Coolier - 新生・東方創想話

醜い     の話

2018/04/07 14:38:06
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 全身の激痛に目を覚ます。
 瞼を開ける動作すら、痛みを伴った。見ればそこは、仄かに緑色の光を放つ、薄暗い空間だった。
 おそるおそる、手足を動かしてみる。重い。動かない。痛い。関節が、筋肉が、骨が、あらゆるところが軋み、ガタつき、悲鳴を上げている。
 自分の身体は、もしかしたら、もう滅茶苦茶になっているんじゃないか。恐ろしい予感がして、私は顔を上げようとした。しかし重くて頭が上がらない。無理して上げれば、そのまま首が折れてしまいそうだ。
 どうすることもできなくて、私は仰向けになった。視線の先、遥か上方に、小さく四角い光が浮いている。
 開けっ放しの扉だ。私はあそこから落ちたんだ。目測、三十メートルはある。普通だったら即死だ。だがどういう訳か、私は生きている。
 ……生きている? 私は今、本当に生きているのだろうか。死にかけているのではないか? 
 これ以上身体を動かしたら、自分は壊れてしまうのではないか。自分は損なわれてしまうのではないか。怖くて仕方がなかった。だから代わりに、全身の触覚に意識を向けた。掌が床に触れている。指先を僅かに動かし、床の感触を確かめた。
 ざり、ざり、ざり……ぴちゃ。
 ざり、ざり、ざり……ちゃぷっ。
 濡れている。
 右手も、左手も、その指先が、液体に浸っていた。まさか、自分が流した血なのか? しかし……今感じている痛みは、打撲や打ち身と言った類のものだ。酷い怪我であることは確かだが、血が流れるような傷があるとは思えない。それに、こうやって意識がはっきりしているからには、床に血だまりができる程の出血はしていないはずだ。
 だとしたらこの液体は何だ。
 辺りは薄暗く、その液体の色を確かめることはできない。どこもかしこも、薄暗い緑で塗りつぶされている。代わりに鼻を利かせてみたが、目立った臭いは感じ取れなかった。あえて言うならば、病院の臭いだ。フェノール系の消毒液が発する、あの硬くて透き通った臭い。この施設に入ったときから、ずっと嗅いでいた臭い。その臭いがここにも漂っているだけだ。これはでは手がかりにならない。
 味覚はどうだ。私は舌を出し、うつ伏せだったときに濡れた唇を舐めてみた。鉄っぽい味がするのは、口の中が切れているからだろう。だがそれ以外の味を感じ取ることはできない。
 味がない。ただの水なのか?
 再び全身の感覚を確かめる。全身の皮膚に問いただす。そこで初めて、そもそも、全身が等しく濡れていることに気づいた。下着が張り付いて気持ちが悪い。靴の中までぐっしょりだ。今まで気づかなかったのは、痛みの主張が激しかったからだろう。触覚に注意が向かなかったのだ。
 この感覚、デジャブだ。
 身体が重く、動きづらく、全身が水で濡れている、そんな感覚。
 ……小学生の頃、一度経験したことがある。
 着衣水泳の訓練だ。あのときに感じた、言い知れぬ不快感を思い出す。ぐっしょりと濡れ、べとりと肌に張り付く衣類。摩擦がひどくて、曲げるだけで一苦労する肘や膝。何人もの人に手や足、腰などを掴まれ、彼らを引き摺りながら行動しているかのような動きにくさ。そうだ。私はいまずぶ濡れだ。身体が重くて動かないのは、全身が濡れているせいだ。
 私は耳を澄ました。水が流れる音がする。その水は一か所に集まり、排水溝のような場所に吸い取られているようだった。気づけば、自分の背中にあった水も、少しずつ嵩を落としていっている。ついさっき半分浸かっていた両手も、今は殆ど水から出ていた。もしかすると、私が意識を取り戻す前、ここにはもっとたくさんの水があったのかもしれない。水面がずっと高くにあったのかもしれない。
 自分がまだ生きている理由が、少し分かってきた。この身体の痛みは、硬い床に墜落した痛みではない。仮にそうだとしたら、私はとっくに物言わぬ屍になっているはずだ。そうではない。この痛みは、水面に叩きつけられた痛みだ。となると……私の身体は、案外軽症で済んでいるのかもしれない。
 思い切って、もう一度手足を動かす。痛いことに変わりはないが、先程より多少動きやすくなっていた。服から水分が抜けて、軽くなったのだろう。そのまま壁際に這っていき、寄り掛かるように体を起こす。じょり、じょりと、シャツが壁をこする。髪が頬に張り付いて、吸った水分を滴らせる。背中を壁に寄せ、腰に体重が乗った。そこで一息。大丈夫だ。私はまだ動ける。私はまだ生きている。
 油断した瞬間、視界が傾き始める。倒れそうになる上半身を支えようと、右腕をついた。その右手に、柔らかい感触。水分を吸い切った、布のような感触。見れば、そこには私の帽子があった。ひどい有様だが、破れたりはしていない。この帽子だけは手放せないと思い、半ば無意識に、それを被った。ずっしりとした感触。普段の三倍は重くなっているだろう。だが、おかげで私は心を落ち着かせることができた。
 そういえば。私の持ち物は帽子だけではなかったはずだ。少し高くなった視点から、改めて周囲を見渡した。うっすらと緑色を反射する床。その上に視線を走らせる。すぐ傍に、自分の本型端末が落ちているのを見つけた。重いから、水の中を真っ直ぐに落ちていったに違いない。無造作にページが開かれ、中にある画面がバチバチと明滅していた。端末機能はもう、使い物にならないだろう。でも磁気カードや家の鍵はまだ無事かもしれない。私は手を伸ばし、本を掴んだ。何故か全くふやけていないページを整え、本を閉じる。
 少し遠くに目を遣る。薄暗くて見にくいが、反対側の壁の近く、床の上にトレンチコートがへばり付いているのが見えた。こちらもまた、酷い有様で、改めて拾う気にはならなかった。薄茶の生地に、緑色の光が当たて、妙な光沢を放っている。
 それにしても、この緑は何だ。どう見ても自然光ではない。そこら中が濡れているせいで、あらゆる方向から緑が反射する。なのに妙だ。視界のどこにも、光源らしきものは見当らない。
 違和を覚えた矢先。頭上から「ぼうっ」という音がした。例えるなら、そう、ブラウン管テレビを点けたときのような音。同時に、辺りが急に明るくなった。目の対応が追いつかず、一瞬、視界が真っ白になる。
 私は身の危険を感じ、反射的に頭を抱えた。頭の真上で、爆弾か何かが爆発したのかと思った。だがそれは杞憂だったようだ。明るさに慣れたところで、私は腕を降ろした。身体には何も起きていない。ただ明るくなっただけなのか?
 私は壁から背中を離し、なんとか自力で膝立ちになった。体力は少し回復しているようだ。もう一度力を籠め、右足を立てる。ふらつきながら、膝に手をつき、体重を持ち上げた。すかさず左足を床に着ける。
 ……立てた。
 やっとのことで二本の足に体重を駆けた私は、自分の背中、先程まで寄り掛かっていた壁の方を振り返った。
 光源と音の正体は、バックライトで光る看板だった。

『縁のサナトリウムへよおこそ』

 全体が蛍光灯の白で輝く看板。その漢字の部分だけが、律儀にも緑色の光を放っていた。これがさっきの緑色だったのだろう。緑のサナトリウムだから、緑色。ただそれだけのことなのだろうか。ずいぶん自己主張の強い緑だ……
 ……いや、何かがおかしい。違和感がある。視覚情報と言語情報が乖離している。もう一度よく見てみる。看板の中に書かれた文字のうち、この漢字だけが立体的に出っ張っていることに気づく。そのせいで細部が潰れてしまっていたのだ。ぐっと近づき、指で触ってみて、やっとその違和感の正体に気付いた。これは「緑」じゃない。「縁」だ。
 ただの誤字だろうか? 「ようこそ」を「よおこそ」に間違えている辺り、あり得ない話ではない。緑色の光を放っておきながら、自分は緑ではないその漢字が、やけに滑稽に見えた。何と読むのが正解なのだろう。えんのさなとりうむ。ふちのさなとりうむ。ゆかりのさなとりうむ?
 まだバランス感覚の覚束ない身体を支えつつ、私はその滑稽な「縁」を撫でまわしていた。撫でまわしながら、思考を巡らせていた。緑ではなく縁であることの意味について、色々と考えていた。これもまた、一つの手がかりになりそうなのだが……。
 だが、あまりにも思考に集中しすぎてしまったようだ。
 普段は無意識に行っている、起立という状態維持も、今は意識の力で支える必要があった。それを怠ってしまった。意識的に突っ張っていた膝の力が、一瞬抜けてしまった。バランスを崩す。平衡感覚が乱される。前のめりに倒れそうになる。すると、『縁』を撫でていた指に自ずと体重がかかり……ボタンを押すような感触がした。

 がったん。

 左の方から、何やら鈍重な音がした。何か、大きなものが動き出す音がした。はっと我に返り、視線を向ける。
 見ると、左にあった白い壁面が、一面丸ごと裂けていた。真ん中から真っ二つに分かれ、両側へ開いていった。扉の高さは、私の背丈の二倍ほどか。ぎこちないモーター音を響かせながら、扉は動き続ける。私はそれを、唖然として見つめていた。ちょうど壁面の半分の幅まで開いただろうか。再び、がったんと大きな音を立て、扉の動きは止まった。
 同時に、扉の向こう側に照明が灯る。それは長い廊下だった。こちらの部屋から、順に遠い方へ、ばち、ばち、ばち、と蛍光灯が点けられていく。どこまで続くのだろう。一点透視図法のお手本のような構図で、灯る光はどんどん小さくなっていく。消失点へ近づいていく。私の目の分解能の限界に近い距離にまで遠ざかったところで、やっと点灯の進行は止まった。
 扉のすぐ後ろ、廊下の入り口にあたる部分には、小さな立札が立っていた。札は何度か上から書き換えられているらしく、取り消し線による書き換えが積み重なっている。

『1534-1』[取り消し線]
『2020-1,2』[取り消し線]
『14273-1,2,3』[取り消し線]
『46712-1,2,3,4』[取り消し線]
『66260-1,2,3,4 』

 見た目で判断すれば、66260というのが最終的な数字であるようだ……あっ。
「ロクロクニイロクゼロ……!」
 そうだ、これはメリーを指し示す数字。メリーに対して用いられた呼称。そして昨晩、私が目にした数字。メリーの胸に提げられていた数字だ。
全身が痛むのも厭わず、私は駆けた。部屋を通り抜け、立札を踏み倒し、廊下に入った。
 メリーはまだ何処かにいる。どこかすぐ近く、ずっと近くにいる。メリーが見せてくれた映像、メリーが提げていた番号、そしてその番号ついた部屋の先にあった空間がここであるということ。それ以外にもはや根拠などなかった。これは願望だ。確信ではない。そう信じたかっただけだ。だがそれを私が認めることはできなかった。その信念だけが私を突き動かした。速く走っているつもりでいて、本当は足を引きずるような歩き方しかできていないかもしれない。だが初めから、私には前に進むという選択肢以外に何も残されていなかった。既に選択は為されたのだ。
 真っ白い廊下。何も無い壁がずっと続いているように見える。天井の蛍光灯が、後ろ後ろへと流れる。蛍光灯の間隔は広く、視界が明、暗、明、暗、を繰り返した。自分の影が、二倍、三倍の速さで私を追い越していく。
 十八個目の蛍光灯に差し掛かったところで、視界の右側に変化が現れた。扉だ。学校の廊下から教室に入るような位置に、白い扉が取り付けられていた。壁には大きなプレートが打たれている。私は立ち止まり、壁に手をつき、息を整え、そしてプレートに目を通した。

『66260-4
 この存在は宇佐見蓮子です
 ■■38~■■58』

 初め私は、そのプレートの意味を解さなかった。
 次に私は、そのプレートの意味を解さなかった。
 最後に私は、そのプレートの意味を解さなかった。
 ??????????????????????
 何も分からないまま、私は扉の窓ガラスを覗いた。
 中には、人ひとりが収まるような大きさのカプセルがあった。カプセルは透明で、正面がやや左に向くように傾いている。カプセルの中は緑色の液体で満たされており、ぶくぶくと泡立っていた。
 その泡の向こう側、私はそこに、少女の顔を見出した。少女は目を瞑り、眠っているようだった。直立し、少し俯くように浮いている。
 少女は黒のロングスカートを穿いていた。スカートの裾には、白いステッチが通されている。
 少女は黒のケープを纏っていた。ケープの裾には、白いステッチが通されている。
 少女は白いワイシャツを着ていた。リボンやネクタイの類は巻いておらず、シャツのボタンは黒い。
 少女は黒い靴を履いていた。ソックスは白く、くるぶしのところで一度折り返されている。
 少女は黒い本を持っていた。液体の中であるにも関わらず、本は形を保っている。
 少女は前髪が長かった。それは液体の中を漂い、少女の右目を覆っている。
 そして少女は、黒い帽子を被っていた。帽子は浅い山高帽で、リボンは巻かれていなかった。
「……何よ……これ……」
『この存在は宇佐見蓮子です』
 そんなことは分かっている。
『この存在は宇佐見蓮子です』
 そんなことは知っている。
『この存在は宇佐見蓮子です』
 私が探しているのは宇佐見蓮子じゃない。
 私が探しているのはマエリベリー・ハーンだ。
 私が知りたいのは宇佐見蓮子のことじゃない。
 私が知りたいのはマエリベリー・ハーンのことだ。
 今ここに宇佐見蓮子がいて、マエリベリー・ハーンがいない。
 マエリベリー・ハーンが欠けている。
 マエリベリー・ハーンが必要だ。
 宇佐見蓮子は要らない。
 宇佐見蓮子は二人も要らない。
「宇佐見蓮子は私一人で十分だ!!!」
 窓ガラスに頭を打ち付ける。
 ぴしり、と罅が入り、ガラス越しの景色が割れた。帽子のつばが潰れる。吸っていた水分が染み出て、罅を伝って流れていく。ぱきり、とガラスの破片が剥がれ落ち、足元で砕けた。
 ぶっうん、と。窓が曇る。
 ――そんなの、嘘よ
 次の瞬間。
 目と鼻の先に、宇佐見蓮子が佇んでいた。
 見れば、カプセルは打ち破られていた。緑色の液体が溢れ、宇佐見蓮子の足元を浸している。
 宇佐見蓮子は、私と同じように窓に額を当てていた。
 ガラスに反射した私の像と、ガラスを透過した宇佐見蓮子の像が、重なった。
 ――宇佐見蓮子があなた一人で十分だなんて、そんなの嘘よ
「……嘘じゃない」
 ――嘘
「嘘じゃない」 
 ――それは嘘
「嘘じゃない……っ!! 」
 私は叫んだ。窓ガラスに吐血交じりのつばが飛ぶ。鼻が窓につくほどに、私は宇佐見蓮子に迫った。近すぎて焦点が合わない。遠近感が歪む。額を押し付けているせいで、頭がくらくらしてくる。それでも私は言葉を紡いだ。
「宇佐見蓮子と、マエリベリー・ハーン。一人一役。宇佐見蓮子が一人と、マエリベリー・ハーンが一人。それが……その二人だけが、秘封倶楽部なのよ!」
 ――それは……嘘じゃないわね
 宇佐見蓮子の声色からは、何も読み取れない。
「何を……言っているの?」
 ――だって……
 宇佐見蓮子は私を見ていた。
 私は宇佐見蓮子に見られていた。
 私は宇佐見蓮子を見ていた。
 宇佐見蓮子は私に見られていた。
 お互いの瞳は、お互いを映していた。
 お互いの視線は。お互いを貫いていた。
 それは月を視る眼だ。瞳の億に、測量器が浮いていた。カリカリと音がする。窓の向こうから音がする。角度が往復を繰り返す。六十分の一度をひたすらに刻み続ける。六分儀は回る。緯度が回る。八分儀は回る。経度が回る。私の目からも音がする。宇佐見蓮子の瞳に反射した私の瞳に、六分儀と八分儀が浮いていた。
 それは星を視る眼だ。瞳の中に、時計の針が映された。カチカチと音がする。窓の向こうから音がする。はずみ車が反転を繰り返す。五分の一秒をひたすらに刻み続ける。時計は回る。時針が分針が秒針が回る。私の目からも音がする。宇佐見蓮子の瞳に反射した私の瞳に、時計の針が映された。宇佐見蓮子の瞳に反射した私の瞳に反射した宇佐見蓮子の瞳に、時計の針が映された。
 宇佐見蓮子の瞳に映った私の瞳に映った宇佐見蓮子の瞳に映った私の瞳に映った宇佐見蓮子が、私の瞳に映った宇佐見蓮子の瞳に映った私の瞳に映った宇佐見蓮子の瞳に映った私を見ていた。
 お互いの視線は反射し続けた。
 光の速さで往復を繰り返した。
 一瞬が無限に引き延ばされていく。
 須臾が永遠に引き延ばされていく。
 時が極限まで拡張され、全てが静止したかのように見えた。
 そうして、宇佐見蓮子は口だけで笑った。広角だけが、不自然に上がっていくのが見えた。宇佐見蓮子が、何かを口にしようとしていた。それはとても恐ろしい、何かを口にしようとしていた。
 私は口を開こうとした。彼女の言葉を遮りたかった。言わせたくない。言わせたら駄目だ。絶対に言うな。言うな。言わないで。どうか言わないで。お願いだから言わないで。
 私は耳を塞ごうとした。彼女の言葉を聞きたくなかった。聞きたくない。聞いたら駄目だ。絶対に聞かせるな。聞かせるな。聞かせないで。どうか聞かせないで。お願いだから聞かせないで。
 だが、宇佐見蓮子は口を開いた。私が口を開くよりも早く、私が耳を塞ぐよりも早く。
 静止した時の中で、宇佐見蓮子の口だけが動いた。
 そしてその言葉は放たれた。

 ――だってあなたは、宇佐見蓮子ではないのだから

「……違う」
 違う違う違う違う違うちがうちがうちがうちがうチガウチガウチガウチガウ……!!
「違う……私は宇佐見蓮子だ! 」
 ――本気でそうだと言える?
「私は宇佐見蓮子だ」
 ――自分の言葉に、違和感を持つでしょう?
「私は宇佐見蓮子だ」
 ――自分で自分の発言が、ぎこちなく感じるでしょう?
「メリーだって、私を蓮子と呼んでくれる」
 ――人にどう呼ばれているかじゃないわ。あなた自身はどうなのよ
「私は……宇佐見、蓮子だ」
 ――苦しそうね
「私は宇佐見蓮子だと言っている!」
 ――慣れないことをするのは、つらいでしょう
「何が言いたい!! 」
 ――あなた、〝宇佐見蓮子〟って名乗ったこと、無いでしょ
「は…………?」
 ――これまで一度も、口に出して名乗っていない
「っ! そんな、はずは……」
 ――医者に名前を問われても、機動隊に誰だと聞かれても、あなたは名前を名乗らなかった。学校に問い合わせるときも、病院を探し回るときも、受付に質問をするときだって、あなたは名前を名乗らなかった。それはなぜ?
 私は言葉を詰まらせた。視線が泳ぐ。唇を噛み、必死に言葉を探す。私が宇佐見蓮子を名乗ったことがないだって? そんなはずはない。あり得ない。私は名乗ったことがあるはずだ。なぜなら私は……私は!
「……あるわよ、一度だけ……」
 ――ふぅん
 宇佐見蓮子の声色からは、何も読み取れない。
「私が初めて、メリーに出会ったとき。私は、宇佐見蓮子だ、って……言ったのよ」
 ――へぇ、それはまぁ、本当かもしれないわね
 潤む瞳。
 ――でもあなた、少し勘違いをしているんじゃないかしら?
 振るえる唇。
 ――ふふ、教えてあげる
 伝う涙。
 宇佐見蓮子の声色からは、何も読み取れない。
 ――それはね、〝名乗った〟んじゃない。〝騙[かた]った〟のよ
「それは……! 」
 ――あなたがメリーと一緒にいるとき、宇佐見蓮子として振舞うのも、あなたが大学にいるとき、宇佐見蓮子を演じるのも、あなたが秘封倶楽部のサイトを更新するとき、一人称を宇佐見蓮子にするのも……全て、〝騙(かた)り〟よ
「それ、……は……っ」
 ――当然よね。あなたは、宇佐見蓮子じゃないもの
「本物のあなたに……」
 それだけは言われたくなかった。
 ――噴水から満月を眺めたあの日。メリーと一緒に私は旅をしたの。そのときの星空、あなたにも見せてあげたかったわ
 宇佐見蓮子の声色からは、何も読み取れない。
 ――それはそれは、とっても綺麗な星空だった……
 宇佐見蓮子の声色からは、相変わらず、何も読み取れない。
 ――っ……
 だが、声色ではなく表情から、たった一つ、読み取れる感情があった。
 宇佐見蓮子は言葉を切った。口を閉じ、目を伏せ、下を向いた。その頬に、液体が伝っていた。力んだ唇に、液体が沁み込んでいく。さらに伝って、顎から床へ、雫が落ちていく。
 その液体は、緑色ではない。透明だ。
 今に始まったことじゃない。さっきからずっとだ。彼女が私の目の前に現れてから、ずっと。宇佐見蓮子の表情は、ひどく歪んでいた。瞳は潤み、涙が伝い、唇は震えていた。そう、宇佐見蓮子は、とても分かりやすい表情をしていた。
「……あなた、どうして、そんなに悲しい顔をしているのよ」
 ――……はっ? 
 宇佐見蓮子の顔が、いっそう歪む。
 ――悲しい顔? 
「さっきからずっと、あなたは悲しい顔をしている」
 ――何よそれ、なんで私が悲しむ必要があるのよ
「声だけごまかしても無駄よ」
 ――あなた、オカシイわ。悲しんでいるのはあなたの方でしょう?
 宇佐見蓮子の瞳から、更に涙が溢れ出た。
「どうして涙を流すのよ! 」
 沈黙。
「やめてよ。まるで私が泣いているみたいじゃない……。そんな悲しい顔をしないでよ……」
 沈黙。
「宇佐見蓮子は……そんなに簡単に泣かない。メリーを取り戻すまで、宇佐見蓮子は泣かない! 」
 沈黙。
「私はそんなに簡単に泣かない! メリーを取り戻すまで、私は泣いたりしない! 」
 沈黙。
「メリーを差し置いて、自分だけ勝手に涙を流すなんて、そんなの自分勝手だわ! そんなの私が許さない!! そんなの……」
 私の声が、どこまでも反響していった。
「……宇佐見蓮子じゃない!! 」
 どすっ。窓ガラスに再び衝撃が加わる。ぴしり、と窓の罅が増え、また一つガラスの破片が落ちていった。声の反響が収まり、一時の静寂が流れる。廊下を伝って、水の音が聞こえてくる。頭の上から、蛍光灯が揺れる音が聞こえてくる。自分の心臓の鼓動が聞こえてくる。
 やがて、宇佐見蓮子は口を開いた。
 ――あなたの……言う通りよ
 宇佐見蓮子の顔が上がる。再び私と目が合った。私はもう一度、彼女の顔を見た。そこには、悲しみを通り越した、哀愁と諦観の表情があった。そうして彼女は、私に微笑んだ。

 ――だって私も、宇佐見蓮子じゃないもの

 ばりん。
 窓ガラスが、断末魔を上げた。全面に亀裂が入る。像が滅茶苦茶に反射・屈折し、宇佐見蓮子の姿は見えなくなった。
 ぴしり、ぴしりと亀裂から破片が零れ始める。上辺から、窓が崩れていく。二次元の砂時計の様に、小さなガラス片がさらさらと落ちていき、足元に山を作った。そうして、窓ガラスは消滅した。
 消えた窓の向こう側。そこには、相変わらず窓ガラスがあった。その奥には、カプセルに入った宇佐見蓮子が眠っていた。それは、それは、安らかに……眠っていた。
「ふざけないでよ……」
 こんな無意味な幻影に、付き合っている暇はない。私はメリーを探しているんだ。私はメリーを助け出さなければならない。私は……メリーを探している、     だ。
 再び走り出す。進む先は、先程と同じく、白い壁が続いている。蛍光灯の光だけが、私が前に進んでいるのを教えてくれた。
 かんかんかん。足音が何処までも伝わっていく。廊下の終わりはまだまだ遠く、消失点に何があるのか見分けることはできない。
 だが私は進むしかない。終わりのない廊下などない。必ず何かに辿り着くはずだ。メリーはそこにいるのだと、私は信じ続ける。
 そうして十八個の蛍光灯を通り過ぎたところで、再び視界に変化が訪れた。また扉だ。ただし今度は左側。先程と同じ構図で、プレートが打ち付けられていた。

『66260-3
 この現象は宇佐見蓮子です
■■19~■■40』

「なんで……っ!! 」
 私は拳を強く握った。再び、ガラス越しに扉の中を覗く。
 中には、人ひとりが収まるような大きさのカプセルがあった。カプセルは透明で、正面が右に向くように傾いている。カプセルの中は緑色の液体で満たされており、ぶくぶくと泡立っていた。
 その泡の向こう側、私はそこに、少女の顔を見出した。少女は目を瞑り、眠っているようだった。膝を曲げ、座ったような格好で浮いている。
 少女は黒のロングスカートを穿いていた。スカートの裾には、白いステッチが通されている。少女は白いチャイナシャツを着ていた。胸の前が赤い紐で留められていて、袖口と裾には赤いステッチが通されている。少女は黒い靴を履いていた。ソックスは白いが、そのほとんどがスカートに隠れている。少女は黒い本を持っていた。液体の中であるにも関わらず、本は形を保っている。そして少女は、黒い帽子を被っていた。帽子はつばの広い山高帽で、リボンは巻かれていなかった。
 私はその少女を、呆然と眺めていた。
「なん……なのよっ」
 ……宇佐見……蓮子か。
『この現象は宇佐見蓮子です』
 また、宇佐見蓮子なのか。
『この現象は宇佐見蓮子です』
 どうして。
『この現象は宇佐見蓮子です』
「どうして!! 」
 私は叫んだ。窓ガラスの向こう、眠る宇佐見蓮子に向けて。
 どうして私を、     だと認めてくれないんだ。
 どうして私を、     にさせてくれないんだ。
 もう頭がお菓子になってしまいそうだ。
 ――どうかなさいましたか
 ぶっうん。と、聞き覚えのある音。ドアが震え、窓が振動する。不自然に光が屈折し、窓ガラスが曇る。一瞬、中の様子が見えなくなる。
 次の瞬間。
 曇りが晴れて、そこには宇佐見蓮子が佇んでいた。窓ガラスの向こう側、私に迫るように、宇佐見蓮子が立っていた。見れば、カプセルは丁寧に開かれ、緑色の液体は備え付けの水槽に移されていた。
「どうして? 」
 私は問う。
 ――どうして、と言われましても
「どうして、認めてくれないの? 」
 私は問う。
 ――認める、といいますと?
「どうして、私を宇佐見蓮子だと、認めてくれないのよ! 」
 私は問う。
 窓ガラスの向こうから、小さな溜息が聞こえた。
 ――愚問ですね
 宇佐見蓮子は、さも当然のような返答する。
 ――貴方が、宇佐見蓮子ではないからですよ
 その声に、抑揚は殆ど無かった。
「違う! 何度言ったら……」
 ――何度、とは?
「私は宇佐見蓮子だと言っているのよ! 」
 ――私は初耳なのですが
「私はこんなにも宇佐見蓮子なのに! 」
 ――それはどういう意味ですか?
「私はこんなにも秘封倶楽部なのに! 」
 ――説明をお願いできますか? まずは、定義から
「私はメリーと一緒に大学に通った。私はメリーと一緒に勉強をした。学部は違えど、一緒の授業を受けることもあった。お昼休みには一緒に食堂に行った。授業の合間にはノートを見せ合った。放課後にはカフェにも行ったし、休日には一緒に寺社や廃墟の探索に行った。連休には一緒に山に登ったし、長期休業中には二人でオカルトスポット巡りの旅行もした。それだけじゃない。何度もお互いの家に訪れた。何度も料理を振舞ったし、何度も料理をご馳走してもらった。一緒に酒を飲み、同じ床に就き、同じ夢を見た。夢の中だって私たちは倶楽部活動をした。お互いの明晰夢の中で、私たちはずっと秘封倶楽部をしていた。文字通り、寝ても覚めても、私たちは一緒だった。私たちは秘封倶楽部だった」
 ――えぇ。ただその前に定義の確認を……
「そして私たちは語り合った。私たちは宇宙について語り合った。星座や彗星、太陽や銀河系について。ラグランジュポイントやスペースコロニー、人工衛星やスイングバイについて。ブラックホールやクエーサーのこと、赤色超巨星や超新星爆発のことについて。宇宙人の存在可能性や、その襲来物語、SFと見分けのつかない宇宙技術や、滑稽な宇宙ジョークについて。超弦理論のように小さな世界から、宇宙の果てのように雄大な世界のことまで、ありとあらゆる宇宙について話し合った。それだけじゃない。私たちはヒトの精神について語り合った。文学のこと、詩歌のこと、絵画や彫刻、音楽や建築のこと。そしてそれらに表現されたアーティストの魂について。秘封倶楽部という精神と、科学絶対主義の精神について。宗教や哲学、民俗学や歴史のこと。それらが明らかにしてきた、人類を人類たらしめている精神について。相対性精神学のように厳密な領域から、明晰夢のように何でもありの滅茶苦茶な世界まで、私たちはあらゆることを話し合った」
 ――そうですね。しかしあなたの宇佐見蓮子の定義は……
「私はメリーと旅をした。未知の花を求めて、魅知の旅をした。科学の届かぬ領域を求めて旅をした。それは科学絶対主義社会からの脱出であった。未だ暴かれぬ結界を求めて旅をした。それは政府による結界管理社会からの脱出だった。トリフネはその旅を彩る大きな一歩だった。私たちは宇宙へと踏み出した。私とメリーは宇宙空間を飛び越えた。秘封倶楽部は重力から解放された。地球という柵[しがらみ]から解き放たれた。そのとき一つの秘封倶楽部が達成された。そのとき私たちは秘封倶楽部だったんだ。私は、私たちは……秘封倶楽部たる理由を持っている! 」
 ――それは、その通りでしょう
 宇佐見蓮子が声色を変えることは無かった。
 ――それは、とても秘封倶楽部ですね
「その通りよ! 私は秘封倶楽部として十二分に活動をしてきた! 」
 ――ですが……それは貴方が宇佐見蓮子であることを証明する根拠にはなり得ません
「だから何でなのよ! 」
 ――それは、貴方自身が、一番よく理解していると思うのですが
「意味が分からないわ」
 ――決定的な根拠に欠けています
「……根拠なんていくらでもあるわよ……。私は京都に住んでいる。大学で超弦理論を専攻している。プランク並みの頭脳があって成績も優秀。白いシャツに黒いスカートを身に付けている。黒い靴に白いソックスを履いている。黒い本を持ち歩き、黒い帽子を被り、帽子にはリボンを巻いている……これが宇佐見蓮子でなくて何なのよ! 」
 ――ですからそれが妙なんです。本当にあなたが宇佐見蓮子だというなら、自分の衣服や恰好、所属や知能を気にする必要は無いはずです。なぜそれを宇佐見蓮子たる根拠にしようとするのですか? どうして自己規定の根拠をそこに求めるのですか? 宇佐見蓮子は、どんな服を着ようが、どんな帽子を被ろうが、どんな大学に通おうが、頭が良かろうが悪かろうが、宇佐見蓮子に変わりはないのですよ。あなたが、宇佐見蓮子たる所以を自分自身に求めていないのが、とても奇妙に感じられます
「それは……!」
 ――宇佐見蓮子が宇佐見蓮子である根拠は、宇佐見蓮子であるということが必要であり、それで十分なのです
「そんなの……どうどうめぐりじゃない……」
 ――だから私は申し上げたのです。定義を確認するべきだ、と。あなたの知能がある程度優れていることは、こちらも承知しています。そんなあなたが、なぜ宇佐見蓮子の話をするときに限って、宇佐見蓮子の定義を曖昧にしようとするのでしょうか? 議論を始める上で、必要不可欠な手順でしょうに。先程私が、あなたが一番理解しているはず、と言ったのは、そういうことですよ
 宇佐見蓮子は、私が口を挟む間もなく言葉を紡いでいく。
 ――そこに、あなたの空想、妄想が入り込んでいるのではないですか? 宇佐見蓮子という妄想に浸るべく、定義を蔑ろにしている部分があるのではありませんか? 
「私は……違う、そんな、妄想だなんて、違う、空想なんかじゃ……」
 ――あなたは宇佐見蓮子を騙っているに過ぎない
 宇佐見蓮子の声は、相変わらず平坦だった。
「はっ……? 何よ! ……騙るって何よ……。私が、他でもない私が、自らを宇佐見蓮子と名乗っている……。そこに何の誤りがあるというの? 何の偽りがあるっていうのよ! 」
 ――一つ。あなたは明確な過ちを犯していますね
「過ち? 」
 ――えぇ。大きな過ちです。あなたは、混同しているんですよ。何かを好きになることと、何かに自分がなることを
「どういう……こと? 」
 ――宇佐見蓮子に憧れることと、宇佐見蓮子になることは違います
「っ――――――――――――――――――――」
 沈黙。
 私は沈黙を選ぶ。
 聞きたくない。
 違う。
 ちがう。
 チガウ。
 宇佐見蓮子が私の全てなんだ。
 宇佐見蓮子が私なんだ。
 私はそうやって生きてきた。
 私はそうやって秘封倶楽部をやってきた。
 それを、いまさら、そんな……
 認めない。
 そんなの認めない。
 嫌だ。
 いやだ。
 いやだいやだいやだイヤだイヤだイヤだ……!
 しかし宇佐見蓮子は私に構わない。
 ――あなたが宇佐見蓮子たる理由をその服装や恰好、学歴や頭脳に求めるのは、あなたとは別人である、宇佐見蓮子という存在に、憧れているからでしょう。そうして、憧れと同一化を勘違いし、混同して、自らを宇佐見蓮子にしようとしてしまっている……
「どうして……どうしてあんたにそれが分かるのよ! どうして! 本物の宇佐見蓮子であるあなたが! あなたは、ヒロシゲで東京に里帰りした! メリーと一緒に、五十三分間の車窓楽しんだ! そのあなたが、……なぜ! 」
 ――あぁ、あなたの実家は諏訪でしたね
 宇佐見蓮子の声は、相変わらず平坦だった。
「あんた……わざと言ってるんでしょう」
 ――はて、何のことですしょうか?
 平坦な口調で、喧嘩を売るようなセリフを放つ宇佐見蓮子。
 しかし、声だけが平坦でも、彼女自身は平静ではなかった。彼女もまた、平静とはほど遠い表情をしていた。平坦な声からは想像もつかないほどに、肩は震え、膝はすくみ、顔は赤くなっていた。伏せた彼女の瞳から、とめどなく涙が溢れている。
「なんで、あんたも泣いているのよ」
 ――泣いてませんよ、私は
 言動と表情が一致してないのが、さっきから気持ち悪い。メリーの目よりも気持ち悪い。
「宇佐見蓮子はそんな簡単には泣かないって言ってるでしょう」
 ――それも初耳です
「あなたは、気づくはずがない。他人の憧れなんかに……。宇佐見蓮子は後ろを振り返らない。宇佐見蓮子は前だけを見て進み続ける。誰に憧れられようが、誰に崇め奉られようが、宇佐見蓮子は、気にすることは無く歩み続けるのよ。ただ背中だけを見せて! それなのに、なんであんたが憧れなんかに気づくのよ! 」
 ――決まっているじゃないですか
 宇佐見蓮子は、そう言って私から視線を外した。回れ右をして、私に背を向ける。何歩か歩き、開いたカプセルに手を添える。そうして首だけ振り返り、涙交じりの笑みを私に見せた。

 ――私も、宇佐見蓮子に憧れていたからです

 ぶっうん。
 再び窓ガラスが曇る。それが晴れた頃には、やはり宇佐見蓮子が、カプセルの中で、静かに眠っていた。
 私は窓ガラスを殴った。しかし、ガラスはびくともしなかった。そこに罅を入れられるほどの力は、今の私には、残っていなかった。
「もう……わけがわからない」
 壁に腕をつきながら、私は歩みを再開させた。いくらただの打ち身とは言っても、無理して何キロも走れるはずがなかった。先程よりも歩幅は小さく、歩みは遅くなっていた。一つの蛍光灯が、ゆっくりと近づいて、ゆっくりと遠ざかっていった。
 何倍もの時間をかけて、十八個の蛍光灯を通り過ぎたとき。私は再び、視界に扉を捉えた。今度は廊下の右側だ。やはり、その傍には、プレートが打ち付けられている。
 プレートに書かれた内容を、私はおおよそ予知していた。

『66260-2
 このアカウントは宇佐見蓮子です
■■99~■■22』

 そうして、窓から見える景色も……
 中には、人ひとりが収まるような大きさのカプセルがあった。カプセルは透明で、正面が後ろを向くように傾いている。カプセルの中は緑色の液体で満たされており、ぶくぶくと泡立っていた。
 その泡の向こう側、私はそこに、少女の顔を見出した。少女は目を瞑り、眠っているようだった。直立し、背中を向けて浮いている。
 少女は黒のロングスカートを穿いていた。スカートの裾には、白いステッチが通されている。少女は白いチャイナシャツを着ていた。袖口と裾には、赤いステッチが通されている。少女は黒い靴を履いていた。ソックスは白く、くるぶしのところで一度折り返されている。少女は黒い本を持っていた。液体の中であるにも関わらず、本は形を保っている。そして少女は、黒い帽子を被っていた。帽子は柔らかい山高帽で、リボンは巻かれていなかった。
 ……もう、これ以上見たくない。
『このアカウントは宇佐見蓮子です』
 もう、これ以上宇佐見蓮子を見たくない。
『このアカウントは宇佐見蓮子です』
 もう、これ以上宇佐見蓮子を知りたくない。
『このアカウントは宇佐見蓮子です』
 なぜなら、私が     なのだから。
 私は窓から離れようとした。目を背けようとした。
 瞬間。
 どっん。
 宇佐見蓮子が窓ガラスに迫っていた。大きく開かれた目が、こちらを凝視していた。
 ――このアカウントは宇佐見蓮子です
 視れば、カプセルは砕け散り、原形を留めていなかった。緑色の液体が蒸発し、窓ガラスを曇らせている。
 あぁ、あなたは……
「宇佐見……蓮子」
 ――私は宇佐見蓮子だ
 彼女の吐いた息がガラスにかかり、結露の一粒一粒が大きくなっていった。
 私は扉にすがりつき、宇佐見蓮子を見つめ返した。
「返してよ……私の憧れを返してよ……! 」
 反射した私の顔と、宇佐見蓮子の顔が重なる。
 ――甘えるな
 宇佐見蓮子の声は冷たかった。
「私を宇佐見蓮子にして……お願いだから……私は宇佐見蓮子でなければならないの」
 ――貴様は宇佐見蓮子ではない
「私は宇佐見蓮子に憧れた。そうして宇佐見蓮子となった。だから私は宇佐見蓮子だっ……!」
 ――怠惰だ。実に怠惰だ
「……」
 私が宇佐見蓮子を見、宇佐見蓮子が私を見ていた。
「……私は憧れた。だから勉強をしたの。大学受験はつらかったよ。しんどかったよ。でも私には秘封倶楽部があった。宇佐見蓮子への憧れだけが救いだった。それだけで私は頑張れた」
 ――自己暗示は、自己の内で完結するべきだ。誰も貴様の内情に興味はない 
「私はちょっとぐらい、周りよりできる人間だと思っていた。でもそれは勘違いだった。私は一度、受験に失敗した。自分が馬鹿だと自覚したのは、その時が初めてだった」
 ――あまりにも傲慢だ。誰も貴様の話を聞きはしない
「私はずっと勘違いしていたのよ。子供の頃、放任主義の親は、私に大量の図鑑を渡して、それで私を黙らせていた。だから、私は物知りになった。それは、ただ知っているというだけで、意味なんてほとんど考えていなかったと思う。でも当時は、それで十分だった。幼稚園では、物知り博士というキャラクターだった。私がそういう立ち位置になるのには十分だった」
 ――あまりにも哀れだ。貴様の家に積まれたチラシの裏は、こんなにも白い
「ええ。今思えば、とっても哀れなことよ。でも当時の私はその哀れさに気づかなかった。私はいつしか、自分を取り繕うようになった。自分が物知りだということは、少なくとも小学校にいる間は、〝頭がいい〟という概念に直結していた。小学生には分かりやすい概念だったから。そうして私は、〝頭がいい〟キャラクターを作ることを身に付けてしまった。それも、無意識に。本当は特別頭が良いわけでもないのに、自分さえ頭がいいと勘違いするほどに、私はそのキャラを演じ切っていた」
 ――無知は幸せだな。貴様の脳味噌は、こんなにも白い
「その通りよ。私はそのことに気づかぬまま中学に上がった。勘違いを続けた私は幸せだった。周りにどれだけ不幸を振りまいていたかさえ、知ることもなく、幸せを享受していた。ただ中学ともなれば、唯の物知りが優等生というキャラクターを獲得するのには無理があった。だから私は勉強した……つもりだった。本当は、勉強なんてしていない。学力なんて伸ばしていない。私は中学校の三年間で、〝優等生として見られるための振舞い方〟ばかりを磨いていたの。それも、自分で気づかずにね。そうして、周りに自分を優等生だと勘違いして、自分で自分を優等生だと勘違いして、中学を卒業した」
 ――またしても、哀れだ。聞いていられない
「高校生になっても、初めての受験を終えるまでも、私は哀れであり続けたのには理由があった。それは、高校が中途半端に進学校だったから。当時の私は、馬鹿みたいに偏差値という幻想を信奉していた。この世に八百万とある、人の性質を測るものさしの内の、たった一つでしかないそれを、私は全てを測るものさしだと勘違いしていた。だから〝優等生〟を演じるために、学業偏差値が必要になった。そうして私は、偏差値を高くすることだけが上手くなっていたの。本当は頭は唯の凡人なのに」
 ――なぜそこまで、自分を偽ろうとした。見ていられない
「決まってるじゃない。怖かったからよ。優等生という称号が自分のアイデンティティだったから、それを失うのが怖かった。二次性徴の子供にありがちな、実に矮小なアイデンティティ。でも当時の私にとってはそれが全てだった。だから、深い考えもなく、いわゆる進学校に入ったの」
 ――愚かだ。愚鈍極まりない言い草だ。貴様は何も分かっていない。貴様は何も得ていない。金と運に恵まれただけの愚か者め
「私の愚かさはそれだけでは終わらなかったのよ。高校は当然、私より頭のいい人間ばかりだった。けれど、そこでもなぜか私は優等生の称号を受けていた。それは何故かって? 私の長年の努力の成果よ。もちろん、学業の努力なんかじゃない。自分を優等生に偽る努力の成果だった。学内で成績が良くなるようなことだけを考えていた。教師に気に入られるようなことばかりをやっていた。もっと直球に言えば、媚びていた。そうして私は頭が悪いまま、表向きだけ優等生になった。私は、それが偽りのもの、有名無実のものであることに、自分で気づいていなかった。それは幼稚園の頃から変わらない、愚かな真実よ。ただね、高校ではここに、もう一つの理由が加わった」
 ――良き理解者は多くを語らない
「そうね。私はこの通り、恥も捨ててベラベラと自分語りをする愚か者よ。当時から変わらず、ね。愚か者の私は、その優等生の座に胡坐をかいていた。それが偽りの称号であることも知らずに。一方、周りの人間は気づいていた。私の優等生の称号が、ハリボテであることに。そして彼らは私より賢いから、それを指摘することはなかった。私をこのまま優等生の座に祀り上げていれば、万事安泰だと気づいていた。私のように称号や名声に飢えた者はやりたいようにやらせておこう、自分は自分で学問に集中していよう、という生徒が大半だった。それは、学問を志す人間として極めて誠実な姿勢よ。当時の私とはまるで真逆の、謙虚な姿勢。私はそのことにすら気づいていなかった。彼らが私という存在の真相を理解していて、敢えて口に出さなかったことにすら気づいていなかった。だから私は、高校を卒業し、初めての受験を経験するまで、そのペラペラな優等生の看板を喜んで背負い続けていた。そうして、失敗した。やっとのことで、自分が馬鹿だと気付いたの」
 ――十八年の年月をかけて、気づいたことがたったそれだけのことか
「そうよ。でも私の秘封倶楽部に対する憧れは歪まなかった。京都の大学生になるんだ、って、私はその憧れにすがり続けた。半ば、ヤケになっていたんだと思う。本当に醜い、自己暗示への溺れ方だった。私は名古屋に出て、予備校に通った。浪人だった。自分が馬鹿だと分かってからは、勉強が捗った。自分が頭がいいと思っている人間は学問に向いていなかったのよ。私は自分が馬鹿だと思い込み続けることによって、ひたすらノートに向かい続けた。こうして私はいっそう、秘封倶楽部への憧れを強めていった。いや、そんな生易しいものじゃない。秘封倶楽部という最後の希望にすがり続けていった。秘封倶楽部という玉の緒を、必死に握り続けていた。私は、心のどこかにある黒いものに足を掴まれながらも、宇佐見蓮子と言う輝きに手を伸ばし続けた。私は毎日が苦しかった。毎日死にたがっていた。街を歩く度に、自分の死に場所を探していた。もちろん、受験の苦しみなんてものは、世の中に存在するたくさんの苦しみに比べれば、生ぬるいものでしかないことを知っていた。予備校に通えるだけの金があるだけでも幸せなことで、浪人していて苦しいなんて言うのは贅沢な悩みであることも知っていた。でも当時の私は、本当に受験勉強で死ぬと思っていた。実際に受験勉強で死ぬ人間は少なからずいる。予備校のクラスにも一人、飛び降りた子がいた。その環境に閉ざされた私は、本当に受験に殺されると思っていたし、そんなことならいっそ死にたいとも思っていた。そして、死にたがる度に宇佐見蓮子を崇めた。死というものが身近になればなるほど、宇佐見蓮子は輝いた。通学中もずっと秘封倶楽部のサイトを眺めていた。自習中もずっと秘封倶楽部の讃美歌を聞いていた。循環する退廃的な思考の中で、私の精神状態は何度も秘封倶楽部という救いを経験した。勉強し、疲れ、死にたがり、宇佐見蓮子を崇め、秘封倶楽部に救われた。毎日がこの繰り返しだった。宇佐見蓮子は私の血であり肉であった。宇佐見蓮子を獲得することが私の希求する全てだった」
 あぁ、なんて醜い恥さらし。
 あぁ、なんて痛々しい自分語り。
 もう、私の醜さを見届けてくれるのは、私が憧れていた筈の、宇佐見蓮子しかいなかった。
「そうして、やっと! 私は合格した! 京都帝国大学理学部に! 私は宇佐見蓮子に辿り着いた! 」
 私の息は上がっていた。やけになっていた。もう私に隠すことは何もない。この醜さが、私の全てだ。
 ――貴様だけが特別だと思うな。自分だけが成し遂げられることだと勘違いする愚か者め
 宇佐見蓮子は一切声色を変えなかった。
 ――貴様は三つ勘違いしている
「何よ」
 ――一つ。宇佐見蓮子が京都帝国大学理学部であるという証拠はどこにもない。
「今、っ……! この私が!! ……京都帝国大学理学部であるということ……、……それが、……何よりの証拠でしょう!! 」
 ――ではもう一つだ。貴様は宇佐見蓮子ではない
「だから、私は宇佐見蓮子に辿り着いたと、そう、話したでしょう!! 」
 ――では最後の一つだ。宇佐見蓮子に辿り着くことは不可能だ
「なぜ、そう言い切れるの……、本物のあなたが!! なぜ!! 」
 宇佐見蓮子の瞳は私を捉えている。
 宇佐見蓮子の瞳は私を映している。
 宇佐見蓮子の瞳は私に語り掛ける。
 ――宇佐見蓮子の話をしよう。
「……えっ? 」
 ――私は、私たちは宇佐見蓮子を追いかける。宇佐見蓮子の背中を追いかける。なぜか? それは私が、私たちが宇佐見蓮子に憧れるからだ。こんなにも尊く、こんなにも愛おしい宇佐見蓮子。彼女にいつか巡り合えることを願って。彼女にいつか辿り着けることを願って。
「それは……」
 ――しかし彼女を、宇佐見蓮子の存在を知るものはどこにもいない。その姿を、宇佐見蓮子の姿を見た者はどこにもいないのだ。では私たちは、そんな、得体の知れない、いるかどうかも分からないものを追いかけているのだろうか? どうして私たちは、宇佐見蓮子を追いかけ続けることが出来るのだろうか?
「違う!! 宇佐見蓮子は実在する! 秘封倶楽部のサイトを見たでしょう? あれは立派なオカルトサークルの……! 」
 ――在るはずのないものを追い求める。それを信仰と呼ぶ。私は、私たちは宇佐見蓮子をし信仰しているのだろうか? 
「在る! 宇佐見蓮子はここに居る……っ! 」
 ――しかし宇佐見蓮子は答えない。私たちは答えを知ることはできない。この問いに答えられるのは、宇佐見蓮子の背中ではなく、彼女の瞳を見ることが出来る者、すなわち、マエリベリー・ハーン。
「何を……言っているの?」
 ――それでも私は宇佐見蓮子を追いかけ続ける。あらゆる手段で宇佐見蓮子に近づこうとする。宇佐見蓮子を綴り、宇佐見蓮子を描く。宇佐見蓮子を歌い、宇佐見蓮子を演じる。宇佐見蓮子を着飾り、宇佐見蓮子を振る舞う。そうしてなにかを掴もうとして。そうして隠された秘密を暴こうとして。
「そんなの、当り前よ。私は宇佐見蓮子だもの」
 ――有るかどうかも分からないこと。それは、未だ誰にも知られていない秘密である証だ。こうやって、隠された怪奇を暴き出そうとする、秘められた世界へ踏み出そうとする。こうした私たち姿勢は……貴様なら気づいているだろう……まさに秘封倶楽部に違いないのである。
「当然……じゃない……。だって私は秘封倶楽部だもの」
 ――まだ見ぬ未知の世界へ。秘密の扉を開け放て。その瞳を輝かせ、怪奇の根源に向かって勇ましく駆けていくその姿の、なんと力強く、なんと尊いことだろう。その姿に、きっと、私たちは憧れた。そして夢を現に変える。その一言に勇気づけられたのだ。
「そうよ……! 秘封倶楽部が、私の心の拠り所だった……秘封倶楽部が、私の永遠の憧れだった! 」
 ――しかし、私の、私たちの願いはついには叶わない
「だからどうして! 」
 ――多くの者に信仰され、尊ばれ、追い求められるもの。それは怪奇と違わずか。秘封倶楽部は、宇佐見蓮子の存在は、秘封倶楽部が暴く対象であるはずの、怪奇と違わずか。私たちの信仰が、宇佐見蓮子を生み、そして、宇佐見蓮子を封じてしまったのか。
「どういう、こと……? 」
 ――都市伝説を探る者は、いつしか都市伝説となってしまった。秘密を暴く者は、いつしか秘密として隠されてしまった。ゆえに私たちは宇佐見蓮子にたどり着けない。私たちが私たちである限り。宇佐見蓮子に巡り逢うこと。それは、宇佐見蓮子の背中を追いかけるのではなく、瞳を覗き込むことである。
「瞳を……覗き込むこと? 」
 私は、宇佐見蓮子の瞳を覗き込んだ。
 その瞳に映る私は、ひどく歪んでいた。
 それは、私が涙を流しているから?
 それとも、宇佐見蓮子が涙を流しているから?
 ――〝君〟が宇佐見蓮子にたどり着くこと。それは、君が都市伝説となること、宇佐見蓮子と同じ道を辿ること、そして、宇佐見蓮子となることだ。レトロなテレビの向こう側。己が都市伝説になってしまっても、秘密を暴き、夢を現に変えようとする彼女の瞳は、秘められた世界を映して、今なお輝いている。
「あなたも……泣いているの? 」
 宇佐見蓮子は泣いていた。その瞳は、輝いてはいなかった。
 ――宇佐見蓮子は失われた。だから神話になった。秘封倶楽部は失われた。だから伝説になった。秘封倶楽部は怪奇となり、幻想となり、都市伝説となった。宇佐見蓮子は〝向こう側〟の存在になったのだ。そこに手を伸ばしても、拳は空を掴むだけだ。何故か。君は現に存在し、宇佐見蓮子は存在しないからだ。
「それじゃ、まるで……」
 ――これは宇佐見蓮子という神話だ。これは秘封倶楽部という伝説だ。神話は、当人がこの世に存在する限り成立しない。当人がこの世に存在する限り完成しない。君が宇佐見蓮子になるのは、君という存在がこの世界から消滅し、君という現象を残して、宇佐見蓮子という機能の一部になったときだけだ。
「どうして、そんな……」
 ――分かるだろう。そのとき君は……君の思い描いた宇佐見蓮子にはなっていない。確かに、神話を読み解く人間にとって、君は宇佐見蓮子であるかもしれない。しかし君は、君自身は、これまですがり続けてきた宇佐見蓮子という憧れに、辿り着かないままだ。君は宇佐見蓮子に到達しないまま凍結され、宇佐見蓮子という機能に徹するしかない。君はそれに抗えない。なぜなら、そのとき既に、君という存在は損なわれているのだから。そう、君は、宇佐見蓮子になれない。
「じゃあ……」
 私は、潤む瞳を見つめ返した。
「あなたは、どうなのよ……」
 宇佐見蓮子は、悲しみとも怒りともつかぬ、不憫な顔をしていた。彼女の表情からは、彼女の言葉のような力強さは感じなかった。泣いているのは宇佐見蓮子の方だった。私と見つめ合う間にも、その瞳には涙が溜まっていった。瞳に映る私が歪んでいった。そうして一筋の涙が頬を伝ったとき、その言葉は放たれた。

 ――私も、宇佐見蓮子になれなかった

 宇佐見蓮子は、その涙を隠すように窓から離れた。私の瞳から、宇佐見蓮子が遠ざかった。こつ、こつ、と靴音が響き、彼女は後ずさりしていった。その輪郭は徐々にぼやけていき、仔細は曖昧になっていった。そのまま宇佐見蓮子は、消えてなくなってしまうかと思われた。
 しかし、それは誤りだった。
 次の瞬間。
 宇佐見蓮子は突如こちらに向かって疾走し、窓ガラスに頭を叩きつけた。
 ――私が宇佐見蓮子だ僕が宇佐見蓮子だ俺が宇佐見蓮子だ我が宇佐見蓮子だ私達が宇佐見蓮子だ僕達が宇佐見蓮子だ俺らが宇佐見蓮子だ我々が宇佐見蓮子だそうだ皆は宇佐見蓮子だ宇佐見蓮子は全てだ全てが宇佐見蓮子だ宇佐見蓮子こそがこの世界の真理であり根源であり根本であり叛逆であり冒涜であり狂
「な、何!? 」
 宇佐見蓮子はメトロノームの様に上半身を振るい、何度も頭突きを繰り返す。
 ――宇佐見蓮子になればいい。宇佐見蓮子になれば全てがが分かる。宇佐見蓮子になればいい。宇佐見蓮子になることは真理を手にすること。宇佐見蓮子になることはさきがけとなること。宇佐見蓮子になることは導きを与えること。宇佐見蓮子になることは全てに変革をもたらし、そして、全てを終わらせること。
「や、やめて」
 ――宇佐見蓮子が私に力を与えてくれた私は宇佐見蓮子の力を得ただから私は宇佐見蓮子に恩返しをしなければならない私が宇佐見蓮子になることで宇佐見蓮子を紡ぎ出し宇佐見蓮子を未来へ導きを宇佐見蓮子を咲かせるのだ私が宇佐見蓮子であり宇佐見蓮子とは私であり宇佐見蓮子が全てを達成しなければならない
「やめてよ! 」
 一段と厚かったガラスに、亀裂が入り始める。
 ――私は宇佐見蓮子だ宇佐見蓮子はここにいる宇佐見蓮子は全ての計画を目論み通りに進めている今に見ていろ宇佐見蓮子は闇を引き裂き輝くヒカリだ宇佐見蓮子はヒカリとなるのだ私は宇佐見蓮子だ宇佐見蓮子は私だ宇佐見蓮子がやがて全てを解き明かし宇佐見蓮子がやがて全てに変革をもたらす私は宇佐見蓮子だ
「やめてってば!」
 ――私は必ず宇佐見蓮子である。私は宇佐見蓮子以外ではありえない。世界は宇佐見蓮子とそうでないものに分かれ、私は宇佐見蓮子になければならない。なぜならば私は宇佐見蓮子だからだ。宇佐見蓮子が宇佐見蓮子であるために宇佐見蓮子は宇佐見蓮子を実行しなければならない。それが宇佐見蓮子の使命であ
「どうして、なんでそんな! 」
 亀裂が広がり、窓を覆い尽くしていく。亀裂の隙間に、血が滲んでいく。宇佐見蓮子の顔が分からなくなっていく。
 ――宇佐見蓮子の世界を廻せ。宇佐見蓮子は蘇る。宇佐見蓮子の世界を廻せ。宇佐見蓮子は現れる。宇佐見蓮子の世界を廻せ。宇佐見蓮子は永遠なり。宇佐見蓮子の世界は廻る。そこに宇佐見蓮子を残して。宇佐見蓮子の世界は廻る。宇佐見蓮子と共にあれ。宇佐見蓮子が世界を廻せ。世界は蓮子の瞳の中に。
「お願いだからやめて! 」
 ――私が宇佐見蓮子だ。私が宇佐見蓮子なんだ。そうてなくては……そうでなくては…っ! 私が宇佐見蓮子なんだ!! 私が、この私が宇佐見蓮子であるに決まっている!! でなければ私は何なのだ?宇佐見蓮子でない私とは何なのだ? この世は全て宇佐見蓮子だというのに、宇佐見蓮子がこの世の全てだというのに!
「そんな悲しいこと言わないでよ! 」
 ぴたり、と、宇佐見蓮子の動きが止まった。それが分かったのは、窓ガラスに加えられる衝撃が止まったからだ。もうその向こう側を見ることはできない。罅が前面に広がり、宇佐見蓮子の額から流れた血が滲み、もう、それは窓とは呼べなくなっていた。
 ――湿った夜の風に赤い肉の息が混ざりその白い表面を撫で回すそれは宇佐見蓮子であった小さな窪みから俗世の深淵へ触覚が走りその小さな隙間を撫で回す境界は今に暴かれんとする宇佐見蓮子である暗い井戸にぽたりぽたりと宇佐見蓮子が滴り痙攣する瞳の奥に輝く闇は宇佐見蓮子を撫で回す螺旋状の血走る肉塊
「……」
 ――この世の真理をその手にするは格子状の境界を梳いた宇佐見蓮子をざくりざくりと舐めまわしふらりふらりと刻み込む宇佐見蓮子で身体を走る全ての理をその手中に収め澄んだ空へと堕ちてゆく滴る宇佐見蓮子の底無し地獄ぴくりぴくりと静かに跳ねる腰に私と共に一つになれよ宇佐見蓮子はここにあり
「…………」
 私はもう、かける言葉を持たなかった。うっすらと見える宇佐見蓮子の影を、ただ見守ることしかできなかった。そうして私は、宇佐見蓮子の上半身が大きく仰け反るのを見た。

 ――宇佐見蓮子だけが私に最も美しい……

 そしてその影は、一直線にこちらへ振るわれた。
 ばりりばりがらしゃしゃしゃばっしゃん――
 一瞬にして窓は粉砕し、ガラス片が飛び散った。
 衝撃に怯え、私は尻もちをついた。
 反射的に顔を伏せ、腕で頭を覆った。
 自分の腕に、胸に、腹に、腰に、足に、ガラス片が浴びせられた。
 強化ガラスの粒状の破片が、シャツの隙間やスカートの中に入っていった。
 やがて破片の雨が収まる。床に散らばる音が収まる。辺りが静寂に包まれたところで、やっと私は顔を上げた。
 見れば、窓ガラスには何も起きていなかった。傷はついておらず、何もかもが元通りになっていた。
 おそるおそる立ち上がり、窓の中を確認する。
 そこにはやはり、宇佐見蓮子が、静かに眠っていた。
 何事もなかったかのように、それは、安らかに……
「もう……嫌だ」
 私は半ば逃げ出すように、その場を離れた。前に進む意志というよりも、三人の宇佐見蓮子から逃げるという意思で、私は先を急いだ。
「何なの……何なのよ……」
 私はただ、メリーを取り戻したかっただけなんだ。
 私はただ、メリーと秘封倶楽部を再開したかっただけなんだ。
 私はただ、メリーをもう一度抱きしめたかっただけなんだ。
 なのにどうして、こんな仕打ちを受けなきゃいけないんだろう。友人と再会したい。たったそれだけの、よくある願望だというのに。
 私は下を向いていた。通り過ぎていく蛍光灯の影だけを眺めていた。自分が進んでいるのではなく、周りの風景が自ずから流れているかのような錯覚を覚えた。
 メリーはどこなの。
 メリーはどこなのよ。
 メリーを返してよ。
 私のメリーを返して。
 私の愛おしいメリーを。
 彼女が私の存在意義だった。
 彼女が私のレゾンデェトルだった。
 彼女がいて、私が在った。
 彼女が存在し、私が存在した。
 メリーを失った私など、私ではない。
 私を失ったメリーなど、メリーではない。
 私たちはこれからも秘封倶楽部を続けるんだ。
 私はこれからも宇佐見蓮子であり続けるんだ。
 そして彼女はマエリベリー・ハーンであり続けるんだ。
 そうでなければ、私は。
 メリーを失ってしまった、私は。
 何者でもなくなってしまう。
 街を徘徊するだけの、ちっぽけな虚無になってしまう。
 私にはメリーが必要だ。
 メリーには私が必要だ。
 そして私は、彼女を守らなければならない。
 それが私の使命だ。
 だから宇佐見蓮子は、マエリベリー・ハーンを助け出さなければならない。
 それが宇佐見蓮子の使命だ。
 そうだ、私は……
「あ、れ……?」
 いつの間にか、蛍光灯が消えていることに気づく。
 十八番目の蛍光灯を通り過ぎてから、自分の影が無くなっていることに気づく。
 私は天井を見上げた。視界にある限り、蛍光灯は見当らなかった。蛍光灯が消されたんじゃない。そこにはもう、取り付けられていなかったんだ。
 私は来た道を振り返った。 最後に見た光は遠く、遥か後方に灯っていた。
 私は再び、足元を見た。 光はほとんど届いておらず、視界は失せかけていた。
 私は不安になって、前に向き直り、顔を上げた。
 黒に滲む視界。眼球を走り回る無意味な光。暗闇の奥から、何かが近づいてくる。
 足音だ。
 それはヒールを履いた女性のような足音だった。
 ぬばたまの中に、明度が蘇る。
 闇に塗りつぶされた空間に、色彩が姿を現した。
 そこには……
 ……紫色のドレスを着た、金髪の少女が立っていた。

「……メリー……? 」

 私の言葉を聞いて、少女は微笑んだ。
 メリーだ。あの少女はメリーだ。そうに決まっている。彼女がメリーでなくて何なんだ。
 私はメリーの手がかりを得て、メリーの映像に従い、メリーの病院を目指した。メリーを隠す境界を破り、メリーを探して病院を走り、メリーの病室を見つけ出した。メリーの部屋に落っこちて、メリーを求めて水に沈み、メリーを思い出そうと立ち上がった。そうしてメリーを思い出し、宇佐見蓮子を超え、宇佐見蓮子を超え、宇佐見蓮子を超え、ここに辿り着いたんだ。
 そこにいた少女がメリーでなくて何なんだ。そこに佇んでいた、紫のドレスのブロンドの少女が、メリーでなくて何なんだ。あの少女がメリーでないはずがない。あれはメリーだ。そうに決まっている。
 そうだ。彼女はメリーだ。私の大切な友人、親友、相棒、パートナー。生涯の宝物にして、秘封倶楽部のもう一人のメンバー。今ここに宇佐見蓮子が居て、マエリベリー・ハーンがいる。私がいて、あなたがいる。二人が揃った。二人は再び巡り合えた。これでこそ秘封倶楽部だ。私はやり遂げた。秘封倶楽部を達成した。欠けていたピースを見つけ出した。これで秘封倶楽部の歯車は再び回り出す。秘封倶楽部の目は再び秘密を暴き始める。こうして二人は歩み出せる。こうして二人は前に進める。
 メリーは、そのために必要な存在だった。私にとって、不可欠な存在だった。だからメリーはそこに立っていた。私を見つめて立っていた。私を見つめて微笑んでいた。彼女は待っていたんだ。彼女は私を信じて、ずっとずっと待っていたんだ。ゴールテープの向こう側で、じっと我慢して、じっと耐えて、私を待ってくれていた。私はそれが嬉しかった。メリーが抱いてくれた信頼に感謝した。メリーが抱いてくれた深い想いに歓喜した。私たちはお互いを信じて、再会を果たした。
 私は喜びに拳を握りしめた。私は安堵に頬を緩ませた。私はその喜びを表現しようとした。言いたいことが多すぎて、何を言えばいいか分からなかった。かける言葉を選べなかった。そうして迷っている私を見て、メリーは笑った。笑う口を隠す手も、その上品な仕草も、そのおしとやかな笑い声も、全てがメリーのものだった。優しいメリーは、言葉を詰まらせる私の代わりに、ふさわしい言葉を選んでくれていた。そうして少女は口を開き、私を迎える挨拶をした。

「いらっしゃい。66260-5」

「………………………………………えっ? 」

 私は自分の耳を疑った。
「現実性回収は完了したみたいね。吸い取られてる間、変な幻影を視ちゃったかしら? 」
「何を……言っているの? 」
「大丈夫、安心して。あなたの脳内の現実性は、もう1.0まで下がったわ。全部、そのリボンが回収してくれたから。あなたが今まで稼いだ分、しっかり結界の強化に使わせてもらうわよ」
 次に私は、自分の目を疑った。
「あなた……メリー……よね? 」
 少女は相変わらず微笑んだまま、淡々と言葉を返した。
「いいえ、違うわ」
 どうして。
「冗談、でしょう? 」
「私は本気よ」
 どうして。
「悪い冗談でしょう? そうだと言ってよ! メリー! 」
「私はメリーではないのよ」
 どうして。
 どうして、みんなして、そんなに悲しいことを言うんだ。
「はっ……じゃあ誰なのよ。あんたは誰なのよ! 」
「私は、もう自己紹介をしたはずよ」
「…………………はっ? 」
「見なかったかしら? 看板。」
 私は記憶を辿った。ついさっきの記憶のはずだ。しかしそれが大昔のように思えた。多くのことが起きすぎた。私の身には、様々なことが起きすぎていたんだ。
 私は宇佐見蓮子と話した。その前に宇佐見蓮子と話した。そのまた前に宇佐見蓮子と話した。更にその前に、私は……看板を見た。
 私は確かに看板を見た。
 私は確かに、白いバックライトに照らされた、滑稽な看板を見た。
 緑色に光る、滑稽な一文字を触って、とある一文字について考えていた。
 その一文字だ。
 そうして私が思い出すと同時に、少女は再び自己紹介をした。スカートをつまみ、片足のつま先を立て、丁寧にお辞儀をしながら、彼女は言った。

 ――縁[ゆかり]のサナトリウムへよおこそ――

「ゆ、かり……? 」
 何が、どうなっている。
 一体何が、起きている。
「あなたがメリーでないというなら……」
 私は叫んだ。
「メリーはどこなのよ! 私はメリーを探しているのよ! メリーを返してよ! 私が、あの子を守ってあげないと……!! そうでなきゃ、彼女は……っ」
 ぽすん。
 顔が、柔らかいものに埋もれた。
「安心しなさい、って言ったでしょう。メリーはちゃんと、宇佐見蓮子が護ってくれるから」
私は少女に抱きしめられていた。
「何を、言っているの? 」
「これで、あなたの役目はおしまい。安らかに眠るといいわ」
「はっ……?」
 私が口を挟むより先に、縁は私の帽子に手を添えた。片手でつばを掴み、もう一方の手で白いリボンを摘まむ。そうして彼女は、私の帽子からリボンを取り外した。
「なに、……を……して」
 どくん。
 頭の中から、何かが抜けていく。
 どくん。
 頭の中から、たいせつな何かが抜けていく。
 みちみち。
 頭の中が、何かへ書き換えられていく。
 みちみち。
 頭の中が、別の何かへ書き換えられていく。
 ぎゅるん。
 私の脳が、私ではない何かに変容していく。
 ぎゅるん。
 私の脳が、宇佐見蓮子ではない何かに変容していく。
 ふつっ。
 私から、宇佐見蓮子が乖離していく。
 ふつっ。
 宇佐見蓮子から、私が剥離していく。
 ふつっ。
 私という精神が、私という存在が、現象が、機能が、想いが、思いが、おもいが、分離し、溶脱し、分け隔てられ、エントロピーを無視して二分されていく、引き離され、引き裂かれ、引き千切られていく、溶けていく、溶けていく、溶けていく……

そうして次の瞬間、私の視界は真っ黒に塗りつぶされた。













*   *   *













 ぎにゅん。
 身体がものすごい勢いで移動した気がした。
 何が起きたのか分からない。
 けれど、真っ暗な視界が晴れたころには、私はどこかの道路に立っていた。
 ここはどこだろう。
 辺りを見回す。まず目に入ったのは、雪を被った立派な山脈。曙の、淡い光に照らされた、その山際に見覚えがある。
「八ヶ岳だ」
 そこから視線を下ろしていき、自分が今立つ道路に目を向ける。早朝に走る車は少なく、遠くの方まで見渡せた。見えてきたのは、角の丸い逆三角の標識。青い下地に、白く〝20〟と書かれている。
「……国道20号ね」
 そこでやっと、自分が国道のど真ん中、中央分離帯を跨いで立っていることに気づく。
 私ってば、何してるんだろう。
 慌てて脇に避ける。後ろから新聞配達のバイクが近づき、そして通り過ぎていった。それにしても……
 寒いなぁ。
 自分の服装を確認してみる。履物と下着以外に、着ていたのはワイシャツ、ケープ、スカートだけ。何でコートを着ていないんだろう。
 それに、服が若干湿っている。もう少し濡れていたなら、この場で凍えて動けなかったに違いない。
 そして一番大事なもの。私は本を持っていなかった。あれがないと、家にも入れないし電車にも乗れない。調べ物もできなければ通信もできない。でも……
「ま、いっか」
 八ヶ岳の形を見るに、ここは茅野のあたりだろう。このまま20号を北上すれば、朝ごはん時には諏訪に着くはずだ。
 そう、私の故郷、諏訪に。
 家の鍵なんか無くたっていい。実家の扉をノックすればいいだけだ。
 電車なんか乗らなくったっていい。自分の足で歩けばいいだけだ。
 それも、小さい頃から慣れ親しんだ道のり。
 何度も通った田舎道。
 目を瞑ったって歩ける道だ。
 と、言うか……
「いま電車動いてないじゃん」
 独り言を言って、少し笑う。
 そうして私は歩き出した。

 右手には八ヶ岳。白み始めた空を背景に、稜線がくっきりと映し出されている。最高峰の赤岳は、二千八百九十九メートル。昔、富士山と喧嘩したんだっけ。これだけ綺麗な朝だから、後ろを振り向けば富士山も見えるかもしれない。
 左手には守屋山。小さい頃、一度上ったことがある。その頃のお父さんは、まだ元気だったかな。今はもう、お家でゆっくりしていてほしいけど。
 空を見上げる。視界の上の方が狭い気がしたが、気のせいか。星は少なくなり、月も見えなくなっていた。藍から橙へのグラデーションが、東から西へと引き延ばされていく。
 私はしばらく、上を向いて歩いてみた。
 そんな歌を、子供の頃聞いたことがある。
 駄菓子屋のおばちゃんが、良く流していた曲だった。
「うえをむっいてー、あーるこーぉう」
 歌った自分の声を聞いて、少し、恥ずかしくなる。
 けれど、それと同じくらいに、気持ちよかった。
 それが、少し癖になる。
 私は、急に歌い出すミュージカルが嫌いだった。
 まだ、急に踊り出すインド映画の方が好きだった。
 でも。
 こうやって誰もいない道を歩いていると、案外、人間は歌い出すのかもしれない。
「なみだっがー、こぼれーないよーぉに」
 涙。
 私は今、泣いているのだろうか。
 だから、上を見上げたのだろうか。
 そういえば、いつもより夜空が歪んでいる気がする。
 私は今、泣いているのかもしれない。
 でもその理由が分からない。
 きっと、夜更かしをして眠いんだろう。
 そう思うことにした。
 だって、私には、何故泣いているのか思い出せないから。
「おもいーだすー、はーるのひー」
 私は思い出せない。でも、苦しくはなかった。悲しくは無かった。何を忘れたのか、私は忘れていたから。
「ひっとーりぼおちのよっるー」
 ひとりぼっちの私。ひとりぼっちの歌。
 ひとりぼっちの私を置いて、ひとりぼっちの夜が終わろうとしていた。

 ――朝がやってくる

 私の歩みは、ゆったりとしたものだった。私が一歩踏み出す度に、朝の気配が近づいてきた。鳥のさえずりが聞こえ始める。次第に家々に、電気が灯り始める。
 こんな朝から起きるなんて、私には無理だ。
 まぁ、夜更かしでならよくあるけどね。

 ぽた、ぽた、ぽた。
 髪から雫が垂れていく。
 ぽた、ぽた、ぽた。
 それがなかなか止まらない。
 朝は寒く、ともすれば雫は凍ってしまうだろう。
 なぜ、いつまで経っても、私の髪は乾かないのだろう。
 しかし、そんなことは考えても意味がなかった。
 私には、理由を思い出せないから。
 髪が濡れている理由を。

 今の私に重要なこと。それは故郷へ帰ること。それができれば、私は満足だ。私は幸せだ。せっかく信州にいるんだ。諏訪に帰らないで、何をするって言うんだ。
 私は諏訪に向かって歩いた。
 明けていく空の下、ゆっくりと歩いていった。
 この道は故郷へと続いている。
 この道が、私を故郷へと導いてくれる。

「かんとぃーろー!
 てぃくみほーむ!
 とぅーだーぷれぇー!
 あぃびろーん! 」

 さっきの歌で、私は吹っ切れていた。
 大声で歌うことに、躊躇いはなくなっていた。
 私は、空っぽになった頭で、心行くまで歌うことにした。

「うぇすばじーにゃー!
 まぅんてんまーまー!
 てぃくみほーむ!
 かんとぃーろー! 」

 もうすぐ諏訪が見えてくる。国道が国鉄と交差した、踏切の先。そこはもう、私の故郷だ。
 それが嬉しくて、私は歌った。
 それが幸せで、私は歌った。
 ――脳みそ空っぽ気持ちいい。

「おーまい めむりーず
 ぎゃでらうんどぅっはー!
 まいなーずれぃでぃー
 すとれんつーぶーうぉおったー! 」

 私の思い出、私の記憶。その全ては諏訪にある。
 私にはもう、諏訪しか残っていない。
 私の全てはそれだけだ。
 それだけで十分だ。
 私はもう、忘れたのだから。
 重要だったかもしれない何かを。
 今の私に、知る由は無い。
 重要だったかさえ、忘れたのだから。
 私には、諏訪が残されている。
 それでいいじゃないか。

「だぁけんだーすてぃー
 ぺぃんてっとぉんざーすかい!
 みすちていっざむーんしゃいん
 てぃあどぅおぷいんまいあーい! 」

 私の瞳に、涙が一粒、落ちてきた。
 それは、気のせいだった。それは涙じゃない。
 目頭は熱くても、きっと、それは夜更かししたせいだ。
 私は気づいた。私は帽子を被っていた。そこから雫が落ちていた。
 何だろう、この帽子。
 頭から外し、手に持ってみる。ひどく湿っていて、酷い有様だ。
 何故私は、こんなものを被っているんだろう。
 何故こんな、古臭い帽子を被っているんだろう。
 故郷にいた頃、こんなもの、被ってたっけ。
 私にはもう、分からない。
 私はもう、忘れたのだから。
 故郷しか残されていない私にとって、その帽子は意味を持たなかった。
 ――どこかに、捨ててしまおう。
 私は、故郷に帰るんだ。

「かんとぃーろー!
 てぃくみほーむ!
 とぅーだーぷれぇー!
 あぃびろーん! 」

 踏切が見えた。
 着いた。
 諏訪に着いたんだ。
 私は走り出した。

「うぇすばじーにゃー!
 まぅんてんまーまー! 」

 かん、かん、かん、かん。
 私は走った。

「てぃくみほーむ!
 かんとぃーろー! 」

 踏切の閉じる音。
 私は諏訪に向かって走った。

「てぃくみほーむ!
 かんとぃーろー!! 」

 遮断器は降りていた。
 私は、私の故郷に向かって走った。

「てぃくみほーむ!
 かんとぃーろー!!! 」

 この地が、この街が、この湖が……
 私に残された、最後の記憶だ。

「今年は御神渡り、見れるかな」







































 電車が過ぎ去った。



 踏切が開く。



 跳ね上がった遮断器。



 その先端に、黒い帽子が引っかかっていた。



 空高く掲げられた帽子。



 朝露を弾いたその帽子は、昇った朝陽の光を浴びて、きらきらと輝いていた。
自分語りの醜さは、そこに自分が居ないことに在る
そひか
kurenaiironosohika@gmail.com
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コメント



0.140簡易評価
1.70名前が無い程度の能力削除
不気味なお話だ。
不明なことは不明であり、この話は不気味なものであるのでしょう。
疲れるけど入りと終わりが好くて面白かったです。
2.100i0-0i削除
これもまた、秘封倶楽部らしくて、おもしろかったです。
3.90名前が無い程度の能力削除
こういうの好きです
4.80奇声を発する程度の能力削除
こういう雰囲気悪くないですね
5.100名前が無い程度の能力削除
泣いてしまいそうです
6.100Mankey削除
じつに独特な世界観で、それでも読み進められたのは、やはり秘封がそういうものだからなのでしょうか
たいへん面白かったです