Coolier - 新生・東方創想話

午前二時のホットジンジャー

2017/09/24 19:12:57
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 午前二時のホットジンジャー/cat and kitchen

 

 夜の地霊殿を、猫の抜き足で歩いた。

 時刻は午前一時を回っている。クリーム色のネグリジェと尻尾を翻して、私室を後にした。誰も起きているはずもないのに、音と息を殺した。
 灯りの落とされた廊下、窓に射す鬼火の灯りは儚い。目と慣れに任せて、夜の温度を吸ったタイルに素足を落とした。
 靴を部屋に置いてきたのは、罪の意識があるから。あたいは今、いけないことをしようとしている。


 
 ペットの健全な生活を守るために、地霊殿では皆が地上の太陽に起睡を任せる。野良妖怪だったころにはありえない生活習慣。そもそも、習慣という言葉そのものが縁遠かった。目が覚める時に目を覚まし、おなかがすいたら獲物を追いかけ、眠くなれば体を丸める。猫やカラスの本能のままに生きてきた。
 それを正したのは、我らが主さとり様だ。ペットを拾った彼女は自ら教鞭をとり、マナーを教え、知恵を授け、文明を与えた。おはようとお休みの挨拶。朝昼晩の食事。こなすべき仕事。寝床と家族。地霊殿にいる理由。日々の暮らしに文明と意味が宿り、怠惰と飢餓の生活が遠のいた。習慣を身に着けるにつれて、あたい達は力を増した。ある日を境に、立つ足と掴む手が芽生えた。ひとの形を手に入れて、できることとするべきことが増えた。

 “Manners maketh man.”

 地霊殿の門をくぐった日から、さとり様がことあるごとに呟いていた横文字の響き。人型化を果たし、言葉を覚えて初めて 、辞書を片手に解説してくれた。地霊殿のこぢんまりとした図書室。大きなオークの机の上で、羊皮紙に染み込んだ横文字に日本語で意味を添えた。

 『自律が、ひとを作る』

 さとり様が、万年筆の背で文字を追った。あたいも、オウム返しのように続けて発声した。

「かなり意訳が入ってるけれど。本来の意味は、『礼節が人を作る』よ」
「自律って、さとり様がいつも口を酸っぱくしてるあれですよね」
「そう、自らを律するルール。人型を作る枠組み。文明を持つ者のたしなみね」

 さとり様はあたい達にやさしい。抱擁は慈母のように、愛撫は温かく。それでも規則やマナーに関しては、それはもう厳しかった。ご飯の食べ方や、寝る時間には特にうるさい。食事睡眠は生物の欲求の三分の二を占める重大な要素。ここを疎かにすれば、ほかの生活も崩れるという。

「逆に言えば、これができなきゃ人型としては半人前。野良妖怪と同じね」

 万年筆を机上に穏やかに転がして、そう呟いた。ぞっとする。マナーをわきまえないペットは捨てるぞ、っていう宣告に聞こえて。あたいの心を読んでか、温かい手が、逆立つ毛並みを撫でつけた。

「おバカ。その時はまたマナーを叩きこむだけよ」
「にゃは、安心しました」
「あら、心当たりがあるのかしら」
「えーと……」



 廊下を曲がって、窓の仄明りとは違う、暖色の光を見た。等間隔に壁に取り付けられたガス灯。地底に吹き出す天然ガスを配管に通して、地霊殿全体の照明を賄っている。その一つが、小火をくねらせて廊下に影を落としていた。地霊殿の消灯は十二時。

「消し忘れかな」

 窓を薄く通す旧都の明かりに紛れて、消灯担当のペットが見逃したのかもしれない。壁から生えた真鍮のツタに支えられた、チューリップのような耐熱ガラスの花弁。漏れ出るガスを依り代に、淡く暖かい火がゆらめいていた。硬いタイルの感触を足裏に、地面を蹴って宙に浮いた。
 微かな気体の臭いに、鼻がひくついた。灯る灯りは華やか。揺らめく灯火に目を奪われそうになる。
 かつては消灯もあたいの仕事だった。さとり様に任された数多くの責務の一つ。夜毎の巡回で、こうして廊下を歩いては光を落としていく。その目的は節制のためではなく、昼夜の切り替えだ。朝夕の概念の薄い地底には、いつだって光が灯る。一日を一日と意識しない地殻下の習慣に、さとり様はよく眉を寄せていた。殊、時間の規則には厳しい。
 光に近づき、過去の仕事を伝うように想起するうちに、記憶の波は最初の消灯にたどり着いた。
 立てた小指、垂れた長針、仄暗いキッチン、舌を焼く甘く微かな刺激。揺れる火に招かれて、過去があふれた。今日みたいな、初冬の夜だ。
 ガスを絞るために、あたいは花弁の根元のつまみに手を伸ばした。



「自律が豊かな生活を作るのよ」
「じりつ、ですか」
「ええ」

 金属のつまみを捻って、さとり様が暖色の灯りを落とした。深夜の地霊殿。他の住民が寝静まった館には、二人分の足音がよく響いた。時計の長針はてっぺんを回っていた。
 年中眠らない旧都の中心で、さとり様はこうして毎夜館の消灯に回る。今宵はその夜回りにあたいをつき従えた。その内、これも仕事として任されるのだろう。
 常識を欠いたペットたちを放任すれば、家が荒れ放題になるというのがさとり様の弁。地霊殿はペットの楽園ではあるけれど、しつけやマナーだけは日常や仕事を通してしっかり教え込まれる。てんで妖怪らしくない。さとり様には拾われて育てられた恩義があるから喜んで従うけれど、寝たいときに寝て、遊びたいときに遊んで、食べたいときに食べるようにしたいというのが勝手気ままな猫としての本音だった。外ではそれは果てもなく贅沢な希望だと知りながら。本音が心にもれて、目ざとく読まれた。

「毎日毎週、決まったことをする。そこから導き出せるものがある。この夜回りだって同じよ」

 朝起きて、ご飯をみんなで食べる。少し仕事を済ませて、昼食。午睡をしたり、お茶をしたり、本を読んだり。残りの仕事を片付けて、晩御飯を食べれば、わずかな自由時間を残して地霊殿は夜を迎える。そのひとめぐりを一日と呼んで、それぞれの時間に割り当てた生活を、習慣と呼ぶ、のだそうだ。当時あたいはまだ子供で、さとり様の言わんとすることはいまいちわからなかった。時計の短針のふた巡りの、大部分が習慣というものに支配されてしまいそうだ。遊んでいられる時間はなさそうだなと思った。一日は、長いようでその実短い。生が年月に希釈された妖怪ならば、なおさら。

「確かに、窮屈に感じるかもしれないわね。長い生を気ままにやりたい子もいるでしょう。ルールなんていらない。抑圧するものすべてを吐き捨てて破天荒に生きる。それはそれで妖怪らしいわ。でもね」

 消灯表に万年筆で印をつけると、さとり様はその小幅の歩みを止めた。ゆっくりとあたいの方に振り返れば、

「自律したものにはそれなりに恩恵もあるものよ」
「恩恵、ですか?」

 オウム返しに、細い指が立てられた。ランプに影を作る指は三本。中指小指、薬指。親指と人差し指には、万年筆をつまんでいた。この顔は教鞭をとるときのさとり様だ。言葉や計算を教わるときに、よく見た顔だった。揺れる種火に合わせて、薄い影がさとり様の頬を掻いた。そのうち中指を前後に振って、

「一つ目は、わかりやすいわ。あなたも家へきて身に染みてるんじゃないかしら」

 謎掛けのように、問いかけてきた。辞書の文字を追うように、りんごの数を数える時の様に、指を示している。一問目の答えはなんでしょう、と。
 さとり様に与えられたものはたくさんだ。その中でも重要で分かりやすいこと。地霊殿に来て身にしみた、得したこと。外にはなくて、中にはあるもの。そう考えてすぐに一つの答えにたどり着いた。

「にゃ、ご飯ですか?」
「そうね、正解よ」

 言い換えれば、身の保障と安全。そう付け足して、さとり様は歩みを進めた。
 地霊殿に拾われる前を思い返す。灼熱の荒野を駆け回り、口にできるものは何でも口にした。腹が膨れれば僥倖、餌が見つからなければ、何日もさまよい歩いた。道半ばで倒れ、地獄の火に焼かれる同族がいた。地の底の冬、雪に身を埋める仲間がいた。地獄を旧き名とした地に残るのは、変わらず地獄だった。それがどうだろう。さとり様の腕に抱かれ薔薇の門をくぐれば一転、世界は今や暖かく涼やかだ。ルールを守る限り得られる健康な精神と肉体。口を酸っぱくして言われ、耳にタコができた早寝早起き。一日三食の温かいご飯。飢えも寒さもなく、焦燥のない日々を過ごせた。出来過ぎだ。払える対価は、小手先の労働ばかり。

「仕事にはもう慣れた?」
「ええ、なんとか。お休みの過ごし方も、わかってきました」

 胸の赤い瞳が長く瞬きをした。思い起こされる餓死と荒涼の景色、力足りずの申し訳無さを振り払うように、さとり様が別の話を灯した。あたいの脳内は一転、仕事道具の猫車を転がし始める。
 灼熱地獄跡の火力調整の仕事は、それなりに忙しい。仕事では死体集めに駆け回らないといけない。食料ではなく、燃料として。毎日火車を転がして、整備された旧都を縦横無尽。くべる薪は絶やせないため、しょっちゅう地霊殿と街とを往復する。数が足りなければ都の外れまで、野良妖怪の死体や、打ち捨てられた罪人の亡骸、朽ちた灌木を探して回る。帰ってくる頃にはへとへとだ。お空はお空で、延々と灼熱地獄の熱を受けながら過ごす。地獄烏といえど、灼熱の暑気晒しは辛い。仕事を任せられてまだ間もないあたい達には、毎日がめまぐるしい。
 そんなあたい達を気遣って、さとり様は週に一度お休みをくれる。その日はいつもよりも寝坊して、巾着片手に街をうろついたり、飲みに行ったり。遊んで過ごす。門限はあるけれど、平日よりは緩い。日付をまたぐ前に帰れば、お咎めはなかった。週末の旧都の活気や、屋台の酒精、図書室の午睡を思い浮かべ、頬が緩んだ。

「家族という枠組みの中に入ること。そこで与えられた義務と責任を果たすこと。それらを満たして初めて、居場所を獲得できるの。お燐、貴方は頑張り屋よ、よくやっているわ」
「にゃは、あんまり褒められると照れます」

 手放しの賞賛に猫耳がムズがゆくなった。さとり様はたしなめるように撫でつけて、

「でも、調子に乗って羽目を外し過ぎないこと。護ってあげられなくなるからね」
「き、気を付けます」
「よろしい。これが一つ目よ」

 そういって、中指を折った。身の安全と保障。当たり前になりつつあるけれど、重要な事だ。ルールを破らない限りは枠組みの中に留まれる。檻のように見えて、その実それは危険な外界から身を守ってくれる鉄の籠なのだろう。鉄格子に手をかける囚われの黒猫を想像していたら、さとり様が噴きだしていた。そのイメージは被害妄想が過ぎるらしい。失礼にゃ。
 館内の消灯はほぼ終わって、残るは玄関とキッチンだけ。あたい達の足はホールを抜けて、ほど近い玄関に向かった。



 かつての夜の一幕を思い返して、記憶をたどるように足を玄関に向けた。道すがら、壁の花弁に残り火がないかを確認しながら記憶の足跡をなぞるようにゆっくりと歩いた。
 地霊殿は広い。徒歩で全体をぐるりと一周するには、一時間はかかる。閑散と静寂。そんな言葉が似合う館に、かつては姉妹二人で住んでいたというのだから、それは寂しいものだったろう。その上妹のこいし様は、いつしか瞳を閉じて頻繁にいなくなるようになっていたという。覚り妖怪のルールから外れた彼女は、境界がゆらぎ不安定な存在となってしまった。不意に空気に溶けゆくような輪郭は、見ていて不安で掴みづらい。ひょっとすると、さとり様がペットに自律を言い聞かせるのは、そんな妹とあたいたちを重ねてなのかもしれない。

(そんなに縛り付けなくても、あたい達はあなたのお側にいますよ)

 綺麗事を考えながらも、タイルの冷気を拾う素足は罪に向かって歩き続けた。約束は約束だ。それを破るのは信頼を裏切る行為にほかならない。けれど今日ばかりは、あたいは胸中にひそかな予感を秘めていた。
 ネグリジェの布擦れを廊下に響かせた。廊下に染み込んだ初冬の冷気に身体が震えた。
 予感は、玄関で灯っていた。一時四十五分を指し示す柱時計。その横に耐熱ガラスの花弁が一つ、消灯を過ぎても灯りを残して。確信になりつつある灯りを、あたいはつまみで消した。



 冷たい地霊殿の廊下をひたひたと歩きながら、さとり様は二番目の、薬指を揺らした。

「次はわかった?」
「考えてはいるんですが……さっぱりです」
「ヒントは、そうね。例えば朝起きたら、お燐はまずなにをするかしら?」
「にゃ、朝一の歯磨きと着替えです」
「じゃあその次は?」
「えーっと、朝ごはんですね」
「次は?」
「火車をもってお仕事……」
「次」
「えっと……」

 矢継ぎ早に投げかけられて、困惑した。これではヒントというより逆質問だ。しかしより驚いたのは、すらすらと一日の予定を吐き出す自分の口だった。起床、身支度、食事、仕事、休憩、遊び、睡眠。あたいの地霊殿での一日のルーチンは大体いつも同じだ。やるべきことはたくさん、やりたいこともたくさんで、最近獲得したばかりの二本の手じゃ全然間に合わない。さとり様のようにおしゃれを楽しんだり読書をしたりは、仕事に慣れるまでまだまだ先になりそうだ。振れ幅はごくわずか。精々髪の結い方を変えてみたり、休日は朝ごはんを特別にハニートーストにしてもらったりとか、その程度だ。寝るや食うやの野良生活とは、比べ物にならないくらい安定していて、忙しい。なすべきことが増えるほど時間は濃く、やりたいことが増えるほど時間が貴重に思えてくる。荒れた肉球と逆立った毛並み、薄らいだ生の日々を思い返し、再びここは極楽なのかもしれないと思いあたる。
 一日の予定を暗唱しながらあたふたするあたいを見て 、さとり様は微笑ましそうに笑っていた。短針ふた巡りの慌ただしい脳内を見られていたらしい。ちょっぴり恥ずかしくて、にゃあと呻いた。

「慣れれば時間を作るなんてすぐよ。今ちょうどその話をしているのだし」
「え、なんのことですか」
「二つ目も正解ってこと」

 たおやかに薬指を折った。はて、あたいの脳内に思い当たる節はない。聡明な主は思考の流れから何を拾ったのだろう。

「薄らいだ生、っていうのはいい表現だと思うわ。だからこそ時を凝縮する」
 
 いつの間にか止まっていた足を再び動かして、さとり様はあたいを導いた。

「日々の決まり事。日々の楽しみ。毎日を色づけて、習慣で彩る。自律の二つ目の恩恵は、時間の凝縮よ」
「えっと、それはつまり」
「ぼーっと過ごすよりも一日が長いってこと」
「なるほど、それならわかります」
「キーワードは充実ね」

 淹れ過ぎた紅茶の様に濃く、渋く。砂糖をたっぷり入れて、より甘く。そのために時間を枠組みで囲うのだと、さとり様は言った。

「一時間、一日、一週間、一か月。境界が曖昧だった時を固着して、習慣化する。境界がはっきりすれば、縫うべき間隙も見えてくる」

 時を絞れば絞るほど、やりたいことは山ほど出てくる。まさに今のあたいがそんな状態だった。地霊殿に拾われたことで、漫然と焦燥に過ごしてきた時間の流れに、うっすらと枠が見えてきた。今あたいはその枠を定めようとしている最中なのかもしれない。尻尾につけるリボンや、寝る前に読む物語や、仕事の合間のおやつを通して。それはきっと自由という不自由を手放したものの特権だ。枠組みの排除された世界は広すぎる。居眠りと飢餓に、日々を薄めることになるだけだ。

「あたいもさとり様みたいに充実した日々を過ごせるでしょうか」
「それこそあふれるくらいにね。一日を一日と定めれば、時間は濃くなるのよ」

 地霊殿はきっと、さとり様が満たした時間であふれている。毎朝のごはんも、あたい達が着る服も、クリームの添えられたハニートーストも全部、主が時を絞った結果なのだろう。


 夜の廊下を、ランプ片手に二人で歩いた。あたいの一歩先をいくさとり様は、いつも寝る時と同じ薄い桃のネグリジェ姿。これも『時を凝縮した結果』の一つのだろうか。さとり様の趣味は、わかりやすい。淡くて、ふわふわ。輪郭が薄いもの。色や香りの嗜好は、庭に植えられた花々に一致していた。こいし様が好きな青バラや、水彩の顔料に使う色とりどりの花々、料理に使うスパイスまで育てている。
 庭のお世話も、主の仕事だ。怨霊管理の執務の合間を縫って、頻繁に手入れしていた。多趣味で、『充実』だ。見習いたいなと思った。

 玄関の灯りを落とした。残るキッチンの消灯で、夜の巡回は終了。お話ししながらだったから、少し遅くなってしまった。玄関横に置いた振り子時計の長針が六に垂れていた。さとり様の小指は、まだ立てられたまま。

「気になる?」
「はい、そりゃあ、まあ」

 教えてもらったことは二つ。自分の身の安全。時間の過ごし方。忘れないように意識しようと、心がけた。日常を形作る彩りを増やすのは、きっとたのしい。さとり様の真似をして、服でも集めてみようかな。
 三つめは、想像もつかない。さとり様の勿体ぶり方からみて、どうやら秘蔵っ子だ。けど、時間はもう遅い。いい子にして寝ないと、寝坊して朝ごはんにありつけなくなる。
 さとり様はキッチンに向けて歩を進めながら、黙っていた。立てた小指を薄い唇に当てて、考え込んでいる。
 結局、黙り込んださとり様について歩くうちに、キッチンについた。扉にかかった看板はさとり様のお手製。優しい木目に水彩の顔料で、「Kitchen」と流麗に描かれている。さとり様の時間は、こうして地霊殿に形として残るものも多いらしい。

「普段使うものに自分の痕跡がある。それも日々を楽しくする一つの方法よ」

 では、生み出した品々が恩恵その三だろうか。成長期で窮屈になってきたクリーム色のネグリジェを見る。事実、こうしてお世話になっているわけだし。念じてかしげて、しかし首を振られた。さとり様が金属のつまみを捻って、火は身をすぼませた。
 仄灯りの残る扉の前に、しばし佇んで、

「今日はお手伝いしてもらったし、お燐もそろそろ年頃よね」

 まだ晩御飯の空気の残る台所に、あたいを招き入れた。
 ダイニングのテーブルは四人掛け。さとり様、こいし様、あたいと、おくう。一人が留守がちなので、一人あたりのスペースは広い。
 ともあれあたいは、木椅子に座っていた。深夜のキッチンは、なんだか不思議な感じがした。いつもはもっと明るい。今はすこし灯りを落としていた。お皿や食器の並ぶテーブルも、きれいに片づけられて、中央に敷かれたテーブルクロスの薔薇がよく見えた。四隅に、三輪ずつ。刺繍もまた、さとり様のお手製。

 さとり様。あたいを夜のキッチンに招き入れた張本人は、扉を閉めるなりあたいを席につかせて一言、

「ちょっと待っててね」

 それだけ言って、鍋を片手に何やら用意をし始めた。こんな夜中に何を作る気なのだろう。そう、夜中。壁掛け時計を見れば、長針はさっきよりも進んで、九を指し示す。さとり様の決めた約束によると、地霊殿では夜食は禁止。不摂生のもと。肌荒れの原因。いろいろ理由をつけて、遠ざけられていた。といっても、晩御飯はおなかいっぱい食べられるし、ここに住む限り、理不尽な飢えはやってこない。なにより主の言いつけなのだから、素直に教えに従っていた。
 だからこそだ。夜のキッチンを奇妙に感じるのは。この時間に、ここにいることが、おかしなことなんだと、気づいた。
 ふと、ほのかに香りが、鼻腔をくすぐった。振り向くとさとり様は、依然鍋の前。片手に何かの缶をもって、匙で中身を掬っていた。多分、何かのスパイス。嗅いだことはあるけど、正体は思い出せない。

 待つこと十分で、湯気をたくさん放つ厚手のマグカップが二つ並んだ。黒い肉球柄と、薄い桃色のバラ模様。放つ熱気に、恐る恐る手に取った。
 最初に香るのは、強い薫香。少しクスリっぽいけど不快ではなくて、どこかすっとするような、自然の香りだった。次いで湯気に交じって鼻腔を満たすのは、優しく、甘い、嗅ぎ慣れた香り。あたいの大好きな朝食の匂い。はちみつだ。
 思い当たる、はちみつと相性のいいスパイス。さとり様がその習慣で、庭で少量を育てている。

「……ホットジンジャー」
 
 さとり様が、椅子を引き寄せてあたいの隣に座った。あたいと同じように、香る湯気に鼻をうずめて、ふうと息をついた。一日分の疲れを一息に込めてるようだった。その一息すら、喜びを宿して。

「ええ、たまの楽しみなの。さ、飲んで。温かいうちにね」
「でも、さとり様。お夜食は禁止だって」
「そうね、これは習慣から外れること」
 
 でもね、と継いで、見せつけるようにマグカップに口をつけた。ほころぶ笑みは柔らか。唇についた水滴を、小指で掠め、

「だからこれは手伝ってくれたお礼で、三つ目の答え合わせ」

 三問目の指をチロりとなめた。あたいにはまだ、問題の答えはわからない。だけど、促されるままに、目の前の魅力的な飲み物をいただくことにした。
 マグカップは温かく 、熱いくらい。湯気はもうもうと立っているので、何回か息を吹きかけてから、口をつけた。

「ん……」

 広がる、はちみつとしょうがのほのかな香り。おっかなびっくりで含んだ液体が、舌をほんの少しぴりと焼いて、のどをゆっくりと伝い落ちる。過ぎる道行きから、液体が触れる部分から、体が温まるのが分かった。夜回りで冷えた体に嬉しい。嬉しいのに、涙がにじむ。

「おいしいです、さとり様」
「よかった」

 自然、口元がほころんだ。いつもの禁則を破って味わう、黄金色の飲み物は、温かく 、眩しくて、やさしい。優しい甘さは、お空には少し物足りないかもしれない。甘党の親友を思い起こして、少しずるい気分になった。浸ったのは、特別感と申し訳なさ。あたいだけ飲ませてもらえた、あたいだけで飲んでしまった。自慢してやろう、ずるいと喚くかもしれない。怒るかな。

「心配しなくても、お空はすでに経験済みよ」
「にゃんですと!?」

 聞けば、いつか灼熱地獄の温度が落ちず、長引いた時に、さとり様直々に深夜のお茶会に招いたのだそうだ。出し抜いた気分と優越感が崩れて、少しみじめな気分になった。教えてくれりゃいいのに。

「その感情よ」
「にゃ?」

 さとり様が、あたいの頭をなでていた。時折、おさげを揺らして毛の束をなぞるように撫でる。

「今、ずるいって思ったでしょう。自分だけがと思える時間。約束を破る、習慣から外れる、申し訳なさと特別感」

 さとり様の頬は火照ってた。再び示すように、小指をさす。

「自律の三つ目の楽しみは、ルールを破ること」

 いたずらっぽく笑って、

「縛られた日々の日常を、ほんの少し緩めて、普段の習慣とは違う自分だけの不規則な楽しみを見つけること」

 これまでの二つをひっくり返すトンデモ発言だった。なのに、それなのに。あたいの脳が反発するより数瞬早く、舌がその恩恵を甘受した。
 それは、罪悪感と背徳感の狭間にある感情。甘い日常の中に、刺激のある非日常を感じるためのほんの少しのスパイス。それははちみつに交じった、すこしのジンジャーのようで。
 身につけた自律は、脱ぎ去るためだけのものなのだろうか。

「以前も言ったけれど、自律こそがひとを作るの。生活を彩る手段で、長い生をうまく生きるコツよ」

 “Manners maketh man. “ 湯気越しに響きなれた横文字を投じた。でもねと湯気を吹き、

「たまにそれを壊して生きてみるのも、楽しいものなのよ」

 さとり様は茶目っ気たっぷりにマグカップをあおった。

「普段から破天荒な生き方をしていては、こんなに楽しいことは味わえないわ。そうでしょう?」

 破るルールがなければ、非日常も訪れない。非日常がなければ、ルールを楽しめない。なんだかチグハグだ。それでも、持論を自信たっぷりに語る主を見て、なんだか嬉しくなった。湯気越しの主の顔と、丸く赤い瞳が、穏やかに、お母さんのようにあたいの方を見つめてくる。けれど陶器を伝って、じんわりと手を温めてくれるのは、さとり様の稚気と茶目っ気だ。今までにない一面を垣間見た気がした。
 夜な夜なキッチンを訪れるさとり様を思い浮かべた。それってもしかして。

「今まであたい達にあれだけ言っておいて、さとり様も、お夜食とか食べてるんですか!」
「夜中に食べるクッキーってどうしてあんなにおいしいのかしらね」

 普段厳格な主が悪びれず答える。深夜を回った彼女は、いたずら好きの火焔猫のように子供っぽかった。

 それぞれ自分のマグカップをすすいで、二人でキッチンを後にした。
 あたいの部屋とさとり様の私室は別方向。おやすみなさいを言って別れる寸前に、

「くれぐれも、習慣化しないこと。あと今日のことはほかの二人には秘密よ」

 小指を唇に当てて、内緒の手ぶりをした。さとり様と二人、内緒のスパイスを初めて分け合った夜だった。



 あれからどれくらいたったか。ネグリジェを何度も仕立て直してもらった。地霊殿にペットたちが増えた。食堂も部屋を移して、ちょっとしたお店のような広さになった。人化のできる子たちもちらほら増えてきて、さとり様もペットに任せる仕事が増えた。今では朝食のハニートーストは、あたいが作ることになっている。新しい習慣だ。生活の中で、あたいの日常を彩る色彩は姿を変えながらも、あたいを縛っている。
 地霊殿に、あたいやお空の足跡が増えた。時間は満ちてあふれんばかり。枠組みに、習慣と楽しみが宿った。週末の過ごし方も多彩になった。
 それでも、ふと緩めたいと思うときがある。約束を破って、零時を回る部屋をこっそり抜け出す。


 灯りの落とされた廊下を、あたいは駆ける。
 午前二時。窓に射す鬼火の灯りは儚い。夜目と慣れに任せて、夜の温度を吸ったタイルに素足を落とした。
 靴を部屋に置いてきたのは、罪の自覚があるから。あたいは今、いけないことをしてる。大仰に言えばルール違反。ありていに言えば夜更かしとつまみ食い。

 キッチンの前に立てば、柔らかな灯火と鼻腔をくすぐる香りがあたいを迎えた。やっぱり今夜は共犯だ。見つかったって文句は言えまい。扉越しの思念を読んだのか、コトリと音がなった。陶器の音は二つ。一つは肉球、もう一つはきっとバラの開花。
 迎える音を合図に、ノブを回して仄灯りと甘い空気に飛び込んだ。

「こーら、夜更かし」
「お互いさまです」

 甘く叱る主の声は、午前二時のホットジンジャー。
 日常の狭間で、あたい達は約束の指を立て合った。
ここまでお読み下さりありがとうございます。地霊殿の家族感が好きです。どうにかアットホーム感を出せましたでしょうか。
今回のお話を書くに辺り、様々な人に多大なご協力をいただきました。ボツ予定の骨組みから相談に乗ってくださった方、査読にご協力くださった方、感想を送ってくださった方。それぞれに、この場を借りてもう一度、厚く感謝を申し上げます。

深夜を回ったキッチンには、そこはかとない魅力があります。ホットココアが好きです。

9/24 怠惰流波

※9/29 
沢山の温かいコメントありがとうございます。頑張って書いたので、励みになります。簡単にではありますが、返信させていただきます。

》3様 夜の空気感や雰囲気を感じ取っていただけたら幸いです。混乱させてしまったようで申し訳ありません。核心を突かぬように最後まで伏せてしまうと、こうなってしまいました。もう少しわかりやすくするべきだったかもしれません。

》奇声を発する程度の能力様,5様
ありがとうございます。地の文から雰囲気を感じ取っていただけたなら幸いです。

》6様
フラッシュバック的な描写として、ガス灯を落とすお燐とさとり様の手を重ね合わせてみたりもしました。映像的な文章を書きたいです。本文では書いておりませんが、過去と比較してお燐の背丈がさとりを超えているといいなぁと。

》昭奈様
誤字修正ありがとうございます。早速修正いたしました。
告白しますと、最後の掛け合いが大前提にありそこをゴールとして描いた作品でした。何とかうまくタスキを渡せたでしょうか。甘々お母さんなさとりさんが好きです。
表現を褒められると、くすぐったくもうれしく思います。素敵な比喩や描写をたくさん身に着けたいです。

》電動ドリル様
世界観はどうしてもだれかからの借り物になってしまいがちだなと思います。深めていきたいです。テンポよく読んで頂けたなら、幸いです。

》もなじろう様
ありがとうございます。描写が感覚的過ぎるばかりに読者様に伝わっているかが心配です。五感を大切にしていけたらと思います。

》15様
ご指摘ありがとうございます。バランスが偏りがちかも知れません。これからも精進いたします、よろしくお願いします。

改めてご読了、コメントありがとうございました。
怠惰流波
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コメント



0.360簡易評価
2.90名前が無い程度の能力削除
良かったです
3.80名前が無い程度の能力削除
雰囲気が良いです。さとり様との特別な時間を大切に思うお燐が微笑ましいです。
「いけないこと」が気になって過去があまり頭に入ってこなかったので、「いけないこと」と過去が関係していることを最初にはっきり書いたらもっとわかりやすいのではと思いました。
4.70奇声を発する程度の能力削除
雰囲気も良く楽しめました
5.100名前が無い程度の能力削除
読みやすくて情景が浮かびました。
良い関係性ですね。
6.90仲村アペンド削除
相変わらず情緒的で綺麗な文章がとても良い。過去と現在の描写で、お燐とさとりの距離が少し近づいているのが伺えて微笑ましいです。
9.100昭奈削除
最後の掛け合いに至るまでの流れがとても綺麗で、初めは厳格さを強調されていたさとりの甘さが際立ち、思わず頬が緩みました。
細かな話で恐縮ですが、『真鍮のツタ』と『耐熱ガラスの花弁』の比喩がとても好きです。
10.無評価昭奈削除
恐れながら、誤字と思われる箇所について申し上げます。
>時計の長身はてっぺんを回っていた。
長針の誤りではないかと存じます。
11.100電動ドリル削除
初投稿から少しでここまで世界観を固められるのはすごいです。
コロコロ転がるような文章と、三つ目に見えるさとり様の個性が素敵でした。
12.90もなじろう削除
さとり様ならではの心と言葉の駆け引きが巧妙でにやりとしてしまいます
情景だけでなく、温度や香りさえも漂ってくるような丁寧な表現がたまらなく好みでした
15.70名前が無い程度の能力削除
漢語と和語の不均衡が気になりますが、概ね良かったです
18.90名前が無い程度の能力削除
柔らかいフランスパンのような文章で、優しい味がしました(ジンジャーティーですけど)。
ごちそうさまでした。