Coolier - 新生・東方創想話

喪失者たちの記念碑

2018/02/01 02:48:03
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第二章 後  献身の次元




ごりごり、ごりごり……

 途方もなく広い空間であるはずなのに、なぜか狭っくるしく感じられる、岩壁の小箱……。

ごりごり、ごりごり……

 この岩肌に、粘膜のような弱点は存在するのだろうか?

ごりごり、ごりごり……

 これで二十ほど、ためしに掘ってみた。どうやら地底の“天井”は、均一な硬度ではないらしい。ここは丁度、壁面が近くにある位置だ。仮にこの場所を南だとすると、最も天井がやわらかいのは北であるらしい。逆に南は最も硬質で、東と西はその中間くらいだった。

ごりごり、ごりごり……

 人界への出口がとじられているならば、それ以外の位置から逃走するまでた。地獄とは一般に、地下の深いところにあると考えられている……。

ごりごり、ごりごり……

 確信はなかった。人界と地獄界に、空間的な結合があるのかどうか? 天界、人界、修羅界、畜生界、飢餓界、地獄界……魂を苦で押さえこむ、むっつの世界……。

ごりごり、ごりごり……

 天界は苦痛のささやかな、快楽の世界であると言われている。だが天人でさえもいつかは死に至る。そして快楽の代償に、人間の十六倍の死のくるしみが、やがて天人を捕らえるのだと。

ごりごり、ごりごり……

 けっきょく、産まれること自体がくるしみなのである。それゆえに釈尊は解脱を説き、輪廻からの脱出を勧めていたわけなのだ。

ごりごり、ごりごり……

 労苦にひたされた、六面体……そのいちばん下部に位置する“地”の牢“獄”……それが地獄の語源であると、聞いたことがある……。

ごりごり、ごり……

 駄目だ。やはり南は、掘りすすめるには頑固な壁だ……だがまずは、さまざまな場所を掘って、どこが脆いかを調べなければならないのだ。ぐっと、手のしびれを、我慢しなければ……。

「おうい、一輪!」
「小野塚……」
「××でいいよ。ハハハハ、掘ってる。本当に掘ってる。ハハハハ、ハハ」
「笑いたければ、勝手に……」

 いつの間にか、傍に寄っていた××の嘲笑をいなして、また天井を掘りすすめる。飛んでまで笑いにくるとは、まったくご苦労なことだった。

「こほん」 ふと××が、うそぶくように、わざとらしく咳をはらって 「むかしのことだ。ある妖怪が、いまのあんたのように穴を掘り、地獄から脱出しようとした。街のあたりにはまだ来てなかったね? 街の近くの天井に、長い々い穴があるのさ。そいつは、いつまでもいつまでも、諦めずに掘りつづけた。でもそのうち酷使しすぎて、手はけずれて再生しなくなり、ならばと足を使い、足が再生しなくなれば頭を使った。そしてついに頭もけずりきって、胴体だけになってしまいましたとさ」
「それで?」
「終り。気にしないで、ただのざれごとさ」

 不意に、爪の痛みが癪に障った。ぼろぼろになった爪が、いくつか剥がれそうになっていた。すぐには再生しない。さすがに疲れすぎていた。
 ××が、右目をすがめてにやついている。
 いったん手を止めた。

「どうも、一秒ごとにあんたのことが好きになるわ」
「嘘だねえ」
「何か用なの」
「おまえ、いつまで経っても街にこないじゃないか。それで、どうだい。誰かがくだんの妖怪みたく、穴を掘ってるってうわさが流れてるじゃないか。まさかとは思ったがね。
「本気で天井に穴を掘れば、人界に戻れると思うのか?」

「うん」
「本音じゃないね。ああ、よかった。そんなことを本気で思ってたら、もう気ちがいだったねえ」

 鬼は実直で、嘘がきらいである。そう信じられている。そしてなかには、嘘を嗅ぎつける力にすぐれた者もいるらしいのだ。
 そんな性質は、人界の鬼も地獄の鬼も同じようである。

「街を案内するよ。どうせ穴を掘ってたって、なんにもなりゃしないんだ」



 ××に連れられて、街へと降りた。地獄の鬼、妖怪たちがやかましい。
地霊殿と呼ばれる地獄の管理施設が、煙突から地下にある灼熱地獄の煙を噴きだしていた。
 ……べつに、何も本気で、天井の穴が人界につながるとは思っちゃいない。だが、とにかく脱出の努力をしていないと、気が済まないだけだった。
 けっきょく自分たち以外に命蓮寺の住にんはいないらしい。地底に封印されたのは、一輪と雲山と娘だけだったのである。
 雲山はさきに街へ行って、人界へ戻るための情報を集めているが、収穫はないようだった。娘は何もしようとせず、聖輦船で気が抜けたようにぼうっとしている。死にかけの一輪のために、あれだけ激情を露わにしていたのが嘘のように。そんな態度につい激昂してしまったことは、むろんあった。

「ほうっといて」

 しかし、非難と諦念まじりの目線で言われて、まごついてしまう。しかし負けた気がして我慢ならず、こちらもむかついてしまい 「勝手にしな!」 そう言いすて、自分は穴を掘ることにしたものである。
 まったく、何をはやばやと自棄になっているんだろう? あんがいすぐに脱出の方法が見つかるかもしれないじゃないか。さいわい、妖怪の時間に制限はない。そう、われわれの生命は、むげんに近い……。
 むろん、人界の採掘作業が滑稽であることなど、自分でもよく分かっている。だが、大切なのは滑稽でもよいので、とにかく行動しつづけることだ。みのむしみたく、じっとしていることが、何よりなさけないことだ。
 底なし沼にはまったときは、蜘蛛の巣に引っかかった蝶さながらに、喰らわれるの待っているべきらしい。そのほうが、沈む速度は遅くなるのだと。だがそんなことをして、はたしてなんになるのだろう? 死に至るまでの時間を、すこし延長できるだけのことじゃないか。そんな無意味な努力をするくらいなら、より早く沼に沈みこむとしても、這いあがれることを信じて、暴れるべきである。わずかでも脱出の可能性があるはずなのだから……それに穴を掘ることだって、無駄にはならないかもしれない。一心に行動してさえいれば、何かの力で……たとえば、ほら。念力とか……仏の救済とかで……すばらしい脱出の手段が浮かんでくるかもしれないじゃないか。

「ねえ、水が飲みたいの」

 街を案内されるさなかに、一輪が言った。もう長いあいだ水を飲んでいないので、喉の壁と々が引っつきそうなほどに乾いていた。渇きは飢餓よりも、ひどいくるしみのみなもとだ。固体だろうと液体だろうと、同じく胃に入れる物であるはずなのに、なぜこの苦痛はべつべつの領域にあるのだろう?

「向こうに井戸があるよ」
「井戸? 地の底に?」
「地の底だからこそさ」

 そんなものなのだろうか? 原住民が言うのだから、そんなものなのだろう。

「それにしてもね」 ××があらたまった調子で 「おまえ、封印された側でよかったじゃないか」
「どう言うこと?」 意味が飲みこめずに、聞いてみる。
「上から見りゃ分かるんだがね。街の端には粗末な小屋が多い。そこにはね、弱い妖怪が住んでるのさ。封印されたのでも、ここに産まれたのでもない。弱いあまりに、人界のどこにも居場所なく、みずから地獄に逃げこんできた馬鹿どもさ。
「ウフフフ。ここは、死者たちの国。生者のくせに、そんな場所にみずから住もうなどと、死者たちへの敬意が欠けていると思わないかい? そんなやつ、地獄にだって居場所はない。甘いんだよなあ、本当に……あんたは大丈夫。封印されたってことは、自分から来たってことじゃないし、何より強い証拠でもある。そう謂うやつは、鬼にも歓迎されるよ」

私たちには力しか残されていない

 とつぜんナズーリンの言葉が、過去からよみがえる。あれはじつに妖怪の本質を突いた箴言だった。いまでもそう思っている。
 妖怪にとって、大切なのは力である。一に力、二に力。三、四がなくて、五に力。なるほど、たしかに化生してから実感したものだった。そしてその数字にもともとは力ではなく、べつの観念が当てはめられていたことも実感した。
 畑を耕そう……子供を産もう……老人になれば迷惑にならぬよう、山へ行こう……妖怪に、びくびくと怯えて暮らしていこう……血から々へと受けつがれてきた、貧者の生活と輪廻転生……そのはんぷくから抜けだすために、ひとつの名誉でもあればと、雲山に挑みかかり、友になり、郷を抜けだすさかいになり、妖怪になり……だが、それが正しかったかは分からない。人間の生活がみじめであるとしても、郷と貧相な作物でつながれたあの粘着性の絆は、妖怪のあいだに存在していなかったのである。産まれながらの妖怪は、あの暖かさを知らないのだろう……。
そして一輪もまた、人間であったころはそれに無頓着だったのである。
 不意に、誰かに袖をつかまれ、立ちどまる。一輪を止めたのは、おそらく妖怪の乞食だった。おそらくでしかなかったが、貧者はそれなりに分かりやすい雰囲気をかもしだしているものである。
乞食は何かを望み、すがるような目で彼女を見た。これが××の言っていた“馬鹿ども”の一角なのだと用意に想像することができた。
なんにせよ、妖怪の乞食と謂う、人界にありえなかった者は、彼女にけっこうな衝撃を与えた。痩せていて、みじめなすがた。ある意味では、ひどく人間じみていた。
 同情はするが、かまってやる余裕はない。わたしはまだここに来たばかりなんだ……。

『いいの? そいつ、死にそうよ』

 乞食の手を振りはらおうとした矢さきに、動けなくなってしまう。
 おまえは何を根拠に、そんなことを言っているのだろう?

『分かるのよ、私も死にぞこないだから。それにほら、肌の見えるところに、たくさん打撲の痕がある。なんだろう? 喧嘩でもしたのかな。
『救ってやりなよ。聖さまが、ナズーリンが、おまえにそうしたように。そうしなければ、仏道をあゆんできた意味がなくなってしまうんじゃないの』

 おまえにしては、めずらしく一理くらいはある言いぶんだった。救いと言うのは、有象無象の区別なく、万にんに与えられなければ、魅力をなくしてしまうものである。だが、何を与えればよいのだろう? むろん金など持っていないし、それに金で妖怪を生かせるはずもない。
 一輪はとたんに気がついた。仏の教えを学んできたが、白蓮のように誰かを救ったこと自体はなかったことに。彼女に仏の道をあゆませてはもらったのに、考えてみると、他を救う方法を説かれたことはなかったのである。
 急に救済者の壇上に立たされて、一輪はまごついてしまう。乞食の頭を、掌の上で転がしている気分だった。救いを与えるのは、思っていたよりもむずかしい行為だったのだ。しかしあらためて考えると、それもとうぜんのことだった。見かえりを求めぬための、精神の研磨……貧者のとなりに立ってしまうほどの、自己犠牲……そんな途方もない道をあゆんで、ようやく他を救うことができるんだ……わたしのなかにはまだ、犠牲にしてやれる何かが残っているのだろうか?

「何してんだい!」

 立ちどまった一輪に気づかず、すこしさきへ進んでいた××が戻ってきた。そして、彼女の袖をつかんでいる乞食の手を引きはなし、ひとつにらみつけたあと、彼女の背中を押していった。

「待って、待ってよ……」
「何さ。まさか、あの乞食に何かを与えてやろうってのかい? やさしいことで」
「私、尼なのよ」
「尼?」
「服で分かるでしょう?」
「知らん。言葉の意味は知ってるがね。亡者はどいつもこいつも、裸で送られてくる……」

 ぐいぐいと、なりゆきまかせで歩いているうちに、乞食は遠のいてしまう。そして雑踏にまぎれて見えなくなると、なぜかほっとした。押しつけるような救済の願望も、口おしげに眉をひそめて、群衆に埋もれて消えていった。自分のことが、ひどくがめつく思われた。
死にかけの狢を見つけて……自分が見つけるまえに、死んでいてくれたらと、思ったことがあったっけ……そうすれば、見すてることで、心を痛める必要もないからだ。

「ふん、妖怪が尼だって? 笑える。まあ、べつにどうでもいいがね」
「何さ」
「皮肉じゃないか。仏を信じるおまえは、地獄に封印されたんだから……べつに閻魔に送られてきたわけでもないがね」
「ここにはやっぱり、閻魔さまがいるの?」
「閻魔は三途の川の向こうにいるのさ。そして被告を、どの世界に転生させるか決めるんだ。それにしてもなあ……尼だなんてね」

 話しているうちに、ようやく井戸へとたどりつく。××が、桶を降ろして水を汲みあげ 「ほら」 一輪に桶を手わたした。
 水は透明だった。想像していたよりも清潔だった。かつて見たこともないほどに澄んでいた 「臭い!」 なのに、つい桶を放してしまう。水から腐臭がしていたのだ。こぼした水が地面を濡らした。

「なんなの? この水……」
「ハハハハ、やっぱりだ。やっぱり、喪失者だったんだ! 仏なんぞにすがっていたわけだ。
「なんで腐臭がするのか、教えてやろうじゃないか。それはね、三途の川から引っぱっている水なのさ、死人の臭気がしみついているんだ。尤も、喪失者にしか分からんらしいがね」

 おしろいで塗りかくしていた正体を剥がされてしまい、一輪はたじろいでしまう。喪失者は大抵、どこに行ってもきらわれものである。彼女を受けいれてくれた白蓮のように、誰もが片輪を平等にあつかったりはしないものだ。
 じっさい、一輪にたいして、やはり××は忠告をする。

「気を配るんだな。何、あたいは喪失者だろうとなんだろうとかまわない。心の広さには自信があるんだ。でも、ほかのやつはそうじゃない。分かっているだろう?」
「あんたは気にしないの?」
「私は生者を平等に見てる。だから喪失者であろうとそうでなかろうと、同じことだ」

 桶を井戸に戻しながら、空想のなかでにがむしを噛みつぶした。

「まともな水はないの」
「ないねえ、残念だけど」
「ちくしょう……」
「そうだ、注意しなよ。三途の川の水は、何も“浮かばれない”水だ。酔っぱらいがよく井戸に落ちるけど、戻ってきたことがないよ」

 落ちないように、しっかりとへりをつかみながら、井戸を覗いた。すると、どうだろう。夏のみどりさながらに、ふだんよりもおまえが鮮明に映りこんでいた。いままでよりも、ずっと近くに。
 ……死にぞこないとは、うまいことを言った。たしかにこの水は、おまえのねぐらにふさわしいだろう。
 しかし、それでもけっきょく、手が届かないことに変わりはないのだった。

「聞いてるかい?」
「ええ、どうも親切に……」



 じゅうまんする、内臓の匂い……それに入りまじった、月の香り……泳ぎの不得意な野犬のように、足をばたつかせる亡者たち……しぼりだされた、人間の灰汁《アク》……。
 ××に紹介されて、血の池に投獄された亡者たちの監視を引きうけてから、しばらくが経った。その仕事のさなかに、おまえはどうも活発だった。我慢しかねるほどに。

『つまり、仏が信者を増やすのは、繁殖のようなものじゃない? ……信仰心ってやつが、仏の力を強めることは知っているでしょう。だから信者ってのは、仏の種でもあるわけよ。それを知らずに信者はあらたな信者を増やそうとする。これはどうして、なかなかの詐欺だとは思わない? そう謂うことは、事前に知らせておくべきよ。ひとさまに腰を振る手つだいをさせるんだからねえ。仏像の顔を思いだしてみなよ。見かえりを求めていないような表情をして、そのうらでは―――

 わたしが仏の教えを学ぶほどに、おまえも仏の教えに詳しくなる。だが、おまえが語る理法はいつもひねくれていて、いかにも皮肉だ。
 なぜ自分が学んだ理法をねじまげられて、さらにはおまえにひけらかされなけりゃならないのだろう?

「おうい、逃げたよう!」

 とつぜん××の声がひびきわたった。目がさめたように、周囲を見わたし、逃げだした亡者を発見すると、一輪は気が進まないながらも追いすがる。
 刺叉をにぎりしめ、突きだした。血の池を抜けだした亡者の胴体を捕らえて、地面に押したおす。
 亡者は両手を振りみだしながら、呪詛を吐いていた。

「いい腕だ」

 ××が駆けより、一輪を褒めた。

「どうも……」

 なんとも素直に喜びがたい賞賛だった。まさか獄吏の職務にたずさわるなどと、思ってもいなかった。

「しかし、刺叉とはね。槍を使えばいいじゃないか。もう死んでいるから、死にはしないのに。それに、槍のほうが便利なんだよ、こんなふうに!」

 ××が腕を振りかぶり、槍を投げた。血の池の反対側で、逃げだそうとしていた亡者に、槍が突きささる。

「ね……おい、おまえ! しっかり見とけってんだ!」

 ××が反対側の鬼にどなりつけた。鬼がぴくぴくとけいれんする亡者から槍を抜きとり、彼女に投げかえす。
 亡者はまた、血の池に戻されてしまう。こちらにまで聞こえるほど、呪いを噛んでいた。

「まったくなあ。やる気がないね、やる気が……で、どう。いまの見たかい? 便利だろう、慣れは必要だけど」
「どうも気が乗らない」

 紹介された分際で文句は言いがたいものの、気分のわるい仕事であることに変わりはない。罪の深い亡者であるとしても、みずから苦痛を与えるのは、やはり胸のむかつくことなのだ。

「ふん。良心だな、きわめて良心! そんなんじゃ続かないよ。無理に続けろとは言わないがね」
「正直なところ、腹が減らなけりゃ、こんな仕事はしないわ」
「難儀だねえ」 ××がひそめた声で 「喪失者ってのは。妖怪になったのに、腹が減るなんてさ」
「妖怪だって、何か食べるでしょう」
「たのしむためにね。腹が減るからじゃない。そんなことは分かってるだろう……おや」

 とつぜん、銅鑼が鳴りひびいた。鬼たちが手を止めて棍棒や槍をほうりだし、血の池から離れていった。

「交代の時間だ。ほら、行こう」

 刺叉で捕らえた亡者の腕をつかみ、池に投げこんだ。しばらく池の表面で、ばしゃばしゃと抵抗していたが、やがて底へと沈んで、もう音も聞こえない。そして液状の苦痛が、亡者たちをくるしめながらも、罪を洗いながすのだろう。何年、何十年、何百年と、時間を飛んで。



 仕事も終り街に出て、酒を買いにいった××を待つあいだ、もう何度か分からないが、いまいましい思いで天井を眺めてみたりする。
 何より危ぶまれるのは、時間の感覚だ。季節、太陽、月の循環。それをなくしたいま、思ったよりも早く、自分のなかにたずさえていた、円柱の影がにごりはじめた。地面に円柱を突きさしてみても、地底では影が動かない。光の標べを失い、流れはかんぺきなまでに麻痺している。光のはいる牢屋よりも、地下の座敷牢が恐れられるのは、そんな要因があるのだろう。
 時間のはんぷくが、いまさらのようにありがたく思われた。地獄では影が太陽と月の証明にならず、むしろ全体を隠しつつむ煙幕だったのだ。

「喉、渇いた……」

 ひびのはいった声でぼやいてみるものの、なんの解決にもなりはしない。命蓮寺に至るまでは、どんな汚水も飲んできたが、あの腐臭のする水は飲めなかった。どうしても、我慢ならないものがある。なんの臭いかと水に問えば、人間の腐臭だと水は返す。

「飲めばいいさ、水を」 いつの間にか、うしろで××が瓢箪をあおっていた。独りごとを聞かれてしまったらしい 「何をこだわっているんだか」
「ふん」

 生来の妖怪には分かるまい……飢餓に追いつめられた人間でさえ、最後の々々まで耐えぬいて、ようやく食人に走るのだ。むろん水は肉ではないが、人間の腐臭がするなら同じことである。どうせ飲んだところで、受けつけぬ胃を、蛙のようにうらがえすことになるばかりだろう。
 だが、そんな我慢にいつまで耐えていられるのだろう? もしこのまま水を絶っていると、本当に気が狂ってしまうかもしれないのだ。じっさい水は、奪いあいで国が争うくらいには価値のある物だ。もしかすると、人間の上に立っているのは妖怪ではなく、水なのではないかと思うほどである。
 不意にふたりの横を誰かが走りぬけ、同時に貧相な風が吹いた。あの乞食が、何やらあせって駆けているようだ。続いてひとりの妖怪が、また脇を通りすぎていった。
 乞食が妖怪につかまえられて、赤子の手をひねるくらいかんたんに、地面に叩きつけられた。そして直後に、ごつごつとした蹴りの連打。肉の太鼓を打ちならす、妖怪の足……それをはやしたてる、ほかの妖怪たち……哀願する、乞食の絶叫……。
 妖怪はしばらく蹴りつけて、満足したらしく、足を止めると、乞食から小さな袋を引ったくり、群衆に消えていった。乞食は目ざとく、その方向に腕を伸ばしたりしていたが、すぐに首をもたげ、こうべを垂れた下男のように力を抜いた。
 ふと、乞食が一輪を見つめた。彼女にたいして、邂逅したときのように、ひとみの奥で救助の鐘を鳴りひびかせている。しかしとなりにいる××を見ると、すぐに立ちあがり、弱った躰を揺すりながら、どこかに歩いていった。

「ふん、盗みだな」 ××は同情の欠けらもなく言いはなち 「助けなくてよかったろう?どうせ蠅ほどのこころざしもない馬鹿なんだ」

 なぜか一輪は乞食のうしろすがたを見て、感慨に捕らわれていた。それはおそらく、命蓮寺にたどりつく以前の己を、思いおこしたからである。ただ、彼女のほうは入道をあやつる強い妖怪だった。そんな暴力性を土台に、彼女はせめて腐った木の足場くらいの安定は得られたものである。しかしあの乞食には力さえなく、もはや逃げ道さえも失っている。

「まあ、乞食なんていいんだ、どうでも。時間の無駄だ」 ××がそう言って 「そんなことより、ひとつお願いがあるんだけど」
「何?」
「船をね、見せてくれないかな。ほら、なんだっけ?」
「聖輦船よ」
「うん、そんな名前だったねえ。で、どう。駄目?」
「駄目じゃあ、ないけど。急に何さ」
「ふん? いいじゃないか、理由なんて……まあ、思うところがあるのさ」

 めずらしく、××にしては歯ぎれがわるい。理由も語らず催促されるのは、すこし奇妙だったものの、拒否する理由もなかったので、一輪は聖輦船へ案内することにした。それに一応、くだんの矢に関しては命の恩じんなのだ。その程度のことなら、むろん叶えてもよかった。
 ふたりは聖輦船に向かっていった。歩くさなか、××はなぜか、落ちつかない様子で髪をさわって、ふけを散らしたりしていた。

「よかった、よかった。まえは見てる暇がなかったからねえ」
「船が好きなの?」
「好きってわけじゃない、ただ……」 そこで××は煙を噛むように、言いかけの言葉をにごしてしまう。
「何?」
「まあ、べつに隠すことでもないんだがね。私、死神になりたいんだ」
「死神?」
「魂を送る、三途の川の渡しだよ。そいつは船に乗ってるのさ。だから見たい、船ってやつを。
「ずっとまえだけど、三途の川に行ったことがある。ほかの仕事の見学ってやつさ。
「そこで見たんだ、死神を。うつくしかったねえ、みどりの髪をした、あのひと……むかしは地蔵だったって、言ってたっけ……立派なひとだったなあ。あのひとなら、いつか閻魔にだってなれる。そんなふうに思ったものだよ」
「へえ……」
「こんなこと、笑われるから隠してるんだけど。なんせ死神ってのは閻魔の使いっぱしりだ。それになりたいやつなんて、ふつうはいないものだからね」
「でも、あんたは鬼でしょう? 鬼はその死神ってやつになれるのかなあ?」
「なれるよ、転生すれば。もう何度も申請してるんだけどねえ……どこかに空席ができればなあ……」

 やがて聖輦船にたどりついた。船は以前のように倒れてはいなかった、右にふたつ、左にふたつ、岩を置いてそれを支えに、なんとか直立させていた。岩を動かすのは苦労だったが、さいわい一輪も雲山もむすめも力には自信があった。そして船は命蓮寺のように、三にんのねぐらになってくれるのだった。

「大きいなあ」
「死神の船ってのは、こんなに大きいの?」
「いや、ずっと小さいね。でも、どうだろう。大きい船もあるのかねえ?」

 ふたりは聖輦船に乗りこんで、船首のあたりから街を眺めた。

「いい眺めだ、船から見る景色は!」
「どうせ陸じゃないの」
「陸でも、船は々なのさ。ねえ、舟唄を知らないかい?」
「舟唄ねえ……」
「船にはやっぱり舟唄だろう?」

 ひとつだけ知っていた。しかしそれを歌うのははばかられた。むすめが口ずさむ、隠岐の舟唄だったからである。
 ふと、むすめのことを想っている。ここに来てからもうずいぶんと、彼女は命をすすっていない。いまなら彼女がはやばやと脱出を諦めてしまった理由も理解できた。
 乾いている、々いている。この国は、何もかもが死んでいる。死者は生者の傍でなければ、死んでもいられない。

「あーらーほーのーさんーのーさア。いーやーほーえんやア。ぎイ、ぎイ」

 一輪が、渇きで枯れた砂粒の声で、喉をふるわせた。

「いい唄だねえ」
「村紗がよく歌ってるわ」
「ムラサ?」
「おぼえてない? あの、幽霊のこと」
「ああ、あれね。でも、どうして陸にいるんだろう? あれはどう見たって、舟幽霊じゃないか」
「分かるの?」
「幽霊判定士の資格を持ってるんだ、とうぜんだよ」
「村紗、わたしたちの師に海から救われたの」
「舟幽霊を救う? ありえない。それは、本当に救いだったのかい?」
「何が?」
「死人なんてのは、死んだ場所でしか生きられないものだ」
「やっぱり、そうなのかな……」
「そうさ」

 じゅうぶんに堪能したのか、もうすこしだけ話しこんだあと、××は去っていった。それを見おくり、一輪は聖輦船にはいってゆく。
 聞いたところによると、聖輦船はかつて空を飛ぶ倉だったらしく、いまでも構造は過去に即して倉だったし、あつかいとしても倉だった。星は意外と宝に目がないところがあり、彼女は自分に吸いよせられる財宝を貯めこんでいたものである。しかし、それもいまではほとんどが失われている。人間たちは、船を封印するまえにそれを奪っていったようなのだ。じつは自分たちの封印など問題ではなく、こちらが目的だったのではないかと勘ぐるほど、きれいに宝は失われていた。そんなことを考えても、むろん証明の手だてはない。地底を脱出しないかぎりは。
 通路を進み、最も奥の倉へはいった。

「雲山?」

 薄ぐらいかどのほうで、むすめと雲山を見つけた。

「どう?」

 雲山は諦めきった表情で、顔を振ってみせた。ゆっくりと、わずかな振動でむすめがくずれないように、注意して歩いた。彼女のまえにしゃがみこみ、手に触れる。

「あーらーほーのーさんーのーさア。いーやーほーえんやア。ぎイ、ぎイ……」

 その唄がむすめに残っている、ゆいいつの標べであるかのように、喉を鳴らしている。
 触れたむすめの手が、ぐずぐずの寒天になり、霧になり、泡になり、大気に溶けていった。
 またすこし、むすめの存在が軽くなった。



 一輪が頼みごとを切りだしたのは、また血の池での業務が終ってからである。

「血が欲しいったってねえ……」 ××が箱のなかから、無理やり持ちあげられたような声で 「それは、ちょっと無理だね」
「どうして。血の池には、血が余るほどあるじゃないの。なんで駄目なの」

 あんな出がらしの血液でも、多少はすする命が残っているはずだ……どうして拒むのだろう? ……規則だろうか? ……そんな理由で拒否されては、立つ瀬がない……げんに、いそいでるんだ……いまに村紗が消えてしまったら、いったい誰を訴えればよいのかも分からない……。

「死者への冒涜になる」
「何……なんだって?」
「そんな反応かい? おまえ、さては地獄の鬼をひとでなしだと思ってるな」
「そんなこと……あるけど」
「正直で感心したから、怒らないでやろう。
「まあ、そう思ってしまうのは正しい。私たちは亡者を痛ぶるしね。だが、べつに何かを奪っているわけではないし、痛ぶるのは、それが亡者の罪を洗いながしてくれるからだ……そうさ! 言っておくが、おまえに血の池の仕事を勧めたのだって、ひとがたりなかったからだけじゃない。慈悲のあるやつだと思ったから勧めたんだよ」

「慈悲?」
「おまえは亡者を過度に痛ぶらないと思った、だから誘った。
「たしかにやつらは罪に塗れている。だからと言って、それにふさわしくない重すぎる罰を加えるのは法に触れることだ。われわれの、精神的な法に。閻魔さまは、いつも最適な罰を被告に与える。それ以上の罰を、独断で加えたりはしないものだ。
「いいか、一輪。亡者には、もう何も残されていないんだ。それなのに、おまえは……血の程度で、と言うかもしれない。しかし血だってもともとは亡者の所有物だ。おまえはからっぽの亡者たちから、まだ何かを奪うつもりなのか? そんなことは、痛ぶることよりもひどい罰だ、重すぎる罰だ、許されないことだ! 恥を知れ!」

 一輪は、とつぜんの怒気にひるんでしまう。いや、怒気よりも彼女をひるませたのは、××の理念だった。そんなふうには、考えたこともなかったのである。
 ひょうきんな態度のうらに隠されていた、死者をあつかう者としての一面だった。

「まあ、聞こうじゃないか。なんで血が欲しいのか。尤も、予想はできるがね。あの幽霊だろう? ふん。おまえの師は、やっぱりあれを救えてはいなかったのさ。舟幽霊は一種の地縛霊でもある。そう謂うやつは、死んだ土地からしか力を得られないものだ……消えかけなのかい?」
「村紗のやつ、人界ではけものなんかの命をすすって、なんとか死につづけていたの……でも、ここにけものはいない……荒野に住むのは、たしにもならない虫と、骨だけで動く犬ばかりよ。
「ねえ。どうなるの、村紗は」

「力を失い消えてしまうのは、成仏とも退治ともちがう」 ××は語りかけるように 「完全に消滅しきれず塵になり、永遠に大気をさまようのさ。そうなったら、もうひとつに掻きあつめることもできない。輪廻の輪にも戻れず、意識もなく、誰にも認識されずに、ただの埃と同じになる。それは修羅だよ、幽霊にとって、最も怖るべき修羅だ……哀れなことだ。なんとも、助けてやりたいがね。ふん……」

 一輪は我慢ならずに、歯を強く噛みあわせ、爪で掌の皮を突きぬけてしまうほど拳をにぎった。頭をうつむかせて、むすめにたいする同情を、吐息に混ぜてのがしたりする。喉はからからになって、もう水分をだせないと思っていたが、あんがい涙は出てくれた。視界がぼやけて、粉のようになった。

「あの幽霊が大切なんだな……」
「大切なんかじゃない」 袖で涙を拭きながら 「村紗は、最低なやつよ。わたしを犯してたの」
 
感情が鍋からあふれて、言わなくてもよいことを口にする。べつに気にもならなかった。

「そりゃあ、なんとも……大変だね、うん……」
「何? ……」
「それなのに、助けたいと思うかい?」
「分からない」
「そうかい……」

 ××は口に手を当て、何かを考えこんでいた。そしてつぎには 「よし、分かった! 分かったよ、血が必要なんだろう? それなら、与えようじゃないか」
「いいの?」
「ただし、一度だけだ。あとは自分でなんとかするんだね。そう何度も頼まれると、仕事に影響が出るからね」

 よかった……血の池の血が、手にはいるんだ……これで一時的にも、村紗は助かったのか……。
 そんなふうに安堵していると、××がとつぜん、一輪をひとけのない路地に引っぱった。すると、腰にさげていた瓢箪の栓を抜き、酒を飲みほした。そして、今度は急に、自分の手首に鋭い牙を突きたて、肉を引きさいた。とたんに流血が、濁流のようにあふれだす。

「痛い……」
「何するのさ!」

 肝をつぶした。××は顔をゆがめながらも、血を瓢箪に垂らしてゆく。

「血が欲しいんでしょう? でも、亡者の血は渡せない……だから、私の血で許してくれな」
「許すだなんて。なんであんたが、そこまでするのよ?」
「ここは死者の国で、私は死者たちのためにここで産まれた。地獄では、死者は痛めつけられる者だ。だが同時に、最も敬意が払われる者でもある。そして死者に貢献することこそ、私の誇りでもあるんだよ。
「だからこれは、あの幽霊のためじゃない。これはすべて私のため。私の生きかたのため。私が死者を想うため。血を流す理由は、それでじゅうぶん。
「おかしいと思われるかもしれないけど、私は死者に尽くすことだけがじん生なんだ。まあ、それしか知らないだけなんだけどなあ……」

 やがて瓢箪に、血が満たされた。それを一輪に渡すと、××は路地の壁にもたれかかり、ずるずると腰を落としてしまう。

「貧血だ。貧血なんて、なったことないよ……うう……」
「ちょっと、死なないでよ。馬鹿……こんなことで死なれたら、村紗を助けたって意味ないじゃない……」

 袖を裂いて××の手首に当てがおうとしたが、もう傷はふさがっていた。むろん鬼が失血などで死ぬはずはなかったが、それこそ心配とはまるでべつの問題である。

「ほら、行ってやりなよ」
「あんたは? 宿舎に送ろうか」
「いや、動きたくない……寝るよ! 寝たら治るさ、うん」
「……あの、あ―――
「礼は言うな。あたいのためだって、言ったんだからね」

 言いはなつと、××は地面に寝ころび、本当に目をとじてしまう。
 しばらく××を見ていたが、やがて一輪は動きだす。思わぬことになったものの、事態が好転したのはたしかなのだ。とにかく血は手にはいった。あとはむすめに飲ませるだけなのである。

「一輪」 路地を抜ける直前、まだ眠っていなかったらしく、××が話しかけて 「精神論だけど、地獄を抜けだすには、善行を積むのがいいと思う。やさしい者に、かならず道はひらいてくれる。
「あの幽霊を救いなさい。それがきっと、おまえにできる善行だよ……なんて、受けうりの文句なんだけど」

 そして今度こそ本当に、××は寝息を立てはじめた。



 古びた街の屋根も、いまいましい天井も、救いの手だてが見つかったお蔭で、気にはならなかった。一輪はしっかりとした足どりで、街を歩くことさえできていた。しかし、あとすこしで街を抜けだすところで、彼女は急に浮かれた気分から立ちなおってしまう。
いまはしのげるだろうが、それはけっきょく、その場をつなぐ延命に過ぎなかった。すぐにでも地底から脱出できるならば、はなしは変わってくるのだろうが、とうぜんのことながら、そう都合よくは解決しないのだ。
 一応、ひとつだけ解決の手段がある。今後は自分の血を飲ませてやることだ。むしろそれが最善でもあった。しかしそうするには、一輪は流血を怖れすぎていた。命蓮寺で生活と修行があってなお、彼女はまだ心の隅で、血に魂が宿ると信じていたのである。かんたんに理念を打ちくだければ苦労はしないのに、やはりいまだにおまえがいるし、同時にそれは人間の痕跡だったのだ。
そう、きっと血の理念は、おまえと結められている。そしてだからこそ、いまだに信じているのである。
 ふと、街の出口の岩場で、乞食を見つけた。どうもあの乞食と縁があるようだ。乞食は窃盗したおりに加えられた暴力が尾を引いているのか、弱りきっていた。しかし、まだなんとか生きているようだった。
 不意に、ある考えが頭をかすめた。
 そう……あれはつまり……地獄の底辺に位置しているわけだ……いなくなっても、誰も気にはしないんだ……あの乞食だけじゃない、価値のなさそうなやつは、ほかにも山のように、街の隅で暮らしている……村紗を死なせつづけてやるためには、どうしても血が必要なんだ……あんな乞食でも、多少はすする命があるはずだ……。
 ふところに手が伸び、折れた小刀を、取りだそうとした。白蓮が折ってくれた、あの小刀だ。
封印されたあとも、師を近くに感じさせてくれる、啓示物……いましめとして残すため、錆びないように、研ぐことも忘れていない……あんな貧相なやつをひねるには、折れた刃物で、じゅうぶんことたりる……。
 そこまで考え、急に一輪は聖輦船まで一直線に走りだす。乞食から逃げさるように。とつぜん育ったみずからの殺意に、なんとか気づくことができたのだ。絶対に振りむこうとはしなかった。振りむけば、もしかすると本当にそれが乞食の心臓の終りになると思ったのである。そして終らせるのは、何より自身の手だったのだ。
 あっと言う間に、聖輦船にたどりつく。すでにうしろを向いたところで、乞食は見えないだろう。いそいで船に乗って、倉にはいった。
 つねのようにむすめと、その目つけを一輪に頼まれた雲山がいた。

「雲山、血を持ってきた」 彼女は瓢箪を見せつけて 「言っておくけど、わるいことをしたんじゃないから……ね?」 べつに聞かれてもいないのに、むすめのために血を集めたことのうしろめたさからか、そんなふうに必要のない弁解をしてみたりする。

「雲山、街にでも行って休んできて。村紗の目つけも疲れたでしょう? わたしがひとりで飲ませるから。それにできれば、飲ませるところを見られたくないの……」

 そう言われて、雲山は微妙な表情をしたが、一輪の心境を汲んだのか、街へと飛んでいった。倉を出て、それを見おくり、絶対に戻ってこないと確信すると、また倉のなかにはいって、戸を閉めきった。
 むすめの傍で、街で買った鬼火の蝋燭が揺れていた。それが、ぼろぼろにくずれた娘のりんかくを浮きぼりにしつつ、壁に影をえがいていた。

「村紗、聞こえる? まともな血を貰ってきたの」

 しかし、むすめからはなんの返事もない。引きかえに、もげた右手がしゅうしゅうと、消滅の予言を示していた。
 とつぜん一輪は、むすめのまえにひざまずき、嗚咽を漏らした。
 嘔吐にも似た哀憐の情が、急にこみあげてきたのである。
 村紗には罪がある……殺人の罪……わたしへの強姦の罪だって、むろん償ってはいないんだ……だが、それでもこれは、あまりに非道な罰ではなかろうか? ……罪びとは多くの権利を剥奪されるが、絶対に罪を償う権利だけは剥奪されないと思っていた。
それなのに、いまに村紗を浄罪の権利さえ失おうとしている……成仏も、消滅もできずに、地獄の埃になってしまう……存在の耐えられない軽さにまで、おとしめられてしまうんだ……どうして仏は、海に飲まれる村紗を救ってやれなかったのだろう……それとも敢えて、救わなかっただけなのか……仏の繁殖と言ったおまえの理念も、あんがい正しかったのだろうか? ……信者でなければ、種にはならない。救ってやる義理もない……だが、それでも無条件に救ってやることこそ、われわれが仏に教えられたことだったはずだ! なのに、仏だけがそれを実践せずに偉ぶって、天からわれわれを見おろしている……これでは釈迦よりも、まだ孫悟空のほうが偉いじゃないか!

「あーらーほーのーさんーのーさア。いーやーほーえんやア。ぎイ、ぎイ」

 糸が切れ、こわれたからくり……粒子になったあとも、隠岐の舟唄を口にする……躰から何かが抜けだした。流血にたいする恐怖も、なぜかとたんに消えてしまう。ふところから、小刀を取りだし、布を剥いで眺めまわした。
 この金属の輝きこそ聖さまと、同じ次元の献身なのだろうか? ……。

「私の血を飲ませてあげる」

 ××に貰った瓢箪をほうりだし、小刀を手首に当てがい、つぐむように息を止めて、切りさいた。
 すると、人形になっていたむすめは動きだす。なかば昏睡に近い状態でさえ、命の匂いを嗅ぎつけたのだ。一輪へにじりより、切りはなされれば消えてしまう、幻のよだれを垂らしながら、彼女を組みふせた。
 むすめに血を飲ませようとしたからなのか、一輪が望むように、傷は癒えなかった。ひびのはいった地盤のように、ぱっくりと裂けて、かいがいしくも血を止めどなく流している。

「どう……」

 やさしく頭を撫でてやる。するとむすめは、こころよさそうに目を細める。一輪もそれに、微笑を返してやる。
 むすめが手首から、一輪の血をすすりはじめた。
 だんだんとむすめの皮フが、熱をはらみ、ひとみに火が宿り、手が再生し、脾臓が息を吹きかえす。飲めば々むだけ、彼女は人間じみてゆく。幽霊の躰が、すじっぽい匂いをまとっていた。

「一輪?」
「水蜜」

 ふたりは目を合わせた。正気が息づいたばかりで、現状が飲みこめないのか、目が泳いでいるので、あやすように背中をさすった。しかしそれも、いっときだけだった。

「駄目だ!」

 とつぜん、すさまじい力で、反対側の壁まではねっとばされた。



 頭を強く打ちつけ、もうろうとした思考を巡らせようとした。分かったのは、急に水蜜が自分を拒否したと謂うことだけだった。しかし怒気がふくれあがるには、それでじゅうぶん。とがった肋骨のようないきどおりが、ばりばりと殻をくだきはじめる。献身を否定されたことが、あまりに不服だったのだ。

「何をする!」
「そっちこそ、なんで飲ませたんだ!」

 なんでって……村紗のために決まってるじゃないか……あんたは消えようとしていたんだ……それをつなぎとめるために、わたしは魂を犠牲にしてやったんじゃないか……それの何が不満なのだろう?

「うう……うう、うう……」 水蜜が、蛇のように身もだえした。
「水蜜……」
「近づくな!」

 水蜜が立ちあがり、思いっきり一輪にぶつかった。その勢いのまま、彼女を倉の外にほうりだし、戸を閉めきった。むろん、彼女はいそいで戸をひらけようとしたが、向こうから押さえつけられているようで、まったく動きはしないのだ。

「水蜜!」 楽器のように、戸を打ちならしながら 「開けてよう、々けてよう……なんで? あんた、私の血を飲みたかったんじゃないの? 私が好きなんでしょう? だから私を追いつめるために、封印されてからほかの妖怪を襲ったりはしなかったんじゃないの? 私に血を流させるために!」
「私はただ、地底でのあんたの立場を、わるくすると思ったから! 私のせいで、あんたに危害があっちゃいけないから……」
「開けるんだ! 私を犯していたくせに、私がちょっと血を飲ませようとした程度で拒否するのか! 私の血は、けもの以下なのか!」
「お願い、もう已めて……謝るから。これまでのことは、謝りますから……」
「はあ……水蜜、さては遠慮してる? ……大丈夫、そんな必要はない……あんたは、私に救われなけりゃならないんだから……ねえ、赤いの好き? 飲ませてやるから、動かなくていいわ。無理やり飲ませるって意味よ」

 四歩ほどさがり、力を込めて、戸を蹴りつける。戸がはずれて、向こうで押さえていた水蜜は、かんたんに押しのけられて、戸の下じきになってしまう。彼女をそこから引っぱりだして、馬に跨がる要領で腹にのしかかる。さいわい取りおとした小刀が、近くに落ちていてくれた。鬼火にも似た劣情が、はちきれそうになっている……血管のなかで火は針になり、神経を撫でている…… 「動くんじゃない!」 彼女が暴れだすまえに、言葉でせきとめてやる。
 そら……村紗の怯えきった表情は、わたしの腹に矢が刺さったときとはまたちがう……罠に引っかかった兎のように、ひとをたのしませてくれる表情だ……。
 小刀を、自分に向けて上を見る。そして垂直になった喉を、緩慢に切りさいてゆく。あつい……魂が、これまでにないくらい……もとのかたちを、忘れてしまうほどに……あんたがわたしを痛ぶっていた理由も分かってくる……誰かをくるしませることはたのしく、したしければさらにたのしい。これは過酷な命題だ。だが同時に、妖怪的な、霊的な、そしてあまりに人間的な理法ではなかろうか……。
 小刀をゆっくりと置いて、とつぜん水蜜を起きあがらせ、頭をはがいじめにする。彼女の口が丁度、自分の喉に当てがわれるように。むろん彼女は暴れたが、そんなことは意に介さない。なぜか途方もなく、いまは力に満ち々ちている。それこそ献身の協力だったのである。
遠慮なく、血を飲んで……これは血の祭なんだ……気分をどうか、聞かせてほしい……わたしはいま、たしかにあんたのいけにえなんだ。甘んじて、やっているんだ……。
 永遠にでも、飲ませてやりたいものだった。しかし、もう溺れるほどに血を飲ませていると、なぜか不意に献身が冷めた。まるで、ならず者にかがり火を踏みけされてしまったようだった。
 手をゆるめて、水蜜の頭を開放してやる。消えぬ涙で頬を濡らし、ぐったりとしている彼女を尻目に、一輪はひとりで驚愕していた。彼女が生きているようにしか見えなかったのだ。人間の命をすすったときよりも、はるかに人間じみていたのである。
 とたんに好意が引きさがり、冷酷な情熱で胸が焼けはじめる。水蜜が遠のいたような気がしたのだ。同じ喪失者であるはずなのに、彼女がひとりで、勝手に人間へ戻ってしまったのだと錯覚したのだ。
 わたしは何をしているんだ! ……いまの村紗は、なんて醜いのだろう……とうぜんじゃないか……思えば自分は、死人としてのあんたに惹かれていたのではなかったか……いくら救うためだからって、血を飲ませすぎたんだ……。
幽霊の魅力が死んでいる! わたしが殺してしまったんだ!
 水蜜の変化に気がついて、一輪ははやばやと態度を変える。彼女の首を締めあげたのだ。
 おどろく水蜜の顔を見て、一輪はいまいましそうに、休むこともなく力を加えつづけている。
どうかこれからも、わたしのために死につづけていてください……たしか、窒息は名誉なのだと、村紗は言っていなかったっけ?



 一輪に平静が戻ったのは、娘をある程度まで、脱色してからのことである。彼女は打ちのめされているらしく、ぴくりともしなかった。
 はじかれたように、娘から飛びのくと、一輪はひどく怯えはじめる。みずからの所業が信じられなかったのだ。しかし信じるしかない。げんに治りかけの喉が痛んでいるし、どこもかしこもは血にまみれていた。そしてもう消えようとはしているものの、彼女の白く戻った首には、自分で締めあげた痕跡がある。
 気がつくと、駆けていた。聖輦船を飛びだし、一輪は盗人のように逃げつづけた。息を切らせて、やっとの思いで、街の口へとたどりつく。近くの岩に寄りかかり、とたんに躰をさいなむのは、串ざしにされるような悔恨の念である。
 あまりの狼狽で吐きそうになる。まだ記憶のなかでは、殺戮がしみになっている。娘を脱色するために、どれだけ締めあげたかも分からない。それに“どれだけ”としても、回数や継続の問題ではない。これはまったく、殺人なのだ。生きてはいないにせよ、意志の面ではとにかく殺人だ。たとえ短いあいだでも、それが正当化できるはずがなかったのである。
 とつぜん、頭を岩に打ちつける。浄罪を求めて、躰が自傷を望んだのだ。しかしなんの解決にもならなかった。己は外道なのだと感じ、よけいに良心の処刑場が近づいてしまう。
 ……馬鹿にしてる……あれのどこが献身だったのだろう? もし献身の欠けらでもあったなら、誰かに教えてほしいものだった。飢餓にくるしんでいるのを好奇として、それを解決してやろうと、きたない仕事を押しつける役人のようなものじゃないか。救いにうらに隠された、欺瞞の手さき……。
 さいわい、自己を嫌悪し心を痛めつけていると、それがかすかな贖罪になってくれたのか、しばらくすると冷静になれた。自己嫌悪には、どうやら正当化の背中を押してくれる効能があるらしい。地面に座りこみ、うなだれつつも、ゆっくりと興奮は冷めてくれた。
 ……これから、どう村紗と向きあえばよいのだろう……自分が強姦する側になってしまうなどと、考えたこともなかった……まさか立場が、こんなふうに逆転してしまうなんて……。
 岩場は薄い闇にひたされていた。一輪は知らず々らず、乞食を探して歩きはじめた。むろん救ってやるためだったが、それも贖罪でしかないことは分かっていた。水蜜の救済をまちがった方向に進めてしまったがゆえの、代償の救いだ。心を善行でなぐさめたいのだ。それでかまわない。なんにせよ、何もしないよりはましだった。
 そうだ。せっかく貰った瓢箪が、けっきょく使わずじまいだったっけ……気は進まないが、あとで取りにゆくしかない……××にはわるいが、あれを乞食に飲ませよう。鬼の血が、きっと弱った妖怪には、よい薬になるだろうから。
怒るだろうか? 怒るだろう……××はあれを、どんな想いで譲ったのだろう……死者への尊重……死者への供物……。
 さまよい歩くこともなく、乞食はすぐに見つかった。場所は移動していたが、精根が尽きはてたようによわよわしい。そこは依然として変わりがない。

「ねえ……」

 そう、まずは乞食に希望を持たせてやるべきだ。救ってやると約束するんだ。そうしなければ、誰かを救ってやらなければ、立ちなおれない。
杖が欲しい……救うことで、わたしを満足させてほしい……それがこちらの救いにもなるはずなのだ。

「ねえ!」

 なんの返事もしないので、乞食の肩を揺すってやる。
もしかすると、死んでいる? ……大丈夫だ、生きている。かすかに、息をしている……。
 そう思った直後だった。乞食が急に立ちあがり、ぷるぷると阿呆のようにけいれんしはじめる。すると今度は、とたんに絶叫だ。つい耳をふさいでしまう。しかし声は掌の膜を乗りこえてきた。
乞食は糸が切れたように倒れてしまう。
 急に汗が噴きだした。何が起きたのか、すぐに理解してしまったのだ。

『死んだ!』 おまえがとうとつに、勢いづいた。さも嬉しそうに 『ああ、なんてこと……いまのはたしかに、断末魔だった……もう、力が残っていなかったんだねえ。遅かった……救いをあとにしてしまったから……』
「嘘だ……おい、起きるんだ! 救えないじゃないの! 頼むから……救わせてよ……後生だから……」
『これは、ぐうぜんじゃない。ひつぜんよ』

 そんなはずがない! 間がわるかったのだ……そう、運がなかったんだ……じっさい、××に血を貰ったのだって、こうして乞食が死ぬ寸前だったはずなんだ……責めたてられる必要など、ありはしない……。

『そう? 初対面のときに、自分の血を飲ませられたんじゃない? おまえも力だけはそれなりなんだから』

 そんなことは、思いもしなかった!

『嘘は已めろ! 救う対象をえりごのみしていたんだ! なんて薄情な。聖さまは、ナズーリンは、片輪のおまえを救ってくれたのに、おまえは乞食さえ救えないんだ! なぜこうなったか分かる? なぜならおまえは私も郷も捨てさるような、勝手なやつだからにほかならない……それが! おまえの病よ。
『すべては決まった。おまえは救われるにあたいしない。おまえは聖さまを救うにあたいしない。おまえは聖さまの救いを浪費していた。おまえは地獄からは出られない。なぜならおまえは乞食を見すてることで、早くも地獄の住にんとしての精神を受けいれたからだ!』

 腰を曲げて、くずれおちて、泣きわめいた。自分を道ばたの石っころのように感じ、できれば誰かに踏みくだいてほしいと思った。
 罪が四方八方で壁を建てた。落とし穴を掘った。逃げ場をなくした。
 街のざわめきが聞こえていた。それが地獄の嘲笑だった。
 埋めてしまおう。この罪も、おまえのように。そうすれば、かたちはいずれ、忘れられる……。
 乞食をかついで街にはいり、群衆のあいだを通りぬけた。周囲は女をいぶかしむ。しかしけっきょくはただの他にんごとでしかなく、それも刹那の視線でしかない。彼女は空気のように、ゆるゆると井戸にたどりつく。
 乞食を井戸に投げおとした。なるほど、たしかに何も浮かばれない水だった。まるで引っぱられるように、死体は底に溶けてゆく。尤も、底があるのか、さだかではない。しかし、いつか消えゆく記憶の比喩として、たしかに底はあったのである。
 とうとつに、喉の渇きがひどくなった。
 水を汲みあげ、桶に顔を近づけた。なぜか以前より、腐臭がましになっていた。
 一輪は飲んだ。胃がつめたさで、娘のようにひえてゆく。

<誰もが隣人の変化を祝福できず、嫉妬の槍になりはてる。自分と同じ、運命の奴隷がとなりに立っていなければ、道に迷ってしまうのだ>




[彼岸理法書  発行/是非曲直庁]

項 ××××

妖怪による殺人は罪に問われない。しかし化生者の場合はそのかぎりではない

項 ××××××

化生者による喪失は殺人としてあつかわれる。しかし喪失を克服した場合はそのかぎりではない

項 ××××××××

被告を終身刑に処することは原則的に不可能である。しかし閻魔の推量により被告に終身刑が宣告され論議の結果それが妥当だと判断された場合はそのかぎりではない。



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