Coolier - 新生・東方創想話

紅の杜便り

2017/09/23 21:35:24
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 高麗野あうんは狛犬である。生来、神社仏閣を守護することを使命とし、その様にして生きてきた。
 しかし、神仏の闊歩する幻想郷に於いても、彼等が人々の信仰を得、また保つことは容易ではない。あうんの守るべき寺社は時の流れと共に逓減し、近代に至っては寺院がほぼ皆無、神社も唯一つを除いては些々なる物しか残っていないという有り様であった。
 彼女は懸命に働いた。悪しき霊の魔の手から、或いは自然の猛威から、精一杯に社を、堂を守った。それでも、華奢な体一つで出来ることには限界が有り、また、神々自身の力が衰えていくことは、全くどうにもならなかったのである。人々から忘れ去られ、打ち捨てられた祠を目にする度、彼女は悲痛に顔を歪めた。
 一方で、形無き信仰を糧として生きる神々に対しては、存外に冷淡であった。相対すれば一応の敬意こそ示すものの、狛犬の性《さが》に適わぬその存在を、少なからず軽んじている節も見受けられた。飽くまでも彼女の守護の対象は神社であり、寺院であり、人の手によって造られた斎場なのである。故に近年、突如として外界から現れた神社にも、彼女は喜々として参じた。空飛ぶ船の異形を持つ寺院も、同様であった。
 そうした態度が、古来この地に住む神の反感を買ったのは、至極当然の事であったのかも知れない。



 秋静葉は紅葉の女神である。その名の通り、秋を司る神々の一柱として、例年、色めく木の葉を鮮やかに彩っている。
 しかし、人々はその絶景に感嘆すれども、彼女を篤く仰ごうとはしなかった。利益《りやく》が決して必需ではなく、社を建てる程の敬慕を抱くことも無かったのである。妹である穣子は豊穣の神として一定の信仰を得ていたが、それも極めて些少なものに留まっており、姉と同様、社を設けて祀られることは無かった。野生の神様。そう揶揄されることも有った。
 こうした現状を、穣子は然程悲観していなかった。程々の知名度さえ有れば自我は保って居られるし、余り熱心に信仰されても忙しくて煩わしいと、そう言うのである。それは多少の虚勢を伴っていたが、諦観の果てに辿り着いた本心でもあった。
 一方、静葉は妹の意見に理解を示す傍ら、神としての誇りを忘れてはならぬと常々説いていた。信心を求めることは神の本懐であり、それを投げ打つことは即ち、自らの存在の否定であると。その為、彼女は信仰を得る機会に貪欲であったし、失うことには尚更敏感であった。穣子が為すべき役目を怠けようとすると、それを厳しく叱責した。
 斯様な矜持を持つ彼女にとって、自らを祀る社の無いことは大きな引け目であった。取り分け、住処の横を鼻唄交じりに通り過ぎ、立派な神社へと通う狛犬の存在は、彼女の神経を大いに逆撫でした。眼中に無い。その事を体現する有り様に、常日頃から鬱憤を募らせていたのである。



 或る日、山上の神社へと至る索道が竣工した事を祝う為、境内で細《ささ》やかな宴が開かれた。静葉と穣子は友人である河童の誘いを受け、その酒席の片隅に腰を下ろした。
 素直に皆を労い、祝辞を述べようと思っていた静葉であったが、いざ酒を口にしてみると、そうした殊勝は腹中より湧き上がって来た後ろ言に呑み込まれ、何処かへ消え去ってしまった。

「秋には紅く染まった山林が綺麗ですよって、そう言うなら私の名前も出しなさいよ。大体、いつもあいつらだけで勝手に……」

 医鬱は百薬の長の最たる効能である。彼女は延々愚痴を垂れ流し、馬耳を過ぎ行く東風の如く、妹と友の耳を擽った。
 やがてその矛先は、樹上に潜んで宴の雰囲気を愉しんでいた狛犬へと向けられる事となる。例年晩秋に紅葉を散らす女神の強烈な蹴りは、幹と枝葉を大きく揺らし、忽ちその身を振り落とさせた。そうして姿を現したあうんに、彼女は容赦の無い絡み酒で襲い掛かった。

「なんで私のとこには来ないのよ!」
「だって貴方、社も無いじゃないですか」
「そんなもん無くたって神様なのよ! 私が居たらそこが神様の御座《おわ》す処でしょうが! 護りなさいよ!」
「ええー……」

 矮小なる神の矜持と、偏好なる狛犬の使命。噛み合わざる二人の運命は、その時から少しずつ縺れ始めたのであった。



 ◆



 宴席での横暴を、静葉は心底恥じた。元来、彼女はその名の字とは裏腹に、不快に向かって声を荒らげ、脚が出てしまう事も間々有る様な性質《たち》なのである。それは神として有るまじき素行であり、正すべき悪癖であると彼女は考えていた。平素は意識して衝動を抑えているものの、ふとした拍子に箍が外れてしまうことはどうにも無くし難い。縁遠い者から「酒癖が悪い」と評されるその実態は、詰まるところ単なる本質の発露であった。
 後日、酒客の命《めい》を律儀に守り、訪ねて来たあうんに対して、彼女は己の粗相を詫びながらも、その事を憶えていないと嘯いた。

「ホントに忘れちゃってるんですか!? 静葉様が来いって仰ったのに!」
「あら、そんなこと言ったの?」
「言ったんですよぉ……」
「そっかー、ありがとう。ごめんねー。私、酒癖悪くて」

 初めはそれを素直に信じたあうんであったが、会話を重ねる内に少しずつ疑念を抱き初めた。そして、戸の開閉や裾の視認など、事有る毎に脚を上げようとしては改める彼女の挙動から、先日のあれこそが本来の姿だったのだと確信した。
 そのことがあうんを幻滅させた事実は無い。むしろ、一柱の神として在るべき姿を見せようとする彼女の努力は、好感さえ覚えるものであった。
 しかし、当の静葉は己の粗野を誤魔化し切れないことに酷く落ち込み、苛立ち、それが為にまた粗暴を繰り返すという悪循環に陥ってしまっていた。湯呑みを出そうとしては落とし掛け、妹の仕事について聞かせてやろうと、ついつい茶請けを口にしながら話をしたり、秋に向けて紅葉の絵を描く己の画室へと案内するも、その散らかり様に自ら赤面してしまう、といった具合である。

「……ごめんね。折角、家《うち》まで来てくれたのに、何もお構い出来なくて」
「ん。そんなこと無いですよ。おいしいお茶も頂きましたし」
「穣子が淹れたやつね」
「あ……いえ、えっと……」
「出て来ないなら無理にフォローしなくて良いわよ」
「あの、静葉様の絵も凄く綺麗でした! 今年の紅葉が楽しみです! ホントに!」
「……そう?」
「はい!」
「……そっか……」

 あうんは力一杯に彼女を励ました。まるで口先だけの美辞麗句の様だと感じながらも、嘘偽りの無い本心を唱える他に出来ることは無いと、そう信じ、その通りに言葉を紡いだ。その誠実さが功を成したのか、静葉はどうにか憂鬱の沼から抜け出し、改めてあうんに礼を述べた。
 また来てほしい。そう遠慮がちに言った彼女に、二つ返事で首肯したのは、果たして如何なる情の為であったか。それはあうん自身にも解らなかった。



 爾来、あうんは度々彼女の許を訪ねる様になり、姉妹が信仰と斎場を得られることを願う様になった。嘗てはまるで興味の無い風であった二人の働きにも強い関心を見せ、時には穣子の畑を警備し、また時には静葉が次の紅葉について思案する為、山間を遊歩するのを護衛した。気配を消し、陰ながら護るのが自分の流儀であると公言しているあうんであったが、それでは付け狙われている様だと言う静葉の意向によって、彼女と二人で居るときは常に姿を現していた。

「去年はこの辺りの染め方が今一だったのよね」
「そうだったんですか?」
「何となく塗るのが最後になっちゃって、疲れがね……。だから今年は最初に気合い入れてやるって約束してるの」
「……んー……」
「何?」
「あ、んと、その……。やっぱり、神様だなって思って」
「何それ」

 共に行動している時、彼女らは克く笑顔を見せた。普段と比べての多寡は知る由も無かったが、そこに何かしらの意識が働いていることは、互いに感じていた。
 静葉はそれを自身の努力に対する称賛であると捉え、より一層、信心の獲得に向けて美麗なる紅葉の計画に励んだ。一方、あうんは彼女がどうにか自分を見返そうとしているのだと思い、いつかそうなれば良いと、その時に過去の非礼について詫びる言葉を思案したりしていた。

「お姉ちゃん、今日もあうんちゃんとデート?」
「そうやって茶化すのはやめなさいって言ってるでしょ。あうんちゃんは真面目に応援してくれてるのよ」
「で、どこ行くの」
「この前言ってた洋菓子屋さん」
「え」
「客として親しみながら神様アピールする作戦よッ」
「ああ、なるほどね……。……うん」
「穣子も来る?」
「……ちょっと、畑のことで相談受けてるから」
「あら、そうなの。じゃあお土産にプリン買って来てあげるわ」

 穣子が二人の仲を揶揄うと、静葉は頬を紅く染めてそれを窘めた。その度に満更でもない気配を醸す彼女を穣子は大いに面白がったが、静葉にとって、そのことは不安の種であった。神格の向上を応援するあうんの存在は励みであったし、何だかんだと娯楽にも付き合ってくれることは彼女の人格をも満たしてくれた。しかし、そうした喜びを感じれば感じる程、いずれ失望させてしまうことへの恐怖が膨らんでいったのである。
 神と狛犬、その関係を逸脱すべきではないと感じながらも、彼女はあうんの前で紅葉の女神として在り続けることが出来ずに居た。それは例えば甘味を愉しむ俗物染みた姿であったり、皮肉に対して眉を吊り上げる人間らしさであったりと、以前はどうにか隠そうとしていた性質が、気付けば殆ど剥き出しになっているのである。あうんがそれに不快感を示した訳ではなく、また、里の人々の前では或る程度の威厳を保って居られたのだから、気に病む必要は無いとも考えられた。それでも彼女が不安を抱いていたのは、やはりあうんに対して何らかの特別な意識を持っていたからなのであろう。

「あうんちゃん、聞いて! 移動式屋台が完成したの!」
「ん! おめでとうございます! 大工の若旦那さんが造ってくれてたのですよね」
「お友達価格でね!」
「……奉納《ただ》じゃないんですか」
「ッ……。うるさいわね。まずは人並みに親しむところからでしょ。これから里でがんがん穣子の野菜を売って、信仰を稼ぐのよ!」
「うん……? 静葉様のは?」
「私は売れる様な物が無いもの」
「絵とか沢山描かれてるじゃないですか! 展示しておくだけでもきっと喜ばれますよ! 皆に見てもらいましょう!」
「……じゃあ、そうしてみるわ」

 あうんはどうであったか。彼女が静葉に対して異例の振る舞いをしていることは先述の通りである。尤も、その為に従来の働きをしていないということも無く、予て贔屓にしている神社や寺の守護は変わらず行っていた。昨日は何処其処の神社で悪戯者の妖精を追い返してやったなどと、そういった話は往々にして静葉の劣等感を煽るので、彼女は余り口にしようとしなかったが、現にそうしている日の多いことは周知の事実であった。
 そもそも、彼女は何故、静葉の前で姿を見せる様になったのか、その許を訪ねる様になったのか。それは単《ひとえ》に、そうすることを望まれたからに他ならない。仮に静葉から疎まれ、面を拝みたくないと一言吐かれれば、忽ち元通りの日常へと立ち返ったであろう。少なくとも、あうんはそう考えていた。

「畳屋の子がね、これはどこって、秋にそこへ行ったら見られるのって、私の絵を見ながら」
「わ、良かったですね! その調子で心を掴んで行けば、きっと信心も生まれますよ! 穣子様の焼きとうもろこしも評判ですし!」
「そう、ね。……あうんちゃん」
「はい?」
「ありがとう」
「ん……。……いーえ。私は何もしてません。静葉様と穣子様のお力です」
「そうかしら」
「そうですよ!」

 静葉達に吉事が有ると、あうんはそれを自分のことの様に喜んだ。中でも信仰の獲得に繋がりそうな報せには、尻尾を振って歓喜を示した。そこに姉妹の別は無く、彼女が如何に純粋に、祀られる神の存在を求めているかが窺われた。
 静葉は改めて彼女に感謝した。永らく卑小の身であった己らが、神の尊厳を取り戻す切っ掛けをくれたことへの、言葉では表せない程の感謝である。あうんがそれを自らの功と認めることは無かったが、彼女は自分が謝意を向けられる理由《わけ》を理解出来ていたし、少なからず心地好さも覚えていた。「ありがとう」「いーえ」その遣り取りを繰り返す度に、二人は得も言われぬ充足を笑みとして浮かべた。



 ◆



 季節は巡り、夏が終わりを迎えようとしている。
 静葉は来《きた》る紅の時に向けて今一度画布に想像を描き出し、より美しい秋景へと至る法を求め続けた。穣子は招聘されている収穫祭に向けて準備を始めた。例年はただ皆の前に顔を出すだけの形式的な参加であったが、此度はそこに正しく意味を持たせる為、豊穣の神としての力を存分に発揮したのである。姉妹はそうした事情を予め人々に伝え、今秋への期待を大いに膨らませた。
 さて、未だ彼岸は明けぬかと、本格的な秋の到来を心待ちにしていた或る日のこと。いつもの様に屋台を曳いて、里まで商いに遣って来た姉妹は、其処で見た物に度肝を抜かれた。日頃屋台を設置している一角の片隅に、六寸ばかりの小枝を麻糸で結び合わせ、二重《ふたえ》の鳥居を象った物が、ぽつんと置いてあったのである。聞けば、秋の神を応援したいと思った畳屋の娘が一所懸命に拵えたのだと言う。
 静葉は――そして穣子も、嬉しさの余り高声を上げて喜んだ。それは斎場と呼ぶには何かと不足の、極めて細《ささ》やかな物であったが、彼女らにとっては十分過ぎる宿り木であった。棟梁の息子が造りの粗雑さを指摘し、ついつい静葉が屋台を蹴り付けるという一幕こそ有ったものの、二人は兎に角有頂天になり、目一杯まで感慨に耽った。

「あうんちゃんにも教えてあげないと!」
「ええ、そうね」
「今日は来ないの?」
「どうかしら」

 あうんの話が出た途端、静葉は妙に素っ気無い返事をする様になった。また何処かの寺社へ入り浸っているか、或いは些細な失言で臍を曲げさせたか、何かしら彼女の拗ねる事情が有ったのだろうと、穣子はそう思って言葉を噤んだが、今に祝辞を述べられれば機嫌も直る筈だと考えていた。それは恐らく正しかったが、結局その日、あうんが二人の前に姿を見せる事は無かった。



 翌日の昼間にも、姉妹は里へ赴き、あの小さな鳥居の傍で布教と称する商売をした。しかし、そこにもあうんは現れなかった。偶々里へ来ていた河童の友が言うには、妖怪寺で潜伏していたところを和尚に捕まり、修行僧の体験をさせられているとのことである。穣子は残念そうに苦笑して、その不運を憐れんだ。一方、静葉は何処か安堵した様な顔を見せ、昨日《さくじつ》から続く不機嫌に別れを告げた。
 その後、姉妹は宵の口に山の住家へと帰り、いよいよ近付く紅葉の季節について語らいながら夜を更かした。
 そうして夜半を迎えた頃、俄に山の木々が騒ぎ始めた。そろそろ床《とこ》へ就こうとしていた二人は、揃って眠たそうな眼で、表の暗闇を眺めた。風は重たく湿り、草木を激しく揺らしている。空には月も星も無く、厚い雲に覆われているらしい。これは一雨来る、もしかすると嵐になるのではないかと、全く同じ考えが二人の頭に浮かんだ。しかし、その一つ先へと思いが至ったのは、静葉の方が早かった。

「穣子。風に備えて戸を閉じて。私はちょっと出掛けるけど、貴方は外へ出ちゃ駄目よ」
「え? 何処行くの?」
「里よ。良いわね、言った通りにしなさい」

 唖然とする穣子を後目に、静葉は荒れる宵闇の中へと駆け出した。穣子は慌てて彼女を呼び止めようとしたが、その足が止まることは無く、行灯に薄く照らされていた背中は瞬く間に見えなくなってしまった。
 到頭雨が降り出し、木の葉と屋根を激しく打ち始めた。風も依然として強く、壁にも水滴のぶつかる音が聞こえた。静葉は傘を持っていなかったのではないか。穣子は大いに不安になり、そして漸く、彼女の目的に思い至った。「あっ」と声を上げた、その時、一つの影が雨の中から現れた。



 風雨に晒され、ずぶ濡れになりながら人里へと遣って来た静葉は、迷わず或る一角を目指した。日頃、彼女らが屋台を曳いて来て、皆に畑の恵みを売っている場所である。間も無く其処へは辿り着いたが、息を切らして膝を折り、土の上を忙しく這い回る彼女の手には、何も触れる事が無かった。
 茫然とする彼女の脇を、何処からか飛ばされて来たらしい板切れが激しい音を立てて転がって行った。風は今、自分が駆けて来た方へ、山へ向かって吹いている。彼女は立ち上がり、己の足跡を辿って再び駆け出した。往路と違い、右へ左へ、忙しく蛇行を繰り返しながら。
 やがて里を離れ、風の吹くまま山林の中を彷徨った。時折地に膝を突く彼女の体は、もはや雨水だけでなく、泥と芥とで塗《まみ》れていた。其処には無い、此処にも無い。自らを省みぬ必死の捜索にも拘わらず、彼女の捜し物は見付からない。冷える体は次第に力を失っていき、遂には歩くことも儘ならなくなってしまった。
 よろめく彼女を、突風が襲った。もはや足下の泥濘るんでいるか否かに因らず、彼女は自分を支えることが出来なかった。しかし、地に臥すと思われた細身の体は、何者かの腕に支えられ、その場に留まった。

「何してるんですか!? こんな所で!」

 あうんであった。静葉は一瞬呆けていたが、耳許で大声を出されたことで正気を取り戻し、全体濡れた面で彼女を見返した。
 鳥居が無くなった。弱々しく言うと、あうんはぐっと歯を食い縛り、それから、今までに聞いた例《ためし》の無い、大きな怒声を上げた。

「馬鹿ッ!」
「ッ……」
「そんなの見付かるわけ無いでしょ!?」
「……だって……折角、作って……くれたのに…………」

 静葉は泣き出した。ずっと前から涙を流してはいたが、この時になって、とうとう話を続けることも出来なくなった。自分と、愛する妹の数百年来の悲願。その一歩が無に帰してしまった悲しみに、泣きじゃくらずには居られなかったのである。
 あうんは己の胸に寄り掛かる彼女の体を、ただ静かに、しっかりと抱き締めていた。



 山林の何処か、嘗ては神社であった小さな廃屋。そこで、静葉とあうんは一時、雨を凌いだ。
 体は濡れているし、着替えも無い。穣子も酷く心配していたから、少し落ち着いたらすぐに家まで送る。失った鳥居のことは諦めてほしい。あうんが心苦しげに言うと、静葉は涙声で一言「うん」と答えた。
 それから暫くは雨風の音だけが在り、次に発せられた言葉は、あうんの「ごめんなさい」であった。それに静葉が「ううん」と返し、再び沈黙が訪れる。
 仮令《たとえ》あうんが鳥居の存在を知っていたとしても、それを狛犬として守護していたとしても、何れ必ずこうなっただろう。静葉はそれを十分解っていた。
 また造ってもらえば良いのだ。今度はもっと頑丈な物をお願いしよう。初めはそう考えていた。しかし、ふとした拍子に、或る不安が頭を過ぎった。次が有るとは限らない。もし、あの娘が拒んだら、二度作るのは手間だと突き放されたら、壊れたのは神の力が足りない所為だと責められたら。そう考えた時、彼女の脳裡に浮かんだものは、悲嘆に暮れる妹と、己を見下す人々の嘲笑、そして、その傍らで失望の溜め息を洩らす狛犬の姿であった。

「あうんちゃんに……見捨てられたら、どうしようって……」

 今まで決して口にすることの無かった憂虞を、静葉はぽつりぽつりと吐き出した。悲観の果てに見た幻とは違う、傍らに在る温もりが、彼女の愁眉を開かせ、唇を緩ませたのである。
 多くの感情があうんの胸を灼いた。それは罪悪感であり、悔悟であり、或いは憐憫でもあったが、燃えた後に残ったものは、そういう類の情ではなかった。
 あうんにとって、信仰の獲得に向けて直向きに努力する彼女の姿はとても美しく、愛おしかった。それは神の尊厳であり、威光であり、それ故に素晴らしいのだと考えていた。しかし、その眼差しは彼女自身の誇りだけではなく、自分にも向けられていたのではないか。そう気が付いた時、あうんは彼女に触れずには居られなかった。

「……傍に居ますよ」

 互いの手は雨に濡れて、清水の様に冷たい。しかし、彼女は――彼女達は、決してその手を放そうとはしなかった。

「貴方がそうしてほしいって言うからじゃなくて……私が、こうしていたいから」

 静葉は忽ち紅葉した。余りにも真っ直ぐ向けられたその言葉に、そしてその眼差しに、夕焼けよりも紅く燃え上がった。顔を伏しても判る程、赤く、朱く。

「……ありがとう」
「いーえ」

 何時か何処かで聞いた台詞が二人の間を伝う。あうんが思わず声を洩らして笑うと、静葉もそれに誘われた。
 雨は何時の間にか小振りになっており、風音だけが笑声を包んだ。あうんは「今の内に」と立ち上がり、彼女の手を引いたが、静葉は少し躊躇いがちに、その手を引っ張り返した。

「静葉様……?」

 小さく、不安げな声がその名を呼ぶ。彼女はようやく顔を上げ、また一段と深いはにかみを浮かべながら、じっとあうんを見返した。

「……ねえ、あうんちゃん」
「何ですか?」
「お願い、聞いてくれる?」
「うん……?」

 言霊はか細く、儚く、ほんの幽かな音を残して、風の唸りに呑まれてしまう。何故なら、それは女神の御諚でも、守護者の狗吠《くはい》でもなかった故に。



 自分が必ず連れ戻すから、どうか無茶はしないでほしい。あうんがそう言ったのを信じ、穣子は二人の帰りを待っていた。きっとずぶ濡れの泥塗れで帰って来るからと、飲む湯も入る湯も沸かしておいた。
 もうあうんは静葉を見付けただろうか。そろそろ帰るだろうか。よもや泣き付かれて一緒に鳥居を捜してはいないか。時が経つ程に、風雨が煩く轟く度に、心配は大きくなっていった。やがて雨が少し落ち着き、これなら自分も外へ出て大丈夫ではないかなどと考え始めた頃、漸く表の方から聞き慣れた声がして、彼女はほっと胸を撫で下ろした。

「響子ちゃんも結構真面目にやってますよ。まあ、人並みに破戒してるけど……」
「その方が良いわ。ああ見えて色々溜め込んじゃう子だから」
「……静葉に言われたくないと思う」
「悪かったわね」
「あ、いえ……んと、着きましたよ、家」

 戸に掛かっていた手がそっと離れる。足が自然と後ろに下がり、彼女は出迎えるのをやめた。
 程無くして、戸は外側から開かれた。先ず静葉と目が合い、ちらりと隣を見遣ると、あうんが小さく頭《こうべ》を垂れた。
 貰った鳥居が何処かへ消えてしまったと、憂いを帯びた声で静葉が言う。疾うに覚悟の出来ていた穣子には、然程の失意は無い。彼女が見る限り、静葉の悲哀も想像していたよりずっと軽いものである様に感じられた。それはきっと、傍らに立つ狛犬のお蔭なのだろう。そう思うのは、先程戸越しに聞いた言葉の為か、或いはそれが無かったとしても、そうであったかも知れない。

「とりあえず、二人ともお風呂で温まると良いわ」
「あ、じゃあ、静葉様がお先に」
「あうんちゃん、着替え無いでしょ。浴衣か何か出してあげるから先に入って」
「冷えてお風邪召されたら迎えに行った意味が無いですよ」
「それでそっちに風邪引かせたら悪いじゃない」
「イチャついてないで、一緒に入って」
「え」

 今一度、水の入らぬ湯に浸かり、女神と狛犬ではない、人と人としての時に浸れば良い。その真意を隠して、穣子は二人に言い放った。湯が冷めては勿体無いから、四の五の言うなと。
 二人はいよいよ観念した。

「その……悪いんだけど、まだそういう覚悟は、ちょっと……」
「ん。いや、別に私そんな獣《けだもの》じゃないですし。普通に背中流しっこしましょうよ」
「少しは悩みなさいよ」
「どうしてほしいんですか静葉は」
「……普通に背中流して」
「はいはい」

 雨降って地固まるとは言うものの、その実、大して変わっていないのではないだろうか。隠す努力の感じられない、素朴な掛け合いを背で聞きながら、穣子は二人の行く末について案じていた。



 ◆



「わらくれたかて何ちゃあ無いぜよ! わしがしゃんとしたん作っちゃるき、安心しい!」
「兄ちゃんがね、お山にほこらも作ってくれるって!」
「里の土地はあんまり勝手に使えないからねー」
「うちの協賛だかんな、忘れんなよ」

 翌朝。力至らぬ不徳を詫びる為、人里へと赴いた姉妹を迎えたのは、思いも寄らぬ皆の激励であった。屋台の客を始め、予て親交を深めていた人々からの、温かな気遣い。白眼視されてしまうことばかりを覚悟していた穣子は、思わず大粒の涙を流した。
 静葉が大きく感嘆の息を吐きながらも、妹の様に泣き崩れなかったのは、二つの確かな支えが心の内に在り、この瞬間を何れ必ず訪れるものと、夢想や虚構ではないと信じていた為である。それはほんの昨日《さくじつ》得られたばかりの不撓であったが、今この場に於いて、姉として恥じぬ振る舞いを見せるには十分であった。彼女は穣子を明るく励まし、皆に最大限の感謝を述べると共に、来る秋が決して忘れられざるものとなることを固く誓った。

「良かったですね、静葉様……ッ!?」

 あうんが祝福の為に姿を現すと、静葉は迷わずその胸に飛び込んだ。あうんは大いに戸惑い、おろおろと衆人の眼の在ることを訴えたが、彼女はけろりと笑ってそれに応えた。

「私は二人きりの時だけなんて言ってないわ」
「……割と我が儘ですよね」
「神様だもの」

 悪戯な女神の艶笑が、あうんの面に一足早い秋を到来させる。
 やがてそれは爽籟の調べと共に幻想の郷へ広がり、世界を鮮やかに彩っていく。森林は紅く、麗しく、古今未曽有の錦秋となるであろう。人々が、神々が語り継ぐ、慶福溢れる実りの時となるであろう。
 そして彼女達は変わらず互いの手を取り合い、その秋光の中を往く。しかしそれは、女神と狛犬ではなく、掛け替えの無い愛を捧げ合う、二人の恋人として。何時何時迄も歩むであろう、美しき紅の杜を。


 
お読みいただき誠にありがとうございます。あうしず流行れ。

本作は私が他所様で書かせていただいております小説シリーズ『紅の杜便り』での出来事の一部を改めて書き纏め、新たに話を加えたものです。

あうん可愛いですよね。真面目っぽいんだけど、過去作の件と合わせて考えると割とポンコツなところとか。思うに、彼女が完璧に守ってしまうと人間が神様の為に社を強くしたりする事が無くなるので、それくらいで良いのでしょう。
静葉がおっとりしてないのは私の所為じゃないです。彼女は紅葉を蹴って散らすとか、そんなこと縁起に書いた人が悪いんです。
この二人の組み合わせが少しでも皆様のお心に残れば幸いです。

それでは、お疲れ様でした。
昭奈
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コメント



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1.100名前が無い程度の能力削除
見覚えのある題名と台詞だと思ったら後書を読んで得心が行った
3.90奇声を発する程度の能力削除
素敵でした
4.100怠惰流波削除
とてもよかったです。珍しい組み合わせですが、読むほどに得心がいきました。
5.90名前が無い程度の能力削除
良い話でした。気の強い静葉お姉ちゃんもいいですね。
8.70名前が無い程度の能力削除
固めの文体がよい雰囲気をかもしだしていますね
10.100名前が無い程度の能力削除
途中でバッドエンドフラグか立っていたのでハラハラしていましたが、普通にハッピーエンドで安心しました。
自分は百合物は苦手なのですが、これは読んで良かった。