Coolier - 新生・東方創想話

ピクニック・トゥ・ザ・シー

2017/03/12 08:47:38
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ピクニック・トゥ・ザ・シー



-1-



 これは私が稀神サグメと “豊かの海”に出かけ、サルタおじさんと出会い、帰ってくるまでの物語。帰ってくる時、車の居住スペースに死体を載せていた。こんな経験をした玉兎は月の都の歴史の中でもそういないだろうと思っている。けど、こんな話は都の中で大っぴらに話せるものではないから、いままで黙っていた。これを聞いているあなたも私の独り言だと思って適当に聞き流してほしい。
 始まりはこう。手術を控えたサグメはこのまま家にいてもナーバスになるだけだからと旅行を提案された。都からアクセスしやすく、安全な場所ということで豊かの海に決めた。上に形ばかりの報告をして、さっさと荷造りをした。生真面目な彼女らしく荷物に勉強用の本が入っているのを見て小さく笑ってしまった。
「これで全部ですか?」
 サグメは頷く。
「じゃあ、出ますね」
 彼女を車の助手席に乗せて、車を発進させる。街並みを後ろに置きながら前に進む。町から離れると自動運転ができなくなるので、ハンドルを握りながら操縦した。すこしずつ周囲の景色が殺風景になっていった。基本的に都の外には何もない。賑わいからも生命からも孤立していく。
「サグメはこういう所にきたことありますか?」
『通り過ぎるだけでほとんどないわね。来たことあるの?』
「私は訓練とかで結構来ますね。ただ、どこに行っても同じ景色なのでどの時期に、どの場所に行ったのかはイマイチ覚えてないです」
『都の外はどこも同じだから、仕方ないわ』
「開発とかして、新しい建物を作ってくれませんかね」
『期待できないわね。今ある建物を建て替えれば済むから』
 特に意味のないとりとめのない会話。会話自体が目的の会話。けど、第三者から見れば私が一方的に支離滅裂なひとり言をつぶやいているように見えただろう。だってサグメはずっと唇を動かさず外ばかり見ていて目を合わせていないのだ。
 ややこしいけど、彼女は口にした物事の運命を逆転させる能力を持っている。だから、うかつには喋れない。その問題をクリアしたのが月の技術の賜物、首につけたチョーカーだ。チョーカーが声帯と舌の動きを読み取って何を喋ろうとしているか読み取る。それが無線で私に伝えられて、私は彼女の発言を理解できる。
 初めのころは使い方に苦労したと言っていた。性能が良すぎて伝えるつもりのないひとり言まで拾ってしまってコミュニケーションが上手くいかないときがあったらしい。それでも彼女にはこれしかなかったから諦めずに頑張って意思の疎通は飛躍的に楽になったと言っていた。
 思うに、彼女は月人でよかった。チョーカーが無ければ筆談か手話しか選択肢がないのだ。月の技術なしではまともな生活は送れなかっただろう。
 
 そして、これからも月の技術に依存しようとしている。
「いつ戻りましょう?」
『手術の二日前でいいわ。前日は検査だから』
「結構長いですね」
『飽きたら切り上げてもいい』
 隣に座っている彼女に顔を向ける。正面を向いた彼女の横顔と、薄いなだらかな肩が見えた。ちょっと衝撃を受けたらひびが入りそうな弱々しい肩だ。
 彼女はもうすぐ、その右の肩に翼を植え付ける。
 理由は簡単だ。地上に片翼の生き物はいない。だから、穢れない存在になれる。
 それにただの穢れ対策だけではなくチョーカーの代用もする。翼と一緒に大量の人工神経とナノマシンを導入することで、頭で考えたことを翼が無線で伝えて通信ができる。伝えるだけではなく、情報を受け取ることもできるらしいからそれこそ彼女は玉兎と同じように相互通信ができる。まあ、きっと私たちより圧倒的に性能がいいんだろうけど。
 本当に穢れ対策になるのかは一介の玉兎である私にはわからない。ただ、そういう思想を持った月人は一部ながらいて自分の身体を好き勝手にいじっている。肌の色を変えたり、使用目的のよくわからない人工のパーツを付け加えたり、置き換えたりする。体内に大量のナノマシンを導入して新しい代謝経路を作ったりする。両性体になった人もいるという噂まである。
 進化だと、彼らは言う。地上の生物とはまた違う、ランダムな変異に頼らず自分たちで試行錯誤して行う、世代を経ることによる情報の祖語もない効率的な方法らしい。
 自分たちが地上にいたことを忘れたいのだろうと、同僚たちは揶揄している。
「そういえば聞いたことなかったですけど、どうして翼にしようとしたんですか?」
『デザインが綺麗だと思ったから。畳んだ時と広げた時の形の違いが面白いと思うの』
「地上の生き物なのに?」
『今でも翼を雛形にしたデザインは使われている。実用的で理にかなっているから』
 要するに翼が好きなのだろう。彼女の理屈っぽさには呆れてしまうことがある。もっと単純に自分をさらけ出していい。そうやってめんどくさい性格をしていると早くに老け込んでしまうと言いたかったけど、彼女は穢れを拒否した月人で老化なんてほとんどしないはずだ。私を置いて行って高みへと昇るはずだ。
 もうすぐ到着だ。だだっ広い、何もない場所だ。生も死もない、ただ“ある”だけの場所だ。


-2-



 寄せては返す波の音は呼吸や心臓の音のように終わりなく穏やかに続いている。海には命と呼べるものはいない。まばらに生えた桃の木は一度更地にした後で植えなおしたものらしい。ここには変わらないものだけがある。
 穏やかな波の音と私たちの足音が混ざり合う。
「ほんと何もないですね」
『そうでもないわ』
 サグメが上を向いているのに気付いたから、私も顔を上げる。
 ぽっかりと大きな空に青くて丸い球が浮かんでいた。周りから孤立して、たった一人で光り続けていた。
 彼らはあそこから来たのだ。穢れだらけのあそこから。
 二人ともしばらく眺めていた。
「あれが穢れているなんて私には見えませんね」
『遠くから見れば汚いものもわかりにくい』
 確かにそうだけど、本当に汚いものなのだろうか。あの淡く光る球には数えきれないほどの生き物がいて私達より刺激に満ちた生涯を送っているのだろうか。
 きっとそれこそが彼らは許せないのだろう。
『私はね。いつかあそこに行こうと思う』
「穢れてますよ」
『穢れのない世界に変えるの。奪い合うしかできない世界を変えて理想を実現する』
 その光景を思い浮かべてみた。翼を背負った彼女が奪い合わない理想郷となった地上を歩く姿を。地上を闊歩すると地上人は彼女にひれ伏すのだ。その横を私が歩く。彼女に石を投げる者を捕まえるために。
 あまりにも変な妄想でちょっと笑ってしまった。
『どうかした?』
「いえ。そうなったらお供しますよ」
『ありがとう』
 まあ、そうなったら私以外にもたくさんの玉兎が同行して私はその他大勢に数えられるのだろうけど。
 もし彼女が特別扱いしてくれたら嬉しいなとつい期待してしまう。
 ふと、遠くから足音が聞こえてきた。ゆっくりではあるが、しっかりとした足音でそれなりの重さを持った生き物であることが音から分かった。
 ここに自分たち以外の生き物がいることに驚いた。あるいは自分たちのように旅行目的で来たのだろうか。
 サグメの身体を守るように寄り添う。彼女は不安そうな目で私の肩越しにそれを見ようとしていた。
 二本足の生き物がゆっくりとした動作でこちらに近づいている。
「そんな怖がらなくても大丈夫じゃ。取って食ったりはしないぞ」
 その生き物はしわ枯れ声で少し古臭い月の言語を話してきた。
 私もサグメも目を丸くして驚いた。
 だって、丸めた紙みたいにしわくちゃになった肌をした月人なんて見たことがなかったのだから。


-3-



 その人はサルタと名乗った。
「人に会うのは久しぶりだな」
「こちらに住んでいるんですか?」
 彼は頷く。楽しさと戸惑いが混ざり合った表情だった。
「まあな。ちなみにそちらのお嬢さんは?」
 私は走って車まで戻って荷物からスピーカーを取り出した。彼女の声を模した音がスピーカーから発せられる。
『稀神サグメと申します。能力の関係で直接は話せません』
「ほう。ということは、天津神かな?」
『見習いです』
 さっきよりも激しくうなずいた。
「いいのう。わしは能力も学もなかったから、体を動かすしかできなくての。そういえば庁舎はまだ健在か? あれはわしが建てたんじゃ」
 それの意味するところに驚いて少し黙ってしまった。庁舎は都の中でも指折りの歴史的建築物だ。
「ひょっとしておじさん。かなり初期の頃から月に住んでますか?」
「初期どころか最初からじゃ。地上に住んでいて、月に浄土を作ると聞いてこっちに移住してきたんじゃ」
 地上出身の月人。そんな人に会えるとは思わなかった。全員が天津神と呼ばれるくらい偉い人になっていると思っていた。彼らが都を支配して、使い捨てのように私達の身の振り方を決めるのだ。ホント、奴隷の身はままならない。
「すごいじゃないですか。ねえ、サグメ」
 サグメは頷いていた。目の色だけでも彼女が強い興味を持っているのがわかる。それがわかるのは恐らく私だけだろう。
「あの、地上のこととか聞いてもいいですか?」
「構わんが、全部は喋れないかもしれんのう。時間がないから」
「どういうことですか?」
 彼は自慢げに手首を私たちに見せた。旧式の時計が巻かれていて何かのカウントダウンをしている。
「これが儂の残り時間だ」
 もうすぐだった。それなのに少しも気にしている様子はなかった。


-4-



 サルタさんの家の中はよくわからない物や古い機械でいっぱいで、しばらく都とは距離を取っているのだと改めて感じた。キョロキョロしながら辺りを落ち着きなく動き回る。ひょっとしたら地上に関係した物が混ざっているような気がして、触るのがなんとなく怖かった。私が怖いのだからサグメはもっと怖いのではないかと思うけど、彼女は冷静な表情を保っていた。
『すごいわね』
 サグメが見ている方向には壁一面写真が貼ってあった。時間がかなり経って色あせているものがほとんどだったけど、明らかに月にはない光景があった。多種多様な植物、青い空と白い雲、歩きにくそうな汚い色の地面、画一化されていない奪い合う世界の光景だ。
「全部サルタさんが撮ったんですか?」
「もちろん。これでも一部だよ」
 サルタさんのしわくちゃになった目元からこぼれる目線は遠くにあった。彼の心はきっと月の上にはないのだろう。地上がそんなに素晴らしい場所なのか私は疑問に思ってしまう。興味はあるけどぼんやりとした恐怖が私の中から湧き上がる。汚くて殺しあって穢れている世界だと教えられていたから。
 そういえばと思って、サグメの方を向く。
「サグメは地上の写真とか見たことあるのでは?」
『あるわ。けど、今までのとは違う雰囲気ね。こういう雑多な物はなかった』
「ほめているのか分からんのう」
『違った特徴があっていいと思います。私が見てきたのは勉強用の綺麗な物ばっかりだったので』
 さっきサグメは地上で理想を実現したいと言っていたけど、彼女が地上をどうとらえているのかは私もよくわからない。天津神としての征服か、翼を背負うくらい興味を胸に秘めているのか。どちらなのかわからないし、ひょっとしたら両方正しいのかもしれない。彼女は胸の内を多くは語らない。
 一枚の写真に目が留まった。青い空に浮かんでいる生き物がいた。
「これ鳥じゃないですか?」
「そうじゃよ。そういえば、月にはいないから珍しいじゃろう」
 サグメの顔を横目で覗き込む。綺麗なまなざしでじっと見つめていた。
「彼女、もうすぐ鳥の翼を背中につけるんです。穢れ対策で」
 不思議とサルタさんはすぐに返事せず、黙り込んでしまった。
 私もサグメも気になってしわの入った顔を見つめていた。さっきよりもしわが深く見えた。
「やっぱり、そういうことをする奴は今でもいるのか」
『少数ですけど途切れることなく続いています』
 もう一度黙る。言葉を探そうとする時間が、そのまま私たちに沈黙の重さとなって肩にのしかかる。
「ここに来た時点で儂は穢れすぎていたから、その処置も勧められていたんじゃ。もう少し長生きできるだろうからってな。けど、体をいじる気にはなれなくてのう、断ったんだ。今でもやっている奴はいるんじゃのう」
 処置を嫌がる人は結構いるけど、体をいじりたくないという理由は初めて聞いた。たいていの人はそんなのやっても意味が無い、理解できないの一言で済ませるのだ。


-5-



 寄せては返す波打際で二人並んで腰掛ける。ポツポツと泡がはじけるように言葉を交差させていた。
『変わった人ね』
「こういう所に住んでいますからね」
 彼は過去をよく喋ってくれた。滅多に人に会わないからだろうし、死を目前に控えているからかもしれない。けど、私は死が近い人に会ったことがないから、それが人の気持ちにどう影響しているのかよくわからない。死は玉兎であっても簡単には触れられないものになっている。
 月に来た時点で彼は穢れ過ぎていて、寿命を僅かに延ばすことしかできなかった。月での生活にも馴染めずここで暮らすようになったらしい。だから話のほとんどは地上にいた時の話だった。
 奪い合うことで生きる世界のはずなのに彼が語ると刺激的な世界に私の中の色を変えていった。月にはないたくさんの光景を写した写真を見ながら私たちは想像した。地上にしかない生き物も、地上にしかない天候も、地上にしかない食べ物も私たちの知っているものからはかけ離れて私たちの想像も間違っているのかもしれないけど、それでも夢中になって聞いた。天津神として敬服されている人たちの名前も出てきて生きた歴史を聞いているのだと目を輝かせた。
 それでも穢れに満ちた場所というイメージを思い出させる話はあった。生活の中でほかの生き物の死を見たし、死を利用したこともたくさんあったらしい。そこには『墓』というものが必ず登場し、彼はそこに大きな意味を見出しているらしい。
私は墓を知らない。
 人が死んだあと、その体をどうしているかなんて月では一切触れられない。いつの間にか周りからいなくなってそれで終わりだ。土に埋めて目印を作るなんて話聞いたこともない。だからと言って穢れの塊を何かに再利用するのも間違っている気がする。そうなれば都そのものが穢れてしまう。
 彼の友人の墓が地上にあるらしい。もう行くことが出来ないのが心残りだと何度も言っていた。そこに行って何があるのだろう。返事なんてないだろうに。
「月に墓ってものはあるのでしょうか」
『私もわからない。どこも教えてくれなかったから』
 隣に座っているサグメの顔を覗き見る。綺麗に整った顔は空に浮かんだ青い球を見つめている。
「サグメは死んだら墓に埋められたい?」
 彼女は顔をこちらに向ける。わずかに目を細めて睨みつけてきた。
『私が墓を使うことはないから』
 そう言うだろうなと思っていた。それが天津神の基本的な考え方だ。月人は穢れもしないし、死なない。天津神になるための教育を受けている彼女はその大義名分を信じている。例外なんていくらでもあるのに。
 というよりも、彼女は強すぎる能力ゆえに天津神になるしかなかった。能力に見合った責任を背負うしかなかった。月の技術の恩恵を受けるためにはそれしかなかった。
 信じるしか道がないのだ。
「ですよね。玉兎の方でも墓の話なんて聞いたことないですし、きっと無いんですよ」
 彼女は小さく頷く。
『あの人の考えわかる? 死をあっさり受け入れらるなんてオカシイと思うの』
「私は……いずれ死ぬ身なので。分からなくはないです」唾を飲み込む。「けどやっぱり死ぬのは怖いです。長生きできるならそっちの方がいいです」
『それでいいのよ』
 長生きできるのならそれに越したことはないと思うけどそれが恐怖を和らげることに繋がるのだろうか。
 いずれ分かるとあの人は会話の節々で何度も言っていた。まるで長生きしたことそれ自体に意味があるように。
 
 急にサグメが立ち上がった。私の正面に移動して膝の上に腰を下ろした。
「ちょっと何ですか」
『いいじゃない。見る人なんていないんだし』
 彼女の重さで姿勢が崩れないように地面に手をつける。
「この姿勢だと守れませんよ」
『なんとかなるわよ。いざとなったら押し倒していいから』
 何を言っているんだか。まあ、実際にそうなったらそうするんだろうけど。何しろ彼女の護衛をするにあたって私には暗示がかけられている。何があっても、あらゆる手段で守るように。
 護衛の任務に就いた時、同僚は祝福してくれた。出世コースだ。どうせ何も起こらない楽な任務だ。終わればもっと偉くなれると言ってくれた。確かになにも起こらないけど、たびたび胸を締め付けられる苦しさを感じる。彼女の不自由さ、ときおり垣間見る幼さ、口にすることのできないもどかしさ。個人としてもっと、もっと自由に生きて欲しいと思う時がある。
「勉強が終わったらサグメもこういうところで暮らしてみたらどうです? 静かなところは好きでしょう」
『駄目よ。都にいないと』
「今の時代、遠くに住んでてもなんとかなりますよ」
『天津神は中央にいないと。建前であってもね』
 彼女はさらにもたれかかってきて、重いくらいだった。
 彼女の白い髪が目の前に迫ってきても、彼女がいるとなかなか実感できない。なにしろ月人は体臭を徹底的に落としているのだ。玉兎はそんなことできないから無臭には強い違和感がある。穢れを避けるためとはいえ、なんて綺麗好きなんだ、月人は。
 彼女の体温と心臓の鼓動が私に迫ってくる。きっと彼らは鼓動しない心臓を作り出すだろう。生きていると主張する器官は広い意味での穢れだ。生きているという証拠を消しながら生きようとする。行きつく先はなんだ。
 彼女の両頬を挟み込む。振り向いて尋ねてくる暇もなく彼女の頭部を思いっきりひねる。首のいびつな音と不思議な感触を私に感じさせる。彼女の身体が横に倒れ込む。その動きがスローモーションに見えた。砂の上に倒れ込んだ彼女の顔と彼女の瞳が私を覗き込む。空っぽの瞳がガラス玉となって私の姿を映し出す。半開きになった唇がゆっくりと動こうとする。
『どうしたの?』
 脳に割り込んできた言葉で私は現実を取り戻す。彼女の瞳が私の顔を覗き込む。
「すいません。ちょっとボーっとしてしまって」
『あなた、そういうとこあるわよね』
 無理やり微笑もうとしたけどどうしても唇の端が震えていた。
 立ち上がって歩き出す。呆然とする彼女を横に置いて波打ち際へ、そのまま水の中に入っていった。
 膝を曲げて頭まで水につかる。立ち上がったころには体全体が冷えて笑えるようになった。
『なにやってるの』
「スッキリできました」
『よくわからないけど、戻って着替えなさいよ。汚れてるわよ』
 汚れてる? どうしてだ。ここの空気も、水も、砂も穢れのない綺麗なはずだ。それでも私は汚れているのか。
 ねえ、サグメ。あなたの言葉で私を綺麗にしてよ。
 でなきゃ私、あなたを守れない。
 いつかきっと穢してしまう。


-6-



 上からの命令でサグメの動向を定期的に報告している。もちろん護衛の任務の報告が目的だけど彼女の思想に注視しているのではないかと私は思っている。だから、サルタおじさんに出会ったことを報告したら何かリアクションがあると思っていた。だけど特に何もなく拍子抜けだった。というより上は彼女と彼が出会うことを予想していたのだろうか。考えすぎだろうか。
 やけに大きな音を立ててサグメがドアを閉めた。スピーカーをベットに投げて、大きな音を立てて椅子に座った。
「どうしました?」
『言い争いになってしまった。やりすぎたわ』
「目に見えて元気をなくしてるのによくないですよ」
 サルタおじさんはどんどん元気をなくしていった。会話する力は衰えていないが、もうほとんど自力では歩けなかった。私たちが持ってきた食料や常備薬も渡したけどそれも意味がない段階まで来たようだ。彼が積極的な意思を示さないのもあるが、残り時間は確実になくなっている。
「また翼をつける話ですか?」
『それしかないでしょ』
 彼が月の生活になじめなかった理由はいくつもあったようだけど、一番の理由は穢れ対策の処置だったようだ。体をありえない形にいじるのがどうしても納得できなかったらしい。私でも彼はかなりの保守的に思える。翼をつけるのは確かに過激な部類に入るけど、能力を上げるための投薬や簡単な改造なら普及している。私だって兵士になるにあたっていくつもの改造をしている。
『あそこまでいくと宗教よ。過去に固執して前を向けてない。だから中央から離れて暮らしてるのよ』
 過去に囚われるのが宗教なら、穢れを忌避するのも宗教ではないだろうか。どっちも歩み寄れないくらい凝り固まっているように見える。
『あの人だって、フォークやスプーンを使って食事をするのに翼をつけるのには反対するの。同じことなのにどうして違うと思うの』
 それは飛躍しすぎだと思った。目的のために道具を使うっていうのは確かに同じだ。けど、体に埋め込むのでは印象が違うと思う。
「無理に理解してもらわなくてもいいのでは? そういう人なんですよ。それより地上の話を聞く方がいいですよ」
 彼女は頭を振る。『それじゃあダメなの』
 天津神になる彼女のプライドだろうか。それとも表には出さない特別な思いがあるのだろうか。
 彼女はまじめで議論は喜んでするけど、今回はこだわりすぎている気がする。


-7-



 どうやら今が最後の時のようだ。ベットに沈み込んでいるサルタおじさんは目がうつろだった。旧式のモニターが表示する心電図は心拍が弱くなっているのを示していた。拍動を知らせるリズムの音もどんどん感覚が開いている。
「そんなに気にせんでいい。こういう運命だったんだ。最期にお前さんたちに会えてむしろ幸せだった」
 かすれるような声で途切れながら喋っている。私から喋って遮ることはしなかった。
「サグメもじゃ。どれだけあがいても避けられない運命は絶対にある。それよりも体を大切にして精一杯生きる方が絶対にいい」
 さっきからサグメは何もしない。私の後ろで冷ややかな視線で黙っていた。
 私は弱々しく首を振る。
「よくわからないです。ここより地上の方がよかったんですか?」
 おじさんが微かに笑ったような気がする。
「そうじゃない。いずれ分かるようになる」
 それで全てを出し尽くしたようにまぶたを閉ざした。心拍のリズム音がさらに弱まる。
彼の口から、鼻の穴から、耳から、閉じたまぶたの隙間からドロドロした液体が溢れてくる。それが床一面に広がって、サグメの体を這い上がる。彼女の肌が、髪が汚物の色に染まっていく。
 心拍の危険を表すアラーム音が私を現実に呼び戻す。これ以上ここにはいられない。死の瞬間に立ち会ったら穢れを強く受けてしまう。それは避けるべきだった。
 椅子から立ち上がって、後ろにいるサグメの手を取って部屋を出ようとする。
 けど、彼女は動いてくれない。地面と足を釘で打ち付けたようにいくら引っ張っても一歩も動いてくれなかった。もう何も言えないサルタおじさんの顔しか見ていない。
「サグ……」
『わからないわよ』
「わからないわよ」 
 呼吸を忘れる。見たもの、聞こえたもの、それが意味するものをすぐには理解することが出来なかった。
『どうやってわかればいいのよ』
「どうやってわかればいいのよ」
 握った手からサグメの手が離れてそのままサルタおじさんの肩を激しく揺さぶった。ゆさぶりの影響で心電図の波形とリズム音が不規則に乱れる。
『どうしてここに来たのよ! 穢れが嫌じゃないの! なんで生きようとしないの!!』
「どうしてここに来たのよ! 穢れが嫌じゃないの! なんで生きようとしないの!!」
 二重の声にめまいと吐き気を感じた。足元がおぼつかなくなって椅子に寄りかかりながらチャンネルを閉じる。彼女のチョーカーがただの装飾になるように。
「許さない」
 それでも彼女は言葉をやめてくれない。
 私の手首を掴む。手首を折りそうなくらいの強い力で、痛くて怖いくらいだった。
「手を貸して! 車に乗せる!!」
「どうするの?」
「病院に連れていく! 死なせない!!」
 冷静に計算すれば間に合わないはずだった。都の病院に行くまでに彼の残り時間はゼロになるはずだ。けど、そんな指摘を彼女は求めていないことも同時に気づいた。
 彼女の車の運転はとても荒くて、吐き気が収まっていない体には辛かった。車に揺れながら彼女の方を見ると、口を動かして明らかに何かつぶやいていた。
 本当はチャンネルを入れて何を言っているか聞くべきだったけど、どうしてもその気にはなれなかった。


-8-



 地平線かと見まごうほどの長い直線の廊下。その廊下のベンチにサグメは腰かけていた。うつむき加減にじっと自分の膝を見つめていて、私が声をかけなければいつまでもその姿勢でいただろう。
「サグメ」
 顔を上げたサグメは瞼の重そうな、疲れている顔をしていた。無言で自分のチョーカーを指さしているのを見てチャンネルを入れた。
『禊(みそぎ)は?』
「終わった」
『そう』
 病院に着いた時点で彼は亡くなっていた。彼のカウントダウンは正確だったのだ。
 彼女は自分の唇に手を添える。自分の言葉に悩むとき彼女はいつもそうする。
『私が殺したのかな』
 もし彼女の言葉が彼を死へと導いたのなら、それは穢れに直結する。禊程度では落とすことができない確かな染みだ。
「あなただって死の運命は変えられないんだよ」
 サグメは首を振る。
『それじゃあダメなの』
 駄目ですよ、サグメ。そうやって責任を感じてはいけない。これからずっと自分の口にすること全てを背負うつもりなのか。それじゃあ潰れてしまう。
 声を上げて笑っていいはずだし、嗚咽を上げて泣いていいはずだ。それぐらいの自由をもっていいはずだ。
 サグメが右手の爪を噛もうとしたから、その手をつかんで胸元に引き寄せた。
 お願いだから。ただの兎の私はこんなこと口にできない。いっそのこと全部捨てて自由になってよ。

 サグメは左手の爪を噛んだ。


エピローグ



 これで旅行も終わりだ。あとはただの蛇足だから楽にしてもらっていい。
 あの後サグメは予定を前倒しして手術をした。真っ白な翼をつけた彼女は本当に嬉しそうな顔をしていた。これこそが自分なのだと胸を張れるくらい自分に自信を持っているがわかった
 綺麗だねって言うと彼女は目を細めて唇を動かした。声こそ出さなかったけどありがとうと言ったのがわかった。
 これで私の任務は終わりなのだと理屈抜きで理解した。

 ああ、そうだ。どうしてこの話をしようと思ったのか理由を言っていなかった。
 噂だけど、彼女が月の都のために大事を成したらしい。それが真実なのかわかるはずもないけど彼女が報道に登場する回数が増えた気がするので本当なのかもしれない。会わなくなってしばらく経つけどやっぱり嬉しいのだ。
 報道に登場する彼女の顔は翼のおかげかあの頃と全く変わっていない。すっかり立派な天津神になって私にとっては雲の上の存在になってしまった。

 ただ私は彼女が使っていたチョーカーをもらっていて机の引き出しにしまっている。時々取り出しては手の上でもてあそぶのだ。
 こうしている限り私はいつか穢れてしまうような気がするがそれでもいいと心のどこかで思っている。
 私はいつまでも彼女から自由になれていない。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
こういうSF要素を含んだ二次創作も好きです。
カワセミ
http://twitter.com/0kawasemi0
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コメント



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1.100名前が無い程度の能力削除
 サグメさんの心情をあれこれと想像するのが楽しかったです。
 あえて視点を護衛の兎さんに置いていたことも想像を刺激されます。
 今回も楽しませて頂きました。サグメさんに幸が訪れますように。
3.100奇声を発する程度の能力削除
面白くとても楽しめました
5.100南条削除
面白かったです
人の死の前で取り乱すサグメ様が特によかったです
6.90絶望を司る程度の能力削除
面白かったです。サグメ目線でも読んでみたいなぁと思いました。
7.100名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです。
8.100怠惰流波削除
静かな海の波打ち際に立ってる気分になりました。