Coolier - 新生・東方創想話

リメイン・オブ・ジ・アッシュ

2017/01/02 20:21:31
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The Remains of the Ashes

 彼は背中のナップサックを揺すりあげてから荒廃した土地を眺めた。道は無人だった。下の狭い盆地には静止した灰色の蛇のような川。その不動の精確な輪郭。両岸には死んだ葦の繁みがまつわりついていた。大丈夫か? と彼はいった。少年はうなずいた。それから二人は砲金色の光の中でアスファルトの道を歩き出した。灰を小さく蹴立てながら、それぞれが相手の全世界となって。
――コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』より。


   #01 にわか雨

 里の跡地を歩いていると、懐かしい顔に出会った。鬼の少女は倒壊した家屋を両手で持ちあげ、瓦礫と化した屋内をのぞきこんでいた。そして首を振った。声をかけると、彼女は驚いて振り返った。相好を崩して手を放した。轟音と共に梁が折れ曲がり、瓦の破片が飛び散った。埃と煙が中空を舞う。
「――天子じゃないか」
「気安く呼ばないでよ」天子は腕を組んだ。「どこに行ってたの? 顔も見せないで」
 鬼が頬をかいて云う。「地底さ。昔なじみと過ごしてたんだ。少なくとも、あっちは賑やかだから」
「ふぅん。鬼はみんな消えちゃったかと思ってたわ」
「旧都はもともと見捨てられた地だからね。そのぶん影響も少なかったんだろ」
 それにしても、本当に久しぶりだなぁ、と肩を叩かれる。天子はよろめいた。あいかわらず力加減が下手な奴だと思った。髪がすこし色あせて見えるほかは、どこも変わっていない。強い妖気にあてられて、霊たちが身体にまとわりついている。怨霊でもなく、亡霊でもない。神霊とすら云えないくらいに弱々しい、魂の残り滓だ。
 萃香は話す。「だれか残ってないかと思ってたんだけどけね。勇儀にも止められたんだ。〝無駄だよ〟って」
「相方が賢かったってことね」
「まぁね、結果的には」
 瓦礫に染みが広がり、数が増え、やがて勢いを増しつつある雨になった。手近な家屋はみな倒壊していたが、遠くに焼けて黒ずんだ煙突が見えた。かつての銭湯だ。二人は戸を蹴破ってなかに避難した。番台には誰もおらず、線の切れた黒電話や、バネの弾けたクリップボードが横たわっていた。二人分の振動。割れた茶碗や牛乳瓶が、ネズミの死骸のように床を転がりまわる。
 ガラスの割れた引き戸を開けた。浴槽は干からびており、腐乱した体液が染みついたかのような黒ずみが至るところにこびりついていた。桶を逆さにして座りこむと、萃香は瓢箪を傾けて一杯やった。
「さ、やろう。悪いね、お猪口は持ってきてないんだ」
「別に。……というか、誰も酒盛りするなんて云ってないわよ」
「積もる話の御伴は必要だろう?」
 天子は久々の酒精を味わった。数秒と経たずに胸がかっと燃えあがる。炎は目頭さえも熱くする。屋根に打ちつける雨の音が遠くなる。隙間から寒風が吹きこんでくる。永い冬はまだ終わりそうにない。
 しばらく黙って吞み交わしたあとで、鬼は呟いた。「そういえば、あれから大丈夫なのかい?」
「なにがよ」
「天人五衰」
 ああ、と天子は嘆息し、しゃっくりを漏らした。「平気よ。どういうわけか、私だけね」
「不良天人なのが逆に功を奏したのかもねぇ。あんた、最後まで妥協しらずだったから」
「なら好いんだけどね。――もしくは天人ですらなくなって、丈夫な人間に戻っただけなのかも」
「それって仙人じゃないか」
「冗談」
「馴染みの顔には会えたかい。私以外に」
「別に。でも、まだ何人か残ってるみたいよ」
 鬼は「そりゃ何よりだ」と無邪気に喜んだ。「地上に出てきた甲斐があったってもんだ」
 酒の味も分からなくなるほど楽しんだところで、萃香が危なっかしい足取りで立ち上がった。
「天子、……ねぇ」と彼女は云う。「どうにもならなくなったらさ、地底に来なよ。昔ほどじゃないけど、賑やかだよ」
 苦笑いが漏れた。「天人が地獄へ? 悪い冗談よ」
「真面目な提案だよ。酒盛りの後でなんだけど」
 ひび割れた洗面用のガラスに映った自分の顔を睨んでいた。赤らんだ顔は往年の健康を幾分か取り戻したように見えた。
「……そうね、考えとくわ」

   #02 緋色

 まだ〈地子〉だった時分に口にした仙果の味のことを今でも覚えている。初めての天界のお食事。熟れた桃。緋色の果実。禁断の味わいは極上だった。厳かで退屈な儀式は続いた。父は名居家のお偉方に頭を下げ、賜った宣下に恐悦至極のようすだった。明日から、私たちも御許に昇れるんだよ、と嬉しげに頭をなでられたと思う。あのころの父はまだしも話の分かるひとだった。
 いちど、大きな地震があり、人びとが家屋に押しつぶされ、火災に巻かれるさまを黙って眺めていたことがある。これは必要なことなのだ、と天人は口にした。無理に押しとどめようとすれば、もっと酷いことになっていたと。あれより酷いことってあるのだろうか、と天子は父に聞いた。彼は首を振った。学んできた故事も格言も、圧倒的で実際的な破壊の前では無力だった。
 最後の死神の襲撃がいつだったか思い出せない。彼岸は絶対的な沈黙を守っている。まるで地上の人びとにとっての天界のように。今では歪曲した鎌の輝きさえもが懐かしい。昔は天界の端で寝転んでいると、好きも嫌いも含め、いろんな来客があった。最後にやってきたのが死神の連中だ。錆びついた鎌で、疲労した身体を引きずって。逆に殺されたがっているように見えたのだ。天子は望むようにしてやった。彼らは満足げに消え去った。あのとき剣を収めていれば、今ごろば友だちになれていただろうか。
 一日という時間の尺度はどんどん長くなってゆく。読み終えて、積み上げた本の数も増えていく。相対性、という言葉が頭に浮かぶ。時間は絶対的な概念ではない。光だ、と空を見て想う。光以外に確かなものはない。緋色の雲は今も暖かい光を湛えて空に浮かんでいる。まだ太陽は生きている。夕暮れが拝めた日には、天子は好く眠れる。誰もいない屋敷の一室で。

   #03 遠い声、遠い顔

 家というよりも〈ねぐら〉と呼んだ方が差し支えない廃屋だった。崩れかけたところを寄せ集めの材木で無理やり補修してある。柱を蹴飛ばしてやれば倒壊してしまいそうだ。裏には下手くそに積み上げられたコンクリート製のかまど。焼け焦げの残った金網。今では焙り焼きがもっとも簡便で美味な調理法だ。駄目もとで戸をノックしてみると、中から衣擦れの音がした。
 戸を開いた彼女はしばらく固まっていた。口から息をふかく吸いこみ、そして吐いた。何も云ってくれなかったので、こちらから声をかけた。「……衣玖、久しぶり」
「総領娘様、ですか」
「そうよ。かれこれ十回は訪ねてるのに、いつもいないんだから」
「やっと監視の任を解かれましたので、昨日、降りてきました」やつれた笑顔が浮かんだ。「しばらくはお休みです」
「へえ、好かったじゃない。ところでどうしたの、その恰好?」
 継ぎはぎだらけの袴に視線が向いた。「これが何か」
「まるで里の人間みたいじゃない」
「地上にいるときは、地上の流儀に従うのです」
「誰も残っていなくても?」
 彼女はうなずいた。「誰も残っておらずとも」

 蕎麦粉を溶かした湯が出された。身体が温まるような代物ではなかったが、ありがたく頂いた。衣玖は濁り酒が入った紙パックを取り出し、蛇の目が底に描かれたお猪口に注いで飲んだ。ほうっと息をついて立ち上がり、梁からぶら下がっている干物をナイフで削いで口に放りこんだ。咀嚼しながら何度かうなずいてみせた。
 天子は眉をひそめた。「なに、それ」
「鹿肉の干物ですよ。けっこういけます」
「臭みが凄そうね」
「そうでもないです」
 家のなかはどこか饐えた臭いがした。清潔に頓着している余裕がないのかもしれない。天女にとっては命よりも大切なはずの羽衣は、梁に刺した釘に引っかけられている。まるでバスタオルのような扱いだった。天子は咳ばらいしてごまかし、竜宮の使いの現況について訊ねてみた。龍の巣は今どうなっているのか、と。
「何人かは墜ちました」衣玖は淡々と語った。「消耗して、干からびて、地上に打ち上げられてしまったんですね。私たち下位の天女は、地上の人間よりも貧しい生活を送っていましたし、生き残る余力がなかったんでしょう。羽衣婚活、――覚えてらっしゃいますか? 同僚のほとんどは自主的に地上に降りました。雲海で渇え殺しになるより、人間と添い遂げるほうがマシだと。今頃はどこにいるのやら」
「出て行ったんじゃない、外の世界とかに」
「かもしれません」稲藁を枕にして横になり、仏陀が寂滅するような姿勢になる。「どちらにしろ長生きはできませんね。龍の巣もずいぶん寂しくなりました。緋色の積乱雲に囲まれて、嵐の音を聴きながら寝起きするのも馬鹿らしくなったので、こうして地上に降りてきたんです。……といっても、龍神様の言葉を授かったとして、伝える相手がいないのでは無意味ですけどね」
 彼女はごろりと寝転がると、棚から爪楊枝を取り出し、歯の掃除を始めた。天子は「ちょっとちょっと」と云って身を乗り出した。
「何か?」
「何か、じゃないわよ。はしたないわね」
「好いじゃないですか、体面を気にする世の中でもありませんし」
 そう云って眼をそらす。天子は湯呑みを両手で包みこみながら、彼女を見つめていた。
「なに、衣玖ったらどうしたの、やさぐれてんの?」
「お好きなように解釈してください」

 昼寝を始めてしまった天女を置いて、外に出てみた。雪が降っていた。化粧した山々。煙の上がらなくなった人里。枯れ木の葬列。倒壊した家屋にまで、雪は平等に注がれる。妖怪も妖精もいない。空はどこまでも続き、遮るものは雲ばかり。煙草というものが吸ってみたくなる。本の登場人物たちが、こんなときに、そうしていたように。
 天子はミトンの手袋に息を吐きかけた。コンクリートに藁を敷いた即席の椅子に座って、幻想を喪ってしまった世界を眺めていた。雪の積もる音をかき分けて、どこからか赤ん坊の泣き声が聴こえてくるのではないかと、あらぬ想像にふけった。
「今年も寒いですね」衣玖が隣に座って云った。「こう寒くては、龍の巣のほうがマシかもしれません」
「すくなくとも電気は有り余っていそうね」
「ええ。炬燵が恋しくなります」
「好いじゃない。炬燵と云えばさ、神社でよく――」天子は口をつぐんだ。「……とにかく、好さそうね」
「総領娘様もいらっしゃっては如何です? 歓迎はしませんが、もてなしはできますので」
 萃香の提案のことが頭に浮かんだ。「どいつもこいつも誘いたがりね」
「誰かがいると分かるだけでも、心は安らぐものですよ」
 天子は黙っていた。思い出したように衣玖に向き直った。
「ところでさ、〈総領娘様〉って呼び方、止めてくれない?」
「どうしてです。語呂が好くって、威厳もあるではありませんか」
「張りぼての威厳なんて意味ないわよ。総領も何もかも無くなったんだから」
「では、どのように」
「……天子よ。ただの天子で好い」
「それでは、――天子様」
 衣玖は頭をすこし傾けて、微笑んでみせた。そのときだけは、在りし日の天女に戻ったように見えた。

   #04 灯

 雪が本降りになり、空を飛ぶにも支障が出るので、衣玖の〈ねぐら〉に泊まっていくことになった。囲炉裏に火を焚いて、かけがえのない灯(ともしび)を見つめながら眠りにつこうとした。雪が屋根から滑り落ちる音が時おり聴こえた。屋内にまで冬の匂いが忍び入ってきた。天子は身じろぎして、両膝を身体に引きつけた。布団の丈が足りない。
 衣玖、まだ起きてる、と声をかけてみた。
 なんですか。か細い声が返ってきた。
 寒くて眠れないんだけど。
 我慢してください。それとも子守歌でも唄って差し上げましょうか、昔みたいに。
 冗談。
 何か考え事でも。
 昔話、聞いてくれる?
 どうぞ。
 天子は炎の先に揺らめいている衣玖の顔を見ながら話した。
 まだ地上に住んでたとき、お盆の時節、灯籠流しがあったの。とても静かだった。みんな手を合わせていたわね。夜の闇のなかで、川面を火が滑っていくように見えたわ。眼をぎりぎりまで細めると、灯が天に昇っていくかのように伸びてたの。サーチ・ライトみたいで、でも、それよりもずっと優しい光よ。あいつが、お父様が、何をしてるんだい、怖い顔してって訊ねてきた。私はすぐに眼を開けて笑ったわ。はにかんでたのかもしれない。お父様も笑ってた。私は自分の発見を知られたくなくて黙ってたの。亡くなったひとの魂が見せてくれる優しい光のこと。空に消えた灯のこと。
 衣玖はしばらく黙っていた。それで、と口を開いた。――それで、どうして今、そのことを思い出したんです?
 天子は答えた。
 私が天人にならずに、地子のままだったなら、きっと色んな発見をし続けたと思うわ。たくさんの灯を見つけられたと思う。少なくとも、こうなってしまう前に、すでに埋もれてしまった沢山のきらめきを、私は見つけられたはずなのよ。
 天人には、なりたくなかったと?
 どうかしらね。ただ、この結果は残念としか云えない。
 忠言を申し上げてもよろしいでしょうか。
 なによ。
 だったら、とか、もしも、といった言葉は、今みたいな時ほど使わないほうが好いですよ。吞みこまれてしまうので。
 天子は渋々うなずいた。
 ええ、そうね。
 私も時には考えてしまうことがあります。衣玖は語った。龍の巣に引きこもってばかりいないで、雲海を漂ってばかりいないで、人びとの営みをもっと記憶に納めておいても好かったのではないかと。今さらになって地上の厄介になってみても、自然が美しいという以上の感想が出てこないんです。天子様は、まだ運が好いですよ。異変をきっかけに交流が持てたんですから。
 異変か、懐かしい言葉ね。
 いずれ、ここもただの山奥に戻るでしょうね。人跡未踏。始めから何もなかったみたいに。
 悲観的なことばかり云うもんじゃないわよ。
 せめて諦観と云ってください。
 衣玖だって、まさか消えたくはないでしょ?
 彼女は聞こえないふりをしていた。瞳は閉じられていた。天子は溜め息をついて、毛布をかぶり直した。やはり、眠れなかった。

   #05 雪に沈み

 例年になく寒さの厳しい冬だった。大雪が何日も続いた。景色が煙り、山の輪郭さえもがおぼろげになる。ようやく晴れた日の朝、萃香は以前から気にかけていた集落に赴いた。やっと見つけた生き残りだった。最後に見かけたのは一週間前。だが、人間の命を奪い去るには充分な期間だった。
 雪の重みでぺしゃんこになった家屋から少女の遺体を掘り出すと、木陰に横たえた。綺麗な死に顔だった。手を合わせてしばらく眼をつむっていた。それから萃の力で枝木を集め、火を起こす準備を始めた。
 要石に腰かけた天子がやってきたときには、すでに済ませるべきことは終わっていた。
「煙が見えたから」彼女は地面に降り立って云った。「なんだ、萃香だったのね」
「また会ったねぇ」
 瓢箪の中身を鍋に注ぎ足し、漆の杯で味のしみ込んだ酒をすくう。
 天子が鍋のなかをのぞき込みながら云った。「鮎の骨酒みたい。温まりそうね」
「好かったら、あんたもどうだい」
「ええ」天子は向かいの丸太に腰かけた。「鹿、それとも猪?」
 右手の木にあごを向けてやった。枝から敷布のようにぶら下がっている代物を見て、天子は腰を抜かした。萃香は笑いながら酒をひと息に飲み干した。
 天人がもがきながら叫んだ。「ちょっとあんた、何やってんのよ!」
「殺しちゃいないよ。凍死さ。勿体ないんだ。分かるかな、この心意気」
「分かりたくもないっての」
 二の腕をつかんでさすった。がちがちと歯が鳴った。
「鳥肌が立ったわよ、ほんと」
「皮だって地底の連中には大事な素材さ。骨も、髪もね。無駄なところなんてひとつもない」腹をさすった。「ああ、美味しかった。ご馳走様」
 鍋が空になり、湯気もおさまった。雪に埋もれて、寒さに溺れて、生気の消え失せてしまった集落を眺め渡す。
「またひとつ、村が消えたねぇ」
「そうね」天子は空鍋をぼうっと見つめていた。「ねぇ、萃香。――あんたもいつかは消えるの」
「いつか、ね」朗らかに答えてやる。「でも、それは今じゃない」
 立ち上がって雪をすくい取り、萃め、球の形に押し固める。転がしてどんどん大きくしてゆく。雪だるまだ。こんな風に、いつかのように、神社で能力を使ってみたことがあった。誰も萃まってはこなかった。遅すぎたのだ。
「あんた以外はね」
「なんか云った?」
「天子はしぶとい奴だなって云ったんだよ」
「私は元人間だからね。幻想の、最後のひと欠片まで消え失せても、生き残ってやるわよ」
「それでどうするんだい」
「見届けようと思ってる。誰かがこの世界の見納めをしてあげなくっちゃ、寂しいじゃない」
「私はそんな考え方できないなぁ」雪だるまの頭に取り掛かりながら答えた。「死人を看取るような慣習、鬼にはないからね。歴代の巫女が亡くなるときだって、そうだった。湿っぽいのは嫌いなんだな」
「薄情ね」
「そう云われてもしょうがない。自覚してるよ」
 頭を胴体に乗せ、枝の代わりに骨を刺しこんだ。二、三歩さがって出来栄えを確認しながら、言葉を紡ぐ。
「この前の提案、まだ生きてるからね。いつでも歓迎するよ」
「まだ云ってるの?」
「あんたのような面白い奴、なかなかいないから。せめて顔くらいは出しておくれよ」
「この世界の痕跡がすべて草木に埋もれたときでも、地底への入り口はまだ残ってるかしら」
「私が見つけてやるから心配しなさんな」
「へえ、嬉しいわね」
 萃香は横目で天人を見つめた。彼女はまだ鍋の中身を見つめ続けていた。爪で後ろ髪をかきながら、萃香は分銅を持ちあげてはまた下ろした。「……なぁ、悪かったよ。お墓でもたてて、埋めてあげれば好かったかもしれないね」
「別に、何も云ってない」
「私は妖怪だよ。餓えてるときにご馳走が目の前に転がっているのに、黙っていることなんてできない」
「だから、何も云ってないわよ」
「私だってこのまま、霧になって消えちまうわけにはいかないんだよ」
 天子は立ち上がった。「これ以上、何も云わないで」
 萃香は腕を下ろした。天人の少女は口で息をしていた。肩が震えていた。ずんずんと歩いてきて、ミトンの手袋を外し、両手で頬を包みこんできた。白く濁った吐息が彼女の腕を這っていった。
「変ね」天子はうつむいて云った。「こんなに近くにいるのに、手で触れるのに、なんで突然いなくなるのよ」
「私に聞かれても困るよ」
 落下する音が聞こえた。首を振り向かせる。枝から落ちた雪に巻きこまれて、雪だるまの頭が取れてしまっていた。椿の花のようにあっけない終わり方だった。熱が急速に冷えてゆき、手の温もりも、柔らかさも感じなくなった。天子が腕を引いた。頭をなでてやろうとすると、彼女は手を振り払った。いつものように強がりを云った。「子供扱いしないで」
 別れてから、ひと言だけでも手渡してあげれば好かったかな、と考えた。甘えても好いんだよ、と。

   #06 自由落下

 龍の巣。緋色の積乱雲に護られ、嵐の音たえず、岩石の地表に打ちつける、終わることのない雨。陽の光は永久に届かず、閉じこもって沙汰を待つのみ。岩壁にへばりつくように存在している衣玖の家は、外の世界でいうところのワン・ルームだ。子猫のように炬燵のなかで丸まりながら、窓にうちつける雨の音を聴いている。ラジオはいつからかノイズばかりになった。外の世界の電波さえも拾えなくなったのだ。あるいは外の世界の人びとも消えたのか。日めくりカレンダーの最後の日付は十年前の今日。架け替えることさえ億劫になっている。コーヒー・サイフォンがこぽこぽと音を立てる。雨音と混じりあう。柱時計が拍子をとる。雷が鳴る。衣玖は寝返りをうつ。頁の角が折れ曲がった、読みかけの小説が目に入る。
 起き上がって珈琲を口にすると、窓辺に寄った。ジェット気流のように運動を続ける雲の群れ。数千年も続いてきた嵐。今、どれくらいの天女が生き残っているのか。龍神様は何も語られない。雲のようにたゆたい、意識を沈め、大気の流れを観察し続ける。それが竜宮の使いの仕事だ。心がもたなくなって、帰ってこれなかった同僚も数多い。打ち上げられた遺体は、観ていて気持ちの好いものじゃない。
 窓を開けると同時に、地獄のような雷の轟音が飛びこんできた。雨が部屋中に吹きつけてあらゆる物を濡らした。煙草の灰が飛び散った。衣玖は眼を細めて雲間に光を見つけようとしたが、無駄だった。諦めて窓を閉めると、再び炬燵に潜りこんだ。この機器が壊れたときのことを考える。幻想郷に新しい炬燵を用立ててくれる者はもういない。他の文明の利器も同様だ。ひとつ、またひとつと灯が消えてゆく。毎日のように思考がめぐる。いつが私の死に時だろう。今日か、明日か。それとも百年後。

   #07 スイング・バイ

 天子は龍の巣に向かっていた。そびえ立つ塔のような威圧感も、今となっては却って滑稽に見えた。雲の奥で雷が明滅している。近づくごとに音は大きくなる。緋想の剣で道を作り出そうとしたとき、巣の底から何かがこぼれ落ちていくのが見えた。ほとんど反射的に行動した。要石に這いつくばり、空気の抵抗を抑えて、直滑降のように雲を滑り下りた。下層の雲海を突き抜けると、雪景色に覆われた幻想郷が視界いっぱいに広がった。寒風が眼に沁みて、涙があふれ出た。近づくにつれて、落ちゆく人影が彼女だと分かった。山肌が迫っていた。両腕を伸ばして彼女を受け止めた。バランスを崩して要石から放り出され、背中から地面に激突した。肺から全ての空気が口を伝って出てゆき、視界が上に下にと入れ替わった。雪の欠片が陽の光を反射してきらめくのが一瞬だけ見えた。衣玖を抱きしめながら転がり続け、後頭部を岩にぶつけて停止した。天子の頭蓋が割れる代わりに、岩のほうが真っ二つになった。
 仙果を食べ続けていて好かったと、頭の隅でぼんやり思った。
「――こンの、大馬鹿女!」
 衣玖の頭を拳骨で叩くと、彼女は眼を覚ました。天子の顔を認めると、胸元に顔を埋めてきた。
「ちょっと、何よ、離れなさいよ!」
「……お腹が空きました」
「もっと他に云うべきことがあるでしょうが!」
 衣玖は平板な声で呟くように云った。「助けて」
「もう助けたじゃないのよ!」
「助けてください」
 衣玖が顔を上げた。二人の眼が合った。天子は暴れるのを止めた。
「……あんたの方が、私よりもずっと平気そうだったじゃない。今になって〈助けて〉なんて云われても――」
「お願いです」
 衣玖は泣いていなかったし、顔だって無表情だった。心なしか青ざめて見えたが、それだけだった。天子は彼女から眼をそらすと、背中に手を置いてさすってやった。山の斜面には二人が滑り落ちてきた跡がくっきりと残っていた。枯れ木に囲まれて、生き物の姿はなく、不気味なほど静かだった。服はひどい有様で、帽子だって失くしてしまったけれど、とにかく、生きていた。
「あんた、昔っから何考えてんのか分からなかったけど――」衣玖の背中を手のひらで叩きながら云う。「違うんだ。下手くそなんだね。気持ちを伝えるのが」
 衣玖が答えた。「……竜宮の使いを長いことやってると、感情が擦り切れてくるんです。来る日も来る日も雲海をただよっていると、心がまるごと大気に溶け出していくような気持ちになります。いっそ、雲になれたら好いのにと」
「それでも、――生きたいのね」
 間が空いた。衣玖は眼を伏せた。「はい」
「分かった」天子はうなずいて、彼女を抱き寄せた。「それだけ聞ければ、好いのよ。本当に」
 それだけで好い、と繰り返した。魔法の呪文のように何度も。それだけで好い。衣玖の手が背中に回った。天子は顔を上げた。空は高かった。雲のない、久々の快晴だった。雪が陽光を反射して、雪原にいくつもの灯がともっているように見えた。あのときのように。去ってしまった全ての人びとの魂を乗せて、灯を宿した小舟は流れていった。また会いに来るからと、彼らの木霊を残して。

   #08 灰の名残り

 かつて大空には鳥のほかにもたくさんの存在が棲んでいた。手で触れることができたし、その声を聴くこともできた。緋色の雲に紛れて衣をたなびかせている姿を見ることもできた。それらの存在は各々にパズルのピースのようなものを持っていて、一枚につなぎ合わせることで太古の人びとが抱いていた世界の像を知ることもできた。それは二度とは元に戻らない夜の世界の姿だった。

 大気のうなる音が聴こえた。天子は幻想郷の遥か上空を泳いでいた。春が芽吹き、雪解けが始まり、桜が咲いても、戻ってきた者はひとりもいない。衣玖や萃香と花見をしながら共に酒を飲み交わした。博麗神社の桜の美しさは、今も変わらない。永い間、人の手が入らなかった境内を掃き清め、空っぽの賽銭箱に倒壊した家屋からかき集めてきた泥だらけの硬貨を放りこんだ。今は、二日酔いを醒まそうと、空を漂っている最中だ。
 天人の肌は水滴を弾く。寒さだって暑さだって何ともない。それでも不死身ではない。今では空に浮かぶ岩の塊になり果てた天界に、二胡の音はもう響かない。五衰の兆候はいつだって潜んでいる。それでも今は、と天子は思う。今だけは。
 萃香の提案のことを考える。旧地獄か、と苦笑いをこぼす。気分はいくらかマシになった。要石をこぶしで叩き、ゆっくりと降下を始めた。雲海を抜けて緑にあふれる世界を視界におさめた。この高度まで自由に飛び回れるような存在は、この世界にはもうそんなに多くない。最期には空だけが遺される。雲と、太陽と、あの音。それだけで世界は完結する。いつかは天界の名残もひび割れて、バラバラになって、地に墜ちてゆくのかもしれない。灰になって地面にまかれ、そこから新しい命が芽吹くだろう。それでも、そのときまで。ただの〈天子〉として。胸の底まで息を吸いこんだ。生まれ変わった大地の息吹が肺を満たした。


~ おしまい ~


(引用元)
 Cormac McCarthy:The Road, Alfred A. Knopf, 2006.
 黒原敏行 訳(邦題『ザ・ロード』),早川書房,2008年。
.
 ご読了に感謝いたします。本当にありがとうございました。
 今年もどうぞよろしくお願い致します。好い風が吹きますように。

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 以下、コメント返信になります。長文を失礼します。

>>2
 ご読了、ありがとうございます。
 英語のタイトルは分かりづらいと思うのですが、翻訳物ばかり読んでいるので、つい憧れてしまいます。それでも、お褒めいただけて嬉しいです。
 こうした世界観を肯定的に書きたい理由は、廃墟に惹かれているからなのかもしれません。淡々としながらも情緒を描けるからです。

>>3
 ご読了に感謝いたします。
 荒廃したなかにも優しさを感じ取ってくださったとのこと、嬉しいです。このコンセプトはしょっちゅう書いていますね。つい書きたくなります。

>>4,>>6
 お読みくださり、ありがとうございました。また読んでいただける日を楽しみにしています。

>>9
 どうもありがとうございます。
 続きが気になるような物語は憧れちゃいます。理想ですよね。
 “あえて説明しない”という書き方は、うまくいってくれると想像力が膨らみます。そうしたお話が昔から大好きで、影響を受けています。

>>10
 ご感想、本当にありがとうございました。
 天子さんの性格はこうした世界観にはまってくれそうですよね。原作では天界よりも幻想郷のほうが気に入っているようですし、愛が深かったのかも。
 希望の香る静かな結末は、これからも大事にしたいですね。

>>16
 お褒めくださり、ありがとうございます。
 滅びの美学とは違うかもしれませんが、引用した小説を含め、こうした世界観は書いてみたいと思っていました。
 素敵とのお言葉、嬉しいです。静かな力強さ、好い言葉だと思います。大切にしたいですね。

>>18
 どうもありがとうございます。ポスト・アポカリプスの物語には不思議な魅力がありますよね。映画やゲームでもよく目にします。

>>19
 今回もご感想をくださり、ありがとうございます。
 ご紹介くださったポール・ギャリコの『雪のひとひら』、先日購入して読みましたが、引用箇所を含めてとても情緒豊かな文章でした。素敵です。

>>20
 お読みくださり、感謝いたします。
 天子さんは天使よろしく輝いていますね。〈創想話〉様の名作をいくつも参考にしましたが、彼女にはどこか不思議な魅力があります。

>>23
 ご感想、感謝いたします。
 元人間の天子さんと、人と妖怪の橋渡しであった衣玖さん、純たる妖怪の萃香さんと、それぞれに立場が異なるので、書き分けが楽しかったです。
 蓬莱人の人びとも健在だと思いますが、今回は尺の都合で削りました。それでも、余韻を感じ取ってくださって嬉しいです。

>>24
 コメントを残してくださり、ありがとうございます。
 『ザ・ロード』、映画をご覧になっていたのですね。原作に忠実に創られていて、私も楽しめました。
 コーマック・マッカーシーの文章にはとても憧れています。味わいを感じていただけて本当に嬉しいです。

>>30
 ご読了に感謝いたします。
 仰る通り、「その後の世界」をモチーフにしています。
 他の方々については深く考えていないのですが、各地で細々と暮らしていると思います。
 緩やかな滅びには美しさがありますね。桜の散る姿を思い出してしまいます。

>>35
 どうもありがとうございました。衣玖さんのやさぐれている姿はどうしてこう似合うのでしょう!
 こうした世界観を描くのは以前からの憧れでした。好評をいただけて好かったです。
 天子さんの秋の太陽みたいにキラキラという表現は素敵ですね!
 彼女の明るさのおかげでもってくれた一面があります。
Cabernet
http://twitter.com/cabernet5080
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コメント



0.1000簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
毎回読み終わった後に作品のタイトルを見返しては思ってるんですけど、ほんと上手いタイトルをつけてるなあ、とうならされます。
退廃的であっても決して破滅的ではないところが好みです。
ここにもこういう好い風が、これからも吹き続いてほしい。
3.無評価名前が無い程度の能力削除
荒廃した大地に灯る優しさを感じます。
4.100名前が無い程度の能力削除
良かったです
6.100奇声を発する程度の能力削除
雰囲気も素敵で良かったです
9.90名前が無い程度の能力削除
雰囲気やキャラがとても良かったです。
この世界で起きた出来事やキャラはどうなったとか気になってしまうぐらい世界観引き込まれました。
10.100名前が無い程度の能力削除
暗い世界観ですが、それだけに天子さんの変わらぬ態度に暖かな希望を感じます。
16.100名前が無い程度の能力削除
相も変わらずあなたの作品の世界は素敵です
もうこの世界は終わってしまうのはどうしようもないし、彼女たちも一緒に消えてしまうけれどその中になにかがしっかりと生きてるのがはっきりわかりました
年の初めにこの静かな力強さに触れられたのはとても嬉しいです
18.100大豆まめ削除
ひどく退廃的で、それゆえ強く惹かれる世界観でした。
19.100カワセミ削除
綺麗な描写に惚れ惚れします。
雪一色の風景や最後まで見つめ続けようとする天子の姿に不思議と『雪のひとひら』を思い出しました。
『この空しさの大きなひろがりの中にひとりぼっちでおかれていてさえ、彼女はいまだに夕映えの空の色をながめたり、わだつみのはてからさしのぼる黄色い月影を見守ったりしては楽しんでいましたし、波の荒野を道連れもなしにわたってゆく鳥に声をかけてやったり、夜空にまたたく星の数をかぞえたりもするのでした』
まさしくこんな感じだと思いました。
20.100南条削除
面白かったです
荒廃した世界でなお天子は輝いているように見えました
23.100名前が無い程度の能力削除
幻想の名残のなかで生きる天子も、いつか見届けられる日が訪れるのでしょうね……
生きることに疲れ果ててもなお生きる実感を求める衣玖と流れのままに妖怪を全うする萃香、そして自分を居場所として幻想郷を受け入れる天子としての過程や完成が、次代の夜明けを鮮烈に感じさせてくれました、たまりません
不死者(おもに妹紅)の行方など気がかりはありましたが、きっと彼女たちもどこぞで愛憎しあっているだろうと思わせられる余韻がまた素晴らしかったです
とても楽しめました、新年早々素敵な時間を感謝です
24.100名前が無い程度の能力削除
ザ・ロードは映画を見ましたが、このお話はそれとはまた違った味わいがありました
面白かったです
30.80ユルト削除
幻想郷に誰もいなくなってしまった時のお話何でしょうか。天子達以外には生き残った妖怪はいったいどこにいるのか気になります。緩やかに滅び行く世界には独特の魅力がありますね。
35.100名前が無い程度の能力削除
終わってしまう寸前の世界の美しさみたいなモノを感じます
衣玖さんのアラサーやさぐれOL気味な描写に笑いも感じますが

天子ちゃんは秋の太陽みたいにキラキラしてますね
世界が終わってるから余計に