Coolier - 新生・東方創想話

追うひとと追われるひと(前編)

2017/06/18 10:29:40
最終更新
サイズ
89.63KB
ページ数
1
閲覧数
581
評価数
2/3
POINT
250
Rate
13.75

分類タグ

 秘封倶楽部とは、オカルトを専門とした非合法活動に勤しむ秘密結社である。
 この時代に結社も秘密もないだろうとは重々承知だが、字義的に当て嵌まってしまったのだから仕方がない。自称することも少ないが格好付けの方は心の中で秘密結社の自覚を持っている。
 現行構成員は二名。どちらも特異者であり、眼を基調とした能力を備えている。一人は時間。一人は、自身でもよく分からない曖昧な境界。そして、この構成人数はこれからも変わることはないだろう。どちらか、両方か、加えたがらない。減らすこと、考慮すらしていない。この代の秘封倶楽部は二人だ。二人だけの秘密倶楽部。
 秘封倶楽部は幾つかの掟を持ち、それらはノートや大判紙に書いて保存してある。中身は日々の警句であったり、単位を落とさないようにと学生らしいものであったり種々様々だが、その中に一つ、一度追加されているのにかかわらず消されてしまったものがある。
 不適当ではなかった筈だ。むしろ通常あって然るべきもの。追加される、つまり最初は存在しなかった事の方がむしろ珍しい。それは、“危険な場所に近付かない”こと。
 それは夜闇であったり人の、癖のあり薄暗い事であったり。なるほどオカルトとはそういう処を活動中心とするのだからむしろ無い方が自然とさえ言える。だが、今はない。
 どちらかの手によって設けられ、都合が悪い方に撤回された。秘封は深入りする。どこへでも向かう。

 時は西暦22xx年。発達した文明は全に繁栄を、個に言い知れぬ閉塞感を齎した。
 宇佐見蓮子はそれが気にくわなかった。空を見上げ続けた。縛り付ける何かを振り払おうと抗い続けた。マエリベリー・ハーンはどうでもよかった。別に関係ないと思っていたが、腐れ縁と化した蓮子が楽しそうだから付き合い続けた。
 二人の不思議な瞳は秘封を暴き自身を規定し続ける。この退屈な世界に。愛すべき、萌芽を孕む世界に。
 時は西暦22xx年。人々は嘲りを込めて時代を呼ぶ。技術を求め心を閉ざした世界、「科学世紀」と。

――

――

 降り始めた雨の中を、彼女は小走りに駆ける。
 傘は持たずに出た。予報は降らないと言っていた。曇り空が濃くなってきても、それが湿った空気を漂わせても、しかし無いと。そう言っていた。思惑は外れたらしい。水滴は肩を濡らし帽子を濡らし、今や頭皮にも染み込もうとしている。
 通りがかる人が買ったばかりの傘を差した。ばね仕掛けの勢いで空気が叩かれ、水滴が数粒降りかかる。顔をしかめるも、走る間に後ろへと流れていくので文句の一つも言えない。空からは重い水が、ぼたり、ぼたり、と数を増してきて、いよいよ服の許容限界を超えようとした時、ようやく彼女は目的地へ辿り着いた。
 乾いた入店音。したたり落ちようとする水滴と、それを眺める店員。苦い愛想笑いを浮かべ、避けるように店内に目を向けると、果たして小さな影が窓際に一つ。
 あれだ。先に来ているはずという予想は当たった。待ち合わせだと断りを入れ、席へ近付き、声をかける三秒前。前触れなくその影はこちらを振り向いた。誰が近づいたかなどまるでお見通しとでもいうように。
 ……しばし見詰め合い、どちらともなく苦笑が漏れる。いいや、お見通しなのだ。
 彼女は気配を、視る。人の感情を、心すらも。座る前、蓮子は帽子を持って挨拶を交わした。

「お久しぶりです、さとりさん。郷帰りは、どうでしたか?」

――

――

 話し相手の居なくなったテーブルで、蓮子はコーヒーを啜る。陽の暮れた東京の街並み、外の雨は止む気配がない。それどころか却って勢いを増して、ついには窓を叩くようにもなる。
 相方は蓮子と同じく傘を持って出なかっただろう。外には走る人死んだ目で開き直る人、合羽を、おそらく持ち歩いていたのだろう、着込んでいる人。もう時間は差し迫っている。姿が見えない所を見るに、相方は多分立ち往生している人だ。駅口で呆然と突っ立って、強硬策を取る人間に焦っている。さて、彼女は時を取るだろうか身の無事を取るだろうか。もちろん前者の方が好ましいのは確かだが、今の蓮子としては後者がいい。傘を忘れる間抜けは既に足りている。この上濡れ鼠の需要はありはしない。
 針が、視えない夜空の代わりに同じ周期を刻む。携帯したレトロ時計は予定の時を無情にも過ぎる。もう一度蓮子は雨だれの外を見る。止みはしない雨か、この店は籠城の許された店か。客は、現状空きが見えるが重ねた注文は必須だろうか。……幸いにも、それからほどなく彼女は来た。遠目に粗悪な、いかにも大量生産といった傘を持って、そして入るなり目ざとく蓮子を見付けた。視線にひらひらと手を振り返す。彼女は店員に会釈をして、まっすぐこちらへ来た。

「いやー、待った? ごめんね?」
「そうでもないよ」
「そう?」

 机の上のカップを見ながら、彼女は苦笑する。

「こんなに降るなんて思ってなかったんだもの。おかげで暫く……無駄に歩いちゃったわ」

 見ればわかるよ、と蓮子は言った。そのくたびれた様を見れば、誰にでも。
 この雨だ、さぞかし傘屋は繁盛したことだろう。肩口の濡れを見れば歩いた事はすぐ分かる。苛烈なビジネスマンどもの競争は文字通り熾烈。彼女は負け続け売り切れを二店三店、ようやく手に入れられたのが奇跡に近い。余程運よくそういった店を引き当てたのだろう。天気予報を信用しない店、商機に聡く、在庫を蓄えた店。
 蓮子は、軽めの食事を店員に頼む。自分の分と、相方の分。メリーは向かいに座って水滴を拭いている。その瞳が、ふと、机の上に注がれた。机の上、蓮子の手元にある小さな袋。小さな、群青色をした布の袋。

「その色、蓮子の趣味じゃないわね。落ち着きすぎてる。貰い物?」
「まあ、そんな所ね。中が気になる?」
「そら、そうこれ見よがしに置かれてたら……」

 机の上には蓮子のカップとその袋だけが置かれている。メリーが来る前から、ずっと置かれていた。
 メリーは手を伸ばしかけて、ふいに止める。静かだが制動は確かで、直感的な動きだった。腫物を扱うような。ともすればその腫物が破裂するのではないかといった動き。
 分かる物か、伝わる所があるのか。不思議な気分だった。メリーは何も言わず、まだ中も見えぬ、外包みの袋を凝視する。開けるよ、と蓮子が尋ねるまで微動だにせず、そしてその言葉に無言の肯定を返して。蓮子が袋の紐をほどき、静かに逆さまにすると、中の物が机に転がり出た。一つ、丸みを帯びた石が。蓮子はそれを手に取り、事もなげに机に置きなおした。
 その仕草に、メリーの顔が強張る。

「蓮子、待って、触らないで。離れて、少しで良い」

 手渡そうとする蓮子をすんでで押し留める。もう蓮子は触れているのに、なおもまた押し留めようとする。メリーは蓮子の手元の方をこそ注視していた。石ではなく、今まで触れていた蓮子の手と、あと袋を。そして石に眼をやる。訝しげな視線を注いで、この飲食店で、ただ机の上の石を視ている。

「何が視える?」
「ちょっと……」

 黙っていろ、との意思表示。肩を竦め、蓮子はその動作を見守る。暫く目線が空をなぞり、そしてついに意を決したよう、メリーは石へと手を伸ばした。しっかりと、必要以上に握りしめて。掌中に石はある。

「私は今何を持ってる?」

 呟くように、独り言のようにメリーは言った。蓮子は、小さく、何かを持ってると言った。ただ確かに持ってると付け加えた。

「捉えきれない。ただの石じゃない事は確かだけど、それだけ。こんな小さな石に何の謂れが付く筈もなし……」
「昔のお坊さんとかは? 空海とか。あの人色んなとこ行ってるし」
「蓮子、真面目にやって。そういうのじゃないでしょこれ」
「石投げの名人、張清みたいな」
「蓮子」
「じゃあ、神代だ」

 言葉が止まる。メリーの非難がましい目を受け流し、その色が諦めに変わるのを見守る。

「そうね。そうだと思う。蓮子、知ってたんでしょ。毎回こんなのばっか拾ってきて、だったら最初からそう言ってよ」

 古代の遺物、仮称伊弉諾物質は、神代近くの出来事と関係がある。より正確にいうと、活動の中で得た神代に関連すると思わしき物々を総じて伊弉諾物質とそう呼んでいる。つまり命名と過程が逆転しているのだが、今の所それは問題にはならないだろう。
 二人は、それらを暴こうとしている。他とは違う、誰も得ていないものをという思いはもちろんあったが、もっと直截的な理由としては、蓮子がそれらを優先的に探してくる事があった。基本的に、鑑定物を持ち込むのは蓮子だ。果たして身を入れている度合いで言えばメリーはそれほどでもなかったかもしれない。ただ蓮子が実際見つけてくるから、その度に眼の能力を行使している。この石もそういった類だ。
 伊弉諾物質には魅力があると蓮子は言う。それらは内に情報を保持し続けている。おおよそ、神代にほど近いということも判明している。メリーの感受性はそれらを視る。何処かこの国、この土地を流れる潮流に接続することで、器物の記憶を遡って視る事が出来る。
 それが理論としてどうなのか、少なくとも、メリーの感覚ではそうであるらしい。視覚として得る事も、潮に身を任せているようなうっすらとしたゆらめきも。実際の所は分からない。蓮子は、後々記録映像のようにしてメリーの視たものを伝えられるだけだ。

「いや、もしかすればそうじゃないかなって。思っただけだよ。それにどうしたって最後は専門家の意見をね、聞かなきゃ」

 だから騙したわけでも蓮子さんが悪いやつなわけでもないんだよ。そう言ってもう一度同意を求めると、苦々しげな表情を返事に浴びせられた。そして脚を小突かれる。蓮子の苦笑が空を切る。
 そして遅れて、結局根負けしたメリーが呆れ顔を送り、その視線を下に戻した。メリーの手の中、石をつぶさにメリーは眺めている。何を考えているか、静かに彼女は息を吐いた。

「ここでやるわ」

 決断的な語調。些か意外に思った蓮子が慌てて聞き返す。

「ここで? 家で、あいや、アジトじゃなくて平気?」
「濡れるし、空調効いてるし、良いわよここで。というか何で言い直したの」
「それは、もちろん」
「ご飯来たら置いといて」

 言うが早いか彼女は目を瞑り、意識を下の階層へと下げて、下げて、潜るように下がって、その感覚にあちらの存在を視、身体を机に突っ伏した。
 ピクリとさえ動かない。メリーの体勢感覚はもうない。意識をこちらと途絶させあちらへ送り込んだ彼女は、もうよほどの刺激を、その生体本能が能力を凌駕するほどの刺激を与えられるか、さもなくば自分で同調を終了させ起きてくるまで、その身を目覚めさせる事はない。
 実験(実体験)にて確認済みのことだった。閾値は睡眠時より少し深い程度。メリーに内緒で確かめてみたことがある。
 だからメリーはもはや動かない。今日はどれほどだろうか。早い時は秒で済む。けれど長い時は本当に長い。一度、一時間で強制的に止めさせた事があった。彼女は覚えていなかった。きっと止めなければずっと続き、上限はないだろうとも思われた。
 店員が焼いた米を持ってくる。適当に受け取って一人食べ始める。器が半分ほどに減ってもメリーは動かない。湿る窓。店内は適温。手持無沙汰になって、メリーの持ってきた傘を手に取る。長さから、二人は入れそうにない。まあ、最悪風邪を引くまでは幾ら濡れても許容範囲ではあるが……。
 暫しの逡巡。傘は多いに越した事はない。どうせ寝てるわけで、この隙に買いに行っても罰は当たるまい。メリーは動けないが、少しの間は問題ない、筈だ。
 思う所を決め、蓮子が善しと立ち上がろうとする。本当に、大丈夫だよね? もう一度相方を見る。紫色の瞳が、蓮子を見据えていた。

「うおっ!」
「蓮子、あなた何やってるのよ」
「い、いや、買い出しに」
「あの状態の私を置いて? 信じらんない……」
「ご、ごめん」

 呆れたような、詰るような冷ややかな眼差し。陳謝の姿勢を見せ彼女はようやく引き下がってくれる。もう一度機嫌を取って、彼女はようやく得た所を話し出した。
 それは、由来。その石は、山のような場所から来た、らしい。この土地の殆どは山だろうと笑うと、そうではないと返された。視るが早いと手を差し出される。異様の能力、怯える気持ちももう慣れた。メリーは寸分違わず能力を行使している。
 座り直し、差し出された両手に手を重ねる。皮膚をざわめくような偽の感覚と共に、メリーが保持した認識が蓮子の認識と重なる。

 ――その光景は、白く霧がかかっている。周囲に広がる霧。石は、安置されている。それだけがよく分かった。目を凝らすと、霧の中にも、他の器物がある気がする。何の光景か、蓮子は考えた。霧が、揺らめく。それに応じて視界も変化する。晴れるその間、何かがくっきりと――

 次の瞬間、蓮子は自分の身体へと意識を取り戻していた。そうだろうと言わんばかりの相方の目。なるほどと反芻する。

「あれは、山だ」

 それだけが分かる。視覚情報としてではなく意識として、あの場は山であり山というシチュエーションだった。そう自身が理解している。

「で、山じゃない。異界に近いよね。山って設定だけが与えられたどこでもない場所。該当する場所が実際にあったとしても行くだけじゃ意味がない」
「それに行けたとしても、それだけじゃ意味がない。視る術が限られてるし、できれば視なくても色々分かるようになりたい」

 二人顔を見合わせる。なるほどそれなら、この石は、伊弉諾物質(おそらく)は、一筋縄ではいかない。また幾らか動き回る事になるだろう。まず何処から手を付けるか、旅費は、活動費は足りるか。
 次は、どれくらい時間をかけるのだろう。二人は、どれほどの間この石に関わっていく羽目になるのだろう。

「ふふっ」

 相方のかすかな笑い声。何だとそちらを向くと、彼女は慈愛に満ちた表情でそこに居る。

「良かったじゃない蓮子、暫くネタには困らなそう」

 蓮子は何も答えなかった。半ば無表情にその言葉を受け、口の端だけをゆがめて笑った。
 相方が椅子を立ち上がる。

「先、アジト帰ってるわ」

 規定事項。二人が共に行動することは、必要以外は避けている。どちらともなく言い出した。彼女が先に帰る。蓮子が遅れていく。
 去り際に彼女は振り返る。ふと思いついたよう、忘れていたように。

「ところで、蓮子はこれどう視えてる?」

 羽虫でも見るような目で、彼女は固形物を指さした。石の様な固形物を。そう、蓮子にはそう見えている。石を形容する際、それはありふれ過ぎて石以外の言葉を持たないように、蓮子にとってそれは、石だった。それも、幼いころ公園で見つけた少し大きい石。河原で、適当に拾って、それを投げたところにある石。蓮子は区別できない。

「石、かな」
「そう」

 そうだろうな、蓮子ならそう答えるだろう。その予想と、なんら違える所はないという風に、彼女は小さく呟いた。
 彼女は去る。もう一度、机の上のそれに目を凝らす。蓮子に、変わる所は見えなかった。


――


 活動の基本は足だ。そう蓮子は言った。メリーもおおむねそこには同意している。喫茶店から帰りその翌日、二人はさっそくアジトを出た。
 媒介は総じて何かと紐づいている。脈を流れる何かと。そして、これも試行の結果だが、脈は、特に伊弉諾物質に対して、常より大きい親和性を見せるようだった。脈。それはこの土地、いや、もっと概念的な空間を含み流れるもの。媒介を通せばもっとはっきりと視ることができる。
 何故かは分からない。絡み合うような結果だが、それを探るために活動を続け、またそれを使うために脈を求めている。
 脈は、偏在したが、また差異も大きい。

 揺られ、揺られ、雲の向こうではおそらく日が陰り始めている。
 時のぼやけた空を眺めながら、列車は寂れたホームに着いた。急かす蓮子にメリーが続く。降り立った駅の外では、どよりとした明るさを街灯が照らしている。
 いささか風情のある、風情しかないような駅広場だった。メリーは半ばうんざりした様子で目の前の山を見上げた。小さな、いっそ丘とも言える山だ。歩き慣れた二人にとっては長めの坂を上る程度のものだが……。
 雨水が地面を打つ。観光客、登山客は見るからに少ない。時間から、店も、軒並み締め切られようとしている。

「あーっ……」

 沈んだ面持で、メリーは足元を見た。ぬかるみ始めた地面を踏みしめて、靴の感触を確かめる。袖口は既に水が染みている。ずっと前に。

「これ、今日来る必要なかったよね。明日でも良かったよね」
「ぶちぶち言いなさんな。人が少ないだけ良かったじゃないの」
「そりゃ、そうだけどさあ」

 それに、今日でも明日でもどの道同じだ。空気を湿らせる雨雲は、しぶとく空に浮かび続けている。降りと思ったら止み、晴れと思ったら降り、安定しない空模様は蓮子をして安傘の備蓄に走らせる。静かな状況も良かった。メリーは物を覗くとき殆ど姿勢の制御が利かなくなる。倒れ込むような事はないがうずくまって動けなくなる。人が居ると、中々面倒なのだ。
 この場所は、以前の活動で脈の存在を掴んでいた。脈もあるし、それに帰類するであろう説話も残されている。通常分かりやすいところは過日の鼻利き者によって社が立てられたりするが、それらも無いところが穴場然としていてまた良い。最初から無いのか、政治に呑まれたのかは定かでない。
 蓮子は構わず先に立つ。売店で入手した安物傘を二人差し、辛うじて地面に草の見えない、申し訳の舗装道を入っていく。
 歩く中、薄闇の中で、彼女が横を向く。場所を感じ取ったのだろう。以前来た時の、蓮子の感覚にある方向とも一致している。そのまま山道を歩いて二十分もすると、二人の記憶のその場所に着いた。広く円形に造られた空間には、木々もなく、確たる人工物もなく、ただ平たく地面を見せて、人の過ぎゆく様にある。誰もかえりみる事はないだろう。休憩用の長椅子すらない。道はその上と下に一本ずつ繋がっていて、流れを止める事もない。
 傘を並べて歩き、広間に差し掛かりながら、蓮子は妙なものを見た。先客が居る。二人、男。今は背を向けているが、体格もそれなりに良い。煙草の火がぼうと点になって見えた。止まらず、メリーにもそれとなく歩く旨を伝える。蓮子の視線は傘の隙間、それを探るよう注がれる。
 珍しいことだ。言っては何だが二人が活動場所で他人に会うことはほぼない。そもそも場所に辿り着く者が少ないからだ。それは二人の、メリーの眼が本物である証左でもあり、オカルト系統の普及割合の少なさを示す証左でもある。そして、嫌なシチュエーションだ。二人はこの広場に用がある。なのに誰かのせいで行動できない。丁度、自分達の嫌がる所に人が居る。邪魔なのもそうだが、居られて嫌なところを抑えられる、それが感覚的に嫌だ。
 男達は、こちらに気付く。注ぐ視線を受け流しながら、傘の隙間、蓮子は彼らを覗う。横目に、視線は合う。すれ違い様、夜目の利く蓮子の眼に、彼らの表情が刻まれる。
 彼は、見えていない筈なのに、蓮子の瞳を、表情を確りと見つめていた。そして捉えていた。歩き去る時背中に感じたのは視線だけであったか。気持ち強張る蓮子の表情へメリーは不安な目を向ける。心配ない。軽く笑みを作り相方を先に行かせ、蓮子は、彼らから見えない位置に立ち止まった。
 まさか、と思いつつ身を隠す。耳を澄ませば音は探れる。道を追う気配は無い。数分待つ。来る気配も無い。
 嫌な予感だった。こんな時間にこんな場所で、まして雨。自分で言うのもなんだが、通常人の取る行動ではない。
 だから彼らは通常ではなく、それは悪い人間であったり、その精神が、通常の意思疎通を不可能ならしめるものであったり。そして、もっと悪いのは同属であって、尚悪いのは……。
 彼女らは根本的に犯罪者だ。結界を暴く罪。法を犯す頻度は年を追う毎に増えている。その深さも。それらしい場所で人に接触するのは、もう避けるようになってそれなりに経つ。なるべく、人に目を付けられたくない。記憶されたくない。それが人目を避けるもう一つの理由。
 山道は静かだ。夜の闇、人の動いたざわめきはない。少し下り、広場を見る。居ない。
 杞憂だ。杞憂だったのだ。安堵の息を洩らしメリーを呼びに行く。暗い広場をメリーの感覚的な探査が走り、あちらやこちらへうろついて。この辺りだと思う場所でメリーが石を持ってしゃがみこんだ。泥が付かないよう、蓮子が一緒にしゃがんでそれを支える。
 近くなった地面、ふと目に入る吸い殻の破片。
 しかめた眉に後悔が滲む。……土を踏む音が、背後から聞こえる。

「驚いた、宇佐見、蓮子だ。本物ですよね?」
「隣に金髪も居る。十中八九、いや、十まで本物だろ。生きていたのは驚いたが」

 無造作に降る男の声。数歩の後ろ、とっくに間合いを潰され、この時明らかに与奪の権利は相手に奪われている。蓮子はゆっくり、ゆっくりと立ち上がり、相手を刺激しないよう傘を閉じた。張り布を打つ乾いた音が止む。水滴がメリーを覚醒させる。

「あ、蓮子?」

 寝ぼけ声に蓮子は応えない。代わりに、指で立つように示し、気休めでしかない、棒状に折りたたまれたそれを逆手に提げた。

「どうします?」

 一人が、無造作に歩を進め、もう一人に止められた。メリーはよろよろと立ち上がり、交互に三者を見る。

「へ、変質者……?」
「メリー、ちょっと黙ってて」
「俺たちは、あー、警察、警察だよ。ちょっと話、いいかね」
「警察ぅ」
「メリー、違うから」
「違うの?」
「取り敢えず、逃げて。別れた方が良い」
「……分かった」

 メリーが後ずさり、蓮子が間に割る。広場の対岸、彼らから遠い、上への道。メリーが駆け去る。その無防備な背中は見えている筈なのに、彼らは追う素振りも見せない。

「要注意人物だ。黒から行くぞ」
「金髪は……」
「後だ。こちらの方が与し易い。……そう書かれてあった」
「数年前のですよぉ?」

 散っていた視線が蓮子に注ぐ。その一種異様な視線を受けながら蓮子は傘を引き付ける。いつでも振るえるように。いやそれとも、武器と成り得ぬとしても、少しでも身体に近づけたかったのかもしれない。二人は蓮子を囲みながら注意深くその動作を見る。観る。
 その力を見るように。その底を覗うように。それにつれて、距離はまた短くなっていく。
 構えるまでもない。蓮子は打開を探し、探し続けた末、ようやく心中にそれを認める。この頼りない骨組みの安傘が、例え一つの強固な材木であっても、それに重く刃が付いていたとしても、彼らには敵し得ない。蓮子は、決して特別な人間ではない。一個のか弱い人間だ。
 視線の交錯する中、放された傘は自重で傾き地面に音を立てた。蓮子は諸手を上げる。至極緩慢な動作で。それにつられるかのように、彼らもまた、ゆっくりと蓮子を包囲した。もう逃げられない。蓮子の腕も、脚も、彼らの射程内にある。蓮子は片膝をついた。じとりとしたぬかるみの中へ。

「触らないでね。痛いのは嫌だから」
「手荒な真似はしない。……今のところはだが」

 こいつらは、誰だ。慎重に言葉を選びながら、該当候補を検索する。秘封倶楽部の勇名は確かに範囲を限りながらも轟いている。例えば、同業のオカルトマニア。噂に尾ひれは付き物、聞きつけた人間が強行に出ることもあり得ないではないだろう。
 そして、もう一つ。二人を知っていて、かつ接触してくる者達。蓮子はもう一度彼らを見る。よく、見る。どうだ。素人臭さのない身のこなし。明確な敵対行動。やはり、最初の言葉通り、官憲、政府筋、そちらが順当か。覚えはある。幾らだって。
 すると、官憲のたぐいが蓮子のことを認識している……。

「私達の名前、知ってた。何で? 私達、そんなに悪い事はしてないつもりだけど」
「よく言うぜ。見つかってないの間違いだろ。違法に変わりはない。それに、悪い事かを決めるのはな、お嬢ちゃん。俺達なんだよ。……おい、まだか。いつ来る」
「ええと、すいません。後四十分はどうしてもかかりそうです。何しろ辺鄙な場所ですから」
「そこまで辺鄙でもねぇだろ……」

 否定がない、官憲で間違いない。おそらく二人が結界と呼んだものの在処も、彼らは手にしているのだろう。ピンポイントすぎる。彼らの手の内を探りたい思いもある。彼らは二人の存在を知っていた。いずれ何処かでまみえることもあるならば、そのいずれのため、今のうち聞けることを聞いておきたい。
 二人の容貌、着ている物に奇妙は認められない。蓮子、メリーの側にいる、さぞ特殊な生業の人間かと思いきや、むしろ不自然なまでに普遍的な恰好をしている。ただ山に登るには相応しくない、どちらかと言えば街中に馴染む格好だった。
 オフィス街とでも言うのか……? つまり、そちらが本拠なのだ。言動は組織立ち法を持ち出す。二人を追うことができ公的機関としての身分を持っているなら、警察も遠くはないだろう。
 しかし、警察がこうも強硬な手を取れるのか。いくら蓮子が犯罪者であってもあまりに強引な手は問題が出る筈だ。もしブラフでなくそれを強行するのなら、もっと別の場所、ずっと特殊な身分だ。すると規模が気になる所だが――

「ねえおじさん、こういうの不当逮捕って言うんだよ。いけないよ」
「おうおう。勝手に言ってろ」

 蓮子の言葉に動じない。最初から自分達を蚊帳の外に置いている。超法規的措置というやつか。法の下に大手を振って歩けるならまだしも、それ以外であれば規模は当然小さくなる、はずだ。
 取り敢えず、応援は、少ないだろう。予測する。

「この子……」

 若い方がもう一人に話しかける。

「おかしいですよ、落ち着きすぎてる。ここまで来たら、普通詰みって言うんですよこれ」
「自分で分かってない、って線はないのか」
「あのオカルト狂いですよ? もう既に、何か手段を得ているんじゃないかと僕は思います。それこそ、こうやって待っていてもお釣りの来るような何かが」

 人の事を一体どう捉えているのだ。だが、オカルト狂いか。そう呼ばれているのか。心の中に自嘲じみた笑みをこぼす。全くその通りだ。浮かべながら、蓮子の手は体に沿い、腰へと滑る。
 腰に掛けた鞄の中に。

「おい」

 年上が気付いた。

「動くな」

 その声音、殺気。蓮子の手が止まる。二人の意識が蓮子に向く。だが、俯き加減の蓮子の目は彼らに見えない。その、いくらもの不敵さを孕んだ眼差しは。

「ちょっと、時計をね。見るくらい良いでしょ。空は曇ってるし、今の時間くらい」
「うるせえよ、お前。今の聞いてたろ。あまり舐めた事言うな。お前の用事を俺らが聞くか? なあ」
「うん……、そうだよね」

 明らかにイラついている。蓮子の声音、なおも外に出さぬ手。男が面倒そうに顔をしかめるのが蓮子にも分かる。きっと次で脚か手のどちらかが蓮子を襲うだろう。蓮子に屈辱を与えるために。蓮子に敗北を与えるために。
 面倒な事になりそうだ。一瞬、蓮子は躊躇い、すぐに掻き消した。結局、出会えば、終わりなのだ。彼らに出会い、その生存を確認された時点。たとえ逃げる事が出来たとしても、追われるようになった時点で、既に二人は坂を転げ落ちていた。
 蓮子が滑るようにその手を引き抜く。鞄の入り口に張り付けてあった物。手には、札。一枚の、札。
 行動の意味を、彼は理解する前に脚を放った。肩に向けて。それよりも早く、握った蓮子の拳はもう片方の手に叩きつけられる。札への打撃。果たして彼らは、それを、見る事が出来たか。札は怪しげな光を、淡く、既に発していた。蓮子がそれを打撃した瞬間、札は周囲の空気へ膨らむように何かを混ぜていった。混ざった空気が波動のように全方位へと広がった。膨らんだことも気付かないような速さで、一瞬に。
 それは札に込められた妖気の渦。妖気の奔流は知覚を越えて周囲の空気を揺るがす。蓮子が蹴り足を受けて倒れ込む。土に塗れる。そして殆ど同時に、彼ら二人は力を失い崩れ落ちた。
 大分汚れた体を眺め見て、蓮子は二人を引きずり脇へと置いた。そして片方を足の先で少し小突いた。ぴくりとも動かない。息をしているかは、怖くて確認できなかった。している、筈だ。
 そして一度上へ向かい、程よい所でメリーを呼んだ。急ぎ来た道を引き返し、不都合の証拠を見られないよう広場も素通りし、駆けに駆けて下まで戻った。ふもと、入れ替わりに向こうから、物々しい気配を持った車がやってくる。二人はすぐに駅舎に入った。後ろの方で車が止められ、数人ばかりぞろぞろと山の中へ入っていく。それを見留めながら、二人は来た列車の中へと入っていった。


――


 少し、暗めの店内。気軽さよりも雰囲気を優先した内装。二人は、一つの座席を占領している。店内には割合人がうごめいているが、二人に注意を払う者はいない。
 紅茶を、メリーは頼んだ。蓮子は、水に砂糖。風情がないのは自分でも気付いているが、だが硬質な物を、そして甘い物を身体が欲している。
 まだ少し精神に緊張が残っている。彼らは雨に打たれて無事でいるだろうか。きっと見つかった筈だ、彼らを探しに来た応援の手によってきっと。心に強く言い聞かせて、まだ見ぬ次へ意識を向ける。追われる先の、次へ。深く息を吸い吐く。緊張はほぐれない。
 メリーも、少し疲れたような表情をしている。列車の中でもじっとしていた。無理もない、身体的な負荷はむしろ彼女の方が大きい筈だ。慣れない行動はそれを倍加させる。
 遅れてきた紅茶を見つめ、一息に飲み干し、メリーは蓮子に目配せする。

「ああ、行くのね」
「うん……取り敢えず、言われた事はやっとく」
「私は、もう少し、居るよ」
「気を付けて」

 相方が去るのを見送りつつ、蓮子は砂糖水に口を付ける。何分後に行こうか、今後の動きはどうするか。そんな事を空いた時間に考えながら。
 一人の時間。相方の居ない間隙時間。二人が必要以外を別れて行動するようになってから随分経つ。人目を避けるため、目立たないため。人の目というのも、語弊がある。人目に幾ら触れた所で二人に影響が出る事は殆どない。官憲を含んだ同業の目を欺くために、二人は別れている。
 かつてそこかしこに現れては珍妙な功績を残し消えて行った黒と金の二人組、秘封倶楽部。その身体的特徴は一つの界隈に知れ渡っている。即ち、黒と金。特にメリーは分かりやすい。まず日本人ではない。こんなにも分かりやすい目印があるのだから、却って人は、他の目印になど目が行かなくなる。
 だから、別れる。そう、メリーの問いには答えていた。もう終わりだ。また次の手を考案する時が来た。
 扉が開き、外の雨音が流れ込んで来る。見えない位置だが、ふっと目をやる。扉が、閉まる。音が止む。長居のために、もう一杯水を頼もうとする。

「この雨は、止まないよ」

 声が、視線の後ろから蓮子の思考へ割り込んだ。
 ほど近い。席の傍ら、低い場所から声がする。蓮子が振り向く前、声の主は回り込むようにテーブルを動き、蓮子の向かいに腰かけた。誰の許可も得ずに。蓮子はその声に思い当たる。視線を向けると、含みのある微笑が待ち構える。

「お会いするのは二度目だ。どうも、宇佐見さん」

 全体的に薄灰色の調い。小さな体に不敵な目。幼くも見える歳の頃とはかけ離れた声の響き。外見と年齢が見合わない者達。その類の容貌をしている者を蓮子は知っている。そして目の前にいる者の名を知っている。

「……確か、ナズーリンさん」
「なっちゃんで良いよ。横文字は目立つ。そんなに険しい顔をしなさんな。なぁに、ほんの世間話さ。たまたま見かけたからね。親交でも、深めようと」

 不必要に近い間合い。作られた親しさ。ねとりとした眼差しが蓮子の目を射抜く。何が親交であるものか。これは挑発だ。そして、蓮子が、その内心には当然気付くであろうと見越しての行い。
 彼女はその振る舞いを蓮子に見せている。妖怪は最低限の見かけ以上その存在を隠そうともしない。この不自然、これは、試されている。

「雨が、止まない」

 その意図を探りながら、鸚鵡返しに蓮子は応える。何の情報もない。ただそれにつき、事があるなら言えと意味を持たせて。ナズーリンは、表情の読めない薄い笑みを貼りつけたままだ。

「おや、気付いてない。これは自然現象じゃない、歴としたあやしの仕業だ。通常の雨とは理由が異なる。見てても止まないし、およそ倒すか飽きるまでずっとこのままさ」

 それを蓮子に言って何の意味がある。蓮子に伝えて、何の意図が。
 倒せと言うのか。倒して見せろと。だが彼女の眼差しは、倒せるのかと、君に、蓮子に、その力があるのかと、分りすぎるほどに嘲っている。
 くくと笑った。皮肉と嘲笑の入り混じった笑み。出来るわけがないのに。蓮子には、何をすることだって。

「なら、放っておくしかない。私の分ではない」
「分、ね。良い言葉だ。かく言う私も分相応に生きる事を心掛けている。私も、弱い妖怪なんでね。だが、はて」

 君が、それを言うのか。その言葉がはっきり蓮子の耳に聞こえた。幻聴だ。誰も言葉を発してはいない。蓮子の内心が産み出しただけだ。だが、きっと対面の彼女は同じことを考えた。だからこそ、こんなにもはっきりと聞こえる。
 彼女は蓮子を覗き込む。その瞳の奥を覗うように。その瞳の底の、心を透かし込むように。蓮子はそれを無礼だと言う事がどうしても出来ない。この、入れる探りを隠そうともしない者の、粗雑ですらある態度に、異を唱えることが出来なかった。
 気後れる訳ではない、ないが、言葉を出す手前で蓮子にそれは言えることではないように思えてしまった。だから言わなかった。ナズーリンは覗い、覗い、覗ったあと、飽きたようにその頭を離す。
 沈黙が場を包む。ナズーリンはその真意、決して蓮子に見せはしない。

「はは、うん。いやすまない。実は用事なんて無かったんだ。ただちょっと顔見知りの女の子にちょっかいを掛けに来ただけで、用と呼べるような物なんて何も。そう、無かった」

 彼女はその短い滞在の席を立つ。帰るそぶりを見せてしかし振り返る。無かったと彼女は言った。それを強調するようにナズーリンは微笑を浮かべた。
 目の奥に苦い表情。また、会うのだろう。いや、来る。蓮子が何をしなくとも、向こうから接触にくる。無かったと言ったのだ。今は、ある。その時、次に会った時に、彼女は何をもって蓮子に触れるのか。
 水を頼み損ねた。潮時という言葉が浮かんだ。蓮子は代わりにコーヒーを注文する。そしてその間、グラスの底に残った水を流し込むようにして口に含んだ。


――


 部屋から人の住む気配が消えた。家具は元から殆どない。寝具も。全て引き払って、がらんとした箱の中に蓮子は居る。四角い、最低限の区切りだけが施された空間。
 少ない、軽く背負えるまでになった荷物を背に、蓮子は部屋を後にする。ドアには「夜逃げ」の張り紙。白昼堂々、静かな住宅地に彼女の姿を見止める者は居ない。
 通話の呼び出しが三度鳴る。

「メリー、ハローメリー。出たわ」
「了解。ふうん、時間通り、だね。律儀だこと。こっちも今着いた所で、荷物も届いてる。蓮子が来るまで多目に見積もって三時間くらい? 鍵どうする。開けといた方が良い?」
「いや、かけといて。近くに来たら連絡するから」
「はい、はい。じゃ、気を付けてね。来ないとかやだよ」
「善処するよ」

 受話器を降ろしほんの少し長くいた建物を見上げる。アジトの跡。一山幾らの、軽く薄いボロ建屋。
 この時代にも、それともこの時代だからだろうか、このような用途も知れぬ建築は残り続けている。蓮子のような者が仮の寝床として使うこともあれば、変わり種ではその最期を終えたがる人間もいる。
 きっと今も、この路地のどこかには居るのかもしれない。蓮子は目を伏せた。人気の乏しい住宅街、素早い足取りで歩を進めた。
 過ごし易い環境、活動するに苦のない温暖な環境。東京という、昔日の都市の名残。この付近は良い場所だった。二人は逃げる様に身を隠す。今までだって移って来た。さながら遊牧民のように、餌場を求めてやってきた。
 まだあれから一日二日も経っていないのに、こうも蓮子は急な行動を強いる。意識にも無意識にも蓮子は重く見ているのだ。今まで徹底して避けてきた向こう側、得体を、知るよりもなお離れる事を選んだ境界線を。それが越えられてしまうことを。
 つい先日気絶させた彼らは生きているだろう。彼らは目を覚まし、二人の事を、悪し様に言いふらす。組織のような彼らに情報は浸透する。そう仮定する。
 愛用の腰かけ鞄の他、背負われた荷物鞄の中に入っている。動くために必要な最低限のキット。そして、メリーと分けた所持金の半分。いざという時のための貴金属。身を守る、少量の武器。それだけで。
 旧アジトを背に人家の間を急ぎ早に歩く中。すれ違い、通り過ぎた人物の懐に物騒なモノが見えた気がして、蓮子は顔を強張らせた。確かめる術はない。振り返りもしない。だが確実に、そう遠くない内にあの家には誰かが来る。そう思えばこそ二人はこの家を離れた。
 次は、西だ。東京から、首都に。木を隠すには森の中。もっと辺鄙な場所の方が良かったかもしれない。ただ、物件的制約として、住まずに逃げ家用途で確保できるものがそれほど多くはない。結局手頃なものは京の近郊、本当は使う機会もないだろうと思っていたのだ。
 尾行可能性を考慮して少し回り道を行ったが、中心街に近づくにつれてそれは段々と無視される。忘れるわけではない。ただ気持ちが沸かなくなる。溢れかえる人の波と薄暗い活気はそういった小手先の細工を押し流して余りある。
 どこから来るのか、この黒い流れは濃い所にばかり集まって、外れに行くと影もなく形などもなく陽炎のよう。蓮子は駅舎の見える一際流れの強い場所に立って静かに息を吸った。人の居る空気が鼻腔に流れ込んでくる。人が居る。すぐ近くに。
 ふとその視界の奥に、人の目を感じて蓮子はその場を離れた。今居た場所に遅れて誰かが来るのを、蓮子は横目で確認している。その人影は蓮子を探している。組織立った人間ではない。ただの、人。その顔には見覚えがある。ヒロシゲが来る。蓮子は駅舎に入り、流れるように止まらずにヒロシゲの車内に入る。もう数分で出る。席が埋まっていく。
 妙に有機的なアナウンス。加速の浮遊感。カレイドスクリーンが点灯する。荷物は膝の上。もう外の景色は見えない。
 撒けた、と思いたい。場所が断絶的に変われば流石に見つける事も難しくなる筈だ。真っ当な警察組織でない事は予想がついている。表立って動くには割が合わない、そう捉えてくれれば良い。捉えてくれる、筈だ……。
 隣の人を見た。隣に座った男の人。スーツ姿の上から、丈夫そうな体格が見て取れる。柔和な笑み。前、後の席に、人は無い。

「どうも」

 男が先に、会釈をしてきた。蓮子も返す。柔和な笑みに違わぬ、柔らかい声音だ。

「京都も近くなりましたねえ。昔は何時間とかかっていたようですが、今は東京の近郊よりも早く着く。貴女はその荷物、旅、ですか?」
「ええ、まあ」
「旅は良いですよね。私も若い頃にもっと行っておけば良かったと、今になって思う。やはり若い人にこそ旅はして欲しい。そして、そう。それは確かにあなたとて例外ではないのです。……宇佐見さん」
「……」
「一つ、提案を。このまま、大人しくして頂ければ身の安全は保障します。こちらとしても余計な仕事を増やしたくない。今後一切の活動の自粛、それが貴女への、いえ秘封倶楽部なる貴女方への条件です」

 思いのほか、蓮子の心は穏やかで、蓮子は目を合わすともなく相手を見ている。彼は少し身を乗り出し指を組み、出来る限りの譲歩をしているとの姿勢を暗に示している。

「私達の、安全」
「そう、その通り、これは最後通告でもあり進退の分水嶺でもある。道は既になく、私は貴女の了承を以てこの場を後にしたい。そして貴女は既に分っている。どちらを選ぶ事が良であるのか」

 蓮子は答えない。

「沈黙は、了承と見なしても?」

 蓮子は静かに首を振った。そして決然とした眼差しで隣の席の男と対面した。
 彼の表情は決して変わらない。柔和であり、柔和であり続ける。怒気も発しない。まるで規定事項だとでも言うように。

「貴女達は本当に行動力がある。昨日も、そして今日も。私が気付かなければ間に合わなかったでしょう。実際突貫なんですよ。それでもやらなければならなかった」
「前の家にも?」
「今頃は他が無駄足を踏んでいる頃でしょうね。貴女の実家にも誰か向かわせるつもりでしたが、確か公的には貴女は失踪扱いだ。結果的にはヤマが当たった形になりましたが、まあ、丁度良いシチュエーションと言った所でしょう。彼らから聞きました。何か、持っているそうですね?」

 蓮子は努めて表情を出さない様に対峙している。自身の弱みも強みも、相手に悟られないように。しかし持っていると言ったその言葉に、一瞬意識が腰の鞄に注がれた。
 例の札、いつも入れている。車内、狭い座席空間、体力に劣る蓮子が尚臆する事無く話が出来るのもこれがあるからだ。一枚の妖力爆弾。人には耐えられない。耐性が無ければ足を踏み歯を食いしばる方向さえ分からない。それが効力を支えている。人間には耐えられない。

「何らかの、器物ですか。中々厄介な代物のようで、おそらく私にも手出しする事はできないでしょう。彼らの言うには波の様な壁の様な、そんなものであったらしいのですが。さて、宇佐見さん。それを使いますか?」

 彼は蓮子を見つめている。近い。隣の席。前後に逃げ場はなく、腕はどう足掻いても届く。一度当たれば覆すことは出来ないだろう。蓮子の手は、相手より先に動く事が出来るか?
 出来る。起動は、出来る。その公算は高い。蓮子の腕に緊張が走る。しかし、それを見ても相手は、高まる蓮子の気勢をよそに動こうとはしない。指を組んだまま、落ち着いた声音を重ねる。

「私は、使うのか、と聞いたのです。使うのならご自由にどうぞ。私は止められない。しかし、使いますか? ここで?」

 不穏なまでの落ち着き様。何か隠している。蓮子が疑念を発し、強いて抑え込み、未だ優位は保っていると取り直すのに数瞬。その間にカレイドスクリーンが切り替わり、鮮やかな東海道の景色を映し出す。三枚目だ。歌川広重の遺産を基にした景色は、一分毎、流れる様移りゆく。外の景色。蓮子の意識がふとそちらを向いた。鮮やかすぎる窓。自然物ではない窓を。
 見ろと言わんばかり、動かされる相手の手。この窓の外を、その先に広がる物を、想像してみるが良いと。外。本能が危険と警告する。それは惑言だ。だが。外に、何がある。外には、何もない。ヒロシゲ、リニアはその特異性により専用のレールを用い地下を通らなければ動けない。制動も難しくその凄まじいまでの疾走速度は余波を以て周囲を破壊し尽くすからだ。だから外を想像したとしてそこには何もない。あるのは地下レールのみ。そうだ、地下の、ヒロシゲの。
 蓮子の表情に血の気が消える。相手の笑みが、意を伝えたりと深くなる。ヒロシゲの、地下レール。
 ヒロシゲは凄まじい速度で地下を疾走している。磁気・空気力学のためどこまで行っても空間猶予のないトンネル。もし仮に札を行使できたとして、札の効果がその運行システムにもし干渉できてしまった場合。いや、磁場を瞬間的に狂わせるだけでも良い。そうなった時この車両は制御を離れ、運動エネルギーそのまま無秩序に地下壁へ衝突、破砕するだろう。
 するだろうか。するかもしれない。その可能性があるだけで、札の使用を躊躇わせ蓮子の動きを止めるには十分だった。
 霞のように選択肢が消える。このために、出発まで待っていたのか。自分の身体まで賭け台に乗せて。いや、蓮子は、そんな無謀はしない。破壊主義者でもない。使わない高い公算はあるだろう。だが、それでも……。
 現実に二人は残っている。じとり、手に汗がにじむ。どうやって。どうやって切り抜ける。この近距離、彼は、急かさない。だが、徐々に圧は高まり、時間稼ぎの無意味さを蓮子に悟らせる。
 力では絶対に敵わない。だが他に、何の手がある。唯一かつ絶対の保身であったのだ。極端に増えた酸素消費量が、回りに回る試行の転回が、蓮子の窮地を非情かつ端的に表していた。
 栓の無い。蓮子の身体が強張る。もはや相手の身体は完全にこちらを向いている。失策だったのだろうか。他に取るべき方針があったのか。去る前に。乗る前に。蓮子は動けない。相手は手を伸ばそうとして――止まった。
 その柔和な表情に訝しげな影が差す。そして手を動かす事が出来ないでいる。蓮子は、不敵な、否、後のない者特有の笑みを浮かべている。二人は互いに向き合い静止している。手が出せないのだ。蓮子の手はガンホルダーに添えるように腰の付近で滞空している。少し打ち付けるだけで発動条件を満たすだろう。爆発すれば、ただでは済まない。
 いや、もし爆発したとして、蓮子にはまだ助かる可能性が残っているのだ。蓮子は耐性がある。ヒロシゲが無事であればいい。何も、干渉すると決まったわけではないのだから。その点で言えば、相手にとって分の悪い賭けではあった。
 二人が向き合って幾らかが立った。到着まで三十分ほど、相手は既に持久の構えに入っている。少しでも隙を見せれば、即座に腕は打ち払われ、身柄は拘束されるだろう。
 吹き出る汗をぬぐえもせず、蓮子はまた、徐々に不利になる自分を感じていた。所詮は窮余の一策だったか。心得の有る者に隙を出さないでいる事など自分に出来はしない。辛うじて右手の緊張は保たれているが膠着からの気の緩み、気の散らしには対抗できないだろう予感がある。そう、あと数分も経たない内に。
 相手の左腕がぴくりと動いた。反射的に、蓮子はそこに視線をやる。はっとして、相手の全身に視線を戻す。気を散らされた。そして、その効果を確認された。もう無理だ。限界だ。

「だっ、駄目かぁっ……!」

 絞るよう漏れ出た小さな言葉が、二人の間に響いた。諦めたわけではない。だが、打開の策が見えない。蓮子はその精神力を以て辛うじて均衡を保ち続けているが、それ以上は出来そうにない。
 だから、その言葉に何より驚いたのは蓮子自身でもあった。大きな声ではないし、二人とその周囲に聞こえるような声で、気付いた者はいない。相手の表情が、もう時間の問題というように余裕を深めていくのが伝わる。蓮子の喉の奥から、かすれたように唸り声が漏れ聞こえる。
 ふと、蓮子は思った。震える自分の喉を、もう少し整えて息を吐いてみた。聞きなれた声が、単音となって響いた。
 何をしているかと、嘲る調子だった相手の表情が緊張するのと、蓮子の表情へ明かりが灯るのはほぼ同時だった。相手が咄嗟に強行しようとし、蓮子は、これでいいのか、殆ど検討する時間もないまま、ただ先手を打って声を張り上げた。

「誰か、助けて!!」

 車内の意識が、悲鳴にも似た叫びの下へ一斉に向けられるのが分かる。近くに居た人間が二人を覗き込み、そのただならぬ雰囲気を知る。蓮子は膠着姿勢のまま目いっぱい体を引いて、左手を前に出しながら叩く寸前を維持している。相手は掴みかかることもできず、半端な態勢のまま、蓮子の手から目を離すことが出来ない。ざわめきが伝搬を始める。

「待ちなさい! 私は……怪しい者ではない!」

 どこに意識を向けるか、混乱しながら彼は叫ぶ。野次馬が、その一人二人は男性が、集まってくる。そして屈強な男と、憔悴した表情の少女を見つける。助けてくれと蓮子は繰り返す。正義感溢れる誰かが彼を引き離しにかかる。
 交錯。彼は、椅子の間、二人の男に挟まれて立っている。席一つ分かたれた空間、間合いは切れた。

「冤罪、です。私はこの娘を護送中だった。手帳を見せてもいい」
「何の罪で? それに、手帳だって一般人に本物かどうか分かるわけがない」

 毛を逆立て、牙を剥く気勢の蓮子は即座に言葉を割る。男は周りを見た。傍観の中、猜疑を向ける乗客の数人居ることを見た。

「……分かりました、警察を呼びましょう」

 ため息を吐き、その身を周囲の人間に委ねる。同時に、蓮子を包んでいた気の圧も消えた。
 男は引き離されていく。去りながら蓮子に言葉を残す。

「今回は引き下がります。元々急ぐ用事でもなし、あまり刺激するのも面倒ですからね。ただ……」

 扉が開く。振り向き、男は蓮子をしっかりと見た。

「次は、優しくないですよ。それは覚えておいてください」

 男は、隣の車両に消えた。周囲を取り巻く人々に愛想と事態の終結を振りまき、蓮子は元の席に座る。他もそれぞれ元居た席に戻った。束の間の休息。取られた荷物を手元に戻す。
 蓮子は気が滅入るのを感じていた。その実、泥沼の様な争いでしかない。収拾がつかなくなることが分かっていて、だから相手は退いた。退いてくれなければ、蓮子には事態を手に負えなくなっていた。切り札はあってもそれは蓮子の力ではないのだ。何度でも思う、借り物の力。
 蓮子は駅に着くと同時に、一目散人の中街の中へと姿を消した。尾行までのタイムラグ。それに賭けてただ西へ、西へ行き、夕方前に京都郊外、メリーのアジトへ着いた。チャイムを鳴らす。

「……あれ?」

 出ない。

「ちょっと、メリー!?」

 慌てて何度もチャイムを鳴らす。安住宅に丸く高い音が渡り行く。茫然となりかけながら、ふいに、思い立ち、電話をかけてみた。鍵の開く音がした。相方が顔をのぞかせる。

「メリー、勘弁してよ……」
「防犯よ、防犯。先に合図決めたの蓮子じゃないの」
「こっちゃ疲れてんのよ」

 部屋の中は既に調えられ通常程度の生活は出来るようにされている。敷かれてあった布団にのめるように身を横たえ、蓮子はようやっと大きく息をついた。

「メリーの方はなんか、変わりあった?」
「ううん? なにもないよ。拍子抜けしちゃったくらい」
「てことは、私だけか……」

 狙われているのか。舐められているのか。ぐたりと疲労を感じながら、蓮子は相方に事の顛末を話し始めた。


――


 陽光、漏れる陽、なだらかな坂、木々。
 山の中には道がある。道なき道の、でも通る事を妨げない程度の、道が。その道を蓮子は行く。下へ、下へ。相方の手を引いて。
 メリーは虚ろに蓮子を見る。虚空の代わりに蓮子を見る。その視線が分かるから、蓮子は強く手を握りしめた。自分は居ると伝えるように。

「……メリー」

 開眼し、天井を見つめ、蓮子は上体を起こした。メリーは隣ですやりと寝ている。安らかな顔で。
 夢だ。何度も見た。同じシーン。あの時、連れ出た時、離れゆく時。蓮子は己の不甲斐なさと、情けなさと、そしてなにかよく分からない想いで胸の中を満たしていた。
 手の感触が強くこびりついている。あの、何も力のない手。握る蓮子だけが力を込めている。まるで悪夢だ。まさしく、悪夢だ。だから、見るのだ。
 アジト、殺風景なアジトの窓の外。誰も来た様子はない。捕捉されたのだ、と思い出す。存外早かった。荷物はまだ広げられていない。早々にここも立ち去る事を、視野に入れて。
 逃げ続けることが出来るのだろうか。蓮子はメリーに、そんな生活をさせたくないと考えていた。一つところに留まる事も出来ない、ただ逃げるだけの生活。その内手段と目的とは入れ替わって、二人は逃げるために逃げるようになる。そう生きるようになる。
 自粛。ほとぼりが冷めるまで、ひと時の我慢。横に眠るメリーを見た。このメリーは、きっとそれでも、蓮子を責めはしないだろう。喜んでついてくるだろう。決して文句を言う事もなく。
 ……薄暗い、意思の光が蓮子の瞳に灯る。蓮子はその選択をしない。絶対に。活動は蓮子の至上命題、何があろうとも絶やされる事のない、そう……。

「む……おはよう、蓮子」
「ああ、起きたんだ。おはよう、メリー」

 呻き声を上げながら身を起こす相棒。本当は早いなんて言える時間ではない。だが、いい。二人には結局、もう縛ってくれるようなものも存在しないのだから。


――――



――――


「ああ、無理そうだ」

 報告を終えた鼠が逃げるように去っていく。それを見送り、ナズーリンは首を傾けた。

「厳戒態勢、と言うよりも、気が張ってるんだな。根本的にああなったら手出しできない。あれも、麓の段階で見られたのが分かって逃げ出してきたんだとさ」
「そう、ですか。山も……。いえ、山だからこそですか。里は至って平穏なのですけれどね」
「いやあそれだって、耳聡い奴は気付いているよ。あれは見せかけの平穏さ。現に物流が、まあ滞るとまでは言わないが」
「影響が出てますね。少し種類が減りました」
「だろう。今すぐ何かはないだろうけど……用心はしたいね。何があっても対応できるように。同盟相手でも探すかい?」
「こんな狭い郷でですか」
「物の例えだよ。幾らご主人でも山を相手にはできないだろう。他の奴らだってそうさ。誰も自らの手に余る。あっちも、こっちも。それならくっ付いてしまった方がよほどマシさ。疑心暗鬼が一番怖い」
「そうだとしても、なるべくならそんな態度には出たくありません。疑心は疑心を煽ります。派閥毎の内紛ともなれば……終局は平和的な解決が一番ですから」
「でも私は心配だよ。事が起こったら一悶着は必ずある。平和を謳った所で、果たして寺は……そして貴女は、その収拾が着くまでに無事でいられるかな」

 幻想郷には賢者と呼ばれる者が存在する。賢者は一種の合議体を形成し、陰に陽にこの幻想郷の意思決定を司っている。
 その賢者会に、実態が確認できないと囁かれだしたのは数ヶ月前だ。虚構の会合ではない。存在は確認されている。ただ、今、無い。誰も連絡が取れず、各地の個々の長達も断交に近い状態にあると幾らかの住民が気付きだしたとき、郷の空気は急速に濁り始めた。
 自分の主人が悲しそうに目を伏せるのをナズーリンは見ている。結局この心優しい主人も理解しているのだ。あやかしと呼ばれるものが如何に我の強い存在であるかを。
 ひとたび均衡が崩れ思惑が錯綜すれば、事態は泥へ堕ちる。その泥の沼が封ずる巫女の手を越えたとき、それは異変の範疇を離れ、郷は滅びの途を往く。
 往くだろうか。郷はこの場にあるではないか。揺らぎはしても、確かな日常を流して在るじゃないか。
 ナズーリンは遠く思う。だが、ただ言えることは。見えたときにはもう遅い。

「……少し、考えさせて下さい。聖と相談をしてきます」

 そう言って去る主人の背中を見送り、自身も縁側へと向かう。座って、一息。なんとなく、やる事が無くて、ずっと空を見上げていた。変哲もない空。今日は飛んでいる奴も居ない。遠くに、木こりの音が聞こえて来るだけで、それ以外は、風の音。
 静かだ。本当に静かなのだ。門弟も寺に居る筈なのに、気配も何も、周囲から閉ざされてしまったように感じる。隔離された静かな空。
 ぎい、と軋む音。陽は夕暮れを迎えている。音のする方を向くと、ご主人は居ない。

「あ、起きた」
「……なんだ、村紗か」
「なんだて……随分なご挨拶ですこと」
「だって君に特に用は無いもの。ほら、サボってないで行った行った。私は忙しいんだ」
「しっつれいな奴だなあ。昼間っからずっと黄昏っぱなしのくせに。そんなんじゃ教えてあげないよ」
「ん? ご主人か? 何か言伝でも?」
「や、まあ大したのじゃないけどね。あんたが待ってたら解散するようにって。聖と一緒に忙しそうにしてたからねえ。どっかの誰かとは違って」
「そうかい」
「……あんた、今日泊まってくの?」
「ああ、うん。そうしようかな。どうせ客間は空いてるんだろ」
「ナズ間でもあるからね」

――

 月が、淡く室内を照らす。人里から灯りが消え、妖怪寺は寝静まり、昼よりもなお刺してくる静寂の中、暗い客間に座して待つ。そろそろだ。心中を映すように、障子が音もなく開いた。それを、ナズーリンは座ったまま見ている。

「待ちましたか」
「いや、こんなものだろうと思った」

 主人、寅丸星は滑るように客間に入る。

「よく気付いてくれました。もし眠ってしまっていたら、起こすに起こせませんでしたから」
「成り行きだよ。ただ、私が居れば、来るだろうなとは思ってた。予想は当たったね」

 ナズーリンの耳がぴくりと動く。もう一人いる。目をやると影は音を立てず客間に入り込んで障子を閉めた。

「これは、聖……」
「こんばんは、ナズーリン。いい月夜ですね」

 いつもの法服姿、正装。風呂上がりに任せて寝間着でなくて良かったと心底思う。取り敢えず普段の服装ではあるが、これでも些か、正対するには気恥ずかしい。
 見れば星も法服である。尤も、彼女は普段着から法服を着たがる癖があるため気兼ねはないが、揃いの姿というのはどこか異様でもあった。二人はナズーリンに向かい合うように正座し、それに合わせナズーリンも居住まいを正す。部屋に灯りはともされない。かすかな輪郭を帯びて、向かい合う三者に、まず聖が口を開いた。

「寅丸、依頼を」
「はい。相談の結果、ナズーリン、貴女にこの幻想郷で頼む仕事はもう存在しない、との結論に至りました」
「それは、僥倖。丁度手に負えないと思っていた所だ。後は貴女達に任せて、私は後ろでゆっくり見物でもしているとするよ」

 そう言ってナズーリンは手振りでくつろいだ様子を見せる。それで終われば心底いい。ないだろうとは、分かっていた。
 寅丸は、言いよどんだ。隣の聖に視線を移そうとし、それを堪えて息を吸った。その一呼吸がただただ不穏だ。寅丸の視線は再びナズーリンを向いた。

「なので、ナズーリン。貴女には外に行ってもらいます。この郷の外に。そこで情報を集め、事態の顛末を予測し、出来得る限り最良の結果を求め動く事。これが今回貴女に与えられる任務です」

 寅丸は、一度に言った。
 ナズーリンは、聞き返しそうになった。間抜けな声色で、ちょっと聞き取れませんでした、もう一度良いですかと、その実すべてを理解し聞き取っているのに、逃げる一手で言おうとした。
 それを飲み込んだのは、薄明かりに映る彼女達の顔が、深刻その物の色を帯びていたから。ナズーリンはこれが全くの冗談ではない事を悟った。

「外……?」

 ナズーリンは聞き返す。二人は何も答えない。

「外……!? 無茶だ、前に出てから何十年経ってると……それに、こっちだってどうなるか分からない。最悪、あちらで孤立して帰って来れなくなる可能性だって……。依頼の内容が無茶苦茶だ!」
「だから、私が居るのです。ナズーリン、私と寅丸の名の下にこの仕事、貴女に依頼します。どうか完遂し、そして出来る事なら、無事に帰って来て欲しい」

 交渉の余地がない。眩暈が眼前を歪ませる。無事にも何もあったものではない。外の情報は断片的にしか入ってこない。それも、何年という単位で遅れたものが。実質有用なものは何一つないとしてよかった。
 それでも、その世界が自らの生きた時代と異なる事、異なり続けている事は痛烈なまでによく伝わっている。それは日常的にそういった質物を捜索しているナズーリンだけではない、郷の人妖にすら共通認識として広まっている。
 無謀であった。それは行動を起こすにはあまりに稚拙な情報。少なくとも、自分のやるべき事であるとナズーリンは考えていない。だが、聖は、寅丸は、決して撤回をしようとはしない。

「待、待って。考えさせて……」

 ナズーリンの口から肯定の言葉は出ない。

「……ナズーリン、必要であれば寅丸を連れて行っても良いですよ」

 煮え切らない態度に、重ねる様にして聖が言葉を加えた。
 耳を疑った。幾ら聖が取り纏めているとはいえ、寅丸はこの寺を司る本尊である。ナズーリンとてただの妖怪鼠ではない。それを聖は知っている。寅丸を連れ、ナズーリンまでもが居なくなった寺。
 仏法の化身が一度に居なくなる事の意味。その重さ。それが分からぬ聖ではない。寺としての存在意義に直接関わってくる。どちらか一方は備えられているべきだ。もしも戻らなければ、もしも失敗に終われば。寺の存続としては、それは打ってはいけない手だ。
 だというのに、聖の声色は、紛う事なく本物であった。

「…………」

 その意思が、ナズーリンにはよく分かった。
 つまり、分からないのだ。分からないが、手は打ちたい。動くべくして動く手を。だが分からない。そこで寺の中で、一番動けるナズーリンに密命が回ってきた。ナズーリンなら、例え外に出てもどうにか耐え凌ぐ事が出来るだろうとして。
 酷い信頼もあったものだ。その上に寅丸を差し出すのは、これは出奔への暗黙の了解に相当する。愛想を尽かされたのなら出て行っても文句は言えない。無論ナズーリンにその気はない。だが聖はその条件を重ねた。裏があろうがあるまいが、兎角その条件を提示してみせた。
 その意思に、知らないふりの出来るナズーリンではない。

「要らないよ、足手纏いになるだけだ」

 取り乱すなんて、ぬるくなり過ぎた。この日本、熊にでも会わない限りそうそう危険はない。会ったとしても、ナズーリンなら出来る。必ずや全うして帰ってくることが出来る。

「分かった。その依頼、受けよう。聖の頼みとあっちゃ断れないものな」
「分かって頂けて幸いです。では、支度を。いつ出ますか?」
「いや、今出るよ。早い方が良いし、どうせ旅装は常備してある。ご主人」
「はい」
「私は、絶対帰ってくるからな。聖と寺をよろしく頼むよ」
「分かりました。……ご武運を」
「ふん、武運なんてもの、使わない方が余程良いがね」

――

 郷の夜闇は深い。妖の目は妖にこそ強く向けられる。気配を消し、人妖の目を躱し、ナズーリンは道なき道を往く。誰の手も入らない地を選び、郷の辺々を駆け抜ける。
 郷を覆う大結界といえど穴はある。それは郷の辺縁を根城にしている者にとって常識だ。構造的な欠陥であるのか、あえて緩んであるのか。利便性のため、建前上は存在しないことになっている穴も決して塞がれる気配は無く、他機構に影響のないよう固定化までされてそこに在る。郷の一部の勢力は穴の一つを囲い込もうと画策しているし、外から中に抜け出た者が、ちょうど外へ抜け出ようとした者に出くわしたなどは事欠かない。全く平和だ。だがそれらも今一瞬だけの間隙かもしれない。郷は格段に物々しさを増しつつある。この穴の存在も、棄て置かれるとは言えないのだ。
 痕跡。穴の周囲、既に三箇ほど誰かのうろついた形跡がある事を目敏いナズーリンは見つけ出した。身体を伏せつつ覗えば、木の枝の不自然な歪み、雑多な足跡の隠しもしない態様。強者の驕りが痕に出ている。天狗だ、相違ない。気配は、今はない。仕掛け罠の類も、ない。運がいい。即座に手勢を集め、順次通り抜けさせた後、薄膜を揺らめいて水のように波打つ簡素な蓋を、押し抜けるようナズーリンは外へ出た。結界を抜ける際の揺り戻しにも似た感覚。同じ山中ではあるが空気の感じも、いっそ植相すら異なる感覚を経て、ナズーリンは今異界に立つ。
 結界を越える感覚、位相のずれを修正され、その身を寄らせるような感覚は、力の少ない者ほど影響を受ける。貧弱な鼠妖の如きは一体一体注意してやらなければ些か危ない。八体連れてきたうちの全員が抜けたのを確認してから、もう一度ナズーリンは辺りを見回した。

 結界の位相は常に揺らいでいるが、場所毎に何処の辺りに出るかは大体決まっている。地形に見覚えはあるだろうか。風の匂いには覚えを感じる。気候にも覚えのある気はするが、何分単位が長い。きっと当てにはならないだろう。
 脚を慣らしがてら駆けてみると、取り敢えず身体能力にあまり衰えは見られない。跳べる、跳ねられる。手近な木を思いきり殴りつけてみれば、当然折れるとはいかないまでも、それなりに良い音が鳴り自らのこぶしも痛みはなかった。感覚八割。力仕事はしない主義だ、十分だろう。何より元が低すぎて上がろうが下がろうが誤差の範囲だ。
 駆け続けると薄暗いはずの山中、斜面の中にほどなく木々の開けた場所に出た。広く、また整備された道。人里の近くではないから必然最初に出会う人工物はこういったものになる。本拠と本拠を繋ぐもの。しゃがみこんで、その路面を撫でてみる。叩いてみる。
 ナズーリンの表情に些かの緊張が走る。……路面の材質が分からない。様式も、見当がつかない。自身の精神がこの隔たりに混迷しているのを感じる。まさしくそれは異邦人。この土地の者ではない証左。
 情報の更新とはなんだ。最後に、外から来た者に会ったのは何時の事だったか。思えばこの百年ほどそんな者には会った事はないのではないか。百年。まさか。記憶が鈍磨しているのだ。ついこの前だってそんなのは居た筈じゃないか。
 だがナズーリンは、それと話してはいない。話す前にいなくなったから、面を合わせてすらいない。そしてその前は。ナズーリンに思い出すことは出来なかった。
 服の中から、ネズミが一匹這い出してきた。そうだ、まずは、彼らを使わなければ。情報収集と探索がナズーリンの意義。既にこの世界には入り込んでいる。困惑の時間はない。
 まずは散開させた配下に目に付いた都市部を探らせようとした。いつものやり方だ。優秀な直属の鼠たちは、数日かけてナズーリンの知りたいことを伝えてくれる。時にはその周辺の野良をも配下にし、妖怪鼠は人界を探る。だがすんででナズーリンはそれを止めた。この世界は自分の居た世界ではない。先に遠景だけでも、探るべき都市部を自らの目で見ておいた方が良い。
 また、走り、夜も明けるころ一つの建物群を目にした。ナズーリンは長年の収集癖によりその建造物を形作る材料が頑健であり、またそれらの建造物に大きさの制限がないことを知っている。知ってはいても、それでも遠目に実物を見るのは何やら妙な感覚をナズーリンに与えた。
 あんなものが、あの距離にあるのか? あれが最大どころか、普遍性を持って見られる構造物であることをナズーリンは知っている。それでも郷における人工物と、その様相とは明白に違いを見せている。
 自分が行くべきか、配下が行くべきか。もう一つ安全を取り、手下たちに野良鼠を探させて、それを先遣させた。あくまでナズーリンの直属は妖怪鼠である。命じればそこらの野良を従える事など容易い。街へと放った野良鼠たちは、幾らかもすれば様相や感覚など細かく感じて戻ってくる、筈だった。
 いくら待っても報告は入らない。手下どもも痺れを切らしかけている。ナズーリンはただ待った。日が暮れ、もう一度夜が明ける。その頃になって、ようやく、ナズーリンは誰の一匹も戻ってこないだろう事を認めた。

――

 ネズミの戻りが、悪い。戻る者もいるが戻らない者もまた多い。外に出てからもう十日が経とうとしていた。その間に野良も幾分かは帰投させられるようになったが、未だ、雑的な情報ばかりでこれといった物には出会えていない。出会えるはずもないとナズーリンは感じていた。鼠は人の街に赴くことを嫌がっている。それに練度も低い。ナズーリンは早々に見切りをつけ、今は下準備を専念し、同時により大きい街を求めて南へ下った。
 遠目に見えるビル街。辺縁へ行く毎に寂れ、風化していく建物たち。ナズーリンは立ち上がりその一つ、もう何十年と顧みられていないだろう廃屋から姿を出した。壁も、屋根も穴だらけで、辛うじて身を隠す事のみに用を足す。人はこの家に近寄らず外から中は見えない。このような廃墟が広がっているのも、大きな都市の特徴らしい。
 未だ昔日の名を残す東京の地は、こんなにも容易くナズーリンの身を見えなくする。拾った鼠たちも、周辺の薄陰に潜むようにしてある。なのにあの街の中は、誰も、入りたがろうとすらしなかった。
 もはや残るのは名ばかりで、その周辺地区と中心は別のものなのだろう。中に凝縮されたものこそが今の人間の在り様なのだ。
 それは人の社会の変遷を意味していた。昔は隅々まで網を張り巡らせたものだが、今は、その一つ一つに先んじて止めを張られている感じがする。結界、障壁。いや、目だ。目が、意識の象徴たる目が届いているのだ。それが広がっていて、だから人の意識の間隙に隠れ、ひそみ、行動する事が著しく難しくなっている。
 子分どもを役立たせるのはもはや不可能だろう。あれらは横から掻っ攫う事にのみ特化している。通常の動きはナズーリン自らが出るしかない。幸い、この数日で物資は整った。ぼろ着の成りそこないでも人目を凌ぐには十分役立つ。
 ナズーリンは駆けた。誰も居ない荒んだ街路を。暮れゆく日の中、人の増える頃にナズーリンは速度を落とした。もう建物は荒れていない。人の住む、人界の辺縁にナズーリンは踏み入った。
 そこは、ビル街の淵と言っても良かった。かつての版図が狭まったのち、堅固な建物がそこに残った。それは郭のように人界を取り囲み、引く事も戻る事も出来なくさせた。人口が増減を続けてもこの淵は不思議なほど変わりはしない。外の建物は寂れ中の建物は、

(生気が、残っている)

 古くはなってもなり果てはしない。その林立した建造群に挟まれ、整備されながらも技術水準からみればなおざりな路面、それに沿いどこからなく流れ出る人と人。人界、闇は、集まる前から既に散らされている。
 歩くにつれ、ナズーリンの意識がふいに焦点を失う。すれ違う者が、ナズーリンに怪訝な注意を向けた。そして通り過ぎる。彼女は俯き、顔を見せないようにして足早に道の裏、建物の裏路へと潜り込んだ。
 もうか、と思った。やはり、という思いもあった。気に、当てられるのは、何も人だけではない。ナズーリンは心の中に思う。自らとあまりに異なる空間に座した時、その存在は差異の揺り戻しを一身に受ける事になる。それだけだ、それだけの話。長くこちらを離れていた自分がこれほど栄えた都に踏み入るのだ、その洗礼を受けるくらい覚悟はしていた。だが、この強さは。
 目が、耳が、五感が指の先が。自分の支配を脱するような感覚。事前に予期していたから、すぐに身を陰にやる事が出来た。だがそこも、他の基準から言えば陰ですらないだろう。地面は清潔で、壁面は淡い光で視認も容易い。
 それでも大通りよりはずっとマシだ。彼女の表情は、悪い。腹の底から込み上げるような不快感。まぶたは半分ほど落ち、睨み付けるようにして前を見ている。唇は、わなないて、ナズーリンは、気付けばうずくまっていた。表を人が抜けて行く。それに見つからないように、彼女はまた、奥へと這った。
 経験上慣れれば、馴染めばこの波は収まる。その前に最悪掻き消えてしまうのではないか。そんな思いを胸に、本当に迫る死をかすかに見、彼女は気を失った。意識が断絶した。数分、数十分、目を開けて空は暗く人の声も空気も変わる事はない。だがとても、その前とは途絶えている感覚がある。体が馴染んだ。服をはたき、静かに目を閉じて、噛み締める様に目を閉じてから、ナズーリンは表へ戻った。そして中に、この都市の奥に睨むよう淀んだ目を向け入っていった。

――

 身体に、以前と変わった様子はない。まだ。自我もある、自在に動く。だが、毒を抱え込んでいる気分だ。いや、既に毒と化しているのか。
 建物の屋上に簡易的に作った寝床で、ナズーリンは目を覚ました。不思議なほど人には見付からなかった。こんな都市にも間隙は存在している。あくまで人の存在する場である以上、気泡の様にしてそれらは残るのだ。ただ。それをかき消すのは不可能ではないのだろうという気もした。面倒だったり必要がないからしないだけで、この地全てを白日にさらし続ける事はきっと出来ない事ではない。
 ナズーリンは起床し、未だ覚めやらない霞んだ目をこする。寝ていた。寝ていたのに、残るものがある。睡眠の必要性が、確実に増えている。
 連続して体を動かしていられる時間が目に見え減少している。食費も、増えた。何かを口に入れなければ行動できない。腕にも脚にも力が入らない。
 本来必要のない物が急速に浸潤していく。ナズーリンの身体を構成するのに、原料が必要になっている。嘘だろうと思った。だが、どこか受け入れている自分も、確かに居た。この身体が寄っているのだ。おそらく、人の世の常識に。
 もう、ナズーリンは、飛べないのだ。だがナズーリンにはそれが自然な事であるように思えていた。つい先日までは確かに飛べた、飛ぶ能力が備わっていたと理性では感じているのに、むしろ飛ばない事の方が当然であるようにナズーリンには思えた。思おうとすると空恐ろしい。生身だったころの事をナズーリンは覚えていない。もしかすれば、最初からこの身体だったのかもしれない。こんなにも簡単に自分は変化する。その先を、見たくもあり遠ざけたくもあり。そしてやはり、嘘だと思いたくも、あり。
 ナズーリンは、様相を整え階下へと降り立った。まばらに増え行く人の流れ、小柄な体をその中に溶かして、ナズーリンはあてどなく彷徨う。

 思う。相応に滞在し、人間の姿は十分に観察した。
 外に出す彼女らの致命。ただただ恐ろしく、そして不可解だ。思い返せばきな臭くなったのは郷を出る数か月前。じわじわと不穏の兆候は出始めていたが、それでもここで外に出すだろうか?
 外の拠点を作る事は難しくはない。だがそれに意味があるとは思えない。それが使われる事は幻想郷の崩壊を意味する。その結末を考えてしまえば、もはや一時の延命など虚無でしかない……。混迷の先に苦悩の先に、存在の意義を得られず溶けるように消えゆくのだ。それでも我々は生きねばならないのだろうか。生きるとは何か。
 ……などと、迷路に嵌り込むのは目に見えている。だから真っ先に拠点ではないだろう。一応用意は進めておくが、ナズーリンの任務はあくまで探索の筈だ。そう、探索だ。
 中に持って行ける魔法のアイテム、例えば闘争心を鎮めてくれたり問題の答えを教えてくれたり。そんなものは……まあ当然ながら外の世界には無い。無い物を探すことはできない。取り敢えずロッドとペンデュラムを振り回してみるが、やはり手近に反応は無い。
 思えば、依頼の内容が不明確だ。何を求めているのか、詳細を敢えて隠された感がある。ナズーリンは額に手を当てた。何故問い詰めなかったのか。何故。それは取り乱していたからである。
 元来小心なのだ。だがすると聖は、密命と言いながら他に、口にも出せない何かをナズーリンに託している。再び手を当てた。これは、自分が思っている以上に重大なのではないかと。
 あんな場所ですら口に出せないもの、機密としても群を抜いている。最悪、郷内でも口封じが行われる、以前に、ナズーリンが外に出ている事を知られただけで不味い。抜け駆けも当然禁じられている筈だ。
 狸め。聖は博打が好きなのか? いや、あんな海千山千どもの巣窟、余程頼りにはなるが。寺は、直情径行の奴が多すぎる気がする。昔からこうだったろうか。いや、こうだった。だから私が派遣されたのだ。
 上層に、別の情報が流れている。おそらく、それが外だ。
 そうだ、思い返せば数年、それよりもっと前からごたつきはあった。一つ一つは小さいながら、それを無視していられたのは郷の運行が滞らなかったから。
 上の奴らが妙に忙しなくなった。下の奴らも、落ち着きのないのが増えた。大きな事件、異変遊びで収まらない範囲のものが、この数年、数十年であったろうか。
 それらの全てが抑えきれなくなっているとしたら、聖が彼女に求めている物は何だ。郷に影響を与える外の何かを取り除く事か? それを踏まえ寺に利をもたらす事か?

 人間の数は、昔と比べ相対的に増えているようにも減っているようにも見える。在り方と言い換えても良いだろう。人は、居る。だが居た場所に居ない。代わりに居るのはきっと機械だとか呼ばれたものだが、さりとて入れ替わったものでもない。本質には、これは家や道路と同じ環境の一部だ。換わったのではなく変わった。都市部という住環境そのものが形を変えている。別の生物を見ている、そのような気がする。こころなしか、表情自体がすでに違うようにも見えた。これが人の、文明の行く末なのだろうか。おそらく見えない、表層に出ない場所でもそうであろうし、それはこの先も進み続けるだろう。
 歩くうち、広告が目に入る。墓、健康食品、安楽薬。一つ人目を寄せるものとして、それらが印象深く目に残る。これほど技術的に発達を遂げてもその需要は途切れない。死を恐れている。
 人の世の栄華も限りがある。それが避け得ぬ自然の摂理なのだろうかと思うと、何処か憐れですらあった。

 ビル街に風が吹く。ナズーリンの表情がかすかに曇る。湿り気の中に、かすかに混ざる不穏の色。ナズーリンは、それを見逃さない。御同輩の色を。
 位の低い、雑多な輩が、しかし確かに、存在していた。ナズーリンにとっては馴染みのない街の情景よりもこちらの方が大事であるかもしれなかった。誰も気付かない。ナズーリンですら歯牙にもかけないような。こんな輩も通すほど、あの結界は弱まってしまったのか。
 だが、違う。決して違う。この程度の、匂いで分かるような下級者があの結界を通れはしない。あの結界は、弱まる事など決してない。なら、これは、違うのではないか。最初から、通ってなど。
 滲むように、そこに存在している。断絶した世界に、由来を別にして。
 思いついた仮説を、確かめるには遠すぎた。得も言えぬ焦燥が体を覆う。何かが起きようとしている、否、もしや既に起きた後なのではないかと。
 ナズーリンが歩く間に風は増し行く。誰も気付かない。雲が、形作られる。一雨、降る。
 ふとよぎる、遠くに見えるシルエット。特徴的な帽子姿。ナズーリンは目を疑った。あの姿、見たことがある。
 人ごみに消える姿を、ナズーリンは追いかけていた。後ろ姿。水滴が一つ二つと落ちてくる。空は淀み雲。彼女たちは走り出した。雨が、勢いを増す。


――――



――――


 飲料が底をついた。
 約束の時刻まで数分。少し悩んで、オレンジジュースを、二つ頼んだ。多分、来る。来るまでに来なければ、二つとも飲んでしまおう。そう思って。
 果たして、それから間もなく入店の気配あり。足音はこちらに向かってくる。通路側、腕の間から瞳をのぞかせる。間違いない。私は振り向いて、

「どうも、お待ちしていました」

 こちらでの、友人に挨拶を交わした。


――


 最初に出会ったのは、確か、もう少し北の地でだった。郷を抜け出て間も無かった私は、人の世に馴染めず、親切心と言う名の官憲に捕えられそうになりながら、土地土地を彷徨っていた。
 実際は彷徨うと言えるほどの距離も稼いではいなかったのだが、その折に、ふと、隣に座ったのが彼女だった。その頃には歩き方も知り、そうその時は店の中だったが、店主に訝しげな視線を向けられていた事にも気付いていたので、まさか真隣に座る者が居ようとはと、半ば奇異の目を向けて彼女を観察した。
 その心、覗かれる輝き、彼女は私を知っていた。
 いや、語弊がある。彼女は私を見た事があるように感じていた。何処で見たかはおぼろげだったが、何かある種の親近感を持って彼女は隣に座っていた。
 私は彼女を見た事がなかった。だから少し、探りの意味を込めて呟いた。幻想郷、と。

「……確か、そんな感じでしたよね?」
「えっ? ええ、はあ、まあ」

 彼女は面食らっている。無理もない、脈絡がない。さとり妖怪は意思疎通に問題がある。特にこの数年、屋敷にこもりきりの者では尚更だ。あの時の彼女は食い付いてきたが、もう一度それを求めるのは酷だろう。

「貴女との初対面を思い出していました」

 ああ、と呼応するように、彼女の脳裏にその時の光景が浮かぶ。私の存在が輝いて、即座にピントが合わされたあの瞬間。怖れと興味を表裏に転回させながら彼女は何事かを私に話しかけた。
 はて、何事だったろう。あくまで読めるのは狭い範囲で、思い浮かばないならどうしようもない。彼女にとってはその程度の認識だったのだろう。私も思い出せはしなかった。
 いや、私を見知った様子ではあったしそれに関する何かを口にしたのだろうか? 適当に話を切り出すなりしかめ面で首を傾げる私に向こうは困惑している。話を戻そう。

「ええと、頼まれていた物ですが」

 本題を早々に唐突と繰り出されると大抵の者はぎくりとする。彼女には耐性があるようだ。話し易くてよい。

「取り敢えず蔵から探し出してきました」

 ジュースの置かれたテーブルの上に、群青色の小包。中から紙で出来た正方形の包み。きちりと九十度にそろえられたその中に、握れるほどのふくらみ。
 中を開けても? と、彼女が視線を寄越す。私はどうぞと視線で送る。
 彼女の手の上に、ころりと、それは置かれる。

「……石?」
「そうですか、貴女にはそう見えるのですね」

 率直な感想だった。私にはこれを視て、ただそれだけで済ます事はできない。おそらく彼女は視えない側の人なのだろう。

「私の屋敷が相応に深い所にあるというのは、以前お話ししましたよね」
「たしか、じ……地下空間に存在するとか」
「濁さなくても結構ですよ。正確には旧地獄跡に存在しています。あれの、まあ元中央を増改築して今私が使っているのです。尤も、今家主は居ませんけどね」

 我ながら上手い事を言ったと、内心ほくそ笑みながら彼女を視る。彼女の心にはさざ波一つ立たない。なるほど、と思いながら次を待っている。地獄ジョーク、彼女には受けが悪いようだ。

「とにかく、あの蔵は長く歴史があるので……流石に危険なものはすべて処分されているでしょうが、その、石、のような物なら存外奥に転がっていたりするのです。だから、視れるなら視てみるとよいでしょう。きっと貴女の求める伊弉諾物質? に合致すると思いますよ」

 彼女の心に喜色が浮かぶ。それほど、少ないのだろう。無理もない。聞かされた条件では、他に地獄には、思い当るものは無かった。
 直接連れて行けば旧いだけの物は見つかるかもしれないが、きっとそれだけだ。伊弉諾物質は、彼女たちが思い描くよりもずっと、大それた事をしようとしている。

「まあ、応援していますよ。貴女達のように考古学的な事をする者は珍しいですからね。結果がどうあれその顛末は教えて貰いたいです」

 そう、あの旧地獄遺跡も、掘れば何がしか出てきそうなものなのに、何もしない。誰も。種としての意識の違いなのだろうか。かくいう私も風土記は嫌いじゃないが自分でやってまでモノを掘り出そうとは思わない。
 だから、珍しいのだ。郷に行けば当時の書物や書き残しなども転がっているが、それとはまた別種だろう。それにあの時代から居る者は、本当に数える程しか居ない。誰も気にかけない、見向きもしないもの。それでもあの地には多くの物が眠っている筈だ。あちらには価値がなくとも彼女には必要な、いわく付きの、あれや、これやが。

「郷に、渡りたいんです」

 だから彼女が唐突に口に出した言葉も、意外ではなかった。その心を、私の瞳は読み取っていた。彼女のような活動なら、あの郷こそが宝の山だろうから。
 そして同時に、意外だった。

「何故、今?」

 貴女は、郷を知っている。貴女は、郷に居た。なら貴女は、郷を出てきたのでしょう?
 こちらでも、物の不足に苦しむくらいなら、最初からあちらに留まっていれば良かったではないですか。
 それを、問うても、読もうとしても、読む事は出来ない。私の瞳に映るのは不自然に塗り潰された色の塊。何らかの邪魔が入っている。おそらく彼女も意図しない、気付かないまま第三者の手で。

「一度あちらに渡って、そして出来ればすぐに帰ってきたい。そんな道は、ありませんか」
「そう、ですね」

 協力者が、居るのだろうか。居るならばそれが出てきた理由なのか。

「ある、と言いたい所ですが……」

 ならばそちらに頼めばいいではないか。
 探す言葉に意識が回る。第三の瞳が、食い入るように見えない心を見つめる。他人の色。どこかの誰かの、術の持ち主の色。
 両目は所在なく彷徨う。いけない、気を取られ過ぎている。不自然にならないよう言葉を続ける。そう、郷への道。だが、郷への道は――
 答えようとしたところで同じ言葉が聞こえた気がした。咄嗟に声が止まる。だが、音ではない。誰も声を発した者はいない。それは瞳が感じ取ったもの。
 瞳を回して探り見る。その不自然な心の持ち主を。その誰かは私の声色の変化で悟られた事を察する。三つ先の席から立ち上がり、そしてなんら、世間話でもするのだという風にこちらに歩いてきて、

「そんな、便利な物は無いよ」

 テーブルの真横、私と宇佐見さんを睥睨するように立って、彼女は話に割って入った。


――


 知った顔だ。
 私を一瞥して、彼女は宇佐見さんへ視線を向ける。何故いるのかという私の言葉は飲み込まれた。読めるのだろう。読んでみるが良いさ。心がそう語っていた。

「初めまして、だね。私はナズーリン。まあ、郷の者だよ。会った事はない。こちらが、遠くから見ていたことはあるが」

 にこりと笑みを作って、宇佐見さんの警戒心をほどこうとしている。しかしその心はおよそ安らかではない。品定めの目は舐めるように彼女の一挙一動を捉えている。
 一転、彼女の心がこちらを向いた。

「お久しぶり」

 言うが早いか彼女は私の向かい、宇佐見さんの隣に体を滑らせた。反射的に宇佐見さんは席を詰める。なんだ、口ほどにもない。全然警戒されっぱなしではないか。心にほくそ笑む。

「いや外を散歩していたら懐かしい顔が見えたものでね。ついつい後を尾けてしまった。一年二年じゃ利かない、一体今までどうしてたんだい。まさかずっと外に?」
「まさか。家から出なかっただけですよ。出たのは最近。丁度その時にこちらの、宇佐見さんと知り合いまして」

 ただの、世間話の筈だ。私の側から、彼女、ナズーリンに思う所はあまりない。精々、宴会で何度か顔を合わせたことがあるとか、さして親しくもないのに随分となれなれしくて些か不快だとか、その程度のものだ。
 なのに何故だろう、彼女の精神は張りつめている。対面に座っている今も、彼女は一切の気を私に許していない。許してはいないくせに、こうも近寄る。その緊張が不可解で、私の身体と、瞳も、自然と力を込めていく。強張っていく。
 笑顔を見せているだろうか。彼女の心から目を離せない。注視し、注意され、どちらともない、ただ彼女の心には、敵意が――

「あのっ!」

 声が溝を断つ。緊張の糸が行き場を失くし緩む。それと共に、自覚のない安堵が双方から漏れた。声の主は小さく息を吐いた後、無いとはどういう事かと聞いた。灰色鼠が咳払い。

「ああ、ああ、それはね。言葉通りの意味さ」

 分かるだろう。彼女は私に意識を向ける。身を切る程の緊張こそ纏ってはいないが、しかしまだ、警戒はしている。私をこそ探っているのか。いいや違う。二人だ。彼女は二人共を警戒し探っているのだ。
 彼女は答える先の、何の力を持たない人間相手にも私と同じように強度の警戒を抱いている。いや、疑念。いや、これは。半ば恐怖にも連なる感情……?

「その辺りは、こちらに聞いた方が早いんじゃないかな」

 そして、私を見る。
 行ってきたんだろう、教えてくれよ。確かな言葉が浮かび、向けられた。

「ええと、そうですね。宇佐見さん、今郷が少し……落ち着かない様になっているのはご存知ですか」
「え、い、いえ。初耳です」
「ええと、つまり、そう言う事です」
「はあ……」

 伝わっているだろうか。郷の政治は今混迷へと突き進んでいる。かねてから燻っていた火種が表出した形だ。
 おそらく組織力の高い順に自衛を組み始め、しかしあの狭い郷で争う訳にもいかず、運営の是非を巡って派が分かれている。郷そのものの運営だ。纏める事が出来ないでいる。
 賢者達もすでに分裂してしまっているのだろう。でなければこの体たらく、済ませるわけがない。既に通常の異変は過ぎてしまった。今や郷は封鎖されている。結界だけでなくその抜け穴にすら歩哨が付いている。
 だから何か、あったのだろうなとは思ったが、私の住居は地底であり、上がどうなろうと関与もできないので正直知らない。だから何か大変なことがあって大変なのだなあ以上の情報は伝えられないし、宇佐見さんもおおよそそんな感情を抱いているので問題はないのだ。
 だがこの鼠は、ああ、凄く不名誉な目を向けている。自分で話を振っておいて、だったら自分でやれば良いのに。

「……宇佐見さん、捕捉をしよう」

 警戒レベルが一段下がった。別段警戒される覚えもないが、しかしこの子、存外侮り家だ。それはまだ早いんじゃないのか、と老婆心に思っておく。言わないけど。

「あちらでは今各組が疑心暗鬼を患っている。組というのは、分かるね、山とか、私の居る寺の事だ。原因は調査中。しかしこのこじれ方を見るに思ったより広範に渡っているらしい。とにかく、収拾の目途がついていないのは確かで、この先つく予定もないだろう。その内、多分一月、いや二週間以内かな。あの郷は封鎖され抜け道を潰された」
「出たのが、二月ほど前だからですか。まあ、割合間違ってはいないでしょうね。私も出たのは十日前。不穏を感じて逃げるようにですから。ゆっくりする暇もありませんでした」
「ふん……」
「覗き魔め、と口に出さなかったのは賢断でしたね」
「そ、それで、それなら、もうだれも出られないし入れないんですか」
「そんなものじゃない。始まって以来の大封鎖だよ。というか、君本当に知らないのか。あんなの、目下の関心事、郷全体のトレンドだぞ」
「私が出てきたのは結構前なので」
「君、いつからこっちに?」
「だいたい、一年。十か月くらい前ですね」

 私が出てきたのが半年前だから、それなりと言えばそれなり。若い娘にとっては長いのだろう。私にとっては、私にとっても長めではないかと思うが、妖怪の時間間隔など当てにならない。長いだろうか、半年。たかだか二百日にも満たないではないか。
 だが、隣のナズーリンにとってはそうではないらしい。その言葉に、ナズーリンの心は動きを止めた。空白の一瞬、虚を突かれたようなその反応が不可解で、私は瞳を凝らす。

「君……」

 何かに思い至った。咄嗟にそれを読み取る。断片的な言葉にもならない感情の欠片。その中に、確かに読み取れるものが一つ。目の前の人間を、一つの存在として認める心の動き。
 そして彼女も、その、ナズーリンの心の動きに気付いた。私の眼を向けるまでもなく、彼女の瞳は黒く澄んで隣の鼠を射抜いている。ナズーリンが後ろに下がった。

「いや、まさか。は、は、これは驚いた。見付かるものだな」

 そして、私を一瞥。

「……今日は、これでお開きかな。ちょっと場所が悪い。やあ、そんなに睨まないでくれよ、宇佐見さん。少しだけ、少しだけ君の事が、知りたくなった。……おさらばっ!」

 彼女は脱兎の、いや脱鼠の如くテーブルの間を縫い、トレイを運ぶ店員さんを驚かせて店から出て行った。脇目も振らず、すぐに姿は見えなくなる。私は向かいに座る宇佐見さんを見、彼女の張り詰まった心と、追おうとして追えなかった無念を受けて、静かにコップを彼女に与えた。彼女はそれを飲み干す。瞳の中に暗く滲む物がある。ああ、渦巻く感情。淀みを伴ったそれは、しかし途方もなく心地よく私の心に満たされる。久しく忘れていた感情。
 席を立った。我に返る宇佐見さんに、にこりと挨拶をして目玉形アクセサリを肩にかける。こうしていると中々バレない。私は店を出た。手持ちも無いので当然宇佐見さん持ちだ。雨が目の前の空間を濡らす。待っていても、これは止みそうにない。私は濡れた街に出た。反復される味の余韻。あの間に何があろうと私は関与しない。だが宇佐見さんのあの心、あれこそ悶着の正体なのだろう。よい色をしていた。人の、業の色。そして思い返す、久しい味。そう、きっと私はこのために生まれて来ていた。


――――




――――


 取り敢えず、二日たっても三日たっても望まぬ来訪者は来なかったので、ひとまずは逃げ切れたのだ、と思いたい。
 メリーは散歩に出かける、と言った。身体は動かしていないと鈍ってしまう、と。私、宇佐見蓮子も付いて行こうとしたが断られた。こういうのは、一人でやるのが良いらしい。
 やる事が無いのでまたぞろ外にでも出て活動の下準備をするかと思ったが、彼女が居ないならやれることも限られてくる。有り体に言えば殆どない。二人の活動は、今も昔も彼女の能力を軸にして回っている。だから仕方なくこの狭い部屋の狭い寝床に横になっている。
 あんまり急な動きだったから、私が越すと便りを出し損ねた。さとりさん辺りは他に知り合いも居ないだろうから私が居なければきっと話し相手にも事欠く有様だろう。なんとなく、そんな予感があるのだ。それに、数少ない繋がりは大事にしておきたい。この先、蓮子が何もできない事態は幾らでも出てくる。打算ではないが、気にはしたい。
 うん、と足で反動をつけて体を起こした。何かやっていないと落ち着かない。手近な鞄から日誌を取り出す。いつも身に付けている腰巻鞄。大荷物のバックパッカーも良いかと思ったが、見の軽さを重視した結果こうなった。日記には事細かな端書きの羅列。日付と、内容。そしてその質。
 最初の活動は、出て来て二週間も経たない頃だった。とかく何かを行動に移したかった私は、寝床を確保した後すぐに奔走、三日ほどで近場の土地を発見しそこへ向かった。
 穴場のようなものだった。活動内容は至って普通。メリーがその何かを認識し、書き記しもしたが、それだけ。その後立て続けに二件行ったが、これは私が満足する内容ではなかった。同じような内容で、見てるだけ。干渉も出来ない。彼女は不満をこそ表情に出さなかったが、こんな活動をいつまでも続けていて得る物はないと、私は思った。そして転換。もっと大きくて重い物を求めるようになる。
 次までは、信頼に足るネタを探すのに手間取って、二月近く開いている。その間も、彼女は嫌な顔一つしなかった。いつも楽しそうに、夕の献立や昼の行き先を聞いてくる。それが私の心をささくれさせ、それを気付かれないよう私の笑顔は強張っていった。
 メリーは……

「ただいまー」

 ドアの閉まる音がする。蓮子は日誌を閉じる。ぺたぺたとメリーは歩いてきて、蓮子の隣に座る。
 手に持った革の手帳、興味深そうに、メリーが覗き込む。

「記録?」
「ああ、うん。たまに眺めるとね、面白い」
「ふぅん。まあいいや、食べなよ。うどん買ってきたよ」
「あー……うん」

 二人でふたを開け、テーブルもないまま麺を啜る。

「この後、どーする?」

 啜りながら、メリーが尋ねてくる。

「そうだね、取り敢えず活動できればいいけど」
「隠れながら?」
「うん。でも、難しいと思う。そもそも、今まであんな追いかけられた事だってなかったんだし……」

 蓮子の言う通り、二人はその目を引く活動の痕跡とは裏腹に、その活動の中で完全に捕捉され身を追われたことはなかった。
 確かに、長い活動期間の内に漏れ出る情報を収集されもしただろう。現に最初の彼らは二人の事を知っていた。だが、あくまで、多数ある注意人物の一組でしかなかった筈だ。穿てば確かに理由は求められるだろうが、それでも追手と分かる形で追われたのはあのヒロシゲの車内が初めてだ。
 常に追われ、また姿を捕捉されることを避けてきた。しかし心の何処かで甘く見ていたのかもしれない。逃げ続ける限り、二人の隣に迫る事はないと、陰に隠れ続けられると、そう思っていた。
 いや、それで済む筈だ。目立った行動はしていない。悪辣な活動だって、何もしていないのだ。何故、こうまで力を割く。あの雨の山。最初に出会い、札を用いて打ち倒したあの光景がふっと心に浮かぶ。
 あそこで確認されてしまったから。蓮子とメリーの秘封倶楽部を実在のものとしてしまったから。そしてその過程で彼らを打ち倒してしまったから、彼らを駆り立てたのだろうか。これほどまでに二人を追い詰めようと力を傾けさせてしまったのだろうか。
 だが、果たして、彼らをあの時気絶させていなかったとして、二人を追う手は無かったと言えるのか。
 きっと、違う。追う手は二人の住居へ差し向けられていた。それほど彼らは迫っていた。二人を捕まえる、強い意志を感じた。
 それは蓮子が看過できない武力を持っていたからに留まるだろうか。二人の度重なる活動が遥か昔に閾値を越えていたからと言えるのか。その実は、あの山で、出会ったから。いや、見られたから? あの、活動。彼らと寸分違わぬ場所で行った、あの活動を。
 あの時彼らは何をやっていたのだろう? オブジェクトについて、彼らは何を知っている?
 その時、窓辺に一つ影が動いた。何気に視線をやると、そこには一匹の鼠がじっとこちらを向いている。窓の淵に立って、身動ぎもせず、ただ蓮子をじっと、見ている。
 それが本当に蓮子の瞳を覗いているのだと悟った時、蓮子は息を呑んだ。鼠は窓を去っていく。メリーは気付かない。器の底に残ったうどんと一人格闘していた。
 蓮子は、メリーに散歩してくると言い残した。メリーは生返事だ。階段を下りて、一階。街路の向こうに彼女は立っている。小さなシルエットが手招きをした。
 蓮子は目を閉じて、そして数瞬のち彼女の下へと歩き出した。彼女は角を曲がった先に居る。

「やあ」

 彼女はさも当然のようにそこに居て、当然のように蓮子に向かって手を振った。

「随分遠い所まで来たものだね。私も陸路では少々堪えるから、あの、例の、ヒロシゲとやらを使わせてもらったよ。あれは凄い。あれは陸路なんかじゃないな。いや、地下を通っているらしいが、そういう事じゃなく、次元が違う。あれは陸路ではなく概念的な――いや、いいか。そう睨むなよ、話があるんだ」
「今は、あの子が居るので」
「みたいだね。こちらとしても彼女は居ない方が都合がいい。次に何処か行った時にでも来るとしよう。行くんだろう? どこか」

 当然その予定は近いうちにある。知っているかのよう、いや、知っているのだろう。彼女は言う。心の動揺を気取られまいと抑え込んだ。この口ぶりが、彼女が知っているという事が何より恐ろしかった。何故知っているのか、どこで得たのか。あの鼠が眷属であるなら、その答えは、自明であるようにも思える。
 彼女は、こちらの返事も待たず、含み笑いを携えて去っていった。
 去る背中、自分よりもはるかに小さいその背中に、何もする事が出来ない。危険を確かに孕んでいるのに、何も。蓮子は人間だ。腕力では、勝てない。
 早々に見送るのを止めて戻った。メリーに悟られないよう階段下で深く息を整えた。

「あれ、おかえり。早かったね」

 メリーは、ごろごろと鞄の中身を漁っている。

「メリー、明日も散歩、行く?」
「ん? うん。何、付いて来たいって?」
「いや、そうだね。うん……ちょっとやりたい事あるからさ、一時間くらい使わせてくんないかなって」

 メリーは物珍しそうに蓮子を見た。普段こんな提案をする事はない。いつもどちらかが片方にくっ付いているか、あるいは勝手に離れているかで、わざわざ離した事はない。

「ふーん。まあ、いいわよ別に。私も明日はちょっと遠出しようと思ってたし」

 彼女は特に何も聞く事なく承諾した。
 それが有り難かったかどうか。彼女がこの狭い部屋で床に就いた後も、蓮子は眠ることが出来ない、奇妙な緊張感に包まれていた。
 明日、きっとあいつは現れる。何かを掴んで立ちはだかる。
 翌朝、行き先も告げずにふらりと消えたメリーを見送って、蓮子は自分の鞄、腰に掛けられるよう特注したそれの、内側の封を開けた。そして別途、袖の中に薄いベルトを通す。
 来客用に簡素なテーブルを組み立てる。飲む物を用意しようとしたところ、戸が叩かれた。

「どうぞ」

 自分でも驚くほど乾いた声が出る。ぬるり、流れるように、彼女は入ってきた。

「結構良い所に住んでるじゃないか」

 部屋の隅まで吟味の目を届かせて、流れるように蓮子の対面に座る。コップが出されるまで動かない。

「あの、メリーさんだったか。彼女は……」
「おそらく、二時間」
「十分だ。……私が、彼女の名前を知っている事に驚かないようだね。なら私が来た理由も分かっているんじゃないかな」

 宇佐見蓮子は答えない。ただ手元のグラスコップを口付けて、相手の言葉を待った。ナズーリンは了承する。

「あれから裏を取るのに数日。結局満足のいくものは出なかったが、確信はしている。……最初に確認しておくが、君は郷に来た事がある。そうだろう?」

 蓮子は頷く。得たりという表情で言葉は続けられる。

「真っ先に感じたのは、君がこちらに居る事への疑問だった。おかしいじゃないか。私は郷で君を見た。知っての通りあの結界は一介の人間風情を容易く通しはしない。内にも、外にも。それが何故かここに居る。目を疑ったよ。最初は夜逃げ組の一人かと思った。郷はきな臭くなっていたし、向こうに何があっても、君は別に帰る場所があるから」

 だから、嫌がらせに冷やかしてやろうと後を尾けた。それだけで済むはずだった。そう言った。
 もはやナズーリンは、蓮子に対する胡乱な瞳を隠そうとしない。それは対峙しているし、対峙するためにいる。

「だが、君は、知らなかった。郷に何が起きたのか、状況の如何さえ。当然だな、あれが起こり始めたのは君が去ってから。そうだ、知らなかったんだろう。あれは、君が招いた。……君が去った後の郷は哀れなまでに衰退したよ。分かるかい、あんな狭い土地で統制を失う事の無様さが。君に分かるか。自分の世界が静かに崩れていく様を、ただ見つめている気持ちが。それに何か手を尽くそうと、見もしない外界に身を躍らせた者の気持ちが!」

 改めて、静かに、蓮子を見る。

「何故彼女が君と居る」

 それは弾劾にも似た響きで、蓮子の耳に届く。

「彼女は――」
「言わなくて、いい」

 途絶えた言葉に理解を交わす。そんな事は分かっていた。あの日、郷から出た日。彼女の手を引いたあの日。蓮子には心を渦巻かせる暇も与えられなかった。ただあったのは、罪悪、徒労、そして、ただただ自らの不甲斐なさ。だから蓮子は、せめて出来る限りをしようと思った。心に誓った。知っていた。知っていた。
 鼠妖の視線は蓮子の瞳を射抜く。臆す事なく、怯む事なくそれは受け止められる。彼女は全てに辿り着いた。その意思、立場の違い。向かい合い座るそのままに鼠が身を乗り出した。

「君には過ぎた存在だ。八雲紫を、返して貰うぞ」


――


「あの時、君を紹介していた彼女の姿をよく覚えている。遠くから見ているだけだったが、羨ましくなるほど喜色を湛えて、そして君はずっと、あの様子だと連れ回されていたのだろうがそれでも満更でもない様子で、それに付いていた。外の友人、気の合う話し相手。そんな紹介だったか。当然あの郷に住み着くものだろうと誰もが思ったよ。だがそうだ、確かに君は私が郷を出る前から姿を見ていない。数月前君は居なかった。だが元より住処も分からない身、さして気に留める者はいなかった。それで済む筈だったんだ」

 そうであるべきだったんだ、と彼女は言っているように聞こえた。そうであるべきだったろうと、蓮子も思った。ナズーリンの表情に険しさだけが残る。

「だが違う、違うだろう。何をした、何故彼女と居た。そんなことはどうでもいい。どうでもな。お前は何もかも引っ掻き回して消えた。それだけだ。だが一つ、私は彼女の目を見た。私は知っている、あれは妄執の目だ。端から彼女が見ているのはお前じゃない。縋りつける過去といつかの記憶を、お前に重ねた幻影に過ぎない。あるさ、よくある話だ。旧い妖怪なら捨てて来たものだって幾らでもある。取り戻したい何かも、幾らだって。だがな、残っているのはいつだって今なんだ、今なんだよ。今こそが尊い。妖怪は過去へ縛り付けられたら終わりなんだ。なのにお前は介入した、毒を呑ませた! お前は居るべきじゃなかったんだ。来るべきじゃ。青春は過ぎ、お前は、忘れ去られるべきだった……!」

 眼前の鼠は、片膝を立てる。何処に隠していたのか、その体格に不釣り合いなほど長い棒を、背後から抜き出す。黒い棒。先端に方位の意匠が施されたそれは、天井よりも伸びてなお余りあり、部屋を空間を阻め、彼女の中手に持たれる。その質感、血の臭い。幾ら洗っても消える事はない。

「君が、邪魔だ」

 窓の外、何かがうごめく音がする。玄関の側、小さな影が三つ、表れて消えた。向こうにも、そこにも、いつしか陰に眷属は満たされている。彼女は得物を確かめるよう、手に力を込めた。
 空気が張る。その動きだけで、意識は、壁面を刺すように反射し場を覆う。もはやその腕の先から逃れる場所は無い。この部屋は閉ざされた。蓮子の首は、刃のすぐ横にある。

「念仏を、唱えようか」
「必要ないって言ったら?」
「ただのサービスだから、別にいいよ。君が受け入れるなら、それで」
「そう」
「随分と、静かだね」
「貴女が……」

 貴女が、何なのだろう。その先の言葉は出て来なかった。代わりに右手を机の上に出した。握りしめた右手。紙片ごと強く。彼女の目が少しの間そこに注がれる。

「宣言します」

 怪訝な眼差し。何を言っているのかと、何の話をしているのかと。思い至るのに数瞬。そしてもう一度その手を見る。

「スペルカード……?」
「一枚。それ以上は、持ってません」

 握りしめられ、滲む汗。早鐘のように、叩き、叩き、叩かれる心臓。少しずつ、急激に、世迷言を口走るものへの怒りが、眼前の彼女の中に溜まり込んでいく。
 ふざけていると思われている。侮辱だと。一回の人間である蓮子にカードが使える筈がない。人間用の妖力弾など時間稼ぎにもならない。まして、そもそも、スペルカードはお遊びだ。それは決して真剣をこの場に提示する事にはならない。対手の殺気に対する侮辱。侮辱に対する怒り。それが分かるからこそ、震える腕を振り払うように、蓮子は内へ内へと力を込める。
 もう、終いだ。この機を逃して他に無い。宇佐見蓮子はこれ以上逃れることが出来ない。これが終着点だ。

「ふざけるな、ふざけるなよ。私はこんな事をしに来たんじゃない。人間の、お前の……!」

 言葉の端を、噛み潰すようにナズーリンは睨む。蓮子はそれを無視し、札をかざし続ける。組み込まれた術式は音を立てず、しかし凄まじい速さで組み変わっていく。一つ一つ確実に。右手の中の妖力は準備を整え膨れ上がってゆく。やがて彼女が異変に気付いた。その手の中、人の用にはあまりに過ぎた力。
 この一瞬、振りぬけば、届くだろう。彼女の杖は、蓮子の首筋に。だが、出来ない。彼女の性格がそれをさせない。用心深く、弱い妖怪のサガが、それを決してさせる事はない。札が完成に向かい、急速に醒めていく意識の中、彼女の逡巡が手に取るように分かる。ほら、目が、退路を探した。

 ――蘇る。鬱蒼とした樹、木漏れ日、朽ちた葉。その中に私と、二人が立っている。
 一人は向こうを向いて、私はもう一人と向き合って。彼女は豊かに広がる尻尾を揺らせ螺鈿の小箱を袖から取り出した。
 私を守るためのお守りだと。その範囲でなら、力を貸してくれると。そう彼女は言った。私はそれを受け取って、中の、三枚のお札を得た。
 ただし二つの札は一度きり。どうしようもない最後にだけ使っていい。それが人の分の範疇。どうしようもなく未熟な、私への。
 そして最後に私の隣で呆けている、どこか遠くを見つめているあの子の名を、呼ぼうとして呼べなくて、ただ私に頼むと言い残して、彼女は結界の中に消えていった。
 私はこの子の手を引いて、道なき道を、落ち葉を踏みながら、ひた歩く。彼女の手を引いて、あの山を。麓に近付くにつれ光の戻っていく瞳に、どんな表情で迎えればいいのかと思いながら、意識を取り戻した彼女に、精一杯の引き攣った笑顔で答えてみせた。
 この札は借り物だ。あの子のための力だ。あの子を守るために、私は、この札にお願いをするのだ――

 札はもはや私の手を離れ中空に静止。式は動きを止め、ここと、きっとここではない何処かとを繋ぐ歪みを蓄える。

「ごめんなさい、もう私の手には負えません。だから出て来て、助けてください、お狐さ――」
「ま、待て、待てっ! 分かった! 降参だ!」

 叫ぶような声が異質な静寂と緊張を振り払う。
 棒から手を離し、両手をあげ、彼女は半歩分体を下げる。それは完全な戦意の否定。蓮子はすんでで言葉を止める。詠唱を妨げられ札の力が収束していく。

「わ、分かった。これは無理だ。これは私の手に余る」

 落ち着くよう身振りで蓮子を抑え、その戦闘意識が消え去ったとみると、短く息を吐いた。

「なんだ、それは、門……? 何だってそんな高度な……まさか、あの狐は、認めているのか? この顛末を?」

 中空へ向けて、二言三言、途切れるように呟いた。ふと我に返りロッドを収める。蓮子を傷付ける象徴が、この場から消えた。

「一応納得はした。その札、私は対処できない。手を引こう。だが全く、無茶な事を……。こんな近い距離でやるか? 普通。意地の塊みたいな奴だな、君」

 蓮子は曖昧な笑みを返す。それが出来たのはナズーリンが応えてくれたからでもある。
 スペルカード宣言は遊びの宣言。禍根を残さず、血生臭さとも無縁でいるためのルール。郷に住んで最初の頃に教えてもらった。理念、そして技術をいつか教えてくれると。その予定だったのだ。
 その技術は結局蓮子には持てなかった。だが、教えは、蓮子と、そしてナズーリンを守った。言葉は届いた、一個の衝突は回避された。恨みと争いの根を残さないことが、どれだけ得難い事か蓮子は知っていた。

「本当は脅すだけのつもりだった。泣いて謝れば、諦めもつくだろう? だけどこれじゃあな。私が何を言えるものでもないよ」

 肩を竦める。本当に、呆れ返ったという様子で。

「今日は帰らせてもらう。邪魔をして悪かったね」

 ナズーリンが戸を開け出るのを見送り、どっと疲れを感じて、倒れ込むように身体を投げ出す。
 いつの間にか鼠の音も聞こえない。静寂の室内、何も感じるもののない室内にあおむけに横たわった。メリーを待ち、ただただ無心で古びた天板を見つめていた。
関連
「巻き込まれ系女子、男子、土地」

そのむかーし、これと似たような設定の話を書いて、そこでは二人は幻想郷についてハッピーエンドだよで終わりました。
しかし、この二人は、それを下敷きにしてなお蓮子が上手くやらなかったことを前提としています。
つまり、何が言いたいかというと、それはそれなので、色々パターンは存在するみたいだなあと。
取り敢えず、メリーは紫になっちゃったけど蓮子の事大好きで、友人なんですよと、蓮子にとっても大切な友人なんですよと。そういう設定のお話です。
後編へ続く
ごまポン
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.50簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
ぬおん、ごまポンさんの新作おいしいよおおお!
前作(秘封倶楽部活動記)と関連あるのかと思ったら違った。ナチュラルに結界外にいた冒頭さとりや幻想郷の雲行きの怪しさの原因が、まさか蓮子かぁ。
とても楽しめました
3.100名前が無い程度の能力削除
数年ぶりに来てみれば、あの話に連なる新作が見られて嬉しいなんてもんじゃないですよ…!
すげえ…!