Coolier - 新生・東方創想話

七生も心、変わることなし

2017/01/25 00:53:44
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七生も心、変わることなし






 霧雨魔理沙は衝立の女をもう一度まじまじと眺めた。見れば見るほど引き込まれ、彼女は先程よりも更に絵が美しく見えた気がした。
 衝立の女は十五、六の娘に見えた。女の像は精妙と言う言葉が良く似合った。小綺麗な和装は文句の付けようもなかった。和装からちらと見える僅かな手首は、見る者に隠された肢体の濃やかさを想像させるにこと足りた。
 何よりも魔理沙が引き込まれたのは女の顔であった。椿の様に淑やかな唇、慈しみを溢れさす柔らかな瞳。人が烏の濡れ羽と形容する黒い糸束。若々しく、血の気さえ感じさせる顔は、正しく生きているかの如くだった。
 魔理沙の後ろからくすくすと含み笑いが響いた。彼女が恋人を凝視するので、敬子は何だか恥ずかしくて可笑しかった。
 敬子は二人が来た時分と同じ様に敷布団から半身を起こしていた。

「私の恋人は美しいでしょう」
「ああ、大層な美人だ」

 魔理沙は敬子と目を合わせた。
 魔理沙の隣にいた博麗霊夢は敬子に訝しそうな目を向けた。

「恋人ですって?」
「ええ」

 敬子は当然の如く言い放った。言葉に迷いは見受けらなかった。誇らしげでさえあった。
 衝立の女は唯の絵ではなかった。
 霊夢は衝立の女を眺めた。女は微動もしなかった。然し、生きていた。生きていて、意思があった。
 濃厚な霊の気配が絵の内側に充満していた。



 発端は本居小鈴が霊夢に相談を持ち掛けたことだった。
 小鈴には敬子と言う友人がいた。敬子は大層に本が好きな娘だった。敬子が鈴奈庵に通うと、二人は瞬く間に仲が良くなった。読書家として、通じる部分があった。
 三年の間、敬子は週に一回は鈴奈庵に通っていた。然し最近になって、敬子は鈴奈庵に来なくなった。
 敬子が鈴奈庵に見えなくなって、数ヶ月が経った頃に、凶報が小鈴に訪れた。何でも敬子は病で床に伏せて、食事も喉を通らないと言う。聞くが早いか、彼女は急いで敬子の家に向かった。
 敬子の親とは面識があったから、小鈴は直ぐに敬子の室に案内された。
 室に入ると、小鈴は顔を覆いそうになった。部屋の隅にあった衝立に目を向ける暇はなかった。敬子の優しかった目の下は暗く変わり果て、体はか細く、痛々しかった。「数ヶ月でこんなに変わり果てる何て、一体どんなに酷い病なのか」と彼女は心底に同情した。
 小鈴は尋ねた。敬子が病に掛かった理由を聞いた。敬子を蝕む病の正体を知ろうとした。
 敬子は可笑しそうに「別に病気じゃあなくってよ」と当然の様に言った。訝しむ小鈴に理由を教える為に、敬子は衝立に指を向けた。

「恋人が出て来ないのよ」

 敬子は微笑んだ。
 小鈴はぞっとする思いに駆られた。急いで霊夢に相談しようと腹に決めた。



「小鈴が心配してくれたのは、まあ嬉しいですけどね」

 敬子は衝立を眺める霊夢を見た。彼女は視線を感じて振り返った。
 霊夢は敵意を感じた。敬子の目には憎い敵を見つめるかの様な鋭さがあった。

「然し巫女様や魔女様を呼んだのは…あー、何と言いましょうか…そう、厄介なことですね」敬子は更に捲し立てた。「巫女様、私には貴女のお考えが分かります。貴女は私とお菱を裂こうとしている。私の為にお菱を殺そうとしている。私がお菱に魅入られていると思っている。けれど貴女、それは間違いです。私が魅入られているとは、酷い勘違いです。私は私の意思でお菱を愛しているのです」
「証明が出来る?貴女の意思だと」

 敬子の高笑いが室に響いた。

「何が可笑しいの」
「自分の恋を疑う女がいるものですか」

 敬子の病は所謂、恋煩いであった。
 小鈴が教えてくれた、香霖堂と呼ばれる小道具屋に顔を出した折に、敬子と衝立の女は出会った。惹かれた理由も知れなかったけれども、敬子は我慢ならなくなって、直ぐに購入を決めた。
 敬子は衝立を自分の室に置いて、毎日ずっと衝立の女を眺めていた。何時か鈴奈庵へ行って、本を借りることもしなくなった。
 敬子は最初、女を眺めているだけで満足であった。然し日が経つと、ふつふつと恋が煮えたぎった。また叶わぬ恋でもあった。理想の恋人は唯の絵で、生きてはいなかった。
 敬子の思いは燃え盛った。燻る思いは止まない梅雨の如くだった。「この世に、こんなに美しい女がいたのだろうか―――同じ女であるのに、嫉妬の心はない。愛おしいばかり。ああ、この人を腕の中に抱くことが出来たなら!喜んで命を、来世の命すら、千年の時間をすら差し出すのに!」。
 敬子は遂に食すらも進まず、眠ることも出来なくなった。成就しない恋を思うと、敬子の心は段々と死んでいった。然し手放すことも出来なかった。最愛の人を手放すことは、敬子には死よりも耐え難かった。

「理由になってないわ」
「何故です」
「根拠がないもの」
「ああ、貴女は恋を知らないのですね。そうでなくって、どうして私とお菱を引き裂けますか。どうして残忍なことが出来ますか」

 二人の間に険悪な雰囲気が流れた。二人に譲る気配は一欠片もなかった。
 霊夢は直様に衝立を処分したい心持ちであった。敬子は精神を病み、影響は肉にさえ現れていた。更に絵は正しく、霊が宿った曰く付きの絵であった。博麗の巫女として、敬子を救おうとするのも当然の理りであった。対して絵の持ち主、敬子に手放す気はなかった。敬子の感情は、彼女を救いの手として見ていなかった。寧ろ彼女は恋人との仲を引き裂く魔物だった。
 二人の理念は反発して、堂々巡りであった。

「霊夢、まあ落ち着けって。敬子さんも」
「何よ魔理沙」

 魔理沙が慌てて嫌な空気を払拭しようと割り込んだ。
 じろと睨む霊夢を無視して、魔理沙は話を変えることに努めた。

「敬子さん」
「何でしょう」
「お菱ってのは?」
「ああ、彼女には名前がなかったので、私が付けました」

 敬子は衝立の右下を指で差した。
 魔理沙は近くに寄って衝立の右下を見た。名前が書いてあって、菱―吉――と掠れていた。

「菱、だからお菱か」
「良い名でしょう?」
「ああ、良い名前だ、ぴったりだ」

 魔理沙は出来るだけ敬子の機嫌を損ねない様に気を付けた。
 魔理沙は小鈴が霊夢の下に来た折に、偶然にも神社にいて、興味本位で着いて来ただけであった。然し今になっては「着いて来て良かった」と彼女はひやりとしていた。
 敬子の病は唯の霊障ではなく、敬子の心の問題であった。「半分は霊障で、霊夢の範疇でも、もう半分、内心の淀みは霊夢の範疇じゃない」と魔理沙は思った。
 魔理沙から見て、霊夢は他人の心境に疎い処があった。普段の妖怪退治なら兎も角、人心の混じった厄介ごとでは、致命的な誤ちを引き起こす可能性を、彼女は想像せずにはいられなかった。

「どうだって良いけど」

 魔理沙はぎくりとした。霊夢の声は鋭く、有無を言わせぬ力を裏に含んでいた。
 魔理沙の取り持った空気は引き裂かれた。

「霊夢、止めろ」

 霊夢は聞く耳を持たなかった。

「敬子さん、何にせよ私は貴女を救わなきゃいけないの」
「その為に、どうしてもお菱を殺すと」
「ええ」
「私はそれじゃあ救われませんよ」
「でも貴女はこの衝立がある限り死に急ぐだけよ」
「構わない」
「何ですって」
「構わないと言っています、お菱がいなければ、私はもう生きる気力も持てません、なら死ぬ寸前でも、明日にでも死のうとも、私はお菱の傍にいたい」

 敬子は俯いた。悲しげな言葉は哀れを誘った。

「けれど貴女がそれで納得しないことも分かります」

 敬子は霊夢を見据えた。
 霊夢は急に背筋が冷たくなった気がした。重苦しい気配を含む勘が彼女に警告した。

「だから貴女を強迫しましょう」

 霊夢が何か言い掛ける一瞬―――瞬き一つ程の間であった。敬子は自分の左手の小指を噛んだ。万力の如く小指を歯で挟んで、敬子は骨も意に介さず噛み切った!
 霊夢も魔理沙も一体、何が起こったか分からなかった。肉が見えた。白い骨が見えた。残酷な自らへの仕打ちに、二人の思考は留まって、敬子が敷布団にべえと小指を吐き出すのを見ると、漸く言葉にならない言葉を出すのだった。

「は……ああ!?…は…」

 霊夢の口から有耶無耶な発声ばかりが吐き出された。
 ぼとぼた血が敷布団に滴った。幾らも赤く染めて行った。

「お菱を殺すなら舌でしましょ」

 敬子は飄々として言った。また微笑んでいた。顔色の一つも変わらなかった。苦痛さえ感じさせなかった。
 霊夢は初めて人間に恐怖した。



「ぞっとしたよ」

 人里の外れ、二人は樫の木を見付けると一先ずは落ち着いて、魔理沙は漸く口を開いた。
 敬子の目論見は成功した。霊夢は敬子の覚悟に正面から串刺しにされた。ふらふらと退散する彼女に、魔理沙は慌てて着いて行くのだった。
 霊夢は樫の木の下に座った。彼女は何も話せなかった。彼女の中では敬子の狂動が繰り返された。
 敬子は舌を切ると言い放ち、覚悟を示す為には、指さえ噛み切った。途方もない覚悟であった。覚悟は霊夢への強迫の形だった。
 霊夢は無意識に掌をぎゅうと握った。
 霊夢の頭の中で、空想上の敬子の声が響いた。「お菱を殺す貴女は、私も一緒に殺さなくてはならないのです。私はお菱が死ねば、舌を噛んで死ぬでしょう。さあ、殺しなさい、どうぞ殺しなさい。この人でなし」。
 不意に霊夢の手を優しい温もりが覆った。魔理沙の手であった。

「大丈夫だ」
「魔理沙?」
「ほら」

 魔理沙は霊夢を唐突に抱き締めた。普段なら恥ずかしくて振り払ったろうけれども、何か温もりに安心して、彼女は抱きしめ返していた。
 予想外の霊夢の行動に魔理沙は内心で驚いていた。
 魔理沙の行動は霊夢を慌てさせて、普段の調子を取り戻させる為であった。

「どうしたんだ、お前らしくないな」

 霊夢は返事をせず、魔理沙を更に抱きしめた。彼女は更に面食らった。
 是程に動揺する霊夢を見るのは珍しかった。
 霊夢が口を開いたのは、魔理沙が彼女の背を撫でてやる寸前であった。

「魔理沙もあの顔を見たでしょう」
「顔?」
「笑顔よ、指を噛み切ったのに、あの笑顔の…吃驚した、本当に吃驚した。人ってあんな顔をするの、初めて知った。私は、私は」

 指を切ったことよりも、霊夢は敬子の笑顔が心底に恐ろしかった。追い詰められた人間の表情が、彼女の内で何度も再生された。また彼女を痛め付けたのは、何より責任感であった。彼女が二人を引き裂こうとしたばかりに、敬子は行動に出る他なかった。力で敵わない外敵から恋人を守る為に、敬子は身を犠牲にして彼女に信念を真っ直ぐ伝えた。
 霊夢は圧倒されていた。恋心が齎した昏い輝きが、彼女は恐ろしかった。また眩しくすらあった。
 敬子の灼熱の情念の奔流に、霊夢は目眩がする思いだった。

「お前は一寸、他人に疎い処がある」
「そんなことは自覚してるわ!でもあんなことある!?あんな、指を噛み切って」

 霊夢が敬子から受けたのは狂気の形であった。彼女は初めて人間の深遠な部分を見せ付けられた。妖怪は強いけれども、敬子の様に、どろどろとした情念を彼女にぶつけることはなかった。
 妖怪は人間よりずっと単純であった。妖怪の殆どは力に任せて好きなことをするだけだった。然し忘れてはならないことを、彼女は暫く失念していた。妖怪は、人間の心の深い底の、内から顕現する。“人でなし”を内から引きずり生み出す人間も、また人でなしで、敬子とお菱を引き裂こうとした彼女も、また人でなしの範疇なのだ。

「少し落ち着こう。それから何とか解決しよう、な?」

 魔理沙は霊夢の頬に触れた。

「うん、うん」

 霊夢が落ち着いたのは三十の分が過ぎ去ってからであった。



 二日が経って、二人は博麗神社でぼうとしていた。解決の手段が見付けられなかった。
 敬子は放っていても気を病んで死んでしまう、然し無理矢理に絵を処分しても自害してしまう。
 何より霊夢が厄介と思ったのは、絵に宿った霊には大きな力がなかったことであった。霊の力は絵に封じられていて、非常に弱かった。例え多少の影響を敬子に与えても、偽りの恋心を感応させる程の力を彼女は感じ得ないのだった。
 然し敬子の恋に、霊夢の勘が何かを警告していた。絶対に霊は敬子に絡んでいると伝えていた。
 自分の勘が言いたいこともはっきりとせず、霊夢はやきもきとした。

「もう放ってしまって良いんじゃないか」

 縁側にごろんと寝転んで、魔理沙は面倒そうに言った。

「霊の影響が少ないなら、敬子さんの思いは間違いなく本心だろう。景子さんはあの女と添い遂げたい、その為に死んでも良いと思っている、それで良いじゃないか」
「でも霊と敬子さんには間違いなく何か繋がりがある」
「何でそう思う」
「分かるからよ」

 霊夢は有無を言わせぬ声で言った。何より彼女の勘は外れることがなかった。魔理沙も知っていたから、彼女を疑おうとはしなかった。然し諦めを促す言葉を掛けた。

「例えそうだとして、何が出来る」

 霊夢は言葉を返せなかった。

「結局の処、病は気からって諺の通りだ。敬子さんはあの絵の女が出て来でもしなきゃ立ち直らない」
「分かってるけど」
「それで良いじゃないか、もう」

 二人は暫く話さなかった。ぼやぼやと手段も見付からず、時間だけが過ぎ去った。
 二日も経てば霊夢も立ち直って、元の通り芯の強い雰囲気があった。
 霊夢はお茶を飲みながら考えた。然し考えても、二つの道より他に進む方角はなかった。何れの道に行こうとも、敬子は死ぬ。敬子は絵の女に因われて、黄泉の国への道を辿る。嫌な終わりばかりが彼女の内を滞った。




 不意に霊夢は鳥居の辺りから、縁側に向かって来る人影を見た。目を細めると、彼女は頭に付いた四つの鈴飾りを認めた。

「霊夢さーん!」
「小鈴ちゃん?」

 小鈴は急いで来た様で、ぜえぜえと肩で息をしていた。
 二人の下にたどり着くと、小鈴は一先ずは呼吸を落ち着ける為に深呼吸をしていた。
 霊夢は小鈴に対して負い目を感じた。頼りを裏切ったことが、彼女に暗い気持ちを抱かせた。

「小鈴ちゃん」
「はい?」
「御免なさい、何も出来なかった」

 頭を下げる霊夢に小鈴は慌てた様子で言った。

「霊夢さん、頭を上げて下さい。元は私が押し付けたことです」
「でも敬子さんが」
「聞きました、指のこと」

 霊夢ははっと息が止まった感じがした。

「阿求がね、敬子の家に行ったんです、それで」
「阿求が?」と魔理沙が不思議そうに言って身を起こした。
「彼奴も一応、敬子の知り合いでしたから」

 小鈴は懐を探って、一枚の封筒を取り出した。

「之は阿求からです。何か分かったことがあると」小鈴は続けて言った。「霊夢さん、敬子の指のことは、もう終わってしまった以上は仕方ありません。でも之が解決の糸口になるかも知れない、と阿求は言いました」

 小鈴は霊夢の手を握った。

「霊夢さん、貴女が頼りです。どうか敬子を助けてやって」

 小鈴は封筒を渡すと去って行った。

六 衝立の乙女

 何時の御世だったか、京都に若い学者がいた。名を篤敬と言う。
 篤敬は小道具屋で一枚の衝立を見掛けた。彼は衝撃的な感に打たれた。衝立に描かれた女は余りに美しかった。値段も安かったので、彼は直様に購入した。
 十五、六の乙女に惹かれ、篤敬は何時か絵に恋をした。彼は夢中になって、絵の女の他に、心を捧げる者の存在がいるとは思えなかった。彼は心身の全てを女に捧げたい心持ちだった。
 篤敬は学問さえも手に付かなくなった。女との出会いに喜び、また叶わぬ恋に悲しんだ。悲しみは何時か心を蝕んで、肉にも影響を及ぼして、彼は遂に病で床に伏せた。
 篤敬が病に掛かったと聞いて彼の友人、年配の学者が訪ねて来た。また訪ねて直ぐに、衝立を見ただけで事情を察した。
 友人は篤敬に言った。

「この絵は菱川吉兵衛が写生した娘だ。この絵が美しいのは、菱川が姿だけでなく、心さえ写したからであろう。娘はもうこの世にはいないだろう、然し心を写した絵には魂が宿ると言われる。この娘の魂を、お前は現世に映すことが出来るやも知れぬ」友人は続けて言った。「この娘に名を付けてやりなさい。また絵の前に座って、声を掛けてやりなさい。毎日、毎日、どれだけ日が経とうとも。そうすればこの娘が、お前に返事をする日が来るかも知れない」

 篤敬は気の病をから立ち直って。何日も何日も、狂人の如く絵に語り掛けた。名を呼んだ。言葉を捧げた。彼は友人の言葉を疑わず、根強く女と心を通わせる為だけに生きていた。
 更に経った日のこと、唐突に返事があった。篤敬が驚く間もなく、女は衝立からすうと出て来た。
 女は言った。

「貴方の思いは嬉しい。でも何時か私に飽きてしまうんじゃありませんか」

 篤敬は誓って言った。

「そんなことはない。死ぬ迄、来世、いや七生でも、貴女と共にいたいと思っています」
「もし私を裏切ったら、また衝立の中に戻ってしまいますからね」

 女の不安は杞憂だった。女がいた衝立は、何年が過ぎ去ろうと、空白を留めるのだった。



「菱川吉兵衛!」

 魔理沙が大声を上げた。

「衝立の右下の名前!掠れていたけど、間違いなく同じだ!」
「博識な歴史家に感謝しないとね」

 凡ゆるを記憶することが出来る阿求は、衝立の下の掠れた名と、似た逸話を一つ知っていた。彼女は頭の中の棚から、自分が知っている御伽噺を引っ張り出した。
 衝立の女、菱川吉兵衛。正しく御伽噺の通りだった。
 阿求は急いで霊夢の元に文を認めたのであった。

「でも、どうするんだ」

 魔理沙の疑問は、女と敬子を引き合わせるか否かであった。女を絵から現世に引き出す法は見付かった。引き合わせ、結ばれさえすれば、敬子は立ち直るだろう。
 奇妙だったのは何故、篤敬と添い遂げた女が、また衝立に戻ってしまったのかと言うことであった。

「何とも言えないわ。一度は出た女が、どうして戻ってしまったのかしら」
「実は裏切った、とか」

 御伽噺は唯の御伽噺で、終わり方が事実かどうかは、二人の知る処ではなかった。然し二人は篤敬の裏切りを想像も出来なかった。彼は女に入れ込み過ぎていた。心が枯れる程に。

「直接、聞けばいい」
「何?」
「呼び出し方も分かったことだし」

 霊夢は立ち上がった。魔理沙は訳が分からず慌てて声を掛けた。

「お前、一体どうする気だ?」
「まあ任せなさいって」

 言いながらも霊夢の顔は不安な面持ちだった。然し他に手段もなかった。敬子はもう先が短い。彼女に迷っている暇はなかった。

「魔理沙、暫く目が覚めない薬ってあるかしら」
「薬?まあ、あるけど」

 霊夢は飛び上がってから、振り向いて言うのだった。

「霊を呼ぶのは巫女の領分よ。兎にも角にも、相手を知らないとね」



 宵の明度が室を覆う中、敬子はぐっすりと眠っていた。魔理沙の薬は良く効いていた。
 敬子の両親は二人に協力的であった。敬子の親としては、矢張り娘が一枚絵に因われているのは、辛いことだった。解決を齎すかも知れない二人の頼みを、敬子の両親は直ぐに了承した。
 薬を混ぜられた飲み水を飲んで、敬子は目覚める気配すらなかった。
 魔理沙は魔法の弱光を灯した。

「効果抜群だぜ、明日の朝頃にならないと起きない筈だ」

 魔理沙はにやりとした。

「で、どうするんだ」
「簡単よ」

 魔理沙は息を飲んだ。彼女は霊夢に神秘的な力が満ちた気がした。
 ゆっくりと、霊夢の口から言葉が発せられる。彼女は絵に語り掛けた。偽りの慈しみを交えながら。

『お菱、出て来なさい』
「はい」

 魔理沙は叫びそうになった。ずるり、とお菱が絵の中から現れた。
 衝立から出たお菱は絵の姿より、更に美しかった。筆舌も憚る美しさだった。
 お菱はにっこりと笑って霊夢を見据えた。

「ああ、巫女様、何とお礼を言ったら良いか」
『顔より他、動くな』

 ぴたり、とお菱の動きが止まった。少し揺れていた衣服や、指の動き迄も、時間が止まった様に凍り付いた。
 室に静けさが戻った。
 魔理沙は漸くはっと立ち直って霊夢に話し掛けた。

「凄いな、どうやったんだ」
「言霊よ」
「言霊?」
「篤敬は素人だった。だから絵から女を出すのに何日も掛かったのよ、でも」霊夢はお菱をまじまじと眺めて言った。「私は違う、本物の巫女よ。巫女は言葉だけで神さえ呼び出す。この霊を呼び出すには深愛が必要だったけど、本心でなくっても良い。信じる心が重要なのよ」
「凄まじい力の持ち主ですね、貴女は」

 お菱は体を動かそうとしたけれども、全く指の一つも動かなかった。霊夢の言葉は彼女を完全に縛り付けていた。

「あの人は何日も私に声を掛けたと言うのに」
「篤敬ね」
「ええ、そうです」

 お菱は懐かしむ様に瞼を閉じた。

「あんたは篤敬と添い遂げて、二度と衝立に戻らなかったって聞いてるわ」
「私はそんな風に言われているのですか」
「知らなかった?」
「ええ」
「聞いて、貴女は敬子さんに害を与えている。敬子さんはあんたに因われている」
「分かっています、買われてから、ずっとお敬を見ていた」

 お菱は敬子を愛称で呼んだ。

「見ていた?」
「ええ!本当に、本当に嬉しかった!もう絶対にあの人は私の前に現れないと思っていた!でも違った、あの人はまた私の前に戻って来た。お敬はあの人の生まれ変わりです!」
「何?」
「成程ね」

 魔理沙から驚嘆の声が響いた。対して霊夢は少し予想をしていた答えが返って来たので、冷静に相槌を返した。

「敬子さんがあんたに入れ込んだ理由が分かったわ」
「お敬を、いやお敬の魂を見て直ぐに分かりました。正しく篤敬の、優しいあの人の魂」

 お菱は大層に嬉しそうであった。

「でも、どうして?どうしてあんたはまた衝立の中にいたの?」

 然しお菱の喜びは霊夢に遮られた。彼女の顔は苦しげな面持ちに変わった。

「もう何百年か前の話になります」

九 衝立の乙女 秘幻想
 ……日本の原話は、幾つかの事柄を説明せず、ぷつりと此処で終わっている
   光は東方より 小泉八雲




 御伽噺は人が口から伝えて行く。話は人へ伝わると、様々な形に歪んでしまう。人から人へ、更に人から人へ。笠地蔵の如き単純明快な話でさえ、地方によって、多種多様な形を見せている。
 お菱は後を語り明かした。
 お菱は老いなかった。彼女は現世に現れても、本質は霊的で、篤敬の言霊の影響を受け継いでいた。
 美しく、美しくと望んだ篤敬の言霊は、お菱に老いを与えなかった。然し二人には大した問題ではなかった。
 お菱は約束した。

「貴方が死んだら私は自害しましょう。そうして来世でも、添い遂げましょう」

 篤敬は老いて、七十三で亡くなった。当時としては長寿であった。
 篤敬を看取ると、お菱は直様に自害した。また来世で出会えると思った。然し誤りであった。彼女は人間でも、妖怪でもなく、絵師が吹き込んだ偽りの魂を持つ存在だった。
 お菱は川を越えられなかった。魂は元の居場所に引き戻された。
 七生を誓い合った二人は、呆気なく運命に引き裂かれたのであった。



「私は失意の中、絵に囚われました。もうあの人に会えないこと、それがどんなに辛かったか」

 お菱の目から悲しみの涙が溢れた。

「でも」

 涙はまた、喜びでもあった。

「姿は変わっても、あの人は現れました。お敬こそ、私の大切な人。来世を約束した人でした」お菱は霊夢に懇願した。「お願いです、巫女様。どうかお敬に触れることを許して下さい」

 お菱は直ぐにでも動き出したかった。何百年も待った、殆ど諦めていた人が、目の前にいるのだから、彼女の言葉は痛切な意思を含んでいて、霊夢は哀れを感じない訳には行かなかった。

「良いんじゃないか」

 魔理沙は優しげに言った。彼女は二人の縁に心を揺り動かされていた。
 霊夢も同じだった。彼女は一つ溜息を吐くと、お菱を解き放った。

『好きにしなさい』
「お敬!」

 お菱の目の前にいた二人は突き飛ばされた。彼女は二人に言葉を返す余裕もなかった。

「ああ、お敬、お敬」

 お菱は敬子の手を握って、何度も名前を呼んだ。彼女の長年の感情が溢れ出して、更に涙は流れて行った。
 霊夢と魔理沙は起き上がって、顔を見合わせた。二人は微笑んだ。

「上手く行った…か?」
「そうかもね」

十一

「本当に良いのか?」
「ええ」

 二人は心底に驚いた。お菱は現世に残ることを望まなかった。

「お敬と一緒になることは出来る。でも終わってしまえば、また辛い日々が待ち受けるでしょう。幻想郷と言う狭い世界で、またお敬が現れると何故、言い切れましょうか」

 お菱は悲しそうに言った。諦めの意思を含んでいた。

「巫女様、魔女様。どうかお敬に言って下さい、私を忘れて生きてくれと。私の言葉なら、お敬も納得してくれるやも知れません」
「納得しなかったら?」
「それ迄でしょう、人は何時か死にます」

 二人は納得し難かった。
 「出会えたのに、何故?何で自ら仲を引き裂くの?」と霊夢は思案した。
 霊夢はもう二人を引き裂く気はなかった。お菱がいれば、敬子は気を取り戻すだろう。全ては丸く収まる筈であった。
 然しお菱の痛みもまた理解が出来た。何百年も待って、幻想郷で出会えたのは殆ど奇跡と言って良かった。お菱は一時の幸せを味わうだろうけれども、先に待つのは、長い孤独であった。
 もう自害をせずとも、お菱に他の人に心を捧げる気は全くなかった。

「まあ、あんたがそう言うなら良いけど」

 霊夢は渋々と言った様子だった。

「本当に良いのね?」
「ええ」
「後悔しない?」
「ええ」
「絶対?」

 お菱はくすくす笑った。

「巫女様、巫女様」
「何よ」
「有難う」

 お菱は先に礼を言った。霊夢は後に戻れぬ心持ちになって、苦い顔をした。

「狡いわ」

 霊夢は目を伏せて、一つ息を吐いた。目を開けた彼女に迷いはなかった。彼女の口から言葉が紡がれた。

『さよなら』
「ええ、さよなら」

 姿が透ける。お菱は曖昧に霞んで、また衝立の中に戻って行った。彼女はまた動かなくなった。
 二人は暫く呆然とした。疲れがどっと襲って来て、余韻に浸っていた。

「あーあ、疲れた」
「ええ、本当に」
「之で良かったんだよな」

 霊夢は返事をしなかった。敬子の寝息が室に響くばかりだった。

「今日は泊めてもらおう」

十二

 二人は衝立を眺めていた。
 霊夢は怒りで掌をぎゅうと握った。

「迂闊だった」

 衝立は言い様もない程に美しかった。衝立は以前より、更に美しさを増していた。

「現世に現れたせいで、二人に強い繋がりが出来たのよ」

 衝立の中の女は一人ではなかった。

「あんた、私にお礼を言ったの、嘘だったのね」

 霊夢には何があったか容易に想像が出来た。
 お菱は霊夢に嘘を言った。敬子を諦める気は全くなかった。然し孤独に戻るのも嫌だった。彼女は考えた。「どうすればお敬と一緒にいられる?永遠を分かち合うにはどうすれば良い?」。
 お菱が幸運だったのは、長年の歳月を経て、霊としての格が上がっていたことであった。外に漏れる力は微弱でも、また衝立から解き放たれると、力は敬子に影響を与える程であった。彼女の行動は早かった。再び衝立に戻ってから、敬子に感応し、眠りから目覚めさせ、誘惑した。敬子は皆が寝入る中、短刀を持ち出して自害させられた。
 お菱は敬子の魂を逃さなかった。彼岸に行ってしまう前に、彼女は魂を絡め取った。敬子の魂は衝立の中に封じ込められたのだった。

「何でよ、何でなの…どうしてよ、どうして笑っていられるの」

 霊夢は衝立の前に座り込んだ。ぽろぽろと彼女の目から涙が滴った。
 敬子が衝立に体を、魂の抜け殻を預けていた。
 何より霊夢が認めたくなかったのは、敬子の表情であった。殺されたと言うのに、衝立の中の敬子に苦悶の表情はなかった。
 魔理沙は帽子を深く被った。

「二人は幸せそうだ」

 霊夢はもう衝立を焼き払って、敬子を助け出そうとも考えた。然し出来なかった。二人が描かれた衝立は、焼き払うには、余りに美し過ぎた。
 衝立の中の敬子とお菱は、迚も、迚も嬉しそうに微笑んでいた。途方もなく美しかった。

「それで良いじゃないか…私はそう思うよ」




七生も心、変わることなし 終わり
衝立の乙女は小泉八雲の“日本の怪談”や“光は東方より”に書かれています。鈴奈庵で御伽噺の聞き耳頭巾の話を膨らませていたことから着想を得ました。
ドクター・ヴィオラ
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面白かったけど後味があんま良くない印象です
それを狙ったものかもしれないけど
3.90名前が無い程度の能力削除
輪廻に乗れないお菱は霊と云っても付喪神なのか?
永遠不変は輪廻の対極にある禁断の果実やね。だからこそ焦がれる
わたしは好きだねこう云うの
5.90名前が無い程度の能力削除
よかったです
6.70名前が無い程度の能力削除
これゆかりんからすると絶対に許されないやつだよね?
妖怪退治に失敗する霊夢というのは新鮮でした。
7.80奇声を発する程度の能力削除
こういう雰囲気のお話も悪くないです
9.100名前が無い程度の能力削除
これは面白い。しっかりオチでどんでん返しがあるのが実に妖怪談っぽい。
11.90名前が無い程度の能力削除
幻想郷にはおとぎ話のいろんなタイプの結末が流れ着いてそうですね
12.90名前が無い程度の能力削除
こういう雰囲気のお話は大好きです
面白くて一気に読んでしまいました

今更でしょうが誤字の報告をば
五の>「霊の影響が少ないなら~」の段、”敬子”が”景子”になっていました