Coolier - 新生・東方創想話

シルバータイムワーカー

2017/11/04 23:30:02
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(この作品は、前作『スイートタイムワーカー』の続きの物語となっております。
 未読の方は是非読んで頂けると、より鮮やかにお話をご覧になれると思います故、ご了承ください)
 http://coolier.dip.jp/sosowa/ssw_l/216/1499582364



 カチャン!

 かわらけの砕けるような乾いた音が、秋空に一点、細々と響く。雲のない頭上に浮かぶ太陽は、有頂天から少しだけ身を沈め、数少ない洋館の窓にちょうどいい角度で日光を運んでくれていた。屋敷にとって一日の内最も明るい時間帯が今であるが、それでもなお薄暗い中に紅の混じった廊下の不気味さは、語るまでもない。

ここは悪魔の館、紅魔館。

 真反対の生活リズムで動く主が、棺桶で安らかに熟睡する日中。使用人の仕事も一段落付く頃合いであるが、何故か本日は、薄暗へ向けて漏れる光が一筋、普段ならいるはずのない部屋の利用者を支えていた。

 周りよりいっとう強い電灯が備え付けられたそこは、特定の時間だけ多くの妖精メイドが集い、慌ただしく動き回る場所。厨房。無論昼過ぎた頃合いなどは、小腹をすかせた彼女達が都合のよい暗さに紛れてつまみ食いに来ること以外、人気のない場所である。

――――はずであった。

「こ・・・・、これでいいのかしら・・・・・・」

 誰も居はしない。あろうことか『』がいるはずがない。
 そんな疑りを他の住人に抱かせながら。

 私と彼女は二人して、ボウルに浮かぶ『きみ』に向き合っていた。

「ええお上手です。その調子ですよ、フラン様」
「よ、良かった。・・・・力加減が分からないから、壊してしまわないか心配だったわ」

 パチパチと小さい拍手を聞いて一安心。同時にドアから顔を覗かせるメイド妖精の何匹かも、先の音はよもやカップでも壊してしまったのか、との懸念が安堵に代わり、胸を撫で下ろしながら仕事に戻って行く。普段こんな場所には決して姿を現さないであろう私を好奇の目で見るのも無理はないが、なおさら緊張してしまうので、視線が去ってくれて人知れずほっとした。

「その手付きを忘れずに。料理をするときは、優しく力強くが大事ですからね」
「うん。思ったよりずっと難しい・・・・・・」

既に卵黄と白身の混じった空に浮かぶ一つの太陽を眺めながら、もう一度、卵に入ったヒビへ両指を入れる感触を思い出す。単純に壊すようでそうでない。むしろ受け止めると言った動作に近いこれは、私にとって甚だしく難しいのだった。
最初にぐちゃりと潰してしまった二個分の下地。殻をすべて取り除いてもらったので何ら変わりはないにしろ、成功した三個目と比べると、やはり申し訳なく感じてしまう。

「―――では、私も」

厨房に立つと少しだけ真剣な眼差しになる彼女。十六夜咲夜は、そんなことを気にする風でもなく、私に続き卵を片手で二つ掴むと、何とそのまま机の角に打ち付け、流れるように手首を振りかざす。真っ白な殻から顔を出す中身は必然的に、もう片方の手が構えるボウルの中へ、落陽の如く吸い込まれた。

「す、すごい・・・・」
「要は繰り返しです。慣れればこんなこともできるようになりますよ」
「私にも?」
「ええ。コツさえ掴めば、見た目ほど難しくはありません」

 豪快、それでいて繊細な手際に目を輝かせていると、咲夜は心持自慢気な表情を織り交ぜながら言った。決してえばるようではないが、その口調にはどこか誇らしく、言葉を裏付けるように積まれた経験が見て取れる。

 断言しよう。十六夜咲夜は美しい。
 たとえ料理中の一挙手一投足だとしても、それは例外ではない。
 少なくとも憧れを私の目には、確かにそう映った。

「それでは次に移りましょうか」
「よろしくお願いします!」




 意気揚々と返事を重ねる私こと、フランドール・スカーレットが今、一体何をしているのかといえば。


「お次はこちらでバターを湯煎します」
「ゆせん、ってなに?」
「湯煎というのはこうして容器の外からお湯に当てて、ゆっくりと溶かす方法ですよ。直接火に当てないので時間はかかりますが、その分焦げ付く心配がないんです。他にもチョコレートなんかに使いますね」
「へぇ、そんなやり方があるのか」
「まぁお湯と言っても熱湯ですから、火傷しないよう気を付けてくださいまし」

 咲夜に倣い、沸騰しかけた鍋に別の器をつけ、ゴムベラで温まった壁面へとバターを押し付けるように伸ばしていく。お気付きの通り只今私は、彼女の横でマフィンの作り方を習っている真っ最中なのだ。

「平気よ。私は吸血鬼なんだから、これくらいの温度じゃ火傷なんてしないわ」
「それでもです。たかが料理とは言え、気を抜いてはいけませんよ」

 ピッ、と人差し指を立てて諭される。やはり仕事柄なのか、普段は温和な咲夜も、こと料理の話になると口ぶりに抜かりがない。さしずめここ厨房は、メイド長である彼女の独壇場という事なのだろう。
 気を引き締め直しつつ手を動かしていると、固形だったバターは直ぐにぐにゃりと形を変え、輪郭を失った。咲夜を追ってせわしなく次の行動に移る。

 短針は早くも二時を回り、その頭が真横を向く前に早く早く、と私を急かすのだ。

「ここで火を止め、ボウルを濡れタオルの上に移動させます」
「移動させます」
「測っておいた砂糖を入れ、少し混ぜましょう」
「・・・・・・混ぜました」
「はい。そうしたら先程割った卵も入れて、今度はしっかり馴染ませてください」
「よいしょ・・・・っと。これでいい?」
「バッチリですわ。ここから少し難しくなりますので、しっかり見ていてくださいね」

「まずはこちら、小麦粉とベーキングパウダーを混ぜた粉をこれぐらい入れて、泡立て器で混ぜます。続いて牛乳を入れ、また混ぜます。この工程を三回ほどに分けて行えば、生地は完成ですよ」
「? ・・・・・・そんなに難しそうに見えないけど?」
「そう思いますか、実はこれがやってみると難しいんですよ。腕の力もいりますし・・・・」
「ふふん、力仕事なら任せて頂戴!」

 あの咲夜が難しいと箔押すくらいだから一体どんな技術を要求されるのかと思えば、まさかただ混ぜるだけの単純作業とは。意外も意外だが、これなら私に幾分利がありそうなものである。腕こそ咲夜より細いものの、妖怪の身にはそんな事を些細と一蹴するに余りある運動神経が宿っているのだ。いくら十八番とは言え、シンプルなパフォーマンスを競って人間に負けるようなことはありえない。
兎角。無駄に桁違いなこの腕力を初めて活かせるとあって、俄然やる気が出てきた。

「まずは、っと。粉を混ぜて、それから牛乳を入れて―――混ぜる!」

 素材を零さないようにだけ気を付け、咲夜に続いてサッと投入。子どもがペンを持つような持ち方で泡立て器を握ると、吹き飛ばさない程度の力で。精一杯、

「そうれっ!」

 かき回す!


「―――ああ。それでは駄目です、フラン様」
「ふえっ?」

 多めの生地が伝える重みと、粘り気ある手応えを楽しみながら。それでも楽々腕を振り抜いていると、不意に咲夜が言い放つ。呆気にとられた私は力が抜けて、思わず変な声が漏れてしまった。

「ど、どこが駄目なの?」
「ただ力任せに混ぜればいい、というものではありません。これは全体に空気を含ませるのが目的ですから、こうやって生地を持ち上げながら回すんです」

 そういって咲夜は自分のボウルを持つと、小脇へ抱え込むように構えた。少し斜めらしているので生地が一方に寄り、そこへ立てる泡立て器は、どろどろになった中身をまるで液体みたく波打たせている。
 よく聞けば耳でも違った。私が混ぜている時のぐちゃぐちゃといった風ではなく、彼女の器からはもっと鋭い、チャカチャカと鉄器の擦れるような音が短い感覚で響く。料理というものに疎い私でも、効率の差は明らかに理解できた。

「動きは最小限に。肩ではなく、手首で返すような感覚ですわ」
「こ、こう・・・・かしら」
「もっと素早く。それでは日暮れまでかかってしまいますよ」

 咲夜の持ち方に習って左腕と半身でボウルを挟みながら混ぜてみるも、なかなか上手くいかない。多分体に対して大きめのサイズを使っているからだろうが、そちらの安定ばかりに気を配っていると、今度は右手がおろそかになってしまう。

 手首で返す。

これがまた複雑である。肩から手先へと焦点を代えた途端、先まで悠々と振り回していた が何倍にも重く感じ、動きがギクシャクして仕方ない。言葉と頭で分かっていても、体が付いてこないのだ。

「いやっ。これ・・・・、すっごく難しい・・・・・・」

 これだけ近い距離でやっているのに、意識が右往左往。気を抜けば中身を中空へ放り出してしまいそうだ。咲夜の言っていた『一番難しい工程』とは、彼女のように動作が身に染み付いた者ならいざ知らず、私みたいな初心者にとって、これほど難儀に感じるものはないだろう。
 やってみて始めてわかる、難しさ。
 たった一つのマフィンを作るに置いても、そのどれもが該当する結論。だが、私はその尊さを改めて実感した。咲夜の作るお菓子なら普段何気なく食べるだけでも感動するが、やはりこうした経験は、未開のまま眠らせておくにはもったいない。

「頑張ってください、フラン様」
「う、うん・・・・・・!」

 ウィスクを握り直し、後れを取るまいと必死に食らいつく。
私は咲夜の意図を一心に感じていた。そう、彼女だって先程から厳しい声をかけることはあれど、決して私から器具を取り上げ、その肩代わりをすることはないのである。あくまで完全な『フランドールの作ったマフィン』を目指していて、どんなに些細な事だろうと『邪魔者』の介入を許さず、たとえ難しい工程でも省略や妥協は決してしない。
多分それは彼女なりの教育法であり、美学であり、優しさなのだ。

 だから私は、それに答えたいと思う。

 不思議な感覚だった。歳の差数百年余りの人妖が、こうして並んでキッチンに向かい合い、お菓子作りという同じ目的をもって、慎ましく師弟の関係を築く。傍から見れば滑稽なこの距離が、なんだか妙に心地よい。

 そうして暫く、チャカチャカと共鳴する二つの摩擦音に、耳を傾けた後。

「―――よし、これくらいでいいでしょう」

 咲夜の言葉をもって、生地作りは終わりを告げた。

「ふぅーーー。結構疲れちゃった・・・・」
「お疲れ様でした。ええ、なかなか良く仕上がってらっしゃいますよ」

私のボウルを確認したメイド長が、指先をまるっと丸めてサインする。どうやら及第点は頂けたようで安心した。
 材料を全部吸い取った生地はさっくりと混ざり合い、辺りに仄かな甘い香りを漂わす。咲夜の物と比べると少しツノの立ち方が弱かったり、と劣る部分はあるにしても、初めてにしては良く出来た方だろう。

「さ、ここからは簡単ですから。さくっと仕上げちゃいましょう!」
「うん!」

 ここから先どうするかは、私でさえ言わずとも分かった。
 戸棚から取り出した型紙をずらりと並べ、一つずつ丁寧に生地を流し込んでゆく。半分ほど入れたところで、咲夜特製のブルーベリージャムを二匙挟み、再度注いで蓋をした。
最後に飾り付けのベリーを一粒乗せれば、ほぼ完成形の出来上がりである。

二人分の生地は丁度二十二個目を満たすと同時に尽きたが、ギザギザの縁をした型はまるで花弁のようで、さながらカウンター一面に黄金色の花畑を広げていた。

「いっぱいできたね」
「ええ、これならあの子たちの分も足りますわ」
「あの子たち、ってメイドのみんな? 食べてくれるかなぁ・・・・・・」
「どうしてです?」
「いや。だって咲夜のと比べると、私のはそんなにうまく出来てないし・・・・・・」
「何を仰います。これだけの力作、使用人のおやつごときに出すには勿体ない代物ですわ。それにあの子たちは甘いものに目がありませんもの、皆喜んで食べますよ」
「うん・・・・、だといいんだけど」

 伏し目がちに答える。こうして並び比べてみると、同じ材料をただ混ぜただけなのにここまで差が出るものか、と改めて料理の奥深さを知った。ともすれば咲夜が以前行っていた『塩の一つまみで質が変わる』とは、あながち間違いでもないのかもしれない。

「そうだ! 折角ですからこのマフィン、お嬢様にも食べていただきましょう!」
「――――え。お、お姉様に⁉ それはちょっと・・・・・・」
「フラン様の初めてと知れば、きっとお喜び頂けますわ」
「でも。こう、恥ずかしいというか。・・・・・・出来ればもっと上手くなってからがいいのだけれど」
「・・・・・・むぅ、そうですか? でしたら・・・・・・」


「・・・・・・余ったら?」
「・・・・・・そうしますか」

 使用人の余り物をまわされる主とは、これいかに。


「あら。そうこうしている間に、オーブンが温まったようですわ」
 思わず二人で失笑を零していると、コンロの下に備え付けられた大きな扉が話を見計らったようなタイミングで、キッチン一帯に例の乾いた音を響かせた。
 私はメイド妖精用の足場 (実は届かないから乗っていた!) から飛び降り、小さな机ほどもあるトレイを抱える咲夜に先行して、その戸を引き開ける。むわっと厚い空気を吐き出すオーブンの中へと大輪の植わった花壇を入れ込んで閉めれば、工程は全て完了だ。

「あとはこのまま二十五分ほど焼けば完成ですが、いかが致します? お部屋で紅茶でも飲まれながら待たれますか?」
「んーーー。いや、私はここで待ってるわ。ちゃんと膨らむか見ていたいし」
「・・・・・・そうですか。でしたら、私は他の仕事の進行度を見てまいりますので、焼き上がりが近くなりましたらまた戻って参ります。それまで、この場をお願いしますね」
「うん、ありがと咲夜。忙しいのに無理言っちゃったみたい」
「いえいえ。フラン様の御頼みとあらば、何時でもご教授差し上げますわ」


「きっと美味しく出来上がりましょう。では・・・・・・」
 そう言って咲夜はキッチンのドアを開けると、足音も立てずに消え去った。




「・・・・・・ふぅ」
 乾燥した生地のこべり付いた手をシンクでサッと流し、エプロンで拭いながら小さく息を吐いた。一人の空間。わたしはそそくさと小さな椅子を運んでは、オーブンの正面に設置し、深く腰掛ける。小窓からは綺麗に整列した二十二個のマフィンと、それらを照らすオレンジ色の光が灯って見えた。

 その時。ぼんやりと淡色を眺めながら、私はある事に気が付いた。

「・・・・・・そうか。だってこれ、料理だものね」

 思い出していたのは咲夜が言っていた、『皆喜んで食べますわ』という言葉。
 では問おう。私はこのお菓子を作っている時、果たしてその『食べる誰か』を意識していただろうか。誰かが口に運ぶ瞬間を、誰かが噛み締める味を、誰かが食後に見せる笑顔を、想像できていたのだろうか。
そう聞かれれば、恐らく首を捻ってしまう。あの時の私はむつかしい作業をこなすのに一杯一杯で、必死にかき回しているものが食べ物であり、工程とは即ちそれを美味しく頂くための努力なのだ、という事を失念していたに違いない。
 そう。いくら簡単だろうが難解だろうが、料理は決して料理の域を出ないのだ。作り手がいるのと同じように、それを食べる人は必ず存在する。どれだけ高価で手の込んだ逸品だとしても、食者を失ったディッシュなど何の意味も成さないのだ。

 だとすれば。料理に一番必要なのは、技術でも器用さでもなく。
 誰かの『美味しい』を目指す、その心だけなのかもしれない。

「―――そりゃ咲夜が上手いわけだわ」

 段違いのキャリアに加えて、私が唯一同レベルで戦えそうな部分ですらこの有様。ひいては彼女なぞ奉仕精神の塊のような存在だ。一見面倒に思えてしまう手順も嬉々として行っていたのは、私とその点において違いがあったからだろう。別に競っていたわけではないのに打ち負かされた気分になってしまうほど、清々しい瀟洒っぷりであった。
 完璧な従者の肩書は伊達ではない、という事か。
 今の私では到底及ばない。が、目標は遠からず近からず、いつも傍に居てくれる。
 ならば盗めるものをありったけ盗み、一刻も早く追いついてやろう。幸い吸血鬼の私に時間はいくらでもあるのだ。その事に感謝するなどそうそうないが、折角のアドバンテージ。この際活かせるものは何でも使っていくべきである。

少なくとも咲夜の助け無く、大抵のお菓子は作れるくらいになりたい。そうしていつか本当の意味で彼女の横に立って、一緒にお菓子作りをするんだ。

 そのためにも次回、いや今から私に実践できるのはやはり、食べる誰かを想う事。
 自分や咲夜でも構わないのだが、それでは少し味気ない。先には恥ずかしいなどと言ったくせに、こうなると感想を聞きたい気持ちが勝ってしまうのは、作り手の性なのだ。

 誰がいいだろう。ううん、考えるまでもない。
 一番に浮かぶのは――――


「お姉様、かぁ・・・・・・」


 やっぱり、あの顔。
 自分で言っておきながら、なんだか変な気持ちだ。一番食べて欲しい人のようで、一番食べて欲しくない人のようでもある。そんなごった返しになった複雑な感情が湧いて、私は少し目を伏した。
 姉。姉。唯一の血縁でありながら、この館において最も真意の計り知れない、私の姉。
 偉大なる紅魔館の主は、妹の作った菓子を前にした時、一体どんな反応をするだろう。『こんなもの』と口すら付けてくれないだろうか。
『不細工ね』と軽くあしらうだろうか。
それとも『案外美味しいじゃない』と笑ってくれるのだろうか。
「・・・・・・」
 そのどれもが有り得そう。というより、そのどれにも絞れなかった。
 こうと断定するに充分な情報が、集められないのだ。

 もやもやと昇っては消える影を追いかけて。
 私は『あれから』の記憶に踏み込む。





私が自室の扉を自らくぐり、長きにわたる幽閉を破ってから、既に二週間が経過する。
 あの日。暗闇に手が差し伸べられた日を境に、私の生活は一変した。
 ・・・・・・それも、恐ろしいほどあっけなく。
 
 咲夜の口利きか否か。手を引かれるまま表の館に訪れた危険因子―――私の出現に対しても、住人達の反応は酷く淡白で。まるで気に留めるでもなしに、

魔女は「意外と遅かったわね」と本を閉じてクスリと笑い。

 門番は「お帰りなさい、妹様!」と私を抱きしめて振り回し。

 司書や多くの使用人も、多少怯える様子でありながら決して拒むことをしなかった。


 ―――正直、拍子抜け。
 本音を言えば、私は自分をもっと恐れられる存在だと思っていた。
冷たい目で見られ、訝しまれ、煙たがられ、蔑まれるべきものだ、と思い込んでいた。何故なら私は、この手の中にある力を知っていたから。この手で壊してしまった物の数を、一番よく知っていたから。そう信じて疑わなかったのだ。
持ち主すら脅かす破壊の能力。不安定の具現とも言える悪魔を恐怖するなと言う方が、到底無理な話である。だからたとえ咲夜が隣にいても、私はそう遠くない未来、再びあの部屋へ戻ることになってしまう。という不安を拭い切れずにいた。

それがどうだ。
顔を合わせば、ある者は涼しく、ある者は温かく私を受け入れる。言動に各自の違いはあれど、誰も誰もが同じく『危険な力』よりも先に、一人の『私』を見てくれていた。

 私は。フランドールはもしかすると、ここにいていいのかもしれない。
 長い、本当に長い間。あらゆる視線を拒んできた私は、
 口に出せなかっただけで、きっとその言葉を誰かにかけて欲しかったのだ。

「ここが、貴方の居場所よ」

と、たったそれだけの事を。心の中で何度も欲していた。


「ごめんなさい」


・・・・・・ああ。それは久方ぶりに聞いた、姉の声だっただろうか。

 正直そこからのことはあまりよく覚えていない。断片的に思い出せるのは、咲夜に連れられて館中を回った後、最後に訪れた二階にある私の新しい部屋。小さなバルコニー。初めて外の見えるその場所へ駆け寄った時に、フラン、と名前を呼ばれたこと。

 振り返れば。

私が閉じ込められる前に見た、最後の顔。愛しく信じてやまない、姉の顔。
 どうしていいか分からず。呆然と立ち尽くす体に、段々と早まる足音。
 僅かにうわずった短い言葉。ほんの少しだけ大きな肩がまわす、細く頼もしい腕。

 ――――声。私の声。泣声。声にならない声。歪む視界。そして、温もり。

繰り返されるに、私はかろうじて答えようとする。


「ううん、違う。私はちっとも、お姉さまを恨んでなんかいないわ」


 およそ泣声に埋もれて届かなかったであろう私の心の内は、振るえながら触れ合う肌を通じて姉に伝わっていたと思う。それはあの抱擁と、肩に落ちる熱い雫が物語っていた。

 それから、泣いて鳴いて泣き疲れて。くたくたになった私は、ようやく悪夢から本物の夢へと落ちていったらしい。
 寝ても覚めても消えはしない。そんな、夢のような夢へと。




「――――あっ」
 呆ける私をキッチンへ引き戻したのは、永続的に響くオーブンのつまみの進行音と、その中で起こるマフィンの変化だった。空気を混ぜ込んだ生地は中心の一つが膨らみだすと、波紋のように広がって行く、開花。こうばしい香り。良く見るあの形が間近で出来上がってゆく様は、私の胸を掴んで小窓へと張り付かせる。

「ふわぁ・・・・・・」

 もくもくと立ち昇る茜雲を眺め、思わず喉が鳴った。
 驚くほど想像に難くないその一口は、きっととても甘くて、温かくて、柔らかくて、お腹といろいろなものを同時に満たしてくれるのだろう。規則正しく進んでいるはずのダイアルが何倍も遅く感じ、この手で回してしまいたい気持ちを抑えながら、じっとゼロに届くまでを待つ。

「早く、早く」

 ―――やっぱり、食べてもらいたい。

「あと十秒! ・・・・きゅう、・・・・はち」

 ―――たとえ渋い顔をされようと。

「・・・・なな、・・・・ろく、・・・・ごぉ!」

 ―――私の作った料理を。美鈴に、パチェに、みんなに、お姉様に。

「・・・・よーん、・・・・さーん、・・・・にーい」
 ―――そしてなにより、咲夜と私に。

「・・・・いち、・・・・・・ぜろ!」


 ピピピッ!




 ―――――――――――――




 ・・・・・・ピピッ、ピピピッ、ピ・・・ピッ、・・・・ピッ!

「―――よし、出来た」

 古めかしいオーブンのあげる途切れ目な音が、『人』気のないキッチン、そして一仕事を終え横たわる食器達にしんしんと響く。焼き時間の合間に諸々の器具を洗っていた私はその手をさらに早め、エプロンで濡れを乾かすと、お気に入りのミトンをはめた。
 大きな取手を掴み、下に向かって引き下ろす。
 使い古した熱機器ががぱっと口を開ければ、中から鉄板がせり上がり、小ぶりなマフィンが顔を連ねる。数にして六個。何度も熟考した温度は等しく、どれもを丁度良い加減に焦がしてくれていた。

「うん、いい感じに膨らんだかな。やっぱり新麦を使うと、バターを減らしても粉っぽくならずに済むわね」

 そのうちの一つを半分に割り、片方を口へと運ぶ。ふんわりとした触感が持ち上げる香りは一斉に鼻腔に抜け、飾らない素材の甘さが口いっぱいに広がった。思わずうんうんと舌鼓。幾度も重ねた改良の甲斐あって、最近作った中でも会心の出来である。

 ―――これだ。これなら。
 思い立った瞬間。私は近くにあったバスケットを掴むと、残りのマフィンを詰め込み、フォークと小皿を何セットか添えた。
電灯のスイッチを叩くようにして切ると、キッチンから飛び出す。長い廊下を走り、走り、走り、走り。段々と伸びる歩幅。一歩、二歩、三歩。急く気持ちに乗せだん、だんと地を鳴らし、ついには羽を横一杯に広げて羽ばたいた。
籠の水平を保ちつつ、弾丸のようなスピードでホールへと躍り出る。一扇ぎで広がる世界を縦横無尽に巡って上昇、光折シャンデリアの真横を通り抜け、二階へと通ずる階段から廊下の一つを選んだ。道中を歩く幸運なメイド妖精の脇を紙一重でくぐり、ついでにバスケットの中身を三個ほどプレゼントしながら、私はその先の一点、あの場所を目指すのだった。

「とうちゃく~~~~~、っと」

 つむじ風となり辿り着いたのは、館内でも隅に位置する、とある一室。
 木製の扉の据えられた何の変哲もない部屋である。
 ―――前にすると、妙な緊張に襲われること以外は。

「・・・・・・ふぅ」

 小さく深呼吸をし、手の甲でノックを二回。
 冷ややかなドアノブに手にかけ、ガチャリと開いた。


「失礼するわ。ごきげんよう、咲夜」


「これはこれは・・・・、フラン様。こんな夜更けに何か御用でしょうか」
「何言ってるの、まだまだ夜はこれからじゃない。起きて起きて、とっても重要な仕事なんだから」
「まぁ。もしかしてまた、『あれ』ですの?」
 ベッドの上で読書に勤しんでいた咲夜は、私の訪問に特段驚く風もなし。規則的に項をめくる手を止めると、厚い本を閉じて訝し気な笑顔を作った。
 私はその呆れ顔を見ると妙にうきうきして堪らない。部屋に入って簡単な挨拶を済ませるまま、すぐに小皿へとマフィンを盛り付け、小さなフォークと共にベッドの隣の机上に置く。
「もっちろん! 今度のは自信作よ~、食べて舌の根ひっくり返して頂戴!」
「本当ですかぁ? 確か一週間前にいらした時も、似たようなことを言っていた記憶があるのですけれど」
「そ、それとこれとは別の話! ・・・・・・ちょっと時間はかかっちゃったけど、この前よりは絶対美味しくなってるから!」
「いえいえ、何も疑ってはおりませんよ。まずは一口・・・・」
大人げもなくけらけらと揶揄いながら。咲夜はゆっくりと皿に手を伸ばし、マフィンの型紙を丁寧に外すと、その細い細い指で持った銀槍を突き立て、一口大に切り分けた欠片を口へ運んだ。
 長い咀嚼。私は自らの鼓動を聞きつつ、再び彼女が口を開くのを待つ。
 そして。

「・・・・・・新麦ですか。いい味が出ていますね。食感の方も柔らかで、この点はほぼ完璧と言っていい仕上がりです。火と時間の調節は見事なものですよ」
「やったっ」
「で・す・が、若干ながら素材の力を頼りすぎですね。目の粗い新麦を使うのであれば一度ふるいにかけるか、グラニュー糖の割合を減らした方がいいでしょう。生地自体の味が濃いので、その方が自然に仕上がるかと。・・・・・・え? 総評ですか? そうですねぇ。あえて点数をつけるなら――――」

「――――八十八点、といったところでしょうか」

「ぐぁーーー、九十いかないかーーー!」
「ふふ。十分美味ですが、まだまだ改善の余地もあります。期待を込めて、という事で」
「それ毎回言われてる気がするーーー」
 ベッドに身を投げ出し、顔をうずめて嘆く。残念。今回はかなり自信があったのだが、相変わらず咲夜の評点は容赦がない。

「頑張ってくださいな。合格点の九十まで、あと二点じゃありませんか」
「うぅ・・・・、ぐやじい・・・・・・」
 溜息を布団に押し付けながら、酷い脱力に見舞われる私を宥めるように言う。それから暫くはそんな応答が続いていた。が、やがて咲夜は少しだけ物悲しく口を開くと。

「ぜひ食べさせてくださいね、出来るだけ早く。・・・・・・私の生きているうちに」

 なんて、柄にもない。
「・・・・・・咲夜」
「・・・・・・冗談ですわ。それよりほら、他のお話も聞かせてくださいましな。長い事ここにいるのでは退屈で仕方ありませんの」
 ばつの悪い沈黙を察したのか、調子を戻すように彼女は微笑む。しかしそれが作り笑いであることだけは、この時はっきりと分かってしまった。
―――なのに。私は促されるまま、他愛のない会話を切り出すことしかできなかった。
それは自分の弱さから生まれたもの。いずれ来る不安の未来を恐れ、忌避する私のお得意芸である。黙りなどせずに、笑い飛ばせていればどれほど楽だったか。

ああ、私の内側はあの頃と何も変わっちゃいない。
もう逃げないと誓ったはずなのに。彼女の手の温もりを感じた時、確かにそう決めたはずなのに。私はまた否定した。いや、あるいは手の感触を覚えているせいでもあるのだろう。今回ばかりはどう転んでも、その不安を言葉に出すことはできそうにないのだ。

―――そうとも。十六夜咲夜は老けた。

 人間であれば当然というもの。だが、いくら私が時間感覚に疎いからと言って、光の矢がこれほど早いものとは思わなかった。たった数十年という日々は、妖怪の身にとって泡沫の思い出とするにはあまりに長く、また、この心を埋めきるにはあまりに短すぎる。
気付けば変わらぬ美しさで包丁を振るっていた彼女は、やがて主の横で日傘を持つのがせいぜいの体に成り果て。今や日がな図書館の魔女に借りた本を細々と読む毎日。むごすぎる。それでもなお、この館は咲夜を必要としているのだから。
 最早、十六夜咲夜という人間の終わりが近いことは、誰の目にも明らかなのに。

 それから私は、他愛のない日常事へ会話の焦点を移した。
 メイド長が抜けたシフトにひぃひぃ言いながらも、いっぱしに仕事をこなすメイド妖精達の事。その姿に溜息の回数を増やしつつ、少し我儘の限度を弁えた主の事。時々司書に紅茶を要求するのだが、飲んでからやはり違うな、といった顔を浮かべてまた本のページをめくりだす魔女の事。自分が見回れないせいで気になっていたのだろう、サボり癖のある門番の仕事ぶりはどうか、という質問にも、私は存外よくやっているよと答えた。あら、私がいない方が居眠りは少ないのかしら、なんて一言に笑いも起こった。

 そして、しばしの空白を経て。

「・・・・・・さくやー」

 彼女の足先で寝転びながら。仰向けに身を転がした私は、白い天井を眺め、尋ねた。

「何でしょう」
「咲夜ってさ。いつかこうなること、分かってたの?」
「どういう意味です?」
「だからさ。私は咲夜が十分に働けなくなったら、この紅魔館はもっと滅茶苦茶になると思ってたんだよね。でも、実際そこまで酷くないし。今思えば、咲夜はずっと前から準備してたんじゃないかなぁ、って」
「・・・・・・さて、特に意識したつもりはありませんが。言われてみれば確かにそうなのかもしれません。ほら、私の時間は他人のそれと違うので。無意識に仕込んでいたのやも」
「へぇ、やっぱりか。―――ま、私も気付いたのは最近なんだけどねー」
「いずれにせよ、館の日常に支障が出ていないのであれば幸いです」
「そうそう。支障と言えば、咲夜の作ったジャムがそろそろ切れそうなんだけどさ」
「まぁ。それは一大事ですわ。早急に作り足しておくとしましょう」


「・・・・・・ねぇさくやー」
「はいはい」
「ここで働く以外の人生って、考えたことあるー?」
「なんと。それは難しい質問ですねぇ。何せロクにこの職から離れた経験が無いもので、想像した事もありませんでしたわ」
「そうなの? えぇー咲夜だったら何が似合うかなぁ。だって美人だし、料理上手いし、家事全般出来るし、頭いいし、ちょっと天然だけど品があるし・・・・・・」
「あと得意なのは紅茶を淹れる事と・・・・、投げナイフと・・・・。むぅ、狩人くらいにはなれるでしょうか」
「・・・・・・というか、逆にメイドなんてやってる方が不思議じゃない! それだけ多才なら他にいくらでも職はあったでしょうに。どうしてまた、悪魔の館でメイドなんてやってるのよ・・・・」
「いやぁ、なぜでしょうね? 他人を世話してばかりだったので、自分の事になるとどうにも鈍いものですから」
「そうかもしれないけどさぁ。・・・・案外、咲夜がお嬢様ってのも悪くないかもよ?」
「―――え。わ、私がですか?」
「絶対似合うと思うけどなぁ、ドレスとか。私達よりよっぽど大人びて見えるもの」
「いやぁ・・・・。それでも、私はやっぱり着付ける側が性に合ってますよ」

「・・・・・・でも、ちょっぴり夢見たんでしょ?」
「・・・・・・内緒です、お嬢様には」
「やっぱ咲夜も女の子だからねー!」
「ふふっ。この歳にして初めてそんなことを考えましたよ。長生きはしてみるものですねぇ」


 体を起こし見やると、咲夜が時折覗かせる可愛らしい赤面。最近こうして彼女の部屋で語らう事が多くなったが故か、仕事の鬼と恐れられたメイド長の意外ともいえる発見が増えた。大方私達の傍にいた時は隠していたんだろうけど、今の如く、存外彼女の中身は乙女だ。完璧で瀟洒などと謳われることもあれば、普通の人間らしい振舞いもある。特に近頃はその綻びが顕著で―――、

「何か言いましたか?」
「――――あらためて。私は咲夜のことを何にも知らなかったんだなぁ、ってさ」

「いいえ、それが普通ですわ。私は一介の使用人にすぎぬ身。お心馳せは嬉しいのですが、主人に杞憂の種を植えるわけにはいきませんから」
「・・・・・・そんな。だって私咲夜には迷惑かけてばかりだし、少しくらい・・・・・・」
「ありがとうございます。ですがそのお心遣いで身に余りますわ。それに、主というものは下々が・・・・ゴホッ!」
「咲夜!」
「―――失礼しました。ええ、下々が困り果てるくらい我儘で、丁度いいのですよ」

 憚る余裕のない咳込みを隠すように。それから咲夜は柔らかに口角を上げると、珍しく彼女の方から視線を外した。私と目を合わせるのを拒むように、月光を仄かに切り取る窓の方へと、ごく自然に首を擡げたのだ。
 ―――いや、違う。咲夜は窓の外など見てはいない。
焦点がどこにあろうと、彼女は険しさの混濁した横顔で、不安の眼差しを投げかける主に意識を向けている。およそ失言、とでも思っているのであろう思考は、力無く腰を折る少女にすら易々と理解できた。

その時。私は私の顔から、先程までの無垢な笑いが薄れていくのを刻々と感じた。
声が出ない。笑い飛ばすタイミングも完全に失った私は、ただ、卓上の灯が暖色に照らす銀糸を、眺めることしかできなかったのだ。

嫌だよ。そんな顔しないでよ、咲夜。

 開くことも閉じることも出来ぬ口の狼狽であった。伸ばすことも留めることも出来ぬ腕の躊躇いであった。声にも言葉にも出来ぬ葛藤であった。全て全てが綯い交ぜになったかのような酷い眩暈が襲い来て、体を隅々まで凍らせる。


「―――私は、感謝していますよ。皆様に」

 そんな折。
 ふと。困惑に溺れる私の奥底へ、するりと触れた言葉である。

「・・・・・・え?」
「名を頂き、職を頂き、居場所を頂いた。レミリア様やフラン様だけではありません。美鈴にも、パチュリー様にも、あの子たちにも。他にも大勢の方から、私は身に余る幸せを頂きましたわ。これを感謝せずして何としますか」
「・・・・・・けれど。それは同時に、貴方を縛り付ける事にもなった」
「仰る通り。イフの延長線で話をするならば、私の、人間としての幸福は他にあったのかもしれません。ですがそれはあくまで可能性の破片。どうしたって、同じ盤上には並べられない物なのですよ」
「・・・・そう、そうよ。だからここで暮らす事なんてなかった! 私やお姉様に振り回されて疲弊する人生なんかより、もっとマシな道があったはずよ!」
「・・・・・・恥ずかしくも。先程は考えたことが無い、などと言いましたが、やはりそれは嘘になってしまいますね。すみません。どう転んでも人間の生というものは短いですから。・・・・完璧を謳う従者とて、最後まで捨てきることはできませんでした」
「――――だったら!」

 後ろめたさに耐えきれず、思わず身を乗り出して詰め寄る。
しかし。今度の咲夜は決して目を逸らさぬといった面持ちで、私を見つめ返した。
曰く。

「私の、選んだことだからです」

「・・・・・・選ばせたのよ。私達が」
「いいえ、それは違います。お二人は決して、私から選択権を奪いはしませんでした。現に今、こうして老いぼれの身になって尚、お嬢様は私が人間であり続ける事を許してくださっているではありませんか」
「・・・・・・でも」
「フラン様。何処にいようと、生きていれば幸福な時はあります。不幸な時もあります。それらを比べるなんて無粋な事でしょう。―――ええ。だってこの紅魔館で得られた幸せは、たとえいくら探しても、館の外には存在しないのですから」
「―――――」

 私は、何か言い表せない感情の濁流に呑まれ、暫く声を失った。
 が、やがて震えを抑え込むように、たどたどしく口を開いて尋ねる。

「・・・・・・咲夜は、それで良かったの?」
「はい。最後までここのメイドとして仕えられる。何よりの誇りですわ」
「後悔してない?」
「ええ、一度たりとも」
「つまらないことで困らせて、私がもっと良い子にしていれば・・・・・・」
「もう、ご自分を責めないでくださいな。私は感謝しているのですよ? お二方が底なしに身勝手だったからこそ、日々に一瞬だって退屈を感じずに済んだのですから。フラン様はフラン様のまま、変わらずにいてくださればよいのです」
「・・・・・・でも。何時までもそれじゃ駄目なんだと思うの」

 滲む目を拭い。強く決意を込めてから返すその言葉に、咲夜は参りましたね・・・・・・と腕を組んで唸りを上げる。そうして少しの間考えると、突然何か閃いたように手を打っては、指をピッと立て

「もし。そうですね、もし納得頂けないのであれば。思うがまま、我が儘に私を知ってください。残された時間の許す限り、私という記憶をフラン様の中に留めてください」


「―――それが私の思い付く、唯一の我儘です」


 聞いてくださいますか? なんて、残酷なまでに美しく笑うのだった。


「・・・・・・うん。わかった」
 私は笑顔を作る。たとえぼろぼろの仮面だとしても、咲夜に悲しい表情は見せられない。彼女が望んでくれるなら、少しでも長く笑っていよう。そう思ったのだ。
 不器用に笑いながら、ふと見やると。刻針は既に十時を回っていた。いくら喋っても話足りないが、これ以上夜更かしさせても体に悪い。続きは日を改めましょう、と言って私が食器を片付けるため枕元に接近すると、彼女は徐に、細い小指を差し出した。

「約束ですよ」
「・・・・ええ。約束ね」

 短い応答の合間に、そっと指を絡ませる。
 この一瞬の永遠を願うより早く、誓いの時間は終わってしまった。

「・・・・・・おやすみ。咲夜」
「おやすみなさい。フラン様」

 どうかよい夢を、と言葉を交わし。私は咲夜の部屋を後にすると、長い廊下をゆっくり歩み出した。




「・・・・・・・・・・・・」

 凍るように静まり返った、夜の廻廊で。
―――約束。その言葉だけが、私の頭の中をぐるぐると巡って行く。
今まで幾度となく交わした約束の中でも、咲夜の我儘を私に頼むのは初めてだった。
できるなら、命を賭してでも守り抜きたいのに。守らなければならないのに。
 しかし。それは意味を同じくして、いずれ訪れる運命を受け止め切る、という事なのだ。

「・・・・・・私には、私には」

一歩、一歩と踏み出すたびに、重圧に押しつぶされそうになりながら。
硝子の如く脆い仮面の、罅割れていくのを感じながら。
 とうとう。私は足を止めて、廊下の隅でうずくまってしまった。

「出来ない・・・・出来ないよ、咲夜ぁ・・・・・・」

私には。咲夜の唯一つの望みすら、叶えることができないのか。
 無力というナイフに抉られた胸から零れるままに。吐き出しそうになった言葉を押し戻そうと、バスケットに残ったマフィンを乱暴に掴んで、無理矢理口に詰め込んだ。
二、三度息が詰まりそうになりながらも、必死に口を抑え、細い喉の奥へ奥へと強引に押し込んでゆく。味も食感もロクに分からない。今齧りついている者が、食べ物であるかすらも分からない。ただ。噎せ返るほどの甘さが、この時ばかりは酷く際立った。

「―――ん、ぐ。はぁっ! はぁ・・・・、はぁ・・・・」

 苦しさを力任せに飲み下せば、安堵とも喪失とも取れる呼吸が私を迎える。
 後には。金属のように冷ややかな静寂の中で一等跳ね踊る心音と、胸を焦がすほどに熱い吐息だけが残されていた。
御読了ありがとうございました。
少しばかり遅くなりましたが、前作の続きのお話となります。

今回は少し暗めの締めくくりとなりましたが、フランの喜怒哀楽が色良く心に残りましたらば是幸い。
皆様の暖かいコメントのおかげで書き上げる事ができました。只今最終話を執筆中ですので、
一声下さると益々の励みとなります。

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アサゲ
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コメント



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指導する咲夜さんも素敵。次回の話が苦味でも甘味でも楽しみです。