパーティを開いてくれたんだなと、感慨深い気持ちでいると、また私に近づいてくる者たちがいた。
 衣玖、針妙丸、紫苑の三人だ。天子を慕う彼女たちも、このパーティを裏から支えてくれたんだろうなと予想がついた。

「どうですか紫さん、楽しんでいただけましたか?」
「えぇ、最高よ」

 未だ興奮が抜け出ない声で言葉を返す。体が火照りっぱなしで、あまりの幸せに夢見心地だ。

「喜んでくれて良かった。天子はね、紫のために何か出来ないかっていっぱい悩んで、この誕生日パーティを企画したんだよ」
「そうだったのね……」

 きっかけは、やはりへその緒の一件だろうか。彼女は私の気持ちに真剣に向き合ってくれたんだということが、沢山の参加者が集まったこの素晴らしい光景から読み取れる。

「本当に嬉しいわ、言葉じゃ言い表せないくらい……そういえば天子からはまだプレゼントを渡して貰ってないのよね、何をくれるのかワクワクしちゃうわ」
「あー、それなんですが……」

 突然、気まずそうに三人が顔を見合わせた。

「そのね、天人様を怒らないであげて? パーティのことにかかりっきりで、プレゼント用意するの忘れちゃったみたいで」
「あらそうなの?」

 普段、私のことをアレだけ言うくせに抜けてる天人だ。それとも、それだけ頑張ってくれてたということかしら。

「天人様はいっぱい頑張ったのよ。だから……」
「大丈夫怒ってなんかないわ。それに贈り物ならもう貰ったもの」

 今日のパーティの合間に、橙が教えてくれた。彼女が昨日、赤ちゃんの生命を瀬戸際で繋いだということを。
 赤ちゃんの命と、このサプライズ誕生日パーティ。
 これだけで、もう十分素敵すぎるプレゼントだ。

 私は産まれた時は一人だったけど、今はもう母親にだってなれるし、こんなに私を繋がってくれるみんながいるのだ。
 もう寂しくなんかない、親を持つ子を羨む必要もない。

「……ありがとう、天子。あの日あなたと出会えて、本当に良かった」

 私は、やりきった顔で眠る彼女の髪を、そっと指で撫でた。



 ◇ ◆ ◇



 私たちみんなで開いた、紫の誕生日パーティからしばらく経った。
 一夜明ければ、すっかりいつもの日常に戻ったけど、幻想郷ではちょっとだけ変化が現れていた。
 これは人里で甘味を味わってる時に耳にした、井戸端会議の内容だ。

「ねぇ、聞いた? 佐藤さんちが一昨日出産したんだけどね、へその緒が消えなかったらしいわ」
「まぁ本当? いつ消えるのか不思議だなーって思ってたけど、今度は残るなんて」
「でもそんなの残されてもねぇ、捨てちゃえば良いのかしら」
「御阿礼の子に相談したら、布にくるんで乾かせばお守りになるって話だそうよ」
「へぇー」

 へその緒の神隱しがなくなり、それはそれで騒ぎになっているらしい。動いても動かなくても周りが騒ぎたてるんだから、あいつも厄介な妖怪だ。
 赤ちゃんが産まれたことか、私の開いたサプライズパーティか。どっちの影響かわからないけど、あいつの内面で変化が起こったなら、それが良いものであることを願いたい。

 紫が出産した赤ちゃんは、人里で養子を欲しがってた家庭に渡ったようだ。
 名前は亡くなった実の母親から伝えられていたらしいけど、私には教えてもらえなかった。
 暗にあの子のことはそっとしておけ言ってるんだろう、今の時期に養子になった赤ちゃんを探せばすぐに所在はわかるだろうけど、そこまでするほど野暮じゃない。

 ただまあ、あの時にあの赤ちゃんから感じた気質はばっちり心に残ってるわけで。

「おっ」

 ある時、人里を歩いていると覚えのある気質に足を止めた。
 身なりの良い初老を超えてそうな夫婦が、抱きかかえた赤ん坊に笑いかけながら歩いているのと出くわした。
 綺麗なおべべを着たかわいい赤ちゃんが、通り過ぎる私に手を伸ばしてきて、私はすれ違ってから立ち止まって、小さく手を振って見送った。

 あの子はこれからどんな人生を送るんだろうか。
 何にせよ、力強く生きられるだろうと思う。
 生きようという意志を、ちゃんと持った人だから。

 そして私は今、針妙丸から貸してもらった輝針城の自室で、柱を見ていた。
 何の面白みのないただの柱、というわけじゃない。そこには緋想の剣で付けた傷が二重に刻まれている。
 上と下、二つの横線はどっちも私の身長を元に刻まれたものだ。

「やっぱ、背ぇちょびっと伸びてるわね」

 最近、違和感を覚えたから試してみたがやっぱりだ。
 この結果に考え込んでいると、紫苑がやってきて開きっぱなしの戸から顔をのぞかせてきた。

「天人様ー……って、また柱に傷つけてるんですか? 針妙丸に怒られちゃいますよ」
「その時には酒でも奢ってご機嫌取るわよ」
「それより、針妙丸苦しそうなの。私じゃよくわからないから手伝ってあげてー」
「うん、わかった」

 一度台所を経由してから、お盆を持って紫苑と一緒に共有スペースの居間に向かうと、ちゃぶ台の上に仰向けで寝転がった針妙丸が、うーんうーんとうなっていた。

「大丈夫、針妙丸?」
「うぅー……お腹痛い……」

 返ってきたのは案の定苦しそうな声。紫苑はどうすればわからず、部屋の隅っこで膝を抱えている。

「飲み物持ってあげたわよ、お茶とお水、どっちがいい?」
「薬飲みたい、水で飲めって言われてるから……」
「オッケー、はいおちょこ」

 私はお盆に乗せて持ってきたおちょこに水を注ぎ、針妙丸の傍に置く。
 針妙丸は懐から印籠を取り出し、小人サイズの丸薬をつまむと、口に含んで水で飲み込んだ。
 様子を見ていた紫苑が、不思議そうに話しかける。

「小人でも生理なんてあるのねー」
「そりゃああるよ、じゃないと子供産めないもん」

 今回、針妙丸が苦しんでるのは病気というわけじゃない。
 こいつは月に一度くらい、こうやって生理で重たい声を上げているのだ。

「紫苑はないの?」
「昔はあったけど、面倒だから消したわー。神は子供産むこと滅多にないし、私にもそんな相手いないからねー」
「うぅ、貧乏神でも神の端くれなのね、自由に弄くれるのちょっと羨ましいかも……」

 同じ女性であっても、種族によって生理の扱い方にも色々あるみたいだ。

「小人族は小さいからか、人間より重いっぽいのよね……あたた」
「人間でも子宮が傾いてる人は血が出にくくなったりするらしいし、小さいと違いはありそうよね。ゆっくりしてなさいよ、私は出かけてくるから」
「お土産買ってきてぇー、甘いの」
「はいはい。行くわよ紫苑」
「はーい」

 声を掛けるとそれだけで紫苑は嬉しそうに寄ってきた。
 立ち去る直前、針妙丸が顔を上げて声を掛けてくる。

「天子は生理で困ってることないよね。いつも元気そう」

 私はどう答えようか少し迷って、おどけた態度で歯を見せて笑顔を作った。

「まっ、私のは軽いからね」



 ◇ ◆ ◇



 生理なんてとっくに来てる、以前、紫に向かってそんな風に嘘を吐いたのはいつもの意地。
 私が天人になったのは生理が来る前。身体が大人になる前に成長が止まって、以来ずっとそのまま。

 天人の中にも子供を作る人は、数こそ少ないけど何組かいた。
 私にとってはみんな雲より遠い話で、永遠に子供な自分と健全な大人たちのあいだにすごく距離を感じたりしていたものだ。

 でも最近になって、少しずつ背が伸び始めた。
 幻想郷に来て色んなやつに出会って、私の精神が成長するのに釣られたんだと思う。天人も妖怪同様、精神からの影響が大きいからだ。
 これはつまり、私の体が大人に近づいているんだろう。
 このまま行けば、身体の年齡も子供を産むに相応しいようになる、その時にはみんなに吐いていた嘘が実現する。
 数百年越しの成長期に、私はその日に一歩ずつ近づいていっていた。

「って言っても、相手がいないんだけどね」
「天人様、何のことですか?」
「なんでもなーい」

 男なんていないし、まあ幻想郷なら女同士だろうと問題ないだろうけど。だとしてもあいつはちょっと問題だ。
 もし私が子を求めたりしたら、きっとあいつは申し訳なく思うだろう。だから少しばかりの女の気持ちは胸の中にしまっておく。
 願い叶わぬ現実とは裏腹に、私の身体は着々と準備を進めている。いや現実がわかったからこそ、身体が急ぎ始めたのかも知れない。

 でもまあそれもいい、いずれくる苦痛も私が大人になった証と思えば、きっと大切にできる。
 それにもしかしたら、もしかしたらいつの日か、自分の子供を抱ける日が来るかも知れない。
 そんなことを想像できるだけで私は楽しい。



 ◇ ◆ ◇



「きゃああああああああああああ!!!?」

 絹を裂いたような女の悲鳴が八雲家に響き渡った。
 廊下から聞こえてきた声に、居間でせんべいをかじって一休みしていた藍は、目を丸くして食べかけを取りこぼす。
 あの主がここまで叫ぶとは、出産の時だってこんなに大きな声は上げなかった。前例のない尋常ならざる事態だ。
 藍は血相を変えると机を叩いて立ち上がった。

「ゆ、紫様、どうなされましたか!?」

 主人を探し廊下を駆けると、厠から出てきた紫が、ドレスを纏った身体を震わせ床にへたりこんでいた。
 青い顔で壁に手をついて細い体を支える主人に、藍は狼狽えそうになる心を必死に押さえつけ、ひとまず主の肩に手を置いて問いかけた。

「大丈夫ですか!? 何かお有りで……」
「血……血が……」
「は?」

 紫は信じられないと、驚愕を表して顔を上げた。



「股から血が出た……」










~今夜はお赤飯! 完~
「なんだコレは!? ゆかてんか?」
「ゆかてんか?」
「イヤ、ゆかてんじゃない……! イヤ……ゆかてんか? またゆかてんなのか?」
「何だコレは!?」

 A.ゆかてん!!!

 お読みいただきありがとうございました。
 というわけで、もはやゆかてんなのか危ぶまれるような展開も相次ぎましたがゆかてんです、えぇゆかてんですとも。
 誰の子とか関係ない、そこにゆかてんスピリッツがあればゆかてんなのだ。

 書き始めたきっかけは、ふと思った「妖怪ってへそが何のためにあるか知ってるの?」という疑問です。
 妖怪は暗闇から自然発生するタイプも多そうですから、そういう産まれ方する場合、へその緒はついてなさそうですし、それなら大多数の妖怪は知らなくても不思議じゃない。
 そこから発想を伸ばし、ゆかりん視点で冒頭を書き始めました。
 しかしゆかりんを慰めるには言葉だけでは足らないと思い、天子が誕生日パーティを開くルートか、紫が赤ん坊になってバブってオギャるルートにしようと思い、前者にしました。
 しかしそれで普通に収まっただけじゃつまらないなと思い、紫のネックになっている出産に関するイベントを差し込もうと思い。
 しかし他人の出産を手伝うだけじゃ創作物でありふれてるしなぁー、もっとビックリドッキリなものを……と考え「せや! ゆかりんに出産させたろ!」という次第に。

 ゆかりんなら、幻想郷のお母さんならこれぐらいのとんでもこなしてくれるはず、と無責任な期待をバッチリ込めて書き上げました。
 ギャグでの出産なら過去に一度書きましたが、まさかこんなガチガチの出産劇をゆかりんで書くことになるとか思わんかったよ! ある意味今までで一番ぶっ飛んでますね。
 出産シーンはネットで逐一情報を集めながら書きましたが、ネットの知識だけなので間違ってる部分があるかもしれません、その時はごめんなさい。

 ゆかてんでの擬似妊娠出産シチュで話を書いたのは自分が初めてだと思います、やったね!

 ちなみに今回、作品で使った『浅緋』(あさあけ)って色は緋を茜で染めた感じの色なんですよ
 それで朝焼けでも夕焼けでも、昼と夜の境界って茜色が差すじゃないですか
 そういうことで、うん

 ちなみに『深緋』(こきあけ)って色もあるんですよ
 こっちは緋に茜に加え紫色まで混ぜような色なんですよ
 つまり、うん。

 更に延喜式という平安初期にまとめられた法令では、『紫』『深緋』『浅緋』の順に位の高い色だったそうです。
 まあなんですかね、ゆかてんヒャッホーイ!!!。

・追記
 Twitterから「紫様が鼓膜に音を聞くシーンなのに、網膜で音を聞いてますよ」とご指摘をいただいて修正しました。
 紫様なら眼で音を聞けるのかも知れない……。

>コメント6さん、11さん
 誤字修正しました、ありがとうございます。

 追記
 メイルさんが当作品の紫妊娠シーンをイラスト化してくださいました!
 な、なんて優しそうな顔のゆかりん……! 驚く天子ちゃんもかわいい。
 メイルさんありがとうございます!

https://twitter.com/digi_freedom
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コメント



0.370簡易評価
1.80奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100yuya削除
今作が一番好きかもしれません。
余韻に浸るのが気持ちよくて書くことがすぐに浮かばないです。

天子がガムテープでへその緒をつけて抱きしめあうシーン、尊い。本当に好き。読んでいて幸せすぎます。その後、ガムテープを剥がして痛みを感じるシーン、発想が天才的だと思いました。痛みに慰められたっていいうのすごく良いですね。
一番最初に尊いと思ったのはそのシーンからですが、その後、何度も同じように強く感じました。
紫や天子が、心の成長に合わせて、身体的にも変化していくのが、今感じている気持ちを言語化する能力がないのが本当にもどかしいのですが、祝福したい気持ちや、その瞬間に立ち会えて(読めて)良かったって気持ちで溢れてます。
読後、母に自分の出産について思わず尋ねたりもしました。本陣痛後、48時間かかったと聞いて感謝の気持ちでいっぱいです。
この作品読めてよかった。ありがとうございます
5.100名前が無い程度の能力削除
発想というか書きたかったであろうことの着地点が今までで一番すごかったんじゃなかろうかと思います。
何食ったらこんなん書けるようになるんだよ(誉め言葉)
天子もゆかりんもこの一件を通じて体が変化しつつあるようですが、描写がシリアスとギャグで分かれてるのが面白かったです。
無知賢者かわいい。
6.100名前が無い程度の能力削除
間違いなく満点のゆかてんでした。
分かりあえない領分があるからこそ惹かれて尽くしたくなる、とても素敵ですね。
負けたから仕方ないと自分に言い聞かせて陥落しかけちゃう紫がかわいい。
本題とは逸れますが、レミリアの語る「誕生日パーティのキモ」の話もとても良いお話でした。
人妖は精神年齢に肉体が引きずられてるというのはよく見ますが、精神が成長すればそれにつられて肉体も成長する、というのも意外と見ない設定で興味深かったです。
いつか、天子を祝ってお赤飯を食べる日が来ることを願うばかりです。

以下誤字?報告です
可愛らしアピール 可愛らしいアピール
剣手に取って 剣を手に取って
出て立ちて 出で立ちて
初めて合った 初めて会った
困惑を現した 困惑を表した
そのすきに準備 その隙に準備
寄るもの 因るもの
準備を勧めた 準備を進めた
集めってくれる 集まってくれる
神社を開ける 神社を空ける
人間よりの改造 人間よりの改造
紫が想像よりも 紫の想像よりも
紫を生誕を 紫の生誕を
目のついた連中 目についた連中
酔で寝落ち 酔いで寝落ち
8.100佐久フカ削除
妖怪として、賢者としての紫の苦悩というのは計り知れないものがありますが、その落としどころとしての人間の子の出産、という発想は脱帽するばかりです。
また、ゆかてんを取り巻くキャラたちのなんて優しく可愛いことか...。
そしてそしていつもながら、電ドリさんのほのぼのパートとシリアスパートの書き分けは大好きです!ロウソク17本...
これからもどんどんゆかてん度を高めていってください!!
いい作品ありがとうございました!
9.100名前が無い程度の能力削除
ツイッターでいろいろと試行錯誤されていたのが、このような形になるとはいろいろな意味で想像以上でした。これまでの創想話には、なかなか無いタイプのお話なんじゃないでしょうか。発端から進行、最後のオチに至るまで、最後まで楽しませていただきました。
天子が、紫が、それを取り巻く各人物が、みんながみんな温かい。
この幻想郷も、とても素敵な幻想郷なのです。

ゆかてんが尊い。ヒャホーイ!
二人の今後の成長も見てみたいですねぇ。
11.100名前が無い程度の能力削除
ゆかてん、それは愛。ゆかてんはすべてを与えます、すべてを受け入れます、ゆかてんを求めてください、隣人をゆかてんにしなさい、隣のゆかてんは尊い、紫も歩けば天子にちゅっちゅする……ちゅっちゅうううううううううううううううう!!!!!ゆかてんちゅっちゅ!ちゅっちゅちゅちゅっちゅ、チューペットぉぉぉぉぉ!!!!チューペットの端と端を吸い合って簡易ペアストローごっこの果てに顔赤らめながらリング交換して結婚しろッッッッッ!
思い立ったらすぐ行動なところがいかにも天子らしく、そして彼女がもつ魅力のひとつなのだと再確認しました。お手製の臍帯を作ってまで紫の心に近づきたい、知りたいという天子の想いがこのワンシーンに詰まっている気がします。最初にへその緒食べてるところ見て紫も妖怪なのだと「うぇー」となりつつも、模しただけで自分の体にはない〝繋がり〟をそこに感じているところがしっくりきました。
はじめこそいつもの思いつきな感じだった恩返しのためのバースデイパーティも、形だけでない素敵なものになり最高でした。お節介や自己満足で拾いあげた継ぎ接ぎだらけの繋がりでも、天子の言った「受け取ったもの」がそれぞれの胸にあったのだとわかる延期の場面は胸が熱くなりました(天子がレミィに真剣に語るところなんかは特にうるっときます)
合間に挟まれる女の人生がどう絡んでくるのかと思っていたら、まさかの赤ちゃん移植。いや助かる方法で予感はあったのですが、紫の能力使えば余裕だろうと高をくくっていただけに強烈なボディブローを食らった感覚でした。限界になっていた紫を静かに励ます天子の芯の強さが痺れますねぇ、王道展開やその道を征くキャラの魅力がとても伝わってきて素敵すぎます!気質で閉ざされそうになる命を呼び戻す場面は今作で一二位を争うほどに好きです(もうひとつは前述の語るところ)。生きろと吼える天子の科白に目頭が熱くなり、ああ年だなぁとしみじみと思いました。ほんともうああいうの弱いんです
母子ともに助かる道もあったのでしょうけれど、この結果も彼女の選択であり、紫の立場を考えれば仕方がないのでしょうね。子供を引き合いにして女の感情を抑えられなかった女は愚かと後ろ指を差されるところに落ちてしまったけれど、誰も彼もが感情を飼い慣らすことができないとわかってしまうだけに、彼女のことは責められませんよね。最後に母親として生きようとした彼女の命は尽きてしまいましたが、受け継がれたバトンはへその緒のようにか細くともまた誰かと繋がりを得て、脈々と続く道となるのだと感じました
動きはじめた天子の肉体が今後ふたりの関係をどのように変えていくのか、想像は尽きませんが、きっと明るく騒がしい新たな幻想の形が待っているのだろうと思いました。ゆかりんもお赤飯炊かれちゃったしこれはもうお母さんふたりでいいよね(鼻血)
誕生日を勝手に決めちゃう彼女らしさに倣い、今日から365日をゆかてんの日とします。毎日ゆかてんのことを考えその尊さに祈りを捧げゆかてん作品の供給をするのですこれは国民の義務ですすすすすすすすゆかてんひゃっはああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!
今回もとても楽しめました、ありがとうございました
誤字脱字報告にて終わりたいと思います↓

少し 頭を俯かせ、→空白の割り込み
「命を得た時から繋がっているを持っている人間が羨ましい」→繋がりを
だけど口を衝いて出た言葉はそんな賢いものじゃなかった→
今それよりパーティの準備のため、→今は?
この分では早々の胎内の赤ん坊も長くは持たない。→早々に?
能力で分裂してくす玉に設置に取り掛かっている。→くす玉の?
みんな紫のために集めってきたのよ。→集まって
「ちょっと紫、そこまでしときなさいよ」→そこまでに

こちらは少し自信がないのですが↓
バクなど大した妖怪でないなのに夢の支配者などやれてるのは→妖怪で(は・も)ないのに・妖怪でない、なのに?(普通に読めてしまうのでこちらは私個人の文字を読むリズムの差からくる勘違いかもしれません。違ったらごめんなさい汗)
12.100名前が無い程度の能力削除
相変わらずじんわりと感動するお話でした…

これからのゆかてんの関係性がどう変化するのか、楽しみです
13.100優樹削除
幻想郷のことが大好きな紫と、そのことが伝わっている幻想郷の皆という優しい世界が最高です。
相互理解しきれていなくても、それでも心が繋がっている天子から力を貰って出産するという展開はグッときました。
天子とも幻想郷の皆とも、形はどうあれ通じあってるんだよなあと、心が暖かくなりますね。やっぱりゆかりんはこうでなくっちゃ。
いつか本当の子どもが生まれる日が来ると良いですねー。
15.100名前が無い程度の能力削除
まずはこれだけ度肝を抜かれる説明文を初めて見ました。
妖怪としての倫理観と歴史を持つ紫も、精神的には既に数多くの娘に特大の愛を注ぎ込める立派な母親で、憧れである「他者との繋がり」を持つ人間の親子関係を物理的に体験。天子は大事な人のために底知れぬ陽気と真剣さと共に駆け回る事が出来る程に精神的な人としての成長の準備を済ませられた。不変だった二人の有り様が温もりを得て変化していく、氏の執筆の積み重ねの重さを感じる素晴らしい作品でした。要所の新作ネタや絶妙なタイミングと量のクスッと来る部分も好印象。
18.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしかったです。いっぱい感想は浮かびましたが最終的には流石のゆかてんでしたという言葉で表現する事しか僕には出来ません。
流石のゆかてんでした。