Coolier - 新生・東方創想話

三千世界をあなたと超えて

2017/10/02 00:10:31
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・前置き
 今回の作品は、八雲紫と秘封倶楽部をわずかですが関連付けた上での紫×天子のSSとなります。
 実際に秘封倶楽部に関係する部分は少ないですが、蓮子とメリーを愛する方によっては許せない内容かもしれません。無理だと感じた場合はお早めにブラウザバックをお願いします。
 失礼な前置きになりましたが、お楽しみくだされば幸いです。




 幻想郷のどこかに、誰も知らない闇があった。
 鬱蒼と生い茂った木々は人も妖怪も立ち入らせない無秩序を形成し、境界がその領域を囲っている。
 木々に阻まれて月明かりもほとんど届かず、本来ならば誰も来ない場所。妖怪も寄り付かず、人間なら本来はここに来ることすら出来ないはずのどこか。
 そこに、ある一人の人間が妖怪の話を聞いていた。

「あなたの友達を助ける手段ならあります」

 その妖怪の話を、金髪の女性は食い入るように聞いている。
 なぜだか、その妖怪と人間はどこか雰囲気が似通っていて、傍目から見れば姉妹のようだ。

「ただしこれをしたならば、あなたの眼は普通に戻る。もう二度と、境界の向こう側を覗くこともできなくなる。それでも……」
「かまいません!」

 妖怪の言葉を遮って、たまらず女性が叫びを上げた。

「蓮子を助けられるなら、他に何もいらない!」

 頬に伝う涙をたどれば、そこにある瞳はとても強く。決意の乗った声が、風となって木の葉を揺らす。
 風が吹き抜けた後の静かな闇の中、妖怪は闇夜に表情を隠しながら女性の目元に指先をやり、小さく口を動かした。

「振り返らないで、覗かないで。ただ明日を願って足を進めなさい。大切な光は、常にあなたの手の中にあるのだから」

 妖怪がいくつかの助言を与え、女性の瞳に瞼の上から触れた。
 それが終われば、やがて女性が妖怪から別れ、いずこかへと走り出す。

 ――嗚呼、あの人が往く。
 闇の中、存在がおぼろげに誰かの手を握りしめ、光を目指して進んでいく。
 もう彼女たちは視えないものを追い求める必要はない、手の平から感じる体温に、幸せは見ずともすぐそばにあることを気付くだろう。

 その様子を、妖怪はずっと眺めていた。
 巣立ちを迎えた鳥を見送るように、遠い異郷の地に向かう家族を送るように、切ない顔で眺めていた。
 程なく人影は見えなくなる。この場所からいなくなり、彼女たちは本来あるべき場所に戻るだろう。

「――どうか幸せに。メリー……そして、蓮子……」

 か細い声が小さく開いた唇から漏れ出した。
 それをきっかけに妖怪は喉を震わせると、近くの木に背中を預けて地面にずり落ちる。
 まるで数千か数万年、あるいはそれ以上続いていた緊張が解けたように、深い深いため息をついた。

「終わった……――」






 現在の幻想郷を創造した賢者たちの中で、それにもっとも尽力したのが八雲紫であるが、彼女が何故幻想郷にそこまで入れ込むのか誰も知らない。
 表向きは妖怪の保護を目的としているが、実際のところどこまで本当か怪しいものだ。
 本当の策謀は月を出し抜くためだとか、妖怪復権のためだとか、いろいろな説がまことしやかに囁かれるが、真意については家族も親友たちすらも教えられないまま。
 だがその日、誰も知らない場所でひっそりと、彼女の悲願が果たされた。

 八雲紫が妖怪の賢者の席を下り、隠居を宣言するのはわずか数日後のことである。



 ◇ ◆ ◇



 穏やかな日々があった。
 人里にほど近い原っぱの上に建てられた、趣味の品を持つ程度は裕福な者が一人で住むにちょうどいい一戸建ての家。
 風はどこまでも健やかに吹き抜けて、草の青さが縁側から家の中に届けられる。
 裏手に植えられたガーデニングの花々は、鮮やかな色彩を映し出し、しかしそれは決して派手ではなく、大地の緑と空の青との隙間で見るものの心を癒やすだけの淑やかさがあった。

 その脇には盆栽も飾られており、その家に住んでいた美しい女性は、手に持った鋏で枝の一つを切り落とし、植木の持つ気の流れを整えた。

「こんなものね」

 女性は短く呟くと、慈しむように木の幹を撫でて、日が当たるように自らは退いて縁側に腰を下ろした。
 用意されていた座布団にゆったりと落ち着くと、お盆の上に鋏を置き、代わりに湯飲みを手に取って、少しぬるくなったお茶の苦さに瞳を伏せる。
 彼女の名前は八雲紫、かつては妖怪の賢者とまで呼ばれた大妖怪であった。

 しかし今更これを指して賢者などと呼ぶものは僅かばかり。
 せいぜいな呼ばれ方が、ご隠居さんと言われるくらいだった。
 まどろみの中、厚い雲に日が陰ると同時に突如一陣の風が熱を奪って、紫は目を閉じたまま肩を狭め身を守る。

「くしゅん」

 今日は少しばかり寒い日だ、恥ずかしながらくしゃみが出てしまい口元を押さえる。
 風が去ってそっと瞳を開けた時、ふんわりとした羽毛が視界の端を通り過ぎ、温かなショールの重みに紫は振り向いた。
 背後から紫にショールを掛けたのは、かつて彼女と苛烈な争いをしたこともある相手。
 髪に空を映すその少女は紫に背を向け、かろやかに部屋を横切って廊下へ出ると華麗に振り返り、緋色の瞳で見つめてきていた。

「紫ってばいつまでやってんのよ。風邪引いちゃうよ、ただでさえ最近お婆ちゃんみたいなんだからさ。っていうか今日は一緒に出かける約束じゃない!」

 無垢な子供のような仕草と声、けれどその中には確かな思いやりが感じられた。
 かと思ったら少女はにんまりと小馬鹿にするような笑みを作り軽口を叩くと、今度はご立腹とでもいうように眉を吊り上げる。
 ころころと表情は移り変わり、やがて輝くような笑顔を浮かばせて、手を差し伸ばしてきた。

「ほら紫、行きましょ! せっかくいい天気なんだから!」

 見せられる若々しい手の平が、紫を誘う。
 紫はショールを掴んで深く着込んでほんの少し微笑むと、ゆっくりと立ち上がって自らの手をそこに重ねた。

「ええ、そうね……ありがとう」

 かつての八雲紫は、誰も知らないステージの裏側で奔走し、暗雲とした未来に苦悩し、冬の間を休息に当てねばならぬほど大切な者のために奮闘していた。
 だがそれもかつての話、家族からも距離を置いて新しい生活を始めた今の彼女にあるのは穏やかな日々だけ。

 なのだが、なぜだか彼女の傍らには、さりとて深い関係もないはずの比那名居天子の姿があった。








 ――三千世界をあなたと越えて








 ――そもそもの始まりは、隠居生活の初日にある。
 一人で生活を始めるに辺り、紫は萃香に頼んで人里にほど近い場所で、各勢力に属さない空白地帯に一軒家をこしらえてもらった。
 萃香が気合を入れて用意してくれた家に朝早くからスキマで手早く家具を運び込んだ紫は、今まで一緒に過ごしてきた家族と向かい合った。

「ほら橙、しゃんと背を伸ばして」
「は、ひゃい! 紫様、後任は任せて下さいお願いします!」

 清々しい空気の中で、橙が緊張気味に背を伸ばす。
 未熟なはずの黒猫は、橙色の道士服に身を包、み白い日傘を握りしめている。
 紫が幻想郷を管理する役目を任せようと、自らの能力を分け与えたのが橙だった。
 計算能力に関しては藍のほうが優秀ではあるが、彼女は型に嵌まった考え方ばかりで独創性に乏しく、曖昧を許容しなければならない境界操作の能力を扱うには不適格だった。対して橙は主人である藍よりも思考が柔軟で、藍が苦手とするところをまるっとスルーできる。
 大任を背負った橙に紫は笑いかけてから、橙の後ろに立っていた藍に目を向けた。

「はいはい、お願いするわ。橙、頑張ってね、藍も彼女をしっかり支えてあげて」
「はい、おまかせ下さい」

 藍は両手を袖の下で組んだまま、しげしげと頭を下げる。
 素直な受け答えをした藍だったが、顔を上げると紫に対してわだかまりのある視線を投げかけてきた。

「しかし、管理者を辞めるとなっても、一人になることはないのでは……」
「何もしない穀潰しが家にいてもしかたないでしょう。これから大変だろうから、私のことは気にせず幻想郷の運営に集中しなさいな」

 紫の態度は気を遣った風であるが、その奥には家族ですらも一線を引く何かがあった。
 八雲紫はずっとそうだった、藍や橙は元より、幽々子や萃香などに対しても、奥底の方で寄せ付けない何かがあった。
 彼女が何かを求めていて、それを成したのであろうということは藍も薄々気付いていたし、それを手助けしたくて紫に何を隠しているのか尋ねたことも合った。
 だがついぞ紫はそれについて話してくれなかったし、そんな彼女が一人になりたいというのなら、今までと同様にそれ以上は踏み込むことができなかった。
 少しばかり藍は寂しい気持ちになったが、それで紫に気を使わせては悪いとすぐに暗い表情を元に戻す。

「そう、ですか……いえ、それでしたらせっかくの一人暮らし、楽しんで下さい」
「ええそうするわ、ありがとう」
「でもちゃんと朝昼晩、規則正しく食べてくださいよ? 家事もあるんですし、これからは朝は早起き夜は早寝。寝る前には歯磨きを」
「もう、子供じゃないんだから」

 藍達はせめて主人の門出を明るく見送ることにして、新しい紫の家に長居をしなかった。

 紫の隠居は、幻想郷の一部では話題になっていた。
 何せ今まで秘密のヴェールに包まれていた彼女が、管理者の役割を後任に継いで、自分は表に出て自由気ままに暮らし始めるというのだ。隠居と言いながら、むしろ今までより明るい場所に出てきたのだから、彼女を知っている者は誰もが気になる。
 この突然の行動を怪しむ輩は山ほどいて、朝から彼女の様子を偵察しに何人も顔を出し、烏天狗の取材も来て中々に騒がしかった。

 普通ならくちばしに突っつかれるのは嫌がるところであろうが、紫は意外にもこれらに来客に対して友好的に迎え、お茶からお菓子まで差し出して丁寧に応じた。これにはみな、逆に怪しがったものだ。
 客人は誰もが優しく微笑むスキマ妖怪に面食らいながらも、何故隠居を始めたのかを遠回しに、あるいは直接的に尋ねたが、これについて紫はどれもはぐらかして答えなかった。

 代わる代わる来る客が肩透かしを食らって家を出るのを繰り返し見送って、紫も少し疲れてきた頃のことだった。
 日が沈み始め、昼と夜が交わる逢魔が時に、小さな手が玄関を叩いた。

「はいはい、待ってて頂戴な」

 食器を片付けていた紫は、しょうがないなと廊下を抜けて、玄関の戸を開ける。
 扉の向こうに見えた地平線に除く夕焼け空から視線を白に落とすと、そこにいたのはいつかの不良天人。
 比那名居天子が胸を張って声高らかにドヤ顔を披露してくれた。

「やあやあ陰謀ババア、一人暮らし始めるって聞いてお邪魔しに来てあげたわよ!」
「あらいらっしゃい、よく来たわね。ここじゃ何だし、よければ奥へどうぞ」

 これまで失礼な物言いにも穏やかに迎える紫に、大抵の客人は警戒を強めたものだ。
 だが天子の場合、むしろ興味深そうにニヤついて、嫌味のない紫を嫌らしくジロジロと見つめてくる。

「ほうほう、いいわね。お菓子とかあるかしら」
「余りもので良ければ羊羹が。お茶は飲む?」
「渋いのをお願い」

 客間に通された天子は、座布団の上に正座して、部屋の中を見渡している。
 と言っても部屋に面白いものがあるわけでもない、今日から暮らし始めたばかりであるし紫の生活を匂わせるようなものは何も無い。客間にあるのはせいぜい床の間に飾られた『一喜一憂』と書かれた掛け軸くらいだ。それでも天子はその掛け軸を見てうんうんと頷いていた、何をわかった風にしているのか不明だ。
 ほどなくして紫がお盆を持ってやってきて、「はいどうぞ」と机の上に二人分の羊羹と湯呑みを置いた。

「ありがと……おっ、茶柱立ってる。見てみて」
「あら、縁起がいいわね」

 天子の分の湯呑みを二人で覗き込んだ後、二人は深く腰を下ろして向かい合う。

「それで、いきなり隠居なんて初めて今度は何を始めるつもりなのかしら?」
「さあどうでしょうね、まずは家庭菜園で元は考えているけれど」

 案の定、天子が聞いてくるのはそこだった。しかし隠居の理由については家族にすらも知らせていないし、紫にとって眼中にない天子へ教えることなど何も無い。
 紫がお茶を啜りながら適当に返すと、天子はむしろ興味深そうに続けざまに口を開いた。

「へえー、何作るの?」
「まずは植木で簡単なものを作るつもりよ。土地はあるから、そのうち畑を作るのもいいかもね」
「いいわね、そしたら私も手伝ってあげる。私の能力なら耕すのも一発よ」
「ありがたいけれど遠慮しておくわ、こういうのは額に汗してこそよ」
「そうか、だったら私も鍬を握るわ」
「なら隣に置いても良いかもね、賑やかしにはなるわ」

 寛容な態度の紫に、天子は笑みを作り、更に視線を這わせてくる。
 最初はなんともなかった紫も、段々と気味が悪くなってきて不躾な視線を送ってくる天子を睨み返した。

「どうしたの、そんなにジロジロと」
「いや、今日の紫はいつもより優しい顔してるなって思って」
「……口説いてるの?」
「そんなところかしらね」

 歯が浮くような台詞を平然と口にした天子は、気を良くしたように両手を叩いた。

「ふむ……面白いわ! あれだけ私に怒り狂ってたやつが、これだけ腑抜けた有様になるなんてね。まるで険がなくて嫌味もない、ちょっと見なかったあいだに随分と変わったもんだわ」
「お褒めの言葉ありがとう。でもあなたみたいな人種には、今の私はつまらないんじゃないかと思うけど」
「いいえ、面白い。面白いわ」

 繰り返し呟く天子は、ギラギラと輝く視線を紫に叩きつけられてきた。
 危機感すら覚えるような獣染みた眼光を、紫は柳のように受け流す。紫にとっては奇異の視線よりかまだ慣れ親しい。
 すると天子はやおらに立ち上がると机を回り込み、正座したままの紫に横から近づいた。

「例えば、こうされたらどうする?」

 天子は乱暴に紫の肩を左手で掴むと、力づくで押し倒した。
 紫の身体は抵抗もなく畳の上に倒れて、金色の長髪が扇状に広がる。
 横たわった身体を押さえつけたまま天子は馬乗りになると、右手で取り出した緋想の剣の柄へ気質を集めて、緋色の刀身を作り出す。
 力を張り詰めてキイイインと高鳴る剣を、紫の喉元へと突きつけた。

 濃厚な凶暴で野蛮な天子の殺気が部屋に充満する、紫がまともな意識をしているなら串刺しにされる自分をイメージするだろう。
 唐突な殺意が、紫の首に狙いをつける。

 無言で両者が見つめ合う、紫の肩を握り込んだままだった天子の左手が、ぎりぎりと服の上から肉を締め付ける。
 だがそれだっておかしいはずだ、紫ほどの妖怪ならこんな握力などどこかへ消せるというのに、肉を掴んでいる感触があるなんて無抵抗すぎる。
 握られた肩が痛むだろうに、紫は殺気を前に表情を変えず唇を薄く開いたままぼうっとしているのを見て、初めて天子が苦々しそうな顔をした。
 本気で殺す気になってみたのに、この反応は淡白すぎる。

「その反応は、ちょっとつまらないわね」
「ごめんなさいね、期待ハズレで」
「いいえ、かまわないわよ。誰だってそういう時は必要だし」

 抵抗する気がないのを悟った天子は、殺気を静めて緋色の刃を解除した。消えた剣の周りに緋い霧が薄く広がっていき見えなくなる。
 剣をしまった天子は掴んでいた手を離し、そのまま紫の肩から首元へ沿わせ、無感情な頬をなで上げた。
 何をする気だろうか、いずれにしてもどうでもいいけれど、そんな風に考えていた紫へと天子が顔を近づけた。

「いただきっ」

 天子は無遠慮に、そのまま紫の唇に自分のそれを重ね合わせた。
 いきなりの奇行に、流石に紫も目を丸くさせて身体を強張らせた。
 更に唇の間から舌を差し込まれては、思わず天子の身体を両手で突き飛ばすしかなかった。
 慌てて起き上がった紫が口を手の甲で拭っているのを、天子は愉快そうに腹を抱えて笑っていた。

「きゃはははははは! いいじゃないその反応、まだ覇気は残ってたわ!」
「けほ、けほっ、いきなり何するのよ変態なの!?」
「ババアのくせに随分な慌てっぷりね。あっ、もしかして初めてだった?」
「そうよ、悪い!?」
「いいわよ、私だって初めてだし」
「こんなところで消費してるんじゃないわよ!?」

 顔を赤らめて唾を飛ばす紫を見て、天子も少しは恥ずかしいのか頬に赤みが差している。
 しかしそれよりも煩悩のほうが上らしく、乙女のような反応をする紫に邪な感情を覚え、両手をワキワキ動かして今にも飛びかかりそうな構えを取っていた。

「うっわー、紫ってこんな可愛かったんだ……ハグしたい、愛でたい、抱きしめて髪の毛わしわししたい」
「やだっ、近寄らないでちょうだいケダモノ!」
「顔真っ赤よ、これあれよね、ギャップ萌えってやつよね」
「もう帰りなさいっ!」

 紫に机の上のお盆を投げつけられ、天子は額を打って「あいたっ!」と悲鳴を上げた。
 軽く痛むおでこを押さえた天子は、立ち上がって部屋を、というよりも家の間取を図るように周囲を見渡した。

「よし決めた。紫、ここって空いてる部屋ある? あるわよね、萃香のやつ、かなり大きめに作ったみたいだし」
「何をする気よ」

 訝しげに睨みつける紫に対して、天子は両手を叩いて底抜けに明るい表情を見せつけた。

「私、今日からここに住むわ!」
「……はあ!?」

 いきなり過ぎる宣言に、思わず紫も呆けてしまう。
 早すぎる展開に紫が追いつけないまま、天子は勝手に話を進めていく。

「別に紫の生活を邪魔しようって気はないから大丈夫よ、こっちは勝手に生活するから場所だけ提供してくれれば。あっ、でも私のご飯も作ってくれたら嬉しいわ、生活費は収めるから」
「ちょ、ちょっと……」
「家の中見てくるわ、じゃあね」

 困惑する紫を無視し、天子は颯爽と部屋から出ていってしまった。
 置いてけぼりにされて途方に暮れる紫であったが、思い出したように天子が廊下から顔を出してきて、朗らかな笑顔で口を開く。

「今日からよろしくね、紫っ!」

 それだけ言うと顔を引っ込め、るんるんと鼻歌を響かせて家の散策へ行ってしまった。
 呆気に取られてばかりいた紫であったが、今の笑顔に毒気を抜かれてしまった感じがあった。
 あの顔は強引ではあったが威圧的なものはなく、純粋な好意があるように思えた。
 そんな風に考えて天子を受け入れるつもりでいることに、紫は何を馬鹿なと自嘲しながらも、追い出す気も浮かばなかった。

「……まあ、それもいいか」

 そうして一方的な形で、二人の生活はスタートした。



 ◇ ◆ ◇



 家の毎日は、まず紫の起床から始まる。
 以前は昼も夜も関係なく、好きな時に寝て好きな時に起きる生活をしていたが、隠居し始めてからは早寝早起きの安定した生活サイクルになっていた。
 浴衣を着た姿で布団から起きた紫は、顔を洗って身だしなみを整えると、寝間着のままご飯を食べる。

 朝食は大して力を入れない。乾パンを干した果物などと一緒に軽く齧って終わらす。
 紫が前にした机の向かい側には誰もいない、この時間、天子はまだ寝ているのだ。
 朝食が簡素な理由はこれだ、自分ひとりのご飯のために手間を掛ける気もしない。
 しかし素朴な食事ではあるが、雀の泣き声を音楽に開かれた縁側から庭の畑を眺めつつ、口に広がる甘酸っぱさを感じるのは中々良いものだ。
 のんびりとした朝を堪能しつつ今日の予定を組み上げる。

 朝食のあとは紫は紫色の服の上から割烹着を身に付け、家の掃除に取り掛かった。
 居間からトイレまでピカピカにするが、天子がまだ寝ているため彼女の部屋には手を付けられない。それが終われば次は洗濯だ。
 こうやって念入りに家の用事をこなすのは隠居してからが初めてだが、思った以上に手間と時間がかかり苦労している。今までこれをこなしてくれていた藍への感謝が禁じ得ない。

 洗濯物を干し終えるとスコップを持って土を弄り。家の外にはそれなりに広い畑が広がっているが、実際にはこれは天子がほとんど一人で作ったものだ。
 最初にあんなことを言っておきながら、紫が育てているのは植木の野菜や盆栽程度だった。水をやったりするがあまり時間も掛からず、それが終われば家に篭もって読書に耽る。
 アガサクリスQの小説は紫にとっても非常に興味深い。内容も幻想郷に合わせて工夫されているが、それよりもこれの作者が紫も知っている人物だということに気が惹かれる。
 あの人間が短い人生の中で、使命とは別の生き方を切り拓こうとするのを、作品を通して感じるのはとても楽しい。

 しばらくページをめくるだけだが、昼前くらいから本を置いて再び動き出す。お昼ごはんは天子も食べるから、朝と違ってしっかりとしたものを作る。
 お米を取り出して釜で炊き、他にも野菜を炒め、鍋で味噌汁を作る。
 味噌汁についてはいくつかの味噌を配合し、その日の気分で味を変える、今日は赤味噌を多めだ。
 用意した昼食は二人分。食べ始める頃になってようやく天子が起き出して、寝間着の浴衣のまま眠たげな顔を見せた。

「おひゃよう紫……」
「おはよう、お昼ごはんは食べる?」
「食べる……用意しといて……」

 眠そうな目をこすった天子が身支度をしている間に、料理を居間に運んで並べておく。
 天子は顔を洗って普段着に着替えてくると、居間に出てきて紫と机を挟み、ご飯を前にして手を合わせた。

「いただきます!」
「いただきます」

 二人一緒に昼食を食べれば、自然と場は明るくなる。
 紫もこれで中々料理がうまい、天子は美味しいご飯を食べては頬を緩ませ、今日もご満悦そうだ。
 天子が喜んでくれることに、紫も箸を進めながら、満足そうに口端を吊り上げている。

「う~ん、美味しい! これを毎日食べられるってだけでもここに住んだ甲斐があったわね」
「随分と安い天人様ね」
「人里でも話しやすい天上人で通ってるからね、でもお高いのが望みなら追加で紫のも食べたげる」
「あげないわよ」

 天子が隙あらば向かいの皿にまで箸を伸ばそうとしてくるのを、紫はすかさず自分の箸で防いだ。

「天子、今日は晩御飯はどうするの?」
「多分、仕事で遅くなるから私のぶんはなくていいわ。里で食べて帰る」
「そう、わかったわ」

 天子は畑仕事をやりながら、里で妖怪退治屋を兼業している。
 紫と相談して他の退治屋を潰さないよう高めの依頼料に設定しているが、それでも天子は幻想郷でも有数な実力者だ。
 先に博麗の巫女に袖の下を渡して里の人間に紹介してもらったお陰もあり、食える程度には依頼が来ている。

「それじゃ行ってくるわ」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」

 ご飯を食べ終えた天子が早速人里へ出かけていくのを、玄関の外まで見送ってから部屋に戻った。
 天子がいなくなると部屋の中が広く感じてしまう、彼女が部屋で寝ている間はなんとなく安心するのだが、顔を合わせなくともいるかいないかの差は大きい。
 隠居する前はこれを覚悟していたと言うのに、それもこれも騒がしさと静けさの落差が激しいせいだ。
 再び暇になってしまい寂しさを感じ始める紫だが、これくらいの時間帯から友人が顔を出すようになるのでほんの少しの辛抱だった。
 戸を叩く音に出向いてみれば、今日ははるばる冥界から幽々子が遊びに来てくれた。

「こんにちは、遊びに来たわ~。これお土産ね」
「いらっしゃい、ありがとうね」

 陽気な幽々子を家に招き入れ、二人分のお茶を用意する。
 お土産のカステラをお茶請けにして、しばらく二人で雑談していた。

「一人暮らし……じゃないわね、二人暮らしを始めてしばらく経つけど難儀してない?」
「特に問題ないわ。天子もあれで気を遣ってくれてるし、ほとんど家事をしてるだけよ」
「あら、彼女にもやらせればいいのに」
「生活費は入れてくれてるしそれくらいでいいわ。第一、彼女に任せたら大変なことにしかならないもの。この前、ご飯を任せたら真っ黒な魚しか出てこないのよ」
「あらあら、大変ねぇ」
「流石に酷すぎるって口出ししたら、料理の練習に付き合う約束をさせられちゃったわ」
「楽しそうねぇ、心配だったけど仲良くやれてるようで良かったわ……天子のこともそうだけど、びっくりしたのよ隠居するって聞いて」

 藍と同じように、幽々子もまた紫を心配していた。
 当然、新しい生活のことを差しているのではない。その裏側にあるだろうものが理由だった。

「もう幻想郷は安定してきているし、私がいなくても問題なく回っていくわ。潮時だったのよ」
「まあ……そうかもしれないけどねぇ」

 紫の言葉に幽々子の歯切れが悪くなる。
 この亡霊も、紫が何か隠し事をし続けていることに気が付いているのだ。
 それこそ幻想郷が出来る前から、紫は何か秘密を持っていて、幽々子は今までにそれを何度も聞き出そうとした。
 だが紫は一切それについて明かさなかった、今更尋ねたところで教えてはくれないだろう。聞かせてくれるなら、こんな言い方はしないはずだ。

「……困ったことがあったら何でも言ってね、私達もできることをするから」
「ありがとう、助かるわ」

 幽々子から言えることはそれが精一杯だった。

 昼下がりの談笑を楽しんだあとは、人里へ買い出しに行く。幽々子も紫に別れを告げて、白玉楼へと帰っていった。
 出かけるにあたってスキマは使わない、隠居を始めてから紫は行動のすべてに自分の手足を使っていた。
 安売りの列に並んで少なくなってきていたちり紙を買う。お一人様一個までと書かれた看板を見て、こんな時に藍がいればなと思うが仕方ない。流石に安売りのためだけに彼女を呼び出すのも酷だ。
 他には取り急ぎ補充したい日常品もなく、食材を見て回る。今日は天子もいないことであるし自分が食べる分だけを、日持ちする食材を中心に買い集めた。
 家から持ってきた二つの買い物袋を半分くらい埋めて家に帰ろうとすると、人里から出るところで後ろから声を掛けられた。

「おーい! 待ってよ紫!」

 元気な声で振り返ってみれば、天子が帽子を揺らして駆け寄ってきていた。

「あらどうしたの天子、忙しいんじゃなかった?」
「それが思ったより早く片付いちゃってさ。今から帰るんだけど、晩御飯食べれる?」
「困ったわね、一人分しか買ってないわよ」

 紫が買い物袋を持ち上げて中身を見てみるが、二人分にしては少なすぎる。

「しょうがない、もう一度買いに行きましょうか。荷物は持ってちょうだいよ」
「私お肉が良い!」
「はいはい、わかりましたわ」

 紫は隣からの「あの高いのが良い!」と言う雑音をスルーして、そこそこ安めの薄い肉を選んだ。
 付け合せの野菜も買い、二人はそれぞれ買い物袋を手に持って、傾いた日に赤く照らされながら、肩を並べて里の周囲に広がる田んぼを縫ってあぜ道を歩いた。

「今日は随分と早かったわね」
「それが畑を襲う妖獣駆除だって聞いてたら、犯人はただの動物でね。適当に会話してもう畑に手を出さないようにって言い聞かせて終わっちゃった」
「あなたそんな芸もできたのね」
「一応天人だからね、っていうか芸って言うな」

 話しながら歩いていた紫が、畑を抜けて丘の上に差し掛かったところでふと足を止めて振り返った。
 少し高いその場所から見えるのは、赤く照らされる人里の様子。
 畑では農作業をしている大人の他にも、日が沈むギリギリまで遊ぼうとしている子供の姿が何人か見受けられた。
 子供たちの笑い声が、風に乗って丘の上にまで届いてくる。

「どうしたの紫」
「いえ……そろそろ逢魔が時ね」

 紫は視線を少し上に移して、沈みかけたお日様を見た。
 段々と暗くなり始める地平線にあるのは昼と夜の境界。
 そこから何かを見据えるかのように目を細める。

「……あの子達も元気にしてるかしら」
「なに?」
「なんでもないわ、行きましょう」

 再び歩き出した紫に、天子はそれ以上は何も尋ねなかった。
 代わりに天子は人里で噂の茶屋があるだとか、他愛ない世間話をしながら紫の隣を歩いていった。

「ねえねえ、今日は時間もあるしお料理教えてよ」

 二人だけの家はすぐに静かになりはしない。
 荷物を台所まで運んできた天子は、そう提案してくると答えも待たずに真新しい割烹着を取り出し始めた。どうやら事前に買ってきていたらしい。

「えぇー、面倒くさいわ」
「いいじゃないのよ、ほらお願いだってば」

 紫は渋ったが押しの強い天子に引っ張られて、並んで台所に立つことになった。
 包丁さえまともに扱えていない天子の手を取って、猫の手から丁寧に教える。

「ぶー、猫の手とか面倒くさい。天人の身体は硬いし、包丁なんて当たっても怪我しないんだから良いでしょ」
「基本の形が出来てないと、上手く切るのだって難しいわよ。それに乱暴に扱っちゃ包丁がすぐに駄目になっちゃうじゃない。言う事聞かないなら台所から出てってもらうわよ」
「わかったわよ。その代わりしっかり教えてよね!」

 天子の料理が下手なのは、すぐに遊び出す癖があるからだ。子供みたいな落ち着きの無さを抑えてやれば、後はちょっとの指摘でなんでも器用にこなす。
 どちらかと言えば料理教室よりも幼稚園の保母のような気持ちでいると、あっという間に夕食が完成した。
 豚肉の生姜焼きを頬張り、天子は満足気な顔を紫の前で見せた。

「う~ん、さすが私、美味しく出来てるわ」
「嬉しがるのは良いけど。私が手伝ったこと、忘れたんじゃないでしょうね」
「紫が手伝ったけど包丁握ったのは私、これはもう私が全部作ったも同然では」
「なら次からはもう手伝わなくても平気よね。休みの日は一人で三食作ってもらおうかしら」
「嘘です、ほとんどゆかりんのおかげです。だから次も教えてお願いっ」
「わかればよろしい」

 上手く扱われてばかりいるのも悔しいし、優位に立てる場面は逃しはしない。
 紫の前で頭を下げていた天子は、焼き魚をほぐしながら人懐っこい笑みで言葉を紡いだ。

「ねえ、次の休みどっか行きましょうよ」
「……はあ、行くってどこへ?」
「悪魔の館! 妖怪の山! 地底飲み歩き! 仙人共の道場破り!」
「却下! どうせ騒ぎを起こして私まで巻き込む気でしょう」

 最後のなど下心を隠してすら居ない。
 紫は論外だと言い切って、声高らかに箸を振り回す天子からそっぽを向いた

「私はもう隠居したのよ、争いごとは遠慮するわ」
「え~、ケチ。じゃあじゃあ、人里行きましょうよ、人気の喫茶店があるってさっきも言ったじゃない、そこ行きましょ」
「それくらいなら、まぁ」
「やった! んじゃ紫の奢りね」
「こら」
「いいじゃない、そのうち返すからさ」

 新しい生活を始めたばかりであるし、まだ天子の稼ぎは多いとは言い難い。畑の収穫もまだ先だ。
 相手の懐事情をおもんばかり、紫は最終的に仕方がないなと了承した。
 約束を取り付けた天子は上機嫌にご飯を平らげると、空になった皿の前で手を合わせ「ごちそうさまでした!」と言うなり足を伸ばして寝転び始めた。
 自分の家のようにくつろぎながら、部屋の隅に置かれていた紫の本に手を伸ばす。

「アガサクリスQの新作どうだった?」
「面白いわよ、前巻までは話の進みが遅かったけど、一気に急展開」
「へぇー、楽しみね。全部読み終わったなら貸して貰うわよ」

 天子は返事も聞かずに本を開き、パラパラとページを捲ってみた。

「げっ、ページに折り跡付いてる、これ止めてって言ってるじゃない」
「いいでしょう、私のなんだから」
「栞を使いなさいよ。小うるさそうなくせに変なところズボラよね」
「そういうあなたは細かいことを気にしすぎね」
「どこぞのババアと違って繊細なんですー。それよりお風呂どっちが先に入る?」
「あなたからでいいわ。洗い物やっとくから、その内に済ましといて」
「はいはーい」

 天子は貸して貰った本をパタンと閉じると、髪を揺らして部屋を出ていった。
 紫は空になったお皿に手を伸ばしお盆の上に重ねると、台所へ向かおうと立ち上がったが、いつのまにか戻ってきて顔を出してきた天子と目が合い、驚いて足を止めた。

「なにかしら?」
「たまには一緒に入る?」
「なにに?」
「お風呂」
「冗談」
「冗談じゃないのに」

 初日のファーストキス強奪事件依頼、そっち方面では紫は天子に対して警戒していた。
 裸の付き合いなどしたら何をされるかわからないと断ると、天子は懐に手を突っ込んで、紫の目の前に差し出してきた。
 眼前に突き出されたのは、ゴム製の黄色いアヒル。

「なにこれ?」
「この前香霖堂で買ったおもちゃ! あんまり最近笑ってないでしょ、今日はこれ使ってお風呂で遊んでみたら?」

 余計なお世話だとか、そんな金があるなら奢らせるななど思ったが、紫がなにか言う前に、天子はスキップしながら廊下の奥に消えていく。
 紫は洗い物を終わらせて天子の後でお風呂に入ると、湯船の上にはさっきのアヒルが浮かんでいた。
 湯に浸かりながら黄色い物体を半目で睨みつけると、心なしかこちらを笑っているようにも見えた。

「子供のおもちゃじゃないのまったく……」

 子供扱いされたのにも似た恥ずかしさを感じ、憎々しげにアヒルを指で潰すと、マヌケな音が浴室に響いく。
 しばらく剣呑な顔でアヒルと見つめ合っていた紫だが、不意に表情を崩すと浴槽に頭を乗せてゆったりと呟いた。

「まあ……気遣いはイヤじゃ、ないか」

 その日はいつもより長湯した――





 ――そして夜は更け。

 お風呂から上がって浴衣に着替えた紫は、縁側から雲の掛かった月を肴におちょこからちびちびお酒を飲んでいたが、ふと時計を見るともう眠る頃合いだということに気付いた。
 この洗い物は明日の自分に放り投げることにして、お盆に徳利とおちょこまとめて居間の机に置くと、縁側の戸締まりをして部屋で寝転んで小説を読んでいた天子に振り返った。

「そろそろ寝るわ。おやすみなさい」
「おやすみ~」

 紫が声を掛けた天子は、もうお風呂も入った後だと言うのにまだ普段着のままだった。
 脚をバタつかせながら書籍に視線を落としていた天子は、居間を出て行く紫を見送ってからもしばらく文字の海に夢中になっていた。
 それから少しして、歯磨きを終えた同居人が部屋に戻って戸を閉める音が聞こえてくると、くつろいでいた天子は本を閉じて立ち上がった。

「……さて、と」

 栞を挟んだ本を机の上に置きっぱなしにして部屋を出ると、自室に戻らずそのまま玄関へと赴いた。
 ブーツを履きしっかりと紐を締めなおすと、玄関の戸を開けて家の外へ出る。
 月と星が照らし出す夜の闇、そこへ一歩出た時に感じたのは肩に重くのしかかる敵意の群れ。
 周囲から感じる無数の視線と両肩にのしかかる圧に、天子は顎を上げて鼻を鳴らすと、上空へ飛び上がった。

 天子は家の屋根にまたがると緋想の剣を取り出して、緋色の輝きをたたえる刀身を屋根に軽く突きつけて杖代わりにした。
 そして意識を切り替える。
 あどけなさが残る幼い顔立ちに刃の如き鋭さが宿り、全身から赤黒い血溜まりのような殺気が溢れ出す。
 屋敷に降りかかる敵意を跳ね返し、まるで結界のごとき気配の壁を作り上げると、天子は黙って屋根の上から周囲を見下ろしていた。
 少女はそのまま微動だにせず、敵意の中でただただ仁王立ち続ける。

 天子は何時間もそうしていた。
 夜の闇の中、虫達も恐れをなして周囲から消え失せ、聞こえるのは風が通り過ぎる音くらい。
 代わり映えしない風景も中、天子はただの一瞬も気を緩めずに立ち続ける。
 やがて東の空が白ずんで、朝の空気が吹き始めた頃、屋敷に注がれていた何者かの視線が途切れ始めた。
 家を監視していた何者かたちが退くのを感じてから、天子もまた剣を収めて家の中に戻った。
 一晩中立ち続けていた天子は寝間着に着替えると、日が出始めた頃になってようやく布団を被って目を閉じる。

 天子が静かに眠りにつくのを、目が覚めたばかりの紫は感じ取って、上半身を布団から起こすとため息を漏らした。

「……バカな娘ね」

 一方が寝始めた頃、もう一方が活動を始める。
 家に終わりも始まりもなく、日常が続いていた。



 ◇ ◆ ◇




「――なんで、あの娘と一緒にいるのかしらね」

 気怠げな瞳をしていた紫は、縁側から天子が畑仕事に精を出すのを見つめながら独りごちた。
 紫の視線の先で天子は長い髪を後ろで結んで、手袋を着けた手を地面に伸ばしている。
 今も手作業で雑草を抜いているあの天人、わざわざ仕事まで始めて紫の傍にいようとしたあのワガママ娘。
 自分でも彼女が一緒に住むと言ってくれた時、清々しい気持ちになったのは意外だった、家族にだって暗に遠ざけるような言葉を向け、一人でいようと思っていたはずなのに。

「あー、あっついわね! 紫、水ー! 水分ー!」
「はいはい、用意してるわよ」

 あらかた仕事を終えた天子が唸りながらやってきたので、水筒を手渡してやる。
 天子は手袋のまま受け取ると、ゴクゴクと音を立ててあっという間に水筒を飲み干し、プハァーと息をついて紫の横に腰を下ろした。
 スカートの下から足を伸ばし、手袋を外すと袖口をあおぐ。

「地味な作業のほうが逆に疲れるわね、あっつーい」
「暑い暑い言うくせに汗一つかいてないじゃない」
「天人様よ、汗なんてかいてたら死ぬわ」
「あらそう……まだ先なのね、残念だわ」
「おいこら、どういう意味よ」

 紫がサラリと毒を吐くのを、天子は睨みつける。

「っていうかあんたも手伝いなさいよね。最初は畑でもするかって言ってたくせに、やってるの私だけじゃない」
「元々金銭目当てじゃなくて享楽目的だもの、眺めてるだけで十分よ」
「このぐーたら妖怪め」

 人を見世物にする紫に天子は毒づくと、結んでいた髪を解いて立ち上がった。

「畑も終わったし人里でもう一働きしてくるわ」
「また妖獣騒ぎだったかしら? 今度こそ本物?」
「さあね、行ってみないとなんとも。晩御飯はなしでいいわ、最悪食べて帰るから」
「はいはい、いってらっしゃい。」

 食べたいと言ってくれれば、帰ってから作るのにと思いつつも言えないまま、天子が飛んで行くのを見送る。
 青空に人影が小さくなくなるのを眺め、さて自分も植木の手入れくらいするかと考えていると、視界の端に空を走る金色の尾が映った。
 風を裂いて豪速で飛んできたのは、やはり紫の式神であった藍だ。
 すでに主従ではなくなったというのに紫を慕ってくれる彼女は、家の近くまで来ると速度を落として紫の前に降り立った。

「こんにちは紫様、ご機嫌いかがですか」
「いらっしゃい、面白い見世物のお陰でそこそこよ」

 しげしげと頭を下げる藍に、紫は手を降って出迎える。
 藍は袖の下から箱の入った包みを取り出すと、紫に差し出した。

「こちらは橙と一緒に作った団子です、どうぞお食べになって下さい」
「あらありがとう、嬉しいわ」
「さて……紫様、お手伝いできることはありませんか!?」
「ないわ、ゆっくりしてて」

 藍からの申し出を秒で切り捨てる。
 断られた藍は、がっくりと項垂れた。

「藍ったら、ここに来るたびに聞いてくるわね」
「その……紫様がいなくなって手間が減った分、家事がやり足りないような気がして……」
「ワーカーホリックなの自覚しなさい」

 そうさせたのは自分であるし多少の責任は感じるが、紫は容赦なく指摘する。
 身の回りの手伝いをしてくれる者が必要だったのは確かだが、すでに主従関係は解消されているのだから藍には自分の人生を歩んで欲しいものだ。

「隠居した老人のことなんて置いといて、そっちのほうはどうなのかしら、上手くやれてるの?」
「はい、橙の処理能力はすでに私に近いです。紫様の能力を受け継いだことによる恩恵を見事掴み取って、今なお成長していますよ」
「そう、良かったわ。私がいなくとも幻想郷の運営に問題はないわね」

 後任に橙以外の適役がいなかったのが心配ではあったが、杞憂であったと安心する。

「紫様こそ、困ったことはありませんか」
「特には、おおむね楽しく隠居生活をやれてるわ」
「……その、夜は眠れてますか?」

 その質問に隠れた意味がわかりやすくて、思わず紫はぷっと吹き出した。

「な、なんですか」
「いや、あなたってそんなに腹芸が苦手だったかしら」
「笑わないでくださいよ、こっちがどんな気持ちで……もう」

 はしたない口元を押さえる紫に、藍は拗ねてそっぽを向く。
 紫はコロコロと笑っているが、実際には藍の発言のちぐはぐさが、親愛と気遣いからくるものだとわかっていた。

「そうね……よく寝れているわ。天子のお陰ね」
「そうですか、それはよかったです。しかし、天子がいなかったらその時はどうするつもりだったのですか?」
「うふふ、その時はその時でどうにかするわ、不眠はお肌の大敵だもの」
「本当にですか?」
「ええ、本当よ」

 妖しく笑う紫の前で、藍は下ろした拳を握りしめた。

「紫様は……嘘つきです」

 無力感の溢れる言葉が紡がれ、紫は目を細める。
 縁側に座っていた紫に藍が近付くと、かつての主の前でひざまずいた。

「紫様、抱きしめては、貰えませんか」

 九つの尾を背負う大妖としては、あまりに子供じみた願いが投げ掛けられた。
 紫は柔らかに微笑み――しかし儚い眼をしながら、何も言わずに藍を抱き込んだ。
 藍の頭が紫のお腹にうずまる。

「……私達のために、生きてくれはしないのですか」
「もう、誰かの為に生きるのは疲れてしまったわ」

 幼子が抱くような望みがこぼれ落ちるのを、紫は掬うことなく見過ごす。

「とっくの昔に私の魂は老いてしまっていて、大昔の願いのためだけに足を動かしてきた。でもそれが叶ってしまった今、私はもう自分の運命なんてどうでもいいわ」
「私たちは、路傍の石に過ぎなかったのですか」
「そうじゃない。でもあなたたちの運命と、私の人生は別のもの。私の手がいらないのなら、執着することもない」
「……私はまだ紫様が必要ですっ!」

 顔を上げてすがるように見上げた藍の頬を、紫は優しく撫で付けた。

「そんなことない、藍も橙も、私の手助けなどいらない。自分の足で歩いていけるわ」

 そう言われ、藍は眉を歪めると、溢れそうな涙をこらえて紫の膝元に頭をうずめた。

「紫様は、卑怯です……!」



 ◇ ◆ ◇



 人里にまでやってきた天子は、早速今回の依頼にあった畑の周囲を見回っていた。
 荒らされた畑を検分し、掘り返された作物や足跡などを自分の目で確かめる。
 畑の隅に転がっていた糞を前にしゃがみこんでいると、後ろから声を掛けられた。

「どうですか天子さん、今回の被害は」

 天子が振り返ると、そこにいたのは里の守護者でもある上白沢慧音が、四角い帽子を揺らしてこちらを覗き込んでいた。
 彼女から目を離し、天子はもう一度残された糞を見る。

「畑を食い荒らした獲物の糞だと思うけど、草食獣のものにしては量が少ない。草食獣より肉食獣のほうが糞の量は少なくなるから、肉食寄りの雑食。荒らされた規模も考えると人も食べる妖獣の確率がグンと上がるわね」
「前回、南の畑は動物との話し合いだけで解決したそうですが、こちらはそうは行きませんか」
「多分ね。場合によっては戦闘にもなりうる、その場合は殺すわ」

 人と敵対し、和解が望めないのなら天子は手心を加える気はない。
 元より理由もなく慈愛を振りまくほど、出来た性格ではないのだ。

「それと、敬語なんて使わなくていいわよ。博麗神社の飲み会でたまに飲んだりしてたじゃない」
「今は里の守護を預かる立場ですから」
「お硬いわね」

 そういう態度は好かないが、信念ならば仕方がないなと思い、天子はそれ以上言わず立ち上がった。

「今回の妖獣についてはどうしますか。夜にまた来るのを待ちますか」
「時間の無駄よそんなの。こっちから出向いて、こんなつまらないやつとっとと終わらせてあげるわ」

 そう言った天子は右手を振り上げると、上空に複数の要石を作り出し畑の周囲に沿って打ち下ろした。
 地面に食い込んだ要石からは互いを繋ぐように気質の糸が伸び合い、更にそこから緋い幕が広がり、気質で形作られた壁が畑を囲った。

「一応、要石と気質で結界を張っとくわ。万が一、今日中に仕留めるのに失敗してもこれで一晩は持つはずよ」
「助かります。狩りについてこちらでお手伝いできることは」
「いらないわよ私一人で十分。報酬だけ用意して待っときなさいよ」

 手早く説明を終えると、天子は慧音と別れて里の外へ出た。

「さてと、まずそこらへんの獣にでも話を聞いて情報を集めようかしら」

 生い茂った枝葉をかき分けて、人の手が入っていない森のなかに踏み入る。

「お探しものはこいつ?」

 木の陰から一歩出た瞬間、声が響いた。
 その直後には天子の目の前に何かが降ってきて、草むらの上を跳ねる。
 転がっていたのは犬系の妖獣の生首だった。
 だらしなく舌を伸ばして動かない首から視線を上げると、そこにいたのは人型に化けてオレンジ色の道士服を着た黒い猫の妖獣。
 天子も見覚えのある顔が、温和な微笑みを浮かべて口を開いてきた。

「やあ、私の事覚えてる?」
「橙でしょ、紫のペットのそのまたペットの」
「そうそう、よく覚えててくれてたね、あんまり面識なかったのに」

 そこにいたのは、今は八雲の名を襲名した八雲橙であった。
 だがその姿は天子の知っているものと大きく異なる。
 妖獣としての耳や二股の尾は変わらないものの、かつての橙は背丈が小さくまるで子供だったが、久しぶりに会った彼女は記憶よりずっと身長が伸びていた。
 天子の背は通り越し、紫に近い高身長で、醸し出される雰囲気も前より随分と落ち着き、そしてその佇まいは吐息まで蠱惑的で妖しい。
 何より、出るとこが出ている。天子は恨みがましそうに橙の身体――主に顔の下、お腹の上辺り辺り――を睨みつけた。

「スキマ妖怪の因子にはボンキュッボンになる要素でもあんのかこんちくしょう」
「ああうん、そこかぁ……それより仕事も終わったわけだし、少し話に付き合ってくれない? どうせ暇でしょ?」

 それはつまり、そこに投げ出された生首が、今回の依頼の討伐対象だったというわけだろう。
 なぜ知っているのかなど聞く必要もない、橙が紫の能力を引き継いだということは、紫と同じスキマからの無数の目線でこの幻想郷を見ているということだ。

「仕事が楽に終わったんだ、対価としては十分じゃない?」
「残念、私の時間はお高いのよ」
「お酒もあるよ」
「喜んで同席するわ!」

 橙がスキマから取り出した瓢箪に、天子は声を弾ませて笑顔で擦り寄った。
 天子と橙は森から少し離れたところにある開けた丘の上にまで移動すると、それぞれ要石とスキマに並んで座って手に盃を持つ。
 通り抜ける風に髪を揺らされながら、山々の大自然を眺めて橙は口を開いた。

「紫様とは上手くやれてる?」
「まあまあね、家のことを役割分担でやれてる。と言っても、どっちかっていうと私があいつに家事を頼ってる形だけど」

 天子は酒を呷ってそう答える。一口で飲み干された盃に、橙が新たに酒を注いだ
 生活費を出している天子だが、家に住まわせてもらった上に家事まで紫にやって貰っているわけなのだから、天子がやっていることは紫に負担を上乗せしているだけに過ぎない。
 それでも紫は天子を家から追い出したりはしないのだから、天子もそれに甘んじていた。

「紫様を毎日守ってくれてありがとう」

 橙からの言葉に、注がれた酒を見ていた天子が顔を上げた。
 二人して遠い空を眺めながら、天子は慎重に口を開く。

「……あんた知ってたんだ」
「うん」

 現管理者にとってこの情報が既知であることは当然ではある、それでもいくらか天子は動揺していた、というよりも自分が守るような真似をしていることが少し恥ずかしかった。
 バツが悪そうに天子は頬を掻くと、観念したように語り始めた。

「びっくりしたわよ、あいつの家に住みだした最初の日からいきなり殺気だだ漏れだもん。もっと驚きなのは、あいつの無頓着さだけど」

 気配の根源が何者かは知らないが、無数にいて徒党を組んでいる辺り恐らくは妖怪だろう。
 家に注がれる殺気の向かう先は、間違いなく紫だ。
 それに危機感を覚えた天子が毎夜警戒に当たり、手出しできないよう膠着状態で食い止めているが、当の本人は何でもないように普段通りに過ごしている。
 あれでは凶暴な獣に、自ら首筋を差し出しているようなものだ。
 だが隠居初日の紫の態度を考えるに、牙を突きつけられた時になっても彼女は慌てさえしないだろう。

「紫のやつはさ、気付いてると思う? 狙われてることと、私が警戒してること」
「どっちも知ってると思うよ。あの人にわからないことなんてないから」

 そも天子が気付ける気配に、紫が察知できないはずがない。
 橙は酒を一口だけ含み、口の中で転がしてゆっくりと飲み込むと、わずかに酒気が篭った息をゆるく吐いて、天子を流し見る。
 無数の視点を得て、嫌な大人になった橙のじっとりとした視線が、天子に絡みついた。

「私はね、紫様を助けてくれる人は誰でも良いんだ。藍様でも言いし、幽々子様でも良い、ただ紫様が不幸にならず生きていてくれればそれで満足」
「ふん、弱気な話ね。私なら大切な人には幸せになってもらわないと満たされないわ」

 橙の想いを軟弱と言って捨てる天子に、橙は思わず笑いを零した。
 一度は紫を本気で怒らせただけあり、本物のエゴイストだ。

「なら、天子は何のために紫様を助けるの?」

 傲慢な天人を値踏みするように見ながら、質問を投げかける。
 すると天子は目を輝かせて、澄み渡った空に高らかと声を響かせた。

「もちろん、私のためよ!」

 一切の迷いのない宣言、欲に溢れ汚れた醜い思考、それなのにどこまでも透き通っていてウソがないと信じられる言葉。
 風に乗って響く声に、橙は満足したように歯を見せて口元を吊り上げた。

「紫様がそばにいることを許した理由がよくわかるよ」

 橙は座っていたスキマから立ち上がると、天子の膝に瓢箪を押し付けて自分は歩き出した。
 離れる途中、一度だけ天子に振り返る。

「その迷いのなさを信じてみるよ、ただし紫様を泣かせたら容赦しないから」
「むう、約束できないわね。あいつの泣き顔とか見てみたいし」
「引き裂くよ」
「冗談よ、半分くらいは」

 どうしようもなく煩悩まみれな天子に、橙はやれやれと溜息をついて新たに開いたスキマから帰っていった。
 天子は頂戴した瓢箪を手に持つと、直接口を付けて酒を貪った。

「そう、私は自分のために生きている」

 天子の意志はハッキリしている、どこまでだって自分の幸福のために生きて、面白おかしく過ごしたいと思っている。
 自分が一番大切な自分を醜いとは思うが、だからといってこの生き方を変える気はない。
 あっという間に酒を飲み干した天子は、瓢箪から垂れた最後の雫を舌先で受け止めると、どかした瓢箪の下から何もかもが楽しみでたまらないとワクワクした顔を現した。

「あんたはどうする、紫?」



 ◇ ◆ ◇



 なんで自分がここにいるんだろうと、紫は思う。否、ずっと思っている。
 今更やることもない私が、ずっと他人を利用してきた私が。
 目的のためには、歴史のつじつま合わせに幻想郷が必要だった、そのために全てを用意して全てを巻き込んだ。それはきっと罪深いこと。
 比那名居天子、私の被害者の一人。私が巻き込まなければこの幻想郷にしばられることもなく、他の生き方を選べたかもしれないのに。
 彼女に殺されるなら別に良いと思っていたけど、まさかここまで気遣ってもらえるだなんて、私には分不相応だ。
 そう考えながら紫が見つめる先で、天子はスプーンで掬い取ったクリームを口に加え、ひんやりとしたバニラの甘さににんまりと笑みを浮かべて身悶えした。

「ん~、あまーい! おいしー! 評判通りの名店ね!」
「確かに……これは中々ね」

 今日は天子と約束していた喫茶店でのデートの日だった。
 相変わらずセンチメンタルな紫をこの洋風の店にまで引っ張ってきた天子は、パフェを前にして目を輝かせながら一口一口を味わっている。
 紫も自分が注文したチーズケーキの舌触りを楽しみながらそう零した。
 悩みがどんなものであれ美味しいものは美味しいものだ。

「ほほう、外界のスイーツを食い散らかしてた紫も唸らせるか」
「謂れのない偏見を押し付けないでちょうだい。誰が食っちゃ寝妖怪よ」
「そこまで言ってない」

 天子はパフェからクリームをスプーンで掬ってもう一口食べると、紫が食べているチーズケーキに目をやった。

「紫は甘いものは苦手? ここクリーム系が絶品って話だったのに」
「いや、そうでもないわ。この前、藍が甘いお菓子持ってきてくれたから、今日は別の味をね」
「なにそれ、私知らない」
「その後来た幽々子が全部食べちゃったもの」
「亡霊許すまじ、今度あったらボコる。それはともかく紫のも一口ちょうだいよ、代わりに私のもあげるからさ」

 そう言うと天子は持っていたスプーンでパフェから底の方のアイスを掬うと、紫に向けて白い塊を差し向けた。

「はい、あーん」
「……間接キスなんだけど」
「いいじゃない、減るもんじゃないし。私は気にするわよ」
「気にするのにあえてやってるのね……」

 紫は憎らしげに天子を半目で睨みながらも、一応は好意である甘い匂いが漂う冷気に心が揺れる。
 ふと店の様子を見回してみたが、幸いというか言い訳にならず残念というか、賑やかな店内には顔見知りは誰もいない。
 しばし差し出されたアイスと期待するような顔の天子を見比べた後、根負けする形でスプーンをくわえ込んだ。
 目を輝かせた天子は紫の口からスプーンをゆっくりと引き抜くと、嬉しそうな笑みで両手を握りしめると身を震わせた。

「やった、紫が懐いた!」
「ペットみたいに言わないでちょうだい!」
「美味しい? 美味しい?」
「まあ……美味しいわ」
「でしょでしょ!?」

 懐かれたのはこっちの方だと紫は気恥ずかしさに溜息を付く、喜ぶ天子に犬の耳と尻尾でも見えるような気がする。
 とは言え、正直なところ悪い気はしない。静かな余生を送るつもりだったのだが、天子のような華に彩られる日常というのは、存外に甘く心を潤してくれる。
 だがそれはそれとして、天子のような若い魂を持つ少女が、もう気力の衰えた自分に構っているなど勿体無いとも思うのだ。

「いい加減、私の世話を焼くのを止めたら?」

 そしてアイスの甘さが、とうとう底の方で思っていたものを吐き出させた。
 天子はキョトンとした顔で、紫の目を覗いてくる。しかしその顔には拒絶された怒りも悲しみもない、無垢そうな瞳の下では一体何を考えているのだろうか。

「私がいたら迷惑?」
「そうじゃない……けど無駄な時間を過ごさせるのは忍びないわ」
「無駄ね、いかにも義務に追われ続けてたやつの言いそうなことだわ。何があったのかなんて知らないけど、もっとのんびりしたら?」

 そう言うと、天子は肩の力を抜いたまま、すいすいと紫の心に踏み込んでくる。
 パフェのコーンを口に入れ、ボリボリと小気味良い音を鳴らすと、肘を付いた右手の上に顎を乗せて言葉を続けた。

「気がついたら、あんたはすぐに空の向こうを見て心配そうにしてる。ここじゃない何処かじゃなくて、自分の足元を見る余裕すらない。あんたこそ他人のことに気を遣う前に、自分のために生きてみなさいよ。私はそうしてるわよ」
「……私のそばにいるくせに」
「それが自分のためよ、あんただけのために一緒に住んでるんじゃないわ」

 天子に言われたことは図星で、紫は憎まれ口しか叩けなかった。
 長い時間をずっと誰かのためだけに生きてきた自分が、どうやって己のために生きられる彼女の意思を汚せようか。

 羨ましいと、紫はそう思ってしまった。障害など物ともせずに、自分の幸福を追求できる天子を。
 以外だった、自分でもまだこんな感情が残っていようとは。てっきり磨り減ってなくなってしまったと思っていたのに。
 だがこれからの生き方として縋るのに、その羨望は弱すぎた。紫は静かに首を横に振り未練を払う。

「私なんかと一緒に居てつまらなくないの?」
「激しさはないけど悪くはないわ、こういう平凡さも時にはいい。あんたの傍は居心地がいいしね」

 この言葉には悪い気はしなかった、天子から好かれることに嫌悪感はない。

「それに、待つのは慣れてる」

 だが次の言葉は少し辛かった。
 そう呟かれた言葉の意味が、何を言わんとしているのか紫にもわかる。
 しかしだからこそ紫はため息をついて下を向いた。薄く開いた瞼の隙間から、食べかけのチーズケーキに視線を落とす。

「期待してくれて申し訳ないけど、私はもう歩きだす力もないわ」
「疲れてるやつはみんなそう言うけど、いざ元気になったら言うことを変えるもんよ」

 得意気に言った天子は、今度はスプーンにたっぷりのクリームとコーン、そしてさくらんぼを乗せて紫の口元に差し出してきた。

「はい! 元気になるためもう一口」

 どうやっても笑顔を崩せない天子に、紫も困り顔を浮かべながらも観念して口を開いた。

「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさま」

 一度は気落ちしたものの、場の空気を取り直してスイーツを平らげた二人は、手を合わせて最後を締めた。

「食べ応えもあってよかったわ」
「そのぶんお値段高めなんだけれどね、容赦なく一番高いの注文して」
「えへへ、ありがとねー、紫~」
「はいはい、払わせてもらうわよまったく」

 紫は椅子の下に置かれていた籠から鞄を取り出すと、口を開いて中に手を差し込む。
 しかしあるはずの手応えが指先から感じられず、不思議に思った紫が鞄の中を覗いて目を見開いた。

「ま、まさか……」
「どうしたの?」
「……その、天子、お金持ってない?」

 珍しく青い顔をして相手の顔を覗き込んむ紫に、天子は笑って答えた。

「あはは、持ってない!」
「奢られるにしても持ってなさいよ!?」
「いや、持っていこうとは思ってたんだけどね、玄関出た所で忘れたのに気付いて、でも奢ってもらえるからいいかなーって。まあ別に忘れたって大した問題じゃないでしょ、スキマで持ってくれば……」

 そこまで言った所で、紫がいつまでも硬い表情をしていることを天子が不信に思った。
 そしてここ最近の記憶を思い出し、隠居生活を始めたから紫が一度も能力を使う場面を見せていなかったことに気がついた。
 想像が繋がる、今までは隠居を始めるに辺り、あえて能力に頼らない地力の生活を送っていたのかと思っていたが。

「あんた、まさか……」

 驚いて天子が見つめる前で、紫は歯噛みして目を逸らした。
 予想が確信に変わり、お客の声と食器の音が響く店の中で、不気味な静寂が二人のテーブルでだけ流れた。

「――おや、天子じゃないか。お前もここに来たのか?」

 知っている声が届いてきて天子が振り向くと、そこには店の入口に立つ慧音の姿があった。
 今はプライベートらしく、お硬いなりに肩の力を抜いた口調だ。
 天子はこれ幸いとばかりに表情を変えて、媚びた笑みを浮かべて席を立つと慧音に擦り寄った。

「慧音、ちょっとこっちこっち!」
「お、おいなんだ!?」

 天子は素早く慧音の腕を引っ張って店の衝立の影に連れ込むと、両手を合わせて頭を下げた。

「慧音! いや慧音様、お金貸して!」
「はあ?」

 いきなり金の無心をしてきた天子を、慧音が呆れた目で見下ろしてくる。
 慧音は衝立から顔を出して紫の硬い表情に目をやってから、もう一度天子へ向かって口を開いてきた。

「まてまて、どういうことだ。お金がないならあっちの妖怪に払ってもらったらいいだろう」
「いやさ、今日は私が奢るって約束だったのにお金忘れちゃって……あいつに貸しを作ったら厄介なのよ、わかるでしょ? 明日には返すから」
「財布を持ってこなかったお前の責任じゃないか」
「お願いだって! 今度里で何かあった時には半額で……いやタダで受けていいから! それならどう?」
「うぅむ……」

 出し渋る慧音だったが、最終的には天子に言いくるめられて「今回だけだぞ」と財布を開いてくれた。
 天子から告げられた金額に一瞬嫌な顔をしたものの、足りるだけの金額を天子にこっそりと握らせる。

「やった、ありがと守護者様」
「世辞は良い。それよりさっきの約束は忘れるなよ」

 慧音は同席かを尋ねてきた店員に「いや、もう用は済んだので帰る」とだけ言い残し店を出ていった、どうやら金額的に痛かったようだ。
 悪い気はしたが向こうも条件に見合うと思っての行動であるし、天子はそれ以上悪く考えずお金を握りしめて紫のもとに戻った。

「さあ、お金は工面できたわよ。もう買い物もできないし帰りましょ」
「……えぇ」

 明るい顔で伝票を手に取った天子に、紫は硬い表情のまま着いていく。
 支払いを終え帰路についたが、里から出て人気のないあぜ道にまで出てくると、紫が震える唇を開いた。

「……失望したりはしないのかしら」

 前を歩いていた天子が立ち止まって後ろを向く。
 紫は左腕を右手で身体に寄せ、肩身を狭くして顔を背けていた。

「何が?」
「こんな、力を失った情けない姿を見せて」

 紫は苦汁をなめる気持ちで、眉を歪めて腕を握りしめる。
 皺ができた服の下で、引き絞られる肉が痛むのも気にせず力を込めた。

「もう昔みたいに、あなたと張り合えるほどの力も残ってない。今の私はただの燃え滓のようなもの……」

 最初は隠すつもりはなかったのだが、明かさずにいるうちにいつのまにか秘密になってしまっていた。
 力比べが好きな天子のことだ、これを知られてしまったら自分のことを見限るのではと、いつしか思うようになった。
 それを知られてしまった紫はどんな目で見られるか不安に駆られながら、恐る恐る天子に視線を向けた。

「――ああうん、びっくりしたわよそりゃ」

 しかし天子は、キョトンとした顔にあっけからんと答えただけだった。
 間の抜けた表情に、紫まで釣られて目を丸くしてしまう。

「……それだけ、なの?」
「いや、それだけってなに?」
「だって、私はもう昔のような力を持ってなくて、あなたを楽しませるようなことなんてできない。無力な私に、あなたの求めるような価値なんて無いのに」

 それを聞いた天子は、ムッと眉を寄せてようやく不機嫌そうな顔をすると、紫の前に歩み出た。
 威圧的な雰囲気で詰め寄ってくる小柄な少女を前にして、紫は見下ろしながら一歩引き下がった。

「私が! 力だけ見てあんたに惹かれたとでも思ってんの!?」

 天子の怒声が虚しく響き、草を揺らした。
 予想外の怒りを見せる天子に、紫は瞳を震わせて驚くばかり。

「力だけなら強いやつなんていくらでもいるでしょ! 私が好きになったあんたは、そんなとこじゃないわよ!!」

 それだけ言うと、天子は踵を返して紫に背を向けた。

「下らないこと言ってないで、ご飯でも何でも作ってなさいよ。能力がなくたって、やれることはいくらでもあるんだから」

 怒った天子は腹いせにその辺の石ころを蹴飛ばすと、大股で地面を踏み荒らして進んでいく。
 刺々しい後ろ姿を見ていて、紫はむしろ安堵を感じてしまっている自分に驚愕していた。

 もう独りでいようと決めていたはずなのに、天子に見捨てられなくて良かったと思っている。
 この心境の変化に心が付いていかない、老いた心がこんな執着心を見せるとは思わなかった。
 しかし、だとしても自分が天子にしてやれることなど――

「――――これは……」

 呆然としていた紫が、何者かの気配に気付いて周囲を見回した。
 今しがた一瞬だけ感じたのは、真夜中に現れるものと同質の。

「なーにー? まだなんかあるのー!?」
「いや、なんでもないわ」

 まあ別に、大したことではないと、紫はそれ以上興味も示さず天子の後を追った。



 ◇ ◆ ◇



「――ああそうか、あの時、紫が見たのはあんたらか」

 闇夜の中、来る日も家の屋根に立っていた天子は、とうとう表れた変化に帽子の下から目をギラつかせる。
 相変わらず紫の家を取り巻くのは敵意ばかりだが、今日はそれだけではなく人ならざるものたちが家を囲むのを月に照らされていた。
 月の光を映した瞳で天子に視線を注ぎ込み、毛むくじゃらの汚い足で踏み込んでくる。

「ふん、とうとう我慢できなくなって出てきたわけか俗物どもが」
「そこを退け、天人よ」

 家を取り囲む妖怪の内、リーダー格と思われる者が現れた。
 人と変わらない身体に生えた蝙蝠の翼というわかりやすい異形。
 もしかしたら昔あったという吸血鬼異変の生き残りかもしれないが、天子としてはどうでもいいことだ。

「我らはもはやこのような狭い檻の中でなど我慢できぬ。かつての管理者であった八雲紫を血祭りに上げ、我々『真妖怪連合』は外界へと進出し、再び人間どもの世界に闇の恐怖を知らしめるのだ!」
「あーあー、わかりやすいわね三下共が」

 天子は緋想の剣を握り込むと、緋色の灯火とともに地面に飛び降りた。
 敵意を向ける妖怪の筆頭を鼻で笑って見下す。

「紫の弱体化を知らないと勇むこともできないあんたらが、今更外に出たことに何が出来るっていうのよ」
「新参者にはわかるまい、古くから土地に根付いていた我々が、ある日突如としてこの檻に閉じ込められた怒りを、憎悪を!」
「あの甘ちゃん妖怪が、意味もなくあんたらを選ぶわけ無いでしょ。どうせ幻想郷を作るために、ちょうどよく滅亡しかかってたやつばっかり連れてきたんだわ」
「我々とて外で生きていける、かつてのように夜を闊歩してみせる!」
「自分の弱さも認められない強者気取りが、結界を超える前に倒されるのがオチよ」
「そうはならない! 八雲紫の屍肉を元に、我が新たな力を作り出し必ずや世界に風穴を開ける!」
「できないっての」

 元から理解り合う気もなく、感情を叩きつけるだけの会話に飽きてきて、天子は緋想の剣を構えた。
 対峙する妖怪たちの数は三桁は超えるだろうか、攻めるならともかく守りきるとなれば至難。
 危険な戦いとなるであろうが、天子に退くつもりなど微塵もない。

「まあいい、私だって人のことを言えない俗物よ。あんたら程度が幻想郷をどう引っ掻き回そうが見世物以上の興味はないけど、紫に手を出そうっていうのなら話は別よ」

 数え切れない敵意の眼差しの中で、にんまり笑いを浮かべた。

「あいつみたいな面白いやつ、あんたらなんかに渡してやらないんだから」



 ◇ ◆ ◇



 その夜、紫は外の異変に気づいて少し目が覚めて、しかしまたすぐに寝た。
 それから少しして、妙に催してきて仕方なく布団から起き上がる。
 窓の外から聞こえてくる土砂が飛び散る轟音を無視して、部屋から出て一直線に厠に向かった。
 素足で踏みしめる床からは何かの振動が届いてきたけれど、用を済まして部屋に戻ろうとした所で、ふと振り返って天子のことを思う。
 なんとなく彼女がどんな顔でいるのか見たくなった。

 そのまま来た道を戻らずに足をすすめる。
 居間にたどり着いた紫は、外の圧に震える縁側の戸に手を伸ばし、勢い良く開け放った。

 飛び込んできたのは緋色の結界と、魂の奥底まで響く咆哮だった。

「てえええりゃああああああああああああああ!!!」

 結界に群がる魑魅魍魎のうめき声を、芯のある雄叫びが貫いて広がる。
 力強いのに透き通ったような凛とした音に、一瞬紫は酔いしれた。

 振り抜かれた剣から緋色の光が波紋のように広がり、天子を囲む妖怪たちを吹き飛ばす。
 天子は家が襲われないように要石と気質の膜で結界とすると、大量の妖怪を前に大立ち回りを演じていた。
 しかし敵が多すぎる、紫に恨みを持った妖怪たちが彼女の弱体化を聞きつけ幻想郷中から集まったのだから、家の周囲は空から見れば黒く塗りつぶされるくらいの異形が集まっていた。
 家を護る結界に能力のリソースを割いているため、天子は攻撃に派手な大技を使えずひたすら気質を固めた剣で近距離で戦うしかなくなっていた。
 妖怪の中には戦闘を避けて家に押し入ろうと結界に取り付いているものもおり、天子が一度引き下がって結界の周囲の敵を斬り捨てた所で、結界越しに紫と目があった。

「なんだ出てきたの。でもまだつまらない顔してるわね、やる気が無いならじっとしてなさいよ。今は私が守ってあげる!」

 そう言って天子は紫に背を向けると、振り向きざまに剣を一閃した。後ろから飛びかかってきた塗り壁の妖怪が、一瞬で胴元から吹き飛ばされ霧のように消え去る。
 空色のスカートを血で汚した天子の前で、吸血鬼らしい妖怪が紫を見つけた愉快そうに喉を震わせた。

「ハハハハハ、見つけたぞ八雲紫! 貴様にここへ引きずり込まれ、挙句追いやられた恨みを我は忘れていない! この日を同胞たちと待ちわびていたのだ、お前の首を晒し上げ外界侵攻の狼煙とし……」
「随分と愉快そうね天子」
「そりゃそうよ、憧れの相手を助けるんだから、こんなに愉快なこともそうないわ!」

 口上を遮られた吸血鬼が口元を歪ませるのも気にせず、天子は笑って剣を振るい四体の妖獣をまとめて塵芥とした。

「貴様らぁ、舐めるのも大概にしろ! 何をしてる押し潰せえ!!」

 怒鳴り声に妖怪の攻勢が強まる。天子の迎撃も追いつかず、少女の身体に数発の爪や拳が叩き込まれた
 その程度では天人の頑強さをくずせないが受け続けるのはよくない、だが何よりの問題は結界に攻撃を加えている者もいることだ。
 結界に張り付いて牙を突き立てていた蜘蛛の妖怪を蹴散らすが、他にもまだ大量の妖怪が結界の周囲に残っており、このままでは早々に突破される。

「ちぃ……仕方ない!」

 舌打ちをした天子が、結界の基点となっている要石を内側に動かし、結界の大きさを縮小化させた。
 気質の密度が増して結界の厚さが強まるが、結界を動かした影響で地面が削られていき、天子が耕した畑が吹き飛んでしまった。
 それを見て紫は勿体無いなと思う。

「邪魔立てするなよ小娘が!」

 指揮を取っていた吸血鬼が、他の妖怪の影に隠れて接近すると天子の顎を真下から蹴り上げた。
 天子は頭を通り抜ける衝撃に眼をくらましながら咄嗟に拳で反撃するが、命中したところで途端に感触が消えてしまった。

「……そうか、霧になったか。剣じゃないと駄目ね」

 物理的なだけの攻撃は通じないようだ、腐ってもこれだけの妖怪をまとめあげる力くらいは持ち合わせてるらしい。
 一対一なら負ける気はしないが、大量の相手を防衛しながらの相手となると分が悪い。おまけに本人は霧になって逃げた後は、また他の妖怪にまぎれて機会をうかがっているようだ。
 苦戦する天子に、紫がぼんやりと問う。

「憧れ……この私が?」
「ええそうよ、恥ずかしいからあんまり言わせないでよ……ねっ!!」

 羞恥を振り払うように天子が力いっぱい剣を振り回す。
 その間にも妖怪の攻撃は止まらず、繰り返される猛攻に天子の腕の肌が裂けて血が飛び出た。

「……っ、痛いじゃないのよ!」

 久々の切り傷に天子は顔を歪ませ、腕の傷を指でなぞると妖怪に向けて血を払った。
 飛んできた血を口にした一つ眼の妖怪は、喉の奥から煙を吹き出して苦しみだし地獄の悲鳴を上げる。

「ぎゃああああああ!!? いだい、腹が喉があ!!?」
「バカが、天人の血は妖怪にとって毒だ、飲んだりするなよ!」

 意表を突いてみたものの、状況は秒ごとに切迫していく。
 力を失っていく気質の壁に、仕方なく天子は更に結界を縮める。
 結界の外周は家の壁面ギリギリにまで狭まってしまった。

「わからないわね、私のどこに憧れようがあるというの? かつての力はもうない、今はもうちっぽけな妖怪に過ぎないこの私に」

 すぐさきにある結界に圧力を感じながら、紫が繰り返し疑問を呈する。

「言ったでしょ、力の有無は関係ない!」

 蛙の妖怪が毒液を吹きかけてきたのを、浴びながら反撃して剣で串刺しにした。
 傷口から煙が上がり激痛が走るのをこらえ、天子は懐から丸薬を取り出して口にする。
 天界秘蔵の仙丹だこれで一時の無理が通せるが、痛みだけはどうにもならないのを気合で越える。

 段々と追い詰められていく天子を、遠方から見守っている四つの目があった。

「見ていられないぞ橙、あのままでは我々が助けに入ったところで天子が間に合わないぞ。後遺症が残るか、悪くて死ぬ可能性がある。もう行くべきではないのか」

 木々の頂に乗った八雲藍が、腰をかがめて九つの尾を逆立たせながらそう漏らした。
 応と言えばすぐにでも矢の如く飛び出しそうな九尾を隣に、夜に紛れて立つ黒猫はこれを制した。

「駄目ですよ藍様。天子は今、命を懸けて呼び掛けてる。彼女が死んだって邪魔しちゃ駄目です。紫様は助けても、天子は見捨てます」
「それを、あいつは望んでいるとでも?」
「そういう訳じゃありませんが、自分の邪魔されるのだけは死んでも嫌だと思いますよ」

 冷徹に言い放った。

「アレは紫様を助けるためじゃなく、私利私欲のために走ってますから」

 結界がさらに狭められる。
 家の壁が、屋根が、柱が吹き飛んでいく。
 紫が隠居してからこれまでの生活が音を立てて消えていく、脱衣所に佇んでいたアヒルのオモチャが捩じ切られ、読みかけの小説がバラバラに破けて紙片が宙を舞う。
 とうとう結界は一辺が一メートルもない柱状となり、紫は四方を結界の基点である要石で囲まれながら、地面に落ちた畳を座布団代わりにして正座していた。

「私が好きだから助けるとでも言うの?」
「それもあるけど、それだけじゃない!」

 純粋な善意だけで助けようというのなら、もっと利口な方法を選んでいる。
 それなのに紫の前でこんな一人舞台を選んだのは、彼女が生粋のエゴイストだからだ。
 最高の舞台を独り占めしたいから、こうやってわざわざ一人で死線に望んでいる。

「いい加減、無駄な抵抗をやめろ小娘があ!」

 ちょうどいい道化の殴打が、天子の腹に食い込んだ。
 中々いい一撃を貰い、天子の集中が乱れ結界にまで影響が出る。
 そしてとうとう結界の壁面の一つが、敵意を前にして砕け散った。

「くっ――」

 そのまま紫に殺到しようとした妖怪を、天子は緋想の剣で即座に薙ぎ払う。
 だが次の攻撃を前に結界の修復は間に合わない。仕方なく天子は緋想の剣をしまうと、紫と向き合ったまま両腕を広げて要石のあいだに立ち、自らの身体から気質の壁を作った。
 これで紫は守れるものの、天子の背中は結界の外にありがら空きだ。
 調子に乗った妖怪どもが、差し出された背中に攻撃を加えているのを見て、紫は眉間を歪ませる。

「もうおやめなさい。私にはあなたの期待に応えられるほどのものが残ってないの」

 天子が焦点の合わなくなってきた眼で見つめてくる。

「私は今までずっと目的のために生きてきた、その他のものはすべて寄り道。彼らがこんなに怒るのも当然ね、私はただ利用しただけ。私の余計なお世話などなくても妖怪が外で生きていける可能性も少ないけどあったかもしれない。ならそれに身を差し出してもいいかなと、思ってしまうほどには生きる理由を失ってしまった」

 他人のために生きようと思う活力さえも残っていないと紫は思う。心は疲れて動けず眠りたがっている。
 もはややるべきことはやり尽くし、自らの存在理由などすべてが消えた後。

「私は妖怪として成った時から青春の只中で走り続け、目的を果たした時に春が終わったの。すべての情熱は老いて冷めきり、あなたの前にいるのは、もうただのおばあちゃん」

 すべては過ぎ去った過去だと、紫は淡々と語った。
 その瞼はとても重たそうで、ともすれば傷ついた天子の眼よりも簡単に閉じてしまいそう。
 静かに灯火が消え行く瞳の前で、天子は性懲りもなく、自信満々の笑みを浮かべた。

「生きる理由がないのなら、見つけに行けばいいのよ」

 その言葉は紫が思ってもいないものだった。
 天子の口からそう言われることがではない、そんな生き方自体がとっくに紫の中から消え去っていた。

「紫、覚えてる? あんたが私の前に初めて出てきた時の怒り。あの怒りように、私は一目惚れしたの」

 その時のことは、紫もよく覚えている。
 自らの願いを打ち砕きかねない天子の蛮行に、自分は煮えたぎる怒りをそのままぶつけた。あんなに感情的に動いたのは久しぶりのことだった。

「あの時の怒りは鳥肌が立つくらいおぞましくて、死を覚悟するほど恐ろしくて……でもこの怒りは、何かに縛られてる怒りだって思った」

 天子は当時を思い出しただけでも肝が凍る恐怖に、せめて苦笑いを浮かべる。
 あれに比べれば、今しがた背中から感じる痛みなど遊びみたいなものだ。

「素敵なことだと思うわよ? あれだけ本気で怒れるほど、本気で好きなものがあるなんて……でもこうも思ったのよ。こいつが何かを果たして、楔から解き放たれた時に、ようやく自分の人生が始まるって」

 紫の眼が静かに見開かれる、長年止まっていた心臓が動き出したかのように、体の奥を何か駆け巡った。

「今まで大切なもののために費やしてた情熱を、自分のために使えるようになれば、きっと幻想郷を作るよりすごいことがいくらだって出来る。見果てぬ世界を駆け巡って、面白いものを全部探し出せる。三千世界を超えて、どこまでもどこまでも――」

 天子は血が流れて痛みで零れ落ちそうな手を、震わしながら必死で紫に向けた。

「紫! 私は自分のために生きるあんたと、一緒に歩いてみたい! 二人で一緒に面白いものを探しに行けば、きっと最高に楽しいわよ!」

 その顔は苦難の中でも輝いていて、紫はこの世の終わりだろうとこれが消え去ることはないと信じられた。
 命の息吹が吹き込まれるのを感じる、摩耗した魂が脈動を始め、捨て去った欲望が疼き出す。
 もう一度、世界の全てを見てみたい、そこにはきっと、このワクワクを超える驚きが待っているはずだから。

 ――嗚呼、そう言えば昔も、そんな風に願いを抱いて、誰かの手を取って歩いたこともあった。

「だから、いい加減に倒れろと言っている!!」

 吸血鬼の繰り出した手刀が、天子の脇腹に突き刺さり紫の前で血が吐かれる。
 致命打を受けてとうとう結界の維持ができなくなり天子が前のめりに倒れ込む後ろから、妖怪が大挙して押し寄せた。
 眼をギラつかせた妖怪たちが、妄執に突き動かされ紫に汚れた手を伸ばす

「八雲紫、覚悟ぉー!!!」

 叫び声が響いた直後、無数の光弾が周囲を跳ね回った。
 超高速で放たれた弾丸は、計算し尽された軌道で妖怪の群れを貫いて戦闘能力を奪う。
 最後に光弾に弾かれた吸血鬼がもんどり打って背後に引き下がったところで、信じられないものを見る目で声を震わせた。

「な……な、な、ななな……なあーっつ!!?」

 倒れ伏せた妖怪たちの中心で、傷ついた天子を抱えて夜に立つ紫は、衰えを感じさせない眼光でここでないどこかを見据えていた。
 とうとう立ち上がった紫が、覇気を漲らせる。それだけで周りの有象無象の妖怪たちは嵐が吹いたように感じ、あまりの恐ろしさに竦み上がった、
 弱体化などとんでもない、かつて吸血鬼が一度だけ紫と対峙した時よりも遥かに増した恐怖が場を圧し潰していた。
 紫打倒を掲げて集まってきた妖怪たちも、紫の一睨みで足を止める。一歩踏み出せば無事に済まないと感じさせる圧力が確かにあった。
 だがその圧力はすぐに掻き消え、鋭い眼光を放っていた紫は目元を和らげて喉を震わして笑い始めた。

「はは、あはは、あはははははははは!!」

 一転して陽気な笑い声を響かせる紫の異常さに、妖怪たちはむしろ怯えて後ずさる。

「へへ……やっとその気になったわね」

 抱えられていた天子は、紫の手を支えにして立ち直ると、お腹を押さえて笑う紫を見て満足気に口元の血を拭った。

「ハハハハハ……バカみたい、こんな年寄りに、そんな熱烈なプロポーズ」
「プロポ……!? ……まぁいいわ、そういうことで」

 不意を打たれた天子は、少し恥ずかしそうに口をすぼめた。
 紫はそんな天子を見て意外とかわいいじゃないと思いながら、涙で滲んだ眼をこすり彼方を向く。

「……もう一度、視えないものを探しに行っていいのかしら」
「当たり前でしょ、どこまでだって行こうじゃない」

 紫はふと瞳を閉じて、はるかな過去に想いを飛ばした。
 懐かしい記憶、暗闇の中を目指した日々、けれど急ぎすぎたせいで大切なあの人の手を離してしまって、後悔だけがこの手に残った。
 けれど今は――紫は眼を開けて、天子と繋いだ手を見下ろした。

「少しだけ昔を思い出したわ。まだ女の子だった頃、こうやって手を繋いで一緒に歩いたっけ」
「へえ、面白そうね、聞かせてよ」
「イヤよ、誰があなたみたいな自分勝手な女に」
「だと思った。まあいいわ、聞かせてもらうまでもなく、これからたくさん見せてもらうんだから」

 そこまできて二人はようやく自分たちを取り囲んでいた妖怪たちを見据えた。
 紫を殺しに来た者たちにとって今の会話は絶好のチャンスであったはずが、一歩も踏み出せなかった。
 だが闘志を増していく二人を前にして動かなかったことをすぐに後悔する――もっと早くに逃げ出しておけばよかった。
 今の二人に負ける気など微塵もなく、ただ未来を見据える眼を前にして勝つ気さえなくなり、統率していた吸血鬼は泡を食った表情で立ちすくんでいた。

「それじゃあまずは」
「庭掃除と行きましょうか」

 それは語るまでもなく、遠目に眺めていた橙と藍が、哀れみを感じるほど一方的な戦いであった。
 もはや戦う気をなくした妖怪たちの中心に天子が飛び込んで電光石火で責め立てて、紫が遠距離からの攻撃で支援して傷一つ付けさせない。
 ただ紫が手心を加えて、そこからは死傷者がいなかったことだけは記しておこう。













「藍? ……ええそう、今は南米にいるわ。昨日は現地に住む妖怪たちと呑んだくれたばかりよ」

 どこぞの密林の中で、不釣り合いな道士服を着た紫が、足元にバッグを転がしながら耳元にやったスマートフォンに話しかける。

「幻想郷から外へ戻ることを望んでる妖怪に、できるだけ場所を提供しなくてはね。ここなら一部の妖獣は過ごせそうだわ、言語も違うから希望者は少ないだろうけど、一応候補に……え? 寄り道ばかりですねって、いいじゃない何処へ行こうが」
「紫ー!」

 バツが悪そうに答える紫のもとに、天子が手を振って駆け寄ってきた。
 紫は「それじゃあね、また連絡するわ」とだけ伝えて通話を打ち切る。

「あっちに遺跡あったわ、一緒に探検しましょ!」
「いいけどあんまりはしゃぎすぎないでね、先月もエジプトで映画みたいな目にあったばかりじゃない。今の私は能力もないか弱い女の子なんだから」
「よくいうわ、妖力に術式組み合わせただけで私より強いくせに」
「それでも地力じゃ劣るんだから、小手先が通じない状況じゃどうしようもないわよ」
「その時は私がどうにかしてあげるわよ、さあ行きましょ!」

 快活な声とともに差し出された手に、紫は柔らかな笑みを浮かべて握り返した。

「ええ、あなたとならばどこまでも」
「思った通り、紫と一緒に行くのは楽しいわ!」

 そう言ってもらえるのは嬉しいけど、私一人じゃ立ち上がれなかった。

 もう一度歩いてみようと思えたのは、あなたの底抜けの輝きがあったから。

 あなたが私の見るものを一緒に見たいというけれど、私が一番見たいのはあなたがどこまで行けるかなのよ。

「――なんて、言えないけどね」

 恥ずかしさに舌をぺろりと出した紫が、天子に見られてない内に微笑を零す。

「ほら、遅いわよ紫! もっとダッシュダッシュ!」
「そんなに急いで、転んでも知らないわよ」
「とかなんとか言って、足腰弱ってるんじゃないのお婆さん?」
「誰がお婆さんよ。まだ負けないわよ」
「なら競争よ、どっちが謎の遺跡の秘密を解き明かすか!」
「いいわよ、やってあげようじゃない。負けたほうが一日メイドの真似よ、這いつくばらせてご主人様って懇願させてあげるわ」
「ベーっだ、やってみなさいよね!」

 すり減った魂は、灯りを受けて輝きを取り戻した。
 この手の中に光があるかぎり歩いていける。
 きっと世界の果てすら乗り越えて、どこまでも永遠に。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ここまでお読み下さりありがとうございました。
 今回のお話、書き出した直後は「老年カップルみたいな静かなゆかてんが読みたい!」と思っていたんですが、どこかでヌメモンからもんざえモンになるような突然変異的進化を起こしてこうなりました、ありていに言えばいつも通りです。
 しかしそのための舞台設定に秘封倶楽部を単体で使うならまだしも、ゆかりんを関連付けてしまったもんですから、東方Projectの禁足地に足を踏み入れてしまったような気分で戦々恐々です((((;゚Д゚))))
 このために秘封を引っ張り出すのは気が引けたんですが、ゆかりんに老いを受け入れて貰うにはこれしかないと思って強行しました。秘封倶楽部が大好きな方の気に障ってしまっていましたなら申し訳ありません、ごめんなさい。

 最後までお付き合い頂きありがとうございました。

>コメント7さん
誤字報告ありがとうございます。
ゆかてんバンザーイ!!!

https://twitter.com/digi_freedom
電動ドリル
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コメント



0.300簡易評価
2.90奇声を発する程度の能力削除
とても良かったです
4.80名前が無い程度の能力削除
確かに前置きとあとがきにもある通り、秘封スキーな人たちには酷な内容になってると言えるかもしれませんね…。自分は気にならなかったのですが。
一方でゆかてん(いつもの)はよかったと思います。このゆかりんいつも天子ちゃんの奔放さに救われてんなまた結婚しろ(豹変)
5.100名前が無い程度の能力削除
弱ってる紫とそれを支え活を入れる天子の描写がとても良かったです
しかしこいつらいつも結婚してるな(呆れ)
6.100名前が無い程度の能力削除
さすがのゆかてん!
7.100名前が無い程度の能力削除
ゆかてんはいいぞぉ……!紫が懐いたのセリフがとてもしっくりきて可愛い天子ちゃんと同じ気持ちになりました。
天子の真っ直ぐさにぐいぐい引っ張られちゃうゆかりん可愛い。そうか、ちゃんと料理は出来ましたか(感涙)
大人橙も珍しくて素敵。ハラハラしつつも相変わらずの王道展開でとても楽しく読めました、ありがとうございました

誤字脱字報告でございます↓
・繰り返す呟く天子は、ギラギラと輝く視線を紫に叩きつけられてきた。→繰り返し呟く、または「繰り返す天子は」?・叩きつけてきた?
・紫がまともな意識しているなら串刺しにされる自分をイメージするだろう。→まともに意識、または「まともな意識を」?
・この洗い物のは明日の自分に放り投げることにして、→洗い物は
・脱水所に佇んでいたアヒルのオモチャが捩じ切られ、→脱衣所
・もはや戦う気をなくした妖怪たちの中止に天子が飛び込んで電光石火で責め立てて、→中心に、攻め立て

以上です
ゆかてん万歳!
8.100名前が無い程度の能力削除
とても良かったです…!
いつも通り自由に自分勝手に生きてる天子ちゃんと、それに救われる紫さまの組み合わせ…すきです!
10.100名前が無い程度の能力削除
ゆかてんはいいぞ・・・
11.100名前が無い程度の能力削除
ゆかてんはいいぞ…ハッピーエンドええぞ!ええぞ!
14.80名前が無い程度の能力削除
面白かったです
蓮メリ好きですが、蓮メリは別離エンドも多いので全然大丈夫でした
むしろ秘封時代と今との間で揺れ動く紫の気持ちをもっとがっつり書いてもおいしいです