Coolier - 新生・東方創想話

恥知らずのマジカルスター

2017/03/12 21:37:03
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 早朝、墓地からの帰路を辿る多々良小傘の足取りは重かった。
 雪の踏みしめる音が周囲の静寂の一瞬を切り取り、小傘の吐息と共に霧散した。紫色の空に赤みが混じりつつあるが、鬱蒼と並び立つ木々の下は未だ夜の気配を残しているようにほの暗い。
 その薄暗さのせいだろうか。小傘の面持には寂寞の青黒い影が射していた。
 彼女の表情は憂鬱の膜に覆われているかのように、まるで、かつて持ち主に忘れ去られたときを思い起こしているようだった。
 自らの足元が突如として崩れる感覚。その果てしのない墜落のうちに、この世と自分を結ぶあらゆる事物の薄れていく心象。それこそが小傘の陰りの正体だった。
 小傘はからかさお化けであり、恨み辛みを重ねて変化した種族だ。捨てられた怨嗟を手放し、悲哀の痕を癒してしまえば、存在意義を見失う。妖怪を妖怪足らしめるものは動機であり、信条であり、生き様だ。それを忘れてしまえば、自らが象徴していた暗闇に飲み込まれてしまう。
 小傘の沈痛な面差しも、鈍い足取りも、すべては妖怪としての自身を保つための――

「うう、お腹すいたぁ……」

 ――そう、小傘の沈痛な面差しも、鈍い足取りも、すべてはひもじさのためだった。お腹が減ると気も滅入るものなのだから、これは当然のことだと言えた。ほかにどんな理由があるというのだろう。あるなら言ってみせてほしい。
 小傘は茄子紺の化け傘を小脇に抱え、空腹を紛らわせるように先を急いだ。冷たく澄んだ空気の中に、吐息が白煙のように立ち上っては天辺から溶けていく。時折、キュッと雪を押し固める足音に驚いた兎が、樹木の影から影へと駆けて行った。
 すると、小傘の空腹はわずかに満たされた。小動物の驚きでも、おやつの一口程度にはなるらしい。
 築二週間の歴史あるダンボールハウスに着いた頃には、小傘の額はほんのりと汗ばみ、水色の毛先が張り付いていた。冷えた指先で乱れた髪を整えながら、彼女は我が家へと入った。

「ただいまー……なんて言っても誰もいないけど」
「おかえりなさい!」
「……あれ?」

 誰もいないはずの我が家から出迎えの声があったことに、小傘は首を傾げた。声のする方へと顔を向ける。

「ご飯にします? 外に雪がありますからたくさん召し上がってください! それともお風呂にします? 外に水風呂代わりの雪がありますよ!」
「過酷にも程がある生活! いや、それはともかく、だれ!? あれ、『なに』かな? どっちだろう」

 小傘の視線の先にあったもの、それは拳ほどの大きさをした紫色の球体だった。表面は妙にツヤツヤしていて、星のマークが白い線で描かれている。その球体が隅に転がっていて、小傘に話しかけていた。

「……そういえば、前に打ち出の小槌の力で道具達が暴れたって騒ぎがあったっけ。あなたもそのときに目覚めた子? というかなんで私の家にいるのかな。お客さん?」
「やあ、申し遅れました! 今日からこの小汚いダンボールハウスに華やかさと潤いを添えるために住んであげるものです。よろしくお願いしますね!」
「え? ごめん、今なんて言ったの?」
「今日からこの家と呼ぶにはおこがましい空間で勝手に寝泊りするんでお願いシャース!」
「なんで言い方、雑になってるの?」

 名も知らぬ相手に突然の同居宣言をされ、愛すべき我が家もけなされたとあっては、温厚な小傘も怒りを抱かずにはいられなかった。
 小傘は目前の球体をキッと睨みつけた。その眼光の鋭さは、何人をも芯の根から震え上がらせると小傘の中で話題となっている。
 しかし実際のところ小傘の目顔は、見る者に愛玩の二文字を思い起こさせ、加虐と保護欲を同時に掻き立てるお手本のような上目使いだった。この瞳を前にすると、「この白い首には何色の首輪が似合うのだろう」と誰もが熟考に陥ってしまう。小傘はそうした思い悩む相手の様子を見て、自分の睨みに恐れをなしていると喜ぶのだから、世界は上手く回っていた。

「ここは私の家なのに勝手に入り込んで! あなた、お名前は? どこから来たの?」
「いやあ、このお宅、壁も屋根もナスビ色とかぶっとんだセンスされてますねー。なんでこんな家に住んでるんです? 罰ゲーム?」
「誰も感想が聞きたいなんて言ってないよ!」

 受け答えするたびに無礼さが増す輩を客人とする法は、どこのご家庭にも存在しない。当然小傘も、ただの不法侵入者でしかないこの球体をもてなそうとは思っていなかった。
 しかし、『目には目を、歯には歯を、守矢には最高のタイミングで横合いから思いきり殴りつける』の精神で、侵入者を無理やり追い出すつもりもなかった。
 小傘は心優しい忘れ傘である。『右の頬を打たれたら、左の頬で驚かせなさい』という教えを胸に抱き、心躍る驚きの提供を信条としていた。
 だからこそ、腕力に訴えるような無粋な真似はしたくなかった。そうしたおろかな行為は、彼女の驚き理念と、『ぷにぷにのさわり心地がやみつきになる』、『上品な口どけのふわとろ上腕』と草の根妖怪ネットワークでも評判のやわらかな二の腕に相反しているのだ。

「それであなた、誰なの? いい加減に答えてよ」
「わたしを知らないとか小傘さん、その冗句イケてますねーサイコー。驚かせるときは食欲が減退するレベルでつまらないのに」
「名前聞いただけなのに、なんでそんなに辛辣なの?」

 驚きの沸点の低さを見せつける球体に、小傘は目を丸くするばかりだった。
 この世にこんなにもお断りしたい驚きがあるなんて!
 酢豚の中のパイナップルや、サードアイのおまけでくっついてくる寝ぐせ少女を前にしたときのように、小傘の心は軟体動物のうねりを見せた。
 小傘がそのまま黙っていると、やがて重苦しい空気に押しつぶされたように球体の笑い声はなくなっていた。

「え、なに、わたしのこと知らないって、本気で? マジ?」
「うん」
「いや……いやいやいやいやいや……またまたーそんなご冗談を。あ、もしかして酸素欠乏症にかかって頭が?」
「なんで自分が知られてないことより酸欠の可能性を疑うの?」

 この子はそんなに有名な道具なのか――小傘は考えをめぐらせたが、彼女の記憶にこの紫色の球体の姿はどこにもなかった。
 一方その球体はといえば、小刻みに震えだし、挙動に不審の極みを見せていた。その狼狽ぶりは、里の児童が見かければ命蓮寺配布の防犯コダマを即座に投げつけるほどの怪しさだった。

 防犯コダマとは、生来の大音声を持つ山彦の声を真球に封じたものである。
 投げつけて衝撃を与えることで、『たすけてぇ! ひっ、ひっ、ひいぃぃぃ!』と悲鳴が響き渡る代物だ。演技とは思えない悲壮感あふれる山彦娘の泣き声は、その声の主の貞操の行方について深く考えさせられる迫力があり、主に保護者の方々と嗜好をこじらせた一部の層に人気だった。
 そして小傘も、命蓮寺を通りがかったときにこの防犯コダマをもらっていた。自分のことを知らないと言われただけで震えあがる球体の奇怪な言動は、小傘の汗ばむ手の中にその一つを握らせていた。

「うそ、嘘ですよねぇ? わたしを知らないだなんて、そんなことが……あるわけが」
「そ、それ以上近づかないで! 人を呼ぶよ!」

 じりじりと距離を詰めてくる球体に、小傘は思わず声を荒げた。
 球体の声は明らかに身の危険を感じさせる調子のものだった。風祝なる人種との付き合いの経験が、小傘にそのことをはっきりと理解させていた。
 ――やらなきゃ、やられる!
 にじり寄る球体を前にした状況と、風祝との思い出が鮮烈に脳裏を過ぎったことで、小傘の思考は驚くべき跳躍を成し遂げた。
 小傘は身をひるがえし、この家の唯一の扉である出入口の切り込みを力強く開け放った。そして渾身の力をこめて、防犯コダマを冬の澄み渡る青空へと投げつけた。
 間もなく、防犯コダマの悲鳴が一帯に響き渡る。小傘は球体に向き直った。

「聞こえたでしょ! 防犯コダマを鳴らしたわ。逃げるなら今のうちよ!」
「ねえ、うそ、嘘ですよねぇ?」
「ほーら、早く逃げないと誰か来ちゃうよ! もし巫女が来たら頭を真っ二つに割られちゃうよ!」
「ねえ、うそ、嘘ですよねぇ?」
「……あのう、そろそろ逃げた方がいいんじゃないかと、えー、思うんですけど」
「ねえ、うそ、嘘ですよねぇ?」

 球体は小傘の警告も聞き入れず、同じ言葉を繰り返しながらゆっくりと迫ってくる。
 小傘の心臓は、新しいリズムを刻み始めた。ここで球体が逃げ出してくれなければ、助かる道はない。小傘にはその確信があったのだ。
 それというのも、防犯コダマがこの場に限っては、その実質的効力を持たない、山彦少女の悲鳴を聞いて悦に入るだけが能のオモチャでしかないからだった。

 理由は小傘家の所在にある。
 小傘家は霧の湖と人里のほぼ中間に位置している。これは付近が木々で埋め尽くされている野生動物の一等宿泊地であることを意味し、同時にナスビ色のダンボールハウスをおっ立てたところで、どこからも景観についての苦情が来ないことに等しかった。
 だがそれは、なにかの問題に見舞われたとき、助けを呼ぶことができないということでもあった。
 小傘の警告はただのハッタリでしかない。防犯コダマを鳴らしたところで、駆けつけるものなど誰もいないのだから。こんなところを、たまたま通りかかる者でもいない限りは……。

「や、やだ……納屋、納屋に連れてかれる……やだよ早苗、納屋はやだ、やだやだやだ……」

 迫る球体を前にして、精神に恐慌を来した小傘の中で、風祝のトラウマが再燃する。いったい納屋でなにをされたのか、それは当事者にしかわからない。だが、小傘の濡れた瞳にどこか期待するような色が潜んでいることから、その内容は推して知るべきである。
 小傘の脳裏に様々な思惑がよぎった。それは困惑であり、戸惑いであり、恐怖であり、そして滾るような怒りだった。
 次第に彼女は、全身に言い知れぬ力がみなぎるのを感じた。血の流れは勢いを増し、肌には赤みがさした。
 愉快な驚きを渇望する欲が、不満が、感情が、そしてちょっぴりの妖しい興奮が、心優しい小傘を戦いへと駆り立てたのだ。
 小傘はごく自然な動作で、足元に置いてある一冊の雑誌を手に取った。それはどのご家庭でも玄関口などに常備されているダウンページであった。

 ダウンページとは、主に妖怪の山の地域情報をまとめた、内輪大好き天狗族の馴れ合い情報誌である。
 その読み物としての体裁が疑われる千四百二十八ページの分厚さは、世間から護身用の鈍器として評価され、人間から弱小妖怪まで幅広い愛好者を持っていた。
 当然、小傘家もダウンページを愛用している。『ダウンページで気になるあの子も一発ダウン!』の宣伝文句は、小傘の防犯意識を高い水準に引き上げていた。
 そのダウンページをしっかりと構えた小傘は、正面の敵を見据える。その瞳には闘争の熱気が宿っていた。

「セイトウボウエイ!」

 風祝に教えてもらった、敵を打ちのめすときに戦局が有利になるという呪文を唱えながら、小傘は球体に躍りかかった。
 ダウンページを両手で振り上げると、そのまま全体重をかけて目前の敵に叩きつける。
 鈍い音が、狭い家の中に響き渡った。ダウンページが押しつぶしたのは小傘家の床だった。ダンボール製の床は鈍器の凄まじい威力に耐えかね、ぽっかりと穴を開けた。
 その穴の横を、球体があえぎながら転がった。

「な、なにするんですか小傘さん! そんな鈍器めいた雑誌を振り回すなんて! あなたには常識ってものがないんですか!?」
「他人の家に勝手に入り込んでるそっちに常識を説かれても……」
「はー!? 勇者だって家に入り込んで、壺を割るわ箪笥から薬草を盗み出すわ、好き勝手してるじゃないですか!」
「あなた、勇者なの? ボールの形をした勇者なんているわけないじゃん。あ、でも外の世界には桃色のボールの勇者がいるって前に早苗が言ってたかな。星のファービーとかいう名前の」

 星のファービーは初対面であろうと出会った者に「ナデナデシテー」とスキンシップを強要する丸っこい鳥型生命体である。
 そのコミュニケーションの距離感を盛大に見誤った振る舞いには、思わず見て見ぬふりをする優しさを発揮してしまいそうになるが、無視した場合「ブルスコ、ファー……ブルスコ、ファー……」という不気味な呼吸音と共に背後に迫り、一息で相手を呑み込んでしまうお茶目な一面を見せつける。
 こうした捕食行為が愛らしさと恐怖の象徴として子供達の躾に役立てられ、星のファービーは勇者の名をほしいままにしていた。

「あなたもそういう捕食系勇者なの?」
「それどう考えても前後の単語のつながりに埋められない溝を感じるんですけど。ミッシングリンクかよ」
「じゃあ、やっぱり勇者じゃないんだね」
「ちーがーいーまーすー! 本当に知らないんですか、小傘さん? まったく仕方のない人だ……では教えてあげましょう!」

 コホンと咳払いを一つ挟んで、球体は穏やかな速度で回転を始める。

「かつての春雪異変を解決した英雄! オプション界の頂点! 完全で瀟洒な従者のバディ!」

 声高らかに叫び、回転速度は徐々に高まっていく。回る速度は表面の星マークも視認できないまでに達した。
 そして突然、ヒウウウンと空気の裂かれる音が止んだ。回転をピシリと止めると同時に、球体は突きつけるように言った。

「そんなスペシャルな護身具! それがこのわたし、マジカル☆さくやちゃんスターです!」

 紫色の球体、マジカル☆さくやちゃんスターは誇らしげな声音で名乗りを上げた。
 小傘はそんな彼女に、自らの笑顔とダウンページを見せつけた。

「そうなんだーすごーい。ところでマジカルスターちゃん。見てよこの雑誌、意識を刈り取る形をしてるでしょ?」
「反応薄すぎません? もっと崇め奉ってもいいんですよ? あとそのブロック状の凶器でしかないものを叩きつけて、どうして意識だけで済むって思えるのかちょっとわからないですね。知能と思いやりが足りないんですか?」

 凶悪な鈍器を振りかざす小傘に、マジカルスターは不満げに言い返した。
 だが、小傘は静かに微笑むだけだ。

「あなたが誰であろうと、何であろうと、勝手に人の家に入る悪い子だってことに変わりはないんだよ。だから、たっぷり叩いてオシオキしないとダメだよねえ」

 小傘はダウンページを掲げたまま、楽しげに言った。逆境に陥った結果、良くないハッスルを起こしてしまったらしい。
 そんな彼女のただならぬ様子に、マジカルスターの体は強張った。先ほどまでの威勢はなりを潜め、表面の星マークがくるくる回転し出した。

「ちょ、ちょっと待ってください。まさか本当に叩くつもりなんです? この真球のスタイルを維持するのにどれだけ苦労してるか知らないんですか、ねえ! 叩かれて楕円球にでもなったらこの業界ではおしまいなんですよ!?」

 マジカルスターの声はほとんど悲鳴になっていた。表面の星マークは心のきしみを表すように、縮んでは歪に広がることを繰り返す。
 狼狽するマジカルスターを気にも留めず、小傘はゆっくりと一歩、また一歩と近づいた。
 小傘の歩みはゆっくりとしていたが、マジカルスターをこの場に縛りつけるには十分だった。その一歩は巨人の足踏みのように、ドォン、ドン、ドォンと彼女の心を容赦なく叩いた。

 ドォン。

 ドン。

 ドォン。

 ドン。

 ドン、ドン。

 ドドン、ドドン。



 ドドドドドドドッドドドドドドドッドドドドドドドドッドドドッドッドドドドドドドッドドドドドドドッドドドドドドドドッドドドッドッドドドドッドドドッドドドッドドドドドッドドドドドドドッドドドドドドドッドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ。

「いやなんでリズム刻んでるんです!? これもう足踏みでなくタップダンスじゃないですか!」

 あまりに唐突なミュージカルの開幕に、マジカルスターは伏せていた星のマークを起こして叫んだ。
 正面の小傘はもう目前で、かかげたダウンページはいつ振り下ろされてもおかしくない。だが、彼女の視線はマジカルスターに向けられておらず、まったく別の方を見つめていた。
 マジカルスターも、その視線の先を追いかけた。
 そこに、波打つ赤毛の女がいた。
 いつ頃からいたのだろう。女は部屋の隅の方に腰を下ろして、二人をじっと見つめかえしている。
 女の周囲には六角形の赤い板状のものがいくつも漂っていて、それは丁度、雷神が背負う太鼓に似ていた。女の白いジャケット、白い巻きスカート、白い歯が、二人の瞳にまぶしく映る。

「タップダンスというのは……間違いではないわ」

 女は静かに口を開いた。
 赤毛の女の白い出で立ちに目を奪われていた小傘とマジカルスターは、その唐突な言葉に訝しむ意識を取り戻した。

「かつて外界では、チョコレート色の肌をした人々が労働後の楽しみにドラムを打ち鳴らしてリズムを演じていた。だけど、時代の横暴が彼らからドラムを取り上げてしまった。ねえ、そうなると……彼らはなにを打ち鳴らせばいいと思う?」

 女の問い質す台詞は、しかし小傘とマジカルスターの返答を必要とはしていなかった。言葉は、一瞬の間の後に続けられた。

「リズムはね、『呼吸』なのよ。食べる、寝るに等しい行為、人間が生きるために不可欠な『ビート』なの。だから、彼らはただひとつ持っていた体を楽器にしたわ。自分達の誇りと伝統をその足で刻んだのよ」

 そこで言葉を切り、赤毛の女はマジカルスターを真っ直ぐに見つめた。

「間違いではない。そう言ったわ。タップダンスは肉体を用いたドラム、その意味ではね。だけど――」

 言って、女は両手を前に構えた。
 握られたドラムスティックの先端がそれぞれ、小傘とマジカルスターに向けられる。

「今のは演奏よ。ほかの誰のでもない、私の『ビート』。あなたの間違いは、ただそれだけ」

 話し終えると、女は太鼓を再び打ち鳴らした。狭いダンボールハウスの中で、その重低音はいつまでも耳に残った。鼓膜の震えが、胸のうちに染みわたるようだった。
 その太鼓の音が、マジカルスターには自分の表面を撫でまわしているように思えた。それは身を任せたくなるような優しい手つきではなく、不快な触れかたをしていた。
 次第に音の手つきは、その本性を現し始めた。やわらかさをまるで知らない音の指先は、体の芯を圧迫し、奇妙な息苦しさを覚えさせた。マジカルスターは、すすり泣くように息をついだが、ドォンと音が響くと体は途端に硬くなった。
 まるで女が太鼓と同時にこちらの心臓を叩いているみたい――マジカルスターは冗談のように考えた。その思いつきが頭上から消え去る間際に、彼女は叫んだ。

「そうだ、音だ! さっきの小傘さんの歩みに妙な迫力があったのも、一歩一歩にこの太鼓の音が重なっていたからだ! あなた、どういうつもりなんです?」

 マジカルスターは赤毛の女に詰め寄った。
 赤毛の女はそんな彼女に、涼しい顔で言葉を返した。

「なんでもリズムに乗らせる……なんでもよ。それが私の能力。さっきはあなたの感じていた恐怖をリズムに乗せたわ。どう? よかった? たぎった? 興奮した?」
「あなたへの怒りでみなぎってますけど、サンドバッグにでもなってくれるんですか? そんな余計なことをして、覚悟はできてるんでしょうね!」

 正当な怒りを携え、不当の輩を断罪する気勢が、マジカルスターの口調を高ぶらせた。
 だが、赤毛の女は一切動じなかった。彼女は先ほどと同じように、自分の白い歯を光らせた。

「感情は音楽だと思ったことはないかしら? そこには旋律が流れている。律動が芽吹いている。調和が敷かれている。心の揺れ動く波は、まさに『楽曲』そのものだと」
「それがなんだって言うんです?」
「私はその『音』と触れあいたい。私の名は堀川雷鼓、誇りある和太鼓の付喪神。だから、奥底を震わせる義務がある。使命を担っている。楽器は音と人の交遊の場にいなければならないからよ」

 赤毛の女、堀川雷鼓は柔らかい笑みを浮かべてみせた。そこから紡がれる言葉の端々に、異様な熱気を覗かせながら。
 対して、マジカルスターの眼差しは冷ややかだった。彼女は威嚇するように、その球体を凄まじい速度で回転し始めた。

「大層なご高説は結構。それよりも、先ほどわたしになにをしたのかを話したらどうです? まだ口が動くうちにね」
「言ったはずよ、リズムに乗せたと。赤ん坊が子守唄を聞いて泣きやむように……兵士が軍歌を聞いて士気を高めるように……あらゆる感情は緊張したビートと弛緩したビートで構成されている。私がそのリズムに同調すれば、心の波はより激しくなるわ。真に高鳴った音は魂をも引き上げ、そして震わせる……それこそが私の役目なのよ!」
「なに言ってるのか全然わからないんで、一言でお願いします」
「場を盛り上げた」
「それ、世間では愉快犯って言うんですよ」

 やれやれ、と言いたげにマジカルスターは自分の体を左右にゆらした。雷鼓はその揺れる様を眺めながら、弾んだ息が落ち着くのを待った。
 言葉を出し尽くした後の停滞感が、沈黙となって両者の間を漂う。
 そこに「ねえ」という小傘の声が、淀んだ空気を払うように飛び込んだ。

「お話は終わった?」

 雷鼓は呼びかけられて、ようやく小傘の存在を思い出したかのように目を見開いた。

「ええ、ええ。ごめんなさいね、あなたのソロを邪魔しちゃって。この子を叩いて演じるリズム……私も見学させてもらっていいかしら?」
「いいよ」
「いや、いいわけないでしょう!? そこは止めるところでしょうが、常識的に考えて!」
「常識的に考えると、心を打ち鳴らすリズムは全てにおいて優先されるわね」
「常識的に考えると、悪い子はちゃんとペンペンして躾けないといけないね。早苗もそう言ってたし」
「常識の範疇に圧倒的な隔たりを感じる!」

 もはや、話せばわかるなどと言ってる場合ではない――マジカルスターは瞬時に悟った。この場は自分の力で乗り越えるしかない。この家の出入口に続く道を、自らの覚悟で切り拓くしかないのだと。
 マジカルスターは星のマークを小傘の方向に傾けた。球体に震えはない。刃先のように鋭い決意が、彼女の恐れをしっかりと抑えつけていた。
 揺るぎない意思が、マジカルスターの回転を瞬く間に限界まで導いた。どこから取り出したのか、その体の陰からは銀のナイフがぞろりと刃を覗かせていた。
 小傘とマジカルスターは対峙し、お互いにいつ飛びかかってもおかしくなかった。室内には気の遠くなるような静寂が立ち込める。
 両者の体の中でふくらむ緊張と警戒は、いよいよ破裂の時を迎えようとしていた。

 そのとき突然、小傘家の扉が勢いよく開かれた。
 押し入るように飛び込んできたのは、珍妙な面をかぶった少女だった。対峙する二人はその乱入者を見ようともしなかったが、面の少女は気にもせず、挑むように右手を突き出した。
 その手に握られていたのは、先ほど小傘が外に放った防犯コダマだった。

「我こそは秦こころ! 弱きを助けるが強者の務めとは神子と聖の教え。故にこの希望の面にかけて、お前の絶望を排除してやる! さあ、我々の救いを求めたのは一体どっち――」
「セイトウボウエイ!」
「それはこっちのセリフです!」
「無視!? なんて心ない態度! ええい、どっちを助ければいいんだっ!?」

 名乗りを上げる秦こころを前にして、小傘とマジカルスターの火蓋はすでに切られていた。眼前の敵のために高まった集中力は、差し出された仲裁の手に気づけなかったのだ。
 これにはこころも苦笑い……しかし、この事態にはさらなる悪化が待ち受けていた!
 小傘が振り下ろすダウンページを目掛けて、マジカルスターは回転しながら無数のナイフを放った。ナイフは尽きる様子を見せず、壁や天井に次々と突き刺さり、室内はダンボールハウスなのか燃えるゴミなのか判断に苦しむ様相をなし始めた。
 もはや小傘家の資産価値はゼロを振り切り、マイナスに突入しているだろう。これは気になるあの子を家に誘っても『一緒に遊んで友達に噂とかされると恥ずかしいし』と容赦なく断られる段階であり、燃やして暖をとるくらいしか活用法が見出せない状態だった。

 そして無数ともいえるナイフは当然、室内にいる全員にも襲いかかる。
 雷鼓は手に持つドラムスティックで、器用にナイフを弾いていた。小傘も持っていたダウンページを盾にした。
 ところが、こころは無防備だ。争う二人のどちらを助けるべきかと思い悩んでいた彼女は、まさか大量のナイフが自分に向かって飛んでくるとは考えてもみなかった。
 そんな彼女に、ナイフは吸い込まれるように向かっていく。
 こころはようやくナイフの存在に気付くが、すでに刃先が眼前にまで迫っていた。彼女はとっさに顔をそむけ、次の瞬間にも来るであろう強烈な痛みに身構えた。

 ――パキッ。

「ああ」
「おっ」
「うわ」
「ん?」

 室内にいる全員が、それぞれ思い思いの声をあげた。
 こころは恐るおそる周りを見回す。予期していた衝撃はいつまでたっても来なかった。
 きっとなんとか避けられたんだ。当たらなければどうということはなかったんだ。
 こころはそう考え、かぶっている面を喜びの翁の面に付け替えようとした。彼女の手が今つけている面に触れたところで、ぴたりと止まる。

「ん、あれ……あれ、あれ、あれ?」

 こころの手がその面を何度も撫でまわす。でこぼこした表面から始まり、わずかなくぼみを越え、それから……。
 いくら確かめても結果に変わりはなかった。彼女の震える指先は、どこか得意げな表情の面からそそり立つ一本のナイフを確かに認めた。

「面が……希望の面が刺されちゃった! この人でなし!」

 こころは無表情のまま、怒声を放った。





 2

「じゃあ落ち着いたところで、まずは点呼をとります」
「イチ」「一」「いち!」
「協調性なさすぎ」

 荒れ果てたダンボールハウスの中で、小傘のため息は白く散った。
 マジカルスターのナイフと、激怒したこころが振り回した薙刀により、今や小傘家の室内は居住性を一切感じさせない抜群の風通しの良さを実現していた。
 一通り暴れてようやく落ち着いた面々であったが、犠牲となったダンボールハウスはもはや青空教室となる選択しか残されておらず、仰ぎ見える白んだ空に反して小傘の顔色は暗かった。頭に重く伸し掛かるものがあって、心中は風に弄ばれる傘のように激しく揺れ動いた。
 小傘は目を瞑り、胸のうちに居座るよくないものを追い出すように、深い吐息を重ねる。三度の深い呼吸の後、彼女は並んで座っている三人を順順に眺めた。

「まず、あなた達に言っておきたいんだけど、ここは私の家なの。助けに来てくれたこの子はともかく……ええと、こころちゃん、であってたっけ?」
「むむむ、小傘と言ったな」
「あ、うん。ごめんね、間違ってた?」

 怒らせちゃったかな、と小傘は不安げに答えた。こころの表情が極めて大人しいものだからか、その声の調子はわずかな変化でも目立って聞こえた。
 小傘が感づいた通りに、こころは声音に怒気を漂わせていた。

「『あっている』。だが、『間違っている』」
「うん? どういうこと?」
「その態度のことだ。まるで我々のことを知らないかのような口ぶりじゃないか」
「え、いや、ふりもなにも、こころちゃんのことは今日初めて知ったんだけど」

 沈黙が二人の間を縫った。

「こころちゃん?」
「こ、ここ、これがおど、おどどどろひ、おどろきのひょじょ、ひょうじょぅ」
「動揺しすぎ」

 変わらず表情筋が死んでいるようなこころの顔は、しかし瞳があからさまに泳いでいた。その彼女の様子に、なんかさっきもこんなやり取りをしたような、と小傘は奇妙な疲労感に襲われる。
 こころはそんな小傘に構わず、震える体を力ずくで押さえつけるように勢いよく立ち上がった。

「歌って踊れる暗黒能楽娘の我々を知らないだと……馬鹿なっ、我々は劇団スタジオハフリの主演も務めた女優だぞ!」

 こころはその場で手足を踊らせ、大げさな振る舞いのまま、声高にそう叫んだ。
 ところでスタジオハフリとは、新たな布教の形式として企画された守矢神社主宰の劇団である。
 その構成員は人、妖怪、神と多岐に渡り、それらの幅広い人材が織りなす作品は世間で高い評価を得ていた。こころが主演を務めた『となりのココロ』のほかにも、『魔女の阿求便』、『紅の八咫』など数々の名作を世に送り出している。
 しかし、一部の外界に詳しい有識者や外来人からは、『これは外の世界で有名なアレやソレのパクリでは?』との疑問が寄せられていた。これに対して脚本担当の東風谷早苗は『この完全オリジナルシナリオに一体何の不満が? あと次の新作はもののべ姫です。よろしくね』との公式見解を示し、両者の溝は今も埋められないままである。

「あの我々の名演技を見ていないのか! バイク事故の怪我で寝込んでる聖に野菜をお届けするためにミコバスを走らせる場面なぞ絶賛の嵐だったのに!」
「うーん、あまりそういうのを見に行く機会がなくて」
「わたしも芸術の方面にはあまり惹かれませんので」
「私はとても興味があるのだけど、まだ生まれてから日が浅くて界隈の事情には疎いのよね……劇団のことも今初めて知ったわ」
「……抱いていた理想と突きつけられた現実のギャップに我々の心が死んでいく」
「ご、ごめんね。今度見に行くから」

 項垂れるこころに、小傘は支えるように手を添えた。
 慰めの言葉を重ね、後日公演の観覧に行く約束を取り付けたところで、ようやくこころは立ち直ったようだった。
 表情も心なしか満足そうに見え……るような、さっきと変わってないような、と小傘はその繊細な顔色を吟味するように眺めていた。やがてその視線は再び、一同へと平等に投げかけられた。

「えっと、それで話を戻すけど、こころちゃんはともかく……結果的に助けるどころかトドメを刺しに来たようなものだけどとにかく……人の家に勝手に入るのはいけないことなんだよ。ちゃんとわかってる? 特にマジカルスターちゃん」
「小傘さん、ここは『わたしの家』と言いましたね? ふふ、間違ってますよ。ここは『わたし達の家』……そうでしょう?」
「なんでもう同居人気どりなの」

 マジカルスターから向けられる打算塗れの親しみを、小傘はばっさり切り捨てた。
 その日暮しの野良妖怪である小傘が、なぜこんな住居をわざわざこしらえたのか。それは人々の生活を体験して、彼らの多種多様な驚きニーズを調査しようという目論みのためだった。
 そのための小傘家が今、見知らぬもの達によって蹂躙されかかっている。彼女にとって、それは見過ごせない問題だった。

「そもそもさあ、マジカルスターちゃんはどうしてここに来たの? あなたの持ち主って近所にある赤い館のメイドさんでしょ。お家があるなら帰りなよ」
「その通り! わたしの主人は十六夜咲夜です。やだなあ、小傘さんったら。やっぱりわたしのことを知ってるんじゃないですか。まあ、わたしほど有名だとねー。知らずには? いられない? みたいな? 感じですかねー!」
「いや、マジカル☆さくやちゃんスターって名前を聞けば想像つくから」
「だけど、このまま帰るわけにはいきません。咲夜ときたら、どこから拾ってきたのかも知れない安っぽいナイフにご執心ですからね。先の道具達の異変でも、わたしを連れて行かずにあの細くて折れそうな貧弱ナイフを……シルバーブレードの方を選んだんですよ! いつもならわたしを頼ってくれていたのに!」
「はあ、まあ慣れた道具の方が使い勝手がいいだろうけど……新しく手に入れたものだから使ってみたかったんじゃないの?」
「誰が正論を聞きたいなんて言いました!? しまいには怒りますよ!」
「理不尽すぎる」
「とにかくですね、シルバーブレードの奴が咲夜を誑かしたに決まってるんですよ。ね、ね? 小傘さんもそう思いませんか? 思いますよね? 思えよ」

 熱弁するマジカルスターだったが、その熱気に小傘が馴染むことはなかった。
 ただ一度頷いてみせてから、小傘は率直に言い放つ。

「つまり、新しい道具に嫉妬して家出してきたってこと?」
「べ、別に妬いてなんかないですし! ただ護身具としてあのナイフが危ないって思ってるだけですし! そこに構ってくれない寂しさが入る余地とか一切ありませんしー!」
「あっ、神子を正座させているときの屠自古さんと同じ表情のにおいがする。それってどんな感情? 心ときめくやつ? 教えて教えてー」

 表面の星マークを小刻みに震わせるマジカルスターを見て、こころがぐっと身を乗り出した。表情は変わらず乏しいままだが、声は弾むように楽しげだった。
 そしてもう一人、負けず劣らず歓喜の声をあげるものがいた。自分の頬に両手を這わせて、熱い吐息を漏らす雷鼓だった。

「いい。すごくいいわ、マジカルスター。アマービレ(愛らしく)いい。その複雑な感情の音色……血走った目で琵琶をかき鳴らす弁々を思い起こさせる。九十九姉妹の世話を焼いているうちに、私に甘えてくるようになった八橋を見るときの、彼女の音色に協和する……!」
「雷鼓ちゃん、なんで服脱いでるの」

 恍惚の笑みを浮かべる雷鼓に、小傘は言及せざるを得なかった。
 雷鼓は自分のジャケットを脱ぎ捨て、シャツのボタンを腰のあたりまではずしていた。赤と黒のチェック模様の布地が左右に分かれ、そこから豊かな肌色の谷間がはっきりと見て取れた。
 風紀の乱れが小傘家に起きようとしていた。家主の小傘が無視できないのも当然だった。
 これ以上いやらしさが蔓延するようならば、小傘は家主として責任を取る必要がある。自らの生足を禁止し、いやらしさのバランスを取らなければならないのだ。
 生足禁止――そのおそろしい未来を想像して、小傘は思わず震えあがった。そうなれば、どこぞの封獣のようにソックスなしでは食事もままならない体になってしまう。

 正体不明とソックスに依存した生命形態で知られる封獣ぬえは、季節感をサイハイソックスとニーソックスとクルーソックスの履き替えで賄う絶対領域の申し子だ。そのこだわりは入浴の時ですらソックスの脱衣を拒む程で、風呂上りには畳をビッチャビチャに濡らしながら歩き回ると言われている。封獣ぬえが大妖怪と謳われるのも、この目を覆いたくなる悪行のためだとご近所でも専らの噂である。
 対して小傘は真冬であろうと生足を敢行する脚部自然主義派であり、彼女のスペルカード『後光「からかさ驚きフラッシュ」』が、その健康的な脚線美の眩しさにより相手の視界と嗜好を奪う脚フェティシズム御用達の弾幕であることからも、如何に生足に傾倒しているかが窺えよう。
 偉大なる生足思想を掲げる小傘は、毅然とした態度で雷鼓に向かった。それに対し、雷鼓は蜜のようにとろけた目で見つめ返した。

「演奏を前にして、服を脱がないのはマナーに反するわ。私はいつもやっている。すばらしい『感情楽曲』を味わうために、私達は『裸』になる必要があるのよ」
「いや、人前で服を脱ぐ方がマナー違反だからね?」

 困惑しつつも丁寧に指摘する小傘。しかし、雷鼓の愉悦は止まらなかった。

「私がなにを言ってるのかさっぱりわからない、そんな顔をしてるわね。心の水面に浮かぶ波紋の音階を聞き分けるには、『肌の露出』が不可欠だと……そう説明しているのよ。音は空気の振動を聴覚器官が感じることで聞き取れる。だけど、繊細で複雑な心の音色をとらえるには耳では足りない。だから、『脱ぐ』のよ。全身の皮膚で、細胞で、直にその波を受け止めることで、初めて『感情楽曲』は私達の前に降り立つの」

 雷鼓は熱っぽい手つきで、小傘の肩を服の上から丹念に撫でた。

「小傘、あなたも服を脱ぎなさい。『新しいステージ』が見えるわよ」
「いいこと教えてあげよっか。回れ右したら扉があるから、追い出される前にそこから出ていくといいよ」
「弁々と同じことを言うのね。そして、いい……いいわ、小傘。すごくいい。フェローチェ(荒々しく)いい! その欠片も優しさのこめられてない笑顔となじるような態度……『感情楽曲』よ! 弁々に九十九家を追い出されたときに出会えた『感情楽曲』、そのアンコールよ!」
「会ったこともないけど、その弁々ちゃんって子とはすごく気があいそう」

 身をよじる雷鼓を前にして、小傘は顔もわらかない弁々という相手に言い知れぬ共感を覚えた。
 そのとき、ふと小傘の中で、ある疑問が浮かび上がる。彼女の口から、雷鼓を追い出すための言葉より先にそれが転がり出た。

「あれ、じゃあ雷鼓ちゃんは住んでた家を追い出されたからここに来たの?」
「いえ、それはさっき言った通り、追い出されて当てもなくここらを歩いていたときに、叩くだのなんだのって声がしたからね。なにか得がたい魂のビートに出会えるかも、と思って覗きに来ただけよ。だから、あなたが出て行ってほしいならそうするわ。だけど――」

 雷鼓は目線を小傘から大きく外した。

「彼女はそうもいかないんじゃない?」

 雷鼓の視線の先を小傘も追いかける。そこでマジカルスターを掌に転がすこころが、表情に不釣り合いの賑やかな声を弾ませていた。
 こころは向けられる視線にも気づかず、どこからともなく取り出した様々な面を着けては外し、外しては着けていた。面はそれ自体がこころの頭に寄り添うように、つけている間はわずかもずれることがなかった。
 そして取り出す面の中に、ナイフの刺さった跡を痛々しく残しながらも奇妙に得意げな顔を晒す、あの希望の面があった。
 小傘はとっさに責任という言葉の重みを実感し、次にマジカルスターを一瞥し、最後に諦めたように首を振った。
 マジカルスターは小傘のため息の行方を気にも留めず、浮ついた声で呼びかけた。

「小傘さん小傘さん! 今、こころさんと話してたんですけどね、彼女のこと知ってましたか? ねえ、知らないでしょう、こころさんのこと。教えてあげましょうか。どうしようかなぁ。もうっ、小傘さんったら知りたがりなんですから! いやしんぼさんですねえ、仕方のない」
「話しかけといて一人で完結するのやめてよ」
「あっ、小傘の顔、青色おばさんにキョンシーの可愛らしさを力説されてるときの神子と同じ表情! その感情って心踊る? 今、どんな気持ちなの? ねえ、どんな気持ち?」

 小傘の唇は見事な曲線に引き結ばれ、しかし歯を見せずに口角をつり上げた。その含んだ笑みと開ききった瞳孔が、彼女の感情を如実に表していた。
 そんな濁った笑顔の実質を、こころは掴みかねていた。微笑みの難解さを乗り越えたい彼女は、その表情を使いこなす小傘にたずねた。
 小傘はひっついてくるこころを強引にはぎ取ると、マジカルスターに向き直った。

「それで、こころちゃんがどうしたの?」
「器の話ですよ。こころさん、見た目はわたし達より若そうなのに、千四百年前に聖人に作られた面なんですって。同じ付喪神でも格が段違いですよ!」
「へええ。そうなの、こころちゃん? 確かに若そうなのに意外だね」
「こころの感情楽曲は単調なものばかりだから、私も同じように考えていたわ」

 マジカルスターの言葉に、小傘と雷鼓は頷いた。
 三人の熱っぽい視線がこころに集まる。使われ続けてきた古い道具というのは、それだけで素晴らしい。人の信頼が込められているからだ。積み重ねられた愛情は歴史に変換され、実りある豊かな心がその身に宿ることとなる。
 こころへ向ける熱度が、マジカルスターの中で陶酔の心地となり、その体が回り始める。昂ぶる興奮のままに、回転速度は唸りをあげる。
 一方、小傘と雷鼓は期待の眼差しをこころに注いでいた。先達の智慧がきらめくのを待つような、敬意の込められた瞳だった。こころはどちらを見つめ返すべきかわからないというふうに、頭を右へ左へ動かした。
 それから、こころはつけている面で顔をさっと隠した。

「て、照れるぜ」

 こころは顔を隠したまま、うつむいた。面からはみ出た彼女の耳は、火照ったように真っ赤に染まっている。
 稚気に富んだこころの仕草に、小傘と雷鼓は一瞬熱気を削がれた感じがした。金言を期待していた口から出たのは、あまりに愛らしい台詞だった。
 もじもじと身をくねらせるこころを前に、二人は黙って視線を交わした。

『こころちゃん、いいよね』
『いい……』

 小傘と雷鼓は暗黙のうちにすべてを分かり合った。言葉にせずとも伝わる思いが二人の間に通っていた。
 そのとき、伏せられていたこころの表情に変化があらわれた。というのは、面をまたも付け替えたのだ。
 現れたのは、怒りを表す般若の面だった。その面はこころの耳に残った赤みの意味をひっくり返した。
 こころは薙刀を取り出すと、素早く横に薙いだ。白い刃が飛びかかる影を払うと、かん高い音と共に何かが床に突き刺さった。
 それは銀のナイフだった。
 こころは形の整った眉をぴくりとも動かさずに、しかし声はそれとわかる調子で怒鳴った。

「マジカルスターとかいったな。またしても我々を狙うとはお前も最強の称号がほしいのか。決闘するかこのやろう!」

 マジカルスターは回転していた体をぴたりと止めた。それから、ビタンビタンと跳ね回る仕草を見せた。
 こころがつけている般若の面が周囲に怒りをまき散らし、マジカルスターにもその感情を伝染させたのだ。
 しかし、マジカルスターの見せた怒りは自分に向けたものだった。

「わたしとしたことが……! ごめんなさい、こころさん。決して狙ったわけではないんですよ! これは、そう、体質の問題でして」
「体質だと! それはつまり、美少女を襲わないと心安らかでいられないとか、可愛い女の子の体を自由にする喜びだけで育ってきたとか、そういう感じの?」
「ちょ、ちょ、待って待って。こころちゃん、そういうのどこで覚えたの?」
「神子が、知らない人に声をかけられたらそう思えって言ってた」
「神子ってあの聖徳王のことよね。優れた為政者が優れた親になれるわけではないのねぇ」

 雷鼓は呆れと感心の入り混じった調子で、そう言った。
 もっともだと小傘は胸のうちで同意して、床に転がったナイフを拾い上げた。

「そういえばマジカルスターちゃん、さっきからこのナイフ、どうやって出してるの? 自分で出したにしても量が異様に多いけど」
「えーちょっとちょっとー小傘さーん、そういうこと聞くのやめてもらえます? セクハラですよ、セクハラ」
「なんで武器についての質問がそんなデリケートな問題に発展するの?」
「いやらしいのは自分の生足だけにしてくださいよね、まったくもう。本当にいやらしいんだから、小傘さんの足、この足……はー、やわらかい」
「人の太腿に勝手に挟まってくるのはセクハラじゃないの? ねえ、聞いてる?」
「護身具の貞操観念って結構複雑なのねぇ」
「そうだね。あと雷鼓ちゃんもさり気なく撫でてくるのやめてね」
「はっ! あの雷鼓の表情、聖の肩とか腰を抱き寄せようとしては毎回手をつねられてるのに全く諦めようとしない神子と同じ顔! それがどんな感情なのかを知るために、我々も小傘に執拗なボディタッチを試みるぞ!」
「こころちゃんはそれ、絶対わかってるでしょ!」

 各々が小傘の足元に群がり、すらりと肥えた眩しいほどに白い脚を、ウィンウィンとかき鳴らすギター奏者の手つきで撫で回す。
 初めのうち、小傘はくすぐったそうに身じろいだ。次第に自分の漏れ出る声に濡れた気配が漂い始めたことを自覚すると、まとわりつくマジカルスター達を力任せに振り払った。

「や、やめてっ、いい加減に離れてよ!」

 距離を置いて立ち上がった小傘が、なおも突き放すようにそう言った。その顔にはじわじわと赤みが差していた。

「まあまあまあまあ、もうちょっと堪能してもいいじゃないですか、小傘さん。そのムチムチした脚の素敵お肉を自分だけで独占しようなんてそれはもう横暴ですよ、横暴」
「小傘、独り占めはよくないわ。魂の音楽は聞く人を選ばないものなのよ。さあ、もう一度あなたの柔肌をこの指で演奏させて! お望みなら全身でも奏でてあげるわ!」
「偶然を装って屠自古さんのお尻を撫でてる神子の表情は最低だなって思っていたけど今は心から理解できる。小傘、何もしないからこっちに来てほしい。我々の手などがあらぬ方へ滑ってしまうかもしれないが、それは全くの偶然でしかないのでとにかく来てほしい」

 小傘は額に浮かんだ汗を拭った。迫りくる付喪神達の自由すぎる物言いが、汗を冷たくしていた。
 場の空気が淀んでいる。そう思ったとき、一陣の寒風が流れた。冬空の下で圧倒的な通気性を獲得している小傘家は、室内に充満していた妖しい雰囲気を悉く追い出してみせた。
 後に残ったのは、興奮の熱がすっかり冷めきって大人しくなった付喪神の姿だけだった。
 その姿に安堵した小傘は、心の余裕をすっかり取り戻し、本来の話題に戻ろうとする。

「ええと、それで何の話をしてたっけ」
「わたしのナイフがどこから出るのかって話ですよね?」
「小傘が私達をここから追い出したいって話じゃないの?」
「我々の希望の面が刺されたので責任を取るという話では?」
「うーん、どれも合ってる気がする。どれだけ話題が迷子になってたんだろう……」

 小傘は悩ましげに声をあげた。順々に発言する三人を見据えて、話に決まりをつけられずにいる現状は、どうにも落ち着かなかった。
 マジカルスター、雷鼓、こころと、それぞれの顔を見比べ、小傘は探るような調子で言った。

「とりあえず……一番に話し合うべきなのは、こころちゃんのことじゃないかと思うんだけど。お面を傷つけた私達が悪いわけだし」

 その提案に、マジカルスターは居心地悪そうに体をゆらゆらと転がした。彼女は一呼吸の間を空けて、弱々しく答えた。

「あの、その……こころさん、本当にごめんなさい。お面を傷物にしてしまったのは完全にわたしの落ち度……どうか、責任を取らせてください」
「責任! それってお腹? お腹掻っ捌くの? すごい、見るの初めて! 早くやってやって!」
「すみません、もうちょっとマイルドなケジメで許してもらえません?」

 マジカルスターの声音は引く潮のように遠のいていった。
 目を輝かせて責任の二文字を切腹に直結させるこころの物言いは、幼さとは無縁の血と暴力に彩られ、妖怪の地が大いに露出していた。
 そのあまりに物騒な言いように、つい小傘は口を挟んだ。

「こころちゃん、それも神子さんに教えられたの?」
「ううん。これは一輪の教え」
「あなたっていろんな人に可愛がられてるのねぇ」
「いや雷鼓ちゃん。これ、保護者の人に報告しないといけない案件じゃないの? って、また話が逸れてるし……とにかくね、マジカルスターちゃんだけの責任には出来ないし、私も手伝いたいの。ねえこころちゃん、そのお面ってどうすれば治るの?」
「面も体と同じもの、怪我をしたなら養生すればなおるよ!」

 こころの回答を聞いて、雷鼓はすかさず服を脱ぎにかかった。

「なるほど、つまり添い寝がお望みなのね。任せて」
「ごめん雷鼓ちゃん、ちょっと黙ってて」
「私が一肌脱いで、いえ、ジャケットとシャツで二肌脱いで、一肌ならぬ人肌で癒してあげるわ。さあ、こころ。私のステージに飛び込んでちょうだい!」

 上手いことを言ったというキメ顔の雷鼓は、半裸のまま両腕を開いて構えた。
 小傘はそちらを向いて、ニコリと笑う。そしてこころに向き直った。

「こころちゃん、続けて」
「いいの? ええと、我々の面は感情を司るために消耗した場合もまた同じ思いを必要とする。希望の面なら、これこそ果たしたいという情動を寄越せ!」
「うーん、それって自分たちの願い事を叶えればいいってこと?」
「そういうこと。《お前の望みを叶えてやろう、ただし自力で果たさないとひどい目にあう》みたいなっ!」

 話を進める小傘とこころの二人を眺めていたマジカルスターは、ちらりと雷鼓に目をやった。
 雷鼓は未だに両の腕を広げて、胸の中にこころが飛び込むのを待っていた。

「えー、あのう、雷鼓さん。寒くないんですか?」

 マジカルスターの声には、明らかに気遣うような調子が含まれていた。しかし雷鼓は依然として、その姿勢を誇示している。

「……『4分33秒』という曲を知ってる?」

 雷鼓は唐突に口を開いた。その目は虚空に向けられ、それに引かれるように声音も段々と上ずっていった。

「それは『無音の音楽』として外界で有名なの。奏者は何も奏でない。同時に奏でている。わかるかしら? 私は今、『無音の感情楽曲』に身を委ねているのよ」
「申し訳ないんですが、わたし、音楽には明るくなくて」
「構わないわ。私は誰かにこの話をするのが好きなの。ねえ、聞いて。小傘もこころも私に気持ちを向けていない。だからこそ私に注がれる魂のビートも存在する……いい、ああ、いいわ。こころ、そして小傘! とてもいい。モレンド(絶え入りそうに)いい。密やかな泉のように、透明な感情楽曲がこんこんと胸に湧き出している。『無音のビート』よ! 清廉の奏でる『4分33秒』よ!」
「雷鼓ちゃん。盛り上がってるところ悪いんだけどさ、こころちゃんの話、勿論ちゃんと聞いてたよね?」
「確とこの耳に。私の使命はあらゆる感情楽曲を見届けること。あなた達の感情の奏でる音色がどこまでも昇っていく様を見届ける、それこそが私の望みよ」
「よろしい」

 小傘は厳かに頷いた。そして雷鼓が胸を撫で下ろしたのを見逃さなかった。

「まあ、雷鼓ちゃんの願いは私達任せだからね。叶えるとしたら私達の希望ってことになるのかな」
「そうね。小傘、あなたの願いは?」
「私のは心躍る驚きを提供することだけど、うーん、ちょっと、ね? ちょっと難しい、かな? うん」
「ちょっとですって」
「ちょっとと言ったわ」
「これが絶望の表情」
「そんなに言わなくてもいいじゃん!」

 小傘は地団駄を踏んだ。ダンボール製の床は彼女の怒りに理解を示し、穴をいくらか増やしてみせた。

「ああもう、それじゃあマジカルスターちゃんは? お願い、なにかある?」
「ありますよ、もちろん。先ほども言った通り、わたしは咲夜のもとに戻りたい……そう、以前の形で。それがわたしの望みです」
「そういえば言ってたね。メイドさんが新しいナイフの方に夢中だって」

 思い出すような調子で返す小傘に、マジカルスターはきっぱりと言った。

「あの短剣をですね、こらしめたいんですよ」
「穏やかではないわね。単なる……嫉妬というわけでもないのかしら、あなたの事情は」
「それはもう。ある日突然、主人が妙なナイフを気に入ってそれを片時も手放さないという事態が起こったというなら、護身具として奴の意志を問い質さないといけないでしょう? わたしこそが咲夜のオプションなんですから」
「うーん……どうあれ、こころちゃんのお面に希望を渡すには、マジカルスターちゃんの願いを叶えるのが一番確実かなあ」
「私もそう思うわ」
「我々も多数派の数の暴力に加わるぞ!」
「こころちゃんはもうちょっと平和な言い方を覚えようね」

 一同の乱れに乱れていた足並みはついに揃い、その向かう先が定まった。
 こころは我先にと小傘家を飛び出し、雷鼓もその後に続く。
 小傘は荒れた室内から少ない荷物を取り出し、外出の支度を始めた。何かと物騒な近頃に備えて防犯グッズを手に取り、お気に入りの水色のケープを羽織り、化け傘を小脇に抱え、そしてタイツは無用とばかりの脚部は剥き出しの肌が白く眩しい。

「小傘さん、まだですか」
「もう済んだよ」

 マジカルスターが崩れかけた出入り口から覗くようにしていた。

「うわあ、見てるだけでもう寒い。ケープをかけるその防寒意識を少しは下半身にも向けてくださいよ」
「傘にはね、譲れない一線があるんだよ」

 小傘は強い口調で言い切った。彼女の信じる一線は、二本の艶めかしい幹のように雪の上からすらりと生えていた。





 3

 踏みしめる雪の音にも違いがあることに、小傘は気づいた。
 小さな獣の歩いた薄い跡に足を重ねると、凍った雪の表面は割れて、その下に詰まった柔らかい雪が粉のように舞い上がった。
 樹木の群れの隙間から、湖畔に聳える紅魔館の赤錆た壁が覗いた。
 湖面が日の光をきらきらと照り返す。そうやって跳ね回る陽射しの筋が、足元にふわりと纏わる雪の華を白銀に咲かせた。
 先頭を進むこころの足取りは踊るように軽やかだった。こころの体はざらりと硬い表面の雪に深く沈まず、歩くたびにサクサクと軽妙な音を響かせた。
 対して、こころの背を追う雷鼓の足音は、ザン、ザン、ザンと丁寧に雪を踏み抜くものだった。その力強い歩みは、一歩一歩に雪の粉がパッと膨らみ、後には乱反射する陽光の輝きが尾のように残った。
 小傘の足音は二人の間を漂っていた。サクリと雪上に耐えることもあれば、ザフンと雪の柔らかさに足を取られることもあった。上手く進むコツを探るように、足裏を伝う雪の感触を確かめながら歩いている。
 そしてマジカルスターの歩き方は、三人のどれとも違っていた。しかし、それは当然のことだった。彼女は歩いてすらいないのだから。

「ほらほら、小傘さん。前の二人に遅れてますよー。もっと急いで急いで。馬車馬のように駆けていって」
「うるさいなあ、もう。それなら自分で歩いてよ」
「わたしが転がっても、あなた方の歩幅には追いつけないんですから仕方ないでしょう。大人しくわたしを『装備』しておいてくださいよ」

 マジカルスターは小傘を中心に円を描きながら浮いていた。
 ゆっくりと旋回するマジカルスターの動きが、小傘には常に注がれる視線のようなものに感じられ、どうにも落ち着かなかった。

「この位置、この距離、この角度! いやぁ落ち着きますねぇ!」
「苦労して歩いてる間近でくるくる楽しげに回られると、ものすごく気が散るんだけど」
「えー? この私がオプションになってあげてるんですからもっと喜んでくださいよー」
「そう言われてもなあ」
「唇に満ち溢れんばかりの幸福を宿して、瞳は感応的満悦を映した燦爛たる煌めきの水面となってくださいよー」
「いや、言い方の問題じゃなくてね?」
「もーう、何が不満だって言うんですか! 今ならどんなものからも私に守ってもらえるというのに」
「それなんだけどさ、マジカルスターちゃんはメイドさんのオプションなんだよね?」

 小傘は前を向いたまま訊ねた。マジカルスターの返答が右から左から聞こえてくる。

「ええ。異変の最中も咲夜を守り通してきた忠実な護身具ですよ」
「それじゃあ何で今、メイドさんに付いてあげないの? そのメイドさんが夢中になってる新しいナイフが危ないって思うんなら、どうしてそこで守ってあげなかったの?」

 小傘の疑問にマジカルスターはなにも言葉を返さなかった。ただ小傘を軸に周回し続け、ヒウウンと空気を自身の回転で押し流す音だけを微かに響かせた。
 歩きながら、小傘はその無言の声を黙って受け止めた。やがて彼女はもう一度口を開いた。

「家出してきたって言ってたけど、本当はなにか考えがあって私のところに来たんじゃないの?」

 湖を囲む樹木が次々と後ろへ過ぎていく。サク、サク、ザフンと雪が沈んだ。
 しばらくして、マジカルスターがその合間を静かに縫った。

「自分がちゃんと存在していることが、無性に怖くなる時がある。そういう経験がありませんか?」

 マジカルスターは這うような声で囁いた。傍にいるはずの彼女が急に遠のいたように小傘には感じられた。
 旋回するマジカルスターに視線を向けると、変わらず手の届くところにいる。しかしその声は、巡り巡ってようやくたどり着いたかのように、今にも消え入りそうなものだった。

「かつてのわたしたちはただの道具で、持ち主の思いこそ自分の『意志』でした。でも、今は自分で考え、行動することができる。自由に体を動かせるのは素晴らしいことです。見えていた視界の枠が外れて、光景は果てしなく広がっていく。ただの道具だったときには想像もできなかったもので、自分がいっぱいになる。どこにでも行ける。どこにだって行っていい。だから――」
「もう手放したくはないわね」

 先を進んでいた雷鼓がいつの間にか小傘の隣を歩いていた。
 雷鼓の真紅の瞳が、凍える空気の中に灯る炎のように、小傘とマジカルスターを照らしていた。

「もうただの道具に戻りたくはない、そうでしょう?」
「雷鼓さん」
「私もよ。だから、小槌の魔力で得た私自身を外界の使役者に移し替えた。『自由意思』こそが物と生き物を分かつ境界線なの。私は一度その『線』を越え、そしてもう二度と振り返ることはない。だけど時折、発作のように思い出すのよ。あの『一線』の存在を。私が立っているこの場所を。目を覚ましたら自分が向こう側に戻っている日が、いつか来るんじゃないかって」

 雷鼓は目線を前方に戻した。先頭を進んでいたこころは随分と離れていて、小さな体が立ち止まってこちらを振り返っているのが見えた。

「マジカルスター、あなたの力は使役者であるメイドさんに通じているようだけど、小槌の魔力も大分混ざっているようね。あなたが小傘を頼ったのも――」
「嘘をつきました」

 マジカルスターは遮るように言った。だが、そのまま言葉が続けられることはなく、長い吐息が澄んだままの空気を震わせた。
 雪上に刻まれる足跡の音をいくらか挟んでから、マジカルスターは再び語りだした。

「わたしは自分から出て行ったんじゃない。追い出されたんです」
「それって、その、メイドさんに?」
「『咲夜』にじゃあない」

 伏し目がちに訊ねる小傘に、マジカルスターは言い切るように返した。それは決して大きな声ではないものの、悲痛の叫びに似た鋭さがあった。

「わたしは、咲夜がうんと小さかった頃からボール遊びに使われてきたんです。それなのに、あの妙な短剣を手に入れてから目に見えて様子がおかしくなった。シルバーブレードが裏で操りの糸を引いていたに決まってる……だから、誰かにわたしを装備してもらう必要があったんです」
「装備、って今、私の周りにマジカルスターちゃんが飛んでるやつのこと?」
「そうです。護身具の力は守りの力。わたしは自分一人では力を発揮できず、シルバーブレードには敵わない。だから小傘さん、あなたの使い魔になって、あいつに挑もうとしたんですよ」
「でも、どうして私のところへ? 自分で言うのもなんだけど、強いわけでもないのに」
「所在が近場とわかっていましたので。あと、小傘さんなら言いくるめるのも楽そう、いえ、同じ道具のよしみで協力してくれるだろうと思いましてね。そのチョロそうな、いや、心優しい性分を見込んで、勢いに任せて巻き込もうと、失礼、真摯にお願いに来たというわけです」
「煽ってるのかと疑うレベルで言い間違えすぎなんだけど? あのさ、そんな風に明け透けに言われて、私がここでお手伝いを断るかもしれないって想像はできないの?」
「いえ、小傘さんならもうここまで話が進んでしまえば、事情を明かしても場の空気に流されて最後まで手伝ってくれるだろうという打算に基づいて言いました」
「当然のように性格的な弱みに付け込んでくるの本当にやめてほしい……。でも、本当にそのナイフがメイドさんを唆してるの? メイドさんにちゃんと使われてるんでしょ?」
「咲夜がわたしを追い出した。その事実がシルバーブレードの邪心を示してるんですよ」

 増していく回転速度の唸りに、マジカルスターは冷たい声音を乗せた。雷鼓はその言葉に含んだ笑みを返した。

「それは道具としての『本能』かしら。それとも護身具としての『使命』なの?」
「……わたしは咲夜を『守る道具』、それ以外のなにものでもありません。わたしの望み、果たすべき役目は、咲夜に向かう悪意を悉く打ち滅ぼすこと。ただそれだけです。必要とされることを望むのはわたしの役目ではありません。『守ること』、ただそれだけなんです」

 マジカルスターは言葉を重ねた。まるで自分に言い聞かせるように。
 そこへサク、サク、サクという音が割って入るように三人の耳に届いた。
 先を進んでいたこころが戻ってきていた。まるく開かれたその両目は、雪の上に散っている陽射しのように輝いている。

「ねえねえ、今こころよい感情の気配が漂ってきたんだけど、希望っぽいこと言った? 言ったよね? つまりもう希望の感情を持ってるんでしょ。ね? ね?」
「え、いや、その話をしていただけで、面に必要な希望の念はまだ……」
「ふふん、誤魔化そうとしても無駄なこと。我々は速やかな引き渡しを要求する! ぐずぐずしていると、お前を懲らしめる暗黒能楽が殴る蹴るの暴行に発展するぞ!」
「その物騒な物言いの教えは律儀に守らなくていいからね、こころちゃん」
「というか、よくわたし達の話を聞き取れましたね。結構距離があったのに。耳がいいんですね」

「まあ、我々は歌って踊れて読唇術もできる暗黒能楽娘だからね。耳には自信があるよ!」
「それ、耳関係ないよね?」

 小傘の指摘にも構わず、こころは手入れの行き届いた髪をパッと掻き上げ、小ぶりな耳を外気に晒した。ふっくらとした白い耳が見せつけるように突き出される。
 花の蕾がにわかに開いたような光景だった。小傘達の視線は愛らしい花へとぐんぐん吸い寄せられた。彼女達の指先が無意識のうちにこころの密やかな耳へと伸びていく。

「柔らかい」
「気持ちいい」
「美味しい」
「うおああ! くすぐったい! あと舐めてる奴誰だよお! 踊り子には手を触れないでください!」

 こころが身悶えながら悲鳴をあげる。
 耳たぶを指の腹で弄っていた小傘は、さっとその手を引っ込めた。球体をこすりつけるようにしてその柔らかさを堪能していたマジカルスターもそれに倣った。
 ただ一人、雷鼓だけはこころから離れず、唇で食むようにして耳の裏側を舐っている。

「手では触れてないから、はむ、私は大丈夫のようね。むうん、まろやか」
「ひゃわあああ! 背筋に甘い痺れが奔るなんてこともなくただ純粋に気持ち悪い! おのれ雷鼓め、我々のような可愛い女の子にひゅおあああ! このような行為に及べば多額のオプション料金が発生するうひゃあああ!」
「いい、とてもいいわ、こころ。美味しくていい。あなたの感情楽曲が叫びとなって昇ってくる。より高く! より激しく! 服を脱ぐ必要もないほどにね!」

 こころの両手を背後から抑え込み、いやいやと顔を背ける彼女の耳朶に雷鼓は舌を這わせた。その姿はどう控えめに見ても事案発生の場面でしかなく、小傘の右手はすでに懐にある防犯コダマを掴んでいた。
 しかし、小傘が防犯コダマを投げつける前に、マジカルスターの回転の唸りが一際大きく響き渡った。周囲を旋回する動きは止まっていて、小傘の正面を陣取ったマジカルスターは自身を凄まじい速度で回転させていた。
 小傘は回転するマジカルスターの陰から鋭い光沢がきらめくのを見た。
 次の瞬間、大量のナイフが幾重もの銀色の束となって、雷鼓へと殺到する。雷鼓はこころを庇うように後ろへ追いやると、すかさず取り出したドラムスティックで飛来するナイフを次々と弾いた。
 跳ね飛ばされたナイフの群れはクルクルと宙を舞い、雪面に突き刺さった。そのナイフは間もなく陽だまりの中の雪のように薄れていき、そのままフッと消え去った。後には雪面を鋭く抉った刃先の跡だけが残った。
 雷鼓はドラムスティックを仕舞うと、すぐに頭を下げた。

「悪ふざけが過ぎたわね。ごめんなさい、こころ。あなたの感情楽曲がもっと聞きたくてね」

 こころは雷鼓の下げられた頭に手刀をふにゃりと叩き込んだ。

「もう少しでお嫁に行けない体にされるところだったぞ。もうやめてね、我々との約束だ!」
「大丈夫よ、それなら私がお嫁にもらうから」
「舌の根も乾かないうちにこれだよ! まったく、まったくもうだな、雷鼓は!」

 小傘は仲直りとケンカを一言ごとに繰り返す二人をしり目に、マジカルスターに呼びかけた。

「今のナイフ、最後には消えちゃったけど、どういうものなの?」
「あっ、気になります? やっぱり気になっちゃいます、そこのところ? このわたしのことですもんねー。もっと知りたくて知りたくて? 夜も眠れない日々が続ていく? みたいな? 感じですかねー!」
「急速に好奇心より面倒さが上回ってきた。マジカルスターちゃんって人の気持ちを削ぐのホント得意だよね」
「またまたー、そんなこと言って本当は聞きたくて仕方ないんでしょう? はー、参りましたよ、まったく。話を引き出すのが上手いんだからなー、小傘さんは!」
「植物と会話してる方がまだ言葉通じてるなって思わせるのも得意だよね」

 小傘の声色がどんどん沈んでいくのをよそに、マジカルスターの方は楽しげに浮ついていた。胸を張っているつもりなのか、球体の星マークまでも上方へと傾いている。

「先ほど小傘さんのお家で言いかけましたけど、あのナイフは体質によるものなんですよ。まあ、体質というか能力ですけど」
「ナイフを生み出すとか、そういう力を持ってるってこと?」
「いえいえ。確かに数本程度のナイフなら、自分の魔力を練って作り出せます。ですが、あの大量のナイフをわたしだけで用意することはできません」
「じゃあ、あの大量のナイフはどこから持ってきてるの。その体にでもしまってるの?」
「何者をも魅了するこの真球の豊満な肉体美にナイフをしまってるかですって? いや、違いますよ」
「その耳、機能してるの?」
「やだなぁ小傘さん、なんで耳の話になるんです? 話を続けますけどね、あれらのナイフはわたしの回転で引き寄せているものなんですよ」
「引き寄せるって、どこからかしら」

 こころと戯れていた雷鼓が、横から割り込む。その後ろで、こころもマジカルスターの言葉に耳を傾けていた。
 聴衆が増えたことで、マジカルスターの口調にも熱がこもり始めた。

「それに答える前に、回転について話しておきましょうか。わたしの体はただ回しているのではなく、ある軌跡を正確になぞっています。生物の殻や角にある渦巻き、鳥や昆虫が宙を羽ばたくときに見せる『螺旋運動』、それらと同じ軌道を描いて回転しているんです。自然界に点在するこの軌跡は円の中心へ無限に続くという特徴を持つ。これを『黄金螺旋』と呼びます。そして真球であるわたしの体は、この『黄金螺旋』の軌跡で正確に回すことができるんです」
「ごめん。全然話についていけそうにないんだけど。雷鼓ちゃん、わかる?」
「いえ、私もいまいち。こころ、あなたはどう?」
「ふふん、知ってるとも、『黄金螺旋』。湯がいてポン酢で食べると美味しいんだ」
「なんで明らかに間違ってるのに自信あり気なの?」

 知ったかぶりを鮮やかに露呈しておきながらもやり遂げたように息をつくこころに、小傘は指摘せずにはいられなかった。

「えーまあ、とにかく黄金螺旋を正確に描けば無限に続く回転ができるんです」

 マジカルスターは仕切り直すように、咳払いを挟んだ。

「黄金螺旋による『無限の回転』、そのパワーはこの世界の次元を越えて、こことは似て非なる隣の次元、平行世界に干渉するんです。わたしの回転による吸引力が、隣り合う無数の別世界のわたしが作り出したナイフを引き寄せる。そうやって得たナイフを無限に放出する、これが私の力です」
「うーん、なんとなくわかったような、わからないような……」

 小傘は眉をひそめて隣の雷鼓を窺った。
 雷鼓は飲み込めないものを口中でどうにかして片付けようとしてるように、唇を引き結んでいた。やがてその真っ赤な唇がふっと緩むと、その表情には漠然とした理解の線を浮かんだ。

「さっき、雪面に刺さったマジカルスターのナイフが自然に消えたけれど、あれはこの世界のものではないから、ということかしら」
「ええ、隣の世界に帰属するナイフの物体強度は、ごく短い間で現実時間に圧縮されます。もっとも、短い時間といっても敵にダメージを与える分には十分ですけどね。ナイフを回収する手間も省けるので、咲夜はこの力を重宝してくれました」

 そこまで言って、マジカルスターの口調は一変した。それまでの弾むような声音は、急に地を這うものになった。

「そんなわたしを、咲夜が手放すはずがないんです。わたしを捨て去ったのは彼女の意思ではない。そこにはシルバーブレードが関与しているに違いないんだ。絶対に、そう、そうでなくては……」

 マジカルスターの言葉はそこで途切れた。
 小傘と雷鼓は話しかけようと口を開いたが、そこからなにかが発せられることはなかった。冷気とは別の分厚い膜が全身に纏わるように感じられ、湖面からの照り返しの通じない暗がりが、彼女達に伸し掛かっていた。
 そのとき、重苦しい沈黙を颯爽と破る一声があがった。

「マジカルスター、お前の話だが」

 こころはやはり静かな表情を携え、しかしその瞳には強い意志の光がきらめいていた。
 マジカルスターが呼びかけに答えると、こころは詰め寄るように身を乗り出した。

「微塵も理解できなかったのでもう一度ちゃんと説明してくれ」

 途端にマジカルスターの回転の唸りが乱れ始めた。

「べ、べつに我々の理解力が低いわけじゃないんだからね! 勘違いしないでよね! きっとマジカルスターの説明が下手だからだと我々は信じて疑わないぞ、このやろう!」
「こころちゃん、キャラがふわふわしすぎでしょ。あとその自己評価の高さはなんなの?」
「甘やかすってあるわよね。甘いものは太るというけど、神経のことを言ってるのかしら」

 こころの気まますぎる物言いにつられるように、小傘と雷鼓も口々に喋り出した。
 マジカルスターは回転ではない自分自身の唸りがため息となって出ていくのを自覚した。

「ええと、いいですか、こころさん。わたしは……そう、『すごい』回転ができてその回転が生み出す『ハンパない』パワーでなんやかんやしてナイフをいっぱい引き寄せるので『実際ヤバい』、そんな感じです」
「なるほど、理論は把握できた。マジカルスターは回転するとすごいんだな。わかりやすい解説だったと我々は感心するほかない。大変よくできました!」
「……お役に立てて光栄ですよ」

 沈んだ場の空気に、呆れの浮ついた熱が入り混じり、一同の歩みは再び軽快さを取り戻した。
 やがて彼女達は延々と並ぶ木々の風景から抜け出し、澄んだ空の明るさを受け止めた。
 紅魔館はもう目の前にあった。湖を囲んでいた樹林地帯とは違い、紅魔館の一帯は薄らとしか雪が積もっていなかった。それでも一面がビロードのような白い光沢をキラキラと輝かせ、赤銅色にそびえ立つ洋館とのコントラストが際立っている。
 だが、マジカルスターはその素晴らしい光景の色彩を気にも留めなかった。鉄格子の巨大な門の前に立つ、一人の女性の姿が目に入ったからだ。

「……咲夜」
「来たわね、マジカルスター」

 普段通りの清潔な女中服に身を包み、肌を切るような寒風をものともせずに、十六夜咲夜が立っていた。





 4

「私がここにいることを不思議とは思わないでしょうね」

 向かってくる小傘達を見据え、咲夜は話しかけた。彼女は常と変らない含んだ笑みを浮かべ、澄んだ声を響かせる。

「道具の魔力は使用者の魔力。捨てたばかりのあなたへの供給パスは未だ完全に途切れていない。だから、その位置も把握できる。あなたがここへ戻ってきていることはすぐにわかったわ」
「咲夜、シルバーブレードは?」

 小傘の歩みに追随しながら、マジカルスターは咲夜にたずねた。
 咲夜が返答代わりに取り出したのは、針のように細い刀身を持つ短剣だった。その短剣からは青白い靄が立ち上っている。凍える空気の中で尚研ぎ澄まされた冷気のようなそれは、目をこらせば咲夜の手足の先にまで伸びていることがわかった。
 マジカルスターのヒウウンという回転を一層速めた。
 小傘はふと、胸のうちにかすかな焦燥が湧きあがったことを自覚した。マジカルスターの回転の唸りが、背を押すように高まり続け、両足は勇ましく咲夜へと向かっていく。

「あなたの護身具として警告します。それを捨ててください。シルバーブレードは害あるものです」
「今の私のオプションはシルバーブレードよ、あなたじゃあない。害というならそれはあなたのことでしょうね」
「その考え自体が、そいつに毒されている証拠なんですよ……それとも、咲夜」

 マジカルスターはヒュッと息を吸い込み、わずかに押し黙った。
 次に出そうとしている言葉が間違いであるという百パーセントの確信があった。だが、心はさらなる一パーセントを求めていた。

「あなた、あなたは、本当に、わたしを……?」
「自分の立場がわかっていないようね。もう一度言ってあげてもいいのよ。道具が捨てられる理由は一つ。つまり、シルバーブレードは優秀なの。そう――」

 距離を詰めていた小傘の歩みが、突然止まった。彼女の目前に何の前触れもなく幾本ものナイフの刃先が現れたからだ。
 並び立つナイフの群れは、死の鋭利さをもって小傘の体を硬直させていた。

「あなたよりもね」

 咲夜の声と同時に、ナイフが小傘に殺到する。
 呆然と立ち尽くす小傘の瞳に冷たい輝きが映りこむ。それは一呼吸の間もなく、彼女の視界を覆うように膨らんだ。
 小傘は目の眩む一瞬、周囲の空気がわずかに乱れるのを肌で感じ取った。かすかな金気が鼻先に触れたと思うと、目前に迫るナイフは甲高い叫びをあげて、空高くに舞い上がった。
 ハッとして小傘は飛んでいた意識を視界の中に定める。自分の周囲から無数のナイフの奔流が走っていることに遅れて気付いた。

「黄金螺旋を描いた『無限の回転』は――」

 マジカルスターから放出された大量のナイフが、弾かれて宙を泳いでいるナイフをさらに追撃し、それから空に溶け込むように消えた。咲夜のナイフは八方に散らされ、紅魔館を囲む壁の向こうや湖や樹林に落ちていった。

「何が起ころうと回り続ける。たとえ停止した時の中であろうと、わたしのナイフを止める術はない」
「お、おお……マ、マジカルスターちゃん。ありがとう、守ってくれて」
「だからどんなものからも守ると言ったでしょう? まあ、今のは挨拶代りといったところでしょうけどね。ナイフの配置の仕方とか易しめですし、普段よりも十二分に容赦してますよ」
「あの『ハローそしてグッドバイ(こんにちは、死ね!)』みたいな開幕即死攻撃で手加減してるの? どう控えめに見ても殺意の波動に目覚めきってるとしか思えない対応なんだけど。というか飛んでくるナイフ見て手加減してるってよくわかったね」
「わたしにかかれば、ナイフの投擲の仕方から機微を読み取ることくらい余裕です。ええ、なんといってもわたしは」

 マジカルスターは星のマークを咲夜へ向けた。

「あなたのオプションですから」
「……『捨てる』という行為は、過去の清算にはなり得ないわ」

 穏やかとも言える口調で、視線で、咲夜はマジカルスターに語り出した。

「過去は完全に断ち切ったつもりでも、目に見えない、取るに足らない糸のような細い繋がりを残してしまう。『未練』という糸をね。だけど、なにも恥じることはないわ。あなたのそれは一個の生き物として当然の反応だもの。物言わぬ物体に還ることを恐れるのはね」

 咲夜はシルバーブレードの刃先を向かってくる小傘達に、そしてマジカルスターに向けた。刃の切っ先が日の光を柔らかに裂いた。

「でも、ダメよ。今日ここで、あなたに繋がる一切の糸は断ち切られる。シルバーブレードにはそれが出来るわ。そして……忠告しましょう。そこまでよ」

 出し抜けに咲夜は言った。小傘達はそこで足を止めた。
 彼我の距離はおよそ五メートル。咲夜は腕を組んで、対峙する一同を眺めた。

「これはあなたへの最後の手向けよ。それでも向かってくるというなら、もう二度と会うことはなくなるわ。それほどまでに捨てられたという事実を認められないならね。ああ、でもそんなにお友達を連れて戻ってきてるし、ひょっとしてこれは報復のつもりかしら?」
「違います。わたしは『確かめる』ために戻ってきたんです」
「『確かめる』?」
「これからあなたのもとへ真っ直ぐに向かいます。その時、何が起こるのか? きっと何事も起こらないでしょう。それでいい。何も起こらないなら、全てに決着がつく」

 マジカルスターは宣言した通り、咲夜に近づこうとする。小傘の体もその考えに同調し、自然と足は前に踏み出そうとしていた。
 咲夜とこちらとを隔てたその空間に、二人は今まさに入り込もうとする。
 そこへ音もなく二人を追い抜くものがあった。その影は前に飛び出した途端、空中で弾かれたように雪面へと墜落した。

「我々のうちの一人がやられたようだな」

 真一文字の傷が深く刻まれたそれは、こころの面だった。面は再び独りでに浮き上がると、彼女の手元に戻っていった。

「だが、こいつは我々の中でも最弱! メイドの奴に企みの表情が見えたから斥候代わりに飛ばしたのに、よくわからないまま斬られてしまうとは面霊気の面汚しよ……面だけにね!」

 こころはいつもの大人しい顔つきで、しかし瞳を輝かせ、一同を意味ありげに見回した。
 返ってきたのは無言と冷淡の視線だけだった。目線をあちらこちらに何度も投げかけていたこころの額に、一筋の汗がツゥッと流れる。
 にわかにこころは咳払いをした。

「我々のうちの一人がやられたようだが、こいつは我々の中で最弱というわけではないし、そもそも我々に序列とかないし、ううんと、感情に順序をつけるのってどうかと思うし」
「なんで言い訳っぽくなってるの?」

 傷ついた面を慰めるように撫でるこころに、小傘はじとりと横目をやった。
 こころはそれをあかあらさまに無視して、何事もなかったかのように話を続ける。

「怒りが色濃くなっているぞ、マジカルスター。だが、我々がお前に求めるのは『希望』だ。望みを果たす以外の感情でエネルギーを消耗してるんじゃあないッ」
「……こころさん」
「運が良かったわね、マジカルスター」

 咲夜が涼しい顔で口を挟む。

「わかったかしら。これがシルバーブレードの『力』、あなたを遥かに凌駕する『能力』……それは、斬りつけたものの時間を限りなく『遅らせる』ことができる。斬られた物体には斬撃が込められ、何かと触れた瞬間にその衝撃は解放される。そして空気を斬れば、その空間には斬撃自体が停滞することになる。あなた達の前に広がるのは、不可視の刃の地雷原よ」
「よく、わかりましたよ。シルバーブレード」

 誇らしげに語る咲夜に、マジカルスターは落ち着いた口調で返した。

「『やはり』、あなただった。時を止めて投げられたナイフなら弾くことができる。だけど、仕組まれた回避不能の斬撃を浴びせようとしてきたなら、『やはり』だ。あなたは咲夜じゃない」
「何を、言っているのかしら?」

 咲夜は眉をひそめた。今までにない低い声がその口から這い出した。

「私が咲夜じゃないと? 自分が何を言ってるか理解しているの?」
「百一パーセントの確信をもって断言しましょう。そして、咲夜は自分の道具を傷つけるような人ではありません。喧嘩はしても、避けられない一手は決して打たなかった。決闘と同じようにね。わたしが先ほど口にした『確かめる』というのも、その対応を見定めるためだったんですよ」
「……つまり、あなたはこう言いたいわけ? 私は咲夜ではないし、自分は咲夜に捨てられたわけではないと? そうやって今度は捨てられたことの責任を私に押し付けるつもりかしら」
「無駄ですよ、シルバーブレード。そうやって恍けることに最早どれほどの意味があるのか、わからない訳ではないでしょう。わたしには『進むべき道』がある。あなたにも『信じる道』があるのでしょう。ですが、支えるべき主人を逆に利用することは『わたし達の道』ではありません。護身具として、あなたを咲夜から排除します」

 決意を示すマジカルスターに、咲夜は何の反応も示さなかった。
 どちらも身じろぐことすらせず、お互いの間を沈黙が埋めつつあった。
 その空気を切り裂くように、咲夜は唐突に口を開いた。

「『兎と亀』ってあるじゃない?」
「……は?」
「だからぁー、『兎と亀』よ。足の速い兎とのろまな亀が山のふもとまで競争をするっていうハ・ナ・シ。知ってるでしょ」
「何、どういう……何ですって?」

 マジカルスターは声音に戸惑いを隠せなかった。突然投げかけられた場違いな話が一体何を意味しているのか、まるで理解できなかった。
 相手の困惑を気にも留めず、咲夜は平然と話を続けた。

「あれのさぁ、ねえ、教訓ってなんだかわかる? 最後まで諦めない精神とか、努力し続ければ勝てるとか、そういう下らないカスみたいなことを言ってるんじゃあないの。兎が負けたのは、亀を徹底的に打ちのめすという『覚悟』がなかったからよ。ただ勝てばいいという惰弱の意志が、兎を敗北に追いやったの」

 徐々に、咲夜の笑みに変化が現れた。微笑みの意味するところが崩れていって、その裏にあったものが露呈される。
 獲物を前にした獣の、獰猛な笑み。

「優れたものは『勝ち方』にこそ拘らないといけないわ。ただ負かすんじゃない。敗北を骨身に刻ませてこそ勝者。再起不能にしてこそ強者。身も心も折って得られる完全な勝利こそ『あたし』にはふさわしいと、そう考えて目指したわけだけど……ふん、案外難しいものね」

 咲夜は、否、咲夜の肉体を巡るシルバーブレードは、気だるげな調子でそう言った。その声は咲夜のそれに違いなかったが、口調は本来のものとは異質の、幼げで負けん気の強いものだった。
 シルバーブレードは右手に持つ己が本体を振り動かしながら、一転して愉快そうに笑った。

「だけどあたしが勝利すること、それ自体はとぉってもカ・ン・タ・ン。さっきはそこの面霊気に邪魔されたけど、所詮はその程度。斬撃の地雷原を越えることもできない雑魚だものねぇ」
「何だとこのやろう! 我々は歌って踊れて背後からの一撃も取れちゃう暗黒能楽娘だぞ! 我々にかかればお前なんかボコボコのギッタンギッタンのケチョンケチョンのヌットヌトの……えー、なんだ、こう……痛い目見せてやるから覚悟しろ!」
「なんか語彙の息切れをすごい勢いで誤魔化してない? まっ、あんたがそう思うんならやってみればいいわ。でーもー、ちょっと考えれば無理だってわかるでしょお?」
「やってみる前から無理かどうかなんて、考えたってわかるわけないだろう! さては頭悪いな、お前。小傘はどう思う?」
「そこで私を巻き込もうとするのやめてよ」
「あっはぁ、お馬鹿さんにもわかるように言ってあげようか? たとえ斬撃の地雷原にダメージ覚悟で突っ込んでも、あたしは時を止めて消耗した斬撃を無限に再装填できるのよ。だから突っ切ろうとしても途中で力尽きるだけ。あんた達はあたしに近づくことすらできないわぁ」
「ほほう、面白い。その綺麗な顔を拳でゆっくりと打ち抜かれても同じことが言えるか試してやる。さあ、いけ小傘! 援護は任せろ!」
「威勢よく啖呵切っておきながらなんで人任せなの、こころちゃん」
「今ちょっとお腹痛くて。後で行けたら行くから」
「これ絶対来ないやつだ」

 背中にしがみ付くこころをそのままにして、小傘は呻いた。実際のところ、シルバーブレードに手を出すことが出来なかった。
 シルバーブレードの射程距離、停止時間の中で動ける距離は、忠告を信じるならば五メートル。こちらはそこから近づけず、そして向こうは斬撃の配置を知っているのだから、目の前の空間を掻い潜って迫ることだって出来る。
 いや、あえてだ。あえてその時を、シルバーブレードがこちらに仕掛けてくるその時に反撃を――小傘はその考えをすぐに打ち消した。
 時間停止に抗えるのがマジカルスターだけでは、自分達があっという間に切り伏せられるのは目に見えていた。そして自分達が倒れてしまえば、マジカルスターもオプションとしての力を失い、やはりシルバーブレードには敵わない。
 せめて時間停止を防ぐ、とまではいかずとも、何かしらの制限を加えられれば……。状況を打破するための手立てを探る小傘の意識は、そこまで考えたときに突然周囲に向けられた。
 なにか、妙な音が聞こえていた。風の唸りでもなく、雪を踏み固める音でもなかった。
 意識すればするほど、音は迫るように明確な輪郭を見せた。もっと力強い打撃のような、小刻みに響く音が辺りを漂っている。
 小傘は左右を見回す。遠くに鬱蒼とした樹林があり、日の光に輝く湖がある。他にはなにもない。
 首を仰ぐと、朝の陽射しの向こうに青空が映える。
 それから――小傘は振り返った。数メートル先の離れたところに雷鼓がいた。赤髪を潮のように波打たせ、雪上でドラムを叩いている。

「なんでこの場面で演奏してるの!?」

 小傘の叫びが、演奏に重なった。
 雷神の背負う太鼓のような六角の板が、彼女の周囲に何枚も浮かんでいる。彼女はそれをドラムスティックで華麗に打ち鳴らした。

「戦いと言えば、ふふ、やはり戦闘楽曲の出番でしょう? 任せてちょうだい。あなた達の戦いを最高潮へと導いてあげるわ」
「いや、そういうのいいからこっちを手伝ってよ!」
「ああ、いい、実にいいわ、小傘。あなたの感情楽曲と私のビートが交差する! とてもいい! コン・フオーコ(火のように生き生きと)いい! これこそが私の『使命』! 最高のリズムに乗せて、場を盛り上げてみせる! さあ、存分に戦いなさい!」

 うっとりとした表情を浮かべ、雷鼓は演奏を続けた。
 小傘がそのまま様子を見ても、演奏を止めようという素振りは一切なかった。

「ああ、もう! 雷鼓ちゃん、今はそんな演奏なんてやってる場合じゃないんだよ! 場を盛り上げるなんていいから、早くこっちに来て――」

 言いかけて、小傘は押し黙った。またしても別の、なにか異様な音が聞こえていた。
 音のする方に向き直ると、そこには変わらず門前に立つシルバーブレードがいた。だが、先ほどとはまるで様子が違う。
 シルバーブレードの表情は、余裕に満ちた嫌らしい笑みなど名残りも見出せず、苦悶の喘ぎに満ちていた。小さな汗の珠がぽつぽつと芽吹き、顔に浮かぶ苦痛を吸い取るようにして、その実りを豊かにしていた。
 呼吸を乱しながら、シルバーブレードは目を細めた。その瞳の先は小傘達を通り過ぎ、演奏を続ける雷鼓を捉えている。

「これは、まさか……ちょっとあんた、和太鼓のぉ! その鬱陶しい音……吐き気がするわ……! この体に、何したって、いうのよぉッ!」

 その這うような声は、しかし遠くにいる雷鼓にも届いていた。
 だが雷鼓は演奏の手を止めなかった。

「すでに、何度も言っている。そして何千回でも言いましょう。楽器とはいつだって聞かれたら音色を返すものよ。だから公正(フェア)に答えるわ。リズムに乗せたと」

 雷鼓は白い歯を覗かせた。雪よりもなお眩い、純正の輝きがそこにはあった。

「リズムに乗せた、そう言ったわ。船乗りが労作歌に揺られて綱を引くように……鉱夫が炭坑節に任せてどこまでも穴を掘り進むように……あらゆる肉体は生きている限り、リズムを奏でずにはいられない。呼吸の間隔、筋肉の収縮、血液の脈動、生命の譜面を飾る『原始のビート』は常に放射されているわ。そして、全てのリズムはこの『原始のビート』を基本としている……それは生物の本能からか? それとも太古の智慧なのか? 人々の生きる場にはいつだって音楽があった。奏でる音のリズムが肉体のパワーを増幅させる、そのことを知っているからよ」
「……耳が悪いの? それとも頭ぁ? あたしはね、何をしたのかって聞いてるのよ! そのニヤケ面を賽の目に刻まれたくなかったら、うぐ、さっさと、答えなさいよッ!」
「やれやれだわ。楽曲は耳を通して心で食むもの。少しは自分で噛みしめることを覚えるべきね……それでも、望まれたのだから続けましょう。あなたのその体はメイドさんのもの。人間のスペックを逸脱することは出来やしない。そして人は常に原始のビートを刻んでいる。つまり、『心臓の拍動』よ」

 シルバーブレードは胸をかき抱くように拳で押さえた。その脈動の激しさが肌を通じて、一つの理解に追いついた。

「あなたの質問に答えてあげるわ、シルバーブレード。私はあなたの『心臓の鼓動』をリズムに乗せた。今、メイドさんの体の心拍数は常に二百を超えている。全力疾走を維持し続けるその体で、時間停止の精細なコントロールが果たして出来るのかしらね」
「ぐっ、が……この、たかが楽器の分際でこのあたしを……うぐぐ、このッ、クソ女(アマ)があッ!」
「下品な響きね。率直に評価して、あなたの感情楽曲は『良くない』……いえ、『ダメ』ね、『まったくダメ』。不愉快なまでに鬱陶しいわ。だから、私達のビートでかき消してやらなくちゃあね」

 小刻みなドラムの音はさらに勢いを増して、シルバーブレードに迫った。
 シルバーブレードは血走った眼を雷鼓に向けた。雷鼓はその視線を無視して、小傘達に笑いかけた。降り注ぐ陽射しのように柔らかな笑みだった。

「小傘、そしてマジカルスター。すでに私は言ったわ。存分に戦いなさいと。あなた達は思いのままに振る舞えるはずよ」
「ご、ごめんね、雷鼓ちゃん! さっきはあんなこと言って……」
「いいのよ、小傘。あなたの言葉はいつだって正しさを背負っている。結局、私は『場を盛り上げる』、それだけしか出来ないのよ。だから、私は私のやり方であなた達を見届ける。あなた達の感情楽曲の果てをどうか見届けさせて頂戴。それと、こころ!」
「わあ! な、な、なに! なんだよぉ、我々の腹痛はまだなおるのに時間が……」
「しっかりなさいよ。そいつのこと、ボコボコにしてやるんでしょ? カッコイイところ、見せてよね」
「……つまり、我々の名演が見たいと? よ、ようし、こころ得た! 雷鼓がそこまで言うならな、仕方ないな! やってやる、やってやるぞ!」
「いいわね、こころ。すごくいい。あなたの感情楽曲、真っ直ぐにどこまでも伸びていく音色がとても素敵……私はね、それを聞いていたいのよ」

 小傘とこころは改めて、シルバーブレードに向き直った。マジカルスターは小傘の正面に構え、すでに凄まじい速度で回転している。
 シルバーブレードは浅い呼吸のまま、金属のような笑い声をあげた。

「だから……なんだって言うのよ。変わらないわねぇ、何も変わらない。確かにこんな疲弊した体じゃあ、『咲夜の世界』も一呼吸だって保てない。斬撃の再装填もほとんど出来ない……それでもよ。それでも尚、あんた達の力はあたしの足元にも及ばない! 依然、あたしの勝利は揺るがないわぁ!」
「それは、やってみればわかることです」

 マジカルスターが落ち着いた声を響かせた。小傘とこころは視線を交わし、そして頷き合った。
 一瞬の静寂が辺りを囲った。
 硬い雪面を勢いよく蹴って、小傘はひたすら前に、斬撃の空間へと駆け出した。

「我々よ、先行しろ!」

 駆ける小傘達の前方に躍り出たこころは、全ての己自身を放出した。様々な感情を司る面が、シルバーブレードの斬撃の空間を揺らめかせ、震わせ、押し寄せる。
 シルバーブレードの顔がギッと歪んだ。

「面霊気! こいつら分身を犠牲にして、あたしの斬撃の地雷原を根こそぎ削り取るつもりぃ!?」
「ふふん、分身だと? バカめ、それは全部本体だ! だが、我々は最後の一人になろうとお前の斬撃を撃ち落とすのを止めはしない。援護する、小傘にはそう言ったからな。武士に二言はない!」
「こころちゃん、いつから武士になったの? 女優じゃなかったの?」
「武士は副業だ。我々は歌って踊れて無礼討ちもしちゃう暗黒能楽娘だからね!」
「それ、ただの通り魔の凶行だから」

 敵の射程距離内でありながら、こころと小傘は呑気なやり取りをしてみせた。しかし、そこには楽観や油断はなく、覚悟から来る一種のふてぶてしさのようなものがあった。露払いを務めるこころを追う小傘とマジカルスターは、先導する彼女の華奢な背がこの茨の道を切り拓くのだと理解していた。
 こころがやると言ってみせた。ならば、自分達の取るべき態度は不安ではなく、信頼だけだ――小傘とマジカルスターは僅かな恐れも抱かず、斬撃の地雷原をひた走った。
 不可視の斬撃に体当たりするこころの面が、次々と撃ち落されていく。こころ自身も取り出した薙刀を無暗に振り回し、面と共に突き進む。だが、見えない刃を躱しきれず、彼女の全身は徐々に傷跡を増やしていく。
 左肩から血が滴り、こころは右腕の腕力だけで薙刀を大きく薙いだ。さらに踏み込むと右膝に鋭い切傷が走り、こころは転がるように倒れ込んだ。雪上がじわりと、赤黒く染まった。

「ここまで、か。だが……これでいい。我々の役目はここを『突破させる』こと、我々が到達する必要はない。行けッ、小傘、マジカルスター。我々の屍を越えて行け!」
「こころちゃん、死んでないでしょ! ……死なないよね?」
「もちろんだとも。一度は言ってみたい台詞だからカッコつけてみただけだよ! ……だからこっちのことは考えるな。目の前のことだけに心を向けろ」

 蹲りながらも気丈に振る舞うこころを追い越して、小傘は唇を引き結んだ。
 こころの助力により、小傘とマジカルスターは斬撃の空間を無傷で乗り越える。シルバーブレードはもう目前だった。

「カビ臭い化け傘の分際でぇ……あたしに刃向うその愚かさを! 肉の一片になるまで刻みつけてやるわぁ!」

 掠れた声でシルバーブレードは宣告した。そして、己自身を持つ右腕を振り上げる。挙動の一つ一つに疲労の気配が漂っていた。

「よし行くよ。マジカルスターちゃん」
「ええ、どこまでも。小傘さん」

 小傘はシルバーブレードに向かって自身の傘を勢いよく開いた。シルバーブレードの刃が、振り上げられたまま硬直する。
 傘は開かれたまま宙に放り投げられ、シルバーブレードの視界が開ける。そこに小傘とマジカルスターの姿はもうなかった。
 刃先が一瞬を逡巡する。そのとき、ザッと雪の踏み固める微かな音をシルバーブレードは捉えた。
 左側――彼女はそこへ凶刃を振り下ろす。
 次の瞬間、刃自身であるシルバーブレードの全身を、柔らかな抵抗から始まり深々と刺さる感触が突き抜けた。小傘の肉体に刀身が沈む、その鮮明な幻がシルバーブレードの脳裏を過ぎった。

「ア・タ・リィィィ!」

 シルバーブレードは勝鬨を上げ、視点は己自身の刃先へと即座に定まった。
 そこに崩れるように座り込む小傘がいた。その顔色は伏せられ、見て取れない。そしてシルバーブレードの刃が、その胸元に深々と沈んでいた。
 勝利の光景に、シルバーブレードの唇はめくれ、歯をむき出しにかかった。
 ところが、その口元は弧を描いたと思うと再び硬く閉じられる。あるべきもののないことが、シルバーブレードの胸中に棘のように引っかかった。
 何故、汚れてないの? 刀身がこれだけ深く刺さっているのに、出血がない――小傘の両肩を覆うように巻かれたケープを、シルバーブレードの刃は確かに貫いていた。だが、鮮やかな水色の布地には黒々とした染みの一点も見当たらなかった。
 シルバーブレードは刃を引き抜こうとして、力を込めた。途端にナイフを握りしめた手が硬くなった。
 ある事実が、次第に胸を重く圧迫し始めたのをシルバーブレードは感じた。いくら力を込めようと、刀身がピクリとも動かなかったのだ。
 ふいに流れ込んだ寒風がケープをめくり上げたとき、伏せられていた小傘の顔が、シルバーブレードを見上げる形で明かされた。振り仰ぐその表情は、ベッと真っ赤な舌を見せていた。

「ハ・ズ・レ」
「まさか、これは……この感覚は……!」

 シルバーブレードは内側からの寒気がせり上がるのを感じた。風で捲られた小傘のケープの下に、刃先の正体を覗いたのだ。
 小傘は自分の胸元に仕込まれたそれをケープから取り出した。凶刃を深々と受け入れながら、小傘の肌には決して届かせなかったそれに、千四百二十八ページの厚さを誇るダウンページに、シルバーブレードの本体が刺さったまま掲げられた。

「ダウンページは護身用の鈍器だけど、当然その厚さは装甲としても扱える。そして、『捕えた』。この分厚い本に思い切り突き刺したんだもの、簡単には抜けられないよ……マジカルスターちゃん!」

 小傘が叫ぶと同時に、フッと影がシルバーブレードを覆った。理解が稲妻のように彼女の胸中を走った。
 とっさにシルバーブレードは時間を停止させた。視界は鈍色に霞み、全てが引き伸ばされた空間に変異する。
 しかし、宙を舞う小傘の茄子紺の傘に装備されたマジカルスターの回転速度は、すでに最高点に達していた。

「咲夜の体は傷つけない……狙うはシルバーブレード、本体のみ!」

 マジカルスターの陰にゾロリと控えるナイフの群れが、シルバーブレードの刀身に突き刺さり、そして打ち砕くのを今か今かと待ち焦がれるように光った。シルバーブレードに向けられた刃先の壁は、もう一斉に解き放たれていた。
 座り込む小傘に掲げられたダウンページ、そこに突き刺さった己自身をシルバーブレードは右手で掴んだままだが、未だに抜ける気配を見せなかった。
 頭上から降り注ぐナイフの雨が、シルバーブレードの本体に迫っていた。
 最早シルバーブレードに逃げ道はない。一手、こちらが上回った……これで勝利――マジカルスターはそう確信した。
 そのときだった。
 シルバーブレードは本体を握っている方とは反対の左腕を、ナイフの雨を遮るように割って入らせた。その指先が、照準を定めるかのようにマジカルスターへ向けられる。

「『一手』……先を行ったのは、あんたじゃあないわぁ」

 シルバーブレードの声が聞こえたとき、マジカルスターの視界は突如として塞がれた。
 射出したナイフの群れ、その先頭を行く一本の刃先にシルバーブレードの左手が触れた瞬間、爆発したかのように鮮血が飛散した。同時に血飛沫が不可視の斬撃のようにシルバーブレードのナイフを次々と弾き返す。
 マジカルスターの球体がべっとりと血液に塗れる。視界を奪われた彼女の回転は乱れ、その僅かな空白の間、無防備となった。
 そして、時は再び動き出す。
 シルバーブレードは全身を反るようにして勢いよく飛びかかり、マジカルスターに肉薄した。すでに彼女は小傘を蹴り飛ばし、ダウンページごと本体を手中に収めていたが、構えているのは己自身の本体ではない、別の手持ちのナイフだった。
 マジカルスターは回転によって付着した血液を振り払ったが、彼女の視界が開けた直後、その球体に衝撃が走った。弾かれたようにマジカルスターは転がり落ち、起き上がった小傘の傍で、力尽きたかのように止まった。
 シルバーブレードはダウンページを雪上に落とし、足で押さえると、己自身をゆっくりと引き抜いた。

「斬りつけた物体に斬撃を込める……すでに、十六夜咲夜の左腕を『あたし自身』によって切り刻んでおいた。左腕はナイフを弾く盾、そして血の目つぶしを兼ねていたのよ……『一手』、あたしが上を行ったようね」

 シルバーブレードは苦痛にあえぐ表情の端々にこみ上げる愉悦を浮かべていた。雷鼓の演奏によって激しく脈動する体が、ダラリと垂れた左腕の出血を凄まじい勢いにしている。それでも尚、笑みは消えなかった。
 小傘は蹴られた腹部を抑えて立ち上がった。鮮血が雨のように辺り一面を打っていた。雪上が赤黒く染まっていて、その中心にシルバーブレードが、呼吸を荒々しく乱しながらも立っている。

「そして、勝った……勝利者はあたしよ、マジカルスター。あんたの上を行った! このあたしがッ!」

 遅れて小傘は足元に転がっていたマジカルスターに気付いた。両手で掬うように拾い上げると、その美しく磨かれていた表面に、一本の深い筋が痛々しく刻まれているのがわかった。

「これは……マジカルスターちゃん、しっかりして!」
「無駄よ、化け傘。すでに勝敗は決したわぁ。決着はもう覆せない、あんた達のうちの誰にもね」

 シルバーブレードは小傘とマジカルスターを見下ろす気持ちで眺めた。その瞳は死命の場を制した興奮のために、妖しく輝いていた。シルバーブレードは愉快そうな目つきでそのまま周囲を見渡した。
 視線は痛みに蹲るこころと、焦燥の色を漂わせながらも演奏を続ける雷鼓に順に向けられた。シルバーブレードは満足そうに目を細め、再度表情を失ったような顔をした小傘と、その手に乗せられたマジカルスターを見た。マジカルスターの球体に刻まれた一筋の鋭い傷跡を見ていると、笑みはどこまでも深まるようで、その感覚がシルバーブレードの舌を滑らかにした。

「マジカルスターは最早、無力。道具として死んだも同然。あたしの時間停止に対抗する術を失った今、あんた達の敗北は決したわ」
「そんな、そんなの……一度斬られたくらいで、マジカルスターちゃんが簡単にやられちゃうわけが……」
「間違ってるわぁ、化け傘。一撃、ただそれさえあればいいのよ。時間停止を越える『無限の回転』、そのパワーは正確に黄金螺旋を描くための完全な回転でなくてはならない。『真球』の回転でなくちゃあね。だけど、あたしが斬りつけた。一筋であろうと、傷跡の線はすでに刻まれているッ! ねえ、この意味がわからないの?」

 出血による苦悶すら嘲りに変え、シルバーブレードは愉快でたまらないといった調子で言葉を継いだ。

「僅かであろうとマジカルスターの体は削られ、『楕円』になった。もう『真球』の完全な回転は出来ない……『楕円球』よ! 不完全ッ! マジカルスター、あんたは『楕円球』になったのよ。回転が出来なければ、オプションの役目も果たせないわぁ。クッ、道具失格といったところね、それはもうただの物体でしかない」
「なにをッ……違うよ、ちょっと形が変わったくらいでそれがなんだって言うの!? マジカルスターちゃんは立派な護身具だよ!」

 小傘は険しい顔つきで言い返した。
 シルバーブレードはなにか珍しいものを見るように小傘を眺めた。

「ふうん。そうか、化け傘、あんたも一緒なのね。傘として捨てられ、妖怪として驚かせることも出来ずにいるんだもの。だから、何もわかってない」
「わかってない? 何が――」
「全て道具には、『使命』がある。果たすべき、生まれ持った役割がね。道具は『使』われてこその『命』、役目を失えばただのゴミよ。備わった機能を誇ってこそ、あたし達の精神は満たされる。自分の価値がどれほどあるのか? 充足の根源はそこにあるのよ。マジカルスターはオプションの機能を果たせない。あの面霊気は自身である面を自ら傷つけ、役割を放棄した。和太鼓のクソッタレは不愉快極まる音をまき散らすばかり。そして、あんた……化け傘、あんた達は無価値なのよ。それが欠片もわかってない」

 言って、シルバーブレードは自身の本体を小傘に向けた。血の滲んだ雪面に変わらず降り注ぐ陽射しを受けて、その刀身は己の存在を声高に叫ぶように鋭く光っている。
小傘は向けられた刃先から目を逸らさなかった。刀身のその冷たい輝きに、不純の、偽りの眩しさを感じていた。

「あなたは……ねえ、元からある役目だけが私達の全部なの? 傘として使ってもらえないのなら……なにか別のことで、自分から役に立つ道具になればいいって、私はそう思ってるよ」
「なぁにそれ、馬ッ鹿じゃないの? 道具の『正しさ』は与えられた役割を全うすること、それだけよ。自らすり替えることじゃないわぁ。あんたは踏み外しているのよ、化け傘。あたし達の進むべき道をね」
「……本当に? あなたは、真実からそう思ってはいないんじゃないの?」
「ハァ?」
「使われたいって、役立ちたいって思っているなら、心からそう願っているなら……持ち主を傷つけるなんて真似は絶対にしないよ」

 小傘の両の瞳は、相対するシルバーブレードではなく、咲夜のズタズタに傷つけられた左腕を映していた。重力のままに垂れた左腕からは、赤い滴がポツポツと絶え間なく零れ、雨垂れのように雪上を穿っている。

「使ってくれる人がいてくれると、嬉しいよ。誰かの役に立てると祝福されているって気持ちが湧いてくるの。だから、私は人間に寄り添ってあげたいと思ってる。みんなもきっとそう。でも、あなたは違う。使われるために、持ち主を『使ってる』……そんなの、間違ってるよ。私達のやるべきことじゃないッ」
「言ってくれるわね……何も出来ない、使命を遂げようともしない、欠陥品の分際で。あたしはあたし自身の有用性を示しているわぁ。道具がこの世に残せるのは『成果』だけよ……その道が流される血で舗装されようとね。使命を果たすためならば、それは必要な犠牲なの」
「あなたの使命なんて、ただの言い訳だよッ。あなたは怖がりなだけなんだ。使われなかったら、捨てられたらって気持ちに振り回されて、信頼に応えることから逃げてるだけだ!」

 小傘の断言するような言葉に、シルバーブレードは笑みを浮かべたままだった。しかし、それは愉悦的な柔らかさによるものではなく、ない交ぜになった感情が反発し合っているような歪みの笑いだった。
シルバーブレードは己自身を右手の中で弄びながら、小傘を見据える。切り裂くような冷たい眼差しは、そのまま彼女の殺意を明らかにしていた。

「マジカルスターと同じように、物言わぬ物体の彼方へ送り込んでほしいようね。化け傘、そして面霊気、和太鼓も……あんた達全員で! 使命を至上としないあんた達は道具じゃあない。あたしこそが真正の道具、使命遂行の体現者! この身の生まれ持った役目に従い、あんた達を切り刻んであげるわッ! 十六夜咲夜のオプションであるこのあたしがッ!」
「いいえ。やはり……あなたは咲夜の護身具ではありません」

 突然飛び込んできたその声に、小傘はハッとして手元に意識を向けた。
 持っていたはずのマジカルスターの姿がそこにはなかった。小傘は慌てて顔を上げると、シルバーブレードの視線が自分を越えて背後へと注がれていることに気づいた。
 小傘が振り返ると、そこに背丈の小さな少女の姿をしたマジカルスターがいた。咲夜と揃いの女中服を身に纏い、右の頬には涙の筋のように大きな切傷が深く走っていた。その顔は丁度咲夜を幼くしたもので、マジカルスターの中でひっそりと閉じられていた思いが、花開いたばかりのように瑞々しかった。

「……マジカルスターちゃん?」
「ふふん、やっぱりわかってしまいますか、小傘さん。まあ、あまりの目映さに見た者は膝を折って祈りを捧げずにいられないレベルで愛らしい姿ですからねー。美の化身であるわたしだと? わからずにはいられない? みたいな? 感じですかねー!」
「声が一緒だからって言おうと思ったけど、この隠しきれないウザったさは間違いなくマジカルスターちゃんだね」
「ははは、こやつめ」
「いや、冗談とかじゃないから。というか人化できたんだね。ずっと球体のままだからできないのかと思ってたよ」
「回転出来なくなるので、人化はわたしにとって必要のない形体だと思ってましたけどね……今、初めて意味を持ちましたよ。シルバーブレード、あなたをブチのめすという意味をね」

 マジカルスターは小傘を庇うようにして、前へと進み出た。

「シルバーブレード、あなたの言う『使命』とは、自分の都合のために振りかざす、薄っぺらなお題目に過ぎません。意思を得て、しかしいつかの終わりがあることを、再び物言わぬ道具に還るかもしれない恐怖を克服できず、周囲に喚き散らすための方便でしかない。そんなあなたに、護身具のただ一つの『使命』は務まりません」
「……もう一度、切り裂かれないとわからないのかしら、マジカルスター。すでに戦う機能を失ったあんたが、このあたしを否定するって言うの? 咲夜の世界に対して無力となったあんたがァ?」

 マジカルスターはシルバーブレードの問いには答えず、小傘に手を差し出した。
 その手の求める先が、小傘にはどうしてかすぐにわかった。
 それはごく短い間とはいえ、使い魔と主人の信頼を結んでいたからか、それとも――小傘は懐からそれを取り出し、マジカルスターに手渡した。家を出るときにダウンページと一緒に持ってきた防犯グッズである、防犯コダマを。

「山彦の声を封じるために、防犯コダマは完全な球形にしているそうですよ。真球はここに『もう一つ』ある」
「……この、死に損ないのカスがッ! どうしてもあたしにトドメを刺してほしいわけェ!?」
「一投……それで全てが終わる。決着をつけましょう、シルバーブレード」

 マジカルスターは一歩を踏み出した。
 それに合わせるように、シルバーブレードはジリジリと間をあけた。右手が構える己自身の刃先は、握る力のあまりに定まらずにいた。
 マジカルスターはシルバーブレードをそれ以上追わず、小傘とこころに目配せをして、最後に演奏を続ける雷鼓を肩ごしに一瞥した。マジカルスターが視線を戻したとき、シルバーブレードの怒号が襲った。

「わかってるの? すでに、それ以上に勝敗は決しているということを。あんたは咲夜のオプションを名乗りながら、今まさにあたしの、咲夜の体を害そうとしているのよ。オプションの力は守りの力、それを裏切ったあんたに残されるものは何もない! 力も、意思も、存在さえも! この体に立ち向かった時点で、あんたはオプションとして失格なのよ……この、恥知らずが!」

 シルバーブレードの憎悪に揺れる瞳の奥から、粘りつくような視線がマジカルスターに送られる。
 マジカルスターは顔を背けることなく、悪鬼の眼光をただ静かに受け止めた。

「否定はしません。わたしはあなたを倒すその過程で、咲夜を傷つけるかもしれないことを受け入れています。確かに、わたしは道具失格。あなたの言うとおり、恥知らずの護身具です……それでも、わたしは『使命』から逃げません。わたしの望みは『咲夜を守ること』。そのためであれば、咲夜のためならば――どうなっても構わない。わたしは『咲夜のもの』ですから」
「……理解したわ。その愚かさのためにもう一度切り裂かれたいというのなら……マジカルスターッ、望み通り再起不能にしてあげる! あんたに刻んだその傷は、道具と物体を分かつ意思の『線』! そしてこれから斬りつける傷こそがッ! あたしの到達すべき使命の『線』ッ! このあたしが! 何よりも優れていることを示す証の『線』よッ!」

 シルバーブレードは冷たくなった左腕をそのままに、右腕だけで構えた。すでに彼女は時間を停止させ、斬撃の空間を自身の周囲に作り出していた。雷鼓による心拍の縛めのため、射程距離は一メートルにも満たなかったが、その脅威は健在だった。
 防犯コダマの感触を確かめるように、マジカルスターは右手にその硬さを味わわせた。

「ここから先は……弾幕ごっこで言うところの『一手』ですね。声ならぬ言葉を交わすスペルカード戦と同様、相手の思惑を乗り越えた『一手』を差した者が勝利者となる……最後の会話となるのでしょう。そしてシルバーブレード、あなたともね」

 グラリと体が前に傾いたかと思おうと、マジカルスターはその姿勢のまま猛然と走り出した。示し合わせたように小傘とこころも同時に走り出し、三人は一斉にシルバーブレードへと押し寄せた。
 シルバーブレードはその場から動かず、迫り来る三人の挙動を見極めるように瞳を追わせた。
 マジカルスターは直線の軌道からやがて逸れるように走り、シルバーブレードの右側を陣取るようにして間をあけた。小傘は一度飛翔し、自身の傘を開いて滑空するように迫った。
 シルバーブレードはそれらの動きを一瞥し、その焦点を最も間近にいる一人に定めた。

「刻まれ足りないようね……面霊気ッ。斬撃の、おかわりをあげるわぁ!」
「遠慮しておこう。我々は三杯目をそっと出さずに自分でよそう謙虚さを持っている!」

 傷を庇いながら低い姿勢で向かってくるこころに、シルバーブレードは己自身を一度後ろ手にしまうと、数本の別のナイフを取り出した。彼女は投擲する構えを見せたかと思うと、いつの間にか右腕を振り抜いていて、こころの眼前にはすでにナイフが迫っていた。
 こころは一旦足を溜め、ナイフとナイフの隙間を見極めた。踊るようにシルバーブレードの弾幕をすり抜け、ナイフの横を通り過ぎようとする。
 そのとき、こころの耳元にヒュッと空気の裂ける音が滑り込んだ。右耳に寒気が走ったとき、こころは横鬢が削がれていることに気づき、そこから灼けるような痛みが湧き出すのを自覚した。

「馬鹿なッ、これは……避けた、はず」

 無表情に、しかしその大きな瞳には困惑の色を浮かべ、こころは縺れるように倒れ込んだ。
 雪面に血がじわりと滲んでいく様を、シルバーブレードは目を細めて見下ろした。

「投擲したとき……すでにナイフをあたし自身によって斬っておいた。たとえ避けたつもりだろうとその長い髪にかすりでもすれば、ナイフに込められた斬撃が自動であんたを追撃する! あたしの弾幕はグレイズを克服しているのよッ!」
「こころちゃん!」
「そして化け傘、悲しむ必要はないわぁ。あんたもすぐに地に伏すんだからね……見捨てられた道具のようにッ! 路傍の果てに朽ちていけッ!」

 シルバーブレードは再びナイフを数本取り出すや、上空にいる小傘へと投げつけた。
 迫るナイフを前にして、小傘は傘を折りたたむと、それを振りかぶるような身構えを見せた。ナイフが目前にまで飛びかかったとき、小傘はまとめて打ち返すように、硬く握りしめた傘を大きく横に薙いだ。ナイフは宙に踊り、何本かは咲夜へと落ちていったが、空間に仕込まれた斬撃がそれらを軽々と弾き飛ばした。
 斬られた、と小傘は思った。ナイフ自体は弾いても、それに込められた斬撃は躱しようがなかった。小傘の傘は、茄子紺の傘布が無残にも引き裂かれ、軸の骨にまでその傷は及んでいた。折れていないことが不思議なくらいだった。
 傘を抉った鋭い傷跡は小傘にも繋がっていた。肉体それ自体に傷はなくとも、皮膚の裏側を灼熱が走るように、鮮烈な痛みが体の内から浮上していた。

「皆が心を決めている……私の覚悟は何を果たすの?」

 小傘は自分に言い聞かせるように呟いた。

「こうして痛みに耐えることじゃない。私に出来ることは勿論一つ……『驚かせる』、それが助けになるのなら」

 小傘は傘を抱き抱えると、そこから凄まじい勢いで落下した。降り注ぐ雨粒が大地を穿つように、その視線は足元にいる相手を鋭く刺し貫いた。
 向かってくる小傘を仰ぎ、シルバーブレードは嘲るように叫んだ。

「斬られに来たってわけね……化け傘ッ。その愚かな行為ごと、あたしを囲む斬撃があんたを噛み砕いて飲み込むわぁ!」

 小傘は応えず、そのままシルバーブレードの射程距離内に入り込んだ。
 空間に仕掛けられた不可視の一閃が、次の瞬間にも放たれ、小傘の白い肌を花開くようにぱっくりと割き、そこから赤黒い肉の湿り気が覗く光景を、シルバーブレードは夢想していた。
 その一瞬を見逃すまいと、シルバーブレードは小傘の姿を目で追い続ける。眼光は陰惨の色を帯びて、鈍い輝きを放っていた。だが、彼女の瞳は間もなく、その色合いを変えていった。困惑と疑念へと。
 それというのも、小傘が空間内に仕掛けられた斬撃を避けていたからだった。彼女は身を捩りながら手足を縮め、まるで斬撃の隙間が見えているかのように潜り抜け、シルバーブレードへと迫っていく。

「さっきのナイフの弾幕……あなたのところから何事もなく飛んできたということは、その『軌道』にはつまり斬撃を仕掛けていない。空間に潜む斬撃は見えなくても……あなたの弾幕が私にッ、進むべき道を教えてくれたよッ!」

 引く波が打ち返すように、小傘の体が眼前にまで一気に膨らむのを見て、シルバーブレードは反射的に右手にある切っ先を走らせた。
 シルバーブレードの目前に着地した小傘は、落下の衝撃から回避を取れず、その頬を鋭く裂かれた。血飛沫が飛散し、小傘は背けるように顔を伏せた。しかし、その動作は怯みや怯えのためではなかった。

「右の頬を打たれたら……左の頬で『驚かせる』」

 それは覚悟からの行動だった。すでに決断を済ませ、自身の選択にその全てを賭ける、決意の心の表れだった。
 シルバーブレードは反射による一撃から意識を覚ますと、トドメとなる二撃目を放つべく瞬時に狙いを定めた。
 その首筋に斬りつけて、あんたの命を抉り取る――シルバーブレードの粘りつく視線が、小傘の白い首に注がれる。その殺意が短い叫びとなって迸ったとき、小傘は突然、伏せていた顔をシルバーブレードに明かした。

「うらめしや――『驚け』」

 小傘は真っ赤な舌をべろりと晒し、低い声で囁いた。
 このとき、シルバーブレードが思わず息を呑み、驚愕を露わにしたのは、秒にも満たない僅かな時間に過ぎなかった。だがそれは、彼女がどれだけ微かであろうと小傘の異形の視線に慄いた事実を示していた。
 見上げる小傘の瞳は、普段となんら変わりない、赤と青の色合いをしていた。しかしその赤色の目玉は、収まっているはずの眼孔にはなかった。小傘の左目は底のない穴の様相を成し、ねっとりとした暗闇が眼窩の淵にまで広がっている。
 そして小傘の見せる舌の上に、左目の眼球が転がっていた。唾液にてらてらと塗れ、真っ赤な舌の上で尚赤く輝くその瞳は、冒涜の光を携え、シルバーブレードを照らしている。
 ――でも、こんなものは所詮子供騙し……そしてあたしを驚かせた、それが何だって言うの?
 シルバーブレードの思考がそう問い質したとき、彼女はある違和感に気付かされた。
 驚愕に襲われたときに全身を走った硬直が、未だに彼女の体を巡っていた。それは不意を突かれたばかりに起きた生理的な反応に過ぎないはずだった。だが実際に、硬直は解けておらず、シルバーブレードの胸のうちに得体の知れない不安がざわりと通った。

「お返しだ……先ほどの、おかわりとやらのな」

 足元から湧き出したように、その声は突然シルバーブレードの耳に滑り込んだ。
 シルバーブレードの視界の端には、いつの間にか間近にまで這いずっていたこころが映っていた。蹲りながらも手を伸ばすこころの指は、シルバーブレードの爪先に届いていた。
 血の赤いぬめりがこころの髪を濡らし、そこに付けられた獅子口の面が、歯を剥き出してシルバーブレードをじとりと見上げていた。

「これが『驚き』の表情……学ばせてやるッ。お前の心に、我々の感情を『伝染』させた!」
「そしてすでに、私のリズムがそれに続いているわ」

 こころの言葉を継いだのは、演奏を続ける雷鼓だった。その演奏のリズムは今までの、シルバーブレードの心拍を増大させるものとは違っていた。

「シルバーブレード、あなたの『驚き』をリズムに乗せた。心の水面は小傘の『驚かし』、その渾身の一投によって小さくとも波立った……私のビートとこころの面が、その心の波を際限なく『増幅』させる!」

 足元に蹲るこころと雷鼓の演奏、そして小傘の青と赤の瞳が、シルバーブレードの中で結びついた。膨大に膨らんだ驚愕の強張りに、手足の感覚は遠のくばかりで、思考だけが凄まじい速度で回り続ける。
 そこへよく通る声が響いた。

「シルバーブレード」

 マジカルスターは相手の名を呼んだ。彼女は防犯コダマを握りしめ、すでに投球の態勢に入っていた。

「これからあなたに出来ること……それは『受け入れる』ことだけです。この一投があなたに叩き込まれ、そして再起不能にする……その事実をね」
「マジカル、スター……! こんなことが、このあたしがッ……!」

 シルバーブレードの呟くような声が唇の端から零れたとき、マジカルスターはもう振りかぶっていた。
 黄金螺旋を描いた無限の回転が、無防備に晒されたシルバーブレードの右手に握られた己自身の刃に殺到した。
 シルバーブレードは我知らず時を停止させていた。視界の右側に投球を終えたマジカルスターの姿が映り、正面には小傘が立ちふさがり、その肩ごしにドラムを一心に叩く雷鼓が、足元にはこころがいた。彼女達の全てがぴくりともせず、時間の重みに潰されていた。咲夜の世界とはそういうものだった。だが、その世界の異物とも言うべきものが、唸りながら周囲の空気を巻き込んだ。黄金の回転を続ける防犯コダマが時間停止の中を突き進み、シルバーブレードに迫っていた。
 シルバーブレードはひたすら右腕を動かそうと懸命に力を込めた。しかし、血液の代わりに全身を巡る驚きの感情が、その込められた力を最後の一滴まで吸い取るように、彼女の体を縛りつけていた。
 防犯コダマは触れるところまで来ていた。目も鼻も塞がるような壮絶な唸りがシルバーブレード自身を包み込んだ。
 そして――時は動き出す。

「嫌よ、やだ、いやだッこのあたしがなんでこんなうそよやだやだやだッ、たッ、た、たすけ」
『たすけてぇ! ひっ、ひっ、ひいぃぃぃ!』

 シルバーブレードがそう言ったのか、その場にいる誰にもわからなかった。防犯コダマの悲鳴と、シルバーブレードの断末魔は混ざり合い、冬の空気を裂いた。防犯コダマの無限回転がシルバーブレード本体に接触した瞬間、彼女自身の刃先を、刀身を、柄を、その全てを次元の狭間がずるりと飲み込んだ。
 ザッ、と防犯コダマが雪上に落ちる。十六夜咲夜も膝から崩れ、雪面に伏した。
 マジカルスターは咲夜の傍へと駆け寄り、その体をまさぐった。左腕の傷は深かったが、彼女の口元からは呼吸の音が静かに続いているのがわかった。マジカルスターは自分の胸に、熱いものが込み上がるのを自覚した。
 紅魔館の門前に辿り着いたときの静寂が、再び辺りを漂った。
 日はすでに高くなっている。その陽射しがマジカルスターを、小傘を、雷鼓を、こころを柔らかく照らした。四人を祝福するように、雪上は日の光を受け、眩いほどに白く輝いている。
 使命完了。





 5

 早朝、墓地からの帰路を辿る多々良小傘の足取りは重かった。
 雪を踏み固める間延びした音が、小傘の一歩一歩をいかにも鈍重なものに仕立て上げていた。
 しかし、その歩みは小傘の心の在り様を示しているのではない。小傘の背に少女一人分の重みが伸し掛かり、その当人がひっついて離れないためだった。

「急げ、小傘。さあ走れ、やれ走れ。這いずってでも帰宅して、劇場へと向かう用意をするんだ! 早く早く、このままだと間にあわなくなっちゃうかも!」
「あのさあ、こころちゃん」

 小傘は自分の背に伸し掛かるこころを振り払うことなく、ただ溜息だけをもらした。

「確かに今日の公演を見に行く約束はしたけどさ。日付変わった瞬間に迎えに来るのは気が早すぎでしょ」
「ごもっとも。しかし、これには複雑な事情があるのだ……実は今日が楽しみで全然眠れなくて」
「子供か」
「それでこのままだと徹夜明けの妙なテンションで人様に絡んでしまいそうなので」
「大人しく寝ようよ」
「小傘も巻き込んでおけば変な二人組として勘定されるだろうから、我々個人の傷は浅くなるかもと考えたんだよね」
「なんで素直なくせに考えが邪悪なの?」

 小傘は柔らかい雪面を茄子紺の化け傘で突いて歩いた。すっかり修復された傘は、小傘の重みを受け止め、しっかりと支えていた。
 そのまま歩いていると、時折、背にもたれるこころの髪が粉雪と共に舞い上がり、小傘の視界の端をちらついた。

「……ちょっと、もったいなかったかもね。長い髪、綺麗だったのに」

 惜しむ調子で小傘は言った。以前の長い髪なら今のように風が吹けば、桃色の髪色が躍るようにふわりと膨らみ、可憐な蕾の密やかな開花を思わせる光景があっただろう。
 だけど今は――小傘は首を傾げるようにして振り返り、背に覆い被さるこころの髪形を眺めた。綺麗に整えられたその毛先は、うなじを隠す程度に留まっている。

「片側だけ斬られて短くなってしまったからな。だから長さを揃えたんだが……もしかして似合ってない?」
「ううん。今のも似合っていて可愛いよ、とってもね」

 不安げにしていたこころは、小傘の返答を聞くと、一転して得意げに語気を強めた。その頭に寄り添っている希望の面も、傷跡もなく元通りの妙に誇らしげな笑みを浮かべている。

「そうだろう、そうだろう。我々は可愛いのでなんでも似合うのだ。マヨネーズがなんにでも合うように! つまり我々はマヨネーズ並みに愛らしいというわけだ」
「ああ、いるよね。どんな料理にも、とりあえず好きな調味料をかける人って」

 小傘の脳裏にはかつて風祝の家に招かれ、食事を共にしたときの光景が過ぎった。
 風祝の早苗は味噌汁に味の素をかけ、漬物に味の素を添え、米にすら味の素を混ぜて炊き込む、味の素原理主義者だった。
 化調に絶大な信頼を寄せる早苗の味付けは、小傘の舌に強烈なうま味を叩きこんだが、同時にこの調味料がなくなったときはどうなってしまうのかと食生活の先行きに対する漠然とした恐怖をも味わわせた。
 ぶるりと、小傘は悪寒を覚える。風祝に連なる記憶と早朝の冷たい空気の合わさった作用が、小傘の心身に働いていた。彼女は温かい我が家を目指して、先を急いだ。
 やがて、樹木ばかりの景色に開けた空間が前方に現れた。そこまで来て、小傘は上がりかけていた息を整えた。
 次第に見えてきたのは、真新しいログキャビンだった。それは小傘の新しい我が家であり、紅魔館の当主レミリア嬢による贈り物であった。

 マジカルスターがシルバーブレードを打倒した後、彼女はすぐに紅魔館へ咲夜を運び、レミリアに事情を話した。
 レミリアは説明を受けるや並び立つ部下に次々と指示を出し、それから小傘達に呼びかけた。

「話は聞いたわ……咲夜について、あなた達が助けてくれたと。どうかお礼を言わせて頂戴。本当にありがとう」

 レミリアは微笑し、三人に順にハグをした。
 小傘はその柔らかな抱擁に、思考のとろけるような法悦の境地を見た。胸中にはクツクツと煮えるような熱っぽい心地が押し寄せ、全身は薔薇と乳の香りで包み込まれたように思えた。
 レミリアの謝意にこちらも何か返すべきだったが、今口を開けば『めちゃくちゃ良いにおいですね』という言葉しか出てこない確信があったので、小傘は押し黙るしかなかった。
 彼女は横目で他の二人の様子をうかがった。どちらも小傘と同じ心境のようで、熱に浮かされたようなその表情から、口を開こうという気はないようで――

「あなた、めちゃくちゃ良いにおいね。興奮してきたわ……服を脱いでもいいかしら」
「雷鼓ちゃん!?」

 臆面もなく自らの欲望を口走る雷鼓に、小傘は驚愕を催さずにはいられなかった。
 レミリアは少しばかり目を丸くさせていたが、やがて得心がいったというように穏和な笑みを向けた。

「服を? ああ、ちょっと暑かった? ごめんなさいね、暖房が強いのかもしれないわ。館内の換気システムはうちの魔女に一任してるの。すぐに知らせて弱めてもらうわ」
「雷鼓ちゃんのブッ飛んだ発言にも真面目に対応してくれてる……すごい良い人だ……」
「あのレミリアとやらの表情……火事の現場に駆けつけては安らいだ目で火を見つめてる布都ちゃんと同じ顔だ。きっと穏やかな心の持ち主に違いないな」
「こころちゃん、多分それ、穏やかの意味が違うから。あとその人、大丈夫なの? 精神的に」
「いつも元気にしてるよ。深夜によく灯油と火種を持って、たき火に行くってスキップしながら出かけたりするくらいアウトドアにアクティブ」
「それ、アウトドアっていうかアウトだから。真っ黒じゃん」

 小傘とこころがひそひそと言い合っているうちに、レミリアはメイドの一人を魔女のもとへ送り出したようだった。
 レミリアの物怖じせずにきらめく赤い瞳が、再び小傘へと向けられる。

「ところで小傘。マジカルスターから聞いたんだけど、あなた、あの子に家宅を壊されたんですって?」

 言われて、小傘はそのことにようやく思い至った。小傘の家はこころとマジカルスターの悲劇的な改築により、青空教室を余儀なくされている。

「あの子の失態は咲夜の行い、そして咲夜の全ては私の管轄よ。この紅魔館に帰属するあらゆる責任に対して、私には償う義務がある。内の者に新築させるわ、小傘……あなたが私に、それを許してくれるなら」
「えっ、そ、そんなっ! 元はただの、その、ダンボールハウスだし、わざわざそうまでしてもらわなくても……」
「あなたは私の大事な家族を助けてくれた。恩人にならするべきことをさせてほしいのよ」

 小傘は一時たじろいだが、話しているうちにレミリアの気質を理解できたように思えた。
 レミリアの物言いは決して押し付けがましいものではなく、挨拶のような気兼ねのない感じがあった。圧倒的なばかりに気前が良く、しかもそれを向けられた相手は、受け入れることによってかえって彼女に好意を表している気持ちにさせられる……そのような見事な善良の性質を彼女は備えている。小傘にはレミリアがそう映った。
 そうなると辞退を続けるのも申し訳なく思えてくる。小傘は観念したように礼を述べて、レミリアの提案を受け入れたのだった。

 そうして、建てられたのがこのログキャビンだった。
 小傘は家の前に立ち、あらためてその前景を眺めた。急傾斜の屋根の突き出すような高さと、淡い黄色の木材の温かな色味をじっと見ていると、なんだか気持ちが昂ぶった。この家に住んでいる自分が誇らしく思えた。
 そのように小傘が一人悦に入っていると、耳の後ろからこころの威勢の良い声が飛んでくる。

「何を突っ立っているんだ、小傘。早くお家に入ろうよ。そしてまずは、我々と共にうがいと手洗いだ」
「そういうところはしっかりしてるんだね。誰に言われたの? 聖さん?」
「ううん。これはマミゾウの教え」
「ああ、親分さんか。面倒見いいからねえ。いろんな妖怪の子に慕われてるし」
「マミゾウは会いに行くと必ずお小遣いをくれるので、我々も大好きです」
「完全にお婆ちゃんと孫の距離感だね、それ」

 話しながらも背中をぐいぐい押すこころの進むままに、小傘はテラスを通って中へと入った。

「ただいまー……いないのかな」

 小傘は室内を見回した。リビングに人気はなく、外の静寂がここまで続いているようだった。追って入ってきたこころは、部屋の中央で立ち止まる小傘に構わず、軽い足取りで流し場に向かった。
 その背を何気なく眺めていると、小傘の背後から冷気が流れ込んできた。
 小傘がぱっと振り返ると、そこにマジカルスターと雷鼓の姿があった。開かれた玄関扉は、外の雪の白さを四角く綺麗に切り取っており、その眩しさを二人の大小の異なる背丈が遮っていた。

「ただいま戻りましたよ」

 黒い外套を脱ぎながら、マジカルスターは言った。

「おかえり。それに雷鼓ちゃんもいらっしゃい」
「お邪魔するわね、小傘。一昨日にも来たばかりだけど」

 雷鼓は肩にかけただけの白いコートをそのままに、髪色と揃いのマフラーを外して答えた。その言葉を聞いて、小傘は二日前のことを思い起こしていた。
 雷鼓は自分が世話をした九十九姉妹の家に居候をしている身だが、近頃は姉の弁々に追い出されたと言っては小傘の家に転がり込んでくることが度々あった。丁度二日前にも、雷鼓はそうした理由で小傘家を訪れていた。

「うん、まあ、私は別に構わないんだけどね。雷鼓ちゃん、毎回、弁々ちゃんを怒らせるようなことしてるの?」
「いえ、私は普通に接してるつもりなのだけど……どうも弁々は八橋が可愛くて仕方ないみたいなのよね。八橋は甘えたがりで、寄りかかれるなら誰でもいいようなんだけど、家のことは基本的に弁々がやってるから、必然的に私が相手をすることが多いのよ」
「じゃあ、弁々ちゃんのお手伝いとかしてあげればいいじゃん。たまには代わってあげるとかさ」
「私にできることは『場を盛り上げる』、それだけよ」
「そんなキメ顔しても言ってることはダメダメだからね? なんなの、現状を楽しんでるの?」
「実を言うと……弁々が妬心に駆られたときに見せる、あの冷たく燃える眼が好きなのよ。あんなにも激しく鋭い感情楽曲は今までになかった。ああ、いい。弁々、とてもいいわ! アパッシオナート(激情的に)いい! こんな私をあの眼で見下ろしてくれないかしら」
「妙な関係を築き出してる……その関係、本格的にこじれる前になんとかした方がいいと思うよ」
「前向きに検討するわ」
「それ、する気ないって言ってるようなものだからね」

 小傘はぴしゃりと言い放ったが、雷鼓はまだ目の端の緩んだような締まりのない顔つきをしていた。
 その隙だらけの頭部に横から手刀が入り、雷鼓は覚めたように目を見開いた。戻ってきたこころが、雷鼓に一撃を加えた姿勢のまま、じっと彼女を見つめていた。
 こころの顔にはいつもの無表情が収まっていたが、その瞳は明確な呆れの色を帯びていた。

「その表情……学ぶまでもなく我々の気に入らない顔なので思わず叩いてしまった。だが、特に反省はしていないし、また機会があったらやろうと思っている」
「清々しいほどに自省の色が見えないわね、こころ。だけど、いい。そこがいいわ、とてもいい音色よ」

 雷鼓はすかさずこころの手を取り、包むように指を絡めた。柔らかく湿った指が、こころの指先を何度も撫でた。

「あなたの心のさざ波が、私の胸に打ちつける……その感情楽曲に添い遂げたいわ。こころ、私にはあなたとデュエットをする用意があるの」
「我々には全くその気はないので他を当たってうおあああ! 指、指がめり込んでる! 痛い痛い!」
「想いの強さの表れよ」
「いけしゃあしゃあと言いやがる! だが我々は脅迫には決して屈しなガアアアアア!」

 騒ぎ立てる雷鼓とこころだが、小傘はその光景にある種の微笑ましさすら感じていた。新居ができてからというものの、何かにつけて入り浸る二人のじゃれ合いは、すでに小傘の日常の一面を担っていた。
 そして、女中服に身を包んだマジカルスターの姿も小傘家の光景に馴染んでいる。

「マジカルスターちゃん、出かけてたんだね。またメイドさんのところ?」
「ええ、咲夜のおやすみからおはようまでを見守る仕事をしてました」
「心配なのはわかるけど普通に怖いから。そんなに気になるなら、いい加減に戻ればいいのに」

 小傘は嘆息する口調になっていた。マジカルスターは薄らとした涙の筋のような傷跡のある顔に微笑を含むだけで、何も言わなかった。
 一連の事態が落ち着いてからも、マジカルスターは咲夜のもとへ戻らず、小傘と生活を共にしていた。小傘に不満はなかったが、一度理由をたずねたことがあった。
 マジカルスターは、負った手傷のせいで自身の回転ができなくなったことを告げた。そして、咲夜を負傷させてしまったときに、自分と彼女の主従の線は失われたのだとさっぱりした声音で語った。小傘は彼女の頑なな態度に、前から心に決めていたことなのだろうと想像がついた。
 しかし、やはりそこには割り切れない思いがあるのか、マジカルスターは時折、咲夜の様子を遠目からでも眺めているらしかった。
 小傘は多少の口を挟む程度で、彼女の複雑な事情になにか働きかけようと考えたことはなかった。それは自分が立ち入っていい領域ではない。一人の友人として過ごすこの日々が、自分の立ち位置なのだと小傘はつくづく感じていた。
 そのように物思いに耽る小傘を、こころが呼びかける。

「小傘、小傘。皆揃ったことだし、早く劇場に行こうよ」
「まだ早いんじゃないかな……でも、うん、いこっか」

 小傘は思い直して、そう言った。帰宅したときとは異なる賑やかな空気が、彼女の胸を弾ませていた。

「今日の演目は新作の『もののべ姫』じゃないけど、なかなか面白い話だから期待するといいよ!」
「へえ、タイトルはなんて言うの?」

 こころの言葉に、雷鼓がたずねる。

「『天空にいろヒナナイ』っていうやつ」
「……なんか権力の介入が垣間見えるタイトルだね」

 不穏な気配を感じ取り、小傘はそれ以上の言及をしなかった。
 こころと雷鼓が順に外へと出て行き、マジカルスターがそれを追いかける。小傘は三人の背を見つめた。ふとその後ろ姿が、ひどく慣れ親しんだものに感じられた。

「小傘さん、置いていきますよ」

 振り返ったマジカルスターがからかい混じりに言った。先を行くこころと雷鼓も同じように小傘を見ていた。
 突然、訳もなく笑い出したくなるようなくすぐったさが、小傘の胸のうちに湧き上がった。その心のぬくもる感じが、どうにも心地良かった。そして、そうした気持ちを抱いて過ごすことのできる日常が、とても愛おしかった。
 満たされた思いを抱いて、小傘は彼女たちのもとへ駆けていく。その足取りは踊るように軽やかだった。
幻想郷全土横断レース『オンミョウ・ボール・ラン』
そのレースのスタート地点に居合わせた霧雨魔理沙は、陰陽玉を自在に操るレース参加者の巫女、博麗霊夢と出会う。
魔法使い修行時代の事故で下半身不随となり、車椅子での生活を余儀なくされていた魔理沙は、偶然にも霊夢の放った陰陽玉に触れたとき、自分の脚がわずかに動いたことに希望を見出し、彼女に詰め寄る。
「まっ、待て! 今、私に何をしたッ! 何が起こった! その『陰陽玉』……回転していた。たとえばこの私にもそれが出来るのか……!?」
「死因のトップが何か知ってる? 蚊が媒介する伝染病が一位で、巫女に蹴られて死ぬやつがその次よ。あんたがその順位を入れかえるつもり?」
霊夢に相手にされなかった魔理沙は、陰陽玉の謎を探るため、彼女を追ってレースに参加することを決意する。

みたいな話が読みたい。
お読み頂き、ありがとうございました。
智弘
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コメント



0.250簡易評価
2.80奇声を発する程度の能力削除
良かったです
3.100名前が無い程度の能力削除
付喪神同士なんて所詮規模の小さな戦いなんですけど、とても熱いバトルで良かったです
シリアスさと緩さの緩急も好きです
5.100名前が無い程度の能力削除
 とても楽しめました。
 雷鼓と九十九姉妹の話も読みたいです。
6.100仲村アペンド削除
ネタが豊富すぎるw バトルも熱いし4人の関係の収まりも良い、とても楽しい作品でした。
10.100名前が無い程度の能力削除
前半と後半のギャップが凄い作品でした。ただのパロディギャグと思ってたら。
いやあ面白かったです!